2018年の映画

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T=劇場、S=ネット、D=DVD


1 最後のジェダイ(T)
見る気もなく見てしまった映画である。第1作(第1回上映作といえばいいのか。この順番の入れ換えのために、ぼくはこの作品を追うことを止めた)にも、超未来のなかに宇宙酒場などのクラシカルな場面があったが、今回はそこらじゅうがノスタルジックだった。場面転換のために画面が一点に収束するところなど典型である。複数の話が一緒に進むのも、いまでは見なくなった進行方法である。テーマはもともと父子関係が主で、それも相変わらず輻湊されるテーマである。戦闘場面はもう目新しさよりは古ささえ感じさせる。遠い未来で人間が宇宙船や戦闘機を操作していること自体がアナクロである。敵から守るのに塹壕に兵隊が並ぶのなど、恐ろしいくらい発想が古い。作中でヒーローという言葉が使われるが、すべてがシステム化されたなかで、英雄に残されたものは、向こう見ずな勇気しかないとしたら寂しい。ぼくは未来を見ているのか過去を見ているのか分からなくなった。


2 エル(T)
昨年評判になった映画である。期待したが、妙な気分が残っただけだった。フランス人は病んでいるな、である。家内で強姦魔に襲われても、警察に届けない。過去に警察に不信感をもち、マスコミに追いまくられて苦労したからだ、という。父親が精神錯乱なのか子どもを含めた近所の人間を殺したときに、彼女は少女だったという。その経験が警察に行かせない理由である。強姦魔が誰かがわかったあとも物語は続き、結局はハッピーエンドで終わる。もって回ったけれど、どの仕掛けも利いていなかった手品のようなもの。


3 ヒトラーへの285枚の葉書(T) 
エマ・トンプソンブレンダン・グリーソン主演、実話が基になっているようだ。息子を戦争で亡くした職工長が体制批判の葉書をあちこちのビルに置く。それに妻も手を貸す、という話である。「ユダヤ人を救った動物園」でゲシュタポをやったダニエル・ブリュールがここでも悪いナチを演じている。ヒトラーものの小品である。


4 シークレット・アイズ(S)
役者が揃ったものの中身がないという残念な映画。どうなっているんでしょうか。キウェテル・イジョフォーがもて役である。ニコール・キッドマンジュリア・ロバーツが脇を固めるが、さて? ジュリアが老けて、太って、生彩がない。よくこういう役を引き受けるものだと思う。いい年で「食べて、祈って、恋をして」よりはマシか(同作はなかなか面白かったが)。イジョフォーが過去の事件を蒸し返し、空振りに終わるが、なんともはや。彼の「キンキーブーツ」は強烈だったが。ジュリアには難しい演技は期待しないほうがいい。ニコール・キッドマンは相変わらず妖艶だが、どこかマシンのような冷たさがある。きれい過ぎるからか。


5 デトロイト(T)
なぜいまこの映画なのか、というのが最初の感慨である。ドキュメントの映像を随所に挟みながら、ドラマとしてある安宿での白人警官による殺害を扱っている。その映像も既視感が強い。警官のなかで主導権を発揮する童顔の、眉の細い、目のつり上がって、口がとんがっている、キューピー髪の男は、黒人差別、レイシストを描くときのまさに定番の顔をしている。ほかの映画でも、黒人差別主義者の白人にはなにかいつも共通のものがある。それはイコンとして定着していて、その潜在意識に合わせるかたちで、それらしい役者が選ばれているのだ。ぼくはまず最初に「夜の大捜査線」の白人レイシストでそれを感じた次第。いかにも黒人を差別しそうな顔をしているのである。その伝でいけば、ゲイの役をやりアメチャンにも定型ある。のぺっとして、女っぽい要素が感じられる男優を配するのである。閑話休題。本作に戻ると、3人の警官が告訴され、うち2人は自白をするが、任意性がないということで否定され、陪審員は無罪を選ぶ。裁判所の外では黒人と白人のデモが起き、黒人を排斥する白髪の老婦人もまた“典型的”な顔と服装をしている。これもまた既視感の一翼となっている。


6 凍る牙(S)
前に見た映画だったが、最後まで見てしまった。主演ソン・ガンホ、そしてイ・ナヨンは目力がすごい。ソン・ガンホがいまいち際立つ個性がなくものたりないが、イ・ナヨンでもっている。韓国映画は脇がいい。ガンホと同年だが先に出世した男もいいし、次に班長に昇った、ことあるごとにイ・ナヨンに辛く当たる男もいい。


7 CINEMA FIGHTER(T)
川瀬なおみの名前で見てしまった映画である。短編の集合で、エグザイルというグループ関連の楽曲が最後に使われる、いってみれば宣伝映画である。短編と記憶に残るのは、川瀬ともう一つ倍賞美津子が出たやつである。川瀬のは往時の恋愛を想起する話だが、最初に荒廃した部屋が映される。そこは天文学教室だったらしいのだが、日付が書かれている。その時点で時が止まった、ということのようだが、日付を忘れたので、そこが何を指しているのか分からない。中身はふつうの恋愛もので、山田孝夫が高校生の役をやっていて、それらしく見えるからすごい。もう一つは、冷凍保存された恋人が起きてみたら、彼女が老けていた、という話。その老婆を倍賞が演じるのだが、もうちょっと“若さ”のようなものを残したほうが良かった気がする。老いを強調する意味もあったのだろうが、やりすぎである。そのあと倍賞が凍り付けになって、時間を追いかけるところは、短編の味が出ている。ほかの作品はただ映像を撮りました、という感じ。プロデューサーに別所哲也の名が出ていたが、その道に進もうということなのか。


8 スリービルボード(T)
よくお客さんが入ってました。できも良くて、きっと今年のアカデミー賞作品賞を受賞でしょう。味わいはコーエン兄弟です。余裕しゃくしゃくで進みながら、必要なことは全部、描かれている、という稀有なことをしている。主人公がなぜ娘レープ死9か月で、いつも通っている道路わきに警察の怠慢を告発する広告を出したのか分からないが、まあそれは良しとしておこう。小人に警察署への放火を見逃してもらい、デートに誘われたら、「強制的だった」と差別的なことを言う不完全な女であることもきちんと描かれているから、文句は言うまい。レイシストの警察官が退職させられ、ひょんなことから事件を解きそうになり、主人公にその情報を伝えに行ったときに、国語が弱いけどメキシコに住むよりいい、などと間抜けな話をするシーンがいい。あと、主人公が友人がパクられたので、その間、店の守番をするが、そこに不気味に脅す男が現れる。ここの威圧的で、肝っ玉がすわった狂気を見せる男の感じもいい。事件を解決に導くかと思われた警察署長がすい臓がんで自殺する、というアクシデントの入れ方はちょっと驚きである。その署長が、事件はまったく手掛かりがないが、ムショに入っているような男がほとぼりが冷めたころに、ふと俺がやったんだ、と漏らすことがある、と予言的なことを言い、それがあとで効いてくる。結局、署長の遺書で、レイシストの退職警官が、お前は本来いいやつなんだから頑張れと勇気づけられ、身を持ち直す、という設定がいい。最後主人公と2人で、実は真犯人ではないという男を殺しに行くシーン、本当にやるか途中で考えよう、で終わるが、これもやられた、である。ほとんど映画を撮っていない監督で、マーティン・マクドナー、注目株だろう。


9 キングスマン・ゴールデンサークル(T)
サービス過剰だが、面白い。ファーストを超えているかもしれない。どの映画もいまは、冒頭からとんでもないアクションシーンで観客を引っ張るが、この映画もそれ。ただ、アイデアが満載なのでOKである。悪のジュリアン・ムーアがはまっている。古きよきアメリカの町を再現しながらも、そこにロボット犬、ロボットメイドなどを配するところが心憎い。ただ人間をミンチにして、その肉でハンバーガーを食べるというのは悪趣味。「キックアス」はその悪趣味にはまって、ダメになった。敵の居場所を探し出すため、探知機を女性の※※にしまい込むが、かなりきわどい映像である。断崖の雪山のロープウエイで主人公が逃げるところで、大きく俯瞰のショットに切り換わると、おお、ジェーイムス・ボンドの世界である。ぼくらはこの大きな映像にやられてきたのである。キングスマンはボンドの現代版なのだ。洒落ていて、スマートで、粋で、かっこよくて、スピーディで。しかし、難をいえば、もう少しボンドのような皮肉の効いたユーモアの会話が欲しい。そしてエロスも。中身てんこ盛りで、2時間半。ちょっと長すぎるかもしれない。


10 アバウト・レイ(T)
原題はthree generations で、こっちを邦題にしてもよかったかも。娘が17歳にして男になろうと決意するが、父母の了解がいる。母は迷い、別れた夫(戸籍上はただの元恋人)も迷う。2人が別れたのは、夫の弟と情事をもったから。それを知った娘は自暴自棄になるが、母と父の翻意で、彼女はハッピーに。最後は、みんなで和食を食べてワイワイガヤガヤ。娘をエル・ファニング、母をナオミ・ワッツ(よく仕事をしている)、レズビアンの祖母をスーザン・サランドン、その相手をリンダ・エモンド。エル・ファニングには好きな子がいるが、そこをもう少し描いたら、もっとせつなくて良かったのではないか。あとナオミ・ワッツレズビアンであることを告白したときの祖母の様子なども知りたい。ワッツは「マルホランランド」で見事に脱いでいたので、そっちの方向に行く人かと思ったら、どんどん芸域を広げている。あとはスマートアクションと大悲恋ものか。


11 悪女(T)
韓国アクションだが、冒頭のシーンを朝日新聞が褒めていたが、ウソをつけ、である。アクションを手もとだけで撮っては意味がない。肉体があってこそのアクションである。このシークエンスは部屋に入ってから肉体が登場するから、その焦らしとして手もと撮影をしたと弁解もできるが、結局、以降も手もと撮影に終始し、しまいには拳銃パンパン、散弾銃バンバンである。この監督、女性アクションは客が来ないから、ではやってやる、と思ったらしいが、何も分かっていない。冒頭は「オールドボーイ」のワンカット撮影のまね、結婚式途中のスナイパーは「ニキータ」のまね。本当はオマージュと言いたいが、そんなレベルではない。自分の父親を殺した男がアジャシ(おじさん)だったと分かったあとで、娘と旦那が爆破で殺される前、なぜアジャシは女を救ったのか。あとで殺し合いになるのに。いい加減なことをするものである。主人公の旦那となるソン・ジュンという役者がいい。テレビが中心の役者らしいが、誠実な人柄がよく出ている。


12 ミッドナイト・バス(T)
40代後半(?)ぐらいの長距離バス(池袋〜新潟)の運転手とその息子、娘、別れた妻、恋人(30代沫)、元妻の父という登場人物の映画。ちょうど深夜バスの運行が画面の切り換えになる。自分と一緒にいると将来がだめになる、と恋人と別れるが、家族がバラバラになると、また女に戻ろうとするところで映画は終わる。いい加減なものである。新潟新聞150周年協賛ということもあって、夏祭りを映し出したり、サービスに務めている。娘が地元アイドルグループを作り、会社組織にすると宣言した後、長々とコンサート風景を映すが、必然性がない。もう一つ、最後のほうで、四隅から絵が丸くなって1点に集中し、場面転換になる、という古臭い手法を使っているが、それもそこだけの使用だから、違和感がある。義理の祖父の、父親は家族という扇の要だ、という発言は、なんだかなぁ、である。もうそんな時代ではない。それに、原田泰造のキャラとそれは似つかわしくないのではないか。長塚京三の出のシーンは、なにか平仄が合ってない。しかし、それ以後は問題なし。いわゆる知識人型の初期痴呆症の人間を演じている。その醒めた態度が好感だが、父親が扇の中心発言はいただけない。泰造は無事に演技を務めているが、息子、娘が上手で、かえってそっちが目立つ。とくに息子が達者です。


13 グレイテスト・ショーマン(T)
ラ・ラ・ランド」の制作陣が作り出したミュージカルで、ぼくは趣味的にはこっちのほうがいい。みんなが「ラ・ラ・ランド」を褒める。ぼくは冒頭のシーン以外で、心に残ったところはない。今作は、ヒュー・ジャックマンが会話途中の歌い出しを小さな声で、途切れがちにやるところなど、工夫が見える。ただ、それも回数が重なると飽きが来るが、そのへんは仕方ないかもしれない。クィアな人々を見世物にして興行するというのは、大道といえば大道。ぼくらは小さいとき、ヘビ女やカッパ人間、小人など(寺山修司を見よ)を見て育ってきているわけで、キワモノこそ客を呼ぶ原点である。それが次第に郊外に移り、サーカス(浮かれ騒ぎ)という大がかりなものへと変化していく。虚のものを大げさに演出することで、客は夢見心地になる。そこに倫理も、モラルも、社会通念などは要らないのである。その意味で、このミュージカルはまさに真っ当なのである。空中ブランコをやるゼンディヤがとてもきれいだが、病院にザック・エフロンを見舞うところは、あまりきれいではない。撮し方の問題のようである。サーカスを扱ったミュージカルで思い出すのは、チャールトン・ヘストンの「地上最大のショー」である。1952年の作で、ヘストンとしてもデビュー後すぐぐらいの作品である。鉄鎖や監禁箱から脱出したフーディーニの短い伝記を読んだことがあるが、彼もまたバーナムと同じ才長けた興行師である。


14 15時17分、パリ行き(T)
イーストウッドともあろうものが、こういうごまかしの映画を撮ってはいけない。ほんの数分で終わる劇を、登場人物たちの過去を追って埋めるなど、観客をバカにし過ぎている。前半もじっくり描写している、などと寝ぼけた評が新聞に出ているが、媚びを売りすぎである。と言いながらも、田舎の子たちがいかにして兵隊となっていくかがよく見えた。小さい時からモデルガンでシューティングゲームをしている子たちだが、それはごく普通のことなのだろう、と思う。命を惜しまない正義感の男がそこから発生してくる、と監督は言いたいらしい。


15 羊の木(T)
もっとも正常そうな人間が異常だった、という映画だが、次第に恐くなる演出が足りない。ぼくでも見ていることができる。松田龍平もこれではやりようがなかっただろう。恋人をクルマのなかで襲うような、そうでもないような仕草をするが、その中途半端さがこの映画をよく表している。優香は上手な役者だと思っていたが、今回は残念感が深い。彼女がなぜ障害をもった老人に惚れたのか、よく分からない。北村一輝という役者は初めて見たが、はまり役だったのでは? 床屋のオヤジで元受刑者の中村有志がいい。そこに雇われた男が祭りの日に酒をがぶ飲みして大暴れするが、その後のいきさつがまったく触れられない。この映画には誠意がない。


16 トレイン・ミッション(T)
設定ではリアム・ニールソンは60歳、それにしては老けている。重要な人間がまったく写されない、というのは、いかがなものか、というよりずるい。閉じ込め系の映画だが、やはり無理があちこちに。まして、真犯人も、ああやっぱりな、では、せっかくの工夫も台無しである。ニールソンを嚆矢として楽しんできた老いぼれアクションも終わりかもしれない。いま読んでいる後期高齢者退職刑事ものは、パンチをくり出すと、かえって手首がおかしくなる、という設定で泣けてくる。原題はThe Commuter で、座席の角に行き先をパンチしたチケットを立てるのが、この映画の一つの仕掛けになっている。


17 ペンタゴン・ペーパー
(T)
やっとスピルバーグが人間を描いたと評判だが、それはトム・ハンクスメリル・ストリープに助けられたからと言っていい。一箇所、ストリープが群衆のなかで一人浮き立つ映像があるが、それはミスカットだろうと思う。難をいえば、お嬢様経営者のキャサリン(映画ではテイトと愛称で呼ばれている)が政府機密文書を載せた新聞を刷る、と決断する、その転換点が、見えにくい。何が彼女を雄々しく変えたのか。彼女に聞こえよがしに彼女の経営の才のないことを論じる経営委員会の男たちへの反感か? 株の値上がりにしか興味のないはすっぱな連中か? 法律論しか語らない法律屋のたわごとか? なにかに鋭く反応するキャサリンを描くだけでも、だいぶ印象が違うのだが。あるいはそれらが寄ってたかって彼女を正義へと追い込んでいく感じがあれば、印象が映画的にはだいぶ違うのだが。マクナマラが、キッシンジャーを指して、何でもやるクソ男だ、と言うシーンがあるが、これは軍歴詐称を隠し通したブッシュ息子も同じで、権力者はあらゆる手を使ってスキャンダルをもみ消そうとする。原題はThe Post である。


18 レッド・スパロー(T)
なんだこりゃである。エロもの、キワモノに近い。女性スパイで、アクションではなく、色仕掛けが得意というわけ。だから、ジェニファー・ローレンスの裸が拝める、というわけだが、それがなにか? アメリカは仲間だけは裏切らない、には笑うどころか、心胆を寒からしめるものがあった。シャーロット・ランプリングが出ているが、残念な役どころで、彼女の晩節を汚した。


19 バンコクナイツ(T)
期待した映画だが、40分ほどで沈没。素人に芸をさせてダラダラとカメラを回してるだけでは映画にならない。


20 チャーチル(T)
この特殊メイクには恐れ入る。チャーチルのなかに時折ゲイリー・オールドマンの眼が見えるのである。ゲイリーにチャーチルがいるのではない。ナチスに武力対抗するかを悩み電車に乗って庶民の意思を確認する場面があるが、ここだけがお伽噺めいて残念である。もっと実写的に撮っていいのでは? それにしても、ペンタゴン・ペーパーとこの作品、いずれも勇ましい展開に入る前の段階の、意思決定の話である。それだけ政治、マスコミのなかに、自分たちのあり方に内省的な眼を向ける理由があるということである。ジャスティスを追いかけていたはずがフェイクと言われ、国民の良識を信じて国民投票をすれば意外な選択がなされる、といったようなことがいろいろ重なっている。社会派映画が撮られることは嬉しいことだが、そう手放しで喜べない、もっと事は複雑だ、ということである。


21 いのちぼうにふろう(T)
小林正樹監督、71年の作。冒頭、地図を見ながら、密輸入で稼ぐ島のことを話題にする八丁堀の役人。そこに安楽亭というやくざ者が巣くう建物がある。地図の絵のあとに、その建物が違った俯瞰の角度でパンパンと映し出されて、この映画が動き出す。見事なものである。役者が豪華で、仲代達矢中村翫右衛門佐藤慶岸田森山谷初男栗原小巻(ここまでが安楽亭の住人、小巻を抜かして悪党ども)、山本圭酒井和歌子(この2人が恋人同士だが、和歌子が借金の形に女郎に)、神山繁中谷一郎(この2人が同心)、滝田裕介(裏切りの商人)、勝新太郎(飲んだくれ、じつは金のために妻子を亡くした職人)。山本圭酒井和歌子が湖を背景に、板をつないだだけの細長い橋の上で話すシーンがある。オヤジさんが飲んだくれて酒井和歌子が身売りされる、と山本に打ち明ける。まず2人が右から歩いてくるのを無音で撮って、次に寄りで会話が始まり、また中景のカットで音と絵が離れた感じで撮る。この絶妙なカット割りがにくい。思い出すのは、65年の黒澤「赤ひげ」によく似た設定(幼なじみ、貧乏による別れ)およびシーンがある。おそらく小林監督がパクったのだろう。愛する女を失った山本が安楽亭に連れてこられたのが、運命の変転の始まりである。人外に生きる悪党どもにも温かい血が流れ始める。勝の温情で50両を貰いながら、すぐに女(酒井)のもとへ行かないで安楽亭に戻るのは不自然である。ラストは、闇夜の大捕物から一転露出オーバー安楽亭への橋の上――こういう転換なら、安楽亭の悪党どもと夜の修羅場を一緒に過ごす必然性はない。みんなが死に絶えたあとの朝の風景でいいではないか。一心同体を表現したかったのかもしれないが、前に山本の自殺未遂のシーンがあるのだから、そこまでやる必要がない。それにしてもこの映画、名作とは言わないが、いいできだ。ラストにいびつな10体の地蔵の上に白抜きのタイトルが出てエンドである。それも見事。音楽は当時流行ったメリハリの利いた現代音楽である。武満徹のそれがぴたっとはまっているから不思議である。


22 Raqqa is Being Slaughtered Silently(T)
ドキュメントでシリア・ラッカでISが勢力を伸ばし、公開処刑などを行いはじめ、報道など不可能な状況のなかで、スマホを使いながら外部に発信し、それを国外に逃亡した仲間が世界に拡散させた。頭文字を取ってRBSSというらしい。原題はCity of Ghost だが、ブラジルの暴力に駆られた子どもたちを描いたCity of God を思い出させる。反政府組織が立ち上がり、アサド政権を激しく突き上げたとき、政治的な空白が生まれ、そこにISが入り込んできて、急速に勢力を伸ばす。結局はドイツへと逃げた国外班は、現地での排外主義の高潮に遭遇する。世界はいまとてつもなく息苦しい。しかし、ロシアとアサドによってISと反政府軍が駆逐されたシリアに、彼らは戻ることが可能なのだろうか。2千人いるといわれる米軍の撤退も近い。IS以上に深刻な事態が訪れようとしているのではないか。


23 タクシー運転手(T)
光州事件を扱ったもので、よく客が入っている。シネ・マート新宿はそう客の来る劇場ではない。映画の冒頭に、曲がかかり、主演のソン・ガンホがそれに合わせて歌う。チョー・ヨンピルのヒット曲だが、名前が思い出せない。ガンホは、体型も、肌の感じも、少しも変わらない。リズムの悪い部分のある映画で、ガンホが光州の同業者と初顔合わせのシーンで、間が持たない。さすがのガンホもぶらぶらしているだけだ。ドイツ人の記者がヘボ役者なので、全体にメリハリが付いてこない。最大の問題は、金浦空港から日本へ飛び立とうというときに、すでに当局に彼の情報は把握されているらしいのに、何もハラハラドキドキがない。まんまと逃げ出してしまうのである。チャン・フン監督、ぼくはこの人の映画を見たことがない。こういう陰惨な事件から民主主義をつくった韓国に敬意を表する。


24 太陽がいっぱい(T)
久しぶりに見る。ほぼ印象に違いのない映画で、それはそれですごい。冒頭に宗教画のイコン(じつはハガキに印刷されたもの)を写し、そこに高い声の女性の歌がかぶさるのだが、何か気高いものを感じさせる。そのままカメラが移動していくと、ギターをつまびくマリー・ラフォレの大写しとなる。一つだけ前見たのとの印象の違いを言えば、モーリス・ロネが早い段階でエイッと殺されていることである。ロネはサンフランシスコの富豪の放蕩息子だが、まるでアメリカ人ではない。フィリップという名で、姓がグリーンリーフである。それをトム・リプリーという名のアラン・ドロンが、ロネの父親から賞金を餌にアメリカから連れ戻しにやってきた、という設定である。もちろんまったくアメリケンの匂いはしない。盲人から大枚の金で杖を貰い受け、今度はそれを使ってタクシー待ちの女に誘いをかけて、まんまと3人で無蓋車の上でさんざんに戯れる。このシーンはやけに鮮明に覚えている。きっと金持ちの自堕落な感じがよく出ていたからである。ロネはドロンが自分の預金残高を調べていることに気づく。船に恋人のマルジュ、つまりマリー・ラフォレを呼んで3人で船出する。ドロンの魚の食べ方やナイフの持ち方がおかしい、金持ちぶろうとすることが卑しい式のことを言うだけで、それほどドロンを貶めるわけではない。ドロンを小舟に乗せて、親船につないでいたはずが切れて漂流する。情事のあとにルネが気がついて、探しに船を回す。しかし、これが決定的な動機というわけでもない。2件の殺人事件を犯して「太陽がいっぱい」と至福の時間を過ごすことのできる若者に動機などない。あるとすれば、なにか知れない、下層階級のじれったいもがき――簡単に人の稼ぎなど吹き飛ばしてしまう(アメリカに帰ろうとしないから、ドロンには報酬の5千ドルが入らない)金持ちへの嫉妬。それらが言葉にならない次元でリプリーに巣くっている、というのは、味気ない解釈である。彼は殺し、女と金を奪い、幸せそうだ、でいいのである。ロネが姿をくらまして、自殺する、というのは、知人たちであれば、まっさきにありえない、と思うようなものだろう。そのあたり、映画的には無理を感じるが、原作はどうなんだろう。ドロンの眼差しは妖艶だが、その肉体には小さな筋肉がたくさん付いていて、それは若さではあろうが、なにかもっと精妙な生き物のような身体をしている。途中、ラフォレがルネに手紙を書いているあいだ、ドロンが魚市場を見て歩くシーンが結構長い。そこは実写的な撮り方で、ルネ・クレマン監督は何をしようとしたのだろう。音楽はニノ・ロータ。この映画、音楽の使い方が少し雑な感じがする。原作者パトリシア・ハイスミスは「キャロル(原題the price of salt)」「ライク・ア・キラー」など多数の映画に素材を提供している。


25 ありがとう、トニ・エルドマン(D)
2016年の映画である。ドイツ語の世界から英語の世界へと知らぬ間に転換する。おそらくルーマニアがEUに加盟して、急速度に資本主義化する世界を描いていると思われる。少なくともアッパーな世界では英語がふつうに使われている。石油会社をクライアントにもつコンサル会社に勤めるハードワーキングな娘のことが心配で、父親がドイツから娘のいるルーマニアにやってくる。彼女は会社側の代わりに馘首のプランを推し進めようとしている。娘はその交渉事や社内的な問題などで、ストレスフルな毎日を送っている。娘の窮状を見かねてやってきた父親だが、娘のすげない対応に一度はドイツに戻るが、今度は別人として変なかつらまで被ってやってくる。タイトルにある名前はその擬装の名前である。全編、無理だらけの映画だが、そこを楽しむ映画でもある。この種の映画がヨーロッパの映画にはあり、どれも出来がいい。
独特な“間”が印象的である。アメリカ映画にはこの間がない。娘と乗り込んだ、人で一杯のエレベーターの中、娘がモンスターに変装した父親を公園まで追いかけるところなど、無音で、しかも効果的である。そこには言葉が一杯詰まっている。「おまえは幸せか」と父は問い、娘は「パパは何のために生きているの?」と問い返す。父親はそのときに答えることができないが、あとでこう答える。「君が初めて自転車に乗れたとき、バスで君を学校に迎えに行ったとき、そのときは何とも思わなかったが、今となれば掛けがえのないものだったと気づく」。娘は最後、転職し、シンガポール(?)だかに行く。そのまえに祖母の葬儀に立ち会うのだが、父親と2人で裏庭で話をしたときに、先の父親の返答が披露されるのである。何かを取りに室内に戻った父親を待つ間、娘は父親が変装のときにはめる入れ歯を自分もはめてみる。ときおり口の端を曲げて、据わりが悪そうな表情をするのがおかしい。父親がなかなか帰ってこない、というところでプツンと映画が終わる。見事である。監督がマーレン・アデ、女性である。プロデューサー業が先である。主役がペーター・ジモニシェック、娘がザンドラ・ヒューラー。いずれも舞台出身。



26 トランボ(D)
アメリカにとってマッカーシーとは何だったのか。民主主義が死んだ時代としてくり返し呼び出される。本編はハリウッドテンと呼ばれた男たち――明らかに共産党という者もいれば、民主党支持という者もいる――を扱っている。なかでも不屈かつ柔軟に荒波に対処した脚本家トランボに焦点を当てている。彼らは仲間の裏切りなどで仕事を失い(ギャングスターのエドワードGロビンソンが裏切りの代表としてスポットが当てられる)、この映画の主人公のように投獄された者までいる。脚本家リリアン・ヘルマンの夫ダシール・ハミット(作家)も服役をしているが、それとダブってくる。トランボは出所後はB級映画会社で易い値段で脚本の仕事を受け、仲間たちと共同で量産に励む。その映画会社の社長がジョン・グッドマン。それらの映画にはすべて偽名がクレジットされる。なかで1本、「黒い雄牛」がアカデミー賞を獲ってしまう。そのときの偽名はロバート・リッチ。トランボはイアンMハンマーの名で「ローマの休日」の脚本を書き、それもアカデミー賞に輝いている。カーク・ダグラスが「スパルタカス」で初めてトランボの名をクレジットし、続いてオットー・プレミンジャーが「栄光への脱出」でまたしてもトランボをクレジットし、ようやくマッカーシーの時代は終わるが、ケネディが「スパルタカス」を見たニュース映像が流れ、それが大きな影響があったことが触れられている。50年代初頭から1975年まで、じつに20年近く、非米活動委員会は猛威を振るったわけだが、そのなかにはローゼンバーグ夫妻の死刑まである。リリアン・ヘルマンはその時代を「悪党どもの時代」と呼んでいる。主人公をブライアン・クランストンという男優が演じているが、ぼくはこの人を知らない。奥さん役をダイアン・レイン、これが強く、美しく、けなげな女性を演じてgood。2000万人の読者を持つと豪語し、LGメイヤーを脅し、ハリウッドテンの放逐を強いたのがヘッダ・ホッパー、その嫌な役をヘレン・ミレンが演じている。ホッパーと一緒に赤狩りをするのがジョン・ウエインである。


27 アイ、トーニャ(T)
ヒールを演じざるをえなかったスケート選手トーニャ・ハーディングマーゴット・ロビーが演じているが、彼女はプロデューサーにも名を連ねている。子役は「ギフテッド」で見た子である。母親(アリソン・ジャネ)はレストラン勤めで、2回離婚、汚い言葉を吐き、娘を支配し、スケートに駆り立てる。お金がないから、トーニャは衣裳も自前で作る。審査員は彼女の醸し出す雰囲気が許せない。かける曲もハードロック調。3回転半という偉業を成し遂げても、白眼視は続く。トーニャの暴力夫は、妻の競争相手を手紙で脅し、演技に圧力を加えることを思いつき、だち公に頼むが、これがまったくの阿呆のデブ。自分は秘密諜報員で、対テロの活動もしている、と言い、脅しの手紙のかわりに男2人に競合相手を襲うことを依頼する。男は女の脚に傷を負わせるが、犯罪の証拠をあちこちに残し、すぐに逮捕される。阿呆のデブは、あの事件はおれがやった、と吹聴してまわり、これもすぐに捕まる。夫は手紙の脅しだけだから、微罪に終わるが、トーニャも脅しを知っていたと強弁し、結局、トーニャはスケート界から追放される。裁判官に、私は学校も行ってないから何も分からない、スケートしかないから奪わないで、と哀願するが聞き届けられない。トーニャはその後、女子プロセスに転身する。アメリカはつねに敵を作り出す衝動に駆られている、自分はその餌食になった、とトーニャは考える。最後に実写が映るが、実際のトーニャは映画のそれよりこじんまりした感じに見える。阿呆のデブが、劇中とまったく同じ発言をしている映像が流れる。この平凡な狂気を抱えた人物像が一番記憶に残る。トーニャのコーチ役のジュリアン・ニコルソンはシャリー・マクレーンに似て美しい。残念ながら、テレビが中心の女優さんである。最近、登場人物が観客に向かって語りかける設定を見かけるようになったが、これはむかし流行ったやり方で、以前のほうが映画は自由だったような気がする。


28 オールザッツジャズ(T)
これで何回目になるだろうか。ただし劇場で見るのは今回が初めてではないだろうか。ミュージカルは、われわれに身体の動きのすごさ、美しさを見せてくれる。それがカタストロフィーを呼ぶわけだが(かえって抑制することでエキサイティングになる「パルプフィクション」のトラボルタとユマ・サーマンのダンスがある)、ボブ・フォッシーのミュージカルはもう末期の症状を呈していて、全然踊りが楽しくない。唯一、恋人と娘が拙いながらも自宅で見せてくれる一連のシークエンスは見ていて楽しい(その娘のその後を調べてみたが、まったく映画、テレビに出ていないようだ。なぜなんだろう)。なんだか「レオン」でのナタリー・ポートマンチャップリンやモンローを思い出してしまった。狭心症で病院に入ってからが長くて、矢継ぎ早に踊りと歌が披露される。前半は練習風景なので、ここでまとめて見せてしまえ、ということなのだが、やはりもっと早めにこういうものを見たい。死の間際に歌うのがガーファンクルのBye Bye Loveとは皮肉である。ロイ・シャイダーがとてもスローに歌う。サヨウナラ人生、サヨウナラ幸福と。結局、公演は中止となるわけだが、そのほうが保険が下りて初期投資も賄って大きな黒字だという。まるで「プロデューサー」と同じである。ロイ・シャイダーはとても活躍した役者だが、ぼくは「ブルーサンダー」ぐらいしかすぐには思い出せない。


29 ロスト・バケーション(S)
劇場で見ようか迷った映画である。登場人物はほぼ1人と1匹と1羽、あとはスマホ画面を大きく映し出す工夫が面白い。俯瞰の絵がものすごく大きく、いい感じである。ところどころ岩なのか藻なのが、黒く見えるところがあって、それが鮫に見えたりするから恐い。最後まで緊張して見たので肩が凝る。シャークをやっつけるシーンは、唸らせる。主人公はテキサスに戻るが、後年、テキサスの海に行くところで映画が終わる。えっ、テキサスに海があるのか?! というのですぐに調べたが、たしかに東南部はまったく海に面している。砂漠のイメージしかなかったので、意外や意外。


30 コロンビアーナ(S)
復讐劇だが、とてもよく出来ている。ぼくは2回目。監督オリビア・メガトン、96時間シリーズの2を撮っている。主役はゾエ・サルダーナだが、インフィニティ・ウォーに出ているらしいが、もうその種の映画を見ないので、彼女のその後は分からない。最後の小ボスとの格闘シーンは、カット割りだが、見応えがある。恋愛も絡めているが、ほどよい処理をしている。甘くならず、それでいて情感も感じさせる演出である。CIAの悪党に何も処罰がないのが、ひとつだけの不満である。


31 孤狼の血(T)
柚木裕子という人が原作だが、東映やくざ映画好きからこの作品を書いたということらしいが、原作が読みたくなる。映画は、予告篇で「傑作」とうたう馬鹿さ加減がすごい。傑作かどうかはこちらが決める話である。お客さんは、いつもは映画はご覧になってらっしゃんないだろうなというようなお方ばかりで、東映ってほんとにもう、とほくそ笑んだ。ストップモーションに語り入り、と「仁義なき」を踏襲している。頭から指を切ったり、豚の**を人間に食べさせたりえげつない。「仁義なき」はこんなはしたないことはしない。エンコ切りにしても、にわとりに突かせてユーモアにしている。芸が違うのである。
主役の役所広司の声が押さえが利かない声で、どうも頼りない。それに比べて尾谷組の若頭をやった江口洋介のほうが声がいいし、姿もいい。惚れ惚れする。彼が主役だと客が入らない? 尾谷組に話をつけて、3日で加古村との調整をすることになった役所。尾谷組は期限が過ぎたら戦争だ、と言ったが、結局、劇の最後まで事を起こさない。これでは、燃える男のやくざ映画にならないではないか。
あと、初めて役所が加古組の事務所に交渉に行くシーン。役所なのか、誰かが台詞をひとつ抜いたような変な間がある。それに、そんなに面子が揃って何も起きない。このシーンはいったい何のために撮ったのか。
主人公の役所が突然、姿を隠す。結局は殺されていたわけだが、伏線が用意されていない。危ないバランスの上にいるんだ、と役所にいわせるだけで、事がすむと思う演出家はダメなんじゃないのか。流れからいって、役所的な役柄を引き受けると思った新人松阪桃李は、ウソをついて両組を一網打尽にする。あれれ、である。それって、東映映画のやることなのか。
真木ようこが売れっ子ママだが、その男が尾谷組の息子という設定だが、あまりにも青二才で、しかも魅力がない。ママの人を見る目に狂いあり、という感じである。鉄砲玉のように死ぬ役柄だから、そういう青い男にしたのかもしれないが、ちょっとちゃうやろ、である。松坂を誘い込む役が阿部純子という女優で、達者な感じがあって、蒼井優に雰囲気が似ている。最後の種明かしのところが、よく分からなかった。役所の手引きで松坂に近づいた、ということなのかもしれないが、何のために? という疑問が残る。ナレーションの方、まさか「仁義なき」のときの方ではないでしょうね。


32 ゲティ家の身代金(T)
ケビン・スペイシーがMe too騒ぎで急に降板、それをクリストファー・プラマーが交替し、ものすごいスピードで撮り直したという。それがなぜできるかといえば、この映画には何の癖もないからである。金持ち一家の孫が殺されました、けちくさ爺が金を払わないと言いました、誘拐犯は怒って耳をそぎました……てな進行である。どうもアメリカにはこの手の映画が圧倒的に多くなっているような気がする。ヨーロッパの小品に目が引かれるのは、いろいろな企みでできているからである。誘拐犯の良心派を演じたロマン・デュリスが印象に残る。マイケル・ウォーバーグが警備から手を引く、といったときに、なぜ大富豪は動揺するのか。ここがよく分からない。それが結局、死に結びつくのだが。


33 さよなら、コダクローム(S)
エド・ハリスが出ている。息子役はキーファ・サザーランドに似ている。既視感いっぱいの映画。


34 捜査官X(S)
これは映像が第一にきれいで、中身もまあまあしっかりしている。こういう娯楽映画で中国映画の出来は知れているが、よくできている。新シャーロック・ホームズなどの技法を使っているが(体内映像や事件際再現スローモーション)、違和感がない。久しぶりに金城武を見たが、落ち着いたいい感じを出している。ドニー・チェンが西夏族の超能力者の一族という設定で、その魔王的な父親から逃げて、僻村で妻を娶り、子も生まれて平和でいるところに、ある事件の捜査で金城が訪れることから、物語が始まる。その謎解きが主だが、ドニー・チェンの過去の探索が絡んで来る。アクションが少ないのが不満だが、景色がとてもきれいで、とくに小川を写すと、たまらなく美しい。あと田舎の習俗などもきちんと描かれている。監督はピーター・チャンで、「最愛の子」「ウォーロード」「ウインターソング」など撮っていて、後ろ2作は金城が出ている。注目の監督である。撮影ジェイク・ポロック、ライ・イウファイで、美しい映像は前者か?


35 ファントム・スレッド(T)
ポール・トーマス・アンダースンはおそろく全部、観ている。ハードエイト、ブギーナイツマグノリアパンチドランク・ラブゼア・ウィル・ビー・ブラッド 、ザ・マスター、インヒアレント・ヴァイスで、いいなあと思ったのはハードエイツ、ブギーナイツ、ザ・マスターである。よくやるよ、というのがマグノリアにインヒアレントバイスである。今度のファントム・スレッドに似たテイストがあるとすれば、ザ・マスターかもしれない。一方は妻が手淫を手伝うカリスマ、一方は性的交渉さえ自己管理しようとする発達障害のカリスマが主人公である。いわゆるファム・ファタールものである。毒キノコと承知して夫が食べるのは、自分のエゴに飽いているからである。ただし、妻がそれを、生気を取り戻すための儀式だというのは、映画の筋として分かるが、ちょっと唐突である。もう少し事前の準備が要る。音楽が美しい。室内映画なので、美しく撮らないと散々であるが、そこはPTA(監督名の略語)の本領発揮か。


36 万引き家族(T)
最後にどどっと急展開するのだが、よく分からない部分がある。役者の発音が悪いのでよけいに理解しにくい。お婆さん(樹木希林)に夫婦2人(リリー・フランキー安藤さくら)、姉とおぼしき大人(松岡茉優)、息子(役名翔太)がひとり。そこに近所の小さな女の子(役名ジュリ、親から虐待を受けていた)が加わり、話は始まる。翔太がじつは本当の子ではないことは、かなり早い段階で明かされる。どこかで拾ってきた子である。姉と見えた茉優はじつは、お婆さんの関係者と言えなくはない。お婆さんの夫は亡くなっていて、お婆さんの後釜として主婦の座に坐った女の息子夫婦の子が茉優で、オーストラリアに留学しているはずの子である。彼女は風俗で働いている。年に一度お婆さんは亡夫の家に線香を上げに行き、3万円を貰って帰ってくる。その部屋に飾ってあった写真で、茉優がそういう存在の子であることが分かる。どうやってお婆さんの家に転がり込んだかは分からない。安藤さくらリリー・フランキーの夫婦はお婆さんとは赤の他人で、偶然転がり込んだという設定。この2人が、どっちかの相方を殺しているらしい。それでリリーには前科があるらしい。ここらあたりがよく分からない。


お婆さんの樹木希林が死ぬが、葬式を出す金がないからといって、庭に埋めることに。その時の落ち着き払った安藤の様子は見物である。翔太がわざと万引きが見つかるようにして警察に捕まることが発端で、虚構の家族の様子が徐々に知れていく。近所の女の子も、虐待親のところに戻る。家族は選べないが、この2人の子たちは、少なくとも自分で親を選べただけ幸せではないか、と安藤が言うシーンがある。施設に入った翔太が、リリーのところに遊びに来て泊まっていく。「ぼくを置いて逃げるつもりだった?」と聞くと、リリーはそうだと答える。「もう俺は父ちゃんではなくオジサンでいい」と翔太に言う。翌日、翔太はバスで帰るが、リリーが追っても視線を送らない。しばらく経って後ろを眺めるが、翔太はもう二度とリリーとは会わないのではないか。それは、リリーが万引きではなく、駐車場で車上荒らしをするのを見たことが契機となったのではないか。


リリーが仕事に出かけようとして、靴の中に切った爪が入っていた、という細かい演出をしている。みんなで行った海水浴場の砂浜で、樹木が安藤の顔をじっと見て、「きれいに見える」としみじみ言うシーンも印象に残る。見えない隅田の花火を縁台からみんなで見上げ、それを俯瞰で撮るシーンは、絵柄として絶対にやりたかったというものであろう(意図が見え見えなので、このシーンは買わない)。刑務所に入った安藤は堂々とした、さっぱりしたもので、一見の価値あり、である。すべての罪をひっかぶったという設定。死体遺棄、子ども誘拐がそれぞれ減刑されて5年の刑期ということか。最後に、じゅりがアパートの通路で遊びながら、蛇腹のフェンスから少し背伸びして下界に視線をやるところで映画は終わる。それでも多少の未来はあるということか。


この映画の白眉は、リリーがシャワーを浴びている最中に安藤が風呂場に入り、2人が冷めた会話をす交わすシーンである。この夫婦の不気味なつながりが露呈してくるようで恐い。西葛西に戻って、また「あれをやれないいじゃないか。おまえだって、まだやれる」などという台詞もあるから、彼らは売春的なことをやっていたのでは。そのときに、翔太を拾ったのではないか。リリーがもっと恐い面を見せたら、この映画、もっとしんどくて、面白いものになったのではないか。疑似家族のなかで一番ふらふらしているように見えたのはリリーである。


ぼくはこの映画をカンヌ受賞と知らずに見たかった。映画評は、「三度目の殺人」と家族を追ってきたそれまでのテーマとの総合だ、と書き立てた。「三度目の殺人」も今度の映画も、是枝監督自身が、自分の映画の総合だ、と発言したのが悪かった。彼にはまるで司法のあり方などに興味がない。人のために殺人を犯したり、万引きで疑似家族を保とうとする人間に興味があるだけなのだ。ぼくは「歩いてもなお」で家族のあり方に、戦慄を覚えた。この映画はそれを超えていない。家族は偽装では保ちえない、としたら、次はどこへ行くのか? 役者を揃えることで客を呼んで、作品の質と興行的価値のバランスをとった小津のあとを追っている是枝の戦略は、いまのところ当たっているのだが。家族を描き続けるのも小津的ではあるのだが。


37 イコライザー(S)
もう何回目になるだろう。この映画には言うことがない。あるとすれば、クロエ・グレース・モレッツをもっと出せ、だけである。今風にいえば“痛い役柄”だが、こういう挑戦もいいのである。この映画、アメリカのテレビドラマの映画版だそうだ。なぜ2作目が来ないのか! アントワン・フークアという監督で、「マグイフィセントセブン」「トレーニングディ」「極大射程」を見ている。質のバラツキがある監督らしい。「キングアーサー」などというのも撮っている。


38 監獄の首領(S)
韓国映画で、監獄から外の世界を操作する悪党がいて、潜入刑事がそいつを追いつめる、という内容。主役は大鶴義丹のような顔した役者で魅力がない。その悪党の首領をやったのがハン・ソッキュ、これがいい。あまり彼を見てないが、ベテランらしい。「ベルリンファイル」は見ているが、記憶にない。しかし、要チェックである。小柄だけど十分に貫禄がある。外の世界をどう牛耳っているか、もっと丁寧にやってくれると面白いのだが。冒頭の殺害シーンをあとでうまく絡めていない。でも、この映画、十分に見ていられる。アメリカには監獄内ものがあるが(TVシリーズの「プリズン・ブレイク」「アルカトラス」など多数)、それをうまく翻案した感じである。あまりハリウッドを意識した韓国映画は好きではないが、これはよくこなれている。


39 空飛ぶタイヤ(T)
池井戸作品はほぼ全部読んでいるが、その感動とはだいぶ違う。おそらく脚本家が池井戸作品の核心を掴んでいないからだ。「半沢直樹」もそうだが、中小企業の怨念のようなものが描かれないと、池井戸作品にはなってこない。池井戸さんは元銀行員だが、大田区とかその先の横浜とかが舞台になることが多く、それも運送屋を扱った作品がほかにもある(BT63)。そういう顧客を相手にしていたのだろうか。主人公を長瀬智之が演じているが、無難にやっているが、なぜ彼でないといけないのかが分からない。同じような事故に遭った同業中小企業を訪ねて、ある一社にやはり自動車メーカーの不具合を疑った人間がいて、会いに行き、彼の掴んだ資料を貰ってくる。そのときの長瀬はほぼノーリアクションである。もっと何かがあってしかるべきではないか。


ディーン・フジオカという人を初めて見たが、魅力的である。高橋一生も初めてだが、抑制的な演技が印象に残る。小池栄子を久しぶりに見たが、まえほど熱狂的な感じで見ていることができない。いい役者さんだと思うのだが。岸部一徳が巨大自動車会社の常務で、これが悪の総本山だが、部屋がしょぼいし、何だか町工場みたいな標語が飾ってあったり、ちょっと違うのではないか。ディーン・フジオカのいる部屋も、やたら広いのに、社員がごちゃごちゃといる(時代設定か?)。岸辺は頭の毛が少ないのにパーマをかけていて、そんなの財閥系大企業でありなのか? フジオカたちが密談をする飲み屋もこじゃれているが、なんだかうまそうではない。知らない役者だが、フジオカの昇進をからかって、大声を上げるシーンがあるが、密談の場でそれはないだろう。岸辺と親元銀行のお偉方が会食する料亭も、自分で小鍋に具材を入れたりしてしょぼい。密談だから人払いした、という設定なのかもしれないけれど。池井戸作品ではぼくはやっぱり「花咲舞」である。あるいは、「ようこそ、わが家へ」の古参経理女子もいい。とっても強い。だれだろう、それをやれるのは? 杏がテレビでやったようだが、ぼくは見ていない。イメチェンで小雪あたり?(といっても、「オールウェイズ」しか知らないが) ぼくの好きな佐藤仁美?(ぜひ見てみたい!)


40 プリティウーマン(S)
何回目になるだろう。定番の映画ばかり見るようになったら老いぼれた証拠である。でも、やはり見てしまうのである。ジュリア・ロバーツの演技が飽きない。リチャード・ギアが大学院を出ている、と言うと、「きっと両親自慢の子だったのね」と言うシーンの表情がすごい。常識にのっとって褒めながら、実は真心もこもっていて、しかもろくに高校も出ていない人間がそれを言ってしまう場違いな感じもよく出ている。それは複雑な表情なのである。ギアが椅子に座って書類を読み、その前の床に腹ばいになり、たしか「ルーシー・ショー」のコントに笑い転げるジュリア。ここの弾ける笑いもいい。徐々にそのシークエンスは、オーラルセックスへと至るのだが。さらに、企業買収の相手とのディナーに同伴を頼まれ、慣れない高級レストランでの一つひとつの仕草が、ほどよい笑いに収まるように抑制されている。これはジュリアの演技の勘のよさと、監督の演出のなせる技かもしれない。ギアがホテルの酒場でピアノを弾いて部屋に帰ってこない。そこに下りていって、結局、二人でいたすことになるのだが、鍵盤が身体の動かし方で微妙な鳴り方をするのだが、それがよく計算されている。これは演出側の完全勝利。王道の映画でもっと大味に作られていると思うと大間違いで、じつに細かい配慮がなされれている。1週間の借り切りのあとに、高級アパートを譲る、という申し出を断るジュリア。今までそういう措置で女を囲い、捨ててきた、その例には入らないぞ、という意思表示である。かわいくて強い。そこを見ないと、この映画は甘くなる。ドラッグをやり、ジュリアの部屋代をそれに使ってしまうようなルームメイトの女性も、なかなかキュートで、この女性も自然な上昇志向を持っている。最近のジュリアの生彩のなさは、年のせいなのか。それほど期待もしていないが、残念感があるのも確か。


41 焼肉ドラゴン(T)
「月はどっちに出ている」脚本家の鄭義信の監督・脚本・原作である。芝居で当てたものの映画化らしい、彼には脚本「愛を乞うひと」もある。本作は既視感がいっぱい。「月はどっちに」で見せた鋭敏な時代感覚はどこへ?


42 アメリカン・ドリーマー(S)
石油卸業者が真っ当なビジネスで販路を急速に伸ばしたことで、同業者からの嫌がらせが続く。組合長はドライバーが危険だから銃を持たせろ、と言うが、正直一路で行くと決めた主人公はそれを拒否。自衛で銃をもった運転手が事を起こし、そもそも十幾つの罪で訴訟を起こされていた主人公は窮地に。重要な土地の取得に手付金を払っているが、全額を払う期限が迫るが銀行が手を引く。結局、高利で仲間内から金を借りるが、妻が不正で少しずつ金を貯めていて、最初はその使用を断るが、結局は支払いに充てることに。どうにか夢が叶うところで映画が終わるが、ドンパチもない、きわめて静かな映画である。それでも、暴力に訴えない、合理性と倫理性でビジネスを展開する主人公に、つい肩入れして見てしまう。妻がジェシカ・ジャスティンで、ギャングの娘。主人公をオスカー・アイザックグアテマラの出身らしい。Xメンとかスターウォーズとか出ているようだが、見ていないので分からない。


43 チャーリンググロス街84番地(S)
1986年の作で、アン・バンクロフトアンソニー・ホプキンス、ジュデイ・デンチなどが出ている。ヘレン・ハンフというライター兼脚本家、といってもなかなか舞台では採用されず、テレビ放映が始まって脚本を使ってもらえるようになったという人のようだ。コロンビア大の学生スト(「いちご白書」で有名)に賛成し、警察に拘引される映像がテレビに流れるところを見ると、左翼系の人ということになる。あまりその辺が立ち入って描かれるわけではない。アメリカのそういう女性が古本で趣味のいいものをNYで探すととても高い。それでたまたま雑誌で見たイギリスの古書店に手紙で希望を出すと信じられないくらい安価で、テイストのいい本を送ってくる。そういうやりとりを20年近く続けたが、古書店主がガンで死んで交際は途絶えた。彼女はそれを小説にしベストセラー、そして舞台化、映画化された。アン・バンクロフト55歳の作品である。若づくりをして演技するのが痛々しい。もっと若作りが似合う女優はいなかったのか。ぼくはあのふてぶてしいミセス・ロビンソンにやられた口だが、そのとき彼女は36歳である! どう見ても50歳を超えている感じである。アンソニー・ホプキンスはまったく変わらず。ジュデイ・デンチがそれなりに痩せている。ウエル・メイドとはいわないが、手紙のやりとりと画面の分割でちゃんと進んで行く。映像と筋があれば映画はもつ、という証拠みたいなもの。イギリスがまだ戦争から立ち直れず、肉などの食料も手に入らない。それで、デンマークから缶詰やハムなどの食料品を送る、いまと変わらないことをやっている。そこでぐっと彼女と古書店のみんなとの連帯感が深まり、個人的な事柄までやりとりするのである。こんな豊かな時代があったのだと、感慨ひとしおの映画である。


44 マーシャル(S)
昨年の作品、評判も聞かなかったが、とてもいい。黒人地位向上委員会に属して、冤罪事件ばかりを扱ったThurgood Marshalが主人公である。実在の人物で、連邦判事まで登り詰めている。黒人としては初の快挙らしい。早速、彼の自伝をアマゾンで購入、そして彼の仲間として登場するラングストン・ヒューズの詩集も(前にいろいろなアメリカ詩人のアンソロジーを読んだことがあり、そこにヒューズも出ていた記憶がある)。詩がよければ、彼のエッセイなども読んでみたい。主人公を演じたチャドウイック・ボーズマンはとても印象のいい、意志の強く、それでいて易しい人柄がよく出ている。陪審員を選ぶときに、こちらに好意を寄せているか、検事に反感をもっているか、といった目線で選んでいる。相棒として抱き込んだユダヤ人の、民事専門の男にある女性陪審員候補が好意を寄せるが、本人が気づかず、サーグッドマンが教えるシーンがある。検事の鼻持ちならないエスタブリッシュに反感を持ち、あんたが話し出したら、メガネを外して身体を前に傾けたではないか、と。実際、彼女は陪審員のリーダーになり、議論を引っ張った形跡がある。事件は金持ちの婦人が、黒人お雇い運転手がレイプしたと訴えたが、実は和姦したことが恐くなって、狂言で彼を訴えたのである。彼にしても正直にいえば、保守性の強い地域だから虐殺に遭うのは目に見えていてので、ウソをついて、無実なのに刑期を短くすることを考えている。それをサーグッドマンが、先祖が血みどろになって勝ち得た自由を手放すのか、と諭し、検事の取引には応じさせない。結局、裁判に勝つのだが、相棒に抱き込んだジューイッシュへの偏見も根強く、それが当初は嫌々だったケースにのめり込むきっかけとなった。神さんも、やはり保守の地域で孤立することを怖れたが、母親が、誰それがメイドを辞めさせた、彼女は悪くないが訳の分からない親戚など出てきたら、幼い子どもが何をされるか分からない、という理由だったという。それを聞いて彼女は翻意し、夫を支える側に回る。ヨーロッパではヒトラーが虎口の声を挙げ、妻の欧州にいる親戚も虐殺に遭っている。そういう状況のなかでの黒人冤罪事件である。こおれが日本で劇場公開されなかったわけだが、そりゃ客は入らないだろうが、こういう映画は単館でもやってほしいものだ。


45 スピード(S)
見る映画がないときに何を見ているか、というのはとても重要な問題である。ゴッドファーザー、レオン、殺人の追憶オールド・ボーイぐらいになると14,5回は優に超えているわけで、最近、やはり見るものがなくて「エイリアン3」の何度目かの視聴をし、そして楽しんでしまっている。あの映画は1(ワン)ですべてが終わっているのに、くり返しそのシチュエーションが見たいがために、最新作まで見てしまってはがっかりしているわけである。やはりシガーニー・ウィーバーなくしてエイリアンなしである。ということで、もう10回は見ているスピードだが、ぼくはサンドラ・ジュリアンの良さをうまく表現できない。2枚目半だが、どこかこの世のものではない感じがある。心ここにあらず、といった雰囲気なのである。宇宙でひっくり返った映画ではこっちが眩暈がして気持ちが悪くなったが、地球に帰って海から上がってきたときの姿態の完璧さには脱帽した。彼女はインディペンデントだけど協調性もある、おどけているが利発でもある。運動神経までは分からないが、よさそうな感じがしない。できれば、年に2本は新作が来てほしい。


46 クロッシング(S)
イーサン・ホークドン・チードルといい役者が揃い、そこにリチャード・ギアを絡ませるひどさ。3人が警官で、イーサンは女房の叔母の黴の生えた家から脱出したくてギャングの金を盗もうとする警官、チードルは潜入捜査からダチを裏切られず抗争相手を殺す警官、そしてギアがただ年金を楽しみにしているダメ警官、これが最後に手柄を立てる。いやはや。クロッシングには何の意味もなく、不思議な縁を感じさせる仕組みは何もない。


47 ナイスガイズ(S)
ラッセル・クロウとライアン・ゴスリングである。変な映画で、駄作だが、最後まで見てしまうのは、結局はこの2人の掛けあいを見ているのである。ポルノ業界を絡ませる映画には、何か名作があったはずだが、思い出せない。この映画はポルノと汚職と推理が合わさって、というかごった煮である。免許を持たない私立探偵と持っている私立探偵が主人公で、前者が太りに太ったクロウである。まるでジョン・グッドマンである。ゴスリングの娘役をやったのがキュートなアンゴリー・ライスで、ソフィア・コッポラの最新作「ビガイルド」に出ていたらしい。封切りで見ればよかった(ぼくの趣味ではないので見なかったのだが)。ましてイーストウッド主演「白き肌の異常な夜」のリメイクらしい。惜しいことをしたものである(しかし、ドン・シーゲルが撮る映画には思えない)。アメリカ映画のなかに、有名俳優を使って実験映画風なものを撮る伝統(?)みたいなものがあるが、この映画はその種のものかと思ったが、ただダラダラと続くだけだった。それにしても、ラッセル・クロウよ、もっと痩せなさい。


48 ノックアラウンド・ガイズ(S)
ときにアクション映画をしきりに見たくなる。ビンディーゼルという「ワイルドスピード」の主役が出ているというので,見てしまった映画である。とんでもないイモ役者である。映画もひどい。マフィアの息子が堅気の就職がうまくいかず、オヤジの手伝いをしようとするがドジを踏み、その後始末をだち公3人でやるいきさつを描いたものだ。ジョン・マルコビッチデニス・ホッパー(父親役)、バリー・ペッパー(息子)などが出ている。そもそもの事件の発端を作り出し、それでいてまったく責任感のない男を演じたセス・グリーンという俳優が、ちょっと気になる。どうにもいけすかない感じをよく出している。


49 静かな生活(D)
大江の原作、伊丹の監督、脚本。すこぶるよろしい。大江の息子イーヨーを渡邊篤郎、その妹に佐伯日菜子、お母さん役が柴田美保子で両名とも素人っぽくてGOOD。柴田がやや関西のイントネーションがあるのがいい。佐伯はよくぞ探してきたという少女然としている。それを狙う男が、M字開脚を迫るところなど、大江好みの徹底ぶりである。この映画、話題になったのだろうか。ぼくは伊丹の才能を感じる。冒頭のシーン、イーヨーの性器が勃起している。それを、母親が「セクスをしない性器は性器だろうか」などと言う。不思議な大江一族の感じがすでにして出ている。


50 シェフ――三つ星フードトラック始めました(S)
オリジナルを出そうとするとオーナーが押さえにかかる。そのマンネリを有名ブロガーにけなされ、口喧嘩に。結局はそのレストランを止めて、自分の原点であるメキシコ料理を屋台(フードトラック)で始めることに。小学生高学年の息子も同道し、昔の部下も一人付いてきて、大繁盛。ブロガーもその味を絶賛し、彼が店を持つなら投資する、好きな料理を作れ、と提案し、その店ができたところで終わる。じつに心の健康にいい映画である。料理を作るシーンも楽しく、息子がナイーブな感じでこれもいい。元妻との関係もよくなりそうで、これもいい。妻の一番最初の夫をロバート・ダウニーJrが演じている。監督・主演がジョン・ファブロで、「アイアンマン」を作っている。元部下がジョン・レグイザム、元妻がソフィア・ベルガラ、レストランの女スカーレット・ヨハンセン、経営者がダスティ・ホフマン、評論家がオリヴァー・プラットと豪華。


51 ルイの9番目の人生(D)
面白い仕組みの映画である。奇跡の子と見せながら、じつは不実な母親の企みだったという落ちがつく。最初はメルヘンチックな始まりなので、それで行くのかと思ったのだが、別居している父親とピクニックに行ってから、様子が変わっていく。無理しないで作っているのが好感である。ただし、子役の子がかわいくないのが、玉に瑕である。女性刑事のモーリー・パーカーは何かの映画で見ている。昏睡専門の医者をやったジェィミー・ドーナンもどこかで見ている。妖艶な母親役をやったのがサラ・ガドンだが、そんなに目立つ女優ではない。監督アレクサンドル・アジャ、フランス人である。


52 オーシャンズ(T)
ジョージ・クルーニーが死んで、その妹サンドラ・ブロックが出所後すぐに盗賊団を率い、一人あたり30億にも達するでかいしのぎをする。その手際の良さは、あれよあれよと楽しんでいればいいのだが、サンドラが頭目然としようとするので、どうもいつもの軽みがなくて残念。それに化粧が濃すぎる。それに比べて若頭というべきケイト・ブランシェットが妖艶である。おまけというべきか、オーシャンズの常連の中国人の小人も登場するサービスがある。豪華な宝石を身に着けるアン・ハサウェイは盗賊団と親しんでからのほうが魅力が増す。はすっぱなほうが合っているのかもしれない。シリーズ生みの親ソダーバーグが制作陣に名を連ね、監督のゲイリー・ロスは「ハンガーゲーム」を撮っている。一部の宝石を戻し、保険会社の執拗な調査を逃れる手口は、じつは次に触れる「ラッキーローガン」にも使われている。その監督がソダーバーグで、脚本を使い回したか?


53 ラッキーローガン(S)
劇場で見ようか迷った映画である。何かポスターから感じる粗野な感じが、出来まで予想させたので、見るのを止めたのである。でも、これはいい。余裕の映画作りで、緊迫の金庫破りなのにユーモアが挟み込まれている(ローガン兄弟の弟の腕が作り物で、それがバキュームに吸い込まれる点、あるいはダイナマイト爆破を予想したのに、グミなど意外なもので化学反応させる。しかも、1回目は袋の紐をきつく結んだために爆発しないなど)。ローガンの元妻と妹の区別がつきにくいのが、難といえば難である。主演チャニング・テイタム、無口、子煩悩、喧嘩に強い、ラグビーで脚を骨折したヒーローという役柄にぴったり。ずんぐりむっくりの体形が合っている。戦争で腕をなくした弟を演じたアダム・ドライバーは見たことのある顔だが、コーエン兄弟に出てきそうなキャラである。あとは爆破のプロをダニエル・クレイグが演じている。スタイリッシュな英国紳士はどこへ行ったの? というぐらい粗野な男を演じている。ソダーバーグはやはりかなりのやり手である。撮っている映画の脈絡のなさは、ある意味、好感である。実験と商業映画の両方をやっていくという意志が明確である。


54 海賊と呼ばれた男(D)
右翼の映画で、なおかつ岡田准一の映画など見るものか、と思っていたのだが、和風もちょっと覗いてみようと思ったのだが、ぼくは冒頭から映画に没入することになった。その理由は明らかで、岡田の腹の底から出したような声にやられたのである。そうしたら、ほかの登場人物たちも、吉岡秀輶を抜かせば、低い声でどっしりと受け答えしているのが、すごい好感である。ぼくは映画をビジネスの視点で見る気はないが、この映画はそれを迫ってくる。端的にいえば、スキマを狙っていく発想である。それは出光の佐三の得意技で、石炭が主流でまったく売れない石油をポンポン船の燃料として売り込むこと。もちろん値段も低い。石油業界は既得権のかたまりで、それを突き崩すのは用意ではなく、苦肉の策で出されたのが、沖合まで船を持って行って、そこで給油するというスタイルである。下関の漁協の連中が出てきて阻止するが、出光は自分らの商売は求められているから精を出しているだけで、と主張する。それを出光は商才士魂と表現する。戦後すぐは石油の供給がなく、石油業界はみんな外資との提携を模索する。しかし、出光だけが土着資本で、2万トンの船を作って、自主貿易に乗り出す。メジャーの石油会社のいじめは厳しく、穴場はイランしかない。ここはイギリスがかつての盟主で、イランの独立を支援するような石油取引には軍事的な脅しをかける。それに引っかかるのではないか、と考えれば、先に進むことができない。そのときに、船長たちをはじめ一斉に、俺たちは戦場で一度死んだ命だから、ということで店主(出光の呼び名)の命に従うことに。つねに出光はこういった具合にスキマを狙うしか生き延びる道がなかったのである。ただ、彼にはアメリカの動向情報も入っていて、自動車の生産が間に合わない状況で、石油が求められることが目に見えている、と見抜く。戦後、石油会社として正式に認められたときも、これでメジャーとの本格的な戦いが始まる、と読んでいる。この正確な読みと、スキマを嗅ぎつけて進んで行く姿勢が、まさにベンチャーの勇姿である。いま次々とIT先進米企業の軍門に下っているが、いでよ出光、である。


55 検察側の罪人(T)
どんな中身かと思うが、タイトルそのままの映画である。検察官が罪人だった、というわけである。その複雑な心理をいだいて生きているはずの葛藤が見えてこない、聞こえてこない。なぜに木村拓也というセレクションなのか。深い演技を要求しない監督が悪い。監督は、木村は過剰にサービスする癖があるから、演技を抑え気味にした(?)的な発言をしていた。つまり、演技がうるさいから静かにさせた、ということ。そういう意味では、拓哉節は抑えられたが、彼の存在価値も大いに減じられた。じゃあどうしろと言うのか、という心境だろう。まあ時間掛けて、老成していくしかないだろう。最後に、子どもがダダこねてるわけじゃないんだから、二宮に腰をひねらせて叫ばせても何の意味もない。監督さん原田眞人も匙を投げたか。吉高由里子もどうもきちんと収まっていない。老夫婦殺しの犯人とされた男への訊問で二宮が大声を張り上げるが、全然恐くない。とても恐そうに振る舞う吉高が哀れである。


56 消されたヘッドライン(S)
友人の政治家ベン・アフレックの秘書的な存在の女が殺される。彼のために新聞記者ラッセル・クロウは真実を探ろうとするが、意外な展開に……というほど面白い映画ではないが。ラッセルを助けるのがレイチェル・マクアダムス、政治家の妻はロビン・ライトで「ハウス・オブ・ウォー」で大統領の妻役をやっている。大人の色気である。やたら早口の上司がヘレン・ミレン、突然、彼女の出世作第一容疑者」が見たくなった。


57 ブレイクポイント(S)
ジェイソン・ベイトマンジェニファー・アニストンの別れ話映画。アニストンが旦那の気を引こうとほかの男を引き込もうとするが、かえって破談の方向へ。コメディのはずがちっとも面白くない。ベイトマンというのは、どこがいいんだか、分からない。


58 恋愛適齢期(S)
ジャック・ニコルソン若い女好きの金持ち、ダイアン・キートンは売れっ子脚本家、キアヌ・リーブスキートンに憧れる医者。ニコルソンは手慣れた演技、キートンは老けたと思いきや、黒の身体にぴったりのドレスで登場した時に、この映画は成功です。キアヌ・リーブスが篤実な医者を演じて、意外に清潔感たっぷり。汚い彼しかイメージがなかったので、見直しました。


59 カメラを止めるな(T)
30分で退場。間の悪い素人映画、それにゾンビとスプラッターじゃ僕の趣味ではない。


60 ザ・ハリケーン(S)
ボブ・ディランの曲に「ハリケーン」があるが、それが歌った人物が主人公である。ルービン・ハリケーン・カーターという名前。ニュージャージー州の話で、同州は大西洋岸にあり、イギリスから最初に独立した州の1つである。こんなところで、これほどきつい黒人差別があるのか、と驚く。カーターは11歳のときに冤罪で捕まり、そのときの警官がのちのちまで付きまとい、彼がボクシングのチャンピオンになったあと、ある殺人事件を彼の仕業とでっち上げ、20年以上刑務所にぶちこむことに。たまたま彼の著作を古本で読んで感動した黒人少年が、彼を大学に行かせるためにボランティアで活動する3人のカナダ人と一緒に冤罪をはらす運動を始めることに。ニュージャージーの町は完全に白人の支配する町で、だれもハリケーンの無罪を証明しようとしない。だが突破口があって、弁護士は州裁判所を越えて連邦裁判所に持ち込む。そこで負けると新証拠はすべて無駄になるというルールがあるらしいが、ハリケーンは正義を信じるといって、そこでの審議を求め、無罪となる。はじめはボクサーとしての彼、そして少年時代、少年院からの脱獄、陸軍の英雄からチャンピオンと描いて、あとは獄中と獄外の交流を描いていく。少年と出会ってからが長いが、十分に見ていることができる。やはり冤罪を晴らすために、外部の人間たちが動き始めるところから本格的な面白さになってくる。デンゼル・ワシントンは身体を鍛え上げ、獄中では50歳を過ぎた様子を髪の毛の薄さで表現しているが、剽悍さは消さない。彼の名演ではないか。


61 散り椿(T)
富司純子に変な演技をさせないでほしい。志乃という女の亡霊が妹に憑いていると思ったときの、どうしようもない演技には心がふたがれる。岡田准一の妻・志乃が最期に、釆女を守ってくれ、と言ったのは、かつての思いが残っていたからと岡田は思うわけだが、しかしそのまえに「あなたとさえいれば幸せ」と志乃は言っている。その齟齬をどう解釈するのか。志乃が死に郷里に帰り、岡田を生かすための方便だった、と分かるという筋立てだが、やはりおかしい。長年連れ添って、相手の真心を疑うことなどあったのだろうか。美しい日本を撮ろうとしたと監督が言っているらしいが、ただ棒を振り回して人を殺したり、ふざけたように突き刺して殺すのが、どこが美しいのか。殺陣は嘘でも美しくするべきだったのではないか。そこだけリアルに(?)撮って何の意味があるのか。西岡秀俊が剣術使いの四天王というなら、岡田ぐらいの感じに剣法を磨くべきであろう。悪党の頭領は死ぬが、その周りにいた小悪党の処分はどうなるのか、まったく触れられることがない。音楽がまるで「ゴッドファーザー」なのだが、これからいいところに差し掛かる手前で音が消えてしまう。パクリを怖がったのだろうが、姑息である。映像も文切り型である。


62 マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ(T)
スゥエーデンの映画で、監督は「サイダーハウスルール」や「砂漠でサーモン・フィッシング」を撮っている。一人の少年が父親の不在のもと、母親の死に遭遇する。そのまえには、母が心の平安が保てないからと、彼を兄の家にしばらく預けるようなこともしている。そこでの風変わりな人々の様子が彼を癒していく。ヌード彫刻の芸術家、おっぱいが突き出たガラスコップを作る職人、趣味で綱渡りをする人、サッカーに興じる村人たち、屋根をいつも修理している隣人、1階に住む老人はベッドの下に女性の下着カタログを隠していて、いつも主人公を呼んではその無味乾燥な宣伝文句を読ませる(これは秀逸である)。サガという少女(メリンダ・キンナマン)は胸を隠し、少年のふりをするが、次第にそれが難しくなっていく。ほぼ叔父の住むワールドは、下半身に話題が集中する。彼はそこでおっとりと育っていくが、母が死んで舞い戻ってから、一時、犬であろうとする。それは離れ離れの愛犬が死んだせいでもあるが、彼は犬になったことで、思いっきり声を張り上げて、人を拒否することができたのだ。少年は母がとっぴな物語を好んだということで、自分で仕込み、創作した物語が語られるが、いちばん触れられるのはスプートニクと一緒に宇宙に飛ばされたライカ犬のことである。食料も乏しいのに宇宙に出されてかわいそうだ、と言う。このあたりのテイストは、「天才スピヴェット」に感触が似ている。もちろん後者がリスペクトしたのである。


63 イコライザー(T)
待望の2である。セカンドでこれだけの出来栄えは祝福ものである。仲間の裏切りという設定はまたか、だが、ヨーロッパンに舞台を移すと、ジョン・ウィックの二の舞だと危惧したが、ちゃんとアメリカ国内に話を戻して、それ以上に複雑なことをしないで、シンプルに進めたのが正解である。前回はクロエ・グレース・モレッツが音楽志望の娼婦、今回は画家志望の黒人青年と愛育の対象があり、その関係に割と時間が割かれる。さらに、彼の仕事はウーバーの運転手らしく、近くに客がいれば、それを乗せに行く仕事で、もちろん悪質な客にも出会うわけで、いい商売を見つけたものである。たまに老人施設から乗せるユダヤ人の老人は、収容所で別れた妹と会えるかもしれないと一縷の望みをもっているが、それも結局、叶えてあげる。つまり、イコライザーはものすごい殺人マシンではあるが、それは明らかな悪に対してだけ使い、普段は善を行う人という、アクション映画には珍しい設定なのである。今回はナイフを使うことも多く、殺し方がきつい。しかも、むかしからの付き合いのある女性のための復讐だから、さらに手ひどい。妻と住んだ町に戻り、そこで決闘だが、まるで西部劇である。風が吹き、潮が舞うなかで、きちんきちんと殺人が行われていく。きっと、3が来る。そう信じる。興行成績は予想を上回るものらしい。批評家連は2作目のダメさの典型、と言っているらしいが、ふざけるな、である。時間を計りながら複数人を殺すシーンは、もっとタメが欲しいくらいで、こういうところはきちんと踏襲してほしい。助けた少女のお母さんが古本屋をやっていて、なかなか美人。何かその絡みがあれば、と思ったが、時間的に余裕なしか。


62 女は二度決意する(T)
ドイツ映画で、裁判劇から復讐劇になって、ちょっと緊張感が緩む。ラストは納得がいく。


63 ウインドリバー(T)
これはいい映画である。「ウインターボーン」の緊張感を思い出した。連続殺人かと思うとあにはからんや、である。急転直下の展開に、へえ、やるなぁ、である。じっくりと撮ってきたのに、そういうことをやるのか、という驚きである。しかし、成功している。ジェレミー・レナーが人生の達人みたいな役をやっているが、違和感がない。悪人の頭(かしら)的な役をやった役者がちょっとしか出番がないが、癖があってOK。ただ、レナーの娘が死んだ理由が不明で、ハンターを仕事とする男がその追跡に明け暮れたわけでもない、というのは手落ちではないか。映画を見ているときには、それに気付かないのだが。監督はテイラー・シェリダン、「ボーダーライン」を撮っている。


64 バトル・オブ・セクスズ(S)
キング夫人28歳と55歳の元トッププレイヤーが一戦をまじえる。そこに夫人のセクシュアリティの問題が絡んでくる。夫人をエマ・ストーン、対戦相手をスティーブ・カレル、カレルは実物にそっくりである。楽しみながら見ることができた。LGBT絡みの映画が多い。

65 ファウンダー(S)
マイケル・キートン主演、マクドナルドを乗っ取った男の話である。しがないミキサー売り52歳が、人気店マクドナルドの兄弟に会いに行き、そのシステムにほれ込み、フランチャイズを提案。拡大に次ぐ拡大、だが儲からない。それで土地を自分のものにして、それを貸し付けることに。もちろん兄弟が怒る。最終決裂は、シェイクをミルクから粉に勝手に変えたから。しかし、経営の手腕は兄弟にはない。270万ドルで男は商標、ネーミングを手に入れる。兄弟の店は名前を変えて営業するが、やがて潰れてしまう。マクドってこういう会社だったのね。


66 恋するシェフの最強レシピ(S)
金城武と女優チョウ・ドンュイの恋愛ドラマ。彼女のほかの映画を見たことがない。料理の映像がとてもきれいで、かなり昨今の洋物映画やドキュメントもの(「腹ペコフィルのグルメ旅」など)を意識して作られている。題材そのものが流行りのものだ。前にも触れたように金城がなかなかよくて、今回も好演である。チョウ・ドンユイは劇中でもいわれるように中途半端にキレイ。それで最後には愛しく見えるから映画の力は強い。コメディなので、ちょっと誇張した演技がバタ臭く感じられるが、文化の違いなので致し方ない。金城が秒を計って作るインスタントラーメンは「出前一丁」である。なぜその選択なのか、説明が欲しかった。


67 ビブリア古書堂の事件手帖(T)
ちょっと太宰を持ち上げすぎの映画。でもwell madeに作られている。音楽が高鳴って急に切れて、そのあと沈黙が流れる、というのを3回やっていて、最初の2回は効いている。謎の仕掛けは大したことがなくて、謎解きからは興趣がだいぶ落ちる。でも、いい映画である。監督三島有紀子、「幼な子われらに生まれ」を撮っているが、見たことがない。プロデューサーの小川真司というのがかなりのやり手のようだ。「クワイエットルームにようこそ」「メゾン・ド・ヒミコ」「しゃべれどもしゃべれども」「味園ユニバース」「リバースエッジ」など豪華である。なにか文芸と売れ筋との中間の味を狙っている感じがする。


68 悪魔は誰だ(S)
韓国映画で、「殺人の追憶」のキム・サンギョンが主演。ちょっとこねくり過ぎた映画で、もっと韓国映画はストレートに押すべきだ。


69 アジョシ(S)
見るものに困ったときのアジョシで、もう5回目ぐらい? ベトナム屈強男との死闘が始まるまえ、雑魚連をやっつけたあとのビョンホンの表情が、焦点を結ばない目で、ぼーっとしているのが、この映画随一の映像だろう。悪党を演じた兄弟がやはりこ憎らしくていい。


70 ボヘミアン・ラプソディ(T)
いやあ面白かった。初めてのアメリカツアーで妻に電話していた脇を男がニヤッと笑いながら通り、トイレ(?)に入っていく。妻が「愛している」といっても、それに返さない。そして、トイレのまえで中の音を聞いているのか取りつかれたような表情で、そこから彼のゲイの道が始まったようだ。天才的なグループであることが、よく分かる映画だ。メンバーの一人は天体物理学、一人は歯科医、一人は工学専攻、そしてボーカルのフレディ・マーキュリーペルシャからインドに逃げたという一族。出っ歯気味、背が低い。この男の歌唱力がすごい。すぐiTuneでQueen Jewelsを購入となった。


71 49日のレシピ(S)
石橋蓮司(父)、永作博美(娘)、原田泰造(娘の夫)、二階堂ふみ(妻の知り合い)など、監督タナダ・ユキ。冒頭に妻が作ったカツサンドの汁がこぼれていると石破が怒る場面があり、そのあと畳に仰向けにまるで死んだような様子で寝転んでいる映像に切り変わる。簡単な仏壇が見えて、そこに遺影がある。テーブルにはカツサンドが。妻が急死という設定らしいが、法要まですんでいるのに、妻特注のカツサンドがテーブルにいまだに載っているのがおかしい。映像をつなげるためだけの作為である。


石橋の娘の永作が離婚を決意したものの、やむない事情があって実家に戻る。そのときに、石橋の亡妻が生前に家族の後事を託した二階堂ふみが付き添う。家に戻ると、永作の夫とその愛人の嫌なやりとりを目にする。夫が妊娠させた女には子ども(前の夫との子らしい)がいる。その子をどこかにやるから、結婚してくれ、と永作の夫に迫る。付き添いのm二階堂は「子どものまえでそんなことをしないで!」と言って、その子を連れて外に出る。永作にどうしたの? と聞かれて、二階堂は、自分の母親は離婚後とっかえひっかえ男を誘い込んだ、と連れて出た子のまえで言う。それじや何のために外に連れ出したのか?


妻の告別式で、それまでことあるごとに石橋蓮司に突っかかっていた姉の淡路恵子が、急に性格が変わったかのように、にぎやかに踊り出すのはなぜか。ご都合主義である。さらに、問題のある子たちを預かる施設の従業員だったらしい石橋の妻は、ブラジル3世の青年に中古車を譲っていたが、夫がそれに気づかないでいたということがあるんだろうか。そんな夫なのににわかに妻の供養を一生懸命やるんだろうか。


いい加減な映画だが、亡くなった妻の空白の過去を、家族ではなく、他人が埋めて年表を作る、というのが仕掛けとして面白い。しかし、女性を妊娠させ、その結果を引き受けないで捨ててしまう男に出戻りする永作の役って何なのか。子を産まない女性は時間を紡げない、という意識に縛られた自分が義母の弔いで変えられた、ということでその選択をするわけだが、その転換はおかしいのではないか。 


72 怒り(S)
1つの殺人事件と、その後に続く3つの物語。だれが犯人か、というわけだが、よくできている。気になるのは、綾野剛が女性と会っていたことを問われて、妻夫木に答えなかったことだ。施設で一緒だった妹のような女だとなぜ素直に言わないのか。森山未來は人を見下すことで生きてきた人間で、それが麦茶一杯をめぐまれたことで凶行に及ぶ、という設定だが、根拠が弱い。それと、殺人被害者を浴槽に入れたのは復活を願って、とのことだが、さてそんな気配は以後の森山には感じられない。監督李相日、ぼくは「フラガール」ぐらいしか見ていない。吉田修一原作。妻夫木の細かい演技が光る。


73 悪人(S)
吉田修一つながりで見たが、よくできていた。妻夫木がふっくらとして、イメージが違う。深津絵里が哀しい境遇を当たり前に生きる女として、感じがよく出ている。魚の目から別のシーンに入っていく、というのは、稚拙である。満島ひかり、嫌な女を演じてやはりうまい。


74 裸の島(T)
セリフなし。笑い声と泣き声が一か所ずつあるだけ。鯛が釣れて、その子を殿山泰司がざぶんと海に投げるところ。それと、その子が熱で死んだあと、いつもの山の斜面の畑仕事をしようとしたとき、急に運んできた水の入った桶をぶちまけ、身を投げ、泣きながら芋の葉を抜く。夫の泰司は妻の乙羽信子を憐れみをもって眺めるが、また作物への水やりを始め、乙羽もまた仕事を始める。脚本家が監督をやり、サイレントを撮る。その意味は、監督としての力量を見せようということだったはずだ。


75 ピアソラ(T)
なぜぼくがピアソラにやられたかが分かった。彼は幼少時にNYに住み、十代半ばでアルゼンチンに戻っている。そこでタンゴに出合うわけで、基本にあるのはジャズ。ぼくはそれにやられたのだ。ロックンロールなどの流行でタンゴが落ち目になったところへ、彼の革新的なタンゴが登場する。しかし、一部の人間にしか受けず、NYで極貧の生活を送り、また戻り、それでもだめで欧州で活躍し、そしてやっと故国で受け入れられる。40歳のころに家族を捨てて出ていく。音楽家である息子とはそれから10年以上顔を合わさない。娘は左翼運動へと入っていく。あとではピアソラの伝記をものしている。ピアソラというのは、そういう人間だったのだ。


76 ジャイアン(T)
リズとロック・ハドソン(この人はほとんどイメージがない)主演。ほぼリズは「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラである。気丈で、自分の意見を曲げない女性である。そのわりに体制順応的に生きていくのが、風共と違うところである。3時間の上映時間はやはり長い。結局、メキシカンへの差別批判の映画ということになる。長男を演じているのが、デニス・ホッパーだから貴重である。このジェームズ・ディーンはちっともよくない。よくこんな役を受けたものだ、と思う。別になんでもよかったのか。タイトルはどこから来たのか。


77 アリー(T)
映画の評がいいようである。ぼくはジュディ・ガ−ランド、バーバラ・ストライザンドを見ているが、そのまえに一作があり、今度のが「スター誕生」のリメイク3作目となるようだ。監督がブラッドリー・クーパー、女優がレディ・ガガである。よくできているが、ガガを見出したスター、ジャクソンをクーパーが演じているが、彼の複雑な生い立ちが強調されたことで、自分が見出した女性が人気を得て、それに嫉妬する、というこの映画の基本構造が揺らいでしまった。クーパーがガガにあまり嫉妬をしないのである。だから、全体に甘くなり、落ちていく男の悲しみが出てこないのである。言葉では、かなり早い段階でガガに、私の成功に嫉妬しているんでしょ!と言わせているが、劇を進行させるためにいわせている言葉にしか思えない。クーパーの義兄役をやったサム・エリオットという役者がいい。撮影に関しては別にいうことなし。時のスターがカントリー歌手、というのはありなのだろうか? アメリカの事情は分からないが、ちょっと違和感がある。最後にガガが2回、彼を裏切った、というセリフがあるが、何を指すか分からなかった。あとで分かったのは、一緒に「シャロウ」という曲を歌うと言っていたのに、マネジャーにいわれて一人で歌ってしまったことを言っているようだ。ここは少し訳の工夫をすべきところではないか。一緒に歌えなくて嘘をついた、とでも。


78 ミスティックリバー(S)
映画館で来年やってくるイーストウッドの予告編を見ていたら、無性にこの映画が見たくなった。たしか3回目になる。イーストウッドは手際よく撮っていく監督といわれているが、この映画でいえば頭の15分ぐらいで中心的な人物の過去と現在がキリキリっと演出される。最初は子ども3人がホッケーのようなことをしていて、道路の側溝の穴にボールが入る。それで取り戻すことができず、ついはカギのかかった自動車がストリートにあるから、それを見つけて乗り回そうとジミー(ショー・ペン)が言う。しかし、さすがにそれに踏み出せず、ちょうどそばに生乾きのコンクリのタイルがあったので、ジミー、ショーン(ケビン・ベーコン)、そしてディブ(ティム・ロビンス)と署名した。ディブだけ途中だった。そのときに、警察官だという2人組に見とがめられて、ディブだけが車に乗せられる。母親に叱ってもらう、などと男は言う。しかし、ディブは結局4日間監禁されてレイプされる。
場面が変わって、背の高い男と子どもが野球の帰りらしい様子が写される。父親はディブである。次が小さな雑貨屋に大人になったジミーがいて、友達と遊びに行くという娘とキスをする。娘が車に乗り込もうとすると、後部座席に彼氏がいる。ちょっと恋人同士の感じがあって、娘は彼を送っていく。
その次が車で混雑した橋の俯瞰からの映像に切り替わって、誰かが担架で運ばれる。男が一人、あいつがぶつかってきたから悪いんだ、のようなことを言いながら、警察車に入れられる。そこに大人になった刑事ショーンが姿を見せる。彼に女性警官が寄ってきて、これからパーティをやるが来ないか、と誘うが断る。黒人の同僚は、いつまで音沙汰のない女房にこだわっているんだ式のことをいう(この意味はあとで分かる)。また画面が切り替わって、バーのカウンターシーンになる。そこにディブが仲間の一人と座っている。ちょっとしたら、ジミーの娘とほかに2人の女が酔ってやってきて、カウンターの上にあがって踊り出す。それを眺めるディブ。
また画面が切り替わって、暗い家の中。階段の下に夫がいることに気づいた妻(マーシャ・ゲイ・ハーデン)。夫は手が血にまみれている。ディブである――ここまでの流れがまったく無駄がない調子で描かれるのである。いやはや見事というしかない。色調も黄色を抜いた青錆びた感じで、冷え冷えとした街の感じが出ている。『ミリオンダラーベイビー』でも、ボクシングジムの夜の壁の色をほめている評論家がいたが、分かる感じである。殺人現場を急に俯瞰の映像で画面を大きくしていく感じも、面白い。でも、前にも書いたように、この映画、やはりラストの、ジミーの妻(ローラ・リニー)がジミーに言う「あなたはまちのキング」というセリフは間違いだろうと思う。そこだけが残念な映画である。


79 デート&ナイト(S)
コメディなのだが、やはりいま一つ利いてこない。彼我の文化の違いだろう。スティーブ・カレルがなぜコメディアンなのか、という感じである。



80 アメリカン・ギャングスター
(S)
ぼくはデンゼル・ワシントンを「イコライザー」以後、まじめに見るようになった。この作品はラッセル・クロウとの共演だが、悪党を演じたワシントンが光っている。演技の切れがいいのである。監督はリドリー・スコットである。5、6本見ている監督である。最近のいくつかはハズレが多いのではないか。


81 音量を上げろタコ
(T)
三木聡という監督で、いつもならこういうガチャガチャした映画は見ないのだが、音楽もの、ということで見たら、結構きちんと撮っていて好感。セリフがぶっ飛んでいるところが部分的にあって、それもOK。ニコラス・ケイジのような恰好をするな、には笑ってしまった。映像はカメラを動かしすぎで気持ちが悪くなるが、細部にこだわりがきちんとあって好感。部屋の外を大きな飛行機が通りすぎたり、細部に手抜かりなし。それぞれのキャラクターも際立っていて、いい。主人公の女性吉岡里帆がいずれ大きな声を出す、ということが分かっているので、ドラマに集中力がある。里帆のおばさんが「ふせえり」、アイスクリーム屋のおやじが「松尾スズキ」で、この2人がとても脱力感があっていい。ぼくはなにか60年代へのノスタジーを感じたが、監督は57歳なので、多少はその時代の臭いは分かるかもしれない。


82 サード・パーソン(S)
ポール・ハギスお得意の複数演劇進行である。すべて子どもがテーマになっていて、2人の男(リアム・ニールソン、エイドリアン・ブロディ)は子を仕事や女のせいで亡くしている。もう一人の男(ジェームズ・フランコ)は、元妻が子供に虐待をはたらいたと考えていて、接見を許さない。前者2人の男には恋を進行させているが、ブロディが恋したロマ族の女(モラン・アティアス)は娘がやくざに奪われていて、それを取り戻すためにアメリカ人で金持ちそうに見えたブロディを誘い込む。ハギスのように複数を撮ると、人生や人物が書き割り的になるはずなのに、そうはならない。なにか人間の行動の真理を彼は衝いているのだろうと思う。ニールソンの付き合う女が、じつは父親との近親相姦という設定はいかがなものか。