10年10月から

kimgood2010-10-10

99 「儀式」(新文芸座)
71年の映画である。安保が終わっている。ほぼ室内で終始するのは「日本の夜と霧」と相似である。佐藤慶が演じる桜田は元政府高官で、一族には同腹から異腹までさまざまな子がいる。妻を演じるのが音羽信子である。子の一人である小松方正共産党員であるらしい。渡辺文雄も息子の一人だが、その息子は国家改造を夢見る右翼青年である。解説風にいえば日本の戦後政治の矛盾をエロスを絡めて描いた映画となるだろうが、主人公が満州男と名付けられるように、戦前の日本の悪が色濃く反映され、大島は戦後の子ではなかったのだという思いを強くした(1932年生まれだから、敗戦が13歳である)。
「日本の夜と霧」もそうだが、非常にメッセージは明確で、曖昧な部分は少ない。映像的な処理でごまかされなければ、彼が言おうとしていることは非常に腑に落ちる。日本の政治の功罪を、左翼右翼の一方に立つことなく、冷静な目で腑分けしているのである。


100 「ラブリーボーン」(D)
「魔術師フーディーニ」の女の子が出ているので見た。アイルランド出身のシャーシャ・ローランである。今作でも大人手前の少女である。猟奇殺人で殺され、冥界にとどまったまま家族による解決を待っている。そのファンタジーの世界と現実世界が同時進行で進む構図になっている。


父親役がマイケル・ウォルバーグで、犯人を緑の家の男と気付くところが説得力に欠ける。次女が先に気付くのだが、それも説得性がない。男の家に忍び込んで証拠のスケッチブックを盗み出すが、犯人が帰ってきても簡単に逃げ出してしまう。ここはハラハラドキドキやってほしい。ウォルバーグがいつもの精悍な感じがなく、とろんとした間抜けなハルクのような印象なのがつらい。


それでも猟奇殺人をこういうふうに扱うのか、という新鮮味がある。なんとくなくシャラマンの「シックスセンス」と似たテーストを感じる。題材はむごいが、それをおしゃれに撮る、という姿勢である。ピーター・ジャクソンという監督で、「ロード・オブ・ザ・リング」3本を同時に撮った監督だそうだ。「第9地区」のプロデューサーでもある。ちょっと注目の監督かもしれない。


101 「新幹線大爆破」(D)
75年の作である。前年に「タワーリングインフェルノ」が撮られている。70年に「大空港」がある。パニック物で繰り返し見たのは「ポセイドンアドベンチャー」(69年)だけである。これは封切りで見ている。独立系の牧師が体を張って人を助け、しかも常識の逆を行くことで苦難を乗り越えるという設定が面白かった。歌手役のキャロル・リンレーが美しい。「タワーリング」も何度か見ているが、出来はやはり「ポセイドン」である。


さて本邦パニック映画だが、これが意外なほどよく出来ている。あるスピード以下になるとATCが働いてストップする仕組みの新幹線、それを利用して80キロ以下になると爆発する爆弾を仕掛け、カネを要求する男たち。それが倒産した中小企業の社長健さん、左翼崩れの佐藤圭、そして健さん頼りの若者。新幹線の運転手が千葉真一国鉄の管理室主任が宇津井健である。当然、車内の混乱も写すわけだが、なんだかただ騒いでいるだけ。お決まりのように産気づく乗客もいる。簡単に健さん3人の身元が割れるので、そっちの緊迫感はない。さらに、ダイナマイトの位置を記した図面をある喫茶店に預け、それを警察が取りに行くのだが、どういうわけか全焼。それで、テレビを通して健さんに連絡をくれ、と訴え続ける宇津井健。爆弾の処理がすんでも、犯人逮捕のためにその映像を流し続けることに反対し、辞表を出す宇津井。人を殺さないと言ったはずの健さんがなかなか警察に連絡しないのは、今どきの映画のような複雑な起爆装置などなくて、ただ配線を切るだけなので、ぎりぎりまで電話の必要がないわけである。空港ゲートに別れた妻を置いておくというのも古典的である。お粗末にも健さんはそれに引っかかってしまう。


フランスでも大当たりした映画だという。いろいろチャチなところがあるが、良としよう。十分に楽しむことができた。それにしても健さん、色が黒すぎる。


102 「現金に体を張れ」(D)
キューブリック作品である。脚本も彼だが、ほかにクレジットされていない人間がいるらしい。つねに彼はそういう胡散臭さを引きづった人間らしい。ぼくは郄1だったか、「2001年宇宙の旅」でやられ、そして「時計仕掛けのオレンジ」でうーんと唸ったほうである。なんとアンモラルな、と思ったのである。ただ、彼の映画履歴を見ると、ほとんど統一性を感じることができない。それは巨匠の名に値しないとぼくは思う。職人、あるいはアーチザンではないか。
その本領が発揮されたのが、この作品。原題はThe Kilingで、ちょっと訳が的外れである。ほとんど関係のない人間が集まって、競馬の賭け金強盗の一味となり、映画はそれぞれの行動を反復しながら写すのが、当時であればすごく新鮮だったろうと思う。事がなって一人主犯格が愛人と飛行機で高飛びのはずが、ちょっとしたアクシデントで200万ドルが風に吹き飛ばされることになる。フランス映画で、盗んだ金が最後にプールに浮かび出すのがあったが、おそらくこの映画のパスティーシュであろう。ぼくはこの種のフィルムノワールにもしかしたら弱いかも。


103 「クリミナル・サスペクツ」(D)
変な映画である。クライム物なのにほぼ室内劇である。車の中とコンビニの中、そして部屋の中。2つのマフィアの組があって、ジェフ・ブリッグスが片方のカネをくすねたことで争いが起きる。たまたま護送の車の運転を頼まれた若造が、2つの組の板挟みになる。その車を止めたすぐ近くにコンビニがあって、客が出入りするし、ブリッグスを助け出そうとやってきた男どもも出入りする。そこの客の一人が部屋に帰ると、外で壁塗りをやっている。邪魔くさいと言って、カネを渡し、自分の部屋の外壁塗りをパスさせる。余分なシチュエーションのように見えるが、自然に見ていることができるし、これが実は最後のドンデン返しの伏線だとはまったく気づかない。一方、ブリッグスのパートナーの部屋に敵の親分が乗り込み、そこで取引が始まる──といった具合にほぼ室内で終始する。ふざけた映画である。しかし、意図的にやっているのが小気味いい。監督はドミニク・フォルマ。ブリッグスを助けに来た悪党の一人が味がある(ノア・ワイルと言うらしい。「マトリックス」の登場人物っぽい)。


104 「ヌードの夜」(シネパトス)
20分で沈没。ふつうの映画になってしまった。


105 「陸軍中野学校」「陸軍中野学校雲1号指令」(新文芸座)
小学生のときに怖い映画だと思ったが、今回、それが雷蔵の語りのせいだと気が付いた。妙に平板に、そして陰鬱に語るのである。意外なのは、中野学校を立ち上げた加東大介の意図は、陸軍がアジア解放の理想を忘れ、ただ侵略のために外地に出て行っているのを憂い、たとえ少人数でも精鋭のスパイを育て、真っ当なアジア経営に当たらせるつもりだということである。初回作は、陸軍のなかで異端児扱いされながら、次第に実績を上げるまでを描いている。そのために恋人である小川真由美さえ雷蔵は殺してしまう。次の「雲1号」は、何者かによって陸軍の機密情報が漏れ、新型爆弾を積んだ船が次々と爆破されてしまう。その実行団を挙げることで中野学校の名を盛り立てようというわけである。結局、朝鮮人の隠密団が主犯と分かるわけだが、第一作で謳ったアジア解放などまったく忘れ去られ、中野学校は単なる陸軍の手先になってしまっている。雷蔵が政府の役人の振りをするが、そのときの関西弁のうまいこと。それも女好きの設定で、雷蔵の芸達者ぶりが分かる。朝鮮人のスパイで村岡英子が出ているが、知的で冷たくて、昔から好きになれない。監督は森一生である。


106 「ストーン」(シネパトス)
エドワート・ノートンの久しぶりの二重人格ものかと期待したが、予告編にうまく騙されたという感じである。冒頭の異様な雰囲気で期待がいや増したが、先に行くほどに期待はずれに。

冒頭のシーン。テレビのゴルフ中継に見入る夫に妻がコップを渡す。視線も向けず、言葉もかけない夫。妻はテレビの前を通り、ソファに寝ている子を抱き上げ、また夫の前を通って2偕へ行く。そして下に降りてきて、夫に別れ話を持ち出す。男は急に2偕に駆け上がり、窓から子どもを落とすと脅す。妻は別れ話を諦める。そして、次が頑丈な警備の刑務所らしき風景。茶色の壁が厳かでもある。一転、ふつうの住居の室内。初老の男が椅子に座り、ゴルフ中継に見入っている。そこに妻らしき人物がやってきて、コップを渡し、夫とテレビの間を通って、右側の小さなテーブルの上に広げられたジグソーパズルをやり出す。まったく同じシチュエーションを描くことで、2つの家に共通する腐敗、あるいは停滞のようなものを描出する。この映画がいいのは、ここまで。ちなみに最初の別れ話を切り出す妻は、あとの老夫婦の娘である。


いくつもの疑問がある。せっかく二重人格俳優とも言うべきノートンを使って、ただの神秘主義者にしてしまったのは、何のためか。誠実で、謹厳に見えたデニーロを、最後には同僚の女を露骨に口説き、断られると汚い言葉で罵る男にしてしまったのはなぜか。ミラ・ジョボビッチは濃艶で、いい味が出ていたが、もっと凄みを出せたのに、なぜそうしなかったのか。刑務所の中にいる悪魔が外の女を動かして、刑務所付き更正監察官(?)をたぶらかし、まんまと破滅させるという映画になるはずが、なぜそうはしなかったのか(デ・ニーロは自滅するが)。


デ・ニーロおよびその妻はアルコールを手放すことができない。妻は信仰に一縷の望みを繋ぎ、夫との砂漠のような人生を我慢し、結局は家に火を放ち、離婚を決意する。夫は自分の仕事に意義を見いだせないし、神の信仰にも入っていけない。いっそ人に銃で殺されたい、と言う。この寒々とした夫婦の風景に、いつもラジオから信仰を説く番組が流れてくる。家にいても、車の中にいても。
それに対比して、自然のなかに何か神聖な声を聴いたと語るノートンがいる。苛立ちに満ち、性的な不満を抱え、できるだけ早く娑婆へ出たいと願った殺人者が、である。監督は明らかに信仰の問題に焦点を当てている。その観点でこの映画を振り返れば、犯罪者が所内での殺人事件をきっかけに神を見、善行の人であるはずの人が神を見ない、というすれ違い、交わりのなさを描いている。でも、ノートンの最初の演技を見る限り、監督に彼を悪魔的な二重人格で描く意図があったとしか思えない。後味の悪い映画である。出来が悪いのもあるが、初老の夫婦の関係が余りにも冷え冷えとしていたからである。なぜかぼくは、コーエン兄弟の「ノーカントリー」のラストの場面を思い出した。殺伐とした殺人事件のあとに言葉少なに交わされる夫婦の会話に、小さな温もりだが、確かな“根”の在り所を感じた映画である。


107 「ソフィアの夜明け」(イメージフォーラム)
ソフィアを人の名前だと思って見に行ったら、ブルガリア映画で、その都市だった。芸術家志望の男が精神的に自律できないことと、国が政治的に迷走していることがパラレルだというふうに監督は提示しようとする。38歳で人生に迷っているという設定だが、それまで何をしてきたのか。迷い過ぎではないのか。人生のアンニュイと政治を絡める意図がはっきり見えるぶん、手法としては古いという感じがする。フーリガンの騒ぎを先導する男のパトロンが、かなりアッパークラスの人間で、手下の男を通して報酬のカネを渡すところなど図式的である。


驚いたのは、金持ちのトルコの親娘が後ろから突然、ガツンと襲われるシーンである。ブルガリアとトルコにどんな問題があるのか知らないが、明らかに貧富の差を見せつけられたことから起きた事件という設定である。そのトルコ人親子を救うのが主人公である。事件の前に、主人公と襲われたトルコ親娘はあるレストランで交差している。主人公は苛立ちから恋人と口論し、メニューが全部、英語で分からない式のことを言う。恋人が去り、ひとり残され、飲んだくれ、眠りに落ちる主人公。そのそばで明日はベルリンだ、とか景気のいい話をするトルコの親娘。何かグローバリズムの影響のようなものを言おうとしているのか。父親は中国の人権問題は問題だ式のことを言う。その父親が、助けてくれた主人公と娘の交際を認めない。言葉と行動が違うのはありがちなことだが、監督はその不一致を静かに告発している。


作品は全体に好感である。主人公の鬱屈が十分に伝わってくる。彼の再生は、朝帰りの町で、一人の老人に声を掛けられ、その荷物を持ってあげることから始まる。とろりと老人の部屋の椅子で眠りにつき、目を開けると向かいの椅子に赤ん坊がいる、という設定は面白い。すごすごと立ち去るところもグッド。そして彼の家に、右翼暴力団に参加し、そこから抜けた弟が恋人と一緒にやってくる。「絵の描き方を教えてくれ」と弟は頼む。ここでもまた彼の再生が始まっている。何か小さな、それでいて確かな感情の受け渡しこそ、人が生きていく糧かもしれない(この趣旨でいけば、彼を慕う元恋人との仲を修復するほうが先だと思うのだが)。朝帰りのシーンで鳴るピアノ曲が美しい。それまで過激な歌詞のパンクばかりだったのに。

この主人公を演じた男は本当の木工アーティストらしく、映画撮影のあとに何かの事故で死んだらしい。映画のラストに献辞が出る。


108〜110 「プラクティス」(D)
アメリカの連続TV物語で、貧乏弁護士ファームが志を持ちながら犯罪者から無罪の人間まで弁護する様子を描いている。3話まで見た。トム・クルーズで同じく貧乏ファームを扱ったのがあったが、こっちはもっとすごい。部屋代が払えないのである。煙草会社を訴えて大金を得たのに追い出しを食らいそうになる。暴力を振るう父親を殺した少年を救うために、ほかの担当犯罪者の刑を重くする取引をし、あとで悩む姿など、映画で見たことがない。それにしても、アメリカの司法というのは、盛んに5者、つまり裁判官、検察官、弁護士、被告、原告の間で取引の機会があるのは、驚きである。この映画はそういう興味で見ることができるし、主人公が映画的な重みを持ったキャラクターであるところが好感である。


111 「ミルクマネー」(D)
Milk Moneyを辞書で引いても出てこない。乳臭いお金と訳せば、映画の主人公である少年たちが小銭を集めて、大人の女の裸を見に行こうと都会に出かけるが、そのお金のことを指しているか? ほかにもギャングたちの金争いがこの映画の後半の核になっているが、その金のことか。


いわゆるアメリカお得意のセックス狂いのお馬鹿映画の一種だが、主人公たちが脇毛も生えていない子どもたちなので、ほんわかとした味わいがある。最初の場面のセックスをめぐる幼い会話がしゃれていて、すぐに映画に引き込まれる。未来に届ける箱に3人の子がそれぞれの謎の物を入れ、大人になっていろいろな知恵が付いたところで開けてみようという。冴えない表情の少年は、風呂の排水溝の蓋ではないか、と言って奇妙な物を入れる。それはペッサリー。いつも革ジャンで決めているモテ少年は、姉の部屋から盗んだ物を「ある種の武器ではないか」と言って入れる。まつげを矯正するバリカンのような道具である(ぼくも名前が分からない)。最後に、フランク少年が入れるのはグレース・ケリーの写真。病気で死んだ母親に似ている、と父親が言っているという。冴えない顔の少年が「コメディアンだろ」と言うと、フランクは「プリンスさ」と答える。


フランクの学校では性の仕組みを学ぶ授業が展開中。彼は家の台所で「コスモポリタン」を見ながら、父親に「女性には触れられたら最高に気持ちよくなる場所があると書いてあるが、それはどこか」と質問する。父親は「とんでもない雑誌だ」と答えを拒否する。


少年たちはお金をためて自転車で都会に繰り出し、娼婦を捜し出し、裸を見せてもらおうと計画し、まんまと成功する。彼らはそれで大人になったと自信を持つ。自転車を盗まれたために、その娼婦に家まで送ってもらったところ、少年のうちの一人フランクは妻と死別した父親に彼女を引き合わせ、恋のキューピッドになろうとする。その間のしっとりしたやりとりは気持ちがいいくらいである。とにかくフランクがかわいい。娼婦が胸を露わにしても彼だけ、自分は紳士だと言って見ようとしない。


教師であり、湿地保存に専心する純朴な父親をエド・ハリス、娼婦をメラニー・グリフィスメラニーは目尻に小じわがあってキュートである。フランクは父親に、彼女は数学の家庭教師だとウソをつき、彼女には父親に真実を話してあるとウソをつく。
メラニーが自分のカネを盗んだと追ってくるのが、マルコム・マクダネル、あの「時計仕掛けのオレンジ」の彼である。ぼくはアルトマンの「バレーカンパニー」でも見ている。メラニーの娼婦仲間があのアン・ヘッシュである。彼女の映画を何本見たことか。どんどん生彩がなくなったのが寂しい。あまりにもドイツ的な風貌のせいかもしれない。
この映画、マクダネルが田舎町にカネ奪回のために乗り込んで来る、と分かった時点でドタバタのいつもの映画になるな、と思うと、やはりそうなって台無しである。メラニーは最後に言う、「触られて最高に気持ちよくなるのは、ハートよ」と。
フランクがダンスパーティで意中の子ではなく、彼をずっと慕っていた女の子にダンスを申し込むシーンなど、ほかの映画で見たデジャ・ブな映像がいっぱいである。


112 「トレイター」(D)
いわゆるテロ物だが、よく出来ている。スーダンのイエメンとアメリカが舞台。イエメンは先頃、米国テロの疑いで逮捕された女性の故郷である。ドン・チードルが子ども時代に、父親が爆殺される。誰に殺されたかは明かされないが(これが不満である)、一家はアメリカに移住することに。
長じて彼はCIA要員となり、故郷へ戻り、テロ組織に潜入する。過去のデータは改ざんされ、テロの実績豊かな男になりすます。計画的にアメリカ大使館をテロるが、手違いで死者が出ることに。しかし、組織内の彼の評価は高まる。


アメリカでは田舎を走るあちこちのバスに30人の自爆志願者を乗せ、テロを計画する。それをまんまとスナイブスが防ぐのだが、イエメンからずっと彼をテロリストして追いかけるのがFBIのガイ・ピアス。彼のフーディーニ役の映画がよかったので、つい借りた映画だが、いくつか考えさせられた。イスラム教徒とはいえいろいろな人物が居て、ウェズリーは熱烈な信者だがテロリストはその純な宗教心を利用しているだけだ、と考えている。テロリストが重用するのが、いずれもアメリカの大学出身者という設定は、テロ組織が上昇志向を持っている証か。FBIの中までテロリストの手先がいる、という設定はありえることなのかどうか。


最後にカナダのハリファックスで仕組んだテロの成果を眺めよう、ということで幹部連が集まる。そのハリファックスは1903年に事故から火薬が大爆発を起こした地である。そのことは映画のなかでは一切触れられない。


113 「江部利満氏の優雅な生活」(新文芸座)
小林桂樹特集である。ぼくは成瀬映画の「めし」での商家の長男役、そして同じ成瀬の「驟雨」、そして森繁との社長シリーズを思い出す。中でも「驟雨」は成瀬映画でも秀逸だと思っているので、その主演の小林桂樹が好きである。気持ちは通じ合っているのに、うまく噛み合わない夫婦の倦怠期を扱っている映画だが、成瀬映画に珍しく社会風刺が満載である。


小林桂樹はバイプレイヤーとしての名声が高いのも知れないが、ぼくはその凄みが分からない。森繁、有島一郎三木のり平などの個性陣だけで映画はできないとすれば、彼のような触媒のような人物が要る、ということになるのかもしれない。その影のように存在感の薄い人物像をずっと演じ続けたことの意味は計り知れなく大きい(いくつかの主演映画もあり、後年、独自の山下清を演じたことは幸いなるかな)。


この映画は山口瞳原作だが、どこまで忠実か分からない。監督は岡本喜八で、主人公が直木賞を取るまではほぼ順調な出来で、それ以降はどうしたわけか素人芝居のようなセリフだけの観念劇に終わっている。ぼくとすれば、直木賞を取ることが幸せの一要素であるとの前提が、鼻白むだけである。


母を亡くし、葬儀がすみ、夜に家族と兄を前に茶漬けを食いながら涙するシーンがある。母親が、夫との関係に諦めをつけ、自らを人生の敗者とした時機があったことが悲しい、と泣くのである。ぼくも落涙。この認識が後年に山口氏に『血族』を書かせたのか、という思いがした。


114 「まむしの兄弟 あわせて30犯」(D)
工藤栄一監督、菅原文太と河地民夫がコンビである。どうという映画でもないが、全編に歌謡「昭和枯れすすき」が幾度も変奏されるのが印象的である。セックスシーンがあったり、やくざ映画の緊張感がほぼ無くなっている。


115 「侍」(新文芸座)
やはり小林桂樹特集である。岡本喜八監督で、これはめっけものである。いま封切りの「桜田門外の変」の別バージョンである(あろう)。65年の作で、橋本忍が脚本である。三船プロ東宝の合作。


三船は藩付きの医者の息子ということになっているが、実は井伊直弼が手をつけた側女の子。その側女の父親と知り合いの商人(東野英次郎)の元へ、側女もろとも預けられるが、やはり武士の環境で育てるべきということで御典医の元へ。しかし、長ずるにつれて本人はより武士であろうと欲し、商人の元へ戻り、文武に励む。井伊家からも、いずれそれなりの登用をするとの申し合わせがある。ところが、貴族の娘菊姫に惚れて、てて親なしの身分違いということで恋は破れ、文武の道にも嫌気が差す。そして、落魄の見に耐えられず、井伊大老討ち入りでひと旗挙げて、出世を目論む──そういう父親殺しが主軸なった話である。


菊姫を演ずるのが新玉三千代、相模屋のおかみもお菊で新玉のふた役。三船がお菊を見てびっくりし、その宿に居続けるのは、お菊が菊姫にうり二つだから。ぼくはこの女優さんをきれいだと思ったことがないが、今回は綺麗である。品の良さを隠し立てしないでそのまま出しているからである。


小林は井伊大老暗殺団の一人。幕藩の大家とつながっていることで、仲間にスパイと思われる。その惨殺の使者が親友の三船。あとで濡れ衣であることが判明する。桂樹の奥さんが八千草薫で、相変わらずお美しい。いま御年70うん歳で、その美貌が変わらない秘密は何なのか。ぜひ知りたいものである。


最後の討ち入りの場面が、やはり圧巻である。雪が吹きすさび、何をやっているかよく見えないが、必死に井伊を殺そうと駕籠に取り付き、一方はそれを排除することを、延々20分はやっている。井伊役は、先代松本幸四郎。俺を殺すと徳川は終わるぞ、と水戸藩の謀反を慨嘆する。三船は首を切り落とし、剣の先に突き立て、名乗りを上げ、映画は終わる。


三船が井伊の落胤とお菊に知らせてからの東野の演技がおかしい。にわかに作り物めいてくる。それと、三船が井伊の子どもと分かって、暗殺団は三船を殺すことに。討ち入り早暁に9人の使者が襲うが、ことごとく斬り殺し、桜田門へと向かい、現地でリーダーの伊藤雄之介に「まさかあんたが仕組んだのではないだろうな」みたいなことを言い、そのまま暗殺の配置につく。どうも、ここらあたりも劇的要素に欠けている。ひたすらラストのために、適当に治められてしまったような感じである。


三船が暗殺団の連中に「安政の大獄」の絵解きをする場面があるが、連中は感心して聴いているが、別に大した分析ではない。三船に媚びを売ったような演出である。


雪が降って、吐く息が白いというのに、三船は裸足に草鞋である。いったい日本の靴の歴史は、かくも貧寒としたものなのか。あるいは、昔は今より暖かかった? うなわけないか。しかし、履き物の歴史を知りたし。


この映画、伊藤雄之介でもっている。怪優というが、顔がそうだからそう見えるだけで、演技は普通であろう。しかし、親友を殺した三船に「血を冷やせ」「大義がなるには必要な血が流れる」と冷徹なテロの論理を口にする。ここは真実味があった場面である。あと、三船と小林の八千草をそばに置いての心温まる歓談の様子は、見ていて気持ちがいい。それを殺さざるをえない苦悩は、三船さん、はて十分に演じ切れているだろうか。


116 「蛇いちご」(D)
西川美和の初監督作品である。雨上がり決死隊の宮迫が出ているので見たくなかった映画だが、見てよかったと思う。宮迫はバラエティで見ていて底意地の悪い感じがしたので嫌いなのである。目が嘘つきの目である。監督はそれを利用したのだと思う。鶴瓶もそうだが、芸人さんが笑わないと、その目は非常に冷たい。


この映画はほぼ室内で終始する。小津を持ち出すまでもなく、日本の文字通りお家芸である。監督の師匠是枝裕和の傑作『歩いても歩いても』も同系で、やはり師匠のほうに一日の長がある。


なぜ平々凡々で、ほとんど動きのない映画なのに最後まで見ていられるか。それは家族は一番の近親者なのに異邦人に見えるからである。まじめで有能そうな父親はすでに首になった会社の部下にまでカネをせびり、何でだか理由は明示されないが、大きな借金を抱え、自分の父親の葬儀に街キンの取り立てに遭うような人物である。母親は認知症の義父の介護に疲れ、最後は見殺しにする。しかも、詐欺の長男のほうが堅い教師の次女より心が安まると言う。その長男は昔から嘘つきで、学費を遊興に使い、中学生だった妹のパンティを売った過去がある。近くに蛇いちごがあると言い張ったが、そんなものはないと長じた妹は思っている。今回は、たまたま近くで香典泥棒をやり、そのついでに寄ったら祖父の葬儀だったというわけである。自分の家のカネを盗むつもりではないらしい。ただ、父親の借金を消すために、家などを自分名義にしようとするのを、何か魂胆があると妹は勘ぐる。


さて、その妹だが、彼女だけがこの家族の中で真っ当である。そのことをきちんと認識しているのは、実は兄である。しかし、妹は自分が正しいことをしていると思い込みすぎている人物である。それは、教室での生徒とのやりとりで明らかにされる。家族のほかの3人に定見がなく、彼女だけが倫理的なので、よけいに彼女の粗が見えるかたちになっているが、最後に救いが用意されている。


というように、この監督は誰に肩入れすることなく、というよりもそれぞれの悪をきちんと平等に描くことに長けている。それがもっと効果的に撮られたのが次作「ゆれる」である。最新作の「ディアドクター」は、平等主義の重みに耐えられなくなって、主人公の偽善者に肩入れした映画である。


ドラマとは不思議なものである。劇的に撮れば劇的になるものではない。平々凡々のなかにクライシスを読み込むだけで、我々は映画を見ていることができる。「東京物語」には劇的なものは一つもない。ただし、全編になだらかに崩壊していく家族の危機が低騒音で鳴っている。だから、年寄り夫婦が熱海の旅館の喧噪のなかで早く床につくシーンに、妙な緊張を感じるのである。家族と離れてそういう場違いなところで一夜を過ごさなくてはいけない老夫婦の思いとはいかなるものか。


黒沢清には「東京ソナタ」がある。「寅さん」だってその変奏と言えなくはない。旅の空はたまたまで、寅はいつも柴又寅屋にいるのである。傑作「家族ゲーム」はまさに室内家族映画である。川島雄三にもある。戦後すぐの「大曽根家の朝」もそう。数え上げたら切りがない。


117 「十三人の刺客」(D)
ツタヤディスカスに登録するもまったく借りられず、i-tune storeができたのでそちらで即ダウンロードレンタルである。300円。溝口、小津、森繁を検索しても1作も出てこない、ウェス・アンダーソンは「ダージリン急行」しかない、と貧寒とした品揃えだが、つい「ゴッドファーザー」までレンタルしてしまった(そのGFも後が品揃えなし)。ちなみにキンドルレイチェル・カーソンのSilent Springが出てこなかったので、ハードの購入を止めたことがある。


工藤栄一監督で、今度の三池崇と同じ池宮彰一郎原作である。それにしても、新作はほとんど旧作のリメイク。新しい演出は、残酷場面の追加、最後の決闘場面の仕掛けの派手さ、その争闘の時間の長さ、それに13人目として加わるサンガの男が際立つように描かれている、という点である。それだけ昔の映画がよくできていたということだろうが、やはり現代の目から見れば、新作のほうが迫力があって数段にいい。旧作で人間がよりこまやかに描かれているかと思ったが、さにあらずである。隊長の甥が一味に参加するところも、新作のほうが真実味を感じさせる。サディストの城主は、明らかに新作のスマップの吾郎ちゃんのほうがすごい。


隊長が片岡知恵蔵、腹心が嵐寛寿郎、甥が里見浩太朗。剣の達人に西村晃、ナレーションが芥川隆行森田芳光が「椿三十郎」をほぼ旧作と同じ演出をしたが、三池監督、さてそんな仕事の何が楽しいのでしょうか。


118 「ゴッドファーザー」(Down Load)
また見てしまった。以前は音楽の使い方について触れたが、今回は強弱のリズムについて。冒頭は非常にゆっくりした、初めて依頼に来た男との暗い室内でのやりとり。一転、陽光燦々の戸外の結婚披露宴、イタリアの賑やかなダンス音楽がかかる。そして、また室内へ。歌手のジョニーの依頼を聞く。そして、戸外へ。一転、ハリウッドの撮影所へラグタイムに乗って転換する。ここからはゆっくりした駆け引きの場面へ。そして、朝まだき。上空からゆっくりと映画プロデューサーの部屋へとカメラが入り、ベッドに向こう向きで寝る男へと寄っていく。男が何か異変に気づき、足許へとカバーを開けていくスピードが上がり、馬の首が見えたところで叫び声を上げる。そのときカメラはもうさっきの上空に戻っていて、そこに下から男の無惨な叫び声が聞こえてくる。


これ以降も、基本的にこの強弱のアクセントを取りながら、映画は進んでいく。こ憎らしいぐらいゆっくり場面をじっくりと撮り、それがあとの急迫の場面をさらに劇的なものにしている。よく黒澤の『七人の侍』が世界の映画学校の教科書に載っているというが、この映画もその資格が十二分にあるだろう。


119 「黒く濁る村」(シネマとうきゅう)
監督カン・ウソク、主演パク・ヘイル(『殺人の追憶』の真犯人)。推理物ということになるのか、それにしても面白くない。『渇き』もそうだったが、韓国にはキリスト教の浸透があるからか、神、贖罪といったテーマを映画に取り上げる。しかし、『渇き』もこの映画も成功していない。


主人公は何かの罪で起訴されたが、担当検事の暴言をテープに録ったことで釈放、検事は左遷。まずこの経緯が説明不足。そして、主人公は亡くなった父親の葬儀にある村へ。そこで遺品を整理するうちに、何かきな臭いものを感じる。村を支配する村長とその手下3人。村長はかつて悪徳刑事で、ある宗教団体の依頼である人物を逮捕する。その人物が主人公の父親モッキョンで、教団の主宰者はモッキョンが教団の金をくすねていると刑事に訴え、逮捕させる。牢内で制裁を加えるが、一向に節を枉げない。ついに刑事は彼と組むことを決心する。モッキョンが表の顔で、裏は不動産で荒稼ぎする元刑事という二重構造。


主人公が真実を突き詰める過程がまだるっこしいし、表の聖者と裏の支配者という構図が緊張関係にならない、検事と主人公の絡みが薄手で、村と外部の同時進行もうまくいっていない。この映画、脚本も悪ければ、演出も悪かった、という映画である。韓国ですごい観客動員数だったというが、おそらく宣伝に踊らされたのと、主人公を演じたパク・ヘイルの魅力ではないかと思う。村長の忠実な手下がかつての古今亭朝次に似ていて、自分の親分の罪業を明かすところの演技は見応えあり。こういう脇も脇の役者さんに十分な演技の時間をやる監督の度量はすごい。


119 「鬼龍院花子の生涯」(DL)
ダウンロードでないと見ない映画である。夏目雅子が主演だが、思ったほどきれいではない。変わったヤクザの親分を仲代達也がやっているが、妙に間延びしたしゃべり方に背中がぞくぞくして落ち着かない。岩下志麻の木で鼻をくくったような演技は、いつものとおりである。意外なことに、夏目が花子ではなく、義理の妹が花子なのである。それにしても、自分の女房を階下に置いて、2偕で自分の店の女と性事に励むというのはどういう神経なのだろう。それを当たり前の文化として描いているのが、空恐ろしい。山本圭がまた左翼人を演じている。なんでそういう役ばかりなんだろう。


120 「ジーザス・キャンプ」(DL)
未公開ドキュメンタリーのダウンロードである。2006年の作で、まだ息子ブッシュが大統領をやっているアメリカである。内政、外交で失点続きだったブッシュは9・11を境に支持率を上げるが、結局はイラクに足を掬われ、しかも台風カトリーナへの対処でへまを重ね失脚。史上最低の大統領とさえ言われ、日本の麻生首相と同じくその稚拙な言い間違いなどがからかいのネタになるほどの凋落ぶり。たしか好物の菓子を喉に詰まらせ大騒ぎになったのもブッシュではなかったか。そのブッシュを崇めるのが福音派といわれるキリスト教原理主義の人間たちである。


このドキュメンタリーは福音派が子どもにターゲットを絞って神の戦士として洗脳する様を描いている。子どもたちが不思議なほど大人そっくりの話し方をする。それがまず気持ちが悪い。それと、イスラムはもっと徹底的に子どもを宗教化し、宗教のために命を惜しまないほどに育て上げる、だから我々も激しくやるんだ式のことを言う。これはいかにも説得力がありそうに聞こえるが、イスラムが好戦的な教えをたたき込んでいるというのは単なる誤解なのではないか。世界宗教イスラムは日々増殖している。それは緩やかな宗教だからだというのが、ぼくの理解である。ジハードする人間はやはり特殊なのである。


福音派は8千万人いるという。アメリカの人口の4分の1。ブッシュが退いて、その動きも鈍くなっている、とサイトの解説者町山智宏が解説している。なかに登場する福音派の親玉はホモがばれて失脚したが、アメリカの宗教指導者にはよくあるパターンだと町山が言う。「それダメじゃん」と松嶋尚美が応じる。この掛け合いは面白い。


ジーザス・キャンプを仕掛ける教団主宰者の女性は、飽食の罪を言い募るが、自分がものすごい肥満であることは等閑に付している。純真な子どもたちを洗脳する主宰者や、尊崇を向ける政治家が欺瞞に満ちていると分かったとき、純真な子どもたちの心の行き場はどこにあるのだろう。おそらく、そっっちのほうがアメリカを蝕む度合いが強いだろうと思う。


キャンプでトランス状態になる子どもたち。しかし、どう見ても黒人が一人もいない。福音派のなかに黒人が占める割合というのは、どれくらいになるものか。アメリ中南部はバイブル・ベルトと呼ばれるらしいが、こないだ見た「ストーン」でも、ラジオから常に宗教番組が流れていた。新大統領はバイブルに手を載せて宣誓する国である。アーミッシュを原理的というが、もっともっと広い層でそういう人々がいるということは、何かアメリカを見る大事な視点だという気がする。何しろ選挙のたびに中絶問題が争点に浮上する国である。日本はとっくの昔にその問題は闇に流している。


121 「ザカリーに捧ぐ」(DL)
親友がその妻に殺されたことをきっかけに、遺児のために記念ビデオを撮り始めたものの、途中で意外な展開があって、それは告発ビデオと変わっていくという趣向のドキュメンタリーである。カナダという国は、殺人の容疑者であっても保釈し、親権を尊重し、ほぼ親の義務など果たさない人間に子どもの行動を左右する権利を与える国らしい。悲劇はすべて国の法制度の不備から来ている。不思議なのは容疑者である妻を診た精神科医が彼女の保釈金を払っていることである。これは売名行為なのか。行政レベルはすべて彼女に他者への加害の恐れがないとしている。しかし、振られた相手に200回近く電話をかけ、脅しの言葉を浴びせる人間に危険性はないのかどうか。


それにしても、殺されたアンドリューは誰からも愛された人物である。ぼくは余りにも瑕疵がないので、最後のどんでん返しはそこに関連したことだろうと邪推したのだが、最後まで彼は聖人君子であった。浅はかな読みをした時自分が恥ずかしい。


122 「クレイジーハート」(DL)
ジェフ・ブリッグスが落ち目でアル中のカントリー歌手、場末で彼が歌っているのを取材に来たのがローカル誌の記者マギー・ギレンホール。ほぼ予定調和的な映画だが、ジェフが自分のバンドで育てたトニー(役者はコリン・ファレル)が独立し、師匠を超えたわけだが、それでも恩義を忘れずコンサートに出させたり、曲を書かせたりするのが、救いである。ファレルの演技がいい。ギレンホールとマリサ・トメイはちょっと崩れた可愛い女優で、しかもアラフォーぐらいの感じか。貴重な2人である。ブリッグスが自分で唄っているように見えるのだが、さて? ぼくはカントリーはアリソン・クラウス一点張りで、彼女以外ではジョン・デンバージョニー・キャッシュ、ドリーー・パートンぐらいしか知らない。


123 「ステロイド合衆国」(DL)
太っちょ3兄弟のうち、上と下がステロイドを使ってプロレスラーになる。真ん中は少しだけ使ったことがあるが、罪の意識があってやめる。彼らは背が低いのがコンプレックスだった。両親は見事に太っている。この映像はその次男が撮っている。器用なものである。


次男はなぜアメリカにステロイドを始めとする薬物によるパワーアップ剤が多いのか追求する。音楽家も戦闘機乗りも受験生も、みんな何か薬物を飲んで自分を平常に保ったり、興奮させたりしていて、罪の意識など無縁である。そういうサプリメントの生産高が一番多いのがユタ州で、全米の4分の1を製造、その額は2兆4千億円に達する。


自分が弱いときに外部から補強剤を摂るのは、ポパイが元祖みたいなもの。アメリカでは「ステロイドな兵士」「ピザのステロイドな焼き加減」などステロイドを肯定的に使う用語法があるらしい。次男は、アメリカは競争社会で、敗者には目もくれないことが、薬物依存の背景にあるのではないかという。彼の兄はその典型で、きれいな奥さん、可愛い子どもがいながら、つねに自分はもっといいステータスを得ることができるのではないかと藻掻く。この強烈な上昇メンタリティは驚くばかりである。それでいて、失敗したときに妻や子を失うのではないかという強い不安感も抱えている。なぜそこまで自分を追い込むのか、というのが次男の疑問である。


124 「ミスティックリバー」(DL)
この映画、これで3回目になる。よくできた映画で、全編にわたって緊張感が続く。瑕疵はやはり最後近くの場面で、ショー・ペンの妻が次のように言うところである。あなたは子どものためなら何でもする。子どもはそれで安心する。あなたはこの町の支配者だ、と。おそらく原作がそういう意図をもって書かれているのかもしれないが、この映画としては唐突で不自然なセリフである。しかし、イーストウッド自身にヒーロー願望がある。阿部和重は映画を解体させる監督としてイーストウッドを買っているようだが、ぼくはそうは思わない。この映画にしても堂々とした映画である。


自分の娘の恋人を毛嫌いするペン。その理由を警察も尋ねるわけだが、実は彼が刑務所に入ったのはその恋人の父親が司法取引で自分を売ったためと分かった。出所してすぐに殺している。まさかその息子が自分の娘と恋仲になるとは……。しかも、勘違いから古い友人を殺すことになるとは……。この映画はそういう行き違いがテーマになっている。


もう一つの行き違いは、娘の恋人の弟が唖のはずが、ラスト近くでそうでないと発覚する。途中でペンは不思議なことを言っている。唖と分かっているくせに、その弟のことを「話もしない不気味なヤツ」と表現する。その弟が友達と事件を起こすわけだが、自分を愛情深く見守ってくれていた兄が恋人と駆け落ちするのが嫌で起こした事件かと思いきや、まったくの偶然、事のなりゆきだという。このあたりも何か釈然としない。イーストウッドは劇的な展開のようなものには興味がないようだ。


小林信彦先生はこの映画を「文句なしの傑作」と呼んでいる。さて? である。最後の過大な台詞さえなければ、ぼくもそう思うが。


125 「ロビンフット」(T)
リドリー・スコットラッセル・クロウである。女優はケイト・ブラシェット、脇にマックス・フォン・シドーが出る。悪役のゴドフリーを演じたマーク・ストロングはダウニーjrの「シャーロックホームズ」の魔術師をやった役者である。


ロビンが愚昧な国王に楯突き、市民憲章のようなものを誓わせる場面があるが、これは12世紀末の話である。史実に則って作っているはずで、それにしても12世紀末とは……。全体に重厚で、迫力がある。特に戦闘場面は肩が凝るほど。残念なのはケイト・ブランシェットの美に衰えがあることである。それにしてもオードリー・ヘプバーンの牧歌的な「ロビンとマリアン」からどれだけ遠くに来たものか。あの映画で、老いたロビンと事をなしたマリアンが「良かったわ」というシーンがある。ヘップバーンが言った台詞のなかで一番エロティックだったのではないだろうか。


126 「キス&キル」(T)
スパイが恋をして廃業を宣言、ところが組織はそれを許さない。平和な家庭を営んで3年、そこに組織の手が……。スパイネタを家庭に持ち込んだのがミソで、意外な展開にするところもミソだが、どうもスパイが家庭にいちゃあ迫力がなさすぎる。それに懸賞金欲しさに周りの人間がみんな殺人者に変身(あるいは、3年かけてコミュニティに溶け込んだ?)するのは、無理がありすぎ。主役の女優、男優、どっちも初めて見る。女性客が多いのは、タイトルにキスがあるからだろうか。


127 「海炭市叙景」(T)
熊切和嘉監督である。ぼくはこれが3作目になる。函館の大型船建造会社が赤字で人員削減を発表し、それに関連する人々に暗雲を投げかける。4つの話からなっていて、それぞれに沈鬱な話だが、1つだけ開発予定地から転居しない一人暮らしの老婆の話がやや明るい。ほかは、造船会社の動きに動揺する若者夫婦、親から受け継いだガス配達業だけでは不満な若社長、その社長に浄水器を卸している東京から来た販売員の話である。それぞれに味わいがあるが、4つを見る必然性が分からず、それも長いので苦痛の度が増してくる。熊切さん、「鬼畜大宴会」のときの溢れるパワーはどこへ行ったのですか。でも、客はそれなりに入っていた。


128 「静かなる決闘」(DL)
黒澤映画、1949年の作品である。9作目で「酔いどれ天使」の後作である。同じく医療がテーマになっている。戦線で患者の梅毒に指の傷から感染した医師が三船で、彼は復員しても婚約者にそれを告げることができない。告げれば、「いつまでも待つ」という女性だから。しかも、医者の倫理、人間としての義務がそれを許さない。一方で、彼に梅毒を移した当人は平気で結婚し、子どもまでつくろうとする(結局、死産)。


元ダンサーで、自殺を止められて、望まない子どもまで病院で産むことになった女が千石規子で、はじめは三船をエセ人道主義と思っていたが、過去を知って惚れる。その様子が、いつも崩れ役の多い千石には珍しく可憐でさえある。


三船は「酔いどれ天使」もそうだが、とても知的で、イケメンである。あとのワイルドたっぷりの三船とはだいぶ違っている。三船の父親役が志村喬で、黒澤には「姿三四郎」以来、父と子、そのアリュージョンの師弟の問題が根幹にある。ゆえに男性的な監督と見られるわけだが、「素晴らしき日曜日」「わが青春に悔いなし」など初期映画は女性物が際立つ。それを次第に捨て去ったのはなぜか、というのは考えるべき問題である。


この映画もまた雨、雨、雨である。黒澤はジョン・フォードに心服していたが、西部劇には“風”が吹いていて、それは真似ができないが、日本は“雨”なら対抗できる、と言ったという。この高温多湿の国なら当たり前といえば当たり前だが、異常なこだわりをもって雨を降らしたことは確かである(「羅生門」で墨の雨を降らせたのは中でも有名)。


前にも書いたが、黒澤映画における音楽の使い方は独特とされるが、ぼくは初期はそうでもないのではないか、という説である。この映画でも、緊迫場面ではドンドンと急迫の音楽を流すなど、常套である。ところが、一カ所変なシーンがある。志村が三船の梅毒をなじり、三船が事の真相を語ったあと、和解のタバコを吸うシーン。志村がタバコを勧め、お互いにライターを探す。同時に相手に差し出し、それを引っ込め、次に火の付いた先をまた同時に差し出す。その時に、じゃらじゃらと賑やかな音楽が鳴るのである。あれは何と言うのか、赤ん坊の頭の上に回転しながら賑やかな音を立てるおもちゃがあるが、あれと似た音楽が聞こえるのである。


三船が喋る言葉は生硬で血が通っていない。梅毒以外にも人間的な欠陥があるのではないかとさえ思う。ところが、千石および志村に絶品のセリフがある。
千石「不思議なのは病院っていうのは、何でも事務的に言えてしまうこと(三船に梅毒を承知で肉体を提供してもいい、と申し出る場面で)」
志村「(三船を指して)奴は自分より不幸な人間のそばで希望を取り戻そうとしているだけ。幸せだったら案外俗物になっていたかもしれない」
ここまで人道主義の主人公を突き放す余裕のある黒澤が、後の映画でどんどんシンプルな、分かりやすいヒューマニズムに陥っていくのはなぜか。これもまた一つの課題である。


さらにいえば、主人公は戦中の望まぬ過ちから戦後の苦難が始まるわけだが、けっして戦争批判をしない。その視点は黒澤に決定的に欠けているのではないか。木下が出征する息子を延々と追いかける母親を撮って謹慎させられたようなことは黒澤にはない。木下は「大曽根家の朝」で庶民の戦争責任を扱い、「カルメン故郷に帰る」で戦後の浮薄な民主主義の流行を風刺し、「日本の悲劇」で家族の崩壊というテーマをいち早く打ち出し、「女の園」で管理と民主主義の相剋を多面的に描くことができた。では黒澤は? 小津は? 成瀬は? 果敢に戦後という問題に立ち向かった木下の評価が低いのはなぜか。それもまたもう一つの問題である。


129 「ダーティハリー2」(DL)
監督がドン・シーゲルではなくテッド・ポストである。次々と犯罪者が殺されていくが、その犯人が警察内部の人間という設定である。だいぶ前に見たので筋を忘れていた。その処刑人のボス的な存在の俳優、これもだいぶ昔の連続テレビドラマ「スタスキー&ハッチ」のどっちかである。音楽がラロ・シフリン。こんなにユルイ映画だったのかというのが感想である。


130 「ツー・ウィークス・ノーティス」(DL)
サンドラ・ブロックヒュー・グラントの恋愛映画である。片方は金持ち、片方はハーバードの法科を優秀な成績で出たものの、弱者救済や環境保護運動にかかわる弁護士である。両親も大学教授で、その種の傾向をもつ2人という設定である。あるきっかけでサンドラはグラントの顧問弁護士に。いろいろあって、結局、彼は会社を辞め、彼女と一緒になる。サンドラ・ブロックを美しいと思ったことはないが、この映画では可憐でキュートである。天然ボケみたいな女性をよく演じている。途中のパーティでノラ・ジョーンズが歌ったり、ドルトン・トランプの本人が出てくるなどのおまけがある。サンドラの後釜に座った若い秘書が上戸彩に似ている。


131 「ミレニアム3」(青森T)
シリーズで1の「ドラゴンタトゥーの女」は見ている。2を抜かしたせいか話が分かりにくい。結局、彼女の保護観察医とほかの政府メンバーがつるんでいたという設定である。「1」でセックスを交わした主人公2人は、今回は接触場面がない。主人公の1人である雑誌編集長は女性雑誌オーナーと恋仲らしいので、2で何かあった模様である。
ふつう1ができて1年、いや半年は次は来ないものだが、立て続けに2、3と来たのはなぜなのか。そう客は入らないだろうから、話題のあるうちに作ってしまおうということだったのか。あるいは、作家との契約に何かあったのか。この3は神秘性も意外性もない、単なる絵解きに終わってしまった。


132 「メッセージ」(青森T)
とうとう観客一人である。大晦日の夕方だから、さもありなん、だが。主演ロマン・デュリスはどこかで見た俳優だが、彼の履歴にはピンと来るものがない。妻役がエヴァンジェリン・リリーというが、ぼくは知らない。大事な脇がジョン・マルコビッチで、新作もそろそろ封切られる。監督・脚本がジル・ブルドス、ぼくはこの人も知らない。本作はテイストが「シックスセンス」で、最後に意外なオチがあるのも似ている。小林御大は「シックセンス」は冒頭でネタが分かった、と述べている。何か監督の作り間違いがある、と指摘している。もしかしたら、この作品にもそれがあるかも、である。ぼくは一向にそういうことに気づかないが。


●今年のベスト12
あまり取り上げる作品もないので、和洋一緒のベスト12にする。DVDや3番館上映は今年の作品でないものも入っている。

12位 13人の刺客(T)
バカ殿のサディズムニヒリズムがよく出ていた。戦闘場面の仕掛けも大きいし、長い戦いのシーンが飽きない。
11位 奇術師フーディーニ(D)
ガイ・ピアスのフーディーニは魅力的だ。子役の女の子は逸材である。
10位 ジーザス・キャンプ(DL)
アメリ原理主義を映像で見たのは初めてである。この国はキリスト教の国なのだと改めて思った。
9位  ベストキッズ(T)
ジャッキーが薄汚い格好をさらしたことの驚き、そして「ベストキッヅ」の脚本の相変わらずの面白さ。ウイル・スミスの子どももいい。
8位  96時間(D)
リーアム・ニールソンにハイテク技術を駆使する元スパイを演じさせたのはすごい。娘がマフィアに捕まっているシーンはもっと何かやれたのではないか。「燃えよ!ドラゴン」の淫売窟シーンを思い出した。シリーズ化を求む。
7位  第9地区(T)
化け物(宇宙人)にしだいに肩入れしている自分がいる。負けました。主人公の変身していく様がわが事のようにおぞましい。
6位  21グラム(D)
イニャリトウ監督のいつもの循環話法だが、謎を1つ置いたことでそれが意味をなした。手練れという感じ。
5位  トランスアメリカ(D)
女性がゲイを演じたわけだが、逆に男が女を演じたらこうだろうという演技をする。実に複雑な映画である。いくつかの瑕疵が目立つが。
4位  ハングオーバー(T)
お馬鹿映画だが、よく話が練られていてOK。中国人の悪人が出てきたところは、少しダルイが、推理ものめいた落ちがあって、新しい喜劇を見た思いである。2作目がどうなるか、見物。
3位  ずっと愛していた(T)
3番館上映だが、北欧のムショ帰りの女性が主人公で、なかなか面白い造形の女性である。佳品。
2位  プレシャス(T)
悲惨なおデブの黒人女性が、そのどん底経験にもかかわらずアメリーのように明るく夢見るのがすごい。これも新しい悲惨映画の撮り方を見せてくれた。
1位 クロッシング(T)
これは堂々の1位である。役者なのか素人なのか分からない登場人物たちが、十分に演じている。映像はしっかりしていて、場面転換も言うことなし。脱走が適わず好きな女の子と収容所に入れられ、その子が日々弱っていき、海鮮病みになり、自転車で二人乗りしているうちに死んでしまうシーンなど、あちこちで落涙。