2015年後半の映画

kimgood2015-06-24

58 激戦(DL)
劇場で見るのを忘れていた香港映画で、監督林超賢(ダンテ・ラム)、主演張家輝(ニック・チョン)、膨于曇(エディ・ポン)、女優が梅婷(メイ・ティン)、子役が李馨巧(クリスタル・リー)。まず役者がいい。とくにその目が。主演のニック・チョンは悲しい陰影を見せる。メイ・ティンは二重瞼の憂いのある瞳で、少し夏目雅子を思い出す。子役がずば抜けてうまく、それでも嫌みがないのが、さらにすごい。


いくつかの筋を並行で走らせて無理がないし、俗な設定だが(落ちぶれた親を励ます、不幸な母子家庭をかばう)、中心に戦いがあるので、求心力が付いている。若いファイターが途中で敗れ、次に老ファイターが立つ、という設定は新しいが、筋の流れからいって無理はない。


残念なのは、過去を振り返る映像になると、途端にソフトフォーカスになって、音楽も甘くなるところ。あるいは、大雨のなか、倒れた小さな木をニック・チョンとメイ・ティンが土で根元を固めるところでも、甘い音楽が流れる。テレビ出身の監督らしいが、変な癖が付いているようだ。しかし、次作への期待は大きい。


59 奇跡のひと(T)
かつてアン・バンクロフトが教師、パティ・デュークヘレン・ケラーで同題の映画があったが、これは舞台は19世紀の修道女館。三重苦の子が、愛玩用に持っていたナイフをきっかけに文字の世界へ、人倫の世界へと進んでいく。それを後押しするのが病弱なナニーで、彼女は早く身罷る。世界に開眼した弟子は、同じような境遇の子を助けながら、たしか30代半ばで死んでいく。こういった宗教施設が重い障害をもった子の救いの場所だったことが分かる。あるいは、教育法や言語教授法のようなものも、そういった場から学問の場へと応用されていったということはないのだろうか。


60 アドバンスト・スタイル(T)
NY市内を歩く先進スタイルのおばあちゃまたちを撮ったブログから本が生まれ、彼女たちにもファッションショーなどの機会が訪れるドキュメント。最高齢95歳はファッションショーの観覧のあいだに息を引き取る。デザイナー、雑誌編集者、画家、ダンサーといった商売のひとが多く取り扱われているが、この人たちは今に始まってトンガっていたわけではなく、ずっとそういう生き方の人だったのではないか。お客さんがよく入っていて、よく反応しているので、楽しい観劇となった。でも、ぼくのほかに男性はあと1人、高齢のビシッとスタイルを決めたお方で、柔らかい色の帽子にきれいな赤の線が入っていて、ドレッシッブルである。


61 ジャッジ(DL)
ダウニーJrが元判事の父親ロバート・デュバルの弁護に回る。確執のあった親子が法廷でのやりとりから和解に至るという面白い構図になっている。デュバルは髪の毛も乏しく、肌も衰え、役柄そのもののふけ方をしている。マックイーンのブリットでちょいやくのタクシー運転手をしていたが、そのときにすでに頭が禿げていた。やはり彼は「ゴッドファーザー」で注目された役者ではなかっただろうか。暴力的な兄弟たちのなかで養子である彼だけが知的で異質、それをうまく演じていた。


62 泣く男(DL)
チャン・ドンゴン主演、監督は「アジョシ」のイ・ジョンボム。女優に表情がないため、彼女のシーンになると、全体に動きが止まったような間抜けな感じになる。ドンゴンのアメリカ時代からの仲間は日本人のような風貌で、味がある。戦いのシーンはさすがに迫力があるが、ドンゴン自体が白目を剥いて、口をポカンとするだけの役者なので、どうにも盛り上がってこない。ラストにあれだけ泣けるのだから、もうちょっと何かしてよ、である。


63 フェイス・オブ・ラブ(DL)
ダウンロードしていたエル・トポをほぼ5分で見るのを止めた。この種の、監督のかってのままに作った映画に付き合う気はない。それでアネット・ベニングのこの映画、年をとってもとても美しい。タイトルは愛の肖像と訳すらしいが、内容からいって「愛の表層」あたりが含まれている。死んだ夫とそっくりの画家の男を美術館で見かけて、まんまと恋に落ちるが、相手を夫の名で呼んだり奇妙なことが起きる。最後は別れて、彼女と彼の肖像が残るという仕掛けである。しゃれているし、落ちもいいし、佳品といっておこう。アネットのきれいさに加点である。エドワード・ホッパーばりの絵を見せられてもな、というのはあるが。


64 ハード・パニシャー(DL)
アフガンで拷問の巧者として鳴らした戦士が父母の殺害者に復讐をする話である。口にセメントを詰めたり、一つひとつに工夫がある。ふだんはだぼらなのにこの事件には色めき立って警視への出世の手がかりになると逸る現場警部。とろこが防衛省なのか、戦士の属する特殊部隊の管轄省のトップが警視総監にストップをかける。それでも現場は彼を追撃する手をゆるめないが、市民の安全を保障できない警察に代わって、戦争のプロが地元ギャングを次々殺していくという倒立した世界になっている。法は存在しない。最後には、出世願望男は仲間のスワット隊にも見放される。たしかにロクでもない男だが、兵士が警察権を奪取した状態とはなんとおぞましい世界か。これをたとえフィクションでも許容するものが、イギリス国内にあるのだろうか。


65 ダラスの暑い日々(DL)
監督デビッド・ミラー、脚本ダルトン・トランボ、主演バート・ランカスター、客演ウィル・ギア(大物政治家)、ロバート・ライアン(大統領殺害計画管理者)、1973年。事件10年後に撮られたもので、殺害側から捉えたものである。当時、ケネディ兄弟が人気で、政権を彼らのあいだでたらい回しにする可能性が示唆されている。なおかつ石油事業への合併規制、陸軍基地の国内52箇所、国外25箇所の閉鎖を進めると公言していた。さらに、黒人との融和、ベトナム撤退、ソ連との核実験停止条約と、保守派にとって都合の悪い施策が並んでいる。最後は、ベトナム撤退の意志を確認して、殺害のOKを老政治家が出す。オズワルドを犯人に仕立て、そののちに殺害。3箇所から狙い撃ちし、そのために時速30キロを20キロに落とさせている。国防省、情報局(?)などの電話回線が一時不通にされる。事件終了後3年以内に18人(映画ではこの数字。ほかに16人という説もある)の証人が死亡している。その確率は10京分の1といわれる。それぞれの人物の肩書きがよく分からないのが、残念だ。おそらく特定の人物なのだろうと推測するが。



66 卒業(D)
この映画をリバイバルで見たのが高校生の頃だったろうか。ベッドのシ−ン(ホテルのベッドと自宅のそれ)とプールのシーンが繋がっていたり、潜水服の主人公がプールの底に貼り付いいたり、よく分からないなあという感じだった。しかし、映画は感動もので、いまだに繰り返しこの映画を見ているわけである。何か新しい表現を理解するにはある種の成熟や習練が必要だということが分かる。いまでは違和感なしにこの映画を見ているからである。それはキューブリックの「2001年」の再見にも言えることで、あの難解とも思えた映像がなんともふつうに見ていることができる。タル・べーラの「倫敦から来た男」なども楽しみながら見られるのだろうか。


今回、印象に残ったのは、その細部の積み上げの入念さである。ミセス・ロビンソンの誘いの駆け引きの言葉の巧妙さ(レディとしてベンジャミンに様々なことを要求する)、話しながら高いスツールの上で脚を開き加減にする仕草、胸を触られたときの無反応と脱いだ服の汚れをもみしだく世帯じみた演技、待ち合わせのホテルのドアを開けようとすると老夫婦の一団が出てきて、次に若い結婚カップル数組に先を越されるところ、カウンターで「シングルマンズ・パーティか」と訊かれ、会場に入ると「シングルマン家のパーティ」と気づくところ、ホテルのポーターとのコメディタッチのやりとり、部屋を予約したあとのベンジャミンの電話での部屋番号の言い忘れ、部屋に入って夫人に「ハンガーを」と言われて、木製と鉄製とどっちがいいと訊くところ、木製といわれるが取れなくて鉄製を持って行くシーン、あとでエレインと同じホテルに行ったときにグラッドストーンや違う名前でホテルの人間から挨拶されるコント、父親が何度も「我が子」と言ったあとに青年と言い換えるなど……本当に細かい演出がそこらじゅうにある。ベンジャミンの母親のミドル階級の代表みたいな服装と態度、それに似合いの、小さな会社(?)の共同経営者でも父親の俗物性なども、よく練り込まれている。しかし、ベンジャミンと夫人の力関係が決定的に決まったのは、やはり冒頭の出会いのシーン、車で家に送ってほしい、と言ってわざと水槽にキーを投げ入れるところである。有無をいわせぬ切り換えがある。


これらの演出の細やかさは驚異である。あるいは、こういう細やかさ、ディテールこそが必要な映画なのである。ある種の家庭持ちや社会的な地位の定まった人間が持っている強固な保守性を描くには、である。ロビンソン夫人はかつては美術を専攻し、できちゃった婚で家庭に入り、あるときにはアルコール依存症でもあったと言う。おそらくベンジャミンを誘った人は、どっしりとした保守性から落ち零れた人であったのだ。その心理的不安はまだ続いていて、ベンジャミンを誘い込んだのには、そういう背景があったのではないか。一度は、ベンジャミンはエレインに相応しくないと彼女は言ったが、2人が近づくことに異常な拒否感を持っている。なにか娘のなかに自分と似たなにか、ベンジャミンのようなものを求める指向性を感じ取っていたのではないか。ベンジャミン的ななにか? 制度的な囲いのなかで優秀であることにまったく価値をおかない、いみじくもエレインに言ったごとく、「違った人間になりたい」人ベンジャミンは、やはり魅力的な人間なのである。性的に、社会人として奥手だとしても。数カ月もすれば、夫人にセックス以外のことを求める男に急成長するのがベンジャミンなのである。


驚くべきはこのときアン・バンクロフトが36歳だということ。設定ではベンジャミン(21歳)の2倍以上となっているので、そう離れた年齢ではない。それにしても、50歳は超えている感じがある。ベンジャミンは20歳で成績優秀で奨学金が貰える青年だが、大学院に進むとか、就職はどうする、みたいな話が出てくる。アメリカは20歳で卒業なんてことがあるのだろうか。いまなら飛び級も考えられることだが。


ベンジャミンが寄宿したバークレーのアパートメント(まるで学生寮のように見える)の家主は、彼を運動のアジテーターと疑う。鼻をグスッとする癖があって、ギョロっとした目とともに、ベンジャミンの浮き草的なあり方につねに疑心を抱いている。この映画は67年の作で、撮されるバークレー大学は平穏そのもの。まだ学生運動の嵐が吹き込んできていない。その前兆がある、ということなのであろう。3年後に「いちご白書」が公開されるが、こちらは運動の渦中にあって女の子に夢中な、本来はノンポリの青年を描いているが、ベンジャミンとそう差異があるわけではない。


67 べらんめえ芸者(D)
1959年、小石栄一監督。なかなかよくできた話で、ひばりの歌も聴けて、志村喬の渋い演技も見られて、殿山泰治の社長役などという稀有なものも出てきて、清川虹子のドスの利いた声もあって、十分に楽しめた。脚本、笠原良三笠原和夫。出足から気っ風のいい台詞が聞かれる。「お父っつぁんに引き立ててもらいながら、いくら時節が変わったからといって、右から左に手の内を返せるもんかい?」もう一つ、「お父っつぁん、それで日限のほうは大丈夫なのかい?」言葉がちゃんと生きていた時代の映画である。ひばりの演技はふわふわしたもので、足が地に着いたものではない危なっかしさがある。それは藤純子もそうで、おそらく発音のせいではないかと思うのだが……(ひばりは心ここにないという喋りり方をし、藤純子はあまりにも正確に言葉を発音しすぎる)。その意味では、この映画、啖呵を切ることで、こっちの気持ちが落ち着くところがある。


68 ギャンブラー(DL)
マイケル・ウォーバーグ主演で、大学教授でありながら賭け事でやくざから26万ドルの借金。それをどう返すかだが、最終日になるまで結論が見えない。母親との関係、自分の才能との折り合いの付け方、教える学生との問題など、実は描きたかったのはそっちではなかったのか、という感じ。ウォーバーグが授業で抽象的な理論を振りかざすところは、?マークが点灯。キャラクターが違うのではないか。最後は、ジョン・グッドマンから借りた金をルーレットの黒に全額賭けて一打逆転となったが、それまではほぼギャンブルとは無縁の話が続く。教え子の女の子と付き合いはじめるが、この子は不思議な存在感がある。


69 心の旅(D)
マイク・ニコルズ監督、主演ハリソン・フォード、女優がアネット・ベニング。原題はRegarding Henryである。悪徳あるいは敏腕弁護士が夜に煙草を買いに行き、強盗に遭い、頭などに銃弾をぶち込まれる。それによって記憶を失う。賢明なリハビリで少しずつ自分をとり戻すが、かつての自分に嫌悪を抱き、弁護士を辞める。妻と子と生きていこうと決める。ビル・ナンというセラピストをやった黒人がいい。もとアメフトの選手が事故で選手生命を絶たれ、リハビリに。そこでその仕事と出合い、転身をはかった人物。誰にでも声をかけ、明るく振る舞う。アネット・ベニングは確かにきれいだが、彼女は年を食ってからきれいになるタイプかもしれない。出演作が目白押しなのが、それを物語っている。それにしても、脳がダメージを受けるぐらいでないと人生を変えられない、というのも厳しい話である。みそっかすの子どもが覇気がなくていい。親子三人で抱き合っている足もとで犬が自分も参加しようとして背伸びを何回も繰り返すラストはグッド。


70 殺人の追憶(D)
何度目になるか、やはりこの映画は圧倒的である。都会からやってきた頭脳派の刑事が最後には暴力性を剥き出しにする。それを抑えるのが、もともと力のによる捜査しかできなかった田舎刑事。犯人を美男の優男にしたのが、この映画の勝利の核心であろう。いつも同じことしか書けないのは、この映画には必要なことはすべて映像として語られているから。ひとつ意外だったのは、2人目の死体が見つかった休耕畠で人が、警察が集まってくるところを俯瞰で撮っていた記憶だったのが、それほど高い位置のカメラでなかったこと。ポン・ジュノ監督は寡作で、ぼくは「グエムル」「母なる証明」しか見ていない。もっとたくさん撮ってほしい。


71 麻雀放浪記(D)
これで何度目になるだろう。博打に人生を打ち込んで悔いない男たちを描いて、これ以上の映画はないのではないか。いんちきを働いたのが後でバレても、途中で見抜けない奴があほだ、という世界。女は女郎屋に売られる寸前で助かるが、女郎屋に堕ちたって好いた男のためならかまわないと言う世界。和田誠さんのあの端正な絵からは想像もできないアナーキーな世界への傾斜が憧れをもって描かれている。鹿賀丈史大竹しのぶに女郎の件を持ち出したくだり、大きな蛾が飛びまわって加賀が恐怖に固まって動けない。しのぶが言う、「逃げちゃえばいいのに」。おそらくこの台詞がこの映画の核にあるものだろう。誰も目の前の奈落から目をそらさないのである。いつも同じ感想になるが、鹿賀丈史という役者を見つけたのが成功の秘密だろう。それと、ヒロポンを打ちながら牌に向かう出目徳の高品格、和田さん、いい役者をみつけたもんだなあ。焼け跡の町の様子も立派で、大きなセットを組んだものだと思う。いつも残念に思うのは、坊やと加賀まりこが一緒に大きな川、隅田川だろうと思うが、それを背景に歩くシーン。せっかく豪華なセットを見た目には、書き割りの薄っぺらな感じがどうもいただけない。


72 駅馬車(D)
馬車に乗り込むのは、善良な薬売り、飲んだくれの医者、顧客の金をくすねたバンカー、中尉の夫を訪ねる夫人、その夫人を恋慕するギャンブラー、そして途中から乗ってくる脱獄囚、これはいずれ悪党3兄弟との決闘が控えている。あまり性格描写がはっきりしているわけではないし、狭い室内で確執がくり広げられるというものでもない。スピード感のあるアパッチの襲撃シーンが有名だが、もちろん撃った弾が当たって倒れるときは合成である。宿場が近づくたびに音楽が明るくなるのが愛嬌である。夫に出合えたはずの夫人の様子が描かれない、など不備はいくつかある。出演者のネームでは娼婦(ダラス)役のクレマー・トレバーがトップで、それからジョン・ウェインである。彼はこの映画でトップスターに名乗りを上げたわけである。


73 HERO(T)
こんなに全体が喜劇調だったかしら。「トリック」もそうだったが、何か日本の喜劇の伝統がこういうところに流れているのか。みんなが話し合いをしているそばのテレビで健康グッズの通販番組が流れていて、ある瞬間、みんなが携帯でその商品を注文するというギャグには思わず笑ってしまった。ネウストリヤとかいう外国と貿易交渉している欧州局長(佐藤浩一)が、その国の人気競技を知らなかったり、国民が人気ソーセージを1日に食べる量を知らなかったりって、あることなのか? そんなやつが外交交渉は熾烈な戦いだ、と口にする。脚本が間違っているのではないか。キムタクの即座の返し言葉が踏襲されているが、あれは彼の日常の口調を映画にも持ち込んでいるのか、あるいは彼はどの作品をやってもそれを演技として通しているのか。いずれにしても、彼のその口調をもとに脚本家は宛て書きをしていることになる。


74 セルラー(DL)
キム・ベイジンガー主演、冒頭10分で投げそうになった。テンポが悪すぎるのである。それでも2回に分けて我慢して見たら、残り30分ぐらいは見ていられる。アクションシーンがあるからである。前半部にも何か動きのある絵をもっと入れれば、面白くなったはず。最後の映像を見る限り、そうテクニックがないわけではないのだから。


75 日本でいちばん長い日(T)
時折、声が聞こえなかったり、早口で何をしゃべっているのか分からなかったり、時代背景や政治や軍の有り様が分からないので、かなりの部分を理解できずに終わる映画であろう。僕のとなりに中学生のような若者が大きなポップコーンを抱えながら座っていたが、彼はどういう動機があって、この映画にやったきたのか。よく理解はできたのか。小さなスクリーンに5割方、入っている感じで、若いカップルも1、2組いたようだが、中心は初老の夫婦といったところ。新規だったのは、天皇のまわりにいる付き人たちが、まるでお公家様みたいな浮き世離れした感じだったことだ。これは本当のことなのか。鈴木貫太郎の息子(農商務省)、のちに秘書官になる男が、「あなん」と聞いて「阿南」を思いつかないなどということがあるのだろうか。東条英機が若手将校の集まる場に来て、大音声を挙げ、もし天皇に過ちがあればそれを諫めるのも陸軍のやることだ、と言い放つが、臣東条がそんな不敬の言を吐くのだろうか。阿南惟幾が臣天皇で、最後まで過激派将校を引き付けながら、土壇場で和平に転ぶことで終戦の準備をした、という評価のようだ。天皇の聖断で戦争を終えることができた、ありがたや、という映画だが、「ポツダム受諾のまえに、もっと成果を上げられないか」と言ってムダに降伏の日にちを遅らせ、広島、長崎の惨禍を招いたのは誰か(もちろんこれは映画では描かれない)。1975年に、広島の原爆は仕方なかったと言ったのは誰か。本土決戦すれば必ずや勝つなどという世迷い言を、なぜ最後まで放っておいたのか。天皇は我が身の危険を感じたこともあったというが(2・26の後のこと)、身命を賭してでも国民を早期に救うべきだったのではないか。誰もが無責任に暴走し、それを利用する輩が根を張り、それがまた暴力装置として機能して、反対意見を圧殺していく。この構図は相変わらずだ。監督原真人は「クライマーズハイ」でとびきりの群衆操作を見せた。今回もご苦労様と言いたくなる。映像は深みがあって、きれいである。


76 新しき世界(D)
3分の2は人事劇で、最後に少しアクションがある。映像が安手の感じがするのと、冒頭の兄弟分の車中での会話が長く、ダルい。エレベーターのなかでシャカシャカ包丁で切り合うシーンは怖い。バットも登場する。全世界、暴力映画は刃物と素手に移行している。兄貴分を演じたファン・ジョンミンは心の広い、ユーモアのある、いい役柄である。憎めない風貌をしている。


77 悪童日記(D)
ポーランドが舞台と思われるが、ようやく父が帰還したものの、ドイツ軍の侵攻から逃れて、双子の兄弟は母方の祖母に預けられる。母と父はそれから姿を見せず、母は二人に必ず迎えに来るから、その間勉強を欠かさないようにと言い残す。二人は日記をつけはじめ、そこには文字ばかりか写真、イラストなどが差し挟まれる。祖母は、働かざる者食うべからずで、双子に厳しく当たる。夫を毒殺した疑いをもたれ、魔女とも呼ばれる。一方、彼女は双子のことを「メス豚の子ども」と呼び続ける。彼らの住まいのすぐ近くに収容所がある。隣家に男色家の将校が泊まり込むが、彼は首に矯正具のようなものを嵌めている。少年たちは、お互いを殴ったり、ベルトで打ったり、4日間断食をしたり、強くなるための訓練を欠かさない。あるとき、森で脱走兵を見つけ、翌朝、食糧を持って行くと、彫像のように氷で固まっている。彼の銃と爆薬を手に入れ、隠す。彼らは、近所に住む三つ口の女の子と悪さをしたり、世話になった靴職人をナチスに売った司祭館勤めの女を爆死させたり、三つ口の女の子の秘部を見て金を払った司祭を強請ったり、悪童ぶりを発揮するが、どれも正義のために行われている。まったく便りがなかった母親が赤子を抱えて、見知らぬ男とやってきて、一緒に行こう、と言うが、双子は祖母のところを離れない、と言う。母の愛人は逃げだし、母は赤子共々爆撃にやられてしまう。やがて戦争が終わるが、ソ連軍が侵攻してくる。歓迎の意を表した三つ口の子は兵士に輪姦され、死ぬことに。捕虜となっていたという父親が姿を現し、国境を越えて逃げる、という。なぜかと聞いても、返事が返ってこない。国境の緩衝帯には地雷が埋まっている。大股に歩けば助かる、と双子に知恵を付けられた父親が爆死し、その死体を踏んで、双子の一人が国境を越える。一人はこちらに残り「最後の訓練 別れ」が遂行された。


原作アゴタ・クリストフはたしか数年前に亡くなった記事を読んだことがある。ナチとソ連にやられた国ポーランド。いま自ら収容所に入り、外にその内部の情報を流し、収容所解体目的の手引きをしたピレツキという男の本を読んでいるが、彼は結局、収容所脱出後、コミュニスト政府に捕まり、処刑をされている。なんという酷い話だろう。


なぜ主人公は双子なのか。人間不信、人間破壊がうずまく世界で、言葉も不必要なほどにお互いをわかり合う関係など、稀有なものである。彼らは、一人では生きていけない、という。世界の暴力につり合うもの、それが完全なるコミュニケーションができる双子ではなかったのか。ようやく姿を見せた母ではなく、因業な祖母を選んだのは、なぜか。おそらく、二人の生きた厳しい世界にフィットする、リアルな存在が祖母ではなかったのか。それに比べて、新しい愛人の赤子を抱く母は、フィクショナルとはいわないまでも、現実味に欠けている。おそらく、自分たちの生死を賭けるに値しない、と彼らの直観が選択させたのではないか。


78 この国の空(T)
荒木晴彦監督、脚本である。戦時中のこの国の空にあるのは敵機とただの人工的な青、それにしても芸がなさすぎる。隣の中年男に二階堂ふみが惚れるわけだが、まったくその男に魅力がない。なにかキャスティングに間違いがあるのでは? 二階堂が男と話していて、男が上陸した米兵に殺される話ばかりするので、死なないで、死なないで、と男の太ももを叩くシーンがあるが、どうもそこには感情がない。彼女の平板な話し方が、この映画には合っていないのではないか。最後に茨木のりこの詩を読むが、それも無感情でやるので、あのいい詩が殺されてしまった。それなら、音声だけでなくて、文字でも詩は出すべきだった。戦争が終わって、中年男には疎開した妻と子が戻ってくる。ゆえに二階堂にとって「これからが戦争である」とわざわざ文字が出てくるが、それは要らないだろう。高井有一の原作がどういう作りになっているか知らないが、戦時のわりない恋と戦争および戦後はどう結びついているのか。この映画からはその必然性は見えない。母親役の工藤夕貴、叔母さんを富田靖子、かつてのアイドル的な二人が老け役をやっていて、これがなかなかいい。ちょっと工藤が若すぎる感じもするが。低予算映画で、ほぼ家の中か二階堂の勤める事務所、あとは神社の境内だけである。別にそれでもかまわないが、その小さな世界で濃密なものが生まれてこないと、観客はつらい。


79 バターフィールド8(DL)
監督ダニエル・マン、主演リズ、男優がローレンス・ハーベイ、エディ・フィッシャー。13歳のときに母の恋人に悪徳を教えられた少女は高級娼婦として過ごす日々に。そこで知り合ったリゲットという、金持ちの娘と結婚したが、うだつが上がらず劣等感を抱く男と知り合い、ようやくにして人を愛することを覚えたが、ちょっとした行き違いから喧嘩をし、クルマの事故で死んでしまう。男いわく、彼女はずっと人間の尊厳が欲しくて足掻いていた、つねに希望を捨てずに、と。それは彼自身のことでもある。彼も再出発を誓い、もし尊厳を取り戻せたら、妻のもとに帰る、と言って家を出て行く。リズはこの映画の前に「焼けたトタン屋根のうえの猫」で主演女優賞を逃し、これで初の主演女優賞を取り、6年後にはまた「ヴァージニア・ウルフなんか怖くない」で再受賞している。タイトルのバターフィールド8は彼女への伝言を受け取るところで、なぜだかそういう仕組みにしている。彼女の母親は痩せた、そして知的な感じの人で、ぼくは「俺たちに明日はない」のフェイ・ダナウェイの母親役をはしなくも思い出す。奇しくもリズはクリスチャンからユダヤ教に改宗している。


80 ローグネーション(T)
今までで一番面白いインポシブルではないか。イギリスのスパイの女性が合っているのもしれない。ただ、お尻の贅肉が震えるのはいただけない。アリババがスポンサーに付いている映画を初めて見た。なかにオペラを挿入いしているが、そが何か中国を題材にしたものである。こういうところでサービスをするのか、である。次は、チャイナガールがお相手に選ばれることだろう。


81 天空の蜂(T)
東野圭吾原発に疑問をもって記した作品が原作。しかし、高速増殖炉をテロで狙う、というそもそもの設定がおかしい。あれは実験装置であって、狙うなら稼働中の原発だろう、それも出力の大きいものを、と思うが、高速増殖炉でも巨大な被害が起きる、という想定で映画は進んでいく。途中、本木雅弘が増殖炉の説明をし、ウランは稀少だが、そこから生まれるプルトニウムは無限にエネルギーを生み出すことができる、という説明をする。しかし、この実験は世界では見放され、日本だけで行われているクレイジーなもので、それにトラブル続きでまともに動いたことがない。ナトリウムを冷却剤に使っていて、これが非常に不安定なものだからである。そしてこの増殖炉は巨大な金喰い虫である。それらが一切触れられない。
案の定と言うべきか、犯人が掴まり、その犯人がテロの意図を明かす。増殖炉を狙ったのはプルトニウムがほかと比べて少なく、かなり奥の方に保管されているので、攻撃にも強いからだ、と説明する。火薬も10キロしかないという。単に脅しが目的で、実際に爆発しても大事故にならないところを選んだ、というわけである。さて、映画の冒頭から専門家が相当数、対策チームとして集められる。専門家であればただちに犯人の意図を見破るはずである。この犯人は本気ではないのではないか、と。しかし、そんなことを言い出す人間が一人もいないで進んでいく。観客をバカにしているというよりも、作家の知性の程度を疑ってしまう。


江口洋二が主演だが、妻が彼をなじり、家族は血みどろに戦って維持されるものだ、と言うのには笑ってしまった。夫が仕事に注力しているあいだ、妻は何をやっていたのか。血みどろに戦ったのか。何という名の役者か分からないが、魅力がなさ過ぎる。原発屋といわれる本木が、息子がそれを理由にいじめられ、自殺したことが原因で、増殖炉を狙う計画を立てるという筋書きだが、その息子をいじめたのが反原発の運動家の子という設定なのは無理はないか。原発労働者の綾野剛にナイフを向けられ、手でそれを握るなど、ちょっとね、である。愛知県警の奇妙な発音の刑事と、やたら高飛車な女警察官、なぜこの二人しかいないのか。柄本明と若い刑事のコンビが息が合ってOKである。余りにも定型な描き方に笑ってしまうぐらいだけど。若者が買ってきたパンのクリームに、柄本が生クリームは嫌だ、というシーンなどがそれ。芸がなさすぎる。


新型ヘリは本物(?)で、迫力があった。最後の墜落シーンもいい。タイトルバックに何か黒い光沢のものが写されるが、それが機械的な冷たさを見せてグッドである。映画の終わりに、それが犯人の部屋から見つかった、といって増殖炉に設けられた対策本部に持ち込まれるが、結局、なんの代物なのかよく分からずじまい。こういうのは丁寧にやってほしい。


82 キングスマン(T)
キック・アスの監督マシュー・ブォーンが撮っている。主演は新人のタロン・エガートン、脇にマイケル・ケインコリン・ファースマーク・ストロングなど。女優はソフィー・クックソンで、「ナイト・イン・パリス」「ミッション・インポシブル ゴースト・プロコル」のリー・セイドゥに似た感じの女優である。世界を良くすることに飽いた男が、人口減を互いの殺戮で達成しようとする。それと戦うラインと、一人の勇者が育つ過程が複合的に進んでいくが、まったく無理がない。おしゃれだし、粋だし、往年の007を思い出す。汚い画面になるところはアニメ化するなど遊び心が横溢している。スカンジナビアのプリンセスが、私を助けてくれたら、後ろの*を使わせてあげる、というのは下品である。イギリスではここまで言わないとすまないのだろうか。続編がつくられているそうで、待ち遠しい。


83 マッドマックス(DL)
こんなに忍耐映画だとは思わなかった。迫力シーンに目を奪われて、そこまで関心がいっていなかったのだ。無法者がバイクに乗って、仲間の弔いにやってきて、マックスの同僚、妻子を殺す。途中では、ここままだとただの暴走族と変わらなくなってしまう、警察を辞める、と言い出す。上司は、バケーションをやるから頭を冷やしてこい、という。そこで、惨劇が起き、マックスは復讐に燃えるのである。メル・ギブソンにはまだふてぶてしさが現れていない。


84 君の生きた証(DL)
ウィリアム・H・メイシー、あの情けない顔の俳優さんが監督である。主演はビリー・クラダップという人で、いろいろ出ているのだが、記憶にない。最後にちょっとした仕掛けのある映画で、少しこちらの態度も変わる。


85 はじまりの歌(DL)
原題をBigin Againという。Onceを撮った監督ジョン・カーニーが舞台をニューヨークへ移して、失意のアマチュア歌手と伴走しながら、失意のプロデューサーが育てていく過程を描いている。キーラ・ナイトレイにはときおり計算外の奇妙な表情が浮かぶが、あれは顔の表情筋に問題があるのか。落魄のプロデューサーをマーク・ラファロ。二人が、自分のフェバリットソングをスマホで聞き合うシーンで、ナイトレイお勧めのサッチモの曲を聴きながらラファロがいう、「音楽は魔法だ。いつもの風景がまったく違って見える」。自転車を乗り回す少年たち、イスラム風の衣裳を着た二人の男、異様に背の高い細身の青年……そのいつもの街が輝いて見える。おそらくカメラマンがいいのだろうが、素敵なシーンである。


86 デビルズ・ノット(DL)
幼い子3人が自転車で森の奥へ行き、手足を縛られ、沼の中に沈められる。同日、ダイナーのトイレに頭から血を流した黒人が、下半身を泥に濡らした状態で見つけられるが、警察が来る前にいなくなる。一人の少年が犯行現場を見たと証言したことで3人の青年が逮捕され、一人は知能の後れがひどく、彼の証言は警察のいいように誘導される。残り二人のうちの一人はカルト教に凝っていると噂される子で、悪魔の所業をなしたのは彼だという世論が沸騰する。彼の法廷証言を見る限りは、知的で、シニシスムに傾斜した一青年に過ぎない。殺された少年の義父の毛が、その少年を縛った紐から検出されているのに、警察はそれを無くしたという。裁判官は警察の筋書き通りに事を運ぶことしか考えていない。法廷証言をした女の子たちは、悪ふざけのように青年二人を殺人者だと言う。死刑判決が下りてから、殺害の場面を見たことは、全部でたらめだったと言い出す。真相はどこにあるかまったく分からない。


という極めてまじめな映画なのだが、冒頭のカメラはまるでスリラーのような撮し方で、森の木を舐めるように写していく。まずそこから間違っている。さらに主人公の調査員を演じたコリン・ファースは疲れた、目に隈のできた役を演じているが、裁判に直接関われるわけではないし、弁護士を引き回す権限もない。ということで、何やら劇の中をふらふらするだけで終わってしまう。アメリカ映画にでも出ておこうか、といったところだろうか。イギリス訛りを押さえているが、端々に出るのは致し方ないか。殺される少年が、「エージェント」に出ていたガキのように可愛い。彼は祖父から貰ったナイフを肌身離さず持っていて、それを持って森にも行ったはずだが、家の道具箱にナイフがあることを母親が見つける。彼女は彼を疑い、別に住まうことは決意する。「キリング」で主役をやっていた女性が、性悪女の役で出ている。彼女はたしか舞台女優ではなかったか。もっと役を選ばないといけない。それと、その同じドラマで、彼女の上司の役をやった男も出ている。彼女と捜査に歩き回る若き警部も、「ランオールナイト」で頑張っていた。みんな「キリング」にやられたのである。


87 フェア・ゲーム(DL)
イランに核開発の疑惑があるということで米軍の侵攻があるわけだが、そのフレームアップを否定した夫婦がいて、妻はCIAで、夫は元外交官。イランには核開発などする余裕はなく、核開発の証拠とされたアルミ管はその薄さからいって、おもちゃのようなものなのに、動かぬ証拠に仕立てられていく。最後は、彼ら夫婦の証言が国家委員会でも取り上げられる、というところで映画は終わるが、最後に実在の人物が出てくる。ハリウッドが信用できるのが、こういう映画をきちんと作っておくからである。主演ショーン・ペンナオミ・ワッツ


88 ピッチ・パーフェクト(DL)
ミュージカルものだが、テレビドラマ「グリー」の劇場版といったところか。おさだまりの設定だが、やっぱりこのあたりの映画を作らせたら、ハリウッドでしょ、という出来。存分に楽しめたが、ファッツ・エミーにはもっと活躍の場を上げてほしい。もうすぐ2がやってくるが、今度はアカペラ世界大会である。硬直したリーダー女がゲロするシーンは一回でいいのでは。キックアスにもそういうシーンが何度か登場するが、いやはや、である。


89 マイ・インターン(T)
デニーロ、アン・ハサウェイである。元印刷会社勤務で、部長まで務めた人がいまリタイアで、時間潰しが大変。そこで見つけたアルバイト先が、もと自分がいた工場。床の傾き方まで知っている。雇い主は、ネットで服を注文するシステムを作りあげたハサウェイ、彼女はデニーロの有能さ、人間性の深さに気づくが、最初はobservantと警戒する。目ざとすぎる、というのである。ハサウェイが離婚の騒ぎで、泣き叫びながら、墓場に一人で入るのは嫌、みたいなことを言うのだが、アメリカ人、それも若い女性にこんな意識があるのだろうか。それが、意外である。デニーロは、うちの墓に入れば、とあくまで優しい。ぼくは彼をCEOに据えるのかと思ったが、やはりそれはないか。デニーロが笑ったり、むずという顔をしたりすると、久しぶりに「タクシードライバー」のときの顔が二重になって見える。


90 プリズナ(DL)
ばかな話だが、本当にラスト近くになって、この映画を以前に見たことがあるのを思い出した。ギレンホールが田舎の警察から、州警察へ腕の良さを買われて這い上がれそうになったそのとき、この幼女2人の失踪事件が起きる。100で触れた「デビルズ・ノット」と同じように、宗教的な狂信性がここでも問題になっている。ここでいう「prisoner」は囚人ではなく「、囚われの身ということ。


91 図書館戦争(T)
ほとんど3分の2ぐらいまで、死者が出ない戦争がくり広げられる。けっこう撃たれても、たいがいの人間は死なない。お互いに法律を元に限定戦争をするという設定だが、かたや「倫理強化委員会」、かたや「図書防衛隊(?)」ということになっている。最初、自衛隊礼賛かと思いきや、そうでもない。自由の抑圧を描いていないので、緊迫感がまったくない。おざなりの、書き割りの自由があるだけ。その象徴が図書館法だかが記された法律書(?)だかで、それを奪ったからといって、法律がなくなるわけもない。国会の承認がいる。ちゃちだし、デタラメである。図書館の敷地を出たら、武器の携行ができない、というのは、はて、なんじゃ? 市民は無関心というが、そりゃそうだろう、という対戦の仕方である。ただし、ここに盛られている「怠惰な国民」「平和ぼけの国民」という認識は、広範に認められる日本の気分ではないのか。こんな世界を生みたくて、何百万もの英霊は死んでいったのか、と右翼は言うだろう。しかし、平和ぼけにならない平和など中途半端なものだ、とぼくなどは思うのだが。茨城県近代美術館が舞台になっているが、それはどんな事情が? 岡田准一演じる上官はまったく何十年前のキャラクターだというぐらいに古い、栄倉奈々はやはりいつもの演技で、これがいつまで通じるのか。ラストの喫茶店の映像がしょぼい。


92 ダイバージェント(T)
また荒廃の未来で、NYは廃墟となり、人々は原始生活に戻ったような様子だ。都市の向こうにはフェンスがあって、何物かから隔離されている。都市を支配しているのは独裁で、つねにグループに分けられた市民はつねに監視されている。無欲、勇気、博学、異端、などといったグループがあり、訳ではダーバージェント(多様性)を異端としている。それでは、映画の筋が見えにくい、と思うのだが。ほぼこの世界観はハンガーゲームの世界で、「きっと星のせいじゃない」のシャイ・ウッドリーの売り出し映画であろう。「セッション」のマイルズ・テラーが弟役、「きっと星のせいじゃない」で共演したセル・エルゴートという青年も出ている。ナオミ・ワッツが化粧が濃くて、残念。ケイト・ウインスレットが悪玉の親分だが、なんだか悪の程度が全然足りなくて、簡単に反乱軍に掴まったりしちゃう。もともと脚本が悪いのだろうが、途中で何度出ようかと思ったほどだ。繰り返し描かれる未来の荒廃都市というイメージは、もしかしたら現実のアメリカではないのか、という気がする。貧富の格差、民族差別、政治の固定化などの不安が反映されたものが、この種の映画の背景にあるものではないか。としたら、ダイバージェントしか救いはないだろうと思う。


93 コール(DL)
ハル・ベリー主演で、緊急電話係が実際の殺人を止めることができなかったが、また数カ月後、同じ犯人に襲われる女の子を助ける。誘拐された子が持っているのがプリペイド携帯なので位置確認ができない、というのがミソで、犯人のトランクに閉じ込められた彼女にいろいろな指示を出して、今度は救おうと必死である。最後、二人は犯人にひどいことをするが、なんでそこまで、それに警察にバレるでしょ、ということをやる。せっかくの緊迫の映画も台無しである。さすがにあのハル・ベリーにも多少の衰えが見える。彼女を「ソードフィッシュ」で見かけたときの驚きを忘れることができない。


94 レッドライト(DL)
デニーロの力が抜けた感じが詐欺師に似合っている。シガニー・ウイバーは年をとり、太ってしまった。それに、途中でいなくなる。異常現象捜査官が、異常能力保持者だったというオチがつくとは。それにしてもデニーロ、老いてなお出まくっている。


95 ジョン・ウィック(T)
キアヌ・リーブス主演で、ほとんど女っ気なし。相変わらず長髪で薄汚いイメージは変わらない。妻が病気で死に、彼女が残してくれたイヌを殺され、愛車も盗まれて、怒りの火が点る。連続何十人という殺しのシーンは圧巻である。やや似たような殺し方を2、3繰り返すのが特徴で、ほかの映画のアクションでは見かけないやり方だ。ジョンの癖ということなのだろう。たとえば、ヨコから出てきた人間の腕を掴んで振り回し、空いている右手で前方の人間を撃つ。あるいは、柱を挟んだ敵には、柱から即座に回り込みながら至近距離で撃つ。デーゼルワシントンも引退したような殺人マシーンの役をやっていたが、やや衰え掛けたスターたちの復活方式の一つなのだろうか。それにしても、アメリカ映画はこういう暴力映画を撮らせたら、一流である。


96 メイズランナー 砂漠の迷宮(T)
やはりなあ、1作目の面白さはほぼ失って、ゾンビ映画になってしまった。「ダイバージェント」と同じで、善意の女統領が仕切っている。これはヒラリー・クリントン大統領を予見している?


97 ミリオンダラーベイビー(DL)
前に見たときは、スワンクが頸椎にダメージを受けたあとの展開は不要と思ったが、それは大きな間違いだった。イーストウッド演じるボクシングジム経営者兼セコンドは、つねに選手の危険回避を旨としてきた人物で、それはジム住まいのモーガン・フリーマンしかり、黒人の売り出し中の選手しかり、そしてスワンクも、である。あまりにも自分が抑制的であることを反省して、スワンクには意外と早めに大舞台を用意するのだが、それが彼女の再起不能を呼び込むことになる。冒頭から始まるフリーマンのナレーションの中身は凄絶である。骨まで届く傷は、ときによって出血が止まらないことがある、とかなんとか。イーストウッドギリシャ語を読み、イエーツの詩に親しむインテリという設定になっている。目に一丁字もないフリーマンとは好対照である。


イーストウッドにはアイルランドスコットランドイングランドなどの4つの血が混じっているらしい。スワンクのガウンの背に縫い取られた文字はゲール語らしく、その文字を見て、ロンドンに住むアイルランド人は熱狂する。そのガウンも、イーストウッドの着るトレイラーも緑、アイルランドの色である。死の間際に彼女に明かされたその文字の意味は、「愛する者よ、おまえは私の血だ」というものである。イーストウッドは毎日欠かさず教会に出かけ、三位一体とは何かとかいった質問をくり出し、神父はうんざり顔でまともに扱わない。しかし、半身不随となったスワンから呼吸装置を外してくれと頼まれ、苦悩し、牧師に相談をすると、あろうことか、神も悪魔も放っておいて、ただ静観するのだ、と諭される。もし彼女を死なせれば、あなたはずっと基盤のないまま揺れ動く、と忠告を受ける。しかし、戦うことで人生を切り開いてきたスワンクは、最後も戦わせてくれと懇願する。ボスに断られると、舌を噛み切ることまでやる。とうとう、イーストウッドは深夜に病室に入り込み、呼吸器を外し、致死量の4倍のナトリウムを注射する。


イーストウッドが家のドアを開けるたびに、ある手紙が届いている。娘からの手紙のようだが、それを開封しない。親子で何があったかは語られない。これも実は仕掛けがあって、フリーマンが娘に父親の近況をその都度、伝えていたのだ。スワンクのロクでもない家族が二度、登場するが、一度目のあと、スワンクがクルマの中でイーストウッドに、私にはあなたしかいない、と言い、イーストウッドも肯定する。これは、疑似親娘の物語でありながら、その親娘は生死を賭けた戦いの同志でもある、という関係である。のちに「人生の特等席」でも親娘問題を扱っているが、イーストウッドにはエディプスコンプレックスのようなものは存在しないようである。



この映画の照明を褒める人がいるが、そういわれれば緑がかった青が基調になっている。スワンクの家族を会って帰りのクルマの中、外は闇に包まれているので、二人の顔も闇に沈んだり、浮かび上がったり、それがごく自然なのである。ほかの映画だと、全体に明るめにして、二人の顔を見せるのだろうが、あくまで闇を殺さない撮影法を採っている。世界チャンピオンになるんだ、と言うことだけは大きくて、まったくリングにも上がろうとしない青年が、この映画の重要なアクセントになっている。臆病な青年で、身体能力もかなり低いのだが、それでもボクシングの魔力に取り付かれている。彼を虚の中心点にして、ボクサーというさまざまな星座が配置されている。



98 私の名前は(T)
近親相姦の娘が家出をする。長距離トラックのおじさんはいい人で、何かで妻と子を亡くしていることを、すぐに彼女に教える。それで心が開くと思ったのか。暗黒演劇のような踊り手が出てきたり、ハンドカメラに切り替わったり、絵を途中で止めて場面を切り換えたり、カメラがビルの屋上の角を撮したり、文字で絵を説明したり、余計なことをやっている。というのも、オン・ザ・ロードでは何も起きないからである。最後に、驚きの映像があるが、運転手の理屈も分からないわけでもないが、それほどの苦悩があると、事前にきちんと描くべきである。


99 ドライビング・ミス・ディジー(DL)
ブルース・ベレスフォードという監督で、「ダブルジョパディ」と「ザ・スナイパー」というのをほかに見ている。主演ジェシカ・タンディモーガン・フリーマン、客演ダン・エイクロイド。1989年映画で、タンディが80歳(役は92歳)、モーガンが50歳(役は70歳)、やはり傑作であろう。もう4回目になろうか。舞台はアトランタで、キング牧師が有名になりつつある南部である。タンディはユダヤ人の金持ち、息子は家を継いで、綿糸の工場を手広く営んでいる。頑迷だが差別主義者ではないタンディのもとに、人間の矜持を捨てないフリーマンが雇われ運転手としてやってくる。次第に心を開いていく過程がじっくりと描かれる。叔父の誕生日に長距離を移動、途中で道を間違い、夜も更けてきた。フリーマンが小用をしたいと言うと、我慢して急げという。彼は、70の男が子どもみたいな要求をする気持ちが分からないのか、といって、命令に反して用を足しにいく。すると、社内に独りで閉じ込められたディジーは心細さから彼の名を呼ぶ。そのときのディジーの表情が抜群である。キング牧師の演説会に誘ったのが当日の会場前。なぜあなたはひと月も前に招待状が来ていたのに、いまになって誘うのか、とフリーマンは抗議をする。そういう骨っぽいところにディジーは信頼感を寄せていくのである。認知症になったとき、フリーマンの手を握り、あなただけが友人だ、と呟く。1989年に作られた作品で、いま思えば、老人ものとしては非常に早い時期の作品であろう。アカデミー賞で作品賞を取りながら監督賞を逃したというが、その理由はさて?


100 コードネームアンクル(T)
懐かしのナポレオン・ソロイリヤ・クリヤキンである。ソロはスーパーマンに似ていて、イリヤはイアン・ゴスリングに似ている。冷戦初期の設定だから、大した秘密兵器は出てこない。ロシアのほうが発達しているというジョークも挟んである。イリヤが海で戦っているときに、ソロがトラックでワインとサンドイッチを見つけ、ラジオでカンツォーネを聴きながら優雅なひとときを過ごす場面がおかしい。彼を真ん中に置いて、イリヤと敵のボートが行ったり来たり、するのである。こういう余裕のギャグがとんと映画から消え失せて久しい。先のキングスマンにそれがあって、ほっとしたのだが。監督はガイ・リッチー、あの「シャーロックホームズ」を撮った監督である(ただし、第1作目)。いよいよ007の「スペクター」がやってくる。レイセドゥが出るので、楽しみである。


101 食べて、祈って、恋をして(DL)
人に勧められて見た映画である。ジュリアー・ロバーツはもう往年の美しさはないと思っていたので敬遠したのだが、なかなか可憐さがあって、グッドである。離婚の傷心を抱えて、イタリア、インド、バリへと自分探しの旅をするライター稼業の女性が彼女で、バリで再会する前歯の抜けた予言師が愛嬌があっていい。東洋の占いやマッサージなどが、違和感なく肯定されているのが、いまどきの感じである。映画にちょくちょく日本のことが普通の感じで出てきて驚くことも増えている。東西の距離がよほど縮まったのだろう。The Sffron Road という世界の尼僧を訪ね歩く本があるが、何か東洋的な宗教に思いを寄せる人々が確かにいるようなのだ。


102 スペクター(T)
期待のボンドだが、残念な出来である。スペクターの親玉が実にあっけなくボンドにやられるのである。前回との続きで、スパイ部局が無くなるかもしれないという設定である。Mも代わり、マネーペニーもQも変わった。ボンドガールのレア・セドウはもう少しきれいに撮れると思うのだが。最後、殺し屋ボンドにはついていけない、と急に言い出していなくなるのは変だ、と思っていると、スペクターに囚われる。そのためにボンドから引き離したわけだが、ずいぶんおざなりである。


103 ベテラン(T)
「ベルリンファイル」「アラハン」を撮った監督リュ・スンワンである。「アラハン」は韓国カンフーで、続編が来ると思ったのだが……。「ベルリンファイル」は別に韓国映画でなくてもいいのでは、と思った。設定は北朝鮮絡みだが、ハリウッド映画を見ている気分である。今作は主演がファン・ジョンミンで「新しき世界」の義兄弟の裏切りと知りながら許す兄貴役をやった俳優である。抜けているのだが気持ちが優しい男を演じてグーであった。今回は暴れん坊だが根は優しい刑事で、ぜひ続編を作ってほしい。笑いが挟まれて、韓国映画の味わいがいい。署長、上司、刑事とみんなが仕事で負った傷を見せ合うシーンには、劇場が爆笑。悪役の財閥御曹司、ただし妾腹の子が嫌らしい悪党で、なかなか存在感がある。「オールドボーイ」の成り上がり社長には敵わないが。財閥企業の給料未払い、突然解雇が事の発端だが、この映画で溜飲を下げた人が多かったのか、韓国では1300万人が見たという。久しぶりに韓国映画を見た、という気分。ただ、深い色の韓国映画が好きな僕とすれば、色の浅さが気になる。


104 インディアン・サマー(D)
韓国映画で、安っぽい映像である。若い弁護士が夫殺人の女に肩入れして無罪を勝ち取るが、では犯人は誰なのか曖昧なままである。それが犯行時に女が着ていた服が見つかったということで、検察控訴で死刑に。女は夫が自殺願望があり、子供を下ろしたことで自暴自棄になって自害したことを打ち明ける。その夫を助けようとして付いた血だという。もう一つ展開の悪い映画で、役者も魅力的ではない。色がテレビ映画のように浅い。


105 独裁者と小さな孫(T)
監督モフセン・マフマルバフ、イランの監督らしい。ほかの作品も見たくなる監督である。寓話のような趣もありながら、リアルでもあるといった味わいの映画である。独裁者がじつはギターがうまく(旅芸人と偽って逃亡を続けるが、都合が良すぎないか)、若い頃は娼婦買いで遊んでいたという過去をもっている(50年も前に通ったと仮定しても、娼婦役の女は異常に若い)。彼が処刑し、あるいは拷問した家族とも逃亡のクルマに乗り合わせる。最後は民衆に掴まるが、途中の旅を一緒にしていた男が、復讐の連鎖からは民主主義は生まれない、と説くが、それで彼の斬首がストップになったのかは分からない。孫が楽しそうに踊るシーンで終わるので、惨殺は無かったということなのだろうが。民衆も兵隊も独裁時には手を貸して、罪なき人も殺したわけで、革命が起きたからといって、掌を返すのはおかしい、と先の男は訴えるのである。たしかに、革命軍が新婦を手込めにするシーンなどが描かれる。獄舎から解放され、愛する妻のもとに戻ったものの、違う男と子をなしていたこを知り、農具で下あごを刺して死んでしまう男も描かれる。だみ声で、ド演歌のような歌を歌う古老が出てくるが、迫力がある。あれはイランの伝統歌唱法なのだろうか。


106 マラビータ(DLは間違いなのでS=スクリーミングに変更)
見る前からスジが分かってしまうような映画なので敬遠していたが、リュック・ベッソンが撮っているので見ることに。やはりそれなりに楽しむことができた。仲間に追われるマフィア一家を助けるのがFBIトミー・リー・ジョーンズという異な設定である。田舎町に引っ越すが、肩書きが作家という触れ込みのデ・ニーロ、何かあると爆弾を使う妻がミシェル・ファイファー、それに子どもが二人で弟役をやったジョン・デレオがなかなか面白い(あまり活躍していないようだが)。村人たちがアメリカ映画上映会をやるが、そのゲストにデ・ニーロが呼ばれ、そこでかかるのが「グッドフェローズ」というシャレがきつい。


107 杉原千畝(T)
最後の10分は、次の待ち合わせもあって見ずに終わった。チェリン・グラックという監督で、日本で1、2本撮っているようだ。主演唐沢寿明小雪、どちらも背が高く、外人と見劣りがしない(小雪が適役かというと?だが)。彼が発行したのは正規のビザではないので、ウラジオストックユダヤ人たちは足止めを食う。それをハルビンで同級生だった領事官が自分の責任で日本渡航を許す。千畝は独ソ条約を破綻を来し、日本の中国進駐はアメリカとの戦争を引き起こし必敗の道を歩む、と的確な読みをしている。残念ながら戦前の日本でそれを取り上げるところがなかった。石原莞爾にしても、先の読める人間は日本の軍隊ではお払い箱になってしまうようだ。


108 黄金のアデーレ(T)
竹橋で琳派を見たときに、クリムトの「裸の真実」がかかっていたのにはびっくりさせられた。日本ではエゴン・シーレが先に来て、のちに師匠のクリムトが入って来た。若き日にはシーレに惹かれ、年をとるとクリムトである。退廃の深さにいかれるのだ。この映画はいたって健全で、家宝の叔母の肖像画を取り戻そうと一個人がオーストリア政府に立ち向かうというものである。しかし、その令夫人(ヘレン・ミレン)は途中で何度か訴訟を止めようと挫けるが、弁護士である友人の息子に励まされて意志を貫徹する。ユダヤ人である自分の家族を殺した土地へ戻る勇気が出ない、とも言う。青年もユダヤ人で、彼はホロコーストの地に赴くことで、もとは絵画奪還を私的な名声を得る手段と考えていたのが、使命感と変わっていく。その土地の醸し出す歴史に触れて変身するところが、この映画の面白さだろう。実際、むかしの虐殺のことなどくどくど取り上げるな、と言ってくる市民もいるのである。ジョン・アービングはその薄い自伝で、オーストリアほど反ユダヤの雰囲気の色濃いところはないと唾棄する調子で書いている。