2016年の映画(上期)

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さてこれはなに?


1 グランドイリュージョン(S)
この種の映画を再見して、前より好印象ということはごく少ないのだが、初見でがちゃがちゃと詰め込んだものが、二度目だと余裕をもって見ることができ、なかなか楽しむことができた。それにしても、日本にこの種の“コンゲーム”といわれる映画がほとんどないのは、知的な遊びの少なさばかりか、やはりまじめな国民性が影響しているのではないか。犯罪を行うものは悪、となったら、この種の映画は成立しない。欧米ではスマートな、知的な犯罪者に敬意を抱く習慣があるようである。「オーケストラ」で目覚ましい登場の仕方をしたメラニー・ロランが少し線が細いのが残念である。主人公とも言うべき刑事マーク・ラファロは顔つきには似合わずタイトな身体をしている。


2 ストレイト・アウタ・コンプトン(T)
コンプトンを出てまっしぐら、ぐらいの意味だろうか。カリフォルニアの伝説のヒップホップグループN.W.A(レーベルも立ち上げruthless「容赦なし」という名である)の軌跡を扱ったもので、お決まりの仲間割れ、そして再結成を誓うもリーダーがエイズで死んでしまう。1992年のロドニー・キング事件が描かれるので、その前からの話ということになる。ラッパーというのはNYから出てきたものだと思っていたので、意外な感に打たれたが、ロサンゼルスの暴動を思えば、さもありなん、である。Fuck the police という曲ではFBIに目を付けられている。乱交の場に女を探しにやくざまがいの男が3人尋ねてくると、全員で拳銃やら何やら持ち出して追い払う連中である。昨年、ナルコリードというメヒコ・ギャングを讃えるミュージシャンを扱った映画があったが、まったく迫力が違う。ジョージ・オーウェル英米では暴力の肯定の仕方が違う、と言っているが、アメリカに匹敵できる国ってISぐらいではないのか。ポール・ジオマッティが髪の色を変えて、プロデューサーの役をやっている。よくいろいろな映画に出る人だ。それにしても、客質の悪い映画館だった(右でも左でも携帯を持ち出す)。


チャイルド44(S)
劇場公開を見逃した映画である。スターリンの密告政治がはびこるなかで、楽園であるソ連に殺人はありえないということで、少年連続殺害が封印されたままであった。それをMGBという監視組織の一員である主人公が、スパイを疑われた妻を擁護したかどで地方に飛ばされ、そこで目覚めて真相解明に動きだす、という話である。みんなが疑心暗鬼で生きる窒息するような社会がよく描かれている。上司(主人公)にないがしろにされたと逆恨みする部下に、「キリング」「ラン・オールナイト」のジョエル・キナマンが冷たい、官僚的な軍人を演じてグッド。あとゲイリー・オールドマンがローカルな町の警察署長のような役。「ドラゴンタトゥ」のノオミ・ラパスが主人公の妻役で出ている。みなさんロシアなまりの英語を喋るという変な映画である。製作にリドリー・スコット、監督がダニエル・エスピノーザで、ぼくは一本も見ていない。


4 ベトナムの風に吹かれて(T)
途中何度も出ようと思ったが、とうとう最後まで見てしまった。それが悔しい。大森一樹という監督はもしかして一本も見てないのではないか。この作品を見る限り、ほかのには手は出ない。松阪慶子、草村礼子が主演。脇に奥田瑛二、吉川晃司。絵のつなぎが悪いので、松阪は目の焦点をぼかして、ごまかしていた。「シャルウィーダンス」でかわいいおばあちゃんを演じた草村が本当のおばあちゃんになっていて悲しい。



5 寅次郎頑張れ!(S)
電気工事の青年中村雅俊が虎屋に居候、その独身の姉が平戸に住む藤村志保。この映画の寅さんはちょっといただけない。分別めかした説教ばかり、反対に自分が説教されると怒り出す。それに青年に独身の姉がいると聞くと、平戸をくさしてばかりいたのに色めき立って家に厄介になることに。寅さんはそんなに好色な人間だったろうか。青年が惚れる秋田の女の子が大竹しのぶで、羞じらいながら強い目線を送る演技は彼女独特のもの。島の渡し船の船長が石井均伊東四朗財津一郎石井均一座を起こした人である。小さいころ藤村志保ってきれいだな、と思って見ていたものだ。たしか今は踊りの師匠を専一にしているはずだ。以前、行ったことのある平戸の町の様子が懐かしい。


6 恋人たち(T)
橋口亮輔監督、話題の映画である。予定調和的に作っているので、残念感が強い。もっと深く、あるいは弾けてもいいのでは。3人の主人公を扱うが、共感を覚えるのが難しい。彼らは最後、それなりのハッピーにたどり着くわけだが、それは彼らが自分の恥部をモノローグで語ることによってである。妻を通り魔で亡くした男は殺人も自死もできない自分が悔しいと泣く。浮気をした主婦は、OL時代の無能さを独りごち、上司であった旦那の善意に触れる。若い男の弁護士はすでに切れた電話の相手(同性)に向かって、大学時代から好きだった、と言い続ける。これがそれぞれのカタルシスだが、非常に低位の熱量である。弁護士の男が漫才師アンガールズの片割れとそっくりの耳障りな話し方をする。


7 ヤクザと憲法(T)
ドキュメントで、東海テレビの冤罪ものをいくつか見ている。今回は、ヤクザの事務所にカメラが入った、というだけの映画である。山口組の顧問弁護士が尾羽うち枯らしている現状には、意外な感がある。ひところは5人の人を雇っていたというから、それなりの実入りはあったのだろうが、いまはお婆ちゃん事務員が一人いるだけ。月10万の顧問料を貰っているだけで、個別の弁護料も大した額にはならないようだ。警察に睨まれ、器物損壊教唆で執行猶予付き懲役3年の判決を食らうが、本当であれば罰金刑ぐらいなものらしい。前にも警察に挙げられたが、そのときは無罪ですんでいる。このドキュメントで取り上げる大阪西成のある組の組長は、ヤクザというだけで子どもがいじめにあい、銀行口座もつくれず、生命保険も断られ、自動車事故を起こせば強請りと勘違いされる、それは人権侵害だという。カメラを回す側(東海テレビ)が、ではなぜヤクザを止めないのか、と聞くと、誰が俺たちを拾ってくれるのか、と反論される。暴対法成立までの歴史がかいつまんで説明されるが。、以前はテキヤなどで稼ぎを出していた、というのは違うのではないか。テキヤとヤクザは別物のはずである。


8 アリスのままに(T)
若年性アルツハイマーで、家族性といわれる遺伝子系の病に冒されたアリス、ジュリアン・ムーアが主人公。旦那がアレック・ボールドウイン。アリスはコロンビア大学の音韻学の教授で、そのキャリアを失うことになる。彼女がある会にゲストで呼ばれて、エリザベス・ビショップのthe art of loosing という詩を朗読する。ぼくの好きな詩で、ちょっとびっくり。ビショップのうたった喪失は記憶のそれではなく、愛するものを次第に失っていくことだったのだが。アリスはまだ意識がはっきりしているうちに、自らに伝言を残す。どう服毒自殺するかという手順を教える画像だが、彼女はそれを完遂することができない。アルツハイマーとは人間の尊厳の問題である、ということがよく分かる。



9 マッドマックス 怒りのデス・ロード(S)
駅馬車」の翻案であろう。攻め来る敵をバッタバッタと投げ散らす、という風である。矮軀、異形の者たちが支配者側であり、そこから逃走をはかる正義の者は見目麗しいという分かりやすい設定である。その中間に位置する女大将(シャリーズ・セロン)は額に痣があり、左腕の肘から下がない。ウォーターボーイは死んで名誉を貰えるという設定で、日本の特攻を思い出させる。逃亡の一群は一直線に“緑の大地”に向かうが、そこが不毛の地となっていることを知り、矢印を元に戻るという不思議な構図になっている。この映画を「ロードムービー」だというお馬鹿な意見がある。マックスをトム・ハーディ。粗野だが甘い、というメル・ギブソンが放っていた匂いがする。はるかな昔、このシリーズは神話的な影を背負った映画であった。荒々しい撮影現場で死者が何人も出た、という話がまことしやかに囁かれた。我々はそれを真に受けながらスクリーンに向かったのである。今度はデジタル処理と分かっているので、まったく余裕で見ていることができた。


10 微笑みをもう一度(S)
なんだかラブロマンスのようなパッケージだが、じつは離婚シングルマザーの再起のお話である。サンドラ・ブロックの役柄の幅の広さはさすがである。テレビのワイドショーで親友から夫と不倫をしていると告白され、みんなが周知のこととなり、傷心のまま故郷へ娘と一緒に。そこはかつて高校のクイーンとして迷いなく生きていた場所。少しずつ自分の拠って立つものは何かを探りはじめ、そこに高校生のときに彼女に憧れをもっていた男性も現れる。訳知りの母親との交情が彼女の一番の支えとなっていく。娘が学校でいじめを受けるが、そっちももうちょっと描いていれば、もっと深みのある映画になったことだろう。


11 ブラック・スキャンダル(T)
ジョニー・デップアイルランド系のギャングで、ボストンの南を仕切る。ジョエル・エドガートンは同じ南部の出身でFBI捜査官。なんだか判で押したような演技で、変化がない。ベネディクト・カンバーバッチはデップの弟で上院議員。出演シーンは少ないが、重厚ないい味を出している。やはりこの役者はできる。主に前2者が組んで、北のイタリア系マフィアの利権を奪う。しかし、悪事がばれて、デップは逃走し、12年後に捕まる。カンバーバッチは引責辞任し、マサチューセッツ大学の総長に収まるが、兄に電話していたことがばれて、また辞職に追い込まれる。エドガートンは刑務所に。デップが額を剃って、まるでお人形さんのようなつくりものめいた顔になっている。ちっとも恐くない。ほぼ拳銃ではなく首締めで人を殺す。


12 ひばりの石松(D)
沢島忠監督、次郎長は若山富三郎金比羅代参にかこつけて、清水で落ち合った丸亀藩の盲目の千姫を届ける(それにしても、どこから逃げてきたのだ?)、という設定である。四国に渡る船が実際にかなり大きなものを作っていて驚かされる。その船中で有名な「鮨食いねぇ、江戸っ子だってねぇ」の一幕がある。その相手が堺駿二で、なかなか小気味のいい科白回しである。ひばりが声を割ったような発音をし、まるで錦之介の演じる石松のようである。四国に着いて遊技場でボーリングをやるのには呆れてしまった。最初と最後が現代(?)の茶摘みのシーンで、ミュージカル仕立てである。茶摘みの子が列をなしているのだが、交互に前向き、後ろ向きが並んで、踊りのリズムを出している。冒頭の、大きな富士山をバックにした茶摘みのシーンとまったく同じものをほかの映画で見ているが、さて、それはなに? 


13 味園ユニバース(D)
また見てしまいました。これで3度目。けっこうどん底っぽい生活の中で屈託なく生きる主人公を演じる二階堂ふみがいい。相手役の男優(ほんとは歌手)渋谷みのるがちょっと重いが感じがするので、見直すのに少し決意がいるが、しだいに慣れてきた。その渋谷が代役する少しオカマっぽい役者がいい。これは実際の赤犬というグループのボーカリストでタカ・タカアキというらしい。脇でコーラスをつけるひげ面の男もいい。女医で鈴木紗理奈が出ている。無事にこなしたという感じだが、歌い手でもあるようだ。中で一曲、歌わせたらどうだったのだろう。


14 チャルラータ,ビッグシティ(T)
サタジット・レイの1963年と64年の映画である。早稲田松竹がほぼ一杯である。「チャルラータ」はウェス・アンダースンが好きな映画に挙げているらしいが、最初の30分はほとんど夢うつつ。間が悪いのと展開がほとんどないからである。意味のある間であればいくらでも見ていることができるが、この映画の間は中身のなさを糊塗する間である。「劇」がないので、見ているのがつらい。作劇法が古く(1960年代にしても)、たとえば従兄弟がいなくなって動揺したときに、外に強風の気配があって、窓から突風が吹き込んで、主人公がどっと泣き伏すシーンがある。ちょっとね、である。一方、翌年に撮った「ビッグシテイ」はまったく普通の映画である。ということは前者の間の悪さは意図的に撮ったということだが、それに何の意味があるのか。貞淑な妻が経済的な理由から働きに出るが、彼女のブラジャーは外からはっきり透けて見える。リップスティックやサングラスがダメで、これはいい、という文化コードの違いが面白い。ヒンドゥー語なのだろうが、時折英語っぽい音が入るのが印象的だった。熱い煮魚を右手だけで食べるのも不思議である。ベンガル人の男優陣のなかにまるで西洋人かと思える人がいる。「チャルラータ」が1800年代のインド、「ビッグシティ」が1960年代のインド、不思議なことだが前者のほうが古臭く見えない。電車のパンタグラフを撮したり、風俗や流行や先端技術に身を寄せると、こういうことになる。小津にしても競馬場や野球場のシーンなど、とても古臭く見える。ラーメン屋やパチンコ屋がそうは見えないのは、風俗としてそれを撮っていないからである。


15 フエィクシティ(D)
相変わらず警察の不正で、警視正が悪党というパターンである。判で押したような筋がなぜいつまでも作られるのか。キアヌ・リーブスもジョン・ウイックとは違って抜けた感じがしない。悪党上司がフォレスト・ウイテカー、内務調査部部長がTVドラマ「ドクター」のヒュー・ローリーで映画にすると線が細い。黒い髪で後ろが禿げているという米国人には珍しいタイプ。「エージェント」で嫌な男を演じていたジェイ・モーアが相変わらず嫌な男を演じている。日本でもそうだが、善玉、悪役はほぼ決まっていて、容姿に何かそういう区別を誘うものがあるということなのだろう。しかし、喜劇人だけは別ではないか。渥美清なぞ、ときにとても冷たい顔をすることがある。そのままそれを悪役で使えば十分に成り立っていく。ロビン・ウイリアムズがストーカーを演じたのがあるが、印象の余りいい映画ではないし、彼の脚本チョイスのまずさを感じたが、喜劇人の酷薄さはよく出ていた。


16 競輪上人行状記(D)
いい映画である。葬式仏教の内幕といえば大仰だが、小さく貧しい寺がどう生き延びていくか、関係者の人間模様もきっちり描きながら、説得性をもって語られる。1963年の作で、小沢昭一主演、今村昌平の「エロ事師」が1966年だから、その前に撮られた映画である。西村昭五郎監督、いろいろ撮っているが、後半はポルノ系が多い。大宮駅の古いコンコースの映像から始まる。そこで青梅から家出してきた娘を保護する教師が小沢である。ブラック婆(武智豊子)というのが風俗に連れ込もうとするが、小沢が引き留める。その娘はじつは義父の子を孕んでいた。少し頭が足りないふうな子である。何度も家出をし、小沢の厄介になり、最後は2人で漂泊の旅に出る。小沢は破れ寺の次男で、兄が死んで寺に戻ることに。それには兄嫁(南田洋子)の存在が大きく、以前から恋心を抱いていた。父親は糖尿病で床に伏しているが、寺の将来を考え、勝手に息子の退職願を学校に送りつけていた。小沢はひょんなことから競輪にはまり、本堂再建の金などを使い込むが、父親はそれを責めない。昔、悩みを抱えた人間は寺に来たが、いまは競輪場に行く、と面白いことを言う。遺言にも、寺は小沢の好きなようにせい、と言い残す。彼は一念発起して京都で修業をし、寺を引き継ぐ決心をするが、兄嫁に結婚を申し込んで、実は子どもはあなたの父親の子である、と告白されて、追い出すことに。また荒れた生活を始め、ノミ屋にはまり、かなりの借金を重ね、暴力で返済を迫られる。最後の賭で儲けて、寺を買い戻し、兄嫁に譲り、自分は教え子と一緒に旅に出て、競輪場で説法をしながら、「法然様は、我々は汚れたままで往生できると言った。競輪をやることに何の負い目があろうか。券を買って税金も払っているのだから、堂々と買えばいい。ただし一点買い、私の言った目だけ買えばいい」と迫力のある弁舌をくり広げる。それがラストシーンである。


兄嫁の南田が醸す色気は相当なものである。しぶとく生きる庶民の代表のような人で、寺の儲けがないからといって、犬の供養まで引きうける。小沢の注意も何のその、生活のためだから、と聞かない。寺の仕事を手伝う芳順(高原駿雄)は万事如才なく、貧しい檀家の回向に行ったときに、「人の死でご飯を食べる人間もいる」ときつい皮肉をいわれても平気で、出された膳にがつがつ食らいつく。小沢は箸が出ない。芳順の女は小さなホルモン串焼き屋の女将(初井言栄)で、インテリで正論しかいわない小沢に手厳しい。いかに自分の男が寺のために奉公しているか、と言い立てる。あんたが喰っている串も、犬を潰したものだ、と言うと、小沢は吐き戻す。芳順はあとで小沢の寺を買収する。僧の資格がないので、別の新興宗教から手に入れる。加藤武が出入りの葬祭業者で、小沢のノミ屋仲間でもある。これが、「日照り続きだから、いい大きな仕事がある」と言うのは、仏様が出る、という意味である。随所にそういう細かいリアリティある描写があって、原作寺内大吉の良さが生かされている。脚本は大西信行今村昌平である。


17 めぐり逢い(S)
デボラ・カーとケーリー・グラント、監督がレオ・マクゲェリイ。どちらも結婚前提の相手がいるのに船上で出合って気持ちが通い合い、とうとう半年後にエンパイアステートビルの上で再会しようと誓う。それまでのシチュエーションの積み上げた方が見事で、ほぼ会話で無理なく運んでいく。決定的なのは、二階から下りてくるハシゴに男のズボンが見え、次にスカートが見える。男の足が止まり、スカートの足も止まる。足が後ろを向き、少し昇り、スカートの足に近づく。キスシーンをそういう演出で見せる。二人が他の乗客の噂に上るようになり、レストランのシーン。背中合わせに座り2人は気づかない。こちらには客がいっぱいて、2人を見て笑いさんざめく。がまんできず2人はレストランから逃げ出す。


警戒心のあった彼女の心がほどけたのは、途中で寄った彼の祖母の屋敷でのこと。非常に優しく、敬虔でさえある彼を見届けることで、浮き名を流すばかりの軽薄な男でないことを知る。男が祖母にバースディプレゼントに持ってきたのが亡き祖父の肖像。彼に絵の才能があることがここで示され、あとで彼が自立する手立ての先触れになる。いよいよ再会の日に彼女は交通事故にあって目的を達せられない。しばらくして彼が彼女の元に訪れ、ぼくはあの日は行けなかったが君に待ちぼうけを喰わせて悪かった、とかまをかける。画廊に自分が描いた絵を預けておいたが、その絵を欲しいという貧しい女性が現れたが……と言ったところで、彼は隣の部屋に駆け込み、そこに飾られた自らの絵を発見する。


彼女が事故ったことをグラントが知っているのか演技からは読み取れない。それに言葉の途中で隣の部屋に駆け込むのも、はたと気づいた、という表情がないので、演技が平板で盛り上がりに欠ける。グラントは角度によって額に瘤があるように見えることがある。メイクで消せなかったのか。このとき、グラント54歳で、みんなが知っているモテ男としては、いささか年が行きすぎているのではないか。それでもやはり設定が粋である。再会の場をエンパイアステートビルに決めるのは、船が港に近づいたときに、突然、視界にそれが飛び込んできたからである。この急な、偶然な感じがいい。これとそっくりな設定の映画を見たことがあるが、まさか前にもこの映画を見たことがある? しかし、デボラ・カーの印象がないから、見ていないと思うのだが……と思って調べたら、ウォーレン・ビーティとアン・ベネットで「めぐり逢えたら」というタイトルでリメイクされていた。


18 キャロル(T)
ケイト・ブランシェットルーニー・マーラー主演、監督が「エデンより彼方に」のトッド・ヘインズ。ブランシェットと監督は「アイム・ナット・ゼア」で組んでいる。彼女がボブ・ディランに扮した映画である。「エデンより〜」も同性愛を扱った映画だが、本編は女性のそれ。ごく当たり前の恋愛映画である。離婚調停中に不道徳なことがあったとして親権を取られる取られないの問題が発生する。それを放棄して新恋人を選ぶという設定なのだが、そこの切り換えが今ひとつはっきりと描かれていない。だから、マーラーが最後に翻意してブランシェットの元に戻る心理もいま一つ鮮やかではない。ブランシェットが中年の、ねっとりとしたオヤジみたいで、まったく綺麗ではない。年をとって容色が衰えたのではないか。マーラーは、ミア・ファーロー、キーラ・ナイトレイを思い出させる。


19 ザ・ガンマン(T)
ショーペンがアクションである。それだけでは、ということでアフリカ・コンゴでの不正と自らの脳病を重ねている。病気だから敵と戦っていても頭が痛いし、目がかすむ。その演技を挟みながらアクションはさすが名優、てなわけにはいかない。まだるっこしい。それにコンゴで不正を働いたのは、民間の建設会社社員でありながら、しかも反政府軍に武器を渡す会社のスナイパーって、そもそもただの悪人ではないか。いくらショーペンでもそのハンディを翻すことはできないはずなのに、罪滅ぼしにNGOで井戸掘削をやるのは完全な欺瞞である。慎重にホンは選べ、名優なんだから。敵に撃たれたときに、マタドールに刺される闘牛の映像をかぶせるのは、とっても恥ずかしい。監督は「96時間」の人だそうだ。古手の再利用、そうはリーアム・ニールソンのようにはいかない。顔のでかいハビエル・バルデムは何だか使い方を間違ったのではないか。こっちをボスにすればよかったのに。


20 誘拐の掟(S)
リーアム・ニールソンで、静かな展開でなかなかいいぞ、という感じだったのだが、ラストに来ると、急速に力を失ってしまう。異常犯罪者が2人で組むなんてケースが実際にあるのだろうか。図書館で夜を過ごすみなし児は、ふだんはどうやって食を贖っているんだろう。なぜ彼を哲学的な隠者として描くのだろう? ニールソンは彼を養子にするだろうか?


21 いとこのビニー(S)
ジョー・ペシ主演、その彼女がマリサ・トメイで、むちゃ若く、ピチピチしている。最初から2の線は走っていなかったようだ。超B級だが、まったくど素人の弁護士が最後に逆転劇を演じるのが分かっているので、どうしても最後まで見てしまうことになる。保守的な田舎の判事とのやりとりは、ちょっと面白い。ペシが、検察側の証言が続くあいだ、手持ち無沙汰そうで、なんか演技しろよ、といいたくなるが、まあ、いいか、である。なんせB級だから。泊まる宿がどこも朝早くに騒音で寝られない、というネタは面白い。最後、トメイが自動車おたくであることがカギになる。演技もぴっちり決まって、やはりヌケた感じがある。カラテキッドの彼が出ていて、懐かしいが、もうオジサン化している。



22 寅次郎夢枕(S)
八千草薫がマドンナで、10作目。東大の物理の先生で、さしずめインテリの米倉斉加根が出ている。始めから快調で、寅は寅屋に入りにくくて、工場裏から回るという念の入ったことをする。寅屋の連中も、寅ほどいい奴はいない、などと聞こえよがしにいって、寅をいい気持ちにさせる。幼なじみの八千草は寅と結婚してもいいというが、へなへなと寅はくずおれる。ちょっと話が出来すぎているが、中にはこれぐらいのものがないと、シリーズは続かないかもしれない。東大の大教室に紛れ込んで、諸君、勉強しろよ、といって寅が姿を消してから、爆笑が起きるが、あれはハプニングで撮ったのか? 
それにしても、なぜ寅が帰ってくると、毎回、大騒ぎになるのか。口では、いまごろ何してんだろ、と心配しているのに、本人が顔を出すと、すぐに緊張が走る。寅も久しぶりの帰りだが、何年もご無沙汰というほどではない。年に2回は帰っていそうな感じである。だから、ふつうの顔で帰ればいいのだが、そうはいかないらしい。距離感がお互いに掴めないところに、この原因がありそうだ。寅ももっと間遠にかえってくるようにするか、そうでないならあっさり入ってくる。迎える方も、2年目だ、3年目だというなら、大手を振って迎える。年に2回だ、3回だ、というなら、ああ帰ったんだね、ぐらいで収める。
なかなかそうは定式化できないのは、下町の人の付き合いの近さ、濃さみたいなものが影響しているのではないか。それは、迎える側にもあるし、帰る側にもある。ふだんから顔を合わせていれば、このクソババアみたいな、いつもの付き合い方ができるのに、中途半端に帰ってくるので、親しみの向け方が分からないのだ。だから、一度、カミシモを脱いで、ということは一回喧嘩で爆発して、それからいつもの近接した関係に入る、という過程を踏む必要があるのではないか。田舎の人間のほうが、もっと上手い、逆に言えば冷たい付き合い方をしている、と言えるのだろうが。



23 顔のないヒトラー(T)
なぜ、この映画を見ていなかったのだろう。恥ずかしいかぎりである。扱われるのは、まだアイヒマンが捕まっていないときのドイツだ。ドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルク裁判で決着している、アウシュビッツなど今さら掘り起こすな、という圧倒的な世相の中で、ひとりの検事が膨大な資料を読み込みながら、何食わぬ顔で生きている虐殺者たちを暴いていく。自らの父親もナチだったことを知って気持ちが揺らぐが、また復帰する。検事総長ユダヤ人であることが大きい。本来であれば、アイヒマンはドイツで裁きたかったが、イスラエルの協力を仰いだことで、エルサレムでの裁判となる。医師でありながら残虐行為を繰り返したメンゲルは、南米にいたが、何度もドイツに偽名で戻ってきている。政治的な配慮で、野放しになっていたのだ。イスラエルも小国ゆえに余りしつこく追えない、国連もうるさい、ということで、メンゲルはパラグアイで死亡する。アーレントアイヒマンは特別ではない、といったとき、大変な批判を浴びたが、これにもやはり一般人は強いられてナチに荷担したのであって、アイヒマンとは一緒にするな、というのが背景にあったのだろう。アーレントは、アイヒマンをbrainless と表現している。あの過去を反省するドイツにしてこうだったのか、結局は、どんな大きな事も個人から動きが始まるのだ、ということを思い知らされる映画である。かつて、アメリカにサリドマイド被害が広がらなかったのが、一人の女性の疑心からだったように。


24 シャーロックホームズ 忌まわしき花嫁(T)
本編の前に、いかに舞台装置が精巧か、という説明篇がある。そして、映画が始まるが、時間を行ったり来たり、それに訳の分からない、宿敵といった感じの男が突然出てきたり、これは前作などを知らないと意味が取れないのではないか。イギリスでテレビ放映され、それを劇場版にしたらしい。謎解きもほとんどホームズではなく、ワトソンの彼女がやってしまう、といった中途半端さである。本編のあとにおまけが付いているが、10分そこそこで見るのを止めた。


25 マイ・ファニー・レディ(T)
ピーター・ボグダノビッチ監督の7年ぶりの映画らしい。彼の「ラストショー」「ペーパームーン」は名作である。今度のは喜劇で、それも古い匂いをさせた良質なコメディにしようとしたものと思える。タイトル文字から、そういう遊びをやっている。しかし、映画をややこしくし過ぎたようだ。コールガールを主人公にした劇に応募してきた女が元コールガールで、審査する演出家がそれこそ彼女のお客で、3万ドル上げるから今の商売から足を洗え、と奇特な提案をしてくれた男で、その言葉で奮起して彼女はオーディションに臨んだのである。しかし、3万ドルを譲られたのは彼女ばかりではなく、デパートに行ってもいるし、そもそも娼婦連の胴元の女も、もとは演出家から貰った3万ドルが資金になっている。そのことが妻(キャスリーン・ハーン)にばれ、その妻に言い寄る男優も演出家と同じく娼婦好きで、と輪廻は回るのである。精神科医を演じたジェニファー・アニストンが太ったのが残念、彼女にはああはなってほしくなかった。コールガールは彼女の患者の一人で、元彼氏が劇の脚本家である。コールガールの母親がシェリル・シェパードで、容色の衰えは隠しきれない。「タクシードライバー」で見せた高慢ちきで、スノービッシュな彼女が最高だった。娼婦好きの男優がリス・エバンスで、スパイダーマンで爬虫類に変身した博士を演じていた。この優男がなかなかいい。コールガールがイモーゲン・プーツ、しゃべり方、歩き方、妙な間抜け感があって、面白い。エイミー・アダムスに似てるかも。彼女にぞっこんの判事をオーステイン・ペンデルトンという老優がやっているが、右肩を上げるようにして、腕がきちんと伸びないで、不明確な発音をする。この人は味がある。ほかで見た記憶がないのだが。ラストにタランティーノが出てくるのはお愛想である。ボグダノビッチは今年、新作予定が目白押しである。


26 日々ロック(S)
二階堂ふみで見た映画で、よく途中で投げ出さなかったものだ。彼女がアイドルとして歌うシーンはとてもかわいい(何だかTVーCMでも踊っている?)。前は宮崎あおいに似ていると思ったが、もうそうは感じなくなった。主人公のロッカーがつねに前傾姿勢で、ほとんど言葉をしゃべることができない、という演出は面白い。若者向け映画で、こういった奇妙なテイストで仕上げるものが多いように思う。予告編でしか見ないが。それにしても、それで客が入っているとも見えないのだが。病室で横たわる二階堂は不憫というより、当たり前の映像になっているので、かえってつまらない。


27 スティーブン・ジョブズ(T)
ファスビンダーとは配役の妙である。ほぼ室内劇で、スラム$ドッグを撮った監督ならお手の物であろう。フォーカスしたのは、すべてジョブズの新作発表会。その裏で、家族の問題、アップルからの追い出し劇、過去のガレージの映像などが挟まれていき、さてジョブズの勇姿が見られるぞ、と思うと、次の発表会へと移っていく。少なからずストレスが溜まっていく。それにしても、言葉、言葉、言葉である。よくボクシングのように戦わすというが、たしかにお互いに血を流すほどに言い合っている。それなのに、和解の道がまだ残されている、という不思議。ジョブズ入門としてはほんの表層をなぞったものだが、きっちり時間内は楽しませてもらった。それにしても、彼がプレゼンで押しだしたアインシュタインボブ・ディランジョン・レノン、モハメッド・アリ、キング牧師ピカソ、どれもまあ分かりやすいイコンばかり。パソコンは芸術だというジョブズの底は意外と浅いか。


28 ディバイナー(T)
有楽町の映画館で、ここで見るのは2回目である。divinerって何だろう、である。両手に細い鍵型のものを持って、2つのクロスしたところに水脈がある、ということを占う卜者のことである。オーストラリアの農夫はそうやって水を探すのだろうか。彼は勘のはたらく人らしく、戦地のトルコで死んだ3人の息子を探しに行き、見事に埋まっている場所を突きとめる。そのときは道具は使わないが。ときは第一次世界大戦、なぜトルコにオーストラリア軍が出張ったのか調べていないので分からない。戦争が止んでいるのだが、ギリシャ軍が押し込んできたり、イギリス軍が居座っていたり、トルコという国は一次世界大戦後、大変な苦難の道を歩んだようなのだ。主人公をラッセル・クロウ、彼が監督もやっている。ドンパチあり、恋あり、家族愛あり、(息子を殺した側の軍幹部との)友情あり、喧嘩あり、音楽あり、必要なものはすべて、しかし無理なく処理されていて、ラッセルおじさん、なかなかやるな、という出来である。旦那が戦死している宿屋兼民家の主婦は、007「慰めの報酬」に出たオルガー・キュリレンコである。ウクライナ生まれである。終わってタイトルが流れると、突然、アメリカンポップスに切り替わるのは止めたほうがいいのでは。中東の音楽でいいではないか。


29 Dear.ダニー(S)
アネット・ベニングで見た映画である。アル・パシーノが汚い感じの爺さんになっていて、見ていて辛い。昔、彼宛にジョン・レノンが書いた手紙を雑誌編集長が渡さず、高値で売ってしまい、ようやくウン十歳のパシーノに届く。クスリと酒に溺れる男が一大変心、ほったらかしだった息子に会いに行く、という話。ベニングは田舎のホテル長という立場、スーツを着て、メガネをかけて、ちょっと堅いレディを演じている。懐メロ歌手として生きているダニー、さてウン十年も書いていなかった曲が書けるのか、書いてもそれを発表できるのか。ベニングは今年はどれだけの映画が来るのか、怖いくらいである。


30 カンフージャングル(T)
ドニー・チェン主演、最後の20分くらいか、高速道(?) のうえで繰り広げられる戦いは迫力がある。途中途中でワイヤーアクションが露骨なところがあって残念である。久しぶりの香港映画で、間の抜けた、明るい広東語(?)が懐かしい。女刑事(警部?)をみんながイエス・マダムとうるさいほど口にする。


31 マネーショート(T)
原題はthe big short だから大損みたいな感じだろうか。誰が損をするのかといえばお金もないのにサブプライムなどとおだてられて家を買った人々である。細かく債権を証券化して、政府お墨付きの格付けをすれば、いつまでもみんなが潤っていられる――などといったまやかしを誰もが信じていたらしいし、考案したスマートヘッドたちも自信過剰なくらいにその楼閣を疑わない。だからこそリーマン150億ドルの損失といったばかげた事態にまで立ち至るのだ。アメリカから欧州に波及し、日本は埒外かと思っていたら、グローバルに組み込まれた以上、知らぬ顔を続けることはできなかった。


変な映画で、3つのチームがサブプライムはバブルに陥っていると喝破し、逆張りを始める。サブプライム関連株が下がったら儲かるという方に賭けたのだ。一人は独立系の投資家、これをクリスチャン・ベイルが演じている。彼は室内から何時間も出ずに、バブル崩壊のシナリオを投資家に向けて発信し、資金を募る。もう一人はリーマン傘下の投資家集団だが、資本主義の悪に愛想を尽かしている男スティーブ・カレルが演じている。彼を下げ相場に誘惑するのが、投資会社に勤務するライアン・ゴズリングで、切れ味鋭い演技を見せる。そして、お金持ちになりたい2人組が謎の資産家ブラッド・ピットと組んで、やはり下げ相場に投資をする。実はこれら3チームが組んで事が進むというのではなく、勝手にそれぞれが崩壊する経済の中でうごめき回るのを繋いでいくのである。話が経済の話だし、3つも別のストーリーが展開するという荒技の映画だが、楽しんで見ることができた。ただ、やはりなぜサブプライム信仰があれだけ強固だったのか、図を入れてでも説明が欲しかった。登場人物が観客、つまり我々に語りかける古臭いスタイルは、たしか「アーティスト」でやっていたのではなかった。ややこしい話のときに有効な感じがする。


32 トランスポーター・イグニッション(S)
ステイサムの新作が来ないと思っていると人気シリーズの役者替えである。ラッセル・クロウ似のお父さんが出てくるが、うーんアクションものでお父さんね、である。まあ元スパイのお父さんだから、2回、拉致されるだけで、足手まといにならないけれど(笑)。主人公の顔がいかにも冷たいヨーロッパ人で、なじめない。体型も少し細い感じがする。敵の船に移ってからは、ほぼ迷路に入り込んだような筋のなさ。これはもう続編はないのでは。クルマにいろいろな仕掛けはボンドでたくさん。


33 ゴッドファーザー(S)
何度目になるだろう。今回はダイアン・キートンの起用とシチリア娘との対比を考えたい。パシーノ演じるマイケルはいつも身体をはすかいに保ち、しゃべるときも人に身を寄せて小声でしゃべる男である。小柄であることを隠そうともしない。しかし、決断したときは非情であり、所期の目的を貫徹する。その彼が選んだのはシチリアのおぼこ娘である。初見でマイケルは結婚を申し込んでいる。そうでないと、彼女の父親に許しを貰えないからである。その情熱的な彼女が爆殺されてNYへ戻った彼がキートンに結婚を迫る。音沙汰なしに放っておいた女に、である。シチリアの女と正反対といっていい女である。教師であり、理性の人のように見える。この女性をもっと強い女性に描く手はなかったのか。そうすれば、シチリア女との違いが際立つし、新しいマフィア家族の前途多難ぶりが予想できて面白いのではないか。キートンのフィルモグラフィでは、この映画が2作目ある。彼女を見つけてきた目利きがいるのである。


34 リリーのすべて(T)
トム・フーパー監督、「英国王のスピーチ」「レミゼラブル」を撮っている。主演エディ・レッドメン、「博士と彼女のセオリー」でホーキングを演じた役者さんである。007スカイフォールで若きQを演じたベン・ウインショーが同性愛者の役で出ている。1920年頃に性転換を望んで、2回目の手術で死んだリリー・エルベ(エルベ川から採っている)を扱っている。夫婦共々、オランダの画家で、夫は生まれ育った地ヴァイレだったかの地の4本すくっと並んだ川辺の木をいつも題材にしている。妻の絵は画商の気を引かないが、夫に女装させて描いた絵が評判を呼ぶようになる。その一方で、夫の女性性が目覚めてくる――という話である。そのヴァイレだかの風景が圧倒的に美しい。北欧とか北英などの風景は寒々として、本当にきれいである。ラストシーンで、川を見下ろす絶壁の上に妻が立ち、長いスカーフが風に飛ばされ、まるで凧のように舞う様子をじっくり撮すのはグッドである。初めて女装で外に出るところ、肩が張って、大柄なので、やはり男性性はぬぐい難い。劇が進行すればさして気にならなくなるが、男性であったときの方が美しいのではないか。その怪しさはただものではない。妻の描く絵がモダンで、もっと写実的であればいいのにな、と思った。それでは画商は買わないのだろうが。


35 100円の恋(S)
武政晴という監督で「イン・ザ・ヒーロー」というのを撮っている。エンタメ映画らしいが、この100円もそう。典型的な進行で、家で邪魔者になって諍いが絶えない女は「てめぇこの野郎」などという言葉を使う。働くコンビニではほとんど会話もしないで押し黙った女で、愛する男の前ではおどおどする女である。それが、部屋から男が出て行ったことで、ボクシングを始める。ぼーっと太った身体からキレのある身体への移行をスッとやるところがこの映画のミソである。実は前兆はあって、離れて立つ男に100円玉を渡すところで意外と動きが速いのである。冒頭にのたのたと自転車を漕いでいた女とは思えない。さて試合ではぼこぼこにされた女は、先のバラバラの3タイプの女をどうまとめていくのか。自立した女? いや分からない。この監督、周防正行並のでき上がりのいい作品を量産してほしい。


36 ルーム(T)
先のアカデミー賞で何か賞を取っている。主演女優賞と何か。17歳で誘拐、監禁された女性が24歳になって、5歳の子の誕生日を機に脱出を図り成功する。子どもは意外と下界に慣れるのが早いが、大人は逆に心理的なブレーキがかかる。離婚した両親、孫の顔を見ようとしない祖父、周囲の気遣い、逃した青春……しかし、またしても彼女を子どもが救うことに。異常な設定で始まりながら、あとは意外と収まるところに収まった映画で、期待外れのところもある。女優がプリー・ラーソン、祖父がウイリアム・H・メイシー。監督がレニー・アブラハムソン、脚本が原作者(『部屋』)のエマ・ドナヒュー。


37 ボーダーライン(T)
メキシコの無法地帯にCIAがあるミッションを展開し、それにFBIの2人の捜査官(?)が選ばれる。途中まではそのミッションの真意が分からない。静かな謎の南米風男は誰か? かなり経って、謎の男が前の麻薬の支配者で、自分の妻子を殺された復讐で部隊に加わっていることが分かる。現時点のボスを殺せば、旧の秩序立った支配に戻ることになる。それがCIAの狙いである。この時点で、この映画のリアルな緊張感がなくなってしまう。ウソごとの世界に入ると、謎の男はスーパーマン的な働きをする。しかし、謎の男ベニチオ・デル・トロは魅力的である。白目が多く、声がソフト。またオファーが増えるのではないか。女優が「砂漠でサーモン・フィッシング」「アジャストメント」などで見ているエミリー・ブラント、そして野性味のジョシュ・ブローリンである。監督がドゥニ・ビルヌーブでカナダ人、『ブレードランナー』の続編を撮っている、というのは本当か。


38 マジカルガール(T)
話題の映画、というか話題先行の映画である。いわく、映画的な快楽に満ちている、すべては少女のマジックだった、などと。どれもアテが外れている。いい加減で、おざなりで筋が進むが、頭とお尻だけは帳尻を合わせている、という不思議な映画で、きっといい加減さもおざなりも計算づくなんだろう。少女、および少女の友達3人は日本名を持っていて、少女はなんだか知らないが日本の女性歌手のポップスで踊りを踊っているし、セーラームーンのファンでもある。ある意味、ラストなどは残酷な映画で、すべての基になるバルバラという女はいったいどれほど魔性の女なのか。そして、彼女の踏み込んだヘビの部屋には何が。別に監督は何も考えておらず、ヘビの部屋は恐ろしいという記号さえ届けばいいのである。ふてぶてしい監督である。それにしても、高齢の殺し屋の、らしからぬ違和感。それも計算づくか。


40 王将(S)
1963年、伊藤大輔監督、主演三國連太郎、妻小春淡島千景、宿敵関根名人平幹二朗、娘三田佳子など。この映画、傑作ではないのか。関根7段にブラフの手で勝ったものの、娘に恥ずかしくないかと痛いところを突かれ激怒するも、自分は修業が足らん、とそれまで邪険にしていた女房の妙見信仰に目覚め、海の波に腰まで浸かりながら「南無妙法蓮華経」と唱え太鼓を鳴らすシーンが必要以上に長い。しかし、迫力がある。最後、女房が危篤の床にある。一方、坂田は関根の名人就位式に東京に挨拶に出かけていて、その会場に娘から電話がかかってきて妻の症状を知らされる。坂田は電話を母親の方に向けろ、と娘に言い、一心に南無妙法蓮華経を唱える。またこのシーンが長いが、やはり迫力がある。坂田は草鞋づくりが仕事だが、生来の将棋好き、大会参戦には参加料が要るが、もう将棋は二度としませんと妻に誓いながら、妙見さんの厨子まで質屋に入れるような男である。小春はとうとう夫の好きなようにさせよう、そのかわりプロの将棋指しとなって名を挙げよ、と坂田を引き締めていた手綱を弛める。ここまでの展開も鮮やかで、女房なしに人生を渡れない男が、魔が差したように将棋にのめり込む様子がテンポよく描かれる。実力では坂田が上、しかし風格、識見は関東の関根が上、名人を関根にという声が高いが、関西は二人名人を画策する。坂田は将棋に意見を聞く、と言って盤から目を離さない。そして、とうとう自ら関根に軍配を上げる。文字も読めない坂田に実力と人格が備わった瞬間である。巻頭に祭りを俯瞰で撮った映像で始まるが、ほんの瞬間丹波哲郎が映る。そのあと、霧が立ちこめたような映像に変わるが、それは機関車の上げる煙で、ラストも坂田がこの煙に巻かれるところでエンドとなる。伊藤監督は48年にも同題の映画を撮っているが、それが阪妻で、映画のセットは同じではないか。確かめた訳ではないが、右に低地にある長屋、奥の行き止まりが崖なのか、下の方に機関車が通るらしい、その感じもどうも以前に見たことがある、と思ったが、きっと阪妻の映画で見ているからではないだろうか。


41 スポットライト(T)
ボストングループのスポットライトという調査報道のチーム4人が聖職者の性的虐待を暴く過程を描いている。ひと頃アメリカでよく聖職者のその種のニュースが多いな、と思っていたが、発端がグルーブだとは知らなかった。淡々と進む映画で、事実に余りにも忠実だったために面白みに欠ける。ユダヤ人の局長をリーブ・シュレイバー、部長をマイケル・キートン、部員をマーク・ラファロ、ブライアン・ダーシー・ジェイムズ、レチェル・マクアダムズ。今年の作品賞、脚本賞である。6%にあたる聖職者が性的な虐待を犯している、という恐るべき事実。それを長く隠蔽してきた宗教界、マスコミ、司法、そして一般の人々。いかにマスコミの役割が大きいかが分かる。


42 さらば冬のかもめ(D)
原題はThe Last Detailesで、たった40ドルを盗もうとした若き海兵隊員をノーフォークからポーツマスまで護送する話である。男は18歳で、福祉好きの隊長夫人が設置したポリオ障害児のためのボックスから金を盗もうとしただけなのに、8年の懲役とその後の除隊が課せられた。選ばれた2人の男、一人はジャック・ニコルソン、一人は黒人で、どちらも長く海軍に勤めようと思っている。次第に3人に妙な友情が芽生えるが、最後、男が逃亡しようとしたときに、必死に2人は止めて、結局は目的地にまで連れて行く。班長を「ハンチョー」と言ったり、途中で創価学会に集う人々の「南無妙法蓮華経」を男が真似てみたり、変なジャポニスムが入っている。ハル・アシュビーという監督である。


43 さざなみ(T)
久しぶりにシャーロット・ランプリングの映画を観た。もしかして「スイミング・プール」以来かもしれない。今度の映画、よく客が入っている。映画評がたくさん出たからだろう。イギリスの静かな片田舎で暮らす、結婚45年目の夫婦。あと1週間で盛大な祝いのパーティが開かれる。本当は40年でやるはずが、心臓病で胸を開いたので延期になっていた。そこに一通の手紙が届き、夫の若き日の恋人がスイスの氷河に氷り漬けになったまま見つかったという。2人で登山をしたときに遭難にあった、ということらしい。それが冷凍保存されて見つかった、という。夫は見に行きたい、と言う。実際に旅行会社に相談に行っているが、妻は反対する。そして、次第に2人の親密な、あるいは停滞した世界に別の要素が忍び込む。夫への不信という消しがたいシミが広がっていく。夫は夜中に起き出して屋根裏部屋で何かをしているらしい。それを確かめに行く妻。そこで見つけたのはポジ写真とその映写機で、映し出されたのは妊娠している一人の女性。彼女とは友達として一緒に旅行していただけで、彼女のしていた指輪は何かの木でこさえたもの、との夫の言葉には裏切りがあったことになる。パーティの日、2人は結婚式で踊ったのと同じ曲で踊る。しかし、次第に妻の表情は曇りを増し、最後にはピンと夫の手を放してしまう。そこで映画はエンドである。このラストシーンのランプリングの表情の変化は見物で、恐ろしいシーンである。彼女は70歳だという。監督アンドリュー・ヘイ。


44 海街ダイアリー(S)
緩い映画で、それが観客を呼んだ理由かも知れない。緩いを安定感がある、と言ってもいい。一応、女と逃げた父の死、長女と次女の失恋、父が出奔してつくった4女の落ち込み、12年も会わなかった母の一時的な帰還、いつも行く食堂の女将の病死、といった波乱はあるが、さして大きな波を起こすわけではない。それは、仮の家父長である長女によってすべてが統率されているから、ということになるのか、あるいは監督がそもそもそういうエネルギーの映画を撮るつもりだった、ということなのか。一方で、日本の家族もここまで崩壊したのか、という感慨もある。もう小津が危惧した段階は明らかに越えている。


冒頭、女の足指の見える映像から始まる。その足があまりきれいに見えない。カメラが身体を這い上がって2人の人間の顔を捉える。その右側の壁に淡彩の、女性が両手を緩く上げている絵がかかっている。なかなか趣味がいい(しかし、後で分かるように、その部屋の持ち主である若者はやくざに銀行口座を解約させられるような男で、そういう絵を掛ける人間には見えない。女が買ってきてあげた? しかし、その女にもそういう趣味がなさそうなことは、後で分かる)。その女が恋人に投げキスをして外に出たところで、海とその脇の、低い壁に守られた道路が見え、タイトルが映し出され、情緒的な音楽が流れる。もうだいたいそこで映画の気分が伝わってくる。女は3人姉妹の次女で、古い造りの2階屋の家に朝帰りである。玄関を入ってすぐに竹を細工した生け花差しが据えられているのが見える。その左壁には抽象画のような小さな花の絵が掛かっている。正面には何か人物面が掛かり、台所(風呂場?)へ行く廊下の上には違うタッチの絵が掛かっている。もちろん居間に行けば、また違う絵が掛かっている、とうい具合に、あちこちに意匠が凝らされているが、この古風な趣味を支えているのは誰なのか、判然としない。絵は両親、あるいは祖父母(これも父方なのか母方なのか判然としない)のそれかもしれないが、どちらも教師で絵を買うような趣味があったのか。あるいは、日曜画家という設定か。では、古風に花を活けたのは誰か。


山形鰺ヶ沢で父が3人目の妻の傍らで死んだ、という知らせが来て、次女と3女が葬式に出かける。そこで4女に会うが、実にしっかりした子である。来れないはずの長女もやってきて、別れの電車で突然、うちに来ないか、と長女が申し出る。長女はすぐに返事をし、嬉しそうに両手を振り上げて去って行く姉たちを見送る。その途中の会話で、父親の3人目の妻はろくな介護をしていない、病院に来ても10分といなかった、と言う。どこからの情報かと思うと、次女が「さすができる看護師」みたいな言い方をする。長女の邪推のようだ。長女は4女に向かって、あなたが介護を尽くしてくれたのね、とこれも憶測で断定する。いったい何だろう、この緩さは。


箸の上げ下げまでうるさい長女に綾瀬はるかという異色な取り合わせだが、これが何とも違和感がない。さすが、と言うべきか。その長女の脇で、膝を立てて食事をする次女に注意を与えない。何か科白の演出との絡みなのか、何拍か遅れるかたちで長女が注意を与える。ここも、緩い。長女が恋人(堤真一、妻あり)の部屋でポテ皿を作り、テーブルに持ってくる。そのテーブルが不釣り合いに背が高く、堤の脇の下ぐらいまで机の上面が来る。かたや綾瀬は座布団に正座するので違和感がない。このサイズ間違いのテーブルのセッティングは何の意図があってやっているのか。


ぼくは谷崎の「細雪」を知らない。映像が少し頭にあるだけだが、何かそういったものを下敷きにしながら撮っている安定感を感じる。特に、ラストの海辺のシーン、4人姉妹がタテに並んで砂浜を下るシーンなどにそれを感じる(小津的な構図でもある)。こういう絵を撮りたかったのね、である。華やかな4人姉妹、その細やかな感情の起伏を追って、1編の映画に仕立てていく。ある種、是枝の成熟した姿がここにある。蛇足だが、「奇跡」に出ていたまえだまえだの弟が4女に思いを寄せる男子として出ている。


45 曲がれ、スプーン(S)
監督本広克行、湾岸警察などを撮っているが、ひどい。長澤まさみ主演。


46 ハスラー(D)
何度目になるだろう。いくつか新たに気が付いたことを。ポール・ニューマンミネソタ・ファッツという難敵に挑むが、「シンシナティキッド」でマックイーンはE.Gロビンソンと戦う。どちらも闇の世界のエスタブリッシュメントである。ニューマンの愛するのは年上の女で脚が悪い。大学に通う女で、小説を書いている。アウトサイダーの男に知的な女を配するのは常道と言っていい。ぼくは「波止場」あたりを思い出す。ジョージCスコットが名演で、彼に「生まれついての負け犬」と言われたニューマンが、その言葉をそっくりスコットに返すシーンがある。俺は女を心から愛していたが、おまえにはそれはない、だからおまえこそが負け犬さ、と言うのだが、そんな柔な言葉が通じる相手ではないはずだ。


47 バウンスコギャル(D)
これも何度目になるだろう? やはり名作の名に値するだろう。佐藤仁恵という、奥歯がずれたような、音と口の動きがシンクロしない女優が、やはり抜群にいい。


48 眠狂四郎 無頼控(D)
三隅研二監督、音楽伊福部昭、脚本伊藤大輔、客演藤村志保、すべての造作を固い鼻筋に集めたような顔が懐かしい。この人と藤純子に魅入った我が幼少期よ。大塩平八郎の乱を鎮めた水野忠邦を残党が殺戮しようと企む。その首魁が天知茂で、どういうわけか円月殺法を使う。水野の弟は油屋と結託して新潟の油をせしめようとする。その弟にだまされ、精製の絵図を盗む片棒を担がせられたのが藤村志保である。その弟はいまは油屋の娘と結婚しようとしている。藤村はその恨みを晴らそうと暗躍している、という設定である。男は女性の胎内から生まれる、その女性を責める輩は許さん、と狂四郎はむちゃ原理フェミニストである。


49 花笠若衆(D)
佐伯清監督、主演ひばり、客演大川橋蔵大河内傳次郎。またしても、ひばり二役で、双子の姫君の一人とお嬢吉三を演じる。なぜ貴賤の二役なのか、は以前に考察したが、為政者に世情を知ったうえでまつりごとをやってほしい、という願望が生んだものだろう。それと、女子に男子をやらせることで匂ってくる色気を楽しんだ、ということもあるのではないか。歌舞伎で女形に慣れているから、この逆転変身譚は無理がない。手塚の「リボンの騎士」を持ち出すまでもない。大河内のむごむごとしたしゃべくりの悪さ、語尾に摩擦音がある訛りなど、有声映画ではマイナスのはずが、庶民に愛されたのだから不思議である。橋蔵の明るさには錦之介も敵わない。錦之介にどこか哀愁が添っているのだが、橋蔵にそのかけらもない。「けっこー、コケッコー」とうるさく繰り返すひばりの手下の名は何と言うんだろう。


50 アイヒマンショー(T)
「スポットライト」に賞をやるなら、こっちにやるべきではないか。米マッカーシーで追われたディレクターレーがアイヒマン裁判の一部始終を撮そうとするが、どんなむごい証言にもピクリともしない人間に苛立ちを覚える。彼が人間的な反応をすれば、われわれ凡人もまた同じモンスター的犯罪をおかす可能性がある、と証明することになる。それがディレクターの狙いだが、アイヒマンはついに非人間的であり続ける。アーレントが言った「凡庸なる者の罪」とこのディレクターの意図は重なりあっている。ちょっとした演出のメリハリの違いなのだが、この映画には劇があり、「スポットライト」にはそれはない。事実に忠実ということで褒めるなら、ドキュメントにすればいいのである。


51 巨星ジーグフェルド(D)
有名な興行師の栄華と没落を描いた映画である。スペクタルというのか、大仕掛けで、大人数の歌あり、踊りありの舞台である。スターで持たせるというより集団舞踊で引き付けるという感じか。バーレスクからも引き抜くが、一つ下のクラスという扱いである。1936年の作品で、のちにミネリ監督、アステア、ジンジャー・ロジャーズでジーグフェルド・フォリーズという名で撮られている。スペクタクルの部分が長く、かえって退屈という出来になっている。不倫関係をあからさまに扱っているのが、この時代としては異色かもしれない。


52 ラブアゲイン(S)
突然離婚を告げられた男がバーで見かけたナンパ男から手ほどきを受け変身するが、やはり分かれた女房に未練がある。女房も出来心で浮気しただけ。ナンパ男もある女を真剣に愛することに……ということで、最後は無理矢理感のあるオチに。不倫妻ジュリアン・ムーアがよく出ている。ナンパ男がゴスリング、その相手が顔の半分が目玉のエマ・ストーン寝取られ男がスティーブ・カレル(マネーショートで主役)。


53 傷だらけの二人(S)
ファン・ジョンミンがいい。「ベテラン」での軽く、しかも温情熱い男をよく演じていたが、今回も同じキャラクターである。取り立て屋が仕事先で知り合った女に惚れ、借金を肩代わりする。けんもほろろだった女が次第に心を寄せていく様子を丁寧に撮っている。せっかく二人でお店まで持とうとしたときに、暴力事件で刑務所に。どうもその後の処理がうまくいってないので、前半の面白さがなくなっていく。ほかにも彼は良さそうな映画に出ているので、探して観てみようと思う。


54 寅さん・木の実ナナ(S)
さくらの幼なじみが木の実でSKDという設定、たしか倍賞自身がその出身のはず。武田鉄矢が「黄色いハンカチ」と同じようなキャラクターで出ている。地方に行くと寅は先生扱いにされることが多いが、寅には短期間であれば人にそう思わせるものがある、ということだろうか。一方で、素朴な地方人をバカにしている、と言えなくもない。なにしろ東京柴又のちゃきちゃきという設定である。木の実にどこかで聞いたような歌を歌わせたり、ちょっとサービスしすぎではないだろうか。


55,56 晩菊、あらくれ
成瀬なのでその項に譲る。


59 マンガをはみだした男赤塚不二夫(T)
アシスタントをたくさん雇ってマンガを量産(?)した赤塚は、「レッツラ・ゴン」のあと、弟子達が巣立ちしたこともあって、マンガに精魂を込めることができなくなった。テレビに出たり、変なパフォーマンスを繰り返したり、それこそマンガのような人生を歩み始める。ぼくは、アル中になった彼のことを記事で読んだぐらいの知識しか持っていない。ぼくは「少年マガジン」派なので、彼の作品に触れる機会はほとんどなかった。他誌の「おそ松くん」を覗いても、一度も笑ったことがない。少年マガジンには「まるでダメ男」があったので、それで十分だった。このドキュメンタリーは、録音が悪く、インタビューの中身がよく聞こえなかった。それと、ときおり赤塚の声も流されるのだが、それも聞こえが悪く、やんちゃなオジサンがいたんだ、ぐらいの感じである。残念だが、そうとしか言えない。


60 ワイルドギャンブル(S)
賭場で出会った男2人が妙に気が合って、大金を稼ぎに旅を続ける。男が幸運の女神という異な設定である。若い男は小さい頃、芝刈り機で過って妹の指を3本落としてしまう。父親はその仕返しに1本の指を切った。そういう過去を持った男である。年輩者は博打のせいなのか、妻子と別れている。そういういわくのある2人が幸運を掴めるか、という話である。ライアン・レイノルズは「そしてあなたは私のムコになる」に出ていた。もう片方のシェナ・ミラーは上唇を少し噛んだような発音が記憶にあるが、映画は思い出せない。


61 アメリカンプレジデント(S)
アネット・ベニングが環境派NGOの人間、彼女に一目惚れするのが独り身の大統領マイケル・ダグラス。ダグラスはしんどいなあと思ったのだが、なかなか堂に入っていた。補佐官だかにマーティン・シーン、政策担当なのかマイケル・ZJホックス。ベニングには見とれてしまう。


62 ヘイル、シーザー(T)
大きな映画館で観客1人、初めての経験である。小さいところでは「オールドボーイ」で経験している。コーエン兄弟の新作、久しぶりだが、楽しめました(「インサイド・ルーウィン・ディビス」以来)。なんだかウッディ・アレンの映画を見ているような感じである。キリストを扱った映画が進行しながら、その主役のローマ軍の将軍(ジョージ・クルーニー)が誘拐される。コミュニストの脚本家たちが犯人で、身代金をソ連に貢ごうとする。スカーレット・ヨハンセンは身の下の緩い女優で、またしても婚外子をつくる。このだらしないヨハンセンは見物である。西部劇の主役から室内劇のシックな映画に転用された俳優はなかなか巻き舌の発音が直らず、監督に理性を失わせる。そういうトラブル処理一切を仕切っているのがジョシュ・ブローリングで、彼自身は手腕を買われて大手航空会社からの引き抜きの話がある。いつも相手と会うのは、背景に金魚槽に金魚が動く日本料理屋(?)である。彼は結局、愛すべき屑どものハリウッドを選択するのである。ソ連の潜水艦が出てきたり、ヨハンセンの水泳映画では海中の撮影ありで、贅沢である。ハリウッドを否定的に描いたものでは初期の「バートン・フィンク」があるが、今回はそんな気配などまったくない。何か西部劇への郷愁のようなものが感じられる。


63 ファーゴ(D)
やはり名作である。映像がきれいなのはもちろんだが、話の端折り方がスマートなのである。ブシュミとピーター・ストーメアの悪党がモーテルで映らないテレビを見ていると、場面転換でベッドで昆虫のTV画像を見るマクダマン夫妻へと転換する。マクダマン夫妻がレストランで食事をし、口をもぐもぐやると、ウイリアム・M・マーシーの義父の顧問弁護士の口もぐもぐに転換する――といったことをいろいろやっている。雪の降り積んだ駐車場にクルマが入ってくるところは、相変わらず美しい。カリグラフである。カメラはロジャー・ディーキンである。残酷な殺しと美的な映像、そして食べ物。夫婦2人が警察署のオフィスでハンバーガーを食べるところでは、マクダマンが夫の釣りのために買ってきたミミズののたうつ様まで写す。コーエン初期の作品だが、この完成度は驚異である。


64 サウスポー(T)
冒頭から圧倒的である。殴られないと燃えてこないボクサーがどう変身していくのか。たった1試合に負けただけで、なぜすべての財産がなくなるのか、よく分からないが、養護施設に預けられた娘のために再起を誓う。覚えたのはディフェンスのボクシングと、とどめのサウスポーである。ギレンホールは「ムーンライトスマイル」が最初だったと思うが、繊細な青年が筋骨隆々のボクサーとなっては、驚くばかりである。妻がレイチェル・マクアダムズ、「スポットライト」の女性記者で、セクシーな姿態を見せる。ウィテカーがしがないジムを経営しているが、彼は頭脳派トレイナーでもある。その助力を仰いで、もう一度、リングに戻るのである。「ミリオンダラーベイビー」のイーストウッドの引き写しである。ボクシングを頭脳的にやる名コーチである。しかし、身を守ることを第一に考えるので、チャンピオンをつくることができない。この映画、長く語り継がれることになりそうだ。


65 マイケル・ムーアの世界侵略(T)
アメリカに無いものを求めてイタリア、フランス、アイスランド、ノルウエー、フィンランド、スロベキア、チュニジアポルトガルなどへ出かけて、いいち知恵を“侵略の成果”として持ち帰る。ノルウエーでは囚人に一個の家を持たせている。ポルトガルはドラッグや覚醒剤で罪にならない。チュニジアは女性が民主革命を導き、その後も権利獲得に力を発揮した。アイスランドリーマンショックで大打撃を受けたが、女性の経営する銀行だけが生き残った。世界で最初の首相も生んでいる。スロベキアは大学は外国人でも無料である。フィンランドは宿題がなく、昼食は4種の料理が出て豪華。イタリア、フランスは有給休暇、産休など手当てが充実し、経営者もその方が生産性が上がる、と言う。はてさて、ムーアがこの日本に来たら、何を侵略してくれるだろう?


66 女諜報員アレックス(T)
007の「慰めの報酬」に出ていたオルガ・キリレンコがアクションに挑む。既視感が強い。キリレンコのキャラクターも、知的な悪党(だが魅力がある)も、仕掛けも。それにしても、CIAを辞めて泥棒をしている女が諜報員だろうか? いちばんの黒幕(モーガン・フリーマン)を倒さないでどうする? である。拙い英語の女性がアクションの主役を張る。これは新しい。


67 マネーモンスター(T)
これも既視感が強い。番組が始まるまでの騒々しさと気の利いた掛け合い、ビルから立ち退く人々の映像、迫真のテレビ画面を見つめる人々(それを繰り返し写す。観衆の代表というわけである)、キャスター(ジョージ・クルーニー)と犯人との中途半端なやりとり。落ちた株価を上げてみせると言ったものの、さして人々の共感を得られなかったあとのクルーニーの演技が平坦すぎる。ここはもっと何かあるべきだろう。最大の欠陥は、仕組まれた経済犯罪だとまったく知らないキャスターが瞬く間に裏事情まで知った人間に変身することである。耳にイヤホンをはめたのは、テレビ会社から出て証券取引委員会ビルへと歩く途中であり、一切、局内で交わされている捜査の内実を知らなかったはずである。監督ジョディ・フォスター。番組ディレクターがジュリア・ロバーツ。この映画もまたバーニー・サンダースが出現した意味を教えてくれる。


68 ランナウェイズ(S)
女子ロックバンドが成功して仲間割れする。もともとの言い出しっぺはまたチームを組んで、どこでも断られた曲を自作で出し大ヒットする。実在のグループを扱った映画である。映画自体は起伏のない平凡なものである。


69 プリティウーマン(S)
ジュリア・ロバーツの顔が一回り小さい気がする。シンデレラ物語で、金持ちのリチャード・ギアなどいい気なものである。娼婦はキスしないというのは本当か。ホテルのフロア長(?)が味があっていい。何かの映画で悪党をやっていた人ではないか。ヘクター・エリゾンドという名前である。


70 10クローバーフィールドレーン(T)
室内劇+宇宙侵略もの? ほぼ4分の3は室内、ジョージ・グッドマンが異常なのか善の人なのか。中も地獄、外も地獄で、結構簡単に主人公の女は敵を打ち倒す。前作があるようだが、こういうこけおどしものか。登場人物が4人だから、ほかに金を使える。でもなあ……。


71 ランナー、ランナー(S)
日本未公開らしいが、いい作品である。何に出ていたか思い出せないが、ジャスティン・ティンバーレイク主演、それにベン・アフレックが出ているが、なかなか存在感のある悪党を演じている。バーチャルカジノに不正がある、というのが発端だが、アメリカでは本当にこんなことが起こっているのだろうか。


72 レジェンド(T)
トム・ハーディが2役をやっているが、まったくどうやって合成しているのか分からない。ロンドンを支配するギャングスターが双子で、一人は頭が切れ、一人は頭が切れすぎて病院に入るタイプ。ハリウッドでもジョニー・ディップとカンバーバッジ兄弟の血の濃さを扱ったギャングの内幕物があったが、やはりアングロサクソンの血は争えない。ドンパチとは違う泥臭い殺し合いの映画に移りつつある。それはアジア映画の明かな影響であろう。


73極秘捜査、74鬼はさまよう
「極秘捜査」は「哀しき獣」で圧倒的なモンスター役で印象を残したキム・ユンソクが善良で切れる刑事役を、「鬼はさまよう」は「殺人の追憶」で都会派の若き刑事だったキム・サンギョンが殺された妹のために奔走する刑事を演じている。シネマート新宿で「韓国ノワール特集」だが、もうあの暗いユーモアに溢れた韓国映画は帰ってこない。映画の色も違う。闇の深さが違う。演出が利いていない。「鬼はさまよう」で連続殺人鬼を演じたパク・ソンウンは「新しき世界」で見ている。なかなかいい。獄中で彼を殺そうとする元ヤクザの親分も味がある。


75 ペーパームーン(D)
もう何度目になるだろう。やはり間然するところがない。母親が死んで、唯一の遠い親戚に行かざるをえない少女、その葬儀の場に「顎の線が似た」男が現れる。男は足もとの花を手に取って、それを咄嗟の手向けの花にするような男である。冒頭のこのシーンでほぼ男の底が割れている。死亡欄を見て聖書を売り歩く男の渡世の技がいくつか披露されるが、このディティルは絶対に欠かせない。釣り銭のごまかし方、5ドル札を20ドル札に替える方法、密造酒の売人との駆け引き……。移動カーニバルで見つけた、エジプト踊りをおどる女は金のために寝るはすっぱな女だが、男はそれに気付くことができない。そういう下層の人間なのである(『タクシードライバー』で彼女との初デートにポルノ映画に行ったトラビスのように)。この女のメイド役の黒人娘がいい。二人で示し合わせて、男に女の不貞現場に踏み込ませるシークエンスは溌剌としている。芸達者なティータム・オニールが二度、ベタな演技をするのがおかしい。黒人娘とのやりとりが、それほど自然だったということであろう。紙の月でも信じればそれは本物の月、まさに親子と信じれば、ウソでも親子になるという、見事な出来の映画である。ボグダノビッチは今年、来年と多作の年を迎えそうである。


76 葛城事件(T)
いろいろ考えさせられる映画である。一家の主をもっとモンスターにしたほうがよかったのではないか、死刑反対派の女を登場させないで別の方法はなかったのか、平凡な家族が崩壊するより、そもそもすでに崩壊したものとして家族を描いたほうがいいのではないか……。なぜ通り魔をする人間たちは、家族関係に厳しいものがありながら、その大魔王というべき父親殺しをしないのか。だから、父親が最後に首吊りなどという粉飾的結末を用意しないといけなくなる。映画的な快楽は、長男が朝家を出るのに、ドアの前で家族の「行ってらっしゃい」を待つシーンで、朝に似ず大きな、淡い影がドアに映るところである。これはあとでもう一度繰り返されるが、1回でいいのでは。それと、電源は見せないほうがいい。もう一つは、妻と次女が家を出て、そこを見つけた長男がやっきて、みんなで最後の晩餐に食べたい物は何か、という話をするシーン。母と長男が何かを言い、促されて次男がうな重と答える。いやそれはカツ丼だろう、などと兄が突っ込む。この食事のシーンは、おそらく日本映画の中でも特異なシーンとして残っていくだろうと思われる。三浦友和の暴力男もまあまあだが、『共喰い』の父親光石研には敵わない。資質の問題であろう。


77 帰ってきたヒトラー(T)
ヒトラーが大男となって生き返ってきて、人々はその言行を芝居と勘違いしながら、しだいに以前と同じく取り込まれていく、という過程を追った映画であるが、最近のドイツにおける風潮にヒトラーを容認するものがある、ということである。ヒトラーを引き回してあちこちでインタビューを重ねていく部分は退屈である。テレビ局で番組を持ち始めてからやや生彩を帯びるが、それでも意想外に出るものではない。ほぼ結末も予想できるもので、映画的、つもり映像的に面白いというものもない。


78 駅前弁天(D)
シリーズ14作目、佐伯幸三監督。コメディを期待してコメディのない映画はつらい。伴淳の不倫を森繁の裁きで白黒つける、というシーン。フランキーが不倫相手の女役、伴淳との絡みで、これは面白い掛け合いが見られるぞ、と期待するがまったく笑えない。恰好の場面で為す術がないなど、喜劇人として羞じるべきだろう。藤田まこと野川由美子の情夫で、森繁にセックスを強要されたと脅しに来る。そこに森繁の義弟のフランキーが現れ、藤田と大学の同窓で、歌舞伎研究会にオーケストラ仲間ということで、脅迫の切っ先が突然鈍る。歌舞伎の一景で、フランキーが語り、そこに女形となってしなだれかかる藤田、この動きが素晴らしい。藤田が馬面のネタを松山英太郎(森繁のそば屋の店員)と重ねるが、あまり馬面に見えないから、いまの観客が見ても何の意味かさっぱり分からないだろう。この松山が明るく、声がはっきりしていて、リアクションもよく、なかなか好演である。あとでテレビで活躍した人だったと思うが、いい役者さんである。



79 ボディガー(S)
見たような気でいたが、見ていなかった。それにしてもひどい。レーガン暗殺未遂のときに祖母の葬儀で非番だったことが悔やまれ、シークレットサービスを辞め個人事業に、という設定だが、?である。自分の責任でレーガンが撃たれたのなら分かるが、そうではないのになぜそれほど過剰に責任を感じるのか。クライアントからデートに誘われ、その日にセックスをしておきながら、翌朝、公私混同してしまった、これかぎりにしてくれ、と言ってしまう男とは何なのか? 父親のいるどこか辺地の湖辺にクライアント母子を隠しても犯人は探し当ててくるのだが、それはなぜか、と問うこともしなければ、その執拗な犯人の恐さを描くこともしない。監督もひどいが、コスナーの無表情はやりきれない。


80 あぶない刑事(S)
途中で断念。舘ひろし柴田恭兵もへたっぴで、見ていられない。アメリカの相棒刑事ものを学んだのだろうが、あっちは反目しながら気持ちは一致する、というところに妙味があるのである。こう仲がよくっちゃ映画がしまらない。浅野温子の出番がほとんどないが、これでいいんでしょうか?


81 完全なるチェック・メイト(S)
原題がPAWN SACRIFICE である。チェスの何かの手のことだろう。スパイダーマンのトミー・マグガイアが天才チェッカー(?)、報奨金を上げろ、カメラを呼ぶな、観客を遠ざけろ、何でも好き放題である。米ロの国家間の争いの象徴として使われる。当人たちもその気なので何の問題もないが、いまや王者がAIに負けるのだから、うたた牧歌的な時代よ、と思わされる。頭がおかしくなりながら、だいぶ後年まで生きたようだ。対戦相手のリーブ・シュライバーは最近「スポットライト」でこれまた冷静な新任局長を演じていた。その沈着な彼さえも、座っている椅子がおかしい、などと言い出す。日本の囲碁、将棋のタイトル戦で一般の客をあれほど入れて公開で対戦させるなど考えられない。その重圧たるや推して知るべし、である。ただ、冷静なはずの人間が狂い出したときの演出がいま一つ足りない。それと、拘りに拘って地下卓球場に対戦場所を移したのに、1勝を上げたあとは元に戻す、というのはなぜなのか。細部を作り込んでいるようで、都合の悪いところは省く。ハリウッドならではのいい加減さである。


82 危(ヤバ)いことなら銭になる(D)
中平康監督、主題歌作詞谷川俊太郎宍戸錠が小さな二人乗りのクルマを乗り回す。長門裕之、草薙幸二郎が客演、女優は浅丘ルリ子で、なんだかまだ田舎娘のような印象が残る。妙なふくれっつらをしたり、柔道・合気道ができるというので変な構えをするなど、ハツラツとしていてgood。浅丘にこの路線があったとは、である。小林信彦御大は宍戸錠をえらく高く買うが、その理由が多少は分かった気になる。演技がものすごく軽いのである。日活ものなので非現実的な設定が生きていることもあるが、宍戸のキャクラターがどこにも引っかからない。粘液がひとつもなく、湿り気もまったくない。何かあるとすぐ天を仰ぐような仕草をして、意味を帳消しにする。たとえば、ルリ子と一緒に事務所でひと晩明かす設定で、彼は机の上に、ルリ子はソファに寝袋を敷いてその中に。「変なことをしたら合気道だからね」に「分かりやした」で終わりである。彼の周囲には空っ風が吹いている、という印象である。


83 ペレ(T)
どうもこの種の映画に弱い。涙が止まらないのだ。ブラジルが母国開催の1950年杯の決勝で、ウルグアイに屈辱の負けを味わって(「マラカナンの悲劇」といわれる)、自らの戦法を放棄し、ヨーロッパ型に移行しようとするもののうまくいかない。そこにペレという存在が出現してきた、ということらしい。ポルトガル人がアフリカからブラジルに奴隷を連れて来て、その軛から逃れて森で戦闘技ジンガ(いまはカポネイラとして引き継がれている)を磨き、それがサッカーに流れ込んでいるのだという。ペレは欧州型になじめず、サッカーを捨てて故郷に帰ることまで考えるが、彼を拾った人物(サントスのマネジャー?)から意志を貫けと諭される。自分は欧州人になりたかったという、いかにも見た目もそう見える男はペレの宿年のライバルだが、彼も欧州大会に来て、みずからの出自に目覚める。監督は自分の采配を謝り、ジンガで行こうと選手たちに宣言する。そこから、ペレたちの反撃が始まり、スウェーデンW杯(1958年)で優勝する。父親と母親が人柄がよく出た配役になっている。子ども時代の仲間のキャスティングもいい。プレイをコマ落としのように編集してあって、素人には見やすい効果がある。ペレがスウェーデンのホテルでちょっと顔を出している。


84 拳銃(コルト)は俺のパスポート(D)
全編、ほとんど会話を抑えたハールドボイドタッチで、なかなか成功している。67年の作。銃を組み立てたり、時限爆弾をつくったりの細かいディテールがこの沈黙劇に生きている。この時代の映画にテンポを求めても無理だが、もしちょっとでもそれを意識すれば、もっと面白くなったのでは。監督は野村孝。港の曖昧ホテルに武智豊子、小林千登勢、殺される親分でひと言も台詞がないのが嵐寛寿郎、敵方の親分に佐々木孝丸、マンションの管理人に中村是好宍戸錠の相方がジェリー藤尾。ジェリーを助ける交換条件が決闘、というのは、おかしな話。港湾労働者を治外法権のような人物として扱っている。曖昧ホテルの武智智子は、訳知りの女の役回りだが、小林千登勢に「あんなやくざ者は危ない」式の言葉を吐く。宍戸が殺した親分の組と、仕事を頼まれた組がどういうわけか仲直りして、一緒になって宍戸を追う設定がよく分からない。突っ込みどころ満載だが、まあいいか、である。


85 スター誕生(S)
バーブラ・ストライサンドクリス・クリストファーソンで、A Star is Bornが原題、ひとりのスターが生まれる、という感じ。往年のスター誕生と骨組みは一緒、落ち目のスターが次のスターを見つけ、夫婦となるが、片方がどんどん売れていくのに、自分は取り残され、自暴自棄になる、というストーリーである。あくまで女性は邪念がなく、一本気に男を愛するが、男がねじまがっていく。この映画では、男は大きなコンサートをすっぽかしたり、の前歴が重なり、やむをえない部分が大きい。最後はアルコール飲酒による交通事故死。ストライザンドの歌のうまさは、やはり特筆ものである。胸の開きの大きい服をつねに着ているが、自慢だったのか。彼女が可愛く見えるから不思議である。尻がカワイイとクリストファーソンは言うが、言われてみればそうかもしれない。クリストファーソンの声がシブい。


86 Amy(T)
結末が分かっているだけに、見ているのがつらい。パーソナルビデオとコンサートあるいは録音ビデオで成り立っている映画で、関係者証言はかなり限られている。もう一つ彼女の人間性が見えてこない感じがある。歌詞に私的な思いを綴ったらしいので、歌詞から推測するという変な見方の映画になった。トニー・ベネットを尊敬し、自分で聞く曲がなくなったから、自分で歌い出した式のことをいっている。キャロル・リングも先行者としてリスペクトしている。イギリス出身者がグラミー賞を取っている。