2016年の下半期

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奈良の寺の壁

87 柴又より愛をこめて(S)
栗原小巻式根島の学校の先生で、24の瞳に憧れてやってきたが、年々歳々、若者は巣立っていき、自分を独身のまま取りのこされた感じが濃くなる。そんなときに、タコ社長の娘(美保純)が夫をほっぽらかして出奔する。寅さんに会いたい、というので、寅は下田にやってきて、さらに二人で式根島に渡る。小巻は亡くなった友人の夫(川谷拓三)から求婚され、それに応ずることに。なんとも寂しい話で、全体に映画も盛り上がらない。小巻が寅屋に来て居間でみんなと話すシーン、寅が何か古い話(あるときは何々、あるときは何々、という多羅尾伴内)にもっていこうとするが、調子が出ないのか、あっさりさくらにおしまいにされてしまう。珍しいシーンである。本来であれば、、ひとくさりあってしかるべきシーンである。寅と美保純の掛け合いは面白く、美保純が楽に演じているのが好感である。島の男に言い寄られ、人妻です、と柴又に戻るが、そのあとの言動は夫をさして「あんな男、どうでもいい」式のことを言うので、てっきり島に戻るかと思いきや、そういう展開にもならない。小巻と寅が、小巻の好きな場所というところで話をするシーン。寅が手をかけた長椅子の木材のクギが外れていたのか、すっと浮き上がる。あわてて、寅は小巻に抱きつき、パッと離れ、まるでペンギンのように右左に跳ねる。それがチャップリンの動きなのである。さすが浅草で鍛えてきた人だ。



88 FAKE(T)
人(新垣)に作曲させながら、それを自曲として発表し続けた佐村河内を扱った森達也のドキュメントである。なぜに佐村河内に興味をもったのかは語られない。見ていれば、ほぼ新垣との共作だったのか、という思いに傾斜する。絵画の世界では弟子が先生の名で発表することなどいくらでもある。作家では川端康成はかなりいい加減だったようだ。音楽では、交響楽などでは各パーツの譜面を書くのが煩雑なので、弟子に書かせることはやるようだが、そういう次元の話ではない。思想、構成を佐村河内が考え、細部を新垣が作るということらしい。テープを渡すこともあったようだ。佐村河内の弁護士は、新垣は著作権では争っていない、という。ということは曲は佐村河内に帰属し、テープも何本か弁護士が所持しているようだ。
本作はほぼ佐村河内は耳が聞こえる、聞こえない、に集中した作品といえるだろう。この映画では、かなり聞き取りの難しいレベルだという気がする。医者の診断書では障害者扱いはできないが、難聴の部類(専門用語を失念)というものらしい。マスコミはその診断書の1p目だけ、つまり障害者として扱えず、のところだけだという。しかし、耳が聞こえない、それも長じてから聴覚を失ったことと、音楽の創造性に何が問題があるか分からない。彼らの頭のなかに作品は鳴っているいるのであって、それを譜面に落とせない作曲家という部分が最大の問題である。外国の雑誌(新聞?)社から2人取材に来るが、録音テープはないか、なぜ採譜の習練を積まなかった、と聞いているが正当な質問である。録音テープは弁護士が持っています、と答えればすむと思うのだが、そういう発言を佐村河内はしない。後者の質問には、新垣がいたことで頼ってしまったという意味のことを答えている。やはり、それでは弱い。


雑誌の報道では、障害をもった少女を利用したとか、NHK特集では空から曲が降りてきた的な映像を撮ったことなどについて触れていたが、まったくそのことは出てこない。それと、NHKの特集の前に、米メディア(NYタイムス?)が「現代のベートーベン(?)」という記事を流したことが、この騒ぎの発端にあることではないかと思うが、なぜ海外イメディアがそういう記事を流したかのか、それも知りたいところである。新垣氏は現代音楽の作曲家として知る人は知る存在だったらしいが、発表会をしても集まる人数も知れていて、CDを出すことも叶わない人間が、佐村河内のゴーストとはいえ、自分が創った曲が世に出て行くことには快感をもっていたろうと思う。齟齬はなぜに生じたか。佐村河内は、自分はずっと下積みだった、という。彼もにわかに脚光を浴びて、舞い上がったのかもしれないが、それが新垣に世間にバレるという恐怖を生じさせた原因でもあったのではないか。ぼくは金銭的なものが大きかったのではないか、と思っていたが、本編では“指導料(教導料だったか?)”は「高いなあ」と思うくらい払っていた、と言っている。としたら、やはり急に世間に出たことの恐さが、2人の破綻の直接の原因ではないか。しかし、なぜに新垣が、佐村河内はほぼ耳が聞こえる、などというウソをついたのか、それは闇の中にある。年末テレビ特番に出てほしい、ついては佐村河内の主張の線で進める、と明言したフジテレビの番組責任者は、彼の拒否に遭うと、新垣に代えて番組を作っている。どの面下げて人を説得するのか、と思うが、森達也にいわせれば、彼らに主張があるわけではなく、出演した人間を面白く撮れればそれでいいのだという。すべてが消費されていくなかにあって、やはり真摯にドキュメントが作られていく必要性がある。かつてはそれはテレビのなかにもあったのだが。


87 ロングトレイル(T)
アパラチアロード3800キロを踏破しようと初老の男2人が挑戦するも、途中で投げ出す。2人の和解の映画だと思えば、目的は達している。ロバート・レッドフォードが原作者を、その友人をニック・ノルティが演じている。レッド・フォードは昔の貴公子の面影はつゆもない。東京では渋谷ヒューマントラストが一軒だけの封切り、さみしいといえばさみしい。それでも、100人ぐらいの席で7割は入っていたか。客は初老を過ぎたような人ばかりだったが。


88 ナイトクローラー(S)
レンホールである。だいぶダイエットしたらしく、頬がこけ、目が異様にでかい。弁の立つかっぱらいが事件を追うフリーのビデオ屋になる。社員を雇うが、始終、働き方の心得を諭す。短期経営講座で学んだことを鵜呑みに突き進む。死体を動かし、犯人を泳がし、好き放題のことをやってのし上がるという筋である。その割りに面白くないのは、彼の異様さが際立つ演出がされていないからである。レネ・ルッソのような年上の女性にモーションをかける男である。


89 国際市場で会いましょう(S)
ファン・ミョンジョンの映画である。朝鮮分断、ドイツ炭鉱への出稼ぎ、ベトナムへの出稼ぎなど大まかな歴史を振り返り、一人の男が家族を支えてきた戦後を描いたもの、ということになる。韓国の古い世代を讃える映画であり、ある種の成熟を思わせる。ファン・ミョンジョンのもつ悲喜劇性は相変わらずだが、そう破天荒な人物を演じるわけにはいかないので、やはりもの足りない。


90 スパイ(S)
ボンド風の始まりで期待を抱かせるが、あとは面白くもない喜劇。ステイサムがただ怒るだけの演技で浮いている。喜劇なんかに出ちゃだめだろう。「バッド・バディ」のメリッサ・マッカーシー、その仲間がミランダ・ハート、ジュード・ロウが冒頭のボンド風を演じている。


91 ほとりの朔子(D)
監督深田晃司、いい映画である。次第に登場人物の闇が濃くなっていく感じが恐い。変わらないのは主人公の二階堂ふみガリ勉タイプだが、滑り止めを含めて受けた大学をすべて落ちたという子と、福島の惨禍から逃れてきた不登校の青年太賀。それでも二階堂は新たに予備校に入ろうと最後には変身する。ひと夏で何かを経験したということなのだろう。二人が家出をし、喫茶店で時間を潰しているときに、突然、暗黒舞踏的な踊りが始まるが、この趣味はOKである。違和感がない。サラリーマン風の初老の男が涙を流し、それを呆然と眺める二人ということで、客観視されているからである。少女誘拐じつは少女との逃避行を描いた映画にも、突然、暗黒舞踏が始まるシーンがある。二階堂と太賀が長々と埒もない話をしながら歩くシーンがあるが、これがいい。西洋美術史の先生と女生徒がクルマのなかで、やはり意味があるようでないような話を続けるシーンも長いが、これもいい。独特な監督である。二階堂と太賀が家出を止めて、ぞれぞれが家に帰る。その切り替わりのシーンで、ヨコから撮ったショットで、椅子から半分ずれ落ちそうな二階堂が写される。この体型の選択がいい。監督の演出だろうか。二階堂、その叔母(鶴田真由)、その恋人(西洋美術史の教師)、叔母の元恋人でラブホの支配人(古舘寛治)、その娘が宴会をするシーン。古舘親子がかなり西洋美術教師をからかう。教師は頭に来て、鶴田に当たる。とうとう帰る、と言い出し、古舘の娘にピシャリと頬を張られる。この一部始終を二階堂は外から眺めている感じだが、最後にニヤッと西洋美術教師の去った方を見る、という演出は場違いである。映像がときに光が回りすぎて、ものの輪郭が弱く感じるときがある。それには違和感がある。


92 岸辺の旅(D)
黒沢清監督、浅野忠信深津絵理小松政夫柄本明蒼井優などが出ている。是枝の「ディスタンス」を思い出す。まだ邪念が残って成仏できない魂が現世に戻ってあの世へと帰還するチャンスを探っている。そのことにとても意識的なののが浅野が演じた「ユースケ」である。彼は3年前に失踪し、本人が言うにはすでに死んでいるという。一緒に2人は旅に出て、ユースケがお世話になったという人を訪ねる。誰が亡霊で、誰がそうでないか、という恐れと、その人物がどういう過去をもち、どういう本当の死を死ぬのかというのが、この映画を見続ける動力となっている。あの世とこの世の出し入れはほぼうまく行っているので、途中からはそれほどの緊張感をもたずに見ていることができる。ユースケがパソコンを直したり、餃子を包んだり、宇宙論を話したりするが、彼のもとの職業とは何だったのかは明らかにされない。私、この土地に住みたい、と深津が言った土地でも、やはり人々のなかには煩悶や苦しみがある。そのことを知ってなのかどうか分からないが、また次の目的地へと二人は旅立っていく。こういうはっきりと事を清算しないで、雰囲気でもっていくのは、ラストのところにもあって、深津はもうユースケの世界に行ってもいいぐらいに思っているが、彼が消える前夜にセックスを共にしたことで吹っ切れたのか、もうそのことを言い出さない。またも、雰囲気である。別にそれで映画は進むから問題はないが、もう少し論理的であってもいいのでは、とは思う。柄本明の息子と嫁、息子は亡霊だが、彼は妻から離れられない。ユースケはそれを引き留めようと追いかける。そして、森でのシーンは、その息子の演技のまずさもあって、ちょっと学芸会っぽい出来になってしまっている。この映画で不満があるのは、そこだけだ。蒼井優が浅野の不倫相手だが、深津が会いに行くと、すでにほかの男と結婚している。悪びれたところが一切ない、ある意味ふてぶてしい女で、不思議な存在感を醸し出している。さすが、である。黒澤監督の映画は数本しか見ていないが、なかなか手練れのお人と見た。


93 CURE(D)
黒沢清監督で、見る決心がつくまでにしばらくかかった。本当に恐かったら、その時点で見るのを止めようと思った。しかし、それは杞憂に終わった。萩原聖人は記憶喪失を装いながら、相手に「おまえだれだ」「ここはどこだ」を繰り返し、次第に催眠術的環境へと誘い込んでいく。そのプロセスを見せたのが女医を対象にしたときで、彼女の側に座っていた萩原が壁際に立っていき、蛇口からコップに水を受け、そのコップをこぼしてしまう。水が生き物のように床を移動する。それを目で追ううちに女医はすでに催眠の入口にいて、「俺の中のものは全部、外へ出て行く。だから、先生の中のものは全部見える」という萩原の言葉にそっちを見ようとすると「見るな」と止められる。「女の癖にあんたは頑張ってきた」「女の癖に?」と顔を上げようとすると、もう目の前にいて、その女医の頭を押さえつけている。この演出が素晴らしい。
もう一つ、役所公司が萩原の廃棄工場のなかの部屋を見に行き、そこで乾燥したサルが紐で四方に引っ張られて空中に浮いたのを見かける。そとに出たところでフラッシュバックが起き、「ハト→サルの乾物→妻の顔」とつながって、慌てて役所は家に戻る。すると、妻が首を吊っていて、役所は慟哭するが、それは幻影で妻は「大丈夫?」と声をかける。この連続のシーンはさすが、という感じ。映画の筋からいえば、もうここで役所も催眠術にかかっていることになる。というのは、あとで逃亡した萩原を見つけたとき、「どうしたの? 手が震えているよ。死んだ奥さんを見たろ」と言うからである。


うじきつよしが警察の精神科医という設定なのか、彼も催眠にかかって自分で胸から首にかけてXを描いて死ぬことになるが、これは設定が無理。いくら催眠がかかっていても、自分で見事なXを描いて死ねるものかどうか。それと、役所もかかっていたという設定だが、催眠をかけてからの時間が長い。ほかの事件はもっと短時間で起きているから、不自然である。妻を殺し、いつもの食堂で食事をする役所、その注文を受けるウエイトレまでも催眠にかかっていて、包丁をもってどこかへ向かうシーンで映画は終わるが、これは蛇足である。


役所がクリーニングを取りに行き、隣に立つ男が独り言を言う。「ふざけんなよ、俺には俺のやり方があるんだ」と声を出す。ところが、店主が「お待たせしました」と持ってくると、にこやかにそれを受け取って出ていく。人間の狂気の突然の噴出を描くわけだが、このシーンは忘れがたい。しかし、こういうバランスの悪い人間が大概で、これを狂気とするのは映画の筋として必要だからである。ぼくは居酒屋である男を目の前にした。1人前のイカの刺身に味の素をかけ、その隣にあるイカに塩をかけ、つまみのダイコンにも塩をかけ、もちろん醤油用のイカも端に残っていて、そのぼくの目の前の男は1時間ほどかけて、その3種の味のイカ刺しを交互に食べていた。そして、トマト缶を頼んで、キープしてある焼酎を割り、それを飲みながらまた残っているイカを食べ続けた。ふつうに食べれば5分もかからず食べきる量である。その間、その男は儀式のようにそれを続けていたが、ぼくは大概の人はこういう人なのだという意識が強い。



100 座頭市千両首(S)
若山富三郎島田正吾、坪内キミ子など。旅の途中でやむなく人を殺めた市がその弔いに村にやってくるが、村はちょうど代官に千両の上納金を納める最中。それを盗まれるわけだが、市は転がってきた千両箱の上に腰掛け、それを取ろうとするやくざをパパッと叩っ切る。次に場面が変わって、村の祝祭。市はそこへ行くが、この人が千両箱を盗んだ、と証言する坪内ミキ子、実は市が旅の空で殺した男の妹。しかし、あの強い市がなぜ尻の下にあった千両箱をみすみす取られてしまったのか。あるいは、それと知らず、その場を立ち去った? 最大の謎をほったらかしなので、この映画、とても座りが悪い。池宏一夫監督、撮影宮川一夫で、夜の底を光の玉となって藩の追っ手が移動するシーンなど、さすがである。やくざが左から右へ市に寄っていく。それを下から撮っていて、市に近づくとカメラが少し回り込んだ感じで上の斬り合いを捉えるシーンもいい。若山富三郎は好演である。市は妙に言葉を途切らせたり、わざとらしさが目立つ。島田正吾国定忠治をやっていて、重心がずんと下にある感じがいい。市の温情にすっと手を出し、市の手を握る速さは、お決まりとはいえ、手慣れたものである。妙につっぱらかった顔は、ぼくの知人にすごく似た人がいる。


101 萌の朱雀(D)
前に挫折した映画の再見である。今度は難なく見通すことができた。老婆、男(家長)、女、男の子ども、幼児、という組み合わせだが、どういう繋がりだか見えないので、妙な緊張感がある。見終わってもまだ、自分の解釈が合っているのか、自信がない。男女は夫婦で、幼児はその男女の子で、男の子どもは家長の兄弟(姉妹?)の子であるらしい(家長のことをオイチャンと呼ぶ)。男女はきょうだいとも見え、二人が同室で寝るので、近親相姦の恐れがある。男の子どもと幼児は長じて、ほとんど恋人のような関係に見える。高校生となった幼児は、青年になった男の子に実際恋心をもち、悩む。突然、家長である男(國村隼)が自殺する。理由は定かではないが、類推させるようにはなっている。しかし、理由らしい理由でも無いので、ここでは触れない。結局、女とその子どもは家を出て、実家に帰ることになる。青年は街の旅館勤めなのだが、老婆と一緒に街に住まうことに。2回、村の人々の顔を映すが、このフィクションは実在の村と地続きだということをいいたいのか。違和感がないから、たぶんそうだろう。この映画、もう少し説明しれくれないと、しんどい。


102 女と按摩(D)
清水宏監督、高峰三枝子佐分利信、徳市・徳大寺伸、福市・目守新一、旅館の主人坂本武。山道を2人の按摩が会話をしながら歩いている。「いい景色だ」「今日は17人、追い越した。按摩じゃないとこの気持ちは分からない」「ただ、学生4人組に抜かされたのはしゃくだ」など、ユーモラスなやりとりをする。その2人を追い越していく馬車に、佐分利信高峰三枝子、そして子どもが乗っていて、御者が「あの按摩は季節になるとやってくる。今日は何人抜いたと自慢する」と解説する。


温泉場に着き、徳市は高峰のいる宿屋へ、福市は佐分利のいる宿へ。高峰の肩を揉みながら、「奥様」というと「違う」というので「お嬢様?」と言い直すと高峰は笑って黙っている。次の客の所へ行くと、さっき抜かれた4人組、力任せにうんうん揉むと、翌日、学生たちは脚が痛くて歩けないほど。途中で宿に引き返してくる。一方、福市は女学生たち、そして佐分利のところへ。佐分利は、「最近は墓参りに行っても、田舎らしくない。かえってこういうのんびりした場所のほうが田舎みたいだ」などという。徳市が宿の主人相手に、海岸では女の按摩が出始めているし、東京では職業婦人が進出して、男の仕事がなくなるかもしれない、などという。


徳市は高峰に惚れたらしい。その高峰が佐分利と近づきになるのを快く思わない。高峰と佐分利を結びつけるのが、佐分利の連れて来た子どもで、自分の姉(?)の遺した子を預かったらしい。佐分利は高峰に引かれるものがあって、東京に帰るのを1日延ばしにする。子どもはかまってもらえず、帰ろうよ、を繰り返す。とうとう佐分利と子どもは東京へと行ってしまう。温泉場に泥棒が出たという情報に、徳市はもしかしたら高峰が怪しいと踏む。一緒に逃げましょう、というと、高峰は正体を明かす。囲い者の身で、旦那から逃げてきた、という。またどこかへ逃げるしかない、という。最後は高峰を乗せた馬車の後ろ姿で終わる。


短編小説を読むような味わいである。会話がいきいきしている。高峰に番傘を差させて、渓流の岩の上に立たせて、少しアップで撮った絵など、静止画のきれいさである。たしか清水宏は子どもの扱いのうまい監督ということになっていたかと思うが、その片鱗を伺うことができた。佳作である。


103 ザ・クライアント(S)
スーザン・サランドン、トミーリー・ジョーンズのほかにも脇役であの人が、この人が、とたくさん出ている。主演の男の子がちょっと出来すぎで、大人の言うことを聞かないという役回りだが、それにしてもこまっしゃくれている。その母親役の女優が、下層階級の話し言葉なのか、やけに聞きづらい。ほかの人間と好対照である。マフィアが殺した議員の死体を発見するのはいいが、覆いを破って腐乱状態を見せるのは野暮である。テンポの悪い映画だが、サランドンはなぜ主役が張れるのか、これはひとつの謎である。


104 アスファルト(T)
いい映画である。サミュエル・ベンシェトリ監督、フランス映画。自動マラソン器の上で寝ちゃった男が脚を悪くして車椅子に。エレベーター改修費を出さない、と言った手前、人のいない夜中に使って、近くの(?)病院の自販機でビスケットなどを買う。そこで知り合った看護婦の写真を撮らせてくれ、という。彼が自動マラソン器で寝ている間、宇宙船の中なのか男がやはり動く床方式でランニングのトレーニング中。それが地球に帰ってきたところ、計算外の場所に。車椅子男のいる公団で、そこのアラブ人のお婆さんの家にNASAの迎えがくるまで泊めてもらうことに。そのお婆さんの息子は刑務所にいて、彼女はよく面会に行く。またそのマンションには青年が住んでいて、廊下を隔てた反対側の部屋に元女優が引っ越してきて、いろいろと関係していく。彼女の出た映画を見せてもらったり、むかし出た芝居にもう一度役を得て挑戦したい、という彼女にハンドカメラを向けて、ホン読みまで手伝う青年。彼女は15歳の少女の役をやりたいが、青年は老婆の役をやるべきだ、と主張し、それを彼女は受け入れる。車椅子男は撮影当日、エレベーターが故障で、やっと抜け出したものの椅子なしで歩いて行く。時間にはまったく間に合わず、女はいない。朝まで待って、帰宅しようとする女に声をかける。女に「笑って」というが、笑えない。男に笑わせてくれ、と頼むと、男は「おれはプロのカメラマンでもないし、世界のあちこちに行ったこともない」と言って女を笑わせる。男と女は口づける。宇宙飛行士はアラブのお婆ちゃんにクスクスを作ってもらったり、いろいろと世話になる。情が移るが、迎えに来ると、クルマに乗り込んでいなくなる。ずっと話の進行の間、恐竜の鳴き声のようなものが聞こえていたが、それは放置された鉄製の倉庫で、開いた重い扉が風でギシギシ鳴いていたのである。映画はそこで終わる。不思議な味わいを意図しているが既視感があって、それほど不思議とも思えない。独特なのは、監督のユーモアの感覚である。宇宙飛行士とアラブの老婆の出合いにそれが典型的に表れている。それと、世界を旅する写真家と偽った手前、証拠を持って行かざるをえなくなり、テレビにカメラを向けて、ピラミッドやら何やら写するのもユーモアです。この映画は、三者三様の「出合い」を描いたということになる。なぜ「アスファルト」というタイトルなのか分からない。



105 オーバーフェンス(T)
山下敦弘監督で、佐藤泰志の函館を舞台にした小説を映画化したもので、ほかに2作、別の監督が佐藤の作品を演出したものがある。オダギリジョー蒼井優松田翔太などが出ている。これは優柔不断の男の再生の物語ということなのだろうが、蒼井優が演じたスナックの女は異常である。彼女とは一度は離れるが、またくっつき、また突然切れる。すべて彼女の気紛れで行われる。いけすかない女で、それを演じた蒼井優を褒めるのはかわいそうだ。彼女はまったく綺麗でない(「岸辺の旅」にちょい役で出ているが、したたかな女を演じて、グッドである)。優香がオダギリのかみさん役で出ているが、中年女性のはまり役で、途中まで彼女とは気づかなかった。こういう目立たない脇できちんと仕事ができる人は偉い。最後に草野球でホームラン、オーバーフェンスとは情けないオチである。


106 健さん(T)
みんなで健さんを褒める映画。ぼくは何度泣いただろう。1人だけ、健さんは疑り深いという人間がいるが、あとは仏様のような扱い。マイケル・ダグラス、ポール・シュレーダー、スコッセッシも讃仰。ダグラスが「ブラックレイン」でそばを食うシーンを印象的に語るが、そばですかね。あの映画は健さんをバカにした映画にしかぼくには思えないけど。


107 ビートルズ(T)
監督ロン・ハワード。ほぼ知っているビートルズをなぞるだけだが、米南部のコンサート会場が人種隔離と知り、彼らは平等であるべきだ、と筋を通した、というのは初耳である。それ以来、南部の大きな劇場にはセグレーションはなくなったという。4人はいつも話し合いで何事も決めていたといい、この一件もそうだったという。日本は武道館だが、右翼が騒いだことは知っていたが、実際に街宣車の映像を見たのは初めてである。赤尾敏先生の姿が見えた。浅井愼平がコメントを喋っていたが、論理が通っていない日本語をそのまま英語に直していたので、訳の分からない英語になっていた。いやはや。横尾忠則も会場にいたらしいが、ビートルズの演奏は30分ほどだったらしい。欧米の熱狂のあとに武道館を見ると、たしかに日本の観客は世界で一番マナーがいいかもしれない。彼らは観客の絶叫で自分の声、演奏が聞こえない状態でパフォーマンスをしないといけない。リンゴはポールとレノンの身体の動きを見て、ドラムを叩いていたという。


108 紳士協定(D)
エリア・カザン監督、ザナックのプロデュース。Gentlemen's Agreement とは、ユダヤ人問題は公言しないで暗々裡に処理する、という意味である。ホテルによっては、Restricted といって、ジューイッシュと分かると、満室とか偽って部屋を貸さないようなことをやる。それが「非開放」で、差別が表に出ると問題にされるので、これも内々にやるわけである。作家であるグレゴリー・ペックが雑誌社の依頼でユダヤ問題を扱おうとするが、行き詰まり、自分をユダヤと偽って起こる様々な問題を折り込もうと考える。それを編集幹部会で話しただけで、すぐに噂が広がる。その雑誌社自体が、ユダヤ人を使用していなかったことも判明する。雑誌社社長の姪が恋人で、その仲もうまくいかず、子どももいじめられる。軍人の竹馬の友がユダヤ人で、子どものいじめが一番つらい、とペックに語る。最後はハッピー大団円なのは、この時代の映画の趨勢としては仕方がない。過去に浮浪者や炭鉱夫になりすまして取材したことがあるというが、今回はユダヤ人と名のっただけで、取材環境ができ上がる。ユダヤ人の中にも、貧しいユダヤ人を排斥する者がいたり、ユダヤ人というものは科学的に存在しないと言い出すユダヤ人科学者が出てきたり、なかなか複雑な仕込みをやっている。1947年、戦後すぐにこういう映画を撮っているアメリカというのはすごい。


109 ハドソン川の奇跡(T)
太い流れが淀みなく最後まで突き通るような映画である。それは強引とも思える編集によって成し遂げられたもので、結構、忙しく過去と現在の時間の行き来をやっているのだが、無理がない。あるとすれば一箇所だけ、制服を着た3人の男がどこかの簡易事務所みたいなところにいるのを撮す。プロ野球チームなどの話をしているが、この男たちが誰だか分からない。しばらく経つと、ヘリコプターによる救助隊員たちだと分かる。あとは、ごく初歩的な映像のつなぎ方、つまりテレビを見ている現在のシーンから過去のそれに移るといったもので、時制の交換をやっている。こんなのはイーストウッドにとって手もないことだろう。「アメリカンスナイパー」でも感じたことだが、どんどん装飾をふりほどいて、大きな本流だけで映画を作ろうとしているのが分かる。


航空審査委員会というのがすぐに開かれ、そこでコンピューターによるシミュレーション、ボイスレコーダーの聴取、操縦士への質問などが行われ、たとえ英雄とマスコミが騒ごうが、真実に迫ろうとする姿勢には心底驚かされる。機長は人間による誤差を考慮に入れていないと反駁し、30秒だけ逡巡の時間が加味される。すると、他の空港への回避は不可能なことが分かる。それに、左のエンジンには多少の推力があった、という調査結果が伝えられていたが、機長は2つのエンジンが完全にやられていた、と証言する。のちに機長の証言が正しかったことが証明される。この映画、一面ではコンピュータと人間との戦いでもある。機長はかつても故障の軍機を、パラシュートで脱出せずに着陸させた実績のある人物だった。アーロン・エッカート副操縦士は抑えた演技で好感である。懐かしのローラ・リニーは老けたが、それなりの味がある。かつての鋭い目つきはなくなったが。イーストウッドで「ミスティックリバー」に出ていた。


110 メカニック2(T)
ひさびさのステイサム度一杯の映画である。冒頭の敵から逃れるシーンは何かで見たことがある。たしか彼の作品のどれかである。ラスト、時間を置いて女のもとに姿を現しニカッと笑うのは、ボーンシリーズにある。しかし、別にそんなことは構わない。ジェシカ・アルバがヒロインだが、ぼくは彼女の映画を観たような気がするのだが、フィルモグラフィを見てもひっかかってこない。いわゆるモデルさんタイプで、ちょっと映画には合わないのではないか、というような印象がある。あくがないのである。美人だけど。せっかく人質に取ったのだから、悪党もきちんとそれを利用しないといけない。中途半端にリリースしては、緊張感が続かない。難攻不落の守りを破って2件の殺しをやり、最後の1件はトミーリー・ジョーンズ。まあ荒稼ぎしている感じ。不思議な中国人みたいな様子で、さすがに軽い演技で大物感というか奇妙なキャラクターの悪党の感じを出している。さてステイサム兄貴はどこまで突っ走るか。これから、ジェイソン・ボーンも、ジャック・アーチャーも帰ってくる。意外とアクション系の生き残り競争は激しいかも。もしかしたら、キアヌ・リーブスのもセカンドがあるかもしれない。あの一発撮りをもう一度、見てみたい。そして、ニーアム・ニールソンもドシッと控えている。ステイサムは勝ち残れるか?


111 平手造酒(D)
1951年の作で、監督並木鏡太觔、脚本橋本忍、主演山村聡、客演月形龍之介田中春男、女優花井蘭子。この5年後に「七人の侍」ができていることを思えば、作劇法がいかに黒沢によって革新されたかがわかる。戦いの場面を撮さず、斬られたあとのワァーッと倒れるところばかりをやるのは、細かい殺陣を仕込んでいないのと、その撮影法が分からないからではないか。カット割りを含めて、かなり細かいことをやらないと斬り合いの場面はできない。造酒が千葉道場で師範代として実力を上げるが、仕官を含めて世間的な名誉が得られず煩悶し、次第に酒に溺れ、苦界の女と馴染みになるまで、一言もせりふがない。演出なのだろうが、そこまでうっ屈した様子は山村聡からは窺い知れない。江戸を捨て女と出奔し、笹川と飯岡というやくざ者の争いの場に身を置くことになる。造酒は笹川派だが、反対派のやはり雇われ浪人が、自分より上手が現れて職を失ったことを造酒に言い、おまえも直にそうなる、と言う。造酒はせっかく断っていた酒に戻り、病が深くなる。飯岡が突然笹川を襲い、造酒は病を押して戦いの場に出向き、殺される。最後は戸板で運ばれる俯瞰の図で、顔が2重になる映像には驚かされる。勝新の「不知火検校」のラストはこれと似ている(2重撮しはないが)。


113 ニュースの真相(T)
CBSの60minnutesのメンバーはダン・ラザーを中心にして固く結束している。プロデューサーのメリー・メイプス(ケイト・ブランシェットがいい)は虐待を受けて育った子で、泣けば父親の軍門に降ると思って暴力を加えられても泣かなかった人物である。そのgutが圧力がかかる様々な局面で生きてくる。彼女はラザーを父親のように思っている。子ブッシュの兵役拒否疑惑は彼女たちのチームが暴いたもので、結局は、証拠が原資料ではなくコピーだったこと(サインの筆跡鑑定はポジティブ)、情報提供者民主党大統領候補とを会わせていること(これは提供者の関わるボランティアに関することで、実際、候補者とはその話しかしていないらしい)などを、CBSが設けた内部審査委員会(とは言いながら、弱いリベラル色の委員は1人だけ)に問われて、チームも上司も辞職させられる。この報道の前に、同チームはアグレブ刑務所の捕虜虐待を報じていて、政権からは目の敵になっていた。ケイト・ブランシェットは意志の強い女を演じてグッドである。ダン・ラザーのレッドフォードはやはり痛々しい。アカデミー賞を獲ったグローブ紙の映画より格段に面白い。メイプスはtruthという本を書いていて、それが基になっているらしい。その本をすぐにamazonに申し込んでしまった。


114 ジェイソン・ボーン(T)
このボーンシリーズももう終わりかもしれない。愛国者としてCIAに戻る可能性さえ見せたら、もう終わりと思うしかない。やり手女が登場するが、何がやり手なのか分からない。上司であるトミー・リー・ジョーンズをもう古いと切って捨て、あげくは殺してしまうが、その言い訳はどうやってつけたのか。間違って撃ちました? ボーンの父親が我が息子をはめたのか、それだけが新味で、あとは逃げる、逃げる、である。あまり戦いの場面がない。それの辻褄合わせなのか、ドッグファイトのような殴り合いシーンが2箇所、用意されている。そこでボーンが金を稼いでいる、ということなのか、いま一つ分からない。このシリーズ、カーチェイスやアクションのすごさで見ていたように思うのだが、もう飽きが来てしまったのか。ジャック・アーチャーでも、ジョン・ウィックでも、ロバート・マッコール(「イコライザー」)でも、肉体的な技の場面が強く印象に残る。そこからいえば、ボーンにはその要素が少なすぎる。


115 Mrホームズ(S)
変な映画である。最終の事件の解明に失敗し、田舎に籠もること30年(不確か)。記憶も衰え、どうにしかしてその事件の真相について下記の残しておきたいとホームズは考える。わざわざ日本まで渡航し、記憶力回復にいいという山椒を求めるが、あまり効かない。一面焼け野原の広島のその焦土で山椒を見つけるのだが、放射能は大丈夫か。その導きをするのが真田真大で、ホームズが降り立った場所(広島? それにしては立派な建物がある)はどう見ても日本の風景ではない。真田が歓待する料理屋も天井の高い中国料理屋で、なんだかなあ、である。いつまでこんなことが続くのだろうか。ホームズは思い出すのだが、彼は依頼人の妻に恋慕に近いものを感じ、その妻からも突然のごとく二人で出奔しようといった意味のことを言われるが、決断ができない。ワトソンはそのあたりの事情を隠して、別の話として仕立てた、ということらしい。しかし、ワトソンが失敗の話を作りあげるわけもないし、最終の事件が失敗に終わったというのは単なるホームズの歩思い違いだったのだろうか。なんだかよく分からない映画である。一人暮らしの彼を支える家政婦がローラ・リニーで、妙にぼってりとして重量感がある。その息子が利発で、彼に刺激を受けてホームズは回顧録を書き続けるという設定である。イギリスの田舎の風景が実に美しい。


116 アジョシ(S)
またアジョシである。ときおり韓国映画を観たくなるが、その条件がほぼ揃っているのだ。暗い暗い設定、あくまで濃い色、際立った悪党――できればそこにキレのいいアクションがあれば申し分ない。この映画は前にも指摘したが、おそらくレオンが下敷きになっている。今回気づいたのは、全編が終わって、そこに英語の主題歌が流れるところまで一緒である。もう一つ、主人公は特殊部隊の優等生で、悪党の恨みを買って、妊娠したばかりの妻を殺されるわけだが、一応、その殺人者はその場で射殺されるが、背景に黒幕や大きな陰謀がなかったのか。ないことにして映画は始まるわけだが、本来の韓国映画では、隠された敵を暴き立てていくほうが自然である。そこを省いたこの映画は、かなり特殊だと言うことができる。


117  ザ・インターネット(S)
サンドラ・ブロック主演で、やはり彼女の映画はハズレなしである。コンピュータプログラムのバグを見つける仕事しているが、クライアントから謎のファイルが送られてくる。それは国内の司法のセキュリティを私企業が一手に引き受けるために仕組んだあれこれのデータが収められたものだった。銀行、空港などでハッカーによる事件と見せかけて、こういう事態に陥らないためにうちのシステムを導入しろ、とその企業は公的機関などに迫っていく。サンドラはその悪事に気づき、犯罪を暴き立てる。小さな恋もあり、水着姿もあり、ハラハラドキドキもあり、全編飽きさせることがない。彼女を追いかける悪党がもっと怖いともっとよかったのだが。


118 淵に立つ(T)
深田晃治監督で、黒沢清の「岸辺の旅」のテイストを思い出した。少しずつ人生の陰の部分が明るみに出てくるので、ゆるい進行ながら、緊張をもって見ることができる。そこが似ているのである。浅野忠信が共通の主役をやっている。彼が昼食を外の公園でひとりで取っていると、やや離れた木々のなかでセックスをしているのが見える。雇ってくれている親友のもとへ帰ろうとしたとき、その親友が逆方向に歩いて行くのが見え、浅野は白いつなぎの工員服の上を急に脱いで、ベルトにはめると、真っ赤なTシャツが現れる。その時点で、前に小さな川にハイキングに行ったときに、親友の妻とキスをした流れで、浅野は女を求めるだろうというのが分かる。この赤いTシャツは効いている。それまで真っ白のYシャツで襟のボタンもきっちりととめ、工員服で過ごしていた彼が変身を見せるシーンである。それらしい前奏はやはり川でのハイキングにあって、親友から「おまえ、妻に刑務所にいたことをしゃべったんだってな」と言われ、それまでの改まった感じが一変して、「小せぇ野郎だな。俺がおまえのことをしゃべるとでも思っているのか。俺が9年も食らっているときに、女とセックスして、子どもまで作りやがって。俺がおまえの代わりだってありえたんだ……うそだよ、これはおまえの考えていることを言っただけだよ。もう昔のことは何とも思わない」というセリフがある。もう浅野の人格に暗雲が差している。そこで赤いシャツになって、親友のいない家に入り、台所でコメをとぐ女に抱きつき、セックスを迫ろうとする。しかし、女に拒否され、浅野は家を出て歩いていると、親友の子どもを見かける。次のシーンは子どもを探す親友のシーン。公園に頭から血を出して子どもが横たわり、浅野が立っている。何が起きたのか。浅野はその後、ゆくえをくらましてしまう。


深田監督は『ほとりの朔子』で福島の避難者といえば同情の目で見ることのおかしさを指摘していたが、この映画では親友の妻がプロテスタントで、子と一緒に食事のときは神に礼を捧げ、日曜教会にも出かけている。教会に一緒に付いていった浅野のあくまで白いシャツはいかにもその場に似合っている。彼は帰りの喫茶店で、親友の妻に、自分の過去を物語る。何よりも正義をと幼少のころから求められ、それを第一としてきたから、人を殺めても、どこか自分は正しいことをしたんだという意識がある。だから、裁判で不利になるようなことも話した。しかし、殺された側の母親は浅野を責めるどころか、法廷で泣き出し、自分の頬を右手で打つようなことをした。それを見て、浅野は、俺は何ということをしたのだ、と思ったと告白する。ここにもウソはないように思えるが、人殺しからは直接的に悔悟の念が浮かばなかった異様さが、いまだに彼の内部に居座っているとも言えなくもない。浅野の罪の告白を聞いた妻は、夫に「私を見くびらないで」と言う。それは罪ある者に愛を注ぐ専門家だとでも言いたい風情であるが、すでにこれまでのいきさつで浅野は悪党ではないという刷り込みができているからの発言であろう。親友の子を動けない身体にしたのは、浅野の本来持っている犯罪性が噴き出したから、と考えるのが自然である。深田監督は、社会的な視点を入れるのが特徴かと思ったのだが、今回は宗教的な赦しのようなものがテーマになっている。娘が車椅子に座り動けないという映像は、深田監督の『さようなら』に登場するレイナというロボットを想起させる。それについては、次の項で関連を述べていきたいが、この映画は強い倫理性を感じさせるのは確かである。


ラストシーンで、入水自殺した母子、娘を助けようとして死んだ青年(実は浅野の私生児)、そして夫が並んで天を見る映像は、途中、河原のキャンプで母子、夫、浅野の4人で撮したものの投影である。こうい小技ぐらい、この監督ならいくらでもできるのではないか。



119 さようなら(D)
深田監督である。福島の被災地近くを扱っているのだろう、国外への避難者を募る話が出てくる。主人公は南アフリカから6歳のときに黒人による殺戮の恐怖から逃げてきたターニャで、日本語が少し怪しい。彼女の家には彼氏(新井浩文)と友達の女性がやってくるだけ。家にいるのはロボットのレオナで、足が悪くて電動車椅子に乗っている。人間のターニャよりロボットのレオナの方が言葉が流暢という逆転が起きている。レオナは感情絡みの質問には素直に「分かりません」と答え、日本語の習練を積んでいるので、しきりに「すいません」を言う。


ターニャは何かの病気らしく、最後は居間の窓際のソファで死に、そのまま骸骨化する。彼女が死の前に裸になったのはなぜか。必然性は、その骸骨化する過程を見せたかったから? レオナはその経過を見つめ、自分も髪がほどけて、衣服も汚れ、左の頬には穴が空いているようにも見える。ターニャの彼氏はクジに当たって家族で突然、避難することになる。彼は在日で、南アで政権をとった黒人が4千人以上の白人を殺したとターニャが言うと、信じられないという様子。本当にそんなことがあったのか、と。ターニャは言う、私たちは加害者なのか、被害者なのか。彼氏は急に帰ってしまう。彼の琴線に触れるものがあったという設定である。在日と南アフリカか……しかし、あざとい感じはしない。その数日前、2人でセックスのあと散歩をし、疲れた彼女を背負った彼氏に向かって、「こんなときに、申し訳ないのですが、私と結婚してください」とターニャが言い、彼氏はちょっと時間を置いて「いいよ。したいんだったら」と答える一幕があった。ターニャのただ一人の女性の友人は、下の子をネグレクトで殺している、と告白する(ちょっと都合が良すぎるような……)。上の子は父親と一緒で、クジに当たって、インドネシアへ避難するという。お盆の夜の狂躁のあと、火を付けられた小屋に彼女は飛び込んで死ぬ。


なぜロボットなのか。それも福島に。ロボットには時制がないということが大きいのではないか。悲しむべき未来もないから、未来が閉ざされた福島の被災地には一番耐性があるだろう。感情は少しずつご主人であるターニャから学んでいるという。ロボットである彼女が、いまの気分に合った詩を、とターニャから求められるという矛盾。どういう選択でそれが出てくるのかレオナは説明をしないが、谷川俊太郎「さようなら」「とおく」、ランボー「酩酊船」、カール・ブッセ「山のあなた」を読み上げる。ターニャが「あなたは私をどっちに連れて行く? 寂しさのない国か、幸せをくれる国か」と尋ねると、ロボットは「分かりません。でも、寂しさがなくなれば、幸せになるのでは?」と言う。ターニャも頷く。ターニャは寝入るまで詩を読んで、と言い残したまま死に、骸骨化した。その主人の骸骨の頬を撫で、レオナは電動車椅子で外に出て、どこかへ向かう。小さな坂でスピードを出し、わざと転倒し、這って竹林に向かう。それはターニャと話をした林で、竹は100年に一度花を咲かせる、という話をターニャの父親がしたという。レオナの目の前に赤い、大きめの花がところどころに咲いている。そこで映画は終わる。


独特の間をもった映画で、ヨーロッパ的という印象を持った。日本映画の小津の作品などに見る間も外国人には相当長く感じるだろうが、この映画の間はもっと長い。実験映画のせいではなく、主人公を外国人にしているところからも、意図的な間の取り方だろうと思う。あと人体が次第に骸骨となっていく様を撮していくというのも日本のやり方ではない。ロボットを持ち込んだアイデアに敬服する。福島を扱って、これを超えるのは難しいのではないか。


120 奇跡がくれた数式(T)
インド人の天才数学者ラマヌジャン(デブ・パテルが演じる)と彼をケンブリッジに呼んだハーディとの友情の物語といっていい。孤独で、無神論者で、自由主義者のハーディがラマヌジャンの才能に惚れるが、数式が天から降ってくるようなものだから、それの証明が必要である。ラマヌジャンは、神の意志(ヒンドゥの神)に従っていない数式に何の意味があるか、とハーディに言う。ラマヌジャンには当初証明の必要性が分からないが、次第にそれがなければ通用しないことを学んでいく。ハーディは自らの研究ではなく、ラマヌジャンの数式の解明に力を注ぎ、ついには王立協会の会員にまで彼を押し上げる。しかし、過労、寒気、食事(菜食主義なので大学の食堂で食べる物がないのと戦時なので食糧不足)のせいなどで肺結核になり、インドに戻って1年で死亡。皮肉屋のバートランド・ラッセル(「ネット」でサンドラ・ブロックを追いかけ回したジェレミー・ノーサムが演じて重厚で軽いのがいい)が登場し、ハーディの差別的な振る舞いを批判させる役目を担っている。気のいい共同研究者リトルウッドトビー・ジョーンズが演じ、好感の演技を見せる。ラマンジャンの奥さん(デヴィカ・ピセ)がどこか日本的で、そのういういしさを含めて、とてもグッド。この映画が都内で2、3館でしか封切られないという状況をどう考えればいいのか。ぼくはとてもウェルメイドな感じを受けた。


121 おしどり囃子(D)
佐々木康監督、美空ひばり大川橋蔵である。橋蔵が神楽の舞師、ひばりが料亭の娘、橋蔵の母は武家の女中で殿様の子を産んでそれが彼、という設定。父親が何かの組の新入が決まるが、その宴席でほかの侍にいじめられる。本当の獅子舞が見たいという悪ボスの依頼に、本来、他家のワザを舞ってはいけないことになっているのに、橋蔵は父のためと獅子舞を舞う。それで破門となり、地方へと。父親はその悪ボスの不正流用の罪を着せられ自害。ひばりはそれを知らせに、橋蔵を探し回る。いわゆるすれ違いものである。白黒映画で、どうという中身もないが、さすがに橋蔵が舞うときちんとした感じが伝わってくる。


122 残菊物語(D)
溝口で、前に見ている。いわゆる芸道もので、5代目菊五郎の養子菊之助が、芸の中身がないのに、名家の出ということでちやほやされる。しかし、弟の乳母であるお徳だけが真実を言って励ましてくれる。菊之助とお徳の仲はだれが見ても恋人である。菊五郎が別れろというと、菊之助とお徳は出奔する。大阪などで地方廻りを覚えるが、錦を飾るのは夢の夢。弟の福之助が大阪に巡業に来たのを幸いにお徳は役を与えて見てやってくれと頼み込む。成功したら凱旋させてほしい、そのときは自分は身を引く、との言葉に出演が決まり、菊之助は大喝采を浴び、帰郷し、東京でも名を挙げ、大阪に乗り込みでやってくる。すでにお徳は病に冒されている。父親の許しを得てお徳に会いに行く菊之助。お徳にいわれて乗り込みへと急ぐが、その間にお徳は死んでしまう。ぼくは、ああ見たな、と思い出したのは、お徳が赤ん坊をあやして土手を歩いているところに菊之助が通りかかり、2人で土手を左から右へ歩くのに、土手の下からずっと撮ったような映像が続いたときである。のちに、帰郷するのにお徳が見当たらず、列車の外から中に問い合わせ、最初は左から右へ、そして右から左へと菊之助が移動するのを、こっち側からカメラで移動しながら撮っていく映像もある。菊之助が布団に入っているお徳にかぶさるようにして話をするシーンは、上から撮って、ずっとカメラは動かない。このあたり、溝口の特長としてあげられるものだろう。ぼくは主演の花柳章太郎という人が、とても純朴、まっすぐな性格の人間を演じて、小気味がいいくらいである。こういう性格で芸が深まるのかと心配になるが、それなりに人格を陶冶していくようである。山中貞男の映画にも、こういうタイプの役者さんが出ていた。戦後、とんと見かけなくなった人物像ではないだろうか。


123 スピード2(S)
悪党がウィリアム・デフォーである。何か病気にかかっていて、ヒルに身体の血を吸わせるのだが、平気でデォー演技していて、参りました。サンドラ・ブロックの相手がキアヌ・リーブスより大根で、リアクションの演技ができない。何かの裏事情でアクションスターでも作ろうと思ったのだろうが、こいつには無理である。ヤン・デボン監督で、大きな船がセットの港に突っ込んで行くのには驚きました。実スケールである。


124 二つ星料理人(S)
いやあ面白い。役者が揃っている。主演がブラッドリー・クーパー、「ハングオーバー」「世界にひとつのプレイブック」「アメリカンスナイパー」などに出ている。彼が演じるアダム・ジョーンズは実在の人物らしい。女優のシェナ・ミラーは魅力溢れる気の強い女性を演じている。「アメリカンスナイパー」に出ているらしいが、記憶にない。ほかの作品を当たってみようと思う。アダムの元同僚で、彼を裏切るのがオマール・シーで、「最強のふたり」の黒人である。アダムに店を任せるのがダニエル・ブリュール、気の弱い、しかしこのサービス業が好きだ、という感じがよく出ている。彼は「グッバイ、レーニン」「ラッシュ」で見ている。濡れたような目をしたリッカルド・スカマルチョは雰囲気がいい。アダムの精神科医エマ・トンプソンで脇できっちり存在感がある。ちょっと衣裳がタブつき過ぎ。
ミシュランの星を3つにするために、男はアメリカ・ルイジアナからロンドンへと足場を移す。そこで有為な人材を集め出す。「映画は『七人の侍』が好きだ」というセリフを聞いたとたん、じゅわんと涙が。しかし、志村喬が演じた訳知りのリーダーとはまったく逆である。怒鳴り散らし、すべてを支配しようとする。ほかの人間とまかないご飯も食べようとしない、孤高の人間である。さあミシュランの調査員が来た! となると、緊張が走る。オマール・シーの裏切りに遭うが、幸運にもそれはミシュランのマネをしたセールスマンだと分かる。後日、正式の調査員がやってきて、その結果は……というところで映画は終わる。星の増減に料理人たちは必死である。中村勝宏の本にもそのへんのことが詳細に書かれている。恐ろしきはミシュランの権威である。


125 ジャック・リーチ(T)
出だしはこけおどしだが、正統派である。前に世話になった(何の?)女性少佐に会いに行くと、スパイ容疑で収監されている。彼女の椅子に座っている男が民間軍事会社の犯罪に荷担している。その悪を暴くのだが、リーチの娘と称するのが出てきて筋を膨らませる(?)が、本当の娘だかなんだか分からない。最後にはそうではないと分かるのだが、全体に進行がおざなりである。あとは逃げて、追いかけてで、敵のボスはほとんど出てこず、刺客が勝手に行動する。これってありか? Never comes back というタイトルだが、もう次作はないという意味だろう。


126 フォックスキャッチャー(D)
シェナ・ミラーを見るために「GIジョー」を借りたが、10分も見ていられず断念。それで本作へ。これが実にいい映画である。まったく予想もしなかった。実話だろうと思うが、かのデュポン家の惣領が貴族的な母親(バネッサ・レッドグレーブ)への対抗心からレスリングチームを作る。そこに呼んだのがロス五輪の金メダリスト(チャニング・テータム)。本当は兄(金メダリスト、マーク・ラファロ)も欲しかったが、生活の場を移したくなかったために断ってきた。弟はデュポンに取り込まれ、コカイン、飲酒などに耽るようになる。結局、兄を呼ぶが、全米大会では優勝するが、ソウル五輪で逃す。弟はデュポンのもとを去り、兄は残るが、日曜日にも練習しろと言われて、兄は今日は休み、と答え、それが反感を呼んだのか、デュポンに射殺される。ラストのシーンにずっと流れるのがアルボ・ペルトの「フュア・アリーナ」で、かなり平板な演奏だが、音を消したシーンにはすごく合っている。ぼくはこの曲はガス・ヴァン・サント「マイ・プライベート・アイダホ」でも聴いたことがある。デュポンを演じたスティーブ・カレルがすごい。ぼくは「マネーショート」で、へえ、こんな役者がいるんだ、主役級じゃん、と思ったのだが、こんな映画に出ていたとは。メイクもすごい。監督のベネット・ミラ−は「カポーティ」「マネーボール」を見ているが、この監督は才能があるのに、なぜこれだけなのか。


127 聖の青春(T)
羽生善治に挑んだ関西棋士は頂点を極めず病で死亡。坂田三吉のような破天荒の人生ではないから、将棋の精進の過程を酷烈に描くぐらいしかやることはないが、そこを描かないから平板なストーリーで終わってしまった。原作がどうなっているか分からないが、やはり戦いの場面にこそ演出の腕を振るうべきだったろう。


128 砂の器(S)
何度目になるだろう、こんなに駄作だったのかと思うほどに、歳月の力は大きい。主人公のピアニストが癩病を隠すことの苦悩が表現されていない。あれほど人情味の厚かった元巡査が、父親のもとへ見舞いに行け、と言うのは、何も世間にそれをバラすためではないのは明かである。それなのに彼はなぜ殺したのか。そこがまったく解明されないで、周辺だけの情報で、彼の人物像を作り上げていくことの弱さ。それに甘い映像と音楽。加藤剛の指の太さと、実際に鍵盤に下ろされる指の太さが明らかに違っている。加藤は何を思うのか、しきりに虚空を睨む無様な演技をする。若い森田健作の演技は浮ついている。彼はいまピアノの中にしか現実はないのだ、と訳の分からない抽象的なセリフを言わせられる丹波哲郎がかわいそうだ。橋本忍プロダクション第1回作品なので、成功させなくてはならない、という攻めが、こういう興行的な受けの良さそうな脚本にしたのではないか。


129 西鶴一代女(D)
御所に勤めに出ている女(田中絹代)ということなのか、貴族ではないと思うが、それが身分の低い男と情を交わしたというだけで洛外追放、男は斬首である。その優男を三船が演じている。次は松平様というのが、世継ぎがないため、好みの女を捜しに京へ使いを出す。商人近藤英太郎がその世話をし、たまたま京で流行っているという舞い踊りを見たら、そこに田中がいて選考基準に合ったからといって連れて帰り、まんまと子を産ませるが、殿様が彼女に入れ揚げて体力を消耗したとかで、暇を出される。次は島原の太夫になるが、そこでは贋金造りの男に見初められるが、露見して男は引っ立てられる。次は近藤のところに奉公するものの、近藤が手を出す。実家に戻るが篤実な扇屋に女房にといわれ、幸せな家庭を築けるかと思った矢先に、追いはぎに夫が殺される。尼になろうとするが、そこに近藤のもとにいた手代(大泉洸)がやってきて、店から盗んだ金で助けてくれるが、それもバレて、談判に来た男に襲われ(?)、尼さんに破門だれ、手代と2人で逃げるが、途中で手代が捕まる。路上で三味線を弾くまで堕ちるが、仲間が助けてくれて、夜鷹になる。息子がそのうちに殿様となり、会いたいと言ってきたので会いに行くが、会話を交わすことはできない。円環構造になっていて、たくさんの羅漢がある庫裏で回想が始まり、そこで終わる。3つ展開点があって、1つは松平の嫁探しがそれまでと比べて滑稽味が出てくる。2つは、島原から商人近藤のシークエンスになると、金がすべてだ、という西鶴的な価値観が出てくる。近藤は、これでただで傾城買いができる、などと露骨なことを言う。3つは子との再会だが、音楽が劇的なものに変わって、親子でありながら面と向かって会えない悲しみが増す。疑問があるのは、子が生まれて、殿様が執心しただけで、ろくな慰謝料もわたさずに実家に帰すか、ということである。そんなことをすれば名家の名折れだろうし、民間から人をピックアップすることが難しくなるだろうから、他藩からの批判を惹起するのではないか。


124 教授のおかしな妄想殺人(S)
ウッディ・アレンとは知らずに見ていた。ホアキン・フェニックスエマ・ストーンが出ていたので見たのだが、人生に絶望する哲学者が殺人を思い立って実行するのが不自然でないのは、どこか浮き世離れした作風が影響しているだろうと思う。ホアキンは「ザ・マスター」「ウォーク・ザ・ライン」の演技に惚れ惚れした。エマ・ストーンはウッディ映画で「マジック・イン・ムーンライト」を撮っている。脚がきれいで、それが強調されている。小話風の粋な作品づくりにどんどん磨きがかかっているウッディ・アレンはやはりすごい。何でも映画にできる、という気がする。

125 シークレット・オブ・モンスター(T)
この映画の圧倒的な音楽がすごい。ウォーカーブラザースのスコット・ウォーカーが音楽である。監督はブラディ・コーペットという人で、これが長編第1作らしい。女優がベレニス・ベジョで「アーティスト」の女優である。意図も分かるし、絵もきれいだが、この映画は無理がある。あんな幼少期でヒトラーの出現を予言するなんておこがましい。


126 フレンチ・コネクション(S)
もう3、4回目になるかもしれない。やはりラストが不満である。敵にあれほど接近していて、あの執念深いポパイが敵の大将を逃すわけがない。セカンドを作るつもり見え見え(といっても、撮ってないのがすごい)。市警に割り込んでくるFBI(?)、ダメな主人公、など後に踏襲されたものも多いのでは。「ゴッドファーザー」に先行して封切られた映画で、「ゴッドファーザー」のラッシュ(?)を観た関係者は、のろい、暗い、ということで、「フレンチコネクション」との違いに失敗を予見したという。映画人は冷静に自分の映画を観ることができないらしい。


127 サンセット通り(D)
2度目である。ウィリアム・ホールデンが色気のある俳優であることが分かる。サイレントの女優グロリア・スワンソンに古臭い演技をさせて、その現代とのミスマッチを強調しているが、もっと普通でもこの恐さは表現できるのではないか。それはコロンボ警部の一編で見ているから言えるのである。スワンソンは50歳の老婆という設定である。時代を強く感じる。召使いエリク・フォン・シュトロハイムは彼女の最初の夫で、当時期待された3人の若手監督の一人だったという。ほかの2人は、この映画にも出ているセシル・B・デミル、そしてグリフィスである。彼女が往年の友達を呼んでトランプをするが、その3人のなかにバスター・キートンがいるのが嬉しい。ホールデンが彼女の束縛を嫌って、屋敷から逃げ出そうとすとき、ドアノブにタキシードの紐が引っかかる。これは演出だろうか? その足で友達の脚本家が開くパーティに行き、そこから屋敷に電話を入れるシーン。彼が受話器に手を伸ばすと、肘の下辺りに手があって、まるで老婆のそれのように見えるが、さっと引き抜かれると、ソファに座っている若い女の手と分かる。この演出はすごく恐い。途中でデミルが登場するということで、この映画は、現実と仮想を混ぜて撮ってしまおうとしたのが、よくわかる。冒頭から急迫の音楽が鳴り響き、ラストもそれである。見たばかりのシークレット・オブ・モンスターもそれをやっていたので、もしかして刺激を受けているかも、と邪推。最初に「死体」があるという設定は、『アメリカンビューティ』でも使われている。最後まで謎解きが低奏としてあるから、劇に緊張感が通る。ビリー・ワイルダーシチュエーション・コメディの大家という印象だが(シチュエーションコメディをどう定義するかは難しい)、それは彼の中盤以降の作品にいえることなのかもしれない。初期には『失われた週末』という奇妙な映画もある。


128 ナチュラ(S)
バーリィ・レビンソンという監督である。原作がマラマッドで、彼が野球好きとは知らなかった。フィリップ・ロスには「素敵なアメリカ野球」があるけれど。アップダイクもたしか野球好きだったような。レッドフォード主演で、奇妙な映画である。田舎から出てきた天才野球青年が列車で出合ったと女に呼び出され、そのホテルの部屋に入ると、女は黒装束。黒いレースを下げて目を覆ったと思うと、ズドンとやってしまう。それからは16年後の話で、なぞの中年おじさんが大リーグに挑み、再起する、という話だが、まるっきりその銃撃の理由については触れないで進行する。なんだろう、である。その突然の凶行に走る女は神秘的で、魅力的である。田舎を出る前、恋人を一夜のちぎりをするが、それで女性は妊娠し、むかしの傷のせいで成績が振るわないときに、我が子のことを知り奮起する。都合がいい話だが、楽しんで見ることができた。レッドフォードはとうとう役者稼業から足を洗うらしいが、やはり昔は美男である。


129 最後の家族(T)
アンジェイ・ワイダ特集なので、彼の作品だと思って見ていたが、若々しくて、エネルギッシュでもあり、やはりすごいなと感心たのだが、あとでパンフレットを見るとポーランド特集をやっていて、ヤンP・マトゥシンスキーという30代の監督の映画だった。扱っているのは実在したスジスロフ・ベクシンスキーという幻想の画家の一家のことで、冒頭はインタビューの様子から始まる。だれだろう、こいつ、と思って見ていると、18歳の女性に博士号を6つ与えて自分とつり合う感じしておいて、ある日、真裸にムチをもってやってきて、何時間も顔の上に跨がって自分を窒息死させてくれるのが夢だ、と語る。なんという男だろう、と思っていると、彼にはごくふつうの妻とその母、そして自分の母と同居し、同じ団地の違うところに住んでいるらしい自殺願望の息子もいる。息子は英語ができるので映画の英語を翻訳したり、新しいロック曲の解説DJなどもやっているが、彼は女性との距離感が分からず、いつも自殺未遂で病院に担ぎ込まれる。画家である父親はカメラ好きだが、途中からビデオを買って、それで妻を写したり、死んでゆく母を撮ったりする。息子の生きづらさと父親のビデオ狂いがほぼ映画の中身で、2人の母と妻、そして息子の死を経験した画家は、冒頭のインタビューシーンに戻り、女性を強姦したかったが、そうはしなかったと彼の絵を買ってくれるパトロンに向かって話す。最後、知り合いの息子らしいのが入って来て、台所でがちゃがちゃやったり、トイレに入ったりするが、結局画家を殺してしまう。日常のすぐそばで狂気を飼い慣らした男がいて、家族はみんなその男の収入に依存している、という不思議な構図になっている。彼は自分が息子を殴らなかったのはサディストになりたくなかったからだ、と言っている。息子は父親の夢を肩代わりするように、サドの女にいたぶられる性技を行おうとするが無理がある。11年ぶりに現れた女と抱き合うシーンでは、息子は真裸、女は黒い下着をつけて、部屋の中で抱き合って突っ立っているシーンがなまなましい。パトロンの男が画家の伝記を本にするが、妻はそれを見て、息子の扱いがひどすぎる、あの男を家に入れないで、と怒るが、画家はまるで気にしていない。妻が死んだら、早速、そのパトロンを家に呼んでいる。合間合間に少しずつ画家の異常性が描かれているが、それに焦点を当てるということではなく、生活の中に溶け込んだものとして描かれるので、それほど目立ってこない。しかし、部屋にかけられている絵は日常の絵としてはまったくふさわしくない。まず先に母や妻の死体をビデオに収める神経は、やはりおかしいといわざるをえない。


130 狂い咲きサンダーロード(T)
40分で沈没。


131 ボーン・トゥビー・ブルー(T)
トランペット吹きでジャンキーのチェット・ベーカーの再起の物語だが、後味が悪い。イーサン・ホークがはかなげな男を演じてグッド。ポスターを見ると、ジョージ・Cスコットを思い出させる。彼を守るディックというプロデュサーが味がある。テレビ畑のようだが、カラム・キース・レニー。恋人役がカルメン・イジョゴで、キング牧師の妻を演じているらしいが、記憶にない。可憐な感じが出ている。監督・脚本ロバート・バドロー。


132 裏窓(S)
前に見ているのに実に新鮮である。取材で足を怪我してギプスをはめたジェームス・スチュワートがあと1週間の我慢というところで、ある異様なものを目撃する。軍隊時代の友人で刑事に訴えるが鼻もひっかけない。たしかに一番肝心なところを彼は居眠りして見ていなかったのだ。いわゆるバックヤードの様子が彼の部屋の窓から眺められる。年老いた陶芸家(?)の世話焼き婆さん、架空の男を迎えて晩餐をふるまうふりをするミセス・ロンリー、涼を取るためにバルコニーで寝る夫婦、売れない作曲家、売り出し中のダンサー、結婚したばかりの若夫婦、そして問題の夫婦、男は大男で、妻はベッドに横たわっていることが多いが病気ではないらしい。その男が夜中の3時に大きな鞄を持って3回も部屋を出入りする。妻は旅行に出たというが、結婚指輪を置いていったことが、スチュワートが双眼鏡で確認をしている。ふつう既婚女性はそういうこをしないのだという。のこぎりに長刀を新聞紙に包む男、何回も長距離電話をかけている。


ただ部屋から眺めるだけでは話が持たないということもあって、先の人間たちの観察も差し込まれるが、サイレントの寸劇を見ているようで、ヒッチコックも明らかにそういう演出をしているのが分かる。とくにミセス・ロンリーの仕草などにそれが典型的である。部屋には看護師で訳知りのお婆さん、恋人のグレース・ケリーもやってくる。金持ちのグレースは結婚を迫っているが、スチュワートはしがないカメラマン稼業を続けたがっていて、できれば恋人の関係のままでいようと言う。主に会話はこの3人の間で交わすもので、なかなかリズムがあって、小味が利いている。そうでないと、場が持たないので、余計にそうである。そこに事件が起きて、2人は彼の説に最初は半信半疑だったが、結婚指輪の件などで確信を抱き、劇もかなり終盤になってから、グレースは果敢な行動を起こし、劇中最大の危機が彼に迫ってくる。最後、もう1本の足も怪我した彼と、その近くのベッドで横になって女性雑誌を読んでいる平和な風景で映画は終わる。


サイレントの映像を生かすこと、それと善意の人びとばかりの中で一室だけ邪悪な企みが進行しているがゆえに誰もその事件性を疑わないこと、この2つがヒッチの狙いである。スチュワートはギプスで足がかゆいが、石膏のために思うようにいかない。その隔靴掻痒の感じが、そのまま事件解明が進まないことのアナロジーになっている。これも狙いの一つであろう。あと有名な美人女優いじめをいえば、絶世の美女で大金持ちであってもなびかない男がいる、というのはヒッチの屈折した欲望を表していよう。さらに、彼女を結婚させないことで自分のものにするという隠された喜びもあるかもしれない。グレースを大根役者と思っていたが、どうしてどうして細かい表情に、細かい演技を披露している。才能ある彼女が王妃として去って、ヒッチの落胆はいかほどであっただろう。


133 泥棒成金(S)
ヒッチコックもつまらない映画を撮ったものである。ただ南欧を舞台に華やかな金持ちの世界を描きたかっただけではないか。グレース・ケリーが美しくない。ケーリー・グラントが色が黒い。彼を追うポリスたちも間抜けである。


134 リベンジ(T)
ファン・ジョンミン主演、濡れ衣の検察官が獄中から復讐を果たす。その手先になるのが若い詐欺師、いくら何でもなりすましで、エリート検察官を騙すのは無理がある。最後は法廷劇だが、やはりアメリカ映画のようにはいかない。ジョンミンは腹に傷を負って出廷したのに、あまり痛そうでもない。しかも、囚人なのに検察官の役回りを演じる。なんだかなあ、である。