2020年の映画

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奈良旧遊郭内銭湯


T=映画館、S=ネット、D=DVD

映画はわが一部だ――自身の人生のありえたいくつかの可能性を映し出してくれる。見知らぬ過去や未来であろうと、異世界であろうと、遠い異国であろうと。失われた自分の一つひとつに、われわれはスクリーン上で奇跡のように出合っている。

 

 

 

1 パラサイト(T)

封切りが待たれた映画である。なんでアメリカが先に公開なのか、日韓のわだかまりが影響を与えたのかどうか。ポン・ジュノ監督がカンヌで受賞したのは慶賀にたえないが、出来は過去の作品に劣る。半地下に住む家族が金持ちの家族に取り付いていく話だが、相手に疑いの目がないから、緊迫感がない。とくにイリノイ大学を出たという嘘で入り込んだ娘がなぜばれないのか。相手家族は英語好き家族なのだから、ハラハラする、何か演出が欲しい。一番の問題は結末に向けて、途中で何度も理屈を付けておくことである。そんなことはしない監督のはずである。

 

朝日の論壇で、津田大介が増保千尋の「徹底したリアリズムと際どいブラックコメディ」という言葉を引いて論を展開しているが、この映画のどこに「徹底したリアリズム」があり、「際どいブラックコメディ」などがあると言うのだろうか。残念ながらポン・ジュノの衰えをぼくは感じる。韓国映画の良さは、リアリズムを無視した激しさにある。だからこそ響いてくるし、リアルな現実を感じさせもするのである。人を包丁で殺したからといって、際どいブラックコメディは笑わせる。「キムジャさん」で見せた人間解体の血みどろが韓国映画なのである。

 

半地下の家族は、当然のごとく詐欺を連続させていく。なにか前にもこういう手口を使ったことがあるような様子である。だとしたら、それ関連のちょっとしたシークエンスもはさんでほしい。

金持ち家族がキャンプに出掛けたすきに、半地下家族が酒盛りをしながら、だらだらと会話をする。カメラを横移動するだけで演出がない。このだらけた感じが逆に賞狙いで撮った絵のように見える。

 

単調さを脱するために仕掛けを一つ用意するわけだが、それも何だかな、である。辞めさせられた家政婦は知的な感じがしたが、再登場したときに落差が大きすぎる。ラストの殺しで韓国らしさを出そうとしたが、迫力に欠ける。身体に沁み着いた臭いが引き金になる、というのも、途中に何度もそう匂わせて理に勝ちすぎて、面白くない。どこにも突出した暴力性がない。

全体に手が込んでいないのである。題材が面白いので、そこにもたれて終わってしまったのではないか。映像的にも面白くない。

 

ぼくはポン・ジュノは「グエムル(4、5回見ている)」「殺人の追憶(10回くらいか)」「母なる証明(2回)」しか見ていないが、いずれもこの映画より格段にいい。お母さん役をやった女優チャン・ヘジンが、衣装と化粧を変えると、かなり印象が違う。演技はそれほどうまくないが、もっと彼女を動かしたら面白かったのではないか(彼女はイ・チャンドン監督「シークレットサンシャイン」「ポエトリー」に出ているが、記憶にない)。ソンガンホと喧嘩になりそうになったときに、体技ができそうな様子を見せた。実際、前の家政婦を見事に足蹴にしている。残念である。金持ちのお父さんイ・ソンギュンは何かで見ているが、思い出せない。似たような役だったと思うが、声をはっきり覚えている。

客はよく入っている。しかし、韓国映画、笑い声の一つも起こらないのであれば、できは悪いとしたものだ。

 

2 ダウントンアビー(T)

連続テレビドラマの映画版らしい。悪人はほぼ出てこない。王の従僕とアイルランド北部独立を画策する人物だけが悪(といっても、後者はいわゆる主義者だから悪党とは言いにくいのだが、本編では国王暗殺を狙っているので、一応悪役扱い)の刻印を押されている。クローリー家の住まうダウントアビーに国王夫妻が1泊することで様々な事件が巻き起こるが、基本的には2つ。衰えゆく貴族の諦めとダウントンアビーの下僕たちの逞しさである。結局、彼らを救う可能性があるのはお抱え運転手から三女の旦那となったトムであり、ダウントンを引き継ぐことになる私生児のルーシーである。どちらもアウトサイドな人間である。この二人はきっと結婚し、ダウントンを守っていくだろう。

登場人物の多さとそれぞれが抱える問題を手際よく処理して(執事の同性愛まで出てくる)、全体に優雅さが保たれている。劇が始まるまえに簡単な人物紹介があるが、別にそんなことをしなくても、それぞれの個性が際立っているので、筋を追うのに困らない。ただラストのダンスシーンがちょっと長い。いくつもここで解決されることがあるが、下僕たちの反乱でひと山越えたあたりなので、よけいに長く感じる。

この映画は古きよきイギリスにあった、階層を前提としたコミュニティの再評価ということになるのだろうか。ブレグジットでイギリスは4カ国に分裂するのではないか、といわれる時代に、この映画が意味するものは何か。

上位層と下僕の反目、それに登場人物の多さ、舞台が貴族の館(マナーハウス)という設定では、アルトマンの「ゴスフォードパーク」が思い出される。ずいぶん昔の映画である。

 

3  フォードVSフェラーリ(T)

フォード2世(デュークと呼ばれる)が会社の停滞を破りたいと考える。アイアコッカという不採算部門の統括がスポーツカーへの進出を提言する。フォードはフェラーリ買収に動いて、いいように袖にされたことで、ル・マン参戦を決意する。そこで白羽の矢が立ったのが今はレーサーから引退してカーセーラーをやっているマットデイモン、それと天才的なレーサーかつ整備士のクリスチャン・ベイルアウトローな二人を排撃したいと考える副社長が、ことあるごとに邪魔に入る、という進行である。アイアコッカを演じたジョン・バーンサルがなかなかいい。副社長のジョシュ・ルーカスもよく見る俳優である。

 思ったほど主人公2人はアウトローでもないし、副社長の反対も激しいものではない。ただやはり唸りを上げてサーキットを走り回る映像は神経が集中して、疲れる。クリスチャン・ベイルの妻カトリーナ・バルフは少しかつてのレニー・ツェルガーに似ていてグッド。もっと出演作が増えてほしい。レニーのジュディ・ガーランドもやってくる。

 

4 ジョジョ・ラビット(T)

監督タイカ・ワイティテというニュージーランドの監督、マイティソーを撮っているらしいが、その種の映画を観ないので分からない。感じはジャン・ピエール・ジュネの傑作「天才スピヴェット」に近い。完成度からいえば、後者に軍配が上がる。最初に展開されるナチおちょくりのシーンは、わくわくした。「キャッチ22」のような風刺がどぎつく利いているからだ。少年がナチのトレーニングに行こうと意を決して家を出た途端、ビートルズのI wanna hold your handがかかるのだから、たまらない。幻のヒトラーを演じているのが監督で、脚本も手掛けている。しかし、これが意外感がない。びゅーんと2階の窓から外に消えていくシーンは面白かったが。もう一工夫あれば、この幻は生きたはずである。

少年たちを訓練するのがサム・ロックウェルで、最高の配役ではないだろうか。この人の唇をなかに巻き込んだような発音が大好きである。主人公を助ける役回りなのも好感である。お母さんがスカーレット・ヨハンソンで、そうか彼女もお母さん役なのか、と感慨なきにしもあらずである。

匿われるユダヤ少女がトーマシン・マッケンジー、そしてとぼけたジョジョを演じたのがローマン・グリフィン・デイビスで、達者なものである。彼らが記す「おい、ユダヤ人」の中の線画は素晴らしい。ジョジョのでぶっちょの友達もグッド。ジョジョが友達の一番はヒトラーで君は二番目、でも君の内面に別の人間が潜んでいれば別だけど、と言うと、ふとっちょは残念そうに、「ぼくの中身も、残念だけどふとっちょなんだ」と言う。このシーンは得がたい。ジョン・バンヴィルのちょっとしたジョークを思い出す。

恋心が分からない息子に、おなかのあたりが蝶々がもぞもぞする感じと母親が教える。文字通り少年の気持ちをその映像で表現するおかしさ。

途中で母親ヨハンソがいなくなる。少女と少年の交流を描くのに邪魔だったのかもしれないが、ナチに捕まったのなら、それは途中で何か挟むべきである。母親が逮捕されて、少年や少女が当たり前に過ごしているのはおかしい。

 

5 さらば愛しきアウトロー(S)

レッドフォードがお年を召されて痛々しい。若い頃の写真が出るが、本当に美しい。それに比べてシシー・スペイセク(歌え!ロレッタ、愛のために)は老いてチャーミングである。刑事にケイシー・アフレック、相変わらず発音が悪い。黒人の魅力的な女性ティカ・サンプターと結婚し、かわいい子どもが2人いる。優しく楽しい銀行強盗であるレッドフォードに多少同情的である。泥棒仲間がトムウエィツ(だみ声の長ゼリフがいい)にダニー・グローバー(リーサル・ウェポン!)で、グローバーはセリフ自体が少ない。老いて安住せず、また銀行強盗を働きに行くところで終わる。

 

6 ザ・ファブル(S)

 岡田准一主演で、年末に劇場で見ようか迷った映画である。これはよく出来ている。「イコライザー」と「ジョンウィック」を足して2で割って作った映画だが、アクション場面も納得だし、筋も破綻がない。柳楽優弥が切れた極道をやっているが、これが韓国映画のキレ役者みたいでグッド。「アジョシ」の悪党の弟分を思い出した。もっと柳楽君に暴れさせてほしかった。彼が敵方につかまって縄で縛られるので、活躍の場がない。それにこの巨大工場での格闘シーンは、もう少し演出がほしい。

岡田がスタイルが悪いのが、ちと残念。やはり侍がお似合いか。日本もこういう映画が作れるのね、である。ファブルというのは伝説、作り話で、そう呼ばれた殺し屋が一般人になれるかという設定。

 

7  アフター・スクール(S)

30分も見たろうか、あえなく沈没。大泉洋、佐々木蔵ノ介主演。映画を選べ、である。

 

8 イクストリーム・ジョブ(T)

韓国で大入りの映画である。お得意のシリアスとコメディの合わせ技かと思ったが、コメディの時間が長い(やや不満)。けっこう笑わせてもらった。うだつの上がらない亭主(刑事)が張り込みに使った唐揚げ屋が繁盛し、その余得でグッチのバッグを買っていくと、女房がいそいそとシャワーを浴び始める。韓国には珍しい下ネタのくすぐりである。「家に帰るのが嬉しくなったが、恐くもある」というセリフもある。うしろの席のおばさん連の笑い声が絶えない。

かなり後にシリアスの場面が用意されていたが、そこで種明かしされるものがあって、ここでやるのか、と感心した。格闘シーンも満足である。女優に少し記憶があるぐらいで、ほかの役者がまったく知らないひとばかり。班長を演じたリュ・スンリョンは有名な俳優らしい。

 

9 ジョン・ウイック、パラベナム(T)

この映画、3度目か。ハル・ベリーが犬を殺されて支配者に盾突く。そもそもこのシリーズが始まったのは、ジョンが愛犬を殺されたから。ハルの戦い方もジョンとそっくり。近接で敵面撃ち、相手の腕をつかんだまま他の敵に対処し、それが終わるとすぐに腕をたぐってまた顔面撃ち。弾が切れたら相手の弾倉を奪い装填し、すぐに射撃する。

相変わらず変な日本人もどきが出てくるが、英語がしゃべれて、格闘技ができる日本人俳優がいないからこういうことになる。そもそもハリウッドには日本文化へのリスペクトがない。適当につくっておけばいい、という感じで、まったく考証をしていない。きっとオリエンタル全体に関して、こういうことをやっているのだろう。

 

10 プロヴァンスの贈り物(S)

リドリー・スコットで、ラッセル・クロウとマリオン・コーティヤールが出ている。お爺さんはアルバート・フィニー、その隠し子がアビー・コーニッシュラッセルはリドリーとずっと組んでいる。楽しく見ることができたが、せっかく幻のワインが出てくるのだから、もっと驚きの演出をしてほしい。

 

11  寅次郎紙風船(S)

28作目で音無美紀子岸本佐知子が客演。音無がとてもきれいに見える。こちらが齢をとらないと分からない美しさである。小沢昭一が歳の離れた極道の夫で、寅が見舞ったあと、おっち(死)んでしまう。同じ稼業のおまえが女房を引き取ってくれ、と言い残す。しかし、小沢先生がそんなにひどい極道に見えない。

まえにも書いたように寅はそっちの世界ではまともな人間に見える。それが柴又に帰ってくると調子が狂っていく。それは色恋だけのことではなくて、まともな表稼業の人間に触れることで軋轢が高まっていく。虎屋の人間は、ごくつぶしの、癇性の、手前勝手な男でもどうにか救ってやろうと思っているから、寅はいい気になって腹の虫の動くままに振る舞ってしまう。旅に出ると、そのダメさ加減が消え去って、世慣れた、世間知の豊富な男に見える。

じつは旅に出た寅が本物なのではなく、そっちのほうが虚構なのだ。寅が旅先ではかっこよすぎるからだ。音無にかける言葉も色男のセリフだし(実際、あとでさくらに「寅さんってモテるんでしょ?」と聞いている)、岸本と話すときは哲学者のような顔をしている(岸本も「最初の顔の印象と違う」と寅のことを評している)。それが柴又に来ると通用しないのだ。世捨て人でいることができない。一宿一飯だけでは終わらない。

タコが茶々を入れる、好きな女には遊ばれる、光男に「ダメおじさん」と見透かされている。寅が旅に出るとさっぱりした気持ちになるのはよく分かる。それは、ふつうの人間が旅で感じているのと同じことを感じているにすぎない。やはり憂き世のほうがつらいのだ。それではなぜ柴又に頻々と舞い戻ってくるのか。きっとそのまま旅を続けていると、人外に出て帰れなくなる気がするのではないか。おいちゃんおばちゃんに、ちゃんと寅の弔いはしてやるから、と言われて、すごく寅はうれしそうな顔をする。旅先で突然死んでいく仲間を幾度も見てきて、骨身にこたえているのかもしれない。

 

12 寅次郎かもめ歌(S)

26作目、伊藤蘭、村田雄浩、松村達雄が夜間高校の校長。旅先で仲間の死を知って、奥尻にいる娘のところへ弔いに。その娘が東京で学校に行きたい、というので世話をすることに。寅がいつもの居間(?)で話しているときに、うしろにさくらがいて、横を向いて無視している感じの表情が、本当のきょうだいのようだ。松村が国鉄職員のトイレ掃除の詩を読むが、趣味が悪すぎる。伊藤がよりを戻しに来た村田と外泊して帰らなかったことに寅が怒り、虎屋を出て行く。本当に勝手な男である。家族でなければ相手にしたくないタイプである。でも、かつてはこういう困りものが家族には決まって一人はいたものだ。寅が好き勝手やれるのは、虎屋の空間にしかない。

 

13 グッドライアー(T)

ヘレン・ミレンイアン・マッケラン、監督ビル・コンドン(「シカゴ」「グレイテストマショーマン」)。残酷な映画である。一カ所、孫のスティーブがあとで、ベルリンで失敗してごめん的なことを言うが、それが何を指しているのか分からない。何かウェルメイドとは言い難いものがある。レッドフォードそしてこのマッケラン、老いて意気盛んな詐欺師が主人公である。

 

14 スリーディズ(S)

ラッセルクロウ主演、女優エリザベス・バンクス。監督ポール・ハギス、リメイク版らしい。ぼくは2度目、ハギス監督は「クラッシュ」「サードパーソン」を見ている。「ミリオンダラーベイビー」の脚本で注目をした人である。そのあと、最近の007の脚本も書いている。この映画もよくできているが、綿密な計画が破綻したあとの切り抜け方が、なあーんだという感じである。ラッセル・クロウの肥満度がそろそろ危ない。獄中にいる妻が彼の髪を撫でながら、なんて美しいんでしょ、と言うシーンがあるが、さてどうか? というところである。

 

15  ナイブズアウト(T)

The Knives are out.は「ほらナイフが出たよ」ということで、誰かが誰かのことを不快に思ったときに言う言葉のようだ。あるいは、誰かが誰かを傷つけるときに、「これが本音(ナイフ)だ」という意味でも使うようだ。でも、ナイフがそれほどこの映画で意味をもってくることはない。古典的な探偵(ダニエル・クレイグ)の当てっこもので、それも被疑者一か所閉じ込め型である。それをみんなイギリス俳優のような顔をした面々が、テキサス訛りの探偵に足止めを食って詮議の対象になる、という映画である。劇の中心にいるのがマルタ(アナ・デ・アルマス)という移民の子。嘘をつくと吐く性癖があるので、やったことだけを正直に言う、という変な切り抜け方をする子である。つまり良心から吐いているわけではない(なんだかカントの絶対正義の議論を思い出す)。それが最後、心から人を救うのである。なんとなくアウントン・アビーと似たような結末となる。次男の嫁を演じたトニ・コレットは女刑事もの「アンビリーバブル」をNetflixで見ている。

 

16 バンブルビー(S)

封切りで見るのをためらった映画である。トランスフォーマー物である。なぜ日本のお家芸が実写版で進化しなかたのか、残念である。1作だけヒュージャックマン主演で、ぼろっちいトランスフォーマーが活躍するのを見たことがあったが、なかなかこれが良かったのである。このバンブルビーは宇宙からの使者的なものので、それを追って来る敵との戦いが主で、大味に。女優はピッチパーフェクト2で見た子である。不思議な顔をしている。

 

17 初恋(T)

三池崇監督である。緊張感なし。主演の女優を前田敦子に似てるなと思いながら見ていた(本当は小西桜子)。染谷将太という役者が面白い。内野聖陽が最後までだれか分からなかった。ベッキーはちんぴらの女の役だが、なんでそんなに強いのか。大森南朋という役者は相変わらず下手くそだ。うまい振りをするから、余計に困る。主人公の脳腫瘍判定が間違っていたというのには、ご都合主義もいい加減にしろ、である。途中のアニメもバツ。中国マフィアと日本やくざの対決など、古すぎる。三池は終わったか。

 

18 レイトナイト(S)

エマ・トンプソン主演、TVキャスターが落ち目になり、インド人の元工場勤めの女性を対外的アピールのために雇うが、徐々に実力を見せつけ、彼女の最大のサポーターとなる。トンプソンの映画は7本見てきたが、どれもあるレベルで、楽しんで見ることができる。

 

19 福島フィフティ(T)

 津波のシーンは恐いが、一般の人が飲み込まれるシーンはない。あくまで原発への影響を追っている。中身も東電の現場の捨て身の献身と、東京にいる「本店」といわれる人間と権力を振り回すだけで邪魔をするだけの政府幹部との対比を描いている。結論は、人間は自然を舐めていた、である。確かにそうだが、そんなことは頭から分かっているわけで、映像だけをリアルにした映画で終わってしまうのではないか。あの災害が東電の犯罪であることを隠ぺいしている。米軍の友達作戦に時間を割いているが、これは何のためのサービスなのか。支援に来た自衛隊員より数が多い、ということを言いたのか? あの米軍のなかから被爆者が出ているというのは本当か?ある方が、この映画は特攻隊を描いたものだとおっしゃった。慧眼である。原作が門田陸将である。

 

20 ふきげんな過去(S)

前田司郎監督、二階堂ふみ(娘)、小泉今日子(本当の母)、高良健吾、近藤公美(育ての母)、梅沢昌代(祖母)、板尾創路(父)、山田望叶(めい)。近藤と山田がいい、二階堂はワンパターンか。死んだはずの母が爆弾犯という設定で、またシナイ半島に出かけるという。死んで何か変わったことは? 生まれ変わった気分になれた、しばらくは、という会話はいい。畳みかけるように話す派=祖母以外の女、ゆっくり話す派=男全部という構図になっている。テイストは好きな映画だが、パレスチナへ行く根拠は? 

 

21 ジョン・F・ドノヴァンの死と生(T)

女性陣が豪華で、主人公の母親がナタリー・ポートマン、主人公が憧れるTVスターの母親がスーザン・サランドン、そしてスターのマネジャーがキャシー・ベイツ。ナタリーが以前の1.5倍は膨らんだので、はじめ誰だか分からなかった。サランドンをずっと昔から見ているが、この人は変わらない。アップのシーンもあるが、ほんとにきれい。ベイツもそれなりに若い。監督はグザヴィエ・ドラン、「たかが世界の終わり」を撮っている。 レア・セドゥが見たくて見た映画だ。なにかきれいなシーンがあったが、忘れてしまった。なかにゴア・ヴィダルの名が出てくる。AdeleのRolling in the deepがいい。彼女のアルバムはだいぶ前に一枚だけ買っている。Adele19というやつだ。

 

22 ジュディ(T)

ジュディ・ガーランドは「イースターパレード」を先に見て、それから「スター誕生」、ようやく「オズの魔法使い」である。オズは見るつもりがなかったが、誰だったかアメリカ人がよく笑うネタが仕込んである、と読んだことがあって、それで見た映画である。本作は「スター誕生」のあと、人気が翳り、失意の中にあるときにイギリス興行が仕組まれ、いやいや子供を置いて出かけて、歌手としてライブショーをやるところを描いている。イギリスでは人気だと聞いて、あの人たちは変わっているから、と言うシーンがあるが、アステアも熱狂的に迎えられた。「イースターパレード」にアステアと出ているので、そのことと関連があるのかどうか。

遅刻癖、すっぽかしなどが重なって映画会社とうまくいかなくなり、イギリスにやってきたわけだが、ルイス・B・メイヤーがジュディをきつく叱るシーンがある。妙な照明の場面で、説教のあと人差し指をゆっくりジュディの胸の間に触れる。これは性的なアリュージョンである。

ジュディの気まぐれ、すっぽかしの癖がロンドンでもまた出てくる。しかし、最後は観客にも助けられていいショーを行うことができた。つい落涙。その3年後にジュディは薬物の過剰摂取で亡くなる。最後の華が咲いたことを思えば、彼女は幸せだったかも。子どもと一緒にいられない悲しみがあったとは思うが。途中でライザ・ミネリ役が出てきて、これからショーをやる、と言うシーンがある。まだ「キャバレー」を撮るまえの話だろうか。「キャバレー」はそれこそ何度見たことか。

 

23 三島由紀夫対東大全共闘(T)

最終回の上映なのに、まあまあ客が入っている。三島が演技者のようにふるまっている。場数を踏んできたのだろうか。議論はまったく抽象論で、そもそも三島がそこに誘い込んだ感じがする。学生たちはそういうレベルでしか議論ができないからである。あの抽象度の高さでは、時代を撃つことはできないし、後世に影響を残すことはできない。

その会場にいたらしい橋爪大三郎が、全共闘は負け戦を清算しているのだ式のことを言っていたが、さて本当か? ナレーションが「言葉と敬意と熱情があった」とまとめていたが、だから何なんだ? 平野啓一郎が、結局言葉が現実を開いていくしかない、と言っていたが、それでは三島の悪戦苦闘が余りにも報われないだろう。ぼくは三島にとって天皇も肉体も結局は虚構でしかなかったように思う。そのことに気づくのは、とてもつらい。三島の後ろに大きな黒板があり、その上に「小川プロ作品→部屋番号」と書かれたビラが見える。きっと三里塚を扱ったものが映されていたのだろう。歴史が交錯する。

 

24 博士が愛した数式(S)

とてもウェルメイドな映画である。数学者を持ちあげすぎているが、それは仕方がない。深津絵里は非常に細かい表情ができる人だ。たしか「阿修羅のごとく」で椅子に座るシーンだったかで、とても動作が良かった記憶がある。そして、寺尾聡もいい。最後のキャッチボールのシーンの表情のいいこと。タイトルロールで流れるのは、ソプラノ森麻季の歌。その選択もいい。監督・脚本が小林堯史で、「雨上がる」「阿弥陀堂だより」などを撮っている。安定した映画を撮る監督なんだろう。最後にウイリアム・ブレイクの詩が読まれるが、監督の訳らしい。ブレイクといえば大江健三郎だが、さてその影響があるのかどうか。

 

25  I'm not ok with you(S)

Netflixオリジナルのシリーズ1の7作だけ。ソフィア・リリスがキム・ダービーにそっくり。Youtubeなどでインタビューを見ると、まったく似ていないが、作品の中の彼女はよく似ている。すでにEllen Degeneres showにも出ている。ITにも出てるらしいが、怖い映画なので、たぶん見ない。

 

26 家族(S)

このあたりの山田映画は見たくないが、ある解説にロードムービーとあったので見ることした。長崎臼杵伊王島から北海道標津まで家族が5人、途中で赤ん坊が亡くなるから4人でたどり着くまでを追っていく。その間に、昔の映像なども入れながら進むのが、それがごく自然である。その動機は人に使われるのが嫌だということで、井川比佐志が家長を演じ、妻が倍賞千恵子、祖父が笠智衆である。福知山に大会社(セメント?)に勤める弟がいるが、着いて話をすると、内情は楽ではない。祖父をそこに預けるつもりだったが、倍賞が連れていこうと言い出し、長旅を一緒に。

東京で赤ん坊が具合が悪くなり、宿を取りたいと倍賞が言うと、井川は大阪で万博を見たりして金を使ったと渋るが、結局、泊まることに。医者を探すが、3軒目で赤ん坊が死亡。

 標津に着き、懇親会で炭坑節を歌い、その夜に祖父が死んでいく。この家族はキリスト教ということもあるのか、あまり死の場面がしめっぽくなってこない。

最後は、2カ月後の緑一杯の丘陵である。

倍賞に珍しいシーンがある。出立するのに資金が足りず、まえから倍賞に色目を使っていた金貸し、花沢徳衛に3万円を借りる。そのときに、花沢が太ももを触ったりする。それを倍賞が余裕をもっていなす。

 

27 スタンドオフ(S)

 膠着状態の意味のようだ。登場人物3人、同じ場所で終始する。これが最後まで見ていることができる。殺人を見た少女を殺し屋が追いかけ、一軒家に辿りつくことが劇が始まる。主演のトーマス・ジェーンという役者は知らない。脇の殺し屋がローレンス・フィッシュ・バーン、「ジョン・ウィック」でNYの闇の帝王を演じている。少女はあどけないようでいて、妙な色気がある。

 

30 味園ユニバース(D)

もう5回目くらいになるだろうか。山下敦弘監督は数本見ている。音楽ものに才があるわけだから、そこを極めてほしい。一つ解決がつかない問題がある。主人公のポチ男は暴力団に追われているわけだが、それはこの映画のラストでも解消はされない。

 

31 yesterday(S)

封切りで見逃した映画である。全世界の停電でビートルズが記録から消えた。その停電事故でけがをしたインド人ミュージシャンが、病院で見舞いに来た素人マネジャーに「64歳までよろしく」みたいなことを言うと、彼女は何で64歳? という顔をする。ビートルズのWhen I'm 64である。事故で歯が欠けたので歯医者に行くと、君の父親には助けてもらった、と医者が言う。これもビートルズのWith a little help from my friendである。そういう小さなアリュージョンがあって、退院を祝ってくれた仲間にたまたま歌ったyesterdayが大うけ(ぼくはもうこのシーンで泣けてしまった)。みんなが初めて聴く曲だということに気づき、ネットと調べると一切ビートルズ関連が出てこない。あちこちでビートルズ曲を歌うが、なかなか受けない。だが、一人の有名シンガーが自らのコンサートの前座に出場させ、そこから快進撃が始まる。ダニー・ボイル監督で、「トレインスポッティング」「スラムドッグ」「スティーヴ・ジョブズ」を撮っている。

 

売れないインド人の歌手ジャックがほとんど客のいない海のレストランの板床で歌い、次が小さなレストランで歌うが、やはりまったく反響がない。さっと映画タイトルが出て、Tの上にアニメのかもめが留まっていていて、ささっと飛び立つと実景に変わり、かもめ10羽位が屋上を舞う倉庫が写る。次に庫内のシーンに変わり、ジャックが働いている姿を映し出す。この一連のシークエンスのキレのよさは抜群である。いい映画だな、という予感が圧倒的である。メジャーデビューのためにL.A.に行くが、陽光の下で鳴り響くのがHere comes sunである。演出がいろいろ効いていて、大満足の映画である。

 

32 人生劇場 飛車角と吉良常(S)

内田吐夢監督、ひどい出来の映画だ。脚本が悪ければ、どこかで演出が工夫をすべきと思うが、それもしていない。すべてがおざなりの、ご都合主義のストーリーである。この人はやくざ映画に向かないのではないか。ただし、最後の殺し合いの場面、暗転して迫力がある。この暗転は「飢餓海峡」でも使っている。

沢島忠の正編は演出の冴えが光った逸品で、東映の新たな路線決定の狼煙を上げただけの価値のある作品である。

藤純子がバーの女のような髪型で、それはそれで美しいのだが、やはり違和感がある。健さんの演技は、古いパターンの映画の中では浮いている。後年までもった理由がよく分かる。辰巳柳太郎の吉良常は渋い。臭い演技がなんともいえず味がある。沢田正二郎の親分役も苦み走っていて、いいが。

 

33 ダーティハリー(S)

イーストウッドが監督である。ちょっとベタな部分(後ろから黒人が銃を持って近づいていくるが、じつは同僚、あるいは、過去の場面に入るのに、眼をアップするなど)もあるが、非常にスマートに撮っている。ヒロイン(サンドラ・ロック、たしかイーストウッドの離婚したかみさん)が事件現場の小屋に近づくときに、小屋と顔を逆方向のショットで何回か繰り返す。こういう細かい技をドン・シーゲルから学んだのか、あるいは研鑽の賜物か。音楽はラロ・シフリン。前に見た映画だが、ほとんど忘れていた。見直して良かった。

 

34 ソルト(S)

2度目である。そもそも女性がアクション映画の主人公になるのは、ニキターが最初か。それはまだ鍛えられていたから納得がいくが(さすがリュック・ベンソン)、いかにもその体形は違うだろうというのの最初が、アンジョリーナ・ジョリーの「トゥームレイダー」ではないか。それからは、見境いがなくなった。しまいにシャリーズ・セロンまで飛んだり跳ねたりしてしまった。ヨハンセンも同種のものがあり、指を回すと敵が倒れるというところまでいってしまった(だけど、なぜ彼女がアベンジャーズに参加したか、という映画は見てしまうかも)。モンスターものでも歯止めがなくなって、ハルクをエドワード・ノートンまでがやるようになったのと事情が似ている。ハリウッドは一度当たると、インフレーションを起こすらしい。老人アクションはリーアム・ニールソンが火付け役で、猫も杓子もその手の映画ばかりである。しかし、このソルトはかなりぎりぎりまで種明かしをしないのが利いている。アンジョリーナはアクションものが印象に強い珍しい女優である。

 

35 ブランカとギター弾き(S)

 長谷井浩紀という監督で、もともと海外で仕事をやってきた人らしく、この初の長編はイタリア資本のようだ。この映画、すべてフィリピン人、フィリピンが舞台で撮っている。身寄りのない少女が盲目の老人ピーターという街のギター弾きと知り合い、まるで親子のようになっていくまでを描いている。ストリートで生きる小さな男の子も彼女を姉と慕い、もう悪に染まっている兄貴分から離れて彼女と一緒になる。

映画って何かと考えざるをえない。なにも奇抜なこと、特別なことがないのに、身を入れてこの映画を見てしまう。それはきっと細部がきちんと描かれているからだろう。ブランカと少年が夕陽を見ながら、その色の変化を楽しみながらしゃべるシーンなど印象に残る。鶏が飛べると信じたり、母親が金で買えるものだと思ったり、素直なブランカを描くのも、ねじくれた貧民の世界で彼女がまだきれいな魂を失っていないことを示している。いい映画を見たと思う。 

 

36 男はつらいよ34話 真実一路(S)

 歯切れのいい出来で、ところどころ自然に笑ってしまう箇所があった。米倉斉加年が客演で鹿児島出身の証券マンという設定で(脱世間的な東大の助教授役もあった)、苛酷な日々から蒸発をして行方が分からなくなる。船越英二も「相合傘」で同じような役どころをやっていた。高度成長の歯車からとりこぼされる人間たちの受け皿としての寅、ふだんそんな人種と交わったこともない寅屋の面々。大原麗子が妻役で、ピンクがかった和服で柴又に姿を現すが、まるで玄人さんである。やくざ稼業の男を連れて鹿児島へ飛び、一緒の旅館に泊まろうとするのは、寅以上に非常識である。寅は「おれは汚い人間だ」といって別の宿に移るが、相手のふしだら、あるいはその種の想像力のないことを思った方が精神上よかったのではないか。実家に帰ってからも、寝ても覚めても「おれは汚い」を繰り返す。妙に倫理的な匂いがきついのもこの作の特徴である。タコ社長の娘のあけみを演じる美保純が抜群にいい。寅と気の合うのがよく分かる自然主義の女である。

井上ひさしがこの映画はテッパンの要素でできているから、人気を得、しかも長続きしたのだという。基本にあるのは、芸達者の渥美ではあったが、いちばん渥美らしい男、寅を演じたことで最も生き生きしたということ、そして4つの強固な利点を挙げる。

 1 寅の失恋、裏をかえせば相手の得恋がある。恋の話は客を引き付ける。

 2 貴種流離譚の逆になっている。取り柄のない男が身分不相応な女性に惚れて、故

   郷に帰ってくる。

 3 道中もの。

 4 兄と妹の濃い愛情。

2の説はあまりピンとこないが、井上は渥美とは浅草フランス座で知り合いである。1年に満たない付き合いだが、渥美のことはじっと見ていた。そこからの集積があって言っている言葉である。

 

37 シングストリート(S)

ジョン・カーニー監督で、「はじまりのうた」「ONCE ダブリンの街角で」を見ている。この映画も音楽もので、アイルランドのストリートから出てロンドンに向かう15歳の青年の話だ。父親失職、母親パートタイムという家で、なおかつ母親には男ができて、別居騒ぎになる。離婚が禁じられている、といっている。音楽好きの兄は大学を諦め、主人公も荒れた学校に転校に。イエズス会系の学校からカソリック系(?)の学校へ。そこは教師が授業中にアルコールを、校長が暴力を振るう学校である。

1歳上のモデル志望の女の子に一目ぼれし、バンドも組んでもいないし、歌ったこともないのに、わがバンドのミュージックビデオに出てほしいと頼み込み、嘘を本当にするための画策が始まる。メンバーを集め、いじめの暴力男もボディガードとして参加させる。みんなハードな家庭環境を抱えていて、主人公の好きになった女性も父親はアル中で交通事故で死に、母親は先進的に不安定で病院を入ったり出たり。彼女は彼の最初の観客が数人しかいないダンスパーティでの演奏をすっぽかす。彼氏とロンドンへモデルになるために行ってしまったのだ。しかし、すぐに彼女は返ってくる。男には何の当てもなかったことが分かったからだ。暴力も振るわれた。

主人公は高音の、とても素直な歌い方で、哀愁もある。演技も妙なはじらいを隠していながら、やることは大胆、主張は通すというキャラクターである。メンバーの信頼も厚く、彼が彼女とロンドンに行くと言うと、あっちで名を挙げておれたちを掬い上げてくれ、と賛成する。彼は祖父から学んだ操舵法で小船を操縦して恋人と50キロ先のイギリスへ向かう。

同監督のOnceという映画にはやられた。すぐにCDを買い、マルケータ・イルグロブァのアルバムも2枚買った。彼女はアメリカに移り住んだが、鳴かず飛ばずの状況のようだ。結婚し子供も産まれた。繊細な声で歌うif you want me 、The hillは心が震える。

 

38 見えない目撃者(S)

全然怖くなかったのでよかったのだが、本来、怖くあるべき映画なのだから、失敗作だろう。目の見えない元警察官の女性がとても能力が高く、ある事件を鋭く解決する。ぼくはてっきりヘップバーンの「暗くなるまで待って」風をイメージしていたので、拍子抜けである。主演吉岡里帆

 

39  奇跡の教室(S)

実話であることが最後に明かされるが、それは一つの驚きである。荒れ放題の教室がベテラン女性教師の誘いによって、ユダヤ人虐殺について調べ始め、コンクールでその成果が認められる。複雑な家庭環境を負った生徒たちがいさかいを止めて、どんどん眼前のテーマに入り込んでいくのが分かる。強制収容所の生き証人がクラスに入ってきて、教室の前方に向かうとき、彼らは一斉に立ち上がる。その老人は、生徒の質問に無神論だが常に小さな希望をもって難局を切り抜けたといった意味のことをいう。

彼らはフランス国がユダヤ人を収容所に送ったことを知らなかった。別の映画で見たことだが、アパートの目の前のスタジアムにユダヤ人が集められ、殺され、異臭が漂ってきたのに、虐殺を知らなかったとうそぶく人間もいる。

ホロコースト記念館だろうか、ナチスによって殺された人々の写真や名前を見ているとき、館内アナウンスが流れる。さまざまな人々がユダヤ人を迫害したが、社会主義者も彼らを資本主義の象徴、走狗として排斥したといっている。

女性教師が新しい試み始めたときに学校長は無駄なことをするな、と忠告する。そのときクラスに29の人種がいる、と言うが、ぼくの聞き違いだろうか。

この映画は教育が子どもたちをプラスにまとめていく話だが、ちょっとした仕掛けでナチス的な集団に変えていく映画「ザ・ウェイブThe Wave」もあった。アメリカであった本当の話をドイツで映画化された経緯がある。すごく怖い映画である。

 

40 45歳は恋の幕開け(S)

ジュリアン・ムーアはずっと見てきているが、なぜ彼女が人気があるのか分からない。しかし、どの作も身を入れて見ている。結局、16作見ている。追いかけているわけでもないのに、この数である。それでも彼女の出演作の半分にもいかない。代表作はやはり「アリスのままで」「エデンの彼方」だろう。演技をしていないように見えるよさなのか。その美人性の弱さなのか。ぼくは彼女の哀れそうな泣き顔が印象に残る。

この映画を見ると、言葉にするのが難しいが、彼女の最良の部分がよく分かる。オールド・ミスで、文学が好きで、卒業生と関係して尻軽女といわれ、その卒業生からも散々なことを言われる――いろんな役をやってきたメイル・ストリープだって、この種の役はないだろう。

その卒業生をマイケル・アンガルノ、父親で医者をグレッグ・キニア。マイケル・アンガルノは何かの映画で見ているが、思い出せない。グレッグ・キニアはレニー・ツウェルガーの「ベティ・サイズモア」で見ている。その映画では医者を演じる役者の役をやっていた。テレビの俳優さんというイメージである。

 

41 A Private WAR(D)

サンディ・タイムスの記者メリー・コルビンと彼女のカメラマン、ポール・コンロイの“従軍記”である。映画館で見逃した映画である。スリランカで片目を失明し、イラクで12年前の虐殺の死体を掘り起こし、アフガンで巻き添えで死んだ人々を写し、リビアカダフィにインタビューし、その不正を指摘し、シリア、ハマス反政府軍と一緒にいたことでアサド軍に殺される。戦地が変わるたびに、3 years before Hamasと出て、この映画が死に向かっていることが分かる。

アフガンの戦場で死にそうな少年を救い、彼女は次のように言う。A war is quite bravery citizens who endure far more than I will.戦争とは勇気のある市民のことである。私などの到底及ばない忍耐心の。

主演ロザムンド・パイク(ゴーン・ガールで見ている)、監督マシュー・ハイネマン(ドキュメント「ラッカは静かに虐殺されている」を見ている)、プロデユーサー・シャリーズ・セロン、そもそも彼女が主演をやりたかったらしい)。なぜ戦場に向かうのか。彼らがそこにいかないと歴史が闇に葬られるからである。サンディタイムスの部長は、「君が戦場に行くおかげで、われわれは悲惨なものを直接見ないですむ」式のことをいう。開高健がこの映画を見たら、なんと言ったろうか。コルビンもPTSDを病むが、開高なら“滅形”の言葉を使うだろう。

 

42 ライリー・ノース(D)

夫と子を殺された妻が悪党どもの復讐を果たす。香港、欧州で格闘技を学んでロスに帰ってくる。とんでも映画だが、彼女がスラムに身を隠し、そこの犯罪率が下がる、という設定はグッド。バスで一緒だった男の子とその隣で眠るある中の父親。バスから降りて酒屋に入ると、彼女が現れて拳銃で脅し、これで立ち直らなかったら殺す、と脅す。格闘技もグッドで、妙な設定が印象に残る映画である。悪徳警官役をやったジョン・ギャラガーは何かの映画で見ているが、思い出せない。主演の女優は少しジュリア・ロバーツに似ている。警官の古株役をやった男優はむちゃ下手くそ。

 

43 あなたの名前を呼べたなら(D)

インドの田舎生まれの離婚女性には制約が多い。主人公のラトナは因習を離れ、大都市ムンバイでメイドとなって自活の道を歩む。最初のシーンは実家なのか、貧しいのが一目で分かる状況で、そこに電話が来て、急いで引き払わざるをえないところから始まる。バイク、乗り合い大型自動車、そして都会のバスで、やっと着いたのが高級マンション。彼女はなにもの??である。守衛に「早いね」と言われ、「電話があったから」と答える。なにが起きていて、彼女がどんな人で、何という名前さえ分からない。次第に彼女はメイドで、ご主人の結婚が相手の浮気で破綻したことが分かる。彼女の名がラトナであることも、しばらく経って分かる。そこにもうすでにメイドという仕事につく人の無名性、存在のなさが表現されている。

ご主人様を慰めるために、自分が離婚者で、田舎ではそのまま死にゆくしかないので、ムンバイに来たという話をする。元気を出して、という意味である。そこから少し青年の目が変わってくる。

2人はやがてわりない仲になるが、その間の演出が細やかで、二人の気持ちが次第に盛り上がっていく感じが、シークエンスの積み重ねで表現されていく。たとえば、旦那さまは自室で英語のニュースを見ている。横移動のカメラで壁を一つ隔てたという設定で、ラトナがインド音楽の流れるメロドラマを見ている、という演出をする。その同じカメラワークがもう一度、繰り返されるが、今度は旦那さまがメロドラマを見ていて、カメラが横に動くとラトナが食事を作っているという絵になる。それで2人の位置関係がよく暗示されている。

ラトナと同じ年老いたメイドのことや(我が子のように育てたのに足蹴にされ、怒って叩いたら母親から英語でののしられた、と言った打ち明け話をする)、彼女の住む高級マンションの守衛などとの下世話の交情もじつに丁寧に織り込まれていく。なにかの祭りでラトナは激しく踊るが、旦那様が帰ってきたので一緒に自室に戻る。そのとき初めてキスをされる。

ラトナは幾多の障害を思い、身を引くことに。旦那様も父親のもとでビルの新築を監督していたが、あまり父親の眼鏡にかなう仕事ができていない。彼はその安定した地位を捨て、もといたニューヨークでの自由な生活に戻る。置き土産として、ラトナに念願のファッションデザイナーへの道として就職先をプレゼントする。ラストは、ニューヨークから彼女に電話がかかってきて、名前を呼ばれ、彼女はしばらく間を空けて初めて彼の「アシェラヴィン」の名を呼ぶ。

監督はロヘナ・ゲラ、女性である。主演はティロタマ・ショーム、旦那様はヴィヴェーク・ゴーンバル。階級間の問題を女性の視点から撮った映画って、さて邦画であったろうか。ぼくはそれを思い出すことができない。ましてこんなに情感豊かに。

 

44 凡ては夜に始まる(D)

シャリー・マクレーン、ディーンマーチン共演。シャリーが少し「アパートの鍵」からはお年を召された感じがあるが、本当に美しい。いい加減なプログラムピクチャーだが、別にそれでいいのである。

 

45 殺しの接吻(D)

タイトルがもう昔風、1970年の作である。登場人物の服装や映画の色調などもそう。ロッド・スタイガーがマザコンシリアルキラー、その挑戦を受けるのがユダヤ人の刑事ジョージ・シーガル、その犯人の第一目撃者がリーレミックで刑事の恋人となる。刑事の母親はなにかと息子に干渉する母親で、それが犯人像のヒントになっている。「アイリッシュじゃないと出世もできない」式のことを息子に言う。

刑事とリンカーンセンターの案内嬢を務めるリーレミックの恋がスマートに描かれ(警察署で犯人の特徴を訊かれたりした後、家まで刑事が彼女を送るシーンが楽しい。刑事の母親に初めて会ったとき、自分も厳格な性格の振りを装って取り入るところもいい。あとのシーンでベッドで大部のジューイッシュクッキングの本を見ながら、イディッシュ語の料理用語を覚えようとするシーンもいい)、その間に老婦殺しが連続的に起きる。ときに神父、配管工、老女、宅配フレンチ料理屋などしゃべり方も姿も変えて犯罪を繰り返す。ロッドスタイガーの熱演である。監督はジャック・スマイトで「動く標的」「エアポート75」あたりを撮っている。カメラを怪しげに操るとか、不気味な音楽を流すとか、恐怖させるための仕掛けはほぼやらない。そういうことにまだ興味がなかった時代のようだ。コロンボ刑事の「ホリスター将軍のコレクション」も撮っているが、映画と手法がそう変わらない。これはコロンボの質の高さを逆に証明している。十分に楽しめた佳作である。タイトルはNo way to trreat a ladyで、第一の殺人を聞いたときの刑事の母親のセリフで、そんな殺し方なんてレディに失礼、といった意味。

 

46 最高の人生の始め方(S)

プロ野球選手が交通事故で両脚の機能を失い、妻の支えで西部劇小説の作家となり、妻をがんで亡くし、希望を失ってある小さなサマーバケーションのための村にやってくる。酒浸りの日々である。隣に住む家族は離婚調停中の母親と3人の娘。その2番目の子がお話を作るのが好きで、自然と男に関心をもち、接触を持ち始め、母親ともども彼に惹かれていき、彼自身再び小説を書き始めるほどに回復していく。モーガンフリーマン主演。Don' t stop looking  out what is nothing. 見えないものを見ることを止めるな、と作家は少女に言い続ける。想像力こそ作家自身が見失っていたものであった、というわけである。

 

45 ジャスティ(D)

 2回目である。アル・パシーノが型破りの弁護士、その彼が余りにも硬直した法の解釈しかない判事を殴って警察の留置場に。クライアントの一人は関係のない事件で上げられ、服役している。おかま黒人は執行猶予が付くとパシーノに言われていたが、判決当日パシーノはどうしても出廷ができず、同僚に依頼するが、こいつがその裁判を忘れていて、遅れて顔を出した。判事は立腹して、実刑を科してしまう。その黒人は獄中で自殺をしてしまう。

あろうことかその頭の固い判事が女性への暴行で起訴され、彼を弁護士に指名する。人権派といっていいパシーノが正反対の人間を弁護するからには何か根拠があるだろうとマスコミも含めて考えるだろう、との読みである。パシーノの怪しいクライアントからパシーノは当然受けないつもりだったが、弁護士資格をはく奪される可能性がある、とのアドバイスで結局弁護をすることに。途中で判事のサド遊びの写真も手に入るが、弁護を続けることに。しかし、最後にどんでん返しが起きる。原題A Justice for allというのは憲法の一部なのかどうか。認知症初期の祖父にリー・ストラスバーグ、自殺願望の暗示にジャック・ウォーデン、嫌みな判事にジョン・フォーサイス。監督ノーマン・ジュイソン、もちろん「華麗なる賭け」「夜の大走査線」「シンシナシティキッズ」「ジーザス・スパースター」など綺羅星のごとくである。

 

46 シー・オブ・ラブ(D)

オールディーズのsea of loveが2つの殺人に関係していたことで、このタイトルがある。パシーノ主演で、under 18は無理な内容。ニューヨークタイムスを使って300ドルである種の暗号文の広告を打ち、異性との交際を求める。そこからテンポラリーな犯罪が起きる。

モダンジャズで始まり、事件の起きるときにオールディーズに変わり、ラストはR&Bで終わるという仕組みになっている。最後まで怪しい女性がキャメロン・ディアスに似ているエレン・バーキン、刑事の同僚にジョニー・グッッドマン(もうだいぶ太っている)、最初にほんとのちょい役でサミュエル・ジャクソンが出ている。監督はハロルド・ベッカーで、まったく見たことがない。

 

47 深夜食堂(S)

一つのパターンをつくり、それを少し壊したりしながら進行する。なかなか手だれな感じの演出である。主題歌が頭でかからず、途中から流れたり、話のなかに山下洋輔が出てくると、あとで曲がかかったり、いろいろやっている。ただし、女性ボーカルの巻き舌で日本語をだめにしているのは堪え難い。

パターンを崩すのには、ストーリーの登場人物は一度出てきたら次には出てこないはずなのに、それも途中から変更される、というのがある。いちおうオダギリ・ジョーとの間に何かがあったらしいが、それが謎として強く牽引するわけではない。

小林薫のキャラクターがいい。やくざが入ってきたときにはさっと包丁を握る、喧嘩が始まるとビール瓶を握りしめる。だけど、たいていのことは呑んで、鷹揚にかまえている。いまシリーズ2、さてどこで飽きるかだが。

 

48 ロング・ショット(S)

シャリーズ・セロンを見る映画。こんなにきれいな女優だったのか、である。振った男のところに戻ったときの彼女の不安げな様子が珍しい。これは封切りされたのだろうか。相手男性がセス・ローゲン、喜劇畑のひとのようだ。二人で制作を兼ねていて、会社をもってビジネスでやっている。long shotとは「勝ち目のない大穴」らしい。

 

49 アナ(T)

久しぶりの映画館である。リュック・ベッソンプロデュースの格闘ものである。最初のレストランでの殺しが圧巻である。明らかにジョン・ウィックの影響を見て取れる。顔への銃撃、敵の武器の奪い取りからの反撃など。時間を前に戻し、現在に帰り、といったことは、あまりアクション映画でやる必要がないように思うのだが。あまり魅力的な女性ではないので、2作目はないのでは? レア・セドゥにぜひ主役で格闘をやらせてほしい。主題歌がなんだか調子が古くて、なんでこんなレトロなナンバーにしたのだろうか。

 

50  深夜食堂(Netflix版シリーズ1エピソード7)

このシリーズ、まったく飽きがこない。それはいろいろな小技の連続になっているのと、監督が別々なのにテイストを通すプロデューサーのすごさ。オダギリを自由にしているのも、すごい。山下敦弘が撮ったりしてる。このエピソード7は度肝を抜かれた。いい女優さんだなと思って見ていたら、大学生のときに見まくった日活ロマンポルノの宮下順子だった。ぼくは、落涙。いまこの物語に出てくる料理を順番に作り始めている。ただし、ふだんから作っているオムライスとかそういうのは除外している。小林薫の料理の手元がすごくきれい。きっとプロの方のアドバイスを受けているのだろう。

 

51 深夜食堂(甘い卵焼き)

父親を継いで武侠映画を撮ろうとしている中国人が主人公、そしてずっと出ていたおかまがかつてその父親の主人公を演じた人間。映画愛が出ている。その武侠映画の登場人物たちの動きはまったくなっていないが

 

52 ルース・エドガー(T)

 非常にズルい作りの映画である。出自に目覚めた黒人青年がある仕掛けをして歴史教師に復讐をしているように見えるが、確証があるようには撮らない。一番の問題は、危険性のある花火を隠しておいたのになくなり、歴史教師の机は花火で燃えていながら、母親はそれを問い詰めないことである。子どもの犯罪に加担することを決めた、ということなのか。

かなり冒頭から、アフリカの音楽なのか、木製楽器に筋目を入れ、それをヘラのようなものでジャリジャリさせながら、オシッオシッというような切迫した声が流れる。アフリカの紛争地に生まれた主人公の野性復活を象徴するような扱いの音楽である。

 

青年はアフリカの銃弾の飛び交う紛争地帯から6歳で、アメリカの白人中流家庭に貰われてきた、という設定である。高校生になって、歴史人物のエッセイを書くように言われ、フランツ・ファノンについて書いたことで、歴史教師が疑念を抱き、青年の母親に注意を呼びかけ、そのエッセイと彼のロッカーで見つかった花火を渡す。ファノンは人殺しを肯定しているらしいが、それは民族の抵抗としてのものだろう。それを省いて、人を殺すことを肯定している、など曲解以外のなにものでもない。そう言われた時に、青年は反論をすべきである。アメリカの一般家庭の銃保有に目を向けず、アフリカに出自がある青年がファノンを引いたからといって騒ぐこと自体が非常に差別的な感じがする。この映画はそのこと自体を撃っているわけではないが、そこにまったく目が行っていないのはまずいだろう。

 

この映画の主人公は将来、どういう大人に育って行くのだろうか。優等生として奨学金を貰い、有名大を出て政治家といったところか。ほとんど悪意らしいものを見せないで立ち回る才は政治家向きかもしれない。歴史教師が休職で家にいるところへ花を持って訪ねるなど、表面上の辻褄はきれいに合うように工作されている。

校長、歴史教師、両親のいるところで、素直に教師に謝るのも、青年の企みである。教師はその言葉を信じられず、控えさせておいた女の子を呼びに行く。彼女は青年にレイプされた、と言って教師に申し立ててきた女性である。ところが、部屋から消えていない。教師はあらぬ嫌疑を青年にかけたと校長は判断をする。青年の術中にみんながはまっている。

歴史教師の家を訪ねた青年の跡を母親は追い、森の中の小屋でその姿を消した女子との情事の場面を見届ける。そのときに母親は、わが養子が女をたらしこんで、いいように利用していることに気づくべきである。この映画には、いくつも不自然さが目立つ。

どこかの新聞は黒人映画の傑作のような書き方をしていたが、ご冗談を、である。ちんけで下手くそな黒人ホラー映画を傑作と褒めたたえていた新聞である(のちにアカデミー候補となった)。どうも黒人が絡むと、相当に目が曇るらしい。

 

サンドラ・ブロックが黒人少年を町で見かけ、自分の子として育てる映画があったが、あれも親の理想にはめられることに黒人が反抗する場面がある。結局、そのあとに和解をするのだが。

 

53 家族を想うとき(S)

ケン・ローチである。イギリスの行きつくところまで行った姿である。ブレディみか子がつとに警告を発している社会的なインフラが抜け落ちた世界である。では、だれがこれで幸せになっているのか。企業と裕福な人間だけがのうのうと暮らしているとして、国は自分の矜持をどこに持っているのか。そういう政府をいつまでものさばらせる我々が悪いのか? 日本はこんな映画もつくれない。せいぜいお茶を濁したような是枝や「新聞記者」のような映画があるだけだ。奥さん役がのんびりしていて劇の緊張を和らげてくれる。大けがを押してでも仕事に向かう父親には、もう選択肢がないのか。

 

54 1987(S)

韓国の大統領直接選挙が始まった年でである。全斗煥が進める極端な反共政策と警察国家に一穴が開く。学生の拷問事件がどんどん知れ渡っていくからだ。まずは検察が青年の死因で心臓麻痺などの嘘をつきたくないと逆らい、監獄では看守の一人が民主派と結びつく。教会を軸として展開されるのは、東欧の社会主義の崩壊と似ている。そこにマスコミ報道がつながっていき、学生、市民たちの反抗がある。光州事件を扱った「タクシードライバー」より格段によくできている。チャン・ジュナン監督、ほかに2作あるらしいが見たことがない。ひるがえって、自ら自由や個人の権利を獲得しようと時の権力を倒していく経験を日本人はしたことがない。韓国のいまの政治を見るには、この民主化闘争は欠かせないのではないか。なかに「護憲打破」のスローガンが出てくるが、これは日本人には分かりづらい。別の訳を考えてほしいところだ。

 

55 はちどり(T)

韓国映画の良質な部分が戻ってきた感じである。どこかの映画祭で「パラサイト」と争ったらしいが、断然こっちのほうがいい。ちなみにhummingbirdは人生の喜びや存在の楽しさを表す精神的な動物sprit animal らしい。

この映画、企みと自然さとが混然としている。企みはそちこちに挟んであるが、冒頭、女がブザーを鳴らし、ドアノブをガチャガチャやって「オンマー」と叫んでも誰も出ない。てっきり海外にでも行っていた女がしばらくぶりに帰ってきたのに事情があって開けないのかと思うが、じつはネギとかを買いに行って1005なのに905のドアを開けようとしていたのだ。それが主人公の中2の少女ウニである。部屋を間違えるか、そんなアホな、であるが、この劇はそうやって始まる。すぐに引きの正面の絵になって、同じ外観のドアが並んだ公団? の絵になる。これは、そういう当たり前のワン・オブ・ゼムを扱う映画だという告知なのだ。

たしかに普段でもこういうことは起こるかな、ということの連続で劇は進む。しかし、なにか独自のものを見ている気分に次第になっていく。監督が丁寧にディテールを積み上げるから、そういう感慨に誘われるのである。ほぼ映画の3分の2が過ぎたころに、一度、スティールの絵で斜め上方から団地の全景が写される。瞬間のことだが、その編集は心憎い。

場面転換にも、??ということをいくつもやっている。一番は、何の用事かも分からず夜に訪ねてきた叔父。どうも意気が上がらない。妹であるウニの母が頭が良かったのに大学に行けなかった、という話をして、悄然として帰っていく。しばらく経つと、家族が黒衣を着て、車に乗って出かける。何の説明もしないが、叔父が死んだことが何となく分かる、といったようなやり方で、劇にリズムを付けていく。

ほかの企みの例として、音楽の使用を上げよう。最初、ピアノ曲が流れる。途中、それほど音楽を際立たせることはしないのだが、主人公ウニが尊敬する先生を事故で失って独り室内で演歌っぽい曲を聞いているうちに、地団駄を踏むような格好で声を挙げ始める。これでラストでは、せっかく抑制を利かせてきて撮ってきたのに残念なことだ、と思ったら、それからだいぶ続きがあって、最後はやはり違うピアノの曲で終わるのである。

 

企みではなく自然について触れよう。ウニが一度は別れた男の子とよりを戻し、二人が布団のうえでじゃれ合うときに、男子の上腕をさっと触って「筋肉」と言うシーン。これには、びっくりした。それと、尊敬する漢文の塾の女先生に階段で抱きつくところ。向こうに大きめの窓が開いていて、ソフトフォーカスがかかったような感じで木々が見える。先生の胴を抱きしめて、先生が腕をウニの背に載せたとき、向こうの木々が一斉に風に急迫のリスムで揺れる。おそらく演出なのだろうが、ごく自然に見える。

あるいは、その塾の女先生が、仲違いしたウニとその友達のためにうたう歌が変わっている。指を切った労働者が焼酎を飲んで心を癒す、という歌詞である。なんだ、こりゃ、である。

極めつけは、ウニが右の首の根元にしこりを発見し、医者から大病院に行くべき、と言われとぼとぼ歩いて帰ってきたら、小高い公園に母親を見つける。なんども呼ぶが、彼女はいっこうに気づかないのか、そのままどこかへ行ってしまう。このシーンは、なんのためのシーンが分からないが、ずっと後々まで残る印象深いものである。

 

母親は真野響子に似ている。父親は何かで見ている役者さんで、いかにも小さな餅(トッポギ)屋の主人の感じが出ている。それと、漢文塾の、悩みは深いのだろうが、外見にはなんの匂いもさせないスレンダーな感じの女先生もいい。この3人のキャスティングは抜群にいい。夫が子どもにきつく当たったときに、あんたにそんな権利があるのか、と暗に浮気のことをほのめかし、手近にあった電球のようなものをぶつける。腕から血が流れ、包帯を巻いてやり、翌日なのかソファにお互いに並んでテレビを見て、ケラケラ笑う。それをウニが見て、なにも表情を変えないのがまたいい。この抑制された演出は秀逸である。

 

大きな立派な50メートルも高さのある橋が落ち、その時間にバスで登校する姉が心配で、病院から家に電話するウニ。怠け者であることで助かった姉。それで安心したのか、いつもはウニに暴力を振るう兄がえんえんと泣く。ウニが首の手術をするときにも父親が泣く。おそらくこの家族はこの情愛でつながり、あとは毎食の料理が紐帯を強固にしている。漢文塾の先生がじつはその事故で死んでいたという落ちは、画竜点睛を欠く感じか。

中二のウニにいろいろなことが起きる。男子とのキス(彼女が求めたもの)、後輩女子からの同性愛、首の手術、ソウル大に行くぞ!とけしかける英語教師、クラスのみんなから不良と言われ、ソウル大の学生なのに人生に倦んでいる感じの漢文塾の先生、姉の放蕩、両親の喧嘩、餅屋への差別、兄の暴力、普通な子だと言いながら、じつにいろいろなことが起きる。ウニばかりか親友も親の暴力を受けていて、それが一つの主題にもなっている。漢文の塾の先生から、兄の暴力に抵抗しろ、と諭される。彼女にも何かそういう背景があるのか。

 

途中に何度か「立ち退き反対!」の文字を掲げた一角を通り過ぎる。ウニは決まってそこに目線がいく。漢文塾の先生に、これは何か? と尋ねると、困っている人々がいる式の答えた返ってくる(これは正確に記憶していないので、あとで見直した時に修正する)。ここのシークエンスの扱いはおざなり、という感じがする。

 

最後のシーンが、周りに同級生が遠足にでもいくのかにぎわうなかに、彼女だけが一段違うところにいるような表情を見せている。このエンディング、見事であるが、何かの映画で見た記憶がある……。

 

某新聞がまたおかしなことを書いていた。韓国の近現代史を描いた映画だというのである。何を見て、そんなアホなことをいうのか。

 

56 スキン(T)

人がよく入っていた。白人主義者が子持ちの女性に出会って改心するが、昔の仲間に脅され、それでも立ち直る話である。その出会った女性が強いことが、彼を救ったことになる。

 

57 waves(T)

前編と後編の映画みたいである。前は兄の唐突な挫折、後は妹の静かな幸せを描いている。前半はうるさめな音、後半は比較的な温和な曲がかかる。兄も黒人でない女性を愛し、妹も白人を愛する。そこにテーマがあるわけではないが、却って葛藤がないのが不思議である。父親は建設現場の監督官(?)で、家庭は自分のマネージメントで動いていると思っている男で、長男が肩を壊しレスリングの夢を断たれ、妊娠した恋人をはずみで殺して無期で入獄してからは、すごく弱い人間に変わっていく。後添えの妻ともうまくいかない。それが、次女の素直さによって回復されていく。次女役のテイラー・ラッセルのための映画である。

 

58  マイスパイ(S)

元陸軍特殊部隊からCIAへ。ある件でドジって、ある人物の偵察係に。その人物の姪っ子に盗撮、盗聴がバレるが、この子、そしてその母親に猛々しいこころが癒される。ろくでもない映画だが、最後までしっかり見てしまった。

 

59 ラスト・ディール(S)

舞台はフィンランド。貧乏な老画廊主が最後の賭けに出る。オークション前の下見会で目に留まったのがキリスト像。出品側は、無署名で作者名は分からず、という。当日までにイリヤ・レーピンの作であることは確認できたが、なぜ無署名なのか。ロシアの画家だが、文化村でロシアの画家展を観たことがあるが、意外なほど繊細な絵が多い。

競りの当日、やはり目利きはいるもので、1000ユーロで始まって1万で老人が競り落とした。3日後には購入費を払わないといけないので、そちこちから金を集め、貯金をしていた孫からもかすめ取る。「貯金で金持ちになった奴はいない。投資すべきだ」とだますのである。孫の母親、つまり娘とは疎遠だったが、この件で関係修復がさらに難しくなった。

結局、目が節穴だったオークションハウスが邪魔をして、買い手がつかない。署名のなさが後まで尾を引く。結局、老人は店をたたみ、その金から孫にも借りを返す。死の間際にミレスゴーデン美術館(スウェーデンに実在する)から「本物です」の答えが返ってくる。署名がない理由は、キリストへの敬虔な思いからだ、という。この絵は遺産として孫に残ることになる。

とても光景がきれいな映画で、孫がバスから港で降りるシーンは実に均斉がとれていて、見事である。そして、老人と娘が小さな和解を迎えるシーン、俯瞰で銀杏の黄色い葉が画面の左右全体に拡がり、下方3分の2ぐらいが公園の道を写している。その色と配分が見事である。

そのあと、娘が父親のことを思い出しているのか、ベランダの柵に身を預けて外の景色を見ている。その右手の指が柵のうえで上下する。すると、老人の手が重なり、それがピアノを弾き始めて、老人の姿が写しだされる。このシーンもいい。

音楽がマッティ・バイとなっている。サントラがあるらしいが、買うかどうか迷っている。監督クラウス・ハロ、ぼくは「こころに剣士を」を見ている。

 

60 ストウーバー(S)

 インド人のストウーがウーバーの運転手をしているので、表題のようになる。老眼の手術をして、客として乗り込んできた視力が欠しいマッチョ警官に犯罪捜査に巻き込まれ、軟弱な男から強い男に変化するというもの。「マイ・スパイ」のディブ・バウティスタが主演。楽しく見ることができた。 

 

61 シグナル(S)

韓国製作で、推理もの。明らかにTrue Ditectiveを意識して、イントロの部分などが作られている。本編もなかなか重厚で、過去と無線電話がつながっている設定なので、どこかで嘘っぽくなるのではないかと思ったが、あにはからんや、である。ある緊張した感じでいま13話まで来ている。4つの事件が解決されることになるが、最後の事件が過去と現代が濃密につながる仕組みになっている。やや女性刑事の演技に幅がないことが、回を重ねるごとにはっきりしてくる欠点がある。16作で終わりだが、最終回はさすがに時間が整理され過ぎて、違和感がある。しかし、この作品が話題にならないのはなぜか分からない。かなりのレベルの作品である。

 

62 大いなる遺産(D)

原題はa great expectationで、大いなる期待、といったところ。主人公の少年が青年となっても、ある一人の女性ステラ(グィネス・パストロー)を愛し抜く。その少年には絵の才能があって、ステラの母親(アン・バンクロフト!)の差し金でニューヨークのギャラリーで個展が開かれるが、じつはすべて少年時に海で遭遇した脱獄犯(デ・二ーロ)のはからいであることが分かる。青年をイーサン・ホーク、とても美しい。それが中年に差し掛かると、途端に薄汚くなる。

キュアロンには「ローマ」でもそうだが遊び心がある。青年が飛行機でニューヨークへ向かうシーン、じつは地下鉄に乗り、飛行機の模型を動かすことでそれを表現している。あるいは、自分のものとなったと思ったステラがヨーロッパンに旅立ったとき、彼が見上げる空に彼女の乗った機が過ぎようとし、その窓に彼女の顔が見える、というベタなことをやっている。

このふてぶてしい感じが、違和感なく見ていることができるから不思議である。映画の受け手の心理を知り尽くしているのではないか、と思う。

 

63 姉妹(D)

 全篇、間然することなく進む。これ、傑作ではないだろうか。あまり歳の離れていない姉妹を中心にして、徐々に近代の合理化の波が及んでくる様子が描かれる。姉の圭子が野添ひとみ、妹の俊子が中原ひとみ、姉はクリスチャンだが、最後は現実的な選択で銀行マンと見合いし、結婚する。妹はまだ高校の1年生、相変わらず正義を通し、一本気である。寮に出入りするめし屋に、汁粉などの借金を抱えて払えず、かわりにアイスキャンデー売りのバイトに精を出す。2人は町中にある叔母の家に厄介になり、学校に通っている。年末などにバスで山奥の水力発電所のある村まで帰る。

姉が恋心を抱くのが水力ダムの社員内藤武敏(岡さん)、姉妹の父親が河野秋武(ダム会社の課長)、脇に多々良純(姉妹の叔父)、殿山泰司(長屋の住人)、望月裕子(叔母)、加藤嘉(叔母のところに雑貨を売りに来るハッチャンの父)、北林谷栄(ハッチャンの母)などを配する。

 

俊子は小さな近藤を略してコンチがあだ名。彼女の友達に金持ちの子がいて、そこへ遊びに行く。いずまいを正した母親がお茶を運んでくる。そして、コンチに「お父さんが毎月、お金を送ってくるの?」とか「(世話になっている)叔父さんはどんなお仕事」などと聞いてくる。「大工の棟梁」と答えると、「建築士ではないのね」と軽蔑した言い方をする。その友達の姉は足が悪く、人と付き合おうとはしない。弟は11歳になのに5歳にしか見えない、という。「私は幸せ? 不幸?」と聞くと、コンチは「不幸」と答える。彼女は、正直なのはあなただけ、キスしていい? と尋ねる。コンチは「私が好きなの?」と聞き、相手が頷くと「いいわ」と言って、口づけをする。「ひゃっこいね。へびみたいだね」と言う。

 

ハッチャンが手製のものを含めて、叔母の家に売りに来る。ハッチャンの話から、家が荒れ放題と聞き、俊子は姉と一緒に掃除に出かける。ハッチャンは不在で、盲目の加藤嘉結核北林谷栄がいる。すっかりきれいになったときに、ハッチャンが帰ってくるが、結核が伝染るから二度と来るな、という。しばらく経ってハッチャンが過労から死に、姉妹で訪うと、北林が「なんで私らは悪いことを一つもしていないのに、カタワだらけなのか」と言う。コンチは、「お金持ちにもカタワはいる」と言って慰めようとするが、姉は止めようとする。北林は「うちらの家でカタワという言葉を使ったのはトシコさんだけ。私たちを励まそうとしたのよね」と俊子の気持ちを推し量る。

 

映像的にも面白いのがいくつもある。まず、姉と一緒に岡さんと話をしたあと、後ろから2人をとらえたショット。すっと左足が横に動いて、あれよれたのかなと思うと、コンチの頭が姉の肩にのっかり、そのまま進んで行く。このカットがおしゃれである。

河原で流行歌を歌いながら馬を洗う殿山泰司の連れ合いに姉が会う。私は働くのが好きだし、子どもを立派に育てたい、と女は言う。夫がいない隙に男を咥えこんだ女の言葉とも思えない。姉はつり橋をこっちに向かって歩いてくる。その左下、かなり小さく見える感じで女が馬を洗っている。このショットが新鮮である。

さらに、岡さんと話をして、姉は上り坂を上がり、その下のほうに同じ方向に進む岡さんが見える。これもまた2人の人物の動きを1つのショットのなかに入れ込んだ構図である。

水力ダムの社員にも合理化、首切りの手が伸びてくる。どうにか父親も岡さんも第一波は免れるが、だからといって仲間がいなくなるのは無念である。コンチの修学旅行を父親は諦めさせる。仲間が切れられているのに、そんなことはできない、それが俺の性分だ、と言う。コンチはそういう父親のことを認めているが、自分は男になりたい、と父親に言うと、「なぜか?」と聞かれるので、「革命ができるから」と答える。父親はとんでもないことを聞いたという様子で、それまでやっていたコンチの薪割りの手伝いを中止させる。コンチは男に生まれたほうがよかったかもしれない、と言い出したのは父親だったのだが。姉と2人、雨の町のなかをこちらに歩いてくる。カメラは下からやや遠景に2人を撮っていて、手前に大きな四角いコンクリートがある。その壁面にビラが貼ってあって「首切り、断固反対!」の文字が見える。この演出も、うるさくなくてグッド。

 

叔父の多々良純は芸者遊びをしたり、家で博打場を開いたり、遊び人である。その多々良が「どうも不景気でいけない。日本人は戦争がないと食っていけない」と言う。そこで俊子が「叔父さんはビキニの灰をかぶるといいわ」とまぜっかえす。この映画は、ビキニの核実験の翌年に撮られている。

 

コンチは女子寮に泥棒が入ると、捕まえるためにグラウンドまで追っかけていくような子である。話し方は「~だよね」と男のよう。姉の結婚に反したしていたが、文金高島田の姉を別室に呼んで、お互いに自分たちの幸せをつかもう、と理性の言葉を吐く。愛らし顔に、このキャラクターである。それが映画の求心力になっていて、貧困、差別、合理化といった社会問題に触れていく様子を自然な感じで見ていることができる。プロガンダ映画にしない意志を明確に感じる。

 

この映画監督のことをもっと知りたくなった。

 

64 ギルティ(S)

その手があったのね、といったオランダ映画である。登場人物はほぼ1人、それで室内で終始する。緊急対応のオペレーターだが、本当は警察官で何かの件で査問を受けているらしい。電話の向こうから、助けてくれ、という女の声が飛び込んでくる。それへの対応と、自らの悪への言及が重なって、終いまで強い緊張感で見ることに。誰が主役だったか、電話対応だけが事件解決の手段という映画があったが、たしかあれは外部も撮影されていたはずだ。

 

65 スネーク・アイズ(S)

パルマ監督にニコラス・ケイジゲイリー・シニーズ。暗殺とボクシング試合と友情とエロ。パルマはやはり二流である。友の裏切りが分かった後のテンポの悪さ。それでもパルマの作品を10作は見ているのだから、しょうがない。

 

66 ソワレ(T)

夕方から暗くなるころをソワレというらしい。ひょんなことから介護の仕事をしている女性と逃げることになった売れない役者。女は出訴してきた父親に強姦されそうになり、はさみで刺し、そこを役者もどきが助けたことで、逃避行となる。途中で、「おまえのせいでこんなことになった」と彼は女をなじるが、女と逃げようとしたのは彼の言い出したことだし、このセリフは劇の進行とも合っていない。

ラストの場面、高校生のころの自主映画づくりを撮ったビデオを見ているのだが、高校生の自分が演技で女のしぐさと同じことをしているのを知って驚く。その教室の外にはセーラー服を着た女が刑事らしき人間に連れられて行く。さて、このシーンはなんのために撮ったのか。ラストに要らぬことをするな、である。

一か所、逃げ出した男女が廃屋で膝を立てて、正面を向いて座っている。その後ろの壁に影が立って、2人が踊りをおどりだす。この自由さは余り日本の監督に見られないものなのでグッド。

 

67 次郎長三国志・次郎長初旅(S)

マキノの最初の次郎長三国志である。あとで鶴田浩二で撮っているが、断然こっちのほうがいい。見るのは3回目。主演の小堀明男がとてものんびりしながら要所要所できりっと締まった演技を見せる。ある種、日本のリーダーの理想型を表している。大政の河津清三郎が参謀役がぴったりで、おっちょこちょいの桶屋の寅吉を演じる田崎潤、法印大五郎の田中春男(最高のバイプレーイヤー)など、他の配役も見事である。後半も後半にどもりの石松が出てくるが、これが強烈なキャラクターである。森繁の迫力が十分に感じられる。それまでの流れを全部食っちゃった。

 

68 ジミー、野を駆ける伝説(S)

ケン・ローチ監督、時系列がよく分からない。10年前(1922年?)に政治的弾圧からアメリカに逃れ、いま帰ってきてまた人々の先頭に立ったことでまたアメリカに、ということのなだろうか。カソリックが権威と権力をもち、警察、地主階級、自警団などと組んで、人々の自由を抑圧する。そこにイギリスの政治のサポートがあり、IRAは教会に遠慮して何も手出しをしない、という構図である。 小作農や鉱山労働者などが差別の構図のなかにある。

かつてジミーたちが建てたホールが廃屋のようになっている。若者たちがジミーに建て直しを求め、ダンス、詩の読書会、大工仕事の指導、合唱などをそこで行ううちに、司祭が露骨な介入をしてくる。ホールに集まる人間をチェックして、教会での説教のときにその名前を公開するようなことまでやる。仕事のない人間には紹介をしよう、娘がロンドンにいて帰ってこないなら手助けしてやろう、ホールに行くなら不買運動をかける、と懐柔と脅しの両方で籠絡していく。ジミーは再びのアメリカだが、自由の象徴だったアメリカも大恐慌を経て、貧富の激しい社会へと変貌しつつあり、決して夢の国ではない。

かつての恋人、いまは2人の子のいる女性ウーノが彼が贈ったドレスを着て、2人で音楽もなしに踊るシーンが美しい。

 

69 ラーメンガールズ(S)

西田敏行というのは芸のない役者だなとつくづく思う。ただ差別的に怒鳴るだけである。設定もおかしい。ラーメンを極めた男という設定なのに、弟子になったアメリカ娘がなかなか成長しない理由が分からず、どこか田舎のワケの分からない婆さんにアドバイスを貰いに行く。とうとう娘を後継者と認めたら、その娘がアメリカに帰って店をオープンする。なにそれ? である。彼女に彼氏ができるが、英語が上手な在日朝鮮人という設定。これもなんだかなぁ、である。

 

70 スゥインダラーズ(S)

コンゲームだが、ちょっとやりすぎ。それでも面白く最後まで見ることができた。主人公のヒョンビンが少し体形に肉が足りない。敵ボス代理人のペン・ソンウは何回か見ているが、今回はコメディが入っていてOK、女メンバーがナナという名前らしく常盤貴子あるいは上戸彩に似ている。悪党検事がユ・ジンで、オールドボーイのときのやはり哀愁が左の頬に残っている。政府側悪人が全体に灰汁が、悪が? 足りない。

 

71   どこに出しても恥かしい人(T)

こういう映画を見るには川越スカラ座あたりは最高である。近くのハンバーガー屋は今日は休みだ。あぶり珈琲店でコーヒーを飲み、時間を潰す。映画自体は別に何かの目的をもって作ったというものではない。友川かずき、その競輪通いと酒の日々、彼の長男、次男、四男が出ていたのが不思議といえば不思議。その三人それぞれとやはり競輪場で車券を買う。ちゃんと親父の及位(のぞき)という珍しい苗字を継いでいる。ドキュメンタリーでよくあることだが、録音が悪く、それに彼の発音の問題もあるから、よけいに何をしゃべっているのか分からない。別にそれでいいのだけれど。できれば、「夜を急ぐ人」を聞きたかった。神楽坂「もー吉」のおやじが出ていたのはびっくりした。

 

72 エノラ・ホームズの事件簿(S)

エミリー・ボディ・ブラウンというほぼ新人といっていい少女が、シャーロック・ホームズの長く会わなかった妹を演じる。サイエンスから格闘技まで教えてくれた母がロンドンへと姿を隠してしまう。それを負う娘、その娘をホームズ兄弟、そこに絡む美少年貴族。結局、母は何か暴力的な手段で民主制を進めるための義挙を行うらしいのだが、そこを映さないで終わってしまう。残念だが、非常にかわいげのある少女で、これから出てくると思われる。

 

73 天使のくれた時間(S)

2回目である。ニコラス・ケイジティア・レオーニ(最近、見かけない)の恋愛もの。恋人ニコラスがロンドンからニューヨークへビジネス研修に向かおうとするが、ティアは別れると、これが永遠になりそう、と引き留めるが、ぼくらの愛は永遠さ、と言ってニコラスは旅立つ。案の定というか、それ以降、関係が途絶。

13年後、投資会社の社長となった彼に彼女から電話が。それに応答せずに、一人のクリスマスを祝うためにエッグノッグを買いにコンビニに寄ったところ、当たりくじを換金しろと黒人の客が入ってくる。店の人間が数字を書き換えた偽物だと言い返すと、その黒人が銃を出して脅す。ニコラスは200ドルを払うから、その当たり券をもっといい店で換金したらどうか、と仲介する。その黒人と外に出て、やや歩くうちに「なにか不満はないのか?」と彼が聞くので、「何でもある」と答える。そこで突然、別のありえた世界へ飛ぶ。この転換が潔くてオーケーである。

2人の子どもに、自分を熱烈に愛する妻。しかし、いずれ元の世界に戻り、弁護士として活躍している彼女に会いに行く……という単純なものだが、家庭のよさをじっくりと描くので納得性がある。おかしいのは、NY選択前の世界に戻ったはずなのに、ニューヨークの近くに家があることである。自分の境遇の変化を確かめにニューヨークへ行く関係上、この設定にしたのだろう。

ニコラス・ケイジは最近はどうも汚い役柄のものが多い。残念である。

 

74 ブレイクアウト(S)

 ニコラス・ケイジ続きで「ベンジエンス」を見ようとしたら、前に見たやつだった。それでこれにしたのだが、やはり見たことのある映画だった。それでも最後まで見てしまうのだから、疲れる。ニコール・キッドマンが好きで、彼女を見たくて見た映画ではないだろうか。室内に終始する強盗話だが、説明するのも面倒なくらいいい加減な映画である。ニコラスの頭の毛がいよいよ危ない! それにしてもニコラスの映画も結構見ている……。何の映画だったか、ニコラスみたいに過剰にやらなくていいんだよ、というセリフがあった。思わず噴き出したものだ。

 

75 鵞鳥湖の夜(T)

「薄氷の殺人」のティアオ・イーナンである。きれいな映像と残酷な映像が併置された映画。今回もそれを期待したが、思ったほどはスタイリッシュではなかった。影を面白く使っていて、カーテンに透けて動く人物、階段での追い駆けっこを影を映して表現したりしている(「第三の男」を思い出す)。音楽がときに三味線(?)と柝の音が入って、まるで篠田正浩の映画を見ている気分だ。主人公の活劇がグッドである。傘を相手の腹に刺して、それが突き抜けて背中で開き、その傘を噴き出した血が染める、という味なことをやっている。 

主人公が過って警官を殺し、鵞鳥湖に逃亡してからが無駄に長い。その湖でホアという男の下で水浴嬢(海水浴に来る客と遊ぶ娼婦)をしている女が、主人公の逃亡の手助けをする。光る靴を履いて、男女が同じ動きをするダンスシーンがあるが、たしか前作でもそういうシーンがあった。

主人公の妻を演じたレジーナ・ワンが美しく、眉間にしわが寄ると往年の藤村志保を思い出すが、もう一人よく似た若い女優がいたが、それがどうも思い出せない(あとで藤吉久美子であることを思い出した)

朝日新聞で監督インタビューが載っていたが、古典的な撮り方とアクションのことを言っていた。さもありなん、である。

 

76 ザ・ウェイ・バック(S)

何作かバスケものを見てきているが、どれも面白い。弱小チームが奇跡的に強豪チームになっていく、という設定が多い。今回はベン・アフレックが元スーパープレイヤー、しかし父親の期待に応え続けるのが嫌で大学にも進まず。子どもが脳腫瘍で死んでからは、離婚もあって酒浸りの日々。それが、教会経営の母校からの誘いでコーチに就任し、次第に成績を上げていくが、親戚の子の死を見て、また酒浸りになり、コーチを解任される。子どもたちは彼のためにも優勝を勝ち取ろうとし、彼自身ももう一度やり直しそうな気配で映画は終わる。予定調和だが、これでいいのだ。

 

77 キリングフィールド(S)

前に同題でカンボジア・クメールルージュの虐殺を扱ったものがあったが、これは現代のテキサスの湿地帯での連続殺人の実話を題材にしたらしい。それにしても、無法の地域があって、そこには警察も手を出せない、というのは、アパラチア山脈の殺伐とした地域を扱った「ウインターボーン」もそうで、アメリカってどうなっているんだと思う(トランプが手を付けたのは、こういう地域である)。少女のころのクロエ・グレイス・モレッツが出ている。彼女の新作がしばらく来ない。

 

78 ブラッドファーザー(S)

メル・ギブソンの映画は、あのリアルキリスト以来である。ダメな父親がスーパーマンで、娘の窮地を救う。リーアム・ニーソンが開いた世界だ。娘の父親との距離感がよくて、最後まで見てしまった。

 

79 スーパーティーチャー(S)

ドニー・イェン健在なり、である。破天荒高校教師になって大活躍。すべてが予定調和だけど、面白く見てしまった。アクションはほんのちょっとだけ。

 

80 フォージャー(S)

トラボルタ、クリストファー・プラマーが親子、孫が脳腫瘍で死が近い。贋作で刑務所に入っていた父親が組織の仲介で娑婆に。その代償にモネ「散歩、日傘を差す女」の偽物を描いて本物と換える、という話。トラボルタのまったく表情のないのが、かえってすごい。それで哀愁と苦悩の父親の感じが出ている。同じ詐欺師のプラマーが枯れていてgood、名役者の名に恥じない。だましと親子の愛が絡んで、まったく無理がない。残念なのは、盗みに迫力がない点。

 

81 異端の鳥(T)

 映画的な快楽に満ちた3時間である。まんじりともしない。見終わって、何十年ぶりかに映画パンフレットを買った。

どこの地方なのか、それも判然としない。ロシア語なのか、それにしても荒涼とした土地だ。平屋の家がポツンと一つ、少し離れて納屋だろうか。その間に距離をおいて井戸があって、とても映像が美しい。何度か引きの絵で、それが示される。

老婆(マルタ)が一人、そして「家に帰りたい」と言う少年が一人。何かの事情で親が子を預けたらしい。少年が白い小動物を抱えて林を駆けるシーンから始まる。あとを追ってくる数人の少年たち、彼らは少年の動物を奪い、油をかけて焼き殺す。老婆の作るスープには芋と肉が一個ずつ、掬うこともままならない量の液体が薄い皿に張ってある。老婆は洗面だらいの少ない水で節のある足をちゃぽちゃぽ洗うのが習慣である。そんな日々のある朝、イスに座ったまま老婆が死んでいるのを見つける。驚いてランタンを落とし、その火が家を、老婆を焼き尽くす。そこから少年の苛酷な旅が始まる。

 

ある村で競売にかけられ、少年はオルガという呪術師に貰われる。呪術師は、この少年は禍をもたらす者だ、と言う。村人たちは老婆が通ると、頭を下げて敬意(?)を表す。少年は蛇で患者の腹を撫でたり、病を治す手伝いをするが、疫病がうつり、オルガは彼を頭だけ出して地に埋める。翌朝には治っているが、彼を餌食としてカラスが何羽も襲ってくる。オルガが間に合い、助かる。しかし、村人の差別はきつく(ユダヤ人ということらしい)、川に落ちて木の枝につかまって流される。

 

ミレル(ウド・キアー)の粉ひき小屋の木組みに引っかかり、助けられるが、ミレルは「そいつは疫病神だ」と言う。ミレルは使用人と妻の不貞を疑い、妻を革のベルトで鞭打つつ。ある夜、ミレルが袋に何か生き物を入れて戻ってくる。ちょうど食事ができ、3人の会食が始まる。少年は後ろに控えてテーブルにはついていない。ミレルが突然立ち上がり、袋から出したのは猫。家の猫とそれが声を挙げてつがい始める。その間、無言だからこそ、異様な緊張が張り詰める。ミレルは酒をあおり、突然テーブルをひっくり返し、使用人の目をスプーンでえぐり、家からたたき出す。この沈黙の中で緊張が高まる感じはアリス・マンローの小説の味わいに近い。例によって皮ベルトによる鞭打ちが始まる。少年は朝まだきに猫が食べそうになっていた目玉を拾い、家を出て、途中で木の根元で悲しんでいた下男にそれを渡す。男は自分の穴の空いた目にそれをはめこみ、また泣き出す。

 

今度はレッフ(レフ・ディブリク)という鳥売りの男と出合う。レッフはルドミラと野原で逢引し、事をいたす。ルドミラは淫奔で、村の青年たちにも誘いかける。母親たちは怒り立ち、ルドミラのほとに壜を差し込み、死に追いやる。レッフは首を吊って自殺する。レッフは一羽の鳥の羽根に色を塗り、空に放つ遊びを教えてくれたことがある。同じ種の鳥が蝟集し、その変わった羽根の鳥を攻撃し始める。やがて、ひょろひょろと落ちてくる。この映画は、原題the painted birdsという小説がもとになっている。このレッフだけが、善人である。彼は鳥を愛しているし、ルドミラを肉欲的にだが愛していた。

 

少年は森で右足を怪我した馬を道連れにしてある村にやってくる。村人は役立たずの馬をすぐに殺してしまう。その村に武装の一団が襲ってくる。西部劇のように小高い丘に馬に乗った男たちが居並ぶ。村人の虐殺が繰り広げられる。ぼくはネイティブアメリカンを殺しまくるキャンディス・バーゲンの「ソルジャーブルー」を思い出した。

ドイツ兵へのいい土産になる、ということで少年はドイツ軍のところに連れて行かれる。そうと分かるまでは、コザック隊長の目は、少年を性的に狙うものに見える(これがあとのガルボスの話の伏線になる)このあたりでやっと、どうもソ連から東欧にかけたあたりの地域の話かもしれない、と分かり出してくる。たとえば、ポーランドあたり。リリアン・ヘルマンの「Scoundrel Time」という自伝には、ソ連に作家協会の招きで行き、招待されるままに移動し、前線に行ってみますか、と言われ承諾すると、ドイツ軍の虐殺が横行しているポーランドへと越境していた、という描写がある。

 

少年はドイツ兵の軍隊に連行され、そこである将校(ステラン・スカルスガルド)のテントに入れられる。彼は少年を殺す役目を負ったが、空に向かって銃を放ち、逃がす。列車の貨車に人が詰め込まれている映像があり、ユダヤ人の護送車だと分かる。木の囲いを破り、次々と草原に飛び降りるが、ドイツ兵の銃は的確に殺していく。その死体のたくさん転がるところに少年が通りかかり、まだ銃弾を浴びてなお這って動いている同じ年頃の少年から靴や着るものを奪ってしまう。

 

次は教会の牧師(ハーヴェイ・カイテル!それと気づかないほど、俗気が抜けている)に救われるが、信者ガルボス(ジュリアン・サンズ)に貰われる。彼は少年を犯し、虐待する。牧師が時折、酒を買いにやってくる。その弱みがあるのか、牧師はおかしな気配を感じても、直接注意することはしない。

少年はある廃墟でナイフを見つけた。それでガルボスを刺そうとするが、見つかり、その廃墟に案内するように言われ、縄でつながれて現地に向かう。廃墟のまえの井戸のなかにねずみが満ちていることを知っている少年は、井戸を覗く男を縄ごと引っ張り転落させる。

 

雪原をさまよい、氷が割れて、ずぶ濡れになる。明かりがぽっと見えたので、そこへ這っていく。女が助けたらしく、ラビーナという。老いた男が横たわり、それに粥のようなものを食べさせる。夜、少年がそばにいながら、二人は交接をしている。ところが朝には老人は死んでいて、その埋葬を少年がやる。ラビーナは少年を誘い、少年も受け入れるが、いつしか疎まれる。性的な能力に欠けるところがあるのかもしれない。ラビーナに誘いをかけるも、つれない様子ばかり。ある夜、馬の頭を切って、彼女の寝室に投げ込む。性的なモチーフはミレルのところから露わになるが、宗教の欺瞞を見た次のシークエンスでラビーナとセクスするのは意図的なものがあるだろう。彼は林の中でひとを殺し、盗みを働くことに躊躇は見せない。

少年は途中で何度か声を出していたが、このあたりではもう一言も発しない。「そのほうが、身の安全かもしれない」と考えたが、パンフには、少年が喋れなくなったと書いてあった。演技で表現されないから、具体的なきっかけがよく分からない。

 

ソ連兵の駐屯地で孤児として扱われ、親切な将校からは「スターリンはいわば列車の運転手のようなものだ」「赤軍の誉れを失うな」などといわれる。狙撃兵のミートカ(バリー・ペッパー)は、仲間が殺された仕返しに、ある村に少年を連れて出かける。2人で木に登り、そこから村人を狙撃するミートカ。彼はほかへ移される少年に贈り物をする。それは拳銃で、戦争が終わったあと、町中の行商人にユダヤ人、ブタ野郎と言われ、殴られる。その仕返しに、その拳銃でその男を殺す。彼のもとに父親と名乗る男が現れ、最初は反発するも、母親のもとへ2人で向かい、おだやかな草原の風景がカラーで映されて、ジ・エンドである。そのバスの汚れた窓に、彼は指でなぞってヨスカという自分の名を彫り込む。

 

残酷なシーンも多々あるが、白黒のおかげでどぎつくは見えない。音楽はラストに主題歌があるだけで、途中は一切なし。コザック兵が酒場でバカ騒ぎをするときに、バイオリンが奏でられるだけ。まるで中世の時代かと思えるような映像で始まり、途中でドイツ機が空をよぎることで、2次大戦であることがやっとわかる。それくらい彼の歩く土地土地は因習と差別に色濃く塗りこめられている。飛行機が飛び交う時代のこととは思えない。そこもまた狙いだったのではないか。ずっと続く人間の業のような残酷さを描くために。民衆の蒙昧さと比較して、そして民族兵と比べて、ソ連兵、ドイツ兵が好意的に描かれている。それはなぜなのか。

言語は人工のスラブ共通語を用いることで、どこの国と限定されない配慮をしているという。それは原作でもぼかされているらしい。少年の風貌もモンゴル人のような感じがして、ユダヤとは思いつかない。その父親は明らかにジューイッシュな風貌をしているので、これも監督ヴァーツラフ・マルホウルの意図的な配役である。少年はチェコの街で見かけた素人少年だという。

構想から11年、著作権の探索・獲得に2年近く、書いた脚本が17パターン。彼は、原作の意図するものが映像で表現されていなければ意味がない、と発言している。監督はポーランドで撮影所の所長を務めていた人物で、この作品はまだ2作目。堂々とした、隅々まで神経が行き渡った、この先何十年と語り継がれる“理性的”で“原初的な”作品である。

 

82 ルーシーズ(S)

父親の借金をすり稼業で返す男と、一夜の衝動で妊娠した女が、どうよりを戻すか。男は投資会社社員とウソをついていた。最後にちょっとした仕掛けがあって、グッド。こういうスマートに撮られた映画は得がたい。ルーシーというのが女の名、そして男が好きな煙草の銘柄でもある。そんなことをしたら堕ちるばかりだぞ、というところで、ドンデン返しだから、粋なのである。マイケル・コレントという監督で、ほかの作品は知らない。主演ピーター・ファシネリ、よく見ると味があるが、そもそも目立たない。女優がジェイミー・アレクサンダー。どちらも残念ながら、この映画が初めて。ヴィンセント・ギャロが出ているのは貴重か。すごく痩せていて、オーラが消えている。「バッファロー66」がまた見たくなった。 

 

83 みをつくし料理帳(T)

 高田郁の原作で、もうシリーズは終わっている。原作と映画を比較するのは意味がないが、演出としてどうかと思うことがある。とろとろ茶碗蒸し(?)だったかを作ったときに、店の客が口を揃えたように「ありえねえ」と言う。そこからその料理の通称が「ありえねえ」になったと原作にあるが、映画では単なる詠嘆の言葉で終わっている。なんのための演出なのか、意味をなさない。

主人公の案出した料理が名店登龍楼に盗まれたことで、ごりょんさんと一緒に抗議をする。その仕返しなのか、店の前にやくざ風の男が数人居座って、客が入るのを妨害する。さらに、火付けにあって店が全焼する。それを登龍楼と関連付ける演出がまったくない。これではドラマが立ち上がってこないではないか。静かな、淡々とした演出を目指したのは分かるが、それでもやれることはあったのではないか。

 

気になったのは、澪が好きになる侍(窪塚洋介)はお城の料理人の家系で、「御膳奉行」。それほど小身の者ではないはず。襟足の毛が乱れているのは、ありなのかどうか。澪が惚れる男としても失格ではないか。澪に惚れる民間の医者(小関裕太、この役者を知らない。別の役者と勘違いして見ていた)の襟足の毛は乱れていて、それは違和感がない。

大阪を襲った「大水」の話になったときに、みんなが最後の「ズ」にアクセントを置いて話をしていたが、頭からお尻までゆっくり下がる発音が普通ではないか。なにか関西風と混じってしまっているのではないか(澪は大阪出身なので、そこに江戸っ子も引きずられた?)。

戯作者の滝沢なんとかを藤木隆が演じているが、たしかに原作も奇矯な人物だった記憶があるが、それにしてもやたら権柄づくで、目をむいて喧嘩腰の表情をするのは、間違っているのではないか。

石坂浩二が鶴屋の老主人を演じているが、可もなく不可もなくだが、はじめ誰が演じているか分からなかった。中村獅童を何回か映画で見ているが、初めて得心をもって見ることができた。又次という人間の像がくっきりと描かれている。原作でもこんな人間だったように思う。

原作を読んで、いったい何品の料理をまねたことだろうか。できれば、登龍楼との番付争いのおもしろいところを次作で見てみたい。

 

84 スパイの妻(T)

 黒澤清監督で、どこかで賞を取ったらしい。ぼくは彼の映画は3作しか見ていない。蓮実重彦先生が傑作だと褒めていた。しかし、これを傑作といわれると、黒澤監督も面映ゆいところがあるのではないだろうか(彼自身はよく撮れた、と言っているらしいが)。たしかに破たんがないように描かれているが、映像的にこれぞ、というものはない。

 

いちばんの問題は、夫婦が海外逃亡を図るためにいろいろ動き回っているのに、憲兵隊による以前ほどの張り込みがなされない点である。だから、とても順調に事が進んでしまって緊張感がない。憲兵隊の分隊長(妻の幼馴染、東出晶大)はそんな甘い男ではないはずだ。

 

妻が夫の掴んだ証拠品(731部隊の生体実験記録。映画では関東軍の仕業ということになっている)を憲兵隊に持ち込むところまでは、さては裏切りかと思わせ、じつは証拠には3種あって、その1つだけを渡したことが分かる。連合国、ここではアメリカに渡したい英語版と実写フィルムは残っている、という寸法である。しかし、甥はそのために捕まり、手の指の爪を全部剥がされても、夫の加担を白状しない。それさえ読んで私は証拠を持ち込んだ、と妻は言う。なんと機転の利く女かと思うが、一方で、かわいい甥をそんなひどい目に遭わせてもいいと冷たく判断する女である。決断に逡巡の気配が毛ほどもない。ところが、そのあと夫恋しやの一念で、はらはらと崩れ落ちるような風情を見せ続ける。危険を冒すことで、やっとあなたと一体感をもてた、などとも言う。このアンバランスはどう考えればいいのか。蓮実先生は、弱い女から男を唆す女への激しい転身を指摘するが、そうは思えない。夫の誠を信じた女の一途さ、と読んだほうが自然である。なぜなら、あまりにも後半の夫婦は息が合って、夫唱婦随だからである。夫が妻の配下に入ったというこではないだろう。

演じた蒼井は、感情の落差が激しい役だったので大変だった、とインタビューで述べているが、そうではなくて、人格の統一をどう図るかの方が大変だったのではないか。

 

夫と妻は別の逃亡ルートをたどり、サンフランシスコで落ち合うことになる。しかし、密告の手紙(夫が出したと思われるが、明瞭ではない。女中という線もあるもしれないが、それはなさそうだ)で、妻は憲兵隊に捕まる。そのときに、英語版の証拠品を憲兵がたしかに押収する。そして、731の実態を映したフィルムを憲兵隊のお歴々が居並ぶなかで映写するも、それは夫が撮った会社の余興用のフィルムだった。夫がすり替えていたらしい。妻は、大声で笑い、倒れる。船尾でにこやかに手を振る夫のことも映される。では、憲兵が押収した英語版も偽物だったのだろうか。それについては、何も触れられない。

 

夫婦、あるいは妻と幼馴染の憲兵のやりとりが、とても生硬な日本語で、まるでお芝居のよう。これは演出ではなくて、何かの間違いなのではないだろうか。精神病院に入った妻のもとに、夫の知り合いの東大教授、笹野高史が演じていて不似合だが、それが面会に来たときに、突然話の途中に机につっぷすようなことを妻がやる。さてこれは何の真似なのか。やっと作りごとの演技から解放された蒼井優のアドリブのように思える。

「私は極めて正常。ということは、ほかがいかに狂っているかということ」と蒼井に言わせているが、こういうレベルのセリフが頻出し、とくに2度目に捕まったときに、幼馴染にいうセリフはゾッとするほど紋切り型。

 

夫は甥と2週間の予定で満州を見に行く。仕事も絡んでのことだが、街中で異様なものを見たと妻に言う。それは、死体の山で、煙を出して焼かれていた、という。ペスト菌で実験して殺した中国人(朝鮮人?)だという。しかし、国際法違反となるものを、ちょっと行った旅行者の目の留まるところに放置しておくだろうか。731部隊では、実験棟と実験棟のあいだの空き地で燃やしたのではなかっただろうか。これは史実の問題として重要な箇所である。

 

そこそこ客が入っていた。しかし、「鬼滅の刃」の大騒ぎのまえでは、かすむばかり。

 

85 ある女流作家の罪と罰(S)

評伝作家で力量は認められるリー・イスラエル(実在の人物)だが、自己宣伝も出版社が求める拡販活動もしない。名声のない女優の評伝を売り込むが、相手にされない。それでいまはアパート代や飼い犬の治療費も払えない状況。窮余の策で思いついたのが過去の作家のプライベートな手紙の創作。いわくノエル・カワードリリアン・ヘルマンなど。主演メリサ・マッカーシー(レズビアン)、偽作の売り込みをするのがクスリの売人のジャック・ホックをリチャード・Eグラント(ゲイ)。この2人の関係がなかなか大人の感じでいい。マリエル・ヘラーという40代の女性監督。

 

86 グレース・オブ・ゴッド(S)

フランソワ・オゾン監督で、小児性愛の神父による性的虐待の被害者たちが、30年以上経て、真実を求めて立ち上がり、司法の場に持ち込んだ経緯を描いている。犯罪者をかばい続けた教区の大司教も一緒に訴えたが、結果的には、その罪までは問うことができなかった(控訴審で無罪に)。神父も聖職剥奪という結果で、刑罰が科されたわけではない。なぜなのかは触れられない。

ラストに、告発者たちの会合で、もう夫婦二人だけの生活を取り戻したい、という者が現れたり、一枚岩の感じが失われつつある点なども描かれる。フランスにはいまだに宗教的な感情が根強くはびこっているのだという新たな驚きがあった。

この映画は一人の神父による犯罪だが、ボストングローブが告発した事件は多数の神父による性的な虐待である。そこにはカソリックプロテスタントの違いがあるのかどうか。あるいは、アメリカとフランスの違いが?

 

87 彼女は夢で踊る(T)

広島のストリップ劇場「広島第一劇場」が2019年2月(?)に閉鎖になり、それを悼んで作られたフィクショナルな映画である。2度、閉館をいいながら、その後も存続させたことから、「閉館詐欺」といわれたらしい。

2代目劇場主となった男の過去と現在がうまく織りなされて、なぜ人はこの場に集うのかがずっと疑問符として映画を貫く。安易な答えが2つ用意されているが、ほかにもいろいろな解釈がありえそうである。『死児』という詩を書き、生涯子をなさなかった吉岡実は大のストリップ好きで、それについて胎内回帰願望を言う人がいる。

頭にこの作品が作られた理由が明かされる、という作りになっている。監督時川英之の映画「ラジオの恋」を見た加藤雅也という俳優が、監督にくだんの劇場のことを映画にしないかと持ちかけたのが、そもそもの始まり。

ストリッパーのひも役をやった横山雄二東京乾電池ベンガルに似ていて、飄々としていい。映画のホームページの紹介によると、かなりの才人らしい。達者な人がいるものである。

 

88 風をつかまえた少年(S)

 キウェテル・イジョホー監督&主人公の父親役。最初、「キンキーブーツ」で初めて彼を見たとき、どう発音していいか分からなかった。Chiwetel Ejoforという綴りである。

実話を元にしている。自作の風車発電機を作り、乾燥地を緑にした少年の物語である。じっくりと環境の苛酷さ、因習の強さを描きながら、最後の最後で風車が回り、井戸から水が自動的に汲まれる様子が映される。

父親は村一番の娘と結婚し、決して雨乞いしない人生を歩むと誓ったが、長引く干ばつについ天に祈りそうになり、妻に止められる。子どもが自転車を解体し、風車を作るといったときに夫は反対したが、妻は夫を諫めて「あなたは失敗続きだ」と言い、息子に協力させる。監督は自分を低く抑えて、見識を見せた。次回作が楽しみである。

 

89 ストレイドッグ(T)

うまいタイトルを付けるものである。原題はDestroyerである。ニコール・キッドマンが汚れ役をやったというので、見に行った。特殊メイクを施さないとやさぐれた感じが出てこないところがキッドマンである。だめ刑事だが辣腕、酒におぼれ、離婚したか離婚裁判中という男刑事の役をそのまま女刑事として引き移している。だから、意外感がない。キッドマンだからアクションもない。シャリーズ・セロン、スカーレット・ヨハンソン、アンジョリーナ・ジョリーたちはワイヤーロープを使ってだが飛び跳ねていたが、この映画にそれはまったくない。ジェニファー・ローレンスもその線を狙うかと思ったのが、ポルノ映画で終わってしまった。セロンは同性愛のモンスターを演じて賞を取ったが、キッドマンのやさぐれは難しいのではないだろうか。

 

90 罪の声(T)

浅茅陽子宮下順子梶芽衣子、庄司照江、桜木健一佐川満男火野正平、佐藤蛾次

郎などがみんな老けた顔でスクリーンに次々と出てくる。その都度、あれ誰だっけかな、と思う。あまり日本映画を見ないからだろうが、彼らの若いころのことしか知らないから、とても奇妙な感じがする。みんな時間をワープして突然、齢をくったように思えるのだ。そしてまた、こちらもご同様であることをしたたかに教えられる。

映画はとても面白かった。こういう描き方ものあるのか、という感じである。3億円事件は、子どもの関与があったことで、早晩足がつく、という読みがあったことを思い出す。それが延々と時効までいってしまったのはなぜか。組織の固さを思わざるをえないが、じつはまったく違ったという設定である。

そもそも3億円事件の捜査では新左翼の線も洗われたから、こういう角度はあるだろうという気がする。しかし、それがやくざと組んでいたというのは、意外な設定である。終盤、新左翼の敗退の情念に犯罪の動機を解消してしまうのは、あまりにもクリシェである(若い観客はどう見るか知らないが)。

まして宇崎竜童に左翼学生のなれの果てを演じさせるのは、ミステイク以外のなにものでもない。もっと誰か相応しい人間がいるのではないか。

それにしてもこの左翼学生は運動の崩壊後(ということになるのだろう)、イギリスに渡って、向こうで恋人までつくっている。そこにやくざとの関係で警官を辞めさせられた男が、なにか大きなことがしたい、とやってくる。それで当時、起きていたオランダの社長誘拐、身代金要求事件を調べ、それを下敷きに計画を練る。ただし、身代金の受け渡しは成功率が低いから、株の空売りで儲ける――この筋書きもどこかで読んだ記憶がある。可能性の一つとして取りざたされていたはずである。

時効になった事件を負う新聞記者の主人公(小栗旬)が、イギリス・ヨークの洋書の古書店に彼、つまり年老いた宇崎を訪ねてくる。いったいイギリスで洋書の古書店を開く男というのは、どういう背景をもった男なのだろうか。残念ながら、このヨークのシーンで映画はぐっと緊張感がなくなってしまう。

監督土井裕泰、「銀鱗の翼」「なだそうそう」「ビリギャル」などを撮っているが、見たことがない。小栗旬はとっても好感。力が抜けていて、表情も、姿もいい。英語も遣い手である。ほかの作品も見たくなった。上司の松重豊もよかった。

 

91 ワイルドローズ(S)

ジェシー・バックリー主演、彼女は「ジュディ」でイギリスの秘書役を演じた女優である。イギリス・グラスゴー生まれの女性がカントリーの聖地ナッシュビルを目指すが、実際に行ってみて、故郷・家庭を根拠に歌うべきだと改心する話である。ほぼかかる曲はジェシーの歌声である。やはり音楽映画は面白い。ナッシュビルイーストウッドが息子を使って、その聖性を描いたことがあった。最後に子ども2人が、大きめな会場で母親作曲・作詞の曲を聞いているときの表情が、プロはだし。それまでは取り立てて作った表情をしなかったのだが、ここだけ微妙な感じを出している。

 

92 トルーマン・カポーティ――真実のテープ(T)

NY社交界の中心人物の一人、ジャーナリストのジョージ・クリンプトン(スポーツ関係か?)がカポーティのことを書きたくて、関係者にインタビューしていたテープが残っていた。それを過去の映像と合わせて流し、時代の寵児だった彼を描き出す。結局、彼はエンタメと芸術の間を歩いた人で、しかもノンフィクションという新しい形式を編み出した人物でもある。時代の過渡期を橋渡ししたと言っていいのではないか。彼の友人の作家が言う如く、カポーティは「冷血」を描いたのが本物の彼であり、あとは才能が書かせたものだ。早くに両親は離婚し、母は高級娼婦だったらしく、息子は遠い親戚に預けて出奔した(のちに一緒に暮らすが、いくら名をなしても、息子のことは認めなかったという。最後は自殺)。男が黒、女が白の目隠しをした「白と黒の夜会」では、ミア・ファーローとシナトラや、ピーター・オトゥールキャンディス・バーゲンなどの顔が見える。かつて、いまは亡きフィリップ・シーモア・ホフマンカポーティを演じたことが思い出される。彼はたしかクスリで死んだのではなかったか。いい役者だったので、惜しいことである。

 

93 ヤクザと家族(T)

味も素っ気もないタイトルである。東海テレビの劇場版「ヤクザと憲法」で取り上げたことの内実が描かれた、という印象である。時間の制約があってラスト15分ぐらい見ることができなかったのだが、緊密な構成の映画という印象である。あえていえば、14年務め上げて娑婆に出てきて、むかしの仲間は反社会といわれるのが嫌で近づこうとしない。一度、交接したかたぎの女も最初はその素振りを見せるが、すぐに招き入れて、娘をまじえて一緒に朝ごはんなどを食べている。これってありなのか、ご都合主義というものだろう。

主役の綾野剛、同じ半グレの磯野勇斗がいきいきとしてグッド。オートバイに乗った敵対組から銃撃を受け、綾野が車から飛び出し追いかけようとするが、足をやられている。振り向くと、表情が変わる。少しずつ車に近づくあいだ、カメラはずっと彼の顔を追っていく。そのときの表情の移り変わりの自然な様はどうだろう。事件が起きる前に車内で交わされる会話は、綾野と彼を尊敬する若い衆の間柄がよく分かるものなので、よけいにここの表情の変化は意味がある。

14年経って、出所祝いの席が、みんな白髪銀髪になっているのに合わせて、グレーの色調で撮っているのもグッド。生命力を失った組の様子がよく分かる。極道でしか生きる道のない人間たちは、これからどうやって生きていけばいいのか。監督藤井道人、「新聞記者」を撮っている。プロデュースは河村光庸、配給は彼の率いるスターサンズ。

 

94 フォリナー―復讐者(S)

Netflix制作、ジャッキー・チェン、ピアーズ・ブロズナンが出ている。テロで巻き添えをくった娘の復讐をする。ジャッキーが中国少数民族の出(中国政府寄りのジャッキーがどうしたことか。アメリカ資本だと変節するのか)で、国外へ家族で逃れて、タイで盗賊?に3人の娘のうち2人と妻を失う。老いたジャッキーが米軍の元特殊部隊にいたという設定で、相変わらず強いが、リアルさをもとにした映画でワイヤーアクションは興ざめである。

 

95 雨の日は会えない、晴れの日は君を想う(S)

ジェイク・ギレンホール主演で、原題はdemolition「解体」。これは妻を車の追突事故で失って知らないうちに自己の解体を経験する男が、家電・家などの解体をすることで回復の可能性を得る物語である。妻の収容された病院の自販機でヌガーを買おうとするが、引っかかって出てこない。設置会社に手紙を書くのだが、そのときに自分の窮状もあわせて書いたことで、その会社の苦情係の女性(ナオミ・ワッツ)から連絡が。彼女は勤め先の社長と付き合っているが、愛してはいない、という。13歳の息子がいるが、自分がゲイであることに戸惑っている。そこにギレンホールが仮住まいすることに。奇妙な大人と接することで少年は解放へと向かっていく。防弾チョッキを着たギレンホールが少年に実弾で撃たせるシーンがあるが、そういう奇矯な経験から、2人は心を通わせていく。結局、母親も暴力的な社長と別れる。

不思議な味わいの映画である。コミカルでさえある。というのは、男は自分の自我の崩壊に気づいていないからである。心が崩れていくことで、男は真実に向き合い、妻をじつは愛していたことに気付く。その妻は不倫で子どもを堕ろしていたが、それさえ男は許そうとする。リゴリスティックな義父役をクリス・クーパーが演じている。監督ジャン・マルク・ヴァレィで、「わたしに会うまでの1600キロ」を撮っている。

 

96 香港と大陸をまたぐ少女(T)

深圳と香港を行き来する女子高生ペイがiPhoneの密輸を手伝うことに。いつも男に貢ぎ、捨てられる母親、香港で家庭をもつ、うだつの上がらない父親、一緒に北海道へ雪を見に行こうと誓ったクラスメイトで軽佻浮薄のジョー、彼女と付き合っているハオとペイが密会したことで2人の仲は決裂する。なにもかもが可能性を閉ざしていくなか、それでも彼女は決してめげない。

ハオが密輸団とは別に自分たちで稼ぎを立てることを考え、ペイを抱き込む。赤い照明の狭い、雑多な部屋のなかで、お互いの腹にiPhoneをテープで繋げたものを巻きつけるシーンが長く、エロティックである。決してキスをしたり、ベッドに倒れるようなことはしない。そこにはペイの純真性が現れているが、ぼくにはアジアのディーセンシーを感じる。悪人が一人も登場しない。密輸団を仕切る女の頭ホアをエレン・コンという女性が演じている。戸田恵子にそっくり。実績を認められてペイは拳銃の密輸をやらないかと言われるがペイは受けようとしない。ハオも、ホアさんの怖さを知らない、とペイに諭すが、最後までホアさんの本当の怖さは描かれない。

香港と深圳のあいだが、係員がいることはいるが、ほぼ何のチェックもなしに通過できるようになっている。それを利用して密輸を繰り返すのである。ハオと組んで初めての仕事のとき、強い雨に叩かれるシーンがとても印象的な撮り方をしている。映像的にどうということのない映画なので、やや目立つ。主題歌もしゃれていて、アンニュイな女性ソロボーカルがかかる。

「鵞鳥湖の夜」でバイクの窃盗団が描かれていたが、こういう中国の恥部が外に出てくること自体が珍しい。ラスト10分ほどのところで、突然、「いまは窃盗団は取り締まられている」と字幕が出るが、これは検閲で強制されたものだろう。

 

97 グロリアの命運(S)

フランス映画で法廷もの。メインタイもすごいがサブタイは「魔性の弁護士」―どうにかしてよというレベルである。でも、映画自体は面白かった。法廷ものは余程緊張感がないともたないのだが、これだけ緩くても成り立つのか、という感じである。悪党が中国人という設定だが、この傾向は世界で広く続いていくだろう。

 

98 48時間(S)

もう何度目か。なんでなのか、悪党顔ばかり鮮明に覚えている。小さな吊り目の男(ルーサー)、大男のネイティブアメリカン、その白人ボス、白人で差別主義者のような顔をした警官、そして三角形の顔のひげの同僚。阿佐田哲也先生はずっと脇役好きの人だったが、ぼくも結局そこに来てしまったのだろうか。あるいは、潜在的にもっていたものが、何かのきっかけで表に出てきたか。エドワード・ノートン好きはそもそもそういうことだったのか。ぼくは彼の妙なかたちの鼻と、はっきりしないくぐもった発音が好きなのだ。ニック・ノルティの演技の下手さには好感さえ抱く。エディ・マーフィがなぜメインストリームから消えたのかは、とても大事な問題である。

 

99 サイレント・トーキョー(T)

冒頭に調子のいい歌唱曲がかかって、ああ、この映画失敗だったかな、と予感が走る。石田ゆりこが出てきて、男性用手袋、大きめのサンドイッチを買い、なぜか吹き抜けの場所の長椅子に座る。そこに爆破予告を受けたテレビマンがやってくる。女は年上のほうの男に座るように言い、イスの下に爆弾が仕掛けられていて、ある体重以下になると爆発すると言われた、と言う。若いほうのテレビマンが覗くと確かに爆弾らしきものが仕掛けられている。若い男が手を伸ばした瞬間にジュラルミンのようなものでできた腕輪をかけ、立ち上がり、2人でビルの管理室に行き、建物内の人間の退去を放送で促すように求めるが、係の人間は疑って応じない。そのときに小爆破が起き、さらにテレビマンが座っているイスも爆破を起こす。

さて、この女が座ったあと、爆破犯はいつ現れたのか? 劇の進行としては、そこは省略をしたということなのだろうが、ミステリーとしてはそこでもう決定的に弱点をかかえて出発している。さらに、なぜに若いほうの男に手錠をかけたのか、それがどういう性質のものなのか、その後もきちんと説明されることがない(あとで偽物、おもちゃであることが分かる、というのだから、笑えるが)。そして、作劇上の不誠実な対応はその後もくり返される。あえて省略したのではなく、劇を自分の都合のいいように切り張りするための詐術である。ぼくは最後まで登場する人物たちのつながりが分からなかった。中でもITソフトを開発した若者と佐藤浩市はどんな関係なのか? 

 

そもそもの犯人の動機として、自衛隊のPKO(?)の失敗を使っている。そのせいで、両親やきょうだいを亡くしたという現地(カンボジア?)の少女が出てきて、隊員を前に(腹いせから?)地雷で自殺する。もしPKOなら自衛隊に責任を問うのはお門違いだろうし、もし戦争をしに自衛隊が行っていたというなら、その後しばらくして就任した新首相が、自衛隊を軍隊化すると発言するのは辻褄が合わない。こういうのをご都合主義というのである。しかも、その少女のことがトラウマになって除隊した男が妻に自己防衛のために爆弾の作り方を教える! こんな理不尽なことが平然と進められる。

 

西島秀俊は腕利きの刑事の役らしいが、その片鱗をほとんど見せない。ITの若者が犯人かもしれない、と分かり、彼がいる喫茶店に行き、後ろから頭に銃を突きつける!?そんなアホな? まだ容疑者でしかない男である。それに、優秀な刑事らしい西島ならもっと余裕をもって対応すべきだろう。西島は捜査本部の指揮官と何か因縁らしきものがありそうだが、それについては何も描かれない。じゃあ統合会議の場での2人の表情のやりとりは何の意味があるのか。2人で密かに話すシーンでは、犯人像が違うかもしれない……という情報のやりとりだけ。

 

爆破シーンは迫力があるが、もっとカメラを複数にして、全方位からその様子を写すべきである。ITの若者が同じ瞬間を写していたり、スマホで撮っている人間もいて、その映像があとから流される、ということに配慮したのか分からないが、そういう神経はほかで使うべきである。唯一、見せ場はここしかない映画なんだから。

 

100 ロンドン、人生はじめます(S)

ダイアン・キートンブレンダン・グリーソン(この役者、何となくの記憶しかない)が主演。ダイアン、74歳である。どこか日本のピーターに似ている。ジャック・ニコルソンと共演したものはキュートだったが、まだ57歳だったとは?! 老いてメロドラマをやれる、というのもすごいことである。ハリウッドも観客の高齢化に応えていくということだろうが、高齢の詐欺師、バンクラバーとなると、さてどうかな、である。

 

101  日本独立(T)

既視感の強い映画である。タイトルを思い出さないが、GHQ民政局のケーディス大佐と日本の令夫人との恋を描きながら、アメリカ製憲法ごり押しの過程を扱った映画があった。ほぼそれの踏襲である。ただ、白洲次郎や『戦艦大和』の吉田滿をフィーチャーしたのは初めてかも。いかにも白洲が大物っぽく始まるが、結局は通訳にしかすぎない。

 

その2人にカメラがアップに寄るシーンがある。吉田の原稿掲載が検閲で不許可になり、担当編集者(創元社)が目力を込めて、「死者の魂との交歓を奪うものだ」と言うのが、その一つだ。もう一つは、アメリカ製憲法で押し切られたあとの白洲の述懐である(細かい内容は忘れたが、編集者の意見と相似のナショナリスティックなもの)。明らかに観客に視線を当てて、台詞を言わせている。あざとい演出である。

憲法に女性の権利を持ち込んだというベアテ・シロタ・ゴードンを非常に悪意的に描いているのも、あざとい演出である。彼女を持ち上げる左翼の批判を意図しているのだろう。

 

白洲を浅野忠信が演じていて、とてもぞんざいなしゃべり方をしているが、本人はそういう人だったのだろうか。見事なケンブリッジ英語を使いこなす、というが、イギリス英語には聞こえない。GHQの幹部が草案を持ってきて、吉田茂たちに検討せよ、と言って屋外に出て、「原子力の光は気持ちがいい」とおかしなことを言う。そこに居合わせた白洲は、「本物を浴びてから言え」式のことを日本語で言うが、それはちゃんと英語で言って相手をやり込めるべきである。吉田茂を演じたのが小林薫、最後まで分からなかった。さすが、というしかない。

それにしても新味のない映画で、何で今さら? である。監督は「プライド」で東条英機を撮っている。ぼくはその映画を見ていないが、想像がつく。

 

102 のど自慢(S)

井筒和幸監督で「パッチギ」の前に撮っている。本当にこの監督は下手くそ、二流である。売れない演歌歌手が室井滋、これはまだいい。マネージャーの尾藤イサオも意外といい。のど自慢と移動焼鳥販売の試験を同時に受ける大友康平も下手くそだけど、一生懸命だからいい。みんないいのに、監督がまずいから、だらだら面白くもない絵が続くことになる。リズム感というのがないのである。

 

103 居眠り磐音(S)

この文庫本書下ろしシリーズにははまった。その世界観は十分に出ているのではないだろうか。剣戟のシーンも納得である。松坂桃李は初めて見る役者だが、芸達者ではないが、好感である。許嫁の奈緒を演じた羽根京子はコミカルなものしか見ていないので、少し違和感あり。おいらんになった姿もやや線が細い。うなぎを捌くシーンなどはもっと丁寧に撮ってほしいところである。できれば、連続映画シリーズにしてほしい。

 

104  真犯人(S)

途中で放棄。韓国映画。室内劇はよほど力量がないとダメ。

 

105 ソング・トウ・ソング(T)

数年に1回ぐらいこういうだましの雰囲気映画に出合う。すぐにそれと分かったのだが、ナタリー・ポートマンがなかなか現れないので、仕方なく外に出るのを我慢。ちょっと前に母親役をやっていたときは、見るも無残という感じだったのだが、以前と同じナタリーが戻ってきた。映画のあいだ、ほとんど目をつむっていた。カメラが被写体をきちんと撮らない。上からか下から、あるいは斜め。そして俳優はつねにふらふらしている。それに酔ってしまうので、見ていられないのだ。本当に最後まできちんと水平に撮る映像がない。延々とミュージックビデオのようなことをやっている。会話もなく、みな独白ばかり。役者を揃えても芝居をさせないのであれば、意味がない。ルーニー・マーラー、ナタリー、ケイト・ブランシェット、ライアン・ゴスリング、マイケル・ファスベンダーである。チラシはケイトの名前さえ出していない。テレンス・マリック監督で、「ツリー・オブ・ライフ」でも似たような映画を撮っていた。ちらちらする宗教性は何なのか。福音派(?)の巨大な伝道ホールが写される。 

 

106 パッセンジャー(S)

以前、同じタイトルの映画があったと思うが、これはジェニファー・ローレンスクリス・プラットが主演、脇のサイボーグでバーテンダー役がマイケル・シーン。90年後に目的地に着くはずが早めに起きて、宇宙船の不具合を直す話である。「猿の惑星」も故障で見知らぬ惑星に落ちる話だったが、これは回復する。しかし、早く目覚めたぶん、自然の摂理で早く死んでしまう。

宇宙もの、未来もの、IT・電脳ものはほぼ見ないが、どういう訳かこの映画を見てしまった。アダムとイブの創生物語である。宇宙船の床から樹を生やす設定は面白い。

前回の105で取り上げたバカ映画で一年を終えるのと、こういうエンタメで楽しんで終わるのでは意味が違う。といっても、ほかの「インターステラー」などの宇宙ものを見る気はしないのだが。