2021年後半の映画

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まちの記憶


69  Peantus Butter  Falcon
(S)

ダウン症の22歳の青年ザック(本人がダウン症。本名、ずっと役者志望だったらしい)が療養所(一緒の部屋なのがブルース・ダーン。なぜか老人たちばかりの中にザックがいる)から抜け出し、憧れのプロレスラーになろうとする話。それを手助けしてくれるのが、うだつの上がらない青年漁師(シャイア・ブルーフ)で、ひとの籠からカニなどを盗んだことがばれて、追われる身に。彼はまったくダウン症のことを気にかけないし、イーブンな付き合いをする。バプティスト派の黒人の盲人に出くわしたあと(ザックは川で洗礼を受ける)、青年はなぜか気落ちがする。その肩を抱いてザックが慰める。兄を自分が運転する車の居眠り事故で亡くしたことが尾を引きずっている。この映画17館でスタートし、公開6週目には1500館近くまで増えた。二人のたき火・ウイスキーがぶ飲みパーティで、彼のリング名が決まった。顔にピーナッツバターを塗った鷹(ファルコン)の英雄である。こういう映画を求めるアメリカもあるのだ。すごくできがいい。

 

70 イン・ザ・ハイツ(T)

プエルトリコ満載のミュージカル映画(メキシコなども出てくるが)。ラップで始まり、ささっとワシントンハイツに住む人たちをスケッチしていくところは、おっと思わせる。スタンフォードに進んだが差別から故郷に舞い戻り、期待する父親や周囲の人々の視線がつらいという妹、なんだか古臭い設定で、かつて黒人の映画でこういうのがあったな、と思う。

兄は台風でやられたプエルトリコの家を、故郷に戻って再建しようと考えている。その一部始終を海の家ふうの小屋で小さな子を前に兄が語るが、最後にちょっとしたサプライズが。

プールを上空から写し、中心に一人いて、その周りに多数の人が配され、動作に合わせてパタパタと花びら模様ができる――かつてのハリウッドミュージカルへのオマージュである。

そしてもう一つのオマージュ。妹とその恋人がハイツのバルコニーいる。恋人がバルコニーに腰かける。それが危なっかしいのである(こういう細かいところが伏線になる)。妹も同じことをやる。やがて二人は踊り出すが垂直の壁の上で踊るのである。そう、アステアの壁ダンス、天井ダンスの再現である。

みんなでプールに向かうシーン。歌いながら手で三角を作ると、そこに白い三角ができ、さっと投げるアクションをすると、それが飛んでいく。特殊効果の面白い使い方で、これは流行るのではないだろうか。

踊り手はヒップが張った、胸の大きい女性ばかり。それが踊る、踊る。ストリートでギターで南米風のコーラスが聴こえるところは、なんだかほっとする。お婆さんがひとりニューヨークへ着いたときの様子を歌うシーンはしみじみしている。結局、みんなから愛されたお婆さんは、ある奇跡のプレゼントを遺して死んでいく。

一か所、兄はせっかく愛しているファッションデザイナー志望の女性とダンスに行ったのに、一緒に踊らず、そのうち停電になってしまい、関係がぎくしゃくする。決してダンスが下手なわけでもない。あとの話に綾をつけるための細工としか思えない。

 

72 写真家ソウル・ライター(S)

ほぼ室内での彼の独言に終始する。ソームズという女性と夫婦のごとく住んでいたらしいが、2005年に彼女は死んでいて、写真家は自分が殺したのだという。町のスケッチ、それも雨や雪が多い。人物はデザイン的に写され、絵画のようでもあるが、スタイリッシュな感じもある。よくいわれるように赤が印象的。壁にいい感じの水彩画がかかっているが、彼の作品なのかどうか知りたいところである。たしかドイツで彼の初めての作品集が出版され、それがベストセラーになったのではなかったか。それもかなりの年齢になってからのことだ。彼の独り言はとりたてて何かということはない。

 

73 ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき(T)

生まれたときの性別に強い違和感を抱き、胸を取り、子宮、卵巣も取り、男子としての戸籍を得るが、結局はどちらの性でもないことに気付き、ペニスをつくることはしないでいる24歳のひとのドキュメントである。性的な対象を求めることもないらしい。それにしても、戸籍上の性別って何のために、あるいは何のために必要とされるものなのか。主人公は声優を目指すためにも、性別転換をしてマイナスをゼロに戻してからだ、と考え、そのように行動するが、いざ声優の世界に入ろうとすると性別の壁があり、夢を諦めたという。どこかの声優プロダクションのホームページだろうか、女性タレント、男性タレントの区別がされている。これは当たり前の話で、彼はそこを突破するためにいろいろな試みをしてきたのではなかったのか。声優で女性が男性の声をやることはいくらでもある。かえってユニセックスのほうが仕事がら合っているのではないのか。そこの情報が欲しかった。いまはアクセサリーの細工をしながら、ネットで声優、あるいは俳優ができないか考えているという。

 

74 探偵なふたり(S)

連続殺人の謎が最後に明かされる。刑事と素人探偵(本業貸しゲーム屋)が次第に心を合わせて捜査するようになり、最後は2人で事務所を開くことに。途中、ゆるいところもあるが、ラスト15分くらいはOK。ひさしぶりに残酷とユーモアのミックスした韓国映画らしさを味わうことができた。あまり美人が出てこないのも、以前の韓国映画らしくてOK。

 

75  キネマの神様(T)

山田洋次の映画を見る気がしないのはなぜか。学校、家族、故郷、おとうと……もうタイトルで見る気が失せる。というか、見る前から何が起きるか分かる気がするのだ。黒澤明の初期作品もそうだ。「生きる」は50歳を超えてから見た。葬式のシーンの猥雑な感じが面白かっただけで、テーマ自体が白々しい。名作かもしれないが、ぼくには興味がない。黒澤では「どん底」がいい、そして「七人の侍」。

この山田映画、なかなかに面白かった。まえに撮った「キネマの天地」が自己陶酔ふんぷんだったが、今回はその臭さが抜けた分だけ見ていられた。しかし、主演の沢田研二は最後までしっくりこない。台本どおりなのだろうが、まるで身が入っていない。甥っ子がシナリオをパソコンに打ち込んだのを感心して眺めるシーンがあるが、ただその振りをしているだけ。それに本当にアル中の手前か? ギャンブル好きか? どうもその匂いがしてこない。最初に出てくるサラ金屋があとは一切出てこないのはなぜか。

よしこという妻を宮本信子がやるが、その若いころを演じる永野芽郁にそのまま老け顔にしてやらせたほうがよかったのではないか。永野は「仮面病棟」という映画の予告編で、下手な人だなと思ったのだが、今回は好感。

沢田が助監督のときに書いた「キネマの神様」という脚本、映画通のラッシュ係寺新(寺林新太郎、野田洋次郎が演じる。年取ってからは小林稔侍)がべた褒めするが、後年、沢田が78歳で同作で賞を獲ったときに、みんなが褒める場面はバスターキートンからのいただきだ、と言う。では、映画通の寺新、そしてその当時のスター桂園子(北山景子)、その脚本で映画を撮ろうとした映画人たちはそのパクリについて何も言わないのはおかしい。パクリなど当たり前の世界だけど、誰かが「キートンだね、それ」ぐらいのことは言わないと。

木戸賞という脚本賞を獲ったというが、むかしクランクインまでしたホンを受賞対象にしていいものなのか。それなら、むかしのホンを今風に書き直せばいい、ということになってしまわないか。

100万円の賞金のうち、30万は使ったから残り70万を寺新が経営する映画館に、コロナ禍の危機があるので寄付するが、自分たちが大騒ぎしたサラ金の話はどこへ行ってしまったのか。娘の寺島しのぶは派遣なのか契約を切られて無職、どうやって生きていくのかと悩み、麻雀、競馬で何百万だかの借金をこさえた父親と離縁しようとまで考えていたのに、「借金なんて、明日は明日の風が吹く」で終わってしまうご都合主義。

せっかく息子(沢田からいえば孫)にシナリオの才能がありそうと分かったのだから、爺さんはそこで何かをする必要があるのではないか。ただ、浮かれて酒を飲んでないで。

冒頭、ラグビーのTV放送をみんなで見ている映像で始まり、「ラグビーに熱を上げたあの頃、まさか東京オリンピックと?(何だったか忘れた)が中止になるとは思わなかった」とナレーションが入るが、最初、いつの時代の話をしているのか分からなかった。どうも2019年のことらしい。翌年コロナが、みたいなことを言っているからである。なんでそんな始まり方をするのか。そんなにラグビー騒ぎは日本人の共通記憶になっているのか。それにオリンピックが中止というのは、いくらでも直しが利いたのではないか。不誠実といわざるをえない。

といくつか不満があるが、それでも全篇、見ていることができた。山田映画にしては珍しいことである。それにしても映画の中だけで生きてきた人たちを扱っても、一般観客の気を引くのは難しいだろう。Netflixの「マンク」も映画のなかだけに生きている人たちの話だが、それでもそこには権力と思想?の相克みたいなことは描かれている。山田の世界にはまったく外の風が吹いていない。

 

76 聖女 Mad Sister(s)

姉は格闘家(ということになっているが、何の格闘家は判然としない)、妹は知的障害がある。妹が市井の悪党どもにおもちゃにされ、最後はある議員のもとに。その議員は前にも妹に手を出したことのある、ワルからの出世組で、姉に現場をつかまえられ、目を刺されている(姉は半年服役)。今回はその復讐で、姉をおびき出すのに妹は使われた。

 

半年服役の裁判のときに、なぜ議員の悪が明かされなかったのか。いい加減な設定だらけだが、格闘シーンは見ていられる。ただし、ラストの議員を殴りつけるときの腕の角度がまったく違う。議員の手下で妹を拉致するが結局助ける男は、連続TVドラマ「秘密の森」で見ているイ・ジュニョク。議員に腹を刺された姉が車を運転し、眠りこける妹。そこで映画は終わるが、いい加減さは徹底している。

 

77 青春残酷物語(D)

大島渚脚本・監督、助監督に石堂淑朗、音楽真鍋理一郎。最初にプロデューサーの池田富雄と2本並びで撮影川又昂がどんと出てくる。大島のリスペクトのあり方かもしれない。脚本・監督という順番もハリウッドに倣っている。調子の高い曲で始まり、笛が高鳴りで入っている。

冒頭、桑野みゆき(真琴でマコ)が赤い車の男に話しかける。巣鴨に行くというから、方向が違うと断る。友達の陽子がこっちいいわよと声がして、そっちのクルマは緑色。ほかにそういう演出があるのは、桑野が姉久我美子と一緒に学校から出てきて雨、久我の傘が黒に近い灰色、桑野の傘が赤で俯瞰に撮っているところ。あとは映像的な凝り方はしていない。

中年男のクルマに乗り、男はホテルに連れていこうとする。そこに川津祐介(藤井清)が通りかかり、2人は付き合うことに。ボートでデートするが、木材が浮かんだ木場のようなところ。桑野を水に落とし、彼女がバチャバチャ右下に向けて斜めに進行する。それと並行に斜めの丸木の上を清が歩きながら、途切れ途切れの会話をする。面白い映像である。木材の上で2人は抱き合う。

2人は、クルマを運転する中年男から金を巻き上げるのを常習とするようになる。警察につかまるが、清がまえから付き合っていた夫人(家庭教師先の奥さん)の夫が、告発した中年男(二本柳寛)と会社的なつながりがある、ということで釈放に。中年男として山茶花究森川信が出てくる。

最後、まえから関係していたヤクザ(佐藤慶)に清は殺される。それを第六感で察知したマコは、中年男のクルマから飛び降りて死ぬ。最後は、その2人の仰向けの死のショットで終わる。清は、もうマコをものとして扱いたくない、つまり中年男カツアゲは止めよう、と別れ話をしたあとに、殺された。清はいくら抵抗しても、社会に潰されるみたいなことを言うが、彼は何も生産的なことはしていない。何が抵抗か。

マコの姉の久我美子はことあるごとにマコを叱責するが、自分は学生運動に挫折し、やはり中年男と付き合っている。マコに刺激を受けたのか、まえの恋人秋本(渡辺文雄)に会いに行く。かつて彼が医者カバンを持ち、姉は紙芝居をもって地方を回った式のことを言う。秋本は闇医者で、妊娠したマコの子を堕ろしたことが分かり、姉はまた秋本のもとを去る。ここでもいくら抵抗しても社会は強い式の生硬な言葉が秋本から吐かれる。政治の言葉となると、必ずとって付けたようなセリフばかりである。

 

78 潜入(T)

ハン・ジョンミンはしばらく映画に出なかったというが、本当だろうか。毎年、2ほんずつぐらいコンスタントに出ている。この映画は2006年の映画で、ちょっと感じがふっくらしている。彼のよさを出そうとしているが、どうも生煮えの感じ。潜入と名付けられているが、その感じがまったくしてこない。内通者の売人をやったのがリュ・スンボムで、何かで悪党役で見ている。

 

79  浜の朝日の嘘つきどもと(T)

タナダユキ監督、「百万円と苦虫女」を撮っているがぼくは見ていない。高畑充希の映画も初めてである。自然な演技をつくっているのではなく、あくまで自然に見える。学校の教師大久保佳代子がめっけもの。表情がないのが幸いしている。柳家喬太郎もまえに比べれば落ち着いてきた感がある。郡山弁ではなく東京弁をしゃべっているのはどうしてなのか。ほんのたまにそれっぽくするときもあるが。統一せよ、である。

その教師がガンで入院し、見舞ったときの2人の会話、というか高畑の間がおかしい。アドリブに見えるのである。大久保は決まったセリフを喋っているのだが、高畑がふつうにズラしているのである。
そして、教師が死ぬ間際に「(セックスを)やっておきゃよかった」と言った言葉に、ややあってその意味に気づいたというふうに、「それおかしいじゃん」と死体に言うシーンも何だかアドリブに見える。ここの場面がすごく面白い。ほぼラスト近くの臭いセリフも、変な間があり、セリフを忘れたか、と思うが、どうも演技の一部らしい。

タイトルの「嘘つきどもと」はちょっと分かりにくい。だれがウソをついているのか。可憐な高校生だった高畑がなぜ「うるせぇんだよ糞じじい」などと言うような女性になってしまったのかは説明はされない。自殺まで考えた高校生が東京の大学を出て、映画の配給会社に入ったということなのだが、その経緯が一切省かれる。大久保が本来やりたかったのは、その映画配給の仕事。しかも、高畑が潰れそうな映画館を救うのも、先生の遺言みたいなもの。
古い映画館にノスタルジーを感じるのは分からないでもないが、地方に行くと、胡散臭い路地の奥にひっそりと死にそうになった映画館がたくさんあった。どこもバタバタと潰れていった。あれは40年ぐらい前だっただろうか。1971年に撮られた名作「ラストショー」は50年代のテキサスが舞台で、すでに映画館が閉じている。この朝日館のように、とんでもない組み合わせの2本立てをやっているようなところは、潰れて当然という気がするが。

 

80 先生、私の隣に座っていただけませんか(T)

脚本・監督堀江貴大、主演黒木華(漫画家)、柄本佑(夫、漫画家)、客演風吹ジュン(母)、金子大地(教習所の先生)、奈緒(担当編集者、夫の不倫相手)。意地悪な、観客の心理を弄ぶような映画は趣味ではない。現実の不倫とマンガの進行を重ねるのが目的の映画で、谷崎『瘋癲老人日記』の世界である。ラスト近く、漫画と実写の別バージョンを3回(?)見せる箇所があるが、それがやりたくて作った映画であろう。

夫の性格を明るく、軽くしたことは救いだが、こんな奴を恨み切るのは時間の無駄ではないか。担当編集者も同じく明るく、図太くしたことで劇は進行したが、さて自分たちの不倫を題材に書き下ろしをされて「いい原稿です、連載いけます」という編集者などいるだろうか。ラスト、すべてお見通しという母親像はミスであろう。それと、いまどきケント紙にペンで絵を描いている漫画家などいるのだろうか。妻がこれだけ企み多く、演技もうまく、間夫にも展開を言い含めていたら、ふつう夫は完敗であろう。

 

81 ゲッタウェイ(D)

これで3度目だろうか。監督サム・ペキンパー、脚本ウォーター・ヒル。どの場面もくっきりと記憶に残っているが、2カ所だけ、あれ、そうだったっけ? というのがあった。冒頭のシーン、刑務所の外で働く囚人たちを俯瞰で撮って、左にカメラが寄ったときにカタカタカタというせわしない音がする。向こうからトロッコでもやってくるのかなと思うと、何も来ない。獄内のシーンとなって、それが繊維を織る機械の立てる音だと分かる。それがオープニングロールの間、ずっと鳴り続けている。マックイーンが機械に近づくまでのショットの切り返しが細かい。マッグローとの会話の場面でも、この頻繁な切り返しが行われる。

もう1つが、悪党ベニヨンの子分どもがエル・パソに向かうシーン。一台の車に6人が乗っている。これは何かのジョークなのだろうが、よく分からない。おふざけであることは確かなのだが。


基本は「俺たちに明日はない」である。そこに仲間割れのメキシコ人が、獣医の妻を奪ってマックイーン、マッグローを追う筋が入るが、それがやはり「俺たち~」のジーンハックマンとその妻を模している。ハックマンの妻は、軽薄だがお高くとまっているという人物像で、本来であればやくざ稼業の人間と付き合うのは不自然なタイプであるが、フェイ・ダナウェイへの対抗心もあって、次第にその世界になじんでいってしまう(それが何とも悲しいのだが)。獣医の妻は最初から犯罪者に色目を使うタイプではあるが、堅気であることは何回か表現される。ホテルでの殺し合いで叫び声を上げ続けるところなど、そっくりである。ちなみにその惨劇のホテルの管理人は、「俺たち~」の頭の弱い青年マイケルJポラードの父親役をやったダブ・テイラーである。

マッグローのおかげでムショを出て、彼女の部屋(?)に戻るマックイーン。彼女はシャワーを浴び、背中を見せてベッドに腰かける半裸の彼の隣に座る。やがてワイシャツを脱ぎ、意外と筋肉質で、幅広の背中を見せる。そのあいだ、セリフはごく少なく、じっと2人を撮っている。ペキンパーのしたたかさを見る思いである。

 

82 アイダよ、何処へ行く(T)

ユーゴから独立したボスニア・ヘルチェゴビナ。しかし、それには混在するボシュニュアク人(ムスリム)、クロアチア人、セルビア人のうち、セルビアの同意が欠けていた。そこで、セルビアによる内戦が起きた。この映画は、西部で優勢だったセルビアが東部にいるボシュニュアクとクロアチア人に攻勢をかけ、占領した時期を描いている。ぼくは2011年に「サラエボ、記念の街」というのを見ている。これはセルビア占領後のサラエボを描いている。大人しく日常生活を送っているかに見えた夫に、ちょっとしたことで反乱軍(といっていいのか……)への傾斜が起こるというものだ。ラストに市電が通る朝まだきのきれいな街並みが写されていたのは、あの映画ではなかったろうか(違う可能性もある)。「ノーマンズランド」(2002)というのもあったが、苛酷な状況なのにユーモアをまじえて撮っていた記憶がある。

 

アイダは元小学校の教師で、いまは国連のために通訳を担っている。夫、成人した2人の息子に何かと便宜を与えようとするが、国連幹部は特例は許されないという立場だ。セルビア側の将軍の、2万に及ぶ人々の移送提案を国連は受け入れる。しかし、その計画を立てるまえにセルビア軍が乗り込んできて、男女別のバスによる移送を行いはじめる。セルビア人を殺した男あるいはムスリムの男は、移送などでっち上げで、まとめて建物内で虐殺される。アイダはそれを予感し、家族の引き留めを画策するが聞き入れてもらえず、家族を失ってしまう。国連幹部にはその虐殺の話も入っているが、なすすべがない。

最後、アイダはむかしの住まいに行き、そこの新住人から小さなバッグを貰い(写真などの思い出の品)、職場に戻るが、担任する子供たちの発表会を見る父兄のなかに、その虐殺を主導した男がいる。映画はそこで終わる。監督ヤスミラ・ジュバニッチ、まえに「サラエボの花」というのを撮っている。ぼくは見ていない。

 

83 ビリーブ――未来への逆転(S)

最高裁の2人目の女性判事ルース・ギンズバーグを扱った映画である(まえにドキュメントも来た)。ハーバード大を首席で出たが弁護士事務所はどこも雇ってくれない。それで大学教師になるが、男性で母親の介護をするも、女性と違って税の控除がないことに異議を唱え裁判を起こした人の弁護を引き受ける。性差別に関わる200を超える法律が引っかかってくるということで、男性陣の司法界はタッグを組んで勝訴しようとする。女性保護のための法律だ、という理屈だが、ギンズバーグはそれは女性を家庭に閉じ込めておくためのものだ、と申し立てる。しかし、最初の弁論までは自信なげで(そういう演出にしたのだろう)、「では、戦争の前線にも女性は立つのか」と言われ、反論できない。

残り5分で何か補足があれば、と言われてからは、見違えるような弁論を展開する。補足時間も延長に。「国を変えろとはいわない、なぜなら国は勝手に変わっていくからだ。しかし、国が変わる権利を守ってほしい」と訴える。全員一致で前判決がひっくり返され、初めて問われた性差別をめぐる裁判はギンズバーグと夫の勝利となった。ギンズバーグを「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズ、夫マーティンをアーミー・ハーマー(ぼくは初見、いかにもアメリカ的なタイプだが、この映画ではグッド)、監督ミミ・レダー、脚本ダニエル・スティープルマン、原題はon the basis of the sex。こういう映画に中国資本が入っているのは、皮肉としか言いようがない。いずれ共産党は規制をかけてくるのではないか。あくまでジョークだが。

日本でははこういう映画ができない。生活の場から憲法やそれを基につくられる法律を見る視点が欠けているからではないか。司法自体も政治問題、安保などに臆病で関わろうとしない。先頃、過労死法案をつくるきっかけとなった女性が新聞に出ていたが、夫を過労死でなくし、失意のあとに立ち上がり、与党、野党含め100人を超える国会議員を説き伏せて法案化に進んだ。こういう人たちをプロデュースする人がいないのではないか。

 

84 琵琶法師 山鹿良之(T)

古い映像で、いつの時代のことかと思ったら、2004年の作品だった。それにしても、古臭い。ロマンポルノ時代のフィルムを見ているみたいだ。40本の演目をもち、それらをすべて語ると200時間を超えるらしい。本編は小栗判官を扱った話を中心に展開している(ほかに俊徳丸とか山椒大夫などがあると、上映後の監督とノンフィクション作家大島幹雄さんとの対談で言っていた)。最初が山鹿市の八千代座という小屋の映像らしいが、黒い背景に法師が坐って弾いているだけなので、小屋の様子が分からない。こういうのは全体が分かる絵を撮ってほしい。

歌自体、ぼくにはどうも上手いとは思えない。ふだんは近場を回るだけだが、浅草木馬座に出たときは、岡本文弥(浄瑠璃)、忌野清志郎、パンタ(頭脳警察)などが聞きにきていたというが、彼らの感想を聞きたかったものだ。

山鹿氏は坊さんでもあり、毎日、燈明を上げて祈りを捧げている。檀家を回っているのかは分からない。竈払い(かまどを清める。この映像は、やらせだと監督が言っていた)は琵琶法師の役目だったらしく、近所に頼んでその儀式をやらせてもらい、映像に撮っている。むかしは竈の上に神棚を作り、そこから白い半紙を垂らしていた。火の神の加護あらんことを祈った。

 

85 トムボーイ(T)

フランスの映画、小学校5年になる女子が転居した地で男子としてふるまい、やがて素性が明らかになる話。立ちションができない、泳ぎに行くのに粘土で男性器らしきものを作ってパンツのなかに隠したり、いろいろと大変。小さな妹が立派に演技している。「ライフ・アズ・ア・ドッグ」という佳作があったが、あれではさらしを巻いて胸の膨らみを隠していた。

 

86  レミニセンス(T)

温暖化で都市が水浸しになった世界で、記憶再生業を営む男が運命の女に出会い、最後はその記憶だけに生きていこうとする。ヒュー・ジャックマン、助手役ダンディ・ニュートン(彼女を見た映画を思い出せない。ややお年を召された)、そしてファムファタールレベッカ・ファーガソンダニエル・クレイグの007に出ている。水浸しがあまりストーリーと絡んでこない。海の上を電車が走る宮崎駿的な映像が出てくる。

 

87 恋するシェフの最強レシピ(S)

金城武主演、これで2度目である。見ていて、じつに楽しい。これをきっかけに彼の出演作を何作か見たぐらいだ。インスタントラーメン「出前一丁」の食べ方がすごい。2分茹でて、お湯を捨てる。そこにスープの素を入れ掻き回す。よく混ざったら、熱湯を注いで1分待ち、即座に食べ始める。「出前一丁」を箱ごと買おうと思ったが、ホームページを見ても見当たらない。

 

88 奇跡の絆(S)

レネ・ツウィルガー(デビー、妻)とグレッグ・キニア(ロン、夫)が夫婦。最初、レネと気づかず、声であれっ?と思い、調べると彼女だった。もう昔の面影がまったくない。
まず妻が貧民ボランティアを始め、夫がそれに付いて行く。離婚騒ぎを克服できたのは、そのおかげである。妻の夢に出てきた黒人男性がそのチャリティ施設にいた。殺人を犯した男だが、とても思慮深い、夫婦はその男デンバー(ジャイモン・フンスー)とウソ偽りのない交わりをしていく。デンバーもまた過去の差別体験や犯罪の話をし、心をほどいていく。
しかし、デビーは末期がんに侵され、死んでいく。告別の辞をデンバーが唱える。「富める者も、貧しき者も、その中間の者もすべてホームレスである。やっとデビーはわが家に戻ることができた」。参列者、もちろん多数の白人が立ちあがり、拍手を送る。
黒人ホームレスに肩入れする2人に対する反感はあまり描かれない。ロンの父親(ジョン・ボイト)とテニス仲間の一人だけが露骨な差別をする。それはある意味、この映画が成功した理由かもしれない。

主役を演じた2人には因縁があって、レネの初期作に「ベティ・サイズモア」がある。夫の虐殺されるところ盗み見て精神的におかしくなった妻が、いつもダイナーのウェイトレスをやりながらテレビで見ていた医者をめぐる恋愛ドラマの世界に入り込んでしまい、彼のいるテレビ局に押しかけてしまう。その妻役がレネであり、医者役をグレッグ・キニアがやっていた。夫を殺すモーガン・フリーマンとその甥っこ(?)のギャングコンビは抜群に良かった。本作のプロデューサーがその面白さを狙ったのは確かである。

いまはなき渋谷ブックファーストエスカレーターで2階に上がるとき、ふと右横にあったポスターに目が行った。とてもきれいな女性がそこにいた。1階に戻り、またエスカレーターに乗って、その映画名を記憶した。ベティ・サイズモア。ぼくはレネのファンとなった。高校生のときにキム・ダービィにいかれて以来のことである。キムの映画はほとんどやってこなかったが、来たかぎりでは映画館に見に行った。「傷だらけの挽歌」が忘れられない。

 

90 由宇子の天秤(T)

この映画、都内では渋谷ユーロスペース一カ所でしかやっていない。仕方なく浦和美園イオンという初めての映画館に行った。席はコロナ禍の条件下であるが、完売。きっと朝日新聞の映画評が利いたのだろうと思う。絶賛に近い。ぼくは「火口のふたり」で主演の瀧内公美を見ていたので、この映画も見るつもりでいた。前日に予約しようとして、一番前の数席しか空いていないことに驚いた。おそらくこれから上映館が増えていくのではないかと思われるが、上映者はどういう目利きで映画を選んでいるのか。ヒューマントラスト系でやってもおかしくないし、日比谷シャンテ、武蔵野館、池袋ロサあたりでもいいのではないか。ぼくは映画館での上映がどういう理屈で動いているか分からないが、邦画で、長時間で、題材が地味だということが影響しているのかどうか。それにしても、都内上映1館は、すごく退嬰的な感じがする。

教師と女子高生の交際が疑われ、両方が自殺。その事件の真相を追う独立のドキュメント制作会社のディレクター由宇子(瀧内公美)。対立する学校と生徒側という構図に持ち込みたいテレビ局に対して、由宇子は取材を重ねるなかで、教師そしてその遺された家族もまた被害者であるという視点を盛り込んでいこうとする。

それと同時に、ごく小さな高校生20人ほどを教える学習塾を経営する父親(光石研)が、その塾生の一人と性交渉をもち、それが妊娠と分かる。由宇子は何かれとその子(萌=河合優美)の世話を見るが、それは事が露見して自分のドキュメントが放映できなくなる可能性を考えるからである。父親が萌の父親に真相を話しに行くと言っても取り合わない。多くの関連する人間が巻き添えになる、と由宇子はいう。知り合いの医者に闇検査を頼むと、子宮外妊娠の手術が必要だといわれる。薬での堕胎で裏処理するつもりができなくなった。由宇子が隠してきたことが表に出る可能性がある。しかし、由宇子は2週間後の放映まで、その危ない状態に萌を放置する選択をし、父親も説き伏せる。

父親が人命がかかっていると言うと、由宇子は「こっちは死者を生かすのだ」と言い返す。由宇子の倫理の天秤が狂ってしまっている。彼女は自殺した教師の妻と子、その母親、そして自殺した女子高生の父親にも、非常にていねいな取材の仕方をする。彼らは頑なな心をやがて開いていき、由宇子を受け入れるようになる。その彼女が自分のこととなると、何の躊躇もなく保身に走る。父親に、そして自分の上司にスマホのレンズを向けて、その不正の言葉を記録しようとする由宇子。その行為は一種の病気といっていいかもしれないが、レンズを自分に向けることはない。

かなり後半になって、意外な事実が分かってくる。萌のアパートから男子生徒が出てくるのを目撃し、問いただすと、萌はウリをやっていたし、塾に通う男子とも性関係があった、あいつはうそつきだから気を付けろ、と由宇子はいわれる。次の検査に向かう途中でそのことを萌にいうと、萌はクルマから降り逃げて行ってしまう。あとの連絡で、道路に身を投げ、クルマに引かれて入院したことが分かる。そこで萌の父親にも、彼女の妊娠したことが知られる。父親は萌が売春をやっていたことを知っていたので、その誰かの子と思ったらしい。

その検査日、じつは途中で連絡が入り、自殺した教師の妻が取材された部分をカットしてほしいと言っている、と電話が入り、局の駐車場に萌を置いて、その処理に由宇子は向かう。妻から夫のスマホの映像記録を見せられ、さらに遺書の偽造まで言い出される。由宇子はこの企画自体の土台が崩れたと感じる。しかし、テレビ局の担当幹部(?)と話をした上司は、妻の証言部分をカットし、自殺した教師を含めた学校側と自殺した女子高生という対立構図で編集しろ、と由宇子に言う。由宇子はそれは違う、と言って飛び出し、萌と検査に向かう。


結局、由宇子は萌の父親に「萌の妊娠は私の父親のせいです」と告げる。父親は歩道で宣伝ティッシュを配る仕事をしているが、健康保険もガス代も払えない状況にある。娘ともうまくいっていないが、由宇子が出入りするようになり、3人で食事をするようにもなり、父子の関係はよくなっていく。父親は梅田誠弘という役者が演じているが、人のよさそうな、いかにもという感じで演じている。由宇子の告白を聞いた彼は由宇子の首を絞め、彼女は意識を失う。カメラはじっと動かない由宇子の足先だけ写すが、水を飲んだ遭難者が生き返るように息をゲホッと吐き出す音がして、足先が動く。かなり長いあいだそれをカメラは映し出すが、首を絞められ、生き返る人間にはそれだけの実際の時間が必要だということなのだろうか。珍しい映像である。その傍らに落ちていた由宇子のスマホには上司からの「企画が流れた」のメッセージが入っていた。それを聞いて、映画は終わる。

152分という長さだが、まったくそれを感じさせない。ふつうの映像をふつうに撮って、これだけ持たせる技に感服する。長回しで撮って、悠揚迫らぬ、といったところがある。自殺した教師の家で妻そして子と一緒にトランプに興じる場面など、きちんと撮っていて、納得させられる。ただ、これは時間の流れ方がよく分からない場面でもある。自殺教師の妻とアパートでの話が終わり、上司、音声と一緒にクルマに乗りながら、途中で由宇子は何かを思い出したように降りる。由宇子が何かを言うが、聞き取れない(ほかにも数か所、そういう場面があった)。ある少女を見かけ、声をかけるが、そこが先ほどのアパートの前なのかどうか。その子と一緒に家でゲームなどして遊ぶ。やがて母親も帰ってきて、一緒にトランプなどに興じる。先ほど、家内で妻から話を聞いていたときに、襖の隙間から覗いていた少女に由宇子は気づいていた。その少女に話を聞くべき、と思ったのかどうか。しかし、少女とは外で会い、しかも母親が不在なことをなぜ由宇子は知っていたのか。

追っている事件とまったく同じ構図の事件が自分の身の回りからも発生する、ということのわざとらしさを感じることはない。当たり前のディティールが当り前に撮られていることで厚みが出ているからだろう。

妻が遺書を偽装したと言うが、川に飛び込んだ夫は河原に遺書を置いていたらしい(映画のなかで、そう言っていたように思う)。妻はそれを発見し、家に持ち帰って偽装して、またそれを河原に持って行ったのか? だれもそれを見ていなかったのか? 警察は必ず筆跡鑑定をすると思われるが、急ごしらえなのに、警察をだませるほど精巧にできていたのか。偽装がバレて、妻が殺したと思われなかったのか? 夫の遺したスマホ映像だが、そんなものを残しておいたのか? 罪の意識がそうさせた? わが罪の証拠として? ふつう女生徒とのうわさが立った時点で消去しそうなものだが。当然、警察はスマホを探索するわけで、そのあいだ妻はずっと隠し持っていたのか? そんな大胆なことをする女には見えないが。あるいは、一度は警察が押収し、その中身については学校側に知らされていたのか(ぼくは学校側が夫にどういう処分を下したかを覚えていない。戒告? 休職? その処分内容と警察が押収したスマホとは何か関連があるのかどうか)。

最大の疑問は、上司と局幹部が妻の証言を削る判断をしたとき、なぜにそれを受け入れなかったのか? ぜがひでも放映に持ち込みたい由宇子には、妻からの削除の提案は、棚から牡丹餅みたいなものではないか。萌の子宮外妊娠手術さえ遅らせた女が、ここでなぜ正義の顔をして、自分の作品を葬るような決断をするのか。たしかに、自殺教師を学校側にくっつける案にはいくら何でも乗りにくい、ということかもしれない。自殺教師の子ども、祖母に申し訳ない。しかし、不思議なのは、そこまで念入りな取材がされているものなのに、テープの切り張りで学校と自殺教師が共謀していたという筋を作れるものなのだろうか。もしそうだとしたら、由宇子の取材自体が甘かったといえるのではないだろうか。教師の妻が証言したごとく、過労で夫は追い込まれ、学校に異議を申し立てることが多く、諍いが絶えなかったといっているのだから、両者を女生徒に対する同じ加害者に仕立てるつなぎ方などできないのではないか。

ぼくが不思議なのは、なぜに普通に考えて疑問に思うことを、脚本を作る段階でクリアしておかないか、ということである。都合のいい話に合わせて事実を捻じ曲げる、省略する、矛盾を厭わない、ということが頻繁に行われる。これだけ丁寧に作られている映画でも、そういうことが起きる。しかし、最低限の辻褄合わせぐらいしておいてほしい、と思う。遺書の筆跡のこと、スマホの隠匿などは、一般人からすれば大変な選択である。そこには教師の妻の深い苦悩や怖れがあったはずだ。劇を面白くするための作為、あるいはある種の結末を付けるための仕業だったといわれも仕方がないのではないか。

※とても恥ずかしいことだが、遺書を書き変えたというのを、手書きで、と勘違いしていた。当然、ワープロソフトを使ってということになる。しかし、それも警察で機種は特定されるのではないだろうか。

91 昨日消えた男(D)

脚本小国英雄、監督森一生、主演市川雷蔵(吉宗、南町奉行所の役人鯖江新之助)、客演宇津井健(大納言、寺子屋)、三島雅夫(大岡越前)、成田純一郎(大岡配下)、沢村宗之助(悪党美濃屋)、藤村志保(居酒屋いかりや娘)、高田美和(廻船問屋河内屋娘)。まず幽霊船が写され、なぞを残したまま、城内の場面に。部下のかける謎を簡単に解いてしまう将軍様、実際に町場で起きている事件を解いてみたいと南町奉行所へ。現場の大岡越前は、「易しくもなく難しくもない事件を見つけろ」と配下の者にいう。もうここでこの映画の魅力にやられてしまう。
廻船問屋の雇い人が溺死体で見つかった件を調べるが、なかなか理論通りにはいかない。配下の者がお膳立てしていることに気付き、出奔することに。たまたま入った飲み屋で寺子屋で教えている侍と出会い、事件が立ちあがってくる。結局、幕府転覆を図る一味を捕えることになる。幽霊船や謎解きがあとで利いてくる。楽しく、わくわくしながら見ていることができる。ときおり、宇津井健の醒めた表情を写すと、敵か、とも思うが違うらしい。いくつも都合のいいことを繋げるが、それはそれでいいのである。タイトルが何を指しているのかよく分からないし、現代ものっぽい。朝廷の勅使がやってきて、吉宗などが下座に居並ぶというのは本当にあったことだろうか。ラスト、天守閣だかから江戸のまちを遠眼鏡で覗くが、その天守閣が妙に汚れている。脚本の小国は当時、最も稿料の高いライターだったらしい。1本で、家半分建てられるぐらい。黒澤と一番組んだ数が多いのではないか。

 

92 エヴァ(S)

ジェシカ・チャスティン主演の格闘映画、残念な出来になってしまった。アクションがむかしの撮り方、恋を入れて展開がダレたこと、チャスティンの体形が悪い、など。ハリウッドの女優がこういう映画に出る理由は? アンジョリーナ・ジョリィ以来か。彼女はワイヤーロープで踊っていたが、いまはそういうわけにはいかない。成功例はないのではないか。

 

93 No Time to Die(T)

とうとうボンド映画も終わりなのかもしれない。あのテーマ曲が流れるだけで、わくわくしてくる。「ゴールドフィンガー」以来だから、もう長い付き合いになる。あの時代、ジェームス・コバーンのスパイシリーズもあった。テレビではナポレオン・ソロもあった。今回は、よく分からないうちにラストまできてしまった。とくに残り20分ほど敵が人質を置いて姿をくらましては緊張感がほどけてしまう。そういう意味では本当に終わりなのかもしれない。脚本の出来が悪いのだろう。レア・セドゥをまた何かの映画で見たい。それだけが望みだ。

 

94 MINAMATA(T)

モノクロで女性が小さな声で子守歌を歌っている。そこからNYに飛んで、ユージン・スミスの暗室である。シンプルなロックがかかる。ぼくは救われた感じがした。映画のテイストが分かったからである。ラストに同じ映像で子守歌が聞こえる構造になっている。それも見事である。水俣浅野忠信真田広之加瀬亮がそれぞれ収まりよく描かれている。スミスを演じたジョニー・デップも好ましい。スミスの友人、そして雇い人ビル・ナイは「ライフ」の編集長。自堕落で約束を守らない、酒浸りのスミスに愛想尽かしをするものの、関係を切ることがない。音楽坂本龍一は抑制的である。
スミスとやがて夫人となるアイリーン・美緒子・スミス(美波)が初めて浅野の家に泊めてもらった翌朝、部屋の左右一杯ガラス戸がはまっているのか、薄いカーテンがかかっているのだろう、きれいな薄青に満たされている。こんな映像を日本の家屋で見たことがない。
世界での反響をぎりぎりまで見せない演出が逆によかったのかもしれない。スミスを英雄視しないという意味で。ハリウッド映画ならやりそうなことだ。
彼がチッソ工場のピケ隊とゲートを破り、場内に入ったときに2人の男に殴られ、蹴られる。それが後遺症となって後年の死因となったらしい。チッソの社長(国村隼)から現金を渡されるシーンで、それをスミスが受け取ったかどうかは後で知らされる。劇を引っ張るための作為だが、この映画で疑問があるとすればこの箇所と、反対派の勢いを見てチッソ社長がもう救済措置しかないと決める場面が本当なのかどうかだけである。
今年ナンバーワンの映画である。監督アンドリュー・レヴィタス、本来は画家で、映画はほかに1作だけ撮っているようだ。脚本デヴィッドKケスラーもデザイナー、スタンダップコメディアンで、これが初めての長編脚本。なにか変わった組み合わせで出来上がった映画のようだ。

 

95 コレクター(S)

モーガン・フリーマンアシュレイ・ジャッドのコンビで2作だか3作だか来たことがあった。それぞれレベルが高かった記憶だ。これもやはり封切りで見た映画で、よくできた推理ものだった。フリーマンが刑事でありながら犯罪心理学博士、ジャッドが誘拐監禁される医者のインターン小林信彦先生がジャッド好きで、大いに共感を覚えたものだ。彼女の新作が来なくなって久しい。

 

96  キャッシュ・トラック(T)

詐欺だと叫びたくなる。アクションなし、ステイサムの役柄が分からない、時間を前後するので筋が追えない、最悪はステイサムがほぼ出てこないところがある。教訓は、ガイ・リッチーには騙されるな、である。

 

97  パリに見出されたピアニスト(S)

なんだろ、このタイトル。貧しい家の青年(ジュール・ペンシェトリ)が駅内に置かれたピアノを弾く。それを見ていた音楽学校の部長(?)が惚れ込み、コンクールで優勝させるまでに育てる。その部長ランベール・ウイリソンが味があっていい。青年を厳しく仕込む“女帝”がクリスティン・スコット・トーマス(何かの映画で見ている)、黒人の恋人がカリジャ・トゥーレ、すごくきれい。これからやってくるアレサ・フランクリンを扱った「リスペクト」のジェニファー・ハドソンに似ている。単純な、目的が一直線の映画だが、音楽ものにぼくは弱い。

 

98 ハイクライム(S)

アシュレイ・ジャッドモーガン・フリーマンのコンビである。夫がメキシコで9人を虐殺した̚かどで逮捕され、軍事裁判にかけられる。軍はいろいろな脅しをかけてくる。しかし……である。この映画、3回目だが、基本的にインチキである。それに気づかないぼくも迂闊である。アシュレイ・ジャッドの色香に惑わされたか。

 

99 浜の朝日のうそつきどもドラマ版(S)

こっちが映画版より先にあったらしい。茂木理子の「くそジジイ」発言にすっかり虜になってしまった感がある。恩師の死が触れられているが、それを全面展開させたのが映画版である。なかに落語野ざらしから一句「月浮かぶ水も手向けの隅田川」が引かれている。さらっとした出来で好感である。黒澤「生きる」とキャプラ「素晴らしき哉、人生!」を同時上映する映画館、その意図とは? タイトルだけの符号か?

 

100 さすらいのカウボーイ(D)

傑作の誉れの高い作品(1971年)だが、香気、気品さえ漂わせる。スローモーションと映像の重ね焼きを多用し、川の光、朝夕の光に満ちている。夜の闇に灯るランターンの明かりもある。詩情豊かな映像を連ねながら、破局へと静かに進行していく。

冒頭、きらきら光る川に流されながら遊ぶ男、そして釣り糸を手に佇む男。3人の食事のシーンに切り替わり、カリフォルニアに行く話になる。若い男が魚がかかっているかもしれないと釣り糸を確かめに行き、2人を呼ぶ。金髪の少女が針に引っかかったらしい。ピーター・フォンダが釣り糸を切る。若い男が「なぜだ?」と迫ると、「引っ張るとバラバラになる」と答える。これがこの映画の構造を知らせている。詩情と突然の死。同じことが映画の後半に繰り返される。
静かな音楽が転調の役目を担う。バンジョーやスティールギター、そして高音の笛(楽器名分からず)。音楽はブルース・ラングホーン。ボブ・ディランと一緒にアルバムを作っている人らしい。
監督主演ピーター・フォンダ、脚本アラン・シャープ(西部劇が多い)、助演ウォーレン・ウォーツ(これが渋くてvery good)。監督としては3作しか撮っていない。タイトルは「さすらい」だが、出奔した妻のもとに帰る帰郷の話である。妻が10歳上、「俺は子どもだった」と妻のもとを離れた理由を言う。原題The Hired Hand 雇われ人みたいな意味か。妻子のもとに帰るが、罪滅ぼしに使用人として使ってくれ、と頼み込む。妻は彼がいない7年のあいだ、複数人の使用人と夜を共にすることはあったが、それだけで男は大きな顔をするから、季節が来れば追い払ったと言う。ヴァーナ・ブルームという少しメキシカンな感じのする、骨太の、意志の強い、農婦然とした女優さんをフィチャーしたことがこの映画の成功の理由だろう。きっと客の入りが少なかったと思われる。そうでないと、3作しか撮っていない意味が分からない。しかし、こころに沁みる映画である。早過ぎた映画といわれるが、もしそうでなければ後の世まで評判になどならなかっただろう。

ラストの重ね焼きがすごい。死んだフォンダを抱き起こすウォーツ、そこに妻の絵が重なるのである。少し鳥肌が立った。死体を馬に乗せてウォーツは家に帰ってくるが、ごく自然に納屋へ向かうのを妻は声もかけず見ている。おそらくこのあと彼らは親密な関係を結んでいくことになる。

 

101 ナッシュビル(D)

再見である。この緩さは何だろう。声高に言おうとはしない。カントリーの歌姫が最後に撃たれるのはなぜか。その混乱のなか、亭主から逃げ続けてきたシンガー志望の女がDon't Worry meを絶叫する。傑作の呼び声が高い映画だが、今となれば、なにそれ? である。

 

102 MONOS猿と呼ばれた者たち(T)

こけ脅し映画である。コロンビアが舞台らしいが、唯一面白かったのは何もない山頂にコンクリートの立方体が立っていることだ。「蝿の王」を思い出す。


103 Destiny鎌倉物語(S)
いやあ、愉しかった。特撮もOK、高畑充希堺雅人の夫婦もいい。現世から異界への移行がもの足りないぐらいスムーズである。小さな魔物を視界に走らせるなどの事前準備がしてある。黄泉の国のCGは手が込んでいてGOOD。やはり映画は食わず嫌いせず見るべきなことが分かる。映画館で見たかった映画である。監督山崎貴、SFX専門の人のようだ。「三丁目の夕日正・続」、デビュー作は「ジュブナイル」。高畑充希はほぼ見たことのある演技だった。死神を演じた安藤サクラがやや高めの声を出して、非常にいい。そして、堺の父親をやった三浦友和もいい。野暮な疑問をいえば、日露戦争のころに生まれたという中村玉緒がこの世で人でない証拠をどこかで見せてほしい、彼女が堺に渡す黄泉の国の住所は、もし黄泉は見る人によって世界が違って見えるとしたら、どういう住所表記になっているのか(数字やアルファベットなどの絶対表記か)、堺と高畑はずっと前世でも出会ってきたというが、いつも恋路の邪魔をする点灯鬼を排除して仲良く夫婦となったとすれば、黄泉には前世で何度も死んだ2人の夫婦が累々といるのだろうか……などと考えても詮ないことかもしれない。

 

104 ベル・エポックをもう一度(S)

倦怠期の夫を追い出す妻、それを救う息子。仕掛けが2人が出会ったころのシーンの再現。楽しく見ることができた。ウソと分かっていても、人はまんまとはまるものなのか。

105  屋根の上に吹く風は(T)

サドベリー・バレー・スクールというアメリカのホームスクールを模範とした鳥取県の山村の自由学校が舞台にしたドキュメンタリーである。授業がないから教科書も、カリキュラムもなく、通信簿も当然ない。学校扱いではないので、遠くの小学校の帰属となっていて、定期的にそこに行かないといけない。先生は2人、週に1度の補助が1人といった体制で、だれを常勤にするかというのも生徒が選挙で決めている。新人スタッフの一人が、自らが受けた衝撃を以下のように語る。「スタッフを雇うなら、日本語ができないとだめね、と言うと、言葉ができないのも結構面白いかも、と子どもが言う。でも走り回るから脚が悪い人は無理かな、と言うと、ルールを変えたら面白い、と言われた」。生徒の自主性だけではなかなか事が進まない。校長的な立場の洋ちゃんが創設の発案者だが、彼もそのさじ加減はいまだに分からないと言っている。デモクラシーの学校というのがテーゼだが、大人には大人の知見がある。それをどう子どもの自主性につき混ぜていくかは、本当に難しい問題だ。長野にもう数十年も通信簿のない公立小学校があるが、学習指導要領が変わるなかで「探究」が課題となって、実験的な学校の取り組みに関心が集まりつつある。子どもたちが喫茶店を出すことになり、むらの古老にスペースを借りるために電話を入れたり、資金をどこからねん出するが、何をどれくらい売れば儲けが出るかなど課題をクリアしていくなかで、算数から経済、人間関係などさまざまなことを集中的に学んでいく。これはアメリカカリフォルニアのHTH(ハイテックハイ)が長く実践を積んで生きたやり方である。

 

106 リスペクト(T)

アレサ・フランクリングラミー賞18回、グレン・グールドとも共演している。バプティスト派の教会牧師である父親の管理下で育ち、かなり後年までその影響下から抜け出せない。彼女が反抗的な態度をとると「虫が出た」と言って責める。アレサは家の客に幼いときに妊娠をさせられている。暴力的な夫、アルコール中毒。既視感が一杯の映画である。ヒット作を出せずコロンビアからアトランティックレコードに移籍し、向かったスタジオがかなりの田舎、しかも白人ミュージシャンンしかいない。ところが、即興で作り上げていくスタイルで、それがアレサに合っていた。はじめて彼女は自分の意見を押し出して、曲をまとめていく。アル中から癒えた彼女は教会でのライブ録音を主張するが、プロデューサーは反対する。それを押し切って実現させたが、彼女のアルバムのなかでは最大のヒット作に。ラストにケネディ・センターでの実写が出てくるが、これはYoutubeで見ていたものである。たっぷりとジェニファー・ハドソンの歌を堪能することができる。父親をフォレスト・ウィテカー、アトランティックレコードのプロデューサーをマータ・マロンが演じている。