2022年後半の映画

77 Eight Days A Week (D)

何度か映像を見ていて泣きそうになった。ロン・ハワードが過去の映像を綴り合わせたものだが、間然としたところのない編集である。見終わって思うのは、60年代が大きな変動の時代だったということだ。音楽のミューズに愛されたリバプール出身の田舎青年が世界へと飛び出して行ったときに、ケネディの暗殺があり、彼らのジャクソンビルのゲイターホールでのコンサートでは人種隔離問題があり、明確に彼らはそれを否定した。イギリスではありえない、と。ある黒人学者はそのコンサートで自分の周りの観客が多様な人々だったので驚いた、と言っている。のちジョンが「ビートルズはキリストより人気がある」と発言したことが、アメリカの保守を刺激し、物騒なコンサート続きとなった。その発言はイギリスではまったく問題にはならなかったものである。それはすでに「ラバーソウル」が発売されたあとのことである。
アメリカでのツアー会場はセキュリティや収容人員の問題から、演奏設備の貧弱な野球場などで行われるようになった。そこからは囚人護送車に入れられて脱出することになる。ジョージが口火を切って、もうツアーはうんざりだと言う。リンゴが言うには、レコードの契約は最低のもので儲けにならず、ライブで稼ぐしかなかったという。ブライアン・エプスタイン、ジョージ・マーチンのような紳士的なプロデューサーが付いていたのに信じられない。
ファンの一人が言う言葉が印象的である、「彼らは堂々としていて、自然で、若者の代表という感じ」。リンゴが、聴衆のほうが先に大人になり、自分たちは急速に大人になることを求められた、と言っている。ライブを止めてスタジオ録音だけに切り換えたのには、そういう事情もあった。5万6千人を集めたNYシェア・スタジアムではまったく自分たちの演奏が聞こえず、リンゴはジョンとポールの頭と尻の動きを見てリズムをとったという。ときおり、エルビス・コステロがコメントを言うが、「ラバーソウル」は裏切りだと思ったらしいが、6週間後には虜になったと言っている。苦しみから喜びが生まれるなどと、ビートルズが歌うなんて、と最初は思ったらしい。ラストは伝説のサールズベリのビルの屋上ライブである。いま見ると、みんな気持ちが合って、幸せそうに見える。ぼくは田舎で封切りでこの映画を見た。

 

78 日曜日には鼠を殺せ(D)

スペイン内戦以後20年の話。市民軍のリーダーだった男(マヌエラ役、グレゴリー・ペック)のもとに一人の少年が山を越えてやってくる。そのルートは、内戦から市民派(共和国派)が逃亡したルートである。警察署長(アンソニー・クイン)に殺された父親の復讐を果たしてくれ、と少年は懇願する。

マヌエラは母が病気がちなことを知っていたが、勇気がなくて帰らずにいた。しかし、少年の嘆願に心が動き、結局、単身で故郷へと戻る。署長は今度彼の捕獲に失敗したら、どこかに左遷させられるというので、教会に祈りに行く。もし願いが叶えられれば、ルルドに単身で参詣に行くと誓う。
そのルルドに神父仲間と行くことになっていたサンフランシスコ(オマー・シャリフ)は、死の間際のマヌエラの母から呼ばれ、息子への伝言を頼まれる。無神論者の母親がそうしたのは、神父なら厳戒の病院に入れれてもらえると踏んだからである。サンフランシスコが実は神の法を厳重に守る男であることを知って呼びつけたのかもしれない。映画内ではそれについての言及はないのだが。あとでマヌエラが気をつかって、嘘をつけば、あんたの身は助かる、と諭す場面があるが、神父はウソを決してつけない、と怖る。神父は現世の法と神の法のどちらに従うか悩むが、結局は神の法に従うことを選択する。もちろん神の法とは死の床にあるマヌエラの母親のメッセージを彼に伝えることであり、厳戒態勢を敷く警察の裏をかくことになる。この映画の主題はそこにある。
フランシスコがマヌエラのところにやってきても、なぜ死を賭してまで神父が来るのか? と信じない。マヌエラは「自己犠牲と善意に満ちた人びとが割を食う」と吐露する。
最後、マヌエラが殺され、棺を運ぶ車が動き出そうとしたとき、かなりの数の人びとが集まる。それは過去の英雄の弔いのためだが、もしかして新しい市民の立ち上がりを示すものなのか、それは映像的には定かではない。
白黒の映画だが、黒をうまく使っている。白い町のなかで黒服の神父たちがサッカーに興じているシーンは、その黒の動きが面白い。俯瞰で撮る映像にいいものがある。町の人々を写したのも、印象的である。マヌエラが死の瞬間天井が回り、サッカーボールで遊ぶ少年の顔が一瞬写されるが、面白いモンタージュである。ルルドでは病者の群れが写される。そういう人々を治すという霊験あらたかな聖地ということなのだろう。

監督フレッド・ジンネマン、「地上より永遠に」「ジュリア」「尼僧物語」「真昼の決闘」「ジャッカルの日」を見ている。硬軟とりまぜて撮れる監督である。ミュージカル「オクラホマ」が見たかどうか記憶が定かではない。
原題はBehold a pale horseで聖書の言葉から来ているもので、「蒼ざめた馬を見よ」つまり「死には気を付けろ」だが、マヌエラに向かって言っている言葉といえるだろう。たしかに彼は年老いて、蒼ざめた馬を見る機会も増えているはずだが、最後は勇気を奮い起こして単身の反撃を試みたわけである。

スペイン内戦は複雑な戦争で、市民戦士の中にも共産党系はソ連の指導を受けながら活動していて、ほかの市民戦士に冷たい対応をした。ソ連の教条では、スペインの内戦はまだ革命の段階に至らないものだ、ということで、支援に熱心でないというより、仲間割れを起こすことばかりしていた。内戦に加わったジョージ・オゥエルの共産党嫌いは、そこから来ている。

 

79 原発をとめた裁判長(T)

2014年、大飯原発運転差し止め判決を出した樋口英明とソーラーシェアリングを進める福島の農家、それをつなぐ反原発弁護士かつ経済事案でバブル紳士などを勝訴させた河合弘之の3者を扱っている。河合は、これからの原発訴訟は理論は樋口理論で行き、実践篇は水戸地裁判決(2021年3月、前田英子裁判長)、つまり原発事故で関係人口が避難する計画が実行できるものでないと仮処分(差し止め)にできる、というのを活用しながら進めていく、と言っている。
樋口理論は、原子力会社が設定している各原発の基準地震動のガㇽ数が脆弱なもので、それを超える地震がこの20年で30回以上起きている。住宅メーカーの耐震構造のほうがはるかに安全性が高い。原発のそれが高くて1200ガルのところ、住宅メーカーの建物は5115ガルとか3406ガルに達している。
原子力会社は基準地震動は地中で測るから小さいと強弁するが、地上でも基準地震動より小さい地震はいくらでもある。今までは原子力会社の複雑な技術的な議論に巻き込まれて負けてきたが、ごく単純な理論で決定的なものを樋口元裁判長が見つけた意義は大きい。例によって高裁でひっくり返っているが、樋口氏はその判断を出した裁判官の適性を疑っている。原子力規制委員会がゴーを出したのだから合憲だとの安易な判断をしている点を指している。

ソーラーシェアリングは農地の上にソーラーパネルを設置して売電することをいうが、後継者問題などで耕作放棄地が増えている現状を見れば、そこをソーラーで覆い、電気を売って稼ぎを出しながら、熱暑を避ける効果もあるシステムで、いずれ成長を続ければ原発何十機分に相当する発電力になるという。ぼくはもう20年ほどまえにある人からソーラーシェエリングの話を聞いたことがあるが、広がるのかしら、と懐疑的だったが、印象が変わった。反原発と農業が結びつく。有機への流れを考えれば、当然といえば当然なのである。

 

80  バウンド(D)

ウォシャウスキー姉妹が監督、脚本も同じ。彼女たちは元は男性で、性転換手術を受けて性が変わった。「マトリックス」「クラウド・アトラス」を撮っているが、ぼくは両方見ていない。本作ではレズビアンカップルが犯罪をやり遂げる。娼婦からマフィアの一員である男の情婦となった女(ジャエニファー・ティリー)がなかなかのやり手である。最初は頭の悪そうな演技をしているが。幾度も展開が変わり無理がないのは、彼女の存在を事前にきちんと描いているからである。

 

81 若き獅子たち(D)

不思議な映画である。エドワード・ドミトリク監督で、大作主義の人である。赤狩りで証言拒否を続けたが、結局は同僚などの名を挙げ転向した。アメリカ女性マーガレット(メイ・ブリット)にモーションをかけるドイツ人スキー教師クリスチャン(マーロン・ブランド)。しかし、ナチスを信奉するクリスチャンとは深い仲にはなれない。帰国したマーゲガレットの恋人がマイケル(ディーン・マーチン)、そのマイケルが兵隊検査場で出会ったのがユダヤ人のノア(クリストファー・モンゴメリー)で、その彼女がホープ(ホープ・ラング)である。
クリスチャンはナチスはマイナーな環境にある者に機会を与えてくれる、といって入隊する。そこで経験するのは、ナチスの非道さである。ユダヤ人狩りに反対し、アフリカへと転身させてもらう。その先では、イギリス部隊をせん滅するが、生き残った者まで殺せと言われ、それを拒否する。彼はパリで「威勢をうしなったときに会いに来て」といわれた女性のもとへ行き、「長い旅路だった」と彼女の胸に頭を埋めるが、一夜を過ごした後、また戦場へと戻っていく。
ノアは歌手であるマイケルの開いたパーティに行き、ホープと出会う。ユダヤ人で貧乏な彼を、彼女の父親は受け入れ、夕食に招待する。ノアは軍隊に入り、いじめに遭うが、自分の金を盗んだ屈強な男たち4人と次々喧嘩をし、男を上げ、脱走する。捕まるが、部隊に復帰するなら許す、という上官の言葉に従う。元の同僚たちは、彼が読んでいた『ユリシーズ』をベッドの上に置き、その本の中に盗んだ金を挟んでおいた。それが和解の印である。不正を見逃した先とは別の上官は軍事裁判を受けることになる。きわめて民主的なアメリカ軍が描かれる。
クリスチャンはアフリカで敵襲に遭い、バイクで後ろに上官を乗せ逃げようとするが、爆撃で転倒する。次は病院のシーンで、頭と顔全体を包帯でぐるぐる巻きにされ、口の所だけ空いた男が、その上官である。おれは政治家になる、妻も一緒に頑張ってくれる、と言ってくれている、と言う。隣のベッドの男が死にたがっているいるから、銃剣を調達してくれ、とクリスチャンに頼む。妻への伝言を頼まれたクリスチャンは、一度は寝たことのあるその女の所へ行くが、部屋も汚れ、女も落ちぶれた様子である。かつての輝きはなくなっている。女はまたクリスチャンを誘うが、夫とは縁を切ると言ったし、銃剣で自殺した、とも言う。クリスチャンは怒りに任せてドアを開閉し、外へ出ていく。
クリスチャンはまた戦場へ戻り、仲間をやられ、一人で強制収容所にやってくる。そこで、いまでも5千人を殺せと上層部は無理を言ってくる、いざとなれば責任逃れをする連中だ、俺は命令でやったと連合軍に言うだけだ、と言う所長に愛想を尽かし、とぼとぼと雑木林を歩いてくる。
戦争を嫌い、ショービジネスを続けたかったマイケルは、怖気心を抑えて戦場へと向かい、ノアと落ち合うことになる。ノアは敵に囲まれ、決死の覚悟で敵中を逃げのびたばかりだった。彼らは進軍し、強制収容所にたどり着き、その悲惨な状況を見届ける。囚人のユダヤ人の一人が、幾人かで祈りを捧げさせてほしい、と部隊長に頼むが、そのそばで町長と名乗る男が、ユダヤ人には甘い顔を見せてはならない式のことを言う。部隊長はその町長を怒鳴りつけ、ユダヤ人の行為を認める。ノアはあと、部隊長のような人間が戦後を担っていくんだ、何百万の彼のような人間が、と熱い表情を見せる。
彼らはさらに進んだときに、一人の男が手を上げて小高い斜面を降りて来る。それを撃つマイケル。溝のような泥川に頭を突っ込んで死んでしまうクリスチャン。マイケルとノアは何の表情も見せずに去っていく。最後は、ノアが赤子をあやすホープのいるマンションに戻るところで映画は終わる。

アメリカとドイツをつなぐのは、最初のクリスチャンとマーガレットの出会いだけ。劇も別々に進行し、最後の場面へと至る。ふつうであれば緊張感をなくす構成だが、一心に見入ってしまう魅力がある。場面転換が巧みなのと、クリスチャン、マイケル、ノアの人間的な魅力のせいだろうと思う。苛酷な状況のなかで、なんと彼らは人間的なんだろう。そしてマーガレットもホープも一途に男を愛してすがすがしい。

82 チェルノブイリ1986(D)
美容院に勤める女のところに消防士のアレクセイが現れる。前に付き合っていた男で、突然姿を消したが、じつは子どもが残されていた。その贖罪のために、原子炉爆発を目撃して被爆した息子のために、危険な作業(地下の水を抜かないと、溶融ウランが落ちてきて大爆発する。そのために60度の熱湯をくぐり、数百レムの環境のなかへ踏み込んで行き、バブルを開けにいく)に志願し、医学先進国のスイスに行ける特別待遇を息子に与える。しかし、本人は強度の被爆で亡くなり、息子は3カ月後に元気になって戻ってくる。全身が赤剥くれのアレクセイの傍らに防御服を脱いで横たわる彼女。危機や切迫の場面で、高音のバイオリンが効いている。最後に、英雄に捧げるとクレジットが出るが、さてそういう趣旨の映画だったか。それにしても、細部まで含めてよく描かれている。フクシマでこういう映画は作られるだろうか。

 

83  スティル・ウォーター(D)

マット・ディモン主演、舞台はマルセイユ。娘が突然マルセイユに行き、そこで犯罪者として刑務所に。同性の恋人を殺したという容疑だ。それを晴らすためにディモンは同地に住み、ある母子と暮らすことに。娘は父親は根っからの屑だと言い、自分も同じだと言う。その意味はいずれ分かることに。おそらくこの親子には、歯止めが利かない部分が共通にあるのだろう。それにしても、ディモンが父親役をやるなんて! トム・マッカーシー監督で、「スポットライト」で米アカデミー賞脚本賞を獲っている。マルセイユの親子との交情など、じつにゆっくり撮っていて好感であるが、いくつか大きな疑問点がある。

 

84  あちらにいる鬼(T)

監督広木隆一、脚本荒井晴彦、原作井上荒野井上光晴瀬戸内晴美の交情を描くが、井上の妻が達観しているので、大きな葛藤は起きない。いったい鬼などこの映画には出てこない。豊川悦司寺島しのぶ広末涼子。それにしても、次々と女に手を出し、子どもまで産ませて平気な男とはどういう男なのか。60年代後半を背景にしているが、テレビ画面に映った学生運動か、突然バーに飛び込んできた2人のデモ学生でしかない。井上は三島を内臓から腐っていると称したようだが、いまと見れば浅薄のそしりを免れないのではないか。ぼくは「地の群れ」を読み出して、ほぼ冒頭で止めてしまった不実な読者である。しかし、すこぶる文章のうまい人だという印象を抱いた。そして、手術台に横たわり内臓をさらけだす姿まで撮った原一男の「全身小説家」である。女たちが惚れたのは、そのだめさ加減の徹底性かもしれないが、好きになれるタイプではない。

 

85 メニュー(T)

どうしようもない映画である。主催者のシェフと招待客の関係がきちんと描かれない。客は異常事態にパニックにもならない。シェフの部屋に秘密などない、主演はネットフリックスでチェスの世界チャンピオンとなった女性を描いた「クイーン・ギャンビット」のアニヤ・テイラー・ジョイである。

 

86 アポロンの地獄(T)

パゾリーニ特集である。はるか昔に見て、今回が2回目だが、印象はさほど変わらない。それはそれですごいことだ。ただ、キリスト教以前の、まるでアフリカの宗教祭祀かと思うような意匠に、そりゃそうか、と思った次第。神の予言であれば、どうしたってその陥穽にはまるしかない。ただ、ギリシャの神々って、そんなに厳しい神だったのだろうか。音楽に高い音の笛が使われているが、神楽を用いたようだ。

 

87 危険な関係(D)

1988年の作、監督スティーブン・フリアーズ、この監督の映画を見たことがない。陰謀家の夫人をグレン・クローズ、その下で愛を弄ぶドン・ファンを演じるジョン・マルコビッチ、彼に籠絡されるが純愛を捧げる婦人にミシェル・ファイファー、貧しき音楽教師にキアヌ・リーブス、その恋人にユマ・サーマン。物語は宮廷音楽に乗って軽やかに、場面転換も鮮やかに進む。最後、決闘のシーンで自らの最愛の人を裏切ったことに気づいてマルコビッチはキアヌの刃にわざと倒れる。政略結婚などが当り前にある世界では、不倫などいかほどの罪でもない。それにしてもキリスト教の縛りはほとんどなかったのではないか、と思われてくる。

 

88 ザリガニの鳴くところ(T)

年末にやっと映画らしい映画に出合えた。動物学者ディーリア・オーエンズのベストセラーのミステリー小説が原作。女優リース・ウィザースプーンがプロデュースし、自分の制作会社ハロー・サンシャインを通して小説の映画化権を取得。

映像もきれいで、筋もいいし、役者もいい。不満は謎ときにあるが、それを無視してもいいと思うようなできだ。最初に大きなワシのような鳥を後ろから追い、それから上から撮って、最後は枝に停まるまでを写す。もうここだけでぼくはやられている。楽園のような湿地帯で過ごす平和な家庭は父親の暴力によって破壊され、少女一人が取り残される。村の人間からは差別され、学校にも行かず、文字はやがて恋人となる青年から教わり、母親譲りの画才を発揮して、森の生物の絵本作家となる。青年とピクニックに行った先で、白鳥のような鳥が群れをなして彼らの近くの淵に舞い降りる。その奇跡的な美しさ! 青年は大学へ行くために村を離れるが、彼女との約束を破り、戻ってこない。やがて金持ちの息子が彼女に言い寄り、しだいに深い関係を結ぶが、彼は森の鉄塔から何者かに突き落とされたのか、塔の下で死んでいた。交際のあった彼女が犯人とされ、法廷劇が進行するが、その合間にその死んだ男との交情なども描かれる。こういういい映画を語る言葉を知らないのが、とても残念だ。監督オリヴィア・ニューマン、主演デイジーエドガー・ジョーンズ、主題歌「キャロライン」はテイラー・スイフト

 

89 真昼の暗黒(D)

今井正監督、橋本忍脚本、八海(やかい、映画では三原橋)事件の冤罪を扱ったものである。老夫婦殺害は単独犯だったが、妻を梁にかけて自殺に見せかけたりしたため、警察の見込みでは複数犯。そこで早々と自供した犯人に減刑を条件に、共同殺人の4人の名を挙げさせた。アリバイ、時間的な整合性などいくつもの無理があるのに、司法は死刑と無期懲役の判決を翻さない。映画は高裁判決で終わりであるが、最高裁で審議やり直しの判決が出て、高裁で単独犯の判決が出て、検察が控訴、最高裁無罪の経過をたどった。結審までに16を経ている。

この映画製作は被告4人の無罪を信じて、まだ係争中なのに作られたという点で珍しいという。司法から映画製作に関して圧力があったというが、言語同断のことである。監督とプロデューサーは被告が有罪であれば、映画界から身を退く覚悟だったという。脚本の橋本忍が資料を読み込むうちに無罪と確信しり、その線で映画は作られるべきと主張し、監督、プロデューサーも決意を固めたといういきさつがある。

 

90 無双の鉄拳(S)

久しぶりに韓国映画らしい映画を見た。ノワールとアクションと狂気とユーモアである。縦長の廊下での格闘シーンには「オールドボーイ」へのオマージュもあるだろう。監督、脚本キム・ミンホ、ざっと調べたところでは、この作品しか撮っていないようだ。2019年の作。

主演マ・ドンソクはもと荒くれ者。ぼくは彼の映画は2作目だが、表情が豊かで、ただの筋肉俳優でないことがよく分かる。彼を誠意で立ち直させた妻がソン・ジヒョ、やはり韓国の女優の典型のような感じがする。芯が強くて、そして優しくて。「アジョシ」で登場した韓国の異常かつユーモアを忘れない犯罪者の系譜を継ぐのがキム・ソンオ、この悪役でこの映画は成り立っている。そのアジョシで異常な犯罪者兄弟を演じたキム・ミンジェが剽軽ながら腕が確かな私立探偵を演じ、最初からおかしなカツラをかぶって、独特な味を出している。ドンソクの市場の同僚かつ彼を兄貴と慕うのがパク・ファフン。26歳という設定だが、どう見ても60は超えているだろう。つくづく思うのは、映画は脇役でもっているということである。

 

92 ジョン・レノン(T)

過去の映像と取材映像をつなぐドキュメント。レノンの父は遠洋漁業などでしばらく帰ってこない。母ジュリアはその間に男をつくり、そのあとも恋人が絶えない。レノンは叔母のもとに預けられ、たまに母に会う生活である。リバプールアイルランドからの移住者が多いといい、彼の家系もそれである。あと黒人奴隷貿易のまちとしてぼくなどは記憶するが。

レノンに「マザー」という悲痛な声で歌う曲がある。あるいは「ジュリア」と呼びかける歌もある。彼の好きな歌として挙げる「ヘルプ」はじつは元はスローな曲で、それがなかなかいいのである。ドイツハンブルグへのライブツアー、といっても小さなライブクラブである。マネージャーのブライアン・エプスタインがついて、彼らの服装や髪形まで変えてメジャーデビューをさせたが、レノンは「ハンブルグのあと、すべてはもう終わっていた」と醒めたことを言っている。