2021年後半の映画

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まちの記憶


69  Peantus Butter  Falcon
(S)

ダウン症の22歳の青年ザック(本人がダウン症。本名、ずっと役者志望だったらしい)が療養所(一緒の部屋なのがブルース・ダーン。なぜか老人たちばかりの中にザックがいる)から抜け出し、憧れのプロレスラーになろうとする話。それを手助けしてくれるのが、うだつの上がらない青年漁師(シャイア・ブルーフ)で、ひとの籠からカニなどを盗んだことがばれて、追われる身に。彼はまったくダウン症のことを気にかけないし、イーブンな付き合いをする。バプティスト派の黒人の盲人に出くわしたあと(ザックは川で洗礼を受ける)、青年はなぜか気落ちがする。その肩を抱いてザックが慰める。兄を自分が運転する車の居眠り事故で亡くしたことが尾を引きずっている。この映画17館でスタートし、公開6週目には1500館近くまで増えた。二人のたき火・ウイスキーがぶ飲みパーティで、彼のリング名が決まった。顔にピーナッツバターを塗った鷹(ファルコン)の英雄である。こういう映画を求めるアメリカもあるのだ。すごくできがいい。

 

70 イン・ザ・ハイツ(T)

プエルトリコ満載のミュージカル映画(メキシコなども出てくるが)。ラップで始まり、ささっとワシントンハイツに住む人たちをスケッチしていくところは、おっと思わせる。スタンフォードに進んだが差別から故郷に舞い戻り、期待する父親や周囲の人々の視線がつらいという妹、なんだか古臭い設定で、かつて黒人の映画でこういうのがあったな、と思う。

兄は台風でやられたプエルトリコの家を、故郷に戻って再建しようと考えている。その一部始終を海の家ふうの小屋で小さな子を前に兄が語るが、最後にちょっとしたサプライズが。

プールを上空から写し、中心に一人いて、その周りに多数の人が配され、動作に合わせてパタパタと花びら模様ができる――かつてのハリウッドミュージカルへのオマージュである。

そしてもう一つのオマージュ。妹とその恋人がハイツのバルコニーいる。恋人がバルコニーに腰かける。それが危なっかしいのである(こういう細かいところが伏線になる)。妹も同じことをやる。やがて二人は踊り出すが垂直の壁の上で踊るのである。そう、アステアの壁ダンス、天井ダンスの再現である。

みんなでプールに向かうシーン。歌いながら手で三角を作ると、そこに白い三角ができ、さっと投げるアクションをすると、それが飛んでいく。特殊効果の面白い使い方で、これは流行るのではないだろうか。

踊り手はヒップが張った、胸の大きい女性ばかり。それが踊る、踊る。ストリートでギターで南米風のコーラスが聴こえるところは、なんだかほっとする。お婆さんがひとりニューヨークへ着いたときの様子を歌うシーンはしみじみしている。結局、みんなから愛されたお婆さんは、ある奇跡のプレゼントを遺して死んでいく。

一か所、兄はせっかく愛しているファッションデザイナー志望の女性とダンスに行ったのに、一緒に踊らず、そのうち停電になってしまい、関係がぎくしゃくする。決してダンスが下手なわけでもない。あとの話に綾をつけるための細工としか思えない。

 

72 写真家ソウル・ライター(S)

ほぼ室内での彼の独言に終始する。ソームズという女性と夫婦のごとく住んでいたらしいが、2005年に彼女は死んでいて、写真家は自分が殺したのだという。町のスケッチ、それも雨や雪が多い。人物はデザイン的に写され、絵画のようでもあるが、スタイリッシュな感じもある。よくいわれるように赤が印象的。壁にいい感じの水彩画がかかっているが、彼の作品なのかどうか知りたいところである。たしかドイツで彼の初めての作品集が出版され、それがベストセラーになったのではなかったか。それもかなりの年齢になってからのことだ。彼の独り言はとりたてて何かということはない。

 

73 ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき(T)

生まれたときの性別に強い違和感を抱き、胸を取り、子宮、卵巣も取り、男子としての戸籍を得るが、結局はどちらの性でもないことに気付き、ペニスをつくることはしないでいる24歳のひとのドキュメントである。性的な対象を求めることもないらしい。それにしても、戸籍上の性別って何のために、あるいは何のために必要とされるものなのか。主人公は声優を目指すためにも、性別転換をしてマイナスをゼロに戻してからだ、と考え、そのように行動するが、いざ声優の世界に入ろうとすると性別の壁があり、夢を諦めたという。どこかの声優プロダクションのホームページだろうか、女性タレント、男性タレントの区別がされている。これは当たり前の話で、彼はそこを突破するためにいろいろな試みをしてきたのではなかったのか。声優で女性が男性の声をやることはいくらでもある。かえってユニセックスのほうが仕事がら合っているのではないのか。そこの情報が欲しかった。いまはアクセサリーの細工をしながら、ネットで声優、あるいは俳優ができないか考えているという。

 

74 探偵なふたり(S)

連続殺人の謎が最後に明かされる。刑事と素人探偵(本業貸しゲーム屋)が次第に心を合わせて捜査するようになり、最後は2人で事務所を開くことに。途中、ゆるいところもあるが、ラスト15分くらいはOK。ひさしぶりに残酷とユーモアのミックスした韓国映画らしさを味わうことができた。あまり美人が出てこないのも、以前の韓国映画らしくてOK。

 

75  キネマの神様(T)

山田洋次の映画を見る気がしないのはなぜか。学校、家族、故郷、おとうと……もうタイトルで見る気が失せる。というか、見る前から何が起きるか分かる気がするのだ。黒澤明の初期作品もそうだ。「生きる」は50歳を超えてから見た。葬式のシーンの猥雑な感じが面白かっただけで、テーマ自体が白々しい。名作かもしれないが、ぼくには興味がない。黒澤では「どん底」がいい、そして「七人の侍」。

この山田映画、なかなかに面白かった。まえに撮った「キネマの天地」が自己陶酔ふんぷんだったが、今回はその臭さが抜けた分だけ見ていられた。しかし、主演の沢田研二は最後までしっくりこない。台本どおりなのだろうが、まるで身が入っていない。甥っ子がシナリオをパソコンに打ち込んだのを感心して眺めるシーンがあるが、ただその振りをしているだけ。それに本当にアル中の手前か? ギャンブル好きか? どうもその匂いがしてこない。最初に出てくるサラ金屋があとは一切出てこないのはなぜか。

よしこという妻を宮本信子がやるが、その若いころを演じる永野芽郁にそのまま老け顔にしてやらせたほうがよかったのではないか。永野は「仮面病棟」という映画の予告編で、下手な人だなと思ったのだが、今回は好感。

沢田が助監督のときに書いた「キネマの神様」という脚本、映画通のラッシュ係寺新(寺林新太郎、野田洋次郎が演じる。年取ってからは小林稔侍)がべた褒めするが、後年、沢田が78歳で同作で賞を獲ったときに、みんなが褒める場面はバスターキートンからのいただきだ、と言う。では、映画通の寺新、そしてその当時のスター桂園子(北山景子)、その脚本で映画を撮ろうとした映画人たちはそのパクリについて何も言わないのはおかしい。パクリなど当たり前の世界だけど、誰かが「キートンだね、それ」ぐらいのことは言わないと。

木戸賞という脚本賞を獲ったというが、むかしクランクインまでしたホンを受賞対象にしていいものなのか。それなら、むかしのホンを今風に書き直せばいい、ということになってしまわないか。

100万円の賞金のうち、30万は使ったから残り70万を寺新が経営する映画館に、コロナ禍の危機があるので寄付するが、自分たちが大騒ぎしたサラ金の話はどこへ行ってしまったのか。娘の寺島しのぶは派遣なのか契約を切られて無職、どうやって生きていくのかと悩み、麻雀、競馬で何百万だかの借金をこさえた父親と離縁しようとまで考えていたのに、「借金なんて、明日は明日の風が吹く」で終わってしまうご都合主義。

せっかく息子(沢田からいえば孫)にシナリオの才能がありそうと分かったのだから、爺さんはそこで何かをする必要があるのではないか。ただ、浮かれて酒を飲んでないで。

冒頭、ラグビーのTV放送をみんなで見ている映像で始まり、「ラグビーに熱を上げたあの頃、まさか東京オリンピックと?(何だったか忘れた)が中止になるとは思わなかった」とナレーションが入るが、最初、いつの時代の話をしているのか分からなかった。どうも2019年のことらしい。翌年コロナが、みたいなことを言っているからである。なんでそんな始まり方をするのか。そんなにラグビー騒ぎは日本人の共通記憶になっているのか。それにオリンピックが中止というのは、いくらでも直しが利いたのではないか。不誠実といわざるをえない。

といくつか不満があるが、それでも全篇、見ていることができた。山田映画にしては珍しいことである。それにしても映画の中だけで生きてきた人たちを扱っても、一般観客の気を引くのは難しいだろう。Netflixの「マンク」も映画のなかだけに生きている人たちの話だが、それでもそこには権力と思想?の相克みたいなことは描かれている。山田の世界にはまったく外の風が吹いていない。

 

76 聖女 Mad Sister(s)

姉は格闘家(ということになっているが、何の格闘家は判然としない)、妹は知的障害がある。妹が市井の悪党どもにおもちゃにされ、最後はある議員のもとに。その議員は前にも妹に手を出したことのある、ワルからの出世組で、姉に現場をつかまえられ、目を刺されている(姉は半年服役)。今回はその復讐で、姉をおびき出すのに妹は使われた。

 

半年服役の裁判のときに、なぜ議員の悪が明かされなかったのか。いい加減な設定だらけだが、格闘シーンは見ていられる。ただし、ラストの議員を殴りつけるときの腕の角度がまったく違う。議員の手下で妹を拉致するが結局助ける男は、連続TVドラマ「秘密の森」で見ているイ・ジュニョク。議員に腹を刺された姉が車を運転し、眠りこける妹。そこで映画は終わるが、いい加減さは徹底している。

 

77 青春残酷物語(D)

大島渚脚本・監督、助監督に石堂淑朗、音楽真鍋理一郎。最初にプロデューサーの池田富雄と2本並びで撮影川又昂がどんと出てくる。大島のリスペクトのあり方かもしれない。脚本・監督という順番もハリウッドに倣っている。調子の高い曲で始まり、笛が高鳴りで入っている。

冒頭、桑野みゆき(真琴でマコ)が赤い車の男に話しかける。巣鴨に行くというから、方向が違うと断る。友達の陽子がこっちいいわよと声がして、そっちのクルマは緑色。ほかにそういう演出があるのは、桑野が姉久我美子と一緒に学校から出てきて雨、久我の傘が黒に近い灰色、桑野の傘が赤で俯瞰に撮っているところ。あとは映像的な凝り方はしていない。

中年男のクルマに乗り、男はホテルに連れていこうとする。そこに川津祐介(藤井清)が通りかかり、2人は付き合うことに。ボートでデートするが、木材が浮かんだ木場のようなところ。桑野を水に落とし、彼女がバチャバチャ右下に向けて斜めに進行する。それと並行に斜めの丸木の上を清が歩きながら、途切れ途切れの会話をする。面白い映像である。木材の上で2人は抱き合う。

2人は、クルマを運転する中年男から金を巻き上げるのを常習とするようになる。警察につかまるが、清がまえから付き合っていた夫人(家庭教師先の奥さん)の夫が、告発した中年男(二本柳寛)と会社的なつながりがある、ということで釈放に。中年男として山茶花究森川信が出てくる。

最後、まえから関係していたヤクザ(佐藤慶)に清は殺される。それを第六感で察知したマコは、中年男のクルマから飛び降りて死ぬ。最後は、その2人の仰向けの死のショットで終わる。清は、もうマコをものとして扱いたくない、つまり中年男カツアゲは止めよう、と別れ話をしたあとに、殺された。清はいくら抵抗しても、社会に潰されるみたいなことを言うが、彼は何も生産的なことはしていない。何が抵抗か。

マコの姉の久我美子はことあるごとにマコを叱責するが、自分は学生運動に挫折し、やはり中年男と付き合っている。マコに刺激を受けたのか、まえの恋人秋本(渡辺文雄)に会いに行く。かつて彼が医者カバンを持ち、姉は紙芝居をもって地方を回った式のことを言う。秋本は闇医者で、妊娠したマコの子を堕ろしたことが分かり、姉はまた秋本のもとを去る。ここでもいくら抵抗しても社会は強い式の生硬な言葉が秋本から吐かれる。政治の言葉となると、必ずとって付けたようなセリフばかりである。

 

78 潜入(T)

ハン・ジョンミンはしばらく映画に出なかったというが、本当だろうか。毎年、2ほんずつぐらいコンスタントに出ている。この映画は2006年の映画で、ちょっと感じがふっくらしている。彼のよさを出そうとしているが、どうも生煮えの感じ。潜入と名付けられているが、その感じがまったくしてこない。内通者の売人をやったのがリュ・スンボムで、何かで悪党役で見ている。

 

79  浜の朝日の嘘つきどもと(T)

タナダユキ監督、「百万円と苦虫女」を撮っているがぼくは見ていない。高畑充希の映画も初めてである。自然な演技をつくっているのではなく、あくまで自然に見える。学校の教師大久保佳代子がめっけもの。表情がないのが幸いしている。柳家喬太郎もまえに比べれば落ち着いてきた感がある。郡山弁ではなく東京弁をしゃべっているのはどうしてなのか。ほんのたまにそれっぽくするときもあるが。統一せよ、である。

その教師がガンで入院し、見舞ったときの2人の会話、というか高畑の間がおかしい。アドリブに見えるのである。大久保は決まったセリフを喋っているのだが、高畑がふつうにズラしているのである。
そして、教師が死ぬ間際に「(セックスを)やっておきゃよかった」と言った言葉に、ややあってその意味に気づいたというふうに、「それおかしいじゃん」と死体に言うシーンも何だかアドリブに見える。ここの場面がすごく面白い。ほぼラスト近くの臭いセリフも、変な間があり、セリフを忘れたか、と思うが、どうも演技の一部らしい。

タイトルの「嘘つきどもと」はちょっと分かりにくい。だれがウソをついているのか。可憐な高校生だった高畑がなぜ「うるせぇんだよ糞じじい」などと言うような女性になってしまったのかは説明はされない。自殺まで考えた高校生が東京の大学を出て、映画の配給会社に入ったということなのだが、その経緯が一切省かれる。大久保が本来やりたかったのは、その映画配給の仕事。しかも、高畑が潰れそうな映画館を救うのも、先生の遺言みたいなもの。
古い映画館にノスタルジーを感じるのは分からないでもないが、地方に行くと、胡散臭い路地の奥にひっそりと死にそうになった映画館がたくさんあった。どこもバタバタと潰れていった。あれは40年ぐらい前だっただろうか。1971年に撮られた名作「ラストショー」は50年代のテキサスが舞台で、すでに映画館が閉じている。この朝日館のように、とんでもない組み合わせの2本立てをやっているようなところは、潰れて当然という気がするが。

 

80 先生、私の隣に座っていただけませんか(T)

脚本・監督堀江貴大、主演黒木華(漫画家)、柄本佑(夫、漫画家)、客演風吹ジュン(母)、金子大地(教習所の先生)、奈緒(担当編集者、夫の不倫相手)。意地悪な、観客の心理を弄ぶような映画は趣味ではない。現実の不倫とマンガの進行を重ねるのが目的の映画で、谷崎『瘋癲老人日記』の世界である。ラスト近く、漫画と実写の別バージョンを3回(?)見せる箇所があるが、それがやりたくて作った映画であろう。

夫の性格を明るく、軽くしたことは救いだが、こんな奴を恨み切るのは時間の無駄ではないか。担当編集者も同じく明るく、図太くしたことで劇は進行したが、さて自分たちの不倫を題材に書き下ろしをされて「いい原稿です、連載いけます」という編集者などいるだろうか。ラスト、すべてお見通しという母親像はミスであろう。それと、いまどきケント紙にペンで絵を描いている漫画家などいるのだろうか。妻がこれだけ企み多く、演技もうまく、間夫にも展開を言い含めていたら、ふつう夫は完敗であろう。

 

81 ゲッタウェイ(D)

これで3度目だろうか。監督サム・ペキンパー、脚本ウォーター・ヒル。どの場面もくっきりと記憶に残っているが、2カ所だけ、あれ、そうだったっけ? というのがあった。冒頭のシーン、刑務所の外で働く囚人たちを俯瞰で撮って、左にカメラが寄ったときにカタカタカタというせわしない音がする。向こうからトロッコでもやってくるのかなと思うと、何も来ない。獄内のシーンとなって、それが繊維を織る機械の立てる音だと分かる。それがオープニングロールの間、ずっと鳴り続けている。マックイーンが機械に近づくまでのショットの切り返しが細かい。マッグローとの会話の場面でも、この頻繁な切り返しが行われる。

もう1つが、悪党ベニヨンの子分どもがエル・パソに向かうシーン。一台の車に6人が乗っている。これは何かのジョークなのだろうが、よく分からない。おふざけであることは確かなのだが。


基本は「俺たちに明日はない」である。そこに仲間割れのメキシコ人が、獣医の妻を奪ってマックイーン、マッグローを追う筋が入るが、それがやはり「俺たち~」のジーンハックマンとその妻を模している。ハックマンの妻は、軽薄だがお高くとまっているという人物像で、本来であればやくざ稼業の人間と付き合うのは不自然なタイプであるが、フェイ・ダナウェイへの対抗心もあって、次第にその世界になじんでいってしまう(それが何とも悲しいのだが)。獣医の妻は最初から犯罪者に色目を使うタイプではあるが、堅気であることは何回か表現される。ホテルでの殺し合いで叫び声を上げ続けるところなど、そっくりである。ちなみにその惨劇のホテルの管理人は、「俺たち~」の頭の弱い青年マイケルJポラードの父親役をやったダブ・テイラーである。

マッグローのおかげでムショを出て、彼女の部屋(?)に戻るマックイーン。彼女はシャワーを浴び、背中を見せてベッドに腰かける半裸の彼の隣に座る。やがてワイシャツを脱ぎ、意外と筋肉質で、幅広の背中を見せる。そのあいだ、セリフはごく少なく、じっと2人を撮っている。ペキンパーのしたたかさを見る思いである。

 

82 アイダよ、何処へ行く(T)

ユーゴから独立したボスニア・ヘルチェゴビナ。しかし、それには混在するボシュニュアク人(ムスリム)、クロアチア人、セルビア人のうち、セルビアの同意が欠けていた。そこで、セルビアによる内戦が起きた。この映画は、西部で優勢だったセルビアが東部にいるボシュニュアクとクロアチア人に攻勢をかけ、占領した時期を描いている。ぼくは2011年に「サラエボ、記念の街」というのを見ている。これはセルビア占領後のサラエボを描いている。大人しく日常生活を送っているかに見えた夫に、ちょっとしたことで反乱軍(といっていいのか……)への傾斜が起こるというものだ。ラストに市電が通る朝まだきのきれいな街並みが写されていたのは、あの映画ではなかったろうか(違う可能性もある)。「ノーマンズランド」(2002)というのもあったが、苛酷な状況なのにユーモアをまじえて撮っていた記憶がある。

 

アイダは元小学校の教師で、いまは国連のために通訳を担っている。夫、成人した2人の息子に何かと便宜を与えようとするが、国連幹部は特例は許されないという立場だ。セルビア側の将軍の、2万に及ぶ人々の移送提案を国連は受け入れる。しかし、その計画を立てるまえにセルビア軍が乗り込んできて、男女別のバスによる移送を行いはじめる。セルビア人を殺した男あるいはムスリムの男は、移送などでっち上げで、まとめて建物内で虐殺される。アイダはそれを予感し、家族の引き留めを画策するが聞き入れてもらえず、家族を失ってしまう。国連幹部にはその虐殺の話も入っているが、なすすべがない。

最後、アイダはむかしの住まいに行き、そこの新住人から小さなバッグを貰い(写真などの思い出の品)、職場に戻るが、担任する子供たちの発表会を見る父兄のなかに、その虐殺を主導した男がいる。映画はそこで終わる。監督ヤスミラ・ジュバニッチ、まえに「サラエボの花」というのを撮っている。ぼくは見ていない。

 

83 ビリーブ――未来への逆転(S)

最高裁の2人目の女性判事ルース・ギンズバーグを扱った映画である(まえにドキュメントも来た)。ハーバード大を首席で出たが弁護士事務所はどこも雇ってくれない。それで大学教師になるが、男性で母親の介護をするも、女性と違って税の控除がないことに異議を唱え裁判を起こした人の弁護を引き受ける。性差別に関わる200を超える法律が引っかかってくるということで、男性陣の司法界はタッグを組んで勝訴しようとする。女性保護のための法律だ、という理屈だが、ギンズバーグはそれは女性を家庭に閉じ込めておくためのものだ、と申し立てる。しかし、最初の弁論までは自信なげで(そういう演出にしたのだろう)、「では、戦争の前線にも女性は立つのか」と言われ、反論できない。

残り5分で何か補足があれば、と言われてからは、見違えるような弁論を展開する。補足時間も延長に。「国を変えろとはいわない、なぜなら国は勝手に変わっていくからだ。しかし、国が変わる権利を守ってほしい」と訴える。全員一致で前判決がひっくり返され、初めて問われた性差別をめぐる裁判はギンズバーグと夫の勝利となった。ギンズバーグを「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズ、夫マーティンをアーミー・ハーマー(ぼくは初見、いかにもアメリカ的なタイプだが、この映画ではグッド)、監督ミミ・レダー、脚本ダニエル・スティープルマン、原題はon the basis of the sex。こういう映画に中国資本が入っているのは、皮肉としか言いようがない。いずれ共産党は規制をかけてくるのではないか。あくまでジョークだが。

日本でははこういう映画ができない。生活の場から憲法やそれを基につくられる法律を見る視点が欠けているからではないか。司法自体も政治問題、安保などに臆病で関わろうとしない。先頃、過労死法案をつくるきっかけとなった女性が新聞に出ていたが、夫を過労死でなくし、失意のあとに立ち上がり、与党、野党含め100人を超える国会議員を説き伏せて法案化に進んだ。こういう人たちをプロデュースする人がいないのではないか。

 

84 琵琶法師 山鹿良之(T)

古い映像で、いつの時代のことかと思ったら、2004年の作品だった。それにしても、古臭い。ロマンポルノ時代のフィルムを見ているみたいだ。40本の演目をもち、それらをすべて語ると200時間を超えるらしい。本編は小栗判官を扱った話を中心に展開している(ほかに俊徳丸とか山椒大夫などがあると、上映後の監督とノンフィクション作家大島幹雄さんとの対談で言っていた)。最初が山鹿市の八千代座という小屋の映像らしいが、黒い背景に法師が坐って弾いているだけなので、小屋の様子が分からない。こういうのは全体が分かる絵を撮ってほしい。

歌自体、ぼくにはどうも上手いとは思えない。ふだんは近場を回るだけだが、浅草木馬座に出たときは、岡本文弥(浄瑠璃)、忌野清志郎、パンタ(頭脳警察)などが聞きにきていたというが、彼らの感想を聞きたかったものだ。

山鹿氏は坊さんでもあり、毎日、燈明を上げて祈りを捧げている。檀家を回っているのかは分からない。竈払い(かまどを清める。この映像は、やらせだと監督が言っていた)は琵琶法師の役目だったらしく、近所に頼んでその儀式をやらせてもらい、映像に撮っている。むかしは竈の上に神棚を作り、そこから白い半紙を垂らしていた。火の神の加護あらんことを祈った。

 

85 トムボーイ(T)

フランスの映画、小学校5年になる女子が転居した地で男子としてふるまい、やがて素性が明らかになる話。立ちションができない、泳ぎに行くのに粘土で男性器らしきものを作ってパンツのなかに隠したり、いろいろと大変。小さな妹が立派に演技している。「ライフ・アズ・ア・ドッグ」という佳作があったが、あれではさらしを巻いて胸の膨らみを隠していた。

 

86  レミニセンス(T)

温暖化で都市が水浸しになった世界で、記憶再生業を営む男が運命の女に出会い、最後はその記憶だけに生きていこうとする。ヒュー・ジャックマン、助手役ダンディ・ニュートン(彼女を見た映画を思い出せない。ややお年を召された)、そしてファムファタールレベッカ・ファーガソンダニエル・クレイグの007に出ている。水浸しがあまりストーリーと絡んでこない。海の上を電車が走る宮崎駿的な映像が出てくる。

 

87 恋するシェフの最強レシピ(S)

金城武主演、これで2度目である。見ていて、じつに楽しい。これをきっかけに彼の出演作を何作か見たぐらいだ。インスタントラーメン「出前一丁」の食べ方がすごい。2分茹でて、お湯を捨てる。そこにスープの素を入れ掻き回す。よく混ざったら、熱湯を注いで1分待ち、即座に食べ始める。「出前一丁」を箱ごと買おうと思ったが、ホームページを見ても見当たらない。

 

88 奇跡の絆(S)

レネ・ツウィルガー(デビー、妻)とグレッグ・キニア(ロン、夫)が夫婦。最初、レネと気づかず、声であれっ?と思い、調べると彼女だった。もう昔の面影がまったくない。
まず妻が貧民ボランティアを始め、夫がそれに付いて行く。離婚騒ぎを克服できたのは、そのおかげである。妻の夢に出てきた黒人男性がそのチャリティ施設にいた。殺人を犯した男だが、とても思慮深い、夫婦はその男デンバー(ジャイモン・フンスー)とウソ偽りのない交わりをしていく。デンバーもまた過去の差別体験や犯罪の話をし、心をほどいていく。
しかし、デビーは末期がんに侵され、死んでいく。告別の辞をデンバーが唱える。「富める者も、貧しき者も、その中間の者もすべてホームレスである。やっとデビーはわが家に戻ることができた」。参列者、もちろん多数の白人が立ちあがり、拍手を送る。
黒人ホームレスに肩入れする2人に対する反感はあまり描かれない。ロンの父親(ジョン・ボイト)とテニス仲間の一人だけが露骨な差別をする。それはある意味、この映画が成功した理由かもしれない。

主役を演じた2人には因縁があって、レネの初期作に「ベティ・サイズモア」がある。夫の虐殺されるところ盗み見て精神的におかしくなった妻が、いつもダイナーのウェイトレスをやりながらテレビで見ていた医者をめぐる恋愛ドラマの世界に入り込んでしまい、彼のいるテレビ局に押しかけてしまう。その妻役がレネであり、医者役をグレッグ・キニアがやっていた。夫を殺すモーガン・フリーマンとその甥っこ(?)のギャングコンビは抜群に良かった。本作のプロデューサーがその面白さを狙ったのは確かである。

いまはなき渋谷ブックファーストエスカレーターで2階に上がるとき、ふと右横にあったポスターに目が行った。とてもきれいな女性がそこにいた。1階に戻り、またエスカレーターに乗って、その映画名を記憶した。ベティ・サイズモア。ぼくはレネのファンとなった。高校生のときにキム・ダービィにいかれて以来のことである。キムの映画はほとんどやってこなかったが、来たかぎりでは映画館に見に行った。「傷だらけの挽歌」が忘れられない。

 

90 由宇子の天秤(T)

この映画、都内では渋谷ユーロスペース一カ所でしかやっていない。仕方なく浦和美園イオンという初めての映画館に行った。席はコロナ禍の条件下であるが、完売。きっと朝日新聞の映画評が利いたのだろうと思う。絶賛に近い。ぼくは「火口のふたり」で主演の瀧内公美を見ていたので、この映画も見るつもりでいた。前日に予約しようとして、一番前の数席しか空いていないことに驚いた。おそらくこれから上映館が増えていくのではないかと思われるが、上映者はどういう目利きで映画を選んでいるのか。ヒューマントラスト系でやってもおかしくないし、日比谷シャンテ、武蔵野館、池袋ロサあたりでもいいのではないか。ぼくは映画館での上映がどういう理屈で動いているか分からないが、邦画で、長時間で、題材が地味だということが影響しているのかどうか。それにしても、都内上映1館は、すごく退嬰的な感じがする。

教師と女子高生の交際が疑われ、両方が自殺。その事件の真相を追う独立のドキュメント制作会社のディレクター由宇子(瀧内公美)。対立する学校と生徒側という構図に持ち込みたいテレビ局に対して、由宇子は取材を重ねるなかで、教師そしてその遺された家族もまた被害者であるという視点を盛り込んでいこうとする。

それと同時に、ごく小さな高校生20人ほどを教える学習塾を経営する父親(光石研)が、その塾生の一人と性交渉をもち、それが妊娠と分かる。由宇子は何かれとその子(萌=河合優美)の世話を見るが、それは事が露見して自分のドキュメントが放映できなくなる可能性を考えるからである。父親が萌の父親に真相を話しに行くと言っても取り合わない。多くの関連する人間が巻き添えになる、と由宇子はいう。知り合いの医者に闇検査を頼むと、子宮外妊娠の手術が必要だといわれる。薬での堕胎で裏処理するつもりができなくなった。由宇子が隠してきたことが表に出る可能性がある。しかし、由宇子は2週間後の放映まで、その危ない状態に萌を放置する選択をし、父親も説き伏せる。

父親が人命がかかっていると言うと、由宇子は「こっちは死者を生かすのだ」と言い返す。由宇子の倫理の天秤が狂ってしまっている。彼女は自殺した教師の妻と子、その母親、そして自殺した女子高生の父親にも、非常にていねいな取材の仕方をする。彼らは頑なな心をやがて開いていき、由宇子を受け入れるようになる。その彼女が自分のこととなると、何の躊躇もなく保身に走る。父親に、そして自分の上司にスマホのレンズを向けて、その不正の言葉を記録しようとする由宇子。その行為は一種の病気といっていいかもしれないが、レンズを自分に向けることはない。

かなり後半になって、意外な事実が分かってくる。萌のアパートから男子生徒が出てくるのを目撃し、問いただすと、萌はウリをやっていたし、塾に通う男子とも性関係があった、あいつはうそつきだから気を付けろ、と由宇子はいわれる。次の検査に向かう途中でそのことを萌にいうと、萌はクルマから降り逃げて行ってしまう。あとの連絡で、道路に身を投げ、クルマに引かれて入院したことが分かる。そこで萌の父親にも、彼女の妊娠したことが知られる。父親は萌が売春をやっていたことを知っていたので、その誰かの子と思ったらしい。

その検査日、じつは途中で連絡が入り、自殺した教師の妻が取材された部分をカットしてほしいと言っている、と電話が入り、局の駐車場に萌を置いて、その処理に由宇子は向かう。妻から夫のスマホの映像記録を見せられ、さらに遺書の偽造まで言い出される。由宇子はこの企画自体の土台が崩れたと感じる。しかし、テレビ局の担当幹部(?)と話をした上司は、妻の証言部分をカットし、自殺した教師を含めた学校側と自殺した女子高生という対立構図で編集しろ、と由宇子に言う。由宇子はそれは違う、と言って飛び出し、萌と検査に向かう。


結局、由宇子は萌の父親に「萌の妊娠は私の父親のせいです」と告げる。父親は歩道で宣伝ティッシュを配る仕事をしているが、健康保険もガス代も払えない状況にある。娘ともうまくいっていないが、由宇子が出入りするようになり、3人で食事をするようにもなり、父子の関係はよくなっていく。父親は梅田誠弘という役者が演じているが、人のよさそうな、いかにもという感じで演じている。由宇子の告白を聞いた彼は由宇子の首を絞め、彼女は意識を失う。カメラはじっと動かない由宇子の足先だけ写すが、水を飲んだ遭難者が生き返るように息をゲホッと吐き出す音がして、足先が動く。かなり長いあいだそれをカメラは映し出すが、首を絞められ、生き返る人間にはそれだけの実際の時間が必要だということなのだろうか。珍しい映像である。その傍らに落ちていた由宇子のスマホには上司からの「企画が流れた」のメッセージが入っていた。それを聞いて、映画は終わる。

152分という長さだが、まったくそれを感じさせない。ふつうの映像をふつうに撮って、これだけ持たせる技に感服する。長回しで撮って、悠揚迫らぬ、といったところがある。自殺した教師の家で妻そして子と一緒にトランプに興じる場面など、きちんと撮っていて、納得させられる。ただ、これは時間の流れ方がよく分からない場面でもある。自殺教師の妻とアパートでの話が終わり、上司、音声と一緒にクルマに乗りながら、途中で由宇子は何かを思い出したように降りる。由宇子が何かを言うが、聞き取れない(ほかにも数か所、そういう場面があった)。ある少女を見かけ、声をかけるが、そこが先ほどのアパートの前なのかどうか。その子と一緒に家でゲームなどして遊ぶ。やがて母親も帰ってきて、一緒にトランプなどに興じる。先ほど、家内で妻から話を聞いていたときに、襖の隙間から覗いていた少女に由宇子は気づいていた。その少女に話を聞くべき、と思ったのかどうか。しかし、少女とは外で会い、しかも母親が不在なことをなぜ由宇子は知っていたのか。

追っている事件とまったく同じ構図の事件が自分の身の回りからも発生する、ということのわざとらしさを感じることはない。当たり前のディティールが当り前に撮られていることで厚みが出ているからだろう。

妻が遺書を偽装したと言うが、川に飛び込んだ夫は河原に遺書を置いていたらしい(映画のなかで、そう言っていたように思う)。妻はそれを発見し、家に持ち帰って偽装して、またそれを河原に持って行ったのか? だれもそれを見ていなかったのか? 警察は必ず筆跡鑑定をすると思われるが、急ごしらえなのに、警察をだませるほど精巧にできていたのか。偽装がバレて、妻が殺したと思われなかったのか? 夫の遺したスマホ映像だが、そんなものを残しておいたのか? 罪の意識がそうさせた? わが罪の証拠として? ふつう女生徒とのうわさが立った時点で消去しそうなものだが。当然、警察はスマホを探索するわけで、そのあいだ妻はずっと隠し持っていたのか? そんな大胆なことをする女には見えないが。あるいは、一度は警察が押収し、その中身については学校側に知らされていたのか(ぼくは学校側が夫にどういう処分を下したかを覚えていない。戒告? 休職? その処分内容と警察が押収したスマホとは何か関連があるのかどうか)。

最大の疑問は、上司と局幹部が妻の証言を削る判断をしたとき、なぜにそれを受け入れなかったのか? ぜがひでも放映に持ち込みたい由宇子には、妻からの削除の提案は、棚から牡丹餅みたいなものではないか。萌の子宮外妊娠手術さえ遅らせた女が、ここでなぜ正義の顔をして、自分の作品を葬るような決断をするのか。たしかに、自殺教師を学校側にくっつける案にはいくら何でも乗りにくい、ということかもしれない。自殺教師の子ども、祖母に申し訳ない。しかし、不思議なのは、そこまで念入りな取材がされているものなのに、テープの切り張りで学校と自殺教師が共謀していたという筋を作れるものなのだろうか。もしそうだとしたら、由宇子の取材自体が甘かったといえるのではないだろうか。教師の妻が証言したごとく、過労で夫は追い込まれ、学校に異議を申し立てることが多く、諍いが絶えなかったといっているのだから、両者を女生徒に対する同じ加害者に仕立てるつなぎ方などできないのではないか。

ぼくが不思議なのは、なぜに普通に考えて疑問に思うことを、脚本を作る段階でクリアしておかないか、ということである。都合のいい話に合わせて事実を捻じ曲げる、省略する、矛盾を厭わない、ということが頻繁に行われる。これだけ丁寧に作られている映画でも、そういうことが起きる。しかし、最低限の辻褄合わせぐらいしておいてほしい、と思う。遺書の筆跡のこと、スマホの隠匿などは、一般人からすれば大変な選択である。そこには教師の妻の深い苦悩や怖れがあったはずだ。劇を面白くするための作為、あるいはある種の結末を付けるための仕業だったといわれも仕方がないのではないか。

※とても恥ずかしいことだが、遺書を書き変えたというのを、手書きで、と勘違いしていた。当然、ワープロソフトを使ってということになる。しかし、それも警察で機種は特定されるのではないだろうか。

91 昨日消えた男(D)

脚本小国英雄、監督森一生、主演市川雷蔵(吉宗、南町奉行所の役人鯖江新之助)、客演宇津井健(大納言、寺子屋)、三島雅夫(大岡越前)、成田純一郎(大岡配下)、沢村宗之助(悪党美濃屋)、藤村志保(居酒屋いかりや娘)、高田美和(廻船問屋河内屋娘)。まず幽霊船が写され、なぞを残したまま、城内の場面に。部下のかける謎を簡単に解いてしまう将軍様、実際に町場で起きている事件を解いてみたいと南町奉行所へ。現場の大岡越前は、「易しくもなく難しくもない事件を見つけろ」と配下の者にいう。もうここでこの映画の魅力にやられてしまう。
廻船問屋の雇い人が溺死体で見つかった件を調べるが、なかなか理論通りにはいかない。配下の者がお膳立てしていることに気付き、出奔することに。たまたま入った飲み屋で寺子屋で教えている侍と出会い、事件が立ちあがってくる。結局、幕府転覆を図る一味を捕えることになる。幽霊船や謎解きがあとで利いてくる。楽しく、わくわくしながら見ていることができる。ときおり、宇津井健の醒めた表情を写すと、敵か、とも思うが違うらしい。いくつも都合のいいことを繋げるが、それはそれでいいのである。タイトルが何を指しているのかよく分からないし、現代ものっぽい。朝廷の勅使がやってきて、吉宗などが下座に居並ぶというのは本当にあったことだろうか。ラスト、天守閣だかから江戸のまちを遠眼鏡で覗くが、その天守閣が妙に汚れている。脚本の小国は当時、最も稿料の高いライターだったらしい。1本で、家半分建てられるぐらい。黒澤と一番組んだ数が多いのではないか。

 

92 エヴァ(S)

ジェシカ・チャスティン主演の格闘映画、残念な出来になってしまった。アクションがむかしの撮り方、恋を入れて展開がダレたこと、チャスティンの体形が悪い、など。ハリウッドの女優がこういう映画に出る理由は? アンジョリーナ・ジョリィ以来か。彼女はワイヤーロープで踊っていたが、いまはそういうわけにはいかない。成功例はないのではないか。

 

93 No Time to Die(T)

とうとうボンド映画も終わりなのかもしれない。あのテーマ曲が流れるだけで、わくわくしてくる。「ゴールドフィンガー」以来だから、もう長い付き合いになる。あの時代、ジェームス・コバーンのスパイシリーズもあった。テレビではナポレオン・ソロもあった。今回は、よく分からないうちにラストまできてしまった。とくに残り20分ほど敵が人質を置いて姿をくらましては緊張感がほどけてしまう。そういう意味では本当に終わりなのかもしれない。脚本の出来が悪いのだろう。レア・セドゥをまた何かの映画で見たい。それだけが望みだ。

 

94 MINAMATA(T)

モノクロで女性が小さな声で子守歌を歌っている。そこからNYに飛んで、ユージン・スミスの暗室である。シンプルなロックがかかる。ぼくは救われた感じがした。映画のテイストが分かったからである。ラストに同じ映像で子守歌が聞こえる構造になっている。それも見事である。水俣浅野忠信真田広之加瀬亮がそれぞれ収まりよく描かれている。スミスを演じたジョニー・デップも好ましい。スミスの友人、そして雇い人ビル・ナイは「ライフ」の編集長。自堕落で約束を守らない、酒浸りのスミスに愛想尽かしをするものの、関係を切ることがない。音楽坂本龍一は抑制的である。
スミスとやがて夫人となるアイリーン・美緒子・スミス(美波)が初めて浅野の家に泊めてもらった翌朝、部屋の左右一杯ガラス戸がはまっているのか、薄いカーテンがかかっているのだろう、きれいな薄青に満たされている。こんな映像を日本の家屋で見たことがない。
世界での反響をぎりぎりまで見せない演出が逆によかったのかもしれない。スミスを英雄視しないという意味で。ハリウッド映画ならやりそうなことだ。
彼がチッソ工場のピケ隊とゲートを破り、場内に入ったときに2人の男に殴られ、蹴られる。それが後遺症となって後年の死因となったらしい。チッソの社長(国村隼)から現金を渡されるシーンで、それをスミスが受け取ったかどうかは後で知らされる。劇を引っ張るための作為だが、この映画で疑問があるとすればこの箇所と、反対派の勢いを見てチッソ社長がもう救済措置しかないと決める場面が本当なのかどうかだけである。
今年ナンバーワンの映画である。監督アンドリュー・レヴィタス、本来は画家で、映画はほかに1作だけ撮っているようだ。脚本デヴィッドKケスラーもデザイナー、スタンダップコメディアンで、これが初めての長編脚本。なにか変わった組み合わせで出来上がった映画のようだ。

 

95 コレクター(S)

モーガン・フリーマンアシュレイ・ジャッドのコンビで2作だか3作だか来たことがあった。それぞれレベルが高かった記憶だ。これもやはり封切りで見た映画で、よくできた推理ものだった。フリーマンが刑事でありながら犯罪心理学博士、ジャッドが誘拐監禁される医者のインターン小林信彦先生がジャッド好きで、大いに共感を覚えたものだ。彼女の新作が来なくなって久しい。

 

96  キャッシュ・トラック(T)

詐欺だと叫びたくなる。アクションなし、ステイサムの役柄が分からない、時間を前後するので筋が追えない、最悪はステイサムがほぼ出てこないところがある。教訓は、ガイ・リッチーには騙されるな、である。

 

97  パリに見出されたピアニスト(S)

なんだろ、このタイトル。貧しい家の青年(ジュール・ペンシェトリ)が駅内に置かれたピアノを弾く。それを見ていた音楽学校の部長(?)が惚れ込み、コンクールで優勝させるまでに育てる。その部長ランベール・ウイリソンが味があっていい。青年を厳しく仕込む“女帝”がクリスティン・スコット・トーマス(何かの映画で見ている)、黒人の恋人がカリジャ・トゥーレ、すごくきれい。これからやってくるアレサ・フランクリンを扱った「リスペクト」のジェニファー・ハドソンに似ている。単純な、目的が一直線の映画だが、音楽ものにぼくは弱い。

 

98 ハイクライム(S)

アシュレイ・ジャッドモーガン・フリーマンのコンビである。夫がメキシコで9人を虐殺した̚かどで逮捕され、軍事裁判にかけられる。軍はいろいろな脅しをかけてくる。しかし……である。この映画、3回目だが、基本的にインチキである。それに気づかないぼくも迂闊である。アシュレイ・ジャッドの色香に惑わされたか。

 

99 浜の朝日のうそつきどもドラマ版(S)

こっちが映画版より先にあったらしい。茂木理子の「くそジジイ」発言にすっかり虜になってしまった感がある。恩師の死が触れられているが、それを全面展開させたのが映画版である。なかに落語野ざらしから一句「月浮かぶ水も手向けの隅田川」が引かれている。さらっとした出来で好感である。黒澤「生きる」とキャプラ「素晴らしき哉、人生!」を同時上映する映画館、その意図とは? タイトルだけの符号か?

 

100 さすらいのカウボーイ(D)

傑作の誉れの高い作品(1971年)だが、香気、気品さえ漂わせる。スローモーションと映像の重ね焼きを多用し、川の光、朝夕の光に満ちている。夜の闇に灯るランターンの明かりもある。詩情豊かな映像を連ねながら、破局へと静かに進行していく。

冒頭、きらきら光る川に流されながら遊ぶ男、そして釣り糸を手に佇む男。3人の食事のシーンに切り替わり、カリフォルニアに行く話になる。若い男が魚がかかっているかもしれないと釣り糸を確かめに行き、2人を呼ぶ。金髪の少女が針に引っかかったらしい。ピーター・フォンダが釣り糸を切る。若い男が「なぜだ?」と迫ると、「引っ張るとバラバラになる」と答える。これがこの映画の構造を知らせている。詩情と突然の死。同じことが映画の後半に繰り返される。
静かな音楽が転調の役目を担う。バンジョーやスティールギター、そして高音の笛(楽器名分からず)。音楽はブルース・ラングホーン。ボブ・ディランと一緒にアルバムを作っている人らしい。
監督主演ピーター・フォンダ、脚本アラン・シャープ(西部劇が多い)、助演ウォーレン・ウォーツ(これが渋くてvery good)。監督としては3作しか撮っていない。タイトルは「さすらい」だが、出奔した妻のもとに帰る帰郷の話である。妻が10歳上、「俺は子どもだった」と妻のもとを離れた理由を言う。原題The Hired Hand 雇われ人みたいな意味か。妻子のもとに帰るが、罪滅ぼしに使用人として使ってくれ、と頼み込む。妻は彼がいない7年のあいだ、複数人の使用人と夜を共にすることはあったが、それだけで男は大きな顔をするから、季節が来れば追い払ったと言う。ヴァーナ・ブルームという少しメキシカンな感じのする、骨太の、意志の強い、農婦然とした女優さんをフィチャーしたことがこの映画の成功の理由だろう。きっと客の入りが少なかったと思われる。そうでないと、3作しか撮っていない意味が分からない。しかし、こころに沁みる映画である。早過ぎた映画といわれるが、もしそうでなければ後の世まで評判になどならなかっただろう。

ラストの重ね焼きがすごい。死んだフォンダを抱き起こすウォーツ、そこに妻の絵が重なるのである。少し鳥肌が立った。死体を馬に乗せてウォーツは家に帰ってくるが、ごく自然に納屋へ向かうのを妻は声もかけず見ている。おそらくこのあと彼らは親密な関係を結んでいくことになる。

 

101 ナッシュビル(D)

再見である。この緩さは何だろう。声高に言おうとはしない。カントリーの歌姫が最後に撃たれるのはなぜか。その混乱のなか、亭主から逃げ続けてきたシンガー志望の女がDon't Worry meを絶叫する。傑作の呼び声が高い映画だが、今となれば、なにそれ? である。

 

102 MONOS猿と呼ばれた者たち(T)

こけ脅し映画である。コロンビアが舞台らしいが、唯一面白かったのは何もない山頂にコンクリートの立方体が立っていることだ。「蝿の王」を思い出す。


103 Destiny鎌倉物語(S)
いやあ、愉しかった。特撮もOK、高畑充希堺雅人の夫婦もいい。現世から異界への移行がもの足りないぐらいスムーズである。小さな魔物を視界に走らせるなどの事前準備がしてある。黄泉の国のCGは手が込んでいてGOOD。やはり映画は食わず嫌いせず見るべきなことが分かる。映画館で見たかった映画である。監督山崎貴、SFX専門の人のようだ。「三丁目の夕日正・続」、デビュー作は「ジュブナイル」。高畑充希はほぼ見たことのある演技だった。死神を演じた安藤サクラがやや高めの声を出して、非常にいい。そして、堺の父親をやった三浦友和もいい。野暮な疑問をいえば、日露戦争のころに生まれたという中村玉緒がこの世で人でない証拠をどこかで見せてほしい、彼女が堺に渡す黄泉の国の住所は、もし黄泉は見る人によって世界が違って見えるとしたら、どういう住所表記になっているのか(数字やアルファベットなどの絶対表記か)、堺と高畑はずっと前世でも出会ってきたというが、いつも恋路の邪魔をする点灯鬼を排除して仲良く夫婦となったとすれば、黄泉には前世で何度も死んだ2人の夫婦が累々といるのだろうか……などと考えても詮ないことかもしれない。

 

104 ベル・エポックをもう一度(S)

倦怠期の夫を追い出す妻、それを救う息子。仕掛けが2人が出会ったころのシーンの再現。楽しく見ることができた。ウソと分かっていても、人はまんまとはまるものなのか。

105  屋根の上に吹く風は(T)

サドベリー・バレー・スクールというアメリカのホームスクールを模範とした鳥取県の山村の自由学校が舞台にしたドキュメンタリーである。授業がないから教科書も、カリキュラムもなく、通信簿も当然ない。学校扱いではないので、遠くの小学校の帰属となっていて、定期的にそこに行かないといけない。先生は2人、週に1度の補助が1人といった体制で、だれを常勤にするかというのも生徒が選挙で決めている。新人スタッフの一人が、自らが受けた衝撃を以下のように語る。「スタッフを雇うなら、日本語ができないとだめね、と言うと、言葉ができないのも結構面白いかも、と子どもが言う。でも走り回るから脚が悪い人は無理かな、と言うと、ルールを変えたら面白い、と言われた」。生徒の自主性だけではなかなか事が進まない。校長的な立場の洋ちゃんが創設の発案者だが、彼もそのさじ加減はいまだに分からないと言っている。デモクラシーの学校というのがテーゼだが、大人には大人の知見がある。それをどう子どもの自主性につき混ぜていくかは、本当に難しい問題だ。長野にもう数十年も通信簿のない公立小学校があるが、学習指導要領が変わるなかで「探究」が課題となって、実験的な学校の取り組みに関心が集まりつつある。子どもたちが喫茶店を出すことになり、むらの古老にスペースを借りるために電話を入れたり、資金をどこからねん出するが、何をどれくらい売れば儲けが出るかなど課題をクリアしていくなかで、算数から経済、人間関係などさまざまなことを集中的に学んでいく。これはアメリカカリフォルニアのHTH(ハイテックハイ)が長く実践を積んで生きたやり方である。

 

106 リスペクト(T)

アレサ・フランクリングラミー賞18回、グレン・グールドとも共演している。バプティスト派の教会牧師である父親の管理下で育ち、かなり後年までその影響下から抜け出せない。彼女が反抗的な態度をとると「虫が出た」と言って責める。アレサは家の客に幼いときに妊娠をさせられている。暴力的な夫、アルコール中毒。既視感が一杯の映画である。ヒット作を出せずコロンビアからアトランティックレコードに移籍し、向かったスタジオがかなりの田舎、しかも白人ミュージシャンンしかいない。ところが、即興で作り上げていくスタイルで、それがアレサに合っていた。はじめて彼女は自分の意見を押し出して、曲をまとめていく。アル中から癒えた彼女は教会でのライブ録音を主張するが、プロデューサーは反対する。それを押し切って実現させたが、彼女のアルバムのなかでは最大のヒット作に。ラストにケネディ・センターでの実写が出てくるが、これはYoutubeで見ていたものである。たっぷりとジェニファー・ハドソンの歌を堪能することができる。父親をフォレスト・ウィテカー、アトランティックレコードのプロデューサーをマータ・マロンが演じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年の映画

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旅の宿で

昨年は「パラサイト」も「新聞記者」も、これは駄作だと思ったものが、どちらも日米のアカデミー賞に輝いた。賞に輝いて、その後、まったく顧みられない作品があるが、2つはきっとその種の映画となることだろう(多分に負け惜しみっぽいが)。前者は富者と貧者のあいだの恨みや葛藤が描かれていない。韓国の貧富の格差ってこんなに生ぬるいものなのか。ラストに至るための絵解きがしつこく施されていて、ポン・ジュノの衰えさえ感じる。(のちの記:『映画評論家への逆襲』<荒井晴彦森達也白石和彌井上淳一小学館新書>で「パラサイト」の評価が低い。わが意を得たり、である。格差なんて描いていないし、ポン・ジュノは思想性が弱い、と指摘。ラストもしつこい、と)
後者は、日本の黒い霧を追うのに、日本語がたどたどしい韓国女優を起用する。それに見合った必然のストーリーが展開されるわけでもない。ハリウッドの政治告発ものは、見させる工夫が一杯である。それに比べて何と貧相なことか。
韓国映画では「はちどり」を推したい。どこかの映画祭で「パラサイト」と争ったらしいが、断然こっちの方がいい。私塾の書道の先生と歩く道筋に解体予定のフェンスで覆われた工場が出てくる。必ずその白い遮蔽幕がじっと写されるのだが、何の説明もされないが、こちらにはある種のイメージが流れ込んでくる。そういう抑制の利いたことを、この映画はあちこちでやるのである。見る者を信頼しているから、こういうことができる。幼い恋と裏切り、友人との何度かの喧嘩、憧れの女先生の謎と失踪、公園での母の謎のような振る舞い、自らの病気……いくつも織りなされる事柄のなかで、少女は神経がひりひりするような経験を重ねていく。
黒澤清「スパイの妻」も傑作と呼ぶ声が多いが、そんなものではないだろう。蒼井優演じる妻がミステリアスというが、あんなに旦那一途の女はいない。甥を夫のかわりに特高にいけにえに差し出す女である。だから、あの映画のどこにも謎などないのである。気になるのは、生硬な芝居じみたセリフのやり取りである。(のちの記:やはり前掲書ではくそみそ扱い。黒澤はそもそも人間を描けない、国家の機密情報を一介の商社マンがどうやって手に入れる、特高ではなく憲兵隊がスパイを追うのはおかしい<ぼくのこの原稿では特高と書いている>、女主人公が描けていない、などなど)
圧倒的だったのが「異端の鳥」、3時間、まんじりともしなかった。暴力的に過ぎると批判されるが、本当に怖いのは暴力に至るまでの緊迫した過程である。嫉妬に我を忘れるウド・キアがすごい。
それとレンタルで借りた家城巳代治の「姉妹」が秀逸。労働組合の退潮が見え始めたころの様子を、性格の違う姉妹の点から描いたもので、モノクロだが絵も構図もきれい。ダムで生計を立てる人たちの住む長屋にある差別や、貧困から抜け出せない肺病病みの家族の問題などもユーモアをまじえて描かれている。かつての日本映画のすごさを実感。

 

1 マ・レイニーのブラックボトム(S)

ヴィィオラ・ディビスを初めてみたのが「ダウト」で、うまい役者さんが出てきたものだ、と思った(たしかこれで助演女優賞を獲った)。それから4作、テレビシリーズものを1作見ている。その彼女がどう変身したのか超肥満のブルースシンガーでレスビアンの役を演じたのが、この映画だ。ほぼ室内で終始し、ちょっと演劇っぽい作りだが、黒人女性で力をもった人間が、それを保持するために懸命に悪者を演じる様子を描いている。「ブラックボトム」というタイトルの歌をうたうが、卑猥な意味も込めているようだ。黒人が腰をくねくねして踊るダンスのことらしい。

 

2 i―新聞記者(S)

森達也東京新聞望月衣塑子を扱ったドキュメントである。政治マターとしては辺野古の赤土の違法な投入、記者会での彼女の発言規制、伊藤詩織さんの裁判、森友問題ということになる。登場人物はほぼ誰か特定できるが、詩織さんをレイプしたという山口敬之は名前を入れないと誰だか分からない。それと安倍と菅の真似をしたザ・ニュースペーパーも分からない。

タイトルの「i」は、人は党派性で固まるのではなく、個々人に帰って、政治などの問題に立ち向かうべきだ、という意味である。そうでないと、いがみ合うだけで、妥協点が見つからないという趣旨である。

意外なのは山口が望月の取材に、同じジャーナリストとして敬意を覚えるし、こんなふうに正々堂々と取材をかけてくるなら取材を受けたい、と語ったことである。その後、どうなったかは明示されないが、この顛末は気になる。

RKB毎日の記者が、われらを左翼と呼ぶ奴がいるが、もし左翼政権ができても、同じく正義を求めて取材をかけていく、と述べたことが、とても印象深い。望月記者もそれに大きく頷いていた。

籠池が国策でハメられたおかげで、いまは朝日新聞しか読まなくなった、と述べている。これは一考に値する発言である。

森が、本来望月は当たり前のことをやっていて、なぜ俺はそれをカメラを回して撮っているのか分からなくなると言う。外国人の記者たちが入れ替わり立ち代わり望月に会いにやってくるが、彼らもまた望月的な在り方はふつうなのだ、と言っている。

しかし、たしか上杉隆が書いていたと思うが、アメリカではエスタブリッシュメントなペーパーしか大統領との定期的な囲み懇談ができない。たしかに日本の記者会の閉鎖的な面があるが、アメリカにだってそれがある。向こうのジャーナリストがすべて正しいとはいえない。そこもまた森がいう「i」が大事になるのもかしれない。

 

3 白い巨塔(S)

初めてみるモノクロ映画(1966年)である。田宮二郎が主演。危機のときの彼の目の光が異様に強い。なにかこの役に強く入れ込んだものがあったのだろうか。冒頭、群衆のシーンで頭一つ抜け出ているので、遠くからでも彼と分かる。「悪名」ではそんなに大きなイメージはなかったのだが。小さいころに「悪名」のイメージで親しんだ田宮二郎だから、とても違和感がある。彼がゲイで、猟銃自殺と知ったとき、どれほどぼくは衝撃を受けたことだろう。なぜあんなにスクリーンでにぎやかで、生き生きとしていた人が……と思ったものである。小川真由美はいつもの役柄だけど、やはりいい。最後に医学界のためと田宮=財前五郎を守る滝沢修が、倫理と政治を体現して見事である。監督山本薩夫、脚本橋本忍

 

4   テキサス・ロデオ(S)

いやはや、やはり映画は選り好みしないで見るべきだと思う。この映画、とても抑制が効いていて、しかも音楽の使い方も好ましく、さらに神話的要素を最後に見せて、いい結末にもっていっている。描写はじっくりと細やかで、とても納得のいく展開である。ものすごくレベルが高いことだけは確かである。参りました、である。女性監督・脚本アニー・シルバースタインAnnie Silverstein。短編とドキュメントだけで、これが初長編映画(2019)のようだ。主演の少女がアンバー・ハーバード、黒人のロデオの名手がロブ・モーガン。冷たいけど優しいお婆さん、暴力沙汰で収監されているお母さん、その離婚したテキサスなまりのひどい悪党の父親、そこにたむろするゲーム好きの青年たち、みんな配役がきとんとはまっている。

 

5  11.25 自決の日(D)

若松孝二という監督は大して客を集められないし、演出がうまいわけでもないのに、延々と映画を撮ることができた幸せな人である。ぼくは連合赤軍を扱った作品で、暗然とした。封印していた感情が戻ってきた感じである。テキストとして彼らの所業は読んで知っているわけだが、それを映像でもう一度確認するというのはいたたまれない。この三島をめぐる作品ももちろん知っていたが、映像として見る勇気がなかった。ある事情で見ざるをえなくなったわけだが、いろいろとまた考えることがあった。三島が余りにも兄貴、あるいは家父長的な存在に描かれているが、楯の会ではそう振る舞ったものか。だとしても、その嘘はいくら相手が青年たちでもすぐにバレるのではないか。剣道を森田必勝に教え、お前は筋がいい、などと言うが、まさか運動音痴の三島がそんなことを言うだろうか。東大での討論も資料不足なのか探索不足なのか、論争の仕方がまったく違っている。それにしても、三島死して50年、未だに彼のことを考え続けている人たちがいる。三島の、あえていえば“至誠”は生きたことになるか。

 

6 スタントウーマン(T)

惹句が「ヒーロー」となっているが、「ヒロイン」の間違いだろう。中身は、いかに女性スタントが頑張って今のポジションを掴んだというもので、彼女たちの類いまれなスタントの技を見せるものではなかった。マーシャルアーツと棒術の練習風景が、心に残る。

 

7 マンク(S)

映画を見たな、という感じである。ゲイリー・オールドマン主演、監督デビッド・フィンチャーNetflix製作・配信「市民ケーン」の脚本家ハーマンJマンキーウィッツを描くモノクロの映画。左翼的作家で、新聞王ハーストをおちょくる内容で、自分の名をクレジットさせた。ドイツの村のユダヤ人を100人以上、私費で救っている。白黒の映像が本当に美しい。「ローマの休日」の脚本家ドルトン・トランボのほうがもっと過激で、筋金入りの左翼の感じである。しかし、1930年代のアメリカではもう社会主義が禁句となりつつある。マンクは54歳、アルコール症との合併症で死んでいる。ラストに気の利いた彼の言葉が紹介される。I seem to have become more and more a rat in a trap of my own construction,a trap that I regularly repair whenever there seems to be danger of some  opening that will enable me to escape.どんどん自分で作った罠にはまるネズミのようになってきた。逃げ出したくなるたびに修繕しているから、余計にそうなる(私訳)。全篇、こういうセリフが横溢している。

 

8 かぞくのくに(D)

2012年の作。 脳腫瘍の手術のために3カ月、北朝鮮から日本に帰国した長男(井浦新)と家族の物語である。ピョンヤンからの命令ということで、すぐに帰国ということになるのだが。こういう制度があったこと自体を知らなかった。舞台は北千住柳町の蔦のからまる喫茶店である。主演井浦新、妹が安藤サクラ(2014年に「100円の恋」)、母親が宮崎美子、父親が津嘉山正種、叔父に諏訪太朗。監督ヤンヨンヒ、「ディアピョンヤン」を撮った女性の監督である。ぼくはDVDで見たような気がする。プロデューサーが「新聞記者」の河村光庸(みつのぶ)である。ぼくは舞台となったあのあたりを歩いたことがあるので、少し土地勘をもって見ることができた。簡にして要を得た映画という感じである。

 

9 ワンチャンス(S)

小さいときから歌うのが好きな子が、長じてイタリアに勉強に行くが、憧れのパヴァロッティの前で緊張しぎて歌えない。君は永遠にオペラ歌手になれない、と宣告される。まちのスマホ屋に勤めながら、結婚もし、虫垂炎破裂間際とか自転車事故など波乱がある。たまたまネットでYou got a talent の応募画面を見て、妻の後押しもあって出場。見事勝ち抜き、最終戦も優勝。プロデビューし200万枚のCDを売り上げ、女王の前で歌う栄誉も授けられる。オーディションの審査員は、実際のテレビ放映の映像を挟んでいるので画質が明らかに違う。これはわざとそうしたのかもしれない。妻役をやった女性がはまり役で、きれいなのか、太っているのか、という境界線上にいる人で、これ以上はないという適役である。主人公が住むのは鉄鋼産業のまちで、だれもイタリア語のオペラなどには関心がなさそうに見えるが、パブで彼が道化のなりをして歌うと、それまでバカにしていた聴衆が大喝采である。それはオーディション会場でも同じである。ぼくはたしかこの彼の本物が出たときのシーンをYou-tubeで見ている。

 

10 素敵なウソの恋まじない(S)

ダスティ・ホフマン、ジュディ・ディンチという老齢のお二人の恋物語。最後に落ちが用意されているが、さて辻褄は合っているか。楽しく見させていただきました。

 

11 ランナウェイ(S)

女性ロックバンドの走りである彼女たちのサクセスと早い崩壊の様を映し出す。ほぼ最後までまえに見た映画と気づかなかった。だけど面白かった。ダコタ・ファニングがセクシーなボーカルという役だけど、無理あり。リズムギターのリーダー役が好感。

 

12 黒い司法(S)

ハーバードを出た北部の黒人青年ブライアン・スティーブンソンが南部アラバマ州で冤罪専門の弁護士として活動する。Equal Justice Initiativeという組織を作り、そこを拠点にした。白人の証言者が1人、それも犯罪歴のある人間を脅かして司法取引で偽証させ、有罪にさせた。24人の黒人の証言は無視されている。餌食にされたのはマクシミリアンという黒人の伐採業者である。6年の収監で無罪を勝ち取った。30年ぶち込まれて無罪となったレイ、それが確定したのが2015年である。ブライアンは120ケース以上で勝利している。死刑囚の10人に1人が冤罪というデータが最後に紹介される。原題はJust Mercyである。日本でも冤罪事件があるが、ここまでひどい、ということはないのではないか(司法と警察の腐敗が地理的に集中している、という意味だが。熊本県志布志事件というのがあるが)。マクシミリアンの事件で救いは最後には地方検事が改心したことと、死刑を見て衝撃を受けた刑務所員が収監者に温情を見せる点である。ブラック・ライブズ・マターはずっとアメリカという国で続いてきた問題である。

 

13 ヒルビリー・エレジー(S)

監督ロン・ハワード、主演エイミー・アダムス、グレン・クロース(祖母)、ヘイリー・ベネット(姉)、ガブリエル・バッソ(主人公)、Netflixオリジナルである。ケンタッキー州から隣のオハイオに移り住み、悲惨な家庭環境から息子がイエール大学に入り、就職するまでを描く。アメリカでベストセラーになった自伝の映画化である。時間を現在と過去で頻繁につないで、無理がない。アダムスは太り、色落ちした髪を振り乱しているが、気の強い役ははまり役ではないか。ベネットは「イコライザー」で見せた見事な肢体は見るも無残に変わっている。役作りと思いたい。アダムスについても。強い女を演じてきたグレン・クロースもすっかりお婆さんである。でも意志の強い役は相変わらず。アパラチアに住む人々は意外と女系が強いか?

 

14 聖なる犯罪者(T)

これ以上でも以下でもないというタイトル、原題は分からないが。ポーランド映画と知らず見たが、途中からポーランドの映画かもしれないと思いながら見ていた。少年院で教導にやってくる神父に刺激を受けた子が、出院後、ふとしたことからある教会の補助司祭、そして司祭の代理をすることになった。彼はその村の解き難い問題にまで手を出していく。自らが重罪犯であることを明かしながら、人々の“悪”をなだめていく。主人公が院を出てすぐにドラッグ、セックスに走るので、ああそっちに行く話かと思うと、じつは違うという展開である。薬でやられて踊りまくるときの見開いた目と、ラストの必死に逃げるシーンの目が同じ目である。フランソワ・オゾンの聖職者による青少年への性的ハラスメントを扱った映画でもそうだが、宗教から離脱する人が多いといいながら、まだまだ宗教には根強く人々を牽引するものがあると思わせられる。

 

15 天国にちがいない(T)

エリア・スレイマンというパレスチナの監督作品、彼自身が出ている。落ちのないコント集みたいな作りになっている。監督はただじっと事実を見つめるだけだが、そこに彼がいることの意味がある。カフェの外の椅子に座りながら、目の前を過ぎる女性の腰のあたりばかり眺めるシーンなど、さもありなん、人生は、という気がする。冒頭に迷惑な隣人が出てくる。勝手に監督のオレンジの実を取ったり、その枝を落としたり、それに水遣りをしたりするが、監督は別に非難の表情を浮かべるでも何でもない。隣人であるとは、そういうことだ、とでもいうように。もう一人の隣人は、狩りでの秘蹟を語る。それもまた隣人のあり方である。ラストに踊り狂うディスコの若者たちを見つめる監督の目に少し潤いが見える。彼は同胞を限りなく愛おしむ。もう一度、見たい映画である。

 

16 シカゴ7裁判(S)

Netflix製作、配信である。主演エディ・レッドメイン(トム・ヘイデンというリーダー役)、彼は「博士と彼女のセオリー」「リリーのすべて」で見ている。1968年、シカゴで民主党全国体が開かれるのに合わせて、ベトナム反戦の若者たちが民主党の大統領候補ハンフリーではなく、左派マッカーシーを支援するためにシカゴに集結する。それを警察が力で押さえ込む。
ジョンソン政権の司法長官は、警察側の挑発によって暴動が起きたと考え、大統領との話し合いで告訴しないと決定したが、ニクソン政権になって新しい司法長官は有罪にするために若いが敏腕検事を立てて、裁判を開始する(彼は共同謀議を立証できないと主張したが、やむなくその任を受け入れた。しかし、あまりにも強権的な裁判官のやり方に、最後には反旗を翻す)。地裁は5年の実刑判決が出るが、上訴審で翻る。その初審の最後に、リーダーのトム・ヘイデンは終始強圧的な裁判官から、こう言われる。「審理のあいだ、君は他の被告と比べずっと大人しくしていたから、将来国にとって有望な人間となるだろう、ゆえに発言を許す」。ヘイドンはそれを最大の侮辱ととったのか、ベトナムでのアメリカの戦死者の名をすべて読み上げることで、その裁判官の高慢な鼻をくじく。ぼくはサイモン&ガーファンクルの「水曜の朝、午前7時」を思い出した。もう一人の運動指導者アビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)がスタンダップ・コメディアンでもあるのか、そういうシーンが挟まれるが、彼がヘイデンに抗いながら、裁判の弁論ではかばうシーンには泣かされる(高平哲郎は『スタンダップコメディの勉強』でホフマンをジェーン・フォンダの前夫としているが、トム・ヘイドンとの勘違い)。
このデモのことは、ベケットやジュネ、D.H.ロレンス、イヨネスコ、フランツ・ファノンなどのアメリカへの移入を図ったグローブ社の編集者リチャード・シーバーの自伝で読んでいる。シーバーはジュネの雑誌取材に同行したのである。映画にも出てくるアレン・ギンズバーグと遭遇し、ギンズバーグはジュネのまえに跪き、頭を地に着けて敬意を表した。

 

17 ジャングルランド(S)

その日のねぐらにも困る兄弟がナックルファイトで大金を稼ぐ夢を頼りに、目的地まで向かう。アングラで借りた金が返せず、一人の女を届けるようにいわれる。それが高齢やくざのひもだった女で、弟のほうが心をぐらつかせ、兄貴はおれを食い物にしている、と言い出す。結局、兄貴を助けるために、女を孕ませた高齢やくざを殺すことに。最後、弟は試合に勝ち、リングサイドに兄を探すが、兄は警察に拘束されている。言葉通り、無償の愛を兄は実践したのである。戦いの場面がほどとんどないのが残念だが、じっくりしたロードムビーとして見れば、見ていられる。だらしないが人のいい兄貴がチャーリー・ハナム、憂い顔のファイターが弟のジャック・オコンネル。問題を引き起こす女がジェシカ・バーデン。

 

18 ラン、オールナイト(S)

まだリーアム・ニーソンで見ていない映画がある。雪原ものもまだ見ていない。場所が限定されると、想像力が縛られる感じがあって、手が出しにくい。エド・ハリスがやくざ稼業の兄弟分、その息子をニーソンが殺したことで復讐劇が始まる。ニーソンは疎遠だった息子、ジョエル・キナマンを助けようとして兄弟分の息子を殺したのである。キナマンは、テレビシリーズ「The Killing」で初めて見たスウェーデンの俳優である。冒頭に傷を負って横たわるニーソンで始まるが、ジョン・ウィックがやった手口である。もっと前でいえば、プールに浮かぶ死体から始まった名作映画がある(ビリー・ワイルダーサンセット大通り」)。劇の作りとしては、どうかな、という感じである。監督ジャウム・コレット=セラで、ニーソンと組んで何本か撮っている。「アンノウン」「フライト・ゲーム」「トレイン・ミッション」である。

 

19 この空漠たる荒野で(S)

南北戦争で生き残った男が、町から町へニュースペーパーを読む仕事をしている。妻がいるらしいが、それがどうなっているかは明かされない。その途中、一人のドイツ系の少女を助けることに。彼女はカイオワ族に誘拐された子だった。叔母夫婦がいるところまで少女を連れて行くプロセスであれこれと起こる。主演トム・ハンクス、監督ポール・グリーングラス、ボーンシリーズの2、3作目と5作目を撮っている。アクション映画とは違って、じつに落ち着いた映像を見せてくれる。遠景で撮る荒野と低い山並みが夕暮れに青い色に浸されて美しい。これもNetflix配信、このくらいのほどほどの出来の映画がたくさん作られたら、映画館に行かなくなる可能性がある。

 

20 フランク伯父さん(S)

アマゾン配信、ソフィア・リリス主演。Netflixの「ノットオーケー」続編がコロナで打ち切りになった。その代わりにアマゾンがリリスで映画を撮った。ゲイであることを父親の遺言で明らかにされた長男(これがリリスの伯父で、NY大の教授)が、やっと家族に受け入れられる話。 信心深い父親は長男を許せなかった。聖書は同性愛を禁じ、奴隷制を支持しているらしいが。

 

21 素晴らしき世界(T)

 西川美和監督、主演役所広司、2時間超。殺人で13年刑期を務めた粗暴な男が出所し、なかなか現実になじめない。というか、理不尽な暴力、圧力に我慢がならないところがあるために、いざこざを起こす。いわば、正義のための暴力しか使わない人である。自然と彼を庇護してくれ、心配してくれる人が増えていくのは、そういう彼の性向を見ているからである。そもそも妻とやっていたスナックに敵対組織の男が日本刀を持って押し入ってきたのを反撃して死に至らしめた男である。いけすかない男が次第に変わっていく。一度は昔の兄弟分(白竜)のところに身を寄せるが、そこも警察が立ち入ることに。その姉さん(キムラ緑子がいい)が、堅気になりな、つまらないことばかりで大変だが、青空が大きいと言うわよ、と金を渡して彼を押しやる。身元引受人も、ふつうに生きていくだけで、俗世間は大変だと諭す。暴力でかたをつけるほうが簡単である。その複雑な世界でやっと生きられそうになったのに、ラストシーンはむごい。故郷の福岡で兄弟分のはからいで一夜を共にした女がなかなか情愛があっていい。なんとなく西川監督と似ているような。ネットでは名前が分からない。役所の窓口になった北村有起哉という役者が公務員の範囲のなかでやれることをやる、信頼の置ける人物の感じが出ていた。

 

22 モンテッソーリ 子どもの家(T)

モンテッソーリ哲学で運営される北仏保育園の子どもたちを映すドキュメンタリー、といってもほぼ室内。いやはや子どもってすごい。この集中力、好奇心がずっと続くと、世の中天才だらけになる。いかに既存の教育が子どもを、そして青少年をだめにしているかが如実に分かる。教材? 遊具? は基本的に生活で必要とされる動作と関連づけられている、と言っている。文字や発音、算数的なものも自然に取り入れている。先生はあくまで子どもが自発性をもって活動するための補助(介助ではない)者的な立場。教科書がない杉並の和光小学校を扱った映画も上映されていたが、残念ながら見ることができなかった。iTuneで見ることになるか。

 

23  イップマン完結(S)

新宿で見たのが最初のイップマンだ。ぼくはナショナリストではないが、日本軍があまりにも悪玉扱いされるのは気持ちのいいものではない。悪として単純に割り切り過ぎているからだ。完結編はアメリカ軍がやっつけられる。中国の覇権をそのままなぞったような展開に、映画を見る気も失せがちになった。なかなかいいアクション映画が来ないから、仕方なく見てしまった映画である。格闘技シーンも驚きはなし。ブルース・リーのそっくりさんが出ていた。ワンス・アポンナ・タイム・イン・ハリウッドでコケにされていたが、さてそれは真実か?

 

24 ブレインゲーム(S)

アンソニー・ホプキンスコリン・ファレルが未来が見える者同士で戦う。先にあるものの映像を挟むお決まりの進行。でも、ホプキンスの何もしない演技が求心力をもっている。死の苦しみにもがく娘に何か薬を投与したあと、腕を強く振る一瞬の動作があるが、えっという感じである。すごいな、と思う。アホンソ・ボヤルトという監督だが、あまり撮っていないようだ。刑事のジェフリー・ディーン・モーガンアビー・コーニッシュ、どちらもOK。

 

25 ボビー・フィッシャーを探して(S)

 1993年の作品で、チェス物である。まちの賭けチェスを見たことで興味を持ち才覚を表していく子ども。その才能を信じて最強の教師を付けたつもりが、子どもは勝つことだけに意味を感じない。ラストの大試合でも勝ちが見えているのに引き分けを言い出す。タイトルは実在の世界チャンピオンで、そのあとに失踪した。この映画の主人公は結局、そのボビー・フィッシャーを含めた人間性のない世界への反措定となっている。父親役がジョー・マンテーニャ、母親役がジョン・アレン、どちらも子どもの才能を信じて真っ直ぐでありgood。賭け場のキングともいうべき人物がローレンス・フィッシュバーン(最近もジョン・ウィックの闇の帝王役で見ている)、そしてチェスマスターがベン・ギングスレーである。主人公を演じた子は、少なくともウィキでは関連情報がまったく出てこない。

 

26 マザーレス・ブルックリン(S)

エドワート・ノートン主演、監督である。探偵事務所を経営するブルース・ウイルスが孤児だった彼を含めて4人を拾い、育ててくれた恩義がある。その死をめぐる探索行で、クラシカルな探偵ものを目指した。可もなし不可もなし。ただ、地下の黒人バーで、ジャズの演奏とその撮影がびしっと決まっていた。ノートン、ジャズ好きかもしれない。ニコルソンの「チャイナタウン」と違って、最後の種明かしも驚きなし。

ノートンがチック症で、急激に首を振りながら、心に思っていることをつい言ってしまう。たいていは「イフ」というのだが、それが「仮定」をもとに捜査を続けていくアナロジーになっている。客演ググ・バサ・ロー、ウィリアム・デフォー、アレック・ボールドウィンと豪華。中にタイムスはダメで、ポストなら情報を渡せる、というシーンがある。タイムスは記事を政治的に判断し、国益に沿わないものは載せないメディアである。そこを言っているのかもしれない。Netflixオリジナル。

 

27 オペレーション・フィナーレ(S)

イスラエル(モサドか?)がアルゼンチンからアイヒマンを連れてくる映画を3本ぐらい見ているのではないか。これはハラハラドキドキを狙ったもので、それは成功している。意外なことにアイヒマンは有能で、感情豊かに見える。ベン・キングスレーが見事に演じている。監督クリス・ワイツ、女優メラニー・ロラン(かなり一時期痩せて見えたが、今回はそんなことはなかった)、男優オスカー・アイザック(何の映画で見たか、思い出せない)

 

28 DAU.ナターシャ(T)

何だか鳴り物入り過ぎて、困った映画である。リアルに虐待が起きたとか、セックスシーンは本物だとか、まるでマッド・マックス以来の前振りである。セックスシーンをモノホンで撮ったからといって、何か価値があるとは思えない。映画は作りものというのが基本である。要らぬ情報を流さないほうがいい。

 

壮大な仕掛けの割に、登場人物は少ないし、セットも単純である。これがソビエト映画なのだといわれたら、さもありなん、である。貧寒としている。構造もシンプルで、あるレストランの女性上司ナターシャと女性部下オーリャ、科学者男子数名、尋問・拷問係1名男子である。これらみなオーディションで選ばれた素人らしい。ナターシャを演じた女性は美しい。

 

ナターシャがオーリャに理由のない因縁のようなものをふっかけ、ウォッカを飲むよう強要する。その様が、後に自分に向けられる尋問(拷問は脅し程度)の様子とパラレルな関係になっている。科学者たちはフランスから来た権威ある科学者に従って、何か実験をしている。その合間、あるいは終わったあとに店にやってくる。初めての日、ナターシャはその仏人科学者とセックスをする。そのことを国家機関は嗅ぎ付け、尋問する。

 

都合、2時間ちょっとの映画で、4シーンぐらしかないから、1つが30分。とくにセックスのシーンは別に短くていい。尋問のところはカフカ的な感じがしてグッド。尋問室と拷問室が狭い廊下をはさんで、斜め前というのがいい。ナターシャになぜか目の前にある新聞紙から偽名を選ばせて仏人科学者告発文に署名させているが、それが“ルネサンス”というのは皮肉。彼女に書かせる文章も下手な検事調書みたいでグッド。彼女はどんどん尋問官に取り入るが、尋問官もまるでそのためにやっているような様子なのだ。

壮大なシリーズの1篇らしいが、さて2本目が来るかどうか。

 

29  ミナリ(T)

レーガンの時代にカリフォルニアからアーカンソーへと農地を買い求め移り住んだ韓国人家族を扱っている。彼らは鶏の雛のおす、めすを分ける仕事に就いている。夫はその技術に長け、妻は家にまで持ち込んで練習をする。捌く数で給金が違うのかもしれない。手に持ってすっとお尻を水に付け、そして覗いて判定する。

タイトルのミナリは芹の意味であるらしい。韓国人はこれをよく食べるらしい。ぼくは輪島で食べたいしり鍋やキリタンポ鍋に入れている。

 

まえの土地の持ち主はうまくいかず、銃で自殺している。夫は地味があるといって喜ぶが、水が出ない土地のようだ。いわゆるトレイラーハウスを2つくっつけたようなのが住まいである。それを見た途端に妻の機嫌が悪くなる。

父親は年に3万人の移民がある韓国人相手の野菜を作ろうとする。子どもは2人、上は女、下の男の子は心臓が悪いという設定である。冒頭から「走ってはダメ」と仕切りに注意するので、何かと思っていると、そういうことだった。

子どもを見てもらうために韓国から母親に来てもらう。これが花札好き、プロレス好きのおばあさん。この破天荒をもっと描いて欲しかった。筋としては、彼女が自分を犠牲にして2つの貢献をする。それをさりげなく描くところが、この映画の良さであろう。そのサクリファイスのおかげで、男の子の心臓が快方に向かい、夫婦の仲がよくなる。映画の最後にThanks to all grandmother.と出るのは、そこと関係している。

 

アメリカ人は木の枝で水の出るところを占ったり、大きな木の十字架を実際に担いでキリストの苦難を思い出すなど、非理性人の扱いだが、最後には彼らとの和解が用意されている。

一カ所いいな、と思うのは、テレビで夫婦の思い出の曲がかかり、カメラが寄って大写しになったところで外から家を見た映像に切り替わり、次は俯瞰でその周辺の夜の映像が撮られる。その間、ずっとその幸せな曲が流れている。

主演スティーブン・ユアン(アメリカで活躍)、ハン・イェリ(妻)、祖母ユン・ヨジョン(有名な女優)、子ども2人が達者、とくに下の子が自然に演じてグッド。監督リー・アイザック・チョンで、アーカンソー州リンカーン生まれ。「君の名は。」の実写版を撮るそうだ。あちこちでいろいろな賞を獲っているいる映画である。アメリカ映画でこれだけ外国語がふんだんに交わされるのも珍しい。ブラッド・ピットのPlan Bが製作に関わり、ピットはエグゼクティブ・プロデューサー。同製作では「キック・アス」「それでも夜は明ける」「バイス」「ビールストリートの恋人たち」「ジェシー・ジェイムズの暗殺」「ツリー・オブ・ライフ」「マネーショート」を見ている。「グローリー」と「ムーンライト」は見ていない。どんどん傾向がはっきりしてきて、政治性や社会性の強いものになりつつある。A24も話題だが、こっちの映画には触手が出ないのはなぜなのか。「Waves」と「20th ウーマン」しか見ていない。

 

30  ダーク・プレイス(S)

兄が家族を惨殺? それには事情があった、という映画だが、ただダラダラと。シャリーズ・セロンは映画の選び方が間違っているのでは?

 

31  ノマドランド(T)

 ミナリが移民が「ホーム」を見つけようとする話、これは企業城下町が立ち行かなくなり「ホーム」を離れざるをえなかった人の話。前者が男のこだわりを描き、後者は女のこだわりを描く。ぼくの趣味は後者で、主演のフランシス・マクドーマンドコーエン兄弟の「ファーゴ」以来の付き合いだ。前の「スリービルボード」ですごく強い女を演じたが、本来、とぼけた味がある人で、その感じは今回の作品に出ている。プロデューサーも務めている。

移動する人の問題としてトイレや車の故障のことなどが盛り込まれるのは分かるが、ちょっと下の話は1回でよしてほしい。キャンピングカーで暮らすIT人間たちの話はこの10年ぐらい前から知っていたが、これは貧窮にある人の話である。そこに女性がけっこういることに驚く。アメリカに移動しないトレーラーハウスで暮らす人がいる。リーサル・ウェポンメル・ギブソンを始め映画にしょっちゅう出てくる。女性監督でクロエ・ジャオ、音楽がルドヴィコ・アイナウディで、ピアノの静かにせり上がっていく感じがいい。

アカデミー賞作品・監督・主演女優賞に決まった。慶賀に耐えない。

 

32 悪魔を見た(S)

どろどろの韓国血まみれ映画である。むかしの韓国映画は残酷なりに美学があったが、これはちょっと、である。スーパー刑事にイ・ビョンホン、モンスターにチェ・ミンシク。義妹が拉致されたあとや、妻の指輪を見つけるところなど、もっと細かい演出が必要な箇所がいくつかある。敵を苛んでいく過程に身を入れて見ている自分がいる。暴力性が体内に眠っていることが確認できる。アクション映画をしきりに見たくなることがあるが、こういうバックグランドがあるからである。それにしても、キレキレのアクション映画がなさすぎる。

 

33  ゴールド・フィンチ(S)

美術館で絵を見ているときにテロの爆発で母親を失った少年の成長の物語といっていい。ラストで思いがけない展開をするのだが、途中までのティストはぼく好みである。苛酷な環境のなかでも少年の初々しさ、素直さは決して失われない。主演のアンセル・エルゴートは「ベイビードライバー」で見ている。義母役がナタリー・キッドマン、骨董商がジェフリー・ライト、父親の恋人サラ・ポールソン(愛情のないまま母的な感じがなかなかいい)。監督ジョン・クローリー、「ブルックリン」を撮っている。

 

34 ボブという名の猫(S)

ロンドンが舞台、野良猫が元ジャンキーのストリートミュージシャンを救う。歌で身を立てるのかと思いきや、猫との交流記を書いてベストセラーに。実話がもとになっている。猫好きは世界にいるということか。ハイタッチする猫である。

 

35 競艶雪之丞変化(上)(S)

ひばりが3役をやる。冒頭に、この映画は長谷川一夫の当たり役、僭越ながら一生懸命相務めます、と口上を述べて始まる。その長谷川のを見たことがあるが、どうも気持ちが悪くてしょうがなかった。それに比べて、ひばりのは安心して見ていられる。盗みの親分闇太郎をやったほうが、すっきり“男映え”する。監督渡辺邦男、共演阿部九州男、丹波哲郎(すごい下手くそ)、宇治みさ子(お初)、坊屋三郎(お初の手下)。昔の映画はこの1人何役というのが定番みたいなもので、映像的な奇抜さもこう何度もやればすぐに飽きがくるから、基本は階級を飛び越えるところにある快味があるのではないか。お姫様がまちなかの十手持ちになったり、旗本が素浪人になったり、それは庶民の生活をつぶさに知ってほしいという願望が生み出したものではないか。あとマキノ流でいえば、筋をややこしくして“綾”を付けるということ。情報取得の手段は盗み聞きが主になるから、都合のいい設定が多い。お初が「たまたま」見かけた雪之丞のあとをつける、闇太郎が「たまたま」立ち聞きする雪之丞と門倉兵馬(丹波哲郎)とのいざこざ……そんなアホなということが連続するが、その時代の人はそれでいい、と思っていたのだろう。

 

36 Marley & Me(S)

 今度は犬である。わがまま勝手な犬が家族の紐帯となって引っ張っていく。よく演技をするものである。それを題材にコラムを書くオーウェンウイルソン、その妻で子育てのためにコラムニストを止めたジェニファー・アニストン。新聞社ではコラムニストよりレポーターのほうが格上であることがよく分かる。

 

37 ゴッドファーザー(S)

2度目である。すべてがⅠのなぞりで、もうコッポラにはこの映画を緊密な、映像的にも豪奢なものにしようという意識がない。音楽も途中でマカロニウェスタンのようなビンビンビンというような曲がかかる。それでも最後まで見ていられるのは、おそらく復讐劇の古典的な構造を押さえているからだろう。いつ悪人をやっつけるのか、という期待である。演技が光るのが意外なことにダイアン・キートンタリア・シャイア(妹のコニー役)。いくら天才コッポラにして、同じレベルを保つのは難しいということか。あるいはこの映画、彼が撮っていないのでは?

 

38 デリート・ヒストリー(S)

フランス映画、緩いコメディ調だが、見ていられる。3人の登場人物が個性的で、明るく、エキセントリックだからである。それぞれGAFAに恨みを抱いている。一人は酒場で会った若者とセックスをし、それをスマホで撮られて脅される。一人はテレビドラマ中毒になり原発での仕事を辞めさせられ、UBERを始めるが、どうやっても星一つの評価しか貰えない。一人は娘が学校でいじめに遭い、その動画がネットに流されている。最初の一人はアメリカにまで飛んでグーグルに記録の消去を迫ろうとする。次のは、アイルランドに交渉に行くといって、じつはモーリシャスのコールセンターのミランダに会いに行き、単なる機械であることを発見する。もう一人は、UBER支部へ乗り込み、チェンソーでPCを切り裂く。結局、みんなスマホを捨てて、安心の生活に戻る。こういう突き抜けたバカ映画で社会批評する精神に賛同する。

 

39 フードラック(S)

寺門ジモン監督、焼肉を死ぬほど愛するのなら、それにふさわしい映画にすべきだった。主人公が母親の糠漬けの味の秘訣として、長めに甕に入れて古漬けにしていたと気づく、というのはばかげている。母親が死んだあとの主人公のセリフも口跡が悪く聞きとりにくい。川崎ホルモンという店が出てくるが、行ってみたくなる。ほかの店のことは映画のホームページに出ているが、なぜかこの店だけ出ていない。一軒目の店は批判されているにもかかわらず載っている。

 

40 味園ユニバース(S)

何回目になるか、初見ではデジャブな映画と思い批判したが、その後何度も見て、ここがポイントかと思うことがあった。それは静と動の対比で、静のときの時間が意外と長いのである。主人公茂男が記憶喪失から戻って、公園のベンチに座る。そこに段ボールに茂男の持ち物一式を入れて二階堂ふみがやってくる。彼女と諍いがあり、一人になる茂男。彼がその段ボールを開くまでに、カメラ据え置きで、結構な時間が流れる。自分の子どもに会いに行ったシーンでも、当然会話はごく少なく、まあまあの時間を費やす。その静があるから、音楽シーンのリズミカルな感じが生きてくる。山下敦弘監督、音楽ものの妙技を見せている。二階堂も余計な演技を一切しない。ごく稀に微妙な表情が現れることがあるが。

 

41 ハート・オブ・ウーマン(S)

女性のこころが読めるようになった広告マンの話である(2000年)。それまではマッチョマンだった。あるアクシデントで女性の内奥の声が聞こえるようになり、ナイキの女性向け広告を勝ち取ることができるようになる。

メル・ギブソンがシナトラの曲に合わせて帽子を腕に転がし手に取るパフォーマンスや帽子掛けに投げたり、その帽子掛けで踊ったり、アステアへのオマージュに満ちている。自分の地位を奪った女性がヘレン・ハント、彼女は残業でシナトラの歌を聞いている。目立たないオフィスガールにローレン・ホーリー、ダイニングカフェのメイドがマリサ・トメイ、彼女はギブソンと一夜を共にし、最高の夜を経験したのに彼から連絡が来ない。ゲイではないかと問うと、ギブソンを彼女の自尊心を思い、そうだと答える。そのときにギブソンがナヨっとした感じや、弱々しくこぶしを握る演技をする。ギブソンが自分がもてるいろいろな技を試した映画といえるだろう。成功したとは言い難いが、マッチョだけではないと見せた意味は大きい。最後は完全に女性の心が自然と読める男になっている。

 

42 マイ・ブックショップ(S)

田舎町の古い建物に本屋を開くが、そこを芸術センターにしたい町の実力者の夫人が事あるごとに邪魔をし、追い出す過程を描く。「ニュースルーム」のエミリー・モーティマー主演、脇にビル・ナイパトリシア・クラークソン。落ち着いた外連味のない映画で、好感である。なんだか久しぶりに気持ちのよくなる映画を見た。

 

43 SNS―少女たちの10日間(T)

冒頭にチェコでSNSで性的な被害を受ける児童の率などが示されるが、驚くような数字だ。20歳以上の女性で幼く見える3人をオーディションで募り、12歳だとしてSNSに登録すると、瞬く間に年配者から連絡が入る。胸を見せろ、もっと見せろと要求し、そう言いながら自慰に耽り、自分の性器の写真を送りつける。延々とそれが繰り返される。最後に実際に21人の男と会うところまで写すのだが、そういう場でも彼らは下半身の話に終始する。スタッフが自宅まで追うのは1名だけ。ふだんキャンプ場などで子どもを相手にしている50代ぐらいの男、自称トラベル会社経営。自分がしていることの何が悪い(児童虐待に当たる、と監督たちが言っても動じない)、かえってネットにアクセスする少女たちの両親こそが問題だ、こんな問題に無駄に時間を使わないで生活保護を受けている“ジプシー”を取り上げろ、と言い出す。アクセスしてきたなかで1人まともな青年がいて、知らない人間に裸を見せてはいけないよ、と言ったりする(あとでスタッフが調べても、その姿勢・発言に嘘はなかった)。その相手をした女性は思わず涙を流す。干天の慈雨と言うべきか。しかし、なぜこの恋人もいる青年がそういう12歳の少女とチャットしようとしたのか、それが分からない。映画のホームページにはリアリティショーと命名しているが、それは間違いだろう。あくまで現実を見せつけた映画である。

 

44 ジェントルメン(T)

ガイ・リッチー監督である。ダウニーJrの「シャーロックホームズ」の監督である。見事に古典的な探偵ものを現代に生かしたものである。その手腕たるや敬服に値する。最近では「コードネームアンクル」を見ている。初期の「スナッチ」は途中で投げ出したくなった映画である、たしか。

今回の映画は、語り手がいて展開するという古臭い手法で、しかも最初にミステリーを置いておいて、劇をそこに向けて進行させるという、これまた旧式なやり方をとっている。でも、充分に楽しみました。現役引退を考えた大麻王が結局、身を退かず何人か人を殺すという変な映画。

主演マシュー・マコノミー、妻役にミシェル・ドッカリー(ぼくはこの女優に心当たりがない。「ダウントンアビー」「フライトゲーム」に出ているのだけど)、部下にチャーリー・ハナム、語り手にヒュー・グラント、若者のトレーナーにコリン・ファレルなど。チャーリー・ハナムという役者さんがいい。理知的で、切れるときは切れる感じがよく出ている。セリフが長く、しかもどうでもいいことをしゃべり続け、そしてどぎつい映像にたどり着く、というスタイルで、タランティーノを思い出した(もしかして真似したのか?)。スターティングロールはまるでマコノミーがプロデュース、主演した「トルー・ディテクティブ」のよう。いま(July12,2021)アメリカのベストセラー5位にマコノミーのGreenlightsが入っている(ちなみに37週ランクイン)。30年以上つけてきた日記が基になっているらしい。やはり才人か。

 

45 海辺の彼女たち(T)

ポレポレ東中野だが、よく客が入っていた。以前、お世話になったのは部落解放同盟の活動を追った古い映画だった。東海テレビシリーズもここで見ている。今回はベトナム技能実習生3人が給料をけちられ、土日も働かされて三月で逃げ出し、冬の新潟の小さな漁港にやってくる。1人が体調が悪く、妊娠していることが分かるが、保険証も滞在証明もない。そこで5万円で偽造を手に入れ、医者にかかるが、小さな生命が息づいている映像を見て、ツーッと涙を流す。同僚2人は始めはかばってくれたのだが、子どもを堕ろす決断をなかなかしないことから、仲違いに。偽造書類を買うことにも、それで足がつかないか心配のようだ。結局、薬を飲んで子を諦めることになるが、その薬を飲んだところで、プツンと映画は終わる。技能実習とは名ばかりの低賃金強制労働、仕事先を選べないことから不法就労に逃げるのもよく分かる。漁村に行ってから彼女たちの暮らすのは納屋のようなところで、一度も雇い人との交流の場面もない。胸を衝かれる映画だが、出来はうんぬんするレベルではない。

 

46 真実の行方(S)

再見である。リチャード・ギアローラ・リニー、そしてエドワート・ノートンローラ・リニーが抜けるように白く、そして美しい。ノートンという役者の映画を追いかけた時期があった。それを「二重性の震え」として、だいぶ前のコラムに書いたことがあった。むかしほどの衝撃を彼から受けることはなくなったが、いまだに気になる俳優で、新作が来れば見ている。

 

47 田舎司祭の日記(T)

1950年、ロベルト・ブレッソン、ぼくは「スリ」を見ているだけ。身体のどこかに不具合を抱えて田舎の司祭となった若者が因習固陋の人びとに接して信仰の揺らぎを覚えながらも、一瞬だけ垣間見せる神の恩寵を信じようとする姿を描く。いよいよ身体がいけなくなって都会の医者に診てもらおうと駅に向かうときに、領主の甥っ子で外人部隊に入っている青年がオートバイに乗せてくれる。司祭は自分も若者であることを思い出し、そこでも一陣の風のような恩寵を感じる。朝日新聞映画評では、神の束縛から逃れたい人々と、今のコロナ禍の閉じ込めは状況が似ている、と書いていたが、神もコロナと一緒にされてはたまらないだろう。その「アクチュアリティと強度」で「現在上映されるあらゆる映画を凌駕する」と大褒めだが、さて、いま上映されている映画に何があったろうか。「ジェントルメン」に「北斎」か、あるいは吉永小百合の「停車場」か。比較が過ぎるかもしれない。

 

48  Nancy Drew(S)

ソフィア・アリス主演、スリラー崩れの青春もの。彼女の清純な感じはいつまで続くのか。たくさん作品が来ることを願うばかり。

 

49 ニューヨークで最高の訳あり物件(S)

写真家の年上の旦那がまた若い子に入れ揚げ、マンションから出ていく。そこに最初のワイフが部屋の権利が半分あるといって住まいはじめる。自立型の女と、いつまでもいなくなった旦那を思い切れない二人の関係を描く。スターティングロールでドイツ語のような名前ばかりで、なんだこりゃ、と思ったら、ちゃんと英語を使うNYが舞台の映画だった。途中で、最初のワイフの娘とその小さな男の子がスウェーデンからやってくる。落ち着いて最後まで楽しんで見ることができた。最初のワイフがカッチャ・リーマンという女性で、とても美しい。

 

50 スノーロワイヤル(S)

トンデモ映画に入るのではないだろうか。子どもの復讐劇に一気になだれ込むかと思うと、白人麻薬組織とイヌイットの遺恨バトルに発展する。その白人側のボスが子煩悩で、妻はアジア系。主人公リーアム・ニールソンの弟で、かつてその組織にいた人間の妻は中国人。最初から、妙に風景がきれいに撮れているな、と思った。息子の死体を見にモーグルへ行くが、下段に入れてあるのをキコキコ音をさせながら上にもってくるのだが、その時間が妙に長い。殺した死体を金網で縛って深い滝に落とすが、その際に谷の反対側から引きの大きな絵で捉えるようなこともやっている。そのボスの息子が頭がよくて、ちっとも拗ねていない、とてもいい子。彼をニールソが人質にするが、寝るときに本を読んでと迫られ、読むものがないからとスノートラクター(?)の説明書を読む。子どもは頭をニールソンの肩に預け、ストックホルム症候群って知っている? と尋ねる。……というような変なことばかりの映画である。どういう脚本になっていて、なぜニールソンはこの映画を受けたのか?

 

51 人生はビギナーズ(S)

マイク・ミルズ監督、「20センチュリーウーマン」を撮っているが寡作、もっと撮っていい監督である。ぼくはこういう小技が利いた映画が好きである。一人引きこもる性格の男(ユアン・マクレガーイラストレーターの役)が友達にパーティに連れて行かれる。そこで出会ったのが女子高生みたいな服装のメラニー・ローレント、彼女は咽頭炎で声が出せず、筆談と身振りになる。それがサイレント映画のもどきになっている。彼の煮え切らなさから別れたあと、思いなおしてマクレガーがNYの彼女のアパートメントに行くと不在。電話をすると、ロスに留まっていると言う。鍵のありかを教えてくれ中に入ると、電話越しにそこはキッチン、つぎはバスルームと教えてくれる。ここにもサイレントの写しがある。彼には父(クリストファー・プラマー、息の長い役者である)が可愛がった犬がいるが、これが言葉を解すことができると言い、その言葉が文字として表記される。こういう遊びも好ましい。マクレガーの父は74歳にしてゲイに本格的に進むが、母親もそれを知っていて結婚したことが分かる、「結婚したら、私が治してあげる」と言ったらしい。彼が描く人物イラストはどこかで見たような筆致だが、自分の部屋に飾ってあるのは60年代のポップな感じで、ほかにルソーのような絵もある。この監督の映画をほかに見たいが、さてその機会があるかどうか。

 

52 ザ・ネゴシエーション(S)

ヒョンビン(「スウィンダラー」を見ている)、ソン・イエジン(ぼくは見たことがないかも)主演、ヒョンビンの悲しそうな顔がいい。人質もので、コンピュータ画面を通したやりとりに終始するので動きはないが、じっと見ていることができる。

 

53 殺人の疑惑(S)

ソン・イエジン主演、父親が少年拉致殺害の犯人ではないかと思い始めたことから物語は始まっていく。お父さん役のキム・ガプスがなかなかよろし。ひたすらに娘を愛するが、裏には別の顔があることも分かってくる。最後の笑いは脚本上の要請なので仕方がないが、違和感がある。イエジンはずっと短パン姿で、上記作でも初登場がタクシーから突き出される脚線美であり、すぐに捜査車両のなかで下着を見せて着替えをするのだが、そういう売りの女優なのかしら。

 

54  いとみち(T)

豊川悦司メイドカフェの店長と店員1人が標準語で、あとは青森の言葉。けっこう何を言っているのか分からないところがある。主人公はほぼ言葉を発しない女子高生いとで、それが青森市メイドカフェのアルバイトを見つける。そこに馴染んだところで、経営者が違法販売で逮捕され、店の存続が危うくなる。寡黙ないとが三味線ライブをやって客を呼ぶ、と提案。あれだけ大人しかった子がダイナミックな演奏姿を見せる。とても抑制された演出の、好ましい映画である。メイドの先輩黒川芽衣が気丈だがすごく優しい感じでいい、店長の中島歩はのんびりキャラだが芯がありそうでいい。おばあさん役の西川洋子(高橋竹苑)といとが並んで三味線を弾くシーンがあるが、いとはきちんと弦を押さえて弾いているが、竹苑はまるで蝶々が舞っているような軽やかな演奏に見える。それで音の切れ、響きはすごい。青森市内でお店をやり演奏も披露していたようだが、2019年の年末に閉店している。やっていれば行きたいところだったが。監督は青森出身の横浜聡子

 

55 一秒先の彼女(T)

まったくぼく好みの映画。ユーモアに小技が一杯で、ヒューマンでロマンスでもある、といった出来である。最初からバレンンタインデーが1日盗まれた、というところから始まる。冴えない郵便局勤めのヤン・シャオチー(リ・ペイユー)30歳は、せっかちで何でもつねに人より先にやってしまう。彼女をめぐる2人の男のうちの1人は、逆に何でも人より遅れてしまう。
独身の彼女を何かとからかう局長、小さいときに失踪した父親、衣装箪笥のなかにいるヤモリ男(舌先がちょろちょろし、後ろに太い尻尾が揺れる、すごく気持ち悪い)、いつも楽しみに聴く小さなラジオのDJはその都度、彼女の部屋の窓に姿を現すが(よく芝居でこういう仕掛けをやる)、どういうわけか口元にぼかしが入っている。隣の同僚女性局員はNHK囲碁教室に出ているプロ棋士のヘイ・ジャアジャアさんで、もてもての役。それに比べてまた今年もヤンは一人のバレンタインデーかと思いきや、奇天烈なことが起きる。その詐術は、さて理屈に合っているのかどうか。チェン・ユーシン監督は長く不調だったというが、これで完全復活か。

 

56 ベスト・オブ・エネミーズ(S)

西部の人種差別の濃い町で、小学校の統合の話が持ち上がる。シャーレットという方法で白人と黒人の混成チームが作られ、2週間で結論を出す。その過程で相手の事情が見えてきて、KKKの地区リーダーは統合賛成の票を投じる。しかし、まちの白人たちに疎外され、経営するガソリンスタンドも干されてしまう。ところが、黒人たちが助けにやってくる。ずっと黒人お断りの店だったのに。

実話を基にした映画で、白人リーダーをサム・ロックウェル、黒人女性アクティビストがタラージ・P・ヘンソン。ロックウエルを主演に据えるとは粋なものである。

 

57  第一容疑者(S)

ぼくが初めてヘレン・ミレン(テニスン役)を見たのが、このシリーズである。こんなおばさんがヌードを、と驚いたのを覚えている。いま女性刑事ものはごまんとあるが、それの走りかもしれない。
NHKの連続ものとして見たのだったか忘れたが、レンタルにもなくて、ずっと見たいと思っていたものだ(未だにレンタルにはない)。それがいまアマゾンで別料金だが見ることができる。やはり細部まできちんと人物像が描かれていて、飽きさせない。大人の警察ものになっている。
パンクっぽいチンピラ役でレイフ・ファインズが出ていたり、田舎警察官にマーク・ストロングがいたり、意外な発見も楽しい。女性脚本家(リンダ・ラ・ブラント)である。単行本が出て、それを本人が脚本化しているパターンのようだ。

58 バケモン(T)

2時間超、じっと見入ってしまう。鶴瓶が「らくだ」を錬磨させていくのを本筋にして、いかに進化し続ける人間かを描く。100(たしか160と言っていたような)を超える素人の話題をしゃべり続ける2時間の舞台「鶴瓶話」もすごい。
母親は他人の家に押し入っても人の不幸を助けようとする人、父親は大店の出で段ボール箱づくり、しかし絵を描くのが好きで、外を歩く姿は品があったと近所の人が証言する。この2つながら鶴瓶のからだに流れ込んでいる。
「らくだ」はぼくの好きな噺で、小さん、志ん生で聴いている。最後に屑屋が酒を飲んで怖くなるところが見せ所である。映画では死人とカンカン踊りの関連も追っていて、両者を結び付けたのは鶴屋南北らしい。それを笑福亭松鶴4代目が落語に創作したとして、鶴瓶は毎年お墓参りに。ところが4代目ではなく2代目であることが分かり、墓も大阪ではなく京都にあった。奇矯破天荒な人で、酒で身体をやられ、右足を切って高座に上がるもあえなく死亡。死体となったらくだと親近性がある。その顛末を映すときに、やけに賑やかな音楽に変わるが、さていかがなものか。
監督は長く鶴瓶を撮ってきたテレビ畑の人らしいが、その説明がないので、知らない人が見ると訳が分からないのではないか。ナレーションが「私」で、だいぶ経ってからテレビ屋だったことも触れられる。死んだら放映していい、と言われながら今回封切りとなったのはどういう事情なのか、それも触れるべきである。そこまでは鶴瓶も禁止はしなかったのではないか。最初に「死んでからな」と念を押されているのだから、公開となった事情は明かされないとおかしい。

間あいだに鶴瓶の名言が、墨痕あざやかな書体で大写しにされるのだが、見事過ぎて何が書かれているか分かりにくい。書道字の字幕を付けてほしい。
ナレーションが香川照之だが、最後までだれだか分からなかった。2カ所、言葉のイントネーションでひっかかるところがあった。最初の言葉は忘れたが、東京風に言うところを語尾を上げて関西風に、次が「癇癪玉」の「かんしゃく」という落語のタイトルで、こっちは頭を高く発音して、そのまま語尾へ低く発音していた。標準語では「く」は心持ち音を上げる感じがある。

 

59 ぼくたちの家族(D)

川の底からこんにちは舟を編むバンクーバー朝日石井裕也監督である。脳腫瘍で記憶が途切れる母親(原田美枝子)が家族をまた一つにしていく物語。ある種の軽さがこの監督の持ち味だが、重くなりがちなテーマをうまく処理したという感じである。ただ記憶障害をうまく利用したといえなくもない運びになっている。早めに症状を出したり、長男(妻夫木聡)が余りにも手際よく対処したりできすぎの感があるが、了としなくてはならない。意図的にやっているからである。父親長塚京三、弟池松壮亮。しつこく可能性のある医者を探したことが吉と出た物語。

 

54 イエローローズ(S)

アメリカ生まれのタイ少女がカントリ歌手へと成長していくそのとば口を扱っている。写し方ですごくきれいに見える。体格も立派で、顔のあどけなさと開きがある。保守的なカントリー歌手とのいざこざがあればもっと感動的なのだが、みんな彼女を受けいれる。作る曲はあまりカントリーっぽくない。

 

55 プロミシング・ヤング・ガール(T)

キャリー・マリガンはいい役を見つけたのではないか。かわいげだったのが、同時に怖い感じも身にまとった。スタイルがいいので、びっくりした。ハッピーエンドか、と思っていると、なんだかそのあとがダラダラする。そうか、と次なる展開を思いついた次第。まさにそのようなエンディングとなった。女性監督エメラルド・フェネル、これが長編第一の映画。製作にマーゴット・ロビーがいる。しかし、彼女が性的に誘った男たちは、間際に拒否されて誰も暴力沙汰に及ばなかったのか。そして、彼女もまた相手を押しとどめるだけ。安易としか言いようがない。手錠の件は、ちょっとね、である。

 

56 トルークライム(S)

再見、イーストウッド監督である。冤罪もので、「ミスティックリバー」「リチャード・ジュエル」も同種の趣向。黒人(ビーチャム)が犯人とされるが、新聞記者が死刑執行日に冤罪を晴らすという映画。最初の10分ほどで手際よく劇の大枠を描くのはイーストウッドお得意のところである。テレビ放送で死刑に使われる薬の種類、量が報じられるのはアメリカらしい。ビーチャムがイーストウッドに無罪をいわれたときの口を空けたまま看守たちの雑談のシーンに切り替わり、またその口ぽかんのシーンに戻るという変なことをやっている。まだ演出に雑味が残っている。イーストウッド共和党支持者だから保守派と考えるのは、この映画を見ても間違いであることが分かる。まったく黒人への偏見など感じ取ることができない。

 

57 イヴの総て(D)

1950年の作品で、いろいろな賞を獲っている。ザナックがプロデュース。主演が40代の名女優役のベティ・ディビス、その座を奪おうとするイヴを演じたのがアン・バクスター。若きモンローも出ているが、目線がおかしく、素人っぽい。イブが最初から企みをもっていたことが後で分かるが、彼女の秘かな野望をマーゴが嗅ぎ取るのが、ハリウッドに行った恋人ビルからの電話。イブから毎日のように手紙が来ている……。

分からないのは、マーゴの友人カレル(セレステ・ホルム)にイヴがマーゴの代役を頼み、マーゴとビル、カレル、その夫ロイドと車でどこかへ向かうシーン。ガス欠になり、ロイドがガソリンを手に入れるために出て行く。数日前に補充したばかりなのに。どうもその日がマーゴが立ち稽古をする日だったらしく、遅れて着く間、イヴが代役を務め、関係者にその力量を知らしめたようだ。カレルは共犯者だったことで後でイヴに脅されるが、そこでガス欠事件のことが明かされるわけである。しかし、なぜにそこまでカレルが肩入れするかが分からない。誰にでも愛されるイヴではあったのは確かだが。主なる登場人物ごとに本人のナレーションが入るかたちで話が進む、という不思議な作りになっている。

 

58 狂猿(T)

葛西淳というプロレス・デスマッチのレスラーのドキュメント。狂い猿かと思ったら、キョウエンと読む。試合や取材には左目に義眼を入れている。
剃刀を立てて板に何十と張り付け、それをロープに立てかけておき、対戦相手の衝撃で飛ばされた時にその刃に背中が切られる。蛍光灯で殴ったり、剃刀で相手の額を切ったり、ものすごく高いところから相手目がけて飛び落ちたり、この47歳は過激である。
頸椎と腰痛でリングに立てなくなった間を撮り、やがて復帰して何戦か戦う姿を追っている。とにかく見ているだけで怖い。そこまでしても食えないというし、子どもはまだ小さい。帯広に住むお母さんは優しそうな人で、それは息子にも遺伝している。プロレスなどまったく興味がないが、そこでしか生きていけない男たちというのは魅力的である。奥さんがとても普通の人で、どこで知り合ったのか知りたいところである。

  

59  オキナワ サントス(T)

1943年に突然、ブラジルに移住し生活していた日本人に収容所への移送が強制される。彼らはサントスという港町に降り、そこに根を下ろすことで、いずれはまた船に乗って日本へ戻ろう、と考えていた。だから、もっと別の土地へ、という選択肢にはならなかった。

命令が出て、翌日には着の身着のままで列車に押し込まれ、収容所へと運ばれる。食料はごく僅かなものしか与えられない。家に残してきたものは掠奪される。彼らに浴びせかけられた言葉は「スパイ」。母国が繰り広げた侵略行為と国際連盟からの脱退などのニュースのたびに、海外に生活の基盤を求めた人々に強い負荷がかかる。

日本人のブラジル移民は現地で比較的好意的に受け入れられた、というイメージを漠然ともっていたが、この戦時の収容もそうだが、戦後、日本は戦争に負けたのか勝ったのかで日本人同士で殺し合いまでに至った経緯は(100人近くの死者が出ている)、ブラジルの人びとに嫌悪感を抱かせたらしい。新憲法に日本人の移民だけは認めないという一条を入れる動きがあったらしい。日本人の謙虚な振る舞いも、周辺の人には何か企んでものを言わないだけと見られたようだ。憲法に特定の民族の排斥をうたうのはおかしい、という議員の声もあって、その動きは撤回されたようである。ちょっと気になったのは、日本人同士の殺し合いをテロと呼んでいることである。かつてゲリラと呼ばれたものもテロと言いかえる動きもあるが、同国人同士の諍いをテロと呼ぶのは違うだろう。

サントスには沖縄出身者が多かったという。その沖縄人を本州出身者が差別し、コミュニティセンターのようなものを作るにも、両者で別々に作るようなことが行われていた。そのあたりのことも、生存者たちのインタビューから分かってくる。

 

60 ボーンコレクター(S)

3回目か、意外と小品だな、という印象である。デンゼル・ワシントンが半身不随になり、自殺願望を持っていることが描かれ、すぐに窓辺に座るアンジョリーナ・ジョリーに切り替わる。手前ベッドで男が寝ている。二人の関係がそれほどハッピーではないことが分かる。ジョリーは警邏巡査なのか、青少年の防犯課に移る気持ちでいる。そこに異常な事件が発生し、デンゼルの推しもあって巻き込まれていく。デンゼルの看護をする太り気味の女性が味がある。嫌われ役の本部長もいい。古い俗悪推理ものをなぞって犯罪を犯す、というアイデは面白く、その殺しに相応しい現場を選ぶというのもいい趣向だが、知的にもデンゼルに復讐したいという感じがいま一つ伝わってこない。

 

61 アジアの天使(S)

石井裕也監督・脚本である。ちょっとこの映画はひどい。何を撮りたいのか、本人も分かっていないのではないか。子連れの弟(池松壮亮)が韓国でビジネスをする兄(オダギリジョー)を訪ねる。目的の部屋に兄はいず、韓国人が一人いて、不法侵入者に食ってかかるのは当然だ。その間、けっこう長い時間を使うが、兄の名前一つ出せば意図は通じたはずだ。作家だというが、そういう機転も利かない間抜けである。

兄は何につけいい加減な人間らしいが、そんな人間に韓国語もできない男が小さな子を連れて渡韓することがおかしい。兄の対応のいい加減さに怒るが、怒る方が悪い。韓国コスメを輸出して儲けて月に100万儲けているというが、倉庫めいた事務所での寝起きである。そこを疑わないのは阿呆であろう。

韓国人パートナーに裏切られたがワカメ事業があるといって、その現地へ行くことに。電車のなかで、デパートで見かけた女性(チェ・ヒソ)に出会う。兄(キム・ミンジェ)と妹(キム・イェウン)と一緒で、墓参りに行く途中。彼女は元アイドルで、いまは再起の最中だが、デパートでは聞き手は数人、館内放送がかかると歌は中断しなくてはならない。そのデパートの地下なのか、別の地下なのか、サングラスをかけた彼女が酒を飲んで泣いているのを、池松が見つけ、声をかけるが、日本語は通じないから無視される。その間、デパートに一緒に来ていた兄や息子のことはほっぽらかしである。親として問題ありでは。

兄は彼らを誘い、宿代を出すから一緒に行こう、と言う。言葉が通じないから、コミュニケーションは当然、深まっていかない。お墓を守っている叔母の家に泊めてもらうが、そこの娘に兄は惚れたらしいが、翌日にはそのことはまったく触れられない。
最悪は、意を決して自分の思いを女性に伝えようとしたときに、彼女は韓国語で「運命の人に会ったのかな?」と言うのに、池松は突然息子を探しに部屋に行き、いないことに気付き血眼になって探すことに。なんなんでしょうか、この展開は。

女性が浜で見かけるしょぼい中年の、腰蓑だけの天使は何の悪い冗談か。その浜辺で、「まだサランヘではないが、それに近い気持ちです」と弟は泣いて訴えるが、ならサランヘになってから言えばいいのではないか。それほど、ガンで亡くした妻のことがいとしいのであれば。

最後、兄はどこかへ旅に出るといい、日本へ帰るはずの弟と息子はなぜかそのまま女性家族の部屋に行き、そこでみんなで食事をするところで映画は終わる。もちろん会話など交わされない。

ただ言葉の通じない人間が一緒に移動しました、というだけの映画。「新聞記者」もそうだったが、言葉の通じない状況を扱うなら、それなりの理由があるべきである。石井監督というのは、こんないい加減な映画を撮る人なんだ。

 

62 愛と希望の街(D)

大島渚という監督は下手な監督だと思っていた。見たのは「愛のコリーダ」「日本の夜と霧」「新宿泥棒日記」「戦場のメリークリスマス」だけだと思う。どれもいいと思ったことがない。「青春残酷物語」の性的なアリュージョンのポスターは小さい頃まちに張られていたのを覚えている。スクリーンの桑野みゆきをまともに見られないのはそのせいである。

この映画はよく出来ている。場面展開が早く、一つのシークエンスは数分と続かないのではないか。俯瞰の映像は2カ所だけ。主人公の少年まさお(藤川弘志)と一緒に長屋の不良と喧嘩した女子高生京子(藤原ユキ。発音が中尾ミエに似ている。語尾が丸くかすれる感じがある)が家のドアを空けて、「ねえみんな見て」と泥だらけのワンピースを見せるシーン。ここはとてもいい映像だ。左の部屋から兄(渡辺文雄)が飛び出してくるが、それも絵的にいい。もう一つは、少年が女子高生の父親が重役を務める会社の入社試験を受けるところ。

冒頭の急迫の音楽がその試験のときに流れる。もう一か所、ラスト近く、少年がハトの箱を鉈で壊すシーンでバイオリンだかの静かな音楽が流れる。緊迫の場面には静かな音楽を、という黒澤理論である。あとは伴奏なしの映画である。

いずれ飼い主に戻ってくるハトを売る少年、ハトやネズミなどの死骸ばかり描く知恵遅れの妹、肺病やみで寝込みがちな母(望月優子)、この家族はとても紐帯が強い。母は息子(中学3年生)には高校に行ってもらい、貧困のまちから抜け出すことを念じている。まちで靴磨きを生業にしている(許可証が要るらしい)。

少年は、母に早く楽をさせたい、働いて夜学に通おう、と思っている。生徒思いの先生(千之赫子ちのかくこ、目力がある)、熱血漢の女子高生、先生に思いを寄せる女子高生の兄が、この家族をめぐる主な人々である。
女子高生はじつに率直な人で、貧乏人は暗い生活をしていると思ったら、あなたのところは違うのね、と言う女である。少年のハト詐欺を知り、そのハトを兄に撃ってもらうことで、彼女の熱情の限界も見える。
先生は目をかけていた少年がハトの詐欺を働いていたと渡辺に教えられ、一時は不信感をもつが、そのまま少年の家に行くことで、仕方がなかったのだと思い直す。「また別のいい就職先を見つけるわ」と言って出て行く。渡辺とは、やはり付き合い続けることができない、と断る。

ハトを売って稼ぎが出た少年は横に座る靴磨きのおばちゃんに施しをする。少年が靴磨きをしていると警官が来て、許可証がないなら立ち退きな、と言いおいていなくなる。そのときに、横のおばちゃんがちゃりんと空き缶にお金を入れてくれる。このあたりの細かさも必要である。

場面の切り換えで多用されるのは、モノの拡大である。まちの雑踏からネズミの死骸へ(妹が持っている)、女子高生が先生に「父に採用試験の話をしてみます」と言うと死んだハトを持つ母親の映像へ、先生が渡辺の会社へ採用枠拡大を頼みに行ったあと豚肉のステーキへなどなど(女子高生の家の晩餐)。安易といえば安易だが、スピード感が出るのと、何かざらざらとした感覚が残る。

ひとつ面白い演出は、初めて先生と渡辺が港の見えるレストランで食事をするシーン。カメラが二人を横から撮っていて、遠くにぼんやり見える船に寄っていき、そのまま退いてくると食事は最後のデザートのメロンになっている。おしゃれである。

大島作品の初期のものを見てみるつもりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年の映画

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奈良旧遊郭内銭湯


T=映画館、S=ネット、D=DVD

映画はわが一部だ――自身の人生のありえたいくつかの可能性を映し出してくれる。見知らぬ過去や未来であろうと、異世界であろうと、遠い異国であろうと。失われた自分の一つひとつに、われわれはスクリーン上で奇跡のように出合っている。

 

 

 

1 パラサイト(T)

封切りが待たれた映画である。なんでアメリカが先に公開なのか、日韓のわだかまりが影響を与えたのかどうか。ポン・ジュノ監督がカンヌで受賞したのは慶賀にたえないが、出来は過去の作品に劣る。半地下に住む家族が金持ちの家族に取り付いていく話だが、相手に疑いの目がないから、緊迫感がない。とくにイリノイ大学を出たという嘘で入り込んだ娘がなぜばれないのか。相手家族は英語好き家族なのだから、ハラハラする、何か演出が欲しい。一番の問題は結末に向けて、途中で何度も理屈を付けておくことである。そんなことはしない監督のはずである。

 

朝日の論壇で、津田大介が増保千尋の「徹底したリアリズムと際どいブラックコメディ」という言葉を引いて論を展開しているが、この映画のどこに「徹底したリアリズム」があり、「際どいブラックコメディ」などがあると言うのだろうか。残念ながらポン・ジュノの衰えをぼくは感じる。韓国映画の良さは、リアリズムを無視した激しさにある。だからこそ響いてくるし、リアルな現実を感じさせもするのである。人を包丁で殺したからといって、際どいブラックコメディは笑わせる。「キムジャさん」で見せた人間解体の血みどろが韓国映画なのである。

 

半地下の家族は、当然のごとく詐欺を連続させていく。なにか前にもこういう手口を使ったことがあるような様子である。だとしたら、それ関連のちょっとしたシークエンスもはさんでほしい。

金持ち家族がキャンプに出掛けたすきに、半地下家族が酒盛りをしながら、だらだらと会話をする。カメラを横移動するだけで演出がない。このだらけた感じが逆に賞狙いで撮った絵のように見える。

 

単調さを脱するために仕掛けを一つ用意するわけだが、それも何だかな、である。辞めさせられた家政婦は知的な感じがしたが、再登場したときに落差が大きすぎる。ラストの殺しで韓国らしさを出そうとしたが、迫力に欠ける。身体に沁み着いた臭いが引き金になる、というのも、途中に何度もそう匂わせて理に勝ちすぎて、面白くない。どこにも突出した暴力性がない。

全体に手が込んでいないのである。題材が面白いので、そこにもたれて終わってしまったのではないか。映像的にも面白くない。

 

ぼくはポン・ジュノは「グエムル(4、5回見ている)」「殺人の追憶(10回くらいか)」「母なる証明(2回)」しか見ていないが、いずれもこの映画より格段にいい。お母さん役をやった女優チャン・ヘジンが、衣装と化粧を変えると、かなり印象が違う。演技はそれほどうまくないが、もっと彼女を動かしたら面白かったのではないか(彼女はイ・チャンドン監督「シークレットサンシャイン」「ポエトリー」に出ているが、記憶にない)。ソンガンホと喧嘩になりそうになったときに、体技ができそうな様子を見せた。実際、前の家政婦を見事に足蹴にしている。残念である。金持ちのお父さんイ・ソンギュンは何かで見ているが、思い出せない。似たような役だったと思うが、声をはっきり覚えている。

客はよく入っている。しかし、韓国映画、笑い声の一つも起こらないのであれば、できは悪いとしたものだ。

 

2 ダウントンアビー(T)

連続テレビドラマの映画版らしい。悪人はほぼ出てこない。王の従僕とアイルランド北部独立を画策する人物だけが悪(といっても、後者はいわゆる主義者だから悪党とは言いにくいのだが、本編では国王暗殺を狙っているので、一応悪役扱い)の刻印を押されている。クローリー家の住まうダウントアビーに国王夫妻が1泊することで様々な事件が巻き起こるが、基本的には2つ。衰えゆく貴族の諦めとダウントンアビーの下僕たちの逞しさである。結局、彼らを救う可能性があるのはお抱え運転手から三女の旦那となったトムであり、ダウントンを引き継ぐことになる私生児のルーシーである。どちらもアウトサイドな人間である。この二人はきっと結婚し、ダウントンを守っていくだろう。

登場人物の多さとそれぞれが抱える問題を手際よく処理して(執事の同性愛まで出てくる)、全体に優雅さが保たれている。劇が始まるまえに簡単な人物紹介があるが、別にそんなことをしなくても、それぞれの個性が際立っているので、筋を追うのに困らない。ただラストのダンスシーンがちょっと長い。いくつもここで解決されることがあるが、下僕たちの反乱でひと山越えたあたりなので、よけいに長く感じる。

この映画は古きよきイギリスにあった、階層を前提としたコミュニティの再評価ということになるのだろうか。ブレグジットでイギリスは4カ国に分裂するのではないか、といわれる時代に、この映画が意味するものは何か。

上位層と下僕の反目、それに登場人物の多さ、舞台が貴族の館(マナーハウス)という設定では、アルトマンの「ゴスフォードパーク」が思い出される。ずいぶん昔の映画である。

 

3  フォードVSフェラーリ(T)

フォード2世(デュークと呼ばれる)が会社の停滞を破りたいと考える。アイアコッカという不採算部門の統括がスポーツカーへの進出を提言する。フォードはフェラーリ買収に動いて、いいように袖にされたことで、ル・マン参戦を決意する。そこで白羽の矢が立ったのが今はレーサーから引退してカーセーラーをやっているマットデイモン、それと天才的なレーサーかつ整備士のクリスチャン・ベイルアウトローな二人を排撃したいと考える副社長が、ことあるごとに邪魔に入る、という進行である。アイアコッカを演じたジョン・バーンサルがなかなかいい。副社長のジョシュ・ルーカスもよく見る俳優である。

 思ったほど主人公2人はアウトローでもないし、副社長の反対も激しいものではない。ただやはり唸りを上げてサーキットを走り回る映像は神経が集中して、疲れる。クリスチャン・ベイルの妻カトリーナ・バルフは少しかつてのレニー・ツェルガーに似ていてグッド。もっと出演作が増えてほしい。レニーのジュディ・ガーランドもやってくる。

 

4 ジョジョ・ラビット(T)

監督タイカ・ワイティテというニュージーランドの監督、マイティソーを撮っているらしいが、その種の映画を観ないので分からない。感じはジャン・ピエール・ジュネの傑作「天才スピヴェット」に近い。完成度からいえば、後者に軍配が上がる。最初に展開されるナチおちょくりのシーンは、わくわくした。「キャッチ22」のような風刺がどぎつく利いているからだ。少年がナチのトレーニングに行こうと意を決して家を出た途端、ビートルズのI wanna hold your handがかかるのだから、たまらない。幻のヒトラーを演じているのが監督で、脚本も手掛けている。しかし、これが意外感がない。びゅーんと2階の窓から外に消えていくシーンは面白かったが。もう一工夫あれば、この幻は生きたはずである。

少年たちを訓練するのがサム・ロックウェルで、最高の配役ではないだろうか。この人の唇をなかに巻き込んだような発音が大好きである。主人公を助ける役回りなのも好感である。お母さんがスカーレット・ヨハンソンで、そうか彼女もお母さん役なのか、と感慨なきにしもあらずである。

匿われるユダヤ少女がトーマシン・マッケンジー、そしてとぼけたジョジョを演じたのがローマン・グリフィン・デイビスで、達者なものである。彼らが記す「おい、ユダヤ人」の中の線画は素晴らしい。ジョジョのでぶっちょの友達もグッド。ジョジョが友達の一番はヒトラーで君は二番目、でも君の内面に別の人間が潜んでいれば別だけど、と言うと、ふとっちょは残念そうに、「ぼくの中身も、残念だけどふとっちょなんだ」と言う。このシーンは得がたい。ジョン・バンヴィルのちょっとしたジョークを思い出す。

恋心が分からない息子に、おなかのあたりが蝶々がもぞもぞする感じと母親が教える。文字通り少年の気持ちをその映像で表現するおかしさ。

途中で母親ヨハンソがいなくなる。少女と少年の交流を描くのに邪魔だったのかもしれないが、ナチに捕まったのなら、それは途中で何か挟むべきである。母親が逮捕されて、少年や少女が当たり前に過ごしているのはおかしい。

 

5 さらば愛しきアウトロー(S)

レッドフォードがお年を召されて痛々しい。若い頃の写真が出るが、本当に美しい。それに比べてシシー・スペイセク(歌え!ロレッタ、愛のために)は老いてチャーミングである。刑事にケイシー・アフレック、相変わらず発音が悪い。黒人の魅力的な女性ティカ・サンプターと結婚し、かわいい子どもが2人いる。優しく楽しい銀行強盗であるレッドフォードに多少同情的である。泥棒仲間がトムウエィツ(だみ声の長ゼリフがいい)にダニー・グローバー(リーサル・ウェポン!)で、グローバーはセリフ自体が少ない。老いて安住せず、また銀行強盗を働きに行くところで終わる。

 

6 ザ・ファブル(S)

 岡田准一主演で、年末に劇場で見ようか迷った映画である。これはよく出来ている。「イコライザー」と「ジョンウィック」を足して2で割って作った映画だが、アクション場面も納得だし、筋も破綻がない。柳楽優弥が切れた極道をやっているが、これが韓国映画のキレ役者みたいでグッド。「アジョシ」の悪党の弟分を思い出した。もっと柳楽君に暴れさせてほしかった。彼が敵方につかまって縄で縛られるので、活躍の場がない。それにこの巨大工場での格闘シーンは、もう少し演出がほしい。

岡田がスタイルが悪いのが、ちと残念。やはり侍がお似合いか。日本もこういう映画が作れるのね、である。ファブルというのは伝説、作り話で、そう呼ばれた殺し屋が一般人になれるかという設定。

 

7  アフター・スクール(S)

30分も見たろうか、あえなく沈没。大泉洋、佐々木蔵ノ介主演。映画を選べ、である。

 

8 イクストリーム・ジョブ(T)

韓国で大入りの映画である。お得意のシリアスとコメディの合わせ技かと思ったが、コメディの時間が長い(やや不満)。けっこう笑わせてもらった。うだつの上がらない亭主(刑事)が張り込みに使った唐揚げ屋が繁盛し、その余得でグッチのバッグを買っていくと、女房がいそいそとシャワーを浴び始める。韓国には珍しい下ネタのくすぐりである。「家に帰るのが嬉しくなったが、恐くもある」というセリフもある。うしろの席のおばさん連の笑い声が絶えない。

かなり後にシリアスの場面が用意されていたが、そこで種明かしされるものがあって、ここでやるのか、と感心した。格闘シーンも満足である。女優に少し記憶があるぐらいで、ほかの役者がまったく知らないひとばかり。班長を演じたリュ・スンリョンは有名な俳優らしい。

 

9 ジョン・ウイック、パラベナム(T)

この映画、3度目か。ハル・ベリーが犬を殺されて支配者に盾突く。そもそもこのシリーズが始まったのは、ジョンが愛犬を殺されたから。ハルの戦い方もジョンとそっくり。近接で敵面撃ち、相手の腕をつかんだまま他の敵に対処し、それが終わるとすぐに腕をたぐってまた顔面撃ち。弾が切れたら相手の弾倉を奪い装填し、すぐに射撃する。

相変わらず変な日本人もどきが出てくるが、英語がしゃべれて、格闘技ができる日本人俳優がいないからこういうことになる。そもそもハリウッドには日本文化へのリスペクトがない。適当につくっておけばいい、という感じで、まったく考証をしていない。きっとオリエンタル全体に関して、こういうことをやっているのだろう。

 

10 プロヴァンスの贈り物(S)

リドリー・スコットで、ラッセル・クロウとマリオン・コーティヤールが出ている。お爺さんはアルバート・フィニー、その隠し子がアビー・コーニッシュラッセルはリドリーとずっと組んでいる。楽しく見ることができたが、せっかく幻のワインが出てくるのだから、もっと驚きの演出をしてほしい。

 

11  寅次郎紙風船(S)

28作目で音無美紀子岸本佐知子が客演。音無がとてもきれいに見える。こちらが齢をとらないと分からない美しさである。小沢昭一が歳の離れた極道の夫で、寅が見舞ったあと、おっち(死)んでしまう。同じ稼業のおまえが女房を引き取ってくれ、と言い残す。しかし、小沢先生がそんなにひどい極道に見えない。

まえにも書いたように寅はそっちの世界ではまともな人間に見える。それが柴又に帰ってくると調子が狂っていく。それは色恋だけのことではなくて、まともな表稼業の人間に触れることで軋轢が高まっていく。虎屋の人間は、ごくつぶしの、癇性の、手前勝手な男でもどうにか救ってやろうと思っているから、寅はいい気になって腹の虫の動くままに振る舞ってしまう。旅に出ると、そのダメさ加減が消え去って、世慣れた、世間知の豊富な男に見える。

じつは旅に出た寅が本物なのではなく、そっちのほうが虚構なのだ。寅が旅先ではかっこよすぎるからだ。音無にかける言葉も色男のセリフだし(実際、あとでさくらに「寅さんってモテるんでしょ?」と聞いている)、岸本と話すときは哲学者のような顔をしている(岸本も「最初の顔の印象と違う」と寅のことを評している)。それが柴又に来ると通用しないのだ。世捨て人でいることができない。一宿一飯だけでは終わらない。

タコが茶々を入れる、好きな女には遊ばれる、光男に「ダメおじさん」と見透かされている。寅が旅に出るとさっぱりした気持ちになるのはよく分かる。それは、ふつうの人間が旅で感じているのと同じことを感じているにすぎない。やはり憂き世のほうがつらいのだ。それではなぜ柴又に頻々と舞い戻ってくるのか。きっとそのまま旅を続けていると、人外に出て帰れなくなる気がするのではないか。おいちゃんおばちゃんに、ちゃんと寅の弔いはしてやるから、と言われて、すごく寅はうれしそうな顔をする。旅先で突然死んでいく仲間を幾度も見てきて、骨身にこたえているのかもしれない。

 

12 寅次郎かもめ歌(S)

26作目、伊藤蘭、村田雄浩、松村達雄が夜間高校の校長。旅先で仲間の死を知って、奥尻にいる娘のところへ弔いに。その娘が東京で学校に行きたい、というので世話をすることに。寅がいつもの居間(?)で話しているときに、うしろにさくらがいて、横を向いて無視している感じの表情が、本当のきょうだいのようだ。松村が国鉄職員のトイレ掃除の詩を読むが、趣味が悪すぎる。伊藤がよりを戻しに来た村田と外泊して帰らなかったことに寅が怒り、虎屋を出て行く。本当に勝手な男である。家族でなければ相手にしたくないタイプである。でも、かつてはこういう困りものが家族には決まって一人はいたものだ。寅が好き勝手やれるのは、虎屋の空間にしかない。

 

13 グッドライアー(T)

ヘレン・ミレンイアン・マッケラン、監督ビル・コンドン(「シカゴ」「グレイテストマショーマン」)。残酷な映画である。一カ所、孫のスティーブがあとで、ベルリンで失敗してごめん的なことを言うが、それが何を指しているのか分からない。何かウェルメイドとは言い難いものがある。レッドフォードそしてこのマッケラン、老いて意気盛んな詐欺師が主人公である。

 

14 スリーディズ(S)

ラッセルクロウ主演、女優エリザベス・バンクス。監督ポール・ハギス、リメイク版らしい。ぼくは2度目、ハギス監督は「クラッシュ」「サードパーソン」を見ている。「ミリオンダラーベイビー」の脚本で注目をした人である。そのあと、最近の007の脚本も書いている。この映画もよくできているが、綿密な計画が破綻したあとの切り抜け方が、なあーんだという感じである。ラッセル・クロウの肥満度がそろそろ危ない。獄中にいる妻が彼の髪を撫でながら、なんて美しいんでしょ、と言うシーンがあるが、さてどうか? というところである。

 

15  ナイブズアウト(T)

The Knives are out.は「ほらナイフが出たよ」ということで、誰かが誰かのことを不快に思ったときに言う言葉のようだ。あるいは、誰かが誰かを傷つけるときに、「これが本音(ナイフ)だ」という意味でも使うようだ。でも、ナイフがそれほどこの映画で意味をもってくることはない。古典的な探偵(ダニエル・クレイグ)の当てっこもので、それも被疑者一か所閉じ込め型である。それをみんなイギリス俳優のような顔をした面々が、テキサス訛りの探偵に足止めを食って詮議の対象になる、という映画である。劇の中心にいるのがマルタ(アナ・デ・アルマス)という移民の子。嘘をつくと吐く性癖があるので、やったことだけを正直に言う、という変な切り抜け方をする子である。つまり良心から吐いているわけではない(なんだかカントの絶対正義の議論を思い出す)。それが最後、心から人を救うのである。なんとなくアウントン・アビーと似たような結末となる。次男の嫁を演じたトニ・コレットは女刑事もの「アンビリーバブル」をNetflixで見ている。

 

16 バンブルビー(S)

封切りで見るのをためらった映画である。トランスフォーマー物である。なぜ日本のお家芸が実写版で進化しなかたのか、残念である。1作だけヒュージャックマン主演で、ぼろっちいトランスフォーマーが活躍するのを見たことがあったが、なかなかこれが良かったのである。このバンブルビーは宇宙からの使者的なものので、それを追って来る敵との戦いが主で、大味に。女優はピッチパーフェクト2で見た子である。不思議な顔をしている。

 

17 初恋(T)

三池崇監督である。緊張感なし。主演の女優を前田敦子に似てるなと思いながら見ていた(本当は小西桜子)。染谷将太という役者が面白い。内野聖陽が最後までだれか分からなかった。ベッキーはちんぴらの女の役だが、なんでそんなに強いのか。大森南朋という役者は相変わらず下手くそだ。うまい振りをするから、余計に困る。主人公の脳腫瘍判定が間違っていたというのには、ご都合主義もいい加減にしろ、である。途中のアニメもバツ。中国マフィアと日本やくざの対決など、古すぎる。三池は終わったか。

 

18 レイトナイト(S)

エマ・トンプソン主演、TVキャスターが落ち目になり、インド人の元工場勤めの女性を対外的アピールのために雇うが、徐々に実力を見せつけ、彼女の最大のサポーターとなる。トンプソンの映画は7本見てきたが、どれもあるレベルで、楽しんで見ることができる。

 

19 福島フィフティ(T)

 津波のシーンは恐いが、一般の人が飲み込まれるシーンはない。あくまで原発への影響を追っている。中身も東電の現場の捨て身の献身と、東京にいる「本店」といわれる人間と権力を振り回すだけで邪魔をするだけの政府幹部との対比を描いている。結論は、人間は自然を舐めていた、である。確かにそうだが、そんなことは頭から分かっているわけで、映像だけをリアルにした映画で終わってしまうのではないか。あの災害が東電の犯罪であることを隠ぺいしている。米軍の友達作戦に時間を割いているが、これは何のためのサービスなのか。支援に来た自衛隊員より数が多い、ということを言いたのか? あの米軍のなかから被爆者が出ているというのは本当か?ある方が、この映画は特攻隊を描いたものだとおっしゃった。慧眼である。原作が門田陸将である。

 

20 ふきげんな過去(S)

前田司郎監督、二階堂ふみ(娘)、小泉今日子(本当の母)、高良健吾、近藤公美(育ての母)、梅沢昌代(祖母)、板尾創路(父)、山田望叶(めい)。近藤と山田がいい、二階堂はワンパターンか。死んだはずの母が爆弾犯という設定で、またシナイ半島に出かけるという。死んで何か変わったことは? 生まれ変わった気分になれた、しばらくは、という会話はいい。畳みかけるように話す派=祖母以外の女、ゆっくり話す派=男全部という構図になっている。テイストは好きな映画だが、パレスチナへ行く根拠は? 

 

21 ジョン・F・ドノヴァンの死と生(T)

女性陣が豪華で、主人公の母親がナタリー・ポートマン、主人公が憧れるTVスターの母親がスーザン・サランドン、そしてスターのマネジャーがキャシー・ベイツ。ナタリーが以前の1.5倍は膨らんだので、はじめ誰だか分からなかった。サランドンをずっと昔から見ているが、この人は変わらない。アップのシーンもあるが、ほんとにきれい。ベイツもそれなりに若い。監督はグザヴィエ・ドラン、「たかが世界の終わり」を撮っている。 レア・セドゥが見たくて見た映画だ。なにかきれいなシーンがあったが、忘れてしまった。なかにゴア・ヴィダルの名が出てくる。AdeleのRolling in the deepがいい。彼女のアルバムはだいぶ前に一枚だけ買っている。Adele19というやつだ。

 

22 ジュディ(T)

ジュディ・ガーランドは「イースターパレード」を先に見て、それから「スター誕生」、ようやく「オズの魔法使い」である。オズは見るつもりがなかったが、誰だったかアメリカ人がよく笑うネタが仕込んである、と読んだことがあって、それで見た映画である。本作は「スター誕生」のあと、人気が翳り、失意の中にあるときにイギリス興行が仕組まれ、いやいや子供を置いて出かけて、歌手としてライブショーをやるところを描いている。イギリスでは人気だと聞いて、あの人たちは変わっているから、と言うシーンがあるが、アステアも熱狂的に迎えられた。「イースターパレード」にアステアと出ているので、そのことと関連があるのかどうか。

遅刻癖、すっぽかしなどが重なって映画会社とうまくいかなくなり、イギリスにやってきたわけだが、ルイス・B・メイヤーがジュディをきつく叱るシーンがある。妙な照明の場面で、説教のあと人差し指をゆっくりジュディの胸の間に触れる。これは性的なアリュージョンである。

ジュディの気まぐれ、すっぽかしの癖がロンドンでもまた出てくる。しかし、最後は観客にも助けられていいショーを行うことができた。つい落涙。その3年後にジュディは薬物の過剰摂取で亡くなる。最後の華が咲いたことを思えば、彼女は幸せだったかも。子どもと一緒にいられない悲しみがあったとは思うが。途中でライザ・ミネリ役が出てきて、これからショーをやる、と言うシーンがある。まだ「キャバレー」を撮るまえの話だろうか。「キャバレー」はそれこそ何度見たことか。

 

23 三島由紀夫対東大全共闘(T)

最終回の上映なのに、まあまあ客が入っている。三島が演技者のようにふるまっている。場数を踏んできたのだろうか。議論はまったく抽象論で、そもそも三島がそこに誘い込んだ感じがする。学生たちはそういうレベルでしか議論ができないからである。あの抽象度の高さでは、時代を撃つことはできないし、後世に影響を残すことはできない。

その会場にいたらしい橋爪大三郎が、全共闘は負け戦を清算しているのだ式のことを言っていたが、さて本当か? ナレーションが「言葉と敬意と熱情があった」とまとめていたが、だから何なんだ? 平野啓一郎が、結局言葉が現実を開いていくしかない、と言っていたが、それでは三島の悪戦苦闘が余りにも報われないだろう。ぼくは三島にとって天皇も肉体も結局は虚構でしかなかったように思う。そのことに気づくのは、とてもつらい。三島の後ろに大きな黒板があり、その上に「小川プロ作品→部屋番号」と書かれたビラが見える。きっと三里塚を扱ったものが映されていたのだろう。歴史が交錯する。

 

24 博士が愛した数式(S)

とてもウェルメイドな映画である。数学者を持ちあげすぎているが、それは仕方がない。深津絵里は非常に細かい表情ができる人だ。たしか「阿修羅のごとく」で椅子に座るシーンだったかで、とても動作が良かった記憶がある。そして、寺尾聡もいい。最後のキャッチボールのシーンの表情のいいこと。タイトルロールで流れるのは、ソプラノ森麻季の歌。その選択もいい。監督・脚本が小林堯史で、「雨上がる」「阿弥陀堂だより」などを撮っている。安定した映画を撮る監督なんだろう。最後にウイリアム・ブレイクの詩が読まれるが、監督の訳らしい。ブレイクといえば大江健三郎だが、さてその影響があるのかどうか。

 

25  I'm not ok with you(S)

Netflixオリジナルのシリーズ1の7作だけ。ソフィア・リリスがキム・ダービーにそっくり。Youtubeなどでインタビューを見ると、まったく似ていないが、作品の中の彼女はよく似ている。すでにEllen Degeneres showにも出ている。ITにも出てるらしいが、怖い映画なので、たぶん見ない。

 

26 家族(S)

このあたりの山田映画は見たくないが、ある解説にロードムービーとあったので見ることした。長崎臼杵伊王島から北海道標津まで家族が5人、途中で赤ん坊が亡くなるから4人でたどり着くまでを追っていく。その間に、昔の映像なども入れながら進むのが、それがごく自然である。その動機は人に使われるのが嫌だということで、井川比佐志が家長を演じ、妻が倍賞千恵子、祖父が笠智衆である。福知山に大会社(セメント?)に勤める弟がいるが、着いて話をすると、内情は楽ではない。祖父をそこに預けるつもりだったが、倍賞が連れていこうと言い出し、長旅を一緒に。

東京で赤ん坊が具合が悪くなり、宿を取りたいと倍賞が言うと、井川は大阪で万博を見たりして金を使ったと渋るが、結局、泊まることに。医者を探すが、3軒目で赤ん坊が死亡。

 標津に着き、懇親会で炭坑節を歌い、その夜に祖父が死んでいく。この家族はキリスト教ということもあるのか、あまり死の場面がしめっぽくなってこない。

最後は、2カ月後の緑一杯の丘陵である。

倍賞に珍しいシーンがある。出立するのに資金が足りず、まえから倍賞に色目を使っていた金貸し、花沢徳衛に3万円を借りる。そのときに、花沢が太ももを触ったりする。それを倍賞が余裕をもっていなす。

 

27 スタンドオフ(S)

 膠着状態の意味のようだ。登場人物3人、同じ場所で終始する。これが最後まで見ていることができる。殺人を見た少女を殺し屋が追いかけ、一軒家に辿りつくことが劇が始まる。主演のトーマス・ジェーンという役者は知らない。脇の殺し屋がローレンス・フィッシュ・バーン、「ジョン・ウィック」でNYの闇の帝王を演じている。少女はあどけないようでいて、妙な色気がある。

 

30 味園ユニバース(D)

もう5回目くらいになるだろうか。山下敦弘監督は数本見ている。音楽ものに才があるわけだから、そこを極めてほしい。一つ解決がつかない問題がある。主人公のポチ男は暴力団に追われているわけだが、それはこの映画のラストでも解消はされない。

 

31 yesterday(S)

封切りで見逃した映画である。全世界の停電でビートルズが記録から消えた。その停電事故でけがをしたインド人ミュージシャンが、病院で見舞いに来た素人マネジャーに「64歳までよろしく」みたいなことを言うと、彼女は何で64歳? という顔をする。ビートルズのWhen I'm 64である。事故で歯が欠けたので歯医者に行くと、君の父親には助けてもらった、と医者が言う。これもビートルズのWith a little help from my friendである。そういう小さなアリュージョンがあって、退院を祝ってくれた仲間にたまたま歌ったyesterdayが大うけ(ぼくはもうこのシーンで泣けてしまった)。みんなが初めて聴く曲だということに気づき、ネットと調べると一切ビートルズ関連が出てこない。あちこちでビートルズ曲を歌うが、なかなか受けない。だが、一人の有名シンガーが自らのコンサートの前座に出場させ、そこから快進撃が始まる。ダニー・ボイル監督で、「トレインスポッティング」「スラムドッグ」「スティーヴ・ジョブズ」を撮っている。

 

売れないインド人の歌手ジャックがほとんど客のいない海のレストランの板床で歌い、次が小さなレストランで歌うが、やはりまったく反響がない。さっと映画タイトルが出て、Tの上にアニメのかもめが留まっていていて、ささっと飛び立つと実景に変わり、かもめ10羽位が屋上を舞う倉庫が写る。次に庫内のシーンに変わり、ジャックが働いている姿を映し出す。この一連のシークエンスのキレのよさは抜群である。いい映画だな、という予感が圧倒的である。メジャーデビューのためにL.A.に行くが、陽光の下で鳴り響くのがHere comes sunである。演出がいろいろ効いていて、大満足の映画である。

 

32 人生劇場 飛車角と吉良常(S)

内田吐夢監督、ひどい出来の映画だ。脚本が悪ければ、どこかで演出が工夫をすべきと思うが、それもしていない。すべてがおざなりの、ご都合主義のストーリーである。この人はやくざ映画に向かないのではないか。ただし、最後の殺し合いの場面、暗転して迫力がある。この暗転は「飢餓海峡」でも使っている。

沢島忠の正編は演出の冴えが光った逸品で、東映の新たな路線決定の狼煙を上げただけの価値のある作品である。

藤純子がバーの女のような髪型で、それはそれで美しいのだが、やはり違和感がある。健さんの演技は、古いパターンの映画の中では浮いている。後年までもった理由がよく分かる。辰巳柳太郎の吉良常は渋い。臭い演技がなんともいえず味がある。沢田正二郎の親分役も苦み走っていて、いいが。

 

33 ダーティハリー(S)

イーストウッドが監督である。ちょっとベタな部分(後ろから黒人が銃を持って近づいていくるが、じつは同僚、あるいは、過去の場面に入るのに、眼をアップするなど)もあるが、非常にスマートに撮っている。ヒロイン(サンドラ・ロック、たしかイーストウッドの離婚したかみさん)が事件現場の小屋に近づくときに、小屋と顔を逆方向のショットで何回か繰り返す。こういう細かい技をドン・シーゲルから学んだのか、あるいは研鑽の賜物か。音楽はラロ・シフリン。前に見た映画だが、ほとんど忘れていた。見直して良かった。

 

34 ソルト(S)

2度目である。そもそも女性がアクション映画の主人公になるのは、ニキターが最初か。それはまだ鍛えられていたから納得がいくが(さすがリュック・ベンソン)、いかにもその体形は違うだろうというのの最初が、アンジョリーナ・ジョリーの「トゥームレイダー」ではないか。それからは、見境いがなくなった。しまいにシャリーズ・セロンまで飛んだり跳ねたりしてしまった。ヨハンセンも同種のものがあり、指を回すと敵が倒れるというところまでいってしまった(だけど、なぜ彼女がアベンジャーズに参加したか、という映画は見てしまうかも)。モンスターものでも歯止めがなくなって、ハルクをエドワード・ノートンまでがやるようになったのと事情が似ている。ハリウッドは一度当たると、インフレーションを起こすらしい。老人アクションはリーアム・ニールソンが火付け役で、猫も杓子もその手の映画ばかりである。しかし、このソルトはかなりぎりぎりまで種明かしをしないのが利いている。アンジョリーナはアクションものが印象に強い珍しい女優である。

 

35 ブランカとギター弾き(S)

 長谷井浩紀という監督で、もともと海外で仕事をやってきた人らしく、この初の長編はイタリア資本のようだ。この映画、すべてフィリピン人、フィリピンが舞台で撮っている。身寄りのない少女が盲目の老人ピーターという街のギター弾きと知り合い、まるで親子のようになっていくまでを描いている。ストリートで生きる小さな男の子も彼女を姉と慕い、もう悪に染まっている兄貴分から離れて彼女と一緒になる。

映画って何かと考えざるをえない。なにも奇抜なこと、特別なことがないのに、身を入れてこの映画を見てしまう。それはきっと細部がきちんと描かれているからだろう。ブランカと少年が夕陽を見ながら、その色の変化を楽しみながらしゃべるシーンなど印象に残る。鶏が飛べると信じたり、母親が金で買えるものだと思ったり、素直なブランカを描くのも、ねじくれた貧民の世界で彼女がまだきれいな魂を失っていないことを示している。いい映画を見たと思う。 

 

36 男はつらいよ34話 真実一路(S)

 歯切れのいい出来で、ところどころ自然に笑ってしまう箇所があった。米倉斉加年が客演で鹿児島出身の証券マンという設定で(脱世間的な東大の助教授役もあった)、苛酷な日々から蒸発をして行方が分からなくなる。船越英二も「相合傘」で同じような役どころをやっていた。高度成長の歯車からとりこぼされる人間たちの受け皿としての寅、ふだんそんな人種と交わったこともない寅屋の面々。大原麗子が妻役で、ピンクがかった和服で柴又に姿を現すが、まるで玄人さんである。やくざ稼業の男を連れて鹿児島へ飛び、一緒の旅館に泊まろうとするのは、寅以上に非常識である。寅は「おれは汚い人間だ」といって別の宿に移るが、相手のふしだら、あるいはその種の想像力のないことを思った方が精神上よかったのではないか。実家に帰ってからも、寝ても覚めても「おれは汚い」を繰り返す。妙に倫理的な匂いがきついのもこの作の特徴である。タコ社長の娘のあけみを演じる美保純が抜群にいい。寅と気の合うのがよく分かる自然主義の女である。

井上ひさしがこの映画はテッパンの要素でできているから、人気を得、しかも長続きしたのだという。基本にあるのは、芸達者の渥美ではあったが、いちばん渥美らしい男、寅を演じたことで最も生き生きしたということ、そして4つの強固な利点を挙げる。

 1 寅の失恋、裏をかえせば相手の得恋がある。恋の話は客を引き付ける。

 2 貴種流離譚の逆になっている。取り柄のない男が身分不相応な女性に惚れて、故

   郷に帰ってくる。

 3 道中もの。

 4 兄と妹の濃い愛情。

2の説はあまりピンとこないが、井上は渥美とは浅草フランス座で知り合いである。1年に満たない付き合いだが、渥美のことはじっと見ていた。そこからの集積があって言っている言葉である。

 

37 シングストリート(S)

ジョン・カーニー監督で、「はじまりのうた」「ONCE ダブリンの街角で」を見ている。この映画も音楽もので、アイルランドのストリートから出てロンドンに向かう15歳の青年の話だ。父親失職、母親パートタイムという家で、なおかつ母親には男ができて、別居騒ぎになる。離婚が禁じられている、といっている。音楽好きの兄は大学を諦め、主人公も荒れた学校に転校に。イエズス会系の学校からカソリック系(?)の学校へ。そこは教師が授業中にアルコールを、校長が暴力を振るう学校である。

1歳上のモデル志望の女の子に一目ぼれし、バンドも組んでもいないし、歌ったこともないのに、わがバンドのミュージックビデオに出てほしいと頼み込み、嘘を本当にするための画策が始まる。メンバーを集め、いじめの暴力男もボディガードとして参加させる。みんなハードな家庭環境を抱えていて、主人公の好きになった女性も父親はアル中で交通事故で死に、母親は先進的に不安定で病院を入ったり出たり。彼女は彼の最初の観客が数人しかいないダンスパーティでの演奏をすっぽかす。彼氏とロンドンへモデルになるために行ってしまったのだ。しかし、すぐに彼女は返ってくる。男には何の当てもなかったことが分かったからだ。暴力も振るわれた。

主人公は高音の、とても素直な歌い方で、哀愁もある。演技も妙なはじらいを隠していながら、やることは大胆、主張は通すというキャラクターである。メンバーの信頼も厚く、彼が彼女とロンドンに行くと言うと、あっちで名を挙げておれたちを掬い上げてくれ、と賛成する。彼は祖父から学んだ操舵法で小船を操縦して恋人と50キロ先のイギリスへ向かう。

同監督のOnceという映画にはやられた。すぐにCDを買い、マルケータ・イルグロブァのアルバムも2枚買った。彼女はアメリカに移り住んだが、鳴かず飛ばずの状況のようだ。結婚し子供も産まれた。繊細な声で歌うif you want me 、The hillは心が震える。

 

38 見えない目撃者(S)

全然怖くなかったのでよかったのだが、本来、怖くあるべき映画なのだから、失敗作だろう。目の見えない元警察官の女性がとても能力が高く、ある事件を鋭く解決する。ぼくはてっきりヘップバーンの「暗くなるまで待って」風をイメージしていたので、拍子抜けである。主演吉岡里帆

 

39  奇跡の教室(S)

実話であることが最後に明かされるが、それは一つの驚きである。荒れ放題の教室がベテラン女性教師の誘いによって、ユダヤ人虐殺について調べ始め、コンクールでその成果が認められる。複雑な家庭環境を負った生徒たちがいさかいを止めて、どんどん眼前のテーマに入り込んでいくのが分かる。強制収容所の生き証人がクラスに入ってきて、教室の前方に向かうとき、彼らは一斉に立ち上がる。その老人は、生徒の質問に無神論だが常に小さな希望をもって難局を切り抜けたといった意味のことをいう。

彼らはフランス国がユダヤ人を収容所に送ったことを知らなかった。別の映画で見たことだが、アパートの目の前のスタジアムにユダヤ人が集められ、殺され、異臭が漂ってきたのに、虐殺を知らなかったとうそぶく人間もいる。

ホロコースト記念館だろうか、ナチスによって殺された人々の写真や名前を見ているとき、館内アナウンスが流れる。さまざまな人々がユダヤ人を迫害したが、社会主義者も彼らを資本主義の象徴、走狗として排斥したといっている。

女性教師が新しい試み始めたときに学校長は無駄なことをするな、と忠告する。そのときクラスに29の人種がいる、と言うが、ぼくの聞き違いだろうか。

この映画は教育が子どもたちをプラスにまとめていく話だが、ちょっとした仕掛けでナチス的な集団に変えていく映画「ザ・ウェイブThe Wave」もあった。アメリカであった本当の話をドイツで映画化された経緯がある。すごく怖い映画である。

 

40 45歳は恋の幕開け(S)

ジュリアン・ムーアはずっと見てきているが、なぜ彼女が人気があるのか分からない。しかし、どの作も身を入れて見ている。結局、16作見ている。追いかけているわけでもないのに、この数である。それでも彼女の出演作の半分にもいかない。代表作はやはり「アリスのままで」「エデンの彼方」だろう。演技をしていないように見えるよさなのか。その美人性の弱さなのか。ぼくは彼女の哀れそうな泣き顔が印象に残る。

この映画を見ると、言葉にするのが難しいが、彼女の最良の部分がよく分かる。オールド・ミスで、文学が好きで、卒業生と関係して尻軽女といわれ、その卒業生からも散々なことを言われる――いろんな役をやってきたメイル・ストリープだって、この種の役はないだろう。

その卒業生をマイケル・アンガルノ、父親で医者をグレッグ・キニア。マイケル・アンガルノは何かの映画で見ているが、思い出せない。グレッグ・キニアはレニー・ツウェルガーの「ベティ・サイズモア」で見ている。その映画では医者を演じる役者の役をやっていた。テレビの俳優さんというイメージである。

 

41 A Private WAR(D)

サンディ・タイムスの記者メリー・コルビンと彼女のカメラマン、ポール・コンロイの“従軍記”である。映画館で見逃した映画である。スリランカで片目を失明し、イラクで12年前の虐殺の死体を掘り起こし、アフガンで巻き添えで死んだ人々を写し、リビアカダフィにインタビューし、その不正を指摘し、シリア、ハマス反政府軍と一緒にいたことでアサド軍に殺される。戦地が変わるたびに、3 years before Hamasと出て、この映画が死に向かっていることが分かる。

アフガンの戦場で死にそうな少年を救い、彼女は次のように言う。A war is quite bravery citizens who endure far more than I will.戦争とは勇気のある市民のことである。私などの到底及ばない忍耐心の。

主演ロザムンド・パイク(ゴーン・ガールで見ている)、監督マシュー・ハイネマン(ドキュメント「ラッカは静かに虐殺されている」を見ている)、プロデユーサー・シャリーズ・セロン、そもそも彼女が主演をやりたかったらしい)。なぜ戦場に向かうのか。彼らがそこにいかないと歴史が闇に葬られるからである。サンディタイムスの部長は、「君が戦場に行くおかげで、われわれは悲惨なものを直接見ないですむ」式のことをいう。開高健がこの映画を見たら、なんと言ったろうか。コルビンもPTSDを病むが、開高なら“滅形”の言葉を使うだろう。

 

42 ライリー・ノース(D)

夫と子を殺された妻が悪党どもの復讐を果たす。香港、欧州で格闘技を学んでロスに帰ってくる。とんでも映画だが、彼女がスラムに身を隠し、そこの犯罪率が下がる、という設定はグッド。バスで一緒だった男の子とその隣で眠るある中の父親。バスから降りて酒屋に入ると、彼女が現れて拳銃で脅し、これで立ち直らなかったら殺す、と脅す。格闘技もグッドで、妙な設定が印象に残る映画である。悪徳警官役をやったジョン・ギャラガーは何かの映画で見ているが、思い出せない。主演の女優は少しジュリア・ロバーツに似ている。警官の古株役をやった男優はむちゃ下手くそ。

 

43 あなたの名前を呼べたなら(D)

インドの田舎生まれの離婚女性には制約が多い。主人公のラトナは因習を離れ、大都市ムンバイでメイドとなって自活の道を歩む。最初のシーンは実家なのか、貧しいのが一目で分かる状況で、そこに電話が来て、急いで引き払わざるをえないところから始まる。バイク、乗り合い大型自動車、そして都会のバスで、やっと着いたのが高級マンション。彼女はなにもの??である。守衛に「早いね」と言われ、「電話があったから」と答える。なにが起きていて、彼女がどんな人で、何という名前さえ分からない。次第に彼女はメイドで、ご主人の結婚が相手の浮気で破綻したことが分かる。彼女の名がラトナであることも、しばらく経って分かる。そこにもうすでにメイドという仕事につく人の無名性、存在のなさが表現されている。

ご主人様を慰めるために、自分が離婚者で、田舎ではそのまま死にゆくしかないので、ムンバイに来たという話をする。元気を出して、という意味である。そこから少し青年の目が変わってくる。

2人はやがてわりない仲になるが、その間の演出が細やかで、二人の気持ちが次第に盛り上がっていく感じが、シークエンスの積み重ねで表現されていく。たとえば、旦那さまは自室で英語のニュースを見ている。横移動のカメラで壁を一つ隔てたという設定で、ラトナがインド音楽の流れるメロドラマを見ている、という演出をする。その同じカメラワークがもう一度、繰り返されるが、今度は旦那さまがメロドラマを見ていて、カメラが横に動くとラトナが食事を作っているという絵になる。それで2人の位置関係がよく暗示されている。

ラトナと同じ年老いたメイドのことや(我が子のように育てたのに足蹴にされ、怒って叩いたら母親から英語でののしられた、と言った打ち明け話をする)、彼女の住む高級マンションの守衛などとの下世話の交情もじつに丁寧に織り込まれていく。なにかの祭りでラトナは激しく踊るが、旦那様が帰ってきたので一緒に自室に戻る。そのとき初めてキスをされる。

ラトナは幾多の障害を思い、身を引くことに。旦那様も父親のもとでビルの新築を監督していたが、あまり父親の眼鏡にかなう仕事ができていない。彼はその安定した地位を捨て、もといたニューヨークでの自由な生活に戻る。置き土産として、ラトナに念願のファッションデザイナーへの道として就職先をプレゼントする。ラストは、ニューヨークから彼女に電話がかかってきて、名前を呼ばれ、彼女はしばらく間を空けて初めて彼の「アシェラヴィン」の名を呼ぶ。

監督はロヘナ・ゲラ、女性である。主演はティロタマ・ショーム、旦那様はヴィヴェーク・ゴーンバル。階級間の問題を女性の視点から撮った映画って、さて邦画であったろうか。ぼくはそれを思い出すことができない。ましてこんなに情感豊かに。

 

44 凡ては夜に始まる(D)

シャリー・マクレーン、ディーンマーチン共演。シャリーが少し「アパートの鍵」からはお年を召された感じがあるが、本当に美しい。いい加減なプログラムピクチャーだが、別にそれでいいのである。

 

45 殺しの接吻(D)

タイトルがもう昔風、1970年の作である。登場人物の服装や映画の色調などもそう。ロッド・スタイガーがマザコンシリアルキラー、その挑戦を受けるのがユダヤ人の刑事ジョージ・シーガル、その犯人の第一目撃者がリーレミックで刑事の恋人となる。刑事の母親はなにかと息子に干渉する母親で、それが犯人像のヒントになっている。「アイリッシュじゃないと出世もできない」式のことを息子に言う。

刑事とリンカーンセンターの案内嬢を務めるリーレミックの恋がスマートに描かれ(警察署で犯人の特徴を訊かれたりした後、家まで刑事が彼女を送るシーンが楽しい。刑事の母親に初めて会ったとき、自分も厳格な性格の振りを装って取り入るところもいい。あとのシーンでベッドで大部のジューイッシュクッキングの本を見ながら、イディッシュ語の料理用語を覚えようとするシーンもいい)、その間に老婦殺しが連続的に起きる。ときに神父、配管工、老女、宅配フレンチ料理屋などしゃべり方も姿も変えて犯罪を繰り返す。ロッドスタイガーの熱演である。監督はジャック・スマイトで「動く標的」「エアポート75」あたりを撮っている。カメラを怪しげに操るとか、不気味な音楽を流すとか、恐怖させるための仕掛けはほぼやらない。そういうことにまだ興味がなかった時代のようだ。コロンボ刑事の「ホリスター将軍のコレクション」も撮っているが、映画と手法がそう変わらない。これはコロンボの質の高さを逆に証明している。十分に楽しめた佳作である。タイトルはNo way to trreat a ladyで、第一の殺人を聞いたときの刑事の母親のセリフで、そんな殺し方なんてレディに失礼、といった意味。

 

46 最高の人生の始め方(S)

プロ野球選手が交通事故で両脚の機能を失い、妻の支えで西部劇小説の作家となり、妻をがんで亡くし、希望を失ってある小さなサマーバケーションのための村にやってくる。酒浸りの日々である。隣に住む家族は離婚調停中の母親と3人の娘。その2番目の子がお話を作るのが好きで、自然と男に関心をもち、接触を持ち始め、母親ともども彼に惹かれていき、彼自身再び小説を書き始めるほどに回復していく。モーガンフリーマン主演。Don' t stop looking  out what is nothing. 見えないものを見ることを止めるな、と作家は少女に言い続ける。想像力こそ作家自身が見失っていたものであった、というわけである。

 

45 ジャスティ(D)

 2回目である。アル・パシーノが型破りの弁護士、その彼が余りにも硬直した法の解釈しかない判事を殴って警察の留置場に。クライアントの一人は関係のない事件で上げられ、服役している。おかま黒人は執行猶予が付くとパシーノに言われていたが、判決当日パシーノはどうしても出廷ができず、同僚に依頼するが、こいつがその裁判を忘れていて、遅れて顔を出した。判事は立腹して、実刑を科してしまう。その黒人は獄中で自殺をしてしまう。

あろうことかその頭の固い判事が女性への暴行で起訴され、彼を弁護士に指名する。人権派といっていいパシーノが正反対の人間を弁護するからには何か根拠があるだろうとマスコミも含めて考えるだろう、との読みである。パシーノの怪しいクライアントからパシーノは当然受けないつもりだったが、弁護士資格をはく奪される可能性がある、とのアドバイスで結局弁護をすることに。途中で判事のサド遊びの写真も手に入るが、弁護を続けることに。しかし、最後にどんでん返しが起きる。原題A Justice for allというのは憲法の一部なのかどうか。認知症初期の祖父にリー・ストラスバーグ、自殺願望の暗示にジャック・ウォーデン、嫌みな判事にジョン・フォーサイス。監督ノーマン・ジュイソン、もちろん「華麗なる賭け」「夜の大走査線」「シンシナシティキッズ」「ジーザス・スパースター」など綺羅星のごとくである。

 

46 シー・オブ・ラブ(D)

オールディーズのsea of loveが2つの殺人に関係していたことで、このタイトルがある。パシーノ主演で、under 18は無理な内容。ニューヨークタイムスを使って300ドルである種の暗号文の広告を打ち、異性との交際を求める。そこからテンポラリーな犯罪が起きる。

モダンジャズで始まり、事件の起きるときにオールディーズに変わり、ラストはR&Bで終わるという仕組みになっている。最後まで怪しい女性がキャメロン・ディアスに似ているエレン・バーキン、刑事の同僚にジョニー・グッッドマン(もうだいぶ太っている)、最初にほんとのちょい役でサミュエル・ジャクソンが出ている。監督はハロルド・ベッカーで、まったく見たことがない。

 

47 深夜食堂(S)

一つのパターンをつくり、それを少し壊したりしながら進行する。なかなか手だれな感じの演出である。主題歌が頭でかからず、途中から流れたり、話のなかに山下洋輔が出てくると、あとで曲がかかったり、いろいろやっている。ただし、女性ボーカルの巻き舌で日本語をだめにしているのは堪え難い。

パターンを崩すのには、ストーリーの登場人物は一度出てきたら次には出てこないはずなのに、それも途中から変更される、というのがある。いちおうオダギリ・ジョーとの間に何かがあったらしいが、それが謎として強く牽引するわけではない。

小林薫のキャラクターがいい。やくざが入ってきたときにはさっと包丁を握る、喧嘩が始まるとビール瓶を握りしめる。だけど、たいていのことは呑んで、鷹揚にかまえている。いまシリーズ2、さてどこで飽きるかだが。

 

48 ロング・ショット(S)

シャリーズ・セロンを見る映画。こんなにきれいな女優だったのか、である。振った男のところに戻ったときの彼女の不安げな様子が珍しい。これは封切りされたのだろうか。相手男性がセス・ローゲン、喜劇畑のひとのようだ。二人で制作を兼ねていて、会社をもってビジネスでやっている。long shotとは「勝ち目のない大穴」らしい。

 

49 アナ(T)

久しぶりの映画館である。リュック・ベッソンプロデュースの格闘ものである。最初のレストランでの殺しが圧巻である。明らかにジョン・ウィックの影響を見て取れる。顔への銃撃、敵の武器の奪い取りからの反撃など。時間を前に戻し、現在に帰り、といったことは、あまりアクション映画でやる必要がないように思うのだが。あまり魅力的な女性ではないので、2作目はないのでは? レア・セドゥにぜひ主役で格闘をやらせてほしい。主題歌がなんだか調子が古くて、なんでこんなレトロなナンバーにしたのだろうか。

 

50  深夜食堂(Netflix版シリーズ1エピソード7)

このシリーズ、まったく飽きがこない。それはいろいろな小技の連続になっているのと、監督が別々なのにテイストを通すプロデューサーのすごさ。オダギリを自由にしているのも、すごい。山下敦弘が撮ったりしてる。このエピソード7は度肝を抜かれた。いい女優さんだなと思って見ていたら、大学生のときに見まくった日活ロマンポルノの宮下順子だった。ぼくは、落涙。いまこの物語に出てくる料理を順番に作り始めている。ただし、ふだんから作っているオムライスとかそういうのは除外している。小林薫の料理の手元がすごくきれい。きっとプロの方のアドバイスを受けているのだろう。

 

51 深夜食堂(甘い卵焼き)

父親を継いで武侠映画を撮ろうとしている中国人が主人公、そしてずっと出ていたおかまがかつてその父親の主人公を演じた人間。映画愛が出ている。その武侠映画の登場人物たちの動きはまったくなっていないが

 

52 ルース・エドガー(T)

 非常にズルい作りの映画である。出自に目覚めた黒人青年がある仕掛けをして歴史教師に復讐をしているように見えるが、確証があるようには撮らない。一番の問題は、危険性のある花火を隠しておいたのになくなり、歴史教師の机は花火で燃えていながら、母親はそれを問い詰めないことである。子どもの犯罪に加担することを決めた、ということなのか。

かなり冒頭から、アフリカの音楽なのか、木製楽器に筋目を入れ、それをヘラのようなものでジャリジャリさせながら、オシッオシッというような切迫した声が流れる。アフリカの紛争地に生まれた主人公の野性復活を象徴するような扱いの音楽である。

 

青年はアフリカの銃弾の飛び交う紛争地帯から6歳で、アメリカの白人中流家庭に貰われてきた、という設定である。高校生になって、歴史人物のエッセイを書くように言われ、フランツ・ファノンについて書いたことで、歴史教師が疑念を抱き、青年の母親に注意を呼びかけ、そのエッセイと彼のロッカーで見つかった花火を渡す。ファノンは人殺しを肯定しているらしいが、それは民族の抵抗としてのものだろう。それを省いて、人を殺すことを肯定している、など曲解以外のなにものでもない。そう言われた時に、青年は反論をすべきである。アメリカの一般家庭の銃保有に目を向けず、アフリカに出自がある青年がファノンを引いたからといって騒ぐこと自体が非常に差別的な感じがする。この映画はそのこと自体を撃っているわけではないが、そこにまったく目が行っていないのはまずいだろう。

 

この映画の主人公は将来、どういう大人に育って行くのだろうか。優等生として奨学金を貰い、有名大を出て政治家といったところか。ほとんど悪意らしいものを見せないで立ち回る才は政治家向きかもしれない。歴史教師が休職で家にいるところへ花を持って訪ねるなど、表面上の辻褄はきれいに合うように工作されている。

校長、歴史教師、両親のいるところで、素直に教師に謝るのも、青年の企みである。教師はその言葉を信じられず、控えさせておいた女の子を呼びに行く。彼女は青年にレイプされた、と言って教師に申し立ててきた女性である。ところが、部屋から消えていない。教師はあらぬ嫌疑を青年にかけたと校長は判断をする。青年の術中にみんながはまっている。

歴史教師の家を訪ねた青年の跡を母親は追い、森の中の小屋でその姿を消した女子との情事の場面を見届ける。そのときに母親は、わが養子が女をたらしこんで、いいように利用していることに気づくべきである。この映画には、いくつも不自然さが目立つ。

どこかの新聞は黒人映画の傑作のような書き方をしていたが、ご冗談を、である。ちんけで下手くそな黒人ホラー映画を傑作と褒めたたえていた新聞である(のちにアカデミー候補となった)。どうも黒人が絡むと、相当に目が曇るらしい。

 

サンドラ・ブロックが黒人少年を町で見かけ、自分の子として育てる映画があったが、あれも親の理想にはめられることに黒人が反抗する場面がある。結局、そのあとに和解をするのだが。

 

53 家族を想うとき(S)

ケン・ローチである。イギリスの行きつくところまで行った姿である。ブレディみか子がつとに警告を発している社会的なインフラが抜け落ちた世界である。では、だれがこれで幸せになっているのか。企業と裕福な人間だけがのうのうと暮らしているとして、国は自分の矜持をどこに持っているのか。そういう政府をいつまでものさばらせる我々が悪いのか? 日本はこんな映画もつくれない。せいぜいお茶を濁したような是枝や「新聞記者」のような映画があるだけだ。奥さん役がのんびりしていて劇の緊張を和らげてくれる。大けがを押してでも仕事に向かう父親には、もう選択肢がないのか。

 

54 1987(S)

韓国の大統領直接選挙が始まった年でである。全斗煥が進める極端な反共政策と警察国家に一穴が開く。学生の拷問事件がどんどん知れ渡っていくからだ。まずは検察が青年の死因で心臓麻痺などの嘘をつきたくないと逆らい、監獄では看守の一人が民主派と結びつく。教会を軸として展開されるのは、東欧の社会主義の崩壊と似ている。そこにマスコミ報道がつながっていき、学生、市民たちの反抗がある。光州事件を扱った「タクシードライバー」より格段によくできている。チャン・ジュナン監督、ほかに2作あるらしいが見たことがない。ひるがえって、自ら自由や個人の権利を獲得しようと時の権力を倒していく経験を日本人はしたことがない。韓国のいまの政治を見るには、この民主化闘争は欠かせないのではないか。なかに「護憲打破」のスローガンが出てくるが、これは日本人には分かりづらい。別の訳を考えてほしいところだ。

 

55 はちどり(T)

韓国映画の良質な部分が戻ってきた感じである。どこかの映画祭で「パラサイト」と争ったらしいが、断然こっちのほうがいい。ちなみにhummingbirdは人生の喜びや存在の楽しさを表す精神的な動物sprit animal らしい。

この映画、企みと自然さとが混然としている。企みはそちこちに挟んであるが、冒頭、女がブザーを鳴らし、ドアノブをガチャガチャやって「オンマー」と叫んでも誰も出ない。てっきり海外にでも行っていた女がしばらくぶりに帰ってきたのに事情があって開けないのかと思うが、じつはネギとかを買いに行って1005なのに905のドアを開けようとしていたのだ。それが主人公の中2の少女ウニである。部屋を間違えるか、そんなアホな、であるが、この劇はそうやって始まる。すぐに引きの正面の絵になって、同じ外観のドアが並んだ公団? の絵になる。これは、そういう当たり前のワン・オブ・ゼムを扱う映画だという告知なのだ。

たしかに普段でもこういうことは起こるかな、ということの連続で劇は進む。しかし、なにか独自のものを見ている気分に次第になっていく。監督が丁寧にディテールを積み上げるから、そういう感慨に誘われるのである。ほぼ映画の3分の2が過ぎたころに、一度、スティールの絵で斜め上方から団地の全景が写される。瞬間のことだが、その編集は心憎い。

場面転換にも、??ということをいくつもやっている。一番は、何の用事かも分からず夜に訪ねてきた叔父。どうも意気が上がらない。妹であるウニの母が頭が良かったのに大学に行けなかった、という話をして、悄然として帰っていく。しばらく経つと、家族が黒衣を着て、車に乗って出かける。何の説明もしないが、叔父が死んだことが何となく分かる、といったようなやり方で、劇にリズムを付けていく。

ほかの企みの例として、音楽の使用を上げよう。最初、ピアノ曲が流れる。途中、それほど音楽を際立たせることはしないのだが、主人公ウニが尊敬する先生を事故で失って独り室内で演歌っぽい曲を聞いているうちに、地団駄を踏むような格好で声を挙げ始める。これでラストでは、せっかく抑制を利かせてきて撮ってきたのに残念なことだ、と思ったら、それからだいぶ続きがあって、最後はやはり違うピアノの曲で終わるのである。

 

企みではなく自然について触れよう。ウニが一度は別れた男の子とよりを戻し、二人が布団のうえでじゃれ合うときに、男子の上腕をさっと触って「筋肉」と言うシーン。これには、びっくりした。それと、尊敬する漢文の塾の女先生に階段で抱きつくところ。向こうに大きめの窓が開いていて、ソフトフォーカスがかかったような感じで木々が見える。先生の胴を抱きしめて、先生が腕をウニの背に載せたとき、向こうの木々が一斉に風に急迫のリスムで揺れる。おそらく演出なのだろうが、ごく自然に見える。

あるいは、その塾の女先生が、仲違いしたウニとその友達のためにうたう歌が変わっている。指を切った労働者が焼酎を飲んで心を癒す、という歌詞である。なんだ、こりゃ、である。

極めつけは、ウニが右の首の根元にしこりを発見し、医者から大病院に行くべき、と言われとぼとぼ歩いて帰ってきたら、小高い公園に母親を見つける。なんども呼ぶが、彼女はいっこうに気づかないのか、そのままどこかへ行ってしまう。このシーンは、なんのためのシーンが分からないが、ずっと後々まで残る印象深いものである。

 

母親は真野響子に似ている。父親は何かで見ている役者さんで、いかにも小さな餅(トッポギ)屋の主人の感じが出ている。それと、漢文塾の、悩みは深いのだろうが、外見にはなんの匂いもさせないスレンダーな感じの女先生もいい。この3人のキャスティングは抜群にいい。夫が子どもにきつく当たったときに、あんたにそんな権利があるのか、と暗に浮気のことをほのめかし、手近にあった電球のようなものをぶつける。腕から血が流れ、包帯を巻いてやり、翌日なのかソファにお互いに並んでテレビを見て、ケラケラ笑う。それをウニが見て、なにも表情を変えないのがまたいい。この抑制された演出は秀逸である。

 

大きな立派な50メートルも高さのある橋が落ち、その時間にバスで登校する姉が心配で、病院から家に電話するウニ。怠け者であることで助かった姉。それで安心したのか、いつもはウニに暴力を振るう兄がえんえんと泣く。ウニが首の手術をするときにも父親が泣く。おそらくこの家族はこの情愛でつながり、あとは毎食の料理が紐帯を強固にしている。漢文塾の先生がじつはその事故で死んでいたという落ちは、画竜点睛を欠く感じか。

中二のウニにいろいろなことが起きる。男子とのキス(彼女が求めたもの)、後輩女子からの同性愛、首の手術、ソウル大に行くぞ!とけしかける英語教師、クラスのみんなから不良と言われ、ソウル大の学生なのに人生に倦んでいる感じの漢文塾の先生、姉の放蕩、両親の喧嘩、餅屋への差別、兄の暴力、普通な子だと言いながら、じつにいろいろなことが起きる。ウニばかりか親友も親の暴力を受けていて、それが一つの主題にもなっている。漢文の塾の先生から、兄の暴力に抵抗しろ、と諭される。彼女にも何かそういう背景があるのか。

 

途中に何度か「立ち退き反対!」の文字を掲げた一角を通り過ぎる。ウニは決まってそこに目線がいく。漢文塾の先生に、これは何か? と尋ねると、困っている人々がいる式の答えた返ってくる(これは正確に記憶していないので、あとで見直した時に修正する)。ここのシークエンスの扱いはおざなり、という感じがする。

 

最後のシーンが、周りに同級生が遠足にでもいくのかにぎわうなかに、彼女だけが一段違うところにいるような表情を見せている。このエンディング、見事であるが、何かの映画で見た記憶がある……。

 

某新聞がまたおかしなことを書いていた。韓国の近現代史を描いた映画だというのである。何を見て、そんなアホなことをいうのか。

 

56 スキン(T)

人がよく入っていた。白人主義者が子持ちの女性に出会って改心するが、昔の仲間に脅され、それでも立ち直る話である。その出会った女性が強いことが、彼を救ったことになる。

 

57 waves(T)

前編と後編の映画みたいである。前は兄の唐突な挫折、後は妹の静かな幸せを描いている。前半はうるさめな音、後半は比較的な温和な曲がかかる。兄も黒人でない女性を愛し、妹も白人を愛する。そこにテーマがあるわけではないが、却って葛藤がないのが不思議である。父親は建設現場の監督官(?)で、家庭は自分のマネージメントで動いていると思っている男で、長男が肩を壊しレスリングの夢を断たれ、妊娠した恋人をはずみで殺して無期で入獄してからは、すごく弱い人間に変わっていく。後添えの妻ともうまくいかない。それが、次女の素直さによって回復されていく。次女役のテイラー・ラッセルのための映画である。

 

58  マイスパイ(S)

元陸軍特殊部隊からCIAへ。ある件でドジって、ある人物の偵察係に。その人物の姪っ子に盗撮、盗聴がバレるが、この子、そしてその母親に猛々しいこころが癒される。ろくでもない映画だが、最後までしっかり見てしまった。

 

59 ラスト・ディール(S)

舞台はフィンランド。貧乏な老画廊主が最後の賭けに出る。オークション前の下見会で目に留まったのがキリスト像。出品側は、無署名で作者名は分からず、という。当日までにイリヤ・レーピンの作であることは確認できたが、なぜ無署名なのか。ロシアの画家だが、文化村でロシアの画家展を観たことがあるが、意外なほど繊細な絵が多い。

競りの当日、やはり目利きはいるもので、1000ユーロで始まって1万で老人が競り落とした。3日後には購入費を払わないといけないので、そちこちから金を集め、貯金をしていた孫からもかすめ取る。「貯金で金持ちになった奴はいない。投資すべきだ」とだますのである。孫の母親、つまり娘とは疎遠だったが、この件で関係修復がさらに難しくなった。

結局、目が節穴だったオークションハウスが邪魔をして、買い手がつかない。署名のなさが後まで尾を引く。結局、老人は店をたたみ、その金から孫にも借りを返す。死の間際にミレスゴーデン美術館(スウェーデンに実在する)から「本物です」の答えが返ってくる。署名がない理由は、キリストへの敬虔な思いからだ、という。この絵は遺産として孫に残ることになる。

とても光景がきれいな映画で、孫がバスから港で降りるシーンは実に均斉がとれていて、見事である。そして、老人と娘が小さな和解を迎えるシーン、俯瞰で銀杏の黄色い葉が画面の左右全体に拡がり、下方3分の2ぐらいが公園の道を写している。その色と配分が見事である。

そのあと、娘が父親のことを思い出しているのか、ベランダの柵に身を預けて外の景色を見ている。その右手の指が柵のうえで上下する。すると、老人の手が重なり、それがピアノを弾き始めて、老人の姿が写しだされる。このシーンもいい。

音楽がマッティ・バイとなっている。サントラがあるらしいが、買うかどうか迷っている。監督クラウス・ハロ、ぼくは「こころに剣士を」を見ている。

 

60 ストウーバー(S)

 インド人のストウーがウーバーの運転手をしているので、表題のようになる。老眼の手術をして、客として乗り込んできた視力が欠しいマッチョ警官に犯罪捜査に巻き込まれ、軟弱な男から強い男に変化するというもの。「マイ・スパイ」のディブ・バウティスタが主演。楽しく見ることができた。 

 

61 シグナル(S)

韓国製作で、推理もの。明らかにTrue Ditectiveを意識して、イントロの部分などが作られている。本編もなかなか重厚で、過去と無線電話がつながっている設定なので、どこかで嘘っぽくなるのではないかと思ったが、あにはからんや、である。ある緊張した感じでいま13話まで来ている。4つの事件が解決されることになるが、最後の事件が過去と現代が濃密につながる仕組みになっている。やや女性刑事の演技に幅がないことが、回を重ねるごとにはっきりしてくる欠点がある。16作で終わりだが、最終回はさすがに時間が整理され過ぎて、違和感がある。しかし、この作品が話題にならないのはなぜか分からない。かなりのレベルの作品である。

 

62 大いなる遺産(D)

原題はa great expectationで、大いなる期待、といったところ。主人公の少年が青年となっても、ある一人の女性ステラ(グィネス・パストロー)を愛し抜く。その少年には絵の才能があって、ステラの母親(アン・バンクロフト!)の差し金でニューヨークのギャラリーで個展が開かれるが、じつはすべて少年時に海で遭遇した脱獄犯(デ・二ーロ)のはからいであることが分かる。青年をイーサン・ホーク、とても美しい。それが中年に差し掛かると、途端に薄汚くなる。

キュアロンには「ローマ」でもそうだが遊び心がある。青年が飛行機でニューヨークへ向かうシーン、じつは地下鉄に乗り、飛行機の模型を動かすことでそれを表現している。あるいは、自分のものとなったと思ったステラがヨーロッパンに旅立ったとき、彼が見上げる空に彼女の乗った機が過ぎようとし、その窓に彼女の顔が見える、というベタなことをやっている。

このふてぶてしい感じが、違和感なく見ていることができるから不思議である。映画の受け手の心理を知り尽くしているのではないか、と思う。

 

63 姉妹(D)

 全篇、間然することなく進む。これ、傑作ではないだろうか。あまり歳の離れていない姉妹を中心にして、徐々に近代の合理化の波が及んでくる様子が描かれる。姉の圭子が野添ひとみ、妹の俊子が中原ひとみ、姉はクリスチャンだが、最後は現実的な選択で銀行マンと見合いし、結婚する。妹はまだ高校の1年生、相変わらず正義を通し、一本気である。寮に出入りするめし屋に、汁粉などの借金を抱えて払えず、かわりにアイスキャンデー売りのバイトに精を出す。2人は町中にある叔母の家に厄介になり、学校に通っている。年末などにバスで山奥の水力発電所のある村まで帰る。

姉が恋心を抱くのが水力ダムの社員内藤武敏(岡さん)、姉妹の父親が河野秋武(ダム会社の課長)、脇に多々良純(姉妹の叔父)、殿山泰司(長屋の住人)、望月裕子(叔母)、加藤嘉(叔母のところに雑貨を売りに来るハッチャンの父)、北林谷栄(ハッチャンの母)などを配する。

 

俊子は小さな近藤を略してコンチがあだ名。彼女の友達に金持ちの子がいて、そこへ遊びに行く。いずまいを正した母親がお茶を運んでくる。そして、コンチに「お父さんが毎月、お金を送ってくるの?」とか「(世話になっている)叔父さんはどんなお仕事」などと聞いてくる。「大工の棟梁」と答えると、「建築士ではないのね」と軽蔑した言い方をする。その友達の姉は足が悪く、人と付き合おうとはしない。弟は11歳になのに5歳にしか見えない、という。「私は幸せ? 不幸?」と聞くと、コンチは「不幸」と答える。彼女は、正直なのはあなただけ、キスしていい? と尋ねる。コンチは「私が好きなの?」と聞き、相手が頷くと「いいわ」と言って、口づけをする。「ひゃっこいね。へびみたいだね」と言う。

 

ハッチャンが手製のものを含めて、叔母の家に売りに来る。ハッチャンの話から、家が荒れ放題と聞き、俊子は姉と一緒に掃除に出かける。ハッチャンは不在で、盲目の加藤嘉結核北林谷栄がいる。すっかりきれいになったときに、ハッチャンが帰ってくるが、結核が伝染るから二度と来るな、という。しばらく経ってハッチャンが過労から死に、姉妹で訪うと、北林が「なんで私らは悪いことを一つもしていないのに、カタワだらけなのか」と言う。コンチは、「お金持ちにもカタワはいる」と言って慰めようとするが、姉は止めようとする。北林は「うちらの家でカタワという言葉を使ったのはトシコさんだけ。私たちを励まそうとしたのよね」と俊子の気持ちを推し量る。

 

映像的にも面白いのがいくつもある。まず、姉と一緒に岡さんと話をしたあと、後ろから2人をとらえたショット。すっと左足が横に動いて、あれよれたのかなと思うと、コンチの頭が姉の肩にのっかり、そのまま進んで行く。このカットがおしゃれである。

河原で流行歌を歌いながら馬を洗う殿山泰司の連れ合いに姉が会う。私は働くのが好きだし、子どもを立派に育てたい、と女は言う。夫がいない隙に男を咥えこんだ女の言葉とも思えない。姉はつり橋をこっちに向かって歩いてくる。その左下、かなり小さく見える感じで女が馬を洗っている。このショットが新鮮である。

さらに、岡さんと話をして、姉は上り坂を上がり、その下のほうに同じ方向に進む岡さんが見える。これもまた2人の人物の動きを1つのショットのなかに入れ込んだ構図である。

水力ダムの社員にも合理化、首切りの手が伸びてくる。どうにか父親も岡さんも第一波は免れるが、だからといって仲間がいなくなるのは無念である。コンチの修学旅行を父親は諦めさせる。仲間が切れられているのに、そんなことはできない、それが俺の性分だ、と言う。コンチはそういう父親のことを認めているが、自分は男になりたい、と父親に言うと、「なぜか?」と聞かれるので、「革命ができるから」と答える。父親はとんでもないことを聞いたという様子で、それまでやっていたコンチの薪割りの手伝いを中止させる。コンチは男に生まれたほうがよかったかもしれない、と言い出したのは父親だったのだが。姉と2人、雨の町のなかをこちらに歩いてくる。カメラは下からやや遠景に2人を撮っていて、手前に大きな四角いコンクリートがある。その壁面にビラが貼ってあって「首切り、断固反対!」の文字が見える。この演出も、うるさくなくてグッド。

 

叔父の多々良純は芸者遊びをしたり、家で博打場を開いたり、遊び人である。その多々良が「どうも不景気でいけない。日本人は戦争がないと食っていけない」と言う。そこで俊子が「叔父さんはビキニの灰をかぶるといいわ」とまぜっかえす。この映画は、ビキニの核実験の翌年に撮られている。

 

コンチは女子寮に泥棒が入ると、捕まえるためにグラウンドまで追っかけていくような子である。話し方は「~だよね」と男のよう。姉の結婚に反したしていたが、文金高島田の姉を別室に呼んで、お互いに自分たちの幸せをつかもう、と理性の言葉を吐く。愛らし顔に、このキャラクターである。それが映画の求心力になっていて、貧困、差別、合理化といった社会問題に触れていく様子を自然な感じで見ていることができる。プロガンダ映画にしない意志を明確に感じる。

 

この映画監督のことをもっと知りたくなった。

 

64 ギルティ(S)

その手があったのね、といったオランダ映画である。登場人物はほぼ1人、それで室内で終始する。緊急対応のオペレーターだが、本当は警察官で何かの件で査問を受けているらしい。電話の向こうから、助けてくれ、という女の声が飛び込んでくる。それへの対応と、自らの悪への言及が重なって、終いまで強い緊張感で見ることに。誰が主役だったか、電話対応だけが事件解決の手段という映画があったが、たしかあれは外部も撮影されていたはずだ。

 

65 スネーク・アイズ(S)

パルマ監督にニコラス・ケイジゲイリー・シニーズ。暗殺とボクシング試合と友情とエロ。パルマはやはり二流である。友の裏切りが分かった後のテンポの悪さ。それでもパルマの作品を10作は見ているのだから、しょうがない。

 

66 ソワレ(T)

夕方から暗くなるころをソワレというらしい。ひょんなことから介護の仕事をしている女性と逃げることになった売れない役者。女は出訴してきた父親に強姦されそうになり、はさみで刺し、そこを役者もどきが助けたことで、逃避行となる。途中で、「おまえのせいでこんなことになった」と彼は女をなじるが、女と逃げようとしたのは彼の言い出したことだし、このセリフは劇の進行とも合っていない。

ラストの場面、高校生のころの自主映画づくりを撮ったビデオを見ているのだが、高校生の自分が演技で女のしぐさと同じことをしているのを知って驚く。その教室の外にはセーラー服を着た女が刑事らしき人間に連れられて行く。さて、このシーンはなんのために撮ったのか。ラストに要らぬことをするな、である。

一か所、逃げ出した男女が廃屋で膝を立てて、正面を向いて座っている。その後ろの壁に影が立って、2人が踊りをおどりだす。この自由さは余り日本の監督に見られないものなのでグッド。

 

67 次郎長三国志・次郎長初旅(S)

マキノの最初の次郎長三国志である。あとで鶴田浩二で撮っているが、断然こっちのほうがいい。見るのは3回目。主演の小堀明男がとてものんびりしながら要所要所できりっと締まった演技を見せる。ある種、日本のリーダーの理想型を表している。大政の河津清三郎が参謀役がぴったりで、おっちょこちょいの桶屋の寅吉を演じる田崎潤、法印大五郎の田中春男(最高のバイプレーイヤー)など、他の配役も見事である。後半も後半にどもりの石松が出てくるが、これが強烈なキャラクターである。森繁の迫力が十分に感じられる。それまでの流れを全部食っちゃった。

 

68 ジミー、野を駆ける伝説(S)

ケン・ローチ監督、時系列がよく分からない。10年前(1922年?)に政治的弾圧からアメリカに逃れ、いま帰ってきてまた人々の先頭に立ったことでまたアメリカに、ということのなだろうか。カソリックが権威と権力をもち、警察、地主階級、自警団などと組んで、人々の自由を抑圧する。そこにイギリスの政治のサポートがあり、IRAは教会に遠慮して何も手出しをしない、という構図である。 小作農や鉱山労働者などが差別の構図のなかにある。

かつてジミーたちが建てたホールが廃屋のようになっている。若者たちがジミーに建て直しを求め、ダンス、詩の読書会、大工仕事の指導、合唱などをそこで行ううちに、司祭が露骨な介入をしてくる。ホールに集まる人間をチェックして、教会での説教のときにその名前を公開するようなことまでやる。仕事のない人間には紹介をしよう、娘がロンドンにいて帰ってこないなら手助けしてやろう、ホールに行くなら不買運動をかける、と懐柔と脅しの両方で籠絡していく。ジミーは再びのアメリカだが、自由の象徴だったアメリカも大恐慌を経て、貧富の激しい社会へと変貌しつつあり、決して夢の国ではない。

かつての恋人、いまは2人の子のいる女性ウーノが彼が贈ったドレスを着て、2人で音楽もなしに踊るシーンが美しい。

 

69 ラーメンガールズ(S)

西田敏行というのは芸のない役者だなとつくづく思う。ただ差別的に怒鳴るだけである。設定もおかしい。ラーメンを極めた男という設定なのに、弟子になったアメリカ娘がなかなか成長しない理由が分からず、どこか田舎のワケの分からない婆さんにアドバイスを貰いに行く。とうとう娘を後継者と認めたら、その娘がアメリカに帰って店をオープンする。なにそれ? である。彼女に彼氏ができるが、英語が上手な在日朝鮮人という設定。これもなんだかなぁ、である。

 

70 スゥインダラーズ(S)

コンゲームだが、ちょっとやりすぎ。それでも面白く最後まで見ることができた。主人公のヒョンビンが少し体形に肉が足りない。敵ボス代理人のペン・ソンウは何回か見ているが、今回はコメディが入っていてOK、女メンバーがナナという名前らしく常盤貴子あるいは上戸彩に似ている。悪党検事がユ・ジンで、オールドボーイのときのやはり哀愁が左の頬に残っている。政府側悪人が全体に灰汁が、悪が? 足りない。

 

71   どこに出しても恥かしい人(T)

こういう映画を見るには川越スカラ座あたりは最高である。近くのハンバーガー屋は今日は休みだ。あぶり珈琲店でコーヒーを飲み、時間を潰す。映画自体は別に何かの目的をもって作ったというものではない。友川かずき、その競輪通いと酒の日々、彼の長男、次男、四男が出ていたのが不思議といえば不思議。その三人それぞれとやはり競輪場で車券を買う。ちゃんと親父の及位(のぞき)という珍しい苗字を継いでいる。ドキュメンタリーでよくあることだが、録音が悪く、それに彼の発音の問題もあるから、よけいに何をしゃべっているのか分からない。別にそれでいいのだけれど。できれば、「夜を急ぐ人」を聞きたかった。神楽坂「もー吉」のおやじが出ていたのはびっくりした。

 

72 エノラ・ホームズの事件簿(S)

エミリー・ボディ・ブラウンというほぼ新人といっていい少女が、シャーロック・ホームズの長く会わなかった妹を演じる。サイエンスから格闘技まで教えてくれた母がロンドンへと姿を隠してしまう。それを負う娘、その娘をホームズ兄弟、そこに絡む美少年貴族。結局、母は何か暴力的な手段で民主制を進めるための義挙を行うらしいのだが、そこを映さないで終わってしまう。残念だが、非常にかわいげのある少女で、これから出てくると思われる。

 

73 天使のくれた時間(S)

2回目である。ニコラス・ケイジティア・レオーニ(最近、見かけない)の恋愛もの。恋人ニコラスがロンドンからニューヨークへビジネス研修に向かおうとするが、ティアは別れると、これが永遠になりそう、と引き留めるが、ぼくらの愛は永遠さ、と言ってニコラスは旅立つ。案の定というか、それ以降、関係が途絶。

13年後、投資会社の社長となった彼に彼女から電話が。それに応答せずに、一人のクリスマスを祝うためにエッグノッグを買いにコンビニに寄ったところ、当たりくじを換金しろと黒人の客が入ってくる。店の人間が数字を書き換えた偽物だと言い返すと、その黒人が銃を出して脅す。ニコラスは200ドルを払うから、その当たり券をもっといい店で換金したらどうか、と仲介する。その黒人と外に出て、やや歩くうちに「なにか不満はないのか?」と彼が聞くので、「何でもある」と答える。そこで突然、別のありえた世界へ飛ぶ。この転換が潔くてオーケーである。

2人の子どもに、自分を熱烈に愛する妻。しかし、いずれ元の世界に戻り、弁護士として活躍している彼女に会いに行く……という単純なものだが、家庭のよさをじっくりと描くので納得性がある。おかしいのは、NY選択前の世界に戻ったはずなのに、ニューヨークの近くに家があることである。自分の境遇の変化を確かめにニューヨークへ行く関係上、この設定にしたのだろう。

ニコラス・ケイジは最近はどうも汚い役柄のものが多い。残念である。

 

74 ブレイクアウト(S)

 ニコラス・ケイジ続きで「ベンジエンス」を見ようとしたら、前に見たやつだった。それでこれにしたのだが、やはり見たことのある映画だった。それでも最後まで見てしまうのだから、疲れる。ニコール・キッドマンが好きで、彼女を見たくて見た映画ではないだろうか。室内に終始する強盗話だが、説明するのも面倒なくらいいい加減な映画である。ニコラスの頭の毛がいよいよ危ない! それにしてもニコラスの映画も結構見ている……。何の映画だったか、ニコラスみたいに過剰にやらなくていいんだよ、というセリフがあった。思わず噴き出したものだ。

 

75 鵞鳥湖の夜(T)

「薄氷の殺人」のティアオ・イーナンである。きれいな映像と残酷な映像が併置された映画。今回もそれを期待したが、思ったほどはスタイリッシュではなかった。影を面白く使っていて、カーテンに透けて動く人物、階段での追い駆けっこを影を映して表現したりしている(「第三の男」を思い出す)。音楽がときに三味線(?)と柝の音が入って、まるで篠田正浩の映画を見ている気分だ。主人公の活劇がグッドである。傘を相手の腹に刺して、それが突き抜けて背中で開き、その傘を噴き出した血が染める、という味なことをやっている。 

主人公が過って警官を殺し、鵞鳥湖に逃亡してからが無駄に長い。その湖でホアという男の下で水浴嬢(海水浴に来る客と遊ぶ娼婦)をしている女が、主人公の逃亡の手助けをする。光る靴を履いて、男女が同じ動きをするダンスシーンがあるが、たしか前作でもそういうシーンがあった。

主人公の妻を演じたレジーナ・ワンが美しく、眉間にしわが寄ると往年の藤村志保を思い出すが、もう一人よく似た若い女優がいたが、それがどうも思い出せない(あとで藤吉久美子であることを思い出した)

朝日新聞で監督インタビューが載っていたが、古典的な撮り方とアクションのことを言っていた。さもありなん、である。

 

76 ザ・ウェイ・バック(S)

何作かバスケものを見てきているが、どれも面白い。弱小チームが奇跡的に強豪チームになっていく、という設定が多い。今回はベン・アフレックが元スーパープレイヤー、しかし父親の期待に応え続けるのが嫌で大学にも進まず。子どもが脳腫瘍で死んでからは、離婚もあって酒浸りの日々。それが、教会経営の母校からの誘いでコーチに就任し、次第に成績を上げていくが、親戚の子の死を見て、また酒浸りになり、コーチを解任される。子どもたちは彼のためにも優勝を勝ち取ろうとし、彼自身ももう一度やり直しそうな気配で映画は終わる。予定調和だが、これでいいのだ。

 

77 キリングフィールド(S)

前に同題でカンボジア・クメールルージュの虐殺を扱ったものがあったが、これは現代のテキサスの湿地帯での連続殺人の実話を題材にしたらしい。それにしても、無法の地域があって、そこには警察も手を出せない、というのは、アパラチア山脈の殺伐とした地域を扱った「ウインターボーン」もそうで、アメリカってどうなっているんだと思う(トランプが手を付けたのは、こういう地域である)。少女のころのクロエ・グレイス・モレッツが出ている。彼女の新作がしばらく来ない。

 

78 ブラッドファーザー(S)

メル・ギブソンの映画は、あのリアルキリスト以来である。ダメな父親がスーパーマンで、娘の窮地を救う。リーアム・ニーソンが開いた世界だ。娘の父親との距離感がよくて、最後まで見てしまった。

 

79 スーパーティーチャー(S)

ドニー・イェン健在なり、である。破天荒高校教師になって大活躍。すべてが予定調和だけど、面白く見てしまった。アクションはほんのちょっとだけ。

 

80 フォージャー(S)

トラボルタ、クリストファー・プラマーが親子、孫が脳腫瘍で死が近い。贋作で刑務所に入っていた父親が組織の仲介で娑婆に。その代償にモネ「散歩、日傘を差す女」の偽物を描いて本物と換える、という話。トラボルタのまったく表情のないのが、かえってすごい。それで哀愁と苦悩の父親の感じが出ている。同じ詐欺師のプラマーが枯れていてgood、名役者の名に恥じない。だましと親子の愛が絡んで、まったく無理がない。残念なのは、盗みに迫力がない点。

 

81 異端の鳥(T)

 映画的な快楽に満ちた3時間である。まんじりともしない。見終わって、何十年ぶりかに映画パンフレットを買った。

どこの地方なのか、それも判然としない。ロシア語なのか、それにしても荒涼とした土地だ。平屋の家がポツンと一つ、少し離れて納屋だろうか。その間に距離をおいて井戸があって、とても映像が美しい。何度か引きの絵で、それが示される。

老婆(マルタ)が一人、そして「家に帰りたい」と言う少年が一人。何かの事情で親が子を預けたらしい。少年が白い小動物を抱えて林を駆けるシーンから始まる。あとを追ってくる数人の少年たち、彼らは少年の動物を奪い、油をかけて焼き殺す。老婆の作るスープには芋と肉が一個ずつ、掬うこともままならない量の液体が薄い皿に張ってある。老婆は洗面だらいの少ない水で節のある足をちゃぽちゃぽ洗うのが習慣である。そんな日々のある朝、イスに座ったまま老婆が死んでいるのを見つける。驚いてランタンを落とし、その火が家を、老婆を焼き尽くす。そこから少年の苛酷な旅が始まる。

 

ある村で競売にかけられ、少年はオルガという呪術師に貰われる。呪術師は、この少年は禍をもたらす者だ、と言う。村人たちは老婆が通ると、頭を下げて敬意(?)を表す。少年は蛇で患者の腹を撫でたり、病を治す手伝いをするが、疫病がうつり、オルガは彼を頭だけ出して地に埋める。翌朝には治っているが、彼を餌食としてカラスが何羽も襲ってくる。オルガが間に合い、助かる。しかし、村人の差別はきつく(ユダヤ人ということらしい)、川に落ちて木の枝につかまって流される。

 

ミレル(ウド・キアー)の粉ひき小屋の木組みに引っかかり、助けられるが、ミレルは「そいつは疫病神だ」と言う。ミレルは使用人と妻の不貞を疑い、妻を革のベルトで鞭打つつ。ある夜、ミレルが袋に何か生き物を入れて戻ってくる。ちょうど食事ができ、3人の会食が始まる。少年は後ろに控えてテーブルにはついていない。ミレルが突然立ち上がり、袋から出したのは猫。家の猫とそれが声を挙げてつがい始める。その間、無言だからこそ、異様な緊張が張り詰める。ミレルは酒をあおり、突然テーブルをひっくり返し、使用人の目をスプーンでえぐり、家からたたき出す。この沈黙の中で緊張が高まる感じはアリス・マンローの小説の味わいに近い。例によって皮ベルトによる鞭打ちが始まる。少年は朝まだきに猫が食べそうになっていた目玉を拾い、家を出て、途中で木の根元で悲しんでいた下男にそれを渡す。男は自分の穴の空いた目にそれをはめこみ、また泣き出す。

 

今度はレッフ(レフ・ディブリク)という鳥売りの男と出合う。レッフはルドミラと野原で逢引し、事をいたす。ルドミラは淫奔で、村の青年たちにも誘いかける。母親たちは怒り立ち、ルドミラのほとに壜を差し込み、死に追いやる。レッフは首を吊って自殺する。レッフは一羽の鳥の羽根に色を塗り、空に放つ遊びを教えてくれたことがある。同じ種の鳥が蝟集し、その変わった羽根の鳥を攻撃し始める。やがて、ひょろひょろと落ちてくる。この映画は、原題the painted birdsという小説がもとになっている。このレッフだけが、善人である。彼は鳥を愛しているし、ルドミラを肉欲的にだが愛していた。

 

少年は森で右足を怪我した馬を道連れにしてある村にやってくる。村人は役立たずの馬をすぐに殺してしまう。その村に武装の一団が襲ってくる。西部劇のように小高い丘に馬に乗った男たちが居並ぶ。村人の虐殺が繰り広げられる。ぼくはネイティブアメリカンを殺しまくるキャンディス・バーゲンの「ソルジャーブルー」を思い出した。

ドイツ兵へのいい土産になる、ということで少年はドイツ軍のところに連れて行かれる。そうと分かるまでは、コザック隊長の目は、少年を性的に狙うものに見える(これがあとのガルボスの話の伏線になる)このあたりでやっと、どうもソ連から東欧にかけたあたりの地域の話かもしれない、と分かり出してくる。たとえば、ポーランドあたり。リリアン・ヘルマンの「Scoundrel Time」という自伝には、ソ連に作家協会の招きで行き、招待されるままに移動し、前線に行ってみますか、と言われ承諾すると、ドイツ軍の虐殺が横行しているポーランドへと越境していた、という描写がある。

 

少年はドイツ兵の軍隊に連行され、そこである将校(ステラン・スカルスガルド)のテントに入れられる。彼は少年を殺す役目を負ったが、空に向かって銃を放ち、逃がす。列車の貨車に人が詰め込まれている映像があり、ユダヤ人の護送車だと分かる。木の囲いを破り、次々と草原に飛び降りるが、ドイツ兵の銃は的確に殺していく。その死体のたくさん転がるところに少年が通りかかり、まだ銃弾を浴びてなお這って動いている同じ年頃の少年から靴や着るものを奪ってしまう。

 

次は教会の牧師(ハーヴェイ・カイテル!それと気づかないほど、俗気が抜けている)に救われるが、信者ガルボス(ジュリアン・サンズ)に貰われる。彼は少年を犯し、虐待する。牧師が時折、酒を買いにやってくる。その弱みがあるのか、牧師はおかしな気配を感じても、直接注意することはしない。

少年はある廃墟でナイフを見つけた。それでガルボスを刺そうとするが、見つかり、その廃墟に案内するように言われ、縄でつながれて現地に向かう。廃墟のまえの井戸のなかにねずみが満ちていることを知っている少年は、井戸を覗く男を縄ごと引っ張り転落させる。

 

雪原をさまよい、氷が割れて、ずぶ濡れになる。明かりがぽっと見えたので、そこへ這っていく。女が助けたらしく、ラビーナという。老いた男が横たわり、それに粥のようなものを食べさせる。夜、少年がそばにいながら、二人は交接をしている。ところが朝には老人は死んでいて、その埋葬を少年がやる。ラビーナは少年を誘い、少年も受け入れるが、いつしか疎まれる。性的な能力に欠けるところがあるのかもしれない。ラビーナに誘いをかけるも、つれない様子ばかり。ある夜、馬の頭を切って、彼女の寝室に投げ込む。性的なモチーフはミレルのところから露わになるが、宗教の欺瞞を見た次のシークエンスでラビーナとセクスするのは意図的なものがあるだろう。彼は林の中でひとを殺し、盗みを働くことに躊躇は見せない。

少年は途中で何度か声を出していたが、このあたりではもう一言も発しない。「そのほうが、身の安全かもしれない」と考えたが、パンフには、少年が喋れなくなったと書いてあった。演技で表現されないから、具体的なきっかけがよく分からない。

 

ソ連兵の駐屯地で孤児として扱われ、親切な将校からは「スターリンはいわば列車の運転手のようなものだ」「赤軍の誉れを失うな」などといわれる。狙撃兵のミートカ(バリー・ペッパー)は、仲間が殺された仕返しに、ある村に少年を連れて出かける。2人で木に登り、そこから村人を狙撃するミートカ。彼はほかへ移される少年に贈り物をする。それは拳銃で、戦争が終わったあと、町中の行商人にユダヤ人、ブタ野郎と言われ、殴られる。その仕返しに、その拳銃でその男を殺す。彼のもとに父親と名乗る男が現れ、最初は反発するも、母親のもとへ2人で向かい、おだやかな草原の風景がカラーで映されて、ジ・エンドである。そのバスの汚れた窓に、彼は指でなぞってヨスカという自分の名を彫り込む。

 

残酷なシーンも多々あるが、白黒のおかげでどぎつくは見えない。音楽はラストに主題歌があるだけで、途中は一切なし。コザック兵が酒場でバカ騒ぎをするときに、バイオリンが奏でられるだけ。まるで中世の時代かと思えるような映像で始まり、途中でドイツ機が空をよぎることで、2次大戦であることがやっとわかる。それくらい彼の歩く土地土地は因習と差別に色濃く塗りこめられている。飛行機が飛び交う時代のこととは思えない。そこもまた狙いだったのではないか。ずっと続く人間の業のような残酷さを描くために。民衆の蒙昧さと比較して、そして民族兵と比べて、ソ連兵、ドイツ兵が好意的に描かれている。それはなぜなのか。

言語は人工のスラブ共通語を用いることで、どこの国と限定されない配慮をしているという。それは原作でもぼかされているらしい。少年の風貌もモンゴル人のような感じがして、ユダヤとは思いつかない。その父親は明らかにジューイッシュな風貌をしているので、これも監督ヴァーツラフ・マルホウルの意図的な配役である。少年はチェコの街で見かけた素人少年だという。

構想から11年、著作権の探索・獲得に2年近く、書いた脚本が17パターン。彼は、原作の意図するものが映像で表現されていなければ意味がない、と発言している。監督はポーランドで撮影所の所長を務めていた人物で、この作品はまだ2作目。堂々とした、隅々まで神経が行き渡った、この先何十年と語り継がれる“理性的”で“原初的な”作品である。

 

82 ルーシーズ(S)

父親の借金をすり稼業で返す男と、一夜の衝動で妊娠した女が、どうよりを戻すか。男は投資会社社員とウソをついていた。最後にちょっとした仕掛けがあって、グッド。こういうスマートに撮られた映画は得がたい。ルーシーというのが女の名、そして男が好きな煙草の銘柄でもある。そんなことをしたら堕ちるばかりだぞ、というところで、ドンデン返しだから、粋なのである。マイケル・コレントという監督で、ほかの作品は知らない。主演ピーター・ファシネリ、よく見ると味があるが、そもそも目立たない。女優がジェイミー・アレクサンダー。どちらも残念ながら、この映画が初めて。ヴィンセント・ギャロが出ているのは貴重か。すごく痩せていて、オーラが消えている。「バッファロー66」がまた見たくなった。 

 

83 みをつくし料理帳(T)

 高田郁の原作で、もうシリーズは終わっている。原作と映画を比較するのは意味がないが、演出としてどうかと思うことがある。とろとろ茶碗蒸し(?)だったかを作ったときに、店の客が口を揃えたように「ありえねえ」と言う。そこからその料理の通称が「ありえねえ」になったと原作にあるが、映画では単なる詠嘆の言葉で終わっている。なんのための演出なのか、意味をなさない。

主人公の案出した料理が名店登龍楼に盗まれたことで、ごりょんさんと一緒に抗議をする。その仕返しなのか、店の前にやくざ風の男が数人居座って、客が入るのを妨害する。さらに、火付けにあって店が全焼する。それを登龍楼と関連付ける演出がまったくない。これではドラマが立ち上がってこないではないか。静かな、淡々とした演出を目指したのは分かるが、それでもやれることはあったのではないか。

 

気になったのは、澪が好きになる侍(窪塚洋介)はお城の料理人の家系で、「御膳奉行」。それほど小身の者ではないはず。襟足の毛が乱れているのは、ありなのかどうか。澪が惚れる男としても失格ではないか。澪に惚れる民間の医者(小関裕太、この役者を知らない。別の役者と勘違いして見ていた)の襟足の毛は乱れていて、それは違和感がない。

大阪を襲った「大水」の話になったときに、みんなが最後の「ズ」にアクセントを置いて話をしていたが、頭からお尻までゆっくり下がる発音が普通ではないか。なにか関西風と混じってしまっているのではないか(澪は大阪出身なので、そこに江戸っ子も引きずられた?)。

戯作者の滝沢なんとかを藤木隆が演じているが、たしかに原作も奇矯な人物だった記憶があるが、それにしてもやたら権柄づくで、目をむいて喧嘩腰の表情をするのは、間違っているのではないか。

石坂浩二が鶴屋の老主人を演じているが、可もなく不可もなくだが、はじめ誰が演じているか分からなかった。中村獅童を何回か映画で見ているが、初めて得心をもって見ることができた。又次という人間の像がくっきりと描かれている。原作でもこんな人間だったように思う。

原作を読んで、いったい何品の料理をまねたことだろうか。できれば、登龍楼との番付争いのおもしろいところを次作で見てみたい。

 

84 スパイの妻(T)

 黒澤清監督で、どこかで賞を取ったらしい。ぼくは彼の映画は3作しか見ていない。蓮実重彦先生が傑作だと褒めていた。しかし、これを傑作といわれると、黒澤監督も面映ゆいところがあるのではないだろうか(彼自身はよく撮れた、と言っているらしいが)。たしかに破たんがないように描かれているが、映像的にこれぞ、というものはない。

 

いちばんの問題は、夫婦が海外逃亡を図るためにいろいろ動き回っているのに、憲兵隊による以前ほどの張り込みがなされない点である。だから、とても順調に事が進んでしまって緊張感がない。憲兵隊の分隊長(妻の幼馴染、東出晶大)はそんな甘い男ではないはずだ。

 

妻が夫の掴んだ証拠品(731部隊の生体実験記録。映画では関東軍の仕業ということになっている)を憲兵隊に持ち込むところまでは、さては裏切りかと思わせ、じつは証拠には3種あって、その1つだけを渡したことが分かる。連合国、ここではアメリカに渡したい英語版と実写フィルムは残っている、という寸法である。しかし、甥はそのために捕まり、手の指の爪を全部剥がされても、夫の加担を白状しない。それさえ読んで私は証拠を持ち込んだ、と妻は言う。なんと機転の利く女かと思うが、一方で、かわいい甥をそんなひどい目に遭わせてもいいと冷たく判断する女である。決断に逡巡の気配が毛ほどもない。ところが、そのあと夫恋しやの一念で、はらはらと崩れ落ちるような風情を見せ続ける。危険を冒すことで、やっとあなたと一体感をもてた、などとも言う。このアンバランスはどう考えればいいのか。蓮実先生は、弱い女から男を唆す女への激しい転身を指摘するが、そうは思えない。夫の誠を信じた女の一途さ、と読んだほうが自然である。なぜなら、あまりにも後半の夫婦は息が合って、夫唱婦随だからである。夫が妻の配下に入ったというこではないだろう。

演じた蒼井は、感情の落差が激しい役だったので大変だった、とインタビューで述べているが、そうではなくて、人格の統一をどう図るかの方が大変だったのではないか。

 

夫と妻は別の逃亡ルートをたどり、サンフランシスコで落ち合うことになる。しかし、密告の手紙(夫が出したと思われるが、明瞭ではない。女中という線もあるもしれないが、それはなさそうだ)で、妻は憲兵隊に捕まる。そのときに、英語版の証拠品を憲兵がたしかに押収する。そして、731の実態を映したフィルムを憲兵隊のお歴々が居並ぶなかで映写するも、それは夫が撮った会社の余興用のフィルムだった。夫がすり替えていたらしい。妻は、大声で笑い、倒れる。船尾でにこやかに手を振る夫のことも映される。では、憲兵が押収した英語版も偽物だったのだろうか。それについては、何も触れられない。

 

夫婦、あるいは妻と幼馴染の憲兵のやりとりが、とても生硬な日本語で、まるでお芝居のよう。これは演出ではなくて、何かの間違いなのではないだろうか。精神病院に入った妻のもとに、夫の知り合いの東大教授、笹野高史が演じていて不似合だが、それが面会に来たときに、突然話の途中に机につっぷすようなことを妻がやる。さてこれは何の真似なのか。やっと作りごとの演技から解放された蒼井優のアドリブのように思える。

「私は極めて正常。ということは、ほかがいかに狂っているかということ」と蒼井に言わせているが、こういうレベルのセリフが頻出し、とくに2度目に捕まったときに、幼馴染にいうセリフはゾッとするほど紋切り型。

 

夫は甥と2週間の予定で満州を見に行く。仕事も絡んでのことだが、街中で異様なものを見たと妻に言う。それは、死体の山で、煙を出して焼かれていた、という。ペスト菌で実験して殺した中国人(朝鮮人?)だという。しかし、国際法違反となるものを、ちょっと行った旅行者の目の留まるところに放置しておくだろうか。731部隊では、実験棟と実験棟のあいだの空き地で燃やしたのではなかっただろうか。これは史実の問題として重要な箇所である。

 

そこそこ客が入っていた。しかし、「鬼滅の刃」の大騒ぎのまえでは、かすむばかり。

 

85 ある女流作家の罪と罰(S)

評伝作家で力量は認められるリー・イスラエル(実在の人物)だが、自己宣伝も出版社が求める拡販活動もしない。名声のない女優の評伝を売り込むが、相手にされない。それでいまはアパート代や飼い犬の治療費も払えない状況。窮余の策で思いついたのが過去の作家のプライベートな手紙の創作。いわくノエル・カワードリリアン・ヘルマンなど。主演メリサ・マッカーシー(レズビアン)、偽作の売り込みをするのがクスリの売人のジャック・ホックをリチャード・Eグラント(ゲイ)。この2人の関係がなかなか大人の感じでいい。マリエル・ヘラーという40代の女性監督。

 

86 グレース・オブ・ゴッド(S)

フランソワ・オゾン監督で、小児性愛の神父による性的虐待の被害者たちが、30年以上経て、真実を求めて立ち上がり、司法の場に持ち込んだ経緯を描いている。犯罪者をかばい続けた教区の大司教も一緒に訴えたが、結果的には、その罪までは問うことができなかった(控訴審で無罪に)。神父も聖職剥奪という結果で、刑罰が科されたわけではない。なぜなのかは触れられない。

ラストに、告発者たちの会合で、もう夫婦二人だけの生活を取り戻したい、という者が現れたり、一枚岩の感じが失われつつある点なども描かれる。フランスにはいまだに宗教的な感情が根強くはびこっているのだという新たな驚きがあった。

この映画は一人の神父による犯罪だが、ボストングローブが告発した事件は多数の神父による性的な虐待である。そこにはカソリックプロテスタントの違いがあるのかどうか。あるいは、アメリカとフランスの違いが?

 

87 彼女は夢で踊る(T)

広島のストリップ劇場「広島第一劇場」が2019年2月(?)に閉鎖になり、それを悼んで作られたフィクショナルな映画である。2度、閉館をいいながら、その後も存続させたことから、「閉館詐欺」といわれたらしい。

2代目劇場主となった男の過去と現在がうまく織りなされて、なぜ人はこの場に集うのかがずっと疑問符として映画を貫く。安易な答えが2つ用意されているが、ほかにもいろいろな解釈がありえそうである。『死児』という詩を書き、生涯子をなさなかった吉岡実は大のストリップ好きで、それについて胎内回帰願望を言う人がいる。

頭にこの作品が作られた理由が明かされる、という作りになっている。監督時川英之の映画「ラジオの恋」を見た加藤雅也という俳優が、監督にくだんの劇場のことを映画にしないかと持ちかけたのが、そもそもの始まり。

ストリッパーのひも役をやった横山雄二東京乾電池ベンガルに似ていて、飄々としていい。映画のホームページの紹介によると、かなりの才人らしい。達者な人がいるものである。

 

88 風をつかまえた少年(S)

 キウェテル・イジョホー監督&主人公の父親役。最初、「キンキーブーツ」で初めて彼を見たとき、どう発音していいか分からなかった。Chiwetel Ejoforという綴りである。

実話を元にしている。自作の風車発電機を作り、乾燥地を緑にした少年の物語である。じっくりと環境の苛酷さ、因習の強さを描きながら、最後の最後で風車が回り、井戸から水が自動的に汲まれる様子が映される。

父親は村一番の娘と結婚し、決して雨乞いしない人生を歩むと誓ったが、長引く干ばつについ天に祈りそうになり、妻に止められる。子どもが自転車を解体し、風車を作るといったときに夫は反対したが、妻は夫を諫めて「あなたは失敗続きだ」と言い、息子に協力させる。監督は自分を低く抑えて、見識を見せた。次回作が楽しみである。

 

89 ストレイドッグ(T)

うまいタイトルを付けるものである。原題はDestroyerである。ニコール・キッドマンが汚れ役をやったというので、見に行った。特殊メイクを施さないとやさぐれた感じが出てこないところがキッドマンである。だめ刑事だが辣腕、酒におぼれ、離婚したか離婚裁判中という男刑事の役をそのまま女刑事として引き移している。だから、意外感がない。キッドマンだからアクションもない。シャリーズ・セロン、スカーレット・ヨハンソン、アンジョリーナ・ジョリーたちはワイヤーロープを使ってだが飛び跳ねていたが、この映画にそれはまったくない。ジェニファー・ローレンスもその線を狙うかと思ったのが、ポルノ映画で終わってしまった。セロンは同性愛のモンスターを演じて賞を取ったが、キッドマンのやさぐれは難しいのではないだろうか。

 

90 罪の声(T)

浅茅陽子宮下順子梶芽衣子、庄司照江、桜木健一佐川満男火野正平、佐藤蛾次

郎などがみんな老けた顔でスクリーンに次々と出てくる。その都度、あれ誰だっけかな、と思う。あまり日本映画を見ないからだろうが、彼らの若いころのことしか知らないから、とても奇妙な感じがする。みんな時間をワープして突然、齢をくったように思えるのだ。そしてまた、こちらもご同様であることをしたたかに教えられる。

映画はとても面白かった。こういう描き方ものあるのか、という感じである。3億円事件は、子どもの関与があったことで、早晩足がつく、という読みがあったことを思い出す。それが延々と時効までいってしまったのはなぜか。組織の固さを思わざるをえないが、じつはまったく違ったという設定である。

そもそも3億円事件の捜査では新左翼の線も洗われたから、こういう角度はあるだろうという気がする。しかし、それがやくざと組んでいたというのは、意外な設定である。終盤、新左翼の敗退の情念に犯罪の動機を解消してしまうのは、あまりにもクリシェである(若い観客はどう見るか知らないが)。

まして宇崎竜童に左翼学生のなれの果てを演じさせるのは、ミステイク以外のなにものでもない。もっと誰か相応しい人間がいるのではないか。

それにしてもこの左翼学生は運動の崩壊後(ということになるのだろう)、イギリスに渡って、向こうで恋人までつくっている。そこにやくざとの関係で警官を辞めさせられた男が、なにか大きなことがしたい、とやってくる。それで当時、起きていたオランダの社長誘拐、身代金要求事件を調べ、それを下敷きに計画を練る。ただし、身代金の受け渡しは成功率が低いから、株の空売りで儲ける――この筋書きもどこかで読んだ記憶がある。可能性の一つとして取りざたされていたはずである。

時効になった事件を負う新聞記者の主人公(小栗旬)が、イギリス・ヨークの洋書の古書店に彼、つまり年老いた宇崎を訪ねてくる。いったいイギリスで洋書の古書店を開く男というのは、どういう背景をもった男なのだろうか。残念ながら、このヨークのシーンで映画はぐっと緊張感がなくなってしまう。

監督土井裕泰、「銀鱗の翼」「なだそうそう」「ビリギャル」などを撮っているが、見たことがない。小栗旬はとっても好感。力が抜けていて、表情も、姿もいい。英語も遣い手である。ほかの作品も見たくなった。上司の松重豊もよかった。

 

91 ワイルドローズ(S)

ジェシー・バックリー主演、彼女は「ジュディ」でイギリスの秘書役を演じた女優である。イギリス・グラスゴー生まれの女性がカントリーの聖地ナッシュビルを目指すが、実際に行ってみて、故郷・家庭を根拠に歌うべきだと改心する話である。ほぼかかる曲はジェシーの歌声である。やはり音楽映画は面白い。ナッシュビルイーストウッドが息子を使って、その聖性を描いたことがあった。最後に子ども2人が、大きめな会場で母親作曲・作詞の曲を聞いているときの表情が、プロはだし。それまでは取り立てて作った表情をしなかったのだが、ここだけ微妙な感じを出している。

 

92 トルーマン・カポーティ――真実のテープ(T)

NY社交界の中心人物の一人、ジャーナリストのジョージ・クリンプトン(スポーツ関係か?)がカポーティのことを書きたくて、関係者にインタビューしていたテープが残っていた。それを過去の映像と合わせて流し、時代の寵児だった彼を描き出す。結局、彼はエンタメと芸術の間を歩いた人で、しかもノンフィクションという新しい形式を編み出した人物でもある。時代の過渡期を橋渡ししたと言っていいのではないか。彼の友人の作家が言う如く、カポーティは「冷血」を描いたのが本物の彼であり、あとは才能が書かせたものだ。早くに両親は離婚し、母は高級娼婦だったらしく、息子は遠い親戚に預けて出奔した(のちに一緒に暮らすが、いくら名をなしても、息子のことは認めなかったという。最後は自殺)。男が黒、女が白の目隠しをした「白と黒の夜会」では、ミア・ファーローとシナトラや、ピーター・オトゥールキャンディス・バーゲンなどの顔が見える。かつて、いまは亡きフィリップ・シーモア・ホフマンカポーティを演じたことが思い出される。彼はたしかクスリで死んだのではなかったか。いい役者だったので、惜しいことである。

 

93 ヤクザと家族(T)

味も素っ気もないタイトルである。東海テレビの劇場版「ヤクザと憲法」で取り上げたことの内実が描かれた、という印象である。時間の制約があってラスト15分ぐらい見ることができなかったのだが、緊密な構成の映画という印象である。あえていえば、14年務め上げて娑婆に出てきて、むかしの仲間は反社会といわれるのが嫌で近づこうとしない。一度、交接したかたぎの女も最初はその素振りを見せるが、すぐに招き入れて、娘をまじえて一緒に朝ごはんなどを食べている。これってありなのか、ご都合主義というものだろう。

主役の綾野剛、同じ半グレの磯野勇斗がいきいきとしてグッド。オートバイに乗った敵対組から銃撃を受け、綾野が車から飛び出し追いかけようとするが、足をやられている。振り向くと、表情が変わる。少しずつ車に近づくあいだ、カメラはずっと彼の顔を追っていく。そのときの表情の移り変わりの自然な様はどうだろう。事件が起きる前に車内で交わされる会話は、綾野と彼を尊敬する若い衆の間柄がよく分かるものなので、よけいにここの表情の変化は意味がある。

14年経って、出所祝いの席が、みんな白髪銀髪になっているのに合わせて、グレーの色調で撮っているのもグッド。生命力を失った組の様子がよく分かる。極道でしか生きる道のない人間たちは、これからどうやって生きていけばいいのか。監督藤井道人、「新聞記者」を撮っている。プロデュースは河村光庸、配給は彼の率いるスターサンズ。

 

94 フォリナー―復讐者(S)

Netflix制作、ジャッキー・チェン、ピアーズ・ブロズナンが出ている。テロで巻き添えをくった娘の復讐をする。ジャッキーが中国少数民族の出(中国政府寄りのジャッキーがどうしたことか。アメリカ資本だと変節するのか)で、国外へ家族で逃れて、タイで盗賊?に3人の娘のうち2人と妻を失う。老いたジャッキーが米軍の元特殊部隊にいたという設定で、相変わらず強いが、リアルさをもとにした映画でワイヤーアクションは興ざめである。

 

95 雨の日は会えない、晴れの日は君を想う(S)

ジェイク・ギレンホール主演で、原題はdemolition「解体」。これは妻を車の追突事故で失って知らないうちに自己の解体を経験する男が、家電・家などの解体をすることで回復の可能性を得る物語である。妻の収容された病院の自販機でヌガーを買おうとするが、引っかかって出てこない。設置会社に手紙を書くのだが、そのときに自分の窮状もあわせて書いたことで、その会社の苦情係の女性(ナオミ・ワッツ)から連絡が。彼女は勤め先の社長と付き合っているが、愛してはいない、という。13歳の息子がいるが、自分がゲイであることに戸惑っている。そこにギレンホールが仮住まいすることに。奇妙な大人と接することで少年は解放へと向かっていく。防弾チョッキを着たギレンホールが少年に実弾で撃たせるシーンがあるが、そういう奇矯な経験から、2人は心を通わせていく。結局、母親も暴力的な社長と別れる。

不思議な味わいの映画である。コミカルでさえある。というのは、男は自分の自我の崩壊に気づいていないからである。心が崩れていくことで、男は真実に向き合い、妻をじつは愛していたことに気付く。その妻は不倫で子どもを堕ろしていたが、それさえ男は許そうとする。リゴリスティックな義父役をクリス・クーパーが演じている。監督ジャン・マルク・ヴァレィで、「わたしに会うまでの1600キロ」を撮っている。

 

96 香港と大陸をまたぐ少女(T)

深圳と香港を行き来する女子高生ペイがiPhoneの密輸を手伝うことに。いつも男に貢ぎ、捨てられる母親、香港で家庭をもつ、うだつの上がらない父親、一緒に北海道へ雪を見に行こうと誓ったクラスメイトで軽佻浮薄のジョー、彼女と付き合っているハオとペイが密会したことで2人の仲は決裂する。なにもかもが可能性を閉ざしていくなか、それでも彼女は決してめげない。

ハオが密輸団とは別に自分たちで稼ぎを立てることを考え、ペイを抱き込む。赤い照明の狭い、雑多な部屋のなかで、お互いの腹にiPhoneをテープで繋げたものを巻きつけるシーンが長く、エロティックである。決してキスをしたり、ベッドに倒れるようなことはしない。そこにはペイの純真性が現れているが、ぼくにはアジアのディーセンシーを感じる。悪人が一人も登場しない。密輸団を仕切る女の頭ホアをエレン・コンという女性が演じている。戸田恵子にそっくり。実績を認められてペイは拳銃の密輸をやらないかと言われるがペイは受けようとしない。ハオも、ホアさんの怖さを知らない、とペイに諭すが、最後までホアさんの本当の怖さは描かれない。

香港と深圳のあいだが、係員がいることはいるが、ほぼ何のチェックもなしに通過できるようになっている。それを利用して密輸を繰り返すのである。ハオと組んで初めての仕事のとき、強い雨に叩かれるシーンがとても印象的な撮り方をしている。映像的にどうということのない映画なので、やや目立つ。主題歌もしゃれていて、アンニュイな女性ソロボーカルがかかる。

「鵞鳥湖の夜」でバイクの窃盗団が描かれていたが、こういう中国の恥部が外に出てくること自体が珍しい。ラスト10分ほどのところで、突然、「いまは窃盗団は取り締まられている」と字幕が出るが、これは検閲で強制されたものだろう。

 

97 グロリアの命運(S)

フランス映画で法廷もの。メインタイもすごいがサブタイは「魔性の弁護士」―どうにかしてよというレベルである。でも、映画自体は面白かった。法廷ものは余程緊張感がないともたないのだが、これだけ緩くても成り立つのか、という感じである。悪党が中国人という設定だが、この傾向は世界で広く続いていくだろう。

 

98 48時間(S)

もう何度目か。なんでなのか、悪党顔ばかり鮮明に覚えている。小さな吊り目の男(ルーサー)、大男のネイティブアメリカン、その白人ボス、白人で差別主義者のような顔をした警官、そして三角形の顔のひげの同僚。阿佐田哲也先生はずっと脇役好きの人だったが、ぼくも結局そこに来てしまったのだろうか。あるいは、潜在的にもっていたものが、何かのきっかけで表に出てきたか。エドワード・ノートン好きはそもそもそういうことだったのか。ぼくは彼の妙なかたちの鼻と、はっきりしないくぐもった発音が好きなのだ。ニック・ノルティの演技の下手さには好感さえ抱く。エディ・マーフィがなぜメインストリームから消えたのかは、とても大事な問題である。

 

99 サイレント・トーキョー(T)

冒頭に調子のいい歌唱曲がかかって、ああ、この映画失敗だったかな、と予感が走る。石田ゆりこが出てきて、男性用手袋、大きめのサンドイッチを買い、なぜか吹き抜けの場所の長椅子に座る。そこに爆破予告を受けたテレビマンがやってくる。女は年上のほうの男に座るように言い、イスの下に爆弾が仕掛けられていて、ある体重以下になると爆発すると言われた、と言う。若いほうのテレビマンが覗くと確かに爆弾らしきものが仕掛けられている。若い男が手を伸ばした瞬間にジュラルミンのようなものでできた腕輪をかけ、立ち上がり、2人でビルの管理室に行き、建物内の人間の退去を放送で促すように求めるが、係の人間は疑って応じない。そのときに小爆破が起き、さらにテレビマンが座っているイスも爆破を起こす。

さて、この女が座ったあと、爆破犯はいつ現れたのか? 劇の進行としては、そこは省略をしたということなのだろうが、ミステリーとしてはそこでもう決定的に弱点をかかえて出発している。さらに、なぜに若いほうの男に手錠をかけたのか、それがどういう性質のものなのか、その後もきちんと説明されることがない(あとで偽物、おもちゃであることが分かる、というのだから、笑えるが)。そして、作劇上の不誠実な対応はその後もくり返される。あえて省略したのではなく、劇を自分の都合のいいように切り張りするための詐術である。ぼくは最後まで登場する人物たちのつながりが分からなかった。中でもITソフトを開発した若者と佐藤浩市はどんな関係なのか? 

 

そもそもの犯人の動機として、自衛隊のPKO(?)の失敗を使っている。そのせいで、両親やきょうだいを亡くしたという現地(カンボジア?)の少女が出てきて、隊員を前に(腹いせから?)地雷で自殺する。もしPKOなら自衛隊に責任を問うのはお門違いだろうし、もし戦争をしに自衛隊が行っていたというなら、その後しばらくして就任した新首相が、自衛隊を軍隊化すると発言するのは辻褄が合わない。こういうのをご都合主義というのである。しかも、その少女のことがトラウマになって除隊した男が妻に自己防衛のために爆弾の作り方を教える! こんな理不尽なことが平然と進められる。

 

西島秀俊は腕利きの刑事の役らしいが、その片鱗をほとんど見せない。ITの若者が犯人かもしれない、と分かり、彼がいる喫茶店に行き、後ろから頭に銃を突きつける!?そんなアホな? まだ容疑者でしかない男である。それに、優秀な刑事らしい西島ならもっと余裕をもって対応すべきだろう。西島は捜査本部の指揮官と何か因縁らしきものがありそうだが、それについては何も描かれない。じゃあ統合会議の場での2人の表情のやりとりは何の意味があるのか。2人で密かに話すシーンでは、犯人像が違うかもしれない……という情報のやりとりだけ。

 

爆破シーンは迫力があるが、もっとカメラを複数にして、全方位からその様子を写すべきである。ITの若者が同じ瞬間を写していたり、スマホで撮っている人間もいて、その映像があとから流される、ということに配慮したのか分からないが、そういう神経はほかで使うべきである。唯一、見せ場はここしかない映画なんだから。

 

100 ロンドン、人生はじめます(S)

ダイアン・キートンブレンダン・グリーソン(この役者、何となくの記憶しかない)が主演。ダイアン、74歳である。どこか日本のピーターに似ている。ジャック・ニコルソンと共演したものはキュートだったが、まだ57歳だったとは?! 老いてメロドラマをやれる、というのもすごいことである。ハリウッドも観客の高齢化に応えていくということだろうが、高齢の詐欺師、バンクラバーとなると、さてどうかな、である。

 

101  日本独立(T)

既視感の強い映画である。タイトルを思い出さないが、GHQ民政局のケーディス大佐と日本の令夫人との恋を描きながら、アメリカ製憲法ごり押しの過程を扱った映画があった。ほぼそれの踏襲である。ただ、白洲次郎や『戦艦大和』の吉田滿をフィーチャーしたのは初めてかも。いかにも白洲が大物っぽく始まるが、結局は通訳にしかすぎない。

 

その2人にカメラがアップに寄るシーンがある。吉田の原稿掲載が検閲で不許可になり、担当編集者(創元社)が目力を込めて、「死者の魂との交歓を奪うものだ」と言うのが、その一つだ。もう一つは、アメリカ製憲法で押し切られたあとの白洲の述懐である(細かい内容は忘れたが、編集者の意見と相似のナショナリスティックなもの)。明らかに観客に視線を当てて、台詞を言わせている。あざとい演出である。

憲法に女性の権利を持ち込んだというベアテ・シロタ・ゴードンを非常に悪意的に描いているのも、あざとい演出である。彼女を持ち上げる左翼の批判を意図しているのだろう。

 

白洲を浅野忠信が演じていて、とてもぞんざいなしゃべり方をしているが、本人はそういう人だったのだろうか。見事なケンブリッジ英語を使いこなす、というが、イギリス英語には聞こえない。GHQの幹部が草案を持ってきて、吉田茂たちに検討せよ、と言って屋外に出て、「原子力の光は気持ちがいい」とおかしなことを言う。そこに居合わせた白洲は、「本物を浴びてから言え」式のことを日本語で言うが、それはちゃんと英語で言って相手をやり込めるべきである。吉田茂を演じたのが小林薫、最後まで分からなかった。さすが、というしかない。

それにしても新味のない映画で、何で今さら? である。監督は「プライド」で東条英機を撮っている。ぼくはその映画を見ていないが、想像がつく。

 

102 のど自慢(S)

井筒和幸監督で「パッチギ」の前に撮っている。本当にこの監督は下手くそ、二流である。売れない演歌歌手が室井滋、これはまだいい。マネージャーの尾藤イサオも意外といい。のど自慢と移動焼鳥販売の試験を同時に受ける大友康平も下手くそだけど、一生懸命だからいい。みんないいのに、監督がまずいから、だらだら面白くもない絵が続くことになる。リズム感というのがないのである。

 

103 居眠り磐音(S)

この文庫本書下ろしシリーズにははまった。その世界観は十分に出ているのではないだろうか。剣戟のシーンも納得である。松坂桃李は初めて見る役者だが、芸達者ではないが、好感である。許嫁の奈緒を演じた羽根京子はコミカルなものしか見ていないので、少し違和感あり。おいらんになった姿もやや線が細い。うなぎを捌くシーンなどはもっと丁寧に撮ってほしいところである。できれば、連続映画シリーズにしてほしい。

 

104  真犯人(S)

途中で放棄。韓国映画。室内劇はよほど力量がないとダメ。

 

105 ソング・トウ・ソング(T)

数年に1回ぐらいこういうだましの雰囲気映画に出合う。すぐにそれと分かったのだが、ナタリー・ポートマンがなかなか現れないので、仕方なく外に出るのを我慢。ちょっと前に母親役をやっていたときは、見るも無残という感じだったのだが、以前と同じナタリーが戻ってきた。映画のあいだ、ほとんど目をつむっていた。カメラが被写体をきちんと撮らない。上からか下から、あるいは斜め。そして俳優はつねにふらふらしている。それに酔ってしまうので、見ていられないのだ。本当に最後まできちんと水平に撮る映像がない。延々とミュージックビデオのようなことをやっている。会話もなく、みな独白ばかり。役者を揃えても芝居をさせないのであれば、意味がない。ルーニー・マーラー、ナタリー、ケイト・ブランシェット、ライアン・ゴスリング、マイケル・ファスベンダーである。チラシはケイトの名前さえ出していない。テレンス・マリック監督で、「ツリー・オブ・ライフ」でも似たような映画を撮っていた。ちらちらする宗教性は何なのか。福音派(?)の巨大な伝道ホールが写される。 

 

106 パッセンジャー(S)

以前、同じタイトルの映画があったと思うが、これはジェニファー・ローレンスクリス・プラットが主演、脇のサイボーグでバーテンダー役がマイケル・シーン。90年後に目的地に着くはずが早めに起きて、宇宙船の不具合を直す話である。「猿の惑星」も故障で見知らぬ惑星に落ちる話だったが、これは回復する。しかし、早く目覚めたぶん、自然の摂理で早く死んでしまう。

宇宙もの、未来もの、IT・電脳ものはほぼ見ないが、どういう訳かこの映画を見てしまった。アダムとイブの創生物語である。宇宙船の床から樹を生やす設定は面白い。

前回の105で取り上げたバカ映画で一年を終えるのと、こういうエンタメで楽しんで終わるのでは意味が違う。といっても、ほかの「インターステラー」などの宇宙ものを見る気はしないのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年の映画

 

 

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sea of summer


2019年の映画

2019-01-05

 

T=映画館、S=ネット、D=DVD

 

1 ぼんち(D)

見るのは二度目だと思う。山崎豊子原作である。脚本を市川崑和田夏十(なっと)が書いている。和田は市川崑の奥さんで、つねに二人三脚で映画を創った。

 冒頭のシーン。女中らしき女が裸の雷蔵の首のあたりに天花粉をかけ、着物を着せていく。気のなさそうな感じの市川雷蔵だが、何から何までお膳立てされる境遇であることが、このシーンで分かる。その女中(倉田マユミ、表情がないが、かえってそれが一途に若旦那に尽くす感じに合っている)は生涯雷蔵の世話をすることになるが、最後に「ぼんは船場に生まれなんだら、そして優しすぎなんだら、大きなことをなした人やった」と述懐させている。

雷蔵は足袋問屋の跡継ぎで、その部屋に、2人の人間が近づいてくる。しかし、足袋をはいた足許しか写さない。一糸乱れず、その4本の脚がスッスッと動く。それだけでこの二人(祖母と母)が不即不離の関係であることが示される。こういう演出の的確さこそ、監督の仕事である。

舞台となる船場の家は女系でもってきたという自負がある。雷蔵に嫁取りを奨めるが、家の指図に従わない女はたとえ長男を産んでも家に帰らされてしまう(その気の強い女を中村玉緒が演じている)。いくら雷蔵が放蕩を尽くしても、家うちに外の女やできた子を入れなければいい、という考えである。一生親子で暮らせるだけの手切れ金を渡して縁を切ってしまう。祖母を演じた毛利菊枝はあくまで表情を消して、冷酷に徹している。それに形影沿うようにして雷蔵の母である山田五十鈴が付き従っている。この芯のない、個性のない山田も見ものである。

何事にも控えめな芸者を草笛光子が演じていて、雷蔵の2号さんになるが、後ろ向きになったときに帯に触っただけで、はらりと落ちる。理由を問うと、「旦那のために特別に工夫した」と言う。それを雷蔵はうれしいことをしてくれる、と考える。そういう文化の中にいる人間たちなのである。ちなみに草笛は突然病で死んでしまう。その葬式に出ることができず、雷蔵は料亭の布団部屋の窓から葬列を眺める。その差配をしてくれたのが京マチ子で、そのまま部屋で二人は交情を交わす。それには前段があって、祖母は雷蔵のお披露目に使った料亭の女頭である京の采配と、その肌の良さ、身体つきに感心し、ぜひ雷蔵の子を産ませたいと考える。さらに、祖母が、京の肌は私の肌とそっくりだと言い出す。山田五十鈴が、「そんなにいい肌でしたか」と聞くと、祖母が少し肌脱ぎになって、中を見せる。それを見て、五十鈴が「あれ、ほんまやわ」といつものお世辞を返す。このシーンのおぞましさは、なんとも言えない。布団部屋で事がすんで、京マチ子が、自分は石女(うまずめ)である、と告白し、その皮肉を雷蔵と2人で笑い合う。

 雷蔵はすべての女に優しく、大震災で逃げ場のなくなった女3人(若尾文子越路吹雪京マチ子)が、一つだけ燃え残った蔵にやってくる。それぞれにたんまりとお金を渡して、疎開先を紹介する。若尾はその金で置屋を開こうと考え、越路は今度は馬ではなく株をやるといい、京はしばらく飲んで遊んでそれからのことはそれから考えようと言う。女3人が昼間から風呂に入りじゃれ合っている様子を見て、やっと雷蔵は女から自分の運命を離す決意がつく。その顛末を、雷蔵が何番目かの妻の告別をやっている自宅に弔問に来た、売れない落語家中村鴈治郎に語る。これで冒頭のシーンに回帰したことになる。その円環構造は、かなり意味深である。

船場の風習とそれに柔軟に逆らおうとする「ぼんち」との戦いが筋になっているが、やはり船場言葉のやりとりが快感である。丁稚上がりから旦那となった雷蔵の父親を船越英二がやっていて、いつもの頼りない感じがぴったりである。死ぬ間際になっても、わてはどれだけ財産を増やしたろうか、と気にする男である。雷蔵に「おかあちゃんとはあっちの方はどうやった」と聞かれ、「わては寝てるだけや。そっと戸が開いて、寝床に入ってくる」との返事。その船越が死んだときに、山田は取り乱して涙を流す。祖母は、はしたないことしな、と怒る。山田は別の部屋に駆け込んで泣く。家の娘と使用人の関係に見えて、そこには男女の気持ちの交わし合いがあったことが分かる。雷蔵も女遊びに明け暮れるが、商売のアイデアを考えることに怠りがない。そこがあるから、問屋の古株たちも納得して付いてくる。船場の商人の意地みたいなものもきちんと描かれている。

 

2 それだけが、僕の世界(T)

 このタイトル、なんだかよく分からない。英語ではKeys to the Heartとなっている。本編でピアノ弾きが扱われているので、このkeyにはその関連があるはずで、「心ふるわせる鍵盤」といったようなタイトルである。久しぶりに韓国映画を見た、という感じである。ユーモアがあり(韓国映画に欠かせない要素である)、ちょっぴり涙もあり、もちろんちょっとしたアクションもある。監督チェ・ソンヒョン(「王の涙」というのを撮っているが、ぼくは見ていない)、主演イ・ビョンホン(いつ以来だろうか。西部劇風の「グッド・バッド・ウィアード」以来か)、その弟役でサブァン症候群のパク・ジョンミン(「ダンシングクイーン」に出てたらしいが、記憶にない。日本の役者に似ている人がいるが、名前が思い出せない)、母親役をユン・ヨジュン(「青い塩」に出てたらしいが、記憶にない)。障碍者を扱った映画ではイ・チャンドン監督で「オアシス」がある。彼の「シークレット・サンシャイン」も懐かしい。

ビョンホンがコミカルな演技をしていて、好感である。食堂で家族で写真を撮ろうと母親が言い出し、店員が撮ろうとしたときに、ビョンホンがおどけた格好をする。あるいは、母親が二人で踊ろうと言い出したときに、一人でラップ風の踊りをおどり、曲に合ってないな、と言うシーンなど。こんなビョンホンはほかにあるのだろうか。40歳のボクサーという設定だが、もう少し彼の恰好いいところを見たかった。サブァン症候群の弟が名曲クラシックを何曲か演奏する場面は、やはりグッドである。母親役の女優が田中絹代に似ていて、これもしみじみとしていていい。女優陣がみんな整形韓国顔しているが、まあこれはこれで仕方がない。突拍子もない設定もあるが、これも韓国映画らしいのである。虐待の夫から逃げ、13歳の息子ビョンホンを手放した母親、久しぶりの再会、奇矯な行動の弟との心の通い合い、弟のコンサート、そして母の死……

よくぞ盛り込みましただが、無理なく楽しめる。日本のエンタメは、ここまで徹していない。おちゃらけて終わりである。これが韓国映画、復活の狼煙となるか。

 

3 ローマ(S)

ベネチアで金獅子賞を取っているが、ネットフリックスだけの配信である。アルフォンソ・キュアロン監督で、ぼくは「ゼロ・グラビティ」しか見ていない。さして印象に残った映画ではないが、最後、地球に戻ったサンドラ・ブロックが非常に鍛えられた、美しい身体をしていたが、それはおそらく再生するエヴァという意味をもたせたのだろうと思った程度である。この「ローマ」は、制作もネットフリックスで、ほかにコーエン兄弟の「バスターのバラード」もネットフリックスが制作で、ネット配信だけである。後者についても、のちに語りたいが、カンヌがネット映画は受賞対象にしないことと対比されて話題になった映画である。ぼくはこのレベルの映画であれば、劇場公開もしてほしいと思う。スコセッシも同ネットで撮るらしい。タイトルの「ローマ」はメキシコ近郊の町の名前のようで、さして意味がある感じではない。

冒頭からすごいシーンがある。タイルのような模様がざーっと水に洗われる。何度か繰り返すと、そこに白い四角が浮かび出る。泡の効果なのか、天井の明り取りの窓が四角く映っているらしい。その白い四角の右斜めを小さな飛行機が横切るのである! なんという奇跡のような映像だろう。そのあともざーっと水が流される。あとの展開からいえば、これは主人公のクレオが、犬の糞を洗うための水を流しているのである。そこは外部から車が入ってくるための場所で、ここがやはりのちに大事な意味をもってくる。さらにいえば、波はのちの海水浴での危険な波ともかぶってくる。

この家には妻と3人の子と2人の使用人がいる。その使用人の一人がクレオである。家主の夫はビジネスマンなのか、妻は生化学者という設定である。居間に大きな書棚があるような家である。夫が大きな車ギャラクシーで帰ってくる。家の内部に作られた車入れの幅が狭いので、ぎりぎりに通すために何度も前後をくり返す。これは明らかにいま帰った家庭での座りの悪さを表現したものだろう。のちに離婚が決まったときに、妻が酔って帰って、ごりごりに左右をぶつけるシーンがある。そのあと、気持ちが固まったのか、小型車に乗り換えて、ごくスムーズに帰還する。この車入れが非常に象徴的に使われていることと、さらに何回も同じ要素をくり返すのがキュアロンの癖のようだ。

その繰り返しを列挙すると、以下のようになる。

1 飛行機――――先に触れた冒頭のシーン、クレオの恋人フェルミンが主宰する剣術道場のゲストの頭上、クレオがマンションの階段を上がっていくとき(大型ギャラクシーでの最後の遠出海水浴のあと)

2 移動撮影―――クレオたちが街へ映画を見に行くところ右から左へ、信号で左から左へ切り換わる、避難場所でのピクニックは左から右へ、街路でのテロを左から右へなどなど

3 声、楽隊―――つねに何らかの声が聴こえてくる。ラジオ、街の言葉、銃声など。楽隊は最初と最後を飾る

4 死――――――冒頭でクレオを彼女が仕える家族の最年少の子と仰向けになって死んだふりをする。あとは、街の中の銃撃戦の死、死

クレオフェルミンと性交渉をもち、懐妊する。産むと解雇されると恐れるが、夫人は一緒に病院まで行ってくれる。のちにテロ部隊が激しく活動するなか産気づき、病院に入るが死産。そのまえに病室の窓から外の銃撃戦を見ているときに室内に入ってくるテロの数人。追ってきた人間を殺し、引き下がるが、その一人がフエルミンだった。彼は日本びいきで、剣術の稽古では「いち、にい、さん」と号令をかける。クレオとのセックスのまえに、フルチンで素早い剣術の型を見せる。クレオの妊娠の告白を聞き、彼はすぐに姿を隠す。そして、別の町で数十人の会員をもつ剣術道場の経営者になっている。あとで認知を求めてクレオがやってくるが、「この使用人め」と言って拒絶する。

離婚を決意した主人の妻が、避難先で海水浴をしたあと、夜の食事のときに、再生を宣言する。翌日、また浜辺に。しかし、波が高く、水際で遊ぶように母は言って、車に(?)いなくなる。クレオが女の子を連れながら、簡易休憩所に右から左へと戻りながら、右の方にいる男の子2人にさかんに注意の声をかけるが、とうとう危ないと見て、海へと走り始める。大波に2人は飲み込まれ、クレオも危なくなるが、どうにか助け、砂浜で抱き合う。そこに母、そして女の子もやってきた、抱き合う。クレオは「欲しくなかったの。生まれてほしなかった」と泣く。死産だった子のことである。抱き合った子どもたちが、「クレオが好きだ」と言う。

 

3 トゥモウロー・ワールド(D)

キュアロン監督である。まえに途中で見るのを止めた映画である。ほとんど既視感の映画。荒涼とした未来世界、反政府軍と政府軍の戦いが描かれる。その間に、子どもが生まれない世界でただ一人子どもを産んだ女を、主役クライブ・オーエンが守り抜く。味方も敵も、乳児の泣き声に戦闘を止める。キリストの再誕を言いたいようだ。原題はChiidren of Men とストレートである。 「キンキーブーツ」のキウェテル・イジョフォーがすごく痩せている。

 

4 エル・スール(T)

ビクトル・エリセ監督で、文芸座も珍しく若い女性が多い。冒頭、窓の明かりのなかで女性が目覚め半身を起こし、カーディガンのようなものを着る。不思議なことに、その肩に窓からの光が来ていない。やがて暗くなり、ベッドの据えられた壁の模様が光に浮き出してくる。そんな照明のいたずらでこの映画は始まるが、劇が進んでも、そういう小細工はやらない。物語がないし、もちろん劇的なこともない。父親の突然の自死もまるで日常のように消化されていく。その父親が目に見えて変わってきたのは、南(エル・スール)に住む女性に手紙を出し始めてからである。娘がその未知の土地に療養のために旅立っていくところで映画は終わる。

 

5 ミツバチのささやき(T)

見るのは2度目である。エリセ監督である。フランケンシュタインを実在と信じた少女の話と言っていいだろう。父親は戸外にミツバチを育て、屋内でも透明なガラスの中に飼って観察し、日記にそのことを記している。「ミツバチの精妙な働きが見える」といったようなことである。その父親の声がナレーションとして聴こえるシーンは、外から写されていて、はめこみ窓の模様がまるでミツバチの巣の模様のように見える。つまりこの映画は、姉妹の心理、行動をまるでミツバチのように観察した映画ということになろうか。

 

6 ベストキッド4(S)

ヒラリー・スワンク主演の初めての映画らしい。知らなかった。スワンクは祖母と暮らす高校生で、学校ではセーフガードのマッチョ軍団が彼女を狙っている。結局、技を磨いた彼女は彼らと戦うことになる。途中の僧院での修行中、僧侶たちがダンスを踊るシーンがあるが、マスター・ミヤギが言うには、踊りも踊れない僧侶は信用が置けないそうだ。ミヤギの家に移った祖母(代わりにミヤギがスワンクの養育係としてやってきた)からの電話に出るスワンク、恋人に電話をかけるときのスワンクがきれいなこと。短いスカート姿の彼女も。

 

7 浪速の恋の寅次郎(D)

27作目で、きわめて出来がいいし、寅が元気である。やや俯きの横顔のときに深い寂しさが見えることがあるが。松坂恵子がういういしさも残り、すごくきれいである。志摩から大阪、そして対馬へと舞台は動く。その中心にあるのはもちろん柴又である。わざわざ寅を訪ねてきた松坂は、じつは結婚の報告のために来たのだった。残酷なことをするなぁ、と松坂がいなくなったあと、2階の暗がりで寅が言う。大阪で寅とちょっとしたことがあったのである。芸者が職業の松坂は長年会わなかった弟が死んでいることが分かり(寅に勧められて会うことに決めたのだが)、その夜、仕事先の宴席から抜け出して寅の泊まり先の汚い旅館にやってくる。寅は寝ていたが起き出し、松坂が寅の膝枕で寝入る。泊まっていい、と聞いたときの、寅の驚愕の顔が印象的である。寅はそっち方面はまったくダメという設定になっている。途中までは積極的で、ずいぶん恰好をつけるのだが、ことそれに至ると瞬時に身を引いてしまう。窓辺で松坂が歌うシーンなどを見ていると、リリーとの相似を思い出す。寅と積極的に腕を組んだり、やはり寅は芸者、売れない場末歌手、ストリッパーなどにすごく親近感や安心感をもつ。自分とクラスが一緒だと思うからである。

 

8   迫りくる嵐(T)

中国映画で女性ばかり狙うシリアルキラーを扱っている。地方にある大工場の工員が犯人らしいところや、主人公が最初の現場に遅れて着くところ、その死体のある草むらには緩い傾斜を降りないとたどり着けないこと、死体がうつぶせであること、しつこい雨の中の探索など、韓国映画殺人の追憶」を思い出させるが、それよりも数年前に来たやはり中国映画のシリアルキラーもの「薄氷の殺人」にニュアンスが似ている。後者は、冷え冷え、どんよりした天気のまちが舞台(華北省)で、かなり北方だろうという気がする。石炭の産地での事件だったが、石炭を山盛りにした貨車に死体の一部が載っているなど、猟奇的な感じはもっと強かった。刑事の激しい暴力、コの字型のアパートの中庭(?)で花火がさく裂するシーンなど、映像的に印象的なところがいくつかあった。

今作には、工場労働者を突然解雇するところや、夕方になると男女がどこかしらから集まってきてダンスをする工員広場、そのあとどこかにしけこむような様子、それと工場労働者が住むコの字型のアパートの貧寒とした内部なども描かれている(中国も余裕が出てきたということか)。犯人はその工員広場で獲物を物色しているのではないか、という読みなのである。

工場の保安課の人間が主人公で、何度か優秀工員の表彰を受けていて、仲間からもその鋭い手腕を買われ、公安に出世しろ、と焚きつけられるが、男は今のままでいい、とり合わない。男が警察の、映画では公安といっているが、その手伝いをするうちに、深間にはまり、自分の恋人を犯人らしき男のいる区域に居抜きで美容院を出させ、そこに男が近づくのを監視するまでになる。女は手首に幾度か自傷した跡があり、このまちを抜け出して香港に行きたい、という。男に望みはあるか、と聞くと、男はあるが言えない、という。しかし、男もあっけなく工場を解雇されたあと、心細くなったのか、2人でどこかへ出よう、などと言い出す。

女が捜索を続ける男の意図に気づき、美容院の長椅子に座りながら、思い悩み、やおら男のリュックサックを開き、そこに入っていた日記を見つめるシーンを実にじっくりと撮るのだが、とてもいい。彼女は男に「襲われた方がよかったのか」と迫るが、男は答えない。そのあと、橋上で男と女は話をするのだが、女は自然な感じで両腕で身体を持ち上げて、欄干に座って男と対峙する。もうその時点で横から撮った映像で彼女の肩が不自然に1回揺れるので変な予感がする。別の映像を挟んだあと、彼女は後ろ向きでそのまま身を倒して自死する。まるで「オールドボーイ」での近親相姦の噂を立てられた姉の自殺シーンをほうふつとさせる。

映画の最後に、中国南部で発生した大寒波の影響で、1億人に影響が出た、などと説明が出るが、としたらこの映画は南部で撮られ、しかも実話ということになるのだろうか。雨が降りやまず、いかにも寒げな様子なのだが、さて?

 

9 アリー(T)

スター誕生のまたしてものリメイク。登りゆくスターの卵と、下りゆくかつてのスターの対比がこの映画の柱なのに、ほとんどかつてのスターが嫉妬をしないのでは、劇が成り立たない。自分の生育の過去に悩んでいては、嫉妬にまで行き着けない。レディ・ガガホイットニー・ヒューストンよりはうまい。監督はブラッドリー・クーパー。もし自分で歌っているとしたら、うまい(あとで実際に歌っているらしい、とYoutubeで知った)。

 

10 プレディスティネーション(S)

こねくり回しすぎ。リインカーネションの複雑版。イサーン・ホーク、サラ・スヌーク。サラはジョディ・フォスターにそっくり。

  

11 man on fire(S)

この映画、前に見ている。デンゼル・ワシントンが元優秀な軍人(?)、いまは私立ボディガード。メキシコである家の少女を守ることに。大した裕福でもないが、周りへの手前からボディガードを雇う。心傷つき、アルコールに浸り、自殺さえ考える男が少女(ダコタ・ファニング)に癒され、生きる望みが湧いてくる。その少女が誘拐され、必死で奪還しようとする。

ワシントンはいくつかこういう映画を重ねることで、イコライザーに至り着いたということなのだ。イコライザー3がやってくるらしい。慶賀にたえない。

 

12 サスペリア(T)

「君の名前でぼくを呼んで」(ぼくは未見)の監督が、若き頃に見て感動したサスペリアをリメイクしたという映画である。ぼくも1977年以来の再見ということになるが、なんだかこけおどしに付いていけず、途中で退散。

いくつもおかしなところがある。初めて館に来たとき、なにか音がして、壁をさっと見るシーンがあるが、意味不明である。あるいは、一か所、急な寄りの映像を撮るところがある。ほかで使わないので不自然である。あとで起こる残酷シーンの映像を先に早回しで見せるところは、なんだかなあ、という感じである。ドイツの過激テロ組織バーダー・マインホフの事件を絡めて描くが、事情を知らないとその結びつきがよく分からない。マインホフが女性で、それが館の呪力の源泉であるマザーとダブらせてあるわけだが……。

ぼくが唯一見ていられる怖い映画はやはり「キャリー」だけかもしれない。

 

13 マスカレイド・ホテル(T)

楽しく見ることができた。テーマ音楽がよろし。木村拓哉の演技が劇が進行するほどに少しずつ落ち着いていく感じがあった。しかし、せっかくグランドホテル形式をとっても、一人ずつ容疑者もどきが処理されていくのでは、緊張感が生まれない。ほとんど推理に絡んでこないからである。ホテルという仕事の説明が多すぎる。それと連続殺人が個々にバラバラだったという絵解きは最大の弱点だろう。しかし、現場には共通に暗号が残っていたわけで、真犯人はなぜ自らが知らない殺人の現場にそれらを置き残しておくことができるのか。

  

14 ジョン・ウイック2(S)

再見である。今回の方が落ち着いて見ることができた。キアヌ・リーブスの運動神経のなさそうな、腰高の、足をちゃんと上げない歩き方が、かえってその後の激しい動きとの差が激しくて、薬味のように利いていいのである。しかし、余りにも闇の世界の話だということになれば、荒唐無稽が過ぎて、リアルさがなくなってしまう。もちろん3が楽しみだが。

  

15 七つの会議(T)

半沢直樹のテレビ版監督TBSの福澤克維が監督である。まるで漫画。この人は映画は撮るべきではない。登場人物もほぼ一緒で、新鮮味がまったくない。なかでオリエンタルラジオの藤森慎吾、それに世良公則が印象に残る。藤森は単純な役だが、よく演じている。役者でやっていける。世良はなかなか気づかない変貌ぶりで、最後に役者名をチェックして確認したほどだ。彼の生命はこれで伸びたことになる。

主役の野村萬斎も漫画。なんだかキャラクターを完全に間違っている。ビジネスの上で人を殺す結果になった罪の意識がない。

  

16 I Saw the Light(S)

ハンク・ウイリアムスというカントリーソングのヒットメーカーの伝記、といっても29歳で心臓病で死んでいる。6年ほどの活躍で1100万枚を売り上げている。本当にカントリーソングである。高音と裏声を交えて歌う。なぜ彼がそれだけ絶大の人気を誇ったのかは、映画からは分からない。トム・ヒドルストン主演、妻役がエリザベス・オールセン。すごいニセ医者に動物に投与するような薬を処方されている。背中がものすごく痛いという。タイトルは彼のヒットソングから。主の光を見た、という意味。

 

17 ファースト・マン(T)

ララ・ランドの監督デミアン・チャゼルと主演ライアン・ゴスリングのタッグである。月面に降り立ったアームストロング船長は寡黙なのか中身がない人間なのか、このドラマの中では後者というしかなさそうだ。というのは、第1回目の宇宙への旅立ちに際して息子たちに言い残さなかったからだ。今度も、月面を目指すというのに無言で行こうとするのを、妻が諫めて子供に向かわせる。ところが、テーブルに着いても、息子たちに質問をさせるだけで自分からは何もいわない。こういう人間でないと宇宙になど行けないのかもしれないと思うが、映画の主人公として魅力に欠ける。

 

18  眠る村(T)

東海テレビ名張毒ぶどう酒事件を扱ったものである。犯人と目された奥西勝は再審請求が9次に及び、獄中で死んだ。一番最初の津地裁は無罪、名古屋高裁で死刑、最高裁で確定。7次請求で名古屋高裁は再審決定したが、検察の控訴ですぐにひっくり返った。弁護団がつねに新しい科学的根拠をもって再審の扉をたたくものの、司法は自白に重きをおいて翻ることがない。人は簡単にやってもいないことを自白することを判事が知らないとしたら、不勉強としかいえないし、そうでなくても検察側の論証が穴だらけであることは、ふつうの頭があれば分かることである。

一つ気になることがあるとすれば、妻と愛人が死にそうになっているときに、なぜに奥西氏はぼーっと突っ立ったままだったのか。反射的に体が動かないものか。逆のこともいえる、彼が真犯人であれば、わざと目立つように妻の救護のふりをするだろうということである。まえにも書いたが、彼と妻の仲は事件前には修復されていたらしい。

 名張村は事件後北と南に分かれたまま。奥西氏の2人の子はほかへ引き取られていった。墓も近隣の人のいじめにあって移動することに。事件現場にいた人、そうでない人、奥西がしゃべったのなら、それでいいじじゃないか、誰かを犯人にしないと収まらなかったのだから……というのは、余りにもむごい。訳知りの村人が、奥西は学歴もない、分家で発言権もない、友達がいない、女性問題を抱えていた、とマイナスばかりの条件を覆すのは難しかった、と言うが、ではプラスの条件を揃えた人間は村にどれだけいるというのか。ナレーターは仲代達也で、まえにやはり東海テレビ制作で奥西に扮したことがある。司法もまた「眠る村」であるという主張は、ちょっと見えみえで、恥ずかしくなる。

 

19 レオン(D)

もう何回見たかしれない。これまでに触れなかったことを記していこう。レオンは成熟度でいえば12歳のマチルダに及ばない。マチルダはダメな父親、その後添い、能天気な姉に邪険にされながら生きてきて、ある種のしたたかさを身に着けている。レオンは文字が書けないが、マチルダは書ける。新しい宿のポーターに、レオンは父親でなくて愛人などとうそをつき、驚かす。レオンに殺し屋家業入門を断られたときに、やおら拳銃で窓の外にぶっ放したり、小さなチンピラたちにたかられたときに、10ドルのところ100ドル渡して黙らせるなど、度胸が座っている。2人で押し込みをやるときも、初めから機転が利いている。ビルの屋上からライフルを使う時も、押し込みでインクの入った偽の銃を撃つ時も、実に落ち着いたものだ。友達はみんな好きでもない男の子にバージンを捧げているが、私は好きな人に、と思っていると言うときの冷静な口調もまた大人びている。 どこかでこれと同じ感覚を味わったことがあるな、と考えていたら、ボグダノビッチの「ペーパームーン」を思い出した。あれも齢の離れた男女が主人公で、少女がませていて、父親かもしれない男の聖書売りの巧みな手伝いをする。違うのはそのイフの父親が女に手を出すのが早いということである。齢の差と中身が逆転しているので、ロリコンにならない、とトミヤマユキコが女子大生家政婦を扱った漫画について述べているが、それと同じことがいえる。

 

20 パルプ・フィクション(T)

何度か見ているが、やっと構造が単純な映画であることに気が付いた。最初のレストランのカップル強盗のシーンから別の殺しのシーンへ飛び、そこからはずっと時系列でものが進み、最後に冒頭のレストランに戻る、という構造である。シチュエーションの中は言葉、言葉で、しゃべりまくる。そして、行動を起こすときは早い。ファミリーレトスランでのティム・ロスと女との無駄な会話のあとの強奪蜂起、エゼキエル書の一節を読み終わったあとのサミュエル・ジャクソンとトラボルタによる殺害、トラボルタとユマ・サーマンの中身のない会話のあとのダンスコンピテンス、掃除屋のハーベィ・カイテルの理論立った指令のあとの実にプロらしき手早い処理――その強弱で映画ができている。蛇足でいえば、冒頭のタイトルバックのときにベンチャーズ風の曲が流れ、途中でブチッとターンテーブルの針を持ち上げたときの音がして、急にアップテンポの今風の音楽に切り替わるのも、同じ緩急の例である(最後のタイトルロールでは、ベンチャーズ風の曲で通している)。緩い部分が長いだけに、そのあとのスピーディな展開が利いている。一人だけ、落ち目のボクサーのブッチ(ブルース・ウィルス)だけが、言葉の量が少なく、行動の量が勝っている。彼はだからこそまんまと八百長の世界から抜け出すことができた。彼の愛人はディスコミュニケーションの人で、ブッチが盗んだオートバイに乗ってエンジンをふかしているのに、なにかとりとめのないことを言って、気が急いているブッチを焦らす。ここにも別の意味の緩急がある。

それと、くり返しが3つ。トイレとエゼキエル書と秘密である。トイレは、どちらも緊迫したときにたまたまトイレに入っていて、出てきたら殺されたというものである。トラボルタはこれで呆気なく死ぬ。エゼキエル書は最初の殺害と、ティム・ロスカップルの蜂起の場で唱えられる。秘密は、ヤクでぶっ倒れたユマ・サーマンが付き添いのトラボルタに内緒にしてくれと言い、その情夫というかやくざのボス・マーセラス(ヴイング・レイムス=ミッション・インポッシブルでおなじみ)が変態の男2人にかまを掘られたことをほかに漏らすなとブッチに言うシーンである。ブッチはボクシングの八百長試合から逃げたことは、これでチャラにさせられる。円環構造の映画は、こういう細部によって建造されているといういい例である。

 

20  フォーカス(S)

2度めである。前にはそれほどの評価ができなかったが、今回、とてもウェル・メイドな感じがした。コンゲームなのに恋愛が中心にあって、それがしかも仕掛ける犯罪に大いに絡んでくるのである。これを前には見逃したわけで、コーンゲーム好きなのに恥ずかしい限りである。だいぶ冒頭に父親との確執を言っていたのが、最後の仕事に利いてくるか、である。ということは、その時点ですでに視聴者への仕掛けはすんでいたわけで、こりゃやられたね、である。ウィル・スミス、マーゴット・ロビージェスが主演。

日本で土地取引の見事なコンゲームがあったが、あれを映画にしてほしい。 

 

21  ビール・ストリートの恋人たち(T)

初っ端の俯瞰のシーンからシックな映像で始まる。まるで日本の秋の風景のよう。左画面を覆うように秋の紅葉のような木の葉が映り、その下に上方から恋人2人(キキ・レイン、ステファン・ジェイムズ)が現れる。意外性があり、しかも差別の構造を静かに撃つ映画にふさわしい。

こんな言い方が許されるのかどうか分からないが、本作は黒人映画のエポックになるだろうと思う。白人警官によるでっち上げを扱いながら、あくまでヒューマンに仕上げていく感じは見事である(黒人暴動の最中に白人警官が黒人をリンチにした件を扱った「デトロイト」が従来のティストである)。それでいて浮っついた感じにならず、抑制が利いている。一か所、音楽が派手になったときに、ああこの映画も変質するのかと思ったが、そうはならなかった。well-madeも極まれりという出来である。監督バーリィ・ジェンキンス、「ムーンライト」でアカデミー賞を取っている。ブラッド・ピットが制作陣に名を連ねている。原作はjames BaldwinのIf beale street could talkで、これもBeale Street Bluesから来ているらしい。

 

22 輝ける人生(S)

老いて夫の不倫に遭い、長らく無沙汰をしていた奔放な姉の元へ。そこで昔プロにまでなろうとしたダンサーの夢が立ち返り、好きな男性もできて、という映画。姉は結局がんで死んでしまうのだが。その姉役のセリア・イムリーがかわいい。「カレンダーガール」に出ていたらしい。妹の彼氏となるティモシー・スポールがいい。「否定と肯定」でちゃちな「ユダヤ人虐殺はなかった派」の学者を演じていた。彼は認知症の妻のために家を売り、施設に入れ、自分は川に浮かべた舟で暮らしている。イギリスには川舟で暮らすことは、ごく普通のことだ。ユアン・マクレガー主演の「猟人日記」を見よ、である。姉妹が汚い川で泳ぐシーンもまたイギリスらしい光景である。イギリスの役者では女優ではエマ・トンプソン、男優ではビル・ナイに指を屈する。監督はリチャード・ロンクレインで、今回が初めて。

 

23  アリータ(T)

ジェームス・キャメロンの映画を見るとは思わなかった。ひたすらアクションムービーを期待したのである。しかし、ものの見事に裏切られたというか、自分が悪いのである。アニメの実写化でありながら、主人公が逆にアニメ化されている映画なのだから、肉体によるアクションなど期待しても無理だったのである。それにサイボーグだらけでは、アクションが成り立たない。

筋的につながりの悪い部分もある。一度参戦したローラーボール(?)に、再び挑む動機がなくなっているのに(天空都市に行くには資金が要る――それ自体が天空都市の神話化を促進するための嘘だった)参戦してしまうところ。冒頭、ドクターの看護師が自分の住むアパートのドアを開けたときに、振り返って不審なものを見たはずが、あとで触れられない。

次回、乞うご期待、と終わるなら、最初から「アリータ1」とか出すべきである。どうせ次作はヒットしないと思っているのだ。出来からいっても、そうである。 

 

24  僕の帰る場所(T)

日本に難民申請するも受け入れられず、不法滞在をする家族が、とうとう居たたまれず父親を残して、ミャンマーへ母と男の子2人が帰り、上の子が現地になじめず、家出をし、1日経って戻ってくる顛末を追っている。明らかに素人を使っているのが分かるし、役所に書類提出するのに、無職と偽っているところなども写しているので、ドラマだと分かるのだが、なんだかドキュメントを見ているような気になってくる。というのは、日本語がたどたどしいのは当たり前と思って見ているので、それが芝居のまずさとは感じないのである。かわりに子どもたちは日本語が上手で、ミャンマー語ができない、という設定である。筋はさすがに素人を使うのでこざかしいことはできないが、それでも最後までじっと見ていることができる。じゃあ、ストーリーとか役者とは何なのか、と言いたくない。男の子2人はミャンマーで生まれて、現地の政情不安から日本へやってきた、という設定である。これを見ても分かるが、移民受け入れ枠を拡大するとなったものの、10年に滞在を延長した場合に、家族をどうするか、という問題が切実になってくる。短期滞在に比べ格段に家族をもちたい、あるいは家族を呼び寄せたい、という思いは強くなるはずだからである。そういう問題提起の映画なのだと思う。監督は藤元明緒

 

25 ノーカントリー(S)

3度目である。あまり前の感想に付け加えることはないが、牛の脳天に金属をぶち込んで死なせる道具を見つけたことが、この映画の発想の元にあるのではないか。主題は、歯止めのきかないアメリカの暴力の荒地である。それを常にコーエン兄弟は扱ってきたが、これが一番冷え冷えとした世界になっている。終わりは短編のような感じで、トミー・リー・ジョーンズの独白もさして重たい意味を担わせているわけではない。ただ、死んだ父親が夢で歩く自分を追い越し、牛の角に火を入れそれが月のように光り、先方でたき火をして待っている、というイメージからは、なにか荒廃とは違った昔の面影が主張されている。このはっきりと明示しない抑制の利かせ方は恐ろしいほどである。よほど観客の理解度を信頼しているのであろう。

 

26 津軽のカマリ(T)

竹山とその弟子が主に彼のことを証言する。「かまり」は津軽の言葉で匂い、空気のことらしい。最晩年、青森県小湊の夜越山温泉での演奏では三味線を支えていることができず、音も出ていない。二代目は女性で10年近く青森では演奏ができなかったらしい。地元が継承を認めなかったということか。盲人の男性は門付けをして、「ぼおさま」「ほいど」と呼ばれ、盲人の女性は魂寄せの「いたこ」となったという(篠田正浩監督「はなれ瞽女おりん」では、盲人の女性が三味線を弾いて馴染みの家々に呼ばれている)。「ぼおさま」は坊様、「ほいど」は乞食である。映画では差別の対象だったと説明されていたが、坊様の言い方からもわかるように、そう一面的な存在ではなかった。ふだんは差別される者が祭りや告別の場などで特別な扱いを受けたことも確かである。そこに芸能の力があったわけである。ぼくは女性の「ほいど」さんが鉦をたたきながら経文(?)をとなえ、家々でお米などのもらい物をしながら門付けしているのを小さいときに見ている。母は乞食然とした女性に差し出された小さな皿に恭しくお米を載せ、手を合わせ、何かを唱えていた。だからぼくには「ほいど」には尊敬の思いもあるのである。もっと探れば、寺の建立などで寄進勧進に回った坊さんなどに起源を発するのではないだろうか。映画で「いたこ」が、神社の階段下などに集って、茣蓙の上で相談者に魂寄せしている姿には、いつも胸を撃たれる。死者と魂の交換ができるという素朴な思いをもっていることが尊いのである。この映画会は最後に津軽三味線の合奏と韓国の民謡歌手がアリランを歌った。そのアリランの歌声と太鼓の空打ちのような微妙なアンサンブルは、古色をたたえて心に響く。

 

27 チャック(S)

映画「ロッキー」にはモデルがいたらしく、その実話である。ヘビー級ボクサー、チャック・ウェブナー。「ロッキー」ではかなり低位のボクサーで、イタリア系に設定されているが、もう少しでベルトに手が届くという、非イタリア系の白人である。もともと遊び人の要素があったが、アリと戦って15ラウンドまでもったことで天狗になり、しかも映画化で舞い上がってしまった。不思議なことに契約金なども一切貰っていないという。主役がリーブ・シュレイバー、よく見かける役者さんだが、この映画での作り込みは、前髪も剃ってまるでいつもの様子と違っていた。芸域の広い役者なのだ。 制作と脚本もやっている。

 

28 グリーンブック(T)

イタリア系のナイトクラブの用心棒リップと黒人のエスタブリッシュ・ジャズマン「ドク」がディープサウスを演奏旅行する。下層白人が黒人に仕え(といっても、無軌道なことをしでかすが)、黒人は南部で散々に差別される。そこから2人の関係が変わっていく。演奏家として呼びながら、外にある木造の簡易トイレを使うように言われたり、警官に理由なく牢屋にぶち込まれたり、予想内のことだが御難続きである。

 カーネギーホールの上に住む黒人で、まるで王様のような身なりで暮らしている。母親にピアノを習い、5歳でロシアに修行に行かされる。彼はきれいな英語を話し、マナーに厳しく、ブラックミュージックにはまったく疎いし、フライドチキンも食べない。リップが、あんたより俺はブラックだ、というと、ドクは、自分がどこに帰属しているのか分からない、と憤慨しながら告白する。

この映画の中心にあるのは、アメリカ的な文化からはぐれた、極めて人工的な黒人がいる不思議さである。彼がディグニティやグレースを白人に求めるという逆さまの構図になっている。この映画を「ドライヴィング・ミス・ディズィー」の焼き直しと言う意見があるらしいが、ぼくはそうは思わない。雇われ運転手の性格がまったく違い、雇い主もかたや南部の金持ち老婆(といってもキング牧師の説教会に出かける自由主義者ではあるのだが)、かたや差別を受ける黒人のピアニストである。

我慢を重ねて南部の気取った上流階級を回る2人だが、最後の会場ホテルで、粗末な物置きを控室にされ、レストランにも入れてもらえず、とうとう初めての公演キャンセルに。2人が出かけたのは黒人専門のバー、そこでドクはリップに促されてジャズを引きまくり、大喝采

 8週間の旅に出るというときに、ストリートで妻が見せる悲しげな表情がいい。用心棒をビーゴ・モーテンセン、ピアニストをマハーシャラ・アリが演じる。実在のリップは、のちにナイトクラブ「コカパバーナ」の支配人になる。その息子がこの映画の製作、脚本を担当。監督はピーター・ファレリで、喜劇の監督らしい。「メリーに首ったけ」を撮っている。本年アカデミー賞の作品賞、脚本賞助演男優賞(アリ)を取っている。

 

29 ストリートオーケストラ(S)

ブラジルのスラム街が舞台。神童といわれたバイオリン弾きがオーディションで緊張のあまり弾けない。生活の資を稼ぐために町の子に演奏を教えるが、みんな家庭環境が酷烈である。それでも音楽は彼らを癒し、育てていく。一人の青年は、俺にはモンスターが巣くっているが、音楽でどうにかなだめている、という。結局、主人公はオーディションに受かり、子どもたちも見事なアンサンブルを見せるまでに成長する。

 

30  ブラック・クランズマン(T)

スパイク・リーの映画はほとんど見ていない。なぜ引っかかってこないのかよく分からない。見たのは、ドゥ・ザ・ライト・スィング、マルコムX、25時だけである。この映画もアカデミー賞に絡んで、グリーンブックを彼が批判したから見ようと思ったのである。

少なくともこの作品の質はよくない。ポリスのなかに人種の融和があった、という設定の映画で、それはよく撮れているのに、最後、デモに殴りかかった現実の白人主義者の映像を流し、余計なトランプの映像まで流すのは、映画としてのまとまりがなくなっている。本編通りに進めば、ほとんど批判したグリーンブックと同じテイストである。そこまで監督は来ているわけで、むかしの尻尾にまだ未練があるのが、恥ずかしいくらいのものである。設定自体はものすごく面白い。黒人集会のシーンで、一人ひとりの顔を闇に浮かび上がらせるべタな演出を見たときに、ダメ映画だなと思ったが、それからはまあまあの出来である。一度、KKKに顔を見られた黒人警官の主人公が、敵地に乗り込んで誰も気がつかないなんてことがあるのか。替え玉作戦がばれたのに、ユダヤ人警官に身の危険がまったくない、という設定もおかしい。

 

31 素晴らしき哉、人生!(S)

フランク・キャプラ監督で、1946年の作、ぼくは2度目である。キャプラは「オペラハット」「スミス都に行く」を見ているが、「或る夜の出来事」は見ていない。3度アカデミー賞に輝く、職人気質の監督である。

この作は、ディケンズ守銭奴スクルージに悪夢の将来を見せて悔悟に導くのと逆で、羽根のない天使が、主人公ジェームズ・スチュワートがいなくなった不人情で冷たい世界を垣間見せることで、自殺を思いとどまらせる。

ぼくは前は注意をしなかったが、彼は住宅金融専門会社を親から継いだ人で、家を建てるのに必要なお金を持ち合わせない貧しい人々に貸付する仕事で、街を牛耳るグリードな奴に抵抗する。その守銭奴はいまの金儲けだけのアメリカ的な資本家を思い出させる。実際に、刻苦勉励しない貧しい人間を甘やかせるな、的なことを主人公に向かって言うシーンがある。貸家に住まわせてずっと家賃を取り立てたほうが、資本家にはいいのである。本当は住専とは、福祉的な理想をもった組織であり、何を間違ってバブル期にあんな醜態を演じてしまったのか。

 

32 タリーと私の秘密の時間(S)

シャリーズ・セロン主演、3人の子持ち、大いに太っている。新生児にとうとう音を上げ、ナイトシッターを雇うが、これが完璧。しかし、子どもを置いて飲みに行こうと誘うまでになる。酔った帰り道に居眠り運転、川に落ちるが人魚となったベビーシッターが救う。こりゃスリラーかと思ったら、なんとファンタジー。ひどい映画もあったものである。セロンの映画はけっこう見てるほうだ、これが最低だろう。

 

33 ナチュラ(S)

2度目である。レッドフォードが35歳でプロデビューする野球選手を演じる。ロバート・デュバルが彼のブランクの理由に気づきながら、それを記事にしないのは不自然である。キム・ベイジンガーが美しい。彼女と付き合い始めたら愕然と打撃が振るわなくなるが、どうしてなのか。むかしの恋人グレン・グロースが現れると持ち直す。いったいなぜなのか。

 

34 多十郎殉愛記(T)

ラスト死闘30分!という宣伝はウソである。殉愛とうたっているが、それも怪しい。剣の達人がなんで刀を振り回すだけなのか。捕り方の頭領に負けるより華々しく死ぬラストの方がいいのでは? 逃げながらあかんべーをするのは間違っているのではないか。役者連中の声が細いし、身分の割に大声を出したり、着物の襟がゆるくなっていたり、なんだかな~である。中島貞夫はなぜこんな映画を撮ったのか。高良建吾はいい役者だが。多部未華子が立派な下半身で納得である。中島が何を言おうと、時代劇素人の山田洋次のほうが断然、映画はいい。小さいころ、刺す又や打ち縄、大八車で体の動きを止められる映像に身震いしたものだ。夢にまで見てうなされた。今回もそのシーンがあったが、あまり怖くなかったのが不思議である。

 

35 31年目の夫婦喧嘩(S)

倦怠期の熟年夫婦が、妻の先導でセラピーを受けて、関係を改善していく話である。メリル・ストリープ、トミーリー・ジョーンズ。ベッドを共にしないと離婚理由とされるというアメリカだが、ここに出てくる夫婦はまるで日本の夫婦のよう。スティーブ・カレルがカウンセラーである。

 

36 バイス(T)

ときおり挟まれる語り手の映像。この普通の人は何なのか、というのがかなり後半まで分からない。あとは大した仕込みのない映画である。行政からも議会からも離れて大統領は一元的な権力をもつ、とするディック・チェイニー副大統領は息子ブッシュ以上の力を発揮する。彼はイラク侵攻も信念に基づいてやったことだ、あの時点でそれをしなかったらどうだったんだ、国民の意思ではないか、と引き下がることはない。飲んだくれて大学を放り出される人間がここまで登りつめる。長女が下院選に出馬するために、同性愛否認に回る。同性愛である妹を切り捨てることをチェイニーが許したのである。自分の師であるラムズフェルド国防長官を切り、イラク侵攻をためらうパウエル国務大臣を強いて国連でイラクを攻めると発言させる。ただのサンピンにすぎない男をテロの首謀者に祭り上げ、イラクを攻めているあいだにおしつが肥え太り、ISの成立へとつながっていく。アグレブでは凄惨な拷問が繰り返され、一般市民の電話、メールが盗まれる。初めて自国内で大きなテロを受けてアメリカは自制を失ったといえる。強者の意外な弱さである。

 

37 記者たち(T)

かなり観客が入っていた。公開されてからだいぶ経つが、とても心強いことである。新聞などで継続的に関連記事が出ているからだろう。アメリカでこの種の政治の実態を抉る作品が続けてやってきているが、これはトランプ政権がインスパイアした現象だろう。自分の利益に合わない報道はすべてフェイクと言い放ってしまう人間が、大統領という絶対的な権力をもつ地位に居座り続け、司法妨害の事実が明確でありながら、訴追も弾劾もされないのである。

イラク開戦が欺瞞に満ちた根拠で始められたことは今となれば周知のことだが、当時、たしかな証拠もないのにフセインの悪逆が声高にフレームアップされているうちに戦争が宣言された。アルカイダの話がイラク侵攻へと転換しつつあるな、と思った感覚が残っている。

アメリカの大手新聞がイラク大量破壊兵器を持っている、と雪崩をうって報道しているときにひとりカリフォルニア州サンホセにあるナイトリッダー(創設者の名を併せている。映画の舞台はそのワシントン支局だが)という連合新聞社だけが孤高を守った。

その秘密は、ローカルなメディアのために、エスタブリッシュの情報に触れることができなかったことが大きいのではないか。本来逆のはずだが、ディック・チェイニーのような脱法的な人間が巨大な権力をもって事に当たると、マスコミは意外とたやすく政府の言うことに巻き込まれていく。ニューヨークタイムズも、イラク核兵器を持っているという致命的な間違いを犯すが、これは政府のリークにのったせいである。もともと大手メディアは政権にものすごく近く、親密な情報をふだんから入手できる特権をもっている。いみじくも、ナイトリッダーの記者は「戦争に送り出す両親の位置」に身を置いて報道していると言っている。

監督ロブ・ライナー(編集長?で出演)、主人公は2人の記者でウッディ・ハレルソン(大活躍である)、ジェームズ・マースデン(Xメンに出てるらしい)、ハレルソンの妻がミラ・ジョボビッチ、マースデンの恋人がジェシカ・ビール、古手の戦場記者がトミーリー・ジョーンズである。ロブ・ライナーはとみに社会問題を扱いはじめているのではないか。

 

まさに自由の国アメリカここにあり、という映画である。イラク参戦を決断したブレアはいまでもエスタブリッシュ不信のタネをイギリスに撒いたと指弾されている。分厚い調査報告書が3次にわたり出されている。しかし、わが日本ではなんの検証もされていない。兵士が何千人と死ぬ(やられたほは何十万と一般人が死ぬ)国との違いだろうか。あるいは、マスコミのなかに反権力の気負いが弱いのか。ある映画作品を作るのに陰に陽に圧力がかかって大変だった、と言いながら、なにも中身で権力を撃っていない、そういう映画しか作れない日本とは何か。

 

38 シンシナティ・キッド(S)

何度目だろう。何回見ても飽きが来ない。きっとマックイーンの押さえた演技がいいんだろうと思う。もちろん、エドワードGロビンソンのザ・マンもいいし、デカ鼻のカール・マルデン、レディ・フィンガーのジョーン・ブロンデルもいい。監督のノーマン・ジュイソンは何といっても「夜の大捜査線」である。ぼくはリバイバルで見ているのだろうと思う。あとは「華麗なる賭け」で、やはりマックイーンである。「屋根の上のバイオリン弾き」は食わず嫌いで見ていない。

緊迫場面で、一人ひとりの顔に円形の照明を当てて、「ザ・マンが負ける」とささやき合う感じを出すところなど、わざと古風な演出をしている。 愛した女アン・マーグレットのためにいんちきをしでかすカール・マルデンがいることで、劇が締まってくる。マックイーンの恋人がチューズディ・ウエルドで、生彩がない。「波止場」のブランドの恋人役に似ている。

 

39 オールド・ボーイ(D)

見る映画がないと見る映画で、もう何回になるだろう。また引き込まれるように見てしまった。今回はextra versionも見て、美術の女性のこだわりにびっくり。悪者ウジンの世界に主人公が取り込まれているということで、そこらじゅうに市松模様バージョンが張り巡らされているのだ。たしかに、オ・デスが犬になってウジンの靴をなめるときに、ウジンが口に当てているハンカチと、ミドが目の前にしている箱が同じ模様である。あとオ・デスの爆発する髪型が決まった段階で映画のテイストが決まった、という面白い証言をしている。漫画的、無国籍、やりたい放題、といったニュアンスだろうか。美術の女性が、人の言うことなんかに惑わされず、作りたいものがを作る、その大事さを学んだ、と言っている。いい話である。

それで本編のことだが、うかつなことに一番大事なことを見落としていたことに気がついた。ミドの名前を聞いてなぜオ・デスは娘と分からなかったのか。素人の女性が別の名前を名乗るわけがないわけだから、ミドは実名なはずである。こういうことを見逃すとは恥ずかしい。

 

40  RBG 最強の85才(T)

ドキュメントである。アメリ最高裁判事10人のうちの1人である。クリントンが何人か断られて指名したのが、ルイス・ベイダー・ギンズバーグ、RBGである。彼女のほかに保守の女性が一人いたが、その判事がのちにいなくなったので、RBGはかなりウィングを左にもっていき、評決のバランスをとるようになった。それで余計に名をなすようになったようだ。

トリアス(悪名高き)RBGといわれるらしく、それはラッパーの名称から取っているという。それについてどう思うか、と聞かれて、「光栄よ、それにブルックリン生まれが一緒」と応えている。いまや彼女をあしらったTシャツ、マグカップなどが売られて、人気だという。彼女の評決への反対発言の一つひとつが報道される。そのことが大事なのだといっている。

男女の賃金格差是正、女人禁制の軍の門戸開放、育児する男性への補助の獲得、女性および男性の権利を、法の下の平等という考えから勝ち取っていく。

憲法がすべて拠って立つ基盤だが、最高裁判所が頻繁に憲法判断の場として活用されているさまは、驚くばかりである。われわれはこのように最高裁判所を使ってはいないし、最高裁判所はつねに憲法判断を保留してきた。

 

RBGはチャーミングな女性である。声は小さく、会議で発言せず、恥ずかしがり屋である。ハーバード在学中に夫に出会い結婚、夫は有名な税務関係の弁護士に。ずっと妻の才能を信じ、彼女の援護に回ったユーモアあふれる人だった。RBGは保守側の人間とも付き合い、何かは親友と呼び合う仲の最高裁判事もいる。トランプが大統領候補のときに、かなり辛辣な発言をしたらしく、あとで謝罪をしているが、大好きなオペラに登場したときには、またやわんわりとトランプらしき人物へのあてこすりをやっている。

 

映画内で反対判決の録音テープが使われているが、向こうでは公開が原則のようである。これは日本でも導入すべきことではないか。それにしても、最高裁判事がスターになるというのは、日本では信じがたいことである。

 

 41 暁に祈れ(T)

どういうわけかイギリス人のボクサーがタイで試合をしている。薬物接種ということで収監され、3年ぶちこまれる。隣の人間と折り重ならないと寝られないほどの悪環境である。牢名主がいて仕切っている。みんな刺青がすごい。牢内はしごき、殺人、強姦、収賄、博打、何でもござれである。レディボーイの慰問があり、主人公との愛もある。彼はムショに入ってもクスリを止めることができない。娑婆にいたときにボクシングのアドバイスをした少年が面会にやってきたことで改心し、ムエタイを始める。ムエタイをやる囚人はほかのそれより待遇がよくなる。彼はムショ対抗試合に出て勝ちをおさめるが、血を吐いて入院する。監房に戻ると、面会人がある、という。ひさかたぶりに会う父親である。そこで映画が終わる。実話らしく、a prayer before dawn というのが原題で、同題の本がベストセラーになったという。その面会に来た父親が原作者本人であると種明かしされる。格闘技と思ってみたら、獄中ものである。

 

42 運命は踊る(S)

久しぶりに映画を見た気分になれた。イスラエルの映画である。映像がきれいなのとユーモアと残酷とがないまぜになって静かに劇は進行する。いくつかのものが対称的に配置されている。

  1 部屋の抽象画と戦場のライトバンのボディに描かれたポップな女性の顔

  2 老人たちのダンスと戦場での若者のダンス

  3 父親ミシェルが見せるスクエアなステップと息子が戦場で見せるフォックス

    トロット

  4 部屋の丸窓から見える鳥の群れと戦場の双眼鏡から見た鳥の群れ

  5 夫が熱湯で焼いた手の甲と妻がたわしで傷つけた手の甲

  6 俯瞰の映像が部屋の中でも戦場でも繰り返される

  7 息子ヨナタンの死を知らせに来た兵隊は父親に定期的に水を飲め、と繰り返 

    す。戦場の若者たちも泥の水たまりに何度か足を入れる

戦場といってもただだんだら模様の踏切とライトバンと兵士が寝泊まりする小屋があるきりで、のんびりしたものである。小屋はどういうわけか徐々に傾いていて、しまいには床の穴から水が漏れだしたりする。缶を転がすと、ころころと転がる。

踏み切りに車が差し掛かると免許証を預かり、なにかデータと照合し、問題がなければ通らせる。中年夫婦がやってきて、車の外で待たされたあいだに、大雨が降る。男はなぜかうれしそうな顔で茫然自失の太った妻を見つめる。

あるいは、酔った若者4人がやってくる。免許証は問題なし。それを若い兵士が戻そうとすると、わざと下手に受け取り、車の下に落ちる。兵士がまた車の窓の隙間から渡そうとすると、車のドアが開き、細い缶が転がり出てくる。手榴弾だ!の声に若者4人は銃殺される。しかし、その缶はただの飲料缶だった。

上層部に連絡し、その上官の判断で事件はもみ消すことに。ブルドーザーがやってきて、若者たちを乗せた車を持ち上げ、掘った穴に落とし込む。その絵をヨナタンは描くが、同じ絵が父母のいる家にも飾られている。夫に向かい妻が、「ブルドーザーがあなたで、車が私」と言い、夫はその逆だと言う。

ヨナタンがしきりに書いているのが、嫣然とほほえむ女の絵だが乳首の部分にバツが描かれている。それは、父親の若い時のエピソードにちなんだものだ。ヨナタンは笑い話にして、ほかの3人の若者に語る。父親ミシェルは代々受け継がれてきた大事な聖書を売り払って、女性の裸が写った雑誌『プレイボーイ』を買った。表紙の女性の胸は隠されているが、なかの写真は露出。聖書ではなく、その雑誌を戦場に行く息子に譲った父親。息子の部屋で机の中を何気なく見ると、その雑誌が入っていて、彼は卒倒する。ここにも部屋と戦場の連関性が描かれている。

 

一度死んだと報告のあった息子が誤報で生きていることが分かったわけだが、父親が息子を戻せ!と言ったことで、運命が暗転する。帰郷するはずの車のまえにラクダがやってきて、よけた拍子に車が横の斜面に落ちてしまう。本当に息子が死んだのである。この知らせを聞いて、父親と母親は精神を正常に保って行くことができるのか。

 

あなたはいろいろ自分で決めてきたが、実は弱い人だった、と妻が言ったところで、アルボ・ペルトの「フュア・アリーナ」がかかる。この出合いはガス・ヴァン・サントの「プライベート・アイダホ」以来である。

 

この映画監督サミュエル・マオズはただものではない。この映画は自らの経験に基づいている。いつも寝過ごしてタクシーで学校に行く娘を叱り、バスに乗らせた。ところがそのバスがテロに遭う。絶望の淵に沈むが、娘が元気に戻ってくる。目的のバスに乗り遅れたという。ほかにも自分の戦争経験から撮った「レバノン」という映画があるらしい。

 

43  奇跡のチェックメイト(S)

ウガンダの少女がチェスで世界大会で勝つまでに成長していく物語である。国内でも良家の子弟が通うアッパークラスの世界がある。そこに行くのに参加費も高いし、食事のマナーから躾けないとならない。それを勝って、次は全アフリカ、そしてロシア大会へ。スラムに住む人々みんな、指をパチンと鳴らすのに、上からふりかぶるようにやる。それが身体言語としてアフリカ共通のものなのかどうか。

 

44 バスターのバラード(S)

 

本作は6つの短編の集まりである。バスターのバラード、アルゴドネス付近、食事券、金の谷、早とちりの娘、遺骸。コーエン兄弟がネットフリックスのために撮った映画である。長編作家が淡彩の短編小説の味わいのものを書いた、という雰囲気だが、コーエン映画では「ウァーゴ」「ミラークロッシング」「ノーカントリー」の次ぐらいにくる出来である。ユーモアと残酷がずっとコーエン兄弟の本道だが、残酷度が増しながらフェアリーな雰囲気を崩さない、その力量には魂消る。ネット配信でこれが慣例化されれば、監督は長尺にするために苦労をし、受けを狙って余計なものを差し挟んで、観客の入りを気にするあまり主題がぼやけることもなくなる。とても結構なことである。

 

6編ともそれぞれ味わいが深いが、ぼくは「早とちりの娘」に指を屈したい。つぎは「遺骸」そして「バスターのバラード」である。「早とちりの娘」は吠えまくる犬が筋を転がす最適な役割を演じている。結婚の確かな当てもないのに、それを目的で移住する娘が主人公。一隊の若きリーダーがいろいろ親身になって相談にのってくれるうちに、彼女に恋をし、おれもそろそろ定住の暮しがしたいから結婚をしてくれ、とプロポーズする。彼女は承諾する。ある日、犬が吠えるので、隊から離れて好きなように吠えさせようとする。そこに心配で年寄りの隊長がやってくる。やがて遠くに人影が見えて、それがインディアンであることが分かる。隊長は、なにかあったら額を撃って自害をしろ、と拳銃を彼女に渡す。敵に撃たれて死んだかと思った隊長が実は偽装で、最後の敵をやっつける。娘が隠れている場所に戻ると、娘は額に穴を空けて死んでいる。隊に戻る後姿の向こうに若い隊長が馬に乗って待っているのが見える――それでジ・エンドである。「遺骸」は幌馬車のなかの4人の会話だけで成立しているスリラーで、緊迫感がすごい。「バスターのバラード」は底抜けに明るい。人に殺されても幸せそうに天上へと向かっていく、このヌケ感はコーエン独特なものだろう。

ぜひともこの映画は単館ロードショーでいいから公開してほしい。絵もきれい、軽さもいいし、役者もみんなきちんとはまっている。

 

45 パリ、嘘つきな恋(T)

監督主演がフランク・デュボスク、テレビのコメディアン出身らしい。49歳という設定。女優がアレクサンドラ・ラミー、デュボスクのとぼけた感じの秘書がエルザ・ジルベルスタイン、これがズレていていい。会食でお酒が入るほどにキキキと笑い、話すネタがきわどくなっていく。楽しい映画で、つい笑ってしまうところもある。ただ、意志の強いアレクサンドラが前の恋人の誕生日に、彼の働いているところまで花束、シャンペンとキャビアを持って行った、というのは嘘っぽい。それに、デュボスクに「私は尻の軽い女ではない」と言うのもキャラクターに合わないのでは?

 

46 小さな恋のうた(T)

 沖縄の高校生が音楽バンドを組み、東京に行けるぞ、となったときに交通事故でリードギターが死亡。ひき逃げ犯人はどうやら米軍人らしく、ゲート前でデモが繰り返される。兄のあとを妹が継いでバンドは再結成。その兄が米軍基地の女の子と鉄線のフェンス越しに付き合っていたこともあって、その妹、バンドのメンバーとも知り合いに。再結成ライブには来れなかったが、そのフェンスの前で演奏し、自分たちの曲を焼き付けたCDを手渡す。主演佐藤勇斗、山田杏奈(藤崎奈々子似)、監督橋本光二郎、「羊と鋼の森」を撮っている。リードギターの姿が幻と分かるまでが、モタモタしているのと、その役者の演技がくさい。ぼくはこの手の映画に弱い。泣き通しである。音楽はMongol 800(モンパチ)という沖縄のインディーズグループの曲で、「小さな恋のうた」はミリオンセラー、Don't worry Be happy、Sayonara Doll(米兵が異動のときに別れの言葉を記したものを人形に巻き付ける)、あなたに(これは有名)、などいい歌が流れる。 主人公の青年の母親が見たことがあるな、と思いながら見ていたら清水美沙だと気がついた。だいぶ様子が違っているが、ある種の高貴さはある。

 

47 裸の銃を持つ男(D)

 

有名なコメディシリーズである。スラップスティックといわれる類いではないだろうか。とにかく笑える。ジム・キャリーの笑いが異質であることがわかる。すべてが過剰である。捜査に入ったオフィスで証拠となる書類を見つけるが、暗くて読めないのでライターで明かりをとりながら読むが、メラメラと燃やしてしまう。それがカーテンに火がつき、大きな絵画が危ないと壁から取り外すが、バタンと倒れてテーブルの上の置物にぶつけて破ってしまう。オフィスは火の海である。こういうことを全篇にわたってやるわけである。本人はいたって真面目で、イギリスのMr.ビーンの味わいに近い。もちろん「裸の銃」は男性器のことで、けっこう下ネタも多い。レスリー・ニールセン主演、女優はプリシラプレスリー! でミシェル・ファイファー似である。監督・共同脚本がフランク・ザッカー、喜劇ばかり撮っているが、ぼくはこれが初見。

 

48 聖なる鹿殺し(D)

 

原題はa sacred deerと犠牲になるものは単数である。コリン・ファレルが心臓外科医で、酒を飲んで手術をする癖があり、それで一人の人間を殺してしまう。それの報いを受けるという話だが、超常現象だから無理な筋も仕方がない、と思って見ている段階で興味がなくなる。復讐をする超能力の少年がなにかネィティブ・アメリカンっぽい風貌である。それがミスティックに映る。コリン・ファレルは一本調子の演技で、かえって子ども2人の演技のほうが細やかである。ニコール・キッドマンは相変わらすおきれいで、冒頭のシーンで、夫に「全身麻酔?」「イエス」のあとに下着姿で仰向けにベッドに横たわるところは、期待をもたせる運び方だが、あとがちっとも面白くなくなる。

 

49 大人の恋はまわり道(S)

 

キアヌ・リーブスウィノナ・ライダー、やたらしゃべりまくる映画である。ライダーは久しぶりで、たしかアル中の、万引き常習犯ではなかったか。お歳を召された。

 

49 チョ・ピロの怒り逆襲(S)

 

イ・ソンギュンというのが悪徳刑事役。初めての役者さんだが、印象がいい。声も太くて魅力がある。

 

50 コンフディデンスマンJP(T)

 

テレビでやっていたものらしい。幾度も香港富裕令嬢を引っ掛けようとして餌撒きするが、その時点で正体がバレるレベルの仕掛け。30億の金でその令嬢の元夫に翻意を迫るが、あとでその30億を超えて回収できると、どう踏んだのか。なんだかコンゲームの真似ごとを見ているような映画。

 

51 蜘蛛の巣を払う女(S)

 

最初の2作を期待して観た「ミレニアム」シリーズだが、そのあとのフィンチャー物も気に入らず、やっとこのフェデ・アルバレスで我が意を得たり、という感じである。スリラーを撮っている監督のようだ。製作にフィンチャーが回っている。ずっと弛緩なく見ていることができる。リスベストを演じたクレア・フォイがいい。彼女を「ファーストマン」で見ているが、絶対にこっちのほうがいい。ソダーバーグと撮っているらしいので、それも観たい。Netflixにも作品があるようだ。チェックである。

 

52 シンゴジラ(S)

タイトルのシンは不明のようだ。庵野秀明監督、主演長谷川博己石原さとみ。進化しながら東京を壊すゴジラ、最初の顔がまぬけで、こりゃゴジラはあとで出てくるんだろうと思ったら、見事に般若のようなゴジラに変身する。そのまぬけの様子は才気を感じる。政治とゴジラの戦いだが、米政府・米軍への屈辱を自衛隊とはぐれ者研究家集団が晴らす、という設定は月並みだが、映画的ではある。ぼくは小さいころ、なんでこういう化け物が東京を壊しちゃうのか、それをなぜに映画にするのかが分からず、それでいて映画が始まると熱狂的に見ていたことが思い出される。この感覚は未だに残っている。本多猪司郎には戦後の虚栄を破壊し尽くそうとする意思があったらしいが、その使者として原爆の化け物をもってきたところに、複雑なアイロニーが包含された。だれもその謎を十分に解きえていないのではないだろうか。この映画もまた。

 

53 その怪物(S)

馬鹿らしい映画だが、韓国らしさが溢れている。残酷な暴力とユーモアである。それだけで作ったところがあって、最後まで見てしまった。モンスター役は、その顔かたち、目の鋭さ、痩せぎす、すべてアジョシの悪党の弟役とそっくりである。この映画でも弟役だが。拾い子がモンスターと気づきながら育てた母親がいまは傾きかけた料理屋をやっていて、この母親のいけすかない感じはgoodである。どこかしら齢をくった浅田美代子に似ている。

 

54 true ditective(S)

アマゾンの連続刑事ものだが、出色である。「キリング(アメリカ版)」を超える。絵がきれいなのと、ある種の哲学的な問いかけがある。プロデューサーに主演2人が付いていて、ウディ・ハレルソンとマシュー・マコノミーである。今まで観た刑事ものの最高峰かもしれない。現在まだ3作目なので、このあとどうなるか分からないが。アメリカの連続ものは急に方向性がおかしくなることがままあるから要注意である。HBO制作。

 

55 恐怖の報酬(T)

アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督のイブ・モンタンを起用した1953年が最初で、そのリメイクがウィリアム・フリードキンの77年の作である。フリードキンはやはり「フレンチコネクション」である。何度観たか分からない。モンタンの「恐怖の報酬」は3回ぐらい見ている。このリメイクも、ロイ・シャイダーの起用で覚えている映画だ。彼はひところよく出ていて、ベトナム帰還兵の映画も封切りで見に行った。

パレスチナでテロをやったパレスティナ人、パリでビジネスに失敗した男、アメリカで教会から金を盗んだ男、元ナチス党員がボリビアで出あい、危険なニトロの運搬に高額報酬に目がくらみ、手をあげる。出発間際に党員は殺され、かわりにパレスチィナ人を追いかけてきた殺し屋が運転手を務める。あとはハラハラドキドキの繰り返しだが、あまりこの4人の特徴が絡んでくる劇になっていない。なんのためにこの4人をわざわざここに、という映画である。

 

56 私が殺人犯です(S)

この犯罪物が意外と面白い。大事な設定の根本が怪しいという問題があるが、楽しく見ていることができた。でも、なぜに時効のすんだ犯人をおびき出す意味があるのか。伊藤英明がなかなか渋い。仲村トオルが線が細いが、あとで野太い感じなる。これが演技だとしたら、よくやった、である。韓国映画「殺人の告白」のリメイクだそうだ。監督入江悠

 

57 新聞記者(T)

なぜ主人公を日本語の拙い韓国女性にしたのかが分からない。劇がまったく進行しないし、深まりもしない。これで日本の何を抉ったというのだろう。内閣調査室もチンケな部屋で、泣きたくなる。アメリカのニュース社ものを続けて見てきているので、余計につまらなさが目に付く。ジャーナリストたちの推薦の言葉は華々しいが、いったいこの映画の何を褒めるのか。朝日では秋山登という評論家がべた褒めで、脚本がいい、と言っている。さてさて。

 

58 続・座頭市物語(S)

森一生監督で、絵の構成がいい。これで何度目かになるが、飯岡助五郎を下から上へ斬ったところで突然終わるのが、また格好いい。田中徳三の「悪名」でもそういうシーンがある。水谷良恵が本当にきれいだ。初期の座頭市は本人の意志に逆らうように人斬りに落ち込んでいく。六道輪廻の世界である。途中、平手三樹と釣りをした池が出てくるが、モネの絵のよう。魚、ピンピンと跳ねる。

 

59 不良探偵ジャック・アイリッシュ――死者からの依頼(S)

ガイ・ピアスがなかなか渋い。最後まできちんと見ていることができる。女優に少し魅力が乏しいのがマイナス。テレビ・シリーズらしい。

 

60 true ditective2(S)

 第1シリーズは大満足で終わった。最後に流れたThe Agony River by Hatman feature Father John Mistyはいい。全体の音楽はT.Bone Burnetで、Leonard Cohenに感じが似ている。

2シーズンはテイストの違う始まり方をしている。コリン・ファレル、レイチェル・マクアダムズなど役者が豪華なのは踏襲されている。第2は政治の臭いが濃い始まり方だ。さて、どう出てくるか。コリン・ファレルの抑制の利いた演技がいい。冒頭のタイトルバックは古いのか新しいのか分からない、007で見続けた映像である。

 

61 ガール(T)

 ベルギー映画。ダンサー志望のトランスジェンダーが悩み、最後に決断し実行し、女性性を得た感じで終わる。「リリーのすべてThe Danish Girl」のエディ・レッドメインよりもっと美しい。映像はリリーの自然描写がとてもきれいだった。ダンスのシーンで軽いめまいを覚えた。武蔵野館のスクリーンは観にくいので、いつもどこに座るべきか店員に聞くことにしている。

 

63 ベイビー・ドライバー(S)

なかなかおしゃれな映画で、最初はミュージカルっぽいテンポと映像で始まる。全篇、音楽が鳴りっぱなしである。それは犯罪ドライバーのベイビーが、つねにアイポッドを聞きながら生きているからである。ひと仕事が終わってメンバー分のコーヒーを買ってアジトに戻るベイビー、音楽に合わせてステップを踏んだり、楽器屋前でペットを吹くまねをすると、ちょうど手のあたりに店頭に飾られた楽器がはまる、といった演出をやっている。ベイビーをアンセル・エルゴートケビン・スペイシー、ジェレミー・フォックスなどが脇を固める。ケビン、全然オーラを失っている。役者名が若造のあとに来ていることが、そのことをよく表している。

 

64  true ditective2(S)

十分に楽しんだが、やはり1には敵わない。テイストを変えたのはよく分かる。3はアマゾンではなく別の動画サイトのお試しプログラムになっている。なんでそんなことを、である。コリン・ファレルの間抜け顔が、この映画にはまっている。

 

65 イップマン外伝(S)

たしかイップマン2の悪党のスピンアウトである。かなりの身体技なのに、ワイヤーロープでがっかりである。香港は対イギリス、日本の設定ができるから、ドラマが作りやすい。イップマンファイナルが今年やってくる。

 

66 存在のない子供たち(T)

舞台はレバノンらしいが、よく分からない。シリアからの難民かもしれない。貧乏人の子だくさんで、産んだままほっぽり放しである。妹が11歳で結婚させられたことで少年は家を出て、遊園地の清掃で働くエリトリア人女性の赤ちゃんの世話をすることで、ひとときのアジールを得るが、女性が不法滞在で強制収容され、彼がひとりで面倒を見ることに。結局、その子を養子に売り、トルコかスウェーデンに逃げるために、なにか自分を証明するものがいるというので家に戻ると、妹が死んでいることを知り、相手を刺して刑務所に入る。刑務所の中からテレビに電話し、親を訴える、と言う。裁判所で裁判官から望みは何かと聞かれ、彼らにこれ以上産まさないでくれ、と訴える。少年はずっと世の中の理不尽を静かな目で見つめ続ける。まばたきもしないで。

最後に、自己証明のための写真を撮るときに、笑え、といわれる。死亡証明書じゃやないぞ、といわれた瞬間、ほんとうに子供らしい笑顔になる。それが救いである。

あと、シリア人向けの救援物資を貰うのに、会話の練習をして出かけ、赤ちゃんのためのミルクなどを貰ってくるところも、救われる感じがする。

息をひそめるように、じっと見届けた映画である。「キャラメル」を撮った監督らしく、ぼくはそのCDをもっている。ナディーン・ラバキーという女性監督である。遊園地のメリーゴーランドの上に偉丈夫のような上半身だけの女性の像が載っていて(戦争への応召を喚起したノーマン・ロックウェルの絵の主人公のよう)、それの胸をはだけておっぱいをむき出しにするシーンは面白い。それをエリトリア人の女性がビルの上から見ているのである。この遊園地のシーンを過剰にパラダイスにしなかったのは、正解である。

エリトリア人の彼女は赤ん坊をトイレの中に隠して、ときおりミルクをやっている。スパイダーマンと知り合いだという駐車係のおじいさん(スパイダーマンの恰好だが、胸にゴキブリが描かれている)と、そのそばでトウモロコシを売っている老婆、じつは男性が、身なりをきれいにして、少年の身元保証人になるために役所?で面接するシーンも面白い。このあたりのユーモアは得がたいものだ。きつい世界から脱出するのに遊園地という異世界はありかもしれない。

 

67 女神の見えざる手(S)

2回目である。ジェシカ・チャスティンの画期となった映画ではなかったか。誰かのサジェスションでこの映画に出ることを決めたのではなかったか。やはりよくできている。全体がコーンゲームなのである。サム・ウォーターストンとアリソン・ピルは、TVドラマ「ニュースルーム」でも同じような会社幹部と現場という関係を演じている。銃規制法案を勝ち取ろうとするNPO主催者がマーク・ストロングで、印象に残る役者である。

 

 68 シャーロックホームズ1(S)

 映画館で見る映画がないと、ネットで見ることになるが、ここにもいい映画がない。よって前に見た映画をまた見ることになる。この映画は4回目か。やはり古典を極めて現代的に蘇らせた手腕はすごい。ガイ・リッチー監督で、尖った映画を撮る印象の監督である。

同時進行、予見、そして事件のあとの解説、いくつもの時間軸が、見事な時代考証のセットのなかで繰り広げられる。ホームズ同性愛説をうまく使いながら引っ張っていくのもいい。ぼくはこの映画をいったい何回見ることになるのだろうか。残念ながら、2作以降は見る気になれない。それを考えると、007がもっていた意味がよく分かる。ダニエル・クレイグのあとに女性セブンという話だが、本当か?

 

69  ピッチ・パーフェクト(S)

封切りで見なかったのは、3まで来ると出来が分かるからである。ましてミュージカルの3など予想がつく。しかし、この3はイケる。このシリーズから3人の女性が主役級に育ったが、それが鮮明に出た映画ではないだろうか。阿保みたいな映画だが、それがミュージカルの本領である。

 

70 工作(T)

久しぶりのファン・ジョンミンである。彼の作品は10作は見ている。この映画、彼のキャラクターがよく出ている。コミカルと真面目が同居している。緊迫度ありの映画だが、あとで高官同士の取引になるのであれば、なんで細々とした画策などやっていたのかということになる。キム・デ・ジュン大統領阻止のために北朝鮮に行動を起こさせる理屈がいま一つ分からなかった。ラストの場面、やはり南北は和解したいのね、である。南の政権交替に北が武力の演出で手を貸していた、というのはそれこそ実話なのか? 韓国で500万人が見たというヒット作である。ファン・ジョンミンの出る映画は当たる。

 

71 ゴールデンリバー(T)

ジャック・オーディアールという監督である。実績は申し分ないらしい。それはこの作品を見ただけで分かる。登場人物は4人、ベテラン、ジョンCライリー、その弟役のホアキン・フェニックス(彼の「マスター」は傑作)、彼らの連絡係のジェイク・ギレンホール、金のありかを指し示す化学薬の方程式を知っている科学者リズ・アーメッド。拳銃の音がリアルだなと初めて感じたのは、チェ・ゲバラを扱った2部作だった。椅子の上で飛び上がったぐらいである。この映画も、闇の中のドンパチで始まるのだが、迫力があるし、緊張も強いられる。

 

ジョン・ライリーは弟が遊蕩に溺れるときも、女も買わず、アルコールにも手を出さず、ただ娼婦を部屋に呼んで、自分のマフラーをまるでその女が恋人にプレゼントしているかのように振る舞わせる。ぎごちない女もやがて真心こめて、私の香水を含ませておいた、という自前のセリフを付け加えるまでになる。しかし、女はこんな勿体ない時間は自分にふさわしくないと言って部屋を出ようとするが、そのときその宿屋兼飲み屋兼娼館の女支配者が命を狙っていることを教える。ここの一場は、貴重なシークエンスである。

 

原題はシスターズ・ブラザーズで、まるで教会に集う人のようだ。彼らは提督(コモレード)の下で殺人を生業とする。ギレンホールは本来であれば、シスターズ兄弟に科学者の情報を流す役目だが、科学者の共同体構想にひかれる。その2人をシスターズはサンフランシスコにやってくる。人、人の流れに巻き込まれ、ホアキンが「誰もほかの人間のことなど関心がない。これだと殺し放題ができる」と大声でいう。

 

シスターズは組を抜けたことで、コモレードの復讐にあうが、風がパタと止んだように、追手がやてこない。不思議に思い、本拠に向かうが、提督は棺に入っていて、もう葬式が終ろうとしている時だった。それでもライリーは顔に何発か拳骨を食らわせ、死んでいることを確認する。

結局、彼らは母親のいるところに戻るのだが、人は自分の帰属するコミュニティを求めている、という主題の映画になるのかもしれない。余裕をもって小ネタを重ねていく手法は、コーエンを思い出させる。

 

 ひさかたぶりに良質な映画を観た、という感じである。さっそくオーディアールはゲオに2作あり、それを借りることに。そして、足りないものは中古DVDをアマゾンで購入。楽しみである。

 

72  ディーパンの闘い(D)

ジャック・オーディアールの作品である。スリランカからフランスへと逃れた反政府軍兵士と、偽の妻や娘との交情や、公団棟の管理人としての誠実な働きぶりを追いながら、そこに巣くうギャング団を避けていたものの、最後は暴力性をむき出しにする。妻が行きたがっていたイギリスに落ち着くことで終わる。途中に2回、大きな緑の葉っぱから光が洩れ、そのむこうに大きな象が動いている映像が夢のそれとして映される。手堅い作品である。

 

73 君と歩く世界(D)

ジャック・オーディアールの作品である。女優マリオン・コーティアール、男優マティアス・スーナールツ、どちらも目に特徴のある俳優である。とくにコーティヤールの目をなんと表現するのだろう。何重にも表情が重なっていて、なにもいわずにものごとを表している目である。

彼女はシャチに芸をさせる飼育員(?)だが、事故で両下肢を食いちぎられてしまう。冒頭のシーンが水中のシーンなのは、それを暗示している。マティアスはフランス北方から南方にいる姉を頼って、子連れでやってきて、ディスコの警備員をしているときに彼女と出合う。両足をなくしてからも普通に接する。セックスがしたければ電話をくれ、というタイプである。彼はスーパーなどに社員監視のカメラを取り付ける仕事をしながら、ストリートファィティングで稼いでもいる。久しぶりにディスコに行っても、彼女を置いて、そこの客とどこかへしけこんでしまう男である。

姉が勤めるスーパーにも監視カメラを付け、そこに彼女のルール違反、つまり廃棄される期限切れ商品を持ち帰る様子が映っていて、解雇され、弟のやったことだと分かり、家から追い出す。彼は北方の町でなにか再起をはかる仕事をしているが、そこに姉の夫が息子を会わせにやってくる。2人で氷上で遊んでいるときに、小用で目を離したすきに子どもが氷の割れ目から落ちる。厚い氷をこぶしで割ってようやく助けるが、昏睡状態が3時間も続く。治りかけたときに、彼女から電話があり、俺を捨てないでくれ、愛している、と言う。

 

この映画でも、この監督の暴力への親和性が見て取れる。「ディーパン」は元兵士、この映画では元ベルギーボクシングチャンピオンという設定である。強い女性も共通で、それが映画の駆動力になっている。そこにもう一つあるのが、社会性である。ディーパンにあったのは移民と貧困、この映画でも国内難民のような生活である。

 

74 マイ・エンジェル(T)

マリオン・コーティアール主演、子ども役をエイリーヌ・アクソイ・エテックス、トレイラー住まいの朴訥な青年をアルバン・ルノワール。コーティアールがダメなシングルマザーを演じる。役のうえとはいえ、神々しさがなくなっていて、残念。男を見つけると、子どもをほっぽらかして帰ってこない母親である。

その間には子どもは恐ろしいほどの成長をし、アルコールを浴び、同世代の子から浮き上がる。心の逃げ場として、高い崖から飛び降りることを生きがいにしてきた青年を見かけ、彼に付いてまわる。彼はいまは心臓をおかしくいていて、飛び降りはできない。少女は劇で与えられた主役の人魚の役を同級生嫉妬され、楽屋で衣装を破られ、芝居に登場することなく崖までたどり着く……。飛び込んだ海のなかで、彼女は劇で言うはずだったセリフを言う。小品ながら、じっくり撮っていて、好感。

 

75  エディット・ピアフ(D)

マリオン・コーティアール主演、大柄に見えた彼女がとても小さく見える。ピアフはパリの貧民窟で生まれ、母は街頭で唄を歌って日々の糊をひさぐ。父親は足技で稼ぐ旅芸人で、戦争から帰って娘が義母のもとで病気になっているのを連れ出し、ノルマンディの実家へ。そこは娼館で、赤毛のある娼婦がことのほか彼女を大事にしてくれる。ひどい角膜炎で目が見えなくなったとき、彼女たちが祈りに行くのが聖テレーズで、イエスへの取り次ぎを頼んでいる。

戦場へ戻った父親が再び帰還して、エディットを旅に連れ出す――チャップリンの幼少時を思い出させるような境遇だ。芸人というのは、こういうところから出てくる。薬と酒におぼれ、44歳ではもう老婆のような様子である。キャバレーで人気が出て、音楽ホールでのリサイタルという大事なシーンで、エディットの声が流れない。それは、復活を賭けたオリンピアの舞台もそう。音楽映画でこれはない。いちばん盛り上がるところだからである。コーティアールの美しさがまったく出ていない映画。

 

76  真夜中のピアニスト(D)

ジャック・オーディアールの作品である。主人公の父親が出てきたときにあれ?と思い、中国人のピアノ教師と出合ったときに、ああこの映画観たことある、と気づいた。情けない話で、DVDのジャケットを見たときに知っているものだったので、そこで分かるべきだったのだろう。

 

2つの偶然でこの映画はできているので、それが弱さになっている。街でまえの恩師だった指揮者を見かけ、8年ぶりにピアノへの興味が再び彼のなかに目覚める。ハイドンピアノソナタ32番が弾かれるが、これがいい。

もう一つが、その中国人のマネジャー兼恋人になった彼が、再び街である男を見つけ、殺す間際で止める。不動産売買で父親をだましたうえに殺したロシア人である。

 

いわゆる地上げ屋の話である。彼らが追い出すのは不法居住の移民である。暴力が日常となった生活である。ここにもオーディアールの2つのテーマがまた顔を出している。暴力と社会性である。

そして、まえに指摘を忘れたが、セックスへののめりこみである。これは「君と歩く世界」に顕著だったが、両脚を失くした女性がまず蘇生のきっかけをつかむものとしては強力だったということがある。だから、あまり誇大に考えない方がいいかもしれないが。ディーパンにもあったが、演出の要素という感じである。この映画では、上司のかみさんといたす最初のシーンに少しワイルドの感じがあるが、これはアメリカ映画のパスティーシュであろう。

 

珍しく母親のテーマが顔を出している。あまり才能がなかったピアニストの母親を経済的に支えたのが父親だった、という設定である。主人公にはその母親の挫折が色濃く残っている。求めていく女性にその影があるかというと難しいが。

 

2箇所、面白い映像がある。上司の妻といたしたあと、彼女がシャワーを浴びたのか部屋に戻ってくるときに、ドアのところで逆光のままで止めるシーンである。体の形はしかり見えるが、顔の表情は消えている。ここのシーンはとても自然である。

もう一か所は、窓から光が床に落ちている。細長い付箋のような赤い光である。そこに気づき、主人公が黒い革靴を移動させ、光を瞬間弄ぶのである。こんな映像は見たことがない。

 

77 ダンス・ウィズ・ミー(T)

矢口史靖のニュージカル映画である。ぼくは同監督3本目である。主演の三吉彩花が可憐で歌がうまく、踊りも上手(?)。どの踊りがいちばんよかったか、というのはないが、一か所、部屋を出て、最初に踊り出すシーンで、ビル掃除道具一式の入ったカートに乗っかり動き出したときに、カメラ位置を変えて掃除人を通過させたときに音を途切らせたのが面白い。ショットを切り替えた瞬間、まえの音に戻るのである。そのあと道具カートからモップを引き出してギターのように弾く恰好をさせるが、フレッド・アステア映画でモップと遊ぶ室内シーンがあるが、そういう軽業も観てみたたかった。

あと、自分を催眠にかけた男を探してくれるように依頼した私立探偵に動機を気づかれ、2回、短い童謡を歌わされるシーンもいい。やはり、と気づいた探偵が「マジか!」と言う。

往年の(?)ミュージカル俳優宝田明を催眠術師としてフィーチャーしたが、それは合っていたのだろうか。クラシカルではあるが、リズム感が違うから、新しい歌には合わない。伊東四朗あたりにさせたほうが、いまの観客には顔になじみがあるし、第一すごみのある顔をしているから相応しいのでは? 

 

催眠にかかっているので、音楽が鳴るとすぐに踊り出してもまったく違和感がないが、催眠はそのための仕掛けだが、ミュージカルは話の途中で踊りになり不自然と昔からいわれてきたが、そんな杞憂は不要であることが、ラララ・ランドで証明されたではないか。ミュージカルは踊りに歌と適当な筋でいいのである。日本もそこまで成熟し、ミュージカルを虚構のものと見る目が育ったのである(当のアメリカでもミュージカル映画の評価はずっと低かった)。

 

シャリ―マクレーンがボブ・ホッシーの振り付け(コリオグラフイー)について解説するYouTubeがあるが、両手の位置、指のスナップ、そして両脚の拡げ方だけで本当に多彩で表情豊かなしぐさを演出する。そういう細かい動きだけでもミュージカルはいろいろなことを表すことができるのである。身体芸というのは奥が深い。

音楽が鳴ると体が動き出す仕掛けが分かってしまうと、踊り出すまえの“溜め”がなくなってしまい、踊り出しが単調になってしまう。アステア映画を観ると、踊り出すまえにいろいろな焦らしをやっているのが分かる。いいセリフもそういう間のときに用意されている。やはりハリウッドミュージカルは神経が細かい。

 

朝日新聞が、もっと主人公の職場の軋轢を入れればよかったのに、とあほなことを書いていた。じゃああの取り立て屋3人のキャラはちゃんと立っているのかとか、最初の踊りのシーンのときに、足元の壁にタテに並列に並んだ照明を踊りの進行に合わせて付けたり、消したりしているが、その演出はいいのだが、主人公の切れのない踊りでいいのかとか、ほかにいくらもで言うことがあるだろうと思う。

しかし、そんなことを忘れて、心から楽しめました。矢口監督、ぜひずっとミュージカルを撮っていってください。全部、観ますから。

 

78 陰獣(T)

加藤泰監督、さすが絵柄がしっかりしているから、何でもあるレベルに収めることができる。ラストの朱塗りの部屋に白装束の2人など、泰さん! と声をかけたくなる。菅井きんが渡船場のトイレで、水中に目玉を見るシーンも、やりました、である。泰さんにかかれば、やくざ映画もえ江戸川乱歩も同じである。

あおい輝彦香山美子、大友柳太郎、仲谷昇野際陽子川津祐介、尾藤イサオ、などなど。あおいが動きもいいし、声もいい。主役の意味がある。香山の脱ぎっぷりがいいが、若尾文子野川由美子など、その種の女優の評価はすごく低かったものだ。若尾は川島雄三あたりに使ってもらってよかったのではないか。それにしても色っぽく、蓮っ葉な女を演じているわけだが。77年の映画で、もう少しまえあたりから何だかエログロな映画が流行り、結局は日活ロマンポルノになだれ込む。

 

79 東京裁判(T)

5時間弱の映画である。被告側に温情的な感じで撮られている。そして、強者が裁いた裁判というイメージも残る。最後に映し出される戦火を逃げるベトナム少女は、いったい何を意味しているのか。小林正樹のスタッフの証言では、反戦のイメージを込めたということになるのだが……。

 

80 ロケットマン(T)

フレディ・マーキュリーと似たような軌跡である。アメリカツアーで同性愛傾向に目覚め、愛人かつマネージャーにたかられ、ちょっと女性にも可能性があるかと結婚し、しかし同性の生涯の伴侶を見つけ……しかし、フレディはエイズで死に、エルトン・ジョンはツアーを引退し、養子2人を育てることに専念する。最後の悲劇性がクイーン映画を面白くした可能性はあるが、なにか違うことで、感興に差が開いたのだと思う。

 

フレディの歌い方にあるドラマ性みたいなものがわれわれを動かすのではないか。もう一ついえば、エルトン映画はミュージカルそのものにしたので、真実性が薄らいだ可能性がある。それと、紹介される歌の数が多すぎる。はじめてのアメリカ公演、小さなライブハウス「トルバドール」で歌うクロコダイルロックは鳥肌が立った。

 

81 フェイク・クライム(S)

キアヌ・リーブス主演、女優ヴェラ・ファーミガ(「マイレージ、マイライフ」)、客演ジェームス・カーン(老け役もいい)、フィッシャー・スティーブンス(前にも裏切りの役で見ている)、ピーター・ストーメア(最近ではTVアメリカ版「シャーロックホームズ」の兄貴役)。キアヌの演技をしているのかしていないのか分からない感じがよく出ている。彼はセリフが少ない、沈黙の俳優なのだ。ストーリーはバンクラバーものだが、キアヌの個性でヒューマンな感じがある。舞台「桜の園」と絡めるものは面白いが、うまく処理し切れていない。残念な場面がいろいろあるが、キアヌの個性がよく分かる映画である。

 

82  やっぱり契約破棄していいですか(T)

自分を殺すことを依頼して途中で心変わりする話は前にもあった。だが、この映画がおしゃれなのは、殺し屋は組合に入っていて、殺しの道具はレンタル、「こないだの武器は返した?」と事務の女性に聞かれて思い出せない引退間際の殺し屋(これが主人公が依頼した殺し屋)、月に1回は技能研修会があり、一定ラインまで人を殺さないとメンバーから外される点など(月の成績が×印で棒グラフになっている)、かなり笑わせる。

そして、もう一つは殺し屋の奥さんは引退を待ち望んでいて、趣味は刺繍で近々州の大会があってナーバスになっているのに、夫がどうも様子がおかしい。違う人間を殺したり、いつもの調子ではない。とうとう、ボスが自宅まで来て引退勧告しようとすると、夫はボスと撃ちあい寸前に。そこに彼女が現れ、州の大会で優勝したことや、夫と引退後世界一周を楽しみにしている、と言って、その場を収める。ボスがいなくなったあと、ダメだったらやってたわ、といって大きな包丁を夫に見せる(夫が青年を殺しに出かけるときも、念のためね、といって包丁を渡すが、それが彼の命を救うことになる)。そして、2人にはふつうの老夫婦の細やかな愛情が流れているのである。

主人公は7回自殺未遂で死ねなかった青年。余り死ねないので、不死身ではないか、などと言い出す。ラストシーンは、ちょっとやられた。

この小さな映画のこの出来は、うれしい。暗殺者をトム・ウィルキンソン、妻をマリオン・ベイリー、監督トム・エドモンズで、初長編映画らしい。

 

83  ワンス・アポンナ・タイム・イン・ハリウッド(T)

だましのテクニックだが、ぎりセーフか。タランティーノの映画愛を知っているからである。陰惨な事件をストップしたかったんだろう。それにしても時間を小さく刻みはじめるのは汚い! チャールズ・マンソンのコミュニティが出てくるが、マンソンは出てこない。

最初のシーン、ディカプリオとブラッド・ピットが撮影所から帰るところ。ベトナム戦争のことをラジオが報じる。その声は、サイモン・アンド・ガーファンクルの「水曜の朝、午前3時」で戦死者の名を読み上げた声と一緒では? と思う間もなく、彼らの「Mrs.ロビンソン」がかかる。ここで心が躍ってくる。懐かしの60年代の曲がかかる。プロコル・ハルム「青い瞳」、ヴァニラ・ファッジ「you keep me hanging on(元はシュープリームス)」など。

落ち目の敵役カウボーイをディカプリオが演じているが、イーストウッドの設定か。彼がセリフをトチってやり直すシーンがいい。落ち目になるほどに若手俳優の引き立て役に回されるからイタリアに行けと諭す怪しげなプロモーターをアル・パシーノが演じる。彼はディカプリオをマカロニウェスタンに送り込むが、あんなくそ映画に出られるか、と最初ディカプリオは渋る。そういう扱いだったのね、クリント・ウーストウッドも、リー・ヴァン・クリーフも。でも、そのむき出しの暴力がウェスタンを変えたのである。

相変わらずタランティーノのB級映画への偏愛は変わらない。それをワンス・アポンなこととして撮るから、メタB級になっている。

シャロン・テートを演じたマーゴット・ロビーディーン・マーチンと出た映画を観に行き、客が喜んでいるのを見て、自分も喜ぶシーンがいい。彼女は「フォーカス」もよかった(勝気のオリンピックスケート選手も演じていた)。ブルース・リーがこけにされているが、これは実話? ちょっとというか、すごく悲しい。テートは彼からカラテを習っている。

ブラッド・ピットは脇で楽にしているときのほうが、いいのではないか。製作をした「それでも夜は明ける」で地味な脇をやっていたが、この人はすごいな、平気で脇に回るんだ、と思ったものである。これから主演映画が2作来ることになっている。

「ハリウッド青春白書」のルーク・ペリー(どこに出ていたか分からない)、イスラム帰還兵が母国でテロを行うTVシリーズ「ホームランド」のダミアン・ルイス(スティーブ・マックイーン役)、カートラッセルなど多彩出演。

ナレーション、文字による進行表示、古臭いタイトルバック、ベタなカメラワーク、そして下手くそな音楽使用、緊迫の映像にもっていくまでの焦らし――タランティーノである。しかし、今回は過剰なセリフがない。

 

84  トリプル・スレット(T)

ポスターにアクション巨人の世界大会と書いてあったので、当然チケットを買ってしまた。トニー・ジャーも出てるし……。ところがどっこいである、多人種で追いかけっこするだけの映画。50分ほどで退場。

 

85 ラブストリーズ――エリーの愛情(S)

ジェシカ・チャスティン主演、ジェームス・マカボイが客演。原題はthe disappearance of Eleanor Rigby:Herで、これは女性視点、同じ題材を男性視点で撮ったのが、『コナーの涙』らしい。タイトルは最後のHerがHimになるだけ。監督はネッド・ベイソンで、実績はあまりない。チャスティンは制作側に入ることが多く、ぼくは「ヘルプ」で彼女を見てネットで調べ、テレビシリーズの制作が先だと知った。近年の強い女性の役をやっていて、見ずにいられない。この映画の彼女はぐっとおとなしめである。エリナ・リグビーの曲がかかるわけでもなく、ただちらっと部屋にビートルズリボルバー」のジャケットが見えるだけである。意外と小づくりの女性であることを知った。

 

86 暗殺の森(T)

3回目になるが、やはりこの映画は断片的にしか覚えていない。結局、名声ばかりで駄作ではないか。というのは、同性愛とファシズムを近接のものとしているが、その説明が一切なされていない。それに、暗殺の対象とされる教授の意味合いも明確には語られていない。ファシストとなった主人公の素性を知りながら、元教え子の訪問を受け入れるということ自体が不自然である。最後に自分の犯した殺人が勘違いだったと気づくシーンも、たまたまという設定だけに、映画の中心軸とするには弱い。モラビアが原作らしいが、そのあたりをどう描いているものなのか。性的な因果関係だけでは殺人までには至らない、という結論の映画であれば、ああそうなの、で終わりである。

少なくともヒトラー自身は酒も煙草もやらず、少女好きの不能者に近いのではないか。彼から同性愛を引き出すのは無理がある。ビスコンティが描く「地獄に堕ちた勇者ども」の同性愛のほうが格段にものごとを考えさせる。「暗殺の森」の1年前に封切りされれている。その退廃の度合いは比ぶべくもない。75年封切りの「愛の嵐」もやはり性と政治(ナチ)を描いている。ざっと下って「キャバレー」にも反映されているが、それは意匠として使われただけで、もちろん「地獄~」と「愛の嵐」を超えることはできない。

作中、ジャン・ルイ・トランティニャンが楽し気に笑うシーンがある。それが無邪気で可愛いのである。教授の娘役のドミニク・サンダは圧倒的である。肩幅が広く、男性的な体形で、なにくそという顔をしている。顔にそれほどの表情がないが、身体が圧倒的にものごとを語っている。

 

87  昭和残侠伝一匹狼(S)

島田省吾、その娘扇千景が可憐、許嫁が御木本伸介(絶対に堅気の顔をしている)、やはり客人役の池辺良(声が不安定で、それが不思議と魅力である)、その妹が藤純子(何髷というのか、あまり似合わない)。島田省吾が渋い。型が決まった人の気持ちよさである。藤純子がやはりきれい。言うことなし。彼女を荒くれ女のように言う人がいるが、何と無礼な。

 

88  バトルフロント(S)

2回目である。この種の爽快なアクションものがない。ステイサム兄いが元インターポールで、妻の田舎に引きこもるが彼女は亡くなり、娘と二人暮らし。護身術を教えた娘がいじめにかかろうとする肥満児を倒したことで、その薬中の母親に絡まれ、さらに悪者の兄(ジェイムズ・フランコ)まで引っ張り出す。そいつがステイサムの前歴を調べ、服役中のギャングのボスにたれこんだことで、ステイサムと娘が狙われる。とにかくやられたらすぐやり返すというパターンで、非常にスッキリする。ステイサム兄いよ、車でワイルドに突っ走ってないで、こっちに戻ってきてください。娘役がまあ達者だこと。恐れ入ります。

 

89 シークレットマン(S)

ウォーターゲートのいわゆる“ディープスロート”といわれたFBI副長官代理マーク・フェルトリーアム・ニーソンが演じている。政界は腐っていて、独立組織であるFBIがなかったらダメだ、という固い信念をもっている。その見解の妥当性を云々するほどの知見をもたない。銀髪のニーソンが老けて見える。

 

90 イコライザー(S)

見る映画がないと、無性に身体映画を観たくなる。そういうわけでまたしてもイコライザーで、もう4回目か。デンゼル・ワシントンが深夜のダイナーで読むのが、まず「老人と海」、次が「ドンキ・キホーテ」、そして「透明人間(The Invisible Man)」である。それぞれ劇の進行に合わせて選択されている。小さな積み重ねがこの映画を支えている。カメラワークもとても自然である。だけど、それは視線の在りどころをきちんと明示したうえで切り替えているので、それと気づかないだけだ。作っている当人たちは自分たちが築き上げたノウハウに気づいていないことも多く、だから大抵2作目は面白くない。それに比して「座頭市」シリーズは回が深まるほどに、盲目の剣士の個性が見えてくる仕組みなっている。あと、監督をいろいろ変えて味付けが変わることも、シリーズを長持ちさせる秘訣である。「ミッション・インポシブル」もそれの成功例である。

 

91 インターンシップ(S)

高級時計を代理営業する2人が馘首になり、googleに転職するためにインターンシップを受ける。チームを組んで、課題をクリアしていくわけだが、彼らの人間味が功を奏する。箸にも棒にも掛からない彼らを組み入れたのが主任らしきインド人。彼自身が苦労人だったことが最後に明かされる。楽しく見ていられる。ビンス・ボーンが制作、脚本、主演、相棒がオーウェン・ウィルソン

 

92 寅次郎夢枕(S)

10作目で、東大助教授に米倉斉加年、女優八千草薫。長野奈良井の宿が出てくるが、その前あたりからクラシック「四季」などがかかっている。寅が柴又に帰ると、自分の部屋が東大の先生に貸し出されている。その先生がやはり「四季」をかける。最後、寅が八千草に告白されてびっくりしたあとは、しょんぼりした彼に尺八の音がかぶさる。音楽で遊んでいる一篇である。

 

93 にっぽん泥棒物語(T)

やはり傑作であろう。もう4回目になろうか。これだけ山本監督、コミカルなものが撮れるだから、この線も攻めても良かったのはないか。じつに丁寧に積み上げてあって、最後の10分ほどの法廷場面が生きてくる。ここの笑いは、日本の映画では珍しいくらい晴れ晴れとしている。市原悦子が最初の女房役で、芸者である。夫から貰った着物を売りに出したことがケチがつくきっかけである。悪い刑事に伊藤雄之助、小さいころこの人の映画をたくさん見た気がする。青柳瑞穂、川津祐介江原真二郎緑魔子佐久間良子加藤嘉西村晃北林谷栄加藤武花沢徳衛室田日出男。なかでも潮健児の顎しゃくれの顔はすごく懐かしい。東映映画には欠かせない人だ。

 

94 タクシー・ドライバー(S)

もう20回近く見ているだろうか。今回は2箇所、トラビスが言葉に詰まるシーンがある。タクシー会社に就職の話をしに行ったときに、学歴を聞かれ、Someと言ったまま黙っている。彼には上昇志向があるということだ。だから、アッパー女性に気が惹かれるのだ。

次に、彼がボランティアを申し込んだ大統領候補パランタインをたまたま乗せたとき、支持者だと言ったところ、何を望むかといわれたときに答えられない。それで言い出したのは、街はごみ溜めだという話である。これがあとの事件でつながっていくわけだが、彼には自分の意見というものがない。

不思議なことにこのパランタインが選挙で唱えるのが、let it rule である。民主党候補だが、秩序を、と言う。きっとトラビスはここに反応したのではないか。だが、パランタイン暗殺がうまくいかず、その夜に少女アイリスを保護しに行く。政治と売春斡旋阻止が彼の中では等価になっている。マスコミはこの事件で彼を英雄にしたが、彼自身はそこに何らの感情もない。この点は評価できる。

音楽の使い方が古典的で、あれだけ音楽ライブを撮っているスコセッシは、本当は音楽に鈍感なのではないか。

 

95 ど根性物語 銭の踊り(D)

市川崑監督、勝新太郎江利チエミロイ・ジェームス、スマイリー・小原、船越英二、浜村純などが出ている。なんで変な外人ばかりなの?(悪の親玉も米軍脱走兵という設定。見たことのある外タレ)。ハナ肇宮川泰が音楽、映像が宮川一夫。多少映像的な遊びがあることと、江利チエミが意外とかわいいことが収穫か。

 

96 ジョン・ウィック3パナベラム(T)

堪能しました。2よりいい。つまり1に戻って、格闘シーンが満載。マーシャルアーツだらけで、韓国映画が手を抜いているいるうちに、アメリカに追い抜かれてしまった。本当に一話完結というよりシリーズ化してしまった。次回に続く的なエンドだから。

主席というのが闇の支配者なのに、そのうえにまだ砂漠の首長が君臨しているという構図はいかがなものか。ハル・ベリーが相変わらず元気、最初に「ソード・フィッシュ」で彼女を見たときの衝撃は今でも忘れない。

顔面近場撃ち、足技転がし、相手抱えながら乱射など、相変わらずの技が繰り出される。今回は、包丁の投げ合いっことオートバイ爆走中刺し合い、それに馬の後ろ蹴りが新しい。変な日本語の外人を使うのは、もう止めにしてほしい。それだけ、ハリウッドにアクションをやれる日本人俳優がいないということか。

 

97 アサシン・クリード(S)

なんだかよく分からないうちに終わってしまった。誰が悪なのか善なのか判然としない。マリオン・コーティアールが出ているので見た映画で、ふだんはこういう古代物および未来的テクニカル物は見ない。マイケル・ファスベンダーが何かのたった一人の生き残りで、その記憶を過去にさかのぼって、大事な秘宝を悪者が見つけ出すというもの。次回に続くらしい。コーティヤールの父親役にジェレミー・アイアンズ。息子の恋人との愛を描いた「ダメージ」(ルイ・マル監督)も26年前になる。

 

98 ジョーカー(T)

素晴らしいできだ。ベネツィアで金獅子賞を取ったのが分かる。しばらくバットマンの悪党に焦点が当たりつつあったわけだが、とうとうここまで来たか、である。ゴッサムシティは現実の街ということだ。

主人公アーサーが上半身裸で痩せているところ、そして拳銃を同僚に貰った夜に部屋で上半身裸で踊りながら、ダンスのうまい男はだれだ? アーサーだ、と自分で答えるシーン、それと同じアパートでエレベーターに乗り合わせた黒人女がこめかみに指差して拳銃を撃つ真似をするところ、これはみんな「タクシードライバー」へのオマージュである。あと、両者に共通する都会のなかでの孤独。この映画の場合は出自にまで遡ってその孤独の深さを描く違いはあるが。それに、彼をからかうためにTVショーに呼ぶ司会者がそのかつての主人公デ・二ーロと来ている。

ピエロたちの控室で後ろ姿で異様な裸の背中を見せるアーサー。この映像はかなりショッキングである。そして、自分の室内で胸をそらして踊るときも、異様な裸である。よくこの映像を思いついたものだと思う。実の母と思っていた女性の精神的な病歴、義父による虐待、社会適応できない性格、すべてマイナスに回る彼が抜け出そうとした世界は、トラビスと同じ暴力の世界である。しかし、トラビスは英雄とはやし立てられても興味がなかったが、このジョーカーは違う。トラビスの先の世界を描いたか。

ホアキン・フェニックス主演、女優ザジー・ビーツ、母親がフランセス・コンロイ、監督トッド・フィリップスで「ハングオーバー」3部作の監督である。喜劇の人らしい。ホアキンは「ザ・マスター」「ウォーク・ザ・ライン」と最近の「ゴールデンリバー」が印象的である。

 

99  プンサンケ(S)

38度線を行き来する男が主人公で、まったくの無言。しゃべれないのか、しゃべらないのか、最後まで分からない。だるい展開の映画だが、必死で南北をつなごうとする意志が感じられた。

 

100  ハングオーバー(S)

さっそくトッド・フィリップスの「ハングオーバー2」を見る。1作目は封切りで十分に楽しんでいたが、あの馬鹿げたノリで2作目はもたないだろうと思って見ていなかった。ところが、冒頭の話の端折り方、婿殿への侮辱、酔いから醒めてからからの展開の面白さ、脇役の際立った感じ、猿の実にうまい演技、異国タイにシチュエーションをとったことで異常さが許される、といったことで、この映画、イケました。しかし、「ジョーカー」を撮る監督になるとは、ちょっといまのところそこまでの補助線が見えない。ほかの彼の作品も追っかけてみる。喜劇から始まって、あそこまで行く監督はぼくは知らない。

 

101  わたしは、ダニエル・ブレイク(S)

ケン・ローチ監督である。制度の谷間に落ちたというよりは、もし描かれたものがそのまま今のイギリスであるとすれば、あまりにも非人間的な状況が広がっている。福祉を行う人間たちがルールや罰則で、救済を求めてやってくる人間を疎外する。そこにPC技術を老人に求め、意欲的な、あるいは攻撃的な履歴書を書くための馬鹿げた講座まで用意されている。医者はダニエルは心臓病で働けないというのに、それを審査する人間たちは働けると断を下す。そこで彼は異議申し立てをするが、すべての手段をネットを介してやれと無理なことをいわれる。働けないが、働く意欲を見せるために、就職活動をした証拠を見せろ、とワケの分からないことをいう。日本の待機児童問題と同じようなジレンマが用意されているわけだ。結局、彼を助けるのは、彼が助けた移民、そして貧困シングル家庭の母親である。ブリグジットを支持する背景にはこういうどうしょうもない政治の不作為が潜んでいるのではないか。名前のブレイクはBlakeだが、ぼくにはbrakeに思えた。手慣れて、静かで、丁寧で、本当にウェルメイドな職人のような映画を撮るものである。しかも、狙っているものはひりひりと現在進行形である。

 

102  蜜蜂と遠雷(T)

恩田陸原作、監督石川慶。映像不可能という宣伝文句だったが、どこが? である。演奏シーンなどだいぶこなれて見える。遠雷は途中で出てくるのだが、蜜蜂はどこかで1回出てきたが、意味は分からなかった。馬が何度も出てくるが、これの意味も分からなかった。4人のミュージシャンのなかに、黒いエネルギーの馬がいるということなのか……はてな?である。演奏シーンとその周辺に時間をほぼ使うので、4人の個性に深入りはできない。だから、映画に感動ができない。森崎ウィンとうい男優がすがすがしい。女優の松岡茉優はどこがいいのか。エン転職のコマーシャルでは結構、かわいく映っているのに。

 

103 主戦場(T)

きわめて雑な映画で、見ているのがつらい。これを右の人間が騒いだ理由が分からない。見ているかぎり、左派の旗色はかなり悪い感じがする。たくさんのお金を貰っていたからといって、強制されていたのだから、性奴隷だという論理はおかしい。国際法ではそうなっているのかもしれないが、その時点ではどうだったか、である。

まったく給料が払われていなかった、という左側の意見もある。こういう点をきちんとしないかぎり、論争は曖昧なままだ。それと、家5軒が建つぐらいの金が出ていたのはインフレ率が激しかったビルマの話で、だいぶ割り引いて考えるべき、とやはり左派は言っている。それでは、韓国の人たちは戦地から帰って、家をいくつも建てるほどに裕福だったのかを調べる必要がある。

 それと、兵員と外出することができ、買い物もできた、という点に関して、左派は不断の抑圧が強いから、たまにそうしたくなるときがある、みたいなことを言っている。ふざけた意見である。戦後の赤線でそんなことが許されただろうか。戦地で余計にそういうことは許されない、と考えるのが普通ではないか。 

慰安婦問題否定論者の女性がのちに秦郁彦南京虐殺数万人説を読んで、実際にあったことと知り、慰安婦問題も違う目で見るようになった、と言っている。慰安婦もやれば南京もやる、とはいかないものなのか。

その女性がアメリカの文書を引き、慰安婦問題は否定されている、と書いたのが拡散して、さまざまな右派が使っている、という。よく見ると、ほとんどナチ問題を扱った文書で、日本のことはほんの少しらしい。だから、どうだ、ということだが、本人は引用の仕方が間違っていた、と反省している。日本に関する小さな部分に、どう慰安婦問題はなかった、と書かれているのか、そのことが知りたい。

テキサス親父とかいうアメリカ人が出てくるが、ケント・ギルバートとも本を出しているらしい。ほぼ歴史の素人に見えるが、困ったものである。人相も悪すぎる。

 

104 ドリーミング村上春樹(T)

スゥエーデンの春樹翻訳者が、初期の「風の歌を聴け」の翻訳に悩む話である。日本にもやってくるし、友人などにも翻訳の参考のための意見を聞く。「完璧な文章がないように、完璧な孤独はない」のなかの「文章」を、1文とするかパラグラフにするかで迷っている。ドイツ人の訳者だったかは、パラフラフとして解釈する。しかし、日本人ならそれは1つの文章と考えるのが普通であろう。

さらに、バタンバタンの音が分からず、やはり知り合いの訳者に聞く。相手は、机をボールペンで叩いて、それがバタンバタンだとトンチンカンのことを言う。

我々からみればささいで、当然のことが、それを知らない人にすれば、えらく難しい問題になったりする。翻訳のギャップが見えた映画である。何人か春樹の翻訳者が集まってシンポジウムを開いたときに、アメリカ人だったか、日本語は表現がくどいので省略を心がけている、と述べている。春樹はそういうことはまったく構わないという立場である。本人は忠実に訳したいと思っているタイプではあるけれど。

最後、春樹がスェーデンにやってきて、600人の公衆をまえに翻訳者と対談をする、その前でフィルムは終わりである。権利問題かなにかか。

 

105  野良犬(S)

天才とうたわれた菊島隆三の脚本集を買ったところ、そこに「野良犬」が載っていた。読み出したら、その描写のすごさに唸ってしまった。たとえば、「炎熱にとろけたアスファルトの上に、バリバリ音を立てて、大蛇の鱗のような跡を残して行くバスのタイヤ」。黒澤は一瞬だが、その黒光りするタイヤの跡を映し出している。あるいは、「影一つない広い中庭を村上がポクポク横切っていく」。ここを黒澤は、やや深い感じの砂地をさくさくと巻き上げる革靴で表現している。その脚本を丁寧になぞる描写に、菊島への尊敬が見える。黒澤の音楽使いのうまさはつとに有名だが、緊張の場面に緩い曲をかけることが知られているが、その指定も菊島が行っている(!)。

犯人と刑事が必死に雑木林を駆ける。そのとき、「二人の間を通して、胡瓜畑越しに見える文化住宅から、変にのんびりとピアノの練習曲が聞えてくる――(改行)そののどかなメロディ――」黒澤はその文化住宅の住人が音のした方に目をやるシーンを加えている。あるいは、とうとう犯人を捕まえたときの描写。「胸から血を吹き上げるような泣き声――どうにもならぬ悔恨の中で、ドロドロになったその姿――手錠だけが冷然と光っている。(改行)しかも、そういう遊佐をとりまくものは――青い晴れ渡った空と白い雲――喋々――野の花――遠くを過ぎて行く子供たちの歌声!」すべて復員の果てに殺人に至った犯人の手にしえなかったものが描かれる。

令名の高い黒澤と組むことを誰もが望んだというが、菊島も自分が指名されて高揚した。

深作欣二は脚本を派手に直すことで有名で、笠原和夫もそれをやられて、もう二度と深作とは組まないと宣言した。ところが、「仁義なき戦い」で組まざるをえなくなった。そこでプロデューサーに釘を差したのは、脚本に一切手を入れるな、ということである。笠原は教条主義で言っているのではない。長く映画界で禄を食んで来た笠原だから、監督が手心を加えるのは必然的なことだと思っている。度を越して変えるのが許せなかったのである。

この菊島の脚本を読むと、矢も盾もたまらず、本編を見ることに。いい脚本があると、絵が撮りやすいということがよく分かる。さすがに盗まれた拳銃を探すためにバラック街をほっつき回るシーンは黒澤が緻密に演出しているわけだが、いやはや菊島先生、恐るべしである。

 

106  ターミネーター・ニューフェイト(T)

マッケンジー・ディビスを見に行ったようなものだ。お約束の登場の仕方で、最初から全裸である。未来の救世主といわれるメキシコ女性、なぜにそうなのかの種明かしがしばらくされない。早くやってくれ、とイライラ感が募る。

退屈な映画だったが、シュワッツネーガーが齢をとり、それなりに知恵もありそうに見えるのが不思議だ。前からの疑問だが、最終兵器のような敵ロボットがなぜ人間の放つ銃弾にいちいち銃創を受けるのか。そうでもしないとすぐに最強ロボットに人間が殺されて劇にならないからだが、設定自体に無理がある。これは根本的な問題である。

 

107 ルーサー・シリーズ(S)

かなり面白いイギリスのはみ出し刑事ものだが、シリーズ3で恋人ができたあたりから、全体が怪しくなり、シリーズ4はガタガタである。視聴率が悪くなって立て直す気もしなくなったか。

 

108 天使の分け前(S)

 ケン・ローチである。小品で、ちょっとしたコントを見ている感じ。最初に夜の駅のホームの酔っ払いを写し、それから裁判所の画面になり、数人に判決が下り、そこで映画の主人公が出てくる。子どもも生まれることだしということで、奉仕労働を科される。この数人がチームとなって、ぼろくなった校舎の壁塗りだとかの奉仕をする。その監督官がいい人で、彼の配慮でスコッチウィスキーの試飲会に出かけたことで、劇が動き出す。

 

109 ニューヨーク 眺めのいい部屋、売ります(S)

ダイアン・キートンモーガン・フリーマンが老夫婦を演じている。若きころの2人の様子を挟みながら、劇は進行する。もちろん人種の違いによる軋轢もあった。いま住んでいるところがエレベーターなしの5階、それが飼い犬(この犬が名演技をする)ともども上るが辛くなってきている。

フリーマンは売れない画家という設定。キートンは元教師のよう。2人のほのぼのとした感じがいい。キートンがいいと思ったことはないが、「恋愛適齢期」での彼女はよかった。それから11年経って彼女は68歳(映画公開2014年時点)。さすがにお年を召された。

 

110 ラーメン食いてぇ!(S)

モンゴルの岩塩だけが特殊で、あとはただシンプルに、ただし丁寧に仕上げた手打ち麺、チャーシュー、メンマ、それにナルトにネギというごくシンプルなラーメンをめぐる物語。せっかくの塩ラーメンなのに、いざ本番というときに醤油ラーメンが出されるという身も蓋もないことをやっている。この監督、あほか、である。このラーメンが食べたくてモンゴルから九死に一生を得て帰ってきた料理評論家が塩を頼むので、感動を2つに分けるのはどうかという深謀遠慮なのか、むだなことをするものである。主演の中村ゆりかより客演の葵わかなという女優のほうがメリハリが利いていい。爺さん役の石橋蓮司にはご苦労様と言いたい。

 

111 ブルックリンの恋人たち(S)

アン・ハサウェイがきれいすぎる。何でしょうか、この違和感は。とくに横顔が少し塔が立った感じで疲れていていい。映画の中身はさして言うことはない。登場してくるミュージシャンがみんなアンニュイな歌い方ばかり、だから立派な体格の黒人女性のシャウトするシーンは心が躍った。

 

112 秘密の花園(S)

矢口史靖監督の劇場版第2作、不思議なリズムの映画である。駄作にならないのは、そのリズムのせいである。きっとコメディをこう撮ろうという意志がはっきりしていることで、この映画は成立している。天然の女性が一つの目的のためにスキューバ、ロッククライミング、地質学に入れ込み、結局、自分は目的を追うことそのものに生きがいを感ずる人間なのだと知る。それを面白おかしく描く。決して下半身の問題にならないのも偉い。主演西田尚美、ほかに「図書館戦争」「南極料理人」「」ロボジー」などに出ているらしいが、記憶にない。客演が利重剛で、これが彼女と正反対の無目的な地質学助手を演じていていい。母親役の角替和枝、妹役の田中則子もいい。

 

113 グエムル(S)

これで3回目になるだろうか。冒頭のシークエンスが秀逸である。米軍のホルマリンが漢江に廃棄される。その空き瓶を横にずらっと写す。その漢江に2人の釣り人、腰まで浸かっている。一人がコップで何かを掬い上げる。もう1人が指を入れようとすると噛まれ、瞬間逃がすことに。コップは子供からのプレゼントだ、落としそうになった、という。コップから落ちたそれが泳いでいる、と1人が言う。次が俯瞰の映像で、橋の外縁に立っている男に雨が降り注ぐ。自殺を試みようとする男である。救助者が2人、声を掛けるが、水中に黒い大きな影を見た男は濁流の中へ身を投じる。

場面が色鮮やかになって、晴れの日。大きな頭の男が頬をつけて眠りを貪っている。ソン・ガンホで、漢江に集う人々を客とした、スルメやビール、お菓子などを売る店の主人である。女の子の声で起きるが、それが娘である。ガンホの妹がアーチェリーのオリンピック予選に出るというので、娘と2人で観戦する。ガンホの父親が、スルメを焼けと言ってくる。ガンホが足の1本を食べて、それが客にバレ、父親に言われて、もう1枚を焼きビールのサービスも付けて持って行くと、向こうに見える橋の欄干に何かがぶら下がっている、と誰かがいう。それがふんわりと水中に没し、こちらへ近づいてくる。人々は餌を投げる。それは姿を消すが、ずっと向こうから人々がこちらへ走り込んでくる。次第にその背後にモンスターが迫ってくるのが見える。

バタバタと喰人の騒ぎが写され、我が子の手を持って逃げたはずが、気づくと違う子の手だった。振り向くと、娘に化け物が迫り、尾っぽで絡めとられて、漢江に逃げ込まれる。――ここまで一気にシークエンスが展開される。見事な導入部である。

この映画、モンスターものでありながら、きわめてヒューマンな味わいをじっくり演出したことが、やはりただものではない。前にも書いたが、モンスターに持って行かれた娘をガンホ、その妹()ペ・ドゥナ、弟(「殺人の追憶」の犯人役パク・ヘイル)、父親(ピョン・ヒボン)たちと探しあぐね、小屋に戻ってカップ麺などを食べているときに、そのいなくなった子が自然と座っていて、みんなが違和感なくものを食べさせるシーンは、やはり抜群にいい。

ラスト、モンスターの口から娘と孤児を抜き出すが、季節が移り冬、降りしきる雪の中の売店。なにかファンタジーのような撮り方である。小屋の中で炬燵で食事をするのは父親とその孤児だけ。つまり娘は死んだのだ。今回、初めてそのことを知った。ポン・ジュノ監督の手腕が光る。

 

114 True Detective シリーズ3(S)

かつて有料だったシリーズ3がアマゾンでフリーになった。シリーズ2がいまいちだったが、今回はかなりシリーズ1とテイストが近い。2つの過去と現在の3つの時制をたくみにさばくが、ちょっと劇を楽しむにはうるさい感じがある。最後の種明かしを見ると、なんだそんな事件だったのか、ということになる。しかし、関連して何人かの人間は死んでいるわけで、それは余り大きく取り扱われない。

 

115 人間の街(T)

小池征人監督のドキュメント、1986年の作、サブタイは大阪・被差別部落。扱っているのは阪南更池地区、屠畜を生業とするほか様々な細工で生きる人々がいる。屠畜のオッチャン(自分でそう言う)は結婚するまで差別のことなど考えたことがなかった、という。しかし、子を成して、我が子が人を好きになったときに、わしは部落だ、と相手にいわざるをえない状況とはなにか、と問う。ふつうに出合って愛してふつうに暮らせないものか。そこまで行くために部落解放の戦いをやるという。彼のバナナのように曲がった皮剥ぎの刀は年に数本も取り換えるという。

もう一人の男は、とことん差別されたおれたちだから、とことん優しくないといけない、と言っている。一見強面だが、その口から出る言葉は清冽。表情も明るい。

同和対策審議会答申20周年記念映画と銘打たれている。

 

116 ビューティフルディ(S)

リンゼィ・ラムゼイ女性監督、ホアキン・フェニックス、エカテリナ・サムソノフ。老母と中年殺し屋の組み合わせ、今度の「ジョーカー」とも似ている。ハンマーで殺すのはアジア的、ここまで影響が来たか、という感じ。幼児期の虐待体験がフラッシュバックで挟まれる。この監督、丁寧で、映像がしっかりしていて、言葉を用いない間の取り方も、ストーリーの省略の仕方もベテラン級。この映画文法がかえっていろいろ真似されているきらいがあるかもしれない。

 

117 ファイティングファミリー(T)

原題はFighting with My Familyである。イギリスの田舎でプロレス興行をやる一家から世界的な舞台に立つ少女が出現する。一緒に技を磨いた兄はその登竜門に落ちて、妹を遠ざけるが、結局サポーターに。地元で障碍者や冴えない青年たちにプロレスを教えることもやっている。

片田舎からアメリカフロリダへ。そこに集う女たちはモデルなどの出身で、しゃべりもいい。劣等感に苛まれるが、徐々に底力を発揮する。実話だそうである。

イギリスの辺鄙なところにプロレス興行の家族がいるということも不思議だが、それが少数の観客ながら熱い支持を得ている。なにかサーカスの一座を見るような思いだ。

監督スティーブ・マーチャント(初長編監督作)、主演フローレンス・ピュー、兄がジャック・ロウデン、世界プロレスのコーチがヴィンス・ヴォーン(googleに入りたい人たちが競う「インターンシップ」に出ていた。あと何か恋愛ものに)、特別ゲストにドゥエイン・ジョンソンが出ている(アイルド・スピードの彼である)が、ちゃんと演技している。

 

118 ラストクリスマス(T)

エマ・トンプソンが脚本を書いているので見に行った。ダメでドジな女性がある青年との出合いから成長していく過程を描いて、ウェルメイドである。彼女の一家はアフガンからの移民で、母親役のトンプソンがアフガン語の歌やセリフを言う。主人公が勤めるのが中国人経営のクリスマスショップ。青年も外見がアジアっぽい。このあたりのキャスティングは意図的である。バスのなかでアフガン人が差別されるのを見て、主人公は大丈夫と声をかけたり、母親がブレグジット報道に恐れをいだく様子も描かれる。主人公が一緒に歌うためにホームレスたちをオーディションするシーンがいい。こういう小振りの出来のいい映画をいろいろ見てみたい、と思う

 

119 テッドバンディ(T)

この連続殺人犯は変わっている。殺した相手のおけつなどに噛みついている(最後、その歯型が有罪の決定打になる)。乳首を噛み切り、頭を切り落とし、内臓を破壊し、頭を太い木の棒で殴り、12歳の子までレイプしている。30人は殺しているらしい。自らの裁判で自分が弁護士となっている(途中、法学の学生のふりをしている)。ずっと付き合った子持ち女性をなぜ殺さなかったのか。

最初の夜、起きると子どもがいない。誘拐されたかと思うが、子どもの笑い声が聞こえる。バーで出会って一夜を共にした男が台所で何かを作っている。彼女が椅子に座ると、彼がコーヒーを渡す。そのときに、右手に包丁が握られている。このシーンは秀逸である。

基本的に無実を言い続ける犯人の側から描かれているので、真偽は最後になるまで分からない。子持ち女性の必死の願いに答えて、水滴で曇った面会の遮蔽ガラスに凶器の名をなぞることで、彼は自分がシリアルキラーであることを告白する。 法廷にまで彼のファンが押し寄せるほど、色男である。最後に実写が出るが、まさにそんな感じである。映画の役者よりもっと優し気な感じがする。主人公をザック・エフロンが演じる。

 

120 燃えよスーリヤ!(T)

インド映画である。かなりリズムが悪く、最後まで観ずに出ようと思った。アクション映画を撮る気がないのは途中で分かったが、ならこの映画は何なのか、である。主人公は足技が中心で、アクションも飽きが来る。女優もスタイルが悪い。お父さんが優しく、とても息子思いである。おじいさんも善人のかたまり。この底抜けの感じは見事というしかない。お決まりの踊りは最初だけ。1年最後の映画としては、ちとさみしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年の映画

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T=劇場、S=ネット、D=DVD


1 最後のジェダイ(T)
見る気もなく見てしまった映画である。第1作(第1回上映作といえばいいのか。この順番の入れ換えのために、ぼくはこの作品を追うことを止めた)にも、超未来のなかに宇宙酒場などのクラシカルな場面があったが、今回はそこらじゅうがノスタルジックだった。場面転換のために画面が一点に収束するところなど典型である。複数の話が一緒に進むのも、いまでは見なくなった進行方法である。テーマはもともと父子関係が主で、それも相変わらず輻湊されるテーマである。戦闘場面はもう目新しさよりは古ささえ感じさせる。遠い未来で人間が宇宙船や戦闘機を操作していること自体がアナクロである。敵から守るのに塹壕に兵隊が並ぶのなど、恐ろしいくらい発想が古い。作中でヒーローという言葉が使われるが、すべてがシステム化されたなかで、英雄に残されたものは、向こう見ずな勇気しかないとしたら寂しい。ぼくは未来を見ているのか過去を見ているのか分からなくなった。


2 エル(T)
昨年評判になった映画である。期待したが、妙な気分が残っただけだった。フランス人は病んでいるな、である。家内で強姦魔に襲われても、警察に届けない。過去に警察に不信感をもち、マスコミに追いまくられて苦労したからだ、という。父親が精神錯乱なのか子どもを含めた近所の人間を殺したときに、彼女は少女だったという。その経験が警察に行かせない理由である。強姦魔が誰かがわかったあとも物語は続き、結局はハッピーエンドで終わる。もって回ったけれど、どの仕掛けも利いていなかった手品のようなもの。


3 ヒトラーへの285枚の葉書(T) 
エマ・トンプソンブレンダン・グリーソン主演、実話が基になっているようだ。息子を戦争で亡くした職工長が体制批判の葉書をあちこちのビルに置く。それに妻も手を貸す、という話である。「ユダヤ人を救った動物園」でゲシュタポをやったダニエル・ブリュールがここでも悪いナチを演じている。ヒトラーものの小品である。


4 シークレット・アイズ(S)
役者が揃ったものの中身がないという残念な映画。どうなっているんでしょうか。キウェテル・イジョフォーがもて役である。ニコール・キッドマンジュリア・ロバーツが脇を固めるが、さて? ジュリアが老けて、太って、生彩がない。よくこういう役を引き受けるものだと思う。いい年で「食べて、祈って、恋をして」よりはマシか(同作はなかなか面白かったが)。イジョフォーが過去の事件を蒸し返し、空振りに終わるが、なんともはや。彼の「キンキーブーツ」は強烈だったが。ジュリアには難しい演技は期待しないほうがいい。ニコール・キッドマンは相変わらず妖艶だが、どこかマシンのような冷たさがある。きれい過ぎるからか。


5 デトロイト(T)
なぜいまこの映画なのか、というのが最初の感慨である。ドキュメントの映像を随所に挟みながら、ドラマとしてある安宿での白人警官による殺害を扱っている。その映像も既視感が強い。警官のなかで主導権を発揮する童顔の、眉の細い、目のつり上がって、口がとんがっている、キューピー髪の男は、黒人差別、レイシストを描くときのまさに定番の顔をしている。ほかの映画でも、黒人差別主義者の白人にはなにかいつも共通のものがある。それはイコンとして定着していて、その潜在意識に合わせるかたちで、それらしい役者が選ばれているのだ。ぼくはまず最初に「夜の大捜査線」の白人レイシストでそれを感じた次第。いかにも黒人を差別しそうな顔をしているのである。その伝でいけば、ゲイの役をやりアメチャンにも定型ある。のぺっとして、女っぽい要素が感じられる男優を配するのである。閑話休題。本作に戻ると、3人の警官が告訴され、うち2人は自白をするが、任意性がないということで否定され、陪審員は無罪を選ぶ。裁判所の外では黒人と白人のデモが起き、黒人を排斥する白髪の老婦人もまた“典型的”な顔と服装をしている。これもまた既視感の一翼となっている。


6 凍る牙(S)
前に見た映画だったが、最後まで見てしまった。主演ソン・ガンホ、そしてイ・ナヨンは目力がすごい。ソン・ガンホがいまいち際立つ個性がなくものたりないが、イ・ナヨンでもっている。韓国映画は脇がいい。ガンホと同年だが先に出世した男もいいし、次に班長に昇った、ことあるごとにイ・ナヨンに辛く当たる男もいい。


7 CINEMA FIGHTER(T)
川瀬なおみの名前で見てしまった映画である。短編の集合で、エグザイルというグループ関連の楽曲が最後に使われる、いってみれば宣伝映画である。短編と記憶に残るのは、川瀬ともう一つ倍賞美津子が出たやつである。川瀬のは往時の恋愛を想起する話だが、最初に荒廃した部屋が映される。そこは天文学教室だったらしいのだが、日付が書かれている。その時点で時が止まった、ということのようだが、日付を忘れたので、そこが何を指しているのか分からない。中身はふつうの恋愛もので、山田孝夫が高校生の役をやっていて、それらしく見えるからすごい。もう一つは、冷凍保存された恋人が起きてみたら、彼女が老けていた、という話。その老婆を倍賞が演じるのだが、もうちょっと“若さ”のようなものを残したほうが良かった気がする。老いを強調する意味もあったのだろうが、やりすぎである。そのあと倍賞が凍り付けになって、時間を追いかけるところは、短編の味が出ている。ほかの作品はただ映像を撮りました、という感じ。プロデューサーに別所哲也の名が出ていたが、その道に進もうということなのか。


8 スリービルボード(T)
よくお客さんが入ってました。できも良くて、きっと今年のアカデミー賞作品賞を受賞でしょう。味わいはコーエン兄弟です。余裕しゃくしゃくで進みながら、必要なことは全部、描かれている、という稀有なことをしている。主人公がなぜ娘レープ死9か月で、いつも通っている道路わきに警察の怠慢を告発する広告を出したのか分からないが、まあそれは良しとしておこう。小人に警察署への放火を見逃してもらい、デートに誘われたら、「強制的だった」と差別的なことを言う不完全な女であることもきちんと描かれているから、文句は言うまい。レイシストの警察官が退職させられ、ひょんなことから事件を解きそうになり、主人公にその情報を伝えに行ったときに、国語が弱いけどメキシコに住むよりいい、などと間抜けな話をするシーンがいい。あと、主人公が友人がパクられたので、その間、店の守番をするが、そこに不気味に脅す男が現れる。ここの威圧的で、肝っ玉がすわった狂気を見せる男の感じもいい。事件を解決に導くかと思われた警察署長がすい臓がんで自殺する、というアクシデントの入れ方はちょっと驚きである。その署長が、事件はまったく手掛かりがないが、ムショに入っているような男がほとぼりが冷めたころに、ふと俺がやったんだ、と漏らすことがある、と予言的なことを言い、それがあとで効いてくる。結局、署長の遺書で、レイシストの退職警官が、お前は本来いいやつなんだから頑張れと勇気づけられ、身を持ち直す、という設定がいい。最後主人公と2人で、実は真犯人ではないという男を殺しに行くシーン、本当にやるか途中で考えよう、で終わるが、これもやられた、である。ほとんど映画を撮っていない監督で、マーティン・マクドナー、注目株だろう。


9 キングスマン・ゴールデンサークル(T)
サービス過剰だが、面白い。ファーストを超えているかもしれない。どの映画もいまは、冒頭からとんでもないアクションシーンで観客を引っ張るが、この映画もそれ。ただ、アイデアが満載なのでOKである。悪のジュリアン・ムーアがはまっている。古きよきアメリカの町を再現しながらも、そこにロボット犬、ロボットメイドなどを配するところが心憎い。ただ人間をミンチにして、その肉でハンバーガーを食べるというのは悪趣味。「キックアス」はその悪趣味にはまって、ダメになった。敵の居場所を探し出すため、探知機を女性の※※にしまい込むが、かなりきわどい映像である。断崖の雪山のロープウエイで主人公が逃げるところで、大きく俯瞰のショットに切り換わると、おお、ジェーイムス・ボンドの世界である。ぼくらはこの大きな映像にやられてきたのである。キングスマンはボンドの現代版なのだ。洒落ていて、スマートで、粋で、かっこよくて、スピーディで。しかし、難をいえば、もう少しボンドのような皮肉の効いたユーモアの会話が欲しい。そしてエロスも。中身てんこ盛りで、2時間半。ちょっと長すぎるかもしれない。


10 アバウト・レイ(T)
原題はthree generations で、こっちを邦題にしてもよかったかも。娘が17歳にして男になろうと決意するが、父母の了解がいる。母は迷い、別れた夫(戸籍上はただの元恋人)も迷う。2人が別れたのは、夫の弟と情事をもったから。それを知った娘は自暴自棄になるが、母と父の翻意で、彼女はハッピーに。最後は、みんなで和食を食べてワイワイガヤガヤ。娘をエル・ファニング、母をナオミ・ワッツ(よく仕事をしている)、レズビアンの祖母をスーザン・サランドン、その相手をリンダ・エモンド。エル・ファニングには好きな子がいるが、そこをもう少し描いたら、もっとせつなくて良かったのではないか。あとナオミ・ワッツレズビアンであることを告白したときの祖母の様子なども知りたい。ワッツは「マルホランランド」で見事に脱いでいたので、そっちの方向に行く人かと思ったら、どんどん芸域を広げている。あとはスマートアクションと大悲恋ものか。


11 悪女(T)
韓国アクションだが、冒頭のシーンを朝日新聞が褒めていたが、ウソをつけ、である。アクションを手もとだけで撮っては意味がない。肉体があってこそのアクションである。このシークエンスは部屋に入ってから肉体が登場するから、その焦らしとして手もと撮影をしたと弁解もできるが、結局、以降も手もと撮影に終始し、しまいには拳銃パンパン、散弾銃バンバンである。この監督、女性アクションは客が来ないから、ではやってやる、と思ったらしいが、何も分かっていない。冒頭は「オールドボーイ」のワンカット撮影のまね、結婚式途中のスナイパーは「ニキータ」のまね。本当はオマージュと言いたいが、そんなレベルではない。自分の父親を殺した男がアジャシ(おじさん)だったと分かったあとで、娘と旦那が爆破で殺される前、なぜアジャシは女を救ったのか。あとで殺し合いになるのに。いい加減なことをするものである。主人公の旦那となるソン・ジュンという役者がいい。テレビが中心の役者らしいが、誠実な人柄がよく出ている。


12 ミッドナイト・バス(T)
40代後半(?)ぐらいの長距離バス(池袋〜新潟)の運転手とその息子、娘、別れた妻、恋人(30代沫)、元妻の父という登場人物の映画。ちょうど深夜バスの運行が画面の切り換えになる。自分と一緒にいると将来がだめになる、と恋人と別れるが、家族がバラバラになると、また女に戻ろうとするところで映画は終わる。いい加減なものである。新潟新聞150周年協賛ということもあって、夏祭りを映し出したり、サービスに務めている。娘が地元アイドルグループを作り、会社組織にすると宣言した後、長々とコンサート風景を映すが、必然性がない。もう一つ、最後のほうで、四隅から絵が丸くなって1点に集中し、場面転換になる、という古臭い手法を使っているが、それもそこだけの使用だから、違和感がある。義理の祖父の、父親は家族という扇の要だ、という発言は、なんだかなぁ、である。もうそんな時代ではない。それに、原田泰造のキャラとそれは似つかわしくないのではないか。長塚京三の出のシーンは、なにか平仄が合ってない。しかし、それ以後は問題なし。いわゆる知識人型の初期痴呆症の人間を演じている。その醒めた態度が好感だが、父親が扇の中心発言はいただけない。泰造は無事に演技を務めているが、息子、娘が上手で、かえってそっちが目立つ。とくに息子が達者です。


13 グレイテスト・ショーマン(T)
ラ・ラ・ランド」の制作陣が作り出したミュージカルで、ぼくは趣味的にはこっちのほうがいい。みんなが「ラ・ラ・ランド」を褒める。ぼくは冒頭のシーン以外で、心に残ったところはない。今作は、ヒュー・ジャックマンが会話途中の歌い出しを小さな声で、途切れがちにやるところなど、工夫が見える。ただ、それも回数が重なると飽きが来るが、そのへんは仕方ないかもしれない。クィアな人々を見世物にして興行するというのは、大道といえば大道。ぼくらは小さいとき、ヘビ女やカッパ人間、小人など(寺山修司を見よ)を見て育ってきているわけで、キワモノこそ客を呼ぶ原点である。それが次第に郊外に移り、サーカス(浮かれ騒ぎ)という大がかりなものへと変化していく。虚のものを大げさに演出することで、客は夢見心地になる。そこに倫理も、モラルも、社会通念などは要らないのである。その意味で、このミュージカルはまさに真っ当なのである。空中ブランコをやるゼンディヤがとてもきれいだが、病院にザック・エフロンを見舞うところは、あまりきれいではない。撮し方の問題のようである。サーカスを扱ったミュージカルで思い出すのは、チャールトン・ヘストンの「地上最大のショー」である。1952年の作で、ヘストンとしてもデビュー後すぐぐらいの作品である。鉄鎖や監禁箱から脱出したフーディーニの短い伝記を読んだことがあるが、彼もまたバーナムと同じ才長けた興行師である。


14 15時17分、パリ行き(T)
イーストウッドともあろうものが、こういうごまかしの映画を撮ってはいけない。ほんの数分で終わる劇を、登場人物たちの過去を追って埋めるなど、観客をバカにし過ぎている。前半もじっくり描写している、などと寝ぼけた評が新聞に出ているが、媚びを売りすぎである。と言いながらも、田舎の子たちがいかにして兵隊となっていくかがよく見えた。小さい時からモデルガンでシューティングゲームをしている子たちだが、それはごく普通のことなのだろう、と思う。命を惜しまない正義感の男がそこから発生してくる、と監督は言いたいらしい。


15 羊の木(T)
もっとも正常そうな人間が異常だった、という映画だが、次第に恐くなる演出が足りない。ぼくでも見ていることができる。松田龍平もこれではやりようがなかっただろう。恋人をクルマのなかで襲うような、そうでもないような仕草をするが、その中途半端さがこの映画をよく表している。優香は上手な役者だと思っていたが、今回は残念感が深い。彼女がなぜ障害をもった老人に惚れたのか、よく分からない。北村一輝という役者は初めて見たが、はまり役だったのでは? 床屋のオヤジで元受刑者の中村有志がいい。そこに雇われた男が祭りの日に酒をがぶ飲みして大暴れするが、その後のいきさつがまったく触れられない。この映画には誠意がない。


16 トレイン・ミッション(T)
設定ではリアム・ニールソンは60歳、それにしては老けている。重要な人間がまったく写されない、というのは、いかがなものか、というよりずるい。閉じ込め系の映画だが、やはり無理があちこちに。まして、真犯人も、ああやっぱりな、では、せっかくの工夫も台無しである。ニールソンを嚆矢として楽しんできた老いぼれアクションも終わりかもしれない。いま読んでいる後期高齢者退職刑事ものは、パンチをくり出すと、かえって手首がおかしくなる、という設定で泣けてくる。原題はThe Commuter で、座席の角に行き先をパンチしたチケットを立てるのが、この映画の一つの仕掛けになっている。


17 ペンタゴン・ペーパー
(T)
やっとスピルバーグが人間を描いたと評判だが、それはトム・ハンクスメリル・ストリープに助けられたからと言っていい。一箇所、ストリープが群衆のなかで一人浮き立つ映像があるが、それはミスカットだろうと思う。難をいえば、お嬢様経営者のキャサリン(映画ではテイトと愛称で呼ばれている)が政府機密文書を載せた新聞を刷る、と決断する、その転換点が、見えにくい。何が彼女を雄々しく変えたのか。彼女に聞こえよがしに彼女の経営の才のないことを論じる経営委員会の男たちへの反感か? 株の値上がりにしか興味のないはすっぱな連中か? 法律論しか語らない法律屋のたわごとか? なにかに鋭く反応するキャサリンを描くだけでも、だいぶ印象が違うのだが。あるいはそれらが寄ってたかって彼女を正義へと追い込んでいく感じがあれば、印象が映画的にはだいぶ違うのだが。マクナマラが、キッシンジャーを指して、何でもやるクソ男だ、と言うシーンがあるが、これは軍歴詐称を隠し通したブッシュ息子も同じで、権力者はあらゆる手を使ってスキャンダルをもみ消そうとする。原題はThe Post である。


18 レッド・スパロー(T)
なんだこりゃである。エロもの、キワモノに近い。女性スパイで、アクションではなく、色仕掛けが得意というわけ。だから、ジェニファー・ローレンスの裸が拝める、というわけだが、それがなにか? アメリカは仲間だけは裏切らない、には笑うどころか、心胆を寒からしめるものがあった。シャーロット・ランプリングが出ているが、残念な役どころで、彼女の晩節を汚した。


19 バンコクナイツ(T)
期待した映画だが、40分ほどで沈没。素人に芸をさせてダラダラとカメラを回してるだけでは映画にならない。


20 チャーチル(T)
この特殊メイクには恐れ入る。チャーチルのなかに時折ゲイリー・オールドマンの眼が見えるのである。ゲイリーにチャーチルがいるのではない。ナチスに武力対抗するかを悩み電車に乗って庶民の意思を確認する場面があるが、ここだけがお伽噺めいて残念である。もっと実写的に撮っていいのでは? それにしても、ペンタゴン・ペーパーとこの作品、いずれも勇ましい展開に入る前の段階の、意思決定の話である。それだけ政治、マスコミのなかに、自分たちのあり方に内省的な眼を向ける理由があるということである。ジャスティスを追いかけていたはずがフェイクと言われ、国民の良識を信じて国民投票をすれば意外な選択がなされる、といったようなことがいろいろ重なっている。社会派映画が撮られることは嬉しいことだが、そう手放しで喜べない、もっと事は複雑だ、ということである。


21 いのちぼうにふろう(T)
小林正樹監督、71年の作。冒頭、地図を見ながら、密輸入で稼ぐ島のことを話題にする八丁堀の役人。そこに安楽亭というやくざ者が巣くう建物がある。地図の絵のあとに、その建物が違った俯瞰の角度でパンパンと映し出されて、この映画が動き出す。見事なものである。役者が豪華で、仲代達矢中村翫右衛門佐藤慶岸田森山谷初男栗原小巻(ここまでが安楽亭の住人、小巻を抜かして悪党ども)、山本圭酒井和歌子(この2人が恋人同士だが、和歌子が借金の形に女郎に)、神山繁中谷一郎(この2人が同心)、滝田裕介(裏切りの商人)、勝新太郎(飲んだくれ、じつは金のために妻子を亡くした職人)。山本圭酒井和歌子が湖を背景に、板をつないだだけの細長い橋の上で話すシーンがある。オヤジさんが飲んだくれて酒井和歌子が身売りされる、と山本に打ち明ける。まず2人が右から歩いてくるのを無音で撮って、次に寄りで会話が始まり、また中景のカットで音と絵が離れた感じで撮る。この絶妙なカット割りがにくい。思い出すのは、65年の黒澤「赤ひげ」によく似た設定(幼なじみ、貧乏による別れ)およびシーンがある。おそらく小林監督がパクったのだろう。愛する女を失った山本が安楽亭に連れてこられたのが、運命の変転の始まりである。人外に生きる悪党どもにも温かい血が流れ始める。勝の温情で50両を貰いながら、すぐに女(酒井)のもとへ行かないで安楽亭に戻るのは不自然である。ラストは、闇夜の大捕物から一転露出オーバー安楽亭への橋の上――こういう転換なら、安楽亭の悪党どもと夜の修羅場を一緒に過ごす必然性はない。みんなが死に絶えたあとの朝の風景でいいではないか。一心同体を表現したかったのかもしれないが、前に山本の自殺未遂のシーンがあるのだから、そこまでやる必要がない。それにしてもこの映画、名作とは言わないが、いいできだ。ラストにいびつな10体の地蔵の上に白抜きのタイトルが出てエンドである。それも見事。音楽は当時流行ったメリハリの利いた現代音楽である。武満徹のそれがぴたっとはまっているから不思議である。


22 Raqqa is Being Slaughtered Silently(T)
ドキュメントでシリア・ラッカでISが勢力を伸ばし、公開処刑などを行いはじめ、報道など不可能な状況のなかで、スマホを使いながら外部に発信し、それを国外に逃亡した仲間が世界に拡散させた。頭文字を取ってRBSSというらしい。原題はCity of Ghost だが、ブラジルの暴力に駆られた子どもたちを描いたCity of God を思い出させる。反政府組織が立ち上がり、アサド政権を激しく突き上げたとき、政治的な空白が生まれ、そこにISが入り込んできて、急速に勢力を伸ばす。結局はドイツへと逃げた国外班は、現地での排外主義の高潮に遭遇する。世界はいまとてつもなく息苦しい。しかし、ロシアとアサドによってISと反政府軍が駆逐されたシリアに、彼らは戻ることが可能なのだろうか。2千人いるといわれる米軍の撤退も近い。IS以上に深刻な事態が訪れようとしているのではないか。


23 タクシー運転手(T)
光州事件を扱ったもので、よく客が入っている。シネ・マート新宿はそう客の来る劇場ではない。映画の冒頭に、曲がかかり、主演のソン・ガンホがそれに合わせて歌う。チョー・ヨンピルのヒット曲だが、名前が思い出せない。ガンホは、体型も、肌の感じも、少しも変わらない。リズムの悪い部分のある映画で、ガンホが光州の同業者と初顔合わせのシーンで、間が持たない。さすがのガンホもぶらぶらしているだけだ。ドイツ人の記者がヘボ役者なので、全体にメリハリが付いてこない。最大の問題は、金浦空港から日本へ飛び立とうというときに、すでに当局に彼の情報は把握されているらしいのに、何もハラハラドキドキがない。まんまと逃げ出してしまうのである。チャン・フン監督、ぼくはこの人の映画を見たことがない。こういう陰惨な事件から民主主義をつくった韓国に敬意を表する。


24 太陽がいっぱい(T)
久しぶりに見る。ほぼ印象に違いのない映画で、それはそれですごい。冒頭に宗教画のイコン(じつはハガキに印刷されたもの)を写し、そこに高い声の女性の歌がかぶさるのだが、何か気高いものを感じさせる。そのままカメラが移動していくと、ギターをつまびくマリー・ラフォレの大写しとなる。一つだけ前見たのとの印象の違いを言えば、モーリス・ロネが早い段階でエイッと殺されていることである。ロネはサンフランシスコの富豪の放蕩息子だが、まるでアメリカ人ではない。フィリップという名で、姓がグリーンリーフである。それをトム・リプリーという名のアラン・ドロンが、ロネの父親から賞金を餌にアメリカから連れ戻しにやってきた、という設定である。もちろんまったくアメリケンの匂いはしない。盲人から大枚の金で杖を貰い受け、今度はそれを使ってタクシー待ちの女に誘いをかけて、まんまと3人で無蓋車の上でさんざんに戯れる。このシーンはやけに鮮明に覚えている。きっと金持ちの自堕落な感じがよく出ていたからである。ロネはドロンが自分の預金残高を調べていることに気づく。船に恋人のマルジュ、つまりマリー・ラフォレを呼んで3人で船出する。ドロンの魚の食べ方やナイフの持ち方がおかしい、金持ちぶろうとすることが卑しい式のことを言うだけで、それほどドロンを貶めるわけではない。ドロンを小舟に乗せて、親船につないでいたはずが切れて漂流する。情事のあとにルネが気がついて、探しに船を回す。しかし、これが決定的な動機というわけでもない。2件の殺人事件を犯して「太陽がいっぱい」と至福の時間を過ごすことのできる若者に動機などない。あるとすれば、なにか知れない、下層階級のじれったいもがき――簡単に人の稼ぎなど吹き飛ばしてしまう(アメリカに帰ろうとしないから、ドロンには報酬の5千ドルが入らない)金持ちへの嫉妬。それらが言葉にならない次元でリプリーに巣くっている、というのは、味気ない解釈である。彼は殺し、女と金を奪い、幸せそうだ、でいいのである。ロネが姿をくらまして、自殺する、というのは、知人たちであれば、まっさきにありえない、と思うようなものだろう。そのあたり、映画的には無理を感じるが、原作はどうなんだろう。ドロンの眼差しは妖艶だが、その肉体には小さな筋肉がたくさん付いていて、それは若さではあろうが、なにかもっと精妙な生き物のような身体をしている。途中、ラフォレがルネに手紙を書いているあいだ、ドロンが魚市場を見て歩くシーンが結構長い。そこは実写的な撮り方で、ルネ・クレマン監督は何をしようとしたのだろう。音楽はニノ・ロータ。この映画、音楽の使い方が少し雑な感じがする。原作者パトリシア・ハイスミスは「キャロル(原題the price of salt)」「ライク・ア・キラー」など多数の映画に素材を提供している。


25 ありがとう、トニ・エルドマン(D)
2016年の映画である。ドイツ語の世界から英語の世界へと知らぬ間に転換する。おそらくルーマニアがEUに加盟して、急速度に資本主義化する世界を描いていると思われる。少なくともアッパーな世界では英語がふつうに使われている。石油会社をクライアントにもつコンサル会社に勤めるハードワーキングな娘のことが心配で、父親がドイツから娘のいるルーマニアにやってくる。彼女は会社側の代わりに馘首のプランを推し進めようとしている。娘はその交渉事や社内的な問題などで、ストレスフルな毎日を送っている。娘の窮状を見かねてやってきた父親だが、娘のすげない対応に一度はドイツに戻るが、今度は別人として変なかつらまで被ってやってくる。タイトルにある名前はその擬装の名前である。全編、無理だらけの映画だが、そこを楽しむ映画でもある。この種の映画がヨーロッパの映画にはあり、どれも出来がいい。
独特な“間”が印象的である。アメリカ映画にはこの間がない。娘と乗り込んだ、人で一杯のエレベーターの中、娘がモンスターに変装した父親を公園まで追いかけるところなど、無音で、しかも効果的である。そこには言葉が一杯詰まっている。「おまえは幸せか」と父は問い、娘は「パパは何のために生きているの?」と問い返す。父親はそのときに答えることができないが、あとでこう答える。「君が初めて自転車に乗れたとき、バスで君を学校に迎えに行ったとき、そのときは何とも思わなかったが、今となれば掛けがえのないものだったと気づく」。娘は最後、転職し、シンガポール(?)だかに行く。そのまえに祖母の葬儀に立ち会うのだが、父親と2人で裏庭で話をしたときに、先の父親の返答が披露されるのである。何かを取りに室内に戻った父親を待つ間、娘は父親が変装のときにはめる入れ歯を自分もはめてみる。ときおり口の端を曲げて、据わりが悪そうな表情をするのがおかしい。父親がなかなか帰ってこない、というところでプツンと映画が終わる。見事である。監督がマーレン・アデ、女性である。プロデューサー業が先である。主役がペーター・ジモニシェック、娘がザンドラ・ヒューラー。いずれも舞台出身。



26 トランボ(D)
アメリカにとってマッカーシーとは何だったのか。民主主義が死んだ時代としてくり返し呼び出される。本編はハリウッドテンと呼ばれた男たち――明らかに共産党という者もいれば、民主党支持という者もいる――を扱っている。なかでも不屈かつ柔軟に荒波に対処した脚本家トランボに焦点を当てている。彼らは仲間の裏切りなどで仕事を失い(ギャングスターのエドワードGロビンソンが裏切りの代表としてスポットが当てられる)、この映画の主人公のように投獄された者までいる。脚本家リリアン・ヘルマンの夫ダシール・ハミット(作家)も服役をしているが、それとダブってくる。トランボは出所後はB級映画会社で易い値段で脚本の仕事を受け、仲間たちと共同で量産に励む。その映画会社の社長がジョン・グッドマン。それらの映画にはすべて偽名がクレジットされる。なかで1本、「黒い雄牛」がアカデミー賞を獲ってしまう。そのときの偽名はロバート・リッチ。トランボはイアンMハンマーの名で「ローマの休日」の脚本を書き、それもアカデミー賞に輝いている。カーク・ダグラスが「スパルタカス」で初めてトランボの名をクレジットし、続いてオットー・プレミンジャーが「栄光への脱出」でまたしてもトランボをクレジットし、ようやくマッカーシーの時代は終わるが、ケネディが「スパルタカス」を見たニュース映像が流れ、それが大きな影響があったことが触れられている。50年代初頭から1975年まで、じつに20年近く、非米活動委員会は猛威を振るったわけだが、そのなかにはローゼンバーグ夫妻の死刑まである。リリアン・ヘルマンはその時代を「悪党どもの時代」と呼んでいる。主人公をブライアン・クランストンという男優が演じているが、ぼくはこの人を知らない。奥さん役をダイアン・レイン、これが強く、美しく、けなげな女性を演じてgood。2000万人の読者を持つと豪語し、LGメイヤーを脅し、ハリウッドテンの放逐を強いたのがヘッダ・ホッパー、その嫌な役をヘレン・ミレンが演じている。ホッパーと一緒に赤狩りをするのがジョン・ウエインである。


27 アイ、トーニャ(T)
ヒールを演じざるをえなかったスケート選手トーニャ・ハーディングマーゴット・ロビーが演じているが、彼女はプロデューサーにも名を連ねている。子役は「ギフテッド」で見た子である。母親(アリソン・ジャネ)はレストラン勤めで、2回離婚、汚い言葉を吐き、娘を支配し、スケートに駆り立てる。お金がないから、トーニャは衣裳も自前で作る。審査員は彼女の醸し出す雰囲気が許せない。かける曲もハードロック調。3回転半という偉業を成し遂げても、白眼視は続く。トーニャの暴力夫は、妻の競争相手を手紙で脅し、演技に圧力を加えることを思いつき、だち公に頼むが、これがまったくの阿呆のデブ。自分は秘密諜報員で、対テロの活動もしている、と言い、脅しの手紙のかわりに男2人に競合相手を襲うことを依頼する。男は女の脚に傷を負わせるが、犯罪の証拠をあちこちに残し、すぐに逮捕される。阿呆のデブは、あの事件はおれがやった、と吹聴してまわり、これもすぐに捕まる。夫は手紙の脅しだけだから、微罪に終わるが、トーニャも脅しを知っていたと強弁し、結局、トーニャはスケート界から追放される。裁判官に、私は学校も行ってないから何も分からない、スケートしかないから奪わないで、と哀願するが聞き届けられない。トーニャはその後、女子プロセスに転身する。アメリカはつねに敵を作り出す衝動に駆られている、自分はその餌食になった、とトーニャは考える。最後に実写が映るが、実際のトーニャは映画のそれよりこじんまりした感じに見える。阿呆のデブが、劇中とまったく同じ発言をしている映像が流れる。この平凡な狂気を抱えた人物像が一番記憶に残る。トーニャのコーチ役のジュリアン・ニコルソンはシャリー・マクレーンに似て美しい。残念ながら、テレビが中心の女優さんである。最近、登場人物が観客に向かって語りかける設定を見かけるようになったが、これはむかし流行ったやり方で、以前のほうが映画は自由だったような気がする。


28 オールザッツジャズ(T)
これで何回目になるだろうか。ただし劇場で見るのは今回が初めてではないだろうか。ミュージカルは、われわれに身体の動きのすごさ、美しさを見せてくれる。それがカタストロフィーを呼ぶわけだが(かえって抑制することでエキサイティングになる「パルプフィクション」のトラボルタとユマ・サーマンのダンスがある)、ボブ・フォッシーのミュージカルはもう末期の症状を呈していて、全然踊りが楽しくない。唯一、恋人と娘が拙いながらも自宅で見せてくれる一連のシークエンスは見ていて楽しい(その娘のその後を調べてみたが、まったく映画、テレビに出ていないようだ。なぜなんだろう)。なんだか「レオン」でのナタリー・ポートマンチャップリンやモンローを思い出してしまった。狭心症で病院に入ってからが長くて、矢継ぎ早に踊りと歌が披露される。前半は練習風景なので、ここでまとめて見せてしまえ、ということなのだが、やはりもっと早めにこういうものを見たい。死の間際に歌うのがガーファンクルのBye Bye Loveとは皮肉である。ロイ・シャイダーがとてもスローに歌う。サヨウナラ人生、サヨウナラ幸福と。結局、公演は中止となるわけだが、そのほうが保険が下りて初期投資も賄って大きな黒字だという。まるで「プロデューサー」と同じである。ロイ・シャイダーはとても活躍した役者だが、ぼくは「ブルーサンダー」ぐらいしかすぐには思い出せない。


29 ロスト・バケーション(S)
劇場で見ようか迷った映画である。登場人物はほぼ1人と1匹と1羽、あとはスマホ画面を大きく映し出す工夫が面白い。俯瞰の絵がものすごく大きく、いい感じである。ところどころ岩なのか藻なのが、黒く見えるところがあって、それが鮫に見えたりするから恐い。最後まで緊張して見たので肩が凝る。シャークをやっつけるシーンは、唸らせる。主人公はテキサスに戻るが、後年、テキサスの海に行くところで映画が終わる。えっ、テキサスに海があるのか?! というのですぐに調べたが、たしかに東南部はまったく海に面している。砂漠のイメージしかなかったので、意外や意外。


30 コロンビアーナ(S)
復讐劇だが、とてもよく出来ている。ぼくは2回目。監督オリビア・メガトン、96時間シリーズの2を撮っている。主役はゾエ・サルダーナだが、インフィニティ・ウォーに出ているらしいが、もうその種の映画を見ないので、彼女のその後は分からない。最後の小ボスとの格闘シーンは、カット割りだが、見応えがある。恋愛も絡めているが、ほどよい処理をしている。甘くならず、それでいて情感も感じさせる演出である。CIAの悪党に何も処罰がないのが、ひとつだけの不満である。


31 孤狼の血(T)
柚木裕子という人が原作だが、東映やくざ映画好きからこの作品を書いたということらしいが、原作が読みたくなる。映画は、予告篇で「傑作」とうたう馬鹿さ加減がすごい。傑作かどうかはこちらが決める話である。お客さんは、いつもは映画はご覧になってらっしゃんないだろうなというようなお方ばかりで、東映ってほんとにもう、とほくそ笑んだ。ストップモーションに語り入り、と「仁義なき」を踏襲している。頭から指を切ったり、豚の**を人間に食べさせたりえげつない。「仁義なき」はこんなはしたないことはしない。エンコ切りにしても、にわとりに突かせてユーモアにしている。芸が違うのである。
主役の役所広司の声が押さえが利かない声で、どうも頼りない。それに比べて尾谷組の若頭をやった江口洋介のほうが声がいいし、姿もいい。惚れ惚れする。彼が主役だと客が入らない? 尾谷組に話をつけて、3日で加古村との調整をすることになった役所。尾谷組は期限が過ぎたら戦争だ、と言ったが、結局、劇の最後まで事を起こさない。これでは、燃える男のやくざ映画にならないではないか。
あと、初めて役所が加古組の事務所に交渉に行くシーン。役所なのか、誰かが台詞をひとつ抜いたような変な間がある。それに、そんなに面子が揃って何も起きない。このシーンはいったい何のために撮ったのか。
主人公の役所が突然、姿を隠す。結局は殺されていたわけだが、伏線が用意されていない。危ないバランスの上にいるんだ、と役所にいわせるだけで、事がすむと思う演出家はダメなんじゃないのか。流れからいって、役所的な役柄を引き受けると思った新人松阪桃李は、ウソをついて両組を一網打尽にする。あれれ、である。それって、東映映画のやることなのか。
真木ようこが売れっ子ママだが、その男が尾谷組の息子という設定だが、あまりにも青二才で、しかも魅力がない。ママの人を見る目に狂いあり、という感じである。鉄砲玉のように死ぬ役柄だから、そういう青い男にしたのかもしれないが、ちょっとちゃうやろ、である。松坂を誘い込む役が阿部純子という女優で、達者な感じがあって、蒼井優に雰囲気が似ている。最後の種明かしのところが、よく分からなかった。役所の手引きで松坂に近づいた、ということなのかもしれないが、何のために? という疑問が残る。ナレーションの方、まさか「仁義なき」のときの方ではないでしょうね。


32 ゲティ家の身代金(T)
ケビン・スペイシーがMe too騒ぎで急に降板、それをクリストファー・プラマーが交替し、ものすごいスピードで撮り直したという。それがなぜできるかといえば、この映画には何の癖もないからである。金持ち一家の孫が殺されました、けちくさ爺が金を払わないと言いました、誘拐犯は怒って耳をそぎました……てな進行である。どうもアメリカにはこの手の映画が圧倒的に多くなっているような気がする。ヨーロッパの小品に目が引かれるのは、いろいろな企みでできているからである。誘拐犯の良心派を演じたロマン・デュリスが印象に残る。マイケル・ウォーバーグが警備から手を引く、といったときに、なぜ大富豪は動揺するのか。ここがよく分からない。それが結局、死に結びつくのだが。


33 さよなら、コダクローム(S)
エド・ハリスが出ている。息子役はキーファ・サザーランドに似ている。既視感いっぱいの映画。


34 捜査官X(S)
これは映像が第一にきれいで、中身もまあまあしっかりしている。こういう娯楽映画で中国映画の出来は知れているが、よくできている。新シャーロック・ホームズなどの技法を使っているが(体内映像や事件際再現スローモーション)、違和感がない。久しぶりに金城武を見たが、落ち着いたいい感じを出している。ドニー・チェンが西夏族の超能力者の一族という設定で、その魔王的な父親から逃げて、僻村で妻を娶り、子も生まれて平和でいるところに、ある事件の捜査で金城が訪れることから、物語が始まる。その謎解きが主だが、ドニー・チェンの過去の探索が絡んで来る。アクションが少ないのが不満だが、景色がとてもきれいで、とくに小川を写すと、たまらなく美しい。あと田舎の習俗などもきちんと描かれている。監督はピーター・チャンで、「最愛の子」「ウォーロード」「ウインターソング」など撮っていて、後ろ2作は金城が出ている。注目の監督である。撮影ジェイク・ポロック、ライ・イウファイで、美しい映像は前者か?


35 ファントム・スレッド(T)
ポール・トーマス・アンダースンはおそろく全部、観ている。ハードエイト、ブギーナイツマグノリアパンチドランク・ラブゼア・ウィル・ビー・ブラッド 、ザ・マスター、インヒアレント・ヴァイスで、いいなあと思ったのはハードエイツ、ブギーナイツ、ザ・マスターである。よくやるよ、というのがマグノリアにインヒアレントバイスである。今度のファントム・スレッドに似たテイストがあるとすれば、ザ・マスターかもしれない。一方は妻が手淫を手伝うカリスマ、一方は性的交渉さえ自己管理しようとする発達障害のカリスマが主人公である。いわゆるファム・ファタールものである。毒キノコと承知して夫が食べるのは、自分のエゴに飽いているからである。ただし、妻がそれを、生気を取り戻すための儀式だというのは、映画の筋として分かるが、ちょっと唐突である。もう少し事前の準備が要る。音楽が美しい。室内映画なので、美しく撮らないと散々であるが、そこはPTA(監督名の略語)の本領発揮か。


36 万引き家族(T)
最後にどどっと急展開するのだが、よく分からない部分がある。役者の発音が悪いのでよけいに理解しにくい。お婆さん(樹木希林)に夫婦2人(リリー・フランキー安藤さくら)、姉とおぼしき大人(松岡茉優)、息子(役名翔太)がひとり。そこに近所の小さな女の子(役名ジュリ、親から虐待を受けていた)が加わり、話は始まる。翔太がじつは本当の子ではないことは、かなり早い段階で明かされる。どこかで拾ってきた子である。姉と見えた茉優はじつは、お婆さんの関係者と言えなくはない。お婆さんの夫は亡くなっていて、お婆さんの後釜として主婦の座に坐った女の息子夫婦の子が茉優で、オーストラリアに留学しているはずの子である。彼女は風俗で働いている。年に一度お婆さんは亡夫の家に線香を上げに行き、3万円を貰って帰ってくる。その部屋に飾ってあった写真で、茉優がそういう存在の子であることが分かる。どうやってお婆さんの家に転がり込んだかは分からない。安藤さくらリリー・フランキーの夫婦はお婆さんとは赤の他人で、偶然転がり込んだという設定。この2人が、どっちかの相方を殺しているらしい。それでリリーには前科があるらしい。ここらあたりがよく分からない。


お婆さんの樹木希林が死ぬが、葬式を出す金がないからといって、庭に埋めることに。その時の落ち着き払った安藤の様子は見物である。翔太がわざと万引きが見つかるようにして警察に捕まることが発端で、虚構の家族の様子が徐々に知れていく。近所の女の子も、虐待親のところに戻る。家族は選べないが、この2人の子たちは、少なくとも自分で親を選べただけ幸せではないか、と安藤が言うシーンがある。施設に入った翔太が、リリーのところに遊びに来て泊まっていく。「ぼくを置いて逃げるつもりだった?」と聞くと、リリーはそうだと答える。「もう俺は父ちゃんではなくオジサンでいい」と翔太に言う。翌日、翔太はバスで帰るが、リリーが追っても視線を送らない。しばらく経って後ろを眺めるが、翔太はもう二度とリリーとは会わないのではないか。それは、リリーが万引きではなく、駐車場で車上荒らしをするのを見たことが契機となったのではないか。


リリーが仕事に出かけようとして、靴の中に切った爪が入っていた、という細かい演出をしている。みんなで行った海水浴場の砂浜で、樹木が安藤の顔をじっと見て、「きれいに見える」としみじみ言うシーンも印象に残る。見えない隅田の花火を縁台からみんなで見上げ、それを俯瞰で撮るシーンは、絵柄として絶対にやりたかったというものであろう(意図が見え見えなので、このシーンは買わない)。刑務所に入った安藤は堂々とした、さっぱりしたもので、一見の価値あり、である。すべての罪をひっかぶったという設定。死体遺棄、子ども誘拐がそれぞれ減刑されて5年の刑期ということか。最後に、じゅりがアパートの通路で遊びながら、蛇腹のフェンスから少し背伸びして下界に視線をやるところで映画は終わる。それでも多少の未来はあるということか。


この映画の白眉は、リリーがシャワーを浴びている最中に安藤が風呂場に入り、2人が冷めた会話をす交わすシーンである。この夫婦の不気味なつながりが露呈してくるようで恐い。西葛西に戻って、また「あれをやれないいじゃないか。おまえだって、まだやれる」などという台詞もあるから、彼らは売春的なことをやっていたのでは。そのときに、翔太を拾ったのではないか。リリーがもっと恐い面を見せたら、この映画、もっとしんどくて、面白いものになったのではないか。疑似家族のなかで一番ふらふらしているように見えたのはリリーである。


ぼくはこの映画をカンヌ受賞と知らずに見たかった。映画評は、「三度目の殺人」と家族を追ってきたそれまでのテーマとの総合だ、と書き立てた。「三度目の殺人」も今度の映画も、是枝監督自身が、自分の映画の総合だ、と発言したのが悪かった。彼にはまるで司法のあり方などに興味がない。人のために殺人を犯したり、万引きで疑似家族を保とうとする人間に興味があるだけなのだ。ぼくは「歩いてもなお」で家族のあり方に、戦慄を覚えた。この映画はそれを超えていない。家族は偽装では保ちえない、としたら、次はどこへ行くのか? 役者を揃えることで客を呼んで、作品の質と興行的価値のバランスをとった小津のあとを追っている是枝の戦略は、いまのところ当たっているのだが。家族を描き続けるのも小津的ではあるのだが。


37 イコライザー(S)
もう何回目になるだろう。この映画には言うことがない。あるとすれば、クロエ・グレース・モレッツをもっと出せ、だけである。今風にいえば“痛い役柄”だが、こういう挑戦もいいのである。この映画、アメリカのテレビドラマの映画版だそうだ。なぜ2作目が来ないのか! アントワン・フークアという監督で、「マグイフィセントセブン」「トレーニングディ」「極大射程」を見ている。質のバラツキがある監督らしい。「キングアーサー」などというのも撮っている。


38 監獄の首領(S)
韓国映画で、監獄から外の世界を操作する悪党がいて、潜入刑事がそいつを追いつめる、という内容。主役は大鶴義丹のような顔した役者で魅力がない。その悪党の首領をやったのがハン・ソッキュ、これがいい。あまり彼を見てないが、ベテランらしい。「ベルリンファイル」は見ているが、記憶にない。しかし、要チェックである。小柄だけど十分に貫禄がある。外の世界をどう牛耳っているか、もっと丁寧にやってくれると面白いのだが。冒頭の殺害シーンをあとでうまく絡めていない。でも、この映画、十分に見ていられる。アメリカには監獄内ものがあるが(TVシリーズの「プリズン・ブレイク」「アルカトラス」など多数)、それをうまく翻案した感じである。あまりハリウッドを意識した韓国映画は好きではないが、これはよくこなれている。


39 空飛ぶタイヤ(T)
池井戸作品はほぼ全部読んでいるが、その感動とはだいぶ違う。おそらく脚本家が池井戸作品の核心を掴んでいないからだ。「半沢直樹」もそうだが、中小企業の怨念のようなものが描かれないと、池井戸作品にはなってこない。池井戸さんは元銀行員だが、大田区とかその先の横浜とかが舞台になることが多く、それも運送屋を扱った作品がほかにもある(BT63)。そういう顧客を相手にしていたのだろうか。主人公を長瀬智之が演じているが、無難にやっているが、なぜ彼でないといけないのかが分からない。同じような事故に遭った同業中小企業を訪ねて、ある一社にやはり自動車メーカーの不具合を疑った人間がいて、会いに行き、彼の掴んだ資料を貰ってくる。そのときの長瀬はほぼノーリアクションである。もっと何かがあってしかるべきではないか。


ディーン・フジオカという人を初めて見たが、魅力的である。高橋一生も初めてだが、抑制的な演技が印象に残る。小池栄子を久しぶりに見たが、まえほど熱狂的な感じで見ていることができない。いい役者さんだと思うのだが。岸部一徳が巨大自動車会社の常務で、これが悪の総本山だが、部屋がしょぼいし、何だか町工場みたいな標語が飾ってあったり、ちょっと違うのではないか。ディーン・フジオカのいる部屋も、やたら広いのに、社員がごちゃごちゃといる(時代設定か?)。岸辺は頭の毛が少ないのにパーマをかけていて、そんなの財閥系大企業でありなのか? フジオカたちが密談をする飲み屋もこじゃれているが、なんだかうまそうではない。知らない役者だが、フジオカの昇進をからかって、大声を上げるシーンがあるが、密談の場でそれはないだろう。岸辺と親元銀行のお偉方が会食する料亭も、自分で小鍋に具材を入れたりしてしょぼい。密談だから人払いした、という設定なのかもしれないけれど。池井戸作品ではぼくはやっぱり「花咲舞」である。あるいは、「ようこそ、わが家へ」の古参経理女子もいい。とっても強い。だれだろう、それをやれるのは? 杏がテレビでやったようだが、ぼくは見ていない。イメチェンで小雪あたり?(といっても、「オールウェイズ」しか知らないが) ぼくの好きな佐藤仁美?(ぜひ見てみたい!)


40 プリティウーマン(S)
何回目になるだろう。定番の映画ばかり見るようになったら老いぼれた証拠である。でも、やはり見てしまうのである。ジュリア・ロバーツの演技が飽きない。リチャード・ギアが大学院を出ている、と言うと、「きっと両親自慢の子だったのね」と言うシーンの表情がすごい。常識にのっとって褒めながら、実は真心もこもっていて、しかもろくに高校も出ていない人間がそれを言ってしまう場違いな感じもよく出ている。それは複雑な表情なのである。ギアが椅子に座って書類を読み、その前の床に腹ばいになり、たしか「ルーシー・ショー」のコントに笑い転げるジュリア。ここの弾ける笑いもいい。徐々にそのシークエンスは、オーラルセックスへと至るのだが。さらに、企業買収の相手とのディナーに同伴を頼まれ、慣れない高級レストランでの一つひとつの仕草が、ほどよい笑いに収まるように抑制されている。これはジュリアの演技の勘のよさと、監督の演出のなせる技かもしれない。ギアがホテルの酒場でピアノを弾いて部屋に帰ってこない。そこに下りていって、結局、二人でいたすことになるのだが、鍵盤が身体の動かし方で微妙な鳴り方をするのだが、それがよく計算されている。これは演出側の完全勝利。王道の映画でもっと大味に作られていると思うと大間違いで、じつに細かい配慮がなされれている。1週間の借り切りのあとに、高級アパートを譲る、という申し出を断るジュリア。今までそういう措置で女を囲い、捨ててきた、その例には入らないぞ、という意思表示である。かわいくて強い。そこを見ないと、この映画は甘くなる。ドラッグをやり、ジュリアの部屋代をそれに使ってしまうようなルームメイトの女性も、なかなかキュートで、この女性も自然な上昇志向を持っている。最近のジュリアの生彩のなさは、年のせいなのか。それほど期待もしていないが、残念感があるのも確か。


41 焼肉ドラゴン(T)
「月はどっちに出ている」脚本家の鄭義信の監督・脚本・原作である。芝居で当てたものの映画化らしい、彼には脚本「愛を乞うひと」もある。本作は既視感がいっぱい。「月はどっちに」で見せた鋭敏な時代感覚はどこへ?


42 アメリカン・ドリーマー(S)
石油卸業者が真っ当なビジネスで販路を急速に伸ばしたことで、同業者からの嫌がらせが続く。組合長はドライバーが危険だから銃を持たせろ、と言うが、正直一路で行くと決めた主人公はそれを拒否。自衛で銃をもった運転手が事を起こし、そもそも十幾つの罪で訴訟を起こされていた主人公は窮地に。重要な土地の取得に手付金を払っているが、全額を払う期限が迫るが銀行が手を引く。結局、高利で仲間内から金を借りるが、妻が不正で少しずつ金を貯めていて、最初はその使用を断るが、結局は支払いに充てることに。どうにか夢が叶うところで映画が終わるが、ドンパチもない、きわめて静かな映画である。それでも、暴力に訴えない、合理性と倫理性でビジネスを展開する主人公に、つい肩入れして見てしまう。妻がジェシカ・ジャスティンで、ギャングの娘。主人公をオスカー・アイザックグアテマラの出身らしい。Xメンとかスターウォーズとか出ているようだが、見ていないので分からない。


43 チャーリンググロス街84番地(S)
1986年の作で、アン・バンクロフトアンソニー・ホプキンス、ジュデイ・デンチなどが出ている。ヘレン・ハンフというライター兼脚本家、といってもなかなか舞台では採用されず、テレビ放映が始まって脚本を使ってもらえるようになったという人のようだ。コロンビア大の学生スト(「いちご白書」で有名)に賛成し、警察に拘引される映像がテレビに流れるところを見ると、左翼系の人ということになる。あまりその辺が立ち入って描かれるわけではない。アメリカのそういう女性が古本で趣味のいいものをNYで探すととても高い。それでたまたま雑誌で見たイギリスの古書店に手紙で希望を出すと信じられないくらい安価で、テイストのいい本を送ってくる。そういうやりとりを20年近く続けたが、古書店主がガンで死んで交際は途絶えた。彼女はそれを小説にしベストセラー、そして舞台化、映画化された。アン・バンクロフト55歳の作品である。若づくりをして演技するのが痛々しい。もっと若作りが似合う女優はいなかったのか。ぼくはあのふてぶてしいミセス・ロビンソンにやられた口だが、そのとき彼女は36歳である! どう見ても50歳を超えている感じである。アンソニー・ホプキンスはまったく変わらず。ジュデイ・デンチがそれなりに痩せている。ウエル・メイドとはいわないが、手紙のやりとりと画面の分割でちゃんと進んで行く。映像と筋があれば映画はもつ、という証拠みたいなもの。イギリスがまだ戦争から立ち直れず、肉などの食料も手に入らない。それで、デンマークから缶詰やハムなどの食料品を送る、いまと変わらないことをやっている。そこでぐっと彼女と古書店のみんなとの連帯感が深まり、個人的な事柄までやりとりするのである。こんな豊かな時代があったのだと、感慨ひとしおの映画である。


44 マーシャル(S)
昨年の作品、評判も聞かなかったが、とてもいい。黒人地位向上委員会に属して、冤罪事件ばかりを扱ったThurgood Marshalが主人公である。実在の人物で、連邦判事まで登り詰めている。黒人としては初の快挙らしい。早速、彼の自伝をアマゾンで購入、そして彼の仲間として登場するラングストン・ヒューズの詩集も(前にいろいろなアメリカ詩人のアンソロジーを読んだことがあり、そこにヒューズも出ていた記憶がある)。詩がよければ、彼のエッセイなども読んでみたい。主人公を演じたチャドウイック・ボーズマンはとても印象のいい、意志の強く、それでいて易しい人柄がよく出ている。陪審員を選ぶときに、こちらに好意を寄せているか、検事に反感をもっているか、といった目線で選んでいる。相棒として抱き込んだユダヤ人の、民事専門の男にある女性陪審員候補が好意を寄せるが、本人が気づかず、サーグッドマンが教えるシーンがある。検事の鼻持ちならないエスタブリッシュに反感を持ち、あんたが話し出したら、メガネを外して身体を前に傾けたではないか、と。実際、彼女は陪審員のリーダーになり、議論を引っ張った形跡がある。事件は金持ちの婦人が、黒人お雇い運転手がレイプしたと訴えたが、実は和姦したことが恐くなって、狂言で彼を訴えたのである。彼にしても正直にいえば、保守性の強い地域だから虐殺に遭うのは目に見えていてので、ウソをついて、無実なのに刑期を短くすることを考えている。それをサーグッドマンが、先祖が血みどろになって勝ち得た自由を手放すのか、と諭し、検事の取引には応じさせない。結局、裁判に勝つのだが、相棒に抱き込んだジューイッシュへの偏見も根強く、それが当初は嫌々だったケースにのめり込むきっかけとなった。神さんも、やはり保守の地域で孤立することを怖れたが、母親が、誰それがメイドを辞めさせた、彼女は悪くないが訳の分からない親戚など出てきたら、幼い子どもが何をされるか分からない、という理由だったという。それを聞いて彼女は翻意し、夫を支える側に回る。ヨーロッパではヒトラーが虎口の声を挙げ、妻の欧州にいる親戚も虐殺に遭っている。そういう状況のなかでの黒人冤罪事件である。こおれが日本で劇場公開されなかったわけだが、そりゃ客は入らないだろうが、こういう映画は単館でもやってほしいものだ。


45 スピード(S)
見る映画がないときに何を見ているか、というのはとても重要な問題である。ゴッドファーザー、レオン、殺人の追憶オールド・ボーイぐらいになると14,5回は優に超えているわけで、最近、やはり見るものがなくて「エイリアン3」の何度目かの視聴をし、そして楽しんでしまっている。あの映画は1(ワン)ですべてが終わっているのに、くり返しそのシチュエーションが見たいがために、最新作まで見てしまってはがっかりしているわけである。やはりシガーニー・ウィーバーなくしてエイリアンなしである。ということで、もう10回は見ているスピードだが、ぼくはサンドラ・ジュリアンの良さをうまく表現できない。2枚目半だが、どこかこの世のものではない感じがある。心ここにあらず、といった雰囲気なのである。宇宙でひっくり返った映画ではこっちが眩暈がして気持ちが悪くなったが、地球に帰って海から上がってきたときの姿態の完璧さには脱帽した。彼女はインディペンデントだけど協調性もある、おどけているが利発でもある。運動神経までは分からないが、よさそうな感じがしない。できれば、年に2本は新作が来てほしい。


46 クロッシング(S)
イーサン・ホークドン・チードルといい役者が揃い、そこにリチャード・ギアを絡ませるひどさ。3人が警官で、イーサンは女房の叔母の黴の生えた家から脱出したくてギャングの金を盗もうとする警官、チードルは潜入捜査からダチを裏切られず抗争相手を殺す警官、そしてギアがただ年金を楽しみにしているダメ警官、これが最後に手柄を立てる。いやはや。クロッシングには何の意味もなく、不思議な縁を感じさせる仕組みは何もない。


47 ナイスガイズ(S)
ラッセル・クロウとライアン・ゴスリングである。変な映画で、駄作だが、最後まで見てしまうのは、結局はこの2人の掛けあいを見ているのである。ポルノ業界を絡ませる映画には、何か名作があったはずだが、思い出せない。この映画はポルノと汚職と推理が合わさって、というかごった煮である。免許を持たない私立探偵と持っている私立探偵が主人公で、前者が太りに太ったクロウである。まるでジョン・グッドマンである。ゴスリングの娘役をやったのがキュートなアンゴリー・ライスで、ソフィア・コッポラの最新作「ビガイルド」に出ていたらしい。封切りで見ればよかった(ぼくの趣味ではないので見なかったのだが)。ましてイーストウッド主演「白き肌の異常な夜」のリメイクらしい。惜しいことをしたものである(しかし、ドン・シーゲルが撮る映画には思えない)。アメリカ映画のなかに、有名俳優を使って実験映画風なものを撮る伝統(?)みたいなものがあるが、この映画はその種のものかと思ったが、ただダラダラと続くだけだった。それにしても、ラッセル・クロウよ、もっと痩せなさい。


48 ノックアラウンド・ガイズ(S)
ときにアクション映画をしきりに見たくなる。ビンディーゼルという「ワイルドスピード」の主役が出ているというので,見てしまった映画である。とんでもないイモ役者である。映画もひどい。マフィアの息子が堅気の就職がうまくいかず、オヤジの手伝いをしようとするがドジを踏み、その後始末をだち公3人でやるいきさつを描いたものだ。ジョン・マルコビッチデニス・ホッパー(父親役)、バリー・ペッパー(息子)などが出ている。そもそもの事件の発端を作り出し、それでいてまったく責任感のない男を演じたセス・グリーンという俳優が、ちょっと気になる。どうにもいけすかない感じをよく出している。


49 静かな生活(D)
大江の原作、伊丹の監督、脚本。すこぶるよろしい。大江の息子イーヨーを渡邊篤郎、その妹に佐伯日菜子、お母さん役が柴田美保子で両名とも素人っぽくてGOOD。柴田がやや関西のイントネーションがあるのがいい。佐伯はよくぞ探してきたという少女然としている。それを狙う男が、M字開脚を迫るところなど、大江好みの徹底ぶりである。この映画、話題になったのだろうか。ぼくは伊丹の才能を感じる。冒頭のシーン、イーヨーの性器が勃起している。それを、母親が「セクスをしない性器は性器だろうか」などと言う。不思議な大江一族の感じがすでにして出ている。


50 シェフ――三つ星フードトラック始めました(S)
オリジナルを出そうとするとオーナーが押さえにかかる。そのマンネリを有名ブロガーにけなされ、口喧嘩に。結局はそのレストランを止めて、自分の原点であるメキシコ料理を屋台(フードトラック)で始めることに。小学生高学年の息子も同道し、昔の部下も一人付いてきて、大繁盛。ブロガーもその味を絶賛し、彼が店を持つなら投資する、好きな料理を作れ、と提案し、その店ができたところで終わる。じつに心の健康にいい映画である。料理を作るシーンも楽しく、息子がナイーブな感じでこれもいい。元妻との関係もよくなりそうで、これもいい。妻の一番最初の夫をロバート・ダウニーJrが演じている。監督・主演がジョン・ファブロで、「アイアンマン」を作っている。元部下がジョン・レグイザム、元妻がソフィア・ベルガラ、レストランの女スカーレット・ヨハンセン、経営者がダスティ・ホフマン、評論家がオリヴァー・プラットと豪華。


51 ルイの9番目の人生(D)
面白い仕組みの映画である。奇跡の子と見せながら、じつは不実な母親の企みだったという落ちがつく。最初はメルヘンチックな始まりなので、それで行くのかと思ったのだが、別居している父親とピクニックに行ってから、様子が変わっていく。無理しないで作っているのが好感である。ただし、子役の子がかわいくないのが、玉に瑕である。女性刑事のモーリー・パーカーは何かの映画で見ている。昏睡専門の医者をやったジェィミー・ドーナンもどこかで見ている。妖艶な母親役をやったのがサラ・ガドンだが、そんなに目立つ女優ではない。監督アレクサンドル・アジャ、フランス人である。


52 オーシャンズ(T)
ジョージ・クルーニーが死んで、その妹サンドラ・ブロックが出所後すぐに盗賊団を率い、一人あたり30億にも達するでかいしのぎをする。その手際の良さは、あれよあれよと楽しんでいればいいのだが、サンドラが頭目然としようとするので、どうもいつもの軽みがなくて残念。それに化粧が濃すぎる。それに比べて若頭というべきケイト・ブランシェットが妖艶である。おまけというべきか、オーシャンズの常連の中国人の小人も登場するサービスがある。豪華な宝石を身に着けるアン・ハサウェイは盗賊団と親しんでからのほうが魅力が増す。はすっぱなほうが合っているのかもしれない。シリーズ生みの親ソダーバーグが制作陣に名を連ね、監督のゲイリー・ロスは「ハンガーゲーム」を撮っている。一部の宝石を戻し、保険会社の執拗な調査を逃れる手口は、じつは次に触れる「ラッキーローガン」にも使われている。その監督がソダーバーグで、脚本を使い回したか?


53 ラッキーローガン(S)
劇場で見ようか迷った映画である。何かポスターから感じる粗野な感じが、出来まで予想させたので、見るのを止めたのである。でも、これはいい。余裕の映画作りで、緊迫の金庫破りなのにユーモアが挟み込まれている(ローガン兄弟の弟の腕が作り物で、それがバキュームに吸い込まれる点、あるいはダイナマイト爆破を予想したのに、グミなど意外なもので化学反応させる。しかも、1回目は袋の紐をきつく結んだために爆発しないなど)。ローガンの元妻と妹の区別がつきにくいのが、難といえば難である。主演チャニング・テイタム、無口、子煩悩、喧嘩に強い、ラグビーで脚を骨折したヒーローという役柄にぴったり。ずんぐりむっくりの体形が合っている。戦争で腕をなくした弟を演じたアダム・ドライバーは見たことのある顔だが、コーエン兄弟に出てきそうなキャラである。あとは爆破のプロをダニエル・クレイグが演じている。スタイリッシュな英国紳士はどこへ行ったの? というぐらい粗野な男を演じている。ソダーバーグはやはりかなりのやり手である。撮っている映画の脈絡のなさは、ある意味、好感である。実験と商業映画の両方をやっていくという意志が明確である。


54 海賊と呼ばれた男(D)
右翼の映画で、なおかつ岡田准一の映画など見るものか、と思っていたのだが、和風もちょっと覗いてみようと思ったのだが、ぼくは冒頭から映画に没入することになった。その理由は明らかで、岡田の腹の底から出したような声にやられたのである。そうしたら、ほかの登場人物たちも、吉岡秀輶を抜かせば、低い声でどっしりと受け答えしているのが、すごい好感である。ぼくは映画をビジネスの視点で見る気はないが、この映画はそれを迫ってくる。端的にいえば、スキマを狙っていく発想である。それは出光の佐三の得意技で、石炭が主流でまったく売れない石油をポンポン船の燃料として売り込むこと。もちろん値段も低い。石油業界は既得権のかたまりで、それを突き崩すのは用意ではなく、苦肉の策で出されたのが、沖合まで船を持って行って、そこで給油するというスタイルである。下関の漁協の連中が出てきて阻止するが、出光は自分らの商売は求められているから精を出しているだけで、と主張する。それを出光は商才士魂と表現する。戦後すぐは石油の供給がなく、石油業界はみんな外資との提携を模索する。しかし、出光だけが土着資本で、2万トンの船を作って、自主貿易に乗り出す。メジャーの石油会社のいじめは厳しく、穴場はイランしかない。ここはイギリスがかつての盟主で、イランの独立を支援するような石油取引には軍事的な脅しをかける。それに引っかかるのではないか、と考えれば、先に進むことができない。そのときに、船長たちをはじめ一斉に、俺たちは戦場で一度死んだ命だから、ということで店主(出光の呼び名)の命に従うことに。つねに出光はこういった具合にスキマを狙うしか生き延びる道がなかったのである。ただ、彼にはアメリカの動向情報も入っていて、自動車の生産が間に合わない状況で、石油が求められることが目に見えている、と見抜く。戦後、石油会社として正式に認められたときも、これでメジャーとの本格的な戦いが始まる、と読んでいる。この正確な読みと、スキマを嗅ぎつけて進んで行く姿勢が、まさにベンチャーの勇姿である。いま次々とIT先進米企業の軍門に下っているが、いでよ出光、である。


55 検察側の罪人(T)
どんな中身かと思うが、タイトルそのままの映画である。検察官が罪人だった、というわけである。その複雑な心理をいだいて生きているはずの葛藤が見えてこない、聞こえてこない。なぜに木村拓也というセレクションなのか。深い演技を要求しない監督が悪い。監督は、木村は過剰にサービスする癖があるから、演技を抑え気味にした(?)的な発言をしていた。つまり、演技がうるさいから静かにさせた、ということ。そういう意味では、拓哉節は抑えられたが、彼の存在価値も大いに減じられた。じゃあどうしろと言うのか、という心境だろう。まあ時間掛けて、老成していくしかないだろう。最後に、子どもがダダこねてるわけじゃないんだから、二宮に腰をひねらせて叫ばせても何の意味もない。監督さん原田眞人も匙を投げたか。吉高由里子もどうもきちんと収まっていない。老夫婦殺しの犯人とされた男への訊問で二宮が大声を張り上げるが、全然恐くない。とても恐そうに振る舞う吉高が哀れである。


56 消されたヘッドライン(S)
友人の政治家ベン・アフレックの秘書的な存在の女が殺される。彼のために新聞記者ラッセル・クロウは真実を探ろうとするが、意外な展開に……というほど面白い映画ではないが。ラッセルを助けるのがレイチェル・マクアダムス、政治家の妻はロビン・ライトで「ハウス・オブ・ウォー」で大統領の妻役をやっている。大人の色気である。やたら早口の上司がヘレン・ミレン、突然、彼女の出世作第一容疑者」が見たくなった。


57 ブレイクポイント(S)
ジェイソン・ベイトマンジェニファー・アニストンの別れ話映画。アニストンが旦那の気を引こうとほかの男を引き込もうとするが、かえって破談の方向へ。コメディのはずがちっとも面白くない。ベイトマンというのは、どこがいいんだか、分からない。


58 恋愛適齢期(S)
ジャック・ニコルソン若い女好きの金持ち、ダイアン・キートンは売れっ子脚本家、キアヌ・リーブスキートンに憧れる医者。ニコルソンは手慣れた演技、キートンは老けたと思いきや、黒の身体にぴったりのドレスで登場した時に、この映画は成功です。キアヌ・リーブスが篤実な医者を演じて、意外に清潔感たっぷり。汚い彼しかイメージがなかったので、見直しました。


59 カメラを止めるな(T)
30分で退場。間の悪い素人映画、それにゾンビとスプラッターじゃ僕の趣味ではない。


60 ザ・ハリケーン(S)
ボブ・ディランの曲に「ハリケーン」があるが、それが歌った人物が主人公である。ルービン・ハリケーン・カーターという名前。ニュージャージー州の話で、同州は大西洋岸にあり、イギリスから最初に独立した州の1つである。こんなところで、これほどきつい黒人差別があるのか、と驚く。カーターは11歳のときに冤罪で捕まり、そのときの警官がのちのちまで付きまとい、彼がボクシングのチャンピオンになったあと、ある殺人事件を彼の仕業とでっち上げ、20年以上刑務所にぶちこむことに。たまたま彼の著作を古本で読んで感動した黒人少年が、彼を大学に行かせるためにボランティアで活動する3人のカナダ人と一緒に冤罪をはらす運動を始めることに。ニュージャージーの町は完全に白人の支配する町で、だれもハリケーンの無罪を証明しようとしない。だが突破口があって、弁護士は州裁判所を越えて連邦裁判所に持ち込む。そこで負けると新証拠はすべて無駄になるというルールがあるらしいが、ハリケーンは正義を信じるといって、そこでの審議を求め、無罪となる。はじめはボクサーとしての彼、そして少年時代、少年院からの脱獄、陸軍の英雄からチャンピオンと描いて、あとは獄中と獄外の交流を描いていく。少年と出会ってからが長いが、十分に見ていることができる。やはり冤罪を晴らすために、外部の人間たちが動き始めるところから本格的な面白さになってくる。デンゼル・ワシントンは身体を鍛え上げ、獄中では50歳を過ぎた様子を髪の毛の薄さで表現しているが、剽悍さは消さない。彼の名演ではないか。


61 散り椿(T)
富司純子に変な演技をさせないでほしい。志乃という女の亡霊が妹に憑いていると思ったときの、どうしようもない演技には心がふたがれる。岡田准一の妻・志乃が最期に、釆女を守ってくれ、と言ったのは、かつての思いが残っていたからと岡田は思うわけだが、しかしそのまえに「あなたとさえいれば幸せ」と志乃は言っている。その齟齬をどう解釈するのか。志乃が死に郷里に帰り、岡田を生かすための方便だった、と分かるという筋立てだが、やはりおかしい。長年連れ添って、相手の真心を疑うことなどあったのだろうか。美しい日本を撮ろうとしたと監督が言っているらしいが、ただ棒を振り回して人を殺したり、ふざけたように突き刺して殺すのが、どこが美しいのか。殺陣は嘘でも美しくするべきだったのではないか。そこだけリアルに(?)撮って何の意味があるのか。西岡秀俊が剣術使いの四天王というなら、岡田ぐらいの感じに剣法を磨くべきであろう。悪党の頭領は死ぬが、その周りにいた小悪党の処分はどうなるのか、まったく触れられることがない。音楽がまるで「ゴッドファーザー」なのだが、これからいいところに差し掛かる手前で音が消えてしまう。パクリを怖がったのだろうが、姑息である。映像も文切り型である。


62 マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ(T)
スゥエーデンの映画で、監督は「サイダーハウスルール」や「砂漠でサーモン・フィッシング」を撮っている。一人の少年が父親の不在のもと、母親の死に遭遇する。そのまえには、母が心の平安が保てないからと、彼を兄の家にしばらく預けるようなこともしている。そこでの風変わりな人々の様子が彼を癒していく。ヌード彫刻の芸術家、おっぱいが突き出たガラスコップを作る職人、趣味で綱渡りをする人、サッカーに興じる村人たち、屋根をいつも修理している隣人、1階に住む老人はベッドの下に女性の下着カタログを隠していて、いつも主人公を呼んではその無味乾燥な宣伝文句を読ませる(これは秀逸である)。サガという少女(メリンダ・キンナマン)は胸を隠し、少年のふりをするが、次第にそれが難しくなっていく。ほぼ叔父の住むワールドは、下半身に話題が集中する。彼はそこでおっとりと育っていくが、母が死んで舞い戻ってから、一時、犬であろうとする。それは離れ離れの愛犬が死んだせいでもあるが、彼は犬になったことで、思いっきり声を張り上げて、人を拒否することができたのだ。少年は母がとっぴな物語を好んだということで、自分で仕込み、創作した物語が語られるが、いちばん触れられるのはスプートニクと一緒に宇宙に飛ばされたライカ犬のことである。食料も乏しいのに宇宙に出されてかわいそうだ、と言う。このあたりのテイストは、「天才スピヴェット」に感触が似ている。もちろん後者がリスペクトしたのである。


63 イコライザー(T)
待望の2である。セカンドでこれだけの出来栄えは祝福ものである。仲間の裏切りという設定はまたか、だが、ヨーロッパンに舞台を移すと、ジョン・ウィックの二の舞だと危惧したが、ちゃんとアメリカ国内に話を戻して、それ以上に複雑なことをしないで、シンプルに進めたのが正解である。前回はクロエ・グレース・モレッツが音楽志望の娼婦、今回は画家志望の黒人青年と愛育の対象があり、その関係に割と時間が割かれる。さらに、彼の仕事はウーバーの運転手らしく、近くに客がいれば、それを乗せに行く仕事で、もちろん悪質な客にも出会うわけで、いい商売を見つけたものである。たまに老人施設から乗せるユダヤ人の老人は、収容所で別れた妹と会えるかもしれないと一縷の望みをもっているが、それも結局、叶えてあげる。つまり、イコライザーはものすごい殺人マシンではあるが、それは明らかな悪に対してだけ使い、普段は善を行う人という、アクション映画には珍しい設定なのである。今回はナイフを使うことも多く、殺し方がきつい。しかも、むかしからの付き合いのある女性のための復讐だから、さらに手ひどい。妻と住んだ町に戻り、そこで決闘だが、まるで西部劇である。風が吹き、潮が舞うなかで、きちんきちんと殺人が行われていく。きっと、3が来る。そう信じる。興行成績は予想を上回るものらしい。批評家連は2作目のダメさの典型、と言っているらしいが、ふざけるな、である。時間を計りながら複数人を殺すシーンは、もっとタメが欲しいくらいで、こういうところはきちんと踏襲してほしい。助けた少女のお母さんが古本屋をやっていて、なかなか美人。何かその絡みがあれば、と思ったが、時間的に余裕なしか。


62 女は二度決意する(T)
ドイツ映画で、裁判劇から復讐劇になって、ちょっと緊張感が緩む。ラストは納得がいく。


63 ウインドリバー(T)
これはいい映画である。「ウインターボーン」の緊張感を思い出した。連続殺人かと思うとあにはからんや、である。急転直下の展開に、へえ、やるなぁ、である。じっくりと撮ってきたのに、そういうことをやるのか、という驚きである。しかし、成功している。ジェレミー・レナーが人生の達人みたいな役をやっているが、違和感がない。悪人の頭(かしら)的な役をやった役者がちょっとしか出番がないが、癖があってOK。ただ、レナーの娘が死んだ理由が不明で、ハンターを仕事とする男がその追跡に明け暮れたわけでもない、というのは手落ちではないか。映画を見ているときには、それに気付かないのだが。監督はテイラー・シェリダン、「ボーダーライン」を撮っている。


64 バトル・オブ・セクスズ(S)
キング夫人28歳と55歳の元トッププレイヤーが一戦をまじえる。そこに夫人のセクシュアリティの問題が絡んでくる。夫人をエマ・ストーン、対戦相手をスティーブ・カレル、カレルは実物にそっくりである。楽しみながら見ることができた。LGBT絡みの映画が多い。

65 ファウンダー(S)
マイケル・キートン主演、マクドナルドを乗っ取った男の話である。しがないミキサー売り52歳が、人気店マクドナルドの兄弟に会いに行き、そのシステムにほれ込み、フランチャイズを提案。拡大に次ぐ拡大、だが儲からない。それで土地を自分のものにして、それを貸し付けることに。もちろん兄弟が怒る。最終決裂は、シェイクをミルクから粉に勝手に変えたから。しかし、経営の手腕は兄弟にはない。270万ドルで男は商標、ネーミングを手に入れる。兄弟の店は名前を変えて営業するが、やがて潰れてしまう。マクドってこういう会社だったのね。


66 恋するシェフの最強レシピ(S)
金城武と女優チョウ・ドンュイの恋愛ドラマ。彼女のほかの映画を見たことがない。料理の映像がとてもきれいで、かなり昨今の洋物映画やドキュメントもの(「腹ペコフィルのグルメ旅」など)を意識して作られている。題材そのものが流行りのものだ。前にも触れたように金城がなかなかよくて、今回も好演である。チョウ・ドンユイは劇中でもいわれるように中途半端にキレイ。それで最後には愛しく見えるから映画の力は強い。コメディなので、ちょっと誇張した演技がバタ臭く感じられるが、文化の違いなので致し方ない。金城が秒を計って作るインスタントラーメンは「出前一丁」である。なぜその選択なのか、説明が欲しかった。


67 ビブリア古書堂の事件手帖(T)
ちょっと太宰を持ち上げすぎの映画。でもwell madeに作られている。音楽が高鳴って急に切れて、そのあと沈黙が流れる、というのを3回やっていて、最初の2回は効いている。謎の仕掛けは大したことがなくて、謎解きからは興趣がだいぶ落ちる。でも、いい映画である。監督三島有紀子、「幼な子われらに生まれ」を撮っているが、見たことがない。プロデューサーの小川真司というのがかなりのやり手のようだ。「クワイエットルームにようこそ」「メゾン・ド・ヒミコ」「しゃべれどもしゃべれども」「味園ユニバース」「リバースエッジ」など豪華である。なにか文芸と売れ筋との中間の味を狙っている感じがする。


68 悪魔は誰だ(S)
韓国映画で、「殺人の追憶」のキム・サンギョンが主演。ちょっとこねくり過ぎた映画で、もっと韓国映画はストレートに押すべきだ。


69 アジョシ(S)
見るものに困ったときのアジョシで、もう5回目ぐらい? ベトナム屈強男との死闘が始まるまえ、雑魚連をやっつけたあとのビョンホンの表情が、焦点を結ばない目で、ぼーっとしているのが、この映画随一の映像だろう。悪党を演じた兄弟がやはりこ憎らしくていい。


70 ボヘミアン・ラプソディ(T)
いやあ面白かった。初めてのアメリカツアーで妻に電話していた脇を男がニヤッと笑いながら通り、トイレ(?)に入っていく。妻が「愛している」といっても、それに返さない。そして、トイレのまえで中の音を聞いているのか取りつかれたような表情で、そこから彼のゲイの道が始まったようだ。天才的なグループであることが、よく分かる映画だ。メンバーの一人は天体物理学、一人は歯科医、一人は工学専攻、そしてボーカルのフレディ・マーキュリーペルシャからインドに逃げたという一族。出っ歯気味、背が低い。この男の歌唱力がすごい。すぐiTuneでQueen Jewelsを購入となった。


71 49日のレシピ(S)
石橋蓮司(父)、永作博美(娘)、原田泰造(娘の夫)、二階堂ふみ(妻の知り合い)など、監督タナダ・ユキ。冒頭に妻が作ったカツサンドの汁がこぼれていると石破が怒る場面があり、そのあと畳に仰向けにまるで死んだような様子で寝転んでいる映像に切り変わる。簡単な仏壇が見えて、そこに遺影がある。テーブルにはカツサンドが。妻が急死という設定らしいが、法要まですんでいるのに、妻特注のカツサンドがテーブルにいまだに載っているのがおかしい。映像をつなげるためだけの作為である。


石橋の娘の永作が離婚を決意したものの、やむない事情があって実家に戻る。そのときに、石橋の亡妻が生前に家族の後事を託した二階堂ふみが付き添う。家に戻ると、永作の夫とその愛人の嫌なやりとりを目にする。夫が妊娠させた女には子ども(前の夫との子らしい)がいる。その子をどこかにやるから、結婚してくれ、と永作の夫に迫る。付き添いのm二階堂は「子どものまえでそんなことをしないで!」と言って、その子を連れて外に出る。永作にどうしたの? と聞かれて、二階堂は、自分の母親は離婚後とっかえひっかえ男を誘い込んだ、と連れて出た子のまえで言う。それじや何のために外に連れ出したのか?


妻の告別式で、それまでことあるごとに石橋蓮司に突っかかっていた姉の淡路恵子が、急に性格が変わったかのように、にぎやかに踊り出すのはなぜか。ご都合主義である。さらに、問題のある子たちを預かる施設の従業員だったらしい石橋の妻は、ブラジル3世の青年に中古車を譲っていたが、夫がそれに気づかないでいたということがあるんだろうか。そんな夫なのににわかに妻の供養を一生懸命やるんだろうか。


いい加減な映画だが、亡くなった妻の空白の過去を、家族ではなく、他人が埋めて年表を作る、というのが仕掛けとして面白い。しかし、女性を妊娠させ、その結果を引き受けないで捨ててしまう男に出戻りする永作の役って何なのか。子を産まない女性は時間を紡げない、という意識に縛られた自分が義母の弔いで変えられた、ということでその選択をするわけだが、その転換はおかしいのではないか。 


72 怒り(S)
1つの殺人事件と、その後に続く3つの物語。だれが犯人か、というわけだが、よくできている。気になるのは、綾野剛が女性と会っていたことを問われて、妻夫木に答えなかったことだ。施設で一緒だった妹のような女だとなぜ素直に言わないのか。森山未來は人を見下すことで生きてきた人間で、それが麦茶一杯をめぐまれたことで凶行に及ぶ、という設定だが、根拠が弱い。それと、殺人被害者を浴槽に入れたのは復活を願って、とのことだが、さてそんな気配は以後の森山には感じられない。監督李相日、ぼくは「フラガール」ぐらいしか見ていない。吉田修一原作。妻夫木の細かい演技が光る。


73 悪人(S)
吉田修一つながりで見たが、よくできていた。妻夫木がふっくらとして、イメージが違う。深津絵里が哀しい境遇を当たり前に生きる女として、感じがよく出ている。魚の目から別のシーンに入っていく、というのは、稚拙である。満島ひかり、嫌な女を演じてやはりうまい。


74 裸の島(T)
セリフなし。笑い声と泣き声が一か所ずつあるだけ。鯛が釣れて、その子を殿山泰司がざぶんと海に投げるところ。それと、その子が熱で死んだあと、いつもの山の斜面の畑仕事をしようとしたとき、急に運んできた水の入った桶をぶちまけ、身を投げ、泣きながら芋の葉を抜く。夫の泰司は妻の乙羽信子を憐れみをもって眺めるが、また作物への水やりを始め、乙羽もまた仕事を始める。脚本家が監督をやり、サイレントを撮る。その意味は、監督としての力量を見せようということだったはずだ。


75 ピアソラ(T)
なぜぼくがピアソラにやられたかが分かった。彼は幼少時にNYに住み、十代半ばでアルゼンチンに戻っている。そこでタンゴに出合うわけで、基本にあるのはジャズ。ぼくはそれにやられたのだ。ロックンロールなどの流行でタンゴが落ち目になったところへ、彼の革新的なタンゴが登場する。しかし、一部の人間にしか受けず、NYで極貧の生活を送り、また戻り、それでもだめで欧州で活躍し、そしてやっと故国で受け入れられる。40歳のころに家族を捨てて出ていく。音楽家である息子とはそれから10年以上顔を合わさない。娘は左翼運動へと入っていく。あとではピアソラの伝記をものしている。ピアソラというのは、そういう人間だったのだ。


76 ジャイアン(T)
リズとロック・ハドソン(この人はほとんどイメージがない)主演。ほぼリズは「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラである。気丈で、自分の意見を曲げない女性である。そのわりに体制順応的に生きていくのが、風共と違うところである。3時間の上映時間はやはり長い。結局、メキシカンへの差別批判の映画ということになる。長男を演じているのが、デニス・ホッパーだから貴重である。このジェームズ・ディーンはちっともよくない。よくこんな役を受けたものだ、と思う。別になんでもよかったのか。タイトルはどこから来たのか。


77 アリー(T)
映画の評がいいようである。ぼくはジュディ・ガ−ランド、バーバラ・ストライザンドを見ているが、そのまえに一作があり、今度のが「スター誕生」のリメイク3作目となるようだ。監督がブラッドリー・クーパー、女優がレディ・ガガである。よくできているが、ガガを見出したスター、ジャクソンをクーパーが演じているが、彼の複雑な生い立ちが強調されたことで、自分が見出した女性が人気を得て、それに嫉妬する、というこの映画の基本構造が揺らいでしまった。クーパーがガガにあまり嫉妬をしないのである。だから、全体に甘くなり、落ちていく男の悲しみが出てこないのである。言葉では、かなり早い段階でガガに、私の成功に嫉妬しているんでしょ!と言わせているが、劇を進行させるためにいわせている言葉にしか思えない。クーパーの義兄役をやったサム・エリオットという役者がいい。撮影に関しては別にいうことなし。時のスターがカントリー歌手、というのはありなのだろうか? アメリカの事情は分からないが、ちょっと違和感がある。最後にガガが2回、彼を裏切った、というセリフがあるが、何を指すか分からなかった。あとで分かったのは、一緒に「シャロウ」という曲を歌うと言っていたのに、マネジャーにいわれて一人で歌ってしまったことを言っているようだ。ここは少し訳の工夫をすべきところではないか。一緒に歌えなくて嘘をついた、とでも。


78 ミスティックリバー(S)
映画館で来年やってくるイーストウッドの予告編を見ていたら、無性にこの映画が見たくなった。たしか3回目になる。イーストウッドは手際よく撮っていく監督といわれているが、この映画でいえば頭の15分ぐらいで中心的な人物の過去と現在がキリキリっと演出される。最初は子ども3人がホッケーのようなことをしていて、道路の側溝の穴にボールが入る。それで取り戻すことができず、ついはカギのかかった自動車がストリートにあるから、それを見つけて乗り回そうとジミー(ショー・ペン)が言う。しかし、さすがにそれに踏み出せず、ちょうどそばに生乾きのコンクリのタイルがあったので、ジミー、ショーン(ケビン・ベーコン)、そしてディブ(ティム・ロビンス)と署名した。ディブだけ途中だった。そのときに、警察官だという2人組に見とがめられて、ディブだけが車に乗せられる。母親に叱ってもらう、などと男は言う。しかし、ディブは結局4日間監禁されてレイプされる。
場面が変わって、背の高い男と子どもが野球の帰りらしい様子が写される。父親はディブである。次が小さな雑貨屋に大人になったジミーがいて、友達と遊びに行くという娘とキスをする。娘が車に乗り込もうとすると、後部座席に彼氏がいる。ちょっと恋人同士の感じがあって、娘は彼を送っていく。
その次が車で混雑した橋の俯瞰からの映像に切り替わって、誰かが担架で運ばれる。男が一人、あいつがぶつかってきたから悪いんだ、のようなことを言いながら、警察車に入れられる。そこに大人になった刑事ショーンが姿を見せる。彼に女性警官が寄ってきて、これからパーティをやるが来ないか、と誘うが断る。黒人の同僚は、いつまで音沙汰のない女房にこだわっているんだ式のことをいう(この意味はあとで分かる)。また画面が切り替わって、バーのカウンターシーンになる。そこにディブが仲間の一人と座っている。ちょっとしたら、ジミーの娘とほかに2人の女が酔ってやってきて、カウンターの上にあがって踊り出す。それを眺めるディブ。
また画面が切り替わって、暗い家の中。階段の下に夫がいることに気づいた妻(マーシャ・ゲイ・ハーデン)。夫は手が血にまみれている。ディブである――ここまでの流れがまったく無駄がない調子で描かれるのである。いやはや見事というしかない。色調も黄色を抜いた青錆びた感じで、冷え冷えとした街の感じが出ている。『ミリオンダラーベイビー』でも、ボクシングジムの夜の壁の色をほめている評論家がいたが、分かる感じである。殺人現場を急に俯瞰の映像で画面を大きくしていく感じも、面白い。でも、前にも書いたように、この映画、やはりラストの、ジミーの妻(ローラ・リニー)がジミーに言う「あなたはまちのキング」というセリフは間違いだろうと思う。そこだけが残念な映画である。


79 デート&ナイト(S)
コメディなのだが、やはりいま一つ利いてこない。彼我の文化の違いだろう。スティーブ・カレルがなぜコメディアンなのか、という感じである。



80 アメリカン・ギャングスター
(S)
ぼくはデンゼル・ワシントンを「イコライザー」以後、まじめに見るようになった。この作品はラッセル・クロウとの共演だが、悪党を演じたワシントンが光っている。演技の切れがいいのである。監督はリドリー・スコットである。5、6本見ている監督である。最近のいくつかはハズレが多いのではないか。


81 音量を上げろタコ
(T)
三木聡という監督で、いつもならこういうガチャガチャした映画は見ないのだが、音楽もの、ということで見たら、結構きちんと撮っていて好感。セリフがぶっ飛んでいるところが部分的にあって、それもOK。ニコラス・ケイジのような恰好をするな、には笑ってしまった。映像はカメラを動かしすぎで気持ちが悪くなるが、細部にこだわりがきちんとあって好感。部屋の外を大きな飛行機が通りすぎたり、細部に手抜かりなし。それぞれのキャラクターも際立っていて、いい。主人公の女性吉岡里帆がいずれ大きな声を出す、ということが分かっているので、ドラマに集中力がある。里帆のおばさんが「ふせえり」、アイスクリーム屋のおやじが「松尾スズキ」で、この2人がとても脱力感があっていい。ぼくはなにか60年代へのノスタジーを感じたが、監督は57歳なので、多少はその時代の臭いは分かるかもしれない。


82 サード・パーソン(S)
ポール・ハギスお得意の複数演劇進行である。すべて子どもがテーマになっていて、2人の男(リアム・ニールソン、エイドリアン・ブロディ)は子を仕事や女のせいで亡くしている。もう一人の男(ジェームズ・フランコ)は、元妻が子供に虐待をはたらいたと考えていて、接見を許さない。前者2人の男には恋を進行させているが、ブロディが恋したロマ族の女(モラン・アティアス)は娘がやくざに奪われていて、それを取り戻すためにアメリカ人で金持ちそうに見えたブロディを誘い込む。ハギスのように複数を撮ると、人生や人物が書き割り的になるはずなのに、そうはならない。なにか人間の行動の真理を彼は衝いているのだろうと思う。ニールソンの付き合う女が、じつは父親との近親相姦という設定はいかがなものか。

2017年の映画

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小田原城の石組

昨年は「アスファルト」のような小品にいい味のものがあった。一昨年の「マジカルガール」でも感じたことだが、阿呆らしい設定なのに、そのふてぶしさに納得がいく、といった作りなのだ。それは背後に根太いユーモアを抱えているからできることである。見ていて企みの深さに納得する。深田晃治の「さようなら」にも、ぼくは強くそれを感じる。考えてみれば大作に良作なし、は昔から変わらないことだが。イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」は既述のように、必要なものだけで押し通した迫力の凄さに脱帽した。ぼくは「チェンジリング」や「ミスティックリバー」のような異常な感覚が本来のイーストウッドの世界だと思っているが、趣はまったく違うが、この映画を買う。本道を堂々と歩いているからである。
シンゴジラ」と「君の名は」が東宝ということで、雑誌あたりで東宝の一人勝ちがいわれ、それは監督主義ではなく、プロデューサー主義が日本に芽生えたからだ、という趣旨で書かれることが多いが、そもそも東宝はそういう大鑑巨砲主義の会社だったはずだ。映画館をたくさん持っているのだから、勝たない方がおかしい。3つの決断が東宝を良くしたと「アエラ」で書いているが、その一つはシネコン化したこと、あとの2つは企画部門を外に出し、あとで本社に戻したことだ、という。つまり1つは外圧、1つは本卦還りで、どこにも新機軸があるわけではない。プロデューサー主義がうまいくのは一時のことで、また次の壁がやってくる(作家主義との兼ね合いが必要だろう)。そもそも怪獣映画とアニメで1位を取って何がめでたいのか。歴代興収20位のうち19本が東宝らしいが、ほぼジブリのアニメとテレビものの映画化である。勝てば官軍だが、それで日本の映画界は明るいのか、といえば、ここにもアメリカ社会のような格差が現れている。2015年の邦画で10億円以上の興収を上げた作品が39本、それが全体の売上74.6%(898億円)を占めている。1億数千万円で作って10数館で封切るという中型作品が作りにくくなっている、と是枝裕和が同誌で語っている。見に行った、楽しかった、で別にいいが、できれば数年経って、じわっと思い出すような、そういう作品にも出合いたい。

本文の記号の意味:T=劇場、S(ストリーミング)=ネット、D=DVD

1 リピーテッド(S)
ニコール・キッドマン作品が続いている。「ドッグヴィル」のころの彼女の美しさよ! 以前ほど熱い思いで見ることはなくなったのは、作品にバラツキがある感じがしたからだ。尖ったのもあれば、シックもある、といったように。この映画はシックの方で、むかしガイ・ピアス主演で記憶が短期にしか保持できない男の話があったが、これは1日で振り出しに戻る。ウェルメイドな感じがするのは、そう描かないと前に進まないからである。コリン・ファースの悪役は無理がある。精神科医を演じたマーク・ストロングは好きな役者である。ラストの化粧を落とし気味の彼女はやはり老けた。


2 ヒッチコックトリュフォー(T)
浩瀚な2人の対話本があるが、あれをめぐるドキュメントである。ヒッチを救い上げた本ということができる。この本が出た後、ヒッチは3本しか撮っていないらしい。しかも、今までの作風でいいのか、とトリュフォーに相談していたらしい。それにどういう返事をしたかは、この映画では語られない。ぼくは「フレンジー」をどうにかオンタイムで見ている。クラーク・ゲーブルジェームズ・スチュワートのような古臭いしゃべり方をする俳優を使ったのは、やはり彼の趣味で、ぼくはどうも古風に過ぎて鼻につくが。客が入る入らないに拘るのは、彼のような作品であれば当然で、それにしても「めまい」の偏執狂的な作りは作家性が突出している。スコセッシが「サイコ」のジャネット・リーンの白いブラジャーが変だ、という発言をしている。次のシーンでは黒いそれに変わるのだが、どこが変なのかこの映画では語られないので、妙な疑問だけが残る。ヒッチは映画は映像で語るもので、そういう意味ではサイレントにサウンドが付いたのは間違いだったのでは、と言っている。これは当然の意見であるが、登場人物が声を発したというだけで客が押し寄せたのである。総天然色もそう。いまや特撮に3Dである。ヒッチならどうそれらを使いこなしただろう。3Dを撮ったスコセッシは今度の「沈黙」はフィルムで撮ったそうだ。何がどう変わるのか分からないが、楽しみなことは確かである。


3 ゴースト・バスターズ(T)
最新のやつである。別に言うことなしだが、4人の女性バスターのなかで、男勝りを演じたケイト・マッキノンの切れ方がいい。テレビ畑の人らしいが、久しぶりにいい女優さんを見た。


4 こころに剣士を(T)
フィランドの監督が撮ったエストニア映画である。戦中はドイツ、戦後はソ連支配下にあった国で、戦前にナチスに荷担した人間が秘密警察に追われる。それが元フェンシングの選手で、田舎の小学校で部を創設し、子どもたちを教えるが、やがて子どもたちが中央の大会に出たいと言い出す。そこに行けば身を拘束されるのは目に見えているが、逃げているばかりではいけないと乗り込むことに。監督クラウス・ハロ、子どもたちがいいが、なかでも年長の男の子が憂愁があって、若きブラッド・ピットのよう。


5 ヴィンセントが教えてくれたこと(S)
ビル・マーレー主演の偏屈爺さん、認知症の妻を老人ホームに定期的に訪れ、医師の振りをして慰める。帰りには汚れ物を持って帰る。カメラはこの認知症の高齢女性をとてもきれいに撮っている。偏屈爺はふだんは博奕に女に酒にと忙しい。その隣に母子が引っ越しをしてくるが、母親は仕事で忙しい。偏屈爺が有料で息子のシッター役を買って出る。その彼が教えるのは喧嘩作法であり、酒場での注文の仕方、馬券の買い方である。アメリカは開拓者の国だ、というのが偏屈爺さんの信条だが、デジャ・ブを超えることはない。母親をメリッサ・マッカーシー、娼婦で妊婦をナオミ・ワッツ、ワッツはメキシカンなのか変な言葉使いで、お腹も大きいというワイルドな役をやっている。その勇気に脱帽。爺さんは“夜の女”のことを、女の中で最も正直に稼ぐ女、と定義している。


6 雲の上団五郎一座(T)
芸達者が揃った、舞台の当たり芸で、それを映画化したものではないか、と調べたら、テレビでやって、それを映画化したものらしい。小林信彦先生はたしか舞台で見ているから、公開放送のようなものを見たのか。エノケンが座長だが、すでに足が悪いのか、動きの場面がない。テレビでは車椅子で演じた、という話である。走る車から降りて、反対側のドアから入ってくる、という珍芸を演じたエノケンの面影がない。しがない旅回り一座が、新機軸を打ち出したいとする演出家に出合い、それが好評を得て、大阪に凱旋するというもの。冒頭、森川信が女装でおかしな動きをするところがあるが、さすがという動きである。こういうときに、森川の演じている題目がすっと出てくるくらいでないとダメだと思うが、素養がないから仕方がない。アチャコが団五郎一座を受け入れる興行主だが、人の良さがよく出ている。エンタツと別れてショックだったというが、結局、彼の方が生き延びた。あと三木のり平が源谷店でお富を訪ねるのにどうしたらいいか、と八波むとしとやりとりをするシーンがおかしい。引き戸を開けようとするが、そのまま外してしまう、というのが笑わせる。八波がセリフをきちんと言えないうらみがあるが。フランキー堺が新演出家をやっているが、うまく収まっている。二代目水谷八重子をきれいだと思ったことがなかったが、この映画では妙に可憐である。


7 南の国に雪が降る(T)
加藤大介の経験からでき上がった映画のはず。ニューギニア西部が舞台。有島一郎が加藤の補助的な役をやって、なかなか渋い。途中からニセ役者として渥美清が出てくるが、周りに森繁、伴淳といると、元気な兄ちゃんにすぎない。緞帳、背景、紙切れの雪、どれを見ても客は内地を思い出して歓喜する。こんなやりやすい舞台もなかっただろう。小林桂樹が見捨てられた部隊の一員を演じるが、一本調子で、味も何もない。


8 特出しヒモ天国(T)
山城新伍が出入りの自動車販売員からストリップ小屋のマネージャーになり、そして踊り子のヒモになる。何度も警察の手入れがあるが、最後にも長いドタバタがあり、うんざりさせられる。川谷拓三が警察官からヒモになった役を演じるが、やはり荷が勝ちすぎた。池玲子が最初から脱ぎっぷりがいい。芹明香はもちろん下手くそである。森崎東という監督は、どうも締まりが悪い映画ばかり撮る。


9 喜劇女の泣きどころ(T)
レズビアンショーで売った2人の女(太地喜和子中川梨絵)とそのマネージャー(湯原昌幸)となった男の物語で、そこに日本のあちこちの放浪芸を採取して歩く小沢昭一先生が絡む。語りも先生である。2人の女を捨てたのが坂上次郎、ほぼラストに顔を出すが、調子のいい演技を見せて、流石である。小沢が質問し、答えようとすると、楽屋口に人が現れて挨拶をするので、先に進まない。その受け渡しが面白い。太地が死んだ知らせが来たので100万円の香奠を出したというが、実は5万円で、そのウソがバレて、すっと横顔を見せて、立ち去る間のいいこと。太地喜和子がよく脱いで頑張っている。警察官の財津一郎はふだんと違って抑えた演技で、なかなかである。監督は瀬川昌治で、結構、本数を撮っている監督である。全編を見ていることができる。


10 愛のむきだし、ドランゴ危機一発97(D)
愛のむきだし」は20分で撃沈、「ドラゴン」は15分見て後は早回し。園子温、大丈夫か?!


11 アイヒマンを追え(T)
ナチ関連の映画が続いている。アイヒマン関連でも2つ先行して見ている。今回はその根源にユダヤ人で仲間を売った過去をもつ検事長がいたという話。その人物が同性愛者で、過去に何度かわいせつ罪で捕まっているという人物。彼が使う部下も同じ趣向で、彼はまんまと罠にはまってしまう。政権の官房長官、インテリジェンスのトップあたりもナチの残党らしい。自国で裁きたかったが、国際紛争のもみ合いで、イスラエルでやることに。映画としては何となく中途半端である。


12 コンサルタント(T)
監督ギャビン・オコーナー、未公開が多く、これは本邦初か。どこかの新聞が途中までとラストに溝があると書いていたが、なにを馬鹿な、である。終始はうまくついていて、話がうますぎるぐらいなのである。出来はかなりいい。アクションとドラマが適度に混ぜられながら進行する。財務省長官(「セッション」のJ.K.シモンズ)がなぜ経済犯罪でもないのに、いろいろな犯罪調査に乗り出すか分からない。シモンズはもっと悪のある役者と思ったが、見映えがしなかった。はじめ発達障害の子とそうでない子が出てくるが(じつは兄弟)、途中までどっちが主人公(ベン・アフレック)か分からなかった。2人がどん詰まりに会うという設定はやり過ぎだが、アクションもので兄弟が敵と味方となっていることを知らずにいる、という設定は今まで見たことがないのでOK。ウェルメイドだなと思うのは、アフレックの秘書的な役目の女性が実は小さい時施設で会い、ちょっとしたことで助けてくれた子という設定のところ。ただし、そういう発達障害の子を戦士に育てることは実際に可能なのかどうか、それが分からない。アフレックは監督映画が5月だかにやってくる。楽しみである。女優はアナ・ケンドリックでコメディの人らしい。ぼくはミュージカル「ビッチ・パーフェクト」で見ている。美人でもないが、役どころには合っている。


13 ダークプレイス(S)
シャリーズ・セロン主演、幼児期に家族が惨殺され、兄がその犯人と思い、そう証言したが、冤罪事件を追うアマチュア組織に金欲しさに近づいたことがきっかけで、ようやくにして真実に近づくことに。兄の恋人だが、クロエ・グレース・モレッツが残念な役をやっている。セロンは母が父親を銃で殺した過去を持っているが、この映画の制作陣に加わっている。年に1本ほどのペースで、いまどき珍しい女優さんである。もっと恐い映画にできただろうが、はなからそのつもりはないようだ。よって凡庸に終わってしまった。


14 ロープ(D)
ヒッチの室内劇で、「裏窓」よりもっと動きがない。名門大の出身者4人と寮の舎監、老夫婦、手伝いのおばさん、だけである。動機はよく分からないが、いちおう恋のもつれというところ。2人の男がパーティを開く。ロープで首を絞めて人を殺すところから始まるが、なんだか全然きっちり絞めないので、圧迫があるだけで呼吸困難になる病気の人かと思ったが、やはり絞殺らしい。その死体をチェストの中に仕舞い、その上に燭台、パーティの皿などを置き擬装する。殺された男の恋人がやってくる。もう一人男がやってくるが、その女が前に付き合っていた男である。じつは殺人の2人のうち主導権を握る男も、その女のかつての恋人という設定。勘の鋭い舎監のジェームズ・スチュアートが結局、事件を解決するが、もとはラスコリニコフ風の、優れた者がそうでないものを殺してもいい、という主張の人間。それが実際の殺人を知って、心を入れ換えたという、長い改心のセリフがあるが、付け足しである。殺しを主導した男はスチュアートの感化を受けて、優生思想に囚われているという設定だが、単に女への嫉妬だとしたほうが、もっと面白い映画になったものを。もう一人の殺し手はおどおどする役回りだが、下手くそである。1948年の作品で、ヒッチは停滞期に入っているのかもしれない。


15 特捜部Q(S)
まるでテレビの連続ものを見ているような感じだ。映像が軽く、展開も題材のわりに軽い、種明かしも軽い、といった具合だ。Huluあたりでざっと見てしまう映画である。北欧ノワールの映画化である。


16 ドクターストレンジ(T)
カンバーバッチ主演で観た映画だが、やはりこういう未来もの、SFものはぼくに合わない。宇宙を支配しようとする暗黒世界の王に顔があるというのも笑えるが、師匠のティルトンダストンさえできなかったことを短期間にマスターしたストレンジとは何者なのか。タイトルロールのあとにおまけが付いていたが、意味がよく分からなかったが、予告編みたい。カンバーバッチで見たいのは、ノーブルだが崩れたところもあるテーブルマジシャンかな。


17 絹の靴下(D)
アステア、シド・チャリシーで、ルビッチ「ニノチカ」のミュージカル版である。冴えたルビッチの演出と比ぶべくもない。1957年の作でアステアが58歳、しかし身体はよく動いている。ローックンロールが流行っているのでそれらしい曲も入れてあるが、あくまでそれ風にしたというだけ。映画は成績がよかったそうだが、それはひとへにチャリシーの色気ではないだろうか。カーテンの陰に隠れて絹の靴下を穿き、太ももが透けて見えるネグリジェのようなスカートで出てくるシーンにはびっくりさせられる。かなりきわどいからである。踊りで新規なものはないが、ほかのアステアものでも言えることだが、2人が慣れるまでの準備という段階では、微妙な不一致のようなものがあえて演出されているように思う。手の動きなどに少しだけ統一性がないのである。それはきっと演出である。3人のロシア人が笑わせ役だが、「イースターパレード」で一緒だったジュールス・マンシンがやはり奇妙な味がある。


18 ピッチ・パーフェクト(S)
前作とほぼ同じ水準でできているのは、すごいことである。その代わり、変わり映えのしない中身である。みんなで頂点を目指すという本筋が動かないから、あとは途中の挫折感をどう入れるかだが、それは残念ながら利いていない。大した仲間割れも起きない。複数集合映画となれば多人種となるのがアメリカ映画だが、どういうわけかこのチームには黒人がいない。難民のチャイニーズという不思議な設定の人物はいるが。


19 沈黙(T)
中だるみのところもあるが、実に正攻法で撮っていて好感である。厚い靄のなかから人が出てくるシーンが何度かあるが、食傷気味である。評判の高いイッセ尾形の演技は、評判通りというしかない。アカデミー賞の助演賞をあげたいくらいの素晴らしい出来だが、アメリカ人にはあの良さは分からないかもしれない。浅野定信も長い英語のセリフが多く、ハリウッドがいかに彼をコケにした使い方をしていたか、これで分かろうというものである。棄教ばかりするキチジローを演じた窪塚は際立って何ということはないが、役柄が儲け役だった。首をはねられて死ぬ加瀬亮は、英語がうますぎるので、せりふがなかった。塚本晋也監督がモキチという役をやっている。

キリスト教を沼のように飲み込んだ日本という風土が分かる映画だが、諸外国はこれを見てどういう感慨を覚えるものだろうか。多少の誤解を避ける意味でも、鎖国という制度について、もうちょっと説明があったほうが良かったのではないか。それはスコセッシの意図とは違ってくるだろうが、公平性からはそうしたほうが良かった。主人公とイッセ尾形との宗教論争があるので、諸外国も日本を単に野蛮の国とはとらないとは思うし、棄教すれば赦しあるのだから、南米に渡って異教徒を皆殺しにしたキリスト教徒とは違うと思ってくれるだろう。江戸に来ても告解を求めるキチジローについ涙してしまった。映画のなかで、日本ではキリストを大日と呼んでいる、と批判的だが、「大日」には唯一神の意味合いがあり、真言宗ではデウスを大日とごく自然に捉えていたという。しかも、ザビエルも大日とイエスの比較については採用していたらしい。だから、リーアム・ニーソンが演じた棄教パードレの、イエス=大日説をとらえて日本人はキリスト教を理解していなかった、とする発言はいかがだろう(ということは、遠藤周作の説は妥当性があるか、ということだが)。


20 マグニフィセント7(T)
いわずと知れた「七人の侍」の翻案である。むかしには「荒野の七人」がある。仲間を集めるところは、後者のほうがわくわくする。緊張感のある映画だが、完全になぞった映画になっていて、先が読めるのが難点である。生き残りは黒人にメキシカンにネイティブである。皮肉な塩梅である。女優はヘイリー・ベネット、この映画の監督アントワン・フークアが撮った「イコライザー」に出ている。同作にはデンゼル・ワシントンも出ていた。女と西部の荒くれといえば、ひと悶着があってしかるべきだが、まったく気配なし。原作映画の清潔感に引きずられたか。


21 ラストミッション(S)
前に見ている気がする。というのはケビン・コスナーの娘役をやった女優(ピッチ・パーフェクト2に出ていたジェイリー・スタインフェルト)に記憶があるからである。しかし、妻役のコニー・ニールソンが少しダイアン・レインに似て、色気があるのである。それに今回気づいたということは、見るのは初めてか? シュミーズ姿の彼女が目の前にいて、コスナーの視線が熱くなると、早すぎる、バカね、という顔をする。彼女は今年だけで5、6本の出演予定である。この映画、内容的に既視感が強いが、ひとつ面白いのは喜劇仕立てになっているのに、全体がアクションとして成立していることである。監督Mcgの手腕のなせる技であろう。テレビ畑の人で、次回作も予定されていない。イタリア系の人のよいおっさんが出てくるが、これがダニー・デビートに似ていて、家族思いだが裏稼業という定番を演じ、コメディを支えている(大した面白くないが)。FBIのタフで、異常で、セクシーなエージェントを演じたのがアンバー・ハード、彼女も今年は出演作が多い。東欧系の不思議な味わいの女優である。なんだか筋と役柄が合ってないのでは? 残念なのは、いくつか脚本に無理がある点である。クラブのトイレで不良どもにいたずらされそうになった娘を豪腕で助ける父親、さて父親の職業は? と娘が疑うシークエンスがない。あるいは、娘が彼氏に夕食をつくって振る舞うという。そこで、捕まえたイタリア男に暴力を振るって、そのついでに携帯で娘に男の母親のとっておきのスパゲティのレシピを教えさせる――さてそんなことのできる父親とはどんな職業? と尋ねる場面がない。親子で車に乗ったときに、後ろで音がする。明らかにコツコツいっているわけだから、人間を積んでいると考えのが普通だろうが、娘はまったく気にしているふうではない。そんな娘で世の中わたっていけるのか、親は真剣に悩むべきである。さらに、追っている敵のパートナーが娘の惚れる若者の父親と分かった後、それについての説明が何もない。あんな暗黒街とつながっているような父親の息子とは付き合うな、とかなんとか。別にこれもスルーされてしまう。まるで劇をちゃんと仕立てていこうという意志が感じられない。喜劇とアクションの融合はいいが、あとはおざなり。残念である。


22 カンバセーションズ(S)
ほぼ2人で終始する室内劇。画面を2つに割り、ときに過去の2人の映像が映し出されるが、大概は対面していても画面は2つを合わせたかたちになっている。最初は戸惑うが、慣れてくると粋な演出という感じがしてくる。むかし半年間だけ夫婦だった2人が15年ぶりに男の妹の結婚式に付き添い人として来場し、一夜を共ににするだけの話である。結局は演技がうまいということになるのだろうが、飽きずに全編を見ていられるのだからすごい。アーロン・エッカートにヘレナ・ボナム=カーター。ぼくはこの女優さんを知らない。


23 たかが世界の終わり(T)
レア・セドゥで観た映画である。死を間近にした脚本家が、まったくごぶさただった家に帰ってくる。母親、妹、兄、その嫁、みんなが彼を中心に動く。それに反発して、調和に向かおうとする動きをことごとく兄が壊していく。結局、彼は何も和解の糸口をつかめずに家を去ることに。心理劇を盛り立てるための強調された演技に飽き飽きする。レア・セドウはやはりミッション・インポシブルのロシア編のときがきれいだった。観客は圧倒的に女性。


24 エクスポーズ 暗闇の迷宮(S)
駄作と呼ぶより怪作と呼んだ方がいいか。途中で投げ出さず最後まで観た自分を褒めたい。というのは、最後にこの映画の絵解きがあるからである。しかし、ぼくのような親切な鑑賞者がそういるとも思えない。キアヌ・リーブスがこういう映画を選ぶのだ、ということだけは記憶しておいていいのかもしれない。ジョン・ウィック2ができるらしいが、確かに喜ばしいが、身体を使ったアクションが予告編では見られない。ファーストで見せた長回しの1発撮りのアクション場面は、明らかに「オールドボーイ」を参考にしていると思われるが、今度も期待したいのだが。


25 ラ・ラ・ランド(T)
「セッション」の監督である。誇張のある監督だが、今回はオーソドクシー。では、なぜ今さらミュージカルを? デイミアン・チャゼルは31歳の俊英、ミュージカルはとっくに死んだジャンルなのに。高速道路の交通渋滞から始めるが、それぞれの車の中からさまざまな音楽が聞こえてくるという設定はOK。しかも、主演女優でない人間が中心になって踊り出す。へえ、自由にやるな、という感じである。ようやく車が動き出すが、エマがのろのろしていいるので、エマの後ろの車のゴスリングが苛ついて、追い抜く。これが2人の出合いである。シーンが切り替わって、映画スタジオ内のデリカテッセン。2つの空いた皿を上から撮して、さっとレジの場面に。鮮やかである。省略でリズムが出てくる。女優志願のエマ・ストーンがまたオーディションに落ちて部屋に帰ってくる。すると女友達3人がなだれ込んで来て、パーティに行こうという。さあダンスだ、と思うと、なかなか踊り出さない。エマを間に挟んで3人がソファに座り、ようやく歌が始まる。ここはグッド。パーティから抜け出し、車が駐禁でなくなり、歩いて帰るときにあるバーから精妙なピアノの音が。それがゴスリングとの再会であるが、ゴスリングは彼女に見向きもしない。しかし、また再会。エマが自分の車を探すためにゴスリングと丘に。ここでもなかなか踊り出さないが、いざ踊り出すと一切の逡巡なしに足が揃って踊り始める。これもグッド。あとはほぼバックステージ物のセオリー通りに進む。残念なのは音楽も踊りもない2人の劇のシーンがいいことである。あとの盛り上がりに欠けるのも仕方ないかもしれない。それにしてもアンハッピーに持ち込んだのはどうだったか。それと、エマをゴスリングは褒めるが、一度も演技のシーンを見ていない。それはおかしいのではないか。口先だけだから別れることになったのではないか。と言いながら、また2人でミュージカルを撮ってほしい。


26 チアダン(T)
どうもこの手の話に弱い。ほぼ予定通りの映画だが不覚にも泣けてくる。実話らしいが、「フラガール」と「パーフェクトピッチ」を合わせたような感じである。若者コメディにあるような劇画的なやり方で行くのかと思ったら、途中から大人しくなった。冒頭の、渚を撮して、大きな音とともにカメラがパンして、カリフォルニアの大会会場を撮すところはアメちゃん的な撮り方で、おおっと期待もしたが、すぐに場所は福井県に移って、まったりの日本映画になってしまった。そういう意味ではバランスが悪い。主人公がチームから外されて自主特訓、晴れて復帰というときに、単に心の声で「頑張ったわね」ですませてしまう無神経さ。これは省略とは言わない。手抜きである。アメリカでの初戦、これも描かれない。順番に描かないと、苦労の甲斐あって優勝という感じになってこない。それに最後にセンターが主人公の岩瀬すずに変わるのも唐突に見えてしまう。話だけ進行させても、感動がこっちに伝わってこない。もっと惜しいのはセンターにしたすずにカメラが寄らないので、コーチの意図がはぐらかされた感じになる。完全な演出の間違いである。仲間割れが起きて、すずと部長と不器用なすとりーとダンサーの3人が踊るシーンは、ミュージカルっぽくてグッド。なんだ日本でもミュージカルができるじゃん、である。東京から来たプロコーチ(?)陽月華というのがばっちりメイクだが、意外に合っている。河合勇人という監督は青春モノを撮っている監督のようだ。こういうのを見ても、「フラガール」や「しこふんじゃった」などはよくできていたのがよく分かる。


27 天使がくれた時間(S)
すれ違いものと呼んでいいだろう。ニコラス・ケイジティア・レオーニがその2人、ドン・チードルが時間の支配をする天使? 野望の男が一人のクリスマスから突然、田舎町のワイフと子ども付きの世界へとワープする。最初、その世界の凡庸さに着いていけないが、その温もりのよさに気づく。ところが、最後はそこを捨てて、野望をもって生きている別のワイフを探し、やり直しを求めるところで終わる。どうも落ち着かない結末である。ティア・レオーニが子どもを早く寝かしつけて、今日はセックスの日よ、といそいそ騒がしい様子がやはり目を引く。


28 ジェーン(S)
ナタリー・ポートマン、ジョエル・エドガー、ユアン・マクレガーによる復讐西部劇。エドガーは恋人ポートマンを置いて南北戦争に向かう。英雄として帰ってくるが、捕虜になっていたこともあって、3年後のことだった。ナタリーは彼が死んだものと思って、漂泊の人となる。そこで出合ったのが悪党のマクレガーである。彼の仲間を殺した夫は、その連中に撃たれて、戻ってくる。追っ手が来るのが目に見えている。そこで元の恋人であるエドガーに救援を頼み、過去のあれこれが語られることに。最後はハッピーエンド。これがなかなかいい。思い諦めたはずのエドガーが、じつは近所に住んでいる、というのはなんだかな、という感じだが。ポートマンが気丈な女を演じてグッド。マクレガーも意外にいい。ダニエル・クレイグみたいだけど。彼女たちが住んでいるのは道路の行き止まりで、後ろは崖。これは敵の来襲を考えてのことだという。そういうふうに西部の人たちは暮らしたのだろうか。


29 アシュラ(T)
ファン・ジョミンが悪徳市長を演じるのは悲しいが、演技は相変わらずグッド。検事役のクァク・ドゥオンもなかなかである。最後の血だらけの惨劇も、もう食傷気味。


30 コクソン(T)
クァク・ドゥオンは何をしたらいいか分かっていない感じだ。ただ口を開けてアワアワ言っている。ソン・ガンホ似だが、到底及ばない。まさかファン・ミョンジョンが祈祷師役で出てくるとは思わなかった。悪霊払いで派手に踊るが、あれは作り事? 韓国の風習? 國村隼はこの役で得したのだろうか。韓国が日本をどう克服するかという暗喩のようだが、結局、異物として抱えるしかないようだ。ゾンビと底の浅い神学と脅かし映像の三位一体映画である。ナ・ホンジ監督は「チェイサー」「哀しき獣」の2作も完成度が低い。「哀しき獣」で悪党社長の情婦はすごく迫力があったが。この監督は、劇をまとめる力がないのでは。


31 スクープ(S)
封切りで見ようとしたが、じっとがまん。福山雅治が頑張ろうとするが、やはり無理がある。劇を引っ張るなどできない。脚本に無理があるのだから、それはごねるべきだ。突然、二階堂にキスしたり、元女房的な羊にもやさぐれ男のようなキスをしたり、こんなのは監督に文句を言うべきである。しかし、あの他人事のような演技は直らない。残念ながら二階堂ふみも、脚本の悪さを越えることができなかった。吉田羊もだれかの真似。滝藤賢一だけが、過剰な演技を抜かせば、しみじみいいところもある。写真週刊誌にも一片の真実があった、というのはホロリと来たが。すべてがデジャブだけど、これでいいのか、大根仁監督(「モテキ」も見ていない)。


32 ライオン
「奇跡がくれた数式」のデブ・パテルが主演、女優はフィンチャーの「ドラゴンタトゥの女」や「キャロル」に出たルーニー・マーラー。グーグルで25年の空白を埋めた男の物語で、意外と失踪に至るまでがていねいに描かれる。孤児を集めた施設では、夜に男児を外に連れ出して行くようなことをしている。主人公のサルーは施設に入る前に優しくしてくれた女性が呼んだある男に、どこかへ売られる(性的なことと思われる)と勘が働き、ぎりぎりで逃げ出している。彼は危機意識が働いたのである。そういうところが、何気なく描かれていて、好感である。サルーはじつはシャレルでライオンの意味であり、生まれた土地の名も少し違っていた。無人車で1300キロも運ばれ、言葉の違う地区まで運ばれる。ヒンズーが通じないベンガル地区? そこからタスマニアまで貰い子される。白人のマミーはニコール・キッドマン、ダッドはデビッド・ウェンハム。キッドマンの母親役とは、隔世の感あり。出生地をグーグルで探る話なので、そう盛り上がらない。


33 マーティンの小径(D)
チャールズ・ロートンという人が主演。1938年の映画である。戦前からずっと活躍した人らしい。寄りの絵のときに目が泳ぐような感じがある。ビビアン・リーが小娘役だが、次第にストリートから劇場内のスターへと駆け上がっていく。ロンドンの劇場のまわりにこういう芸人が屯し、芸能人の供給源になっていたことが分かる。閑話休題。彼女をバックアップしたロートンは相変わらず大道芸から抜けられない。レックス・ハリスンがビビアンを奪う役だが、彼も作曲の才能が枯渇しそうになってビビアンに捨てられる。そして、急にビビアンがロートンに温情を向け、舞台のチャンスを与えるが、大根だということでストリートへ戻る。今度は自分の居場所として覚悟して。ハリスンがこんな時代から歌っていたのかと驚いた。やはりミュージカルに出る理由があったのだ。


34 ガール・オン・ザ・トレイン(S)
主演エミリー・ブラント、「ボダーライン」で見ている。ヘイリー・ベネットは「イコライザー」「マグニフィセントセブン」で見ている。何だかこれとそっくりな映画を観たことがあるような……。よくできているが、ヘイリー・ベネットが脱ぎ役で使われた感じがあって残念。それからいけば「マグニフィセントセブン」の監督は彼女の扱いにリスペクトがあった。思い出したが、ベネットはアン・ヘッシュに似ているのだ。


35 フェンス(S)
デンゼル・ワシントンが監督・主演で、ビオラ・ディビスが妻役。ディビスはこれで何かの賞を取ったが、彼女は「ダウト」で初めて見て、いい役者だなと思ったものである。それに比べれば、今回の演技など朝飯前だろう。主人公の設定が中途半端で、もっと突き放して撮らないと主題が生きてこない。黒人であるがために淡い希望などを捨てた元野球選手。子どもを支配し、老いて外に子をつくる。それを善人のタフガイのように描くのは、やはり主演・監督の甘さだろう。


36 無限の住人(T)
三池崇である。大活劇が冒頭とラストにあるが、さて。ワイヤーロープによる飛び、跳ねを見せられる以上、活劇も活劇として見ることができない。そもそも刀では拳による殴り合いのような迫力は出にくい。残念だが、見る側がスレてしまっている。木村拓也はきっと魅力的なのだろうが、やはりいつもの「って言ってんだろ!!」式の台詞まわしばかり。ぼくはテレビは分からないが、もっとふつうの演技で彼を見てみたいものである。心理劇でもなんでもいいが。ヒロインが弱すぎるのと、現代っ子すぎる。そして単調。荷が重すぎた。綾瀬はるか座頭市だったか、悪党どもの衣裳がなんだかヨーロッッパ中世のそれみたいで、非常に違和感があったが、今回もざっくりとスリットが入ったチャイナ服のようなものを着た女とか、ミニの着物(これは黒澤でもあったけれど)、黒マスクのおっ立ち頭の男とか、バラバラである。原作が漫画らしく、それに引きずられたか。これはう時代考証は別にいいのか。映画は江戸時代という設定である。そのチャイナ服の女、じつは花魁という設定だが、その衣裳が妙にしょぼいのである。花魁=豪華というのを見事に裏切っている。これも時代考証か? その女が拓也にいざとどめを差そうというときに、突然、自分を差配する男(福士蒼太)のやることに疑問がある、などと言い出す。これはヒドイ。市原隼人という役者は目が生き生きしている。市川海老蔵は、今まで見た映画の中で一番良かった。やたら腕を切り落とすのは品がない。


37 劇場版MOZU(S)
西島秀俊の主人公は線が細く、アクションシーンも迫力不足。長谷川博巳は何か西洋映画の役どころと勘違いしているのではないか。たとえば、バットマンのジョーカーのような。松阪桃李はほかの映画でもこういうキレキレの役を見たが、違和感なしに見ていることができる。老いた「だるま」を蘇生させるために少女誘拐、というのは馬鹿げた設定である。少女の身に何も起こらないと分かっているので、緊張感がまったくない。西島も殺されないのが分かっているので、ちっとも恐くない。予定調和で映画を撮って何が面白いのか。どこで撮影したか知らないが、もっとアジアの混沌のなかに入っていかないと、行った意味がない。ただ舞台を借りただけ。悪いハリウッド趣味がぷんぷん匂う。羽住英一郎という監督で、ぼくは見たことがない。


38 海を渡る座頭市(S)
池広一夫監督、脚本新藤兼人、女優安田道代、悪党山形勲と役者もそろい、いい出来である。ただ冒頭の手首を切り落として、それを見せる演出は要らない。自分を狙う男を殺すと、そいつの馬がてくてく市についてくる。分かれ道で、馬が別の道へ行くので市がついていくと、今度は先後が逆になる。市と道代が川で泳ぐシーンがあるが、ほかの座頭市でもあったようなシーン。「馬糞はらっきょうより嫌い」の台詞があるが、らっきょうをセックスの前に食べない、というのが「駅前旅館」にある。


39 ダンシング・クイーン(S)
ファン・ミョンジョン主演、しがない弁護士が線路に落ちた人を助けた、というのはウソで、後ろから押されてやむなくその仕儀になった男が、市長に立候補。ところが、かつてダンシングクイーンといわれた妻が、自分の人生をやり直すというので猛特訓し、仲間とデビュー。それが「家庭の管理もできない」と敵の材料にされるが、家庭も市も管理するものではない、との名演説で市長に。踊りも、民主義主義もきちんと描かれ、韓国映画は自由だし、日本より民主義主義のよさをしみじみ知っている感じがする。ソウル特別市長の特別が発音できないギャグがあるが、よく意味が分からない。監督イ・ソックンでジョンミンで「ヒマラヤ」を撮っている。


40 裏切りの陰謀(S)
ファン・ジョンミン主演で、ハグレ記者といった役どころ。政府以上の政府が邪魔者を消して、対北脅威を煽る。その陰の策略を暴く、というものだが、緊張感がない。地方出身の記者でスクープを放ち、中央にスカウトされた太った、はげ頭の男は、よく脇で見るが、堂々と準主役をやっている。なかなか愛嬌があっていい。娘が小児がんという設定で、それが分かると、「歳も近いのだから敬語なしで呼べ」と態度がくるっと変わるところがいい。最近、脇役の人が主役の映画も封切りされていている。韓国に違う流れが起きているのかもしれない。


41 スプリット(T)
シャラマン復活というから見に行ったが、またしてもダマされた。これで2回目である。彼は1作目の「シックスセンス」を超えることができないようだ。23人格が3人の若い女性を閉じ込めて、まったく恐くならないのだから、どうしようもない。


42 マンチェスター・バイ・ザ・シー
ケイシー・アフレック主演、監督ケネス・ロナーガン、監督・脚本で1、2本あるようだ。風景がまず美しい。半地下のワンルームの窓に人の脚の影が映るのだが、雪が降り始めるときの感じがいい。夜景もとてもきれいである。あと音楽がつねに鳴っていても違和感がないが、この映画は音は要らないかもしれない。場面転換で時間の流れが自由に表現されるが、一番最初だけちょっと戸惑うが、あとは何ともない。兄が死んだらしい知らせが入り、ボストンから1時間半のマサチューセッツの病院に駆けつける。医者と話をし、次に挟まれたシーンに、ベッドに横たわる男と、向こうには女と老人、こっちに背を見せているのがアフレックらしい。兄が入院したときの場面らしい。その映像を突然入れるのである。いまは配管工事などの便利屋をやっている彼、兄の子の後見人に遺言で指名されるが、その地には辛い思い出が一杯で、それを克服することができない。火事で3人の子を亡くしている。夜中まで自宅の地下で仲間と大声で遊び、妻(ミシェル・ウイリアムズ)の叱声で解散。2階は暖房がないので、薪ストーブに薪を入れ、片道20分の買い物に。帰ってくれば、全焼で子どもが死んでいた。ストーブに蓋をしなかったために、薪が転がり出したらしい。妻はそれを責め、結局は離婚に。兄も、妻がアルコールに溺れ、離婚に(入院時にはいるので、入院中に離婚か)。アフレックの妻、兄の妻、どちらも家庭を持ち、アフレックの妻は赤ん坊までできている。兄の病院まで行くまでに、仕事の様子がきっちり撮され、酔って暴力を振るう癖も描かれる。さみしい映画だが、最後、いまいるシングルルームから移って、一部屋用意しようかな、と洩らす。なんで? と兄の息子が聞くと、おまえがボストンに遊びに来るかも知れない、ボストンの大学に入るかも知れない、という。そこでささやかな和解が描かれる。アメリカ映画にも、こういう映画がまだ撮れるのだ。アフレックは心に残る名演であろう。


43 シカゴ(S)
前に見てぼくはきつかった。しかし、井原高忠が評価が高いので、再見。会話体と歌・踊りを完全分離することで成り立っているのがよく分かった。だけど、ぼくなんざ会話の途中で歌い出したってまったく平気である。これはミュージカルの基礎がないからなのか。そうでもないと思うのは、ずっとアメリカン・ミュージカルは、少なくともon the screen に関して言えば、ずっと不自然だったのである。


44 殺人の追憶(D)
何度目だろうか。今回は少し理屈っぽく語りたい。この映画の冒頭は妙に白っぽい、光が過剰に回ったような映像である。そして、最後も同じ白茶けた映像で終わる。その間は、闇であり、雨であり、森であり、女子校のトイレであり、廃屋のような民家である。城のような屹立したものとして大きな工場が映し出される。犯人と目される、眉目秀麗の、女のような柔らかな手をした青年はそこで事務の仕事をしている。彼は軍隊を退いて、そこの村にやってきた、という設定になっている。話の展開は、冤罪などまったく平気な田舎刑事とソウルからやってきた四大卒業の刑事との確執で展開するが、次第に事件にのめり込んでいくエリート刑事が冤罪でもぶち込んでやりたいとまで言い出す。彼にも旧時代の感覚が拭いがたく刻印されている。田舎刑事には病院の看護婦を辞めた恋人がいて、彼女から事件の行き詰まりに祈祷師を使うようアドバイスされたり、元気になる液体を注射してもらっている。


事件が大きく動くのは、刑事部の女性事務員が事件が起きる日に共通性がある、と言い出したからである。雨の日で、夕方のラジオのリクエスト番組に決まって同じ局がかかるときに、赤い服のきれいな女性が殺されている、という。そこからにわかに犯人像が絞り込まれるのだが、それまで容疑者として引っ張られていたのは、知的遅れのある変態オヤジ、顔に火傷のあとをもつ、これも知恵遅れの青年などだ。そこに端正な顔立ちの、まるで女形のような青年が真犯人として浮かび上がるとこに、この映画の最大の魅力がある。見えない縦糸のように、韓国が軍政だったころの機動隊と学生の乱闘の様なども挟まれる。事件発生の条件が整い、さあ機動隊を呼ぼうとなったときに、大きなデモに対処するために出払って、まんまと犯人に新たな殺人を許してしまう。


泥臭い旧世界と、つるんとした、表面上は美しいが、なかは得たいが知れない新世界。刑事たちの奮闘も、最後はアメリカに依頼したDNA検査で否定される。韓国がまさに変貌しようとしていたその時期をまざまざと描いた映画だったのではないか。それは冒頭とラストの白っぽい映像が如実に物語っている。刑事を辞めた男はいまはパソコンのセールスマンになっているという丁寧な落ちまで付いている。刑事や容疑者のいる闇の世界と近代工場とそこに務める白皙の美青年という光の世界の対比。といっても、その美青年も異様な犯罪を繰り返す存在でもあるのだが。軍隊経験がなにがしかの影響があったのかもしれないが、それを想像させる材料は映画の中にはない。


45 ミセス・ダウト(S)
ようやくにして見た。思いのほか面白かったが、やはり思い描いたままの映画だった。ピアーズ・ブルロスナンがいい男役で出ていて、何も悪いところがないのにミセス・ダウトにいじめられるのは理不尽である。子どもたちもけっこう懐いているのに。女性へと変身するときにシナトラの曲がかかっている。箒を使って遊んだり、楽しげにやっている。昔、自分が振ったブロズナンとの再会後のサリー・フィールドの、自信を取り戻したような表情がいい。


46 メッセージ(T)
ほぼ結末まで分かるような映画だが、最後になって仕組みが分かる構図になっていて、大作なのに考え落ちに入るのはどうかと思う。マグリットのような岩、タコのイメージの宇宙人、そこに蝟集するアメリカ軍、世界12箇所に散らばる宇宙岩など、すべて既視感である。宇宙人が墨文字を書くのには嬉しかったが。しかし、自分のとんでもない能力に気づかない言語学者とは? エイミー・アダムスジェレミー・レナー、陸軍大将がホィットテイカーなど。監督ドゥニ・ビルヌーブでカナダ人、「ボーダーライン」を撮っている。あれも女性が主人公だった。宇宙人に最初に手を出そうとしたのが中国軍だが、その設定はおかしいのではないか。血気に逸るアメリカが先だろう。


47 20thセンチュリーウマーン(T)
アネット・ベニング主演で、彼女は大恐慌を経験している、と息子に揶揄されている。70年代に50歳半ばという設定である。息子ジェイミーはまだ15歳である。エイズも、ネットもまだ誕生していない時代だと言っている。古い家を買い、それの修理をしてくれている男もそこに住んでいる。ビリー・クラダップで、ぼくは「スポットライト」で見ているのだろうと思う。黙っていてももてるので女性の好みが分からないという。元ヒッピーでヨガをやる。もう一人の同居人は写真家で、かつての手術で子宮頸管に傷があり、子どもができないと医者の診断を受けるが、のちに子どもを2人なしている。彼女はジェイミーにもてる男の像を教えようとし、女の心理なども伝えようとする。トーキングヘッズなどの曲を聴き、下手でも情熱があればいい、とベニングには驚きの見解をもつ。夜な夜なジェイミーの2階の部屋に外から上がって来て、ただベッドに並んで寝るだけのが同級生のエル・ファニングで、この子には妙な気配がある。ジェイミーは彼女とセックスをしたいが、結局はあんたも普通の男と同じと拒絶される。2人は逃避行に及ぶが、結局は逃げ出すことはない。


ベニングが演じた20世紀の女は、調和のとれた音楽を好み、比較的害の少ないと思われるセーラムをヘビィに吸い(それは格好いいedgyと思われたから)、結婚をしないと幸せを掴めない女と思われるのが嫌で結婚したと言い、性的な露骨な言葉を使うことを嫌い、男性とは淡泊で、息子の言動についていけず上記2人の若い女性に訓育を頼み、毎晩ベッドでピターラビットを読み、自動車が火を噴き消火してくれた隊員を家に招き、息子が性から離れている女性の問題点を本を読んで説明すると、自分のことは自分で分かるからいい、と言う女性である。彼女に人生の焦りはない。悩んでいるのは、息子との関係だけである。しかし、息子が学校をさぼることには反対しないし、警官が突然車を止めさせて、職務訊問を始めることに抗議をするというリベラルな様子も見せる。カーターの道徳臭いテレビ演説を一人、素晴らしいと評価する。それが20世紀ウーマンだったというのである。いわゆる60年代以降のフェミニストの露骨さをもたず、自己主張も弱い。しかし、焦り、焦燥感のようなものがなく、ホスピタリティに溢れている。そこに監督は古き良きものを見ているのかもしれない。じっくりと人間関係のなかで、あまり波風立てずに描いていくのは好感である。しつこい感じもあるが、ヨーロッパ風な味わいさえ感じられる。ベニングはその特徴のない女性を見事に演じたという意味では称賛に値する。


48 鬼太鼓座(T)
加藤泰で、美術が横尾忠則、題字が粟津潔電子音楽一柳慧という豪華である。ローアングルも極まれりで、ふんどしで太鼓を叩く男の股間を下から撮すのにはまいる。三味線、太鼓だけでいいのに変なキーンという電子音をかぶせるのはナンセンスである。女性が美しくないのは魅力を半減する。

49 瞼の母(T)
江州(滋賀県)馬場の忠太郎は友人(松方弘樹)を助け飯岡の助五郎(千葉県香取郡東庄町)に刀傷を負わせて、5歳ではぐれた母を探しに江戸に出る。そこにも飯岡の手の人間がやってくるが、忠太郎はめっぽう腕が立つ。母は大店の女将(木暮三千代)に収まり、これも大店の嫁におさまる娘の婚儀を待ちかねている。そこに忠太郎が現れたので、最初は金銭欲しさ、つぎは乗っ取りを疑って、実子だと分かりながら忠太郎を拒む。火鉢をはさんで忠太郎がいまにも飛び付きそうな勢いで口説きをするシーンは、ちょっとやりすぎ感がある。しかし、いかにも芝居仕立ての感じが懐かしい。せっかく母や妹やその将来の夫(河原崎長一郎)が忠太郎を追って、名前を呼び叫ぶが、忠太郎は出ていかない。何の説明もないが、自分がいてはいけないところだと悟ったということなのだろう。むかしの人はそんなことは承知で見ていたのだろう。加藤泰監督である。


50 異人たちの夏(S)
大林宣彦監督、風間杜夫、永島敏行、片岡鶴太郎秋吉久美子など。名取りが夜中に飲みさしのシャンパンをもって風間の部屋に押しかけ、半開きのドアで押し問答するところは、厚かましいけど憎めない感じも出さないといけないという微妙なところで、さすがの演技をしている。なぜ彼女と付き合いはじめたときに亡くなった父母と会うようになったのか、その理由が解き明かされない。3人に会ったことを感謝することで映画は終わるわけだが。異次元への境界超えは、廃線となった地下鉄が眼前を通ることで表現されるが、そのときほかに2人の同行者がいたわけで、彼らとその件に関してひと言も会話がないのはおかしい。一番の問題は名取裕子の正体曝露でオカルトになったことである。せっかくのほんわかした雰囲気が吹き飛んでしまう。


51 リンカーン弁護士(S)
監督ブラッド・ファーマン、ほかに見たことがない。マシュー・マコノヒー主演、彼も顔を知っているぐらい。 ライアン・フィリップという男優が悪役、この人も知らない。マリサ・トメイがマコノヒーの別れた妻、目尻のシワが目立つようになったが、相変わらずきれい。 ウィリアム・H・メイシーはシワが氷河のように顔を刻んでいる。思いもかけずいい映画で、ゆるみなく見ていることができた。残酷な殺人犯が無罪だといって弁護を求めてくるが、探っているうちにかつて自分が無期刑でぶちこんだ男の事件もそいつが引き起こしたものと分かる。しかし、守秘義務の壁で弁護を続けるしかない。それで採った手は? 駄目な弁護士だが、不正は許せない。それがきっと爽快感につながるのだろう。


52 ジョン・ウィック Chapter2(T)
予告編ではヨーロッパが舞台、それに着飾った人間たちの中で撃ち合い――ということで、またアメリカ映画のいつもの2作目の失敗パターンかと思った。やたら筋をややこしく、そして展開を早くして、中身があるように見せる、という手口で、初回にもっていた映画を駆動させる情念みたいなものが吹っ飛んでしまうのである。ジョン・ウイックを戦いに駆り立てるのは、亡き妻への愛情である。それが前作を貫き、統一感を持たせた。それとリタイアした伝説の殺し屋という設定が魅力的だった。今回はそれを何で補完するのか、というのが最大のポイントである。朝日新聞では何か批判的なコメントを掲げ、それでもアクションシーンはいい、などといい加減な映画評を載せていたが、これは2作目としてはここ最近では上出来の部類である。冒頭から車をガンガン走らせるのは常套手段で、そろそろこういう手も飽きてきている。妻との思い出が詰まった車を奪い返す、という設定だが、ここに出てくるロシアマフィアは次に展開する話とは別物である。なんとなくこのつぎはぎスタイルは、MIシリーズに似ている。
この映画を駆動させるのは、仲間の血の契りである。ウイックはそれを破ろうとするが果たせない。最後は組織全体から追われるところでフィニッシュである。柔道の背負い投げがくり返されるのは、前回になかったことではないか。格闘しながら銃を使うのは「レイド」のパクリか。何度も見ていると、ちょっと単調である。もう少しアクションの幅が欲しい。前半の話が一段落して、次のラストに移るまでの弛緩した時間処理をもっと工夫すべきである。これは最近のアクション映画全般に言えることで、冒頭で引っ張るだけ引っ張っておいて、あとの展開に移るまでがダレるのである。映画を30分短くすれば、この悩みは解決するはずだが、最近の映画は2時間を超えるのは平気である。一考あってしかるべきではないか。第3作目を期待したいが、制作陣もそのつもりではないか。


53 哀しき獣(S)
これで4度目である。まだこの映画の構図がよく分からない。投資家兼学者を殺したのは誰か。ラストを見ると、銀行員と結託した妻ということになるが、その学者と組んで悪事を働いていた実業家(?)は、死ぬ間際に学者が自分の愛人と関係を結んでいたからだ、と呟く。主人公は満州に帰る船で死に、捜して死んでいると思った妻はその故郷へと帰ってくる。さて、この「哀しき」獣たちは、なぜ哀しいのか。それは女たちに人生を狂わされたからである。初回から実業家の愛人の裸の迫力に驚いてきたが、実は監督はそこに力を入れたのである。故郷の駅に降り立った女房はあくまで清楚に撮っている。これもたくらみである。それにしても、のちに主役級になる人たちがごろごろ出ている映画である。学者しかり、満州のボスしかり、実業家しかり。主人公の影の薄いこと。


60 ニック・オブ・タイム(S)
in the nick of timeで「間に合って」という意味のようだ。すごいいい加減な映画だが、最後まで見てしまった。なんか前にも見たことがあるような……。素人を知事殺害者に仕立てる話だが、まわりはみんな反知事の人間ばかりで固めているのに、なんでわざわざ素人を雇って殺しをさせる意味があるのか分からない。ジョニー・デップクリストファー・ウォーケンが出ている。


61 優雅な世界(S)
監督ハン・ジェリム、主演ソン・ガンホ、彼の幼友達がオ・ダルス、娘がキム・ソウン、やくざの会長がチェ・イルファ、その弟がヨン・ジェムン。のんびり、ゆっくり進みながら、無理なく撮り終わっていて好感である。やくざでしか暮らせない男の哀感が最後に出ている。アメリカに行ってしまった妻、息子、娘の楽しそうな映像が送られてくる。最初はうれしそうに見ているが、途中で「なぜこんなことに」と悔恨に襲われ、食べていた麺の器を床にたたきつける。しかし、一人暮らしで誰も片づける者はいない。ゴミ袋とタオルを持ってきて拭き始めるが、彼の右横にある大きなテレビのスクリーンには相変わらずアメリカの団欒が映っている。皮肉なラストでいい。この監督はあと2作しかないようだが、ちょっと見てみたくなる。


62 ハイドリヒを撃て!(T)
朝日新聞は激評である。さてそうなのか。ぼくは仲間を密告する男がただ懸賞金のためにやったという演出をしているが、あれは史実なのか。その密告男がさんざんいたぶられたうえに犬のように使われる。そこに僕はナチの恐さを見た。ハイドリヒはナチのナンバー3ということだが、戦中で殺された中では序列1位だそうである。襲撃事件より、その後の教会での銃撃戦のほうが劇的である。チェコの愛国の映画をなぜ英語で撮るのか。英語帝国主義は取るに足りないとでも言うのか。


64 クーリンチ少年殺人事件
登場人物が多く、名前も似ているので、途中までよく分からずに見ている。小四、小明、小虎、山東、ハニー、小翠などなど。ハニーが山東に殺されるに及んで、やっと構図が見えてきた。ハニーを殺され、復讐の場面が停電で真っ暗という演出がいい。あるいは、頭を抜かして体だけを撮る方法だとか、馬生に会いに行った小四の場合、まったく小四を撮さず、馬生の動きだけで2人の会話を成り立たせている演出もいい。この映画の背景は、中国からやってきた国民党の本省人への弾圧である。小四の父親が監禁され、しつこく聞かれるのは中国共産党との関連である。小明がヒロインだが、つねに強い男に付く女で、自分にはいつも男が言い寄る、と平気で言う女である。小四は彼女に惚れ、彼女に翻弄される。そして、最後には彼女を殺してしまう。小四は小明および小翠と付き合うが、どちらからも「私を変えようとするのは間違いだ」と指摘される。おそらく、この女性が象徴するのは本省人で、どんな侵略をされようと変わりようがないという暗喩である。好きな女が倫理観などはなから捨ててかかっていたこを知るのはつらい。小四はまったく宗教臭のない男だったが、後半に来てクリスチャンの次姉に親近感を覚えるのは、作劇上の知恵でもある。小四が小明を刺して、「君は生き返られる」と叫ぶのは、その残滓だろう。はしなくも最後に教会の合唱団のコーラスが登場する。1箇所だけユーモアのシーンがあって、末子が母に、母の時計を売ったのは長兄だと告げ口するところ。長女が、なにもできないくせに、告げ口だけはする、といい、末子はぺろっと舌を出す。じつは時計を売ったのは小四で、そのことを次姉は知って、やさしく諫めることで、2人の気持ちが近づき、先のキリスト教への理解へと進むのだ。プレスリーを初めとするアメリカ文化の圧倒的な流入も描かれる。そこで高音の声を出す小さな人物が、とてもいい。彼の友達を思うピュアな気持ちで、この映画が陰惨にならずにすんでいる。映画の撮影所がデートの場所に使われたり、屋根裏から子どもたちが撮影現場を見るシーンがあるが、ある種のオマージュかもしれないが、最後に、小四は監督に「人間のことを分からずに映画を撮るな」と𠮟咤する。これは監督の強いメッセージであろう。最後に、この映画は実話ということらしく、小四は15年の刑を終えて出てきたときは30歳だった、と記される。4時間、身じろぎもせずに見た。まるで映画のなかで呼吸をしているような気になってくる。台湾の複雑な歴史について知りたくなった。


65 7つの贈り物(S)
ウィル・スミスがかなり痩せていて、とてもビューティフルに見える。彼が関わっていく人間たち、安宿に持ち込まれるクラゲ、彼の過去の記憶、それぞれがちょうどいい触れ加減で処理されていく。スミスの演技も見物で、こんな上手な人だったのかと感心した。良質な映画である。ヒロインのロザリオ・ドーソンが活版の印刷機でアートっぽいもの印刷しているのは心に残る。テレビが中心の女優さんらしい。


66 ワンダーウーマン(T)
世界でだいぶヒットしているようだ。荒唐無稽に、少しだけリアルを足したのが、新味になっている。ワンダーウーマンがナチの背後に悪魔を見て、戦いを挑むのである。そうなればただの暴力のインフレーションでしかないが、イギリス議会の描き方など丁寧なのである。それにしても、老人パトリック卿が悪い神というのは、ちょっと寂しい気もする。女優さんガル・ガドッドはイスラエルのモデルらしいが、黒髪が西洋人には神秘的に見えるらしい。どこかスザンヌ・プレシェットに似ている。横顔はあまり美人ではない。クリス・パインが下半身を見られ、アベレッジかと聞かれ、それ以上だと見栄を張るところが面白い。セックス談義をするところも、海外では大受けするのでは。快楽に関して12巻の書物を読み、男は快楽を運ばない、という断言するのには、笑ってしまう。きっと続編は見ないと思う。


67 レッドドラゴン(S)
どういう事情があってこういうモンスターが生まれたのか知らないが、彼は品位の人間として描かれ、一方で人食いでもあれば、残虐な殺人者でもある。そのギャップがこの映画の、基本的な構造を決めている。品位と汚穢である。ハンニバルに恨みを抱く金持ちは、顔をナイフで削いだために、大きな欠損を抱えている。しかし、その振る舞いには上級クラスの品位がある。ここにも2つの反対方向を向いた価値が組み込まれている。それにしても、食人のテーマは思いっきり下品だが。ハンニバル博士は、自分を負う女刑事を、地面に身をたたきつけるまで降下する鳥になぞらえている。ジュリアン・ムーアはよくその役を演じている。胸を強調するドレスを博士は彼女に着せるが、その彼女がつくテーブルには頭蓋骨をカットされて生きている上司が待っている。ここにも気品と下賤があるが、その上司の脳をカットして焼いて食わせるというのは最低である。


68 ハンニバル(S)
今度、ハンニバルは獄中にいて、男性刑事エドワード・ノートンのアドバイザー的な役目を負わされている。外で犯罪を犯すのはレイフ・ファインで、この選択はグッドである。あのジェントルな感じの男が、背中にレッドドラゴンの入れ墨を入れ、それをブンヤさんフィリップ・シーモアに見せるシーンは圧巻である。背中の筋肉を動かすことで、絵図が生きて動いているように見えるのである。彼がマザーコンであるというのは、あまりにも陳腐な絵解きで、安易にすぎる。その唇に三つ口の傷をもつ彼が愛するのが、盲目の女性であるエミリー・ワトソンである。美人でもない彼女をキャスティングしたのも、グッドである。エドワード・ノートン好きとしても、グッドの映画である。よくできている。


69 ラブ・アクチュアリー(S)
2度目である。登場人物が多いのに、情報量の処理が的確である。老歌手が男性マネジャーに恋していた、という箇所はちょっと無理がある。コリン・ファレルの作家がポルトガル人の女性の下着姿を見て、恋心に火が着くというのは、安易に過ぎないか、何歳だか知らないがヒュー・グラントの首相はうぶに過ぎる。何か彼の結婚してこなかった理由付けが要るはずである。ローラ・リニーが心病む弟思いで、自分の恋を諦めるところは泣ける。それにしても、このブログで以前に書いたように、彼女はよく脱ぐ。そして、スクリーンで見なくなったと思っていたら、ネットフリックスの連続物語に出ている。見ようか見まいか迷っている。


70 エイリアン・コベナン(T)
前回の「プロメテウス」の続編というが、前のを覚えていないので、それに関して何かをいうことはできない。1作目と同じくというか、さらにアンドロイドの完全体生命の執着は激しく、それが強調された、アンドロイドのための映画になっている。主人公の女性の魅力のなさを見ても、それが分かる。内容的には、リドリー・スコットよ、自己模倣を止めよ、である。ほぼ新しいことはない。なぜ先になんだか惑星にたどり着いたプロメテウスの方が、訳の分からない形状の宇宙船なのか。そっちの方が、飛ばすのは難しいはずだ。旧アンドロイドが、主人公の女性にかすかな恋心を抱えているのに、なぜ船外でエイリアンと戦っているときに助けに出ないのか、としたらニセものではないか、と僕だって分かる。船員2人のシャワーシーンなどのおまけは必要なのだろうか。流れからいって、下品である。エイリアンにあった、ぬめっとした恐怖感は消え去って、急に襲ってくる恐さだけであり、それは化け物屋敷の恐さと変わらない。あとは肉を突き破るスプラッターも多い。とても残念である。


71 三度の殺人(T)
是枝が社会的なネタを題材にしたのは初めてではなかろうか。新聞評は芳しくないが、篠田正浩はドスエフスキー的テーマを追い、惜しいところで大魚を逃がしたと新聞で語っていた。意中の人物であるゾルゲを撮って駄作しか作れない男にいわれたくないだろう、是枝も。篠田は、途中に神の視点が入ったからだ、というのだが、それが広瀬すず役所広司の殺害場面を指すとしか考えられないが、あれは弁護士福山雅治の幻想場面ということだろうから、その意見は見当違いである。この映画は、正義を求めない司法のあり方と、供述がころころ変わる被告の、どちらにも荷担しない姿勢で作られているがために、テーマもぼやけたというのが本当だろう。過去にも殺人を犯している被告の生地にまで足を運ぶが、それで何かの結論を見出してくるわけではない。当時の警官からは、まるで殺人好きの人間にさえ思えるような発言がある。しかし、われわれが目にする再びの殺人の被告は、そうは見えない。はるばる北海道留萌まで調べに行った弁護士は、今度の事件とそれを結びつける努力をしない。広瀬と役所は情を通じ合ったということのようだが、それについて追求していくわけではない。この弁護士は、本当はやる気がないのではないか。役所は、生きていてはいけない人間がいる、と言うが、それと同じ台詞を福山も言い、最後の接見の場面ではあざとく2人の顔を並列させることもやっているが、それはちょっと無理な演出というものだろう。冒頭に是枝にしては珍しく俯瞰の絵で、右からタクシーが走ってきて、まさかカメラが寄るのかと思うと、そのまま寄って車内の映像となる。まるでハリウッドの真似である。これできちんと劇が進行するな、と思ったのが間違いであった。


エドワード・ノートンが二重人格を装って弁護士を騙す映画があったが、そう割り切って役所を悪者にすれば、それはそれで分かりやすい映画ができただろう。しかし、是枝が描きたかったのは、芥川の“藪の中”なのだから、ああいう曖昧な映画になるしかないのである。上っ面しか合わそうとしない司法のいい加減さを告発するでもない、被告の虚言癖に振り回される馬鹿さ加減を描くでもない。公判が始まっているのに、突然、被告が殺人をやってない、と言い出し、弁護士は被告信頼しているわけでもないのにその話に乗り、まんまと裁判に負ける。ここがいちばん盛り上がるべきところなのに、まったくその逆。その方針転換は意図的に広瀬すずを守るためにやったのでは? とあとで被告に聞くが、それこそ後の祭りである。テーマがきちんと定まると、監督の意図から離れる、という意味では、厄介な映画を撮ったものである。三度目の殺人の三度目とは、自己処罰という意味を込めているのかどうか。


72 ドリーム(T)
原題はHidden Figures で、これは黒人のことでもあり、NASAの宇宙飛行船開発に必要な数式のことでもあるだろう。本当に露骨な差別をしていたものである。黒人女性のトイレがなく、雨の中を書類を抱えて走らざるをえなくても、誰も助けない。彼女のポットを誰も使わない。最近、留学研修生で来ていたベトナム人(?)だったかが、工事現場で差別され、ペットボトルに入れた小水をかけられ、神経衰弱になった記事が出ていたが、日本でも同じようなことをやっている。


73 ターミナル(S)
トムハンクスが、母国が革命で失われ、ケネディ空港に留め置かれ、その人徳から人々に慕われる、という映画である。父親がジャズ好きで、あるアメリカのクラブに集うジャズメンたちからのサインを集めていたが、あと一人というところで亡くなり、その意思を継ぐためにNYへとやってきたという設定(それは最後に明かされるのだが)。英語が拙いのだが、早口の会話が聞こえるという矛盾もあるが、限られた空間のなかでの様々な工夫が楽しい。最初、空港の所長が寛大な措置をとろうとしても、それに乗ろうとしない。それはなぜなのかは、ちゃんと説明がされない。セタ・ジョーンズのきれいなこと。彼女に振られるのも、少し後味が悪い。


74 おクジラさま(T)
「ハーブ&ドロシー」の監督佐々木芽生の作品である。なんということもない映画。それにしてもイルカを人間に近いと言って、それを殺すことを生業とする太地の人々を殺人者と呼ぶのは常軌を逸している。世界では狐狩りと何だか(失念)は
中止されたと言っていたが、それは遊びとしての狩であって、暮らし生きていくためのものではない。そういういくつかの複合的な視点が示されている映画である。太地に住まうドイツ人ジャーナリストは、太地の発信力の弱さを言っている。シーシャパードたちと雲泥の差があるという。


75 闇金ウシジマくん(S)
山口雅俊監督で、プロデューサーから兼監督になった人のようだ。なかだるみの箇所もあるが、面白く見ていられた。ウシジマは圧倒的に力が強くて、金銭哲学が際立っている。こういう人物はどういう背景から生まれてくるのか。前に勤めていたという青森生まれの女性が訪ねてくるが、そういう人間にも好かれる人物である、という設定がこの映画に膨らみを与えているが、その女性のキャラがもう一つ立っていない。モンスターのような男が出てくるが、アメリカ映画だともっと強烈な暴力男に描くだろう。女たちを焚きつけてウシジマを告訴するイベント男のモノローグが入るようになっているが、これがこの映画を二流にしている理由だろう。もったいないことだ。ウシジマが拘置所でオムレツを食べながら「ケチャップ薄い」と小声で盛らすところなど笑ってしまう。ラストも、子分が人生訓みたいなことをとうとうとしゃべるのを、「もう分かったから、黙っていてくれ」とソフトに制するところも面白い。この監督、ウシジマしか撮っていないようで残念である。主人公はもちろん山田孝夫である。女性社員が1人いるが、それのキャラをもっと立てたら面白いかも。ヒロインの大島優子が堅気に戻り、若い店員に好意をもたれるが、その店員が市原隼人で、手抜きのキャスティングでないところが好感。続編はひどい出来だ。もうファイナルにたどり着けない。


76 ミックス(T)
新垣結衣で見に行ったが、やはりかわいい。意外と背が高く、全体がひょろっとしている。演技はほぼ現代風だが、さらっとしていて、そこが後味を引く感じがある。王道の筋を踏んだ映画で、楽しませてもらいました。ただ、2箇所、変なところがある。瑛太の名が、少年時に全国大会で優勝した子と同じで、その子と勘違いされるシーンがあるが、まったく筋と関係していない。脚本が間違っているのに、なぜ訂正しないのか。もう一つは、新垣がむかしの恋人とよりを戻そうとしたが、気が乗らず故郷へ帰ってくるが、そのことをなぜ瑛太は知っているのか。細部に配慮が足りない。こういうことをごまかす監督は信用がおけない。蒼井優が中華料理屋の変な日本語をしゃべる店員になっているが、頭が下がります。彼女はどこへ行こうとしているのか。新作も期待が大きい。


79 アトミック・ブロンド(T)
シャリーズ・セロンのアクションものは「イオン・フラックス」以来ではないか。「マッドマックス」はテイストが違う。この映画、遊びっぽいタイトルロールから、見なきゃよかったかな、と思ったが、あまり本編では変なことはやっていなかった。ときにアメリカ映画で、前衛を隠して作るものがあるので、要注意なのだが。
ベルリンの壁崩壊当時の話なので、アトミックも分からないわけではないが、やはり古い。例によって、西側スパイのリストがソ連に渡りそうになるという話で、相も変わらずである。Mー16のスパイと思っていたらKGBと二重スパイで、最後はCIAだというのでは、何がなんだから分からない。いったい主人公は誰と戦っていたのか。ジョン・ウイックやイコライザーなどは筋がシンプルで、格闘技が冴えているのでヒットしたのである。それから行くと、この映画、アウト・オブ・デイトである。シヤリーズ・セロンの乳首見せはサービスかも知れないが、別に必要ない。レズのシーンもどうかと思う。2はないと断言できる。


80 ブレードランナー2045(T)
十分に楽しめました。2時間44分、ほとんどまんじりともせず見ていた。前作ははなから名作の香りがしたが、今作も期待以上だった。前作の染み通っていくような哀しみはないが、いくつか新しい映像――レプリカントにイメージの女が重なってセックスに至るところや、難破した小型宇宙船に海水?が降りかかるところを俯瞰で撮ったり――もあって、ほぼ緊張感をもって見ることができた。前作のほうがデスペレイトな未来の感じが出ていたが、今回のは前ほどそうは感じない。退廃のアジアが経済成長著しいことと、核戦争の脅威は以前ほど強くないからではないか。レプリカントが子どもを産むというのが主題だが、そんなことあり? の世界である。武器がナイフというのも、なんだか現世的である。廃墟のイメージはくり返しさまざまな映画で見ているので、ちょっとやそっとではもう驚かない。あと2045年の設定はいくらなんでも近すぎる。過去の懐かしい映像としてシナトラ、モンローが出てくるが、それは今だって懐かしい。町の様子をもっと見てみたかったが、残念ながら前作を超えていない。


81 次郎長三国志・初旅篇(D)
「次郎長売出す」が1作目で、これが2作目。この映画は、茫洋とした次郎長・小堀明男でもっている。ある若い衆の仲裁に入って、赤鬼とかいう親分と果たし合いをすることになり、次郎長が言うのが、「売られた喧嘩、できるかぎりのことをやってみるさ、なあ」である。あるいは、その若い衆が一緒に出奔した女の親父に会いに行くシーン。次郎長が挨拶することになり、「どうかな、まずは、当たってみるずら」と自信なげに言う。それを子分ども、とくに大政(河津清三郎)が、そういう言いながら親分なら大丈夫だ、という顔つきをしている。赤鬼を名前ほどでない親分と分かり、啖呵を切るところは今度、とろとろした感じがなくて、切れのいい台詞回しをする。どうせ切った張ったの世界、たいしたことはないわけだが、そこにきりりとした美学があることを、マキノは知っている。子母沢寛が描いた、背筋がぴんと立ったヤクザの世界が直接的に描かれていると感じる。ほぼ終わり近くに森繁の石松が出てくるが、すごい怪演である。キキツと首をひねったり、口を曲げたり、どもり始めるとさらにその演技が熱を帯びてくる。河原での果たし合いの様子が描かれないことと、それについてあとでまったく触れないことは、おかしい。石松の登場にウエイトをかけたせいだろうとは思うが、いい加減なものである。のちに鶴田浩二が次郎長をやっているが、こののほほんとした小堀の次郎長には敵わない。仁義を切るのに相撲の蹲踞の姿勢をしているが、それが本物か。むかしの映画を役者の身体性から見るのは、ひとつの楽しみ方である。小林信彦御大は、アチャラカは身体の動きで決まるのだとおっしゃっている。それは舞台を見ての感想で、さすがに鋭い。ぼくが三木のり平好きなのは、そのせいである。


82 次郎長と石松(D)
第3話ということになる。石松と追分の三五郎とのあれこれが前半で、後半が次郎長一派が賭博開帳の罪で牢に入ってのいろいろ。石松が惚れる門付けかつ壷振りが久慈あけみで、妖艶である。湯船から立ち上がり、胸の高まりを見せる大サービスもある。これはきっと当時の話題になったことだろう。後年森繁は久慈と社長シリーズの夫婦をやっているが、こんな若いころに一緒に出ていたとは知らなかった。三五郎を演じた小泉博が軽妙で、人非人で、しかも石松思いの細やかさもあって、いい役者である。石松を出し抜いて久慈とくっつこうとしたが、久慈にソデにされ、喧嘩で足に負った傷が痛んで路傍に足を投げ出して坐っているところに廣沢虎造(役名虎吉)が通る。小泉「お兄さん」虎造「若きゃない」小泉「きょうだい」虎造「ふざけんな」小泉「親分」虎造「なにか用事か」――この掛け合いは面白い。
次郎長たちは牢名主にいじめられるが、ニヤニヤして聞いている。いずれ痛い眼にあわせてやる、という魂胆が出ている表情だが、前2作の次郎長のイメージとちょっと違う。もうふてぶてしいのである。あの豆腐のような軟体人間のおかしみが消えている。これは牢内という設定のせいなのか、あるいは演出の間違いか。次作以降を見てみないと分からない。


83 濡れ髪牡丹(D)
雷蔵京マチ子の恋の鞘当て。京マチ子が3千人の部下をもつやくざの親分、難関の試験を通った人間を婿にするというが、みんな敗退する。雷蔵だけが通るが、諸事万端免許皆伝の男。だけど、試合には負けてやり、また1年後にやってきて、またさらに1年後にやってくる。安部徹が身内から裏切る役で、あれだけ強いとみんなが言っていたのに、女の力じゃ男に敵わないだろうと言い出す始末。大辻士郎が京マチ子の命令で雷蔵の付き人に。なんとも面白みのない役者である。
雷蔵の喜劇だが、ぼくは彼の明るさが生きていて、感服した。京マチ子は薹が立ちすぎている。熟れすぎて新鮮みがないが、刀を振り回したり、頑張っている。女は結局、男にすがる、と堂々と言っているのが、やはり時代である。


84 ゲット・アウト(T)
すごい駄作。朝日の評に釣られたが、あまりにもひどい。道路で突然何かが車にぶつかってきた時点で帰ろうと思ったが、仕方なしに見てしまった。突然、部屋の中を誰かがよぎったり、暗闇の中を走ってきたり、手口が幼稚である。多様性のなかの恐怖、と朝日で柳下毅一郎とかいう評者が書いていたが、白人至上主義以外の何ものでもない。おふざけではない。主人粉を演じた黒人もひどい。口を開けたまま演技をしない。まえも朝日は、韓国映画「コクソン」を“懐柔しえない怪物”と書いていたが、あれは日本を消化仕切れない韓国のジレンマを扱ったものだ。あの國村隼の演技を褒めるのは犯罪的でさえある。


85 女神の見えざる手(T)
原題はMiss Sloneである。ジェシカ・チャスティン主演、マーク・ストロングジョン・リスゴーが脇。監督はジョン・マッデン。銃コントローになぜそれほどの熱意を燃やすのか、敏腕ロビストの背景が分からないが、映画は面白い。一人でやるコーンゲームである。おそらくだが、上流に位置する女性で、これだけ強烈でアクティブなタイプが描かれたのは初めてではないか。性の処理のために男娼まで呼んでしまうのだから。アメリカではよく、ある法律を通すために、議員間でさまざまな駆け引きが展開されるようだが、銃規制の問題がここまで伯仲する、というのは驚きである。かつて銃撃事件に巻き込まれたことをTVで告白した女はチャスティンのチームの一員で、再び街中で殺されかけるが、それを阻止した市民マッギルは、直前に、その女性とすぐ近くの建物のロビーでぶつかり、女性は書類などを床に落とす。男は書類を拾うふりをして、何かを手にしたが、あれは何だったのか、いま一つ分からない。マッギルは銃擁護派の回し者という設定ではないのか。映画のなかで、それについて触れられることはない。この映画はもう一度、見る必要がある。それにしても、「ヘルプ」でスノービッシュな白人女を演じたチャスティンが、正当な女性主人公として活躍しているのは、珍しいケースである。彼女の幅の広さを感じる。


86 赤ひげ診療譚(S)
1965年の作で、次が5年後の「どですかでん」である。前に見ているが、仁木照美の狂いの場面以外、ほぼ憶えていない。これは盛り上げ型のドラマツルギーではない、黒澤が円熟期を迎えたような、挿話をつなげるゆったりとした作劇である。死と再生が大きな要因となって青年は成長していく。その先に三船という師夫がいる。この三船は紋切り型で、魅力に欠ける。加山雄三はその下手さ加減がちょうどいい。死は藤原鎌足山崎努という、誰からも好かれる2人、そして再生は女郎屋から助け出された仁木照美と療養所にかゆなどの盗みに入る小さき泥棒の2人。桑名みゆきは大工の山崎に出会い、結婚することで幸福な暮らしを味わうが、父親に会わせようとしない。それは後で理由が分かるが、彼女には許嫁(いなづけ)的な男がいて、男は桑名の父親にあれこれと援助を続けていて、そのこともあって、好きでもないが、いずれ結婚する相手と思っていた。父親に山崎を会わせると、それが露見してしまう。桑名は山崎と結婚するために、父親の言うことを聞かず、出てきたのである。彼女は、日々の暮らしがあまりにも幸せなので、そんなことが自分にあっていいものかと不安を感じる。地震に遭うことで、やはり不幸がやってきたと、実家に帰り、前から言い寄っていた男の女房になる。しかし、浅草の縁日で山崎に会い、今まで夢の中にいたような思いがしていたが、それが一気に晴れたと言って戻ってくるが、山崎に抱きしめてくれと言ったときには、手に刃を持っていて、腹部を刺して死ぬ。山崎はその一部始終を死の床で長屋の連中に語り、臨終の時を迎える。仁木照美は自分を介抱した加山に思いを寄せるが、加山に女がいることを知り、また固い殻のなかに閉じこもろうとする。しかし、泥棒少年(次作の「どですかでん」の主人公)の窮状に同情することで、彼女の優しい心が発露する。そのことを、三船は読んでいる。
沛然と降る雨、集団の正面図(療養所の連中が自宅へ帰る山崎を送る場面)がもつ迫力、加山と仁木のサイレント的なやりとり、いくつか見どころがある。なかでもかなり続く加山と仁木のサイレント的なやりとりは貴重である。

87 ギフテッド(T)
中身を見ないでも分かる映画なので、見なくてもいいのだが、ほんわか映画が少ないので見ることに。すべてがデジャブだが、見ていることができる。エリート主義を否定しているようで、じつは完全にそれに依拠した映画。ダコタ・ファニング、ジョエル・オスメント、マコーレ・カルキン、ベンジャミン・キンボール・スミスなど名子役は多いが、そこに今作のマッケナ・グレイスが加わった。お父さん代わりのクリス・エバンスはおいしい役どころ。人のいい隣人を「ドリーム」のオクタビア・スペンサーが演じている。もう一つ彼女の人の良さが伝わってこない。彼女の来歴が紹介されないからだ。


88 奇跡の2000マイル(S)
オーストラリアの砂漠地帯3200キロをラクダ4頭と犬1匹とで歩き、西の海までたどり着いた一人の若き女性の映画である。途中に出合うのは、ヘビ、野生のラクダ、1人でぽつんと暮らす男、2人でぽつんと暮らす老夫婦、アボリジニ、そして野次馬ぐらいのもの。たまに写真を撮りにやってくるナショナル・ジオグラフィックのカメラマン、彼と恋人の仲になるのだが。ほぼ日本の北から南まで全部砂漠のなかを歩いた計算になる。なんということもないが、自然の厳しさがひしひしと伝わってくる。一度、方向を失い、途方に暮れたときに、go home と愛犬に命令して、ようやく仮泊の場所に戻ることができた。そのときの周章狼狽の様よ。母を少女期に亡くし、父とも離れた経験の持ち主で、飼い犬との別れもそのときに経験しているが、この破天荒な旅でも彼女は黒い愛犬を亡くしてしまう。疲れるのか、どこでもすぐ横になって寝てしまう犬である。暑くて葉っぱも落ちた小さな木の下に隠れようとすると、彼女は腰に巻いた布を取って、その木にかけてやる。その犬が過って、捨てられていたストリキニーネの入った空き缶を舐めてしまったのである。最後、ラクダと一緒に澄んだ海に入るシーンが美しい。


89 ノクターナル・アニマル(T)
ごく単純な筋立てである。将来がないと見放した元夫から暴力的なテーマの小説が届き、心を動かされる。いまの夫の不倫に気づき、前夫との関係を戻せるかと思うが、最後に裏切られる。そもそも彼女が心を動かされる小説は単なるバイオレンスもの、それもまったく何の工夫もない駄作。そういう暴力的な小説を書けるようになった夫を見直した、という設定かも知れないが、三文小説なのは疑いようがない。エイミー・アダムズの胸の強調は相変わらず、元夫はジェイク・ギレンホール


90 天才スペヴェット(S)
この映画、傑作である。きれいに筋が通っていて、細部が際立っていて、絵がきれいで、人物yの造形がとてもくっきりしていて、台詞もいい。フェアリーティルかと思いきや、ある種の重さも抱えている。それをお伽噺とは違う手際で処理してしまうのである。子役も見事。モンタナの田舎から貨車に無賃乗車でシカゴまで出て、ヒッチハイクでNYのスミソニアン博物館まで連れて行ってもらう。彼の発明による永久運動装置の科学賞受賞のスピーチがあるからである。その間に会う人々がみんな魅力的である。同じ無賃乗車の老人は傷ついた雀と松の話をしてくれ、途中駅のハンバーガーショップのおばさんは少年をお尋ね者と知りながら見逃してくれる、シカゴで追いかけてくる太っちょ警官は人がいい、少年を乗せた長距離トラックの運ちゃんも記念撮影好きの人柄のいい男。貨車に積まれたトレーラーが少年の隠れ家だが、そこでもいろいろなアイデアで観客を楽しませる。お見事である。少年の双子のきょうだいが銃の暴発で、家族みんながそれに触れない習慣が生まれる。タピオカという犬さえバケツに齧り付くことで、その死をやりすごそうとする。少年の姉が見かねて丘の上に連れて行き、1人と1匹でじっと風景を眺めているうちに、彼らは無二の親友になる――という動物にまで均等な視線を向けるところがすごい。監督ジャン・ピエール・ジュネ、「アメリ」「デリカテッセン」を撮っている。「アメリ」も傑作であるが、その小ネタを積み重ねていく手法がこの映画でも発揮されている。すごい監督もいるものである。よくもこれだけの斬新なアイデアを無理なく詰め込むものである。最後のタイトルロールでも、実写のイラスト版が出てきて、ますますグッドである。もっとシリアスな設定のものを撮ったらどういう仕上がりの映画になるのか見てみたいものである。



91 否定と肯定
(T)
土曜の夕方で観客が一杯である。映画もよろし。ホロコースト否定論者はイギリスで裁判を起こす。それは、被告側に立証責任があるからだ。それに陪審制でやると、えてしてパフォーマンスが過ぎて、事実に真摯に向き合えない、という見解も被告側弁護士から洩らされる。被告となったアメリカの女性学者は、「一人で裁くのか」と不安げである。英米の司法観が見えて面白い。被告はアウシュビッツで虐殺はあった、と証明しなくてはならない。もともとは虐殺あり派だった男が原告だが、ガス室コレラ菌駆除のためだという。しかし、柱が地上にまで抜けていたのはなぜか説明ができない。シアン化合物(?)が検出されたと指摘すると、別の理由を言い出し、その矛盾を指摘される。残念ながら強敵とは言えない、言ってみれば雑魚だが、見ている分には少しもの足りないだけだ。裁判劇は見応えがある。南京や慰安婦でちゃんとした、見応えのある映画を作れないものか。

2016年の下半期

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奈良の寺の壁

87 柴又より愛をこめて(S)
栗原小巻式根島の学校の先生で、24の瞳に憧れてやってきたが、年々歳々、若者は巣立っていき、自分を独身のまま取りのこされた感じが濃くなる。そんなときに、タコ社長の娘(美保純)が夫をほっぽらかして出奔する。寅さんに会いたい、というので、寅は下田にやってきて、さらに二人で式根島に渡る。小巻は亡くなった友人の夫(川谷拓三)から求婚され、それに応ずることに。なんとも寂しい話で、全体に映画も盛り上がらない。小巻が寅屋に来て居間でみんなと話すシーン、寅が何か古い話(あるときは何々、あるときは何々、という多羅尾伴内)にもっていこうとするが、調子が出ないのか、あっさりさくらにおしまいにされてしまう。珍しいシーンである。本来であれば、、ひとくさりあってしかるべきシーンである。寅と美保純の掛け合いは面白く、美保純が楽に演じているのが好感である。島の男に言い寄られ、人妻です、と柴又に戻るが、そのあとの言動は夫をさして「あんな男、どうでもいい」式のことを言うので、てっきり島に戻るかと思いきや、そういう展開にもならない。小巻と寅が、小巻の好きな場所というところで話をするシーン。寅が手をかけた長椅子の木材のクギが外れていたのか、すっと浮き上がる。あわてて、寅は小巻に抱きつき、パッと離れ、まるでペンギンのように右左に跳ねる。それがチャップリンの動きなのである。さすが浅草で鍛えてきた人だ。



88 FAKE(T)
人(新垣)に作曲させながら、それを自曲として発表し続けた佐村河内を扱った森達也のドキュメントである。なぜに佐村河内に興味をもったのかは語られない。見ていれば、ほぼ新垣との共作だったのか、という思いに傾斜する。絵画の世界では弟子が先生の名で発表することなどいくらでもある。作家では川端康成はかなりいい加減だったようだ。音楽では、交響楽などでは各パーツの譜面を書くのが煩雑なので、弟子に書かせることはやるようだが、そういう次元の話ではない。思想、構成を佐村河内が考え、細部を新垣が作るということらしい。テープを渡すこともあったようだ。佐村河内の弁護士は、新垣は著作権では争っていない、という。ということは曲は佐村河内に帰属し、テープも何本か弁護士が所持しているようだ。
本作はほぼ佐村河内は耳が聞こえる、聞こえない、に集中した作品といえるだろう。この映画では、かなり聞き取りの難しいレベルだという気がする。医者の診断書では障害者扱いはできないが、難聴の部類(専門用語を失念)というものらしい。マスコミはその診断書の1p目だけ、つまり障害者として扱えず、のところだけだという。しかし、耳が聞こえない、それも長じてから聴覚を失ったことと、音楽の創造性に何が問題があるか分からない。彼らの頭のなかに作品は鳴っているいるのであって、それを譜面に落とせない作曲家という部分が最大の問題である。外国の雑誌(新聞?)社から2人取材に来るが、録音テープはないか、なぜ採譜の習練を積まなかった、と聞いているが正当な質問である。録音テープは弁護士が持っています、と答えればすむと思うのだが、そういう発言を佐村河内はしない。後者の質問には、新垣がいたことで頼ってしまったという意味のことを答えている。やはり、それでは弱い。


雑誌の報道では、障害をもった少女を利用したとか、NHK特集では空から曲が降りてきた的な映像を撮ったことなどについて触れていたが、まったくそのことは出てこない。それと、NHKの特集の前に、米メディア(NYタイムス?)が「現代のベートーベン(?)」という記事を流したことが、この騒ぎの発端にあることではないかと思うが、なぜ海外イメディアがそういう記事を流したかのか、それも知りたいところである。新垣氏は現代音楽の作曲家として知る人は知る存在だったらしいが、発表会をしても集まる人数も知れていて、CDを出すことも叶わない人間が、佐村河内のゴーストとはいえ、自分が創った曲が世に出て行くことには快感をもっていたろうと思う。齟齬はなぜに生じたか。佐村河内は、自分はずっと下積みだった、という。彼もにわかに脚光を浴びて、舞い上がったのかもしれないが、それが新垣に世間にバレるという恐怖を生じさせた原因でもあったのではないか。ぼくは金銭的なものが大きかったのではないか、と思っていたが、本編では“指導料(教導料だったか?)”は「高いなあ」と思うくらい払っていた、と言っている。としたら、やはり急に世間に出たことの恐さが、2人の破綻の直接の原因ではないか。しかし、なぜに新垣が、佐村河内はほぼ耳が聞こえる、などというウソをついたのか、それは闇の中にある。年末テレビ特番に出てほしい、ついては佐村河内の主張の線で進める、と明言したフジテレビの番組責任者は、彼の拒否に遭うと、新垣に代えて番組を作っている。どの面下げて人を説得するのか、と思うが、森達也にいわせれば、彼らに主張があるわけではなく、出演した人間を面白く撮れればそれでいいのだという。すべてが消費されていくなかにあって、やはり真摯にドキュメントが作られていく必要性がある。かつてはそれはテレビのなかにもあったのだが。


87 ロングトレイル(T)
アパラチアロード3800キロを踏破しようと初老の男2人が挑戦するも、途中で投げ出す。2人の和解の映画だと思えば、目的は達している。ロバート・レッドフォードが原作者を、その友人をニック・ノルティが演じている。レッド・フォードは昔の貴公子の面影はつゆもない。東京では渋谷ヒューマントラストが一軒だけの封切り、さみしいといえばさみしい。それでも、100人ぐらいの席で7割は入っていたか。客は初老を過ぎたような人ばかりだったが。


88 ナイトクローラー(S)
レンホールである。だいぶダイエットしたらしく、頬がこけ、目が異様にでかい。弁の立つかっぱらいが事件を追うフリーのビデオ屋になる。社員を雇うが、始終、働き方の心得を諭す。短期経営講座で学んだことを鵜呑みに突き進む。死体を動かし、犯人を泳がし、好き放題のことをやってのし上がるという筋である。その割りに面白くないのは、彼の異様さが際立つ演出がされていないからである。レネ・ルッソのような年上の女性にモーションをかける男である。


89 国際市場で会いましょう(S)
ファン・ミョンジョンの映画である。朝鮮分断、ドイツ炭鉱への出稼ぎ、ベトナムへの出稼ぎなど大まかな歴史を振り返り、一人の男が家族を支えてきた戦後を描いたもの、ということになる。韓国の古い世代を讃える映画であり、ある種の成熟を思わせる。ファン・ミョンジョンのもつ悲喜劇性は相変わらずだが、そう破天荒な人物を演じるわけにはいかないので、やはりもの足りない。


90 スパイ(S)
ボンド風の始まりで期待を抱かせるが、あとは面白くもない喜劇。ステイサムがただ怒るだけの演技で浮いている。喜劇なんかに出ちゃだめだろう。「バッド・バディ」のメリッサ・マッカーシー、その仲間がミランダ・ハート、ジュード・ロウが冒頭のボンド風を演じている。


91 ほとりの朔子(D)
監督深田晃司、いい映画である。次第に登場人物の闇が濃くなっていく感じが恐い。変わらないのは主人公の二階堂ふみガリ勉タイプだが、滑り止めを含めて受けた大学をすべて落ちたという子と、福島の惨禍から逃れてきた不登校の青年太賀。それでも二階堂は新たに予備校に入ろうと最後には変身する。ひと夏で何かを経験したということなのだろう。二人が家出をし、喫茶店で時間を潰しているときに、突然、暗黒舞踏的な踊りが始まるが、この趣味はOKである。違和感がない。サラリーマン風の初老の男が涙を流し、それを呆然と眺める二人ということで、客観視されているからである。少女誘拐じつは少女との逃避行を描いた映画にも、突然、暗黒舞踏が始まるシーンがある。二階堂と太賀が長々と埒もない話をしながら歩くシーンがあるが、これがいい。西洋美術史の先生と女生徒がクルマのなかで、やはり意味があるようでないような話を続けるシーンも長いが、これもいい。独特な監督である。二階堂と太賀が家出を止めて、ぞれぞれが家に帰る。その切り替わりのシーンで、ヨコから撮ったショットで、椅子から半分ずれ落ちそうな二階堂が写される。この体型の選択がいい。監督の演出だろうか。二階堂、その叔母(鶴田真由)、その恋人(西洋美術史の教師)、叔母の元恋人でラブホの支配人(古舘寛治)、その娘が宴会をするシーン。古舘親子がかなり西洋美術教師をからかう。教師は頭に来て、鶴田に当たる。とうとう帰る、と言い出し、古舘の娘にピシャリと頬を張られる。この一部始終を二階堂は外から眺めている感じだが、最後にニヤッと西洋美術教師の去った方を見る、という演出は場違いである。映像がときに光が回りすぎて、ものの輪郭が弱く感じるときがある。それには違和感がある。


92 岸辺の旅(D)
黒沢清監督、浅野忠信深津絵理小松政夫柄本明蒼井優などが出ている。是枝の「ディスタンス」を思い出す。まだ邪念が残って成仏できない魂が現世に戻ってあの世へと帰還するチャンスを探っている。そのことにとても意識的なののが浅野が演じた「ユースケ」である。彼は3年前に失踪し、本人が言うにはすでに死んでいるという。一緒に2人は旅に出て、ユースケがお世話になったという人を訪ねる。誰が亡霊で、誰がそうでないか、という恐れと、その人物がどういう過去をもち、どういう本当の死を死ぬのかというのが、この映画を見続ける動力となっている。あの世とこの世の出し入れはほぼうまく行っているので、途中からはそれほどの緊張感をもたずに見ていることができる。ユースケがパソコンを直したり、餃子を包んだり、宇宙論を話したりするが、彼のもとの職業とは何だったのかは明らかにされない。私、この土地に住みたい、と深津が言った土地でも、やはり人々のなかには煩悶や苦しみがある。そのことを知ってなのかどうか分からないが、また次の目的地へと二人は旅立っていく。こういうはっきりと事を清算しないで、雰囲気でもっていくのは、ラストのところにもあって、深津はもうユースケの世界に行ってもいいぐらいに思っているが、彼が消える前夜にセックスを共にしたことで吹っ切れたのか、もうそのことを言い出さない。またも、雰囲気である。別にそれで映画は進むから問題はないが、もう少し論理的であってもいいのでは、とは思う。柄本明の息子と嫁、息子は亡霊だが、彼は妻から離れられない。ユースケはそれを引き留めようと追いかける。そして、森でのシーンは、その息子の演技のまずさもあって、ちょっと学芸会っぽい出来になってしまっている。この映画で不満があるのは、そこだけだ。蒼井優が浅野の不倫相手だが、深津が会いに行くと、すでにほかの男と結婚している。悪びれたところが一切ない、ある意味ふてぶてしい女で、不思議な存在感を醸し出している。さすが、である。黒澤監督の映画は数本しか見ていないが、なかなか手練れのお人と見た。


93 CURE(D)
黒沢清監督で、見る決心がつくまでにしばらくかかった。本当に恐かったら、その時点で見るのを止めようと思った。しかし、それは杞憂に終わった。萩原聖人は記憶喪失を装いながら、相手に「おまえだれだ」「ここはどこだ」を繰り返し、次第に催眠術的環境へと誘い込んでいく。そのプロセスを見せたのが女医を対象にしたときで、彼女の側に座っていた萩原が壁際に立っていき、蛇口からコップに水を受け、そのコップをこぼしてしまう。水が生き物のように床を移動する。それを目で追ううちに女医はすでに催眠の入口にいて、「俺の中のものは全部、外へ出て行く。だから、先生の中のものは全部見える」という萩原の言葉にそっちを見ようとすると「見るな」と止められる。「女の癖にあんたは頑張ってきた」「女の癖に?」と顔を上げようとすると、もう目の前にいて、その女医の頭を押さえつけている。この演出が素晴らしい。
もう一つ、役所公司が萩原の廃棄工場のなかの部屋を見に行き、そこで乾燥したサルが紐で四方に引っ張られて空中に浮いたのを見かける。そとに出たところでフラッシュバックが起き、「ハト→サルの乾物→妻の顔」とつながって、慌てて役所は家に戻る。すると、妻が首を吊っていて、役所は慟哭するが、それは幻影で妻は「大丈夫?」と声をかける。この連続のシーンはさすが、という感じ。映画の筋からいえば、もうここで役所も催眠術にかかっていることになる。というのは、あとで逃亡した萩原を見つけたとき、「どうしたの? 手が震えているよ。死んだ奥さんを見たろ」と言うからである。


うじきつよしが警察の精神科医という設定なのか、彼も催眠にかかって自分で胸から首にかけてXを描いて死ぬことになるが、これは設定が無理。いくら催眠がかかっていても、自分で見事なXを描いて死ねるものかどうか。それと、役所もかかっていたという設定だが、催眠をかけてからの時間が長い。ほかの事件はもっと短時間で起きているから、不自然である。妻を殺し、いつもの食堂で食事をする役所、その注文を受けるウエイトレまでも催眠にかかっていて、包丁をもってどこかへ向かうシーンで映画は終わるが、これは蛇足である。


役所がクリーニングを取りに行き、隣に立つ男が独り言を言う。「ふざけんなよ、俺には俺のやり方があるんだ」と声を出す。ところが、店主が「お待たせしました」と持ってくると、にこやかにそれを受け取って出ていく。人間の狂気の突然の噴出を描くわけだが、このシーンは忘れがたい。しかし、こういうバランスの悪い人間が大概で、これを狂気とするのは映画の筋として必要だからである。ぼくは居酒屋である男を目の前にした。1人前のイカの刺身に味の素をかけ、その隣にあるイカに塩をかけ、つまみのダイコンにも塩をかけ、もちろん醤油用のイカも端に残っていて、そのぼくの目の前の男は1時間ほどかけて、その3種の味のイカ刺しを交互に食べていた。そして、トマト缶を頼んで、キープしてある焼酎を割り、それを飲みながらまた残っているイカを食べ続けた。ふつうに食べれば5分もかからず食べきる量である。その間、その男は儀式のようにそれを続けていたが、ぼくは大概の人はこういう人なのだという意識が強い。



100 座頭市千両首(S)
若山富三郎島田正吾、坪内キミ子など。旅の途中でやむなく人を殺めた市がその弔いに村にやってくるが、村はちょうど代官に千両の上納金を納める最中。それを盗まれるわけだが、市は転がってきた千両箱の上に腰掛け、それを取ろうとするやくざをパパッと叩っ切る。次に場面が変わって、村の祝祭。市はそこへ行くが、この人が千両箱を盗んだ、と証言する坪内ミキ子、実は市が旅の空で殺した男の妹。しかし、あの強い市がなぜ尻の下にあった千両箱をみすみす取られてしまったのか。あるいは、それと知らず、その場を立ち去った? 最大の謎をほったらかしなので、この映画、とても座りが悪い。池宏一夫監督、撮影宮川一夫で、夜の底を光の玉となって藩の追っ手が移動するシーンなど、さすがである。やくざが左から右へ市に寄っていく。それを下から撮っていて、市に近づくとカメラが少し回り込んだ感じで上の斬り合いを捉えるシーンもいい。若山富三郎は好演である。市は妙に言葉を途切らせたり、わざとらしさが目立つ。島田正吾国定忠治をやっていて、重心がずんと下にある感じがいい。市の温情にすっと手を出し、市の手を握る速さは、お決まりとはいえ、手慣れたものである。妙につっぱらかった顔は、ぼくの知人にすごく似た人がいる。


101 萌の朱雀(D)
前に挫折した映画の再見である。今度は難なく見通すことができた。老婆、男(家長)、女、男の子ども、幼児、という組み合わせだが、どういう繋がりだか見えないので、妙な緊張感がある。見終わってもまだ、自分の解釈が合っているのか、自信がない。男女は夫婦で、幼児はその男女の子で、男の子どもは家長の兄弟(姉妹?)の子であるらしい(家長のことをオイチャンと呼ぶ)。男女はきょうだいとも見え、二人が同室で寝るので、近親相姦の恐れがある。男の子どもと幼児は長じて、ほとんど恋人のような関係に見える。高校生となった幼児は、青年になった男の子に実際恋心をもち、悩む。突然、家長である男(國村隼)が自殺する。理由は定かではないが、類推させるようにはなっている。しかし、理由らしい理由でも無いので、ここでは触れない。結局、女とその子どもは家を出て、実家に帰ることになる。青年は街の旅館勤めなのだが、老婆と一緒に街に住まうことに。2回、村の人々の顔を映すが、このフィクションは実在の村と地続きだということをいいたいのか。違和感がないから、たぶんそうだろう。この映画、もう少し説明しれくれないと、しんどい。


102 女と按摩(D)
清水宏監督、高峰三枝子佐分利信、徳市・徳大寺伸、福市・目守新一、旅館の主人坂本武。山道を2人の按摩が会話をしながら歩いている。「いい景色だ」「今日は17人、追い越した。按摩じゃないとこの気持ちは分からない」「ただ、学生4人組に抜かされたのはしゃくだ」など、ユーモラスなやりとりをする。その2人を追い越していく馬車に、佐分利信高峰三枝子、そして子どもが乗っていて、御者が「あの按摩は季節になるとやってくる。今日は何人抜いたと自慢する」と解説する。


温泉場に着き、徳市は高峰のいる宿屋へ、福市は佐分利のいる宿へ。高峰の肩を揉みながら、「奥様」というと「違う」というので「お嬢様?」と言い直すと高峰は笑って黙っている。次の客の所へ行くと、さっき抜かれた4人組、力任せにうんうん揉むと、翌日、学生たちは脚が痛くて歩けないほど。途中で宿に引き返してくる。一方、福市は女学生たち、そして佐分利のところへ。佐分利は、「最近は墓参りに行っても、田舎らしくない。かえってこういうのんびりした場所のほうが田舎みたいだ」などという。徳市が宿の主人相手に、海岸では女の按摩が出始めているし、東京では職業婦人が進出して、男の仕事がなくなるかもしれない、などという。


徳市は高峰に惚れたらしい。その高峰が佐分利と近づきになるのを快く思わない。高峰と佐分利を結びつけるのが、佐分利の連れて来た子どもで、自分の姉(?)の遺した子を預かったらしい。佐分利は高峰に引かれるものがあって、東京に帰るのを1日延ばしにする。子どもはかまってもらえず、帰ろうよ、を繰り返す。とうとう佐分利と子どもは東京へと行ってしまう。温泉場に泥棒が出たという情報に、徳市はもしかしたら高峰が怪しいと踏む。一緒に逃げましょう、というと、高峰は正体を明かす。囲い者の身で、旦那から逃げてきた、という。またどこかへ逃げるしかない、という。最後は高峰を乗せた馬車の後ろ姿で終わる。


短編小説を読むような味わいである。会話がいきいきしている。高峰に番傘を差させて、渓流の岩の上に立たせて、少しアップで撮った絵など、静止画のきれいさである。たしか清水宏は子どもの扱いのうまい監督ということになっていたかと思うが、その片鱗を伺うことができた。佳作である。


103 ザ・クライアント(S)
スーザン・サランドン、トミーリー・ジョーンズのほかにも脇役であの人が、この人が、とたくさん出ている。主演の男の子がちょっと出来すぎで、大人の言うことを聞かないという役回りだが、それにしてもこまっしゃくれている。その母親役の女優が、下層階級の話し言葉なのか、やけに聞きづらい。ほかの人間と好対照である。マフィアが殺した議員の死体を発見するのはいいが、覆いを破って腐乱状態を見せるのは野暮である。テンポの悪い映画だが、サランドンはなぜ主役が張れるのか、これはひとつの謎である。


104 アスファルト(T)
いい映画である。サミュエル・ベンシェトリ監督、フランス映画。自動マラソン器の上で寝ちゃった男が脚を悪くして車椅子に。エレベーター改修費を出さない、と言った手前、人のいない夜中に使って、近くの(?)病院の自販機でビスケットなどを買う。そこで知り合った看護婦の写真を撮らせてくれ、という。彼が自動マラソン器で寝ている間、宇宙船の中なのか男がやはり動く床方式でランニングのトレーニング中。それが地球に帰ってきたところ、計算外の場所に。車椅子男のいる公団で、そこのアラブ人のお婆さんの家にNASAの迎えがくるまで泊めてもらうことに。そのお婆さんの息子は刑務所にいて、彼女はよく面会に行く。またそのマンションには青年が住んでいて、廊下を隔てた反対側の部屋に元女優が引っ越してきて、いろいろと関係していく。彼女の出た映画を見せてもらったり、むかし出た芝居にもう一度役を得て挑戦したい、という彼女にハンドカメラを向けて、ホン読みまで手伝う青年。彼女は15歳の少女の役をやりたいが、青年は老婆の役をやるべきだ、と主張し、それを彼女は受け入れる。車椅子男は撮影当日、エレベーターが故障で、やっと抜け出したものの椅子なしで歩いて行く。時間にはまったく間に合わず、女はいない。朝まで待って、帰宅しようとする女に声をかける。女に「笑って」というが、笑えない。男に笑わせてくれ、と頼むと、男は「おれはプロのカメラマンでもないし、世界のあちこちに行ったこともない」と言って女を笑わせる。男と女は口づける。宇宙飛行士はアラブのお婆ちゃんにクスクスを作ってもらったり、いろいろと世話になる。情が移るが、迎えに来ると、クルマに乗り込んでいなくなる。ずっと話の進行の間、恐竜の鳴き声のようなものが聞こえていたが、それは放置された鉄製の倉庫で、開いた重い扉が風でギシギシ鳴いていたのである。映画はそこで終わる。不思議な味わいを意図しているが既視感があって、それほど不思議とも思えない。独特なのは、監督のユーモアの感覚である。宇宙飛行士とアラブの老婆の出合いにそれが典型的に表れている。それと、世界を旅する写真家と偽った手前、証拠を持って行かざるをえなくなり、テレビにカメラを向けて、ピラミッドやら何やら写するのもユーモアです。この映画は、三者三様の「出合い」を描いたということになる。なぜ「アスファルト」というタイトルなのか分からない。



105 オーバーフェンス(T)
山下敦弘監督で、佐藤泰志の函館を舞台にした小説を映画化したもので、ほかに2作、別の監督が佐藤の作品を演出したものがある。オダギリジョー蒼井優松田翔太などが出ている。これは優柔不断の男の再生の物語ということなのだろうが、蒼井優が演じたスナックの女は異常である。彼女とは一度は離れるが、またくっつき、また突然切れる。すべて彼女の気紛れで行われる。いけすかない女で、それを演じた蒼井優を褒めるのはかわいそうだ。彼女はまったく綺麗でない(「岸辺の旅」にちょい役で出ているが、したたかな女を演じて、グッドである)。優香がオダギリのかみさん役で出ているが、中年女性のはまり役で、途中まで彼女とは気づかなかった。こういう目立たない脇できちんと仕事ができる人は偉い。最後に草野球でホームラン、オーバーフェンスとは情けないオチである。


106 健さん(T)
みんなで健さんを褒める映画。ぼくは何度泣いただろう。1人だけ、健さんは疑り深いという人間がいるが、あとは仏様のような扱い。マイケル・ダグラス、ポール・シュレーダー、スコッセッシも讃仰。ダグラスが「ブラックレイン」でそばを食うシーンを印象的に語るが、そばですかね。あの映画は健さんをバカにした映画にしかぼくには思えないけど。


107 ビートルズ(T)
監督ロン・ハワード。ほぼ知っているビートルズをなぞるだけだが、米南部のコンサート会場が人種隔離と知り、彼らは平等であるべきだ、と筋を通した、というのは初耳である。それ以来、南部の大きな劇場にはセグレーションはなくなったという。4人はいつも話し合いで何事も決めていたといい、この一件もそうだったという。日本は武道館だが、右翼が騒いだことは知っていたが、実際に街宣車の映像を見たのは初めてである。赤尾敏先生の姿が見えた。浅井愼平がコメントを喋っていたが、論理が通っていない日本語をそのまま英語に直していたので、訳の分からない英語になっていた。いやはや。横尾忠則も会場にいたらしいが、ビートルズの演奏は30分ほどだったらしい。欧米の熱狂のあとに武道館