2024年の映画

木の葉の家


昨年は事情があって50数本しか掲載していない。ほかに50年代、60年代の洋画・邦画を30本ぐらい見ているので、総計では80数本となり、いつもより20、30本少ない感じである。今年もまだどうなるか分からないが、なるべく新作を見ていきたい、とは思っている。

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1 枯れ葉(T)

カウリスマキの久しぶりの新作、別に彼の映画だから見たわけではなくて、何となく良さそうだという感覚と、女優さんアルマ・ポウスティを見たくて見た映画である。じつに古典的な撮り方をしていて、恋愛ものの王道だった“すれ違い”を露骨にやっている。それと、待ちの時間を足下の吸殻で表現するなどのベタな演出もやっている。同室の仲間に誘われカラオケに行くことに決め、鏡を覗くとそれがピカソの絵のように割れているという、これまたベタなことをやっている。それもこれも古典的な愛の様子を描くための企みであって、じつに相応しいことである。主人公の女性が貰い受けた保護犬は名前がチャップリンカウリスマキの尊敬する監督の一人である。ぼくはカウリスマキの作を2作見ているはずだが、「マッチ工場の少女」のほかに何だったかが思い出せない。

 

2 市子(T)

杉咲花を見たくて見た映画。過去を偽ってきた人間の過去を探っていく話。戸田彬弘監督、脚本同、上村奈帆。戸田はいろいろ映画を撮っているが、一作もひっかかってこない。

 

3  ガンバレ・ベアーズ(S)

何度見ても印象の変わらない映画である。これぞアメリカ的な、という意味である。今回、少し気づいたのは、ビッグ・モローの悪役は「カラテ・キッズ」の悪役チームのコーチに引き継がれているということである。何があっても優勝を目指すチームだが、その方針に子どもたちが離反していく、という設定をパクっている。原題はThe Bad News Bears でこれを子どもたちが唱えてゲームが始まる。「あんたらの負ける悪いニュース、それがベアーズだ」という意味である。それにしても、子役ジョディ・フォスターが大成して、子役ティータム・オニールがそうはならなかった理由は何か? といっても、ジョディがそれほど大物になったともいえないが。オニールの演技があくまで受け身である。だから、応答に微妙な間が空く。つまり下手っぴなのである。

 

4  ガール・コップス(S)

ゆるい女性刑事もの、それも義姉と義妹のコンビで、その夫あるいは兄はあくまでまぬけだが、大事なときに居合わせる能力を備えている。義姉と義妹は閑職に追われるが、そこの嫌われ所長もじつは実力を認められずおいやられた口だった。警察における女性差別をユーモラスに逆転する映画である。途中で何度かやめようと思ったが、このゆるさが韓国映画の特徴かもしれないのだ。女性刑事コンビとしては、サンドラ・ブロックの「デンジャラス・ビューティ1、2」があるが、それを援用したのか? 所長はサム・ヘランで、I can speakに出ていた。“100の顔をもつおばさん”といわれている。

 

5 リバイバル(S)

また韓国映画。死んだはずの奥さんから連絡があるが、それは時代がずれているのである。しまいにそれが合うが、けっこう見ていることができた。しかし、最後になると飽きが。悪党刑事をやった男がペ・ソンウ、何の映画だかで見ている。たしかいい人を演じていた。

 

4 眠りの地(S)

トミーリー・ジョーンズ、ジェレミー・アイアンズ。地域の葬儀社オーナーのトミーリー、保険会社の積立金が不足したために、資格停止の危機に。そこで買い手を探し、葬儀界の独占を狙う企業と下契約を交わすが、相手はことを進めようとしない。破産に持ち込んで、乗っ取りをするつもり。それを察知して、畑違いの刃傷事件を扱う黒人敏腕弁護士に頼むが、事は契約問題。相手はスーパー黒人弁護士チームで立ち向かってきて、歯が立たない。しかし、最後は、相手の不正を見つけて1億ドルを超える賠償金を得、その大企業を潰してしまう。労働組合をだまし、契約を取ったらキックバックがあるから、葬儀をしたい人、それを斡旋する人も儲かる、と持ち掛けたのだが、葬儀代はふつうの3倍し、キックバックも微々たるもの。黒人地域での訴訟なので、黒人弁護士が必要になるのである。実話らしく、人種問題がからんで、見ごたえのある作品になっている。ジェレミー・アイアンの個性が光る。「エージェント」のプロラグビー選手を思い出す。

 

5 イコライザー(S)

映画館で見たかった。出来がよく、1作目を思い出したが、テーマに合わせて読書する本が変わる設定がなくなっている。ジョン・ウィックのファイナルもイタリアが舞台で、その扱いが似ている。濃い歴史、宗教である。しかし、本作には庶民の生活が描かれていて、彼のいるべき土地とされている。マサチューセッツ州ボストンの一市民が年金をサイバー攻撃で取られ、その奪還でナポリ近くの町まで主人公は出かけ、そこでマフィアと、そしてそれとつながったテロ組織と戦うことになったのである。これで終わり、というのも残念な気がする。CIAの女性が主人公の恩人の娘ということが、最後に明かされる。それもグッド。途中でそうかな、とも思ったが。

 

6  タイムリミット(S)

デンゼル・ワシントンがある町の署長、難病の恋人を救うために、署内に溜めてある金を渡したり、保険の保証人になったりしたが、その恋人が火事で死に、すべての疑惑が彼に集まってくる。どう見ても、状況証拠があり過ぎ、なのに助かるのはワシントンだから、という映画である。

 

7 マーベラス(S)

マギーQ主演、サミュエル・ジャクソン、マイケル・キートンと豪華。マギーはテレビ版NIKITAをやったらしい。ジャッキーチェン門下、ベトナムアイルランドの混血で、日本で育っている。なかなかのアクションである。マイケル・キートンが悪側の用心棒だが、渋くていい。マギーがいかに殺し屋になったのか篇(サミュエルが師匠)なので、次は独立活躍篇を期待したい。

 

8   ロードハウス(S)

本当にアメリカの格闘映画は、「ジョン・ウイック」以来様変わりした。拳銃を使わず、マーシャルアーツだけで戦う。ギレンホールが肉体派の格闘者となって、悪者に支配された村を救う。主人公が言うがごとく、これは西部劇である。悪党の武闘派が強くて、最後は死闘の様相を呈する。途中、どういうわけだか、二人の戦いのときに、ギレンホールが抜け出してしまう。これは何のインターミッションだったのか。89年の同題の映画のリメイクらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年の映画

湯島天神近く




去年の収穫は例年になく貧しい。年も押し詰まって見た「ザリガニの鳴くところ」が一番心に残る。あとジョン・レノンの初期活動を追ったドキュメントである。彼はリバプールハンブルグですべては終わっていた、という認識を示している。その空恐ろしい冷徹な見方に驚く。今年はどんな映画に出合えるだろうか。

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1 嘘八百 京町ロワイヤル(S)

1作目をネットで見たが、これもそう。それぞれの個性を生かしたコンゲーム(ミッションインポシブルのような騙し仕掛けもの)の場面は、1作目のほうが面白かった。悪党をやっつける筋だが、愛があって、それほど悪者に描かないのが、この作品のよさかもしれない。主演中井貴一、佐々木蔵乃助、広末涼子友近など。予告通り、もう3作目がやってくる。

 

2 Dr.コトー診療所(T)

この種の映画は見ないのだが、なぜか映画館に足を運んでいた。監督中江功、脚本吉田紀子、主演吉岡秀隆柴崎コウ小林薫、高橋海人、大塚寧々など。病院経営の息子が研修に孤島(与那国島、映画では志木那島)へとやってくるが、それをアイドルグループの一員である高橋海人という人物が演じている。これがなかなかいいのである。人間関係がよく分からないうちに終わってしまった。そもそも柴崎コウ吉岡秀隆を先生と呼びながら夫婦であることが後で判明する、といったように。急性骨髄白血病で吉岡が床に倒れ、妻も産気づいて床に座り、しばらく誰も何もしない状態が続くが、ありゃ何なのだろう。困ったものである。客の入りはまあまあ。

 

3 汚れた血(D)

レオス・カラックス監督・脚本、86年の作品。ユーロスペースが大入りだった映画である。画面を赤と黒でスタイリッシュに構成し、あざやかなブルーが時折綴景される。言葉、言葉の映画である。だから、行為と呼ぶべきものがほとんどない。ラジオをかけてデヴィッド・ボウイのモダン・ラブがかかり、通りに出て曲に合わせて身を躍らせながら走るシーンは圧巻である。主演ドニ・ラバン、ジュリエット・ピノシェ(美しい!)、ジュリー・デルビー(かわいい!)、ミシェル・ピッコリなど。ラバンの父親は有名な鍵師、その腕を継いでいる彼がウイルス菌を奪う一味、といっても彼を入れて3人だが、それに加わってまんまと盗み出すが、一味の頭領に金を貸し付けているアメリカ女の一味に腹を撃たれ、飛行機で逃亡できずに終わる。素朴であることが一番難しい、と彼は死に際に言う。腹話術で喋るほうが楽だというのも、彼の自我の揺れを示している。決して主演を張れる顔立ちではないが、見ているうちに慣れてくる。

 

4 守護教師(T)

マ・ドンソク主演、また見てしまった。これもよくできている。「鉄拳」より落ちるが。友人の失踪を追う女子高生ユジンが、「アジョシ」に出ていたキム・セロン、見ているうちに面影を思い出してググッたところ、彼女だった。「アジョシ」は6、7回は見ている。

 

5 ペイル・ライダー(D)

イーストウッド監督作で、西部劇復興のきっかけとなった作品らしいが、ぼくとすればやはり「許されざる者」で注目したといっていい。この映画、あくまで伝統的な撮り方をしている。再見である。砂金を取る小さな村を飲み込もうとする成金がいる。そこに牧師、いや実はガンマンが助け舟を出す。村の娘が聖書の蒼ざめた馬の箇所を読んだそのときに、窓の外を青白い馬に乗ったイーストウッドが通り過ぎる。冒頭のシーンでも、まちの入り口に彼が現れ、気がつくとスッといなくなる。悪霊のような扱いだが、途中からは不吉な影などない早撃ちガンマンになる。村の母娘が一緒にイーストウッドに心を奪われる、というのは出来過ぎではないのか。その母親に惚れて、最後、イーストウッドに手助けするのがハル(マイケル・モリアーティ)で、気弱でも芯がありそうなキャラクターがよく出ている。今でも出演作のある脇の俳優さんだ。

 

6 キャバレー(T)

劇場で見るのは本当に久しぶりだ。高校生のころに見たのだったか。ほぼ記憶通りの映画である。ライザ・ミネリ(サリー・ボウル)のキュートな感じにやられてしまった。サリーが、「お腹がぺしゃんこ、お尻が小さく、そしてここは」と言いながら、ブライアン(マイケル・ヨーク)の手を胸にもっていくシーン。ぼくはヘップバーンとショーン・コネリーの「ロビンとマリアン」の草原のシーン、そしてフェイ・ダナウェイとウォーレン・ビーティ「俺たちに明日はない」のやはり草原のシーンを思い出す。いずれも性的なものに関連したシーンである。

今回、サリーがベルリンに来てまだ3カ月という設定だったのには、驚いてしまった。
それにしても悲しい役回りだ。妊娠が分かり、だれの子か分からないのに、恋人ブライアンが受け入れ、ひと時の幸せを味わうが、ブライアンが気塞ぎの表情を見せたことから、中絶を選ぶ。その処置をなじるブライアンに、ケンブリッジ(ブライアンはそこの大学院生で、ベルリンに英語個人指導のアルバイトで学費稼ぎに来ている)での田舎暮らしで、赤ん坊のおむつを積み上げ、どうせ私は退屈し、近くのパブで酔い潰れるに決まっている、そしてあなたは……というところでサリーは言いさして止める。「私に愛想を尽かす」と言いたかったのではないだろうか。このサリーの予測はおそらく真実を衝いているが、本心は彼の曇った表情にあった。サリーの父親は“大使らしい”が、娘に理由をつけて会おうとしない。サリーはそのことでとても不安定になる。

ブライアンは英語を教えながら宿泊費を稼ぐが、その顧客のひとり、富豪の娘ナタリア(マリア・ベレンソン) との1回目の授業。彼女が反吐汁という変な言葉を使う。「汁は付けない」とブライアン。サリーは「やる」とセックスのことを言う。ナタリアがその意味を聞き、当惑する。ブライアンがナタリアにケーキを渡そうとするが、彼女が断り、それをサリーに回す時に、皿からケーキが勢い余って飛び出す。ここのシークエンスは笑える。ナタリアがとても気品があるから、ダーティ・ジョークが効いてくる。

2人と男爵マクシミリアン(ヘルムート・グリーム)の自堕落な日々。クルマからブライアンが降り、そのあと彼が怒ったように運転手に声をかけるシーンがある。やがて、ブライアンとサリーにアルゼンチンに旅立つという電信が届く。おそらくだが、マクシミリアンはブライアンに一緒に来てほしかったのだろう。それを断られての振る舞いと思われる。ブライアンはサリーに、マクシミリアンと寝たことを告白する。そもそもブライアンは3度女性と同床するが、惨憺たる結果に終わったという人物である。サリーに誘われた時にそう言って断ったが、ふとしたときに気持ちが合い、事に至り、うまく関係を結ぶことができた。そういう同性愛的な傾きのある人間なのである。

やはりこの映画、傑作である。監督ボブ・フォッシー、脚本ジェイ・アレン。フォッシーは「スィートチャリティ」でこけて、この映画で復活したらしいが、「スィートチャリティ」のシャリー・マクレーンはとても美しい。

 

7 続・激突 カージャック(D)

スピルバーグである。ところどころ記憶にある映画である。この路線で撮っていれば、スピルバーグの映画も見るようになったかもしれない。何より全篇にわたる緩さがいい。のんびりした追走劇である。
親権を奪われた前科者の夫婦が警察官を人質にして、息子が養子となった先へと向かう。その間に、人質警察官との間に友情らしきものが芽生え、彼ら夫婦の行いは民衆の支持を得て、行く先々で歓迎を受けるが、全体を仕切る警部が子どもを返すと保障したのはウソで、子どものいる目的地にはスナイパーが待ち構える。ゴールデン・ホーンが妻、夫がウィリアム・アザートン、人質警官にマイケル・サックス、警部にベン・ジョンソン、脚本ハル・バーウッド、マシュー・ロビンス。ラストに死を置く「俺たちに明日はない」が下敷きになっているだろう。民衆に歓迎されるところ、だれも殺さない2人であるところなどにも共通点がある。そして惨劇の最期。

 

8   悪人伝(S)

もしかしてマ・ドンソクには外れがないのかもしれない。連続刺殺魔に刺されたヤクザの親分がドンソク、その事件を追う刑事がキム・ムヨル(なかなかいい。2人が組んで犯人を追い込んで行くが、最後は法廷へ。韓国の狂気を帯びた殺人鬼はみんな青ざめた、長い髪の、どっちかというとインテリの顔をしている。この類型化の意味は何か? アメリカ映画にもこの系譜を探せそうな気がする。

 

9  ある母の復讐(S)

マ・ドンソクの初期の作品なのだろう、脇役の若い刑事という役。パッとしないし、わざと時系列を複雑にして撮っているので、進行がかったるい。レイプされた少女の演出も間違っている。

 

10 プレイヤー(D)

アルトマンの映画は高校生のときに封切りで見た「マッシュ」が最初である。すごい映画だな、エリオット・グールドがいいな、という印象だった。下半身モザイクも印象に残る。初めて見たベトナムを扱った映画である。もちろんアルトマンと知らずに見ていたのだが。結局、有名どころしか見ていない、「ロンググッドバイ」「ナッシュビル」「ゴスフォードパーク」「今宵、フィッジェラルド劇場で」と本作、そして名前を忘れたのが1、2作ある。彼と意識して見たのは遺作「今宵~」である。あとは面白そうな映画だなと思って劇場で見たが、アルトマンと分からず見ていた。本作は2度目、今回は面白く見ることができた。冒頭のワンカメラで多彩な人物の出入りを撮り続けるのは、アルトマン流。ちょい役で出ている有名役者たちの数々! なんとなく彼がリスペクトされる監督である理由が分かった気がする。批判精神旺盛だが、エンタメに仕上げるぞ、という構えがある。正義面しないのもいい。評判の高い「ナッシュビル」は3回見ているが、どうも緩すぎて感心しない。

 

11 仕掛け人 藤枝梅安(T)

小さな劇場に、よく客が入っていた。東映設立70周年記念映画だそうだ。梅安を豊川悦司が演じ、仕掛け人仲間を片岡愛之助。冒頭に2人のシーンがあるが、片岡が下を向いたまま妙な長い間がある。あれは何なのでしょうか? こういうのを編集でカットするのではないか。殺しを依頼される対象に因縁がいくつか絡むのはいいが、どうも話が小さくなってしまう。梅安が殺しに入る動機などは、どこかで明かされることになるのだろうか。幼いときに父が、そして母と妹がいなくなり、孤独の身となった梅安。

それにしても、悪い奴なら殺してもいい、という理屈にはついていけないところがある。

新女房(天海祐希)にセックスを拒否され、足蹴にされる料亭亭主(田山涼成)がもっとあくどい男という設定は、ありなのだろうか。マゾということ? マゾが痛めつけられて遺恨に思うようでは修業が足りないのでは? その天海が演技も発音もすっきりしていいのである。梅安の家で下働きをする女を高畑淳子が演じていて、こっちもメリハリが利いてグッドである。4月にもう一本、豊川梅安がやってくる。結局、そっちも見てしまいそうだ。監督河毛俊作、脚本大森寿美男、いずれもテレビ畑の出身らしい。

 

12 ガンマン(S)

ショーペン主演で、4分の3を見たところで、再見であることに気がついた。どうも役者が知ったやつばかりと思っていたのだが。女優ジャスミン・トリンカ、客演ハビエル・バンデム、悪党にマーク・ライランス、インターポール刑事にイドリス・エルバ(テレビ連続刑事ものの主人公、黒人)。脳の損傷からの病気なのに、敵が襲ってくるとすぐに対応できるのが不思議。コンゴを食い物にする組織を描くが、主眼は愛する女性への一途な思い。

 

13 ラストガード(S)

おしゃれな映画である。アクション映画として見れば落第だが、狙いはそこにはない。ガードした金持ち女性に惚れ、相手も次第に傾斜していく。そのいきさつがごく自然に捉えられている。アクション場面は2回だが、きちんと撮っている。主演マーティアス・スーナールツ。監督アリス・ウインクール。女性監督である。なるほど、である。ほかに2作あるので、見てみたい。

 

12 顔のないヒトラー(S)

再見である。1963年まであのドイツでさえナチの犯罪を公けにできなかった。その意味は大きい。しかし、歴史はもしかしたら、一人の人間の善意によって変わる可能性がある。一人の若き検事は、みずからの父親さえナチスだったことを知り、裁判の準備ができなくなる。「どんな罰が適切か分からない」そのときに、そもそものきっかけを作ったユダヤ人の記者が言う、「罰に目を向けるな。被害者とその遺族に目を向けろ」それが彼の転換点となった。

 

13 アイ・キャン・スピーク(S)

ほのぼのとしたいい映画だな、と思って見ていた。韓国人の底知れぬ優しさが出ているな、と。主人公は「シグナル」に出ていたイ・ジェフン、お婆さん役がナ・ムニである。このご近所からは大いに嫌われるお婆さんが、とてもかわいい。お婆さんが英語を覚えるのは、幼い時に別れたアメリカにいる弟と話すためためだと思ったが、じつは従軍慰安婦で、アメリカ議会小委員会で証言するためだった。彼女を落とし込む日本人(官僚?)が汚く描かれている。始めからそうだと分かっていたら、この映画、見ただろうか。しかし、韓国の人がこれを当たり前として見ているとしたら? と思うとやりきれない。日本の軍人が旭日旗を刺青したとか、腹に深い傷をいくつも負わせたというのは、本当のことなのだろうか。幾冊か慰安婦絡みの本を読んできたが、そういう記述に遇ったことがない。またいくつか関連本を読むことになる。

 

14 無垢なる証人(S)

これも韓国映画。殺人事件を目撃した自閉症の子と弁護士の物語である。人権派で売ってきた男が父親の借金返済などもあって、ふつうの弁護士に。つまり金持ちのための腰弁になったのである。その彼が心を通わせた少女を法廷で悪利用することに。しかし、本心まで腐っていなかった――という話。弁護士をチョン・ウ・ソン(「私の頭の中の頸消しゴム」に出ていたそうだ。「アシュラ」は見ているが、記憶になし)、少女をキム・ヒャンギ。犯人役の女は「アイ・キャン・スピーク」で人のいい隣人を演じていた女優。ホームページからは名前が分からないが、なかなか貴重な顔をしている。酷薄な人間も、同情味のある役もできる。

 

15 特捜部Q Pからの伝言(S)

デンマーク発の刑事もの。重厚な映画づくりで、外連味がない。シリーズらしいので、ほかも見てみる。なぜに北欧発ミステリーはすごいのか? 今さらの疑問でもあるが。キリスト教が主題になっている。無神論の刑事こそ、ふだんから人を救っているではないか、と悪魔の申し子の男が言う。

※そのあと3作見たが、「キジ殺し」が一番出来がいい。過去と現在の混ぜ方に無理がない。しかし、養護院が犯罪の舞台になるというのは、ほかの何かでも見ている。

 

16 エンパイア・オブ・ライト(T)

サム・メンデスはいくつか見ている。「アメリカン・ビューティ」が最初で、あと「ロード・トウ・パーディション」「ジャーヘッド」「レボリューショナリー・ロード」と来て、007の「スカイフォール」「スペクター」である。父性を描く監督と思っていたが、いまや何を撮っているのかよく分からない。

またしても映画館が舞台、古くて豪奢であるが、もう使っていないスクリーンもある。最上階の4階はピアノがあるバーのようなものだったのか。

統合失調症の病歴のあるヒラリーが新しく入ってきた黒人青年スティーブンに惹かれ、二人は愛し合うことに。しかし、次第に彼女の均衡が崩れ、映画館でプレミア上映される「炎のランナー」の日、まちのお歴々のまえに支配人の次に立って一節をぶつ。そこでオーデンの詩を引用し、お客を唖然とさせる。さらに支配人の妻に彼との交情について暴露する。彼女は部屋に引きこもり、ボブ・ディランの曲を大きくかけ、酒におぼれる。民生委員がやってきて、警官がドアを破ったとき、彼女はもう精神病院に入る用意ができていた。

その後、支配人は別の館へと移り、ヒラリーは戻ってきて働き出す。外で白人の群れが通り過ぎる騒音が激しくなり、館の戸締りを急ぐが、群集がガラスを割って入り、スティーブンを半殺しにする。入院をする彼を見舞うなか、スティーブンとの関係も修復されるかに見えたが、彼はまえに一度落ちていた大学入試に成功し、別のまちへと旅立って行く。まるで南仏のような明るい海の風景を屋上から仲間と眺めるヒラリーの表情は晴れ晴れしている。そこで映画は終わる。

 

すべてがさりげなく回収されている。ヒラリーとスティーブンが初めて会話らしい会話をしたのは、4階で羽根の折れた鳩を見つけたときである。腕を伸ばして傷ついた鳩を両手に挟んだとき、服がめくれて黒い、健康そうな肌が見える。そこにヒラリーの視線が一瞬だが行く。このあたりがうまいし、彼らが肉体の関係に入る道筋を知らせている場面である。ヒラリーが詩が好きなことは、仲間がクロスワードをしながら「『荒地』の最初のAの付く言葉」と言ったときに、Aprilと平然と答えることで示唆される。スティーブンの母親が看護婦であることが語られるが、半殺しで入院した先の病院の看護婦であることが、ヒラリーが見舞いに行くことで分かる。スティーブンが人種差別を受けていることは、途中で白人のチンピラ3人に絡まれることで予知されている……といっても、どれもごく自然に描かれるので、わざとらしさは感じない。

 

アメリカに黒人差別があることは自明だが、わが母国イギリスにもあるぞ、というのでメンデスはこの映画を撮ったのではないか。ビートルズリバプールはアフリカからの黒人貿易の拠点だったことは、有名である。それにしても、懐古趣味になりがちな映画館を使って、統合失調症と差別を描くというのは、やるなぁと素直に思う。

 

17 秋津温泉(D)

原作が1942年に発表され、映画化が1962年。数年に一度会うだけの男女が、17年後に女の自殺によって終止符が打たれる。となると、原作は戦前の設定になっているのだろうか。この映画では敗戦の直前からを描いている。岡田茉莉子主演100本映画と銘打たれ、企画も彼女となっている。着物も彼女が担当。どうやら10年後ぐらいの逢瀬のときに初めて肉体関係に入ったように見える。これはいったいどういうあり方なのだろうか。

河本周作は肺病病みで自殺願望をもっている男で、たまたま満員列車で乗り合わせ、おにぎりを振る舞ってくれた縁で、その中年の女性が勤める秋津の旅館に身体を休ませることになる。介抱を担ったのが新子(しんこ)の岡田である。敗戦のラジオ放送を聞き、突っ伏して泣く新子を見て、周作は生きていこうと決める。河本はやがて結婚し、子どももできるが、売れない作家として暮らしている。義父(宇野重吉)も小説家だが新人賞を取ったことで売れっ子となり、彼の紹介で東京の出版社(?)の社員の口をあてがってもらう。店の売り子にモーションをかけるような浮薄な男である。

しばらくぶりに新子に会いにいくと、旅館を手放し、話し方もどこか平板な、投げやりな感じになっている。「あなたを生かすことが、私の生きる意味だった」式のことを言う。決して、その男、つまり周作のことを不甲斐ない、だめ男だったとは言わない。まだ希望をもって、一緒に死んでくれ、と真剣な目つきになるが、周作は「死ぬの生きるのは若いうちに言う言葉」で、「人間はそう簡単に死ねないと分かったよ」と言うばかり。帰る周作を見送ると、腕首を切って、河原に下り水に腕を浸して死んでしまう。異常を感じて戻った周作が死体を見つけ、抱きかかえて道まで戻ってきて映画は終わる。

新子は周作に何を期待したのだろうか。それが見えてこない。一度愛したら、それを続けるのが当然といった風情だ。周作はそれを見越して、数年経つと、秋津へと行きたくなる。不思議な関係といえる。

川端の『雪国』を思い出す。着想は案外、この小説から取っているのではないか。

 

18 ケイコ 目を澄ませて(T)

いい映画である。冒頭、点滅する街灯に雪が降りかかる。カメラがパンして赤茶色の窓を写すが、そこにも霏々として雪が降り注ぐ。その窓のなかに人の動く気配があって、そこがこの映画の舞台になるボクシングジム。ぼくはもうこの導入部で居ずまいを正す感じになった。

主人公のケイコはリーチが短く、背も低く、最大の問題は音が聴こえないということ。試合になってセコンドからの指示は手で合図が送られるが、情報が限られている。そんな彼女は2戦して2勝、ただし辛くもといった勝ち方である。

彼女の通うジムは10人もトレーニングに通う人間がいない。事務所の会長は脳に病気を抱え、ジムを閉じることを考えている。彼女も思うような勝ち方ができないために、ジムを止めようとするが、ふとジムに寄ったときに、会長が彼女の試合のビデオを見て、熱心に研究している姿に触れて思い留まる。会長は彼女が初戦を勝利で飾ったとき、メディアの取材で彼女の利点を「人間の器量がいい。素直で、純真」と答えている。

ケイコは弟と暮らし、弟はときおり黒人(?)の彼女を連れて来る。母親は別に暮らしているらししいが、父親の姿はない。どういう家族関係なのかが見えない。弟の彼女が手話を覚えてコミュニケーションをとってくると、ケイコは嬉しがる。彼女はホテルで清掃やベッドメイキングなどの仕事に従事している。

ジムでのトレーニング、ホテルでの仕事、弟とのコミュニケーション、そして河川敷での自主練習で成り立っている映画である。彼女が浅草松屋の東側の道路を北に歩いていくシーンがあるので、きっとジムも、河川敷もそういった界隈のことだろう。ただ「ここは戦火で焼けなかった」といいうセリフがあるから、かなり浅草の北の方ではないかと思われる。

シーンの一つひとつに意味があって、しかも過不足なく描写されていく。無駄がないのだが、全体はじっくりと進行する。曖昧なのは家族関係と河川敷でぼーっとしているときに2人の警察官に職務質問をされ、余りに彼女との応答が噛み合わず、もう一人の警官が「もう行こうや」といった感じで立ち去るシーンぐらいである。その警官の仕草、表情が曖昧で、何のためにこのシークエンスを入れたのかが見えない。

弟の会話はときにサイレント映画のように縦長の黒い長方形に文字が白くなったものが映される。林海象の映画を思い出す。友達二人と喫茶店で話をするときは手話だけ。こういう遊びはグッド。

試合で彼女はノックアウトされ、また河川敷で座ってもの思いにふけるが、そこを通りかかった作業服姿の女性が声をかけてきて、「こないだはありがとう」と言って去っていく。試合をした相手であることは顔に残るいくつもの傷で分かる。彼女の心にまた灯が点ったことが分かる。それで映画はジ・エンドである。

主演岸井ゆきの、会長三浦友和、監督三宅唱、脚本同、酒井雅秋。岸井が不細工に見えたり、とてもきれいに見えたり、それだけで映画を見ていることができる。三浦友和は「転々」でおやっと思った。いい役者さんだったのね、である。本作でも肩の力が抜けていてグッド。やや定型のきらいがあるが。

この映画、イーストウッドの「ミリオンダラーベイビー」が当然、意識されていると思われるが、しょぼいボクシングジム、老いたジムの会長という設定は同じ。一人黙然とトレーニングするのも同じ。しかし、方やチャンピオンとなっていくが、この映画の主人公は飛び抜けた才能があるわけではない。中学生のときにいじめに遭ったことがボクシングを始めたきっかけのようだが、動機も弱い。だから、辛勝のあとボクシングを止めようかと考える。

じゃあこの映画は何を描いたことになるのか。聾者の苦悶でもない、その日常を丹念に描いたわけでもない、反骨の様でもない……と考えてくると、この映画の良さが分からなくなってくる。だけど、最後までまんじりともしないで見てしまった映画なのである。監督三宅唱、脚本同、酒井雅秋(テレビが中心、映画「任侠学園」)。

 

19 人生の仕立て屋(S)

イタリア映画で、主人公はギリシャ人? 紳士服の仕立て業が行き詰まり、最初はその紳士服を屋台で売りに行き、まったく売れない。しかし、女性客が寄ってきて、紳士服しかないのを見てがっかりする様子などからヒントを得ていく。ウェディグンドレスを頼まれたのがきっかけで、商売が好転していく。隣のアパートの子どもとその母親と入魂になるが、夫の頸木からは逃れられない。仲のよかった娘も、母親と彼が睦まじくなったことで、反旗をひるがえす。最後にオフィスが荒らされた場面が映るが、銀行融資の返済ができず、差し押さえに遭ったということのようだ。だが、主人公はまた一人で出張仕立てに精を出す。このエンディングは後味が悪い。せっかくだから借金を完済し、恋も稔る、としてほしかった。彼が翻然と屋台を引くことを決心するのに、2度、途中でそれをほのめかす映像を入れている。台車に荷台を設置した屋台が通り過ぎるときに視線がいっている。だから、翻意が自然なのである。

 

20 不連続殺人事件(D)

監督曽根中生、脚本同、田中陽造大和屋竺(あつし)、荒井晴彦(助監督)、原作坂口安吾。資産家の家に集まった作家、弁護士、画家、医者などが8人の殺害に巻き込まれていく。もちろん犯人は内部にいる。金田一的な役柄を田村高廣が演じるが、彼の弟子巨勢(小坂一也)がすべてを解決する。登場人物が多すぎて、どこが不連続だか分からない。それとセリフが古すぎる。ATG制作。夏純子、宮下順子が裸を見せるが、絵沢萌子は脱がない。

 

21 コリーニ事件(S)

トルコ人の少年がドイツ人の資産家の庇護を受け成長し弁護士になる。その資産家が殺され、皮肉にも被告の国選弁護士になる。調べていくうちに、資産家が戦時にイタリアで民間人を殺していたことが分かる。その犠牲者の一人が被告の父親である。被告はまえに裁判を起こしたことがあるが、時効で却下されている。というのは、時効の数カ月前に法律が変わり、謀殺ではなく故殺が適用されたからである。まだ国際法が未整備で、女性、子どもでなければテロ行為に対する報復は故殺扱いとなったため、却下された。その法律変更を担ったのが、その検察官であることが分かり、裁判で主人公はそこを攻める。寡黙な被告をフランコ・ネロが演じている。久しぶりだ。

 

22   非行少女(D)

浦山桐郎監督、同・石堂淑郎脚本、主演和泉雅子、浜田光男。1963年の作品である。母親が死に、酒に溺れる父親(浜村純)が女を連れ込む家の一人娘・若枝が荒れた生活をしている。それを庇うのが三郎で、兄(小池朝雄)は市議会議員となり、さらに上を狙っていて、弟の不甲斐ない生き方を否定するばかりである。村は内灘闘争(と思われる)で反対派と肯定派に別れ、それを引きずり、不漁もあって低迷している。若枝は三郎が雇われている養鶏場の小屋に忍び込み、新聞紙を裂いて燃やしているうちに、周りにある藁に火が移り、全焼に。少年院に送られるが、そこで仲間と打ち解けあい、自立の道に進もうと、三郎に黙って大阪の紡績工場に旅立とうとする。しかし、三郎に見つかり、翻意を迫られるが、喫茶店で差し向かいになる二人の頭上に設置されたテレビでは美人コンテストで優勝した金沢出身の女性の映像が映し出されている。三郎の視界がぼやけ、やや長い時間があって、彼は若枝に出立を促す。ひと駅先まで同乗し、3年先まで心が変わらなければ付き合おうと誓い合う。若枝の入った少年院の担当夫妻がじつに民主的で、彼らがいてこそ彼女の自立への助走があった、という感じである。三郎も一から出直してみる、と前向きな青年である。何のてらいもない一本気な映画という印象である。弱いのは三郎の喫茶店での心変わりのシーンである。偶然駅で若枝を見かけるという設定だから、何か急な理由を用意しないといけない。それで考え出されたのが喫茶店に設置されたテレビとなるわけだが。和泉雅子がつねに走り回っている映画である。

 

23 猟奇的な彼女(S)

4度目である。やはり面白い。馬鹿げたストーリーを臆面もなく通す胆力に敬服する。韓国の民族性の明るさをもろに感じる。休みに安いからといって家族で連れ込みホテルに泊まるという人たちだ。暴力、笑い、韓国の2大特性がほどよく抑えられて融合されている。監督クァク・ジョエン、ほかの作品は見ていない。

 

24 善き人のためのソナタ(S)

ベルリンの壁崩壊数年前の東ドイツの話。秘密警察シュタージで舞台脚本家ゲオルクを盗聴することになったヴィースラー。彼はまだ社会主義の正義を信じているタイプで、上司がホーネッカーのことをネタにジョークを言うのを無表情に見つめる。ゲオルクの恋人・女優クリスタを我が物としようとする管轄大臣の行いにも批判的である(それについて公言はしないが)。大臣はゲオルクの身辺を洗え、と命じるが、それはクリスタを手に入れたい野心からのものである。

ゲオルクも過激な発言をする仲間を制したり、中間的なポジションを保持するが、信頼する演出家イエルスカが自殺したことで、西側に告発の文章を送る。国は自殺者のデータの発表を止め、ハンガリーが1位になったが、実態はひどい、という中身である。ベルリンの壁のもとで自殺する人間が後を絶たなかったようだ。国は自殺者を自己殺害者と呼んだ。

演出家の恋人・女優クリスタは管轄の大臣から誘いをかけられ、ゲオルクのために交接に応じるが、それに気づいたヴィースラーが彼女の寄るバーに先回りし、ファンとして変な行いはするな、とアドバイスする。その夜の盗聴では、大臣を振ったクリスタがゲオルクと熱く抱き合うところを、ヴィースラーは安心して聞き届ける。しかし、言うことを聞かなかったクリスタを大臣は許さず、精神安定剤?を闇で買っていた彼女を尋問にかけ、ゲオルクが告発文を書いたタイプライターが部屋の中にある、という証言を引き出す。彼女は実際の隠し場所を知っていたが、うそを行ったのである。今度はヴィースラーが尋問をやらされる。彼は細かな目つきで彼女に告白しても大丈夫だというサインを送る。それを信じてクリスタが証言したと思ったのだが、ヴィースラーが先回りしてタイプライターを回収していたことを知らず、シュタージの面々が来るまえにクルマに身を投じてしまう。

壁崩壊後、ゲオルクはシュタージが溜めた自分のファイルを読み、だれかが自分をずっと守ってくれていたことに気づく。友人と密儀を交わした場面は、次の新作の打ち合わせとしてでっち上げられている。ヴィースルーがまちの郵便配達夫になっていることを確かめる。ゲオルクは映画名と同じタイトルの本を出し、その人物のイニシャルに本を捧げた。

残念なのは、イエルスカの遺した「善き人のためのソナタ」と表に刷られたノートが、いったい何なのか分からないことだ。その装幀に分かる人はすぐ分かるのもしれないが、ぼくには分からなかった。それはゲオルクの誕生日に持ってきたものだが、イエルスカの死を知ってすぐ、ピアノに向かい弾きだす。その流れからいくと、楽譜かもしれないと遅まきながら気づく。彼はこう言う、「レーニンはベートーベンの熱情ソナタを批判した。『この曲を聴くと、革命が達成できない』と」。盗聴するヴィースルーの目から涙が流れる。ベートーベンの熱情を聴き直さなくてはならない。

 

25 僕を育ててくれたテンダー・バー(S)

自伝をもとに作られた映画、よくあるパターンだが、とても全体に抑制が効いていてグッド、それにシークエンスに過不足がない。監督ジョージ・クルーニー、脚本ウイリアム・モナハン、主演タイ・シェリダン(見たことのある役者だが、Xメンは見ていない)、、客演ベン・アフレック、リリー・レーブ(母親役、キュートでいいキャスティング)、ブリアナ・ミドルトン(主人公を何度も振る黒人女性)、クリストファー・ロイド(ドクである)。原作者はJ.R.Moehringer、父親は放浪のラジオ・パーソナリティ(良く分からないが、シンジケート局を回るDJということだろうか)。N.Y.Timesの記者になれず、とうとう覚悟を決めて父親に会いに行くが、新しい女と住んでいて、その女に暴力を振るうことで怒りを爆発、やっと父親との縁切れである。もう少しバーでの逸話が濃い目に描き込まれていたほうが、作品は良くなる。

 

26 イコライザー(S)

3回目である。1は「老人と海」が主人公の行動の背景説明になっているが、今度は「世界と僕のあいだに」(タナハシ・コーツ)である。タナハシは同作でピューリッツアーも取っているジャーナリストである。

 

27  ハロルドとモード(S)

1971年の作、どう見てもイギリス・テイストの映画だが、じつはアメリカ。主人公の青年は豪邸に住んで貴族に見える。きちんとした背広を着て、清潔な感じがある。母親の支配下にあって、首吊り、喉切り、自爆、腹切り(琴の音がしてくる。そして「すきやき」と言って刀を刺す)と脅かすが、母親はまったく取り合わない。大人になるべき、と見合い相手を3人用意するが、ことごとく奇妙な仕掛けで脅かしてダメにする。見合いの前に適性検査をすると言ってハロルドに質問をするのだが、そのうち自分で答えてしまう。

一方、趣味の葬式覗きで出会った不思議な婆さんとの交流が始まる。79歳なのに、氷の彫刻屋のヌードモデルになっている。「あの男が男であることを忘れないために、たまにヌードになっているの。だめ?」「いや」とハロルドは答える。モードは他人のクルマを拝借し、街中を破天荒に乗り回す。警官が追ってきても平気である。植物の多い部屋に住み、そこには自作の絵や木工のオブジェがある。ハロルドが木工の楕円に首を突っ込み、脇の木を撫で、楕円の下部に口づける。旦那は大学の先生だったようだ。

母親は軍人の伯父に息子を預けるが、その叔父は右腕がなくて、まともに敬礼ができない。戦場での偉勲を語り、おまえは有望だとほめるが、モードが現れて穴のなかに落としてしまったことで、甥っ子を諦める。これはハロルドとモードがたくらんだことだ。

ハロルドのかかる精神科医は、尻が垂れ、乳房が伸び、顔に皺が刻まれた女をなぜ選ぶのか、と助言するが、ハロルドは意に介さない。母親にも、モードと結婚すると伝える。

海岸で並ぶ二人。お互いに「好きだ」と言い、モードは「女学生の気分」と言うが、その左腕の裏側にナンバーが書かれているのをハロルドは見つけてしまった。移動サーカスで遊んだり、モードの誕生日にコインを送り、モードはそれを海に投げるが、「こうすれば、どこにあるか永遠に分かる」と言う。翌朝、ベッドで胸毛のある裸の半身を起こすハロルド、右を向いて顔をシーツで覆っているモード。

80歳になったモードは、もう薬を飲んだ、とハロルドに言う。慌てて病院に運び込むが、あえなく死んでしまう。崖に向かうハロルドの自家用車、そのまま突っ込んで落ちるが、ハロルドは崖上でモードから貰ったバンジョーを弾きながら、なだらかな丘を越えていく。

監督ハル・アシュビー、「さらば冬のかもめ」「シャンプー」「ウディガスリー」を見ている。脚本コリン・ヒギンズで製作もやっている。

黒柳徹子が舞台にかけているらしい。不思議な、キッチュで、アイデアに溢れた、ぼく好みの映画である。腕にある収容人ナンバーをさらりと見せるところなど、なんと奥ゆかしい。

 

28  魚影の群れ(D)

相米慎司監督、脚本田中陽造、主演緒方拳、夏目雅子佐藤浩市、撮影長沼六男、主題歌原田芳雄&アンリ菅野。なかで「涙の連絡船」「おけさ唄えば」などが緒方、夏目、佐藤によって歌われる。

有名なシークエンスがある。古い旅館の二階から緒方が外を見る。若い男と逃げた十朱幸代の下駄を履いた足を写す、立ち止まり上を向き、逃げ出す、それを俯瞰で撮っていて、二階から一階に出てくる緒方をその俯瞰のまま写し、音は下駄の音だけ、十朱を緒方が追うのをずっと後ろから撮り、次は正面から十朱を撮り、柵を越えて突堤に来て、疲れて仰向けになり、近づく緒方の脚を十朱の足が蹴飛ばす。この一連が、やはり映画的な快楽にぞっとする。

あとは、緒方と十朱の船倉でのセックスシーンも力がある。緒方が船底に寝ているところに、音がする。十朱が石ころを投げて寄こしている。抱いてほしいの言葉に、二人のセックスが始まる。ここは二人の裸の上半身での寄りの映像だけで、かなり長い間、お互いの過去を許し合うセリフが吐かれるが、青森弁で分かりにくい。逃げたのは20年もまえのことだからな、と緒方が言い、十朱が「時効か」という。そういう途切れ途切れの会話を交わしながら、セックスが描かれる。

男が外に迎えに来ていて、花火を打ち上げる。男と緒方が取っ組み合いの喧嘩になり、女は「マグロと人間の区別がつかない。針にかかると泳がせ、暴れたら殴りつける。何にも変わってない」と言い捨て、去っていく。「明日の晩まで船を停めておくぞ」と女に声をかける。翌日、十朱は荷物バッグを持って現れるが、マグロと格闘し、バラシて逃がした緒方は現れない。

佐藤浩市が若くて、はじめ違和感がある。夏目は熱演である。佐藤はテグスに巻き込まれて重傷を負い、最後もまた内臓破裂で死ぬ。

 

29 台風クラブ(D)

監督相米慎司、脚本加藤祐司、途中まではテンポよく、進むが嵐が強くなってからは、中身もなしにだらだら迷走するだけである。青年の一人が女の子を犯そうと追いかけ回すが、いざとなって止め、そのあと2人には何もわだかまりがない描き方は無責任をいいとこである。工藤由貴が突然家出するが、コンビニだかで男と話しはじめ、男のアパートに行く。どうやら初めてあったらしい。これも中途半端に外に出て、家に帰ってしまう。演出に困ると、女の子たちを下着姿に躍らせるなどのことをやっている。まえは冒頭のシーンで見るのを止めたが、それが正解だったかもしれない。

 

30 トリとロキタ(T)

ダルデンヌ兄弟監督、何人なのか年齢差がある男女(女が年上)がきょうだいかどうかも不確かだが、離れ離れになった弟を探しに行き、見つけた少年が、不吉な星のもとにある弟と感じが似ているというので、一緒に住み、小さなレストランの闇商売、クスリの売人をやりながら、五人の子のいる母親にも仕送りし、自分はビザが下りればヘルパーの仕事に就きたいと思っている。集中的に稼ぐために3カ月(?)、閉ざされた場所で、弟とも隔離され、クスリの栽培をすることに。弟はどうにか見つけ出し、そこで栽培しているものを横流しに。それが見つかり、どうにか逃げるが、間違って追っ手にヒッチハイクの手を挙げ、姉は殺され、弟が教会での葬式で簡単な別れの挨拶をし、小さな歌を歌うところで終わる。ごく素直な映画づくりである。ダルデンヌはカンヌ受賞の常連らしい。

 

31 パリタクシー(H)

原題は「いいコース」みたいなものではないだろうか。92歳になる女性がタクシーを拾い、養護ホームまで送ってっもらう、寄り道を含めてその一部始終を描くものである。アメリカ兵との短い恋で子どもを設け、次の男は暴力男で5年目にある仕置きしたことで13年の牢獄暮らし。まだ夫の許しがなければ銀行の口座も持てないし、働きにも出られない時代。「毎日、暴力を振るっていて、5年も過ごすことができるか」との弁明に、男だけの陪審員は彼女を23年の有罪に。その語りの瞬間にパリ俯瞰に代わり、その風景に重ねるように刑務所の扉が閉められる音がする。この演出はいい。彼女の過去が織り綴られ、その間に運転手の温かい人柄なども問わず語りに分かってくる。赤信号無視のとき、彼女の機転で加点されず、免許を失わずにすんだが、それまでの彼女のアクティブな過去の一面がひょいと顔を出すシーンである。

監督・脚本クリスチャン・カリオン、主演はリーヌ・ルノーダニー・ブーン。主題歌は英語。

 

32 私が棄てた女(D)

安保の敗北が主人公(吉岡:河原崎長一郎)を屈折させ、出世主義一辺倒にはさせない。その重し、あるいはしこりとしてミツが設定される。文通で会い、それから付き合い始めた田舎丸出しの、工場勤めの女である。「汚い言葉を使うな」「何でもづけづけ言えばいいってもんじゃない」と叱りつける。海水浴へ行き、先にプレジャーボートの浮かぶ海でボートを漕ぐ吉岡。楽しく音楽を鳴らして踊る若者たちにミツは平気で参加して踊る。その夜、ミツを抱き、翌朝吉岡は彼女を置いて逃げる。

彼は自動車会社の社長の姪(真理:浅丘ルリ子)と結婚するが、社長宅で階級の違いを見せつけられ、ミツとの関係も強請りをやるミツの友達シマコ(売春業者)からマリ子にちくられる。吉岡、ミツ、真理で回想の際の色を変えているが、ミツの相馬の馬追いを思い出すシーンではカラーに切り換わる。

最後は別れたはずのマリ子の想像図で、色は赤色、そこではミツが助けた老婆の息子八郎(加藤武)まで登場し、吉岡と将棋を指している。ある種のユートピアを思い描いているという設定なのかもしれないが、作者の願望としか見えない。マリ子が「あなた(ミツ)の分まで考えて生きていくわ」と言うのも、そうである。

能面を挟んだり、抽象的な画面を作ったりいろんなことをやっているが、そんなこと必要だったのだろうか。時代の要求ということだったのだろうか。ぼくには、そういう装飾がなくても、この映画、充分に成立していると思えるのだが。

 

33  サンドラの週末(D)

ダルデンヌ兄弟である。マリアンヌ・コーティヤール主演、病気で会社を休んだことで解雇となり、その代わり従業員にはボーナスが出ることに。もう働けると社長に言うと、多数決で決めると言われ、週末の2日間だけが説得の時間となる。仲間の家々を訪ね、言葉少なにサンドラは相手の意思を確かめる。その過程で、どこもボーナスがないと生活が苦しい、という状況が分かってくる。家の内装を変えるためにボーナスを当てにしていた女性は翻意し、サンドラ復職に一票を投じることにするが、彼女は夫の横暴さに嫌気がさし、離婚を決め、サンドラの家の厄介に。最終的には1票が足らなくて負けるが、社長から臨時工が2人期限が来るのでそれを切るから、残ってくれ、と提案sれるも、人を切って自分が戻ることはできない、と断る。静かなやりとりのなかで、人の善意があぶり出されていく。そういう映画である。

 

34 ハマのドン(T)

横浜市がカジノ導入を止めたその火元となったのが、親子2代で港湾に関わってきた藤木幸夫である。かつては博打を規制すると人夫が集まらず、そこにやくざも絡んできたが、藤木の父親はそういう連中から身を離した歴史がある。そこに問題の多いカジノなど論外だ、というので反対の拳を上げ、もともとは菅を押し上げる原動力となった人物がまともにそこと争うことになった。市民運動が18万の反対の声を集め、カジノを呼ばないと公言した自民党候補を抜いて、当選した。自分の子飼いの統制もできない首相は面目を失い、総裁選に出ずに降板した。新宿ピカデリーで160人入る小屋が満杯だった。検事長の定年延長の阻止、安倍国葬の反対と世論の風向きが変わってきているが、それとこの横浜の動きは密接に関連したものと思われる。

 

35 マーベラス・ミセス・メイゼル(S)

いま第5シーズンまで来ているスタンダップ・コメディアンの物語である。ユダヤ人、二人の子持ち、離婚、そんな彼女がレニー・ブルース張りのジョークを飛ばす。マネジャーを買って出たのがスージーで、小さくて、小太りで、不細工……だが、二人の息はぴったり合っている。バックステージの事情から家族の問題まで、じつに丁寧に、そしてのんびりと描いて、飽きが来ない。デ・ニーロにもスタンダップものがあるし、トム・ハンクスエディ・マーフィースタンダップの出身である。既存の、仮面をかぶったエスタブリッシュをけなしまくりながら、一方でその場に合った当意即妙のジョークをくり出す様に、すっかりやられている。

 

36  怪物(T)

こういうタイトルが付いたときは要注意という気がする。客寄せの匂いがするからである。そういう意味では、この映画に誰も怪物はいない。いるかのように見せて、すべての鍵が開けられていく。ただし、2カ所だけ、カギを与えてくれない。子どもが精神的に動揺していて、シングルマザーは心配でしょうがない。嵐の夜、外から帰ると窓が開いていて、風と雨が吹き込む。そこでこのシークエンスは終わる。観客とすると、子どもがベランダから身を投げたのではないかと恐れる場面である。それと同じ日なのか、嵐の中を母親と担当教師が息子を探す。前に息子を見つけたことのあるところに行き、二人で泥の中に沈む窓(使われなくなった電車の?)を開け、子どもの名を呼ぶ。このシークエンスもここで終わり。映画のラスト、時間を巻き戻すように、その天窓らしきところから息子と友人の子が降りて、二人で闇の中に入り、陽がさんさんと照るところに出て、息子が「生まれ変わったのかな」と言うと友は「変わらないよ、いつもの通りだよ」と言い、二人してさらに明るいほうに向かって行くところで映画は終わる。おそらく二人はもう死んでいるのではないか。

 

この映画は3つの視点で描かれる。息子の母親の視点(息子から担当教師の暴力を示唆されている)、担当教師の視点、そして息子の視点である。この3層には明らかに矛盾がある。母親の視点からすると、担当教師は校長、教頭とグルになって事件をもみ消すように見える。「誤解を与えたようで申し訳ない」とか「シングルマザーだからダメだ」式のことを言う人間である。ところが、教師の視点に移ると、学校幹部の行いに不服で、母親と話して誤解を解きたいと訴える。当然、その息子への虐待などなかったことも明らかにされる。そういう人間が、母親の視点ではまったく逆に見えるような演技をするだろうか。逡巡や羞恥や沈黙などが現れるのではないか。

 

息子は次第に友への愛に気づくようになる。その友へ負担がかからないように、教師に罪を押しつけた? ということになるのだろうか。

 

久しぶりに是枝映画に戻ってきた。「万引き家族」でがっかりして、それ以降、見る気がしなくなった。時間をあっちこっち動かしているのは、是枝のこれからの変化を表しているのか。非常に珍しい。脚本がそうなっているのかどうか。友を湯船から引き出すときに、あえて友の背の傷をきちんと撮っている。父親の虐待を知らせているわけである。こんな説明的な絵を撮らない是枝にしては珍しい。

是枝がこれだけ社会性を露骨に見せたのも珍しい。それにしても、母親に言質を与えまいとする教師たちの鉄仮面ぶりは、余りにもステレオタイプである。しかし、仮面を被った校長も結局、あとで人の良さを見せている。それに少年同士の愛など、是枝の追ってきたものでもないだろう。坂元裕二という脚本家に声をかけたらしいが、この中身は是枝のやりたかったことなのだろうか。彼は脚本を貰って、戸惑ったのではないか。

一番残念なのは高畑充希を起用しながら、いつもの紋切り型の演技をさせてすませていることである。

 

37 波紋(T)

荻上直子監督・脚本。いくつも撮っている監督だが、社会性がなさそうで見る気がしなかった。筒井真理子(深田晃司の映画で何回か見ている)が主演、その失踪した旦那が光石研(彼は「共喰い」以来である)、ガン末期ということで帰ってくる。波紋(枯山水)と手拍子が映画の主音となっている。波紋は宗教と結びつき、手拍子はラストの映像へと繋がっている。途中、九州に逃げた息子が吃音の恋人を連れてくるが、母親は露骨な差別をし、スーパーの同僚もそれを認めるというひどいことをやっている。あれあれ、である(監督は、女性差別をテーマに挙げているが、あれ? である)。その吃音の女性が突如、消えてしまって、その理由が語られない。あるいは、これが一番の問題だが、夫がなぜに出奔したかが、明かされない。息子が言うには、母親から逃げた、ということになるのだが、どういう風にひどいのかが語られない。そのあとに怪しい宗教に凝りかたまったわけだが、なんだかな、である。そういうこともあるかもしれないが、クリシェだという気がする。ラストに喪服を着て、やや長めにフラダンスを躍らせるのは余計である。赤い傘に喪服、その着物裏が赤で、実に美しい。それを上から撮ると、何だったか、名作やくざ映画の俯瞰のワンシーンを思い出す。狭い路地で赤い傘が人とすれ違い、倒れるのである。刺されたということを、それで表していた。

 

38 エール!(S)

これまったく「コーダ あいのうた」のフランス版パクリ、と思いきや、こっちが2015年の作で、アカデミー賞を受賞した「コーダ」が2022年の作。まったく知らなかった。プロデューサーが一緒である。しかし、「コーダ」の公式ホームページを見ても、翻案だと書かれていない。こういう隠蔽はよくないのではないか。「エール」の脚本は5人、「コーダ」は監督・脚本でシアン・ヘダー。プロデューサーが英語版を進めて、この監督を立てたのではないか、と思われる。やはり最後まで見てしまった。主人公があまりきれいではないのが、この映画のポイントではないか、と思う。

 

39 アンダードッグ(s)

またマンソクである。まちで暴れる若者と出逢ったマンソクもまた、表の世界の失敗を裏で返そうとしている男である。しかし、女性を借金の形にとっても、35%の高利を超えることはない。そこに、若者の密告でムショに入れられ、彼女も奪われた狂人(実は金持ちの子で、短い刑期で出られた)が戻ってきて、彼を追いかけ回すことから、事件が起きる。マンソクを全篇に見られないのが不満だが、彼を使って映画を作ろうとする工夫の跡が見えてグッド。

 

40 パリの調香師(S)

よく出来た作品である。無理がなくて、自然で、きちんといいところに落とし込む。運転手に雇った男が、意外な交渉力を見せることで、物語が動き出す。それが最後の場面まで生かされる彼の才能だ。頑なな調香ひとすじの女性が次第に変わっていく様も、この映画の見所だろう。こういう一篇を無理なく作れるのは、文化の厚い下地があるからである。日本で山本周五郎長谷川伸が発祥の世話物、人情物のなかに大変な財産が眠っている。

 

41 にじいろカルテ(S)

高畑充希主演、脇に三浦新、北村匠海。さらに脇の安達祐実水野美紀西田尚美池田良がいい。なかでも水野美紀ががさつだが真心のある人を演じて、ぼくには意外性があってとてもグッド。年老いた水野久美が出ているのにはびっくり。9話完結、平均で10%超の視聴率。脚本岡田恵和、演出深川英洋。ホームページでは脚本が先にクレジットされている。

 

42 兄弟仁義(S)

鈴木則文村尾昭が脚本、監督山下耕作。白黒で1966年の作、ぼくはこの映画を封切りで見ていない。このシリーズは9作まであって、ぼくは何作目かカラーで見ている。テレビで見ていた北島三郎がどぶを這い回って殺されるシーンを今でも覚えている。テレビで有名な歌手も、こういう役をやるんだ、という驚きがあった。組長がこれまた歌手の村田英雄だが、演技がうまい。ほかの映画でも村田は見ている。北島も演技がうまい。松方弘樹の身体の動きがやはり素晴らしく、それを見ているだけでも楽しい。やや下向き加減になったときの表情にはいわく言いがたいものがある。外部助っ人の鶴田浩二は安心の演技である。組のみんなを堅気にさせておくために、単身殴り込むスタイルだが、やくざ映画が緩み始めるきざしを感じる。なぜなら前であれば、組のもの、つまり松方も殴り込みに出かけたはずだからである。

 

43 トゥ・レスリー(T)

10万9000ドルのロトを息子の生年月日で当てた女が、自宅を買い、酒に溺れてすべて使い切り、泊まっていた安宿から追い出され、息子を頼っていくが酒浸りを止められず、息子が電話で頼んだ先に寄せてもらう。かつて多少は彼女の世話になったことがあるだけという夫婦で、何かあればすぐに出て行ってくれ、とはなから信用をしていない。息子が泣いて頼んできたから泊めただけである。レスリーは酒場に行き、男を誘って飲もうとするがうまくいかない。やはり追い出され、あるモーテルの脇で寝たことが再生のきっかけになる。部屋の掃除などの仕事をくれたのである。前借りをさせてくれることから酒に浸りはじめるが、ある若者が声をかけてきたことで、息子のことを思い出し、酒を断つことに。それからは予想通りの展開で、最後、10年以上もほったらかしされていたアイスクリーム売りの小さな建物をダイナーに変えて、その一番先の客が息子という展開に。その息子を連れてきたのが、家から追い出した夫婦のかみさんの方。いろいろつらく当たってきたが、じつは愛していたんだ、と言ってくれる。主演アンドレア・ライズボロー、翻意した妻がアリソン・ジャネイ(まるでネイティブのような化粧)、監督はテレビ畑らしくマイケル・モリス、脚本ライアン・ビナコ。

 

44 シモーヌ(T)

「フランスで最も愛された政治家」がサブタイで、それを知らずに哲学者のシモーヌ・ヴェイユのことだと思って見に行ってしまった。あれアウシュヴィッツ、あれEU議長選挙、あれ彼女の哲学は? あれ工場勤めは? と思っているうちに映画が終わった。さっそくウィキを見ると、哲学者のシモーヌは30代でイギリスで客死している。そのあとにカミユなどの手で彼女の論考が編まれ、『重力と恩寵』がベストセラーになった。ぼくはそれを読み始めているのだが、なんとうかつなことか。映画は楽しんで見ることができた。ただ、時間をあっちこっちし過ぎるのが玉に疵。中絶法や保健士資格の制定をした人のようだ。母、姉とアウシュヴィッツに送られ、そこの女性カポ(ユダヤ人の管理係)に気に入られ、労働の少ない収容所に移されて、命が助かった。父と兄はほかの収容所で殺されている。

 

45 グランド・ジョー(S)

ニコラス・ケイジ復活を告げるドキュメントがあったが、見逃してしまった。ここしばらく際物役者のようになってしまい、残念感が強かったが、この作品はきちんと人間関係が描かれていて、テーマも貧困の、親からの虐待を受ける青年を救う話で、好感がもてる。身体もそんなに肥満をしていない(2013年の作)。ジョーは樹に毒を入れて枯れ死を早め、それを倒れさせる仕事の頭領だ。法律で樹木は枯れ死しないと、新樹に換えられないのだという。ラストはその新樹を支える仕事に青年が就くところで終わる。こういう映画を観ると、本当に映画は前提条件なしに虚心に観ることがいかに大事か分かる。

 

46 リボルバー・リリー(T)

大正期の話、陸軍の軍資金をつくった男が、じつは戦争を止めようとして翻意、子どもに託して自害した。その子を救ったのがリリー、小曽根百合子(綾瀬はるか)である(実の母親である)。彼女は玉の井に家(娼館ではない)をもち、二人の女性(シシド・カフカ、古川琴音)がいて、一人の男(長谷川博巳、元海軍)も情報探索などの手伝いをしてくれる。リリーは元幣原機関の諜報員で50何人だかを殺して鳴りをひそめていたが、先の子どもの父親の殺害記事を読んで動き出す。陸軍との派手な銃撃戦が2回、陸軍がどっちも負けてしまう。なんで時代設定を大正などにするのだろうか。現代に引っ張って来たほうが無理が少なくなったろうに。銀髪の老婆が2回現れ、きっかいな魔術を施すが、これはなくても映画は機能している。胸を深く刺され、何度も弾をぶち込まれるが、彼女は不死身である。できれば、防弾具を着用しているとかの事前告知をしてほしい。綾瀬はるかの格闘シーンはもっともっと見たかった。座頭市、奥さまは取り扱い注意などでアクションは見ているが、ぜひリリーをシリーズ化させてほしい。客はまあまあの入り。

 

47 デンジャラス・ビューティ2(S)

再見である。サンドラ・ブロックはやはりコメディエンヌではないかと思う。男の白人と黒人警官のパートナーを女性同士に変えたものである。その最初は? 1982年の「48時間」ではないかと思うが、違うだろうか。TVドラマでも、人種が違うというのはあったろうか。「エージェント」のレジーナ・キングが出ている。ラガーマンの夫を劇愛し、そのためにトム・クルーズを焚きつける、あのときのレジーナはすごい。もっと彼女を動かしたらよかったのに。サンドラは顔の形が変わったので、新作を追いかけることができないのが残念。ほぼ彼女の作品は見ているが。

 

48 ファイティン(S)

マンソクにほぼ外れなし、はこれでも証明された。母親に養子に出され、アメリカで育ったアームレスラーが韓国に戻って大活躍。にせの家族も得て幸せに。その妹役にハン・イエリで不思議な顔をした女優さんだ。韓国顔のような、そうでないような、知り合いにもいそうな感じが……。舞踏家でもあるようだ。追いかけるかどうか微妙。

 

49  アステロイド・シティ(T)

存分に楽しませてもらいました。前作よりまとまりがいい。アメリカでごく少数館で始まり、拡大ロードショーとなり、彼の最高収益映画となったらしい。スカレーット・ヨハンセンを脱がした後に、替え玉だけど、とバラしている。前作ではレア・セドウを脱がして、その断りを入れていなかったが、きっとダミーである。小惑星都市にやってきた超秀才たち5人の一人がソフィア・リリス、ほとんど台詞もなく、可哀想。しきりに原爆実験をやっている町である。戦場カメラマンの3人の小さな女の子が元気で、キュートで、それが頑固なのがいい。色が脱色というか、露出オーバーに撮られていて、古びた感じを出している。役者がとにかくこれでもかと出ている。こういう映画もあってこそ、映画なのである。

 

50 535(S)

ジェシカ・チャスティンはこの前にアクションものがあったが、あまり良くなかった。今回はマーシャルより銃撃戦に迫力があった。ありふれた筋(同僚かつ恋人が裏切り者というパターンはお馴染み)で、お宝ものと異種チームものの合体である。それを全部、女性陣でやったことの面白さである。一人だけ格闘派ではない心理カウンセラーのペネロペ・クロスをどう扱うかがポイントだが、少しずつ彼女の分量を上げ、最後近くにマックスにもっていく手腕はなかなか。もしかして続編ができる? 黒人のルビタ・ニョンゴがとてもキュートである。「それでも夜が明ける」に出ていたらしいが、記憶にない。同作を見直してみるつもりである。ほかの作品も見られればいいのだが。

 

51 完全なる報復(S)

わが家で妻子を突然の強盗に殺され、主犯格が5年の刑、なにもしなかった従犯格が死刑になる。司法取引だというが、そんなことがあるのだろうか。証拠がないにしても、どちらが主犯かは分かりそうなものだが。その復讐を10年かけて仕込んだが夫が、じつは国防省の仕事を請け負った過去のある頭脳派の殺し屋。不正な司法・行政に関わった人間を獄中から殺していく、という映画である。この獄中からというのは、なにかほかで見たような気がする。脚本カート・ウィマーの作品のうち「ソルト」「トーマス・クラウン・アフェア」を観ている。「Xミッション」「ウルトラバイオレット」が面白さそうだ。監督はゲイリ・グレイ、主演ジェラルド・バトラー、客演ジェレミー・フォックス。

 

52 ジョン・ウィック(T)

コンスィクエンス、報復がテーマらしいが、それは毎回のことである。大阪篇は余計だったように思う。同じ技を延々と見せられて、途中で飽きが来てしまった。これがファイナルなのもよく分かる。ドニー・イェン座頭市をやっている。真田広之の娘役は日本人だが、服装から含めてそうは見えない。

 

53 カリフォルニア・ガールズ(S)

ロバート・アルドリッチ監督、メル・フローマン脚本。アルドリッチは「ロンゲストヤード」「北国の帝王」「傷だらけの挽歌」を見ている。「傷だらけの挽歌」は封切りで見ている。「カリフォルニア~」は女性プロレスタッグの名前で、きれいな二人が有能なマネジャーピーター・フォークのもと、チャンピオンまで駆け上る物語である。ミミ萩原とジャンボ堀が出ていて、彼女らの逆エビ固めがカリフルニア・ドールズの起死回生の技になる。最後に華麗なテクニックをいくつか取っておく心にくいことをしている秀作である。フォークはまだ両目が大丈夫で、演技も合っている。せこいが憎めない、分け隔てがなく、アイデアと交渉力をもった男である。一つひとつ真剣に戦うことでランクを上げ、プロレス雑誌で3位にランクされたことでシカゴに乗り込んでいく。ぼくが見た女子プロレスでは、たしかイギリスの田舎からアメリカへ勇躍するも戻ってきて地元でこじんまりとやる道を選んだのがある。数年前の映画だ。アメリカのテレビシリーズで女子プロを扱ったものがあるが、2、3回しか見る気になれなかった。女性がアイススケートでぶつかりあったり、マーシャルアーツで動き回ったり、スナイパーで頑張ったりの映画に弱い。原点は「レオン」であり、「ニキータ」である。

 

54 犯罪都市2Round UP(S)

マンソクで満足。ベトナムへ犯罪者引き取りに向かい、そこで極悪人と対峙するが逃がしてしまう。韓国に戻り、そこで大団円に。途中、かったるい感じがあるが、最後にスカッと終わる。マンソクに「殺されたミンジュ」「アンダードッグ 殺された二人」というのがあるらしいが、まだ見ていない。

 

55 噂の二人(D)

シャリー・マクレーン、オードリー・ヘップバーン主演、客演ジェームズ・ガーナー。一人の邪な女の子の狂言から、17歳からずっと一緒だった二人の女教師が同性愛を疑われ、失職ばかりか社会的な地位まで奪われる。しかし、マクレーンはやっと自分の性癖に気づく、ずっと友だったオードリーのことを愛していたことに。二人の罪が雪がれたとき、マクレーンは自裁する。ウイリアム・ワイラー監督、脚本ジョン・マイケル・ヘルズ、原作リリアン・ヘルマン。なぜヘルマンはこういう作品を書いたのか。マクレーンの演技の上手さに比べれば、ヘップバーンは余りにもステレオタイプの演技しかしていない。次の演技に移るまでが、あほな顔をしていて困ったものである。ワイルダーのほぼ晩年と作といっていい。原題はThe Children's Hourである。邪な女の子がじつに小憎らしい演技をしている。

 

53 犯罪都市(s)

2もそうだが、悪人のキャラクターがむかしの韓国映画っぽいのである。それがこのシリーズが愛される理由である。マンソクに外れなし、である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年後半の映画

77 Eight Days A Week (D)

何度か映像を見ていて泣きそうになった。ロン・ハワードが過去の映像を綴り合わせたものだが、間然としたところのない編集である。見終わって思うのは、60年代が大きな変動の時代だったということだ。音楽のミューズに愛されたリバプール出身の田舎青年が世界へと飛び出して行ったときに、ケネディの暗殺があり、彼らのジャクソンビルのゲイターホールでのコンサートでは人種隔離問題があり、明確に彼らはそれを否定した。イギリスではありえない、と。ある黒人学者はそのコンサートで自分の周りの観客が多様な人々だったので驚いた、と言っている。のちジョンが「ビートルズはキリストより人気がある」と発言したことが、アメリカの保守を刺激し、物騒なコンサート続きとなった。その発言はイギリスではまったく問題にはならなかったものである。それはすでに「ラバーソウル」が発売されたあとのことである。
アメリカでのツアー会場はセキュリティや収容人員の問題から、演奏設備の貧弱な野球場などで行われるようになった。そこからは囚人護送車に入れられて脱出することになる。ジョージが口火を切って、もうツアーはうんざりだと言う。リンゴが言うには、レコードの契約は最低のもので儲けにならず、ライブで稼ぐしかなかったという。ブライアン・エプスタイン、ジョージ・マーチンのような紳士的なプロデューサーが付いていたのに信じられない。
ファンの一人が言う言葉が印象的である、「彼らは堂々としていて、自然で、若者の代表という感じ」。リンゴが、聴衆のほうが先に大人になり、自分たちは急速に大人になることを求められた、と言っている。ライブを止めてスタジオ録音だけに切り換えたのには、そういう事情もあった。5万6千人を集めたNYシェア・スタジアムではまったく自分たちの演奏が聞こえず、リンゴはジョンとポールの頭と尻の動きを見てリズムをとったという。ときおり、エルビス・コステロがコメントを言うが、「ラバーソウル」は裏切りだと思ったらしいが、6週間後には虜になったと言っている。苦しみから喜びが生まれるなどと、ビートルズが歌うなんて、と最初は思ったらしい。ラストは伝説のサールズベリのビルの屋上ライブである。いま見ると、みんな気持ちが合って、幸せそうに見える。ぼくは田舎で封切りでこの映画を見た。

 

78 日曜日には鼠を殺せ(D)

スペイン内戦以後20年の話。市民軍のリーダーだった男(マヌエラ役、グレゴリー・ペック)のもとに一人の少年が山を越えてやってくる。そのルートは、内戦から市民派(共和国派)が逃亡したルートである。警察署長(アンソニー・クイン)に殺された父親の復讐を果たしてくれ、と少年は懇願する。

マヌエラは母が病気がちなことを知っていたが、勇気がなくて帰らずにいた。しかし、少年の嘆願に心が動き、結局、単身で故郷へと戻る。署長は今度彼の捕獲に失敗したら、どこかに左遷させられるというので、教会に祈りに行く。もし願いが叶えられれば、ルルドに単身で参詣に行くと誓う。
そのルルドに神父仲間と行くことになっていたサンフランシスコ(オマー・シャリフ)は、死の間際のマヌエラの母から呼ばれ、息子への伝言を頼まれる。無神論者の母親がそうしたのは、神父なら厳戒の病院に入れれてもらえると踏んだからである。サンフランシスコが実は神の法を厳重に守る男であることを知って呼びつけたのかもしれない。映画内ではそれについての言及はないのだが。あとでマヌエラが気をつかって、嘘をつけば、あんたの身は助かる、と諭す場面があるが、神父はウソを決してつけない、と怖る。神父は現世の法と神の法のどちらに従うか悩むが、結局は神の法に従うことを選択する。もちろん神の法とは死の床にあるマヌエラの母親のメッセージを彼に伝えることであり、厳戒態勢を敷く警察の裏をかくことになる。この映画の主題はそこにある。
フランシスコがマヌエラのところにやってきても、なぜ死を賭してまで神父が来るのか? と信じない。マヌエラは「自己犠牲と善意に満ちた人びとが割を食う」と吐露する。
最後、マヌエラが殺され、棺を運ぶ車が動き出そうとしたとき、かなりの数の人びとが集まる。それは過去の英雄の弔いのためだが、もしかして新しい市民の立ち上がりを示すものなのか、それは映像的には定かではない。
白黒の映画だが、黒をうまく使っている。白い町のなかで黒服の神父たちがサッカーに興じているシーンは、その黒の動きが面白い。俯瞰で撮る映像にいいものがある。町の人々を写したのも、印象的である。マヌエラが死の瞬間天井が回り、サッカーボールで遊ぶ少年の顔が一瞬写されるが、面白いモンタージュである。ルルドでは病者の群れが写される。そういう人々を治すという霊験あらたかな聖地ということなのだろう。

監督フレッド・ジンネマン、「地上より永遠に」「ジュリア」「尼僧物語」「真昼の決闘」「ジャッカルの日」を見ている。硬軟とりまぜて撮れる監督である。ミュージカル「オクラホマ」が見たかどうか記憶が定かではない。
原題はBehold a pale horseで聖書の言葉から来ているもので、「蒼ざめた馬を見よ」つまり「死には気を付けろ」だが、マヌエラに向かって言っている言葉といえるだろう。たしかに彼は年老いて、蒼ざめた馬を見る機会も増えているはずだが、最後は勇気を奮い起こして単身の反撃を試みたわけである。

スペイン内戦は複雑な戦争で、市民戦士の中にも共産党系はソ連の指導を受けながら活動していて、ほかの市民戦士に冷たい対応をした。ソ連の教条では、スペインの内戦はまだ革命の段階に至らないものだ、ということで、支援に熱心でないというより、仲間割れを起こすことばかりしていた。内戦に加わったジョージ・オゥエルの共産党嫌いは、そこから来ている。

 

79 原発をとめた裁判長(T)

2014年、大飯原発運転差し止め判決を出した樋口英明とソーラーシェアリングを進める福島の農家、それをつなぐ反原発弁護士かつ経済事案でバブル紳士などを勝訴させた河合弘之の3者を扱っている。河合は、これからの原発訴訟は理論は樋口理論で行き、実践篇は水戸地裁判決(2021年3月、前田英子裁判長)、つまり原発事故で関係人口が避難する計画が実行できるものでないと仮処分(差し止め)にできる、というのを活用しながら進めていく、と言っている。
樋口理論は、原子力会社が設定している各原発の基準地震動のガㇽ数が脆弱なもので、それを超える地震がこの20年で30回以上起きている。住宅メーカーの耐震構造のほうがはるかに安全性が高い。原発のそれが高くて1200ガルのところ、住宅メーカーの建物は5115ガルとか3406ガルに達している。
原子力会社は基準地震動は地中で測るから小さいと強弁するが、地上でも基準地震動より小さい地震はいくらでもある。今までは原子力会社の複雑な技術的な議論に巻き込まれて負けてきたが、ごく単純な理論で決定的なものを樋口元裁判長が見つけた意義は大きい。例によって高裁でひっくり返っているが、樋口氏はその判断を出した裁判官の適性を疑っている。原子力規制委員会がゴーを出したのだから合憲だとの安易な判断をしている点を指している。

ソーラーシェアリングは農地の上にソーラーパネルを設置して売電することをいうが、後継者問題などで耕作放棄地が増えている現状を見れば、そこをソーラーで覆い、電気を売って稼ぎを出しながら、熱暑を避ける効果もあるシステムで、いずれ成長を続ければ原発何十機分に相当する発電力になるという。ぼくはもう20年ほどまえにある人からソーラーシェエリングの話を聞いたことがあるが、広がるのかしら、と懐疑的だったが、印象が変わった。反原発と農業が結びつく。有機への流れを考えれば、当然といえば当然なのである。

 

80  バウンド(D)

ウォシャウスキー姉妹が監督、脚本も同じ。彼女たちは元は男性で、性転換手術を受けて性が変わった。「マトリックス」「クラウド・アトラス」を撮っているが、ぼくは両方見ていない。本作ではレズビアンカップルが犯罪をやり遂げる。娼婦からマフィアの一員である男の情婦となった女(ジャエニファー・ティリー)がなかなかのやり手である。最初は頭の悪そうな演技をしているが。幾度も展開が変わり無理がないのは、彼女の存在を事前にきちんと描いているからである。

 

81 若き獅子たち(D)

不思議な映画である。エドワード・ドミトリク監督で、大作主義の人である。赤狩りで証言拒否を続けたが、結局は同僚などの名を挙げ転向した。アメリカ女性マーガレット(メイ・ブリット)にモーションをかけるドイツ人スキー教師クリスチャン(マーロン・ブランド)。しかし、ナチスを信奉するクリスチャンとは深い仲にはなれない。帰国したマーゲガレットの恋人がマイケル(ディーン・マーチン)、そのマイケルが兵隊検査場で出会ったのがユダヤ人のノア(クリストファー・モンゴメリー)で、その彼女がホープ(ホープ・ラング)である。
クリスチャンはナチスはマイナーな環境にある者に機会を与えてくれる、といって入隊する。そこで経験するのは、ナチスの非道さである。ユダヤ人狩りに反対し、アフリカへと転身させてもらう。その先では、イギリス部隊をせん滅するが、生き残った者まで殺せと言われ、それを拒否する。彼はパリで「威勢をうしなったときに会いに来て」といわれた女性のもとへ行き、「長い旅路だった」と彼女の胸に頭を埋めるが、一夜を過ごした後、また戦場へと戻っていく。
ノアは歌手であるマイケルの開いたパーティに行き、ホープと出会う。ユダヤ人で貧乏な彼を、彼女の父親は受け入れ、夕食に招待する。ノアは軍隊に入り、いじめに遭うが、自分の金を盗んだ屈強な男たち4人と次々喧嘩をし、男を上げ、脱走する。捕まるが、部隊に復帰するなら許す、という上官の言葉に従う。元の同僚たちは、彼が読んでいた『ユリシーズ』をベッドの上に置き、その本の中に盗んだ金を挟んでおいた。それが和解の印である。不正を見逃した先とは別の上官は軍事裁判を受けることになる。きわめて民主的なアメリカ軍が描かれる。
クリスチャンはアフリカで敵襲に遭い、バイクで後ろに上官を乗せ逃げようとするが、爆撃で転倒する。次は病院のシーンで、頭と顔全体を包帯でぐるぐる巻きにされ、口の所だけ空いた男が、その上官である。おれは政治家になる、妻も一緒に頑張ってくれる、と言ってくれている、と言う。隣のベッドの男が死にたがっているいるから、銃剣を調達してくれ、とクリスチャンに頼む。妻への伝言を頼まれたクリスチャンは、一度は寝たことのあるその女の所へ行くが、部屋も汚れ、女も落ちぶれた様子である。かつての輝きはなくなっている。女はまたクリスチャンを誘うが、夫とは縁を切ると言ったし、銃剣で自殺した、とも言う。クリスチャンは怒りに任せてドアを開閉し、外へ出ていく。
クリスチャンはまた戦場へ戻り、仲間をやられ、一人で強制収容所にやってくる。そこで、いまでも5千人を殺せと上層部は無理を言ってくる、いざとなれば責任逃れをする連中だ、俺は命令でやったと連合軍に言うだけだ、と言う所長に愛想を尽かし、とぼとぼと雑木林を歩いてくる。
戦争を嫌い、ショービジネスを続けたかったマイケルは、怖気心を抑えて戦場へと向かい、ノアと落ち合うことになる。ノアは敵に囲まれ、決死の覚悟で敵中を逃げのびたばかりだった。彼らは進軍し、強制収容所にたどり着き、その悲惨な状況を見届ける。囚人のユダヤ人の一人が、幾人かで祈りを捧げさせてほしい、と部隊長に頼むが、そのそばで町長と名乗る男が、ユダヤ人には甘い顔を見せてはならない式のことを言う。部隊長はその町長を怒鳴りつけ、ユダヤ人の行為を認める。ノアはあと、部隊長のような人間が戦後を担っていくんだ、何百万の彼のような人間が、と熱い表情を見せる。
彼らはさらに進んだときに、一人の男が手を上げて小高い斜面を降りて来る。それを撃つマイケル。溝のような泥川に頭を突っ込んで死んでしまうクリスチャン。マイケルとノアは何の表情も見せずに去っていく。最後は、ノアが赤子をあやすホープのいるマンションに戻るところで映画は終わる。

アメリカとドイツをつなぐのは、最初のクリスチャンとマーガレットの出会いだけ。劇も別々に進行し、最後の場面へと至る。ふつうであれば緊張感をなくす構成だが、一心に見入ってしまう魅力がある。場面転換が巧みなのと、クリスチャン、マイケル、ノアの人間的な魅力のせいだろうと思う。苛酷な状況のなかで、なんと彼らは人間的なんだろう。そしてマーガレットもホープも一途に男を愛してすがすがしい。

82 チェルノブイリ1986(D)
美容院に勤める女のところに消防士のアレクセイが現れる。前に付き合っていた男で、突然姿を消したが、じつは子どもが残されていた。その贖罪のために、原子炉爆発を目撃して被爆した息子のために、危険な作業(地下の水を抜かないと、溶融ウランが落ちてきて大爆発する。そのために60度の熱湯をくぐり、数百レムの環境のなかへ踏み込んで行き、バブルを開けにいく)に志願し、医学先進国のスイスに行ける特別待遇を息子に与える。しかし、本人は強度の被爆で亡くなり、息子は3カ月後に元気になって戻ってくる。全身が赤剥くれのアレクセイの傍らに防御服を脱いで横たわる彼女。危機や切迫の場面で、高音のバイオリンが効いている。最後に、英雄に捧げるとクレジットが出るが、さてそういう趣旨の映画だったか。それにしても、細部まで含めてよく描かれている。フクシマでこういう映画は作られるだろうか。

 

83  スティル・ウォーター(D)

マット・ディモン主演、舞台はマルセイユ。娘が突然マルセイユに行き、そこで犯罪者として刑務所に。同性の恋人を殺したという容疑だ。それを晴らすためにディモンは同地に住み、ある母子と暮らすことに。娘は父親は根っからの屑だと言い、自分も同じだと言う。その意味はいずれ分かることに。おそらくこの親子には、歯止めが利かない部分が共通にあるのだろう。それにしても、ディモンが父親役をやるなんて! トム・マッカーシー監督で、「スポットライト」で米アカデミー賞脚本賞を獲っている。マルセイユの親子との交情など、じつにゆっくり撮っていて好感であるが、いくつか大きな疑問点がある。

 

84  あちらにいる鬼(T)

監督広木隆一、脚本荒井晴彦、原作井上荒野井上光晴瀬戸内晴美の交情を描くが、井上の妻が達観しているので、大きな葛藤は起きない。いったい鬼などこの映画には出てこない。豊川悦司寺島しのぶ広末涼子。それにしても、次々と女に手を出し、子どもまで産ませて平気な男とはどういう男なのか。60年代後半を背景にしているが、テレビ画面に映った学生運動か、突然バーに飛び込んできた2人のデモ学生でしかない。井上は三島を内臓から腐っていると称したようだが、いまと見れば浅薄のそしりを免れないのではないか。ぼくは「地の群れ」を読み出して、ほぼ冒頭で止めてしまった不実な読者である。しかし、すこぶる文章のうまい人だという印象を抱いた。そして、手術台に横たわり内臓をさらけだす姿まで撮った原一男の「全身小説家」である。女たちが惚れたのは、そのだめさ加減の徹底性かもしれないが、好きになれるタイプではない。

 

85 メニュー(T)

どうしようもない映画である。主催者のシェフと招待客の関係がきちんと描かれない。客は異常事態にパニックにもならない。シェフの部屋に秘密などない、主演はネットフリックスでチェスの世界チャンピオンとなった女性を描いた「クイーン・ギャンビット」のアニヤ・テイラー・ジョイである。

 

86 アポロンの地獄(T)

パゾリーニ特集である。はるか昔に見て、今回が2回目だが、印象はさほど変わらない。それはそれですごいことだ。ただ、キリスト教以前の、まるでアフリカの宗教祭祀かと思うような意匠に、そりゃそうか、と思った次第。神の予言であれば、どうしたってその陥穽にはまるしかない。ただ、ギリシャの神々って、そんなに厳しい神だったのだろうか。音楽に高い音の笛が使われているが、神楽を用いたようだ。

 

87 危険な関係(D)

1988年の作、監督スティーブン・フリアーズ、この監督の映画を見たことがない。陰謀家の夫人をグレン・クローズ、その下で愛を弄ぶドン・ファンを演じるジョン・マルコビッチ、彼に籠絡されるが純愛を捧げる婦人にミシェル・ファイファー、貧しき音楽教師にキアヌ・リーブス、その恋人にユマ・サーマン。物語は宮廷音楽に乗って軽やかに、場面転換も鮮やかに進む。最後、決闘のシーンで自らの最愛の人を裏切ったことに気づいてマルコビッチはキアヌの刃にわざと倒れる。政略結婚などが当り前にある世界では、不倫などいかほどの罪でもない。それにしてもキリスト教の縛りはほとんどなかったのではないか、と思われてくる。

 

88 ザリガニの鳴くところ(T)

年末にやっと映画らしい映画に出合えた。動物学者ディーリア・オーエンズのベストセラーのミステリー小説が原作。女優リース・ウィザースプーンがプロデュースし、自分の制作会社ハロー・サンシャインを通して小説の映画化権を取得。

映像もきれいで、筋もいいし、役者もいい。不満は謎ときにあるが、それを無視してもいいと思うようなできだ。最初に大きなワシのような鳥を後ろから追い、それから上から撮って、最後は枝に停まるまでを写す。もうここだけでぼくはやられている。楽園のような湿地帯で過ごす平和な家庭は父親の暴力によって破壊され、少女一人が取り残される。村の人間からは差別され、学校にも行かず、文字はやがて恋人となる青年から教わり、母親譲りの画才を発揮して、森の生物の絵本作家となる。青年とピクニックに行った先で、白鳥のような鳥が群れをなして彼らの近くの淵に舞い降りる。その奇跡的な美しさ! 青年は大学へ行くために村を離れるが、彼女との約束を破り、戻ってこない。やがて金持ちの息子が彼女に言い寄り、しだいに深い関係を結ぶが、彼は森の鉄塔から何者かに突き落とされたのか、塔の下で死んでいた。交際のあった彼女が犯人とされ、法廷劇が進行するが、その合間にその死んだ男との交情なども描かれる。こういういい映画を語る言葉を知らないのが、とても残念だ。監督オリヴィア・ニューマン、主演デイジーエドガー・ジョーンズ、主題歌「キャロライン」はテイラー・スイフト

 

89 真昼の暗黒(D)

今井正監督、橋本忍脚本、八海(やかい、映画では三原橋)事件の冤罪を扱ったものである。老夫婦殺害は単独犯だったが、妻を梁にかけて自殺に見せかけたりしたため、警察の見込みでは複数犯。そこで早々と自供した犯人に減刑を条件に、共同殺人の4人の名を挙げさせた。アリバイ、時間的な整合性などいくつもの無理があるのに、司法は死刑と無期懲役の判決を翻さない。映画は高裁判決で終わりであるが、最高裁で審議やり直しの判決が出て、高裁で単独犯の判決が出て、検察が控訴、最高裁無罪の経過をたどった。結審までに16を経ている。

この映画製作は被告4人の無罪を信じて、まだ係争中なのに作られたという点で珍しいという。司法から映画製作に関して圧力があったというが、言語同断のことである。監督とプロデューサーは被告が有罪であれば、映画界から身を退く覚悟だったという。脚本の橋本忍が資料を読み込むうちに無罪と確信しり、その線で映画は作られるべきと主張し、監督、プロデューサーも決意を固めたといういきさつがある。

 

90 無双の鉄拳(S)

久しぶりに韓国映画らしい映画を見た。ノワールとアクションと狂気とユーモアである。縦長の廊下での格闘シーンには「オールドボーイ」へのオマージュもあるだろう。監督、脚本キム・ミンホ、ざっと調べたところでは、この作品しか撮っていないようだ。2019年の作。

主演マ・ドンソクはもと荒くれ者。ぼくは彼の映画は2作目だが、表情が豊かで、ただの筋肉俳優でないことがよく分かる。彼を誠意で立ち直させた妻がソン・ジヒョ、やはり韓国の女優の典型のような感じがする。芯が強くて、そして優しくて。「アジョシ」で登場した韓国の異常かつユーモアを忘れない犯罪者の系譜を継ぐのがキム・ソンオ、この悪役でこの映画は成り立っている。そのアジョシで異常な犯罪者兄弟を演じたキム・ミンジェが剽軽ながら腕が確かな私立探偵を演じ、最初からおかしなカツラをかぶって、独特な味を出している。ドンソクの市場の同僚かつ彼を兄貴と慕うのがパク・ファフン。26歳という設定だが、どう見ても60は超えているだろう。つくづく思うのは、映画は脇役でもっているということである。

 

92 ジョン・レノン(T)

過去の映像と取材映像をつなぐドキュメント。レノンの父は遠洋漁業などでしばらく帰ってこない。母ジュリアはその間に男をつくり、そのあとも恋人が絶えない。レノンは叔母のもとに預けられ、たまに母に会う生活である。リバプールアイルランドからの移住者が多いといい、彼の家系もそれである。あと黒人奴隷貿易のまちとしてぼくなどは記憶するが。

レノンに「マザー」という悲痛な声で歌う曲がある。あるいは「ジュリア」と呼びかける歌もある。彼の好きな歌として挙げる「ヘルプ」はじつは元はスローな曲で、それがなかなかいいのである。ドイツハンブルグへのライブツアー、といっても小さなライブクラブである。マネージャーのブライアン・エプスタインがついて、彼らの服装や髪形まで変えてメジャーデビューをさせたが、レノンは「ハンブルグのあと、すべてはもう終わっていた」と醒めたことを言っている。

 

 

 

 

 

 

2022年の映画

 

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根津美術館

昨年見た映画で一番は「MINAMATA」だった。いま原一男水俣も掛かっている。6時間の大作で、こちらの腰が引ける。そこをMINAMATAは回避させてくれた、という思いがある。音楽の変化でスピーディに映画の方向性を見せたのもよかった。ユージン・スミスを英雄にしなかったことは評価すべきである。初めて彼が水俣に泊まった翌朝の、室内を満たす水色の美しさには息を呑んだ。こんな色彩を日本の家屋内で見たことがない。チッソ社長が単独で和解案を呑むところなど、どうもウソっぽいが、ぼくは史実を知らないので何ともいえない。ぼくの好みの映画としては「一秒先の彼女」、台湾のチェン・ユーシン監督である。ユーモアと哀しさと知的な香りがする。「天才スピヴェット(フランス映画)」「アメリ(同監督、フランス映画)」「ジョジョラビット(アメリカ映画、だけどヨーロッパっぽい)」「ライフ・アズ・ア・ドッグ(スウェーデン映画)」アスファルト(フランス映画)」などが同じ系列である。賞を獲った「スパイの妻」も、松竹100周年記念の「キネマの神様」もいただけない。製作側に緊張感がないとしか思えない。007も最悪だったし、ステイサムの最新作もひどかった。今年はさてどんな出合いがあるのか。

 

1 メア・オブ・イーストタウン(S)

UNEXTの7話完結である。ケイト・ウインスレット主演、客演ガイ・ピアース、ジュリアン・ニコルソン、アンガウリー・ライスなど。ガイ・ピアースの扱いが軽いのが気になる。たしかに軽薄な男の役ではあるが。ある小さな町で3件の若い女性の殺人事件が起きる。いくつもわざとらしい迷走の仕掛けをつくり、最後までもっていく。筋書き上、これはおかしいと思われる部分がある。なぜそんな当たり前のことを処理しておかないのだろう。ジュリアン・ニコルソンがシャリー・マクレーンに似ていてグッド。アイ・トーーニャで見ている。ケイト・ウインスレットは中年のアメリカのおばさんになっている。

 

2 ドライブ・マイ・カー(T)

評判の映画で、映画館はコロナ席ではなく満員。2時間50分だが、見ていることができる。ここ最近、なにも起きない淡々とした映画流行りの感じだが、この映画もそれに近い。監督濱口竜介、脚本同、大江崇光。

 

いくつかの疑問がある。演出がおかしいと思うものと、おそらく脚本がおかしいものとの2つがあるように思う。

まずは演出。舞台劇「ワーニャ伯父さん」のキャスティングが決まったあと、広島市の芸術館(?)のアシスタント的な韓国人が「家に来てください、謝らないといけないことがある」と劇演出家の家福(かふくと読む。何でこのネーミングなのか。西島秀俊が演じる)に言う。家に着くとオーディションで合格させた吃音の女優がいた。じつは妻であるという。「なぜ応募したのか」と聞くと、流産して迷いのなかにいたが自分を試したかった式のことを手話で言う。隣で聞いていた夫が驚いたような顔をするが、それはおかしいのではないか。流産は夫婦の経験である。悲しみに沈む妻を見ていて、そのチャレンジの動機を知らないなんてことがあるのか。

もう一つは、最後の舞台劇の本番の場面、手話でソフィァがワーニャ伯父さんに人生の意味を説くが、その時間が長すぎる。引きの絵になると余計である。そういうことは厭わない監督のようだが、やはり見ていて辛い。

3つ目の問題は、冒頭にある(これは脚本の問題の可能性がある)。海外に劇のディレクションで出かけようとするが、成田空港で先方からメールが入り、遅延のため空港近くで待機せよ、という。家福は家に戻るが、そこで妻・音の不倫を目撃する。そのまま家福は外に出る。夜、妻とネット会話をするが、妻は夫が外国にいると思って会話をする(家福は成田のホテルに泊まっている)。次のシーン、家福が交通事故を起こし、病院に運ばれ、妻がやってくる。ぼくはこれを翌朝のことだと思ったので、なぜ妻は夫に海外に行かず日本にいるのか、と問いたださないのかと思った。じつは海外の仕事がすんで、また成田から家に戻ろうとした矢先に事故ったということのようだ。ここはもう少し分かりやすく説明すべきだったのではないか。蛇足だが、多摩ナンバーのクルマでわざわざ成田から帰るか? 

脚本に関して。妻・音は子を4歳で亡くして迷走のなかにいるが、セックスの最中に物語を語り出すようになる。次の朝には忘れているので、夫がそれを思い出し、書き留め、妻に語り、妻はそれを基にTVドラマ脚本を起こすようになった。しかし、この説明はだいぶ映画が進行してからなされることで、劇の冒頭では二人のやりとりの意味が分からない。セックスの最中に語っていたのは妻なのに、翌朝には夫が物語り、妻がその話を聞いているからである。どうせ後で分かるから説明は省くということなのかもしれないが、不親切といわざるをえない。

 

さらに脚本に関して。ワーニャ伯父さん役に抜擢された高槻耕史(岡田将生)は音と不倫の関係にあった。家福が見届けたのも高槻のようだ。どうやら音はTV脚本を書くたびに、主役の男性役者と肉体関係に入るらしい。そのことを家福は知っていた。高槻は家福に「自分の心を深く見つめないと、人のことなど分からない」と分かったようなことを言う。そういう人物が自らのコントールが利かない人間であることを彼自身も、ほかの人間も知っている。あげくに高槻は衝動で人殺しまでやってしまう。そんな高槻になぜ訳知りのセリフなど言わせるのか。これは明らかに間違いである。

 

全体の構造とも関わることだが、ワーニャ伯父さんの配役を演じるのは英語を喋る中国人や聾唖者、何語だか分からない言葉を喋る人間、そして日本人などである。これは何を表現しようとしているのか。淡々と劇のトレーニングは進むから、ディスコミュニケーションが主題ではない。異言語の外国人を一つの劇に編み上げていく苦労が表現されるわけでもない。日本語と異言語がただ並列しているだけだ。あるいは、古典の枠さえあれば、異言語が飛び交っても問題ない、と言いたいのか。いずれにしろ、劇中劇の狙いが見えない。それと、家福は海外に呼ばれて演出するほどの人だが、どうも英語はそれほどの使い手ではない。もっと西島に英語のセリフを喋らせて、有能ぶりを際立たせるべきだったのではないか。それと延々と出演者に脚本の棒読みをさせる意味がいま一つ分かりにくい。セリフが自分の体に入っていないのに、それを演技に移してもちぐはぐなものになる、ということのようだが、その齟齬の様を中国人女と高槻のやりとりで見せるわけだが、どうも説得性を感じない。この監督はふだんからそういうメソッドで劇を作り上げていく人らしいが、観客への説得性は弱い。

 

演出でいいなと思うのは、いずれもセックス絡みである。音が騎上位で見せる呆然とした、狂気を孕んだような瞳は今までの映画で見たことのないものである。妻が上で果てたあと、下にいる夫の目の中央に光が来るようになっていて、その目の表情が虚無を通り越したような感じに見える。

 

音は、朝出かけようとする夫に、今夜話があるの、と切り出す。夫は軽く受けるが、帰宅は遅くなってから。家の中が暗く、音が倒れている。救急車を呼ぶが脳溢血で死亡。いったい妻は何を言おうとしていたのか。夫はそれを聞けば、すべてが瓦解するのではないかとおびえ、帰れなかったのである。おそらくその予感は当たっていたのではないか。夫の頸木から逃れないと、音はいつまでも自立ができない。家福は虚無のような男で、妻が言い出し自分も認めた次の子どもを持たない選択も、妻の不倫もすべて「愛」の名で呑みこんでしまう。それこそが、音を迷わせるものではないか。妻の不倫のセックスはそこからの離脱の予行演習だったのではないか。家福には家に福を呼ぶ才能が欠けている? あとで彼は、もっと妻に本音を言うべきだったと反省の言葉を吐くが、まさに異言語でも葛藤が起きないのと同じように、彼は妻との問題もすべて呑みこんで葛藤を殺して生きていたのである。

 

もう一つこの映画では家福と雇われドライバー渡利の関係が見えにくい。プロフェッショナルであることへの尊敬から始まり、そのストイックな姿勢の背後にある悲惨な過去に興味をもつことまでは分かるが、高槻の犯罪露見で興行の中止か実行かが迫られるなかで、なぜに急に彼女の故郷へ行こうと言い出したのか。それも広島から北海道へのドライビング。何年もまえに土石流で潰れた渡利の実家の残骸のまえで、2人は自らの過去を赦すという心理に至る。ここでの家福のセリフはかなり臭い。ありえる解釈としては、家福が渡利に「もし君がぼくの娘なら」と言うセリフがあるが、失ったわが娘の未来を救い、同時に自分も癒される、ということなのか。そうでも考えないと、差し迫ったなかでのこの北海道へのドライビングの意味が分からない。

ラスト、ドライバーは相変わらず家福のクルマSAABを運転し、ハングル名前のスーパーにやってきて、ハングル語でレジ係と会話をする。そのクルマに、広島でアシスタント的な役割をした韓国人の犬が乗っている。さて、これはどういうことになったのであろう。まったくシチュエーションが分からない。これもまた脚本のせいかもしれない。

 

3 リトルシングズ(S)

デンゼル・ワシントンなのに日本未公開。客演ラミ・マレック。ワシントンがお年を召された。煮え切らないというか後味が悪いというか、なんでこんな映画を撮ってしまうのだろうか。

 

4 クライマッチョ(T)

イーストウッド40作目だそうで、慶賀に堪えない。「ミスティックリバー」冒頭10分ほどで登場人物の現在の姿を鮮やかに描き出し、忌まわしい彼ら仲間たちを襲った悲劇へとスマートに連続する手際は見事というしかなかった。それは抑制されたシンプルさであった。今作はシンプルではあるのだが、背後にあるべき熱量が落ちたためにシンボルだけが羅列される感じなのである。名うてのロディオ乗りだった男の名声は、壁に張られた賞状や記事で代替され、依頼で向かったメキシコは国境のゲートに掲げられた文字で表記される。すべてがクリシェである。
反抗期の、だれの意見も聞かない、神出鬼没のガキはすぐに見つかり、ごく素直にロデオ男に付いてくる。その子のアバズレの母親が口を酸っぱく悪童ぶりを吹いたにもかかわらずである。彼ら二人のトラベル・オンザロードを追うのはたった一人の、鼻へのパンチ一つで怯むような男である。劇が生まれようがない。薹が立ったメキシコ女に惚れられ、依頼仕事が終わったあと主人公がそこに戻るのが見え見えである。異様な「チェンジリング」という作品を撮ったイーストウッドはもういない。冒頭べたべたのカントリーで始まり、すぐに場面が変わって静かなピアノ曲に落ち着き、メキシコでは熱情溢れる民族調音楽へと変わるわけだが、そのご都合主義をどう言おうか。

 

5 CODA(T)

ぼくは歌ものに弱い。冒頭、主人公が自転車を漕いでいるだけで泣けてくる。てっきり北欧あたりの映画だと思っていたが、マサチューセッツ州ボストンがそう遠くない港町の話だ。両親と兄が聾唖者で、一人だけ末娘が健常者、しかも歌がうまい。小さな漁船の上で声を張り上げて歌っている。彼女は3人に欠かせない翻訳者という役回りである。教師のサポートでバークリー音楽大学奨学金で進むことに。しかし、週1回の練習にも仕事で間に合わないことがあり、なかなか進歩しない。そんな彼女に、友達にいわれた「変な喋り方のときの声」を出すように言い、その荒々しさが残った声に魅了される。オーディションで歌うのはジョニー・ミッチェル「青春の光と影」、バークリーはポピュラーソングでも入れるのか。学校の発表会で彼氏とデュエットしたときに、音を消し、両親と兄が回りの人の反応を見て、彼女の歌が受け入れられているか確かめる面白い演出をする。「ドライブ・マイ・カー」で啞者の演技を取り入れていたのと比べれば、当然ながら話せない、聴けないひとの必然性が描かれていた。父親を演じた人は実際に啞者、母と兄は聾者で、テレビで活躍をしている。アメリカにはそういう活躍の場があるということか。主人公の恋人役をフェルディア・ウォルシュ・ピーロが演じ、彼は「シング・ストリート 未来へのうた」でぼくは見ている。主役エミリア・ジョーンズは初めて見るが、いろいろ作品に出ている。サンダンス映画祭で4冠である。ジョニ・ミッチェルのBoth Sides Nowが印象的に歌われる。

 

6  21ブリッジ(S)

麻薬の強盗事件でマンハッタンにかかる21の橋を封鎖、もっと橋との絡みが出てくると思ったが、そうではない。主演のチャドウィック・ポーズマンは「マ・レイニーのブラックボトム」で見ている。43歳で死去。妙な寂しさと色気のある男優さんである。監督ブライアン・カークはTV畑の監督らしい。

 

7 友よ、静かに瞑れ(S)

角川が大作路線から離れてプログラムピクチャー的な映画作りに入ったときの作品。崔洋一監督、脚本丸山昇一。主演藤竜也、客演倍賞美津子原田芳雄、室田日出夫、佐藤慶、宮川順子など。沖縄キャンプシュワブの近く、もしかしたら辺野古が舞台か。開発業者(佐藤慶)が土地を買い上げているが、一人だけ立ち退きを認めない男(林隆三)がいる。それが新藤(藤竜也)の大学からの友人で、開発業者に果物ナイフで切りつけようとしたということで警察に収監されている。藤はドクターで、何か致命的なミスで大学病院を追われ、いまは船舶のドクターを務めている。余命3カ月の友を助けにやってくる。原田は開発業者の用心棒、室田は業者とつるんだ刑事。友の林は曖昧ホテルを経営し、そこに数人の商売女たちがたむろしている。

前半部に、女たちの会話に語りめいた歌がかぶさったり、原田と藤が海岸沿いをこちらに向かって歩き、こちらからあちらへ数人のジャージ姿の男たちがランニングで2人をすれ違うが、交互に彼らを映し出す、といった演出をしている。中身に入り出すと、そういう小細工は少なくなっていく。うだるような暑さのなかで、ハードボイルドが進行するという感じにはならない。せっかく原作と舞台を変えたのだから、そこはやってほしい。ホテルの1階がスペースが広く、そのセッティングはグッド。もっとあくどい連中と戦うのでないと面白くない。北方健三原作。

 

8 愛情物語(S)

角川のミュージカルである。冒頭から踊りが始まる。セットは「ウエストサイド」で、設定は「スリラー」である。カメラがもっと動かないとダメである。カット割りも細かく入れる必要がある。バーに流れ込んで踊るが、決められた動作をするだけで、切れがない。そのあと、原田知世がビルのフラットで踊りを練習するシーンがあるが、「フラッシュダンス」である。しかし、手の動き、身体のしなり、もっと練習してから撮るべきだったのでは。ここで驚かせてほしい場面である。残念だが、最後まで見ることができなかった。義母役の倍賞美津子が力が抜けていてグッド。

 

9 メイド・イン・マンハッタン(S)

このmaidにはmadeがあるのではないか。マンハッタンの名門ホテルのメイドが、上院議員候補2世と恋に落ちるmade affairs からである。ジェニファー・ロペスとクリフ・ファインズ主演、客演がスタンリー・トウッチ(秘書役)、ホテルの上司ボブ・ホスキンス(これが渋い)、黒人の上司ルー・ファーガソン(これも温情溢れていていい)、あと子ども役がタイラー・ポシー(素直で、賢くて、余裕があってグッド。テレビの役者として活躍しているようだ)、それにロペスを囲む同僚たちがいい。子どもが冒頭からニクソン好きを披露したり、独特な感じが面白い。母親と2世議員の仲直りをさせるきっかけとなった質問がいい。「あなたは人の間違いを許せるか。許せないなら大統領も政治家もいなくなる」。この子でこの映画は成功した。監督ウェイン・ワン、名作「スモーク」の監督であり、2019年の時点で24作撮っている。

 

10 アンチャーテッド(T)

地図になし、という意味だが、ひたすら地図の意味を読み解くことになる。インディ・ジョーンズへのオマージュ、そして海賊カリビアン(予告編しか見たことがないが)へのそれ。ただ一か所、このご都合主義はちょっと、というのがあるが、全体ものすごく楽しめた。脇の女優がもっと魅力的ならもっといいのだが。ラストのおまけの意味がよく分からん。続き、ってこと? それなら見ます。主演のトム・ホランドスパイダーマンに出ているらしい。ぼくなど20年前のトビー・マグワイアで止まっている。マイケル・ウォーバーグが脇に回っているが、もうそういう年なのかもしれないが、いつもの彼がそこにいて納得。ヘリでマゼランの帆船を吊るなんて、ありえるのだろうか?

 

10 ブラックボックス(T)

複雑な話だが、最後までじっと見続けた。飛行機事故の原因を探る調査員が主人公、彼は最初アラブ過激派の犯行と考え、マスコミにも発表する。不可解なのは、事故現場に向かった上長が姿を消したことである。彼はその跡を継いで捜査に当たることになったのである。自らが出した結論に疑いを持ち始め、どんどん解明にのめり込んでいくが、過去に間違った判断をしたことがあって、周囲は彼の精神状態に疑いを持つようになる。設定にいくつか疑問が残る。上長の行動と時間の問題、主人公のクルマのAI化の問題である。監督ヤン・ゴスラン、主演ピエール・ニネ、客演ルー・ドゥ・ラージュ(妻役で、少し口のあたりがジェーン・フォンダに似ている)。

 

11 吠える犬は噛まない(S)

さすがポン・ジュノと言いたい。貧困を扱ったということでいえば、「パラサイト」よりこっちである。しかも、ごく自然に溶かし切っている。貯えのない助教授(イ・ソンジェ)が、なけなしのカネを工面して、学長に取り入ろうと決意する。彼は教え子の学生に飲み会で足の出た分を出してもらっている。彼の妻は妊娠を機に、11年勤めた会社をごく少ない退職金で馘首される。同じく彼の住む巨大団地の管理事務所に勤める女性(準主役ペ・ドゥナ)は、頻繁に外出するというので馘首。連続して団地で住人の飼い犬が失踪するが、「貧乏で暇な大学院生の仕業ではないか」とドゥナは疑う。

ソンジェは将来展望が開けず鬱屈した状態にあり、団地にこだまする犬の鳴き声に苛立ち、1匹目は殺そうとして失敗(地下室の廃棄された箪笥に隠しておいたが、管理人に見つかり、鍋にして食われてしまう)、2匹目は団地屋上から投棄し、3匹目は自分の妻が買ってきた犬を誰かに盗まれてしまう(あとで地下室に住まう浮浪者の仕業だと分かる)。しかし、彼がなぜ犬を殺すほどに執着したのかは、動機がきっちりと描かれているわけではない。

 

主人公、その妻、彼らが住む団地の管理人、地下室に住む浮浪者、高級犬をかわいがる老婦、そしてペ・ドゥナと彼女の友人の文房具屋の太った女、いずれもキャラクターがきちんと立っていて、見事である。妊娠妻はソンジェにくるみの殻を割らせ、忘れた買い物があるからとコンビニまで戻らせる。ソンジェが賄賂の工面に頭を抱えているのに、妻は高級犬を買ってくる。散歩の途中でソンジェは犬を失ってしまう。遅くまで探すが見つからない。妻がそれを非難し、金づちを夫の腿に投げつける。夫は怒りに燃え、その金づちをベランダの窓に叩きつける。そこで妻は、首になったこと、安い値段でその犬を買ったこと、自分のために贅沢などしたことなどない、残りの退職金は賄賂に回すつもりだった、と言う。夫はひと晩徹夜して、団地のまわりのあちこちに犬探索のビラ張りをする。

途中で挟まれる何気ないシークエンスも後できちんと回収される。全体の運びに余裕があり、とくに夫婦のやりとりの他に、ペ・ドゥナと女友達との交流が丁寧に積み重ねられる。

これはいいな、というシーンがある。ドゥナが屋上で浮浪者を見つけ、彼がソンジェの犬を食おうとしているのを阻止しようと立ち上がったときに、向こうに見える建物の上で、ドゥナと同じ黄色い服を着たたくさんの人びとがエールを上げ(声は聞こえないが)、紙吹雪を散らすシーンである。イリュージョンなのだが、これがポン・ジュノのすごいところである。ただ、その浮浪者が彼女を襲うようでそうでもない、といった中途半端さで描かれる。逮捕された映像から、男に精神障害があったことが暗示されるが、違和感がある。

懐かしいのは、文房具屋のセットである。所狭しと壁に、床に物が詰め込まれていて、「グエムル」の川辺の小さな小屋を思い出させる。そのごく狭いスペースでドゥナと太った女がインスタントラーメンを大きな鍋から食べ終え、お互いを押し出し、かぶさるようにして寝転がる。

映像的にも、いくつも遊びをやっている。冒頭のシーンとラスト近くのシーンが同じである。大きな窓枠の中に背中を向けたソンジェがいる。彼の向こうには緑が見える。冒頭は助教授のソンジェで、ラスト近くは教授になったソンジェである。そのラストのソンジェの後姿のあとにドゥナの後ろ姿が写される。やはりその彼女の前方にも緑の森が見える。

ソンジェの妻が高級犬を買って帰り、いつものように夫にクルミの殻を剥くようにと、その袋を床に落とすシーンがある。その落下の視線と合わせて、病院にいるドゥナに切り替わり、彼女の下向きの視線からベッドに横たわる老婦を写しだす。視線流しという撮影法があるが、それの変化形である。

 

きれいに後で話が回収されるのは、電車のなかで座席に座る人々の膝にチラシを配り置く老婆の件である。ソンジェはその紙をポケットにねじ込むだけだが、さまざまなことを経験したあと、学長への賄賂金を入れたケーキ箱を膝に置いて座席に座っていると、その老婆がやってくる。その文面には、老婆が夫を亡くし、自分も肺病である、と書かれている(これも貧困格差の一例である)。ソンジェはケーキの箱の下隅から手を入れ、お札を1枚引っ張り出し、その老婆に渡す。なかなかいいシーンである。

 

蛇足をいえば、ソンジェ夫婦のラストの2人並ぶ寝姿は、クリムトの「接吻」とそっくりである。首と身体が釘のように曲がっているのである。ぼくは是枝の「空気人形」でペ・ドゥナを見て、さして感慨を覚えなかったが、本作からは彼女のよさの秘密が分かった気がした。天然で、よこしまなところがなく、正義感にあふれ、そしてぼーっとしている。そのキャラクターがよく表現されている。

大団地をロングで正面から撮り、何階だかに人がいるという設定は、2、3年前の秀作「ハチドリ」でも踏襲されていた。パクリなのかどうかは分からないが、その映像に迫力がある点は共通している。

 

12 クーリエ(S)

ビジネスマンがソ連の最高機密を運ぶことになる。主演ベネディクト・カンバーバッチ、その妻役にジェシー・バックリー(ツゥェルガーの「ジュディ」で英国側秘書をやっていた)。カンバーバッチが俗な商売人と家庭人を演じ、しかもスパイ容疑で捕まったあとも罪状認否しない固いところも見せる。新境地ではないだろうか。監督ドミニック・クック(芝居畑である)、脚本トム・オコナー。一介のビジネスマンがキューバ危機を救ったことになる。もちろんソ連側の科学者も協力したわけだが(彼は処刑される)。カンバーバッチはいまアカデミー賞作品賞ノミネート「Power of the Dog」で主演である。有力候補である。

 

13 Mr.ノーバディ(S)

ジョン・ウィック制作陣による格闘ものである。ほぼそれをなぞっている。現役を家族のために(ウィックは妻のため)引退した伝説の殺し屋(本作はFBIの汚れ仕事一切を引き受けていた“会計士”である)が、ごくささいなこと(ウィックでは犬、本作では猫の人形)だが、自分にとって大事なことで前線に復帰する。ナイフ、格闘技を駆使し、ピストルも巧みである。ウィックは金貨を持ち、本作は金の延べ棒を使う。敵の資金である紙幣を焼き尽くすのも同じ。素晴らしいジョン・ウィックのシリーズを作った連中のやることか、と思う。最後、高齢の父親、FBIの元仲間が参戦するのが、ウィックとは違ってはいるが。ニーナ・シモンのDon’t Let me be understoodが冒頭に流されるが、これは懐かしく、こころが震えた。

 

14 裸足で散歩(S)

レッドフォード、ジェイン・フォンダ主演、監督ジーン・サックス、脚本ニール・サイモン。熱烈な愛を注ぐ新妻が風変わりな隣人と親しむうちに、わが夫の四角四面な感じに反感を覚え、離婚を考える。しかし、母親のアドバイスで思い留まる。かなり無理な運びで、見所は主演2人がときにアドリブような表情を見せるところだ。原題はBay Foot in the Parkで、ほぼラストにそのままのシーンがある。ジェインに下着姿にさせたり、シャツだけの姿にさせたりしている。最初、そういう女優だったのである。ぼくはエリオット・グールドと出た「コールガール」が最初である。この映画の2年後である。お年を召されて美しくなられたのではないか。出演作が却って多くなる。

 

15 ゴヤの名画と優しい泥棒(T)

ケン・ローチのダニエル・ブレイクのような人物が主人公、どうもこの種のマッドで、政治的頑固爺いを扱った映画が日本にない。盗む、だます、という映画が日本に少ないが、ここ最近、嘘八百、コンフィデンスと続き、慶賀にたえない。
この映画の主人公、テレビは高齢者の孤独をいやすものだ、というので、税金の取られるBBCだけコード(?)を外して視聴するが、見つかり2週間ほど収監される。それでも街頭で署名集めを息子とするほど徹底している。ふだんはまったく売れない戯曲を書いては版元やテレビ局に送りつけている。
せっかく見つけたパン工場の仕事も、同僚のパキスタン人をかばったことで解雇になる。話題の名画を盗み、結局をそれを返すことに。盗んだ理由は、その脅し金(あるいは報奨金?)でテレビ視聴のできる老人家庭を増やすことにあった。裁判での当意即妙を超えたイギリス式ユーモアに廷内は笑いの渦に。主人公をジム・ブロードベント、妻役がヘレン・ミレン。「第一容疑者シリーズ」で強くへこたれない刑事を演じ、彼女をずっとそのイメージを引きずりながら見ていたぼくは、この貧しい家庭のごく普通の主婦を演じる姿に脱帽である(彼女の映画は10本は見ている)。

 

16 ウエスト・サイド・ストーリー(T)

スピルバーグ監督、リタ・モレノが総指揮(お婆さんとなって出ている)、主演アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグナー。ぼくは前の作品はリバイバルで見ているが、それでもだいぶ前のことだ。ナタリー・ウッドがきれいだったこと。ジョージ・チャキリスはその後、ぱっとしなかった記憶だが、フィルモグラフィーを見ると、それなりに出演を果たしていたようだ。コリオグラファーはジェローム・ロビンソンで、スピルバーグと共同監督となっている。非常に快調に進むが、殺人事件のあと恋するマリアの設定でひとくさりあり、それから事件処理のあれこれと続くが、緊張感がほぐれてしまって、けっこうつらい。演出的に処理をするか、あるいはこのシークエンスはカットしたほうがいいのではないか。歌い、踊り出すまえに何かしら音による合図があって、自然とそこに入っていく工夫がしてある。トニーという男があまりに軽率で、感情移入が難しい。まえはちっともそんなことは思わなかったのに。この3月1日現在で7225万ドルの売上である。日ごとのボックスオフィス(Box Office Mojo by IMDbPro)が公表されているが、かなり日によって波が大きい作品である。100億は届かないか?しばらく続くミュージカルブームをうまく掴んだということになる。脚本のトニー・クシュナーは舞台人らしく、映画はスピルバーグリンカーン」「ミュンヘン」の脚本を書いている。

 

17  フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ カンザス・イブニングサン別冊(T)

あれあれと楽しんでいるうちに終わった。おそらくネットでもう1回見ることになる。冒頭、レア・セドウが絵のモデルとなって全裸だが(ティルダ・スウイントンのヌードまである)、これは合成ではないのか。というのはお尻がかなり大きいのと、制服を着たときの小作りの感じからいって、全体の質量が違うのである。彼女はすでにヌードの実績があるわけだから考えられなくもないが(ぼくはそのレスビアンの映画も、そして青春の痛さを描いたものも見ていない。その種の作品は、ぼくには正視に堪えないのである)、そんなに安売りする理由も見当たらないし、そういうことをしてほしくないという思いが強い。ベニチオ・デル・トロが狂人で殺人者という設定だが、彼の描く抽象画が、本当に女性のヌードに見えてくるから不思議である。カンザスの田舎にあるフレンチ・ディスパッチ(メキシコのローマみたいなものか)という新聞のコラムニストたちの記事から一篇を仕立てるという構造になっているが、後半になると、どれがどれだか訳が分からなくなる。別にそれで構わないのだが。こういう映画もないと寂しい、そう思える。編集長はビル・マーレィが演じているが、少しみぐしが少なくなった。ぼくはウェス・アンダーソンは3作(ロイヤルテネンバウム、ライフ・アクアティックダージリン急行)しか見ていない。「グランド・ブダペスト・ホテル」は何か最初から筋が見えそうで敬遠しているが、いずれ見ることになりそうだ。レア・セドウ、タランティーノ作品に出ているらしいので、さっそく見なければ。

 

18 マイ・バッハ(S)

右手が利かなくなり、ボクシングなどの興行師を経て、左手だけで弾くコンサートを成功させ、その左手さえ使えなくなり、指揮者として再起し、65名にのぼる楽団員を生地ブラジルの企業のお抱えとすることに成功し、多くの後輩を育て上げたホアゴ・カルロス・マルティンス。彼の凄絶な、そして意義深い人生を追う物語である。ぼくはすぐに彼の演奏になる「平均律クラビアータ」を購入した。グレン・グールドとは違った情感がありながら、切れもあるといったバッハを聴くことになる。

 

19 最高の人生の見つけ方(S)

お約束のことを何のてらいもなくやる見事さ。どこにも違和感がないし、ついでに驚きもない。それを哲学者風なモーガン・フリーマンと老いてやんちゃなジャック・ニコルソンが演じる。富豪ニコルソンの秘書役をジョーン・ヘイズという役者が演じていてグッド。映画出演もテレビ出演も少なく、しばらく新作もないみたい。もったいない。監督ロブ・ライナー、バラエティに富んだ作品を撮っている。いってみればアメリカのアラン・パーカーか。脚本ジャスティン・ザッカム。おそらく脚本がいい映画なのだろう。

 

20 ナイト&ザ・シティ(S)

デ・ニーロ、ジェシカ・ラング主演。口から出まかせ国選弁護人に真心を見出した女がラング、これがいい。いけすかない夫を裏切りながら真っ当な女を演じる。表情も細やかで、なんでこの人の映画を見なかったのだろう。やはりキング・コング・ウーマンという意識が先に立ってしまう。調べると、彼女はどんどん演技で評価を高め、郵便配達夫はベルを二度鳴らす、トッツィー(アカデミー助演女優賞)、ブルースカイ(主演女優賞)とキャリアを積み、テレビではゴールデングローブ助演女優賞、映画界を去って舞台でトニー賞。いやはや、恐れ入りました。

 

21 博士と狂人(S)

70年かけて初版オックスフォード大辞典が完成した。そのTの項まで成し遂げたのがマレー博士で、正式なアカデミズムの階梯を踏んでいない。そして、誤って人殺しをしたアメリカ軍大尉マイナーは妄想に追われ、精神病院に収監されるが、彼は語彙を投稿するボランティアにめざめ、マレー博士に膨大な数を送り届ける。博士をメル・ギブソン、大尉をショー・ペンが演じる。アウトサイダーの2人が国家の辞典を作り上げたという稀有な物語がじっくりと紡がれる。夫を殺された夫人で、大尉を愛するようになるのが、ナタリー・ドーマー。彼らを支える脇役陣がじつにいい。看守長をエディ・マーサン、辞書編纂の上司をスティーブ・クーガン。

 

22 孤狼の血 Level2 (S)

正編よりこっちのほうがいい。松阪桃李、鈴木亮平西野七瀬村上虹郎など。西野は演技の手前で止めているような良さがある。その弟役の村上がどこかで見た顔で損をしているが、哀しい役回りをうまく演じている。松阪桃李もいい。最後、鈴木に胸を刺されても生きているのはなぜ? 相手の組に殴り込みをかけて、中途半端に立ち去る鈴木、さていかがなものか。鈴木が力余って相手の目を潰してしまう、というのは、やはり趣味が悪い。でも危ない暴力男を演じて迫力がある。監督白石和彌、脚本池上純哉、原作柚月祐子。

 

23 こんな夜更けにバナナかよ(S)

主演を大泉洋、彼が好きになる相手に高畑充希、その高畑が好きな医学生三浦春馬、わきに萩原聖人、渡辺真紀子、宇野祥平など。どこまでが実話か、原作を読んでいないから分からないが、なぜに彼はわがままを通そうとしたかが、いまいち見えない。夜更けにバナナを買いに行かせるのは、相手のことを思えばできない要求のはずである。ふつうの暮らしをするのと、それは違うのではないか。彼は問題を投げかけ、ひとに何かを気づかせた、という意味では、そのわがままに筋が通っていたことになるのか。大人しく暮らしていたら、あのインパクトはありえなかったのか。原作の渡辺一史は、病を抱える者が声をあげないと、見えない存在にされてしまう式のことを言っている。障害者関連の改善策は、ほぼ当事者たちが声を挙げて実現されてきた、と。こないだ見た「浜の朝日の嘘つきども」と同じ演技を高畑充希がしていた。なんだ、彼女のこれが持ち味なんだ。

 

24 迷い婚(S)

ロブ・ライナー監督、脚本テッド・グリフィン、ジェニファー・アニストンマーク・ラファロケビン・コスナー、シャリー・マクレーン。「卒業」が実話という設定で、祖母、母と交渉をもったコスナーにアニストンが真実を知りたく接近し、一夜を共に。しかし、結局、恋人ラファロのもとに帰る、という話。このなかで、父親役をやったリチャード・ジェンキンスが一番の芸達者。それにしても、アニストンはそれほどの美人ではないのに、アメリカでなぜ人気があったのか。ときおり、ローラ・リニーに感じが似ているときがある。

 

25 任侠学園(S)

途中で止めようと思いながら、最後までいってしまった。まっとうなやくざがダメな学校を再生させる、という発想がいい。かえって堅気のほうがあくどかったりする。西島秀俊西田敏行生瀬勝久伊藤淳史葵わかな(「ラーメン食いたい!」に出ていた)などが出ていて、ラストに西田の「また逢う日まで」の歌が流れる。さすがにうまい。今野敏原作。

 

26 リベンジ・リスト(S)

ジョン・ウィツクのパクリだが、最後まで見てしまった。トラボルタの堂々としたカツラに敬意をおぼえる。相棒がいい。クリストファー・メローニ

 

27 トーベ(S)

ムーミントーベ・ヤンソンの物語である。ピアフとジャズの世代らしい。父親が著名な彫刻家らしいが、芸術家たらんとする圧力を受ける。なぜにムーミン谷のキャラクターが生まれたのかは、この映画からは判然としない。封切りで見るつもりで、忘れていた映画である。主演アルマ・ボウスティ。

 

28 ベルファースト(T)

監督ケネス・ブラナー、彼の小さい頃の思い出を基にしている。とても好感のもてる映画だ。役者でもあるブラナーの秀逸の映画では?

まず空からベルファーストの昼と夜の美しい風景を見せ、地上に降りて通り沿いの壁に沿ってカメラが上方に移動すると、壁の向こうに路地が見える。そこからモノクロの世界が始まるのだが、その展開が見事である。路地に満ちているのは生活の声である。しきりに子どもの声が呼ばれるが、それがこの映画の主人公バディである。やがてプロテスタントによるカソリックへの暴力が始まると、その声が消されて、怒号、汚い言葉、爆発の音しか聴こえなくなる。

本来、アイルランドカソリックの国で、地域によっては(北部)イギリスが強制的にプロテスタントを移住させたところがあり、宗教対立の火種があった。その狭い路地の地域はカソリックプロテスタントが混住する場所で、イギリス軍が暴動を抑えに出てくる。イングランドプロテスタント系である。歴史では、イギリス軍のやりすぎが反感を買って、カソリックとの戦いになる、というふうに習った気がするが、事情はもっと複雑である。

 

父親は2週間に一度しか戻ってこない。非正規で大工の仕事に就いていて、腕を見込まれて家もあてがうからロンドンに出てこい、といわれている。一方で、路地では顔見知りのチンピラが扇動者となってカソリックの食料品店などを襲っている。おまえも態度を決めると、脅されている。

 

母親はジーナ・ロロブリジダに似ている、イタリア系の女性っぽい。ミニスカートを履いて、踊りがうまい。彼女はすべての人間が顔見知りのこの町から離れたくない、あんたとも赤ん坊の頃から知り合いだ、と夫に言う。しかし、プロテスタントの暴動に息子が巻き込まれたことで、離れる決心をする。

 

監督自身の子供時代を演じるのが、ジュード・ヒル。この子はクラスに好きな子がいて、彼女はいつも成績優秀。成績が上がれば、彼女の隣に座れるというので、祖父に秘策を伝授される。算数では2と6か分からないように書き方をごまかすのだ(もう一つ組み合わせを言っていたが、忘れた)。それが効を奏してトップの席に座るが、どうしたわけか彼女はその時成績がふるわず、彼の後ろに。下校時に花を渡すのも、お爺さんの入れ知恵。女性の弱みは、愛を示されること、というアドバイスである。彼はカソリックの彼女と結婚できるか悩んでいる。

 

全体にサックスのメロディアスな曲が流れ、ときおりロック調の歌がかかるが、バン・モリソン(北アイルランド、つまりプロテストの多いところ出身)である。家族で映画を見に行くが、そこでかかっているのが「チキチキバンバン」やラクエル・ウェルチの映画「恐竜100万年」である。いずれも60年代後半の映画である。

 

お婆さん役がジュディ・ディンチで、、その夫がキアラン・ハインズ(ベルファスト出身)。悪役のイメージの人である。ジュディの言葉、「ここからはシャングリラの行く道はない」。孫のバディはロンドンに行くなら、祖父母も一緒に、と言うが、2人にはその気がない。やがてお爺さんは身体を悪くし、入院し、亡くなってしまう。

お母さん役がカトリーナ・バルフ、父親役がジェイミー・ドーナン。堅実で、愛し合っている夫婦で、パーティで夫が歌うと、そのまえで妻が踊る。バルフは元モデルということで、スタイル抜群。

 

母親と姉が通りのベンチに座り、争い事をもちこむプロテスタントのちんぴらたちのことを、こう言う。「あいつらは料理も洗濯もできないろくでなしだから、10分も戦いを続けられない」この視点は思いがけないもので、見当はずれのものだが、忘れたくない視点でもある。

 

29  ナイトメア・アリー(T)

死体を家の床に葬り、火を放った男が列車で眠りこけて、終着駅にたどり着く。そこにサーカス団が小屋をかけていて、世話になることに。才覚を表し、電気女と一味を抜けて、都会へとやってくる。その切り替わりが速く、もう2年が経っていて、女を演出して一儲けする話が、男自身が読心術を披露するショーを見せている。そのいかさまを破ろうとしたのが心理学者で、彼女は職業柄貴顕淑女の秘密を手にしている……。

 

アリーは路地のことで、ぼくは人の名前かと思っていた。悪夢通りにようこそ、というわけである。ある限られた仮想空間のなかに、人は神秘に騙されにやってくる。しかし、その外に神秘を持ち出すと、途端にいかがしくなり、詐欺罪となってしまう。主人公は師匠の厳しい言葉「ゴースト(心霊術みたいなもの)をやると魂を失う」を反故にして、まちの富裕層に取り入っていく。また繰り返される「ファースト物」である。

 

監督ギレルモ・デル・トロ、脚本、主演ブラッドリー・クーパー、電気女にルーニー・マーラー、心理学者にケイト・ブランシェット、サーカス団に付いて回る風呂屋の女主人にトニ・コレット、その夫がデビッド・ストラザーン、サーカス団の首領にウイリアム・デフォー。ルーニーとブランシェットは「キャロル」で共演している。

 

事が露見してブラッドリーがまちを去ることに。そのとき、ブランシェットが「I love you」と言い、彼は不審に思い振り返る。ここがよく分からない。「別れには大げさ過ぎたかしら」と彼女は言うのだが。

ブラッドリーが人の挙措などから素性などを言い当てる自らの才に気づいたときに、デフォーが呆けた顔で聴き入る、というのはおかしい。百戦錬磨の、人間を獣人にまで落とし込むことを平気でやる奴である。

トニ・コレットの読心術を地下でサポートするストラザーンが泥酔し、仕掛けが利かないでショーは失敗するが、そこがなぜ失敗なのかが分かりにくい。

 

30 マスカレードナイト(S)

最後まで楽しんで見ることができた。いくつもの枝葉をつくって進行を複雑にするのは、前作と同じ。ラスト、時計が5分遅れていたことが意味をもつが、その間、2人の女性には何があったのか。その説明がされていない。キムタク、老いたりの感がある。冒頭の社交ダンスも要らないのでは?

 

31 ある天文学者の恋文(S)

ジュゼッペ・トルナトーレ監督・脚本、彼の作品は4作見ている。幅の広い監督に思えるが、なにか共通するものがある。なにものかへのひたすらな愛ではなかろうか。それが際立って表れているのが、この映画ではないだろうか。オルガ・キリレンコのアクション経験をきちんと取り入れながら、生とは何ぞやと静かに問う作品となっている。いろいろな仕掛けも、そして天文学の知見も合わさって、味わい深い一篇となった。相手役ジェレミー・アイアン。老いてなお色気がある。1992年、初めて彼を「ダメージ」という映画で見て、強い印象が残った。

 

32 湯を沸かすほどの愛(S)

よくできた映画でした。家族とは精神によってつながったものだ、というが(J・F・グブリアム)、まさにそういうものを描いている。血のつながりは父親が媒介しているが、母親の死がなければ紐帯は強くならなかったはずだ。非常に愛情深く、かつ真剣に生きる女性とチャランポランな男たち。その女性(母親)によって強くなっていく娘たちの物語である。主演宮沢りえ、客演杉咲花(娘)、オダギリジョー(蒸発した夫)、松阪桃李(旅先で出会った青年)、駒河太郎(探偵)、篠原ゆき子(杉咲の本当の母、聾唖者)。監督・脚本中野量太

 

33 カモン、カモン(T)

ホアキンの映画である。ジョーカーの次はこれか、という感じ。白黒で撮られていて、子どもたちの声と意見を集めるラジオエディター(?)のジョニーとして、子どもにはふだんから接してはいるが、姉の難しい子を預ることで、ホアキン自身が静かな変容を遂げていく。ジェシーは精神的に不安定な父親と、ときに過剰なほど子を愛する母親のもとで、エキセントリックで、大人に同調と反抗をきわどく見せる子として育って行く。そういう意味ではジェシーとジョニーが出会うことで、なにかもっと中庸な、静穏な、だけど本音を隠さない人間関係のあり方を見つけていく。そういう映画である。子どもが出てきてこれほど内省的なアメリカ映画は、「ものすごくうるさくてありえないほど近い」以来かもしれない。

 

34 ファイブ・デイズ(S)

北京オリンピック開催でそこに世界の目が集まっているときに、ロシアはグルジアに侵攻した。民間人を殺し、それはグルジア政府が行っていることだとプロパガンダを流した。NATOは軍事関与を行わず、グルジア政府は孤立する。アメリカ人ジャーナリストの視点でそれを描いていく。グルジア人の結婚式、静謐に輝く平原に、スホイからものすごい速さと正確さで爆弾が発射されていく。ロシア兵のなかにも虐殺に抗う若い兵士がいる。前線部隊のロシア隊長は人を殺すことに倦んでいる。米ジャーナリストは、NYに留学したこのある現地女性と逃避行を繰り広げる。ピアノの静かな曲が流れる。フィクションなのだが、戦闘場面には思わず首をすくめるほどのリアリティがある。ウクライナでいま起こっていることとまったく同じことが2008年に起きていたなんて、なんて迂闊だったのだろう。

 

35 トスカーナ(S)

父親が死に自分の故郷の土地を売りに出すことに。しかし、そこで知り合った女性(じつは幼馴染み)に引かれて売却を諦め、自分でそこにあるレストランの切り盛りをすることに。彼は有名な料理人で、オランダで自前の理想のレストランをつくる資金づくりをするはずだったのだが、方針変更である。やや主人公の設定が違うが、ほぼ似たような筋の映画を見たことがある。タイトルを思い出せないが、アメリカ映画だったような気がする。これは全篇イタリア語、そして少しの英語とオランダ語である。

 

36 マイ・スモール・ワールド(T)

監督・脚本はこれが長編第1作という川喜多恵真、是枝裕和の監督助手だったらしい。主演嵐莉菜で、モデルらしい。役名サーリャ。母親は日独、父親はイラン、イラク、ロシアの血が混じっているという。クルド人で、難民申請がかなわず、就労をしてはいけないという規則を破り、収監される父親。申請が受け付けられず、しかも働くこともできない、というのは、追い出し策としか思えない。

サーリャは援交をしようとするが、中年男に迫られ逃げ出す。居住する埼玉を出ることも禁じられ、希望の大学(教育大学らしい)も受けられない。バイト先のコンビニで出会った聡太(奥平大兼)との関係が救いとなっている。静かで、綿密で、説得性があって、社会問題が見えて、是枝の弟子というのもよく分かる。

援交のカラオケ場面が既視感が強いのと、収監された父親に面会に行き、なぜ今になって自分たちを捨ててクルドに帰ろうとするのか、と言うときに、父親にそもそも日本に来た理由を尋ねるのはおかしい。申請却下の場面で、父親が拷問で傷つけられた足を係官に見せているわけだから、知っているはずである。ふだんの生活のなかでも、知っていてしかるべきことだ。父親は、自分が帰国すれば、娘にビザが下りる、と判断し、その決意を変えない。最後に、サーリャの弟が小さなまちの模型をつくる。埼玉と東京を結ぶ橋もあり、家族や聡太を表す石ころを置くスペースもある。タイトルはそこから。次回作が楽しみ。是枝のもとから巣立った西川美和の映画を追いかけたことが、思い出される。

 

37 マイ・ニューヨーク・ダイアリー(T)

原題はMy Saliinger yearで、原作がジョアンナ・ラコフ。yearsと複数になっていないのは、サリンジャーとの日々を特別なものとしているからだろうか。実話らしい。気難しいことで知られる彼のエージェントの元に職を得たジョアンナが、電話でのサリンジャーの励ましを受けて、詩人として旅立つ姿を描いている。『ライ麦畑』の主人公ホールデンが出てきたり、むかしの恋人と駅の廊下で踊りはじめる幻想など、とても自由に撮っていて好感である。所長にシガニー・ウイバー、彼女は作家と愛人関係にある。ジョアンナがマーガレット・クアリー。やっと作家に就いたのに、会社を辞めることに。ニューヨークタイムスに詩を持ち込み、そのあとシガニーの所へ行くが、これは詩人として契約をするためか、よくわからない。そのとき、サリンジャーその人が、シガニーの部屋から出てくるのだが。ぼくはサリンジャーが大学の先生をやっていたころに付き合っていた女子大生の回顧録を読み、サリンジャーについての評伝も読んでいる。『ナイン・ストーリーズ』が懐かしい。アップダイクもソールベローもマラマッドも。

 

38 ダブル・ジョパティ(S)

2回目である。アシュレイ・ジャッド、トミー・リー・ジョン。ジャッドをとんと見かけなくなった。少年のような笑顔の人だったが、ワースティンを訴えた映像を見ると、やはり、というような変わりようだ。サンドラ・ブロック、レニー・ツェウィルガーなど、ぼくの好きな女優がみんな様変わりで、見るのがつらい。この映画ではジャッドはヌードまで見せているが、本来ムキムキの筋肉女性である。

 

39 座頭市あばれ火祭り(S)

シリーズ21作目、勝プロ作品になっていて、脚本にも勝が加わっている。それがひどい脚本で、浪人仲代達也はただ全篇にふろふらしているだけ、大原麗子に入れ揚げたはずの市が最後に冷たく突き放す。監督三隅研二も腕の振るいようがなかったか、まるで絵が面白くない。悪党の闇の親分が森雅之が盲人で、この悪党ぶりがいい。やはり役者の格が違う。「浮雲」で見せた白皙の色男が白目を剥いて、あこぎなセリフを言うのである。田中邦衛がちょい役、西村晃が森の右腕で、跡目を継がせてもらえるはずが、権力欲旺盛と見られて、殺される。あと、吉行和子、ピーターとよくも揃えたもんです。ただそれだけの映画ということでもあるが。

 

40 浜の朝日の嘘つきども(S)

2回目である。冒頭から主人公は恩師の遺志で映画館の存続のためにやってきた、と明かしていた。まえは気づかなかった。恩師との死ぬまぎわのシークエンスはアドリブと思っていたが、大久保佳代子のアドリブに一拍ずらして高畑充希が受けに回った効果ではないか、という気がする。やはり最後の映画館をコミュニティの核にするという高畑のセリフは余分である。あるいは、もっと簡素にすべきである。おそらく3回目を見ることはなさそうだ。

 

41 教育と愛国(T)

教育をいう政治家は経済と比べて何を胡乱なことを言っているのかと思っていたが、じつは10年あれば、かなりの思想教育を施すことができる。小学校から始めれば高校生ぐらいまで仕込めるわけで、それがその人の一生ものになり、その子どもにまで継承されるとなれば、政治の狙いとしては悪くない、ということになる。

この映画はものすごく既視感が強い。教科書の検定と日本会議あたりを扱っているからである。戦後左翼が憲法におんぶに抱っこされているうちに、右の連中はたゆまぬ攻撃を仕掛けて、とにかく改憲まで持ち込むんだという意識でやり続けてきたことが実を結んだのが今の状況ではないかと思われる。一つ変わったことがあるとすれば、政府統一見解に縛られて、直接的に時の政府の意向が教科書会社に渡るようになったということである。

それにしても、自分の国の歴史をすべて肯定する神経というのが、分からない。われわれのふだんの感覚でも、自分の非を反省して、思想を深めた人を信頼するのであって、それは国家においても同じではないのか。

既視感に襲われたということは、この間、ずっと右の論調を変わらず続いているということでもある。いまの若者がいろいろな意味で体制的、保守的といわれるが、それはやはり教育のなせる賜物なのか。

 

42 私の寅さん(S)

前田武彦が売れないTVドラマ脚本家、妹が売れない絵描きの岸恵子。この映画、寅さんの中では出来のいい部類ではないかと思う。いわゆる芸術に対する寅さん、虎屋一家のスタンスが見えて、その具合がほどほどの加減に抑えられているからである。

前半は寅さん以外の九州旅行、そしていつもの恋騒ぎになるという異色の構成である。なにか事情があった、ということだろうと思う。それにしても、前田がそこそこの演技をしているのには、びっくりする。

 

43  エリザベス 女王陛下の微笑み(T)

ただの過去映像のつなぎ合わせである。それにしても若い頃の女王の美しさをどう表現すればいいのか。majestic荘厳かつserene澄み渡った、という感じ。

 

44 ラストキャッスル(S)

レッドフォード、2001年の作、共演ジェームズ・ガンドルフィニ(ザ・ソプラノズの彼)、マーク・ラファロ。陸軍の英雄が大統領令に反して作戦を実行し、部下を数人死なせた、という罪で刑務所に。そこの圧政を翻す、という中身。軍規違反で一般刑を受けることなんてあるんだ? 罪人がみんな軍人に様変わりするというのは、レッドフォード的にはどうなのよ、と言いたくなる。

 

45  プラン75(T)

早川千絵脚本、監督。是枝の「ワンダフルライフ」を思い出した。死をまえにした人が集められ、口頭試問を受けるが、まだ気持ちが固まっていないと分かると落第し、運営側に回りながら、決意を固めていく。アイデアとユーモアにあふれていたが、その是枝が「幻の光」も撮っていて、ぼくはすぐにファンになった。夕方の道路にぽんぽんと街灯が灯っていたシーンが忘れられない。
今作は、最初に銃撃事件があり、高齢者?(車いすが転がっているだけなので、分からない)を殺した若者が自害するところから始まる。国家のために死ぬのが日本人なのに、高齢者が無駄に生きて邪魔をしている、と彼は言う。そして、国が75歳以上の希望者に自死の選択権を付与する、という展開になる。書き割り的な説明で、安易である。この「日本人は国家のために死ぬ」は、映画の前振りとしてもどうか、と思う。諸外国は、そのまま鵜呑みにしてしまうのではないか。実際、この映画、カンヌ招待作ではなかったか。

 

本当は未来映画なのだろうが、まったくそういう設定にはなっていない。是枝の映画では古い学校だかが舞台にされ、環境が隔離されていたが、この映画では日常がそのまま写される。ボーリング場も出てくれば、深夜の道路整備も出てくる。未来に設定された映画でありながら、何も被写体を変えなくてもいい、というのは、それだけ日本の高齢化が、この映画の設定に近づいているということなのだろう。それにしてもズルイ。

 

途中で何人(フィリピン?)だかの看護師が出てくるが、仕事の合間に子どもや夫に電話するシーンがある。そして、次に宗教の集いの場面となって、彼女の子どもが心臓に病気をもつことが分かり、参加者から寄付が集まる。人の紹介で、より割のいい仕事がある、ということで終末施設へとやってくる。そこで初めて、本論とつながることになるが、あまり必然性のある展開とは思えない。冒頭の殺人のシーンも含めて、なにかつまみ食い的に映像を処理する癖がこの監督にはあるようだ。外国のアジア人のほうが人情熱く生きている、と表現したかったのかどうか。

 

プラン75の申し込みにやってくる高齢者と応対する役場(?)の青年。彼は、目の前にしばらく音沙汰のなかった叔父が来て動揺する。やがてその叔父さんを終末施設に届け、帰ろうとするが、納得がいかず、施設に戻り、遺体となった叔父を運びだそうとする。火葬場へ連れていこうというわけである。そのときに、手助けするのが、そのフィリピン? の彼女。これを監督はやりたかったのだろうが、成功しているわけではない。

彼女は、これから死を迎える人たちの所持品を回収し、それを点検する仕事をしているが、お金が入った手持ちバッグを見つけたあとのリアクションが描かれていない。自転車に乗って元気に坂を上がるシーンがそれなのかもしれないが、説明不足である。

先の青年も、終末事業者リスト(?)で「産業廃棄物処理業者」を見つけ、ネットで調べると「動物死体処理」と出てくるが、それ以上突っ込むこともない。プラン75で安楽死させた人間をそういうところで処理している、という暗示なのかどうか。

 

最後は、その終末施設で、麻酔が効かなかったのか倍賞千恵子は死なないで、生活に戻ることになるが、ベッドで座っているときにマスクは取っておいたほうがよかったのではないか。彼女が途中で考えを変え、マスクを取って助かった、という設定にすべきなのではないか。それに、家に帰ってもすでに家財は撤去されているはずで、そこはどうするんだろう。ラストに朝日を見て倍賞が歌をうたうが、ほぼ切れ切れで聞き取れない。

そういえば、もう何十年もまえに、人口減少のために国家が何かを企んでいて、それを暴こうとする話があった。結局、工場で死体を処理して食料に変えていたのだが、チャールス・ヘストン主演の「ソイレント・グリーン」である。あれは衝撃的な映画だった。終末を迎えた人たちに、過去の緑豊かだった地球の映像を見せるシーンがあるが、涙が出るほど美しかった。

 

46 エルヴィス(T)

バズ・ラーマン監督、「ムーランルージュ」「華麗なるギャツビー」を撮っている。冒頭の展開が早いが、こういう映画はたいてい期待外れのことが多い。エルヴィスが黒人文化のなかで育ったのは知っているが、歌う黒人教会でエクスタシーを感じたというのは知らなかった。映画ではそこから始まるが、史実かどうかは分からない。彼がパーカー大佐(トム・ハンクス)という男に食い物にされたことも知っているが、オランダ人で市民権も持たない人間とは知らなかった。ぼくはエルヴィス・オン・ステージを高校のときに封切りで見ている。伝説の人、過去の人だったプレスリーがものすごく身近な存在だと感じたドキュメントである。イン・ザ・ゲットー、サスピシァス・マインド、ブルー・スェイド・シューズなど名曲揃いだが、弾き語りで細い声で歌う彼もいい。スローテンポな曲でこそ彼の歌のうまさが光る。この映画は、表面をなぞっただけ。最初のメンフィス、ビールストリートを歩くエルビスを斜め上から撮ったときに、ふっと彼役のオースティン・バトラーにエルビスと同じ唇脇の笑い皺が見えて、身震いがした。あの笑い方は、映画でも共演したアン・マーグレットもやる。顔つきも2人は似ている。ユーチューブでは2人の映画の踊りのダイジェストも見られる。エルヴィスの取り巻きの一人だったJerry Schllingが書いたMe and a Guy named Elvisという本を読んだことがあるが、やはり彼は愛すべき人だった、プレスリーは。彼がなぜに目にブルーのアイシャドゥを施して、あの保守的な南部に登場したのか、それを知りたい。

 

47  ディスタンス(S)

是枝の長編3作目である。是枝はドキュメンタリーで始まった監督だが、この映画にはその匂いがする。外側からしか人間を描かない。DVD発売がなく、レンタルができない。アマゾンプライムで見たが、なぜDVD化されないのか分からない。

物語にしない、という強い意志が働いている。時間の流れも現在と過去が混じり合って進む。説明は最小限である。役者たちの声が小さく、録音も悪く、しかも沈黙が多いので、言葉の一つひとつを聴き取ろうと妙に緊張する。

あるテロ(オウムと思われる。どこかだかのダムに毒を撒く、という話があったのを利用している。駅名で清里の表示が見える)の実行犯の遺族が、毎年、その供養のために山奥の湖に集まる。その湖がダムによってできたものかはわからない。そこに実行犯の一人だったが、決行間際に逃亡した男(浅野忠信)が加わる。彼は警察での供述で、実行犯のやったことはまったく理解できない、と言い逃れるが、仲間の一人がいなくなったときには、「だからエリートは信用できない」と息巻いていた。いわばユダ的な人間として描かれている。湖に花を捧げ、黙祷し、食事をし、帰ろうとすると、彼らのクルマ、バイクが盗まれている。かつて実行犯たちが泊まっていた家で一夜を明かすことになる。クルマとバイクが盗まれたのに、警察に届けるというシチュエーションがない。

 

夫を亡くした教師(夏川結衣)、姉を亡くした花屋のアルバイト(ARATA)、兄を亡くした水泳インストラター(伊勢谷友介)、妻を亡くした建設業者(寺島進)。夫に妻、姉に兄という組み合わせである。ときおり過去の映像をはさみ、それぞれの相手との様子が描かれるが、ARATAと伊勢谷はきょうだいとの葛藤があったわけではない。寺島の妻は入信まえに子どもを2人下ろしていて、それをあとで警察から知らされる。

不思議なのはARATAが病室に老人を訪ねるシーンもはさまれるのだが、ほぼラスト近くで父親ではなく、他人であることが明かされるが、どういった他人かが明らかにされない。

ARATAの姉は浅野に、弟は自殺した、と語っていたという。だから浅野は帰りの電車のなかで、「あんたは誰か」と尋ねる。この映画で、いちばんスリリングな箇所だろう。もちろん姉は、気持ちの縁切りをするためにそう言っただけだろう。

身内の者が狂信に走り、犯罪を犯し、焼身を遂げる。そのことの意味を淡々と噛みしめるように描く。ARATAが湖に張り出した簡単な木橋に火をつけ燃やすところで映画は終わるが、この映像は姉の発言を浅野から聞かされたあと、一人で湖にやってきた、という設定か。そのときに、「おとうさん」とARATAは言う。木橋に着いた火勢はすごく強い。もう二度とお参りには来ない、という意思表示か。途中にARATAと伊勢谷で「神を信じるか」といった会話もあるが、大きな意味が付与されているわけではない。

映画のなかで提示されたものは、きちんと映画のなかで回収されなければならない。回収をしないのであれば、そういう造りの映画にしなくてはならない。ARATAが訪ねる老人のことは、映画のなかで解決されなくなくてならないし、盗まれたクルマやバイクのこともそうである。そこを許せば、脚本は甘くなるだけではないか。これは是枝の弟子たちにも通じることかもしれない。

 

48  七つの会議(S)

2回目だが、印象は変わらず。野村萬斎はまったく役柄をはき違えている。監督は彼の演技をストップさせて、変更すべきだった。それと、「半沢直樹」が回を追うごとに虚仮脅しの漫画みたいになったが、その悪弊がこの映画にも及んでいる。「あきらとアキラ」にも、そして「民王」にも。原作者はこれに抗議をするべきだと思う。映像と文学は別だという意見もあるが、原作者の責任というのもあるのではないか。池井戸フアンとしてすごく残念である。

 

49 私のはなし 部落のはなし(T)

かなり観客は入っていた。すでに1万人が見たという。監督満若勇咲、プロデューサー大島新。この監督はしばらく前に「にくのひと」という屠畜業者のことをドキュメントにしたらしいが、その描き方には部落解放同盟から批判があり、公開を断念した経緯がある。実名を出した、屠畜の映像に子どもが怯えるるシーンがあった、などのクレームだったらしい。この映画のなかの登場人物の一人(滋賀県津市の部落解放同盟?)は、アマチュア野球チームが「穢多(えた、えった)」から「エッターズ」と名前を付けていたのを問題視していた。それは、一般人(映画ではこの言葉を使っていた)が差別語を自分のチーム名にしていた、というふうにぼくは受け取ったが、しかしそれでは意味が分からない。前作を見ていないので何とも言えないが、やはり配慮が必要なことだったのかもしれない、と思った。というのは、その発言者がとても内省的で、哲学的な風貌をしていたからである。

 

この映画は205分の長尺で、途中で休憩が入って、ぼくは初めてこの映画がそういう長さの映画であることを知った。京都、伊賀上野などが扱われていた。被差別の地域やそこに住まう人を記載した本の復刻版を出版した当人も出てくる。意外な若さに驚いたが、彼は差別ではなく貧困であることに問題があったのではないか、と言う。よく分からない理屈だが、ならなぜそれを公表する必要があるのか。それも被差別地域だけを狙うのか。娘二人いるらしいが、もし結婚したい相手が部落出身だったら、あなたはどうしますか、と聞かれ、それは本人の意思だから認めるだろう、と述べている。

 

京都崇仁地区の市営住宅に住む女性は、早い時期から部落解放の運動に関わっていたらしい。叔母から京都へ行くと映画も見られていいよ、と(津から?)連れてこられたのが崇仁で、路地のなかの知らぬ家に押し込められたが、すでにそれは結婚の話がすんでいて、だまして連れてこられたのである。旦那は屠畜業、まわりもそういう人が多かったという。まちで行き会う彼女の友達なども、みんな昔はよかったという。たしかに暮らし向きはよくなったが、仲間で分け隔てなく暮らしていた紐帯がなくなったのは寂しい、と言っている。その年老いた女性が引っ越しすることになるが、その理由が映画では描かれない。なぜなのだろう。

 

一人、60代の女性で、差別する側の意見を言っていたが、血が違う、という言い方をしていた。顔を出さないのは、いまは平穏に付き合ている人に、本心を知られるのは嫌だから、と素直に答えている。子どもが結婚する相手の身元調査を当然やる、とも言っている。

女性の学者が出てきて明治以降の被差別にかかわる歴史を語るが、平沼騏一郎天皇主義者としていたが、あの時代、天皇主義者でない人など、ごく少数を除けばいなかったのではないか。それと、古く朝鮮人の血統だから差別された、という説も紹介していたが、それは本当なのだろうか。網野説は天皇家に仕えていた人びとが、天皇家の相対的な地位の下落によって、その庇護を失ったがゆえに差別を受けた、といっていたはずだ。字幕でも入れて、その説明をきちんとしておくべきではないか。監督は、その女性学者の意見も「はなし」の一つだと言うが、天皇制と被差別の構造を結びつけるための前段階として平沼の名前が出されるので、彼女はこの映画の柱ともいうべき役柄である。

 

50 キャッチミー・イフ・ユーキャン(S)

人は外形によって判断する。それを徹底して利用したのが、この映画の主人公である。最後は偽造小切手の手口を見抜く才を見込まれてFBI勤務となり、偽造の難しい小切手を発明して巨万の富を得たという。なんともはや、である。ディカプリオ、それを追うのがトム・ハンクス。若きエイミー・アダムスが出ている。スピルバーグ監督である。彼の映画はほとんど見たことがない。この軽さが合っているのではないか。

 

51 男はつらいよ16 葛飾立志伝(S)

考古学の樫山文枝がマドンナ、その先生が小林桂樹。独身の先生が弟子の樫山に求婚するも敗れる。寅さんもまた。全篇、流れるように進む。シリーズに脂がのっている感じがある。小林信彦御大が今月号文藝春秋で洋画・邦画ベスト100を挙げ、第6話を選出しているが、このシリーズに出合うまで、どうも渥美の座りが悪かった、という。ぼくはそれに強く共感する。フランキー堺にも同じ思いを持ち続けた。彼らは本来、シリアスこそが合っていたのかもしれないのである。

 

52 男はつらいよ11 忘れな草(S)

寅を初恋の人かも、と言うリリー。もう何度目になるだろう。今回はほんのささいなシーン、自然すぎて見過ごしてしまうところである。居間にテーブルがあって、向こうにさくらと博がいて、さくらの右におばちゃん、さくらと博の間にタコがいる。なにもセリフを言わずさくらが右手を伸ばす。すると、博が自分の左後ろにある小さめのポットをさくらに渡す。ただそれだけなのだが、されこれは演技なのだろうか、いやさくらが自然にやり、博が自然に応じたのではないか。

まえにも書いたが、この時点で浅丘ルリ子が33歳というのは驚きである。日活青春ものやアクションもので活躍していた時代が長い印象があったので、この映画に出た時は相当な歳のイメージなのだ。じつは倍賞千恵子のほうが1歳若いだけである。山田監督は倍賞を若い頃から本当に使い続けた。おばちゃんを演じた三崎千恵子の動きもきれいだが、倍賞もきびきびしてきれいである。冒頭、夢中劇で寅がエイヤッと悪い親分(タコ)を斬って、くるりと回って鞘に収める動きはさすが軽演劇の出身である。

 

53 ロクサーヌロクサーヌ(S)

NYブルックリン、80年代に登場した女性ラッパーの先駆者ロクサーヌ・シャンテ、まるで魅力的でない彼女が名を挙げてからは格段に輝き出すから不思議だ。しかし、15歳にして疲れ、どうしようもない暴力男に捕まって家庭に。やっと逃げ出して、また復活する。その暴力男のセリフがまさに「愛しているから殴るんだ」「おまえは俺の女で、逃げられない」。それをマハーシャラ・アリ(「グリーンブック」の金持ち黒人の役)が演じる。ロクサーヌの母親が厳しい人で、門限を守らせ、家事をやらせる。それが結局、ロクサーヌの根底をつくっていることが分かる。金で取り戻した我が子と家に戻ると、我が娘を迎え入れる。

 

54 マルケータ・ラザローバ(T)

55年前のチェコの映画で、日本初封切りらしい。1967といえば学生動乱が始まるころだ。チェコ動乱が翌年である。その不穏な気分は、映画のなかに漂っているといえる。この映画は13世紀のボヘミアが舞台。王党派とその敵対領主、追随領主の争いを描き、追随派の娘マルケータが敵対者の息子と割ない仲になることが、劇の中心にある。王党派をスターリン支持、あるいはソ連支持と考え、それになびく者、反対する者の血を血で洗う話である。

動きがあるのは戦闘の場面だけだが、カメラワークがアクション的に撮るわけではない。戦闘以外の場面は、進行しているようなしていないような進み方で、ドラマも起きない、あるいは起こさせない。象徴的な映像を写し込んで、リアルさから遠ざけようとしている(それでいて鎧、兜などは当時のものを再現したらしい)。マルケータは修道女になることが定められている女だが、戦場で性的な罪を負い、最終的に教会を選択しないところで、映画は終わる。あくまで受け身の、主体性のない女なので、心変わりに感情移入も、理知的な理解もできない。羊を一緒に放浪する神父が狂言回しのようになっている。発話がすべてアフレコで録っていていて、しかも音の遠近、強弱がない、みんなが大声で喋っているように聞こえる。なぜこんなことをしたのか分からない。3時間はやはりきつい。

 

55 トッツィ(S)

Tootsieにはおねえちゃん、売春婦といった意味がある。ダスティ・ホフマンが最初から女性っぽいメイクをしているのがみそである。友人の女性(テリ・ガールで、とぼけた味がいい。アメリカには美人ではない、とぼけた味のこの種の女優さんがいる。マリサ・トメイゴールディ・ホーンなど)のオーディションに一緒に出かけ、すぐに失格の烙印を押されたことに反発し、自分が女装してそのソープオペラを受けに行く。場面転換しただけで、もうオーディションに向かうトッツイの変身姿という大胆な演出をやる。そこに心理描写も何も介在させないことが、この映画のすごいところ。それには、やはり最初からの女性っぽいメイクが効いている。脇がジェシカ・ラング、じつをいえば彼女が見たくて見た映画である。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の翌年に、この映画を撮っている。やはり柔らかな演技をしていて、とても無理がない。ジェシカの父親役で、トッツイに惚れるのがチャールズ・ダーニング、ソープオペラで外科部長を演じるジョージ・ゲインズ(この人はおかしい)、トッツイの同宿人で芝居の仲間のビル・マーレイ、トッツイのエージェントがシドニー・ポラック(監督も)。この男性脇役陣の豪華さ!

 

56 ブレードランナー(T)

何回目になるだろう、最初義務感で見て圧倒されて、それから何度かになる。今回にして初めて全体がすぽっと手のうちに入ったような感覚がある。タイトルロールから笛(?)のような細い音が聞こえて、東洋風がすでに出ている。

地球へとやってきたネクサスという新レプリカントは感情を持ち始めるほどに進化しているので、4年限定の命にされている。それがすべてを解くカギとなっている。限られた命だからこそ、彼らには焦慮や諦観、仲間への友愛(肉欲の場合も)まで育ってくる。主人公は彼らを殺すことで、人殺しの感覚をからだに刻印されていき、最後、レイチェルとの逃避行を選ぶのである。はじめてキスをしたとき、kiss meと言え、I want you と言えと彼女に教えながらそのシーンが進む。切なくて、いいシーンである。

ずっと雨にたたられているのは、なぜなのか説明されない。日本風俗がそこらじゅうに埋め込まれているが、本格的にバブルで日本がアメリカの不動産を買いまくるのは80年代半ば以降にしても、81の制作だとその前触れはすでにあったということか。アジアの路上マーケットのような稠密、喧騒、けばけばしさと、未来の都市の高層ビルが並列していることが、この映画のミソになっている。人間に近いレプリカが作られようと(彼らを延命させることは技術的に不可能、と生みの親の博士&タイレル社長が言っている)、つねに警察空中車がうようよ目を光らせていようと、人間の営みは永劫変わらない、というサインでもある。

 

57 エイブのキッチンストーリー(S)

パレスチナイスラエルのあいだに生まれた子が、集まりたびに喧嘩になる親族を和解させようとミックス料理を作る。彼はそれぞれの言語で名を呼ばれるが、エイブというアメリカ式が一番気に入っている。せっかくの料理なのにまた言い争いが始まり、子どもが失踪することで気持ちが一緒に。その子が学ぶのが、ブラジル出身の料理人である。料理と人種問題をからめた点で、異色である。

 

58 go!(S)

監督行定勲、脚本宮藤官九郎、主演窪塚洋介、柴崎こう、窪塚の父母が山崎努大竹しのぶ、脇に山本太郎新井浩文大杉漣萩原聖人。久しぶりに見直したが、この映画、傑作かもしれない。とくに窪塚がセックスのまえに柴崎に在日であることを告白した時、柴崎は拒否する。窪塚は彼女を置いたままそのホテルを出て、橋のたもと(勝鬨橋?)まで来ると、自転車でやってきた警察官(萩原)が橋のたもとの自販機で何かを買おうとして、反対側を歩く窪塚を呼び止める。500円玉が使えないから120円貨してくれ、と。そのあと、君はどこから来たの?どこへ行くの?名前は?と尋問を始める。窪塚はその喉に手をかけて押し倒し、逃げ去ろうとするが、振り返ると倒れたままの萩原のところに戻る。次のシーン、横たわったまま目覚めた萩原の視界に缶コーヒーと、その先に座る窪塚が見える。2人は並んで座り、話を始める。窪塚はいま在日と名乗って彼女に振られてきたと言い、萩原は在日の彼女と付き合ったことがあり、ひどくキムチの味が悪く洗って食べた、と言う。窪塚はなぜ萩原を押し倒したかの理由を言う。在日は捺印した証明書がないとだめなので逃げた、と。萩原は、「在日でも必要なのか?」と問う。「そうだ」と言うと、「逮捕するぞ」「証明書のことも知らなかったくせに」というやり取りがある。最後、萩原が「すぐそこの交番にいるから、いい彼女が見つかったら、合コンしようぜ」と言って去って行く。

このシーンは絶妙なタイミングで挟まれるわけだが、いやはや脱帽である。二対の恋、それも立場が逆の恋の顛末と、警官と在日という危ない組み合わせをここで披露する大胆さと巧妙さに驚く。

山崎努演じる父親も魅力的である。ボクサー上がりで、そのパンチ力がすごく、息子をそれで鍛え上げ、パチンコ景品交換の仕事を4カ所掛け持ち、家出を繰り返す妻の大竹しのぶをこよなく愛し、自分の狭い範囲を突き抜けろ、と息子に言い続けるオヤジである。この親にしてこの子あり、である。

 

59 アプローズ!アプローズ!

スウェーデンで実際にあった話(1985年)らしく、刑務所内の囚人を使ってベケットゴドーを待ちながら」を上演し、評判を得る。強盗、殺人などで収監されている彼らは、罰として日常を奪われている。そこには掟、規則、順守といった暴力を背景とした抽象だけが支配する。まるで舞台装置のないベケットの世界である。なおしかも、待つことしかやることがない、という状況もまた。売れない舞台俳優が演出をするわけだが、「ゴドー」に目を付けたところに妙趣があったわけである。一筋縄ではいかない連中を舞台に上げるまでのくさぐさがあるが、舞台上での彼らの演技が素晴らしい。そりゃ役者なんだから、そうなのだろうが、素人だと思って見ている自分がおかしい。

ラストに事件があるが、ベケット自身が「お見事だ」と言っている。フランス映画で、だいぶ実話とは違う脚色をしてあるのではないだろうか。ぼくは大学のころに彼の全集を買って、途中でその全集がストップしたことが懐かしい。初期三部作にはやられてしまった。

 

60 ローマンという名の男(S)

デンゼル・ワシントン民権派弁護士事務所の実務的な裏方、裁判にはパートナーが立ち、彼は勝訴のための穴を見つけることに徹してきた。しかし、パートナーの突然の死で事務所は閉鎖に。しかし、そのパートナーに仕事を回していた男、これがコリン・ファレル、やり手ファーム経営者だが、やはり人権派の血が流れていて、ローマンを捨て去ることができない。ローマンは不正を働き、10万ドルを得るが、結局、報いを受けることに。ファレルが彼の遺志を受け継いで、司法改革へと進み出していく。ファレルがなかなかの役どころで、きちんと稼ぐところからは稼ぎ、余裕のなかで民権派の弁護に回っていく。その中間的なポジションをよく表していて、グッドである。ワシントンが老けて太っていて、アグリーな感じは悲しくなる。

 

61 男はつらいよ19(S)

アクションものも、シリアスも、どうも見たくない。となると、どうしても寅さんか釣りバカになってしまう。アメリカのコメディは肌に合わない。笑いほど国の壁の厚いものはない。

今作は真野響子嵐寛寿郎三崎千恵子が虎に突っ込まれたときの表情が、なんともいえずいい。寅に愛想を言って受け入れられたときの表情もまた。最近、叔母ちゃんの表情ばかり見ている。

拾った捨て犬の名トラを変えずにいるという神経が分からない。寅が怒るのは尤もである。毎回思うのは、なぜに寅は旅先では訳知りの、酸いも甘いも知った、賢人となるかということである。旅先にも柴又にも日常が根強くあるわけだが、旅先では日常に踏み込む必要がないからだろう。賢人、じつは浮世離れした渡世人で生きて行けるが、柴又では賢人であることは到底無理だし、日常に溶け込むことができない。だから、つねに喧嘩をおっぱじめては、出入りをくり返すのである。この映画に登場するマドンナは、その日常と非日常のあいだにいる存在だが、結局は日常を背負っていることが明らかになり、寅はまたしても破恋ということになる。寅=不能説はリリーのところで書いたので省略。

今作、嵐寛寿郎が息子の嫁に一度会ったことがあるといい、嫁(真野)は会ったことがない、という。これぐらいのことは直しておいてほしい。三木のり平が嵐の執事で出ているが、もっとはちゃめちゃをやってほしい。渥美と並ぶと渥美に貫禄があるのは、なぜか寂しい。

 

62 サンジャックのへの道(D)

フランスのル・ピュイというところから、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラまでの1500キロを3カ月かけて歩く、その過程を追いながら、確執のあったきょうだい3人の関係が少しよくなり(母の遺言でこの旅に出ることに。達成したら、遺産が転がり込む)、アラブの男子高校生とカソリックの女子高生の相愛が確かめられ、ガンと失恋に見舞われた女性は妻帯者であるガイドと関係を結び、字の読めなかったアラブの子は3人きょうだいの真ん中の女性高校教師からひそかに文字を習い次第に読めるようになる。ガンと失恋の女性は、最初はきょうだいの末弟と関係を結んだが、途中で旅の目的を終えたということで、きょうだい3人ともが戦線離脱した(あとで復帰するのだが)のを見て、その末弟との関係を断つことに。淡々と巡礼の道を写すだけだが、間あいだの眠りの夢のシーンでは、いろいろな幻想的な映像を流すのが、面白いといえば面白い。ただ、仕掛けをいくつも作っていながら、それを盛り上げることができず終わった、という映画である。

 

63  選挙(D)

映像がシャープで、きれいなのが印象的である。それと、テーマ性が最初からきちんと提示されて、最後まで迷いがない。川崎市宮前に落下傘で立候補した東大出で、切手・コイン商で成功したという男を追うドキュメントである。想田和弘が監督・脚本・撮影・制作をやっている。東大での同級生だという。ちなみに想田は東大の宗教学科を出ている。

男の選挙に現市議、衆議院議員参議院議員(川口順子)、そして小泉純一郎まで関わるが、これは補欠選挙であり、通常の選挙に戻れば、動員された人々も自分の候補の手伝いに回ることになるし、選挙民も自分の推してきたきた候補を持ち上げることになる。そういう意味では特殊な選挙といえなこともない。千票という僅差で当選するが、当人夫婦が自宅に帰っていて、遅れてやってくる、というドジぶりを見せる(案の定というべきか、次には落選の憂き目に遭っている)。

妻を家内と呼べとか、妻は仕事を辞めるべきだ、という古臭い倫理がはびこっている。妻は仕事を辞めろと言われ憤慨した様子を映像としてさらす。出陣式では神主がお祓いをする。名前を連呼するだけの選挙活動で、小泉の改革を引き継ぎます、と言いながら1回もその中身を言わない。選挙が人々を巻き込む祭りのようなものであることが、よく分かる。手伝いに来ているおばちゃんたちが、政治の裏側を知っているひとかどの人物に見える。

 

64  精神(D)

やはり想田の実験映画である。今度は、ある精神科医の診療所(岡山県にある)をめぐるものである。こころに病をもった人びとがやってくるが、25年通っているという人もいる。自殺念慮、強いうつ症状、統合失調症……。舞台は岡山県のどこかで、山本先生は給与10万円と年金をあわせて暮らしているが、所員のほうが給与は高いのだという。ときに診療代を割り引くこともする。みなさん、カメラのまえで実にきちんと話をする。ある女性は、薬の袋詰め係をやっている。家に帰りたくないという場合は、宿泊所をあてがうこともある。この診療所と患者たちは一緒に人生を過ごしているようなまとまりがある。ときおり木の実、飛び立つ鳥を写すなど、「選挙」に比べれば、だいぶ余裕が感じられる撮影になっている。蜘蛛の糸の先にぶらさがる一枚の葉っぱが何事かを暗示させている。自分の悩みを打ち明ける女性の背後には、窓の外に鉄枠がはまっていて、それが十字架にも見える。

 

65 peace(D)

想田作品で3作目、またしても岡山で、今度は義父が対象である。重度障害者ばかりか在宅ホスピスのご老人などの送迎をする仕事を追う。月に6万の稼ぎしかないので、いつも赤字である。喫茶去という要介護(?)の収益があるから、やっていられる。野良猫を飼っていて、はぐれ猫が次第にほかの一員になっていくのと、山本さんという肺がんのご老人のケア(義母がやる)が大きな2つの流れである。猫は3歳になると若者に譲って旅立っていくという。だから、つねに4、5匹という状態が保たれている。山本さんは召集令状で30歳で国内配置で終わったらしい。

3作目ともなれば、余裕さえ感じられる映画づくりである。相変わらずテーマの焦点が定まって、映像がクリアである。最初、2人続けて、発音に障害のある方が出てきたので、前作の続きか、と思ったが、まったくそうではなかった。老いの尊厳とはなにか。山本さんは病院に行くにも、部屋にカメラが入るにも背広を着込む人である。彼が行くと、医院の看護婦さんがみんなから挨拶される。どこかダンディなところが好かれるのもしれない。それなのに、彼が、早く死にたい、と言う。週に1、2度はカラオケに行って北島三郎を中心に歌うらしいが、人に迷惑をかけるだけの人生を終わらせたい、と言う。

 

66 デュエリスト(D)

ナポレオン治下の軍隊で2人の男が名誉を賭けて4度の決闘を行う。冒頭から決闘の場面である。フェロー(ハーヴェイ・カイテル)が決闘で市長の甥を殺す。市長の苦情を受けた軽騎兵隊の隊長がデュベール(キース・キャラダイン)をフェローに謹慎の申し渡しに差し向ける。そこはフェローが思いを懸けていた貴婦人の室内音楽会。彼は夫人の前で侮辱を受けたといって、決闘を申し込み、すぐに戦う。デュベールが腕に傷を与えて勝つ。

周りから女絡みの闘いではなく軍人の名誉の闘いと読み変えられたことで、えんえんと闘いが続く。ナポレオンが失脚し、ルイ王政が復活し、デュベールはもともとそれほどのナポレオン贔屓ではなかったこともあって中央に復帰し、フェローは死刑リストに載せられる(サドも載せられたが弁明で逃れた)。それをフェローに知らせずデュベールが救うが、結局、4度目の銃での闘いに。2度目を抜かせばすべてデュベールが勝ったことになる。

階級が違うと決闘できなくなるので、デュベールはフェローより先に出世するが、すぐにフェローが追い付いてくる。フェローは結局、将軍にまでなる。

最後、フェローが川を遠くに見はるかす丘に立ち、右前方から強い朝日が照り返すシーンで終わる。15年間おまえに支配されてきたが、もうおまえは死者だ、という言葉を投げかけられたフェローは、終止符が打たれた安堵感のようなものがある。監督リドリー・スコット原作ジョセフ・コンラッド脚本ジェラルド・ヴォーン・ヒューズ

この映画はキース・キャラダインの洒脱な様子とそれに関わる女性たちによって救われている。娼婦、姉、そして寄宿する姉の屋敷の隣にいる若き女性(結婚する)などである。淡々と進みながら、ときおりの決闘が迫力があるので、見飽きることがない。厳寒のロシアで2人でコサック兵に出合ったあとは和解もあるかと思ったが、フェローにはまったくその気がない。

 

67 バグダッドカフェ(S)

日本公開は1989年である。高名は聞き及んでいたが、見るのは初めて。何だろう、この映画。ドイツ人中年夫婦が砂漠のロードサイドにいる。尿意を催したらしく、旦那が事がすんでクルマに戻ってくると、車体の向こうから女房が立ち上がる。どうやら、そこで用足しをしていたらしい、諍いが耐えないのだが、夫の吸う葉巻を取り上げようとすると、その素早い動作をアップで撮る。ほかにもそういう何でもない仕草にアップとスピード感のある撮り方をする。結局、妻は荷物カバン一つでクルマから降りることに。

ガスステーションとあばら家が写る。それがバグダッドカフェのようだ。ものすごいスピードで車が滑り込んでくるが、これがさっきのドイツ人ご亭主である。片言の英語で、コーヒーマシンが切れた店で、妻が来なかったかと聞く。店主が拾ってきたポットにコーヒーが入っていたので、それを無料で振る舞うと、すごくおいしい、と言って飲む。謝礼に海藻を干したようなものを渡すが、店員も店主も受け取らない。ご亭主は上機嫌で出ていく。

店主の妻ブレンダ(黒人、CCH Pounder)が出てきて、コーヒーマシンを買って来なかったことや、変なポットを拾ってきたことをなじり、夫は嫌気がさして出ていくが、離れたところにクルマを止めて妻の挙動を見守っている(あとで和解)。そこに先ほどのドイツの太った中年女、このくそ暑い砂漠で、折り目正しい、ぴちっとした服装に、羽飾りの付いた帽子をかぶってやってくる。

いつも客としてやってくる男はキャンピングカーで寝泊まりし、元ハリウッドの背景描き、じつはジャック・パランスが演じている。もう一人、男と乗り付けてきてモーテルに泊まった美人女も常連である。途中からは敷地にキャンプを張り、毎日、ブーメランに励む白人青年も常連。

ドイツ女はきれい好きで、子どもが大好きで、マジックを練習して店で披露をする。それが評判を呼んで、トラック野郎が集まってくる。元ハリウッドの背景描き、彼女を絵にしたいと望む。というのは、ブレンダの息子が小さなピアノをつねに弾いているが、母親は騒音だといって演奏をやらせない。しかしドイツ女、自らジャスミンと名乗るのだが、彼の演奏に聴き入る(残念ながら、クラシック曲だが、曲名が分からない)。そのときの姿に光が当たり、神々しくさえ見える。それに感応されて、彼女に跪いて祈りの姿勢になる絵描き。彼女にモデルになることを求め、部屋で描き始めるが、しだいにヌードにまでなっていく。

グリーンカードとビザが切れて、インディアンの髪の長い警官に連れていかれ、みんなは虚脱状態に。しばらくして戻ってきて、ブレンダと抱き合い、砂漠の貧相な花の向こうで2人が仲睦まじくするシーンはとても美しい。そこは会話はサイレントである。

また客が戻り、ブレンダも一緒にマジックをやり、ミュージカル仕立てになる。ブレンダは歌唱力がある。いずれまたグリーンカードとビザの問題が発生するが、絵描きが自分と結婚すればいつまでもいられる、と求婚する。ジャスミンは、ブレンダに聞いてみる、というところで映画は終わる。

監督パーシー・アドロン、マーラーに関する映画を撮っている。脚本、同人、エレオノール・アドロン。主題歌ジェベッタ・スティール(Jevetta Steeele)のI am callingでセリーヌ・ディオンなどがカバーしている。

ウェス・アンダーソンの味わい、あるいはジャームッシュのそれもある。手品を披露してからは、特異な感じが消えていき、ブーメランをブレンダの娘、ジャスミンで夕暮れのなかで飛ばすシーンは詩情さえある。

テイストは完全にぼく好みの映画である。

 

68 ネゴシエーター(S)

何だか間の悪い映画で、見ているのが辛い。これは監督の責任だろう。サミュエル・ジャクソン主演、ケビン・スペイシー客演。悪徳上司にJ・T・ウォルシュ、人質にポール・ジォマッティ、シオパン・ファロン(悪徳上司の秘書)。

 

69  竜二(D)

川島透監督、脚本が主人公を演じた金子正次で、元やくざで、この映画のすぐあとガンで死んでいる。川島はプロデューサーだったが、演出が気に入らず自分で撮ることに。同時録音ではなくアフレコを多用している。妙にドキュメントっぽい感じが出る。主役が素人だから、そうしたのか。笹野嵩史がちょい役で出ている。スタッフに坂本順治がいる。女房役の永島映子がいつも笑顔で、しかもいつ家庭が壊れるか分からない恐れみたいなものも表現している。これでいくつか助演女優賞を取っている。

 

70  Love Life(T)

深田晃司監督、主演木村文乃。タイトルは矢野顕子の曲から取っている。愛ある生活でも生命を愛するでもなく、愛と生命のほうが近いニュアンスの歌詞である。

いくつか気になる点を挙げる。

 

一応、筋的には夫婦の関係が子どもが浴槽で過って死んだことからおかしくなった、ということだが、どうもこの夫婦は最初から何かがズレていたのでないかと思われる。夫(永山絢斗)は恋人がいたのを捨てて、妻(木村文乃)を選んでいる。その元恋人は今でも職場(役所)が一緒で、妻も併設の生活相談所に、おそらく夫の斡旋で職を得ている。この夫はかなり無神経な奴だと思われる。

 

妻は元夫(聾唖者、韓国人)が近くの公園で寝泊まりしていることを知っていながら、なぜ自分たち親子を捨てたのか、と詰問しないのか。それが知りたくて3年間、苦しんできたというのに、おかしい。

 

夫の父親(田口トモロオ)は、子連れの木村を認めていない。だから、子どもは戸籍には入っていないらしい。和解の場を夫が設けたが、父親は「中古をもらうなんて」と言い出す。中古とは子連れの木村のことだ。このセリフ、ちょっとやりすぎで、現実感がない。

 

元夫は韓国にも捨てた妻子があった。こいつはいったいどういう人間なのか。元妻の木村はかばうばかりで、責めるということがない。それはどうしてなのかが描かれない。

 

聾唖者で韓国人の元夫との手話のほうが、夫との会話より充実している。夫は人の目を見ない。元恋人ともキスを交わす。そのあと、妻が元夫と仲睦まじくしているのを見て嫉妬し、無理矢理妻の唇を奪おうとする。言葉を介在させないタイプである。そのことが理由なのか、元夫が父親の危篤で韓国に戻ると言い出したとき、頼りないから一緒に付いていく、ということに。ただ、このシチュエーションは説得性がない。

 

深田晃司は「さようなら」「淵に立つ」「ほとりの朔子」を見ているが、「よこがお」はどうも見る気になれず、久しぶりに深田作品を見た感じである。なかでは「さようなら」が一番できがいい。遊び心があるのと、早期にフクシマを扱って、きちんと的が合っていた。なにしろ大した動きもままならないアンドロイドが主役である。「朔子」もフクシマを扱っている。本作ほど疑問があったことはない。

それにして「コーダ」がアカデミー賞を取ったり、滝口が聾唖者を登場させたり、いったいが何が起きているのか。コミュニケーションの難しさの象徴ということなら、われわれより格段に会話を濃く交わしていることが、この映画から伝わってくる。

 

71 復讐は私にまかせて(T)

インドネシア映画、アクションの映画と思わせ、監督がやりたいのは不能者と健康すぎる女の純愛である。なんだが途中で筋が分からなくなった。主役の2人、どっちも知り合いにいそうな感じである。監督エドウィン、主役マルティーノ・リオとラディア・シェリル。人殺しのボスの釣りの場面、手下が「ボスが釣るときは、海に人を潜らせておくって本当ですか」と聞く「釣りは楽しむだけ」と答える。ボスが返るので、手下がそれを追う。すると海から黒装束の人間が出てくるので、なんだやっぱり仕込みなのか、と思うと、その黒い人物は魚を手下が持つバケツに入れ、前方にいるボスを殺す。この女はどうやらボスの一味にレイプされた女らしい。

主人公をはじめ運転するトラックの背後に絵が描かれ、その絵が動く遊びをやっている。

アクションはたしかに見ごたえがあるが、セックスに関してあけっぴろげなのが意外といえば意外。インドネシアは世界最大のイスラム国ではなかったか。

 

72 ロンゲストヤード(T)

74年の映画で、主演バート・レイノルズプロフットボール選手で、冒頭は赤いすけすけのネグリジェを着た女との別れ話から始まる。寝室にカメラが寄りながら、女が写った写真を舐めていくところなど、なんだかムードがありそうな映画に見えるが、女がもう一度、と言いながら下半身に手を伸ばすようなエッチなことをやるが、レイノルズは拒否し、女をベッドから落としてしまい、殴ったりもする。彼女のクルマを奪い、警官に追われ、2年ほどの刑期で刑務所に。そこの所長がフットボール好きだが、セミプロまで行ってそこから伸びないので、彼に助力を頼む。ところが、看守長が圧力をかけてイエスと言わせない。あとでその看守長自身、選手の一人と分かるのだが、なぜ彼がレイノルズを止めるのかがよく分からない。レイノルズは父親孝行のために何かズルをして6年ほど競技から遠ざかっているという設定である。

結局、看守チームと戦うことに。七人の侍よろしく腕の立つやつをスカウトし、黒人だけは取り込むことができなかったが、あとで看守を殴れる、特別料理が味わえる、というので黒人も参加に。彼らが勝ちそうになり、所長が、おまえは看守長に手荒なことをしたから刑期を延ばす、と脅し、レイノルズは手を抜き点差が離れるが、やはりプロだったロートルが奮起し、粉砕されたことでやる気を戻し、看守チームを最後1点差で勝ち抜く。

バート・レイノルズがすごくマーロン・ブランドに似ている。とくに皮肉な笑い方をしたときなど、そっくりである。アルドリッチ監督は、71年に「傷だらけの挽歌」を撮っている。わが愛するキム・ダービー主演である。彼の中では異色な映画に入るのはないだろうか。

 

73 ホットスポット(D)

いい映画である。1990年の制作である。デニス・ホッパーがここまでの映画を撮る監督とは知らなかった。淫蕩だが芯のある女と、なにを考えているわけでもない純真な若い女と、36歳の企み多き暴力男の絡みが、ねっちりと描かれている。
ある田舎町に現れたストレンジャー/ハリー・マドックス(ドン・ジョンソン)が銀行強盗を企む。そこに彼が職を得たカーショップの経営者の妻ドリー(バージニア・マドソン)とそこの事務店員である若い女グロリア(ジェニファー・コネリー)が絡んでくる。グロリアは19歳で、レズであったことをバラすとサットンという男にゆすられて、会社の金を使い込んでいる。ドリーはマドックスに惚れ込み、夫を殺してまでも、手に入れようとする。そこで彼女が使ったのが、マドックスの銀行強盗無罪の証言の撤回と、グロリアへの返済要求である。マドックスはドリーとの腐れ縁の中へと戻っていく。自分の欲しいものは絶対に手に入れるというドリーとマドックスは似た者同士である。マドックスはでは何を手に入れたのか。

74  絆(S)

根岸吉太郎監督、荒井晴彦脚本、主演役所広司(テッちゃん)、客演渡辺謙。まちで女が声をかけたのが、いまはヤクザから身を退いて実業をやっている(実態は違うが)テッちゃん。女が一緒にいたのがトップ屋、テツと女の関係を探りはじめて、テツの妹が売り出し中のバイオリニストで、資産家と結婚が決まっていることを知り、ゆすり始める。そこから糸が次第にほぐれていくのだが、テツも呼び掛けた女も、その女に惚れる居酒屋の亭主も、そしてテツをかばう組の者もみなある孤児院の仲間。テツは孤児院のときに居酒屋の亭主となった男を救っている。亭主はテツを守るために、そのブンヤを殺す。テツをかばう男が失踪したというので家に行くと、天井から床までの窓の向こうに光が見える。まるで焼津の海のようだ、と言う。そのシーンがすごく美しい。テツをかばう男も敵の組に殺され、テツはその親分を殺すことで、すべてを清算する(理屈がよく分からないが)。

主題歌が南米のどこかかの歌らしいが、テイストが合っていない。刑事役の渡辺謙がいい。きちんと撮られた映画だが、演歌的な撮り方が気になる。

 

75 ミッション・ワイルド(S)

トミー・リー・ジョンズ監督・主演、プロデュースの一人でもある。客演ヒラリー・スワンク。2014年の作。ジョンズには監督作は数編あるようだ。スワンクが31歳の敬虔かつ経済的にも自立している女性を演じる。ただし未婚。信心深さから3人の狂女をつれて東部のメソジスト系の教会に届ける。死刑で木の枝から首輪をかけられ、馬に乗せられているジョンズを助けて道連れに。狂女たちはそれぞれ家庭で性的にひどい目に遭って狂った。
スワンクが近所の男、いつも仕事を一緒にしたり、食事を振る舞ったりする男に、結婚してくれ、家産もある、と頼むが、男は結婚を断り、東部に嫁さんを探しに行く、と言う。「あんたは威張り過ぎる、平凡な女だから」と言って出ていく。「威張り過ぎる」はその男の劣等感がいわせた言葉である。そのあとの魂をなくしたような、あるいは戸惑いを内に取りまとめたようなスワンクの表情がいい。途中、相当に齢の離れたジョンズにも結婚を申し込むが、断られる。平凡だから? と聞くが、ジョンズは答えない。家産があるし、金も銀行にあり、将来やることもある、と言うと、ジョンズはかつて結婚し農夫になろうとしたが、すぐに捨てたぐらいだから、ダメだと言う。そのときのスワンクの表情がまたいい。平凡? 彼女は余りにも自活する、独り立ちの女性で、なおかつニューヨークで生まれ、いまは西部の片田舎にいるが、布に描いた線の鍵盤を弾きながら歌をうたう知的な女性である。そして極めて敬虔である。しかし残念ながら、性的な魅力がない。いずれにしろ、野卑な男たちには荷が勝ちすぎるのだ。翌朝、寝床にスワンクガいない。探すと、首をくくって死んでいた。セクスと何か関係があるのか。宗教的な何かか。
そこからはジョンズと3人の狂女の旅が始まる。ジョンは彼らを置いて逃げようとするが、一人の狂女が追ってきて、川で流されそうになり、他の2人がジョンズを手伝って救うのである。、3人の狂女ともうまくいきながら、途中で3日間物を食べず、必死で泊めてくれと頼んだホテルで軽くあしらわれ、ジョンは夜にそこに戻り、火をつけ、野中の一軒屋の真新しいホテルがごうごうと燃え盛る。その最中に豚の丸焼きを盗んで、狂女たちと一緒に食べる。そして、やっと目的地へとたどり着く。メリル・ストリープ演じるメソジスト系の牧師の妻に狂女たちを預けて、ジョンは東部へと戻ろうと川を渡るところで、終わる。その渡し船のうえで、スワンクにも見せた奇妙な踊りをおどる。スワンクのために作った木製の墓標がその船から川へと落ちる。供養の意味だろう。
とても好ましい映画だが、ジョンズは自分が監督なのだから、もっと抑制的に撮るべきだったのでは。東部の町で泊まったホテルの19歳の女性(ヘイリー・スタインフェルド)は、トランスホーム系のロボットものの映画で見ている。彼女にスワンクの話をし、とても素晴らしい女性だった、とジョンズは言う。

 

76 ディア・ファミリー(S)

主演ヒラリー・スワンク、母親(ブライス・ダナー)が認知症になり、すべてを仕切っていた父親(ロバート・フォスター)が施設に入れることを拒んだことで、弟(マイケル・シャノン)、娘、そして夫の関係を見直す契機となる。じっくりと、ていねいに、家族の確執を描きながら、人を愛するとはどういうことか静かに開示する映画になっている。監督エリザベス・チョムコ、脚本同。母親を演じたダナーが心臓病で急死した夫とのことを「ちょうどいいタイミングだった。遅ければ彼のことを気づけなかったし、早ければ深く愛しすぎた」と言う。父親の希望に従ってエリート男と結婚し、この騒ぎで絆の固い両親の姿を見て離婚を決意した娘は、いかにも納得した顔で母を見つめるところで、この映画が終わる。是枝を含めて家族の映画が続々と作られているが、それぞれが自分の思いをぶつけあうこのような映画は日本では一切作られない。では、家族が生み出した葛藤はどうやって日本では解消あるいは止揚されているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年後半の映画

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まちの記憶


69  Peantus Butter  Falcon
(S)

ダウン症の22歳の青年ザック(本人がダウン症。本名、ずっと役者志望だったらしい)が療養所(一緒の部屋なのがブルース・ダーン。なぜか老人たちばかりの中にザックがいる)から抜け出し、憧れのプロレスラーになろうとする話。それを手助けしてくれるのが、うだつの上がらない青年漁師(シャイア・ブルーフ)で、ひとの籠からカニなどを盗んだことがばれて、追われる身に。彼はまったくダウン症のことを気にかけないし、イーブンな付き合いをする。バプティスト派の黒人の盲人に出くわしたあと(ザックは川で洗礼を受ける)、青年はなぜか気落ちがする。その肩を抱いてザックが慰める。兄を自分が運転する車の居眠り事故で亡くしたことが尾を引きずっている。この映画17館でスタートし、公開6週目には1500館近くまで増えた。二人のたき火・ウイスキーがぶ飲みパーティで、彼のリング名が決まった。顔にピーナッツバターを塗った鷹(ファルコン)の英雄である。こういう映画を求めるアメリカもあるのだ。すごくできがいい。

 

70 イン・ザ・ハイツ(T)

プエルトリコ満載のミュージカル映画(メキシコなども出てくるが)。ラップで始まり、ささっとワシントンハイツに住む人たちをスケッチしていくところは、おっと思わせる。スタンフォードに進んだが差別から故郷に舞い戻り、期待する父親や周囲の人々の視線がつらいという妹、なんだか古臭い設定で、かつて黒人の映画でこういうのがあったな、と思う。

兄は台風でやられたプエルトリコの家を、故郷に戻って再建しようと考えている。その一部始終を海の家ふうの小屋で小さな子を前に兄が語るが、最後にちょっとしたサプライズが。

プールを上空から写し、中心に一人いて、その周りに多数の人が配され、動作に合わせてパタパタと花びら模様ができる――かつてのハリウッドミュージカルへのオマージュである。

そしてもう一つのオマージュ。妹とその恋人がハイツのバルコニーいる。恋人がバルコニーに腰かける。それが危なっかしいのである(こういう細かいところが伏線になる)。妹も同じことをやる。やがて二人は踊り出すが垂直の壁の上で踊るのである。そう、アステアの壁ダンス、天井ダンスの再現である。

みんなでプールに向かうシーン。歌いながら手で三角を作ると、そこに白い三角ができ、さっと投げるアクションをすると、それが飛んでいく。特殊効果の面白い使い方で、これは流行るのではないだろうか。

踊り手はヒップが張った、胸の大きい女性ばかり。それが踊る、踊る。ストリートでギターで南米風のコーラスが聴こえるところは、なんだかほっとする。お婆さんがひとりニューヨークへ着いたときの様子を歌うシーンはしみじみしている。結局、みんなから愛されたお婆さんは、ある奇跡のプレゼントを遺して死んでいく。

一か所、兄はせっかく愛しているファッションデザイナー志望の女性とダンスに行ったのに、一緒に踊らず、そのうち停電になってしまい、関係がぎくしゃくする。決してダンスが下手なわけでもない。あとの話に綾をつけるための細工としか思えない。

 

72 写真家ソウル・ライター(S)

ほぼ室内での彼の独言に終始する。ソームズという女性と夫婦のごとく住んでいたらしいが、2005年に彼女は死んでいて、写真家は自分が殺したのだという。町のスケッチ、それも雨や雪が多い。人物はデザイン的に写され、絵画のようでもあるが、スタイリッシュな感じもある。よくいわれるように赤が印象的。壁にいい感じの水彩画がかかっているが、彼の作品なのかどうか知りたいところである。たしかドイツで彼の初めての作品集が出版され、それがベストセラーになったのではなかったか。それもかなりの年齢になってからのことだ。彼の独り言はとりたてて何かということはない。

 

73 ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき(T)

生まれたときの性別に強い違和感を抱き、胸を取り、子宮、卵巣も取り、男子としての戸籍を得るが、結局はどちらの性でもないことに気付き、ペニスをつくることはしないでいる24歳のひとのドキュメントである。性的な対象を求めることもないらしい。それにしても、戸籍上の性別って何のために、あるいは何のために必要とされるものなのか。主人公は声優を目指すためにも、性別転換をしてマイナスをゼロに戻してからだ、と考え、そのように行動するが、いざ声優の世界に入ろうとすると性別の壁があり、夢を諦めたという。どこかの声優プロダクションのホームページだろうか、女性タレント、男性タレントの区別がされている。これは当たり前の話で、彼はそこを突破するためにいろいろな試みをしてきたのではなかったのか。声優で女性が男性の声をやることはいくらでもある。かえってユニセックスのほうが仕事がら合っているのではないのか。そこの情報が欲しかった。いまはアクセサリーの細工をしながら、ネットで声優、あるいは俳優ができないか考えているという。

 

74 探偵なふたり(S)

連続殺人の謎が最後に明かされる。刑事と素人探偵(本業貸しゲーム屋)が次第に心を合わせて捜査するようになり、最後は2人で事務所を開くことに。途中、ゆるいところもあるが、ラスト15分くらいはOK。ひさしぶりに残酷とユーモアのミックスした韓国映画らしさを味わうことができた。あまり美人が出てこないのも、以前の韓国映画らしくてOK。

 

75  キネマの神様(T)

山田洋次の映画を見る気がしないのはなぜか。学校、家族、故郷、おとうと……もうタイトルで見る気が失せる。というか、見る前から何が起きるか分かる気がするのだ。黒澤明の初期作品もそうだ。「生きる」は50歳を超えてから見た。葬式のシーンの猥雑な感じが面白かっただけで、テーマ自体が白々しい。名作かもしれないが、ぼくには興味がない。黒澤では「どん底」がいい、そして「七人の侍」。

この山田映画、なかなかに面白かった。まえに撮った「キネマの天地」が自己陶酔ふんぷんだったが、今回はその臭さが抜けた分だけ見ていられた。しかし、主演の沢田研二は最後までしっくりこない。台本どおりなのだろうが、まるで身が入っていない。甥っ子がシナリオをパソコンに打ち込んだのを感心して眺めるシーンがあるが、ただその振りをしているだけ。それに本当にアル中の手前か? ギャンブル好きか? どうもその匂いがしてこない。最初に出てくるサラ金屋があとは一切出てこないのはなぜか。

よしこという妻を宮本信子がやるが、その若いころを演じる永野芽郁にそのまま老け顔にしてやらせたほうがよかったのではないか。永野は「仮面病棟」という映画の予告編で、下手な人だなと思ったのだが、今回は好感。

沢田が助監督のときに書いた「キネマの神様」という脚本、映画通のラッシュ係寺新(寺林新太郎、野田洋次郎が演じる。年取ってからは小林稔侍)がべた褒めするが、後年、沢田が78歳で同作で賞を獲ったときに、みんなが褒める場面はバスターキートンからのいただきだ、と言う。では、映画通の寺新、そしてその当時のスター桂園子(北山景子)、その脚本で映画を撮ろうとした映画人たちはそのパクリについて何も言わないのはおかしい。パクリなど当たり前の世界だけど、誰かが「キートンだね、それ」ぐらいのことは言わないと。

木戸賞という脚本賞を獲ったというが、むかしクランクインまでしたホンを受賞対象にしていいものなのか。それなら、むかしのホンを今風に書き直せばいい、ということになってしまわないか。

100万円の賞金のうち、30万は使ったから残り70万を寺新が経営する映画館に、コロナ禍の危機があるので寄付するが、自分たちが大騒ぎしたサラ金の話はどこへ行ってしまったのか。娘の寺島しのぶは派遣なのか契約を切られて無職、どうやって生きていくのかと悩み、麻雀、競馬で何百万だかの借金をこさえた父親と離縁しようとまで考えていたのに、「借金なんて、明日は明日の風が吹く」で終わってしまうご都合主義。

せっかく息子(沢田からいえば孫)にシナリオの才能がありそうと分かったのだから、爺さんはそこで何かをする必要があるのではないか。ただ、浮かれて酒を飲んでないで。

冒頭、ラグビーのTV放送をみんなで見ている映像で始まり、「ラグビーに熱を上げたあの頃、まさか東京オリンピックと?(何だったか忘れた)が中止になるとは思わなかった」とナレーションが入るが、最初、いつの時代の話をしているのか分からなかった。どうも2019年のことらしい。翌年コロナが、みたいなことを言っているからである。なんでそんな始まり方をするのか。そんなにラグビー騒ぎは日本人の共通記憶になっているのか。それにオリンピックが中止というのは、いくらでも直しが利いたのではないか。不誠実といわざるをえない。

といくつか不満があるが、それでも全篇、見ていることができた。山田映画にしては珍しいことである。それにしても映画の中だけで生きてきた人たちを扱っても、一般観客の気を引くのは難しいだろう。Netflixの「マンク」も映画のなかだけに生きている人たちの話だが、それでもそこには権力と思想?の相克みたいなことは描かれている。山田の世界にはまったく外の風が吹いていない。

 

76 聖女 Mad Sister(s)

姉は格闘家(ということになっているが、何の格闘家は判然としない)、妹は知的障害がある。妹が市井の悪党どもにおもちゃにされ、最後はある議員のもとに。その議員は前にも妹に手を出したことのある、ワルからの出世組で、姉に現場をつかまえられ、目を刺されている(姉は半年服役)。今回はその復讐で、姉をおびき出すのに妹は使われた。

 

半年服役の裁判のときに、なぜ議員の悪が明かされなかったのか。いい加減な設定だらけだが、格闘シーンは見ていられる。ただし、ラストの議員を殴りつけるときの腕の角度がまったく違う。議員の手下で妹を拉致するが結局助ける男は、連続TVドラマ「秘密の森」で見ているイ・ジュニョク。議員に腹を刺された姉が車を運転し、眠りこける妹。そこで映画は終わるが、いい加減さは徹底している。

 

77 青春残酷物語(D)

大島渚脚本・監督、助監督に石堂淑朗、音楽真鍋理一郎。最初にプロデューサーの池田富雄と2本並びで撮影川又昂がどんと出てくる。大島のリスペクトのあり方かもしれない。脚本・監督という順番もハリウッドに倣っている。調子の高い曲で始まり、笛が高鳴りで入っている。

冒頭、桑野みゆき(真琴でマコ)が赤い車の男に話しかける。巣鴨に行くというから、方向が違うと断る。友達の陽子がこっちいいわよと声がして、そっちのクルマは緑色。ほかにそういう演出があるのは、桑野が姉久我美子と一緒に学校から出てきて雨、久我の傘が黒に近い灰色、桑野の傘が赤で俯瞰に撮っているところ。あとは映像的な凝り方はしていない。

中年男のクルマに乗り、男はホテルに連れていこうとする。そこに川津祐介(藤井清)が通りかかり、2人は付き合うことに。ボートでデートするが、木材が浮かんだ木場のようなところ。桑野を水に落とし、彼女がバチャバチャ右下に向けて斜めに進行する。それと並行に斜めの丸木の上を清が歩きながら、途切れ途切れの会話をする。面白い映像である。木材の上で2人は抱き合う。

2人は、クルマを運転する中年男から金を巻き上げるのを常習とするようになる。警察につかまるが、清がまえから付き合っていた夫人(家庭教師先の奥さん)の夫が、告発した中年男(二本柳寛)と会社的なつながりがある、ということで釈放に。中年男として山茶花究森川信が出てくる。

最後、まえから関係していたヤクザ(佐藤慶)に清は殺される。それを第六感で察知したマコは、中年男のクルマから飛び降りて死ぬ。最後は、その2人の仰向けの死のショットで終わる。清は、もうマコをものとして扱いたくない、つまり中年男カツアゲは止めよう、と別れ話をしたあとに、殺された。清はいくら抵抗しても、社会に潰されるみたいなことを言うが、彼は何も生産的なことはしていない。何が抵抗か。

マコの姉の久我美子はことあるごとにマコを叱責するが、自分は学生運動に挫折し、やはり中年男と付き合っている。マコに刺激を受けたのか、まえの恋人秋本(渡辺文雄)に会いに行く。かつて彼が医者カバンを持ち、姉は紙芝居をもって地方を回った式のことを言う。秋本は闇医者で、妊娠したマコの子を堕ろしたことが分かり、姉はまた秋本のもとを去る。ここでもいくら抵抗しても社会は強い式の生硬な言葉が秋本から吐かれる。政治の言葉となると、必ずとって付けたようなセリフばかりである。

 

78 潜入(T)

ハン・ジョンミンはしばらく映画に出なかったというが、本当だろうか。毎年、2ほんずつぐらいコンスタントに出ている。この映画は2006年の映画で、ちょっと感じがふっくらしている。彼のよさを出そうとしているが、どうも生煮えの感じ。潜入と名付けられているが、その感じがまったくしてこない。内通者の売人をやったのがリュ・スンボムで、何かで悪党役で見ている。

 

79  浜の朝日の嘘つきどもと(T)

タナダユキ監督、「百万円と苦虫女」を撮っているがぼくは見ていない。高畑充希の映画も初めてである。自然な演技をつくっているのではなく、あくまで自然に見える。学校の教師大久保佳代子がめっけもの。表情がないのが幸いしている。柳家喬太郎もまえに比べれば落ち着いてきた感がある。郡山弁ではなく東京弁をしゃべっているのはどうしてなのか。ほんのたまにそれっぽくするときもあるが。統一せよ、である。

その教師がガンで入院し、見舞ったときの2人の会話、というか高畑の間がおかしい。アドリブに見えるのである。大久保は決まったセリフを喋っているのだが、高畑がふつうにズラしているのである。
そして、教師が死ぬ間際に「(セックスを)やっておきゃよかった」と言った言葉に、ややあってその意味に気づいたというふうに、「それおかしいじゃん」と死体に言うシーンも何だかアドリブに見える。ここの場面がすごく面白い。ほぼラスト近くの臭いセリフも、変な間があり、セリフを忘れたか、と思うが、どうも演技の一部らしい。

タイトルの「嘘つきどもと」はちょっと分かりにくい。だれがウソをついているのか。可憐な高校生だった高畑がなぜ「うるせぇんだよ糞じじい」などと言うような女性になってしまったのかは説明はされない。自殺まで考えた高校生が東京の大学を出て、映画の配給会社に入ったということなのだが、その経緯が一切省かれる。大久保が本来やりたかったのは、その映画配給の仕事。しかも、高畑が潰れそうな映画館を救うのも、先生の遺言みたいなもの。
古い映画館にノスタルジーを感じるのは分からないでもないが、地方に行くと、胡散臭い路地の奥にひっそりと死にそうになった映画館がたくさんあった。どこもバタバタと潰れていった。あれは40年ぐらい前だっただろうか。1971年に撮られた名作「ラストショー」は50年代のテキサスが舞台で、すでに映画館が閉じている。この朝日館のように、とんでもない組み合わせの2本立てをやっているようなところは、潰れて当然という気がするが。

 

80 先生、私の隣に座っていただけませんか(T)

脚本・監督堀江貴大、主演黒木華(漫画家)、柄本佑(夫、漫画家)、客演風吹ジュン(母)、金子大地(教習所の先生)、奈緒(担当編集者、夫の不倫相手)。意地悪な、観客の心理を弄ぶような映画は趣味ではない。現実の不倫とマンガの進行を重ねるのが目的の映画で、谷崎『瘋癲老人日記』の世界である。ラスト近く、漫画と実写の別バージョンを3回(?)見せる箇所があるが、それがやりたくて作った映画であろう。

夫の性格を明るく、軽くしたことは救いだが、こんな奴を恨み切るのは時間の無駄ではないか。担当編集者も同じく明るく、図太くしたことで劇は進行したが、さて自分たちの不倫を題材に書き下ろしをされて「いい原稿です、連載いけます」という編集者などいるだろうか。ラスト、すべてお見通しという母親像はミスであろう。それと、いまどきケント紙にペンで絵を描いている漫画家などいるのだろうか。妻がこれだけ企み多く、演技もうまく、間夫にも展開を言い含めていたら、ふつう夫は完敗であろう。

 

81 ゲッタウェイ(D)

これで3度目だろうか。監督サム・ペキンパー、脚本ウォーター・ヒル。どの場面もくっきりと記憶に残っているが、2カ所だけ、あれ、そうだったっけ? というのがあった。冒頭のシーン、刑務所の外で働く囚人たちを俯瞰で撮って、左にカメラが寄ったときにカタカタカタというせわしない音がする。向こうからトロッコでもやってくるのかなと思うと、何も来ない。獄内のシーンとなって、それが繊維を織る機械の立てる音だと分かる。それがオープニングロールの間、ずっと鳴り続けている。マックイーンが機械に近づくまでのショットの切り返しが細かい。マッグローとの会話の場面でも、この頻繁な切り返しが行われる。

もう1つが、悪党ベニヨンの子分どもがエル・パソに向かうシーン。一台の車に6人が乗っている。これは何かのジョークなのだろうが、よく分からない。おふざけであることは確かなのだが。


基本は「俺たちに明日はない」である。そこに仲間割れのメキシコ人が、獣医の妻を奪ってマックイーン、マッグローを追う筋が入るが、それがやはり「俺たち~」のジーンハックマンとその妻を模している。ハックマンの妻は、軽薄だがお高くとまっているという人物像で、本来であればやくざ稼業の人間と付き合うのは不自然なタイプであるが、フェイ・ダナウェイへの対抗心もあって、次第にその世界になじんでいってしまう(それが何とも悲しいのだが)。獣医の妻は最初から犯罪者に色目を使うタイプではあるが、堅気であることは何回か表現される。ホテルでの殺し合いで叫び声を上げ続けるところなど、そっくりである。ちなみにその惨劇のホテルの管理人は、「俺たち~」の頭の弱い青年マイケルJポラードの父親役をやったダブ・テイラーである。

マッグローのおかげでムショを出て、彼女の部屋(?)に戻るマックイーン。彼女はシャワーを浴び、背中を見せてベッドに腰かける半裸の彼の隣に座る。やがてワイシャツを脱ぎ、意外と筋肉質で、幅広の背中を見せる。そのあいだ、セリフはごく少なく、じっと2人を撮っている。ペキンパーのしたたかさを見る思いである。

 

82 アイダよ、何処へ行く(T)

ユーゴから独立したボスニア・ヘルチェゴビナ。しかし、それには混在するボシュニュアク人(ムスリム)、クロアチア人、セルビア人のうち、セルビアの同意が欠けていた。そこで、セルビアによる内戦が起きた。この映画は、西部で優勢だったセルビアが東部にいるボシュニュアクとクロアチア人に攻勢をかけ、占領した時期を描いている。ぼくは2011年に「サラエボ、記念の街」というのを見ている。これはセルビア占領後のサラエボを描いている。大人しく日常生活を送っているかに見えた夫に、ちょっとしたことで反乱軍(といっていいのか……)への傾斜が起こるというものだ。ラストに市電が通る朝まだきのきれいな街並みが写されていたのは、あの映画ではなかったろうか(違う可能性もある)。「ノーマンズランド」(2002)というのもあったが、苛酷な状況なのにユーモアをまじえて撮っていた記憶がある。

 

アイダは元小学校の教師で、いまは国連のために通訳を担っている。夫、成人した2人の息子に何かと便宜を与えようとするが、国連幹部は特例は許されないという立場だ。セルビア側の将軍の、2万に及ぶ人々の移送提案を国連は受け入れる。しかし、その計画を立てるまえにセルビア軍が乗り込んできて、男女別のバスによる移送を行いはじめる。セルビア人を殺した男あるいはムスリムの男は、移送などでっち上げで、まとめて建物内で虐殺される。アイダはそれを予感し、家族の引き留めを画策するが聞き入れてもらえず、家族を失ってしまう。国連幹部にはその虐殺の話も入っているが、なすすべがない。

最後、アイダはむかしの住まいに行き、そこの新住人から小さなバッグを貰い(写真などの思い出の品)、職場に戻るが、担任する子供たちの発表会を見る父兄のなかに、その虐殺を主導した男がいる。映画はそこで終わる。監督ヤスミラ・ジュバニッチ、まえに「サラエボの花」というのを撮っている。ぼくは見ていない。

 

83 ビリーブ――未来への逆転(S)

最高裁の2人目の女性判事ルース・ギンズバーグを扱った映画である(まえにドキュメントも来た)。ハーバード大を首席で出たが弁護士事務所はどこも雇ってくれない。それで大学教師になるが、男性で母親の介護をするも、女性と違って税の控除がないことに異議を唱え裁判を起こした人の弁護を引き受ける。性差別に関わる200を超える法律が引っかかってくるということで、男性陣の司法界はタッグを組んで勝訴しようとする。女性保護のための法律だ、という理屈だが、ギンズバーグはそれは女性を家庭に閉じ込めておくためのものだ、と申し立てる。しかし、最初の弁論までは自信なげで(そういう演出にしたのだろう)、「では、戦争の前線にも女性は立つのか」と言われ、反論できない。

残り5分で何か補足があれば、と言われてからは、見違えるような弁論を展開する。補足時間も延長に。「国を変えろとはいわない、なぜなら国は勝手に変わっていくからだ。しかし、国が変わる権利を守ってほしい」と訴える。全員一致で前判決がひっくり返され、初めて問われた性差別をめぐる裁判はギンズバーグと夫の勝利となった。ギンズバーグを「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズ、夫マーティンをアーミー・ハーマー(ぼくは初見、いかにもアメリカ的なタイプだが、この映画ではグッド)、監督ミミ・レダー、脚本ダニエル・スティープルマン、原題はon the basis of the sex。こういう映画に中国資本が入っているのは、皮肉としか言いようがない。いずれ共産党は規制をかけてくるのではないか。あくまでジョークだが。

日本でははこういう映画ができない。生活の場から憲法やそれを基につくられる法律を見る視点が欠けているからではないか。司法自体も政治問題、安保などに臆病で関わろうとしない。先頃、過労死法案をつくるきっかけとなった女性が新聞に出ていたが、夫を過労死でなくし、失意のあとに立ち上がり、与党、野党含め100人を超える国会議員を説き伏せて法案化に進んだ。こういう人たちをプロデュースする人がいないのではないか。

 

84 琵琶法師 山鹿良之(T)

古い映像で、いつの時代のことかと思ったら、2004年の作品だった。それにしても、古臭い。ロマンポルノ時代のフィルムを見ているみたいだ。40本の演目をもち、それらをすべて語ると200時間を超えるらしい。本編は小栗判官を扱った話を中心に展開している(ほかに俊徳丸とか山椒大夫などがあると、上映後の監督とノンフィクション作家大島幹雄さんとの対談で言っていた)。最初が山鹿市の八千代座という小屋の映像らしいが、黒い背景に法師が坐って弾いているだけなので、小屋の様子が分からない。こういうのは全体が分かる絵を撮ってほしい。

歌自体、ぼくにはどうも上手いとは思えない。ふだんは近場を回るだけだが、浅草木馬座に出たときは、岡本文弥(浄瑠璃)、忌野清志郎、パンタ(頭脳警察)などが聞きにきていたというが、彼らの感想を聞きたかったものだ。

山鹿氏は坊さんでもあり、毎日、燈明を上げて祈りを捧げている。檀家を回っているのかは分からない。竈払い(かまどを清める。この映像は、やらせだと監督が言っていた)は琵琶法師の役目だったらしく、近所に頼んでその儀式をやらせてもらい、映像に撮っている。むかしは竈の上に神棚を作り、そこから白い半紙を垂らしていた。火の神の加護あらんことを祈った。

 

85 トムボーイ(T)

フランスの映画、小学校5年になる女子が転居した地で男子としてふるまい、やがて素性が明らかになる話。立ちションができない、泳ぎに行くのに粘土で男性器らしきものを作ってパンツのなかに隠したり、いろいろと大変。小さな妹が立派に演技している。「ライフ・アズ・ア・ドッグ」という佳作があったが、あれではさらしを巻いて胸の膨らみを隠していた。

 

86  レミニセンス(T)

温暖化で都市が水浸しになった世界で、記憶再生業を営む男が運命の女に出会い、最後はその記憶だけに生きていこうとする。ヒュー・ジャックマン、助手役ダンディ・ニュートン(彼女を見た映画を思い出せない。ややお年を召された)、そしてファムファタールレベッカ・ファーガソンダニエル・クレイグの007に出ている。水浸しがあまりストーリーと絡んでこない。海の上を電車が走る宮崎駿的な映像が出てくる。

 

87 恋するシェフの最強レシピ(S)

金城武主演、これで2度目である。見ていて、じつに楽しい。これをきっかけに彼の出演作を何作か見たぐらいだ。インスタントラーメン「出前一丁」の食べ方がすごい。2分茹でて、お湯を捨てる。そこにスープの素を入れ掻き回す。よく混ざったら、熱湯を注いで1分待ち、即座に食べ始める。「出前一丁」を箱ごと買おうと思ったが、ホームページを見ても見当たらない。

 

88 奇跡の絆(S)

レネ・ツウィルガー(デビー、妻)とグレッグ・キニア(ロン、夫)が夫婦。最初、レネと気づかず、声であれっ?と思い、調べると彼女だった。もう昔の面影がまったくない。
まず妻が貧民ボランティアを始め、夫がそれに付いて行く。離婚騒ぎを克服できたのは、そのおかげである。妻の夢に出てきた黒人男性がそのチャリティ施設にいた。殺人を犯した男だが、とても思慮深い、夫婦はその男デンバー(ジャイモン・フンスー)とウソ偽りのない交わりをしていく。デンバーもまた過去の差別体験や犯罪の話をし、心をほどいていく。
しかし、デビーは末期がんに侵され、死んでいく。告別の辞をデンバーが唱える。「富める者も、貧しき者も、その中間の者もすべてホームレスである。やっとデビーはわが家に戻ることができた」。参列者、もちろん多数の白人が立ちあがり、拍手を送る。
黒人ホームレスに肩入れする2人に対する反感はあまり描かれない。ロンの父親(ジョン・ボイト)とテニス仲間の一人だけが露骨な差別をする。それはある意味、この映画が成功した理由かもしれない。

主役を演じた2人には因縁があって、レネの初期作に「ベティ・サイズモア」がある。夫の虐殺されるところ盗み見て精神的におかしくなった妻が、いつもダイナーのウェイトレスをやりながらテレビで見ていた医者をめぐる恋愛ドラマの世界に入り込んでしまい、彼のいるテレビ局に押しかけてしまう。その妻役がレネであり、医者役をグレッグ・キニアがやっていた。夫を殺すモーガン・フリーマンとその甥っこ(?)のギャングコンビは抜群に良かった。本作のプロデューサーがその面白さを狙ったのは確かである。

いまはなき渋谷ブックファーストエスカレーターで2階に上がるとき、ふと右横にあったポスターに目が行った。とてもきれいな女性がそこにいた。1階に戻り、またエスカレーターに乗って、その映画名を記憶した。ベティ・サイズモア。ぼくはレネのファンとなった。高校生のときにキム・ダービィにいかれて以来のことである。キムの映画はほとんどやってこなかったが、来たかぎりでは映画館に見に行った。「傷だらけの挽歌」が忘れられない。

 

90 由宇子の天秤(T)

この映画、都内では渋谷ユーロスペース一カ所でしかやっていない。仕方なく浦和美園イオンという初めての映画館に行った。席はコロナ禍の条件下であるが、完売。きっと朝日新聞の映画評が利いたのだろうと思う。絶賛に近い。ぼくは「火口のふたり」で主演の瀧内公美を見ていたので、この映画も見るつもりでいた。前日に予約しようとして、一番前の数席しか空いていないことに驚いた。おそらくこれから上映館が増えていくのではないかと思われるが、上映者はどういう目利きで映画を選んでいるのか。ヒューマントラスト系でやってもおかしくないし、日比谷シャンテ、武蔵野館、池袋ロサあたりでもいいのではないか。ぼくは映画館での上映がどういう理屈で動いているか分からないが、邦画で、長時間で、題材が地味だということが影響しているのかどうか。それにしても、都内上映1館は、すごく退嬰的な感じがする。

教師と女子高生の交際が疑われ、両方が自殺。その事件の真相を追う独立のドキュメント制作会社のディレクター由宇子(瀧内公美)。対立する学校と生徒側という構図に持ち込みたいテレビ局に対して、由宇子は取材を重ねるなかで、教師そしてその遺された家族もまた被害者であるという視点を盛り込んでいこうとする。

それと同時に、ごく小さな高校生20人ほどを教える学習塾を経営する父親(光石研)が、その塾生の一人と性交渉をもち、それが妊娠と分かる。由宇子は何かれとその子(萌=河合優美)の世話を見るが、それは事が露見して自分のドキュメントが放映できなくなる可能性を考えるからである。父親が萌の父親に真相を話しに行くと言っても取り合わない。多くの関連する人間が巻き添えになる、と由宇子はいう。知り合いの医者に闇検査を頼むと、子宮外妊娠の手術が必要だといわれる。薬での堕胎で裏処理するつもりができなくなった。由宇子が隠してきたことが表に出る可能性がある。しかし、由宇子は2週間後の放映まで、その危ない状態に萌を放置する選択をし、父親も説き伏せる。

父親が人命がかかっていると言うと、由宇子は「こっちは死者を生かすのだ」と言い返す。由宇子の倫理の天秤が狂ってしまっている。彼女は自殺した教師の妻と子、その母親、そして自殺した女子高生の父親にも、非常にていねいな取材の仕方をする。彼らは頑なな心をやがて開いていき、由宇子を受け入れるようになる。その彼女が自分のこととなると、何の躊躇もなく保身に走る。父親に、そして自分の上司にスマホのレンズを向けて、その不正の言葉を記録しようとする由宇子。その行為は一種の病気といっていいかもしれないが、レンズを自分に向けることはない。

かなり後半になって、意外な事実が分かってくる。萌のアパートから男子生徒が出てくるのを目撃し、問いただすと、萌はウリをやっていたし、塾に通う男子とも性関係があった、あいつはうそつきだから気を付けろ、と由宇子はいわれる。次の検査に向かう途中でそのことを萌にいうと、萌はクルマから降り逃げて行ってしまう。あとの連絡で、道路に身を投げ、クルマに引かれて入院したことが分かる。そこで萌の父親にも、彼女の妊娠したことが知られる。父親は萌が売春をやっていたことを知っていたので、その誰かの子と思ったらしい。

その検査日、じつは途中で連絡が入り、自殺した教師の妻が取材された部分をカットしてほしいと言っている、と電話が入り、局の駐車場に萌を置いて、その処理に由宇子は向かう。妻から夫のスマホの映像記録を見せられ、さらに遺書の偽造まで言い出される。由宇子はこの企画自体の土台が崩れたと感じる。しかし、テレビ局の担当幹部(?)と話をした上司は、妻の証言部分をカットし、自殺した教師を含めた学校側と自殺した女子高生という対立構図で編集しろ、と由宇子に言う。由宇子はそれは違う、と言って飛び出し、萌と検査に向かう。


結局、由宇子は萌の父親に「萌の妊娠は私の父親のせいです」と告げる。父親は歩道で宣伝ティッシュを配る仕事をしているが、健康保険もガス代も払えない状況にある。娘ともうまくいっていないが、由宇子が出入りするようになり、3人で食事をするようにもなり、父子の関係はよくなっていく。父親は梅田誠弘という役者が演じているが、人のよさそうな、いかにもという感じで演じている。由宇子の告白を聞いた彼は由宇子の首を絞め、彼女は意識を失う。カメラはじっと動かない由宇子の足先だけ写すが、水を飲んだ遭難者が生き返るように息をゲホッと吐き出す音がして、足先が動く。かなり長いあいだそれをカメラは映し出すが、首を絞められ、生き返る人間にはそれだけの実際の時間が必要だということなのだろうか。珍しい映像である。その傍らに落ちていた由宇子のスマホには上司からの「企画が流れた」のメッセージが入っていた。それを聞いて、映画は終わる。

152分という長さだが、まったくそれを感じさせない。ふつうの映像をふつうに撮って、これだけ持たせる技に感服する。長回しで撮って、悠揚迫らぬ、といったところがある。自殺した教師の家で妻そして子と一緒にトランプに興じる場面など、きちんと撮っていて、納得させられる。ただ、これは時間の流れ方がよく分からない場面でもある。自殺教師の妻とアパートでの話が終わり、上司、音声と一緒にクルマに乗りながら、途中で由宇子は何かを思い出したように降りる。由宇子が何かを言うが、聞き取れない(ほかにも数か所、そういう場面があった)。ある少女を見かけ、声をかけるが、そこが先ほどのアパートの前なのかどうか。その子と一緒に家でゲームなどして遊ぶ。やがて母親も帰ってきて、一緒にトランプなどに興じる。先ほど、家内で妻から話を聞いていたときに、襖の隙間から覗いていた少女に由宇子は気づいていた。その少女に話を聞くべき、と思ったのかどうか。しかし、少女とは外で会い、しかも母親が不在なことをなぜ由宇子は知っていたのか。

妻が遺書を偽装したと言うが、川に飛び込んだ夫は河原に遺書を置いていたらしい(映画のなかで、そう言っていたように思う)。妻はそれを発見し、家に持ち帰って偽装して、またそれを河原に持って行ったのか? だれもそれを見ていなかったのか? 警察は必ず筆跡鑑定をすると思われるが、急ごしらえなのに、警察をだませるほど精巧にできていたのか。偽装がバレて、妻が殺したと思われなかったのか? 夫の遺したスマホ映像だが、そんなものを残しておいたのか? 罪の意識がそうさせた? わが罪の証拠として? ふつう女生徒とのうわさが立った時点で消去しそうなものだが。当然、警察はスマホを探索するわけで、そのあいだ妻はずっと隠し持っていたのか? そんな大胆なことをする女には見えないが。あるいは、一度は警察が押収し、その中身については学校側に知らされていたのか(ぼくは学校側が夫にどういう処分を下したかを覚えていない。戒告? 休職? その処分内容と警察が押収したスマホとは何か関連があるのかどうか)。

最大の疑問は、上司と局幹部が妻の証言を削る判断をしたとき、なぜにそれを受け入れなかったのか? ぜがひでも放映に持ち込みたい由宇子には、妻からの削除の提案は、棚から牡丹餅みたいなものではないか。萌の子宮外妊娠手術さえ遅らせた女が、ここでなぜ正義の顔をして、自分の作品を葬るような決断をするのか。たしかに、自殺教師を学校側にくっつける案にはいくら何でも乗りにくい、ということかもしれない。自殺教師の子ども、祖母に申し訳ない。しかし、不思議なのは、そこまで念入りな取材がされているものなのに、テープの切り張りで学校と自殺教師が共謀していたという筋を作れるものなのだろうか。もしそうだとしたら、由宇子の取材自体が甘かったといえるのではないだろうか。教師の妻が証言したごとく、過労で夫は追い込まれ、学校に異議を申し立てることが多く、諍いが絶えなかったといっているのだから、両者を女生徒に対する同じ加害者に仕立てるつなぎ方などできないのではないか。

ぼくが不思議なのは、なぜに普通に考えて疑問に思うことを、脚本を作る段階でクリアしておかないか、ということである。都合のいい話に合わせて事実を捻じ曲げる、省略する、矛盾を厭わない、ということが頻繁に行われる。これだけ丁寧に作られている映画でも、そういうことが起きる。しかし、最低限の辻褄合わせぐらいしておいてほしい、と思う。遺書の筆跡のこと、スマホの隠匿などは、一般人からすれば大変な選択である。そこには教師の妻の深い苦悩や怖れがあったはずだ。劇を面白くするための作為、あるいはある種の結末を付けるための仕業だったといわれも仕方がないのではないか。

※とても恥ずかしいことだが、遺書を書き変えたというのを、手書きで、と勘違いしていた。当然、ワープロソフトを使ってということになる。しかし、それも警察で機種は特定されるのではないだろうか。

91 昨日消えた男(D)

脚本小国英雄、監督森一生、主演市川雷蔵(吉宗、南町奉行所の役人鯖江新之助)、客演宇津井健(大納言、寺子屋)、三島雅夫(大岡越前)、成田純一郎(大岡配下)、沢村宗之助(悪党美濃屋)、藤村志保(居酒屋いかりや娘)、高田美和(廻船問屋河内屋娘)。まず幽霊船が写され、なぞを残したまま、城内の場面に。部下のかける謎を簡単に解いてしまう将軍様、実際に町場で起きている事件を解いてみたいと南町奉行所へ。現場の大岡越前は、「易しくもなく難しくもない事件を見つけろ」と配下の者にいう。もうここでこの映画の魅力にやられてしまう。
廻船問屋の雇い人が溺死体で見つかった件を調べるが、なかなか理論通りにはいかない。配下の者がお膳立てしていることに気付き、出奔することに。たまたま入った飲み屋で寺子屋で教えている侍と出会い、事件が立ちあがってくる。結局、幕府転覆を図る一味を捕えることになる。幽霊船や謎解きがあとで利いてくる。楽しく、わくわくしながら見ていることができる。ときおり、宇津井健の醒めた表情を写すと、敵か、とも思うが違うらしい。いくつも都合のいいことを繋げるが、それはそれでいいのである。タイトルが何を指しているのかよく分からないし、現代ものっぽい。朝廷の勅使がやってきて、吉宗などが下座に居並ぶというのは本当にあったことだろうか。ラスト、天守閣だかから江戸のまちを遠眼鏡で覗くが、その天守閣が妙に汚れている。脚本の小国は当時、最も稿料の高いライターだったらしい。1本で、家半分建てられるぐらい。黒澤と一番組んだ数が多いのではないか。

 

92 エヴァ(S)

ジェシカ・チャスティン主演の格闘映画、残念な出来になってしまった。アクションがむかしの撮り方、恋を入れて展開がダレたこと、チャスティンの体形が悪い、など。ハリウッドの女優がこういう映画に出る理由は? アンジョリーナ・ジョリィ以来か。彼女はワイヤーロープで踊っていたが、いまはそういうわけにはいかない。成功例はないのではないか。

 

93 No Time to Die(T)

とうとうボンド映画も終わりなのかもしれない。あのテーマ曲が流れるだけで、わくわくしてくる。「ゴールドフィンガー」以来だから、もう長い付き合いになる。あの時代、ジェームス・コバーンのスパイシリーズもあった。テレビではナポレオン・ソロもあった。今回は、よく分からないうちにラストまできてしまった。とくに残り20分ほど敵が人質を置いて姿をくらましては緊張感がほどけてしまう。そういう意味では本当に終わりなのかもしれない。脚本の出来が悪いのだろう。レア・セドゥをまた何かの映画で見たい。それだけが望みだ。

 

94 MINAMATA(T)

モノクロで女性が小さな声で子守歌を歌っている。そこからNYに飛んで、ユージン・スミスの暗室である。シンプルなロックがかかる。ぼくは救われた感じがした。映画のテイストが分かったからである。ラストに同じ映像で子守歌が聞こえる構造になっている。それも見事である。水俣浅野忠信真田広之加瀬亮がそれぞれ収まりよく描かれている。スミスを演じたジョニー・デップも好ましい。スミスの友人、そして雇い人ビル・ナイは「ライフ」の編集長。自堕落で約束を守らない、酒浸りのスミスに愛想尽かしをするものの、関係を切ることがない。音楽坂本龍一は抑制的である。
スミスとやがて夫人となるアイリーン・美緒子・スミス(美波)が初めて浅野の家に泊めてもらった翌朝、部屋の左右一杯ガラス戸がはまっているのか、薄いカーテンがかかっているのだろう、きれいな薄青に満たされている。こんな映像を日本の家屋で見たことがない。
世界での反響をぎりぎりまで見せない演出が逆によかったのかもしれない。スミスを英雄視しないという意味で。ハリウッド映画ならやりそうなことだ。
彼がチッソ工場のピケ隊とゲートを破り、場内に入ったときに2人の男に殴られ、蹴られる。それが後遺症となって後年の死因となったらしい。チッソの社長(国村隼)から現金を渡されるシーンで、それをスミスが受け取ったかどうかは後で知らされる。劇を引っ張るための作為だが、この映画で疑問があるとすればこの箇所と、反対派の勢いを見てチッソ社長がもう救済措置しかないと決める場面が本当なのかどうかだけである。
今年ナンバーワンの映画である。監督アンドリュー・レヴィタス、本来は画家で、映画はほかに1作だけ撮っているようだ。脚本デヴィッドKケスラーもデザイナー、スタンダップコメディアンで、これが初めての長編脚本。なにか変わった組み合わせで出来上がった映画のようだ。

 

95 コレクター(S)

モーガン・フリーマンアシュレイ・ジャッドのコンビで2作だか3作だか来たことがあった。それぞれレベルが高かった記憶だ。これもやはり封切りで見た映画で、よくできた推理ものだった。フリーマンが刑事でありながら犯罪心理学博士、ジャッドが誘拐監禁される医者のインターン小林信彦先生がジャッド好きで、大いに共感を覚えたものだ。彼女の新作が来なくなって久しい。

 

96  キャッシュ・トラック(T)

詐欺だと叫びたくなる。アクションなし、ステイサムの役柄が分からない、時間を前後するので筋が追えない、最悪はステイサムがほぼ出てこないところがある。教訓は、ガイ・リッチーには騙されるな、である。

 

97  パリに見出されたピアニスト(S)

なんだろ、このタイトル。貧しい家の青年(ジュール・ペンシェトリ)が駅内に置かれたピアノを弾く。それを見ていた音楽学校の部長(?)が惚れ込み、コンクールで優勝させるまでに育てる。その部長ランベール・ウイリソンが味があっていい。青年を厳しく仕込む“女帝”がクリスティン・スコット・トーマス(何かの映画で見ている)、黒人の恋人がカリジャ・トゥーレ、すごくきれい。これからやってくるアレサ・フランクリンを扱った「リスペクト」のジェニファー・ハドソンに似ている。単純な、目的が一直線の映画だが、音楽ものにぼくは弱い。

 

98 ハイクライム(S)

アシュレイ・ジャッドモーガン・フリーマンのコンビである。夫がメキシコで9人を虐殺した̚かどで逮捕され、軍事裁判にかけられる。軍はいろいろな脅しをかけてくる。しかし……である。この映画、3回目だが、基本的にインチキである。それに気づかないぼくも迂闊である。アシュレイ・ジャッドの色香に惑わされたか。

 

99 浜の朝日のうそつきどもドラマ版(S)

こっちが映画版より先にあったらしい。茂木理子の「くそジジイ」発言にすっかり虜になってしまった感がある。恩師の死が触れられているが、それを全面展開させたのが映画版である。なかに落語野ざらしから一句「月浮かぶ水も手向けの隅田川」が引かれている。さらっとした出来で好感である。黒澤「生きる」とキャプラ「素晴らしき哉、人生!」を同時上映する映画館、その意図とは? タイトルだけの符号か?

 

100 さすらいのカウボーイ(D)

傑作の誉れの高い作品(1971年)だが、香気、気品さえ漂わせる。スローモーションと映像の重ね焼きを多用し、川の光、朝夕の光に満ちている。夜の闇に灯るランターンの明かりもある。詩情豊かな映像を連ねながら、破局へと静かに進行していく。

冒頭、きらきら光る川に流されながら遊ぶ男、そして釣り糸を手に佇む男。3人の食事のシーンに切り替わり、カリフォルニアに行く話になる。若い男が魚がかかっているかもしれないと釣り糸を確かめに行き、2人を呼ぶ。金髪の少女が針に引っかかったらしい。ピーター・フォンダが釣り糸を切る。若い男が「なぜだ?」と迫ると、「引っ張るとバラバラになる」と答える。これがこの映画の構造を知らせている。詩情と突然の死。同じことが映画の後半に繰り返される。
静かな音楽が転調の役目を担う。バンジョーやスティールギター、そして高音の笛(楽器名分からず)。音楽はブルース・ラングホーン。ボブ・ディランと一緒にアルバムを作っている人らしい。
監督主演ピーター・フォンダ、脚本アラン・シャープ(西部劇が多い)、助演ウォーレン・ウォーツ(これが渋くてvery good)。監督としては3作しか撮っていない。タイトルは「さすらい」だが、出奔した妻のもとに帰る帰郷の話である。妻が10歳上、「俺は子どもだった」と妻のもとを離れた理由を言う。原題The Hired Hand 雇われ人みたいな意味か。妻子のもとに帰るが、罪滅ぼしに使用人として使ってくれ、と頼み込む。妻は彼がいない7年のあいだ、複数人の使用人と夜を共にすることはあったが、それだけで男は大きな顔をするから、季節が来れば追い払ったと言う。ヴァーナ・ブルームという少しメキシカンな感じのする、骨太の、意志の強い、農婦然とした女優さんをフィチャーしたことがこの映画の成功の理由だろう。きっと客の入りが少なかったと思われる。そうでないと、3作しか撮っていない意味が分からない。しかし、こころに沁みる映画である。早過ぎた映画といわれるが、もしそうでなければ後の世まで評判になどならなかっただろう。

ラストの重ね焼きがすごい。死んだフォンダを抱き起こすウォーツ、そこに妻の絵が重なるのである。少し鳥肌が立った。死体を馬に乗せてウォーツは家に帰ってくるが、ごく自然に納屋へ向かうのを妻は声もかけず見ている。おそらくこのあと彼らは親密な関係を結んでいくことになる。

 

101 ナッシュビル(D)

再見である。この緩さは何だろう。声高に言おうとはしない。カントリーの歌姫が最後に撃たれるのはなぜか。その混乱のなか、亭主から逃げ続けてきたシンガー志望の女がDon't Worry meを絶叫する。傑作の呼び声が高い映画だが、今となれば、なにそれ? である。

 

102 MONOS猿と呼ばれた者たち(T)

こけ脅し映画である。コロンビアが舞台らしいが、唯一面白かったのは何もない山頂にコンクリートの立方体が立っていることだ。「蝿の王」を思い出す。


103 Destiny鎌倉物語(S)
いやあ、愉しかった。特撮もOK、高畑充希堺雅人の夫婦もいい。現世から異界への移行がもの足りないぐらいスムーズである。小さな魔物を視界に走らせるなどの事前準備がしてある。黄泉の国のCGは手が込んでいてGOOD。やはり映画は食わず嫌いせず見るべきなことが分かる。映画館で見たかった映画である。監督山崎貴、SFX専門の人のようだ。「三丁目の夕日正・続」、デビュー作は「ジュブナイル」。高畑充希はほぼ見たことのある演技だった。死神を演じた安藤サクラがやや高めの声を出して、非常にいい。そして、堺の父親をやった三浦友和もいい。野暮な疑問をいえば、日露戦争のころに生まれたという中村玉緒がこの世で人でない証拠をどこかで見せてほしい、彼女が堺に渡す黄泉の国の住所は、もし黄泉は見る人によって世界が違って見えるとしたら、どういう住所表記になっているのか(数字やアルファベットなどの絶対表記か)、堺と高畑はずっと前世でも出会ってきたというが、いつも恋路の邪魔をする点灯鬼を排除して仲良く夫婦となったとすれば、黄泉には前世で何度も死んだ2人の夫婦が累々といるのだろうか……などと考えても詮ないことかもしれない。

 

104 ベル・エポックをもう一度(S)

倦怠期の夫を追い出す妻、それを救う息子。仕掛けが2人が出会ったころのシーンの再現。楽しく見ることができた。ウソと分かっていても、人はまんまとはまるものなのか。

105  屋根の上に吹く風は(T)

サドベリー・バレー・スクールというアメリカのホームスクールを模範とした鳥取県の山村の自由学校が舞台にしたドキュメンタリーである。授業がないから教科書も、カリキュラムもなく、通信簿も当然ない。学校扱いではないので、遠くの小学校の帰属となっていて、定期的にそこに行かないといけない。先生は2人、週に1度の補助が1人といった体制で、だれを常勤にするかというのも生徒が選挙で決めている。新人スタッフの一人が、自らが受けた衝撃を以下のように語る。「スタッフを雇うなら、日本語ができないとだめね、と言うと、言葉ができないのも結構面白いかも、と子どもが言う。でも走り回るから脚が悪い人は無理かな、と言うと、ルールを変えたら面白い、と言われた」。生徒の自主性だけではなかなか事が進まない。校長的な立場の洋ちゃんが創設の発案者だが、彼もそのさじ加減はいまだに分からないと言っている。デモクラシーの学校というのがテーゼだが、大人には大人の知見がある。それをどう子どもの自主性につき混ぜていくかは、本当に難しい問題だ。長野にもう数十年も通信簿のない公立小学校があるが、学習指導要領が変わるなかで「探究」が課題となって、実験的な学校の取り組みに関心が集まりつつある。子どもたちが喫茶店を出すことになり、むらの古老にスペースを借りるために電話を入れたり、資金をどこからねん出するが、何をどれくらい売れば儲けが出るかなど課題をクリアしていくなかで、算数から経済、人間関係などさまざまなことを集中的に学んでいく。これはアメリカカリフォルニアのHTH(ハイテックハイ)が長く実践を積んで生きたやり方である。

 

106 リスペクト(T)

アレサ・フランクリングラミー賞18回、グレン・グールドとも共演している。バプティスト派の教会牧師である父親の管理下で育ち、かなり後年までその影響下から抜け出せない。彼女が反抗的な態度をとると「虫が出た」と言って責める。アレサは家の客に幼いときに妊娠をさせられている。暴力的な夫、アルコール中毒。既視感が一杯の映画である。ヒット作を出せずコロンビアからアトランティックレコードに移籍し、向かったスタジオがかなりの田舎、しかも白人ミュージシャンンしかいない。ところが、即興で作り上げていくスタイルで、それがアレサに合っていた。はじめて彼女は自分の意見を押し出して、曲をまとめていく。アル中から癒えた彼女は教会でのライブ録音を主張するが、プロデューサーは反対する。それを押し切って実現させたが、彼女のアルバムのなかでは最大のヒット作に。ラストにケネディ・センターでの実写が出てくるが、これはYoutubeで見ていたものである。たっぷりとジェニファー・ハドソンの歌を堪能することができる。父親をフォレスト・ウィテカー、アトランティックレコードのプロデューサーをマータ・マロンが演じている。

 

107 461個のお弁当(S)

とてもウェルメイドの感じがした。ゆっくり撮っていて好感である。もう少し作った弁当に失敗があればいいのだが。卵が中心点になっているが、今日はニラだ、ジャコだ、といった説明もあればよかった。井ノ原快彦という人、意外と演技がうまい。最初のシーンから安心して見ていられた。監督・脚本兼重淳、脚本清水匡。

 

108 浅草キッド(S)

劇団ひとりの脚本・演出、主演柳楽優弥(ビートたけし役)、大泉洋(深見千三郎)、鈴木保奈美(深見の夫)、門脇麦(浅草フランス座の踊り子)など役者人がいい。鈴木保奈美が夫(大泉が演じる深見)のことを「あんな人とずっと一緒にいるのを、どう思う?」と聞くとタケシが「尊敬します」と言う。そのときの保奈美の表情が抜群にいい。劇団ひとりの演出が、あえて素人っぽくやってる感じがいい。夜中にたけしが花束を持っていくシーンがあるが、あれ? 深見が死んだのか、と思っていたら、あとで師匠のかみさんが死んだことが分かるようになっている。そのあたりの見切り方も面白い。柳楽のたけしは、ほどほどのリアルを追っていて、さすがである。やはりいい役者である。最後、亡き師匠とタップを踊り始めるところで終わるのもグッド。ぼくは途中、何度泣いたことだろう。深見がツービートを売れるようにあちこちの小屋に酒を持って行ってバックアップしていたのを知らなかった。深見の芸をぼくは知らないが、この映画のなかの深見であれば、たけしが惚れた理由が分かる感じがする。きんちゃんが井上ひさしとの対談で深見のことをしゃべっていたが、忘れてしまった。おしゃれで、切れがあって、アドリブが利いていて、という演技である。それを大泉洋が演じ切って、快感である。

 

109 ブルーズド(S)

ハル・ベリー監督、主演。彼女を初めてみた「ソードフィッシュ」の衝撃を忘れない。だいぶお年を召され、こんな格闘技映画を、と思ったら監督をしていた。彼女が求めていた世界とは、こういう世界だったのか、感慨なきにしもあらずである。

 

95 騙し絵の牙(S)

何なんでしょうか、この映画は。落ち目の大手出版社の生き残りが物流の拠点づくりかアマゾンとの直取引か、というのである。それも最後はK.IBAというシャレで終わるアホさ加減である。

 

96   ザ・ファブル 殺さない殺し屋(S)

一作目のアクションシーンがすごくいいので、これも映画館で見たかったのだが、つい2作目となると失敗作になりがちなのでネットで見ることになるが、やはりアクションの出来がすこぶるいい。冒頭のクルマを使った掴みのシーンも申し分ないし、中盤のマンションの外側に設けた足場を使ったアクションも素晴らしい。どこかに緩みがあるということがない。主人公の岡田准一とそのにせ妹役の木村文乃の絡みもグッド。悪党が堤真一で、その手下も含めて小粒なのがとても残念である。この映画、もっともっと話題になっていい。監督・脚本江口カン、脚本山浦雅大。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年の映画

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旅の宿で

昨年は「パラサイト」も「新聞記者」も、これは駄作だと思ったものが、どちらも日米のアカデミー賞に輝いた。賞に輝いて、その後、まったく顧みられない作品があるが、2つはきっとその種の映画となることだろう(多分に負け惜しみっぽいが)。前者は富者と貧者のあいだの恨みや葛藤が描かれていない。韓国の貧富の格差ってこんなに生ぬるいものなのか。ラストに至るための絵解きがしつこく施されていて、ポン・ジュノの衰えさえ感じる。(のちの記:『映画評論家への逆襲』<荒井晴彦森達也白石和彌井上淳一小学館新書>で「パラサイト」の評価が低い。わが意を得たり、である。格差なんて描いていないし、ポン・ジュノは思想性が弱い、と指摘。ラストもしつこい、と)
後者は、日本の黒い霧を追うのに、日本語がたどたどしい韓国女優を起用する。それに見合った必然のストーリーが展開されるわけでもない。ハリウッドの政治告発ものは、見させる工夫が一杯である。それに比べて何と貧相なことか。
韓国映画では「はちどり」を推したい。どこかの映画祭で「パラサイト」と争ったらしいが、断然こっちの方がいい。私塾の書道の先生と歩く道筋に解体予定のフェンスで覆われた工場が出てくる。必ずその白い遮蔽幕がじっと写されるのだが、何の説明もされないが、こちらにはある種のイメージが流れ込んでくる。そういう抑制の利いたことを、この映画はあちこちでやるのである。見る者を信頼しているから、こういうことができる。幼い恋と裏切り、友人との何度かの喧嘩、憧れの女先生の謎と失踪、公園での母の謎のような振る舞い、自らの病気……いくつも織りなされる事柄のなかで、少女は神経がひりひりするような経験を重ねていく。
黒澤清「スパイの妻」も傑作と呼ぶ声が多いが、そんなものではないだろう。蒼井優演じる妻がミステリアスというが、あんなに旦那一途の女はいない。甥を夫のかわりに特高にいけにえに差し出す女である。だから、あの映画のどこにも謎などないのである。気になるのは、生硬な芝居じみたセリフのやり取りである。(のちの記:やはり前掲書ではくそみそ扱い。黒澤はそもそも人間を描けない、国家の機密情報を一介の商社マンがどうやって手に入れる、特高ではなく憲兵隊がスパイを追うのはおかしい<ぼくのこの原稿では特高と書いている>、女主人公が描けていない、などなど)
圧倒的だったのが「異端の鳥」、3時間、まんじりともしなかった。暴力的に過ぎると批判されるが、本当に怖いのは暴力に至るまでの緊迫した過程である。嫉妬に我を忘れるウド・キアがすごい。
それとレンタルで借りた家城巳代治の「姉妹」が秀逸。労働組合の退潮が見え始めたころの様子を、性格の違う姉妹の点から描いたもので、モノクロだが絵も構図もきれい。ダムで生計を立てる人たちの住む長屋にある差別や、貧困から抜け出せない肺病病みの家族の問題などもユーモアをまじえて描かれている。かつての日本映画のすごさを実感。

 

1 マ・レイニーのブラックボトム(S)

ヴィィオラ・ディビスを初めてみたのが「ダウト」で、うまい役者さんが出てきたものだ、と思った(たしかこれで助演女優賞を獲った)。それから4作、テレビシリーズものを1作見ている。その彼女がどう変身したのか超肥満のブルースシンガーでレスビアンの役を演じたのが、この映画だ。ほぼ室内で終始し、ちょっと演劇っぽい作りだが、黒人女性で力をもった人間が、それを保持するために懸命に悪者を演じる様子を描いている。「ブラックボトム」というタイトルの歌をうたうが、卑猥な意味も込めているようだ。黒人が腰をくねくねして踊るダンスのことらしい。

 

2 i―新聞記者(S)

森達也東京新聞望月衣塑子を扱ったドキュメントである。政治マターとしては辺野古の赤土の違法な投入、記者会での彼女の発言規制、伊藤詩織さんの裁判、森友問題ということになる。登場人物はほぼ誰か特定できるが、詩織さんをレイプしたという山口敬之は名前を入れないと誰だか分からない。それと安倍と菅の真似をしたザ・ニュースペーパーも分からない。

タイトルの「i」は、人は党派性で固まるのではなく、個々人に帰って、政治などの問題に立ち向かうべきだ、という意味である。そうでないと、いがみ合うだけで、妥協点が見つからないという趣旨である。

意外なのは山口が望月の取材に、同じジャーナリストとして敬意を覚えるし、こんなふうに正々堂々と取材をかけてくるなら取材を受けたい、と語ったことである。その後、どうなったかは明示されないが、この顛末は気になる。

RKB毎日の記者が、われらを左翼と呼ぶ奴がいるが、もし左翼政権ができても、同じく正義を求めて取材をかけていく、と述べたことが、とても印象深い。望月記者もそれに大きく頷いていた。

籠池が国策でハメられたおかげで、いまは朝日新聞しか読まなくなった、と述べている。これは一考に値する発言である。

森が、本来望月は当たり前のことをやっていて、なぜ俺はそれをカメラを回して撮っているのか分からなくなると言う。外国人の記者たちが入れ替わり立ち代わり望月に会いにやってくるが、彼らもまた望月的な在り方はふつうなのだ、と言っている。

しかし、たしか上杉隆が書いていたと思うが、アメリカではエスタブリッシュメントなペーパーしか大統領との定期的な囲み懇談ができない。たしかに日本の記者会の閉鎖的な面があるが、アメリカにだってそれがある。向こうのジャーナリストがすべて正しいとはいえない。そこもまた森がいう「i」が大事になるのもかしれない。

 

3 白い巨塔(S)

初めてみるモノクロ映画(1966年)である。田宮二郎が主演。危機のときの彼の目の光が異様に強い。なにかこの役に強く入れ込んだものがあったのだろうか。冒頭、群衆のシーンで頭一つ抜け出ているので、遠くからでも彼と分かる。「悪名」ではそんなに大きなイメージはなかったのだが。小さいころに「悪名」のイメージで親しんだ田宮二郎だから、とても違和感がある。彼がゲイで、猟銃自殺と知ったとき、どれほどぼくは衝撃を受けたことだろう。なぜあんなにスクリーンでにぎやかで、生き生きとしていた人が……と思ったものである。小川真由美はいつもの役柄だけど、やはりいい。最後に医学界のためと田宮=財前五郎を守る滝沢修が、倫理と政治を体現して見事である。監督山本薩夫、脚本橋本忍

 

4   テキサス・ロデオ(S)

いやはや、やはり映画は選り好みしないで見るべきだと思う。この映画、とても抑制が効いていて、しかも音楽の使い方も好ましく、さらに神話的要素を最後に見せて、いい結末にもっていっている。描写はじっくりと細やかで、とても納得のいく展開である。ものすごくレベルが高いことだけは確かである。参りました、である。女性監督・脚本アニー・シルバースタインAnnie Silverstein。短編とドキュメントだけで、これが初長編映画(2019)のようだ。主演の少女がアンバー・ハーバード、黒人のロデオの名手がロブ・モーガン。冷たいけど優しいお婆さん、暴力沙汰で収監されているお母さん、その離婚したテキサスなまりのひどい悪党の父親、そこにたむろするゲーム好きの青年たち、みんな配役がきとんとはまっている。

 

5  11.25 自決の日(D)

若松孝二という監督は大して客を集められないし、演出がうまいわけでもないのに、延々と映画を撮ることができた幸せな人である。ぼくは連合赤軍を扱った作品で、暗然とした。封印していた感情が戻ってきた感じである。テキストとして彼らの所業は読んで知っているわけだが、それを映像でもう一度確認するというのはいたたまれない。この三島をめぐる作品ももちろん知っていたが、映像として見る勇気がなかった。ある事情で見ざるをえなくなったわけだが、いろいろとまた考えることがあった。三島が余りにも兄貴、あるいは家父長的な存在に描かれているが、楯の会ではそう振る舞ったものか。だとしても、その嘘はいくら相手が青年たちでもすぐにバレるのではないか。剣道を森田必勝に教え、お前は筋がいい、などと言うが、まさか運動音痴の三島がそんなことを言うだろうか。東大での討論も資料不足なのか探索不足なのか、論争の仕方がまったく違っている。それにしても、三島死して50年、未だに彼のことを考え続けている人たちがいる。三島の、あえていえば“至誠”は生きたことになるか。

 

6 スタントウーマン(T)

惹句が「ヒーロー」となっているが、「ヒロイン」の間違いだろう。中身は、いかに女性スタントが頑張って今のポジションを掴んだというもので、彼女たちの類いまれなスタントの技を見せるものではなかった。マーシャルアーツと棒術の練習風景が、心に残る。

 

7 マンク(S)

映画を見たな、という感じである。ゲイリー・オールドマン主演、監督デビッド・フィンチャーNetflix製作・配信「市民ケーン」の脚本家ハーマンJマンキーウィッツを描くモノクロの映画。左翼的作家で、新聞王ハーストをおちょくる内容で、自分の名をクレジットさせた。ドイツの村のユダヤ人を100人以上、私費で救っている。白黒の映像が本当に美しい。「ローマの休日」の脚本家ドルトン・トランボのほうがもっと過激で、筋金入りの左翼の感じである。しかし、1930年代のアメリカではもう社会主義が禁句となりつつある。マンクは54歳、アルコール症との合併症で死んでいる。ラストに気の利いた彼の言葉が紹介される。I seem to have become more and more a rat in a trap of my own construction,a trap that I regularly repair whenever there seems to be danger of some  opening that will enable me to escape.どんどん自分で作った罠にはまるネズミのようになってきた。逃げ出したくなるたびに修繕しているから、余計にそうなる(私訳)。全篇、こういうセリフが横溢している。

 

8 かぞくのくに(D)

2012年の作。 脳腫瘍の手術のために3カ月、北朝鮮から日本に帰国した長男(井浦新)と家族の物語である。ピョンヤンからの命令ということで、すぐに帰国ということになるのだが。こういう制度があったこと自体を知らなかった。舞台は北千住柳町の蔦のからまる喫茶店である。主演井浦新、妹が安藤サクラ(2014年に「100円の恋」)、母親が宮崎美子、父親が津嘉山正種、叔父に諏訪太朗。監督ヤンヨンヒ、「ディアピョンヤン」を撮った女性の監督である。ぼくはDVDで見たような気がする。プロデューサーが「新聞記者」の河村光庸(みつのぶ)である。ぼくは舞台となったあのあたりを歩いたことがあるので、少し土地勘をもって見ることができた。簡にして要を得た映画という感じである。

 

9 ワンチャンス(S)

小さいときから歌うのが好きな子が、長じてイタリアに勉強に行くが、憧れのパヴァロッティの前で緊張しぎて歌えない。君は永遠にオペラ歌手になれない、と宣告される。まちのスマホ屋に勤めながら、結婚もし、虫垂炎破裂間際とか自転車事故など波乱がある。たまたまネットでYou got a talent の応募画面を見て、妻の後押しもあって出場。見事勝ち抜き、最終戦も優勝。プロデビューし200万枚のCDを売り上げ、女王の前で歌う栄誉も授けられる。オーディションの審査員は、実際のテレビ放映の映像を挟んでいるので画質が明らかに違う。これはわざとそうしたのかもしれない。妻役をやった女性がはまり役で、きれいなのか、太っているのか、という境界線上にいる人で、これ以上はないという適役である。主人公が住むのは鉄鋼産業のまちで、だれもイタリア語のオペラなどには関心がなさそうに見えるが、パブで彼が道化のなりをして歌うと、それまでバカにしていた聴衆が大喝采である。それはオーディション会場でも同じである。ぼくはたしかこの彼の本物が出たときのシーンをYou-tubeで見ている。

 

10 素敵なウソの恋まじない(S)

ダスティ・ホフマン、ジュディ・ディンチという老齢のお二人の恋物語。最後に落ちが用意されているが、さて辻褄は合っているか。楽しく見させていただきました。

 

11 ランナウェイ(S)

女性ロックバンドの走りである彼女たちのサクセスと早い崩壊の様を映し出す。ほぼ最後までまえに見た映画と気づかなかった。だけど面白かった。ダコタ・ファニングがセクシーなボーカルという役だけど、無理あり。リズムギターのリーダー役が好感。

 

12 黒い司法(S)

ハーバードを出た北部の黒人青年ブライアン・スティーブンソンが南部アラバマ州で冤罪専門の弁護士として活動する。Equal Justice Initiativeという組織を作り、そこを拠点にした。白人の証言者が1人、それも犯罪歴のある人間を脅かして司法取引で偽証させ、有罪にさせた。24人の黒人の証言は無視されている。餌食にされたのはマクシミリアンという黒人の伐採業者である。6年の収監で無罪を勝ち取った。30年ぶち込まれて無罪となったレイ、それが確定したのが2015年である。ブライアンは120ケース以上で勝利している。死刑囚の10人に1人が冤罪というデータが最後に紹介される。原題はJust Mercyである。日本でも冤罪事件があるが、ここまでひどい、ということはないのではないか(司法と警察の腐敗が地理的に集中している、という意味だが。熊本県志布志事件というのがあるが)。マクシミリアンの事件で救いは最後には地方検事が改心したことと、死刑を見て衝撃を受けた刑務所員が収監者に温情を見せる点である。ブラック・ライブズ・マターはずっとアメリカという国で続いてきた問題である。

 

13 ヒルビリー・エレジー(S)

監督ロン・ハワード、主演エイミー・アダムス、グレン・クロース(祖母)、ヘイリー・ベネット(姉)、ガブリエル・バッソ(主人公)、Netflixオリジナルである。ケンタッキー州から隣のオハイオに移り住み、悲惨な家庭環境から息子がイエール大学に入り、就職するまでを描く。アメリカでベストセラーになった自伝の映画化である。時間を現在と過去で頻繁につないで、無理がない。アダムスは太り、色落ちした髪を振り乱しているが、気の強い役ははまり役ではないか。ベネットは「イコライザー」で見せた見事な肢体は見るも無残に変わっている。役作りと思いたい。アダムスについても。強い女を演じてきたグレン・クロースもすっかりお婆さんである。でも意志の強い役は相変わらず。アパラチアに住む人々は意外と女系が強いか?

 

14 聖なる犯罪者(T)

これ以上でも以下でもないというタイトル、原題は分からないが。ポーランド映画と知らず見たが、途中からポーランドの映画かもしれないと思いながら見ていた。少年院で教導にやってくる神父に刺激を受けた子が、出院後、ふとしたことからある教会の補助司祭、そして司祭の代理をすることになった。彼はその村の解き難い問題にまで手を出していく。自らが重罪犯であることを明かしながら、人々の“悪”をなだめていく。主人公が院を出てすぐにドラッグ、セックスに走るので、ああそっちに行く話かと思うと、じつは違うという展開である。薬でやられて踊りまくるときの見開いた目と、ラストの必死に逃げるシーンの目が同じ目である。フランソワ・オゾンの聖職者による青少年への性的ハラスメントを扱った映画でもそうだが、宗教から離脱する人が多いといいながら、まだまだ宗教には根強く人々を牽引するものがあると思わせられる。

 

15 天国にちがいない(T)

エリア・スレイマンというパレスチナの監督作品、彼自身が出ている。落ちのないコント集みたいな作りになっている。監督はただじっと事実を見つめるだけだが、そこに彼がいることの意味がある。カフェの外の椅子に座りながら、目の前を過ぎる女性の腰のあたりばかり眺めるシーンなど、さもありなん、人生は、という気がする。冒頭に迷惑な隣人が出てくる。勝手に監督のオレンジの実を取ったり、その枝を落としたり、それに水遣りをしたりするが、監督は別に非難の表情を浮かべるでも何でもない。隣人であるとは、そういうことだ、とでもいうように。もう一人の隣人は、狩りでの秘蹟を語る。それもまた隣人のあり方である。ラストに踊り狂うディスコの若者たちを見つめる監督の目に少し潤いが見える。彼は同胞を限りなく愛おしむ。もう一度、見たい映画である。

 

16 シカゴ7裁判(S)

Netflix製作、配信である。主演エディ・レッドメイン(トム・ヘイデンというリーダー役)、彼は「博士と彼女のセオリー」「リリーのすべて」で見ている。1968年、シカゴで民主党全国体が開かれるのに合わせて、ベトナム反戦の若者たちが民主党の大統領候補ハンフリーではなく、左派マッカーシーを支援するためにシカゴに集結する。それを警察が力で押さえ込む。
ジョンソン政権の司法長官は、警察側の挑発によって暴動が起きたと考え、大統領との話し合いで告訴しないと決定したが、ニクソン政権になって新しい司法長官は有罪にするために若いが敏腕検事を立てて、裁判を開始する(彼は共同謀議を立証できないと主張したが、やむなくその任を受け入れた。しかし、あまりにも強権的な裁判官のやり方に、最後には反旗を翻す)。地裁は5年の実刑判決が出るが、上訴審で翻る。その初審の最後に、リーダーのトム・ヘイデンは終始強圧的な裁判官から、こう言われる。「審理のあいだ、君は他の被告と比べずっと大人しくしていたから、将来国にとって有望な人間となるだろう、ゆえに発言を許す」。ヘイドンはそれを最大の侮辱ととったのか、ベトナムでのアメリカの戦死者の名をすべて読み上げることで、その裁判官の高慢な鼻をくじく。ぼくはサイモン&ガーファンクルの「水曜の朝、午前7時」を思い出した。もう一人の運動指導者アビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)がスタンダップ・コメディアンでもあるのか、そういうシーンが挟まれるが、彼がヘイデンに抗いながら、裁判の弁論ではかばうシーンには泣かされる(高平哲郎は『スタンダップコメディの勉強』でホフマンをジェーン・フォンダの前夫としているが、トム・ヘイドンとの勘違い)。
このデモのことは、ベケットやジュネ、D.H.ロレンス、イヨネスコ、フランツ・ファノンなどのアメリカへの移入を図ったグローブ社の編集者リチャード・シーバーの自伝で読んでいる。シーバーはジュネの雑誌取材に同行したのである。映画にも出てくるアレン・ギンズバーグと遭遇し、ギンズバーグはジュネのまえに跪き、頭を地に着けて敬意を表した。

 

17 ジャングルランド(S)

その日のねぐらにも困る兄弟がナックルファイトで大金を稼ぐ夢を頼りに、目的地まで向かう。アングラで借りた金が返せず、一人の女を届けるようにいわれる。それが高齢やくざのひもだった女で、弟のほうが心をぐらつかせ、兄貴はおれを食い物にしている、と言い出す。結局、兄貴を助けるために、女を孕ませた高齢やくざを殺すことに。最後、弟は試合に勝ち、リングサイドに兄を探すが、兄は警察に拘束されている。言葉通り、無償の愛を兄は実践したのである。戦いの場面がほどとんどないのが残念だが、じっくりしたロードムビーとして見れば、見ていられる。だらしないが人のいい兄貴がチャーリー・ハナム、憂い顔のファイターが弟のジャック・オコンネル。問題を引き起こす女がジェシカ・バーデン。

 

18 ラン、オールナイト(S)

まだリーアム・ニーソンで見ていない映画がある。雪原ものもまだ見ていない。場所が限定されると、想像力が縛られる感じがあって、手が出しにくい。エド・ハリスがやくざ稼業の兄弟分、その息子をニーソンが殺したことで復讐劇が始まる。ニーソンは疎遠だった息子、ジョエル・キナマンを助けようとして兄弟分の息子を殺したのである。キナマンは、テレビシリーズ「The Killing」で初めて見たスウェーデンの俳優である。冒頭に傷を負って横たわるニーソンで始まるが、ジョン・ウィックがやった手口である。もっと前でいえば、プールに浮かぶ死体から始まった名作映画がある(ビリー・ワイルダーサンセット大通り」)。劇の作りとしては、どうかな、という感じである。監督ジャウム・コレット=セラで、ニーソンと組んで何本か撮っている。「アンノウン」「フライト・ゲーム」「トレイン・ミッション」である。

 

19 この空漠たる荒野で(S)

南北戦争で生き残った男が、町から町へニュースペーパーを読む仕事をしている。妻がいるらしいが、それがどうなっているかは明かされない。その途中、一人のドイツ系の少女を助けることに。彼女はカイオワ族に誘拐された子だった。叔母夫婦がいるところまで少女を連れて行くプロセスであれこれと起こる。主演トム・ハンクス、監督ポール・グリーングラス、ボーンシリーズの2、3作目と5作目を撮っている。アクション映画とは違って、じつに落ち着いた映像を見せてくれる。遠景で撮る荒野と低い山並みが夕暮れに青い色に浸されて美しい。これもNetflix配信、このくらいのほどほどの出来の映画がたくさん作られたら、映画館に行かなくなる可能性がある。

 

20 フランク伯父さん(S)

アマゾン配信、ソフィア・リリス主演。Netflixの「ノットオーケー」続編がコロナで打ち切りになった。その代わりにアマゾンがリリスで映画を撮った。ゲイであることを父親の遺言で明らかにされた長男(これがリリスの伯父で、NY大の教授)が、やっと家族に受け入れられる話。 信心深い父親は長男を許せなかった。聖書は同性愛を禁じ、奴隷制を支持しているらしいが。

 

21 素晴らしき世界(T)

 西川美和監督、主演役所広司、2時間超。殺人で13年刑期を務めた粗暴な男が出所し、なかなか現実になじめない。というか、理不尽な暴力、圧力に我慢がならないところがあるために、いざこざを起こす。いわば、正義のための暴力しか使わない人である。自然と彼を庇護してくれ、心配してくれる人が増えていくのは、そういう彼の性向を見ているからである。そもそも妻とやっていたスナックに敵対組織の男が日本刀を持って押し入ってきたのを反撃して死に至らしめた男である。いけすかない男が次第に変わっていく。一度は昔の兄弟分(白竜)のところに身を寄せるが、そこも警察が立ち入ることに。その姉さん(キムラ緑子がいい)が、堅気になりな、つまらないことばかりで大変だが、青空が大きいと言うわよ、と金を渡して彼を押しやる。身元引受人も、ふつうに生きていくだけで、俗世間は大変だと諭す。暴力でかたをつけるほうが簡単である。その複雑な世界でやっと生きられそうになったのに、ラストシーンはむごい。故郷の福岡で兄弟分のはからいで一夜を共にした女がなかなか情愛があっていい。なんとなく西川監督と似ているような。ネットでは名前が分からない。役所の窓口になった北村有起哉という役者が公務員の範囲のなかでやれることをやる、信頼の置ける人物の感じが出ていた。

 

22 モンテッソーリ 子どもの家(T)

モンテッソーリ哲学で運営される北仏保育園の子どもたちを映すドキュメンタリー、といってもほぼ室内。いやはや子どもってすごい。この集中力、好奇心がずっと続くと、世の中天才だらけになる。いかに既存の教育が子どもを、そして青少年をだめにしているかが如実に分かる。教材? 遊具? は基本的に生活で必要とされる動作と関連づけられている、と言っている。文字や発音、算数的なものも自然に取り入れている。先生はあくまで子どもが自発性をもって活動するための補助(介助ではない)者的な立場。教科書がない杉並の和光小学校を扱った映画も上映されていたが、残念ながら見ることができなかった。iTuneで見ることになるか。

 

23  イップマン完結(S)

新宿で見たのが最初のイップマンだ。ぼくはナショナリストではないが、日本軍があまりにも悪玉扱いされるのは気持ちのいいものではない。悪として単純に割り切り過ぎているからだ。完結編はアメリカ軍がやっつけられる。中国の覇権をそのままなぞったような展開に、映画を見る気も失せがちになった。なかなかいいアクション映画が来ないから、仕方なく見てしまった映画である。格闘技シーンも驚きはなし。ブルース・リーのそっくりさんが出ていた。ワンス・アポンナ・タイム・イン・ハリウッドでコケにされていたが、さてそれは真実か?

 

24 ブレインゲーム(S)

アンソニー・ホプキンスコリン・ファレルが未来が見える者同士で戦う。先にあるものの映像を挟むお決まりの進行。でも、ホプキンスの何もしない演技が求心力をもっている。死の苦しみにもがく娘に何か薬を投与したあと、腕を強く振る一瞬の動作があるが、えっという感じである。すごいな、と思う。アホンソ・ボヤルトという監督だが、あまり撮っていないようだ。刑事のジェフリー・ディーン・モーガンアビー・コーニッシュ、どちらもOK。

 

25 ボビー・フィッシャーを探して(S)

 1993年の作品で、チェス物である。まちの賭けチェスを見たことで興味を持ち才覚を表していく子ども。その才能を信じて最強の教師を付けたつもりが、子どもは勝つことだけに意味を感じない。ラストの大試合でも勝ちが見えているのに引き分けを言い出す。タイトルは実在の世界チャンピオンで、そのあとに失踪した。この映画の主人公は結局、そのボビー・フィッシャーを含めた人間性のない世界への反措定となっている。父親役がジョー・マンテーニャ、母親役がジョン・アレン、どちらも子どもの才能を信じて真っ直ぐでありgood。賭け場のキングともいうべき人物がローレンス・フィッシュバーン(最近もジョン・ウィックの闇の帝王役で見ている)、そしてチェスマスターがベン・ギングスレーである。主人公を演じた子は、少なくともウィキでは関連情報がまったく出てこない。

 

26 マザーレス・ブルックリン(S)

エドワート・ノートン主演、監督である。探偵事務所を経営するブルース・ウイルスが孤児だった彼を含めて4人を拾い、育ててくれた恩義がある。その死をめぐる探索行で、クラシカルな探偵ものを目指した。可もなし不可もなし。ただ、地下の黒人バーで、ジャズの演奏とその撮影がびしっと決まっていた。ノートン、ジャズ好きかもしれない。ニコルソンの「チャイナタウン」と違って、最後の種明かしも驚きなし。

ノートンがチック症で、急激に首を振りながら、心に思っていることをつい言ってしまう。たいていは「イフ」というのだが、それが「仮定」をもとに捜査を続けていくアナロジーになっている。客演ググ・バサ・ロー、ウィリアム・デフォー、アレック・ボールドウィンと豪華。中にタイムスはダメで、ポストなら情報を渡せる、というシーンがある。タイムスは記事を政治的に判断し、国益に沿わないものは載せないメディアである。そこを言っているのかもしれない。Netflixオリジナル。

 

27 オペレーション・フィナーレ(S)

イスラエル(モサドか?)がアルゼンチンからアイヒマンを連れてくる映画を3本ぐらい見ているのではないか。これはハラハラドキドキを狙ったもので、それは成功している。意外なことにアイヒマンは有能で、感情豊かに見える。ベン・キングスレーが見事に演じている。監督クリス・ワイツ、女優メラニー・ロラン(かなり一時期痩せて見えたが、今回はそんなことはなかった)、男優オスカー・アイザック(何の映画で見たか、思い出せない)

 

28 DAU.ナターシャ(T)

何だか鳴り物入り過ぎて、困った映画である。リアルに虐待が起きたとか、セックスシーンは本物だとか、まるでマッド・マックス以来の前振りである。セックスシーンをモノホンで撮ったからといって、何か価値があるとは思えない。映画は作りものというのが基本である。要らぬ情報を流さないほうがいい。

 

壮大な仕掛けの割に、登場人物は少ないし、セットも単純である。これがソビエト映画なのだといわれたら、さもありなん、である。貧寒としている。構造もシンプルで、あるレストランの女性上司ナターシャと女性部下オーリャ、科学者男子数名、尋問・拷問係1名男子である。これらみなオーディションで選ばれた素人らしい。ナターシャを演じた女性は美しい。

 

ナターシャがオーリャに理由のない因縁のようなものをふっかけ、ウォッカを飲むよう強要する。その様が、後に自分に向けられる尋問(拷問は脅し程度)の様子とパラレルな関係になっている。科学者たちはフランスから来た権威ある科学者に従って、何か実験をしている。その合間、あるいは終わったあとに店にやってくる。初めての日、ナターシャはその仏人科学者とセックスをする。そのことを国家機関は嗅ぎ付け、尋問する。

 

都合、2時間ちょっとの映画で、4シーンぐらしかないから、1つが30分。とくにセックスのシーンは別に短くていい。尋問のところはカフカ的な感じがしてグッド。尋問室と拷問室が狭い廊下をはさんで、斜め前というのがいい。ナターシャになぜか目の前にある新聞紙から偽名を選ばせて仏人科学者告発文に署名させているが、それが“ルネサンス”というのは皮肉。彼女に書かせる文章も下手な検事調書みたいでグッド。彼女はどんどん尋問官に取り入るが、尋問官もまるでそのためにやっているような様子なのだ。

壮大なシリーズの1篇らしいが、さて2本目が来るかどうか。

 

29  ミナリ(T)

レーガンの時代にカリフォルニアからアーカンソーへと農地を買い求め移り住んだ韓国人家族を扱っている。彼らは鶏の雛のおす、めすを分ける仕事に就いている。夫はその技術に長け、妻は家にまで持ち込んで練習をする。捌く数で給金が違うのかもしれない。手に持ってすっとお尻を水に付け、そして覗いて判定する。

タイトルのミナリは芹の意味であるらしい。韓国人はこれをよく食べるらしい。ぼくは輪島で食べたいしり鍋やキリタンポ鍋に入れている。

 

まえの土地の持ち主はうまくいかず、銃で自殺している。夫は地味があるといって喜ぶが、水が出ない土地のようだ。いわゆるトレイラーハウスを2つくっつけたようなのが住まいである。それを見た途端に妻の機嫌が悪くなる。

父親は年に3万人の移民がある韓国人相手の野菜を作ろうとする。子どもは2人、上は女、下の男の子は心臓が悪いという設定である。冒頭から「走ってはダメ」と仕切りに注意するので、何かと思っていると、そういうことだった。

子どもを見てもらうために韓国から母親に来てもらう。これが花札好き、プロレス好きのおばあさん。この破天荒をもっと描いて欲しかった。筋としては、彼女が自分を犠牲にして2つの貢献をする。それをさりげなく描くところが、この映画の良さであろう。そのサクリファイスのおかげで、男の子の心臓が快方に向かい、夫婦の仲がよくなる。映画の最後にThanks to all grandmother.と出るのは、そこと関係している。

 

アメリカ人は木の枝で水の出るところを占ったり、大きな木の十字架を実際に担いでキリストの苦難を思い出すなど、非理性人の扱いだが、最後には彼らとの和解が用意されている。

一カ所いいな、と思うのは、テレビで夫婦の思い出の曲がかかり、カメラが寄って大写しになったところで外から家を見た映像に切り替わり、次は俯瞰でその周辺の夜の映像が撮られる。その間、ずっとその幸せな曲が流れている。

主演スティーブン・ユアン(アメリカで活躍)、ハン・イェリ(妻)、祖母ユン・ヨジョン(有名な女優)、子ども2人が達者、とくに下の子が自然に演じてグッド。監督リー・アイザック・チョンで、アーカンソー州リンカーン生まれ。「君の名は。」の実写版を撮るそうだ。あちこちでいろいろな賞を獲っているいる映画である。アメリカ映画でこれだけ外国語がふんだんに交わされるのも珍しい。ブラッド・ピットのPlan Bが製作に関わり、ピットはエグゼクティブ・プロデューサー。同製作では「キック・アス」「それでも夜は明ける」「バイス」「ビールストリートの恋人たち」「ジェシー・ジェイムズの暗殺」「ツリー・オブ・ライフ」「マネーショート」を見ている。「グローリー」と「ムーンライト」は見ていない。どんどん傾向がはっきりしてきて、政治性や社会性の強いものになりつつある。A24も話題だが、こっちの映画には触手が出ないのはなぜなのか。「Waves」と「20th ウーマン」しか見ていない。

 

30  ダーク・プレイス(S)

兄が家族を惨殺? それには事情があった、という映画だが、ただダラダラと。シャリーズ・セロンは映画の選び方が間違っているのでは?

 

31  ノマドランド(T)

 ミナリが移民が「ホーム」を見つけようとする話、これは企業城下町が立ち行かなくなり「ホーム」を離れざるをえなかった人の話。前者が男のこだわりを描き、後者は女のこだわりを描く。ぼくの趣味は後者で、主演のフランシス・マクドーマンドコーエン兄弟の「ファーゴ」以来の付き合いだ。前の「スリービルボード」ですごく強い女を演じたが、本来、とぼけた味がある人で、その感じは今回の作品に出ている。プロデューサーも務めている。

移動する人の問題としてトイレや車の故障のことなどが盛り込まれるのは分かるが、ちょっと下の話は1回でよしてほしい。キャンピングカーで暮らすIT人間たちの話はこの10年ぐらい前から知っていたが、これは貧窮にある人の話である。そこに女性がけっこういることに驚く。アメリカに移動しないトレーラーハウスで暮らす人がいる。リーサル・ウェポンメル・ギブソンを始め映画にしょっちゅう出てくる。女性監督でクロエ・ジャオ、音楽がルドヴィコ・アイナウディで、ピアノの静かにせり上がっていく感じがいい。

アカデミー賞作品・監督・主演女優賞に決まった。慶賀に耐えない。

 

32 悪魔を見た(S)

どろどろの韓国血まみれ映画である。むかしの韓国映画は残酷なりに美学があったが、これはちょっと、である。スーパー刑事にイ・ビョンホン、モンスターにチェ・ミンシク。義妹が拉致されたあとや、妻の指輪を見つけるところなど、もっと細かい演出が必要な箇所がいくつかある。敵を苛んでいく過程に身を入れて見ている自分がいる。暴力性が体内に眠っていることが確認できる。アクション映画をしきりに見たくなることがあるが、こういうバックグランドがあるからである。それにしても、キレキレのアクション映画がなさすぎる。

 

33  ゴールド・フィンチ(S)

美術館で絵を見ているときにテロの爆発で母親を失った少年の成長の物語といっていい。ラストで思いがけない展開をするのだが、途中までのティストはぼく好みである。苛酷な環境のなかでも少年の初々しさ、素直さは決して失われない。主演のアンセル・エルゴートは「ベイビードライバー」で見ている。義母役がナタリー・キッドマン、骨董商がジェフリー・ライト、父親の恋人サラ・ポールソン(愛情のないまま母的な感じがなかなかいい)。監督ジョン・クローリー、「ブルックリン」を撮っている。

 

34 ボブという名の猫(S)

ロンドンが舞台、野良猫が元ジャンキーのストリートミュージシャンを救う。歌で身を立てるのかと思いきや、猫との交流記を書いてベストセラーに。実話がもとになっている。猫好きは世界にいるということか。ハイタッチする猫である。

 

35 競艶雪之丞変化(上)(S)

ひばりが3役をやる。冒頭に、この映画は長谷川一夫の当たり役、僭越ながら一生懸命相務めます、と口上を述べて始まる。その長谷川のを見たことがあるが、どうも気持ちが悪くてしょうがなかった。それに比べて、ひばりのは安心して見ていられる。盗みの親分闇太郎をやったほうが、すっきり“男映え”する。監督渡辺邦男、共演阿部九州男、丹波哲郎(すごい下手くそ)、宇治みさ子(お初)、坊屋三郎(お初の手下)。昔の映画はこの1人何役というのが定番みたいなもので、映像的な奇抜さもこう何度もやればすぐに飽きがくるから、基本は階級を飛び越えるところにある快味があるのではないか。お姫様がまちなかの十手持ちになったり、旗本が素浪人になったり、それは庶民の生活をつぶさに知ってほしいという願望が生み出したものではないか。あとマキノ流でいえば、筋をややこしくして“綾”を付けるということ。情報取得の手段は盗み聞きが主になるから、都合のいい設定が多い。お初が「たまたま」見かけた雪之丞のあとをつける、闇太郎が「たまたま」立ち聞きする雪之丞と門倉兵馬(丹波哲郎)とのいざこざ……そんなアホなということが連続するが、その時代の人はそれでいい、と思っていたのだろう。

 

36 Marley & Me(S)

 今度は犬である。わがまま勝手な犬が家族の紐帯となって引っ張っていく。よく演技をするものである。それを題材にコラムを書くオーウェンウイルソン、その妻で子育てのためにコラムニストを止めたジェニファー・アニストン。新聞社ではコラムニストよりレポーターのほうが格上であることがよく分かる。

 

37 ゴッドファーザー(S)

2度目である。すべてがⅠのなぞりで、もうコッポラにはこの映画を緊密な、映像的にも豪奢なものにしようという意識がない。音楽も途中でマカロニウェスタンのようなビンビンビンというような曲がかかる。それでも最後まで見ていられるのは、おそらく復讐劇の古典的な構造を押さえているからだろう。いつ悪人をやっつけるのか、という期待である。演技が光るのが意外なことにダイアン・キートンタリア・シャイア(妹のコニー役)。いくら天才コッポラにして、同じレベルを保つのは難しいということか。あるいはこの映画、彼が撮っていないのでは?

 

38 デリート・ヒストリー(S)

フランス映画、緩いコメディ調だが、見ていられる。3人の登場人物が個性的で、明るく、エキセントリックだからである。それぞれGAFAに恨みを抱いている。一人は酒場で会った若者とセックスをし、それをスマホで撮られて脅される。一人はテレビドラマ中毒になり原発での仕事を辞めさせられ、UBERを始めるが、どうやっても星一つの評価しか貰えない。一人は娘が学校でいじめに遭い、その動画がネットに流されている。最初の一人はアメリカにまで飛んでグーグルに記録の消去を迫ろうとする。次のは、アイルランドに交渉に行くといって、じつはモーリシャスのコールセンターのミランダに会いに行き、単なる機械であることを発見する。もう一人は、UBER支部へ乗り込み、チェンソーでPCを切り裂く。結局、みんなスマホを捨てて、安心の生活に戻る。こういう突き抜けたバカ映画で社会批評する精神に賛同する。

 

39 フードラック(S)

寺門ジモン監督、焼肉を死ぬほど愛するのなら、それにふさわしい映画にすべきだった。主人公が母親の糠漬けの味の秘訣として、長めに甕に入れて古漬けにしていたと気づく、というのはばかげている。母親が死んだあとの主人公のセリフも口跡が悪く聞きとりにくい。川崎ホルモンという店が出てくるが、行ってみたくなる。ほかの店のことは映画のホームページに出ているが、なぜかこの店だけ出ていない。一軒目の店は批判されているにもかかわらず載っている。

 

40 味園ユニバース(S)

何回目になるか、初見ではデジャブな映画と思い批判したが、その後何度も見て、ここがポイントかと思うことがあった。それは静と動の対比で、静のときの時間が意外と長いのである。主人公茂男が記憶喪失から戻って、公園のベンチに座る。そこに段ボールに茂男の持ち物一式を入れて二階堂ふみがやってくる。彼女と諍いがあり、一人になる茂男。彼がその段ボールを開くまでに、カメラ据え置きで、結構な時間が流れる。自分の子どもに会いに行ったシーンでも、当然会話はごく少なく、まあまあの時間を費やす。その静があるから、音楽シーンのリズミカルな感じが生きてくる。山下敦弘監督、音楽ものの妙技を見せている。二階堂も余計な演技を一切しない。ごく稀に微妙な表情が現れることがあるが。

 

41 ハート・オブ・ウーマン(S)

女性のこころが読めるようになった広告マンの話である(2000年)。それまではマッチョマンだった。あるアクシデントで女性の内奥の声が聞こえるようになり、ナイキの女性向け広告を勝ち取ることができるようになる。

メル・ギブソンがシナトラの曲に合わせて帽子を腕に転がし手に取るパフォーマンスや帽子掛けに投げたり、その帽子掛けで踊ったり、アステアへのオマージュに満ちている。自分の地位を奪った女性がヘレン・ハント、彼女は残業でシナトラの歌を聞いている。目立たないオフィスガールにローレン・ホーリー、ダイニングカフェのメイドがマリサ・トメイ、彼女はギブソンと一夜を共にし、最高の夜を経験したのに彼から連絡が来ない。ゲイではないかと問うと、ギブソンを彼女の自尊心を思い、そうだと答える。そのときにギブソンがナヨっとした感じや、弱々しくこぶしを握る演技をする。ギブソンが自分がもてるいろいろな技を試した映画といえるだろう。成功したとは言い難いが、マッチョだけではないと見せた意味は大きい。最後は完全に女性の心が自然と読める男になっている。

 

42 マイ・ブックショップ(S)

田舎町の古い建物に本屋を開くが、そこを芸術センターにしたい町の実力者の夫人が事あるごとに邪魔をし、追い出す過程を描く。「ニュースルーム」のエミリー・モーティマー主演、脇にビル・ナイパトリシア・クラークソン。落ち着いた外連味のない映画で、好感である。なんだか久しぶりに気持ちのよくなる映画を見た。

 

43 SNS―少女たちの10日間(T)

冒頭にチェコでSNSで性的な被害を受ける児童の率などが示されるが、驚くような数字だ。20歳以上の女性で幼く見える3人をオーディションで募り、12歳だとしてSNSに登録すると、瞬く間に年配者から連絡が入る。胸を見せろ、もっと見せろと要求し、そう言いながら自慰に耽り、自分の性器の写真を送りつける。延々とそれが繰り返される。最後に実際に21人の男と会うところまで写すのだが、そういう場でも彼らは下半身の話に終始する。スタッフが自宅まで追うのは1名だけ。ふだんキャンプ場などで子どもを相手にしている50代ぐらいの男、自称トラベル会社経営。自分がしていることの何が悪い(児童虐待に当たる、と監督たちが言っても動じない)、かえってネットにアクセスする少女たちの両親こそが問題だ、こんな問題に無駄に時間を使わないで生活保護を受けている“ジプシー”を取り上げろ、と言い出す。アクセスしてきたなかで1人まともな青年がいて、知らない人間に裸を見せてはいけないよ、と言ったりする(あとでスタッフが調べても、その姿勢・発言に嘘はなかった)。その相手をした女性は思わず涙を流す。干天の慈雨と言うべきか。しかし、なぜこの恋人もいる青年がそういう12歳の少女とチャットしようとしたのか、それが分からない。映画のホームページにはリアリティショーと命名しているが、それは間違いだろう。あくまで現実を見せつけた映画である。

 

44 ジェントルメン(T)

ガイ・リッチー監督である。ダウニーJrの「シャーロックホームズ」の監督である。見事に古典的な探偵ものを現代に生かしたものである。その手腕たるや敬服に値する。最近では「コードネームアンクル」を見ている。初期の「スナッチ」は途中で投げ出したくなった映画である、たしか。

今回の映画は、語り手がいて展開するという古臭い手法で、しかも最初にミステリーを置いておいて、劇をそこに向けて進行させるという、これまた旧式なやり方をとっている。でも、充分に楽しみました。現役引退を考えた大麻王が結局、身を退かず何人か人を殺すという変な映画。

主演マシュー・マコノミー、妻役にミシェル・ドッカリー(ぼくはこの女優に心当たりがない。「ダウントンアビー」「フライトゲーム」に出ているのだけど)、部下にチャーリー・ハナム、語り手にヒュー・グラント、若者のトレーナーにコリン・ファレルなど。チャーリー・ハナムという役者さんがいい。理知的で、切れるときは切れる感じがよく出ている。セリフが長く、しかもどうでもいいことをしゃべり続け、そしてどぎつい映像にたどり着く、というスタイルで、タランティーノを思い出した(もしかして真似したのか?)。スターティングロールはまるでマコノミーがプロデュース、主演した「トルー・ディテクティブ」のよう。いま(July12,2021)アメリカのベストセラー5位にマコノミーのGreenlightsが入っている(ちなみに37週ランクイン)。30年以上つけてきた日記が基になっているらしい。やはり才人か。

 

45 海辺の彼女たち(T)

ポレポレ東中野だが、よく客が入っていた。以前、お世話になったのは部落解放同盟の活動を追った古い映画だった。東海テレビシリーズもここで見ている。今回はベトナム技能実習生3人が給料をけちられ、土日も働かされて三月で逃げ出し、冬の新潟の小さな漁港にやってくる。1人が体調が悪く、妊娠していることが分かるが、保険証も滞在証明もない。そこで5万円で偽造を手に入れ、医者にかかるが、小さな生命が息づいている映像を見て、ツーッと涙を流す。同僚2人は始めはかばってくれたのだが、子どもを堕ろす決断をなかなかしないことから、仲違いに。偽造書類を買うことにも、それで足がつかないか心配のようだ。結局、薬を飲んで子を諦めることになるが、その薬を飲んだところで、プツンと映画は終わる。技能実習とは名ばかりの低賃金強制労働、仕事先を選べないことから不法就労に逃げるのもよく分かる。漁村に行ってから彼女たちの暮らすのは納屋のようなところで、一度も雇い人との交流の場面もない。胸を衝かれる映画だが、出来はうんぬんするレベルではない。

 

46 真実の行方(S)

再見である。リチャード・ギアローラ・リニー、そしてエドワート・ノートンローラ・リニーが抜けるように白く、そして美しい。ノートンという役者の映画を追いかけた時期があった。それを「二重性の震え」として、だいぶ前のコラムに書いたことがあった。むかしほどの衝撃を彼から受けることはなくなったが、いまだに気になる俳優で、新作が来れば見ている。

 

47 田舎司祭の日記(T)

1950年、ロベルト・ブレッソン、ぼくは「スリ」を見ているだけ。身体のどこかに不具合を抱えて田舎の司祭となった若者が因習固陋の人びとに接して信仰の揺らぎを覚えながらも、一瞬だけ垣間見せる神の恩寵を信じようとする姿を描く。いよいよ身体がいけなくなって都会の医者に診てもらおうと駅に向かうときに、領主の甥っ子で外人部隊に入っている青年がオートバイに乗せてくれる。司祭は自分も若者であることを思い出し、そこでも一陣の風のような恩寵を感じる。朝日新聞映画評では、神の束縛から逃れたい人々と、今のコロナ禍の閉じ込めは状況が似ている、と書いていたが、神もコロナと一緒にされてはたまらないだろう。その「アクチュアリティと強度」で「現在上映されるあらゆる映画を凌駕する」と大褒めだが、さて、いま上映されている映画に何があったろうか。「ジェントルメン」に「北斎」か、あるいは吉永小百合の「停車場」か。比較が過ぎるかもしれない。

 

48  Nancy Drew(S)

ソフィア・アリス主演、スリラー崩れの青春もの。彼女の清純な感じはいつまで続くのか。たくさん作品が来ることを願うばかり。

 

49 ニューヨークで最高の訳あり物件(S)

写真家の年上の旦那がまた若い子に入れ揚げ、マンションから出ていく。そこに最初のワイフが部屋の権利が半分あるといって住まいはじめる。自立型の女と、いつまでもいなくなった旦那を思い切れない二人の関係を描く。スターティングロールでドイツ語のような名前ばかりで、なんだこりゃ、と思ったら、ちゃんと英語を使うNYが舞台の映画だった。途中で、最初のワイフの娘とその小さな男の子がスウェーデンからやってくる。落ち着いて最後まで楽しんで見ることができた。最初のワイフがカッチャ・リーマンという女性で、とても美しい。

 

50 スノーロワイヤル(S)

トンデモ映画に入るのではないだろうか。子どもの復讐劇に一気になだれ込むかと思うと、白人麻薬組織とイヌイットの遺恨バトルに発展する。その白人側のボスが子煩悩で、妻はアジア系。主人公リーアム・ニールソンの弟で、かつてその組織にいた人間の妻は中国人。最初から、妙に風景がきれいに撮れているな、と思った。息子の死体を見にモーグルへ行くが、下段に入れてあるのをキコキコ音をさせながら上にもってくるのだが、その時間が妙に長い。殺した死体を金網で縛って深い滝に落とすが、その際に谷の反対側から引きの大きな絵で捉えるようなこともやっている。そのボスの息子が頭がよくて、ちっとも拗ねていない、とてもいい子。彼をニールソが人質にするが、寝るときに本を読んでと迫られ、読むものがないからとスノートラクター(?)の説明書を読む。子どもは頭をニールソンの肩に預け、ストックホルム症候群って知っている? と尋ねる。……というような変なことばかりの映画である。どういう脚本になっていて、なぜニールソンはこの映画を受けたのか?

 

51 人生はビギナーズ(S)

マイク・ミルズ監督、「20センチュリーウーマン」を撮っているが寡作、もっと撮っていい監督である。ぼくはこういう小技が利いた映画が好きである。一人引きこもる性格の男(ユアン・マクレガーイラストレーターの役)が友達にパーティに連れて行かれる。そこで出会ったのが女子高生みたいな服装のメラニー・ローレント、彼女は咽頭炎で声が出せず、筆談と身振りになる。それがサイレント映画のもどきになっている。彼の煮え切らなさから別れたあと、思いなおしてマクレガーがNYの彼女のアパートメントに行くと不在。電話をすると、ロスに留まっていると言う。鍵のありかを教えてくれ中に入ると、電話越しにそこはキッチン、つぎはバスルームと教えてくれる。ここにもサイレントの写しがある。彼には父(クリストファー・プラマー、息の長い役者である)が可愛がった犬がいるが、これが言葉を解すことができると言い、その言葉が文字として表記される。こういう遊びも好ましい。マクレガーの父は74歳にしてゲイに本格的に進むが、母親もそれを知っていて結婚したことが分かる、「結婚したら、私が治してあげる」と言ったらしい。彼が描く人物イラストはどこかで見たような筆致だが、自分の部屋に飾ってあるのは60年代のポップな感じで、ほかにルソーのような絵もある。この監督の映画をほかに見たいが、さてその機会があるかどうか。

 

52 ザ・ネゴシエーション(S)

ヒョンビン(「スウィンダラー」を見ている)、ソン・イエジン(ぼくは見たことがないかも)主演、ヒョンビンの悲しそうな顔がいい。人質もので、コンピュータ画面を通したやりとりに終始するので動きはないが、じっと見ていることができる。

 

53 殺人の疑惑(S)

ソン・イエジン主演、父親が少年拉致殺害の犯人ではないかと思い始めたことから物語は始まっていく。お父さん役のキム・ガプスがなかなかよろし。ひたすらに娘を愛するが、裏には別の顔があることも分かってくる。最後の笑いは脚本上の要請なので仕方がないが、違和感がある。イエジンはずっと短パン姿で、上記作でも初登場がタクシーから突き出される脚線美であり、すぐに捜査車両のなかで下着を見せて着替えをするのだが、そういう売りの女優なのかしら。

 

54  いとみち(T)

豊川悦司メイドカフェの店長と店員1人が標準語で、あとは青森の言葉。けっこう何を言っているのか分からないところがある。主人公はほぼ言葉を発しない女子高生いとで、それが青森市メイドカフェのアルバイトを見つける。そこに馴染んだところで、経営者が違法販売で逮捕され、店の存続が危うくなる。寡黙ないとが三味線ライブをやって客を呼ぶ、と提案。あれだけ大人しかった子がダイナミックな演奏姿を見せる。とても抑制された演出の、好ましい映画である。メイドの先輩黒川芽衣が気丈だがすごく優しい感じでいい、店長の中島歩はのんびりキャラだが芯がありそうでいい。おばあさん役の西川洋子(高橋竹苑)といとが並んで三味線を弾くシーンがあるが、いとはきちんと弦を押さえて弾いているが、竹苑はまるで蝶々が舞っているような軽やかな演奏に見える。それで音の切れ、響きはすごい。青森市内でお店をやり演奏も披露していたようだが、2019年の年末に閉店している。やっていれば行きたいところだったが。監督は青森出身の横浜聡子

 

55 一秒先の彼女(T)

まったくぼく好みの映画。ユーモアに小技が一杯で、ヒューマンでロマンスでもある、といった出来である。最初からバレンンタインデーが1日盗まれた、というところから始まる。冴えない郵便局勤めのヤン・シャオチー(リ・ペイユー)30歳は、せっかちで何でもつねに人より先にやってしまう。彼女をめぐる2人の男のうちの1人は、逆に何でも人より遅れてしまう。
独身の彼女を何かとからかう局長、小さいときに失踪した父親、衣装箪笥のなかにいるヤモリ男(舌先がちょろちょろし、後ろに太い尻尾が揺れる、すごく気持ち悪い)、いつも楽しみに聴く小さなラジオのDJはその都度、彼女の部屋の窓に姿を現すが(よく芝居でこういう仕掛けをやる)、どういうわけか口元にぼかしが入っている。隣の同僚女性局員はNHK囲碁教室に出ているプロ棋士のヘイ・ジャアジャアさんで、もてもての役。それに比べてまた今年もヤンは一人のバレンタインデーかと思いきや、奇天烈なことが起きる。その詐術は、さて理屈に合っているのかどうか。チェン・ユーシン監督は長く不調だったというが、これで完全復活か。

 

56 ベスト・オブ・エネミーズ(S)

西部の人種差別の濃い町で、小学校の統合の話が持ち上がる。シャーレットという方法で白人と黒人の混成チームが作られ、2週間で結論を出す。その過程で相手の事情が見えてきて、KKKの地区リーダーは統合賛成の票を投じる。しかし、まちの白人たちに疎外され、経営するガソリンスタンドも干されてしまう。ところが、黒人たちが助けにやってくる。ずっと黒人お断りの店だったのに。

実話を基にした映画で、白人リーダーをサム・ロックウェル、黒人女性アクティビストがタラージ・P・ヘンソン。ロックウエルを主演に据えるとは粋なものである。

 

57  第一容疑者(S)

ぼくが初めてヘレン・ミレン(テニスン役)を見たのが、このシリーズである。こんなおばさんがヌードを、と驚いたのを覚えている。いま女性刑事ものはごまんとあるが、それの走りかもしれない。
NHKの連続ものとして見たのだったか忘れたが、レンタルにもなくて、ずっと見たいと思っていたものだ(未だにレンタルにはない)。それがいまアマゾンで別料金だが見ることができる。やはり細部まできちんと人物像が描かれていて、飽きさせない。大人の警察ものになっている。
パンクっぽいチンピラ役でレイフ・ファインズが出ていたり、田舎警察官にマーク・ストロングがいたり、意外な発見も楽しい。女性脚本家(リンダ・ラ・ブラント)である。単行本が出て、それを本人が脚本化しているパターンのようだ。

58 バケモン(T)

2時間超、じっと見入ってしまう。鶴瓶が「らくだ」を錬磨させていくのを本筋にして、いかに進化し続ける人間かを描く。100(たしか160と言っていたような)を超える素人の話題をしゃべり続ける2時間の舞台「鶴瓶話」もすごい。
母親は他人の家に押し入っても人の不幸を助けようとする人、父親は大店の出で段ボール箱づくり、しかし絵を描くのが好きで、外を歩く姿は品があったと近所の人が証言する。この2つながら鶴瓶のからだに流れ込んでいる。
「らくだ」はぼくの好きな噺で、小さん、志ん生で聴いている。最後に屑屋が酒を飲んで怖くなるところが見せ所である。映画では死人とカンカン踊りの関連も追っていて、両者を結び付けたのは鶴屋南北らしい。それを笑福亭松鶴4代目が落語に創作したとして、鶴瓶は毎年お墓参りに。ところが4代目ではなく2代目であることが分かり、墓も大阪ではなく京都にあった。奇矯破天荒な人で、酒で身体をやられ、右足を切って高座に上がるもあえなく死亡。死体となったらくだと親近性がある。その顛末を映すときに、やけに賑やかな音楽に変わるが、さていかがなものか。
監督は長く鶴瓶を撮ってきたテレビ畑の人らしいが、その説明がないので、知らない人が見ると訳が分からないのではないか。ナレーションが「私」で、だいぶ経ってからテレビ屋だったことも触れられる。死んだら放映していい、と言われながら今回封切りとなったのはどういう事情なのか、それも触れるべきである。そこまでは鶴瓶も禁止はしなかったのではないか。最初に「死んでからな」と念を押されているのだから、公開となった事情は明かされないとおかしい。

間あいだに鶴瓶の名言が、墨痕あざやかな書体で大写しにされるのだが、見事過ぎて何が書かれているか分かりにくい。書道字の字幕を付けてほしい。
ナレーションが香川照之だが、最後までだれだか分からなかった。2カ所、言葉のイントネーションでひっかかるところがあった。最初の言葉は忘れたが、東京風に言うところを語尾を上げて関西風に、次が「癇癪玉」の「かんしゃく」という落語のタイトルで、こっちは頭を高く発音して、そのまま語尾へ低く発音していた。標準語では「く」は心持ち音を上げる感じがある。

 

59 ぼくたちの家族(D)

川の底からこんにちは舟を編むバンクーバー朝日石井裕也監督である。脳腫瘍で記憶が途切れる母親(原田美枝子)が家族をまた一つにしていく物語。ある種の軽さがこの監督の持ち味だが、重くなりがちなテーマをうまく処理したという感じである。ただ記憶障害をうまく利用したといえなくもない運びになっている。早めに症状を出したり、長男(妻夫木聡)が余りにも手際よく対処したりできすぎの感があるが、了としなくてはならない。意図的にやっているからである。父親長塚京三、弟池松壮亮。しつこく可能性のある医者を探したことが吉と出た物語。

 

54 イエローローズ(S)

アメリカ生まれのタイ少女がカントリ歌手へと成長していくそのとば口を扱っている。写し方ですごくきれいに見える。体格も立派で、顔のあどけなさと開きがある。保守的なカントリー歌手とのいざこざがあればもっと感動的なのだが、みんな彼女を受けいれる。作る曲はあまりカントリーっぽくない。

 

55 プロミシング・ヤング・ガール(T)

キャリー・マリガンはいい役を見つけたのではないか。かわいげだったのが、同時に怖い感じも身にまとった。スタイルがいいので、びっくりした。ハッピーエンドか、と思っていると、なんだかそのあとがダラダラする。そうか、と次なる展開を思いついた次第。まさにそのようなエンディングとなった。女性監督エメラルド・フェネル、これが長編第一の映画。製作にマーゴット・ロビーがいる。しかし、彼女が性的に誘った男たちは、間際に拒否されて誰も暴力沙汰に及ばなかったのか。そして、彼女もまた相手を押しとどめるだけ。安易としか言いようがない。手錠の件は、ちょっとね、である。

 

56 トルークライム(S)

再見、イーストウッド監督である。冤罪もので、「ミスティックリバー」「リチャード・ジュエル」も同種の趣向。黒人(ビーチャム)が犯人とされるが、新聞記者が死刑執行日に冤罪を晴らすという映画。最初の10分ほどで手際よく劇の大枠を描くのはイーストウッドお得意のところである。テレビ放送で死刑に使われる薬の種類、量が報じられるのはアメリカらしい。ビーチャムがイーストウッドに無罪をいわれたときの口を空けたまま看守たちの雑談のシーンに切り替わり、またその口ぽかんのシーンに戻るという変なことをやっている。まだ演出に雑味が残っている。イーストウッド共和党支持者だから保守派と考えるのは、この映画を見ても間違いであることが分かる。まったく黒人への偏見など感じ取ることができない。

 

57 イヴの総て(D)

1950年の作品で、いろいろな賞を獲っている。ザナックがプロデュース。主演が40代の名女優役のベティ・ディビス、その座を奪おうとするイヴを演じたのがアン・バクスター。若きモンローも出ているが、目線がおかしく、素人っぽい。イブが最初から企みをもっていたことが後で分かるが、彼女の秘かな野望をマーゴが嗅ぎ取るのが、ハリウッドに行った恋人ビルからの電話。イブから毎日のように手紙が来ている……。

分からないのは、マーゴの友人カレル(セレステ・ホルム)にイヴがマーゴの代役を頼み、マーゴとビル、カレル、その夫ロイドと車でどこかへ向かうシーン。ガス欠になり、ロイドがガソリンを手に入れるために出て行く。数日前に補充したばかりなのに。どうもその日がマーゴが立ち稽古をする日だったらしく、遅れて着く間、イヴが代役を務め、関係者にその力量を知らしめたようだ。カレルは共犯者だったことで後でイヴに脅されるが、そこでガス欠事件のことが明かされるわけである。しかし、なぜにそこまでカレルが肩入れするかが分からない。誰にでも愛されるイヴではあったのは確かだが。主なる登場人物ごとに本人のナレーションが入るかたちで話が進む、という不思議な作りになっている。

 

58 狂猿(T)

葛西淳というプロレス・デスマッチのレスラーのドキュメント。狂い猿かと思ったら、キョウエンと読む。試合や取材には左目に義眼を入れている。
剃刀を立てて板に何十と張り付け、それをロープに立てかけておき、対戦相手の衝撃で飛ばされた時にその刃に背中が切られる。蛍光灯で殴ったり、剃刀で相手の額を切ったり、ものすごく高いところから相手目がけて飛び落ちたり、この47歳は過激である。
頸椎と腰痛でリングに立てなくなった間を撮り、やがて復帰して何戦か戦う姿を追っている。とにかく見ているだけで怖い。そこまでしても食えないというし、子どもはまだ小さい。帯広に住むお母さんは優しそうな人で、それは息子にも遺伝している。プロレスなどまったく興味がないが、そこでしか生きていけない男たちというのは魅力的である。奥さんがとても普通の人で、どこで知り合ったのか知りたいところである。

  

59  オキナワ サントス(T)

1943年に突然、ブラジルに移住し生活していた日本人に収容所への移送が強制される。彼らはサントスという港町に降り、そこに根を下ろすことで、いずれはまた船に乗って日本へ戻ろう、と考えていた。だから、もっと別の土地へ、という選択肢にはならなかった。

命令が出て、翌日には着の身着のままで列車に押し込まれ、収容所へと運ばれる。食料はごく僅かなものしか与えられない。家に残してきたものは掠奪される。彼らに浴びせかけられた言葉は「スパイ」。母国が繰り広げた侵略行為と国際連盟からの脱退などのニュースのたびに、海外に生活の基盤を求めた人々に強い負荷がかかる。

日本人のブラジル移民は現地で比較的好意的に受け入れられた、というイメージを漠然ともっていたが、この戦時の収容もそうだが、戦後、日本は戦争に負けたのか勝ったのかで日本人同士で殺し合いまでに至った経緯は(100人近くの死者が出ている)、ブラジルの人びとに嫌悪感を抱かせたらしい。新憲法に日本人の移民だけは認めないという一条を入れる動きがあったらしい。日本人の謙虚な振る舞いも、周辺の人には何か企んでものを言わないだけと見られたようだ。憲法に特定の民族の排斥をうたうのはおかしい、という議員の声もあって、その動きは撤回されたようである。ちょっと気になったのは、日本人同士の殺し合いをテロと呼んでいることである。かつてゲリラと呼ばれたものもテロと言いかえる動きもあるが、同国人同士の諍いをテロと呼ぶのは違うだろう。

サントスには沖縄出身者が多かったという。その沖縄人を本州出身者が差別し、コミュニティセンターのようなものを作るにも、両者で別々に作るようなことが行われていた。そのあたりのことも、生存者たちのインタビューから分かってくる。

 

60 ボーンコレクター(S)

3回目か、意外と小品だな、という印象である。デンゼル・ワシントンが半身不随になり、自殺願望を持っていることが描かれ、すぐに窓辺に座るアンジョリーナ・ジョリーに切り替わる。手前ベッドで男が寝ている。二人の関係がそれほどハッピーではないことが分かる。ジョリーは警邏巡査なのか、青少年の防犯課に移る気持ちでいる。そこに異常な事件が発生し、デンゼルの推しもあって巻き込まれていく。デンゼルの看護をする太り気味の女性が味がある。嫌われ役の本部長もいい。古い俗悪推理ものをなぞって犯罪を犯す、というアイデは面白く、その殺しに相応しい現場を選ぶというのもいい趣向だが、知的にもデンゼルに復讐したいという感じがいま一つ伝わってこない。

 

61 アジアの天使(S)

石井裕也監督・脚本である。ちょっとこの映画はひどい。何を撮りたいのか、本人も分かっていないのではないか。子連れの弟(池松壮亮)が韓国でビジネスをする兄(オダギリジョー)を訪ねる。目的の部屋に兄はいず、韓国人が一人いて、不法侵入者に食ってかかるのは当然だ。その間、けっこう長い時間を使うが、兄の名前一つ出せば意図は通じたはずだ。作家だというが、そういう機転も利かない間抜けである。

兄は何につけいい加減な人間らしいが、そんな人間に韓国語もできない男が小さな子を連れて渡韓することがおかしい。兄の対応のいい加減さに怒るが、怒る方が悪い。韓国コスメを輸出して儲けて月に100万儲けているというが、倉庫めいた事務所での寝起きである。そこを疑わないのは阿呆であろう。

韓国人パートナーに裏切られたがワカメ事業があるといって、その現地へ行くことに。電車のなかで、デパートで見かけた女性(チェ・ヒソ)に出会う。兄(キム・ミンジェ)と妹(キム・イェウン)と一緒で、墓参りに行く途中。彼女は元アイドルで、いまは再起の最中だが、デパートでは聞き手は数人、館内放送がかかると歌は中断しなくてはならない。そのデパートの地下なのか、別の地下なのか、サングラスをかけた彼女が酒を飲んで泣いているのを、池松が見つけ、声をかけるが、日本語は通じないから無視される。その間、デパートに一緒に来ていた兄や息子のことはほっぽらかしである。親として問題ありでは。

兄は彼らを誘い、宿代を出すから一緒に行こう、と言う。言葉が通じないから、コミュニケーションは当然、深まっていかない。お墓を守っている叔母の家に泊めてもらうが、そこの娘に兄は惚れたらしいが、翌日にはそのことはまったく触れられない。
最悪は、意を決して自分の思いを女性に伝えようとしたときに、彼女は韓国語で「運命の人に会ったのかな?」と言うのに、池松は突然息子を探しに部屋に行き、いないことに気付き血眼になって探すことに。なんなんでしょうか、この展開は。

女性が浜で見かけるしょぼい中年の、腰蓑だけの天使は何の悪い冗談か。その浜辺で、「まだサランヘではないが、それに近い気持ちです」と弟は泣いて訴えるが、ならサランヘになってから言えばいいのではないか。それほど、ガンで亡くした妻のことがいとしいのであれば。

最後、兄はどこかへ旅に出るといい、日本へ帰るはずの弟と息子はなぜかそのまま女性家族の部屋に行き、そこでみんなで食事をするところで映画は終わる。もちろん会話など交わされない。

ただ言葉の通じない人間が一緒に移動しました、というだけの映画。「新聞記者」もそうだったが、言葉の通じない状況を扱うなら、それなりの理由があるべきである。石井監督というのは、こんないい加減な映画を撮る人なんだ。

 

62 愛と希望の街(D)

大島渚という監督は下手な監督だと思っていた。見たのは「愛のコリーダ」「日本の夜と霧」「新宿泥棒日記」「戦場のメリークリスマス」だけだと思う。どれもいいと思ったことがない。「青春残酷物語」の性的なアリュージョンのポスターは小さい頃まちに張られていたのを覚えている。スクリーンの桑野みゆきをまともに見られないのはそのせいである。

この映画はよく出来ている。場面展開が早く、一つのシークエンスは数分と続かないのではないか。俯瞰の映像は2カ所だけ。主人公の少年まさお(藤川弘志)と一緒に長屋の不良と喧嘩した女子高生京子(藤原ユキ。発音が中尾ミエに似ている。語尾が丸くかすれる感じがある)が家のドアを空けて、「ねえみんな見て」と泥だらけのワンピースを見せるシーン。ここはとてもいい映像だ。左の部屋から兄(渡辺文雄)が飛び出してくるが、それも絵的にいい。もう一つは、少年が女子高生の父親が重役を務める会社の入社試験を受けるところ。

冒頭の急迫の音楽がその試験のときに流れる。もう一か所、ラスト近く、少年がハトの箱を鉈で壊すシーンでバイオリンだかの静かな音楽が流れる。緊迫の場面には静かな音楽を、という黒澤理論である。あとは伴奏なしの映画である。

いずれ飼い主に戻ってくるハトを売る少年、ハトやネズミなどの死骸ばかり描く知恵遅れの妹、肺病やみで寝込みがちな母(望月優子)、この家族はとても紐帯が強い。母は息子(中学3年生)には高校に行ってもらい、貧困のまちから抜け出すことを念じている。まちで靴磨きを生業にしている(許可証が要るらしい)。

少年は、母に早く楽をさせたい、働いて夜学に通おう、と思っている。生徒思いの先生(千之赫子ちのかくこ、目力がある)、熱血漢の女子高生、先生に思いを寄せる女子高生の兄が、この家族をめぐる主な人々である。
女子高生はじつに率直な人で、貧乏人は暗い生活をしていると思ったら、あなたのところは違うのね、と言う女である。少年のハト詐欺を知り、そのハトを兄に撃ってもらうことで、彼女の熱情の限界も見える。
先生は目をかけていた少年がハトの詐欺を働いていたと渡辺に教えられ、一時は不信感をもつが、そのまま少年の家に行くことで、仕方がなかったのだと思い直す。「また別のいい就職先を見つけるわ」と言って出て行く。渡辺とは、やはり付き合い続けることができない、と断る。

ハトを売って稼ぎが出た少年は横に座る靴磨きのおばちゃんに施しをする。少年が靴磨きをしていると警官が来て、許可証がないなら立ち退きな、と言いおいていなくなる。そのときに、横のおばちゃんがちゃりんと空き缶にお金を入れてくれる。このあたりの細かさも必要である。

場面の切り換えで多用されるのは、モノの拡大である。まちの雑踏からネズミの死骸へ(妹が持っている)、女子高生が先生に「父に採用試験の話をしてみます」と言うと死んだハトを持つ母親の映像へ、先生が渡辺の会社へ採用枠拡大を頼みに行ったあと豚肉のステーキへなどなど(女子高生の家の晩餐)。安易といえば安易だが、スピード感が出るのと、何かざらざらとした感覚が残る。

ひとつ面白い演出は、初めて先生と渡辺が港の見えるレストランで食事をするシーン。カメラが二人を横から撮っていて、遠くにぼんやり見える船に寄っていき、そのまま退いてくると食事は最後のデザートのメロンになっている。おしゃれである。

大島作品の初期のものを見てみるつもりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年の映画

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奈良旧遊郭内銭湯


T=映画館、S=ネット、D=DVD

映画はわが一部だ――自身の人生のありえたいくつかの可能性を映し出してくれる。見知らぬ過去や未来であろうと、異世界であろうと、遠い異国であろうと。失われた自分の一つひとつに、われわれはスクリーン上で奇跡のように出合っている。

 

 

 

1 パラサイト(T)

封切りが待たれた映画である。なんでアメリカが先に公開なのか、日韓のわだかまりが影響を与えたのかどうか。ポン・ジュノ監督がカンヌで受賞したのは慶賀にたえないが、出来は過去の作品に劣る。半地下に住む家族が金持ちの家族に取り付いていく話だが、相手に疑いの目がないから、緊迫感がない。とくにイリノイ大学を出たという嘘で入り込んだ娘がなぜばれないのか。相手家族は英語好き家族なのだから、ハラハラする、何か演出が欲しい。一番の問題は結末に向けて、途中で何度も理屈を付けておくことである。そんなことはしない監督のはずである。

 

朝日の論壇で、津田大介が増保千尋の「徹底したリアリズムと際どいブラックコメディ」という言葉を引いて論を展開しているが、この映画のどこに「徹底したリアリズム」があり、「際どいブラックコメディ」などがあると言うのだろうか。残念ながらポン・ジュノの衰えをぼくは感じる。韓国映画の良さは、リアリズムを無視した激しさにある。だからこそ響いてくるし、リアルな現実を感じさせもするのである。人を包丁で殺したからといって、際どいブラックコメディは笑わせる。「キムジャさん」で見せた人間解体の血みどろが韓国映画なのである。

 

半地下の家族は、当然のごとく詐欺を連続させていく。なにか前にもこういう手口を使ったことがあるような様子である。だとしたら、それ関連のちょっとしたシークエンスもはさんでほしい。

金持ち家族がキャンプに出掛けたすきに、半地下家族が酒盛りをしながら、だらだらと会話をする。カメラを横移動するだけで演出がない。このだらけた感じが逆に賞狙いで撮った絵のように見える。

 

単調さを脱するために仕掛けを一つ用意するわけだが、それも何だかな、である。辞めさせられた家政婦は知的な感じがしたが、再登場したときに落差が大きすぎる。ラストの殺しで韓国らしさを出そうとしたが、迫力に欠ける。身体に沁み着いた臭いが引き金になる、というのも、途中に何度もそう匂わせて理に勝ちすぎて、面白くない。どこにも突出した暴力性がない。

全体に手が込んでいないのである。題材が面白いので、そこにもたれて終わってしまったのではないか。映像的にも面白くない。

 

ぼくはポン・ジュノは「グエムル(4、5回見ている)」「殺人の追憶(10回くらいか)」「母なる証明(2回)」しか見ていないが、いずれもこの映画より格段にいい。お母さん役をやった女優チャン・ヘジンが、衣装と化粧を変えると、かなり印象が違う。演技はそれほどうまくないが、もっと彼女を動かしたら面白かったのではないか(彼女はイ・チャンドン監督「シークレットサンシャイン」「ポエトリー」に出ているが、記憶にない)。ソンガンホと喧嘩になりそうになったときに、体技ができそうな様子を見せた。実際、前の家政婦を見事に足蹴にしている。残念である。金持ちのお父さんイ・ソンギュンは何かで見ているが、思い出せない。似たような役だったと思うが、声をはっきり覚えている。

客はよく入っている。しかし、韓国映画、笑い声の一つも起こらないのであれば、できは悪いとしたものだ。

 

2 ダウントンアビー(T)

連続テレビドラマの映画版らしい。悪人はほぼ出てこない。王の従僕とアイルランド北部独立を画策する人物だけが悪(といっても、後者はいわゆる主義者だから悪党とは言いにくいのだが、本編では国王暗殺を狙っているので、一応悪役扱い)の刻印を押されている。クローリー家の住まうダウントアビーに国王夫妻が1泊することで様々な事件が巻き起こるが、基本的には2つ。衰えゆく貴族の諦めとダウントンアビーの下僕たちの逞しさである。結局、彼らを救う可能性があるのはお抱え運転手から三女の旦那となったトムであり、ダウントンを引き継ぐことになる私生児のルーシーである。どちらもアウトサイドな人間である。この二人はきっと結婚し、ダウントンを守っていくだろう。

登場人物の多さとそれぞれが抱える問題を手際よく処理して(執事の同性愛まで出てくる)、全体に優雅さが保たれている。劇が始まるまえに簡単な人物紹介があるが、別にそんなことをしなくても、それぞれの個性が際立っているので、筋を追うのに困らない。ただラストのダンスシーンがちょっと長い。いくつもここで解決されることがあるが、下僕たちの反乱でひと山越えたあたりなので、よけいに長く感じる。

この映画は古きよきイギリスにあった、階層を前提としたコミュニティの再評価ということになるのだろうか。ブレグジットでイギリスは4カ国に分裂するのではないか、といわれる時代に、この映画が意味するものは何か。

上位層と下僕の反目、それに登場人物の多さ、舞台が貴族の館(マナーハウス)という設定では、アルトマンの「ゴスフォードパーク」が思い出される。ずいぶん昔の映画である。

 

3  フォードVSフェラーリ(T)

フォード2世(デュークと呼ばれる)が会社の停滞を破りたいと考える。アイアコッカという不採算部門の統括がスポーツカーへの進出を提言する。フォードはフェラーリ買収に動いて、いいように袖にされたことで、ル・マン参戦を決意する。そこで白羽の矢が立ったのが今はレーサーから引退してカーセーラーをやっているマットデイモン、それと天才的なレーサーかつ整備士のクリスチャン・ベイルアウトローな二人を排撃したいと考える副社長が、ことあるごとに邪魔に入る、という進行である。アイアコッカを演じたジョン・バーンサルがなかなかいい。副社長のジョシュ・ルーカスもよく見る俳優である。

 思ったほど主人公2人はアウトローでもないし、副社長の反対も激しいものではない。ただやはり唸りを上げてサーキットを走り回る映像は神経が集中して、疲れる。クリスチャン・ベイルの妻カトリーナ・バルフは少しかつてのレニー・ツェルガーに似ていてグッド。もっと出演作が増えてほしい。レニーのジュディ・ガーランドもやってくる。

 

4 ジョジョ・ラビット(T)

監督タイカ・ワイティテというニュージーランドの監督、マイティソーを撮っているらしいが、その種の映画を観ないので分からない。感じはジャン・ピエール・ジュネの傑作「天才スピヴェット」に近い。完成度からいえば、後者に軍配が上がる。最初に展開されるナチおちょくりのシーンは、わくわくした。「キャッチ22」のような風刺がどぎつく利いているからだ。少年がナチのトレーニングに行こうと意を決して家を出た途端、ビートルズのI wanna hold your handがかかるのだから、たまらない。幻のヒトラーを演じているのが監督で、脚本も手掛けている。しかし、これが意外感がない。びゅーんと2階の窓から外に消えていくシーンは面白かったが。もう一工夫あれば、この幻は生きたはずである。

少年たちを訓練するのがサム・ロックウェルで、最高の配役ではないだろうか。この人の唇をなかに巻き込んだような発音が大好きである。主人公を助ける役回りなのも好感である。お母さんがスカーレット・ヨハンソンで、そうか彼女もお母さん役なのか、と感慨なきにしもあらずである。

匿われるユダヤ少女がトーマシン・マッケンジー、そしてとぼけたジョジョを演じたのがローマン・グリフィン・デイビスで、達者なものである。彼らが記す「おい、ユダヤ人」の中の線画は素晴らしい。ジョジョのでぶっちょの友達もグッド。ジョジョが友達の一番はヒトラーで君は二番目、でも君の内面に別の人間が潜んでいれば別だけど、と言うと、ふとっちょは残念そうに、「ぼくの中身も、残念だけどふとっちょなんだ」と言う。このシーンは得がたい。ジョン・バンヴィルのちょっとしたジョークを思い出す。

恋心が分からない息子に、おなかのあたりが蝶々がもぞもぞする感じと母親が教える。文字通り少年の気持ちをその映像で表現するおかしさ。

途中で母親ヨハンソがいなくなる。少女と少年の交流を描くのに邪魔だったのかもしれないが、ナチに捕まったのなら、それは途中で何か挟むべきである。母親が逮捕されて、少年や少女が当たり前に過ごしているのはおかしい。

 

5 さらば愛しきアウトロー(S)

レッドフォードがお年を召されて痛々しい。若い頃の写真が出るが、本当に美しい。それに比べてシシー・スペイセク(歌え!ロレッタ、愛のために)は老いてチャーミングである。刑事にケイシー・アフレック、相変わらず発音が悪い。黒人の魅力的な女性ティカ・サンプターと結婚し、かわいい子どもが2人いる。優しく楽しい銀行強盗であるレッドフォードに多少同情的である。泥棒仲間がトムウエィツ(だみ声の長ゼリフがいい)にダニー・グローバー(リーサル・ウェポン!)で、グローバーはセリフ自体が少ない。老いて安住せず、また銀行強盗を働きに行くところで終わる。

 

6 ザ・ファブル(S)

 岡田准一主演で、年末に劇場で見ようか迷った映画である。これはよく出来ている。「イコライザー」と「ジョンウィック」を足して2で割って作った映画だが、アクション場面も納得だし、筋も破綻がない。柳楽優弥が切れた極道をやっているが、これが韓国映画のキレ役者みたいでグッド。「アジョシ」の悪党の弟分を思い出した。もっと柳楽君に暴れさせてほしかった。彼が敵方につかまって縄で縛られるので、活躍の場がない。それにこの巨大工場での格闘シーンは、もう少し演出がほしい。

岡田がスタイルが悪いのが、ちと残念。やはり侍がお似合いか。日本もこういう映画が作れるのね、である。ファブルというのは伝説、作り話で、そう呼ばれた殺し屋が一般人になれるかという設定。

 

7  アフター・スクール(S)

30分も見たろうか、あえなく沈没。大泉洋、佐々木蔵ノ介主演。映画を選べ、である。

 

8 イクストリーム・ジョブ(T)

韓国で大入りの映画である。お得意のシリアスとコメディの合わせ技かと思ったが、コメディの時間が長い(やや不満)。けっこう笑わせてもらった。うだつの上がらない亭主(刑事)が張り込みに使った唐揚げ屋が繁盛し、その余得でグッチのバッグを買っていくと、女房がいそいそとシャワーを浴び始める。韓国には珍しい下ネタのくすぐりである。「家に帰るのが嬉しくなったが、恐くもある」というセリフもある。うしろの席のおばさん連の笑い声が絶えない。

かなり後にシリアスの場面が用意されていたが、そこで種明かしされるものがあって、ここでやるのか、と感心した。格闘シーンも満足である。女優に少し記憶があるぐらいで、ほかの役者がまったく知らないひとばかり。班長を演じたリュ・スンリョンは有名な俳優らしい。

 

9 ジョン・ウイック、パラベナム(T)

この映画、3度目か。ハル・ベリーが犬を殺されて支配者に盾突く。そもそもこのシリーズが始まったのは、ジョンが愛犬を殺されたから。ハルの戦い方もジョンとそっくり。近接で敵面撃ち、相手の腕をつかんだまま他の敵に対処し、それが終わるとすぐに腕をたぐってまた顔面撃ち。弾が切れたら相手の弾倉を奪い装填し、すぐに射撃する。

相変わらず変な日本人もどきが出てくるが、英語がしゃべれて、格闘技ができる日本人俳優がいないからこういうことになる。そもそもハリウッドには日本文化へのリスペクトがない。適当につくっておけばいい、という感じで、まったく考証をしていない。きっとオリエンタル全体に関して、こういうことをやっているのだろう。

 

10 プロヴァンスの贈り物(S)

リドリー・スコットで、ラッセル・クロウとマリオン・コーティヤールが出ている。お爺さんはアルバート・フィニー、その隠し子がアビー・コーニッシュラッセルはリドリーとずっと組んでいる。楽しく見ることができたが、せっかく幻のワインが出てくるのだから、もっと驚きの演出をしてほしい。

 

11  寅次郎紙風船(S)

28作目で音無美紀子岸本佐知子が客演。音無がとてもきれいに見える。こちらが齢をとらないと分からない美しさである。小沢昭一が歳の離れた極道の夫で、寅が見舞ったあと、おっち(死)んでしまう。同じ稼業のおまえが女房を引き取ってくれ、と言い残す。しかし、小沢先生がそんなにひどい極道に見えない。

まえにも書いたように寅はそっちの世界ではまともな人間に見える。それが柴又に帰ってくると調子が狂っていく。それは色恋だけのことではなくて、まともな表稼業の人間に触れることで軋轢が高まっていく。虎屋の人間は、ごくつぶしの、癇性の、手前勝手な男でもどうにか救ってやろうと思っているから、寅はいい気になって腹の虫の動くままに振る舞ってしまう。旅に出ると、そのダメさ加減が消え去って、世慣れた、世間知の豊富な男に見える。

じつは旅に出た寅が本物なのではなく、そっちのほうが虚構なのだ。寅が旅先ではかっこよすぎるからだ。音無にかける言葉も色男のセリフだし(実際、あとでさくらに「寅さんってモテるんでしょ?」と聞いている)、岸本と話すときは哲学者のような顔をしている(岸本も「最初の顔の印象と違う」と寅のことを評している)。それが柴又に来ると通用しないのだ。世捨て人でいることができない。一宿一飯だけでは終わらない。

タコが茶々を入れる、好きな女には遊ばれる、光男に「ダメおじさん」と見透かされている。寅が旅に出るとさっぱりした気持ちになるのはよく分かる。それは、ふつうの人間が旅で感じているのと同じことを感じているにすぎない。やはり憂き世のほうがつらいのだ。それではなぜ柴又に頻々と舞い戻ってくるのか。きっとそのまま旅を続けていると、人外に出て帰れなくなる気がするのではないか。おいちゃんおばちゃんに、ちゃんと寅の弔いはしてやるから、と言われて、すごく寅はうれしそうな顔をする。旅先で突然死んでいく仲間を幾度も見てきて、骨身にこたえているのかもしれない。

 

12 寅次郎かもめ歌(S)

26作目、伊藤蘭、村田雄浩、松村達雄が夜間高校の校長。旅先で仲間の死を知って、奥尻にいる娘のところへ弔いに。その娘が東京で学校に行きたい、というので世話をすることに。寅がいつもの居間(?)で話しているときに、うしろにさくらがいて、横を向いて無視している感じの表情が、本当のきょうだいのようだ。松村が国鉄職員のトイレ掃除の詩を読むが、趣味が悪すぎる。伊藤がよりを戻しに来た村田と外泊して帰らなかったことに寅が怒り、虎屋を出て行く。本当に勝手な男である。家族でなければ相手にしたくないタイプである。でも、かつてはこういう困りものが家族には決まって一人はいたものだ。寅が好き勝手やれるのは、虎屋の空間にしかない。

 

13 グッドライアー(T)

ヘレン・ミレンイアン・マッケラン、監督ビル・コンドン(「シカゴ」「グレイテストマショーマン」)。残酷な映画である。一カ所、孫のスティーブがあとで、ベルリンで失敗してごめん的なことを言うが、それが何を指しているのか分からない。何かウェルメイドとは言い難いものがある。レッドフォードそしてこのマッケラン、老いて意気盛んな詐欺師が主人公である。

 

14 スリーディズ(S)

ラッセルクロウ主演、女優エリザベス・バンクス。監督ポール・ハギス、リメイク版らしい。ぼくは2度目、ハギス監督は「クラッシュ」「サードパーソン」を見ている。「ミリオンダラーベイビー」の脚本で注目をした人である。そのあと、最近の007の脚本も書いている。この映画もよくできているが、綿密な計画が破綻したあとの切り抜け方が、なあーんだという感じである。ラッセル・クロウの肥満度がそろそろ危ない。獄中にいる妻が彼の髪を撫でながら、なんて美しいんでしょ、と言うシーンがあるが、さてどうか? というところである。

 

15  ナイブズアウト(T)

The Knives are out.は「ほらナイフが出たよ」ということで、誰かが誰かのことを不快に思ったときに言う言葉のようだ。あるいは、誰かが誰かを傷つけるときに、「これが本音(ナイフ)だ」という意味でも使うようだ。でも、ナイフがそれほどこの映画で意味をもってくることはない。古典的な探偵(ダニエル・クレイグ)の当てっこもので、それも被疑者一か所閉じ込め型である。それをみんなイギリス俳優のような顔をした面々が、テキサス訛りの探偵に足止めを食って詮議の対象になる、という映画である。劇の中心にいるのがマルタ(アナ・デ・アルマス)という移民の子。嘘をつくと吐く性癖があるので、やったことだけを正直に言う、という変な切り抜け方をする子である。つまり良心から吐いているわけではない(なんだかカントの絶対正義の議論を思い出す)。それが最後、心から人を救うのである。なんとなくアウントン・アビーと似たような結末となる。次男の嫁を演じたトニ・コレットは女刑事もの「アンビリーバブル」をNetflixで見ている。

 

16 バンブルビー(S)

封切りで見るのをためらった映画である。トランスフォーマー物である。なぜ日本のお家芸が実写版で進化しなかたのか、残念である。1作だけヒュージャックマン主演で、ぼろっちいトランスフォーマーが活躍するのを見たことがあったが、なかなかこれが良かったのである。このバンブルビーは宇宙からの使者的なものので、それを追って来る敵との戦いが主で、大味に。女優はピッチパーフェクト2で見た子である。不思議な顔をしている。

 

17 初恋(T)

三池崇監督である。緊張感なし。主演の女優を前田敦子に似てるなと思いながら見ていた(本当は小西桜子)。染谷将太という役者が面白い。内野聖陽が最後までだれか分からなかった。ベッキーはちんぴらの女の役だが、なんでそんなに強いのか。大森南朋という役者は相変わらず下手くそだ。うまい振りをするから、余計に困る。主人公の脳腫瘍判定が間違っていたというのには、ご都合主義もいい加減にしろ、である。途中のアニメもバツ。中国マフィアと日本やくざの対決など、古すぎる。三池は終わったか。

 

18 レイトナイト(S)

エマ・トンプソン主演、TVキャスターが落ち目になり、インド人の元工場勤めの女性を対外的アピールのために雇うが、徐々に実力を見せつけ、彼女の最大のサポーターとなる。トンプソンの映画は7本見てきたが、どれもあるレベルで、楽しんで見ることができる。

 

19 福島フィフティ(T)

 津波のシーンは恐いが、一般の人が飲み込まれるシーンはない。あくまで原発への影響を追っている。中身も東電の現場の捨て身の献身と、東京にいる「本店」といわれる人間と権力を振り回すだけで邪魔をするだけの政府幹部との対比を描いている。結論は、人間は自然を舐めていた、である。確かにそうだが、そんなことは頭から分かっているわけで、映像だけをリアルにした映画で終わってしまうのではないか。あの災害が東電の犯罪であることを隠ぺいしている。米軍の友達作戦に時間を割いているが、これは何のためのサービスなのか。支援に来た自衛隊員より数が多い、ということを言いたのか? あの米軍のなかから被爆者が出ているというのは本当か?ある方が、この映画は特攻隊を描いたものだとおっしゃった。慧眼である。原作が門田陸将である。

 

20 ふきげんな過去(S)

前田司郎監督、二階堂ふみ(娘)、小泉今日子(本当の母)、高良健吾、近藤公美(育ての母)、梅沢昌代(祖母)、板尾創路(父)、山田望叶(めい)。近藤と山田がいい、二階堂はワンパターンか。死んだはずの母が爆弾犯という設定で、またシナイ半島に出かけるという。死んで何か変わったことは? 生まれ変わった気分になれた、しばらくは、という会話はいい。畳みかけるように話す派=祖母以外の女、ゆっくり話す派=男全部という構図になっている。テイストは好きな映画だが、パレスチナへ行く根拠は? 

 

21 ジョン・F・ドノヴァンの死と生(T)

女性陣が豪華で、主人公の母親がナタリー・ポートマン、主人公が憧れるTVスターの母親がスーザン・サランドン、そしてスターのマネジャーがキャシー・ベイツ。ナタリーが以前の1.5倍は膨らんだので、はじめ誰だか分からなかった。サランドンをずっと昔から見ているが、この人は変わらない。アップのシーンもあるが、ほんとにきれい。ベイツもそれなりに若い。監督はグザヴィエ・ドラン、「たかが世界の終わり」を撮っている。 レア・セドゥが見たくて見た映画だ。なにかきれいなシーンがあったが、忘れてしまった。なかにゴア・ヴィダルの名が出てくる。AdeleのRolling in the deepがいい。彼女のアルバムはだいぶ前に一枚だけ買っている。Adele19というやつだ。

 

22 ジュディ(T)

ジュディ・ガーランドは「イースターパレード」を先に見て、それから「スター誕生」、ようやく「オズの魔法使い」である。オズは見るつもりがなかったが、誰だったかアメリカ人がよく笑うネタが仕込んである、と読んだことがあって、それで見た映画である。本作は「スター誕生」のあと、人気が翳り、失意の中にあるときにイギリス興行が仕組まれ、いやいや子供を置いて出かけて、歌手としてライブショーをやるところを描いている。イギリスでは人気だと聞いて、あの人たちは変わっているから、と言うシーンがあるが、アステアも熱狂的に迎えられた。「イースターパレード」にアステアと出ているので、そのことと関連があるのかどうか。

遅刻癖、すっぽかしなどが重なって映画会社とうまくいかなくなり、イギリスにやってきたわけだが、ルイス・B・メイヤーがジュディをきつく叱るシーンがある。妙な照明の場面で、説教のあと人差し指をゆっくりジュディの胸の間に触れる。これは性的なアリュージョンである。

ジュディの気まぐれ、すっぽかしの癖がロンドンでもまた出てくる。しかし、最後は観客にも助けられていいショーを行うことができた。つい落涙。その3年後にジュディは薬物の過剰摂取で亡くなる。最後の華が咲いたことを思えば、彼女は幸せだったかも。子どもと一緒にいられない悲しみがあったとは思うが。途中でライザ・ミネリ役が出てきて、これからショーをやる、と言うシーンがある。まだ「キャバレー」を撮るまえの話だろうか。「キャバレー」はそれこそ何度見たことか。

 

23 三島由紀夫対東大全共闘(T)

最終回の上映なのに、まあまあ客が入っている。三島が演技者のようにふるまっている。場数を踏んできたのだろうか。議論はまったく抽象論で、そもそも三島がそこに誘い込んだ感じがする。学生たちはそういうレベルでしか議論ができないからである。あの抽象度の高さでは、時代を撃つことはできないし、後世に影響を残すことはできない。

その会場にいたらしい橋爪大三郎が、全共闘は負け戦を清算しているのだ式のことを言っていたが、さて本当か? ナレーションが「言葉と敬意と熱情があった」とまとめていたが、だから何なんだ? 平野啓一郎が、結局言葉が現実を開いていくしかない、と言っていたが、それでは三島の悪戦苦闘が余りにも報われないだろう。ぼくは三島にとって天皇も肉体も結局は虚構でしかなかったように思う。そのことに気づくのは、とてもつらい。三島の後ろに大きな黒板があり、その上に「小川プロ作品→部屋番号」と書かれたビラが見える。きっと三里塚を扱ったものが映されていたのだろう。歴史が交錯する。

 

24 博士が愛した数式(S)

とてもウェルメイドな映画である。数学者を持ちあげすぎているが、それは仕方がない。深津絵里は非常に細かい表情ができる人だ。たしか「阿修羅のごとく」で椅子に座るシーンだったかで、とても動作が良かった記憶がある。そして、寺尾聡もいい。最後のキャッチボールのシーンの表情のいいこと。タイトルロールで流れるのは、ソプラノ森麻季の歌。その選択もいい。監督・脚本が小林堯史で、「雨上がる」「阿弥陀堂だより」などを撮っている。安定した映画を撮る監督なんだろう。最後にウイリアム・ブレイクの詩が読まれるが、監督の訳らしい。ブレイクといえば大江健三郎だが、さてその影響があるのかどうか。

 

25  I'm not ok with you(S)

Netflixオリジナルのシリーズ1の7作だけ。ソフィア・リリスがキム・ダービーにそっくり。Youtubeなどでインタビューを見ると、まったく似ていないが、作品の中の彼女はよく似ている。すでにEllen Degeneres showにも出ている。ITにも出てるらしいが、怖い映画なので、たぶん見ない。

 

26 家族(S)

このあたりの山田映画は見たくないが、ある解説にロードムービーとあったので見ることした。長崎臼杵伊王島から北海道標津まで家族が5人、途中で赤ん坊が亡くなるから4人でたどり着くまでを追っていく。その間に、昔の映像なども入れながら進むのが、それがごく自然である。その動機は人に使われるのが嫌だということで、井川比佐志が家長を演じ、妻が倍賞千恵子、祖父が笠智衆である。福知山に大会社(セメント?)に勤める弟がいるが、着いて話をすると、内情は楽ではない。祖父をそこに預けるつもりだったが、倍賞が連れていこうと言い出し、長旅を一緒に。

東京で赤ん坊が具合が悪くなり、宿を取りたいと倍賞が言うと、井川は大阪で万博を見たりして金を使ったと渋るが、結局、泊まることに。医者を探すが、3軒目で赤ん坊が死亡。

 標津に着き、懇親会で炭坑節を歌い、その夜に祖父が死んでいく。この家族はキリスト教ということもあるのか、あまり死の場面がしめっぽくなってこない。

最後は、2カ月後の緑一杯の丘陵である。

倍賞に珍しいシーンがある。出立するのに資金が足りず、まえから倍賞に色目を使っていた金貸し、花沢徳衛に3万円を借りる。そのときに、花沢が太ももを触ったりする。それを倍賞が余裕をもっていなす。

 

27 スタンドオフ(S)

 膠着状態の意味のようだ。登場人物3人、同じ場所で終始する。これが最後まで見ていることができる。殺人を見た少女を殺し屋が追いかけ、一軒家に辿りつくことが劇が始まる。主演のトーマス・ジェーンという役者は知らない。脇の殺し屋がローレンス・フィッシュ・バーン、「ジョン・ウィック」でNYの闇の帝王を演じている。少女はあどけないようでいて、妙な色気がある。

 

30 味園ユニバース(D)

もう5回目くらいになるだろうか。山下敦弘監督は数本見ている。音楽ものに才があるわけだから、そこを極めてほしい。一つ解決がつかない問題がある。主人公のポチ男は暴力団に追われているわけだが、それはこの映画のラストでも解消はされない。

 

31 yesterday(S)

封切りで見逃した映画である。全世界の停電でビートルズが記録から消えた。その停電事故でけがをしたインド人ミュージシャンが、病院で見舞いに来た素人マネジャーに「64歳までよろしく」みたいなことを言うと、彼女は何で64歳? という顔をする。ビートルズのWhen I'm 64である。事故で歯が欠けたので歯医者に行くと、君の父親には助けてもらった、と医者が言う。これもビートルズのWith a little help from my friendである。そういう小さなアリュージョンがあって、退院を祝ってくれた仲間にたまたま歌ったyesterdayが大うけ(ぼくはもうこのシーンで泣けてしまった)。みんなが初めて聴く曲だということに気づき、ネットと調べると一切ビートルズ関連が出てこない。あちこちでビートルズ曲を歌うが、なかなか受けない。だが、一人の有名シンガーが自らのコンサートの前座に出場させ、そこから快進撃が始まる。ダニー・ボイル監督で、「トレインスポッティング」「スラムドッグ」「スティーヴ・ジョブズ」を撮っている。

 

売れないインド人の歌手ジャックがほとんど客のいない海のレストランの板床で歌い、次が小さなレストランで歌うが、やはりまったく反響がない。さっと映画タイトルが出て、Tの上にアニメのかもめが留まっていていて、ささっと飛び立つと実景に変わり、かもめ10羽位が屋上を舞う倉庫が写る。次に庫内のシーンに変わり、ジャックが働いている姿を映し出す。この一連のシークエンスのキレのよさは抜群である。いい映画だな、という予感が圧倒的である。メジャーデビューのためにL.A.に行くが、陽光の下で鳴り響くのがHere comes sunである。演出がいろいろ効いていて、大満足の映画である。

 

32 人生劇場 飛車角と吉良常(S)

内田吐夢監督、ひどい出来の映画だ。脚本が悪ければ、どこかで演出が工夫をすべきと思うが、それもしていない。すべてがおざなりの、ご都合主義のストーリーである。この人はやくざ映画に向かないのではないか。ただし、最後の殺し合いの場面、暗転して迫力がある。この暗転は「飢餓海峡」でも使っている。

沢島忠の正編は演出の冴えが光った逸品で、東映の新たな路線決定の狼煙を上げただけの価値のある作品である。

藤純子がバーの女のような髪型で、それはそれで美しいのだが、やはり違和感がある。健さんの演技は、古いパターンの映画の中では浮いている。後年までもった理由がよく分かる。辰巳柳太郎の吉良常は渋い。臭い演技がなんともいえず味がある。沢田正二郎の親分役も苦み走っていて、いいが。

 

33 ダーティハリー(S)

イーストウッドが監督である。ちょっとベタな部分(後ろから黒人が銃を持って近づいていくるが、じつは同僚、あるいは、過去の場面に入るのに、眼をアップするなど)もあるが、非常にスマートに撮っている。ヒロイン(サンドラ・ロック、たしかイーストウッドの離婚したかみさん)が事件現場の小屋に近づくときに、小屋と顔を逆方向のショットで何回か繰り返す。こういう細かい技をドン・シーゲルから学んだのか、あるいは研鑽の賜物か。音楽はラロ・シフリン。前に見た映画だが、ほとんど忘れていた。見直して良かった。

 

34 ソルト(S)

2度目である。そもそも女性がアクション映画の主人公になるのは、ニキターが最初か。それはまだ鍛えられていたから納得がいくが(さすがリュック・ベンソン)、いかにもその体形は違うだろうというのの最初が、アンジョリーナ・ジョリーの「トゥームレイダー」ではないか。それからは、見境いがなくなった。しまいにシャリーズ・セロンまで飛んだり跳ねたりしてしまった。ヨハンセンも同種のものがあり、指を回すと敵が倒れるというところまでいってしまった(だけど、なぜ彼女がアベンジャーズに参加したか、という映画は見てしまうかも)。モンスターものでも歯止めがなくなって、ハルクをエドワード・ノートンまでがやるようになったのと事情が似ている。ハリウッドは一度当たると、インフレーションを起こすらしい。老人アクションはリーアム・ニールソンが火付け役で、猫も杓子もその手の映画ばかりである。しかし、このソルトはかなりぎりぎりまで種明かしをしないのが利いている。アンジョリーナはアクションものが印象に強い珍しい女優である。

 

35 ブランカとギター弾き(S)

 長谷井浩紀という監督で、もともと海外で仕事をやってきた人らしく、この初の長編はイタリア資本のようだ。この映画、すべてフィリピン人、フィリピンが舞台で撮っている。身寄りのない少女が盲目の老人ピーターという街のギター弾きと知り合い、まるで親子のようになっていくまでを描いている。ストリートで生きる小さな男の子も彼女を姉と慕い、もう悪に染まっている兄貴分から離れて彼女と一緒になる。

映画って何かと考えざるをえない。なにも奇抜なこと、特別なことがないのに、身を入れてこの映画を見てしまう。それはきっと細部がきちんと描かれているからだろう。ブランカと少年が夕陽を見ながら、その色の変化を楽しみながらしゃべるシーンなど印象に残る。鶏が飛べると信じたり、母親が金で買えるものだと思ったり、素直なブランカを描くのも、ねじくれた貧民の世界で彼女がまだきれいな魂を失っていないことを示している。いい映画を見たと思う。 

 

36 男はつらいよ34話 真実一路(S)

 歯切れのいい出来で、ところどころ自然に笑ってしまう箇所があった。米倉斉加年が客演で鹿児島出身の証券マンという設定で(脱世間的な東大の助教授役もあった)、苛酷な日々から蒸発をして行方が分からなくなる。船越英二も「相合傘」で同じような役どころをやっていた。高度成長の歯車からとりこぼされる人間たちの受け皿としての寅、ふだんそんな人種と交わったこともない寅屋の面々。大原麗子が妻役で、ピンクがかった和服で柴又に姿を現すが、まるで玄人さんである。やくざ稼業の男を連れて鹿児島へ飛び、一緒の旅館に泊まろうとするのは、寅以上に非常識である。寅は「おれは汚い人間だ」といって別の宿に移るが、相手のふしだら、あるいはその種の想像力のないことを思った方が精神上よかったのではないか。実家に帰ってからも、寝ても覚めても「おれは汚い」を繰り返す。妙に倫理的な匂いがきついのもこの作の特徴である。タコ社長の娘のあけみを演じる美保純が抜群にいい。寅と気の合うのがよく分かる自然主義の女である。

井上ひさしがこの映画はテッパンの要素でできているから、人気を得、しかも長続きしたのだという。基本にあるのは、芸達者の渥美ではあったが、いちばん渥美らしい男、寅を演じたことで最も生き生きしたということ、そして4つの強固な利点を挙げる。

 1 寅の失恋、裏をかえせば相手の得恋がある。恋の話は客を引き付ける。

 2 貴種流離譚の逆になっている。取り柄のない男が身分不相応な女性に惚れて、故

   郷に帰ってくる。

 3 道中もの。

 4 兄と妹の濃い愛情。

2の説はあまりピンとこないが、井上は渥美とは浅草フランス座で知り合いである。1年に満たない付き合いだが、渥美のことはじっと見ていた。そこからの集積があって言っている言葉である。

 

37 シングストリート(S)

ジョン・カーニー監督で、「はじまりのうた」「ONCE ダブリンの街角で」を見ている。この映画も音楽もので、アイルランドのストリートから出てロンドンに向かう15歳の青年の話だ。父親失職、母親パートタイムという家で、なおかつ母親には男ができて、別居騒ぎになる。離婚が禁じられている、といっている。音楽好きの兄は大学を諦め、主人公も荒れた学校に転校に。イエズス会系の学校からカソリック系(?)の学校へ。そこは教師が授業中にアルコールを、校長が暴力を振るう学校である。

1歳上のモデル志望の女の子に一目ぼれし、バンドも組んでもいないし、歌ったこともないのに、わがバンドのミュージックビデオに出てほしいと頼み込み、嘘を本当にするための画策が始まる。メンバーを集め、いじめの暴力男もボディガードとして参加させる。みんなハードな家庭環境を抱えていて、主人公の好きになった女性も父親はアル中で交通事故で死に、母親は先進的に不安定で病院を入ったり出たり。彼女は彼の最初の観客が数人しかいないダンスパーティでの演奏をすっぽかす。彼氏とロンドンへモデルになるために行ってしまったのだ。しかし、すぐに彼女は返ってくる。男には何の当てもなかったことが分かったからだ。暴力も振るわれた。

主人公は高音の、とても素直な歌い方で、哀愁もある。演技も妙なはじらいを隠していながら、やることは大胆、主張は通すというキャラクターである。メンバーの信頼も厚く、彼が彼女とロンドンに行くと言うと、あっちで名を挙げておれたちを掬い上げてくれ、と賛成する。彼は祖父から学んだ操舵法で小船を操縦して恋人と50キロ先のイギリスへ向かう。

同監督のOnceという映画にはやられた。すぐにCDを買い、マルケータ・イルグロブァのアルバムも2枚買った。彼女はアメリカに移り住んだが、鳴かず飛ばずの状況のようだ。結婚し子供も産まれた。繊細な声で歌うif you want me 、The hillは心が震える。

 

38 見えない目撃者(S)

全然怖くなかったのでよかったのだが、本来、怖くあるべき映画なのだから、失敗作だろう。目の見えない元警察官の女性がとても能力が高く、ある事件を鋭く解決する。ぼくはてっきりヘップバーンの「暗くなるまで待って」風をイメージしていたので、拍子抜けである。主演吉岡里帆

 

39  奇跡の教室(S)

実話であることが最後に明かされるが、それは一つの驚きである。荒れ放題の教室がベテラン女性教師の誘いによって、ユダヤ人虐殺について調べ始め、コンクールでその成果が認められる。複雑な家庭環境を負った生徒たちがいさかいを止めて、どんどん眼前のテーマに入り込んでいくのが分かる。強制収容所の生き証人がクラスに入ってきて、教室の前方に向かうとき、彼らは一斉に立ち上がる。その老人は、生徒の質問に無神論だが常に小さな希望をもって難局を切り抜けたといった意味のことをいう。

彼らはフランス国がユダヤ人を収容所に送ったことを知らなかった。別の映画で見たことだが、アパートの目の前のスタジアムにユダヤ人が集められ、殺され、異臭が漂ってきたのに、虐殺を知らなかったとうそぶく人間もいる。

ホロコースト記念館だろうか、ナチスによって殺された人々の写真や名前を見ているとき、館内アナウンスが流れる。さまざまな人々がユダヤ人を迫害したが、社会主義者も彼らを資本主義の象徴、走狗として排斥したといっている。

女性教師が新しい試み始めたときに学校長は無駄なことをするな、と忠告する。そのときクラスに29の人種がいる、と言うが、ぼくの聞き違いだろうか。

この映画は教育が子どもたちをプラスにまとめていく話だが、ちょっとした仕掛けでナチス的な集団に変えていく映画「ザ・ウェイブThe Wave」もあった。アメリカであった本当の話をドイツで映画化された経緯がある。すごく怖い映画である。

 

40 45歳は恋の幕開け(S)

ジュリアン・ムーアはずっと見てきているが、なぜ彼女が人気があるのか分からない。しかし、どの作も身を入れて見ている。結局、16作見ている。追いかけているわけでもないのに、この数である。それでも彼女の出演作の半分にもいかない。代表作はやはり「アリスのままで」「エデンの彼方」だろう。演技をしていないように見えるよさなのか。その美人性の弱さなのか。ぼくは彼女の哀れそうな泣き顔が印象に残る。

この映画を見ると、言葉にするのが難しいが、彼女の最良の部分がよく分かる。オールド・ミスで、文学が好きで、卒業生と関係して尻軽女といわれ、その卒業生からも散々なことを言われる――いろんな役をやってきたメイル・ストリープだって、この種の役はないだろう。

その卒業生をマイケル・アンガルノ、父親で医者をグレッグ・キニア。マイケル・アンガルノは何かの映画で見ているが、思い出せない。グレッグ・キニアはレニー・ツウェルガーの「ベティ・サイズモア」で見ている。その映画では医者を演じる役者の役をやっていた。テレビの俳優さんというイメージである。

 

41 A Private WAR(D)

サンディ・タイムスの記者メリー・コルビンと彼女のカメラマン、ポール・コンロイの“従軍記”である。映画館で見逃した映画である。スリランカで片目を失明し、イラクで12年前の虐殺の死体を掘り起こし、アフガンで巻き添えで死んだ人々を写し、リビアカダフィにインタビューし、その不正を指摘し、シリア、ハマス反政府軍と一緒にいたことでアサド軍に殺される。戦地が変わるたびに、3 years before Hamasと出て、この映画が死に向かっていることが分かる。

アフガンの戦場で死にそうな少年を救い、彼女は次のように言う。A war is quite bravery citizens who endure far more than I will.戦争とは勇気のある市民のことである。私などの到底及ばない忍耐心の。

主演ロザムンド・パイク(ゴーン・ガールで見ている)、監督マシュー・ハイネマン(ドキュメント「ラッカは静かに虐殺されている」を見ている)、プロデユーサー・シャリーズ・セロン、そもそも彼女が主演をやりたかったらしい)。なぜ戦場に向かうのか。彼らがそこにいかないと歴史が闇に葬られるからである。サンディタイムスの部長は、「君が戦場に行くおかげで、われわれは悲惨なものを直接見ないですむ」式のことをいう。開高健がこの映画を見たら、なんと言ったろうか。コルビンもPTSDを病むが、開高なら“滅形”の言葉を使うだろう。

 

42 ライリー・ノース(D)

夫と子を殺された妻が悪党どもの復讐を果たす。香港、欧州で格闘技を学んでロスに帰ってくる。とんでも映画だが、彼女がスラムに身を隠し、そこの犯罪率が下がる、という設定はグッド。バスで一緒だった男の子とその隣で眠るある中の父親。バスから降りて酒屋に入ると、彼女が現れて拳銃で脅し、これで立ち直らなかったら殺す、と脅す。格闘技もグッドで、妙な設定が印象に残る映画である。悪徳警官役をやったジョン・ギャラガーは何かの映画で見ているが、思い出せない。主演の女優は少しジュリア・ロバーツに似ている。警官の古株役をやった男優はむちゃ下手くそ。

 

43 あなたの名前を呼べたなら(D)

インドの田舎生まれの離婚女性には制約が多い。主人公のラトナは因習を離れ、大都市ムンバイでメイドとなって自活の道を歩む。最初のシーンは実家なのか、貧しいのが一目で分かる状況で、そこに電話が来て、急いで引き払わざるをえないところから始まる。バイク、乗り合い大型自動車、そして都会のバスで、やっと着いたのが高級マンション。彼女はなにもの??である。守衛に「早いね」と言われ、「電話があったから」と答える。なにが起きていて、彼女がどんな人で、何という名前さえ分からない。次第に彼女はメイドで、ご主人の結婚が相手の浮気で破綻したことが分かる。彼女の名がラトナであることも、しばらく経って分かる。そこにもうすでにメイドという仕事につく人の無名性、存在のなさが表現されている。

ご主人様を慰めるために、自分が離婚者で、田舎ではそのまま死にゆくしかないので、ムンバイに来たという話をする。元気を出して、という意味である。そこから少し青年の目が変わってくる。

2人はやがてわりない仲になるが、その間の演出が細やかで、二人の気持ちが次第に盛り上がっていく感じが、シークエンスの積み重ねで表現されていく。たとえば、旦那さまは自室で英語のニュースを見ている。横移動のカメラで壁を一つ隔てたという設定で、ラトナがインド音楽の流れるメロドラマを見ている、という演出をする。その同じカメラワークがもう一度、繰り返されるが、今度は旦那さまがメロドラマを見ていて、カメラが横に動くとラトナが食事を作っているという絵になる。それで2人の位置関係がよく暗示されている。

ラトナと同じ年老いたメイドのことや(我が子のように育てたのに足蹴にされ、怒って叩いたら母親から英語でののしられた、と言った打ち明け話をする)、彼女の住む高級マンションの守衛などとの下世話の交情もじつに丁寧に織り込まれていく。なにかの祭りでラトナは激しく踊るが、旦那様が帰ってきたので一緒に自室に戻る。そのとき初めてキスをされる。

ラトナは幾多の障害を思い、身を引くことに。旦那様も父親のもとでビルの新築を監督していたが、あまり父親の眼鏡にかなう仕事ができていない。彼はその安定した地位を捨て、もといたニューヨークでの自由な生活に戻る。置き土産として、ラトナに念願のファッションデザイナーへの道として就職先をプレゼントする。ラストは、ニューヨークから彼女に電話がかかってきて、名前を呼ばれ、彼女はしばらく間を空けて初めて彼の「アシェラヴィン」の名を呼ぶ。

監督はロヘナ・ゲラ、女性である。主演はティロタマ・ショーム、旦那様はヴィヴェーク・ゴーンバル。階級間の問題を女性の視点から撮った映画って、さて邦画であったろうか。ぼくはそれを思い出すことができない。ましてこんなに情感豊かに。

 

44 凡ては夜に始まる(D)

シャリー・マクレーン、ディーンマーチン共演。シャリーが少し「アパートの鍵」からはお年を召された感じがあるが、本当に美しい。いい加減なプログラムピクチャーだが、別にそれでいいのである。

 

45 殺しの接吻(D)

タイトルがもう昔風、1970年の作である。登場人物の服装や映画の色調などもそう。ロッド・スタイガーがマザコンシリアルキラー、その挑戦を受けるのがユダヤ人の刑事ジョージ・シーガル、その犯人の第一目撃者がリーレミックで刑事の恋人となる。刑事の母親はなにかと息子に干渉する母親で、それが犯人像のヒントになっている。「アイリッシュじゃないと出世もできない」式のことを息子に言う。

刑事とリンカーンセンターの案内嬢を務めるリーレミックの恋がスマートに描かれ(警察署で犯人の特徴を訊かれたりした後、家まで刑事が彼女を送るシーンが楽しい。刑事の母親に初めて会ったとき、自分も厳格な性格の振りを装って取り入るところもいい。あとのシーンでベッドで大部のジューイッシュクッキングの本を見ながら、イディッシュ語の料理用語を覚えようとするシーンもいい)、その間に老婦殺しが連続的に起きる。ときに神父、配管工、老女、宅配フレンチ料理屋などしゃべり方も姿も変えて犯罪を繰り返す。ロッドスタイガーの熱演である。監督はジャック・スマイトで「動く標的」「エアポート75」あたりを撮っている。カメラを怪しげに操るとか、不気味な音楽を流すとか、恐怖させるための仕掛けはほぼやらない。そういうことにまだ興味がなかった時代のようだ。コロンボ刑事の「ホリスター将軍のコレクション」も撮っているが、映画と手法がそう変わらない。これはコロンボの質の高さを逆に証明している。十分に楽しめた佳作である。タイトルはNo way to trreat a ladyで、第一の殺人を聞いたときの刑事の母親のセリフで、そんな殺し方なんてレディに失礼、といった意味。

 

46 最高の人生の始め方(S)

プロ野球選手が交通事故で両脚の機能を失い、妻の支えで西部劇小説の作家となり、妻をがんで亡くし、希望を失ってある小さなサマーバケーションのための村にやってくる。酒浸りの日々である。隣に住む家族は離婚調停中の母親と3人の娘。その2番目の子がお話を作るのが好きで、自然と男に関心をもち、接触を持ち始め、母親ともども彼に惹かれていき、彼自身再び小説を書き始めるほどに回復していく。モーガンフリーマン主演。Don' t stop looking  out what is nothing. 見えないものを見ることを止めるな、と作家は少女に言い続ける。想像力こそ作家自身が見失っていたものであった、というわけである。

 

45 ジャスティ(D)

 2回目である。アル・パシーノが型破りの弁護士、その彼が余りにも硬直した法の解釈しかない判事を殴って警察の留置場に。クライアントの一人は関係のない事件で上げられ、服役している。おかま黒人は執行猶予が付くとパシーノに言われていたが、判決当日パシーノはどうしても出廷ができず、同僚に依頼するが、こいつがその裁判を忘れていて、遅れて顔を出した。判事は立腹して、実刑を科してしまう。その黒人は獄中で自殺をしてしまう。

あろうことかその頭の固い判事が女性への暴行で起訴され、彼を弁護士に指名する。人権派といっていいパシーノが正反対の人間を弁護するからには何か根拠があるだろうとマスコミも含めて考えるだろう、との読みである。パシーノの怪しいクライアントからパシーノは当然受けないつもりだったが、弁護士資格をはく奪される可能性がある、とのアドバイスで結局弁護をすることに。途中で判事のサド遊びの写真も手に入るが、弁護を続けることに。しかし、最後にどんでん返しが起きる。原題A Justice for allというのは憲法の一部なのかどうか。認知症初期の祖父にリー・ストラスバーグ、自殺願望の暗示にジャック・ウォーデン、嫌みな判事にジョン・フォーサイス。監督ノーマン・ジュイソン、もちろん「華麗なる賭け」「夜の大走査線」「シンシナシティキッズ」「ジーザス・スパースター」など綺羅星のごとくである。

 

46 シー・オブ・ラブ(D)

オールディーズのsea of loveが2つの殺人に関係していたことで、このタイトルがある。パシーノ主演で、under 18は無理な内容。ニューヨークタイムスを使って300ドルである種の暗号文の広告を打ち、異性との交際を求める。そこからテンポラリーな犯罪が起きる。

モダンジャズで始まり、事件の起きるときにオールディーズに変わり、ラストはR&Bで終わるという仕組みになっている。最後まで怪しい女性がキャメロン・ディアスに似ているエレン・バーキン、刑事の同僚にジョニー・グッッドマン(もうだいぶ太っている)、最初にほんとのちょい役でサミュエル・ジャクソンが出ている。監督はハロルド・ベッカーで、まったく見たことがない。

 

47 深夜食堂(S)

一つのパターンをつくり、それを少し壊したりしながら進行する。なかなか手だれな感じの演出である。主題歌が頭でかからず、途中から流れたり、話のなかに山下洋輔が出てくると、あとで曲がかかったり、いろいろやっている。ただし、女性ボーカルの巻き舌で日本語をだめにしているのは堪え難い。

パターンを崩すのには、ストーリーの登場人物は一度出てきたら次には出てこないはずなのに、それも途中から変更される、というのがある。いちおうオダギリ・ジョーとの間に何かがあったらしいが、それが謎として強く牽引するわけではない。

小林薫のキャラクターがいい。やくざが入ってきたときにはさっと包丁を握る、喧嘩が始まるとビール瓶を握りしめる。だけど、たいていのことは呑んで、鷹揚にかまえている。いまシリーズ2、さてどこで飽きるかだが。

 

48 ロング・ショット(S)

シャリーズ・セロンを見る映画。こんなにきれいな女優だったのか、である。振った男のところに戻ったときの彼女の不安げな様子が珍しい。これは封切りされたのだろうか。相手男性がセス・ローゲン、喜劇畑のひとのようだ。二人で制作を兼ねていて、会社をもってビジネスでやっている。long shotとは「勝ち目のない大穴」らしい。

 

49 アナ(T)

久しぶりの映画館である。リュック・ベッソンプロデュースの格闘ものである。最初のレストランでの殺しが圧巻である。明らかにジョン・ウィックの影響を見て取れる。顔への銃撃、敵の武器の奪い取りからの反撃など。時間を前に戻し、現在に帰り、といったことは、あまりアクション映画でやる必要がないように思うのだが。あまり魅力的な女性ではないので、2作目はないのでは? レア・セドゥにぜひ主役で格闘をやらせてほしい。主題歌がなんだか調子が古くて、なんでこんなレトロなナンバーにしたのだろうか。

 

50  深夜食堂(Netflix版シリーズ1エピソード7)

このシリーズ、まったく飽きがこない。それはいろいろな小技の連続になっているのと、監督が別々なのにテイストを通すプロデューサーのすごさ。オダギリを自由にしているのも、すごい。山下敦弘が撮ったりしてる。このエピソード7は度肝を抜かれた。いい女優さんだなと思って見ていたら、大学生のときに見まくった日活ロマンポルノの宮下順子だった。ぼくは、落涙。いまこの物語に出てくる料理を順番に作り始めている。ただし、ふだんから作っているオムライスとかそういうのは除外している。小林薫の料理の手元がすごくきれい。きっとプロの方のアドバイスを受けているのだろう。

 

51 深夜食堂(甘い卵焼き)

父親を継いで武侠映画を撮ろうとしている中国人が主人公、そしてずっと出ていたおかまがかつてその父親の主人公を演じた人間。映画愛が出ている。その武侠映画の登場人物たちの動きはまったくなっていないが

 

52 ルース・エドガー(T)

 非常にズルい作りの映画である。出自に目覚めた黒人青年がある仕掛けをして歴史教師に復讐をしているように見えるが、確証があるようには撮らない。一番の問題は、危険性のある花火を隠しておいたのになくなり、歴史教師の机は花火で燃えていながら、母親はそれを問い詰めないことである。子どもの犯罪に加担することを決めた、ということなのか。

かなり冒頭から、アフリカの音楽なのか、木製楽器に筋目を入れ、それをヘラのようなものでジャリジャリさせながら、オシッオシッというような切迫した声が流れる。アフリカの紛争地に生まれた主人公の野性復活を象徴するような扱いの音楽である。

 

青年はアフリカの銃弾の飛び交う紛争地帯から6歳で、アメリカの白人中流家庭に貰われてきた、という設定である。高校生になって、歴史人物のエッセイを書くように言われ、フランツ・ファノンについて書いたことで、歴史教師が疑念を抱き、青年の母親に注意を呼びかけ、そのエッセイと彼のロッカーで見つかった花火を渡す。ファノンは人殺しを肯定しているらしいが、それは民族の抵抗としてのものだろう。それを省いて、人を殺すことを肯定している、など曲解以外のなにものでもない。そう言われた時に、青年は反論をすべきである。アメリカの一般家庭の銃保有に目を向けず、アフリカに出自がある青年がファノンを引いたからといって騒ぐこと自体が非常に差別的な感じがする。この映画はそのこと自体を撃っているわけではないが、そこにまったく目が行っていないのはまずいだろう。

 

この映画の主人公は将来、どういう大人に育って行くのだろうか。優等生として奨学金を貰い、有名大を出て政治家といったところか。ほとんど悪意らしいものを見せないで立ち回る才は政治家向きかもしれない。歴史教師が休職で家にいるところへ花を持って訪ねるなど、表面上の辻褄はきれいに合うように工作されている。

校長、歴史教師、両親のいるところで、素直に教師に謝るのも、青年の企みである。教師はその言葉を信じられず、控えさせておいた女の子を呼びに行く。彼女は青年にレイプされた、と言って教師に申し立ててきた女性である。ところが、部屋から消えていない。教師はあらぬ嫌疑を青年にかけたと校長は判断をする。青年の術中にみんながはまっている。

歴史教師の家を訪ねた青年の跡を母親は追い、森の中の小屋でその姿を消した女子との情事の場面を見届ける。そのときに母親は、わが養子が女をたらしこんで、いいように利用していることに気づくべきである。この映画には、いくつも不自然さが目立つ。

どこかの新聞は黒人映画の傑作のような書き方をしていたが、ご冗談を、である。ちんけで下手くそな黒人ホラー映画を傑作と褒めたたえていた新聞である(のちにアカデミー候補となった)。どうも黒人が絡むと、相当に目が曇るらしい。

 

サンドラ・ブロックが黒人少年を町で見かけ、自分の子として育てる映画があったが、あれも親の理想にはめられることに黒人が反抗する場面がある。結局、そのあとに和解をするのだが。

 

53 家族を想うとき(S)

ケン・ローチである。イギリスの行きつくところまで行った姿である。ブレディみか子がつとに警告を発している社会的なインフラが抜け落ちた世界である。では、だれがこれで幸せになっているのか。企業と裕福な人間だけがのうのうと暮らしているとして、国は自分の矜持をどこに持っているのか。そういう政府をいつまでものさばらせる我々が悪いのか? 日本はこんな映画もつくれない。せいぜいお茶を濁したような是枝や「新聞記者」のような映画があるだけだ。奥さん役がのんびりしていて劇の緊張を和らげてくれる。大けがを押してでも仕事に向かう父親には、もう選択肢がないのか。

 

54 1987(S)

韓国の大統領直接選挙が始まった年でである。全斗煥が進める極端な反共政策と警察国家に一穴が開く。学生の拷問事件がどんどん知れ渡っていくからだ。まずは検察が青年の死因で心臓麻痺などの嘘をつきたくないと逆らい、監獄では看守の一人が民主派と結びつく。教会を軸として展開されるのは、東欧の社会主義の崩壊と似ている。そこにマスコミ報道がつながっていき、学生、市民たちの反抗がある。光州事件を扱った「タクシードライバー」より格段によくできている。チャン・ジュナン監督、ほかに2作あるらしいが見たことがない。ひるがえって、自ら自由や個人の権利を獲得しようと時の権力を倒していく経験を日本人はしたことがない。韓国のいまの政治を見るには、この民主化闘争は欠かせないのではないか。なかに「護憲打破」のスローガンが出てくるが、これは日本人には分かりづらい。別の訳を考えてほしいところだ。

 

55 はちどり(T)

韓国映画の良質な部分が戻ってきた感じである。どこかの映画祭で「パラサイト」と争ったらしいが、断然こっちのほうがいい。ちなみにhummingbirdは人生の喜びや存在の楽しさを表す精神的な動物sprit animal らしい。

この映画、企みと自然さとが混然としている。企みはそちこちに挟んであるが、冒頭、女がブザーを鳴らし、ドアノブをガチャガチャやって「オンマー」と叫んでも誰も出ない。てっきり海外にでも行っていた女がしばらくぶりに帰ってきたのに事情があって開けないのかと思うが、じつはネギとかを買いに行って1005なのに905のドアを開けようとしていたのだ。それが主人公の中2の少女ウニである。部屋を間違えるか、そんなアホな、であるが、この劇はそうやって始まる。すぐに引きの正面の絵になって、同じ外観のドアが並んだ公団? の絵になる。これは、そういう当たり前のワン・オブ・ゼムを扱う映画だという告知なのだ。

たしかに普段でもこういうことは起こるかな、ということの連続で劇は進む。しかし、なにか独自のものを見ている気分に次第になっていく。監督が丁寧にディテールを積み上げるから、そういう感慨に誘われるのである。ほぼ映画の3分の2が過ぎたころに、一度、スティールの絵で斜め上方から団地の全景が写される。瞬間のことだが、その編集は心憎い。

場面転換にも、??ということをいくつもやっている。一番は、何の用事かも分からず夜に訪ねてきた叔父。どうも意気が上がらない。妹であるウニの母が頭が良かったのに大学に行けなかった、という話をして、悄然として帰っていく。しばらく経つと、家族が黒衣を着て、車に乗って出かける。何の説明もしないが、叔父が死んだことが何となく分かる、といったようなやり方で、劇にリズムを付けていく。

ほかの企みの例として、音楽の使用を上げよう。最初、ピアノ曲が流れる。途中、それほど音楽を際立たせることはしないのだが、主人公ウニが尊敬する先生を事故で失って独り室内で演歌っぽい曲を聞いているうちに、地団駄を踏むような格好で声を挙げ始める。これでラストでは、せっかく抑制を利かせてきて撮ってきたのに残念なことだ、と思ったら、それからだいぶ続きがあって、最後はやはり違うピアノの曲で終わるのである。

 

企みではなく自然について触れよう。ウニが一度は別れた男の子とよりを戻し、二人が布団のうえでじゃれ合うときに、男子の上腕をさっと触って「筋肉」と言うシーン。これには、びっくりした。それと、尊敬する漢文の塾の女先生に階段で抱きつくところ。向こうに大きめの窓が開いていて、ソフトフォーカスがかかったような感じで木々が見える。先生の胴を抱きしめて、先生が腕をウニの背に載せたとき、向こうの木々が一斉に風に急迫のリスムで揺れる。おそらく演出なのだろうが、ごく自然に見える。

あるいは、その塾の女先生が、仲違いしたウニとその友達のためにうたう歌が変わっている。指を切った労働者が焼酎を飲んで心を癒す、という歌詞である。なんだ、こりゃ、である。

極めつけは、ウニが右の首の根元にしこりを発見し、医者から大病院に行くべき、と言われとぼとぼ歩いて帰ってきたら、小高い公園に母親を見つける。なんども呼ぶが、彼女はいっこうに気づかないのか、そのままどこかへ行ってしまう。このシーンは、なんのためのシーンが分からないが、ずっと後々まで残る印象深いものである。

 

母親は真野響子に似ている。父親は何かで見ている役者さんで、いかにも小さな餅(トッポギ)屋の主人の感じが出ている。それと、漢文塾の、悩みは深いのだろうが、外見にはなんの匂いもさせないスレンダーな感じの女先生もいい。この3人のキャスティングは抜群にいい。夫が子どもにきつく当たったときに、あんたにそんな権利があるのか、と暗に浮気のことをほのめかし、手近にあった電球のようなものをぶつける。腕から血が流れ、包帯を巻いてやり、翌日なのかソファにお互いに並んでテレビを見て、ケラケラ笑う。それをウニが見て、なにも表情を変えないのがまたいい。この抑制された演出は秀逸である。

 

大きな立派な50メートルも高さのある橋が落ち、その時間にバスで登校する姉が心配で、病院から家に電話するウニ。怠け者であることで助かった姉。それで安心したのか、いつもはウニに暴力を振るう兄がえんえんと泣く。ウニが首の手術をするときにも父親が泣く。おそらくこの家族はこの情愛でつながり、あとは毎食の料理が紐帯を強固にしている。漢文塾の先生がじつはその事故で死んでいたという落ちは、画竜点睛を欠く感じか。

中二のウニにいろいろなことが起きる。男子とのキス(彼女が求めたもの)、後輩女子からの同性愛、首の手術、ソウル大に行くぞ!とけしかける英語教師、クラスのみんなから不良と言われ、ソウル大の学生なのに人生に倦んでいる感じの漢文塾の先生、姉の放蕩、両親の喧嘩、餅屋への差別、兄の暴力、普通な子だと言いながら、じつにいろいろなことが起きる。ウニばかりか親友も親の暴力を受けていて、それが一つの主題にもなっている。漢文の塾の先生から、兄の暴力に抵抗しろ、と諭される。彼女にも何かそういう背景があるのか。

 

途中に何度か「立ち退き反対!」の文字を掲げた一角を通り過ぎる。ウニは決まってそこに目線がいく。漢文塾の先生に、これは何か? と尋ねると、困っている人々がいる式の答えた返ってくる(これは正確に記憶していないので、あとで見直した時に修正する)。ここのシークエンスの扱いはおざなり、という感じがする。

 

最後のシーンが、周りに同級生が遠足にでもいくのかにぎわうなかに、彼女だけが一段違うところにいるような表情を見せている。このエンディング、見事であるが、何かの映画で見た記憶がある……。

 

某新聞がまたおかしなことを書いていた。韓国の近現代史を描いた映画だというのである。何を見て、そんなアホなことをいうのか。

 

56 スキン(T)

人がよく入っていた。白人主義者が子持ちの女性に出会って改心するが、昔の仲間に脅され、それでも立ち直る話である。その出会った女性が強いことが、彼を救ったことになる。

 

57 waves(T)

前編と後編の映画みたいである。前は兄の唐突な挫折、後は妹の静かな幸せを描いている。前半はうるさめな音、後半は比較的な温和な曲がかかる。兄も黒人でない女性を愛し、妹も白人を愛する。そこにテーマがあるわけではないが、却って葛藤がないのが不思議である。父親は建設現場の監督官(?)で、家庭は自分のマネージメントで動いていると思っている男で、長男が肩を壊しレスリングの夢を断たれ、妊娠した恋人をはずみで殺して無期で入獄してからは、すごく弱い人間に変わっていく。後添えの妻ともうまくいかない。それが、次女の素直さによって回復されていく。次女役のテイラー・ラッセルのための映画である。

 

58  マイスパイ(S)

元陸軍特殊部隊からCIAへ。ある件でドジって、ある人物の偵察係に。その人物の姪っ子に盗撮、盗聴がバレるが、この子、そしてその母親に猛々しいこころが癒される。ろくでもない映画だが、最後までしっかり見てしまった。

 

59 ラスト・ディール(S)

舞台はフィンランド。貧乏な老画廊主が最後の賭けに出る。オークション前の下見会で目に留まったのがキリスト像。出品側は、無署名で作者名は分からず、という。当日までにイリヤ・レーピンの作であることは確認できたが、なぜ無署名なのか。ロシアの画家だが、文化村でロシアの画家展を観たことがあるが、意外なほど繊細な絵が多い。

競りの当日、やはり目利きはいるもので、1000ユーロで始まって1万で老人が競り落とした。3日後には購入費を払わないといけないので、そちこちから金を集め、貯金をしていた孫からもかすめ取る。「貯金で金持ちになった奴はいない。投資すべきだ」とだますのである。孫の母親、つまり娘とは疎遠だったが、この件で関係修復がさらに難しくなった。

結局、目が節穴だったオークションハウスが邪魔をして、買い手がつかない。署名のなさが後まで尾を引く。結局、老人は店をたたみ、その金から孫にも借りを返す。死の間際にミレスゴーデン美術館(スウェーデンに実在する)から「本物です」の答えが返ってくる。署名がない理由は、キリストへの敬虔な思いからだ、という。この絵は遺産として孫に残ることになる。

とても光景がきれいな映画で、孫がバスから港で降りるシーンは実に均斉がとれていて、見事である。そして、老人と娘が小さな和解を迎えるシーン、俯瞰で銀杏の黄色い葉が画面の左右全体に拡がり、下方3分の2ぐらいが公園の道を写している。その色と配分が見事である。

そのあと、娘が父親のことを思い出しているのか、ベランダの柵に身を預けて外の景色を見ている。その右手の指が柵のうえで上下する。すると、老人の手が重なり、それがピアノを弾き始めて、老人の姿が写しだされる。このシーンもいい。

音楽がマッティ・バイとなっている。サントラがあるらしいが、買うかどうか迷っている。監督クラウス・ハロ、ぼくは「こころに剣士を」を見ている。

 

60 ストウーバー(S)

 インド人のストウーがウーバーの運転手をしているので、表題のようになる。老眼の手術をして、客として乗り込んできた視力が欠しいマッチョ警官に犯罪捜査に巻き込まれ、軟弱な男から強い男に変化するというもの。「マイ・スパイ」のディブ・バウティスタが主演。楽しく見ることができた。 

 

61 シグナル(S)

韓国製作で、推理もの。明らかにTrue Ditectiveを意識して、イントロの部分などが作られている。本編もなかなか重厚で、過去と無線電話がつながっている設定なので、どこかで嘘っぽくなるのではないかと思ったが、あにはからんや、である。ある緊張した感じでいま13話まで来ている。4つの事件が解決されることになるが、最後の事件が過去と現代が濃密につながる仕組みになっている。やや女性刑事の演技に幅がないことが、回を重ねるごとにはっきりしてくる欠点がある。16作で終わりだが、最終回はさすがに時間が整理され過ぎて、違和感がある。しかし、この作品が話題にならないのはなぜか分からない。かなりのレベルの作品である。

 

62 大いなる遺産(D)

原題はa great expectationで、大いなる期待、といったところ。主人公の少年が青年となっても、ある一人の女性ステラ(グィネス・パストロー)を愛し抜く。その少年には絵の才能があって、ステラの母親(アン・バンクロフト!)の差し金でニューヨークのギャラリーで個展が開かれるが、じつはすべて少年時に海で遭遇した脱獄犯(デ・二ーロ)のはからいであることが分かる。青年をイーサン・ホーク、とても美しい。それが中年に差し掛かると、途端に薄汚くなる。

キュアロンには「ローマ」でもそうだが遊び心がある。青年が飛行機でニューヨークへ向かうシーン、じつは地下鉄に乗り、飛行機の模型を動かすことでそれを表現している。あるいは、自分のものとなったと思ったステラがヨーロッパンに旅立ったとき、彼が見上げる空に彼女の乗った機が過ぎようとし、その窓に彼女の顔が見える、というベタなことをやっている。

このふてぶてしい感じが、違和感なく見ていることができるから不思議である。映画の受け手の心理を知り尽くしているのではないか、と思う。

 

63 姉妹(D)

 全篇、間然することなく進む。これ、傑作ではないだろうか。あまり歳の離れていない姉妹を中心にして、徐々に近代の合理化の波が及んでくる様子が描かれる。姉の圭子が野添ひとみ、妹の俊子が中原ひとみ、姉はクリスチャンだが、最後は現実的な選択で銀行マンと見合いし、結婚する。妹はまだ高校の1年生、相変わらず正義を通し、一本気である。寮に出入りするめし屋に、汁粉などの借金を抱えて払えず、かわりにアイスキャンデー売りのバイトに精を出す。2人は町中にある叔母の家に厄介になり、学校に通っている。年末などにバスで山奥の水力発電所のある村まで帰る。

姉が恋心を抱くのが水力ダムの社員内藤武敏(岡さん)、姉妹の父親が河野秋武(ダム会社の課長)、脇に多々良純(姉妹の叔父)、殿山泰司(長屋の住人)、望月裕子(叔母)、加藤嘉(叔母のところに雑貨を売りに来るハッチャンの父)、北林谷栄(ハッチャンの母)などを配する。

 

俊子は小さな近藤を略してコンチがあだ名。彼女の友達に金持ちの子がいて、そこへ遊びに行く。いずまいを正した母親がお茶を運んでくる。そして、コンチに「お父さんが毎月、お金を送ってくるの?」とか「(世話になっている)叔父さんはどんなお仕事」などと聞いてくる。「大工の棟梁」と答えると、「建築士ではないのね」と軽蔑した言い方をする。その友達の姉は足が悪く、人と付き合おうとはしない。弟は11歳になのに5歳にしか見えない、という。「私は幸せ? 不幸?」と聞くと、コンチは「不幸」と答える。彼女は、正直なのはあなただけ、キスしていい? と尋ねる。コンチは「私が好きなの?」と聞き、相手が頷くと「いいわ」と言って、口づけをする。「ひゃっこいね。へびみたいだね」と言う。

 

ハッチャンが手製のものを含めて、叔母の家に売りに来る。ハッチャンの話から、家が荒れ放題と聞き、俊子は姉と一緒に掃除に出かける。ハッチャンは不在で、盲目の加藤嘉結核北林谷栄がいる。すっかりきれいになったときに、ハッチャンが帰ってくるが、結核が伝染るから二度と来るな、という。しばらく経ってハッチャンが過労から死に、姉妹で訪うと、北林が「なんで私らは悪いことを一つもしていないのに、カタワだらけなのか」と言う。コンチは、「お金持ちにもカタワはいる」と言って慰めようとするが、姉は止めようとする。北林は「うちらの家でカタワという言葉を使ったのはトシコさんだけ。私たちを励まそうとしたのよね」と俊子の気持ちを推し量る。

 

映像的にも面白いのがいくつもある。まず、姉と一緒に岡さんと話をしたあと、後ろから2人をとらえたショット。すっと左足が横に動いて、あれよれたのかなと思うと、コンチの頭が姉の肩にのっかり、そのまま進んで行く。このカットがおしゃれである。

河原で流行歌を歌いながら馬を洗う殿山泰司の連れ合いに姉が会う。私は働くのが好きだし、子どもを立派に育てたい、と女は言う。夫がいない隙に男を咥えこんだ女の言葉とも思えない。姉はつり橋をこっちに向かって歩いてくる。その左下、かなり小さく見える感じで女が馬を洗っている。このショットが新鮮である。

さらに、岡さんと話をして、姉は上り坂を上がり、その下のほうに同じ方向に進む岡さんが見える。これもまた2人の人物の動きを1つのショットのなかに入れ込んだ構図である。

水力ダムの社員にも合理化、首切りの手が伸びてくる。どうにか父親も岡さんも第一波は免れるが、だからといって仲間がいなくなるのは無念である。コンチの修学旅行を父親は諦めさせる。仲間が切れられているのに、そんなことはできない、それが俺の性分だ、と言う。コンチはそういう父親のことを認めているが、自分は男になりたい、と父親に言うと、「なぜか?」と聞かれるので、「革命ができるから」と答える。父親はとんでもないことを聞いたという様子で、それまでやっていたコンチの薪割りの手伝いを中止させる。コンチは男に生まれたほうがよかったかもしれない、と言い出したのは父親だったのだが。姉と2人、雨の町のなかをこちらに歩いてくる。カメラは下からやや遠景に2人を撮っていて、手前に大きな四角いコンクリートがある。その壁面にビラが貼ってあって「首切り、断固反対!」の文字が見える。この演出も、うるさくなくてグッド。

 

叔父の多々良純は芸者遊びをしたり、家で博打場を開いたり、遊び人である。その多々良が「どうも不景気でいけない。日本人は戦争がないと食っていけない」と言う。そこで俊子が「叔父さんはビキニの灰をかぶるといいわ」とまぜっかえす。この映画は、ビキニの核実験の翌年に撮られている。

 

コンチは女子寮に泥棒が入ると、捕まえるためにグラウンドまで追っかけていくような子である。話し方は「~だよね」と男のよう。姉の結婚に反したしていたが、文金高島田の姉を別室に呼んで、お互いに自分たちの幸せをつかもう、と理性の言葉を吐く。愛らし顔に、このキャラクターである。それが映画の求心力になっていて、貧困、差別、合理化といった社会問題に触れていく様子を自然な感じで見ていることができる。プロガンダ映画にしない意志を明確に感じる。

 

この映画監督のことをもっと知りたくなった。

 

64 ギルティ(S)

その手があったのね、といったオランダ映画である。登場人物はほぼ1人、それで室内で終始する。緊急対応のオペレーターだが、本当は警察官で何かの件で査問を受けているらしい。電話の向こうから、助けてくれ、という女の声が飛び込んでくる。それへの対応と、自らの悪への言及が重なって、終いまで強い緊張感で見ることに。誰が主役だったか、電話対応だけが事件解決の手段という映画があったが、たしかあれは外部も撮影されていたはずだ。

 

65 スネーク・アイズ(S)

パルマ監督にニコラス・ケイジゲイリー・シニーズ。暗殺とボクシング試合と友情とエロ。パルマはやはり二流である。友の裏切りが分かった後のテンポの悪さ。それでもパルマの作品を10作は見ているのだから、しょうがない。

 

66 ソワレ(T)

夕方から暗くなるころをソワレというらしい。ひょんなことから介護の仕事をしている女性と逃げることになった売れない役者。女は出訴してきた父親に強姦されそうになり、はさみで刺し、そこを役者もどきが助けたことで、逃避行となる。途中で、「おまえのせいでこんなことになった」と彼は女をなじるが、女と逃げようとしたのは彼の言い出したことだし、このセリフは劇の進行とも合っていない。

ラストの場面、高校生のころの自主映画づくりを撮ったビデオを見ているのだが、高校生の自分が演技で女のしぐさと同じことをしているのを知って驚く。その教室の外にはセーラー服を着た女が刑事らしき人間に連れられて行く。さて、このシーンはなんのために撮ったのか。ラストに要らぬことをするな、である。

一か所、逃げ出した男女が廃屋で膝を立てて、正面を向いて座っている。その後ろの壁に影が立って、2人が踊りをおどりだす。この自由さは余り日本の監督に見られないものなのでグッド。

 

67 次郎長三国志・次郎長初旅(S)

マキノの最初の次郎長三国志である。あとで鶴田浩二で撮っているが、断然こっちのほうがいい。見るのは3回目。主演の小堀明男がとてものんびりしながら要所要所できりっと締まった演技を見せる。ある種、日本のリーダーの理想型を表している。大政の河津清三郎が参謀役がぴったりで、おっちょこちょいの桶屋の寅吉を演じる田崎潤、法印大五郎の田中春男(最高のバイプレーイヤー)など、他の配役も見事である。後半も後半にどもりの石松が出てくるが、これが強烈なキャラクターである。森繁の迫力が十分に感じられる。それまでの流れを全部食っちゃった。

 

68 ジミー、野を駆ける伝説(S)

ケン・ローチ監督、時系列がよく分からない。10年前(1922年?)に政治的弾圧からアメリカに逃れ、いま帰ってきてまた人々の先頭に立ったことでまたアメリカに、ということのなだろうか。カソリックが権威と権力をもち、警察、地主階級、自警団などと組んで、人々の自由を抑圧する。そこにイギリスの政治のサポートがあり、IRAは教会に遠慮して何も手出しをしない、という構図である。 小作農や鉱山労働者などが差別の構図のなかにある。

かつてジミーたちが建てたホールが廃屋のようになっている。若者たちがジミーに建て直しを求め、ダンス、詩の読書会、大工仕事の指導、合唱などをそこで行ううちに、司祭が露骨な介入をしてくる。ホールに集まる人間をチェックして、教会での説教のときにその名前を公開するようなことまでやる。仕事のない人間には紹介をしよう、娘がロンドンにいて帰ってこないなら手助けしてやろう、ホールに行くなら不買運動をかける、と懐柔と脅しの両方で籠絡していく。ジミーは再びのアメリカだが、自由の象徴だったアメリカも大恐慌を経て、貧富の激しい社会へと変貌しつつあり、決して夢の国ではない。

かつての恋人、いまは2人の子のいる女性ウーノが彼が贈ったドレスを着て、2人で音楽もなしに踊るシーンが美しい。

 

69 ラーメンガールズ(S)

西田敏行というのは芸のない役者だなとつくづく思う。ただ差別的に怒鳴るだけである。設定もおかしい。ラーメンを極めた男という設定なのに、弟子になったアメリカ娘がなかなか成長しない理由が分からず、どこか田舎のワケの分からない婆さんにアドバイスを貰いに行く。とうとう娘を後継者と認めたら、その娘がアメリカに帰って店をオープンする。なにそれ? である。彼女に彼氏ができるが、英語が上手な在日朝鮮人という設定。これもなんだかなぁ、である。

 

70 スゥインダラーズ(S)

コンゲームだが、ちょっとやりすぎ。それでも面白く最後まで見ることができた。主人公のヒョンビンが少し体形に肉が足りない。敵ボス代理人のペン・ソンウは何回か見ているが、今回はコメディが入っていてOK、女メンバーがナナという名前らしく常盤貴子あるいは上戸彩に似ている。悪党検事がユ・ジンで、オールドボーイのときのやはり哀愁が左の頬に残っている。政府側悪人が全体に灰汁が、悪が? 足りない。

 

71   どこに出しても恥かしい人(T)

こういう映画を見るには川越スカラ座あたりは最高である。近くのハンバーガー屋は今日は休みだ。あぶり珈琲店でコーヒーを飲み、時間を潰す。映画自体は別に何かの目的をもって作ったというものではない。友川かずき、その競輪通いと酒の日々、彼の長男、次男、四男が出ていたのが不思議といえば不思議。その三人それぞれとやはり競輪場で車券を買う。ちゃんと親父の及位(のぞき)という珍しい苗字を継いでいる。ドキュメンタリーでよくあることだが、録音が悪く、それに彼の発音の問題もあるから、よけいに何をしゃべっているのか分からない。別にそれでいいのだけれど。できれば、「夜を急ぐ人」を聞きたかった。神楽坂「もー吉」のおやじが出ていたのはびっくりした。

 

72 エノラ・ホームズの事件簿(S)

エミリー・ボディ・ブラウンというほぼ新人といっていい少女が、シャーロック・ホームズの長く会わなかった妹を演じる。サイエンスから格闘技まで教えてくれた母がロンドンへと姿を隠してしまう。それを負う娘、その娘をホームズ兄弟、そこに絡む美少年貴族。結局、母は何か暴力的な手段で民主制を進めるための義挙を行うらしいのだが、そこを映さないで終わってしまう。残念だが、非常にかわいげのある少女で、これから出てくると思われる。

 

73 天使のくれた時間(S)

2回目である。ニコラス・ケイジティア・レオーニ(最近、見かけない)の恋愛もの。恋人ニコラスがロンドンからニューヨークへビジネス研修に向かおうとするが、ティアは別れると、これが永遠になりそう、と引き留めるが、ぼくらの愛は永遠さ、と言ってニコラスは旅立つ。案の定というか、それ以降、関係が途絶。

13年後、投資会社の社長となった彼に彼女から電話が。それに応答せずに、一人のクリスマスを祝うためにエッグノッグを買いにコンビニに寄ったところ、当たりくじを換金しろと黒人の客が入ってくる。店の人間が数字を書き換えた偽物だと言い返すと、その黒人が銃を出して脅す。ニコラスは200ドルを払うから、その当たり券をもっといい店で換金したらどうか、と仲介する。その黒人と外に出て、やや歩くうちに「なにか不満はないのか?」と彼が聞くので、「何でもある」と答える。そこで突然、別のありえた世界へ飛ぶ。この転換が潔くてオーケーである。

2人の子どもに、自分を熱烈に愛する妻。しかし、いずれ元の世界に戻り、弁護士として活躍している彼女に会いに行く……という単純なものだが、家庭のよさをじっくりと描くので納得性がある。おかしいのは、NY選択前の世界に戻ったはずなのに、ニューヨークの近くに家があることである。自分の境遇の変化を確かめにニューヨークへ行く関係上、この設定にしたのだろう。

ニコラス・ケイジは最近はどうも汚い役柄のものが多い。残念である。

 

74 ブレイクアウト(S)

 ニコラス・ケイジ続きで「ベンジエンス」を見ようとしたら、前に見たやつだった。それでこれにしたのだが、やはり見たことのある映画だった。それでも最後まで見てしまうのだから、疲れる。ニコール・キッドマンが好きで、彼女を見たくて見た映画ではないだろうか。室内に終始する強盗話だが、説明するのも面倒なくらいいい加減な映画である。ニコラスの頭の毛がいよいよ危ない! それにしてもニコラスの映画も結構見ている……。何の映画だったか、ニコラスみたいに過剰にやらなくていいんだよ、というセリフがあった。思わず噴き出したものだ。

 

75 鵞鳥湖の夜(T)

「薄氷の殺人」のティアオ・イーナンである。きれいな映像と残酷な映像が併置された映画。今回もそれを期待したが、思ったほどはスタイリッシュではなかった。影を面白く使っていて、カーテンに透けて動く人物、階段での追い駆けっこを影を映して表現したりしている(「第三の男」を思い出す)。音楽がときに三味線(?)と柝の音が入って、まるで篠田正浩の映画を見ている気分だ。主人公の活劇がグッドである。傘を相手の腹に刺して、それが突き抜けて背中で開き、その傘を噴き出した血が染める、という味なことをやっている。 

主人公が過って警官を殺し、鵞鳥湖に逃亡してからが無駄に長い。その湖でホアという男の下で水浴嬢(海水浴に来る客と遊ぶ娼婦)をしている女が、主人公の逃亡の手助けをする。光る靴を履いて、男女が同じ動きをするダンスシーンがあるが、たしか前作でもそういうシーンがあった。

主人公の妻を演じたレジーナ・ワンが美しく、眉間にしわが寄ると往年の藤村志保を思い出すが、もう一人よく似た若い女優がいたが、それがどうも思い出せない(あとで藤吉久美子であることを思い出した)

朝日新聞で監督インタビューが載っていたが、古典的な撮り方とアクションのことを言っていた。さもありなん、である。

 

76 ザ・ウェイ・バック(S)

何作かバスケものを見てきているが、どれも面白い。弱小チームが奇跡的に強豪チームになっていく、という設定が多い。今回はベン・アフレックが元スーパープレイヤー、しかし父親の期待に応え続けるのが嫌で大学にも進まず。子どもが脳腫瘍で死んでからは、離婚もあって酒浸りの日々。それが、教会経営の母校からの誘いでコーチに就任し、次第に成績を上げていくが、親戚の子の死を見て、また酒浸りになり、コーチを解任される。子どもたちは彼のためにも優勝を勝ち取ろうとし、彼自身ももう一度やり直しそうな気配で映画は終わる。予定調和だが、これでいいのだ。

 

77 キリングフィールド(S)

前に同題でカンボジア・クメールルージュの虐殺を扱ったものがあったが、これは現代のテキサスの湿地帯での連続殺人の実話を題材にしたらしい。それにしても、無法の地域があって、そこには警察も手を出せない、というのは、アパラチア山脈の殺伐とした地域を扱った「ウインターボーン」もそうで、アメリカってどうなっているんだと思う(トランプが手を付けたのは、こういう地域である)。少女のころのクロエ・グレイス・モレッツが出ている。彼女の新作がしばらく来ない。

 

78 ブラッドファーザー(S)

メル・ギブソンの映画は、あのリアルキリスト以来である。ダメな父親がスーパーマンで、娘の窮地を救う。リーアム・ニーソンが開いた世界だ。娘の父親との距離感がよくて、最後まで見てしまった。

 

79 スーパーティーチャー(S)

ドニー・イェン健在なり、である。破天荒高校教師になって大活躍。すべてが予定調和だけど、面白く見てしまった。アクションはほんのちょっとだけ。

 

80 フォージャー(S)

トラボルタ、クリストファー・プラマーが親子、孫が脳腫瘍で死が近い。贋作で刑務所に入っていた父親が組織の仲介で娑婆に。その代償にモネ「散歩、日傘を差す女」の偽物を描いて本物と換える、という話。トラボルタのまったく表情のないのが、かえってすごい。それで哀愁と苦悩の父親の感じが出ている。同じ詐欺師のプラマーが枯れていてgood、名役者の名に恥じない。だましと親子の愛が絡んで、まったく無理がない。残念なのは、盗みに迫力がない点。

 

81 異端の鳥(T)

 映画的な快楽に満ちた3時間である。まんじりともしない。見終わって、何十年ぶりかに映画パンフレットを買った。

どこの地方なのか、それも判然としない。ロシア語なのか、それにしても荒涼とした土地だ。平屋の家がポツンと一つ、少し離れて納屋だろうか。その間に距離をおいて井戸があって、とても映像が美しい。何度か引きの絵で、それが示される。

老婆(マルタ)が一人、そして「家に帰りたい」と言う少年が一人。何かの事情で親が子を預けたらしい。少年が白い小動物を抱えて林を駆けるシーンから始まる。あとを追ってくる数人の少年たち、彼らは少年の動物を奪い、油をかけて焼き殺す。老婆の作るスープには芋と肉が一個ずつ、掬うこともままならない量の液体が薄い皿に張ってある。老婆は洗面だらいの少ない水で節のある足をちゃぽちゃぽ洗うのが習慣である。そんな日々のある朝、イスに座ったまま老婆が死んでいるのを見つける。驚いてランタンを落とし、その火が家を、老婆を焼き尽くす。そこから少年の苛酷な旅が始まる。

 

ある村で競売にかけられ、少年はオルガという呪術師に貰われる。呪術師は、この少年は禍をもたらす者だ、と言う。村人たちは老婆が通ると、頭を下げて敬意(?)を表す。少年は蛇で患者の腹を撫でたり、病を治す手伝いをするが、疫病がうつり、オルガは彼を頭だけ出して地に埋める。翌朝には治っているが、彼を餌食としてカラスが何羽も襲ってくる。オルガが間に合い、助かる。しかし、村人の差別はきつく(ユダヤ人ということらしい)、川に落ちて木の枝につかまって流される。

 

ミレル(ウド・キアー)の粉ひき小屋の木組みに引っかかり、助けられるが、ミレルは「そいつは疫病神だ」と言う。ミレルは使用人と妻の不貞を疑い、妻を革のベルトで鞭打つつ。ある夜、ミレルが袋に何か生き物を入れて戻ってくる。ちょうど食事ができ、3人の会食が始まる。少年は後ろに控えてテーブルにはついていない。ミレルが突然立ち上がり、袋から出したのは猫。家の猫とそれが声を挙げてつがい始める。その間、無言だからこそ、異様な緊張が張り詰める。ミレルは酒をあおり、突然テーブルをひっくり返し、使用人の目をスプーンでえぐり、家からたたき出す。この沈黙の中で緊張が高まる感じはアリス・マンローの小説の味わいに近い。例によって皮ベルトによる鞭打ちが始まる。少年は朝まだきに猫が食べそうになっていた目玉を拾い、家を出て、途中で木の根元で悲しんでいた下男にそれを渡す。男は自分の穴の空いた目にそれをはめこみ、また泣き出す。

 

今度はレッフ(レフ・ディブリク)という鳥売りの男と出合う。レッフはルドミラと野原で逢引し、事をいたす。ルドミラは淫奔で、村の青年たちにも誘いかける。母親たちは怒り立ち、ルドミラのほとに壜を差し込み、死に追いやる。レッフは首を吊って自殺する。レッフは一羽の鳥の羽根に色を塗り、空に放つ遊びを教えてくれたことがある。同じ種の鳥が蝟集し、その変わった羽根の鳥を攻撃し始める。やがて、ひょろひょろと落ちてくる。この映画は、原題the painted birdsという小説がもとになっている。このレッフだけが、善人である。彼は鳥を愛しているし、ルドミラを肉欲的にだが愛していた。

 

少年は森で右足を怪我した馬を道連れにしてある村にやってくる。村人は役立たずの馬をすぐに殺してしまう。その村に武装の一団が襲ってくる。西部劇のように小高い丘に馬に乗った男たちが居並ぶ。村人の虐殺が繰り広げられる。ぼくはネイティブアメリカンを殺しまくるキャンディス・バーゲンの「ソルジャーブルー」を思い出した。

ドイツ兵へのいい土産になる、ということで少年はドイツ軍のところに連れて行かれる。そうと分かるまでは、コザック隊長の目は、少年を性的に狙うものに見える(これがあとのガルボスの話の伏線になる)このあたりでやっと、どうもソ連から東欧にかけたあたりの地域の話かもしれない、と分かり出してくる。たとえば、ポーランドあたり。リリアン・ヘルマンの「Scoundrel Time」という自伝には、ソ連に作家協会の招きで行き、招待されるままに移動し、前線に行ってみますか、と言われ承諾すると、ドイツ軍の虐殺が横行しているポーランドへと越境していた、という描写がある。

 

少年はドイツ兵の軍隊に連行され、そこである将校(ステラン・スカルスガルド)のテントに入れられる。彼は少年を殺す役目を負ったが、空に向かって銃を放ち、逃がす。列車の貨車に人が詰め込まれている映像があり、ユダヤ人の護送車だと分かる。木の囲いを破り、次々と草原に飛び降りるが、ドイツ兵の銃は的確に殺していく。その死体のたくさん転がるところに少年が通りかかり、まだ銃弾を浴びてなお這って動いている同じ年頃の少年から靴や着るものを奪ってしまう。

 

次は教会の牧師(ハーヴェイ・カイテル!それと気づかないほど、俗気が抜けている)に救われるが、信者ガルボス(ジュリアン・サンズ)に貰われる。彼は少年を犯し、虐待する。牧師が時折、酒を買いにやってくる。その弱みがあるのか、牧師はおかしな気配を感じても、直接注意することはしない。

少年はある廃墟でナイフを見つけた。それでガルボスを刺そうとするが、見つかり、その廃墟に案内するように言われ、縄でつながれて現地に向かう。廃墟のまえの井戸のなかにねずみが満ちていることを知っている少年は、井戸を覗く男を縄ごと引っ張り転落させる。

 

雪原をさまよい、氷が割れて、ずぶ濡れになる。明かりがぽっと見えたので、そこへ這っていく。女が助けたらしく、ラビーナという。老いた男が横たわり、それに粥のようなものを食べさせる。夜、少年がそばにいながら、二人は交接をしている。ところが朝には老人は死んでいて、その埋葬を少年がやる。ラビーナは少年を誘い、少年も受け入れるが、いつしか疎まれる。性的な能力に欠けるところがあるのかもしれない。ラビーナに誘いをかけるも、つれない様子ばかり。ある夜、馬の頭を切って、彼女の寝室に投げ込む。性的なモチーフはミレルのところから露わになるが、宗教の欺瞞を見た次のシークエンスでラビーナとセクスするのは意図的なものがあるだろう。彼は林の中でひとを殺し、盗みを働くことに躊躇は見せない。

少年は途中で何度か声を出していたが、このあたりではもう一言も発しない。「そのほうが、身の安全かもしれない」と考えたが、パンフには、少年が喋れなくなったと書いてあった。演技で表現されないから、具体的なきっかけがよく分からない。

 

ソ連兵の駐屯地で孤児として扱われ、親切な将校からは「スターリンはいわば列車の運転手のようなものだ」「赤軍の誉れを失うな」などといわれる。狙撃兵のミートカ(バリー・ペッパー)は、仲間が殺された仕返しに、ある村に少年を連れて出かける。2人で木に登り、そこから村人を狙撃するミートカ。彼はほかへ移される少年に贈り物をする。それは拳銃で、戦争が終わったあと、町中の行商人にユダヤ人、ブタ野郎と言われ、殴られる。その仕返しに、その拳銃でその男を殺す。彼のもとに父親と名乗る男が現れ、最初は反発するも、母親のもとへ2人で向かい、おだやかな草原の風景がカラーで映されて、ジ・エンドである。そのバスの汚れた窓に、彼は指でなぞってヨスカという自分の名を彫り込む。

 

残酷なシーンも多々あるが、白黒のおかげでどぎつくは見えない。音楽はラストに主題歌があるだけで、途中は一切なし。コザック兵が酒場でバカ騒ぎをするときに、バイオリンが奏でられるだけ。まるで中世の時代かと思えるような映像で始まり、途中でドイツ機が空をよぎることで、2次大戦であることがやっとわかる。それくらい彼の歩く土地土地は因習と差別に色濃く塗りこめられている。飛行機が飛び交う時代のこととは思えない。そこもまた狙いだったのではないか。ずっと続く人間の業のような残酷さを描くために。民衆の蒙昧さと比較して、そして民族兵と比べて、ソ連兵、ドイツ兵が好意的に描かれている。それはなぜなのか。

言語は人工のスラブ共通語を用いることで、どこの国と限定されない配慮をしているという。それは原作でもぼかされているらしい。少年の風貌もモンゴル人のような感じがして、ユダヤとは思いつかない。その父親は明らかにジューイッシュな風貌をしているので、これも監督ヴァーツラフ・マルホウルの意図的な配役である。少年はチェコの街で見かけた素人少年だという。

構想から11年、著作権の探索・獲得に2年近く、書いた脚本が17パターン。彼は、原作の意図するものが映像で表現されていなければ意味がない、と発言している。監督はポーランドで撮影所の所長を務めていた人物で、この作品はまだ2作目。堂々とした、隅々まで神経が行き渡った、この先何十年と語り継がれる“理性的”で“原初的な”作品である。

 

82 ルーシーズ(S)

父親の借金をすり稼業で返す男と、一夜の衝動で妊娠した女が、どうよりを戻すか。男は投資会社社員とウソをついていた。最後にちょっとした仕掛けがあって、グッド。こういうスマートに撮られた映画は得がたい。ルーシーというのが女の名、そして男が好きな煙草の銘柄でもある。そんなことをしたら堕ちるばかりだぞ、というところで、ドンデン返しだから、粋なのである。マイケル・コレントという監督で、ほかの作品は知らない。主演ピーター・ファシネリ、よく見ると味があるが、そもそも目立たない。女優がジェイミー・アレクサンダー。どちらも残念ながら、この映画が初めて。ヴィンセント・ギャロが出ているのは貴重か。すごく痩せていて、オーラが消えている。「バッファロー66」がまた見たくなった。 

 

83 みをつくし料理帳(T)

 高田郁の原作で、もうシリーズは終わっている。原作と映画を比較するのは意味がないが、演出としてどうかと思うことがある。とろとろ茶碗蒸し(?)だったかを作ったときに、店の客が口を揃えたように「ありえねえ」と言う。そこからその料理の通称が「ありえねえ」になったと原作にあるが、映画では単なる詠嘆の言葉で終わっている。なんのための演出なのか、意味をなさない。

主人公の案出した料理が名店登龍楼に盗まれたことで、ごりょんさんと一緒に抗議をする。その仕返しなのか、店の前にやくざ風の男が数人居座って、客が入るのを妨害する。さらに、火付けにあって店が全焼する。それを登龍楼と関連付ける演出がまったくない。これではドラマが立ち上がってこないではないか。静かな、淡々とした演出を目指したのは分かるが、それでもやれることはあったのではないか。

 

気になったのは、澪が好きになる侍(窪塚洋介)はお城の料理人の家系で、「御膳奉行」。それほど小身の者ではないはず。襟足の毛が乱れているのは、ありなのかどうか。澪が惚れる男としても失格ではないか。澪に惚れる民間の医者(小関裕太、この役者を知らない。別の役者と勘違いして見ていた)の襟足の毛は乱れていて、それは違和感がない。

大阪を襲った「大水」の話になったときに、みんなが最後の「ズ」にアクセントを置いて話をしていたが、頭からお尻までゆっくり下がる発音が普通ではないか。なにか関西風と混じってしまっているのではないか(澪は大阪出身なので、そこに江戸っ子も引きずられた?)。

戯作者の滝沢なんとかを藤木隆が演じているが、たしかに原作も奇矯な人物だった記憶があるが、それにしてもやたら権柄づくで、目をむいて喧嘩腰の表情をするのは、間違っているのではないか。

石坂浩二が鶴屋の老主人を演じているが、可もなく不可もなくだが、はじめ誰が演じているか分からなかった。中村獅童を何回か映画で見ているが、初めて得心をもって見ることができた。又次という人間の像がくっきりと描かれている。原作でもこんな人間だったように思う。

原作を読んで、いったい何品の料理をまねたことだろうか。できれば、登龍楼との番付争いのおもしろいところを次作で見てみたい。

 

84 スパイの妻(T)

 黒澤清監督で、どこかで賞を取ったらしい。ぼくは彼の映画は3作しか見ていない。蓮実重彦先生が傑作だと褒めていた。しかし、これを傑作といわれると、黒澤監督も面映ゆいところがあるのではないだろうか(彼自身はよく撮れた、と言っているらしいが)。たしかに破たんがないように描かれているが、映像的にこれぞ、というものはない。

 

いちばんの問題は、夫婦が海外逃亡を図るためにいろいろ動き回っているのに、憲兵隊による以前ほどの張り込みがなされない点である。だから、とても順調に事が進んでしまって緊張感がない。憲兵隊の分隊長(妻の幼馴染、東出晶大)はそんな甘い男ではないはずだ。

 

妻が夫の掴んだ証拠品(731部隊の生体実験記録。映画では関東軍の仕業ということになっている)を憲兵隊に持ち込むところまでは、さては裏切りかと思わせ、じつは証拠には3種あって、その1つだけを渡したことが分かる。連合国、ここではアメリカに渡したい英語版と実写フィルムは残っている、という寸法である。しかし、甥はそのために捕まり、手の指の爪を全部剥がされても、夫の加担を白状しない。それさえ読んで私は証拠を持ち込んだ、と妻は言う。なんと機転の利く女かと思うが、一方で、かわいい甥をそんなひどい目に遭わせてもいいと冷たく判断する女である。決断に逡巡の気配が毛ほどもない。ところが、そのあと夫恋しやの一念で、はらはらと崩れ落ちるような風情を見せ続ける。危険を冒すことで、やっとあなたと一体感をもてた、などとも言う。このアンバランスはどう考えればいいのか。蓮実先生は、弱い女から男を唆す女への激しい転身を指摘するが、そうは思えない。夫の誠を信じた女の一途さ、と読んだほうが自然である。なぜなら、あまりにも後半の夫婦は息が合って、夫唱婦随だからである。夫が妻の配下に入ったというこではないだろう。

演じた蒼井は、感情の落差が激しい役だったので大変だった、とインタビューで述べているが、そうではなくて、人格の統一をどう図るかの方が大変だったのではないか。

 

夫と妻は別の逃亡ルートをたどり、サンフランシスコで落ち合うことになる。しかし、密告の手紙(夫が出したと思われるが、明瞭ではない。女中という線もあるもしれないが、それはなさそうだ)で、妻は憲兵隊に捕まる。そのときに、英語版の証拠品を憲兵がたしかに押収する。そして、731の実態を映したフィルムを憲兵隊のお歴々が居並ぶなかで映写するも、それは夫が撮った会社の余興用のフィルムだった。夫がすり替えていたらしい。妻は、大声で笑い、倒れる。船尾でにこやかに手を振る夫のことも映される。では、憲兵が押収した英語版も偽物だったのだろうか。それについては、何も触れられない。

 

夫婦、あるいは妻と幼馴染の憲兵のやりとりが、とても生硬な日本語で、まるでお芝居のよう。これは演出ではなくて、何かの間違いなのではないだろうか。精神病院に入った妻のもとに、夫の知り合いの東大教授、笹野高史が演じていて不似合だが、それが面会に来たときに、突然話の途中に机につっぷすようなことを妻がやる。さてこれは何の真似なのか。やっと作りごとの演技から解放された蒼井優のアドリブのように思える。

「私は極めて正常。ということは、ほかがいかに狂っているかということ」と蒼井に言わせているが、こういうレベルのセリフが頻出し、とくに2度目に捕まったときに、幼馴染にいうセリフはゾッとするほど紋切り型。

 

夫は甥と2週間の予定で満州を見に行く。仕事も絡んでのことだが、街中で異様なものを見たと妻に言う。それは、死体の山で、煙を出して焼かれていた、という。ペスト菌で実験して殺した中国人(朝鮮人?)だという。しかし、国際法違反となるものを、ちょっと行った旅行者の目の留まるところに放置しておくだろうか。731部隊では、実験棟と実験棟のあいだの空き地で燃やしたのではなかっただろうか。これは史実の問題として重要な箇所である。

 

そこそこ客が入っていた。しかし、「鬼滅の刃」の大騒ぎのまえでは、かすむばかり。

 

85 ある女流作家の罪と罰(S)

評伝作家で力量は認められるリー・イスラエル(実在の人物)だが、自己宣伝も出版社が求める拡販活動もしない。名声のない女優の評伝を売り込むが、相手にされない。それでいまはアパート代や飼い犬の治療費も払えない状況。窮余の策で思いついたのが過去の作家のプライベートな手紙の創作。いわくノエル・カワードリリアン・ヘルマンなど。主演メリサ・マッカーシー(レズビアン)、偽作の売り込みをするのがクスリの売人のジャック・ホックをリチャード・Eグラント(ゲイ)。この2人の関係がなかなか大人の感じでいい。マリエル・ヘラーという40代の女性監督。

 

86 グレース・オブ・ゴッド(S)

フランソワ・オゾン監督で、小児性愛の神父による性的虐待の被害者たちが、30年以上経て、真実を求めて立ち上がり、司法の場に持ち込んだ経緯を描いている。犯罪者をかばい続けた教区の大司教も一緒に訴えたが、結果的には、その罪までは問うことができなかった(控訴審で無罪に)。神父も聖職剥奪という結果で、刑罰が科されたわけではない。なぜなのかは触れられない。

ラストに、告発者たちの会合で、もう夫婦二人だけの生活を取り戻したい、という者が現れたり、一枚岩の感じが失われつつある点なども描かれる。フランスにはいまだに宗教的な感情が根強くはびこっているのだという新たな驚きがあった。

この映画は一人の神父による犯罪だが、ボストングローブが告発した事件は多数の神父による性的な虐待である。そこにはカソリックプロテスタントの違いがあるのかどうか。あるいは、アメリカとフランスの違いが?

 

87 彼女は夢で踊る(T)

広島のストリップ劇場「広島第一劇場」が2019年2月(?)に閉鎖になり、それを悼んで作られたフィクショナルな映画である。2度、閉館をいいながら、その後も存続させたことから、「閉館詐欺」といわれたらしい。

2代目劇場主となった男の過去と現在がうまく織りなされて、なぜ人はこの場に集うのかがずっと疑問符として映画を貫く。安易な答えが2つ用意されているが、ほかにもいろいろな解釈がありえそうである。『死児』という詩を書き、生涯子をなさなかった吉岡実は大のストリップ好きで、それについて胎内回帰願望を言う人がいる。

頭にこの作品が作られた理由が明かされる、という作りになっている。監督時川英之の映画「ラジオの恋」を見た加藤雅也という俳優が、監督にくだんの劇場のことを映画にしないかと持ちかけたのが、そもそもの始まり。

ストリッパーのひも役をやった横山雄二東京乾電池ベンガルに似ていて、飄々としていい。映画のホームページの紹介によると、かなりの才人らしい。達者な人がいるものである。

 

88 風をつかまえた少年(S)

 キウェテル・イジョホー監督&主人公の父親役。最初、「キンキーブーツ」で初めて彼を見たとき、どう発音していいか分からなかった。Chiwetel Ejoforという綴りである。

実話を元にしている。自作の風車発電機を作り、乾燥地を緑にした少年の物語である。じっくりと環境の苛酷さ、因習の強さを描きながら、最後の最後で風車が回り、井戸から水が自動的に汲まれる様子が映される。

父親は村一番の娘と結婚し、決して雨乞いしない人生を歩むと誓ったが、長引く干ばつについ天に祈りそうになり、妻に止められる。子どもが自転車を解体し、風車を作るといったときに夫は反対したが、妻は夫を諫めて「あなたは失敗続きだ」と言い、息子に協力させる。監督は自分を低く抑えて、見識を見せた。次回作が楽しみである。

 

89 ストレイドッグ(T)

うまいタイトルを付けるものである。原題はDestroyerである。ニコール・キッドマンが汚れ役をやったというので、見に行った。特殊メイクを施さないとやさぐれた感じが出てこないところがキッドマンである。だめ刑事だが辣腕、酒におぼれ、離婚したか離婚裁判中という男刑事の役をそのまま女刑事として引き移している。だから、意外感がない。キッドマンだからアクションもない。シャリーズ・セロン、スカーレット・ヨハンソン、アンジョリーナ・ジョリーたちはワイヤーロープを使ってだが飛び跳ねていたが、この映画にそれはまったくない。ジェニファー・ローレンスもその線を狙うかと思ったのが、ポルノ映画で終わってしまった。セロンは同性愛のモンスターを演じて賞を取ったが、キッドマンのやさぐれは難しいのではないだろうか。

 

90 罪の声(T)

浅茅陽子宮下順子梶芽衣子、庄司照江、桜木健一佐川満男火野正平、佐藤蛾次

郎などがみんな老けた顔でスクリーンに次々と出てくる。その都度、あれ誰だっけかな、と思う。あまり日本映画を見ないからだろうが、彼らの若いころのことしか知らないから、とても奇妙な感じがする。みんな時間をワープして突然、齢をくったように思えるのだ。そしてまた、こちらもご同様であることをしたたかに教えられる。

映画はとても面白かった。こういう描き方ものあるのか、という感じである。3億円事件は、子どもの関与があったことで、早晩足がつく、という読みがあったことを思い出す。それが延々と時効までいってしまったのはなぜか。組織の固さを思わざるをえないが、じつはまったく違ったという設定である。

そもそも3億円事件の捜査では新左翼の線も洗われたから、こういう角度はあるだろうという気がする。しかし、それがやくざと組んでいたというのは、意外な設定である。終盤、新左翼の敗退の情念に犯罪の動機を解消してしまうのは、あまりにもクリシェである(若い観客はどう見るか知らないが)。

まして宇崎竜童に左翼学生のなれの果てを演じさせるのは、ミステイク以外のなにものでもない。もっと誰か相応しい人間がいるのではないか。

それにしてもこの左翼学生は運動の崩壊後(ということになるのだろう)、イギリスに渡って、向こうで恋人までつくっている。そこにやくざとの関係で警官を辞めさせられた男が、なにか大きなことがしたい、とやってくる。それで当時、起きていたオランダの社長誘拐、身代金要求事件を調べ、それを下敷きに計画を練る。ただし、身代金の受け渡しは成功率が低いから、株の空売りで儲ける――この筋書きもどこかで読んだ記憶がある。可能性の一つとして取りざたされていたはずである。

時効になった事件を負う新聞記者の主人公(小栗旬)が、イギリス・ヨークの洋書の古書店に彼、つまり年老いた宇崎を訪ねてくる。いったいイギリスで洋書の古書店を開く男というのは、どういう背景をもった男なのだろうか。残念ながら、このヨークのシーンで映画はぐっと緊張感がなくなってしまう。

監督土井裕泰、「銀鱗の翼」「なだそうそう」「ビリギャル」などを撮っているが、見たことがない。小栗旬はとっても好感。力が抜けていて、表情も、姿もいい。英語も遣い手である。ほかの作品も見たくなった。上司の松重豊もよかった。

 

91 ワイルドローズ(S)

ジェシー・バックリー主演、彼女は「ジュディ」でイギリスの秘書役を演じた女優である。イギリス・グラスゴー生まれの女性がカントリーの聖地ナッシュビルを目指すが、実際に行ってみて、故郷・家庭を根拠に歌うべきだと改心する話である。ほぼかかる曲はジェシーの歌声である。やはり音楽映画は面白い。ナッシュビルイーストウッドが息子を使って、その聖性を描いたことがあった。最後に子ども2人が、大きめな会場で母親作曲・作詞の曲を聞いているときの表情が、プロはだし。それまでは取り立てて作った表情をしなかったのだが、ここだけ微妙な感じを出している。

 

92 トルーマン・カポーティ――真実のテープ(T)

NY社交界の中心人物の一人、ジャーナリストのジョージ・クリンプトン(スポーツ関係か?)がカポーティのことを書きたくて、関係者にインタビューしていたテープが残っていた。それを過去の映像と合わせて流し、時代の寵児だった彼を描き出す。結局、彼はエンタメと芸術の間を歩いた人で、しかもノンフィクションという新しい形式を編み出した人物でもある。時代の過渡期を橋渡ししたと言っていいのではないか。彼の友人の作家が言う如く、カポーティは「冷血」を描いたのが本物の彼であり、あとは才能が書かせたものだ。早くに両親は離婚し、母は高級娼婦だったらしく、息子は遠い親戚に預けて出奔した(のちに一緒に暮らすが、いくら名をなしても、息子のことは認めなかったという。最後は自殺)。男が黒、女が白の目隠しをした「白と黒の夜会」では、ミア・ファーローとシナトラや、ピーター・オトゥールキャンディス・バーゲンなどの顔が見える。かつて、いまは亡きフィリップ・シーモア・ホフマンカポーティを演じたことが思い出される。彼はたしかクスリで死んだのではなかったか。いい役者だったので、惜しいことである。

 

93 ヤクザと家族(T)

味も素っ気もないタイトルである。東海テレビの劇場版「ヤクザと憲法」で取り上げたことの内実が描かれた、という印象である。時間の制約があってラスト15分ぐらい見ることができなかったのだが、緊密な構成の映画という印象である。あえていえば、14年務め上げて娑婆に出てきて、むかしの仲間は反社会といわれるのが嫌で近づこうとしない。一度、交接したかたぎの女も最初はその素振りを見せるが、すぐに招き入れて、娘をまじえて一緒に朝ごはんなどを食べている。これってありなのか、ご都合主義というものだろう。

主役の綾野剛、同じ半グレの磯野勇斗がいきいきとしてグッド。オートバイに乗った敵対組から銃撃を受け、綾野が車から飛び出し追いかけようとするが、足をやられている。振り向くと、表情が変わる。少しずつ車に近づくあいだ、カメラはずっと彼の顔を追っていく。そのときの表情の移り変わりの自然な様はどうだろう。事件が起きる前に車内で交わされる会話は、綾野と彼を尊敬する若い衆の間柄がよく分かるものなので、よけいにここの表情の変化は意味がある。

14年経って、出所祝いの席が、みんな白髪銀髪になっているのに合わせて、グレーの色調で撮っているのもグッド。生命力を失った組の様子がよく分かる。極道でしか生きる道のない人間たちは、これからどうやって生きていけばいいのか。監督藤井道人、「新聞記者」を撮っている。プロデュースは河村光庸、配給は彼の率いるスターサンズ。

 

94 フォリナー―復讐者(S)

Netflix制作、ジャッキー・チェン、ピアーズ・ブロズナンが出ている。テロで巻き添えをくった娘の復讐をする。ジャッキーが中国少数民族の出(中国政府寄りのジャッキーがどうしたことか。アメリカ資本だと変節するのか)で、国外へ家族で逃れて、タイで盗賊?に3人の娘のうち2人と妻を失う。老いたジャッキーが米軍の元特殊部隊にいたという設定で、相変わらず強いが、リアルさをもとにした映画でワイヤーアクションは興ざめである。

 

95 雨の日は会えない、晴れの日は君を想う(S)

ジェイク・ギレンホール主演で、原題はdemolition「解体」。これは妻を車の追突事故で失って知らないうちに自己の解体を経験する男が、家電・家などの解体をすることで回復の可能性を得る物語である。妻の収容された病院の自販機でヌガーを買おうとするが、引っかかって出てこない。設置会社に手紙を書くのだが、そのときに自分の窮状もあわせて書いたことで、その会社の苦情係の女性(ナオミ・ワッツ)から連絡が。彼女は勤め先の社長と付き合っているが、愛してはいない、という。13歳の息子がいるが、自分がゲイであることに戸惑っている。そこにギレンホールが仮住まいすることに。奇妙な大人と接することで少年は解放へと向かっていく。防弾チョッキを着たギレンホールが少年に実弾で撃たせるシーンがあるが、そういう奇矯な経験から、2人は心を通わせていく。結局、母親も暴力的な社長と別れる。

不思議な味わいの映画である。コミカルでさえある。というのは、男は自分の自我の崩壊に気づいていないからである。心が崩れていくことで、男は真実に向き合い、妻をじつは愛していたことに気付く。その妻は不倫で子どもを堕ろしていたが、それさえ男は許そうとする。リゴリスティックな義父役をクリス・クーパーが演じている。監督ジャン・マルク・ヴァレィで、「わたしに会うまでの1600キロ」を撮っている。

 

96 香港と大陸をまたぐ少女(T)

深圳と香港を行き来する女子高生ペイがiPhoneの密輸を手伝うことに。いつも男に貢ぎ、捨てられる母親、香港で家庭をもつ、うだつの上がらない父親、一緒に北海道へ雪を見に行こうと誓ったクラスメイトで軽佻浮薄のジョー、彼女と付き合っているハオとペイが密会したことで2人の仲は決裂する。なにもかもが可能性を閉ざしていくなか、それでも彼女は決してめげない。

ハオが密輸団とは別に自分たちで稼ぎを立てることを考え、ペイを抱き込む。赤い照明の狭い、雑多な部屋のなかで、お互いの腹にiPhoneをテープで繋げたものを巻きつけるシーンが長く、エロティックである。決してキスをしたり、ベッドに倒れるようなことはしない。そこにはペイの純真性が現れているが、ぼくにはアジアのディーセンシーを感じる。悪人が一人も登場しない。密輸団を仕切る女の頭ホアをエレン・コンという女性が演じている。戸田恵子にそっくり。実績を認められてペイは拳銃の密輸をやらないかと言われるがペイは受けようとしない。ハオも、ホアさんの怖さを知らない、とペイに諭すが、最後までホアさんの本当の怖さは描かれない。

香港と深圳のあいだが、係員がいることはいるが、ほぼ何のチェックもなしに通過できるようになっている。それを利用して密輸を繰り返すのである。ハオと組んで初めての仕事のとき、強い雨に叩かれるシーンがとても印象的な撮り方をしている。映像的にどうということのない映画なので、やや目立つ。主題歌もしゃれていて、アンニュイな女性ソロボーカルがかかる。

「鵞鳥湖の夜」でバイクの窃盗団が描かれていたが、こういう中国の恥部が外に出てくること自体が珍しい。ラスト10分ほどのところで、突然、「いまは窃盗団は取り締まられている」と字幕が出るが、これは検閲で強制されたものだろう。

 

97 グロリアの命運(S)

フランス映画で法廷もの。メインタイもすごいがサブタイは「魔性の弁護士」―どうにかしてよというレベルである。でも、映画自体は面白かった。法廷ものは余程緊張感がないともたないのだが、これだけ緩くても成り立つのか、という感じである。悪党が中国人という設定だが、この傾向は世界で広く続いていくだろう。

 

98 48時間(S)

もう何度目か。なんでなのか、悪党顔ばかり鮮明に覚えている。小さな吊り目の男(ルーサー)、大男のネイティブアメリカン、その白人ボス、白人で差別主義者のような顔をした警官、そして三角形の顔のひげの同僚。阿佐田哲也先生はずっと脇役好きの人だったが、ぼくも結局そこに来てしまったのだろうか。あるいは、潜在的にもっていたものが、何かのきっかけで表に出てきたか。エドワード・ノートン好きはそもそもそういうことだったのか。ぼくは彼の妙なかたちの鼻と、はっきりしないくぐもった発音が好きなのだ。ニック・ノルティの演技の下手さには好感さえ抱く。エディ・マーフィがなぜメインストリームから消えたのかは、とても大事な問題である。

 

99 サイレント・トーキョー(T)

冒頭に調子のいい歌唱曲がかかって、ああ、この映画失敗だったかな、と予感が走る。石田ゆりこが出てきて、男性用手袋、大きめのサンドイッチを買い、なぜか吹き抜けの場所の長椅子に座る。そこに爆破予告を受けたテレビマンがやってくる。女は年上のほうの男に座るように言い、イスの下に爆弾が仕掛けられていて、ある体重以下になると爆発すると言われた、と言う。若いほうのテレビマンが覗くと確かに爆弾らしきものが仕掛けられている。若い男が手を伸ばした瞬間にジュラルミンのようなものでできた腕輪をかけ、立ち上がり、2人でビルの管理室に行き、建物内の人間の退去を放送で促すように求めるが、係の人間は疑って応じない。そのときに小爆破が起き、さらにテレビマンが座っているイスも爆破を起こす。

さて、この女が座ったあと、爆破犯はいつ現れたのか? 劇の進行としては、そこは省略をしたということなのだろうが、ミステリーとしてはそこでもう決定的に弱点をかかえて出発している。さらに、なぜに若いほうの男に手錠をかけたのか、それがどういう性質のものなのか、その後もきちんと説明されることがない(あとで偽物、おもちゃであることが分かる、というのだから、笑えるが)。そして、作劇上の不誠実な対応はその後もくり返される。あえて省略したのではなく、劇を自分の都合のいいように切り張りするための詐術である。ぼくは最後まで登場する人物たちのつながりが分からなかった。中でもITソフトを開発した若者と佐藤浩市はどんな関係なのか? 

 

そもそもの犯人の動機として、自衛隊のPKO(?)の失敗を使っている。そのせいで、両親やきょうだいを亡くしたという現地(カンボジア?)の少女が出てきて、隊員を前に(腹いせから?)地雷で自殺する。もしPKOなら自衛隊に責任を問うのはお門違いだろうし、もし戦争をしに自衛隊が行っていたというなら、その後しばらくして就任した新首相が、自衛隊を軍隊化すると発言するのは辻褄が合わない。こういうのをご都合主義というのである。しかも、その少女のことがトラウマになって除隊した男が妻に自己防衛のために爆弾の作り方を教える! こんな理不尽なことが平然と進められる。

 

西島秀俊は腕利きの刑事の役らしいが、その片鱗をほとんど見せない。ITの若者が犯人かもしれない、と分かり、彼がいる喫茶店に行き、後ろから頭に銃を突きつける!?そんなアホな? まだ容疑者でしかない男である。それに、優秀な刑事らしい西島ならもっと余裕をもって対応すべきだろう。西島は捜査本部の指揮官と何か因縁らしきものがありそうだが、それについては何も描かれない。じゃあ統合会議の場での2人の表情のやりとりは何の意味があるのか。2人で密かに話すシーンでは、犯人像が違うかもしれない……という情報のやりとりだけ。

 

爆破シーンは迫力があるが、もっとカメラを複数にして、全方位からその様子を写すべきである。ITの若者が同じ瞬間を写していたり、スマホで撮っている人間もいて、その映像があとから流される、ということに配慮したのか分からないが、そういう神経はほかで使うべきである。唯一、見せ場はここしかない映画なんだから。

 

100 ロンドン、人生はじめます(S)

ダイアン・キートンブレンダン・グリーソン(この役者、何となくの記憶しかない)が主演。ダイアン、74歳である。どこか日本のピーターに似ている。ジャック・ニコルソンと共演したものはキュートだったが、まだ57歳だったとは?! 老いてメロドラマをやれる、というのもすごいことである。ハリウッドも観客の高齢化に応えていくということだろうが、高齢の詐欺師、バンクラバーとなると、さてどうかな、である。

 

101  日本独立(T)

既視感の強い映画である。タイトルを思い出さないが、GHQ民政局のケーディス大佐と日本の令夫人との恋を描きながら、アメリカ製憲法ごり押しの過程を扱った映画があった。ほぼそれの踏襲である。ただ、白洲次郎や『戦艦大和』の吉田滿をフィーチャーしたのは初めてかも。いかにも白洲が大物っぽく始まるが、結局は通訳にしかすぎない。

 

その2人にカメラがアップに寄るシーンがある。吉田の原稿掲載が検閲で不許可になり、担当編集者(創元社)が目力を込めて、「死者の魂との交歓を奪うものだ」と言うのが、その一つだ。もう一つは、アメリカ製憲法で押し切られたあとの白洲の述懐である(細かい内容は忘れたが、編集者の意見と相似のナショナリスティックなもの)。明らかに観客に視線を当てて、台詞を言わせている。あざとい演出である。

憲法に女性の権利を持ち込んだというベアテ・シロタ・ゴードンを非常に悪意的に描いているのも、あざとい演出である。彼女を持ち上げる左翼の批判を意図しているのだろう。

 

白洲を浅野忠信が演じていて、とてもぞんざいなしゃべり方をしているが、本人はそういう人だったのだろうか。見事なケンブリッジ英語を使いこなす、というが、イギリス英語には聞こえない。GHQの幹部が草案を持ってきて、吉田茂たちに検討せよ、と言って屋外に出て、「原子力の光は気持ちがいい」とおかしなことを言う。そこに居合わせた白洲は、「本物を浴びてから言え」式のことを日本語で言うが、それはちゃんと英語で言って相手をやり込めるべきである。吉田茂を演じたのが小林薫、最後まで分からなかった。さすが、というしかない。

それにしても新味のない映画で、何で今さら? である。監督は「プライド」で東条英機を撮っている。ぼくはその映画を見ていないが、想像がつく。

 

102 のど自慢(S)

井筒和幸監督で「パッチギ」の前に撮っている。本当にこの監督は下手くそ、二流である。売れない演歌歌手が室井滋、これはまだいい。マネージャーの尾藤イサオも意外といい。のど自慢と移動焼鳥販売の試験を同時に受ける大友康平も下手くそだけど、一生懸命だからいい。みんないいのに、監督がまずいから、だらだら面白くもない絵が続くことになる。リズム感というのがないのである。

 

103 居眠り磐音(S)

この文庫本書下ろしシリーズにははまった。その世界観は十分に出ているのではないだろうか。剣戟のシーンも納得である。松坂桃李は初めて見る役者だが、芸達者ではないが、好感である。許嫁の奈緒を演じた羽根京子はコミカルなものしか見ていないので、少し違和感あり。おいらんになった姿もやや線が細い。うなぎを捌くシーンなどはもっと丁寧に撮ってほしいところである。できれば、連続映画シリーズにしてほしい。

 

104  真犯人(S)

途中で放棄。韓国映画。室内劇はよほど力量がないとダメ。

 

105 ソング・トウ・ソング(T)

数年に1回ぐらいこういうだましの雰囲気映画に出合う。すぐにそれと分かったのだが、ナタリー・ポートマンがなかなか現れないので、仕方なく外に出るのを我慢。ちょっと前に母親役をやっていたときは、見るも無残という感じだったのだが、以前と同じナタリーが戻ってきた。映画のあいだ、ほとんど目をつむっていた。カメラが被写体をきちんと撮らない。上からか下から、あるいは斜め。そして俳優はつねにふらふらしている。それに酔ってしまうので、見ていられないのだ。本当に最後まできちんと水平に撮る映像がない。延々とミュージックビデオのようなことをやっている。会話もなく、みな独白ばかり。役者を揃えても芝居をさせないのであれば、意味がない。ルーニー・マーラー、ナタリー、ケイト・ブランシェット、ライアン・ゴスリング、マイケル・ファスベンダーである。チラシはケイトの名前さえ出していない。テレンス・マリック監督で、「ツリー・オブ・ライフ」でも似たような映画を撮っていた。ちらちらする宗教性は何なのか。福音派(?)の巨大な伝道ホールが写される。 

 

106 パッセンジャー(S)

以前、同じタイトルの映画があったと思うが、これはジェニファー・ローレンスクリス・プラットが主演、脇のサイボーグでバーテンダー役がマイケル・シーン。90年後に目的地に着くはずが早めに起きて、宇宙船の不具合を直す話である。「猿の惑星」も故障で見知らぬ惑星に落ちる話だったが、これは回復する。しかし、早く目覚めたぶん、自然の摂理で早く死んでしまう。

宇宙もの、未来もの、IT・電脳ものはほぼ見ないが、どういう訳かこの映画を見てしまった。アダムとイブの創生物語である。宇宙船の床から樹を生やす設定は面白い。

前回の105で取り上げたバカ映画で一年を終えるのと、こういうエンタメで楽しんで終わるのでは意味が違う。といっても、ほかの「インターステラー」などの宇宙ものを見る気はしないのだが。