2026年の映画


1 罪深き少年たち(S)

3人の少年が強盗致死で刑を受け、17年後に再審を勝ち取る。それにはかつて狂犬といわれた一人の刑事が関わっていたが、真相を掴みそうになったところで僻地に飛ばされてしまう。また戻ってきて再審にのぞむ青年たち、弁護士、被害者の娘と裁判闘争に。無罪を勝ち得るが刑事、検事でこの冤罪操作に関わった人間は一人も罪に問われていない。日本においても冤罪の判決を出した判事が出世している現実がある。主演ソル・ギョンヌは見かけたことのある役者だが、きちんと見るのは初めてである。妻役はヨム・ヘラン、“100の顔を持つ女“である。脇で見かけるのは何回目か。監督ツヨン・ジヨンは数作撮っているようだが、未見である。いま司法改革で再審の在り方が論議されているが、かえって検事側が抱えている証拠品の開示に関して、さらに被告の不利になりそうな気配である。

 

2 暗数殺人(S)

よくできた映画である。暗数(Dark Figure)とは警察が把握していない犯罪の割合を指す言葉らしい。頭のいい殺人犯が収監されたあと警察を翻弄するというのは、ありがちな設定だが、十分に見ていられる。殺人犯が17年の刑で収監され、もっと人を殺していると言い出し、一人の刑事が関わりだす。自供の見返りに金や物品を要求し、刑事はそれに応えていくが、決定的証拠が見つからない。しかし、あるきっかけで糸口を見つけ、自供していた7件がじつは本当の話であったことが分かり、無期懲役の判決が出る。殺人犯は他にも殺しをやっている、と言い、刑事はまたそれを追うところで映画は終わる。殺人犯チュ・ジフン(大悟に似ている)、刑事キム・ユウソク、女性検事ムン・ジョンヒ(木村佳乃に似ている)、監督キム・テギュン(ネットでは本作を含めて2作しか出てこない)。

 

3 奴が嘲笑う(S)

また韓国映画である。途中で筋が分からなくなるが、次第に明瞭に。二重、三重にしかけがしてある。死体とユーモアという韓国映画の王道である。主演はイ・ソンギュン、女優はキム・ゴウンで「コインロッカーの女」で見ている。製薬会社社長がチャン・ヒョンソン、監督ホ・ジョンホ。いろいろ韓国映画を見ているつもりでも、知らないことが多々ある。

 

4 フローレス(S)

フィリップ・シーモアがドラァグクイーンを演じ、障害を負ったデ・ニーロを助けるという設定の映画があるなんて知らなかった。原題はflawlessで「傷がない」だが、本編では「完璧な」と訳されていた。99年の作でシーモアは14年に死んでいる。デ・ニーロも若い。警察の英雄が脳卒中で半身不随になり、同じアパートの1階上のシーモアに歌のレッスンを願う。テレホンセックスを利用したいがためのレッスンである。

 

5 喝采(T)

ジェシカ・ラング主演、彼女の「ナイト&ザ・シティ」での演技にほれぼれしたことがある。彼女はのちに舞台女優へと転身していくが、本作も認知症にかかった大女優が最後の公演「桜の園」をやりきる物語である。高級マンションの最上階に住まい、お隣は木彫のアーティストで、外からセックスフレンドがやってくる悠々自適の男、それをピアーズ・ブロスナンが演じていてグッド。キャシー・ベイツが親友のような家政婦を演じている。芝居の最中にセリフを忘れるというのは、見ているこちらにも結構な負担である。監督マイケル・クリストファー、舞台の脚本家らしい。デ・ニーロ、メリルストリープの「恋に落ちて」を撮っている。脚本家エリザベス・セルデス・アナコーン、彼女の叔母が本作のモデルとなった大女優(といっても僕は知らない)マリアン・セルデス。映画ではリリアン・ホールという名前になっている。

 

6 クライム101(T)

騒がしいIT技術などほとんど出てこない、古典的なクライムムービーである。主人公の造形がもう一つ弱いのが難点か。貧困層の生まれだから、ある金額の目標まで金を稼ぐ、という男だが…。何やらヒーリングのナレーションで始まり、ベッドから起き上がる女は保険会社に勤め、11年間、パートナーになれずに鬱屈している。そこに宝石強盗が起きて、店主をうそ発見器にかけるために警察と接触する。これでクリス・ヘムズワース(泥棒)、マーク・ラファロ(刑事)、ハル・ベリー(保険屋)の3人の主役が顔を出す。ルート101で起きる宝石強盗をめぐる物語である。富豪に1100万ドルの宝石を届けるにしては、運び屋とその運転手しかいないというのは、おかしくはないか。その受け渡しのシーンに若造が飛び込んでくるが、なんだかこのシチュエーション、ほかの映画で見た既視感がある。「ソードフィッシュ」で初めて見たハル・ベリーは衝撃的だった。息の長い役者になったものだ。

 

7 プリティ・ブライド(S)

原題はrunaway brideで「逃げる花嫁」、「プリティ・ウーマン」の続編であろう。リチャード・ギア、ジュリア・ローバーツ主演で、脇の女性陣がいかれていてグッド。3回も式場から逃げたジュリアが4回目にして本式に結婚する。もとはギアが新聞コラムで彼女をからかい、それに彼女が抗議し辞職することになったが、真相を知るべく彼女の住まう田舎にやってきてのごたごたを描く。ジュリアの花嫁姿のきれいなこと。ホール&オーツの懐かし「マンイーター」がかかる。

 

8 マーティ・シュプリーム(T)

またこの種の映画か、とがっかりする。エゴイスティックなアホが何をしても上昇してやろうと全編騒ぎまくる。アメリカ映画がダメになってきたのは、この種の騒がしいだけの作品を作り続けてきたせいではないか。主演ティモシー・シャラメ、かつての人気女優で再起をはかるのがグィネス・パルトロー。さすがに年を召されて、臈たけた感じになられた。ハーベィ・ワインスタインのセクハラ事件では、彼女の名前も出ていた。

 

9 ストリート・キングダム(T)

宮藤官九郎脚本、田口トモロウ監督。1980年代初頭のある時期、日本のパンクロックの草創期を描いたもの。トウモウロウは同時代を生き、宮藤は直接のそれはないらしい。なぜかグループ名は仮名になっている。峯田和伸がカメラマンである原作者の役を演じている。周りから「ちゃんとした人」と呼ばれ、最後は自らのレーベルを立ち上げる。ロックバンドの一つのボーカルが若葉竜也、ミニコミ紙を作り、みずからもパンクでギターを弾くのが吉岡美穂(印刷屋の娘)、この3人が劇を回していく。大物プロデューサーとして大森南朋、奇怪なロッカーとして仲野太賀、中村獅童などが出ている。大森の演技をいいと思ったことがないが、この役はよく抑えてはまっていた。若葉の母親だけが常人の雰囲気を醸し出している。母親のアドリブなのか若葉と吉岡が笑い転げるシーンがある。よくできた展開で、最後も救われる。峯田が演歌もフォークも東京の音楽ではない、東京の工場の風景が似合う音楽を、と言うシーンがあるが、あとで若葉が煌々と光る夜の工場群の写真をレコードジャケットに使うときに、なぜと峯田が聞くのはおかしい。自分が言った熱の入った言葉を忘れたのか。どの曲もがちゃがちゃと騒がしいだけで、みんな同じに聞こえる。メジャーとなるにつれて内部分裂が起こるが、もう止めようと言い出すのも峯田である。何か別のものに変わってしまうなら、と。そういうところが「ちゃんとした人」として評価される所以。3人のレーベルを立ち上げ、最初のレコードができて、峯田と吉岡が走って若葉のところまで駆けていくシーンは、レオン・カラックスの『汚れた血』の疾走を思い出させた。フェスという言葉、インディーズという言葉、さらにはDIYもこのへんにルーツがある?らしい。メジャーとなった若葉が政治的な詞を書き、レコード会社から出せないと言われたとき、自分たちでレコードを出せばいいんだ、と頭を切り替える。メジャーの対抗の言葉が思いつかずにいるが、インディーズがそれと分かって納得する彼ら。たった1年の燃焼のあとを追った映画ということになる。主人公が観客に語りかける古風な演出は、まったく違和感がない。しかし、この映画には性的な匂いがまったくしてこない。それがいかにも東京ロッカーズなのか。

 

10 ハムネット(T)

クロエ・ジャオ監督、脚本同、マギー・オファーレル、プロデュースにスピルバーグ、サム・メンデスという布陣である。最後のハムレットの父の亡霊が出てくるところでは、不覚にも涙を流してしまった。森の精霊と一緒に生きる女アグネスが、深いところに何かを蔵している男シェークスピアと結婚する。男はロンドンに出て成功するが、その間に死んだハムネットという双子の片割れのことで罪責を覚えている。その昇華のための作品が「ハムレット」というわけである。冒頭、大きな2本の木のむき出しの根が丸くなったところに、まるで胎児のように眠るアグネスの姿から映画が始まる。心憎いし、わかりやすい。出産に森の中に入るが、立って産み落とすようなシーンがあるが、結局仰臥した姿勢で産んでいる。シェークスピアは何かと取り上げられる人物のようだ。日本でいうと誰にあたるのだろうか。本来であれば、近松門左衛門や鶴屋南北などがそれにあたるのだろうか。主演ジェシー・バックリーは口の脇に線が出るタイプで、意思の強さが感じられる。「プライド」にも出てるらしい。

 

11  キャッチ・ア・キラー(S)

これ、ものすごく出来がいい。マス・マーダーの出自もきちんと描かれ、彼が落ち込んだいわば“資本主義の罠“みたいなものも、きちんと描かれている。食肉工場で働き、解体される運命の経路を逆にたどった、という話など切実である。それを解き明かしていく女性警官が、じつはまえにFBI試験に性格的な偏りのために落ちていたのだが、事件解決を掌握するゲイのFBI特別捜査官(?)に認められ、犯人との親和性のある心証から事件を明らかにしていく。派手な演出は一切なくて、全体に抑えられた演出が光る。この種の大量殺人では稀有な深さをもった映画である。監督ダミアン・ジフロン、脚本同、ジョナサン・ウェイクハム、主演シャイリーン・ウッドリー、FBI特別捜査官がベン・メンデルソーン。

 

12 ワーキング・マン(S)

ステイサムの新作だが、別に建設作業員である必要はない。前作で養蜂家である必要がなかったように。彼のアクションにはある種の品があったのだが、前作、今作とも暴力的に過ぎる。話も単純すぎるし、既視感が強いストーリーである。建設会社の社長令嬢が何者かに拉致され、それを救う話だが、あんたが過去に特殊工作員であることは分かっていた、と社長に言われるのには、笑ってしまった。自分の過去も隠せないのか、と。

 

13 コンプリート・アンノウン(S)

ティモシー・シャラメがボブ・ディランを演じる。ピート・シーガーの導きで尊敬するウディ・ガスリーの入院先にやってくるのが物語の発端である。ウディの病気はハンチントン病といわれる。あのディランにして、初のアルバムは人の曲のカバーばかり。新人の新曲は売れないという制作側の圧力のせいである。シーガーを演じるのがエドワート・ノートンで、狂気の人が、人のいいおじさんに変わっているのが残念でならない。シーガーが切り回すニューポート・フォーク・フェス(ロードアイランド州)の6回目、トリを務めたディランバンドはエレキをかき鳴らし、観客のブーイングを受ける。3曲を歌い、シーガーに懇願されて、アコースティックで1曲歌い、舞台を去る。ジョニー・キャッシュ、ジョン・バエズはディランが勝った、といっている。始終下向きで、悪い発音で話すディランがそこにいる。マイケル・ジャクソンの映画がそろそろやってくる。世界で600億を稼ぐといわれている。

 

14 勇敢な市民(S)

本採用されることが目標の代理教員が不正を働く高校のボス的存在の生徒(親が警察、検察を仕切る)をマーシャルアーツでやっける話。耐えて最後に爆発するパターンは不滅である。韓国映画には珍しいマ-シャルもの。たるい映画だが、最後まで見てしまうのは、その王道的なつくりのせい。

 

15 アマチュア(S)

『ボヘミアンラプソディ』のラミ・マレック主演、FBIで暗号などの分析を行う人間が、妻をテロリストに殺された復讐をする。腕力はないので、爆弾を使う。ラストは不正上司逮捕で終わる。

 

16 型破り教室(S)

メキシコの小学校、犯罪多発地域である。そこに風変わりな教師がやってきて、子どもたちが覚醒していく。子ども主体の教育、探求型の教育である。自分の頭で考えることで、遠回りだが国が課す試験でも好成績をあげるようになる。実話らしい。

 

16 サンキュー・チャック(T)

スティーブン・キング原作、物語は世界の終わりから始まる。時代を遡って、会計士チャックの過去が描かれる。祖母から教わったダンスが彼の人生を華やかに飾る記憶となる。祖父母と暮らした家には開かずの間があり、祖父はそこで隣人および自分の死を見つめていた。チャックは39歳の若さで死ぬが、二度の奇跡的なダンスが彼が人生を肯定するバネとなっている。主演トム・ヒドルストン、監督・脚本マイク・フラナガン。振り付けは「ラ・ラ・ランド」のマンディ・ムーア。2章の踊りのシーンは快感である。1章がいわゆる種明かしだが、やや興ざめがする。それに世の終わりにネットもテレビも使えなくなり、だけどチャックのイメージだけがそこらじゅうに氾濫するわけが明かされていない。理屈はいくらでも付けられるが、映画内ではそれは処理されていない。だから全体が甘くなるのである。雰囲気のある映画なのに残念。でも客はよく入っている。

 

17 王様のホログラム(S)

トム・ハンクス主演、もと自転車製造会社の副社長だが、会社が倒産して、サウジアラビアに通信機器としてのホログラムを売り込む営業マンになる。現地はまったく手つかずの状態の計画都市、同僚はテントの中でWiFiも冷房もなしに働いている。現地の上級担当者やプリンスになかなか会えない。体調も悪く、首の後ろにコブができて、ガンの腫瘍であることが分かり、手術を。その担当医が女性で、離婚調停中で二人の息子がいる。ハンクスが彼女と海に上半身裸で泳ぐシーンは美しい。結局、彼の売り込むホログラムは中国製にやられる。納期が早く、価格も安いからだ。彼は本国に帰らず、現地の開発都市の営業マンに転身する。ハンクスらしいとても気持ちのいい映画。

 

18  コラール

副題が「希望を紡ぐ歌」、市民合唱団が最初バッハの「マタイ受難曲」を取り上げようとするが、バッハは敵国ドイツの作曲家ということで、英国のエドワード・エルガーの「ゲロンティアスの夢」が選ばれる。テノールは工場経営者だが、あとで戦場帰還者の右腕をなくした若者にとって代わられる。指揮者はドイツ帰りのヘンリー・ガスリー(レイフ・ファインズ)博士で、それもまた反発を食らうが、最初だけ。あまり起伏のない展開だが、最後にエルガー自身がやってきて、譜面が書き換えられていることに気づき、中止を申し渡す。しかし、料金を取らなければいいだろう、ということで強行する。そこの描写もメリハリが利いていない。ピアノ担当はゲイのようだが、それも抑制的に描かれる。最後に徴兵に応じなかったことで収監されるが、その前に博士に「一度お願いが」式のことを言うが、博士に恋心があったということか、よく分からない。

 

19 祝宴!シェフ(D)

チェン・ユーシュン監督、脚本で、日本は2014年公開。「1秒先の彼女」で度肝を抜かれた監督の作で、やはり底抜けのユーモアとアイデアの奔流にやられる。脇役がみんな芸達者で、ふと笑わせる。主人公の母親、主人公に借金返済を迫るやくざ、主人公の親衛隊3人の若者、認知症の入った主人公の父の師匠とその妻(?)、宴席料理大会の3人の審査員、地下鉄の構内に料理の名人などなど、じつに多彩。主演のキミ・シアは若槻千夏にそっくり。

 

13 霧のごとく(T)

チェン・ユーシュン監督、脚本。いろいろアジアで賞を獲っているいるようだ。台湾の国民党統治の暗黒時代を描いている。兄が拷問で殺され、それを引き取りに一人の少女がはるばる台北へやってくる。そこで元国民党軍人の車夫と知り合い、彼の助けで死んだ兄と再開するまでを描く。監督のいつものアイデア溢れるアップテンポの奇矯な物語は影をひそめている。同監督の夢幻的で突飛な作風を愛する僕としては戸惑いのほうが大きい。人工的なセットを組むことが多い監督なのに、今回はそれっぽい町の様子に作り上げているのも、ファンの一人としては不満である。

それにしても、殺された縁者を引き取るのに高額を求められるというのは、どう考えても理不尽だが、それに関して大きな憤りは表現されない。資金を持たない少女は、車夫絡みのあぶく銭や義賊からの施しなどで死体を受け出そうとするが、その都度、警察に捕まり、没収され、結局は医療用の検体となっていた兄の遺体をタダで受け取り、故郷まで持って帰るのが大変だから、と火葬にする。別にそのことにも抵抗はないようだ。この映画、いわれるほどに出来がいいとも思えない。死体受け出しのための資金集めのエピソードがゴタゴタしすぎているし、便宜的に過ぎるからである。リアルな映画には論理や筋のある種の必然性が求められるはずだが、義賊を出してみたり、特高の不倫を噛ませてみたり、かなりおざなりの感じがする。いつものやり方ではうまくいかないのである。

雨滴が蒸発して雲や霧になる童話が語られるが、さして面白い話ではない。霧も雲も景色にすぎない、という結論は、映画のそれとしては味気ない。タイトルなどもそこから来ているわけだが、いま一つの感は拭えない。

 

14 ランナウェイ(S)

レッドフォードが弁護士として身を隠す元過激派。戦士の一人が自首したことから、彼も追われることに。しかし、彼は過激事件の際にはもう身を退いていたので、本当は無実。それを明かすための逃亡である。俳優陣がすごい。スーザン・サランドン(自首した戦士)、ニック・ノルティ(逃亡を助ける)、クリス・クーパー(弟役)、リチャード・ジェンキンス(大学教授)、スタンリー・トゥッチ(地方紙ディレクター)、シャイア・ラブーフ(敏腕地方記者だが、グッド)。老いたレッドフォードに小さな娘がいる。そのことの説明は後でなされるが、それまではどうも違和感がある。

 

15 箱の中の羊(T)

是枝の久しぶりの未来ものである。一度死んだ人間がアンドロイドとなって家族の一員となって戻ってくる。いろいろなさざなみの果てに「返却」することを止め、長く付き合うことを決心するが、当のアンドロイドにその気はなかったという話。「樹木」が一つの大きなテーマになっている。いつでも契約を解消できる、というのは家族の条件ではない。「あなたは私の子ではない」は実の親子関係でも、いくら心無い言葉であっても、いわれる可能性はある。大悟が材木屋の社長、刑事に汚い言葉で食ってかかるなどするが、彼が妻と住んでいる家はとてもモダンで、瀟洒な作りである。妻が建築士なのでそれが反映されれいるのだろうが、少し違和感がある。ギャグと思しきシーンが3つ4つあるが、笑えない。大悟はそつなく演じているのではないか。

 

16 ミシシッピー・バーニング(S)

2回目である。若きウィリアム・デフォーとジーン・ハックマンがFBIで、公民権運動家2人と黒人1人が行方不明になっている捜査にやってくる。デフォーが知的な役回り、ハックマンが南部出の荒くれという設定。羽目をはずすハックマンにデフォーが銃を突きつけるシーンがある。あとでデフォーの人となりを知っている人間に聞くと、本気で撃つ気だった、と言われ、根性のある奴だと信頼することに。まちの保安官たちがKKKの一員で、犯罪に加担している。司法にも黒人差別があるなかで、7人の有罪をかちとる。最高刑が10年の懲役である。保安官補の妻がフランシス・マクドーマンド。アラン・パーカーの手堅い演出が光る名作である。

 

17 マイケル(T)

映画館のロビーに人だかりができている。何かアニメ大作でも封切られたかと思ったが、ぼくと目的が同じと知り、びっくり。一番大きなスクリーンが前方数列を抜かして埋まっていた。父親との確執が主軸で、相も変わらずの世界。病気の子どもたちを病院に見舞うことを繰り返したマイケルがなぜ児童虐待などが疑われたのか信じがたい。「スリラー」のビデオを作るときに、アステアは全身を写せと言っていたといって、撮り直しをするシーンがある。チャップリン、ジーン・ケリー、ピーター・パンと彼の世界はクラシカルでチャイルディッシュである。MTVがスリラーのビデオを少ししか流さないのは人種的な問題があったから。マイケルはエピックの社長に談判し、社長は所属歌手を引き上げるといってMTV社長を脅し、ビデオをふんだんに流すようになった。マイケルの母が、エホバは見ておられる式のことを彼に言うが、一家は「エホバの証人」に属していたらしい。ほぼマイケルのビデオ・クリップを見ているような映画である。

 

18 ザ・ファイブ(S)

夫と娘を惨殺され、本人も下半身まひとなった女性が、臓器提供で得意分野のある人間4人を集め、復讐を果たす。設定は面白いが、選ばれた4人の個性がいま一つ際立たない。展開もゆるい。悪党ももっと韓国らしく、もっと嫌らしく造れるはずだ。松たか子似のキム・ソナがきれいなので最後まで見ることに。夫役のチョ・ハンチョル、情報屋役のシン・ジョングン、そして力男のマンソクがいい。

 

19 ボレロ(S)

あの一七分に及ぶ繰り返しのメロディで有名な「ボレロ」の作曲家モーリス・ラベルの物語である。どこかの試験(音楽アカデミーのようなもの?)を5回(6回?)続けて落ちたといっている。サティは受かったものの、たしか和音が不得意だったはず。サティとドビュッシーはよく比較されるが、ラベルもある曲をドビュッシーから盗んだと評論家にいわれている。自分のほうが10年早いと反論しているが。ラベルは友人の既婚(3回離婚している)の妹に終生、恋心を抱き、相手にもそれと知られながら、実際の行為には移れない人物だった。「ボレロ」はダンスのための曲として頼まれ、性的なアリュージョンのあるパフォーマンスは彼をいたく苦しめるが、初演は大成功。新協奏曲を作ろうとするが、ボレロの名声にかき消されてしまう。晩年は認知症となって、その種の施設で生涯を終える。

 

20 パリの小さなオーケストラ(S)

「ボレロ」で始まり「ボレロ」で終わる。アラブ系の双子の姉妹が指揮者とチェロの演奏家を目指す。実話らしく、彼女たちが作った「ディベルメント」という楽団は1000公演を行っているという。フランスで女性指揮者は4%。トスカニーニは恐ろしく正確に指揮をしたが、まったく人を感動させなかった、という話や、マーラーは「楽譜に真実は書かれていない」と言ったともいう。小澤征爾が素人を短時間で鍛え上げていく様子を村上春樹が書いているが、それは魔術のようなもの。セルジュ・チェリビダッケという実在の指揮者が厳しい指導役だが、彼は女性差別主義者らしかった。なのに、才能のあるアラブ女性を支えた不思議。その老獪な怪物を演じたニエル・アストリュブという役者がいい。

 

 

2025年の映画

 

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1 哀れなるものたち(T)

 

原題はpoor thingsである。ものは“物”であって“者”ではない。主人公ベラ(エマ・ストーン)は再生人間で、かなりあとまでロボットのような歩き方をする。ゴッド(ダニエル・デフォー)と呼ばれる博士は顔が無残に刻まれ、まるでモンスターのようだ。屋敷の庭内にいる動物は別の動物との掛け合わせである。
時代は画家レンブラントの活躍した後くらいかもしれない。というのは、階段教室で医学者と思われる男たちが、ゴッドの行う解剖実験を見下ろすシーンが何度かあるからである。もう人体解剖が秘密でも何でもなくなっている。
しかし、主人公が訪れたリスボンでは、空に空中船がいくつも飛び交っていて、まるで未来都市のようでもある。
ベラは橋上から飛び降りて自殺した女性で、お腹には胎児がいた。その胎児の脳を移植してベラは生き返った。彼女は母にして娘である存在である。現実として、父親の子を産んだ娘は同時に母親でもある。そのことをベラは思い出させる。
ゴッドによって外界から切り離されて生きてきたベラは、いわば自慰によって覚醒し、世界を見てみたいと思う。伊達男の誘いに乗ってリスボン、パリへと旅を続けるが、それは性的遍歴でもある。
快楽によってわが肉体を知ったことで、彼女は次第に変わっていく。金に困って娼婦にまでなるが、彼女には世の常識や縛りは基本的にはない。あるところで、熱暑にやられて死んだ赤ちゃんたちの死体を見て、涙を流し、伊達男の博打で稼いだ金を全部恵まれない子のために寄付してしまう。自殺によって嬰児殺しを図った女がたくさんの赤子の死体で“社会化”された。
最後、死の近いゴッドと婚約者のもとに戻る。そこにもとの夫だという男が現れ、ベラはその男についていく。なぜ私は自殺したのか、それを知りたいがためである。男は召使になにか粗相があれば、すぐ銃で脅すような男である。ベラにも外に出ることを禁じ、彼女の陰核さえ切除すれば、奔放な血は収まるに違いないと彼女に強いようとするが、かえって足の甲を撃ち抜かれて、彼女の婚約者に手術をしてもらうことになる。ここのシークエンスはかなり簡略に処理されているので、まだ続くのかという残念感は軽減される。
最後はのどかな庭のシーン。羊の脳を植え込まれたもと夫は雑草を食べることに余念がない。ベラは温かな日差しを浴びながら、リクライニングチェアで読書に耽っている……。
エマ・ストーンの裸オンパレードの映画である。性によって解放されていく、という主題はある意味古典的である。それを十二分に追究するために、常識や固定観念に縛られない人間を再創造した、というわけである。

しかし、悪人だからといって、もと夫を羊に変えるのはどうだろう。ベラが安逸の顔をしているから余計に、その人工操作は能天気になされたものに見える。だとしたら、善の道を歩んだから是とされたベラの改造もまた恣意的なものと化して、意味をなくしてしまうのではないだろうか。

 

2 アイム・セリーヌ・ディオン(S)

ティッフパーソン症候群という難病にかかり活動休止となった彼女のリハビリの様子を写すドキュメンタリーである。筋肉が硬直し、自由が利かなくなり、呼吸困難にもなるようだ。歌の練習もするが、あの急激に高まる高音部の音が出ないし、声がかすれるなど、コントロールができない。パリオリンピックで「愛の讃歌」を歌ったようだが、見ていない。彼女のいい聴き手ではないが、むかし何かで彼女の歌を聴いて、ベストアルバムを買ったことを思い出す。そのなかにスペイン語(?)のアップテンポの曲があって、聴き惚れたものである。それにしても、老いも加わったように見える彼女の苦闘の様子をリアルに映し出し、公開する意図はいったいどこにあるのか? 

 

3   私は確信する(S)

フランス映画で非常にシンプルに撮っている。息子の家庭教師である若い女性の父親が妻殺害の嫌疑で司法にかけられ、始めは無罪だが控訴され、次は危ないと思われている。息子の母親はレストランのシェフで、義侠心から高名弁護士に直談判して弁護を依頼する。それに膨大な録音記録から裁判に必要なものをピックアップする任務を課され、非常な能力を発揮する。ときに仲たがいするが、最後は冤罪が晴れるというストレートな終わり方をする。どこかで見たような展開だと思うが、思い出せない。

 

4 クリーン(S)

エイドリアン・ブロディ主演、「ジョン・ウィック」のパクリ映画。それ以上でも以下でもないというのが悲しい。

 

5 敵(T)

東京映画祭で優秀賞らしいが、ひどい映画もあったもんだ。こうと知っていれば、見なかったのに。客の入りはよさそうだ。始めは老人の日々を丹念に撮っていて好感だったのだが、途中からあれれという方向に曲がっていってしまった。吉田大八監督はずっと撮りたかった映画だと言っているが、なんでこんなものを、である。敵なんぞどこにもいないし、その実態もない。女優さん(瀧内久美、河合優実)も中途半端な感じである。同監督では「パーマネント野ばら」がよかった。あと「羊の木」「紙の月」「騙し絵の牙」を見ているが、劇場は「羊の木」だけ。どれも印象が薄い。

 

6 デリシュ!(S)

料理人が公爵専用だったのが、ジャガイモという卑俗な食材を使ったがために罷免され、田舎でくすぶるうちに料理を出す旅籠に。これがレストランの始まりだという。そこに貴族の女が公爵に夫を殺された復讐のためにやってくる。あとは二人に恋が芽生える、という話だが、ちょうど王政が揺らぎ、民衆の力が勃興していた時代背景がよく生かされている。貴族の女を演じたイザベル・カレという中年の女性が美しい。料理人を演じたグレゴリー・ガドゥボワも感じがいい。その息子役の俳優も感じがいい。ジャン・ジャック・ルソーを読んでいるという設定である。自然や家屋の中、調理台の上の鍋や野菜、どれも絵のように美しい。それは非常に意図的に撮られている。久しぶりに気持ちのいい映画を見た。しかし、ほかの映画でもこの時代の女性は胸の上部を見せる服装で、まだキリスト教がそれほど力をもっていなかったのか、と不思議に思う。

 

7 ミッシング・レポート(S)

ガイ・ピアーズが容疑者、ブロズナンが刑事である。まえの住居地でも女生徒とのあいだに問題があり新地に移ってきて、また女問題が絡んでくる。それだけピアーズはもてる、という役だが、最後は後味が悪い作品である。女学生の一人を演じたアレクサンドラ・シップがすごくかわいい。

 

8  カードカウンター(S)

ポウル・シュレーダー監督・脚本、主演オスカー・アイザック。博打打ちが人生の師匠になるパターンは、シンシナティキッドやハスラーの頃から繰り返されてきたパターンだが、この映画はそこにアグレブ収容所出身という要素、復讐という変数を入れてくる。狙われるのはアグレブで指導的立場のウィリアム・デフォーでいまは防衛省などに新式のウソ発見器などを売り込んでいる。主人公はポーカーゲームで金を稼ぎ、それを元同僚だった男(のちに銃で自殺)の息子とその母親が抱える借金を帳消しにしてやり、息子には大学への復帰も促す。しかし、彼は離れて暮らす母親に会いに行かず、デフォーを殺しに行き、逆にやられてしまう。主人子はその復讐にポーカー大会のファイナルの場から抜け出し、目的を果たし、またしても獄中の人となる。全体に淡々と抑えた演出で好感である。シュレーダー作品はスコセッシ絡みで見ているが、その後も、いくつか見ているはずだが、かなりの作品をつくっている巨匠である。

 

9 不思議の国の数学者(S)

チェ・ミンシク主演、監督パク・ドンフン、作品はこれだけみたい。進学校の清掃人がリーマン予想を破った脱北者という設定。その学校に特例生として入学を許された母子家庭の青年が彼に学ぶことで数学の点数が上がっていくが、教師の不正で普通校に行かされそうになる。しかし、彼を思う女生徒の機転で救われる。チェ・ミンシクを主人公とした「オールドボーイ」を初めて見たときの感激を忘れない。韓国映画、すごいぞ、と感嘆した。2003年のことである。「殺人の追憶」とともに韓国映画にのめり込んだきっかけとなった一作である。そのまえから見てはいたが、まだ邦画が上だと思って見ていた。

 

10 オーダー(S)

実話が元になっているらしい。「ターナーの日記」がカルト、過激家集団などの手引書となって、アメリカでテロを誘発した。今作はワシントン州の田舎町で起きた事件を扱っている。ジュード・ロウ主演。反ユダヤ、反有色人種のプロテスタントで、自分たちの土地は奪われているという主張である。プアホワイトが中心で、トランプを支持する“忘れられた人々”である。

 

11 ぼくの歌が聴こえたら(S)

監督・脚本ヤン・ジョンウン、ほかに作品がないようだ。主演は韓国の人気ダンスボーカルグループ「EXO」のチャンヨル、彼は人前で歌えないので、ボックスの中に入って歌うが、最後はその殻をぶち破る。それを支援するのが借金まみれの、かつてヒットシンガーを生み出したこともあるミンス、演じるのはチョ・ダルファン、ぼくはこの中年俳優を見かけたことがない。なかなか味があっていい。映画自体もじっくりと撮っていて好感である。かなり質がいい。韓国で歌ものは「サニー」と後1作(ダンスものに近い)しか見ていない気がするが、全編にわたって音楽もいいし、楽しめる。ロードムービーであちこち都市巡りするのもいい趣向で、行った先で名物を食べるのも興味深い。ジャズバーが出てきたり、ジャズの影響が韓国にあるのか、と再認識した。それと、ロマの集まる野原があるのも意外だった。リズミカルなロマの音楽が奏でられ、女たちが踊る。主人公は殻に閉じこもる自分をそこで壊すのだが。ただ、釜山の音楽祭だかで歌った「チキン音頭」みたいなポップス調の歌はキャラクターに合わないのではないか。

 

12 さよならくちびる(S)

ハルレオというデュオが解散ツアーを行い、最後は解散を止める。ハルを門脇麦(河合優実に似てる)、レオを小松菜奈(ファッションモデルらしい)、マネジャーのシマを成田凌、監督・脚本が塩田明彦。塩田はかなり撮っているが、ぼくは初見。ハルは同性愛者であり、シマは彼女を愛し、レオはシマを愛しているが、それぞれがうまくいかない。レオはハルとシマにキスをしようとして拒まれ、シマはハルにキスしようとするが拒まれる。まさに「さよなら、くちびる」。レオはハルと比べて、何をしても劣っている、と考えている。そんなこんながじっくりと描かれ、行く先々のライブハウスでの歌がはさまれる、という進行である。最後は解散を止めるのだが、そこまで説得性があったかは疑問である。日本の歌ものって意外とないので、貴重な映画である。

 

13 ニューヨーク 親切なロシア料理店(S)

献身的で親切な看護師は、教会でも奉仕をしている。彼女の行きつけが古いロシア料理店。この2つをめぐって暴力夫から逃れた2人の子持ちの女性が絡む。かなり不自然な巡り合わせなのだが、ごく自然に見ていられるから不思議である。看護師を演じたのがアンドレア・ライズボロー、監督は女性でロネ・シェルフィグデンマーク生まれ。料理店主をビル・ナイが演じているが、NY生まれのロシア人という設定。いつものように飄々としている。

 

14 ブルタリスト(T)

亡命ユダヤ人の実在の建築家ラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)の話である。ペンシルベニア州ドイルスタウンのある金持ち(ガイ・ピアース)に気に入られて、礼拝堂、ジム、図書館、コミュニティセンターなどをそなえた大きな建築物の設計を頼まれる。ヨーロッパにいる妻がやってくるのが中休みが入ったあと(4時間の映画)。結局、イスラム国へ行ってしまう話である。彼の業績を顕彰する催しが開かれるところで映画は終わるが、そこはどうしてかハンディビデオで撮った映像になっていてチープである。くだんの建物は、建築家がいた収容所の部屋を模して狭いが(このことは建築の過程で触れられない)、天上だけは高く、そこから光が落ちてきて、据えられた大理石の上に十字が描かれる仕組みなっている。なんだ安藤忠雄の先駆者がいたのか、と思った。妻が夫を性的に求めるシーンが迫力がある。あなたをずっと思って自慰をしていたが(それを身体の動きで表現する)、それは幻像ではなかったと言うのである。夫の首筋に吸い付くようにして言葉を発するが、まるで夫の脳に念力を吹き込んでいるような不気味さがある。その姿勢で「私はイスラエルに行く」と言うと、夫もそれに従って、一生君と一緒だ、と従順である。アメリカでは我々は無だ、と建築家は諦念をもって言う。長い尺の映画だが、ラストがしょぼいのが残念なのと、妻によって断罪された金持ち男(建築家のおかまを掘った)が行方不明になったのか、その流れで死んだのかはっきりさせないのはおかしい。建物が完成したかどうかも分からない。

夫が大理石を探しに行った先で、薬に溺れているときに金持ちにおかまを掘られる。それをレイシストとして妻が告発したので、金持ちは行方をくらましたのである。われわれは肉体は汚れても魂はそうではない、と妻が主張する。女房がオクスフォードを出ていて、新聞記者をやっていたのに、NYでは化粧品の記事を書かされている、と不満を言うシーンがある。金持ちの紹介で得た職である。

結局、イスラエル讃歌の映画だったが、もしこれがアカデミー賞を取るなら、トランプも大喜びだろう。ブルタリズムとはコンクリート打ちっ放しが特徴で、一世を風靡したらしい。安藤さんはこの流れに乗っていたのね。

 

15 ロングレッグズ(T)

刑事ものと思って観に行ったが、オカルト、ホラー映画だった。ニコラス・ケイジがプロデュースの一員になっていた。最後までどこに出ていたか分からなかったが、あああれか、と思いついた。どうも刑事ものと悪魔憑きの結びついた作品が目立つ。「トゥルー・ディテクテヴ」「オーダー」もそうである。アメリカの混乱と不安がが見えるようだ。

 

16  ビーキーパー(D)

しばらく生っちょろい作品に出ていて、もうあの切れ味するどいジェイソン・ステイサムは終わりかと思っていたが、ようやくのご帰還である。もしかして、強すぎるかもしれない。マーシャルの細かい点が見えないからである。

この映画を劇場で観なかったのは、また騙されるのか、と思ったからである。ジェレミー・アイアンズが元司法長官(?)の悪玉で、この人は息が長い。ルイ・マルの「ダメージ」で観たのが最初である。サッチャーみたいな女優が大統領を演じていて、その選挙資金を息子がネットの詐欺行為で捻出したという設定で、ステイサムに優しく接してくれた老婦人の金を全額だまし取ったことが、ステイサムの怒りに火を着けたそもそもの理由。その老婦人の娘役は、リーアム・ニーソンの「ブラックライト」に出ていた女優である。この映画、続編があるらしい。楽しみである。だけど、政府側の特殊部隊の人間を殺してしまうのはどうかと思う。FBIは殺していないようだが(?)。

 

17 アノーラ(T)

ちょっと長い。財閥のダメ息子を探す過程が冗長だが、この過剰さが狙いだったのかもしれない。饒舌、多言語、猥雑さが描きたかったのだろう。ここに暴力があればタランティーノなのだが、登場人物みんな善人がこの監督の持ち味なのか。息子を立ち直らせるためにロシアから両親がやってくるが、こちら側の世話係(神父)が非常な恐がり方をするが、それはミスリードである。憎むべき息子の結婚相手であるエスコート嬢が妻に浴びせる毒舌に、夫である大富豪は笑いをこらえられない。最初から、ボディガード男がアノーラに気があるのが分かり、ラストの感じまで読めるわけだが、このテイスト、何かで味わっているが、思い出せない。ジョン・ベイカー監督・脚本で、「タンジェリン」という作品で性的マイノリティを扱っているらしい。観たい映画である。じっくり撮る実力のほどはよく分かる。

 

18  悪より救いたまえ(S)

ファン・ジョンミンである。日本のやくざを殺し、その凶暴な弟に復讐で追い回され、タイで誘拐された娘の救出にも必死の男の役柄である。韓国映画で日本が舞台になったり、日本人が出てくると、どうも違和感がある。ジョンミンの下手な日本語など聞きたくない。

 

19 ベイビーガール(T)

エマ・ストーンの脱ぎっぷりのすごさから始まった一年だが、今度はニコール・キッドマンである。さすがに肉体に張りがない。57歳らしい。夫(アントニオ・バンデラス)との通常のセックスに飽き足らず、事がすんだあと、ポルノ映像を見てオナニーで行く。支配されることを欲している女として新人男性に見抜かれ、犬として調教される。過去の孤児院育ちは関係ないという。結局、夫に自らの性癖を教え、それでオルガニスムに達することができるようになる。新人男性は黒人の女性社員とも付き合っていて、そっちは相手に合わせてノーマルなセックスをしているようだ。その女性は常に昇進を望んでいるが、上司であるキッドマンが対応してくれないことに不満をもっている。しかし、ニコールの性癖を論難することはしないで、正当に私を評価してほしい、とニコールに迫る。最後、彼女は昇進したのか、全社向けのスピーチなどをしている(と思うのだが、違うか?)。新人男性は日本の川崎に飛ばされている。この人の心を読むに敏な男には支配欲というか、セックスを材料に相手を脅すなどのことはまったくない。言ってみれば、彼によってニコールは自分の欲望を痛いほど知り、それを臆することなく追求することができるようになった、という意味では彼は救世主である。悪が存在しない映画で、ラストが緊張感に欠ける。

 

20 犯罪都市 Punishment (S)

第4弾で、ほぼ似たような設定。海外と韓国、痩せぎすでやたら強く冷酷な主犯。かなりの客が入ったらしいが、迫力はまえのほうがあったのでは。FDAを秘密警察のバッジだとわたされるチンピラ(?)が相変わらず味がある。このユーモアは、韓国映画の良さである。

 

21 さよなら、僕のマンハッタン(S)

父親(ピアーズ・ブロスナン)が版元の社長、その息子(カムラ・ターナー)は小説家志望。彼のアパートに一人の老人(ジェフ・ブリッグズ)がやってくる。あとで通好みの小説家と分かるが、彼の本当の父親であることもわかる。その男と父と母(シンシア・ニクソン)は友人で、父は精子に問題があり、妻と友人が関係を結び、子をなした過去がある。青年は父の恋人(ケイト・ベキンセイル)を奪おうとするが、うまくいかない。彼には黒人の彼女(キアシー・クレモンズ)と付き合っているが、その彼女には恋人がいて、なかなかなじませてくれない。そういう背景があって、父の恋人に近づいたといえなくもない。最後、父と母は別れ、かつて子をなした小説家のもとへ母は近づいていく。青年は小説を応募しつづけるが、まだ採用されない、という話。本当の父親が書いているのが青年を扱った「the only living New York boy」という題の小説で、サイモン&ガーファンクルの同名曲が流れる。父の恋人の名は「ヨハンナ」だが、やはりディランの同名曲が流れる。ほかはジャズが多い。品のいい映画で、印象に残る。しかし、友人に頼んでまで子をなした夫婦が、なぜにずっとすれ違いだったなどということがあるんだろうか。

 

22 沈黙の行方(S)

アンディ・ガルシアが有名な精神科医を演じる。息子の自殺と狂気をもった青年を重ね合わせるが、最後に意外な事実が明らかに。監督の演出が悪いのではないだろうか。もっといい作品になるような気がするが。

 

23  ナミビアの砂漠(S)

だいぶまえの「バウンスコギャル」を思い出す。意図的な録音の悪さ、意図的な会話のすれ違い、いまふうの風俗を活写など、共通点が多い。冒頭から、まちの風景をじっと長回しで撮るところなど、変な映画だな、という感じ。そこに遠くから主人公のカナが歩いてくるのが見える、という始まり方。これも「バウンス」と似ている。

大事なときに言葉が聞こえない。これは意図的にやっていることだが、イラつくのはたしか。冒頭、カナは友達の待つ喫茶店に行く。別の席の3人の若者が、ノーパンシャブシャブの話をしている声が大きく、友達の話をかき消す感じだ(あえて時代設定が90年代末の意味が分からない)。目のまえの友は久しぶりにかかってきた友達の電話の話をし、その翌日にその友人が自殺した、と話しているが、カナには関心のない話だ。友人のパフェを食べながら自分のアイスコーヒーを飲んでいるカナ。ここにすでに彼女の二面性が現れている。

彼女は部屋に帰れば長髪の男がいて、ほかにもベッドを共にするちょび髭の男がいるが、その後者の男から一緒に暮らしたい、と切り出される。トイレに座るカナの上に座り、男は小便をする。翌日、長髪の男の部屋で何かを片付けるが、きっと部屋を出て行く準備である。部屋の中をコーンに入ったアイスを食べながら歩くとき、すーっとカメラが顔に寄っていく映像は、奇妙である。

長髪の男は札幌に出張するが、絶対に行かないと言った風俗にやはり上司に請われて行ってしまったことをカナに謝るが、カナには堪えていない。そのとき、札幌みやげの甘いのとしょっぱいお菓子を同時に食べている。これも二面性のアリュージョンだろう。しかし、カナはこの謝っているばかりの男を捨てる。中絶させられた過去がかかっているのか。

カナとちょび髭男と新しく暮らし始めたが、男にもほかの女を中絶させた過去がある。クリエイターを目指しているが、資格があるのかとカナは攻撃する。そんなことをくり返す二人、最後にカナがスマホで中国人の親戚(?)とのやりとりをするが、ほぼ通じない。聞こえたなにかの言葉をカナが口にし、それの意味を男が尋ねるが、カナは「分からない」とかすかに笑い合うところで映画は突然終わる。

そのまえに隣の女から、パンダアリ、海猫などの、名前と実体が違う動物の話がされ、もし海猫がネコだったら海が好きになったかもしれない、という話をされる。それは精神科医から、心で思うことは自由だから、全部吐き出せ、と言われ、違和感をもつカナにはよく分かる話だ。外見と中身の違い、日本人と中国人、愛人と同居人、その違いにもがいている自分。それを彼が中国語に触れたことで、何かが少しだけ溶けた、ということかもしれない。

会話がよく生きている映画である。最後の突然の終わり方は、そうするしかなかったとも言えるし、安易な結論は置かないという意思でもあろうが、やはり映画のラストしては物足りない。しかし、カナ的な人間と付き合うちょび髭男も大変だ。髭男が「もやってられない」式のことを言うと、カナは「それを言うのはこっちだ」と暴力を振るう。この映画の核心がここに表現されている。

床を這って何かを探すなんでもないシーンで上半身裸である。こんな自然な裸を映画で見たことがない。

 

24 ラストマイル(D)

満島ひかり、そして刑事役の一人がやたらテンションが高く、違和感がある。満島は次第に落ち着いていくが、どういうつもりだろう。彼女を犯人のように思わせるストーリー展開は、余計といえば余計である。物流の細かいことを知らないと、犯人の仕込んだわなが分からないが、きちんと説明されるわけではない。満島が阿部サダヲのところに行き、止めてしまえ、と言うシークエンスがよく分からない。そもそも彼女を送り込んだ本社の社長は、どういう企みのために送り込んだのか。日本支社長(ディーン・フジオカ)の追い落とし? なんのために? 結局、120億の損害が発生しているわけだが。アメリカ流先端の非人間的な物流の仕組みを告発する映画? そうかもしれないが、だからなんだ、という感じである。そもそもこの犯罪が発想された元の理由を覚えていない。酷薄な仕事のシステムに追われて自殺? それを恨んで恋人が復讐? 巨大物流倉庫の弱点をアルバイト(たとえ正社員だとしても、支店長の満島だってその弱点に気づくのに数日かかっているのに?)の女性がどうやって見つけるのだろう? 塚原あゆ子監督、野木亜紀子脚本。塚原はTBS社員で、「グランメゾン★パリ」「ファーストキス」などウケに入っている。

 

25 ベテラン(T)

筋が複雑で、展開も早く、よく分からず進む。アメリカ映画の影響か。しかし、犯人がはっきりしてから、それまでの意味が判然としてくる。ハン・ミョンジョンの良さがもう一つ見えにくい。犯人が捕まったあと、トンネル内にスタッフが5人横に並んでへたり込む絵がいい。女刑事がコメディエンヌというわけだが、もっと強力にやらせてもいいのでは。タイトルロールが終わった後のおまけはなにか? 続編、大いにありか。

 

26 復讐者たち(S)

戦後、ユダヤ人たちがナチスに関わった人間を処刑する。もう一つ、民間人を含めて、大量虐殺を考える一団がいる。飲み水に毒を入れる計画である。パレスチナイスラエルの国づくりが始まっているときに、そんなことを起こせば、世界中から非難を浴び、国家建設は無為に終わってしまう、ということから、それを阻止する。主人公はその先鋒として忍び込み、信頼を得るが、結局は裏切ったと見えたが、それは幻影で、やはり中止の工作に協力する、という話。これは実話だったらしい。幸福に暮らすことが、本当の復讐だとなかで言われるが、いまのイスラエルはそれを忘れたのだろうか。あるいは、ハマスのテロでホロコーストの記憶がよみがえり、過剰に暴力に駆られているのか。この映画はいろいろなことを問いかけてくる。2021年の公開作である。

 

27 リー・ミラー(T)

英国Vouge誌のカメラマンでありながら、戦場の女性兵士の洗濯した衣服を撮る。その彼女がアウシュビッツに至り、その写真を撮るが、雑誌は取り上げてくれない。のちにアメリカの方で掲載になり、評判をとる。彼女の周りにはエリュアールとその彼女などや裕福なユダヤ人夫婦などがいて、戸外の飲食では女性は胸をはだけている。

ミラーに質問する男性は記者かと思ったが、最後に彼女の息子が彼女を回顧していたという設定になる(彼女が煙のように消え去る)。まったく母親がそういう歴史的な写真を撮ったカメラマンだったとは知らなかった、と。ぼくが母親を不幸にしたと思い込んでいた、と。ケイト・ウィンスレットが主演・製作である。

 

28 でっちあげ(T)

まるで時代劇のようなロゴである。原作が出たのが2007年である。生徒を虐待し、自殺まで教唆(綾野剛)したと生徒の両親(柴崎コウ)から訴えられるが、被告の勝訴に。ただ体罰に関しては有罪となっていたが、10年後に教育委員会から処分取り消しが届いた。司法がどうなっているのか分からない。被告から訴えがなければ、そのままだろう。原告夫婦が近隣では有名な問題親であり、そのことで被告教師への支援が広がったことは触れられていない。原告は立派なマンションに住まっているが、読んだ記憶とはだいぶ違っている。小林薫が老練弁護士を演じるが、力が抜けていていい。是枝の「怪物」の教師は、この福岡の教師を下敷きにしているのかもしれない。

 

29  国宝(T)

李相日監督、「悪人」「フラガール」「怒り」を見ている。今作の脚本は奥寺佐渡子で、「八日目の蝉」「バンクーバー朝日」「コーヒーが冷めないうちに」「しゃべれどもしゃべれども」を書いている(ぼくは「朝日」「しゃべれども」を見ている)。

「国宝」は吉田修一原作で、「悪人」「怒り」もそうである。客がよく入っていて、いつも平日で人のいない映画ばかり見ているので、少々びっくりする。前から3番目で見てしまった。

冒頭の、首の後ろ側に白粉を塗る描写から始まるが、それが美しい。対象が少年(東一郎)であることが分かったところで、宴会のシーンに移る。長崎の料亭である。あそこには大きな花街があった。やくざの親分(永瀬正敏で貫禄あり)が開いた新年会の席らしい。そこに大阪から歌舞伎役者花井半次郎(渡辺謙)がやってきて、びっしりと詰めた客の前で先の少年が「関の扉」という演目を演じ、感心する。演じ終わって白粉を落としているときに、宴席が騒がしくなる。殴り込みで、父親が鉄砲で撃たれて死んでしまう。復讐を果たそうとするが失敗し、1年後、身寄りのなくなった少年が花井のもとにやってきて、修行の日々が始まる。少年は是枝の「怪物」に出ていた黒川想矢である。

血を受け継いだ男(花井半弥:横浜流星)より芸が上の男(花井東一郎:吉沢亮)がのしていくが、結局、血の継承が勝つと見せて、最後にまた芸の男が勝ち、その人物が国宝になるという話である。

東一郎が落ちぶれて演じる先が田舎の宴会場だったりする。それなりに場所がある、というのが驚きである。田中泯が国宝の女形を演じるが、最後、東一郎を呼んで会ったのが裏寂れたアパート。これは何か史実を元にしているのか、何らかの説明がいるだろう。「ここには美しいものは何もない。やっと解放された気がする」式のことを言う。少年の東一郎を初めて見て、その美貌が災いをもたらす式のことを言うが、そんな場面は一回も出てこない。落ちぶれた旅先のごく小さな舞台で演じ、酔っ払いに女に間違われるという変なシーンがあるが、男が女を演じていると知らずに見ているやつがいるのが分からない。

高畑充希が東一郎の長崎からの恋人で、一緒に背中に刺青を入れた仲だが、半弥の落ち込みを見て同情し、夫婦となる。この経緯がおざなりである。一子をもうけ、のちに夫が中央に復帰すると、婦人然として振る舞う。高畑ファンとしては、こんな役などやってほしくない、という思いが強い。

東一郎と駆け落ちする彰子(歌舞伎役者吾妻千五郎:中村雁次郎)のほうが、おしゃんな女を演じて、高畑を彷彿させる。雁次郎の演技もいい。夫の再起のために尽くすわけだが、中央に呼び戻されるまでの経緯が、溝口健二「残菊物語」とよく似ている。こっちの主人公も養子だが、芸がそれほどではないものの、弟の乳母のお徳の眼力では「いい役者になる」との言葉に励まされ、結婚を考えるが、身分違いと周りに止められ、二人で駆け落ち……。

主演の尾上菊之助花柳章太郎が演じるが、新派の女形が美男を演じて好評を博し、晩年には国宝になっている。『国宝』という小説はこのあたりの経緯が織り込まれているような気がする。

芸道もので溝口は売れない時期を脱したといわれるが、実際、この映画は実によくできているし、ぼくの好きな映画である。死の床にあるお徳と大阪に船で凱旋する(船乗り込みという)菊之助。あと成瀬の「鶴八鶴次郎」、マキノの「人生とんぼ返り」も秀逸。

歌舞伎の演目がいくつもタイトル入りで紹介されるが、作品を忘れたが、全編、歌舞伎の演目で覆われた映画があった。それなども下敷きになっているか。瀧内久美が出ていたらしいが、どこにいたか分からない。

 

30 私たちが光と想うすべて(T)

変貌を遂げるムンバイでは弱音を吐いたら終わりだ、という。おそらくイスラム教の彼氏が言うこの言葉が、この映画では最も熱を帯びた主張らしい主張である。もう一つは、アパートからの立ち退きを求められた主人公の友人は、アパートの近くに掲げられた「階級こそ美しい(引用不確か)」の横断幕に、主人公とともに石を投げつける。そのシーンにも熱がこもっている。その友人の田舎に主人公、そして主人公のルームメイトが出かけ、主人公が海に溺れた男を助け、その男と話すうちにドイツに出稼ぎに行っている旦那となり、一緒にドイツに来てくれ、との誘いにきっぱりとダメだしするシーンも、熱を帯びている。

あとはごく静かな淡々とした映像がくり広げられる。監督・脚本パヤル・カパーリヤー。

 

31 メルト(T)

20分もしたら、結末が見えて、興ざめがしてしまった。復讐劇だが、謎解きが簡単なので緊迫感がない。

 

32 ベスト・キッド  レジェンド(T)

なにか見終わったあと、索漠とした思いになった。初代ベストキッドがジャッキー・チェンと同格、あるいはそれ以上の力をもっている、という設定自体が気に食わない。そもそもそんな古証文の初代など出してくること自体おぞましい。

構図はいつもと同じ、母子が異国(今回はアメリカはニューヨーク)へやってきて、子どもが抑圧され、それを跳ね返すというもの。こう繰り返されると、もういいか、という気がしてくる。

ブラッド・ピットの『F1』を見たいのだが、埼玉でやっているのが1館もないというのは、どういうことか。世界で好成績を上げていると評判の映画なのに。洋画が興収の2割というていたらくだが、それにしてもひどい。

 

33   バード(T)

 

むごい現実と夢想(幻想?)がごく自然と結ばれた映画で、このテイストはどこかで味わったことがある。好きなタイプの映画である。

全身に刺青を入れたあんちゃんが実は主人公の黒人の女の子の父親で、子連れ女と結婚間近。父親は蛙を飼っていて、その好きな歌を聞かせると、カネになる液体を出す、という変な凝り方をしている。

そのすぐ隣にもあんちゃんがいて、これは弟か? 14歳で、彼女は妊娠していて、スコットランドに二人で逃げようとするが、結局、待ち合わせの駅に彼女はやってこない。ちなみに父親と弟は白人。部屋のなかも外と同じペンキの書きなぐりの文字や絵があるような貧しい団地暮らしである。

主人公の母親は別に白人男と住んでいて、そっちにも子どもが3人(娘二人は黒人で、男の子は白人)いて、男は暴力男である。そこに鳥のような顔の、マントを羽織った男バードが現れ、ここは自分が生まれたところで、両親を探している、という。結局、母親はすでに死んでいて、父親は別の女と所帯をもち、突然いなくなった息子のことなどまったく忘れていた。顔を合わせるも、引き留めようともしない。バードの力を借りて暴力男を退治してもらった主人公、父親の結婚披露パーティでバードと抱き合い、別れを受け入れる。

 

34  宝島(T)

監督大友啓史、脚本同、大浦光太、高田亮。戦後、アメリカ軍の物資を盗み、人々に配り、英雄視されたオン。彼は盗むだけではダメだ、得たもので学校を建てたりすることが重要だ、と言うような男である。しかし、米軍に追われ、彼の消息が知れないなかで、遺志をついだ男と女たちの物語である。

3時間を超す映画である。冒頭でオンは姿を消してしまうので、彼の事績がよく分からない。それに沖縄言葉で喋る部分がよく分からない。一番の問題は、オンの何を継承しようとしたのかが見えないことだ。刑事となった男とやくざとなった男、オンの恋人は教師になる。この3人が物語の主人公だが、刑事は米軍の諜報部とつながり、やくざは覆面をかぶって米兵を殴り倒すような活動をする。結局、生きていると思ったオンはとっくの昔に死んでいることが分かる。そのお墓の弔いの場面で映画は終わるが、はてこの映画、なにを言いたかったのか、最後まで不明である。

沖縄の戦後には一本の背柱が立っていたが、それが次第に失われた、ということか。では、その背柱とは何か? 

永山瑛太がオンを演じているが、「福田村事件」でも頭領的な役割を演じてグッドだった。刑事を妻夫木が演じるが、オンの恋人(広瀬すず)に求愛したあとのことが触れられず、ほかの女と所帯をもった映像に飛んでしまうのは不親切というものだろう。

コザ暴動が描かれるが、ほぼ1日で自然終息したのを知らなかった。たしか松本清張が書いていたはずだ。

 

35 コンサルタント(S)

続編だが、前のテイストは一部にしか残っていない。抜群の計算能力をエクセレントな企業を相手に披露する面白さがあったのが、今回はマフィアの世界に沈潜している。殺し屋の弟との交情がテーマになっているが、8年も連絡をしてこなかった兄を責め、二人で酒場に行くが、気のある女に合わせてカウボーイソングに合わせて不器用な兄がステップを踏むあたりまでのシークエンスが、長いが見ていて飽きない。もっと話題になっていい正続だが、2作目のテイストの間違いは大きい。

 

36 プロフェッショナル(S)

なんでこのタイトルなのかわからない。原題はin the land of saints and sinnersである。リーアム・二―ルソン、よくぞ働いています。アクションは皆無だけど。 アイルランドの片田舎にいる殺し屋、よくそんなとこで仕事があるもんだ、しかもIRAがまちで爆弾騒ぎまで起こしている。ありえないだろう。女統領がケリー・コンドンで、魅力的な暴力女を演じている。今度の「F1」にも出ているらしい。「アンジェラの灰」に出ていた女優さんである。マーベルに誘われたのもよくわかる。二―ルソンの相棒を演じるジャック・グリーソンがいい、彼らを雇う親分のコルム・ミーニィも渋い。田舎の鋭い警官がキアラン・ハインズで、これは悪役顔だが、善人も似合うから不思議である。

 

37 おーい応為(T)

大森立嗣監督、脚本同。北斎の娘お栄こと応為の物語なのだが、この映画もまた何のために撮られたのかよくわからない。会話の間が不自然に長い。女形篠井英介が三味線でうたうのは新内か、これがとてもいい。英泉を演じた高橋海人が抜けていて、いいキャラクターである。

 

38 プレイ・ダーティ(S)

タイトルロールからアニメでしゃれているし、音楽も007もどき。マーク・ウォーバーグ主演の強奪もの。すっきりとした筋で、全体の会話がおちゃらけていてグッド。一味のキャラクターもいい。撮影も豪華で、とくに列車の脱線場面は迫力あり。この映画、配信だけで劇場公開されなかったようだ。大画面で見たかった。

 

39 ワン・バトル・アフター・アナザー(T)

「マスター」「ファントム・スレッド」のPTアンダースン監督。最初はアメリカとメキシコの国境付近の不法移民収監施設、そこから人々を救い出す“フレンチ75“という一味。デカプリオが爆弾魔で、その黒人の彼女が首領的な存在。二人に娘が生まれるが、女は革命運動に走り、結局は仲間を裏切ることに。その相手が軍の指揮官ショー・ペン。これが右翼の黒人好きという設定。ショー・ペンのマッチョの人物像がなかなか堂に入っている。女は転向に際して「最初は悪魔と戦い、最後は自分とだ」式のことを言う。

それから16、7年後、父親と娘のもとにショー・ペンが襲ってくる。影の右翼組織「クリスマス・アドベンチャー・クラブ」の名誉ある会員になるために、その娘が自分の子かそうでないか確認しにやってきたのである。もし自分の子なら、名誉白人にはなれない。あいにく判定はわが子と出た。彼は麻薬組織などがある町ぐるみ摘発する挙に出るが、名誉クラブは追跡調査でショー・ペンが黒人に子を産ませたことをキャッチし、メンバーの一人に抹殺を命じる。敵に捕まった娘の奪還が手に汗握るという感じの展開になる。ベニチオ・デル・トロが娘の空手の先生だが、彼もまたメキシコ系の革命家で、ディカプリオの手助けをする。

娘は助かり、過去の事情をディカプリオは打ち明け、母から届いていた手紙を娘に読ませる。いずれどこかで会えれば、との願いが記されている。娘は反政府デモの情報を傍受し、すぐにそこに駆け付ける。これがラストシーンである。

原作はトマス・ピンチョンらしい。いまどき世界革命を夢見る人間たちの話かと思うが、明らかにトランプ政権の影が見えるつくりになっている。移民圧迫、妊娠中絶禁止、麻薬製造など、トランプの政策ばかりがターゲットである。

デカプリオが自分の属する組織から娘の居所を聞き出すのに、決められた暗号の応答ができず、電話の相手とながながとやりあうシーンはアンダースン好み。音楽もシーンに合わせて律儀に切り替わるのは、ご愛嬌といったところ。

殺されたはずのショー・ペンが生きていて、とうとう名誉会員になれたという設定だが、これは無理があるのでは。自分を殺そうとした名誉クラブの抱く疑惑をどう晴らしたのか。結局は、彼に与えられたオフィス(これが名誉会員の部屋かと思うほどしょぼい)で寛いだところで、天井からガスが送り込まれ殺されることで落とし前をつけられた格好だが、疑問は疑問として残る。

 

40 コインロッカーの女(S)

きちんとした映画で、最後まで見ることができた。ドラマ「シグナル」のキム・ヘスが怖い金貸しのボス役、それがコインロッカーから拾って育てたのがキム・ゴウン、漫才師の誰かに似ている。純真で優しい青年と出会ってゴウンは変わるのだが、もう少し二人が心を寄せていくプロセスを味わいたかった。ハン・ジュニ監督・脚本で、「スピード・スクワッド」というのを同監督で見ている。

 

41 ミーツ・ザ・ワールド(T)

原作金原ひとみ、監督・脚本松居大悟、國吉咲貴脚本。主演が杉咲花、南琴奈、客演板垣李光人(りひと)。杉咲が腐女子で、焼き肉擬人キャラにはまっている。早口でもぐもぐしゃべるので、ほとんど何を言っているのかわからない。大阪の焼き肉屋でアニメのなかのセリフだかを大声を張り上げて言うシーンには笑ってしまった。

 

42 ソニはご機嫌斜め(S)

ホン・サンス監督、ゆるい。気の抜けたビールで全編を押し通す。それも横位置からの2人の会話が主になっている。元恋人、その先輩、彼らと面識ある大学教授、みんな自分の核というものがないが、それに気づかず、焦ってもいない。人の意見をまるで自分のそれのように口に出して、そのことを意識もしていない。その3人に愛されるソニだけが、自分探しに真剣である。そのテーマだけは揺るぎがない。

 

43 希望の灯り(S)

静かな、足取り確かないい映画である。ドイツ、いや東ドイツの物語である。勝ち組に組み込まれたスーパーのバックヤードで働きはじめた男が、同じ職場の女に一目ぼれする。しかし、彼女には暴力的な旦那がいて、時々休むことがある。彼は車上荒らしなどで2年刑務所にいたことがあり、全身に入れ墨が入っている。手首、首の後ろにその片鱗が見えているが、作業着を伸ばして隠す動作が、毎回写される。ほかはゆったりとした絵なのだが、ここだけはスピードを出した撮り方をする。親切な上司は突然首吊り自殺をし、彼はその後釜につくことになる。彼の運転するフォークリフトに彼女が乗ってきて、あるところで止まり、リフトを天井まで上げてからゆっくりと下ろして、と言う。そのとおりにすると、機械の擦れる音が波音のように聞こえる。死んだ主任が教えてくれたことだという。男の体に女は体をもたせかけるところで映画は終わる。魅力的な女を演じたのがサンドラ・ヒューラー、「関心領域」「ありがとう、トニ・エルドマン」で彼女を見ている。男優はフランツ・ロゴフスキで、この作品しか知らない。監督はトーマス・スチューバ、やはりこの作品のほかは知らない。

 

44 ディア・ファミリー(S)

バルーンカテーテルを開発した民間の人物の物語である。心臓病の娘のために、はじめは人工心臓に挑戦するも、アメリカでの失敗例から中止の止むなきに至り、次にバルーンカテーテルに挑む。外国製しかなく死亡例が多かったことから、日本人に合わせたバルーンとカテーテルを開発した。王道のストーリー展開である。監督月川翔、脚本林民夫。

 

45 仕掛け人 藤枝梅安(S)

前作を見て、次も映画館でと思っていたのが見逃してしまった作品である。前回は天海裕希、高畑淳子片岡愛之助の演技に引かれたが、今回も高畑、片岡に引き込まれた。椎名桔平が二役で、一人は律儀な藩勤めの侍、一人は京都の町で強奪、レイプと悪行のかぎりを尽くす男である。この悪党がどうも型どおりで、面白くもなんともない。愛之助の女房を手籠めにするが、後ろから犯してそれを愛之助に見せつけるが、さて江戸時代に後背位の性交など一般的だったのだろうか。

河毛俊作監督、大森壽美男脚本。梅安の暗さは池波の好みであったろうか。剣客商売などはごく明るい出来である。藤沢周平は初期が暗いが、やがてそこを脱して、明るい色調の、ユーモアを交えた作風へと変わっていった。タイトルロールが終わり、長谷川平蔵と梅安がすれ違うシーンが挟まれるが、これはいったい何だろう。原作のどこかに2人の因縁でも書かれているのだろうか。梅安は女を抱くほどに死に近づいている、と感慨を漏らす。それをおもんがかばい、死を思うときは、いつでも私の元に来てください、と返す。考えてみれば、この返しはおかしい。梅安は女を抱くと死に近づく気がするといっているのだから、女人は遠ざけねばならないのでは? そのシーンで、梅安は目を見開いて畳に横たわり、その上からおもんの顔がかぶさる。その黒と赤を基調としたシーンの美しいこと。そのあと上から二人の姿を映すのだが、深作の何の映画だったかに、同じ構図のものがあった。

 

46 ドリームプラン(S)

ビーナス・ウィリアムズとセリーナ・ウィリアムズの2姉妹をトッププレイヤーに育て上げた父親の話である。スカウトにやてくる人間が、「インクレディブル」と彼女たちのことを言うと、それを黒人への偏見から出たものとして申し出を足蹴にする。白人にはそんなことは言わないだろう、というわけである。ジュニアトーナメントは子供を早期に堕落させると3年間出場させない。いざ出場してトップに立ち、ナイキから300万ドルの申し出があるが、翌日の元グランドスラムを達成した女子プロとの試合までに契約をしたい、という一言で断る。ビーナス(最初は彼女の方がセリーナより上達が早い)も、その試合の結果を見て決めたい、と申し出を断る。元グランドスラム女が2ゲームを落とし、トイレに9分閉じこもってビーナスのやる気を削ぎ、勝ってしまうが、彼女の実力に契約オファーが殺到し、結局、リーボックと1300万ドルの契約を結ぶ。相手が名うてのコーチであっても自説(オープンスタンスで打つ)を枉げない、学校の成績でAを取る、教会に通う、などを徹底して5人の女の子(上の3人の子は母親が別)にしつける父親をウィル・スミスが演じる。やや顔がふっくらしているのは、役作りのためではないだろうか。すごい父親と母親、それに見事に応える娘たち、まんじりともしないで見続けてしまった。2022年にウィル・スミスが主演男優賞を取っている。さもありなんである。

 

47 春に散る(S)

かつて石原慎太郎が、ボクシングを地上で一番危険なスポーツと言っていた。脳を包んだ頭部を集中的に殴り合うからだ。半身不随になることもあれば、記憶が無くなってしまうこともある。この映画では失明の危険をもちながら戦い合う。それにしてもかつて栄光から脱落した男が有為な若者を成長させるという枠組みが多いことよ。それがまたこちらの感腺を震わしてくるのだが。横浜流星という役者を「国宝」で見たが、こっちのほうがその良さがよくわかる。ボクシングシーンは納得である。坂井真紀がお母さんを演じている。山口智子がボクシングジムオーナーの2代目、そこのかつての三羽ガラスが佐藤浩市哀川翔、片岡竜太郎、対戦相手が窪田正孝である。この窪田もいい。監督が瀬々敬久、脚本同、星航。原作沢木耕太郎である。瀬々はポルノ出身らしく、相当な数を取り、そのあとに「ロクヨン」を撮っている。

 

48 鬼手(S)

碁をめぐる韓国映画、姉を手籠めにした名人に復讐する話だが、アクションもまじえて展開する。コケ脅しの映画だが、最後まで見てしまった。賭け碁でのし上がって、最後、100人のプロと戦い、その名人とも戦う。なんだかよくわからないラストである。

監督リ・ゴン、主演クォン・サンウが哀愁があっていい。他作が見たくなる。彼のスポンサーになる役者キム・ヒウォンいつも見かける脇の人で、囲碁サロン?のマダム(ヤン・ユンギョン)に惚れているが、なかなか積極的になれない感じがよく出ている。そのマダムはファン・ミョンジョンのドラマ「ハッシュ」で、新聞社社会部次長の役で見ている。

 

49 テルマ&ルイーズ(S)

この映画、3回目か。リドリー・スコットが「エイリアン」「ブレードランナー」などを撮ったあとに、この映画を作っている。91年の作。そこから低迷期に入り、「GIジェーン」「グラディエーター」などで復活を遂げる。不思議な監督である。この作品が異色なのだが…。最後、二人の女性はグランドキャニオンの谷底へ車ごとダイビングする(「明日に向かって撃て」の引用)。途中、テルマの家で警察官が屯し、みんなで恋愛映画か何かを見ていて、テルマの旦那がチャンネルを替えると、一斉に警官が振り向き、チャンネルを戻させるシーンがある。このユーモアは捨てがたい。テルマを演じたジーナ・ディヴィスが過剰に逸脱していく主婦を演じてグッド。ルイーズ(スーザン・サランドン)はテキサスで過去にレイプの経験をしているらしく、それが引き金となってテルマを襲おうとした男を射殺することに…それがすべての始まりである。ブラッド・ピットがちょい役で出ていて、二人の女にヒップがかわいいといわれている。二人に同情的な刑事にハーヴェイ・カイテルテルマの旦那との会話でふっと噴き出すシーンなど、自然体の演技である。

 

50 ワンダ(S)

エリア・カザンの妻バーバラ・ローデン監督・脚本、1970年の作品。カザンはプロデュース。アメリカ本国ではまったく評判にならず、カンヌ、ベネチアで評価を受ける。2010年にスコセッシによってプリントが修復され、日本では2022年に封切りされている。インディーズ映画の元祖的な扱いをされるらしいが、その気配が濃厚である。ワンダは2児の母だが育児放棄ということで親権を夫に譲り離婚に。家にも一人ぐずつく赤ん坊がいるが、あれは何なのだろう。遠くからカメラが移動するワンダをとらえるが、その時間が長い。石炭をバケツに集める老人から金を借り、縫製工場に寄ってきちんと給料を払ってほしいと担当の人間に言うが、税金が引かれてその額だ、と言われ納得。再就職を頼むが、技術が未熟だから雇えないと言われる。時間に遅れて裁判所に着き、子供の親権を譲ることを宣明する。一文なしでバーに入り、ビールを奢ってくれた太ったおじさんと寝るが、翌日、途中で車から降ろされてしまう。また夜のバーに入りトイレを借り、手を拭くタオルがないので、バーテンダーに求めると、その男の視線が床に横たわる男の顔にかぶせられたタオルに行く。その瞬間の映像がすごい。結局、男は強盗らしく、彼女を連れてホテルに泊まり、腹が空いたと言ってハンバーガを買ってこい、玉ねぎもレタスも抜きだ、と言われるが、ワンダはそれを覚えておくことができない。男が言った店が閉まっていたので、違う店からハンバーガーを買ってきたので遅くなった。男は窓からワンダが男と話をしているのを見て、もう戻ってこないと思ったのかベッドに横たわる。しばらくしてワンダ帰ってきて、室内に入った瞬間にワンダは頬を張られる。そして、注文通りにしろ、ということで、ごみ箱に不要になった玉ねぎ、トマトなどを手で取って捨てる。

男は泥棒を重ねながら、旅を続ける。ワンダには髪の毛をまとめろ、スラックスははくな、と自分の趣味を押し付け、ワンダも素直にそれに従う。最後は銀行強盗で男は殺され、ワンダは遅れて現場にやってくる。若い男に酒を奢られ、郊外で車のなかでレイプされようになるが逃げる。夜の街中でしょんぼり立っていると、彼女のことを気に掛ける女が声をかけ、飲み屋に誘い、その賑やかななかでサンドイッチを口に運び、ビール飲むワンダを映して映画は終わる。

途中、男が年老いた父親に会い、金を渡そうとすると、汚い金は受け取れない、と突っ返される。そこの感じが「俺たちに明日はない」でボニーがユダヤ人の母親のもとにクライドと一緒に行くが、やくざ者と一緒の娘を母親はやんわりと受け入れない、そのシーンを思い出す。ちなみに『俺たちに~』は67年の作である。

 

51 幸せのちから(S)

ウィル・スミスがクリス・ガードナーという実在の投資家を演じる。かわいい子どもを一人抱えながら、証券会社の半年に及ぶインターンを無料で受け、一人だけしか受からない試験に受かる。その間のひもじさ、その必死さを描く。駅のトイレに寝たり、教会の無料宿泊の列に並んでベッドを確保したり。1台売れば240ドルになる医療機器を売って生活費を出そうとするが、なかなか売れない。成功者となり、リッチ・ガードナーという大企業を作り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年の映画

木の葉の家


昨年は事情があって50数本しか掲載していない。ほかに50年代、60年代の洋画・邦画を30本ぐらい見ているので、総計では80数本となり、いつもより20、30本少ない感じである。今年もまだどうなるか分からないが、なるべく新作を見ていきたい、とは思っている。

T=劇場 S=ストリーミング(配信) D=DVD

 

 

1 枯れ葉(T)

カウリスマキの久しぶりの新作、別に彼の映画だから見たわけではなくて、何となく良さそうだという感覚と、女優さんアルマ・ポウスティを見たくて見た映画である。じつに古典的な撮り方をしていて、恋愛ものの王道だった“すれ違い”を露骨にやっている。それと、待ちの時間を足下の吸殻で表現するなどのベタな演出もやっている。同室の仲間に誘われカラオケに行くことに決め、鏡を覗くとそれがピカソの絵のように割れているという、これまたベタなことをやっている。それもこれも古典的な愛の様子を描くための企みであって、じつに相応しいことである。主人公の女性が貰い受けた保護犬は名前がチャップリンカウリスマキの尊敬する監督の一人である。ぼくはカウリスマキの作を2作見ているはずだが、「マッチ工場の少女」のほかに何だったかが思い出せない。

 

2 市子(T)

杉咲花を見たくて見た映画。過去を偽ってきた人間の過去を探っていく話。戸田彬弘監督、脚本同、上村奈帆。戸田はいろいろ映画を撮っているが、一作もひっかかってこない。

 

3  ガンバレ・ベアーズ(S)

何度見ても印象の変わらない映画である。これぞアメリカ的な、という意味である。今回、少し気づいたのは、ビッグ・モローの悪役は「カラテ・キッズ」の悪役チームのコーチに引き継がれているということである。何があっても優勝を目指すチームだが、その方針に子どもたちが離反していく、という設定をパクっている。原題はThe Bad News Bears でこれを子どもたちが唱えてゲームが始まる。「あんたらの負ける悪いニュース、それがベアーズだ」という意味である。それにしても、子役ジョディ・フォスターが大成して、子役ティータム・オニールがそうはならなかった理由は何か? といっても、ジョディがそれほど大物になったともいえないが。オニールの演技があくまで受け身である。だから、応答に微妙な間が空く。つまり下手っぴなのである。

 

4  ガール・コップス(S)

ゆるい女性刑事もの、それも義姉と義妹のコンビで、その夫あるいは兄はあくまでまぬけだが、大事なときに居合わせる能力を備えている。義姉と義妹は閑職に追われるが、そこの嫌われ所長もじつは実力を認められずおいやられた口だった。警察における女性差別をユーモラスに逆転する映画である。途中で何度かやめようと思ったが、このゆるさが韓国映画の特徴かもしれないのだ。女性刑事コンビとしては、サンドラ・ブロックの「デンジャラス・ビューティ1、2」があるが、それを援用したのか? 所長はサム・ヘランで、I can speakに出ていた。“100の顔をもつおばさん”といわれている。

 

5 リバイバル(S)

また韓国映画。死んだはずの奥さんから連絡があるが、それは時代がずれているのである。しまいにそれが合うが、けっこう見ていることができた。しかし、最後になると飽きが。悪党刑事をやった男がペ・ソンウ、何の映画だかで見ている。たしかいい人を演じていた。

 

4 眠りの地(S)

トミーリー・ジョーンズ、ジェレミー・アイアンズ。地域の葬儀社オーナーのトミーリー、保険会社の積立金が不足したために、資格停止の危機に。そこで買い手を探し、葬儀界の独占を狙う企業と下契約を交わすが、相手はことを進めようとしない。破産に持ち込んで、乗っ取りをするつもり。それを察知して、畑違いの刃傷事件を扱う黒人敏腕弁護士に頼むが、事は契約問題。相手はスーパー黒人弁護士チームで立ち向かってきて、歯が立たない。しかし、最後は、相手の不正を見つけて1億ドルを超える賠償金を得、その大企業を潰してしまう。労働組合をだまし、契約を取ったらキックバックがあるから、葬儀をしたい人、それを斡旋する人も儲かる、と持ち掛けたのだが、葬儀代はふつうの3倍し、キックバックも微々たるもの。黒人地域での訴訟なので、黒人弁護士が必要になるのである。実話らしく、人種問題がからんで、見ごたえのある作品になっている。ジェレミー・アイアンの個性が光る。「エージェント」のプロラグビー選手を思い出す。

 

5 イコライザー(S)

映画館で見たかった。出来がよく、1作目を思い出したが、テーマに合わせて読書する本が変わる設定がなくなっている。ジョン・ウィックのファイナルもイタリアが舞台で、その扱いが似ている。濃い歴史、宗教である。しかし、本作には庶民の生活が描かれていて、彼のいるべき土地とされている。マサチューセッツ州ボストンの一市民が年金をサイバー攻撃で取られ、その奪還でナポリ近くの町まで主人公は出かけ、そこでマフィアと、そしてそれとつながったテロ組織と戦うことになったのである。これで終わり、というのも残念な気がする。CIAの女性が主人公の恩人の娘ということが、最後に明かされる。それもグッド。途中でそうかな、とも思ったが。

 

6  タイムリミット(S)

デンゼル・ワシントンがある町の署長、難病の恋人を救うために、署内に溜めてある金を渡したり、保険の保証人になったりしたが、その恋人が火事で死に、すべての疑惑が彼に集まってくる。どう見ても、状況証拠があり過ぎ、なのに助かるのはワシントンだから、という映画である。

 

7 マーベラス(S)

マギーQ主演、サミュエル・ジャクソン、マイケル・キートンと豪華。マギーはテレビ版NIKITAをやったらしい。ジャッキーチェン門下、ベトナムアイルランドの混血で、日本で育っている。なかなかのアクションである。マイケル・キートンが悪側の用心棒だが、渋くていい。マギーがいかに殺し屋になったのか篇(サミュエルが師匠)なので、次は独立活躍篇を期待したい。

 

8   ロードハウス(S)

本当にアメリカの格闘映画は、「ジョン・ウイック」以来様変わりした。拳銃を使わず、マーシャルアーツだけで戦う。ギレンホールが肉体派の格闘者となって、悪者に支配された村を救う。主人公が言うがごとく、これは西部劇である。悪党の武闘派が強くて、最後は死闘の様相を呈する。途中、どういうわけだか、二人の戦いのときに、ギレンホールが抜け出してしまう。これは何のインターミッションだったのか。89年の同題の映画のリメイクらしい。

 

オッペンハイマー(T)

久しぶりの映画館である。この種の映画はなぜこんなにスピーディにものごとを詰め込んで展開させるのだろう。たいていの偉人ものはそうなっている。よく人物像が分からないうちに話が進み、この映画でも査問委員会のようなものと、博士の上司に当たる人物(ダウニーJr.が好演)の試問委員会の二つが進行し、その間にロスアラモスでの原爆開発の話が押し込まれるので、何が何だか分からない。結局、科学者は作るだけ作って、使用責任は政治家にある、というだけの映画ではないか。トルーマン自身もそう言っている。

オペンハイマーの愛人を演じたフローレンス・ビューが魅力的である。

 

10 パリ、テキサス(T)

1984年の作品、もうそんなになるのか。ナターシャ・キンスキーの美しさにやられた映画だが、いま見ると美人に見えない。かえって主人公トラビスの弟の嫁さんアンがきれいに見える。トラビスと元妻のジェーン(キンスキー)がお互いが見えない鏡を境に会話を交わすシーンがやはり白眉、こちらの灯りを消すとトラビスの顔が見え、その下でジェーンが同じ方向を向いて昔語りをするシーンは素晴らしい。10分以上? いつもあなたの幻を見ることができ、声も匂いも感じることができたが、やがてそれもできなくなった。この仕事を始めたら、すべての男の声の中にあなたがいると感じられた、という台詞はすごい。脚本サム・シェパード

むかし見たときは、弟役をやったディーン・ストックウェルがいいな、と思ったが、今回もそれは変わらず。この渋いキャスティングにしびれる。

テキサスを放浪する兄を連れ帰って息子ハンターと引き合わせ、やがてトラビスは父親らしくなっていく。メキシコ人の家政婦に、父親らしくあるにはどうすればいいか習うシーンがいい。親子二人で母親ジェーンを探す旅に出るが、そのとき二人は赤い上着を着ている。目的のヒューストンで母親が乗っているのも赤い車。

トラビスの父親と母親はテキサスのパリで出会い、そこでトラビスを身籠った。父の得意ジョークは、「あいつはパリの生まれさ」と言って一拍置くことだ。しかし、やがて父親は妄想を抱き、本当に妻が貴婦人となってパリで生まれた、と思い込むようになった。本当はナイーブで自然な人だった母は当惑した。

年齢差のあるジェーンと結婚したトラビスもまた妄想のなかに落ち込んでいく。妻が不倫しているのではないか、俺を愛していはいないのではないか、と。妻のことが心配で仕事にも出かけず、飲んだくれの生活に。そのうちに子が生まれるが、ジェーンは若くして牢獄に閉じ込められている、という思いが強くなり、子と一緒に逃げ出すが、その夜、トラビスは不審火に焼かれそうになって家を飛び出し、そのままさすらいの旅に出て4年が発ち、テキサスの砂漠の店で倒れ、弟が呼ばれることに。トラビスはテキサスのパリに土地を買い、家族3人で暮らす夢をもち、その看板が立った写真を肌身離さず持ち歩いている。トラビスはレンタカーでも前に借りた同じものでないと乗らないし、飛行機を嫌い、夜もほとんど寝ない。

弟の妻アンはフランス人で、変な発音の英語を話す。それとテキサスのパリはどう関係しているのか。兄と父親の妄想のかなたにパリ、テキサスがあるが、それは永遠の貴婦人たる女がいるまちなのかもしれない。

最後、息子がいるホテルをジェーンに教え、自分は立ち去っていくトラビス。そうとしか結末はつけようがなかった。

この映画の“間”は日本人好みのものではないか。沈黙の長さがごく自然に見ていられる。改めていい映画を見たな、と思う。

 

11 関心領域(The Zone of interest)

庭の扉を開けると、もうそこはアウシュビッツである。第三収容所がつくられようとしている。企業が主人公のヘスに提案するのは、1基で仕事が終わるとすぐに2基めが動き、その間に1期めは40度までに温度がさがっていて、次の焼却が可能になるという優れモノの提案である。

やや足の悪い妻は、ある女の話をする。ユダヤ女性の服が気に入ったが、とても小さくて身体が入り切らない。だから痩せようと言ったという。彼女自身、歯磨き粉のなかにダイヤを見つけたので、注意してほかも探したという。母親が訪ねてくるが、その豪壮な家や庭園のかまえに驚嘆する。娘は夢の生活ができている、と言う。その二人の遠景にはユダヤ人を焼く煙が上がっている。

数日(?)して母親は置き手紙を残していなくなる。私へのいじめなのか、と娘は言うが、このシークエンスはよく分からない。

ヘスの誕生日に軍人たちが訪ねてくるが、ふっと囚人服を着た男がヘスの脱いだ長靴を持って、家の壁から突き出た水道でそれを洗い始める。ほぼ冒頭にそういうシーンが何気なく挟まれている。息子は塀の向こうの声を聞き、「二度とやるなよ」とナチのまねをする。

妻は夫にまたイタリアに行きたい、と言う。牛にアコーディオンを聞かせる男がいたが、牛が目を剥いていた、と夫がその真似をする。夫の転勤が決まり、全収容所を管理する副司令官となるが、妻はアウシュビッツを離れたくない、と家族で留まることに。夫は執務室に女を呼び、そのあと家の地下室で念入りに下半身を洗う。あるいは川で釣りをしているときに何かが足に絡み、あわてて子どもたちを連れて家に戻り、目から身体から洗い流させる。ユダヤ人を何かの薬で殺したということのようだ。

ヒムラーのもとで夫は働くが、新上司にその評価をヒムラーが聞くと、まだ分からない式のことを言う。それにヒムラーは「まさか(収容者を)全部焼いてしまうことはないだろう」と言う。あまりヘスのことは評価していないようだ。

ハンガリーから70万人のユダヤ人をアウシュビッツ他に移送することになり、ヘスはまたアウシュビッツに戻れそうだ、と妻に電話する。アイヒマンの部下になるという。その日はパーティがあった日で、上階からの俯瞰の絵で、一室に集った人間たちを指して、「全員焼き殺してしまいたかった」と妻に言う。妻は、もう夜も遅いと言って電話を切る。ヘスは執務室を出て、階段を降りるが、途中で吐く。そのとき見る映像は、アウシュビッツ記念館であろうか、無人の室内を掃除する人々の向こうの大ガラスの中に靴や自転車などが山積みになっている。それがまるで現代美術のように見える。その絵が消えて、ヘスはまた吐き、さらに階段を降りていくところで、映画は終わる。

なかに長女の見る悪夢(?)が映されるが、彼女の体とリンゴだけが光に灯っている。これが何のイリュージョンか分からないが、そのあと決まってヘスが魔女退治のヘンデルとグレーテルの話を読んでいる。

平和過ぎる日常の遠くから、ピストルの音や叱正の声が聞こえてくる。決して収容所のなかを写すことはない。リンゴをめぐる諍いがあったらしく、水の中に沈めてやる、という声がして、ピストルの音が続く。

ドイツでもナチの犯罪を暴くのは、戦後もしばらく経ってからで、その際に旧悪を今さら掘り返すのかという反発があった。要職にあったものも復職したり、それなりの地位に就いている。収容所の管理をしていた者が、幼稚園の園長をし、子どもに体刑を科しているということもある。社会が大混乱に陥る可能性がある。国防軍が犯罪をナチに押しつけて、無実の顔をしてきたのはけしからん、となってきたのは最近のことだ。

フランスもビシー政権でユダヤ人狩りをし、球場に彼らを集め、劣悪な環境に置いた。死者も出て、その腐臭は場外へと洩れたが、近隣に住む人間たちは振り返り、そういうこともあった式の答え方をしている。この映画を思い出すエピソードでもある。

監督・脚本ジョナサン・グレイザー、4作目の長編だが、もとはミュージック・ビデオのディレターらしい。映像の美しさにそれを見る気がする。社会性のある映画はこれが初めてのようだ。この作でカンヌで賞を取っている。

原作はマーティン・エイミスで、どこかで見た名前だと思ったら、もうだいぶまえに彼のエッセイVisiting Mrs.Navakof and Oher excurtionsを読んでいた。興味が湧いたので、ほかの彼の本を読んでみたいと思っている。英国の作家で、父親も作家のようだ。

この映画と原作はまったく違ったものらしい。原作は3人の語りで成り立っていて、ヘスはその一人にすぎない。あとの2人は合成ゴム工場の勤め人と収容所の死体処理人で、勤め人とヘスの女房とは不倫の関係にあるらしい。

映画の脚本は原作とは違うものだ。それは当たり前の話だが、その改変に原作者が同意するかしないかだけの話である。そこを曖昧にすると、あとで問題が生じることとなる。

 

12 シャイロックの子どもたち(S)

原作を読んでいるが、面白く見ることができた。阿部サダオが主役だが、臭い役者という印象だったが、そのわざとらしさがこの活劇的なドラマには合っていたようだ。半沢直樹もまた歌舞伎役者の大げさな演技が目立ったが、それを誘うものが原作にあるということなのだろうか。

 

13  ドッグマン(S)

リュック・ベンソンの映画、相変わらず万能ものだ。今度は犬がそれだ。101匹ワンチャンか。いい気なものだ。なんだかホアキンを見ているような気分だ。雰囲気もジョーカーのよう。ベンソンが虐げられた人の味方、おふざけじゃないよ、である。

 

14 エターナル・メモリー(T)

チリのドキュメント映画で、認知症を患う夫は元テレビのジャーナリスト、妻は現役の女優であるらしい。友がいない、自分の書いた本がない、と悲嘆に暮れる夫。君はだれだ、と妻に問い、妻はその都度、結婚してもうだいぶ一緒に暮らしているのよ、と答える。それを繰り返す映画だが、ずっと見ていられるから不思議である。終末にはなにかこの世のものとも思えない秘密が隠されている。

 

15 ソング・オブ・アース(T)

これも静かなドキュメントである。ノルウェーの深いフィヨルドに暮らす老夫婦。もう300年以上もそこに根を張っている。ときき雪塊が崩れおち、山が崩壊して、親戚などが亡くなるが、その土地から離れようとはしない。毎日、老人は山や雪塊を歩き、遠大な風景に見入る。90年代は氷が増えたが、そのあとは減るばかりという。自然破壊の話ではなく、それらしい映像は最後に少しだけ映るが、全体は自然の豊かさ、厳しさを見せる映画である。そのなかで妻はつねに夫の死を怖がっている。それが基本の通音となっている。祖父が植えた高木のトウヒが谷底の家から見える。祖父を早くに亡くした父は、それを見ながら祖父と会話をしたのではないか、と老人は言う。アルボ・ペルトのような音楽を聴きながら自然の雄大さに溶け込む1時間半。リブ・ウルマンとベンダースがプロデュースしたことが話題になっている。

 

16 犯罪都市No Way Out(S)

これで3作目か、相変わらず同じレベルの面白さを保っている。ハリウッドで日本人擬きが出てくると変な日本語を喋るが、この映画では日本人が出てきて変な日本語を喋る。ヤクザの親分である国村隼まで変である。次の作も韓国で公開され、観客動員数もさらにアップしているらしい。おふざけがいくつかあって、これは前2作と違うところである。ラブホテルで、脅しをかけて情報を得ようとすると、ドンソクが胡坐をかいている回転ベッドが回って、相手との位置がずれてしまうのである。それを2回続けるところなど、心憎い。その脅される男も、それから情報屋も、ドンソクに怯えながら、そこそこのギャグを飛ばすところなどもいい。情報屋がギャグを出すのは、前作までと同じ。それと、ドンソクの同僚で、ほかの韓国映画でもよく顔を出す役者が、意外と格闘技に長けているのが意外である。名前をググるも分からず。脇役の悲しさよ。

 

17 ジョカー・フォリ・ア・ドウ(T)

監督トッド・フィリップスは「ハングオーバー」が最初で、あとは「アリー」と前の「ジョーカー」しか見ていない。「フォリ・ア・ドゥ」は二重人格のフランス語のようだ。今回はジョーカーの仮面剥ぎがテーマだから、こういう寂しい映画にならざるをえない。恋人役のガガは「アリー」で使っているが、単に虚栄のジョーカーに惚れる女なので深みがない。ミュージカルのところが流れを邪魔して、イライラしてくる。この映画が大コケなのは分かるが、ミュージカルのところだってもっと抑えて演出すれば、ぼくは別に不満はない。小人の証言者が言うように、アーサーは虫も殺さない優しい男なのである。それを追い詰めたのは何か。「タクシードライバー」のトラヴィスは戦争の後遺症とその後の不遇と孤独があったが、アーサーは何だろう。識者によってはアメリカのプア白人の怨念を指摘するが、それはあるかもしれないが、明確に描かれているわけでもない。トラヴィスには思想のかけらもなかったが、それと同じくアーサーにもない。たまたまアーサーが殺したのが少女売春のポン引きとやくざだったために英雄となったが、アーサーの殺しに正義があったとは思いにくい。それでもダークサイドの英雄になるところに、病んだアメリカがある、ということなのだろう。

ホアキンの左肩甲骨の異常な張り方は、まえにも記したが美術的な見せかけなのだろうか。ぼくは船越桂の彫刻を思い出した。船越の作品にも悪の問題は潜んでいる。

 

18 奇跡をつぐむ夜(S)

ヒラリー・スワンクである。トミリー・ジョンズの映画で信仰深い、一途でインディペンデントな女を演じたが、老いたジョンズに裸でセックスを望み、断られるシーンには泣けてしまった。やっと一夜を共にしたあとは自殺である。

この作は今年の作品らしく、日本公開はされたのだろうか。されても客は呼べないか。ぼくはどうもスワンクが気になる。美人じゃないからである。今作はアル中ママとなったスワンクが他人の難病の子を救うことに奮然と邁進する話である。その間に、離れていた子どもとのよりが戻る。アル中→子どもとの不和→再起という、なんだかよくあるアメリカ映画のパターンだが、実話らしい。とても経営の才、人を説得する才がありながら、酒に溺れてそれを発揮する間もなかったようだが、ここに来て俄然それを露わにし、異常な高騰医療費に見舞われる家族を救うのだ。スワンクが痛々しいところから立ち上がる映画なので、よしとしなければならない。先が悲惨な人間の映画は基本的に見たくない。それが女性主人公であればなおさらである。「あんのこと」など例外で、中身を知っていれば見なかった映画である。タイトルの「夜」は大した意味がない。夜に事が起きたぐらいの感じ。

 

19  権利への階段(S)

ヒラリー・スワンクである。看護師から弁護士になり、精神病院に自ら入ったものの、意に染まない薬を強制投与されたエレノアの弁護をすることに。その薬は半々の確率で副作用があることが分かっている。裁判で勝利すれば何十万という患者が救われる、という大事なものである。エレノアとの交流と、仕事に邁進して彼氏との仲もあやうくなるというのを組み合わせて劇は進む(アメリカ映画のよくあるパターン)。エレノアの部屋でクリスマスを祝うときに、スワンクがちょっとだけ彼氏と踊るシーンがあるが、じつに美しい。病院側が大弁護団を組むわけでもなく、一審を上告したあと、高裁はその提訴を取り下げさせている。そのあたりの興亡が薄い、という印象がある。ほかで医療裁判の映画を見ているので、なお一層その感が深い。刑事訴訟でも一審が無罪の場合、たしか検察は上告できないのではなかったか。それに事前に弁護側が求めた証拠、資料は検察側が出す義務が課せられている。日本は検察が自分に不利になるような証拠開示はしない。

 

20 11人の賊軍(T)

奥羽列藩同盟で長岡藩から参戦を強要される新発田藩、じつは政府側に付きたいと考え、新発田の交渉役をたぶらかしているあいだ、政府軍先発隊を死刑となるはずの者たちに立ち向かわせる、という話である。楽しく見ることができた。

途中、賊軍の監視役の男のもとに許嫁がやってくる。賊軍が立てこもるところは、一本の吊り橋を渡るしか行く方法がないはずで、どうやってその女はたむろする政府軍の間を抜けたのか。

それに女はその監視役の男の子を身籠っているという設定だが、そんなことがありえるのだろうか。それを知って父(家老)も母も難詰をしない。さらに、父の破廉恥な所業を見て自裁するが、わが子がお腹にありながら、そんなことをするだろうか。愛した男の一粒種ではないのか。

賊軍の一人を山田孝夫が演じているが、新潟のごろつきがなぜ江戸っ子のような言葉遣いなのか。その理由を説明してほしい。

この映画、基本は工藤栄一十三人の刺客」を下敷きにしているのではないか。あれは、さまざまな仕掛けが敵を翻弄して面白いが、今作にはそういう遊びはない。やたら首や腕が転がり、それを大写しにする神経が分からない。

 

21  落下の解剖学(S)

夫が山荘の、ビルでいえば3階はありそうなところから落ちて、固い雪の上で死んでいた。子どもが発見し、寝ていた妻が警察に届け出る。側頭部に打撃を受けたような穴が空いている。誰かに殴られたのか、あるいは下の納屋の屋根の角にぶつかってできたものかが焦点になる。妻は何冊も本を出している作家、夫も作家を目指したが途中でまったく書かなくなった。子どもが4歳で交通事故で目が見えなくなり、その医療費などの支払いに困り、フランスの山奥に移住してきた。山荘の一部を民宿に充てるつもりだったが、それも経済的にうまくいかない。夫は自分が作品を書けなくなったのは、妻が作家業に専念するために、子どもの世話から全部引き受けたからだと思っている。妻は書きたいならどんな環境でも書けると考える。それ相応の負担は自分もかぶってきたと言う。この口論は最後はつかみ合いにまで発展していたことが、夫のPCに残されていた会話の録音から分かった。小説のネタに、ということで、時折、そういう録音を夫はしていたらしい。妻は夫の作品から30pほどを自分の作品に取り入れたことがあるらしく、それは夫の了解を得ていたし、出版後、まったく自分のものと違うと夫が言っていた、と妻は言うが、夫が通っていた精神科医は夫はそんな許可をした覚えがない、と言っていたと裁判で証言する。妻は子どもの事故のとき以来、セックスレスになった状態にたまらず、二度、女性とのセックスに及んでいて、そのことは夫に話をしていたという。夫がアスピリンを飲んで、自殺未遂をはかったことを妻は誰にも話していなかったが、裁判では自己弁護のために必要な情報となった。夫の死の当日、女子学生が妻を取材に尋ねてきたが、裁判では女性との不倫にからめて、そのことに夫が嫉妬し、かなりの音で曲を流して、その取材を止めさせたのではないか、という話も出てくる。これら一部始終を法廷で子どもが聞くことになる。

よくできた映画で、最後まで面白く見ることができた。ただ、夫の側頭部の傷が何か道具様のもので打撃されてできたものか、あるいは小屋にぶつかってできたものか、司法解剖の結果わかるはずが、そのことは映画で触れられない。もし故意の打撃でなくても、上層の縁側から突き落としてできたものであっても、殺人であることに変わりはないが、事の真実は司法解剖で分かる式のことが途中でいわれるわけだから、そこは白黒つけないとおかしい。それが触れられれば、かなり劇の迫力は落ちたのではないだろうか。この映画の瑕疵はそこだけではないだろうか。もう一つ付け加えると、妻は人気作家らしいのだが、それでも経済的に困っている、というのが分からない。数は出すが、あまり売れない作家なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年の映画

湯島天神近く




去年の収穫は例年になく貧しい。年も押し詰まって見た「ザリガニの鳴くところ」が一番心に残る。あとジョン・レノンの初期活動を追ったドキュメントである。彼はリバプールハンブルグですべては終わっていた、という認識を示している。その空恐ろしい冷徹な見方に驚く。今年はどんな映画に出合えるだろうか。

記号の意味=T-劇場、S-配信、D-DVD

 

 

1 嘘八百 京町ロワイヤル(S)

1作目をネットで見たが、これもそう。それぞれの個性を生かしたコンゲーム(ミッションインポシブルのような騙し仕掛けもの)の場面は、1作目のほうが面白かった。悪党をやっつける筋だが、愛があって、それほど悪者に描かないのが、この作品のよさかもしれない。主演中井貴一、佐々木蔵乃助、広末涼子友近など。予告通り、もう3作目がやってくる。

 

2 Dr.コトー診療所(T)

この種の映画は見ないのだが、なぜか映画館に足を運んでいた。監督中江功、脚本吉田紀子、主演吉岡秀隆柴崎コウ小林薫、高橋海人、大塚寧々など。病院経営の息子が研修に孤島(与那国島、映画では志木那島)へとやってくるが、それをアイドルグループの一員である高橋海人という人物が演じている。これがなかなかいいのである。人間関係がよく分からないうちに終わってしまった。そもそも柴崎コウ吉岡秀隆を先生と呼びながら夫婦であることが後で判明する、といったように。急性骨髄白血病で吉岡が床に倒れ、妻も産気づいて床に座り、しばらく誰も何もしない状態が続くが、ありゃ何なのだろう。困ったものである。客の入りはまあまあ。

 

3 汚れた血(D)

レオス・カラックス監督・脚本、86年の作品。ユーロスペースが大入りだった映画である。画面を赤と黒でスタイリッシュに構成し、あざやかなブルーが時折綴景される。言葉、言葉の映画である。だから、行為と呼ぶべきものがほとんどない。ラジオをかけてデヴィッド・ボウイのモダン・ラブがかかり、通りに出て曲に合わせて身を躍らせながら走るシーンは圧巻である。主演ドニ・ラバン、ジュリエット・ピノシェ(美しい!)、ジュリー・デルビー(かわいい!)、ミシェル・ピッコリなど。ラバンの父親は有名な鍵師、その腕を継いでいる彼がウイルス菌を奪う一味、といっても彼を入れて3人だが、それに加わってまんまと盗み出すが、一味の頭領に金を貸し付けているアメリカ女の一味に腹を撃たれ、飛行機で逃亡できずに終わる。素朴であることが一番難しい、と彼は死に際に言う。腹話術で喋るほうが楽だというのも、彼の自我の揺れを示している。決して主演を張れる顔立ちではないが、見ているうちに慣れてくる。

 

4 守護教師(T)

マ・ドンソク主演、また見てしまった。これもよくできている。「鉄拳」より落ちるが。友人の失踪を追う女子高生ユジンが、「アジョシ」に出ていたキム・セロン、見ているうちに面影を思い出してググッたところ、彼女だった。「アジョシ」は6、7回は見ている。

 

5 ペイル・ライダー(D)

イーストウッド監督作で、西部劇復興のきっかけとなった作品らしいが、ぼくとすればやはり「許されざる者」で注目したといっていい。この映画、あくまで伝統的な撮り方をしている。再見である。砂金を取る小さな村を飲み込もうとする成金がいる。そこに牧師、いや実はガンマンが助け舟を出す。村の娘が聖書の蒼ざめた馬の箇所を読んだそのときに、窓の外を青白い馬に乗ったイーストウッドが通り過ぎる。冒頭のシーンでも、まちの入り口に彼が現れ、気がつくとスッといなくなる。悪霊のような扱いだが、途中からは不吉な影などない早撃ちガンマンになる。村の母娘が一緒にイーストウッドに心を奪われる、というのは出来過ぎではないのか。その母親に惚れて、最後、イーストウッドに手助けするのがハル(マイケル・モリアーティ)で、気弱でも芯がありそうなキャラクターがよく出ている。今でも出演作のある脇の俳優さんだ。

 

6 キャバレー(T)

劇場で見るのは本当に久しぶりだ。高校生のころに見たのだったか。ほぼ記憶通りの映画である。ライザ・ミネリ(サリー・ボウル)のキュートな感じにやられてしまった。サリーが、「お腹がぺしゃんこ、お尻が小さく、そしてここは」と言いながら、ブライアン(マイケル・ヨーク)の手を胸にもっていくシーン。ぼくはヘップバーンとショーン・コネリーの「ロビンとマリアン」の草原のシーン、そしてフェイ・ダナウェイとウォーレン・ビーティ「俺たちに明日はない」のやはり草原のシーンを思い出す。いずれも性的なものに関連したシーンである。

今回、サリーがベルリンに来てまだ3カ月という設定だったのには、驚いてしまった。
それにしても悲しい役回りだ。妊娠が分かり、だれの子か分からないのに、恋人ブライアンが受け入れ、ひと時の幸せを味わうが、ブライアンが気塞ぎの表情を見せたことから、中絶を選ぶ。その処置をなじるブライアンに、ケンブリッジ(ブライアンはそこの大学院生で、ベルリンに英語個人指導のアルバイトで学費稼ぎに来ている)での田舎暮らしで、赤ん坊のおむつを積み上げ、どうせ私は退屈し、近くのパブで酔い潰れるに決まっている、そしてあなたは……というところでサリーは言いさして止める。「私に愛想を尽かす」と言いたかったのではないだろうか。このサリーの予測はおそらく真実を衝いているが、本心は彼の曇った表情にあった。サリーの父親は“大使らしい”が、娘に理由をつけて会おうとしない。サリーはそのことでとても不安定になる。

ブライアンは英語を教えながら宿泊費を稼ぐが、その顧客のひとり、富豪の娘ナタリア(マリア・ベレンソン) との1回目の授業。彼女が反吐汁という変な言葉を使う。「汁は付けない」とブライアン。サリーは「やる」とセックスのことを言う。ナタリアがその意味を聞き、当惑する。ブライアンがナタリアにケーキを渡そうとするが、彼女が断り、それをサリーに回す時に、皿からケーキが勢い余って飛び出す。ここのシークエンスは笑える。ナタリアがとても気品があるから、ダーティ・ジョークが効いてくる。

2人と男爵マクシミリアン(ヘルムート・グリーム)の自堕落な日々。クルマからブライアンが降り、そのあと彼が怒ったように運転手に声をかけるシーンがある。やがて、ブライアンとサリーにアルゼンチンに旅立つという電信が届く。おそらくだが、マクシミリアンはブライアンに一緒に来てほしかったのだろう。それを断られての振る舞いと思われる。ブライアンはサリーに、マクシミリアンと寝たことを告白する。そもそもブライアンは3度女性と同床するが、惨憺たる結果に終わったという人物である。サリーに誘われた時にそう言って断ったが、ふとしたときに気持ちが合い、事に至り、うまく関係を結ぶことができた。そういう同性愛的な傾きのある人間なのである。

やはりこの映画、傑作である。監督ボブ・フォッシー、脚本ジェイ・アレン。フォッシーは「スィートチャリティ」でこけて、この映画で復活したらしいが、「スィートチャリティ」のシャリー・マクレーンはとても美しい。

 

7 続・激突 カージャック(D)

スピルバーグである。ところどころ記憶にある映画である。この路線で撮っていれば、スピルバーグの映画も見るようになったかもしれない。何より全篇にわたる緩さがいい。のんびりした追走劇である。
親権を奪われた前科者の夫婦が警察官を人質にして、息子が養子となった先へと向かう。その間に、人質警察官との間に友情らしきものが芽生え、彼ら夫婦の行いは民衆の支持を得て、行く先々で歓迎を受けるが、全体を仕切る警部が子どもを返すと保障したのはウソで、子どものいる目的地にはスナイパーが待ち構える。ゴールデン・ホーンが妻、夫がウィリアム・アザートン、人質警官にマイケル・サックス、警部にベン・ジョンソン、脚本ハル・バーウッド、マシュー・ロビンス。ラストに死を置く「俺たちに明日はない」が下敷きになっているだろう。民衆に歓迎されるところ、だれも殺さない2人であるところなどにも共通点がある。そして惨劇の最期。

 

8   悪人伝(S)

もしかしてマ・ドンソクには外れがないのかもしれない。連続刺殺魔に刺されたヤクザの親分がドンソク、その事件を追う刑事がキム・ムヨル(なかなかいい。2人が組んで犯人を追い込んで行くが、最後は法廷へ。韓国の狂気を帯びた殺人鬼はみんな青ざめた、長い髪の、どっちかというとインテリの顔をしている。この類型化の意味は何か? アメリカ映画にもこの系譜を探せそうな気がする。

 

9  ある母の復讐(S)

マ・ドンソクの初期の作品なのだろう、脇役の若い刑事という役。パッとしないし、わざと時系列を複雑にして撮っているので、進行がかったるい。レイプされた少女の演出も間違っている。

 

10 プレイヤー(D)

アルトマンの映画は高校生のときに封切りで見た「マッシュ」が最初である。すごい映画だな、エリオット・グールドがいいな、という印象だった。下半身モザイクも印象に残る。初めて見たベトナムを扱った映画である。もちろんアルトマンと知らずに見ていたのだが。結局、有名どころしか見ていない、「ロンググッドバイ」「ナッシュビル」「ゴスフォードパーク」「今宵、フィッジェラルド劇場で」と本作、そして名前を忘れたのが1、2作ある。彼と意識して見たのは遺作「今宵~」である。あとは面白そうな映画だなと思って劇場で見たが、アルトマンと分からず見ていた。本作は2度目、今回は面白く見ることができた。冒頭のワンカメラで多彩な人物の出入りを撮り続けるのは、アルトマン流。ちょい役で出ている有名役者たちの数々! なんとなく彼がリスペクトされる監督である理由が分かった気がする。批判精神旺盛だが、エンタメに仕上げるぞ、という構えがある。正義面しないのもいい。評判の高い「ナッシュビル」は3回見ているが、どうも緩すぎて感心しない。

 

11 仕掛け人 藤枝梅安(T)

小さな劇場に、よく客が入っていた。東映設立70周年記念映画だそうだ。梅安を豊川悦司が演じ、仕掛け人仲間を片岡愛之助。冒頭に2人のシーンがあるが、片岡が下を向いたまま妙な長い間がある。あれは何なのでしょうか? こういうのを編集でカットするのではないか。殺しを依頼される対象に因縁がいくつか絡むのはいいが、どうも話が小さくなってしまう。梅安が殺しに入る動機などは、どこかで明かされることになるのだろうか。幼いときに父が、そして母と妹がいなくなり、孤独の身となった梅安。

それにしても、悪い奴なら殺してもいい、という理屈にはついていけないところがある。

新女房(天海祐希)にセックスを拒否され、足蹴にされる料亭亭主(田山涼成)がもっとあくどい男という設定は、ありなのだろうか。マゾということ? マゾが痛めつけられて遺恨に思うようでは修業が足りないのでは? その天海が演技も発音もすっきりしていいのである。梅安の家で下働きをする女を高畑淳子が演じていて、こっちもメリハリが利いてグッドである。4月にもう一本、豊川梅安がやってくる。結局、そっちも見てしまいそうだ。監督河毛俊作、脚本大森寿美男、いずれもテレビ畑の出身らしい。

 

12 ガンマン(S)

ショーペン主演で、4分の3を見たところで、再見であることに気がついた。どうも役者が知ったやつばかりと思っていたのだが。女優ジャスミン・トリンカ、客演ハビエル・バンデム、悪党にマーク・ライランス、インターポール刑事にイドリス・エルバ(テレビ連続刑事ものの主人公、黒人)。脳の損傷からの病気なのに、敵が襲ってくるとすぐに対応できるのが不思議。コンゴを食い物にする組織を描くが、主眼は愛する女性への一途な思い。

 

13 ラストガード(S)

おしゃれな映画である。アクション映画として見れば落第だが、狙いはそこにはない。ガードした金持ち女性に惚れ、相手も次第に傾斜していく。そのいきさつがごく自然に捉えられている。アクション場面は2回だが、きちんと撮っている。主演マーティアス・スーナールツ。監督アリス・ウインクール。女性監督である。なるほど、である。ほかに2作あるので、見てみたい。

 

12 顔のないヒトラー(S)

再見である。1963年まであのドイツでさえナチの犯罪を公けにできなかった。その意味は大きい。しかし、歴史はもしかしたら、一人の人間の善意によって変わる可能性がある。一人の若き検事は、みずからの父親さえナチスだったことを知り、裁判の準備ができなくなる。「どんな罰が適切か分からない」そのときに、そもそものきっかけを作ったユダヤ人の記者が言う、「罰に目を向けるな。被害者とその遺族に目を向けろ」それが彼の転換点となった。

 

13 アイ・キャン・スピーク(S)

ほのぼのとしたいい映画だな、と思って見ていた。韓国人の底知れぬ優しさが出ているな、と。主人公は「シグナル」に出ていたイ・ジェフン、お婆さん役がナ・ムニである。このご近所からは大いに嫌われるお婆さんが、とてもかわいい。お婆さんが英語を覚えるのは、幼い時に別れたアメリカにいる弟と話すためためだと思ったが、じつは従軍慰安婦で、アメリカ議会小委員会で証言するためだった。彼女を落とし込む日本人(官僚?)が汚く描かれている。始めからそうだと分かっていたら、この映画、見ただろうか。しかし、韓国の人がこれを当たり前として見ているとしたら? と思うとやりきれない。日本の軍人が旭日旗を刺青したとか、腹に深い傷をいくつも負わせたというのは、本当のことなのだろうか。幾冊か慰安婦絡みの本を読んできたが、そういう記述に遇ったことがない。またいくつか関連本を読むことになる。

 

14 無垢なる証人(S)

これも韓国映画。殺人事件を目撃した自閉症の子と弁護士の物語である。人権派で売ってきた男が父親の借金返済などもあって、ふつうの弁護士に。つまり金持ちのための腰弁になったのである。その彼が心を通わせた少女を法廷で悪利用することに。しかし、本心まで腐っていなかった――という話。弁護士をチョン・ウ・ソン(「私の頭の中の頸消しゴム」に出ていたそうだ。「アシュラ」は見ているが、記憶になし)、少女をキム・ヒャンギ。犯人役の女は「アイ・キャン・スピーク」で人のいい隣人を演じていた女優。ホームページからは名前が分からないが、なかなか貴重な顔をしている。酷薄な人間も、同情味のある役もできる。

 

15 特捜部Q Pからの伝言(S)

デンマーク発の刑事もの。重厚な映画づくりで、外連味がない。シリーズらしいので、ほかも見てみる。なぜに北欧発ミステリーはすごいのか? 今さらの疑問でもあるが。キリスト教が主題になっている。無神論の刑事こそ、ふだんから人を救っているではないか、と悪魔の申し子の男が言う。

※そのあと3作見たが、「キジ殺し」が一番出来がいい。過去と現在の混ぜ方に無理がない。しかし、養護院が犯罪の舞台になるというのは、ほかの何かでも見ている。

 

16 エンパイア・オブ・ライト(T)

サム・メンデスはいくつか見ている。「アメリカン・ビューティ」が最初で、あと「ロード・トウ・パーディション」「ジャーヘッド」「レボリューショナリー・ロード」と来て、007の「スカイフォール」「スペクター」である。父性を描く監督と思っていたが、いまや何を撮っているのかよく分からない。

またしても映画館が舞台、古くて豪奢であるが、もう使っていないスクリーンもある。最上階の4階はピアノがあるバーのようなものだったのか。

統合失調症の病歴のあるヒラリーが新しく入ってきた黒人青年スティーブンに惹かれ、二人は愛し合うことに。しかし、次第に彼女の均衡が崩れ、映画館でプレミア上映される「炎のランナー」の日、まちのお歴々のまえに支配人の次に立って一節をぶつ。そこでオーデンの詩を引用し、お客を唖然とさせる。さらに支配人の妻に彼との交情について暴露する。彼女は部屋に引きこもり、ボブ・ディランの曲を大きくかけ、酒におぼれる。民生委員がやってきて、警官がドアを破ったとき、彼女はもう精神病院に入る用意ができていた。

その後、支配人は別の館へと移り、ヒラリーは戻ってきて働き出す。外で白人の群れが通り過ぎる騒音が激しくなり、館の戸締りを急ぐが、群集がガラスを割って入り、スティーブンを半殺しにする。入院をする彼を見舞うなか、スティーブンとの関係も修復されるかに見えたが、彼はまえに一度落ちていた大学入試に成功し、別のまちへと旅立って行く。まるで南仏のような明るい海の風景を屋上から仲間と眺めるヒラリーの表情は晴れ晴れしている。そこで映画は終わる。

 

すべてがさりげなく回収されている。ヒラリーとスティーブンが初めて会話らしい会話をしたのは、4階で羽根の折れた鳩を見つけたときである。腕を伸ばして傷ついた鳩を両手に挟んだとき、服がめくれて黒い、健康そうな肌が見える。そこにヒラリーの視線が一瞬だが行く。このあたりがうまいし、彼らが肉体の関係に入る道筋を知らせている場面である。ヒラリーが詩が好きなことは、仲間がクロスワードをしながら「『荒地』の最初のAの付く言葉」と言ったときに、Aprilと平然と答えることで示唆される。スティーブンの母親が看護婦であることが語られるが、半殺しで入院した先の病院の看護婦であることが、ヒラリーが見舞いに行くことで分かる。スティーブンが人種差別を受けていることは、途中で白人のチンピラ3人に絡まれることで予知されている……といっても、どれもごく自然に描かれるので、わざとらしさは感じない。

 

アメリカに黒人差別があることは自明だが、わが母国イギリスにもあるぞ、というのでメンデスはこの映画を撮ったのではないか。ビートルズリバプールはアフリカからの黒人貿易の拠点だったことは、有名である。それにしても、懐古趣味になりがちな映画館を使って、統合失調症と差別を描くというのは、やるなぁと素直に思う。

 

17 秋津温泉(D)

原作が1942年に発表され、映画化が1962年。数年に一度会うだけの男女が、17年後に女の自殺によって終止符が打たれる。となると、原作は戦前の設定になっているのだろうか。この映画では敗戦の直前からを描いている。岡田茉莉子主演100本映画と銘打たれ、企画も彼女となっている。着物も彼女が担当。どうやら10年後ぐらいの逢瀬のときに初めて肉体関係に入ったように見える。これはいったいどういうあり方なのだろうか。

河本周作は肺病病みで自殺願望をもっている男で、たまたま満員列車で乗り合わせ、おにぎりを振る舞ってくれた縁で、その中年の女性が勤める秋津の旅館に身体を休ませることになる。介抱を担ったのが新子(しんこ)の岡田である。敗戦のラジオ放送を聞き、突っ伏して泣く新子を見て、周作は生きていこうと決める。河本はやがて結婚し、子どももできるが、売れない作家として暮らしている。義父(宇野重吉)も小説家だが新人賞を取ったことで売れっ子となり、彼の紹介で東京の出版社(?)の社員の口をあてがってもらう。店の売り子にモーションをかけるような浮薄な男である。

しばらくぶりに新子に会いにいくと、旅館を手放し、話し方もどこか平板な、投げやりな感じになっている。「あなたを生かすことが、私の生きる意味だった」式のことを言う。決して、その男、つまり周作のことを不甲斐ない、だめ男だったとは言わない。まだ希望をもって、一緒に死んでくれ、と真剣な目つきになるが、周作は「死ぬの生きるのは若いうちに言う言葉」で、「人間はそう簡単に死ねないと分かったよ」と言うばかり。帰る周作を見送ると、腕首を切って、河原に下り水に腕を浸して死んでしまう。異常を感じて戻った周作が死体を見つけ、抱きかかえて道まで戻ってきて映画は終わる。

新子は周作に何を期待したのだろうか。それが見えてこない。一度愛したら、それを続けるのが当然といった風情だ。周作はそれを見越して、数年経つと、秋津へと行きたくなる。不思議な関係といえる。

川端の『雪国』を思い出す。着想は案外、この小説から取っているのではないか。

 

18 ケイコ 目を澄ませて(T)

いい映画である。冒頭、点滅する街灯に雪が降りかかる。カメラがパンして赤茶色の窓を写すが、そこにも霏々として雪が降り注ぐ。その窓のなかに人の動く気配があって、そこがこの映画の舞台になるボクシングジム。ぼくはもうこの導入部で居ずまいを正す感じになった。

主人公のケイコはリーチが短く、背も低く、最大の問題は音が聴こえないということ。試合になってセコンドからの指示は手で合図が送られるが、情報が限られている。そんな彼女は2戦して2勝、ただし辛くもといった勝ち方である。

彼女の通うジムは10人もトレーニングに通う人間がいない。事務所の会長は脳に病気を抱え、ジムを閉じることを考えている。彼女も思うような勝ち方ができないために、ジムを止めようとするが、ふとジムに寄ったときに、会長が彼女の試合のビデオを見て、熱心に研究している姿に触れて思い留まる。会長は彼女が初戦を勝利で飾ったとき、メディアの取材で彼女の利点を「人間の器量がいい。素直で、純真」と答えている。

ケイコは弟と暮らし、弟はときおり黒人(?)の彼女を連れて来る。母親は別に暮らしているらししいが、父親の姿はない。どういう家族関係なのかが見えない。弟の彼女が手話を覚えてコミュニケーションをとってくると、ケイコは嬉しがる。彼女はホテルで清掃やベッドメイキングなどの仕事に従事している。

ジムでのトレーニング、ホテルでの仕事、弟とのコミュニケーション、そして河川敷での自主練習で成り立っている映画である。彼女が浅草松屋の東側の道路を北に歩いていくシーンがあるので、きっとジムも、河川敷もそういった界隈のことだろう。ただ「ここは戦火で焼けなかった」といいうセリフがあるから、かなり浅草の北の方ではないかと思われる。

シーンの一つひとつに意味があって、しかも過不足なく描写されていく。無駄がないのだが、全体はじっくりと進行する。曖昧なのは家族関係と河川敷でぼーっとしているときに2人の警察官に職務質問をされ、余りに彼女との応答が噛み合わず、もう一人の警官が「もう行こうや」といった感じで立ち去るシーンぐらいである。その警官の仕草、表情が曖昧で、何のためにこのシークエンスを入れたのかが見えない。

弟の会話はときにサイレント映画のように縦長の黒い長方形に文字が白くなったものが映される。林海象の映画を思い出す。友達二人と喫茶店で話をするときは手話だけ。こういう遊びはグッド。

試合で彼女はノックアウトされ、また河川敷で座ってもの思いにふけるが、そこを通りかかった作業服姿の女性が声をかけてきて、「こないだはありがとう」と言って去っていく。試合をした相手であることは顔に残るいくつもの傷で分かる。彼女の心にまた灯が点ったことが分かる。それで映画はジ・エンドである。

主演岸井ゆきの、会長三浦友和、監督三宅唱、脚本同、酒井雅秋。岸井が不細工に見えたり、とてもきれいに見えたり、それだけで映画を見ていることができる。三浦友和は「転々」でおやっと思った。いい役者さんだったのね、である。本作でも肩の力が抜けていてグッド。やや定型のきらいがあるが。

この映画、イーストウッドの「ミリオンダラーベイビー」が当然、意識されていると思われるが、しょぼいボクシングジム、老いたジムの会長という設定は同じ。一人黙然とトレーニングするのも同じ。しかし、方やチャンピオンとなっていくが、この映画の主人公は飛び抜けた才能があるわけではない。中学生のときにいじめに遭ったことがボクシングを始めたきっかけのようだが、動機も弱い。だから、辛勝のあとボクシングを止めようかと考える。

じゃあこの映画は何を描いたことになるのか。聾者の苦悶でもない、その日常を丹念に描いたわけでもない、反骨の様でもない……と考えてくると、この映画の良さが分からなくなってくる。だけど、最後までまんじりともしないで見てしまった映画なのである。監督三宅唱、脚本同、酒井雅秋(テレビが中心、映画「任侠学園」)。

 

19 人生の仕立て屋(S)

イタリア映画で、主人公はギリシャ人? 紳士服の仕立て業が行き詰まり、最初はその紳士服を屋台で売りに行き、まったく売れない。しかし、女性客が寄ってきて、紳士服しかないのを見てがっかりする様子などからヒントを得ていく。ウェディグンドレスを頼まれたのがきっかけで、商売が好転していく。隣のアパートの子どもとその母親と入魂になるが、夫の頸木からは逃れられない。仲のよかった娘も、母親と彼が睦まじくなったことで、反旗をひるがえす。最後にオフィスが荒らされた場面が映るが、銀行融資の返済ができず、差し押さえに遭ったということのようだ。だが、主人公はまた一人で出張仕立てに精を出す。このエンディングは後味が悪い。せっかくだから借金を完済し、恋も稔る、としてほしかった。彼が翻然と屋台を引くことを決心するのに、2度、途中でそれをほのめかす映像を入れている。台車に荷台を設置した屋台が通り過ぎるときに視線がいっている。だから、翻意が自然なのである。

 

20 不連続殺人事件(D)

監督曽根中生、脚本同、田中陽造大和屋竺(あつし)、荒井晴彦(助監督)、原作坂口安吾。資産家の家に集まった作家、弁護士、画家、医者などが8人の殺害に巻き込まれていく。もちろん犯人は内部にいる。金田一的な役柄を田村高廣が演じるが、彼の弟子巨勢(小坂一也)がすべてを解決する。登場人物が多すぎて、どこが不連続だか分からない。それとセリフが古すぎる。ATG制作。夏純子、宮下順子が裸を見せるが、絵沢萌子は脱がない。

 

21 コリーニ事件(S)

トルコ人の少年がドイツ人の資産家の庇護を受け成長し弁護士になる。その資産家が殺され、皮肉にも被告の国選弁護士になる。調べていくうちに、資産家が戦時にイタリアで民間人を殺していたことが分かる。その犠牲者の一人が被告の父親である。被告はまえに裁判を起こしたことがあるが、時効で却下されている。というのは、時効の数カ月前に法律が変わり、謀殺ではなく故殺が適用されたからである。まだ国際法が未整備で、女性、子どもでなければテロ行為に対する報復は故殺扱いとなったため、却下された。その法律変更を担ったのが、その検察官であることが分かり、裁判で主人公はそこを攻める。寡黙な被告をフランコ・ネロが演じている。久しぶりだ。

 

22   非行少女(D)

浦山桐郎監督、同・石堂淑郎脚本、主演和泉雅子、浜田光男。1963年の作品である。母親が死に、酒に溺れる父親(浜村純)が女を連れ込む家の一人娘・若枝が荒れた生活をしている。それを庇うのが三郎で、兄(小池朝雄)は市議会議員となり、さらに上を狙っていて、弟の不甲斐ない生き方を否定するばかりである。村は内灘闘争(と思われる)で反対派と肯定派に別れ、それを引きずり、不漁もあって低迷している。若枝は三郎が雇われている養鶏場の小屋に忍び込み、新聞紙を裂いて燃やしているうちに、周りにある藁に火が移り、全焼に。少年院に送られるが、そこで仲間と打ち解けあい、自立の道に進もうと、三郎に黙って大阪の紡績工場に旅立とうとする。しかし、三郎に見つかり、翻意を迫られるが、喫茶店で差し向かいになる二人の頭上に設置されたテレビでは美人コンテストで優勝した金沢出身の女性の映像が映し出されている。三郎の視界がぼやけ、やや長い時間があって、彼は若枝に出立を促す。ひと駅先まで同乗し、3年先まで心が変わらなければ付き合おうと誓い合う。若枝の入った少年院の担当夫妻がじつに民主的で、彼らがいてこそ彼女の自立への助走があった、という感じである。三郎も一から出直してみる、と前向きな青年である。何のてらいもない一本気な映画という印象である。弱いのは三郎の喫茶店での心変わりのシーンである。偶然駅で若枝を見かけるという設定だから、何か急な理由を用意しないといけない。それで考え出されたのが喫茶店に設置されたテレビとなるわけだが。和泉雅子がつねに走り回っている映画である。

 

23 猟奇的な彼女(S)

4度目である。やはり面白い。馬鹿げたストーリーを臆面もなく通す胆力に敬服する。韓国の民族性の明るさをもろに感じる。休みに安いからといって家族で連れ込みホテルに泊まるという人たちだ。暴力、笑い、韓国の2大特性がほどよく抑えられて融合されている。監督クァク・ジョエン、ほかの作品は見ていない。

 

24 善き人のためのソナタ(S)

ベルリンの壁崩壊数年前の東ドイツの話。秘密警察シュタージで舞台脚本家ゲオルクを盗聴することになったヴィースラー。彼はまだ社会主義の正義を信じているタイプで、上司がホーネッカーのことをネタにジョークを言うのを無表情に見つめる。ゲオルクの恋人・女優クリスタを我が物としようとする管轄大臣の行いにも批判的である(それについて公言はしないが)。大臣はゲオルクの身辺を洗え、と命じるが、それはクリスタを手に入れたい野心からのものである。

ゲオルクも過激な発言をする仲間を制したり、中間的なポジションを保持するが、信頼する演出家イエルスカが自殺したことで、西側に告発の文章を送る。国は自殺者のデータの発表を止め、ハンガリーが1位になったが、実態はひどい、という中身である。ベルリンの壁のもとで自殺する人間が後を絶たなかったようだ。国は自殺者を自己殺害者と呼んだ。

演出家の恋人・女優クリスタは管轄の大臣から誘いをかけられ、ゲオルクのために交接に応じるが、それに気づいたヴィースラーが彼女の寄るバーに先回りし、ファンとして変な行いはするな、とアドバイスする。その夜の盗聴では、大臣を振ったクリスタがゲオルクと熱く抱き合うところを、ヴィースラーは安心して聞き届ける。しかし、言うことを聞かなかったクリスタを大臣は許さず、精神安定剤?を闇で買っていた彼女を尋問にかけ、ゲオルクが告発文を書いたタイプライターが部屋の中にある、という証言を引き出す。彼女は実際の隠し場所を知っていたが、うそを行ったのである。今度はヴィースラーが尋問をやらされる。彼は細かな目つきで彼女に告白しても大丈夫だというサインを送る。それを信じてクリスタが証言したと思ったのだが、ヴィースラーが先回りしてタイプライターを回収していたことを知らず、シュタージの面々が来るまえにクルマに身を投じてしまう。

壁崩壊後、ゲオルクはシュタージが溜めた自分のファイルを読み、だれかが自分をずっと守ってくれていたことに気づく。友人と密儀を交わした場面は、次の新作の打ち合わせとしてでっち上げられている。ヴィースルーがまちの郵便配達夫になっていることを確かめる。ゲオルクは映画名と同じタイトルの本を出し、その人物のイニシャルに本を捧げた。

残念なのは、イエルスカの遺した「善き人のためのソナタ」と表に刷られたノートが、いったい何なのか分からないことだ。その装幀に分かる人はすぐ分かるのもしれないが、ぼくには分からなかった。それはゲオルクの誕生日に持ってきたものだが、イエルスカの死を知ってすぐ、ピアノに向かい弾きだす。その流れからいくと、楽譜かもしれないと遅まきながら気づく。彼はこう言う、「レーニンはベートーベンの熱情ソナタを批判した。『この曲を聴くと、革命が達成できない』と」。盗聴するヴィースルーの目から涙が流れる。ベートーベンの熱情を聴き直さなくてはならない。

 

25 僕を育ててくれたテンダー・バー(S)

自伝をもとに作られた映画、よくあるパターンだが、とても全体に抑制が効いていてグッド、それにシークエンスに過不足がない。監督ジョージ・クルーニー、脚本ウイリアム・モナハン、主演タイ・シェリダン(見たことのある役者だが、Xメンは見ていない)、、客演ベン・アフレック、リリー・レーブ(母親役、キュートでいいキャスティング)、ブリアナ・ミドルトン(主人公を何度も振る黒人女性)、クリストファー・ロイド(ドクである)。原作者はJ.R.Moehringer、父親は放浪のラジオ・パーソナリティ(良く分からないが、シンジケート局を回るDJということだろうか)。N.Y.Timesの記者になれず、とうとう覚悟を決めて父親に会いに行くが、新しい女と住んでいて、その女に暴力を振るうことで怒りを爆発、やっと父親との縁切れである。もう少しバーでの逸話が濃い目に描き込まれていたほうが、作品は良くなる。

 

26 イコライザー(S)

3回目である。1は「老人と海」が主人公の行動の背景説明になっているが、今度は「世界と僕のあいだに」(タナハシ・コーツ)である。タナハシは同作でピューリッツアーも取っているジャーナリストである。

 

27  ハロルドとモード(S)

1971年の作、どう見てもイギリス・テイストの映画だが、じつはアメリカ。主人公の青年は豪邸に住んで貴族に見える。きちんとした背広を着て、清潔な感じがある。母親の支配下にあって、首吊り、喉切り、自爆、腹切り(琴の音がしてくる。そして「すきやき」と言って刀を刺す)と脅かすが、母親はまったく取り合わない。大人になるべき、と見合い相手を3人用意するが、ことごとく奇妙な仕掛けで脅かしてダメにする。見合いの前に適性検査をすると言ってハロルドに質問をするのだが、そのうち自分で答えてしまう。

一方、趣味の葬式覗きで出会った不思議な婆さんとの交流が始まる。79歳なのに、氷の彫刻屋のヌードモデルになっている。「あの男が男であることを忘れないために、たまにヌードになっているの。だめ?」「いや」とハロルドは答える。モードは他人のクルマを拝借し、街中を破天荒に乗り回す。警官が追ってきても平気である。植物の多い部屋に住み、そこには自作の絵や木工のオブジェがある。ハロルドが木工の楕円に首を突っ込み、脇の木を撫で、楕円の下部に口づける。旦那は大学の先生だったようだ。

母親は軍人の伯父に息子を預けるが、その叔父は右腕がなくて、まともに敬礼ができない。戦場での偉勲を語り、おまえは有望だとほめるが、モードが現れて穴のなかに落としてしまったことで、甥っ子を諦める。これはハロルドとモードがたくらんだことだ。

ハロルドのかかる精神科医は、尻が垂れ、乳房が伸び、顔に皺が刻まれた女をなぜ選ぶのか、と助言するが、ハロルドは意に介さない。母親にも、モードと結婚すると伝える。

海岸で並ぶ二人。お互いに「好きだ」と言い、モードは「女学生の気分」と言うが、その左腕の裏側にナンバーが書かれているのをハロルドは見つけてしまった。移動サーカスで遊んだり、モードの誕生日にコインを送り、モードはそれを海に投げるが、「こうすれば、どこにあるか永遠に分かる」と言う。翌朝、ベッドで胸毛のある裸の半身を起こすハロルド、右を向いて顔をシーツで覆っているモード。

80歳になったモードは、もう薬を飲んだ、とハロルドに言う。慌てて病院に運び込むが、あえなく死んでしまう。崖に向かうハロルドの自家用車、そのまま突っ込んで落ちるが、ハロルドは崖上でモードから貰ったバンジョーを弾きながら、なだらかな丘を越えていく。

監督ハル・アシュビー、「さらば冬のかもめ」「シャンプー」「ウディガスリー」を見ている。脚本コリン・ヒギンズで製作もやっている。

黒柳徹子が舞台にかけているらしい。不思議な、キッチュで、アイデアに溢れた、ぼく好みの映画である。腕にある収容人ナンバーをさらりと見せるところなど、なんと奥ゆかしい。

 

28  魚影の群れ(D)

相米慎司監督、脚本田中陽造、主演緒方拳、夏目雅子佐藤浩市、撮影長沼六男、主題歌原田芳雄&アンリ菅野。なかで「涙の連絡船」「おけさ唄えば」などが緒方、夏目、佐藤によって歌われる。

有名なシークエンスがある。古い旅館の二階から緒方が外を見る。若い男と逃げた十朱幸代の下駄を履いた足を写す、立ち止まり上を向き、逃げ出す、それを俯瞰で撮っていて、二階から一階に出てくる緒方をその俯瞰のまま写し、音は下駄の音だけ、十朱を緒方が追うのをずっと後ろから撮り、次は正面から十朱を撮り、柵を越えて突堤に来て、疲れて仰向けになり、近づく緒方の脚を十朱の足が蹴飛ばす。この一連が、やはり映画的な快楽にぞっとする。

あとは、緒方と十朱の船倉でのセックスシーンも力がある。緒方が船底に寝ているところに、音がする。十朱が石ころを投げて寄こしている。抱いてほしいの言葉に、二人のセックスが始まる。ここは二人の裸の上半身での寄りの映像だけで、かなり長い間、お互いの過去を許し合うセリフが吐かれるが、青森弁で分かりにくい。逃げたのは20年もまえのことだからな、と緒方が言い、十朱が「時効か」という。そういう途切れ途切れの会話を交わしながら、セックスが描かれる。

男が外に迎えに来ていて、花火を打ち上げる。男と緒方が取っ組み合いの喧嘩になり、女は「マグロと人間の区別がつかない。針にかかると泳がせ、暴れたら殴りつける。何にも変わってない」と言い捨て、去っていく。「明日の晩まで船を停めておくぞ」と女に声をかける。翌日、十朱は荷物バッグを持って現れるが、マグロと格闘し、バラシて逃がした緒方は現れない。

佐藤浩市が若くて、はじめ違和感がある。夏目は熱演である。佐藤はテグスに巻き込まれて重傷を負い、最後もまた内臓破裂で死ぬ。

 

29 台風クラブ(D)

監督相米慎司、脚本加藤祐司、途中まではテンポよく、進むが嵐が強くなってからは、中身もなしにだらだら迷走するだけである。青年の一人が女の子を犯そうと追いかけ回すが、いざとなって止め、そのあと2人には何もわだかまりがない描き方は無責任をいいとこである。工藤由貴が突然家出するが、コンビニだかで男と話しはじめ、男のアパートに行く。どうやら初めてあったらしい。これも中途半端に外に出て、家に帰ってしまう。演出に困ると、女の子たちを下着姿に躍らせるなどのことをやっている。まえは冒頭のシーンで見るのを止めたが、それが正解だったかもしれない。

 

30 トリとロキタ(T)

ダルデンヌ兄弟監督、何人なのか年齢差がある男女(女が年上)がきょうだいかどうかも不確かだが、離れ離れになった弟を探しに行き、見つけた少年が、不吉な星のもとにある弟と感じが似ているというので、一緒に住み、小さなレストランの闇商売、クスリの売人をやりながら、五人の子のいる母親にも仕送りし、自分はビザが下りればヘルパーの仕事に就きたいと思っている。集中的に稼ぐために3カ月(?)、閉ざされた場所で、弟とも隔離され、クスリの栽培をすることに。弟はどうにか見つけ出し、そこで栽培しているものを横流しに。それが見つかり、どうにか逃げるが、間違って追っ手にヒッチハイクの手を挙げ、姉は殺され、弟が教会での葬式で簡単な別れの挨拶をし、小さな歌を歌うところで終わる。ごく素直な映画づくりである。ダルデンヌはカンヌ受賞の常連らしい。

 

31 パリタクシー(H)

原題は「いいコース」みたいなものではないだろうか。92歳になる女性がタクシーを拾い、養護ホームまで送ってっもらう、寄り道を含めてその一部始終を描くものである。アメリカ兵との短い恋で子どもを設け、次の男は暴力男で5年目にある仕置きしたことで13年の牢獄暮らし。まだ夫の許しがなければ銀行の口座も持てないし、働きにも出られない時代。「毎日、暴力を振るっていて、5年も過ごすことができるか」との弁明に、男だけの陪審員は彼女を23年の有罪に。その語りの瞬間にパリ俯瞰に代わり、その風景に重ねるように刑務所の扉が閉められる音がする。この演出はいい。彼女の過去が織り綴られ、その間に運転手の温かい人柄なども問わず語りに分かってくる。赤信号無視のとき、彼女の機転で加点されず、免許を失わずにすんだが、それまでの彼女のアクティブな過去の一面がひょいと顔を出すシーンである。

監督・脚本クリスチャン・カリオン、主演はリーヌ・ルノーダニー・ブーン。主題歌は英語。

 

32 私が棄てた女(D)

安保の敗北が主人公(吉岡:河原崎長一郎)を屈折させ、出世主義一辺倒にはさせない。その重し、あるいはしこりとしてミツが設定される。文通で会い、それから付き合い始めた田舎丸出しの、工場勤めの女である。「汚い言葉を使うな」「何でもづけづけ言えばいいってもんじゃない」と叱りつける。海水浴へ行き、先にプレジャーボートの浮かぶ海でボートを漕ぐ吉岡。楽しく音楽を鳴らして踊る若者たちにミツは平気で参加して踊る。その夜、ミツを抱き、翌朝吉岡は彼女を置いて逃げる。

彼は自動車会社の社長の姪(真理:浅丘ルリ子)と結婚するが、社長宅で階級の違いを見せつけられ、ミツとの関係も強請りをやるミツの友達シマコ(売春業者)からマリ子にちくられる。吉岡、ミツ、真理で回想の際の色を変えているが、ミツの相馬の馬追いを思い出すシーンではカラーに切り換わる。

最後は別れたはずのマリ子の想像図で、色は赤色、そこではミツが助けた老婆の息子八郎(加藤武)まで登場し、吉岡と将棋を指している。ある種のユートピアを思い描いているという設定なのかもしれないが、作者の願望としか見えない。マリ子が「あなた(ミツ)の分まで考えて生きていくわ」と言うのも、そうである。

能面を挟んだり、抽象的な画面を作ったりいろんなことをやっているが、そんなこと必要だったのだろうか。時代の要求ということだったのだろうか。ぼくには、そういう装飾がなくても、この映画、充分に成立していると思えるのだが。

 

33  サンドラの週末(D)

ダルデンヌ兄弟である。マリアンヌ・コーティヤール主演、病気で会社を休んだことで解雇となり、その代わり従業員にはボーナスが出ることに。もう働けると社長に言うと、多数決で決めると言われ、週末の2日間だけが説得の時間となる。仲間の家々を訪ね、言葉少なにサンドラは相手の意思を確かめる。その過程で、どこもボーナスがないと生活が苦しい、という状況が分かってくる。家の内装を変えるためにボーナスを当てにしていた女性は翻意し、サンドラ復職に一票を投じることにするが、彼女は夫の横暴さに嫌気がさし、離婚を決め、サンドラの家の厄介に。最終的には1票が足らなくて負けるが、社長から臨時工が2人期限が来るのでそれを切るから、残ってくれ、と提案sれるも、人を切って自分が戻ることはできない、と断る。静かなやりとりのなかで、人の善意があぶり出されていく。そういう映画である。

 

34 ハマのドン(T)

横浜市がカジノ導入を止めたその火元となったのが、親子2代で港湾に関わってきた藤木幸夫である。かつては博打を規制すると人夫が集まらず、そこにやくざも絡んできたが、藤木の父親はそういう連中から身を離した歴史がある。そこに問題の多いカジノなど論外だ、というので反対の拳を上げ、もともとは菅を押し上げる原動力となった人物がまともにそこと争うことになった。市民運動が18万の反対の声を集め、カジノを呼ばないと公言した自民党候補を抜いて、当選した。自分の子飼いの統制もできない首相は面目を失い、総裁選に出ずに降板した。新宿ピカデリーで160人入る小屋が満杯だった。検事長の定年延長の阻止、安倍国葬の反対と世論の風向きが変わってきているが、それとこの横浜の動きは密接に関連したものと思われる。

 

35 マーベラス・ミセス・メイゼル(S)

いま第5シーズンまで来ているスタンダップ・コメディアンの物語である。ユダヤ人、二人の子持ち、離婚、そんな彼女がレニー・ブルース張りのジョークを飛ばす。マネジャーを買って出たのがスージーで、小さくて、小太りで、不細工……だが、二人の息はぴったり合っている。バックステージの事情から家族の問題まで、じつに丁寧に、そしてのんびりと描いて、飽きが来ない。デ・ニーロにもスタンダップものがあるし、トム・ハンクスエディ・マーフィースタンダップの出身である。既存の、仮面をかぶったエスタブリッシュをけなしまくりながら、一方でその場に合った当意即妙のジョークをくり出す様に、すっかりやられている。

 

36  怪物(T)

こういうタイトルが付いたときは要注意という気がする。客寄せの匂いがするからである。そういう意味では、この映画に誰も怪物はいない。いるかのように見せて、すべての鍵が開けられていく。ただし、2カ所だけ、カギを与えてくれない。子どもが精神的に動揺していて、シングルマザーは心配でしょうがない。嵐の夜、外から帰ると窓が開いていて、風と雨が吹き込む。そこでこのシークエンスは終わる。観客とすると、子どもがベランダから身を投げたのではないかと恐れる場面である。それと同じ日なのか、嵐の中を母親と担当教師が息子を探す。前に息子を見つけたことのあるところに行き、二人で泥の中に沈む窓(使われなくなった電車の?)を開け、子どもの名を呼ぶ。このシークエンスもここで終わり。映画のラスト、時間を巻き戻すように、その天窓らしきところから息子と友人の子が降りて、二人で闇の中に入り、陽がさんさんと照るところに出て、息子が「生まれ変わったのかな」と言うと友は「変わらないよ、いつもの通りだよ」と言い、二人してさらに明るいほうに向かって行くところで映画は終わる。おそらく二人はもう死んでいるのではないか。

 

この映画は3つの視点で描かれる。息子の母親の視点(息子から担当教師の暴力を示唆されている)、担当教師の視点、そして息子の視点である。この3層には明らかに矛盾がある。母親の視点からすると、担当教師は校長、教頭とグルになって事件をもみ消すように見える。「誤解を与えたようで申し訳ない」とか「シングルマザーだからダメだ」式のことを言う人間である。ところが、教師の視点に移ると、学校幹部の行いに不服で、母親と話して誤解を解きたいと訴える。当然、その息子への虐待などなかったことも明らかにされる。そういう人間が、母親の視点ではまったく逆に見えるような演技をするだろうか。逡巡や羞恥や沈黙などが現れるのではないか。

 

息子は次第に友への愛に気づくようになる。その友へ負担がかからないように、教師に罪を押しつけた? ということになるのだろうか。

 

久しぶりに是枝映画に戻ってきた。「万引き家族」でがっかりして、それ以降、見る気がしなくなった。時間をあっちこっち動かしているのは、是枝のこれからの変化を表しているのか。非常に珍しい。脚本がそうなっているのかどうか。友を湯船から引き出すときに、あえて友の背の傷をきちんと撮っている。父親の虐待を知らせているわけである。こんな説明的な絵を撮らない是枝にしては珍しい。

是枝がこれだけ社会性を露骨に見せたのも珍しい。それにしても、母親に言質を与えまいとする教師たちの鉄仮面ぶりは、余りにもステレオタイプである。しかし、仮面を被った校長も結局、あとで人の良さを見せている。それに少年同士の愛など、是枝の追ってきたものでもないだろう。坂元裕二という脚本家に声をかけたらしいが、この中身は是枝のやりたかったことなのだろうか。彼は脚本を貰って、戸惑ったのではないか。

一番残念なのは高畑充希を起用しながら、いつもの紋切り型の演技をさせてすませていることである。

 

37 波紋(T)

荻上直子監督・脚本。いくつも撮っている監督だが、社会性がなさそうで見る気がしなかった。筒井真理子(深田晃司の映画で何回か見ている)が主演、その失踪した旦那が光石研(彼は「共喰い」以来である)、ガン末期ということで帰ってくる。波紋(枯山水)と手拍子が映画の主音となっている。波紋は宗教と結びつき、手拍子はラストの映像へと繋がっている。途中、九州に逃げた息子が吃音の恋人を連れてくるが、母親は露骨な差別をし、スーパーの同僚もそれを認めるというひどいことをやっている。あれあれ、である(監督は、女性差別をテーマに挙げているが、あれ? である)。その吃音の女性が突如、消えてしまって、その理由が語られない。あるいは、これが一番の問題だが、夫がなぜに出奔したかが、明かされない。息子が言うには、母親から逃げた、ということになるのだが、どういう風にひどいのかが語られない。そのあとに怪しい宗教に凝りかたまったわけだが、なんだかな、である。そういうこともあるかもしれないが、クリシェだという気がする。ラストに喪服を着て、やや長めにフラダンスを躍らせるのは余計である。赤い傘に喪服、その着物裏が赤で、実に美しい。それを上から撮ると、何だったか、名作やくざ映画の俯瞰のワンシーンを思い出す。狭い路地で赤い傘が人とすれ違い、倒れるのである。刺されたということを、それで表していた。

 

38 エール!(S)

これまったく「コーダ あいのうた」のフランス版パクリ、と思いきや、こっちが2015年の作で、アカデミー賞を受賞した「コーダ」が2022年の作。まったく知らなかった。プロデューサーが一緒である。しかし、「コーダ」の公式ホームページを見ても、翻案だと書かれていない。こういう隠蔽はよくないのではないか。「エール」の脚本は5人、「コーダ」は監督・脚本でシアン・ヘダー。プロデューサーが英語版を進めて、この監督を立てたのではないか、と思われる。やはり最後まで見てしまった。主人公があまりきれいではないのが、この映画のポイントではないか、と思う。

 

39 アンダードッグ(s)

またマンソクである。まちで暴れる若者と出逢ったマンソクもまた、表の世界の失敗を裏で返そうとしている男である。しかし、女性を借金の形にとっても、35%の高利を超えることはない。そこに、若者の密告でムショに入れられ、彼女も奪われた狂人(実は金持ちの子で、短い刑期で出られた)が戻ってきて、彼を追いかけ回すことから、事件が起きる。マンソクを全篇に見られないのが不満だが、彼を使って映画を作ろうとする工夫の跡が見えてグッド。

 

40 パリの調香師(S)

よく出来た作品である。無理がなくて、自然で、きちんといいところに落とし込む。運転手に雇った男が、意外な交渉力を見せることで、物語が動き出す。それが最後の場面まで生かされる彼の才能だ。頑なな調香ひとすじの女性が次第に変わっていく様も、この映画の見所だろう。こういう一篇を無理なく作れるのは、文化の厚い下地があるからである。日本で山本周五郎長谷川伸が発祥の世話物、人情物のなかに大変な財産が眠っている。

 

41 にじいろカルテ(S)

高畑充希主演、脇に三浦新、北村匠海。さらに脇の安達祐実水野美紀西田尚美池田良がいい。なかでも水野美紀ががさつだが真心のある人を演じて、ぼくには意外性があってとてもグッド。年老いた水野久美が出ているのにはびっくり。9話完結、平均で10%超の視聴率。脚本岡田恵和、演出深川英洋。ホームページでは脚本が先にクレジットされている。

 

42 兄弟仁義(S)

鈴木則文村尾昭が脚本、監督山下耕作。白黒で1966年の作、ぼくはこの映画を封切りで見ていない。このシリーズは9作まであって、ぼくは何作目かカラーで見ている。テレビで見ていた北島三郎がどぶを這い回って殺されるシーンを今でも覚えている。テレビで有名な歌手も、こういう役をやるんだ、という驚きがあった。組長がこれまた歌手の村田英雄だが、演技がうまい。ほかの映画でも村田は見ている。北島も演技がうまい。松方弘樹の身体の動きがやはり素晴らしく、それを見ているだけでも楽しい。やや下向き加減になったときの表情にはいわく言いがたいものがある。外部助っ人の鶴田浩二は安心の演技である。組のみんなを堅気にさせておくために、単身殴り込むスタイルだが、やくざ映画が緩み始めるきざしを感じる。なぜなら前であれば、組のもの、つまり松方も殴り込みに出かけたはずだからである。

 

43 トゥ・レスリー(T)

10万9000ドルのロトを息子の生年月日で当てた女が、自宅を買い、酒に溺れてすべて使い切り、泊まっていた安宿から追い出され、息子を頼っていくが酒浸りを止められず、息子が電話で頼んだ先に寄せてもらう。かつて多少は彼女の世話になったことがあるだけという夫婦で、何かあればすぐに出て行ってくれ、とはなから信用をしていない。息子が泣いて頼んできたから泊めただけである。レスリーは酒場に行き、男を誘って飲もうとするがうまくいかない。やはり追い出され、あるモーテルの脇で寝たことが再生のきっかけになる。部屋の掃除などの仕事をくれたのである。前借りをさせてくれることから酒に浸りはじめるが、ある若者が声をかけてきたことで、息子のことを思い出し、酒を断つことに。それからは予想通りの展開で、最後、10年以上もほったらかしされていたアイスクリーム売りの小さな建物をダイナーに変えて、その一番先の客が息子という展開に。その息子を連れてきたのが、家から追い出した夫婦のかみさんの方。いろいろつらく当たってきたが、じつは愛していたんだ、と言ってくれる。主演アンドレア・ライズボロー、翻意した妻がアリソン・ジャネイ(まるでネイティブのような化粧)、監督はテレビ畑らしくマイケル・モリス、脚本ライアン・ビナコ。

 

44 シモーヌ(T)

「フランスで最も愛された政治家」がサブタイで、それを知らずに哲学者のシモーヌ・ヴェイユのことだと思って見に行ってしまった。あれアウシュヴィッツ、あれEU議長選挙、あれ彼女の哲学は? あれ工場勤めは? と思っているうちに映画が終わった。さっそくウィキを見ると、哲学者のシモーヌは30代でイギリスで客死している。そのあとにカミユなどの手で彼女の論考が編まれ、『重力と恩寵』がベストセラーになった。ぼくはそれを読み始めているのだが、なんとうかつなことか。映画は楽しんで見ることができた。ただ、時間をあっちこっちし過ぎるのが玉に疵。中絶法や保健士資格の制定をした人のようだ。母、姉とアウシュヴィッツに送られ、そこの女性カポ(ユダヤ人の管理係)に気に入られ、労働の少ない収容所に移されて、命が助かった。父と兄はほかの収容所で殺されている。

 

45 グランド・ジョー(S)

ニコラス・ケイジ復活を告げるドキュメントがあったが、見逃してしまった。ここしばらく際物役者のようになってしまい、残念感が強かったが、この作品はきちんと人間関係が描かれていて、テーマも貧困の、親からの虐待を受ける青年を救う話で、好感がもてる。身体もそんなに肥満をしていない(2013年の作)。ジョーは樹に毒を入れて枯れ死を早め、それを倒れさせる仕事の頭領だ。法律で樹木は枯れ死しないと、新樹に換えられないのだという。ラストはその新樹を支える仕事に青年が就くところで終わる。こういう映画を観ると、本当に映画は前提条件なしに虚心に観ることがいかに大事か分かる。

 

46 リボルバー・リリー(T)

大正期の話、陸軍の軍資金をつくった男が、じつは戦争を止めようとして翻意、子どもに託して自害した。その子を救ったのがリリー、小曽根百合子(綾瀬はるか)である(実の母親である)。彼女は玉の井に家(娼館ではない)をもち、二人の女性(シシド・カフカ、古川琴音)がいて、一人の男(長谷川博巳、元海軍)も情報探索などの手伝いをしてくれる。リリーは元幣原機関の諜報員で50何人だかを殺して鳴りをひそめていたが、先の子どもの父親の殺害記事を読んで動き出す。陸軍との派手な銃撃戦が2回、陸軍がどっちも負けてしまう。なんで時代設定を大正などにするのだろうか。現代に引っ張って来たほうが無理が少なくなったろうに。銀髪の老婆が2回現れ、きっかいな魔術を施すが、これはなくても映画は機能している。胸を深く刺され、何度も弾をぶち込まれるが、彼女は不死身である。できれば、防弾具を着用しているとかの事前告知をしてほしい。綾瀬はるかの格闘シーンはもっともっと見たかった。座頭市、奥さまは取り扱い注意などでアクションは見ているが、ぜひリリーをシリーズ化させてほしい。客はまあまあの入り。

 

47 デンジャラス・ビューティ2(S)

再見である。サンドラ・ブロックはやはりコメディエンヌではないかと思う。男の白人と黒人警官のパートナーを女性同士に変えたものである。その最初は? 1982年の「48時間」ではないかと思うが、違うだろうか。TVドラマでも、人種が違うというのはあったろうか。「エージェント」のレジーナ・キングが出ている。ラガーマンの夫を劇愛し、そのためにトム・クルーズを焚きつける、あのときのレジーナはすごい。もっと彼女を動かしたらよかったのに。サンドラは顔の形が変わったので、新作を追いかけることができないのが残念。ほぼ彼女の作品は見ているが。

 

48 ファイティン(S)

マンソクにほぼ外れなし、はこれでも証明された。母親に養子に出され、アメリカで育ったアームレスラーが韓国に戻って大活躍。にせの家族も得て幸せに。その妹役にハン・イエリで不思議な顔をした女優さんだ。韓国顔のような、そうでないような、知り合いにもいそうな感じが……。舞踏家でもあるようだ。追いかけるかどうか微妙。

 

49  アステロイド・シティ(T)

存分に楽しませてもらいました。前作よりまとまりがいい。アメリカでごく少数館で始まり、拡大ロードショーとなり、彼の最高収益映画となったらしい。スカレーット・ヨハンセンを脱がした後に、替え玉だけど、とバラしている。前作ではレア・セドウを脱がして、その断りを入れていなかったが、きっとダミーである。小惑星都市にやってきた超秀才たち5人の一人がソフィア・リリス、ほとんど台詞もなく、可哀想。しきりに原爆実験をやっている町である。戦場カメラマンの3人の小さな女の子が元気で、キュートで、それが頑固なのがいい。色が脱色というか、露出オーバーに撮られていて、古びた感じを出している。役者がとにかくこれでもかと出ている。こういう映画もあってこそ、映画なのである。

 

50 535(S)

ジェシカ・チャスティンはこの前にアクションものがあったが、あまり良くなかった。今回はマーシャルより銃撃戦に迫力があった。ありふれた筋(同僚かつ恋人が裏切り者というパターンはお馴染み)で、お宝ものと異種チームものの合体である。それを全部、女性陣でやったことの面白さである。一人だけ格闘派ではない心理カウンセラーのペネロペ・クロスをどう扱うかがポイントだが、少しずつ彼女の分量を上げ、最後近くにマックスにもっていく手腕はなかなか。もしかして続編ができる? 黒人のルビタ・ニョンゴがとてもキュートである。「それでも夜が明ける」に出ていたらしいが、記憶にない。同作を見直してみるつもりである。ほかの作品も見られればいいのだが。

 

51 完全なる報復(S)

わが家で妻子を突然の強盗に殺され、主犯格が5年の刑、なにもしなかった従犯格が死刑になる。司法取引だというが、そんなことがあるのだろうか。証拠がないにしても、どちらが主犯かは分かりそうなものだが。その復讐を10年かけて仕込んだが夫が、じつは国防省の仕事を請け負った過去のある頭脳派の殺し屋。不正な司法・行政に関わった人間を獄中から殺していく、という映画である。この獄中からというのは、なにかほかで見たような気がする。脚本カート・ウィマーの作品のうち「ソルト」「トーマス・クラウン・アフェア」を観ている。「Xミッション」「ウルトラバイオレット」が面白さそうだ。監督はゲイリ・グレイ、主演ジェラルド・バトラー、客演ジェレミー・フォックス。

 

52 ジョン・ウィック(T)

コンスィクエンス、報復がテーマらしいが、それは毎回のことである。大阪篇は余計だったように思う。同じ技を延々と見せられて、途中で飽きが来てしまった。これがファイナルなのもよく分かる。ドニー・イェン座頭市をやっている。真田広之の娘役は日本人だが、服装から含めてそうは見えない。

 

53 カリフォルニア・ガールズ(S)

ロバート・アルドリッチ監督、メル・フローマン脚本。アルドリッチは「ロンゲストヤード」「北国の帝王」「傷だらけの挽歌」を見ている。「傷だらけの挽歌」は封切りで見ている。「カリフォルニア~」は女性プロレスタッグの名前で、きれいな二人が有能なマネジャーピーター・フォークのもと、チャンピオンまで駆け上る物語である。ミミ萩原とジャンボ堀が出ていて、彼女らの逆エビ固めがカリフルニア・ドールズの起死回生の技になる。最後に華麗なテクニックをいくつか取っておく心にくいことをしている秀作である。フォークはまだ両目が大丈夫で、演技も合っている。せこいが憎めない、分け隔てがなく、アイデアと交渉力をもった男である。一つひとつ真剣に戦うことでランクを上げ、プロレス雑誌で3位にランクされたことでシカゴに乗り込んでいく。ぼくが見た女子プロレスでは、たしかイギリスの田舎からアメリカへ勇躍するも戻ってきて地元でこじんまりとやる道を選んだのがある。数年前の映画だ。アメリカのテレビシリーズで女子プロを扱ったものがあるが、2、3回しか見る気になれなかった。女性がアイススケートでぶつかりあったり、マーシャルアーツで動き回ったり、スナイパーで頑張ったりの映画に弱い。原点は「レオン」であり、「ニキータ」である。

 

54 犯罪都市2Round UP(S)

マンソクで満足。ベトナムへ犯罪者引き取りに向かい、そこで極悪人と対峙するが逃がしてしまう。韓国に戻り、そこで大団円に。途中、かったるい感じがあるが、最後にスカッと終わる。マンソクに「殺されたミンジュ」「アンダードッグ 殺された二人」というのがあるらしいが、まだ見ていない。

 

55 噂の二人(D)

シャリー・マクレーン、オードリー・ヘップバーン主演、客演ジェームズ・ガーナー。一人の邪な女の子の狂言から、17歳からずっと一緒だった二人の女教師が同性愛を疑われ、失職ばかりか社会的な地位まで奪われる。しかし、マクレーンはやっと自分の性癖に気づく、ずっと友だったオードリーのことを愛していたことに。二人の罪が雪がれたとき、マクレーンは自裁する。ウイリアム・ワイラー監督、脚本ジョン・マイケル・ヘルズ、原作リリアン・ヘルマン。なぜヘルマンはこういう作品を書いたのか。マクレーンの演技の上手さに比べれば、ヘップバーンは余りにもステレオタイプの演技しかしていない。次の演技に移るまでが、あほな顔をしていて困ったものである。ワイルダーのほぼ晩年と作といっていい。原題はThe Children's Hourである。邪な女の子がじつに小憎らしい演技をしている。

 

53 犯罪都市(s)

2もそうだが、悪人のキャラクターがむかしの韓国映画っぽいのである。それがこのシリーズが愛される理由である。マンソクに外れなし、である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年後半の映画

77 Eight Days A Week (D)

何度か映像を見ていて泣きそうになった。ロン・ハワードが過去の映像を綴り合わせたものだが、間然としたところのない編集である。見終わって思うのは、60年代が大きな変動の時代だったということだ。音楽のミューズに愛されたリバプール出身の田舎青年が世界へと飛び出して行ったときに、ケネディの暗殺があり、彼らのジャクソンビルのゲイターホールでのコンサートでは人種隔離問題があり、明確に彼らはそれを否定した。イギリスではありえない、と。ある黒人学者はそのコンサートで自分の周りの観客が多様な人々だったので驚いた、と言っている。のちジョンが「ビートルズはキリストより人気がある」と発言したことが、アメリカの保守を刺激し、物騒なコンサート続きとなった。その発言はイギリスではまったく問題にはならなかったものである。それはすでに「ラバーソウル」が発売されたあとのことである。
アメリカでのツアー会場はセキュリティや収容人員の問題から、演奏設備の貧弱な野球場などで行われるようになった。そこからは囚人護送車に入れられて脱出することになる。ジョージが口火を切って、もうツアーはうんざりだと言う。リンゴが言うには、レコードの契約は最低のもので儲けにならず、ライブで稼ぐしかなかったという。ブライアン・エプスタイン、ジョージ・マーチンのような紳士的なプロデューサーが付いていたのに信じられない。
ファンの一人が言う言葉が印象的である、「彼らは堂々としていて、自然で、若者の代表という感じ」。リンゴが、聴衆のほうが先に大人になり、自分たちは急速に大人になることを求められた、と言っている。ライブを止めてスタジオ録音だけに切り換えたのには、そういう事情もあった。5万6千人を集めたNYシェア・スタジアムではまったく自分たちの演奏が聞こえず、リンゴはジョンとポールの頭と尻の動きを見てリズムをとったという。ときおり、エルビス・コステロがコメントを言うが、「ラバーソウル」は裏切りだと思ったらしいが、6週間後には虜になったと言っている。苦しみから喜びが生まれるなどと、ビートルズが歌うなんて、と最初は思ったらしい。ラストは伝説のサールズベリのビルの屋上ライブである。いま見ると、みんな気持ちが合って、幸せそうに見える。ぼくは田舎で封切りでこの映画を見た。

 

78 日曜日には鼠を殺せ(D)

スペイン内戦以後20年の話。市民軍のリーダーだった男(マヌエラ役、グレゴリー・ペック)のもとに一人の少年が山を越えてやってくる。そのルートは、内戦から市民派(共和国派)が逃亡したルートである。警察署長(アンソニー・クイン)に殺された父親の復讐を果たしてくれ、と少年は懇願する。

マヌエラは母が病気がちなことを知っていたが、勇気がなくて帰らずにいた。しかし、少年の嘆願に心が動き、結局、単身で故郷へと戻る。署長は今度彼の捕獲に失敗したら、どこかに左遷させられるというので、教会に祈りに行く。もし願いが叶えられれば、ルルドに単身で参詣に行くと誓う。
そのルルドに神父仲間と行くことになっていたサンフランシスコ(オマー・シャリフ)は、死の間際のマヌエラの母から呼ばれ、息子への伝言を頼まれる。無神論者の母親がそうしたのは、神父なら厳戒の病院に入れれてもらえると踏んだからである。サンフランシスコが実は神の法を厳重に守る男であることを知って呼びつけたのかもしれない。映画内ではそれについての言及はないのだが。あとでマヌエラが気をつかって、嘘をつけば、あんたの身は助かる、と諭す場面があるが、神父はウソを決してつけない、と怖る。神父は現世の法と神の法のどちらに従うか悩むが、結局は神の法に従うことを選択する。もちろん神の法とは死の床にあるマヌエラの母親のメッセージを彼に伝えることであり、厳戒態勢を敷く警察の裏をかくことになる。この映画の主題はそこにある。
フランシスコがマヌエラのところにやってきても、なぜ死を賭してまで神父が来るのか? と信じない。マヌエラは「自己犠牲と善意に満ちた人びとが割を食う」と吐露する。
最後、マヌエラが殺され、棺を運ぶ車が動き出そうとしたとき、かなりの数の人びとが集まる。それは過去の英雄の弔いのためだが、もしかして新しい市民の立ち上がりを示すものなのか、それは映像的には定かではない。
白黒の映画だが、黒をうまく使っている。白い町のなかで黒服の神父たちがサッカーに興じているシーンは、その黒の動きが面白い。俯瞰で撮る映像にいいものがある。町の人々を写したのも、印象的である。マヌエラが死の瞬間天井が回り、サッカーボールで遊ぶ少年の顔が一瞬写されるが、面白いモンタージュである。ルルドでは病者の群れが写される。そういう人々を治すという霊験あらたかな聖地ということなのだろう。

監督フレッド・ジンネマン、「地上より永遠に」「ジュリア」「尼僧物語」「真昼の決闘」「ジャッカルの日」を見ている。硬軟とりまぜて撮れる監督である。ミュージカル「オクラホマ」が見たかどうか記憶が定かではない。
原題はBehold a pale horseで聖書の言葉から来ているもので、「蒼ざめた馬を見よ」つまり「死には気を付けろ」だが、マヌエラに向かって言っている言葉といえるだろう。たしかに彼は年老いて、蒼ざめた馬を見る機会も増えているはずだが、最後は勇気を奮い起こして単身の反撃を試みたわけである。

スペイン内戦は複雑な戦争で、市民戦士の中にも共産党系はソ連の指導を受けながら活動していて、ほかの市民戦士に冷たい対応をした。ソ連の教条では、スペインの内戦はまだ革命の段階に至らないものだ、ということで、支援に熱心でないというより、仲間割れを起こすことばかりしていた。内戦に加わったジョージ・オゥエルの共産党嫌いは、そこから来ている。

 

79 原発をとめた裁判長(T)

2014年、大飯原発運転差し止め判決を出した樋口英明とソーラーシェアリングを進める福島の農家、それをつなぐ反原発弁護士かつ経済事案でバブル紳士などを勝訴させた河合弘之の3者を扱っている。河合は、これからの原発訴訟は理論は樋口理論で行き、実践篇は水戸地裁判決(2021年3月、前田英子裁判長)、つまり原発事故で関係人口が避難する計画が実行できるものでないと仮処分(差し止め)にできる、というのを活用しながら進めていく、と言っている。
樋口理論は、原子力会社が設定している各原発の基準地震動のガㇽ数が脆弱なもので、それを超える地震がこの20年で30回以上起きている。住宅メーカーの耐震構造のほうがはるかに安全性が高い。原発のそれが高くて1200ガルのところ、住宅メーカーの建物は5115ガルとか3406ガルに達している。
原子力会社は基準地震動は地中で測るから小さいと強弁するが、地上でも基準地震動より小さい地震はいくらでもある。今までは原子力会社の複雑な技術的な議論に巻き込まれて負けてきたが、ごく単純な理論で決定的なものを樋口元裁判長が見つけた意義は大きい。例によって高裁でひっくり返っているが、樋口氏はその判断を出した裁判官の適性を疑っている。原子力規制委員会がゴーを出したのだから合憲だとの安易な判断をしている点を指している。

ソーラーシェアリングは農地の上にソーラーパネルを設置して売電することをいうが、後継者問題などで耕作放棄地が増えている現状を見れば、そこをソーラーで覆い、電気を売って稼ぎを出しながら、熱暑を避ける効果もあるシステムで、いずれ成長を続ければ原発何十機分に相当する発電力になるという。ぼくはもう20年ほどまえにある人からソーラーシェエリングの話を聞いたことがあるが、広がるのかしら、と懐疑的だったが、印象が変わった。反原発と農業が結びつく。有機への流れを考えれば、当然といえば当然なのである。

 

80  バウンド(D)

ウォシャウスキー姉妹が監督、脚本も同じ。彼女たちは元は男性で、性転換手術を受けて性が変わった。「マトリックス」「クラウド・アトラス」を撮っているが、ぼくは両方見ていない。本作ではレズビアンカップルが犯罪をやり遂げる。娼婦からマフィアの一員である男の情婦となった女(ジャエニファー・ティリー)がなかなかのやり手である。最初は頭の悪そうな演技をしているが。幾度も展開が変わり無理がないのは、彼女の存在を事前にきちんと描いているからである。

 

81 若き獅子たち(D)

不思議な映画である。エドワード・ドミトリク監督で、大作主義の人である。赤狩りで証言拒否を続けたが、結局は同僚などの名を挙げ転向した。アメリカ女性マーガレット(メイ・ブリット)にモーションをかけるドイツ人スキー教師クリスチャン(マーロン・ブランド)。しかし、ナチスを信奉するクリスチャンとは深い仲にはなれない。帰国したマーゲガレットの恋人がマイケル(ディーン・マーチン)、そのマイケルが兵隊検査場で出会ったのがユダヤ人のノア(クリストファー・モンゴメリー)で、その彼女がホープ(ホープ・ラング)である。
クリスチャンはナチスはマイナーな環境にある者に機会を与えてくれる、といって入隊する。そこで経験するのは、ナチスの非道さである。ユダヤ人狩りに反対し、アフリカへと転身させてもらう。その先では、イギリス部隊をせん滅するが、生き残った者まで殺せと言われ、それを拒否する。彼はパリで「威勢をうしなったときに会いに来て」といわれた女性のもとへ行き、「長い旅路だった」と彼女の胸に頭を埋めるが、一夜を過ごした後、また戦場へと戻っていく。
ノアは歌手であるマイケルの開いたパーティに行き、ホープと出会う。ユダヤ人で貧乏な彼を、彼女の父親は受け入れ、夕食に招待する。ノアは軍隊に入り、いじめに遭うが、自分の金を盗んだ屈強な男たち4人と次々喧嘩をし、男を上げ、脱走する。捕まるが、部隊に復帰するなら許す、という上官の言葉に従う。元の同僚たちは、彼が読んでいた『ユリシーズ』をベッドの上に置き、その本の中に盗んだ金を挟んでおいた。それが和解の印である。不正を見逃した先とは別の上官は軍事裁判を受けることになる。きわめて民主的なアメリカ軍が描かれる。
クリスチャンはアフリカで敵襲に遭い、バイクで後ろに上官を乗せ逃げようとするが、爆撃で転倒する。次は病院のシーンで、頭と顔全体を包帯でぐるぐる巻きにされ、口の所だけ空いた男が、その上官である。おれは政治家になる、妻も一緒に頑張ってくれる、と言ってくれている、と言う。隣のベッドの男が死にたがっているいるから、銃剣を調達してくれ、とクリスチャンに頼む。妻への伝言を頼まれたクリスチャンは、一度は寝たことのあるその女の所へ行くが、部屋も汚れ、女も落ちぶれた様子である。かつての輝きはなくなっている。女はまたクリスチャンを誘うが、夫とは縁を切ると言ったし、銃剣で自殺した、とも言う。クリスチャンは怒りに任せてドアを開閉し、外へ出ていく。
クリスチャンはまた戦場へ戻り、仲間をやられ、一人で強制収容所にやってくる。そこで、いまでも5千人を殺せと上層部は無理を言ってくる、いざとなれば責任逃れをする連中だ、俺は命令でやったと連合軍に言うだけだ、と言う所長に愛想を尽かし、とぼとぼと雑木林を歩いてくる。
戦争を嫌い、ショービジネスを続けたかったマイケルは、怖気心を抑えて戦場へと向かい、ノアと落ち合うことになる。ノアは敵に囲まれ、決死の覚悟で敵中を逃げのびたばかりだった。彼らは進軍し、強制収容所にたどり着き、その悲惨な状況を見届ける。囚人のユダヤ人の一人が、幾人かで祈りを捧げさせてほしい、と部隊長に頼むが、そのそばで町長と名乗る男が、ユダヤ人には甘い顔を見せてはならない式のことを言う。部隊長はその町長を怒鳴りつけ、ユダヤ人の行為を認める。ノアはあと、部隊長のような人間が戦後を担っていくんだ、何百万の彼のような人間が、と熱い表情を見せる。
彼らはさらに進んだときに、一人の男が手を上げて小高い斜面を降りて来る。それを撃つマイケル。溝のような泥川に頭を突っ込んで死んでしまうクリスチャン。マイケルとノアは何の表情も見せずに去っていく。最後は、ノアが赤子をあやすホープのいるマンションに戻るところで映画は終わる。

アメリカとドイツをつなぐのは、最初のクリスチャンとマーガレットの出会いだけ。劇も別々に進行し、最後の場面へと至る。ふつうであれば緊張感をなくす構成だが、一心に見入ってしまう魅力がある。場面転換が巧みなのと、クリスチャン、マイケル、ノアの人間的な魅力のせいだろうと思う。苛酷な状況のなかで、なんと彼らは人間的なんだろう。そしてマーガレットもホープも一途に男を愛してすがすがしい。

82 チェルノブイリ1986(D)
美容院に勤める女のところに消防士のアレクセイが現れる。前に付き合っていた男で、突然姿を消したが、じつは子どもが残されていた。その贖罪のために、原子炉爆発を目撃して被爆した息子のために、危険な作業(地下の水を抜かないと、溶融ウランが落ちてきて大爆発する。そのために60度の熱湯をくぐり、数百レムの環境のなかへ踏み込んで行き、バブルを開けにいく)に志願し、医学先進国のスイスに行ける特別待遇を息子に与える。しかし、本人は強度の被爆で亡くなり、息子は3カ月後に元気になって戻ってくる。全身が赤剥くれのアレクセイの傍らに防御服を脱いで横たわる彼女。危機や切迫の場面で、高音のバイオリンが効いている。最後に、英雄に捧げるとクレジットが出るが、さてそういう趣旨の映画だったか。それにしても、細部まで含めてよく描かれている。フクシマでこういう映画は作られるだろうか。

 

83  スティル・ウォーター(D)

マット・ディモン主演、舞台はマルセイユ。娘が突然マルセイユに行き、そこで犯罪者として刑務所に。同性の恋人を殺したという容疑だ。それを晴らすためにディモンは同地に住み、ある母子と暮らすことに。娘は父親は根っからの屑だと言い、自分も同じだと言う。その意味はいずれ分かることに。おそらくこの親子には、歯止めが利かない部分が共通にあるのだろう。それにしても、ディモンが父親役をやるなんて! トム・マッカーシー監督で、「スポットライト」で米アカデミー賞脚本賞を獲っている。マルセイユの親子との交情など、じつにゆっくり撮っていて好感であるが、いくつか大きな疑問点がある。

 

84  あちらにいる鬼(T)

監督広木隆一、脚本荒井晴彦、原作井上荒野井上光晴瀬戸内晴美の交情を描くが、井上の妻が達観しているので、大きな葛藤は起きない。いったい鬼などこの映画には出てこない。豊川悦司寺島しのぶ広末涼子。それにしても、次々と女に手を出し、子どもまで産ませて平気な男とはどういう男なのか。60年代後半を背景にしているが、テレビ画面に映った学生運動か、突然バーに飛び込んできた2人のデモ学生でしかない。井上は三島を内臓から腐っていると称したようだが、いまと見れば浅薄のそしりを免れないのではないか。ぼくは「地の群れ」を読み出して、ほぼ冒頭で止めてしまった不実な読者である。しかし、すこぶる文章のうまい人だという印象を抱いた。そして、手術台に横たわり内臓をさらけだす姿まで撮った原一男の「全身小説家」である。女たちが惚れたのは、そのだめさ加減の徹底性かもしれないが、好きになれるタイプではない。

 

85 メニュー(T)

どうしようもない映画である。主催者のシェフと招待客の関係がきちんと描かれない。客は異常事態にパニックにもならない。シェフの部屋に秘密などない、主演はネットフリックスでチェスの世界チャンピオンとなった女性を描いた「クイーン・ギャンビット」のアニヤ・テイラー・ジョイである。

 

86 アポロンの地獄(T)

パゾリーニ特集である。はるか昔に見て、今回が2回目だが、印象はさほど変わらない。それはそれですごいことだ。ただ、キリスト教以前の、まるでアフリカの宗教祭祀かと思うような意匠に、そりゃそうか、と思った次第。神の予言であれば、どうしたってその陥穽にはまるしかない。ただ、ギリシャの神々って、そんなに厳しい神だったのだろうか。音楽に高い音の笛が使われているが、神楽を用いたようだ。

 

87 危険な関係(D)

1988年の作、監督スティーブン・フリアーズ、この監督の映画を見たことがない。陰謀家の夫人をグレン・クローズ、その下で愛を弄ぶドン・ファンを演じるジョン・マルコビッチ、彼に籠絡されるが純愛を捧げる婦人にミシェル・ファイファー、貧しき音楽教師にキアヌ・リーブス、その恋人にユマ・サーマン。物語は宮廷音楽に乗って軽やかに、場面転換も鮮やかに進む。最後、決闘のシーンで自らの最愛の人を裏切ったことに気づいてマルコビッチはキアヌの刃にわざと倒れる。政略結婚などが当り前にある世界では、不倫などいかほどの罪でもない。それにしてもキリスト教の縛りはほとんどなかったのではないか、と思われてくる。

 

88 ザリガニの鳴くところ(T)

年末にやっと映画らしい映画に出合えた。動物学者ディーリア・オーエンズのベストセラーのミステリー小説が原作。女優リース・ウィザースプーンがプロデュースし、自分の制作会社ハロー・サンシャインを通して小説の映画化権を取得。

映像もきれいで、筋もいいし、役者もいい。不満は謎ときにあるが、それを無視してもいいと思うようなできだ。最初に大きなワシのような鳥を後ろから追い、それから上から撮って、最後は枝に停まるまでを写す。もうここだけでぼくはやられている。楽園のような湿地帯で過ごす平和な家庭は父親の暴力によって破壊され、少女一人が取り残される。村の人間からは差別され、学校にも行かず、文字はやがて恋人となる青年から教わり、母親譲りの画才を発揮して、森の生物の絵本作家となる。青年とピクニックに行った先で、白鳥のような鳥が群れをなして彼らの近くの淵に舞い降りる。その奇跡的な美しさ! 青年は大学へ行くために村を離れるが、彼女との約束を破り、戻ってこない。やがて金持ちの息子が彼女に言い寄り、しだいに深い関係を結ぶが、彼は森の鉄塔から何者かに突き落とされたのか、塔の下で死んでいた。交際のあった彼女が犯人とされ、法廷劇が進行するが、その合間にその死んだ男との交情なども描かれる。こういういい映画を語る言葉を知らないのが、とても残念だ。監督オリヴィア・ニューマン、主演デイジーエドガー・ジョーンズ、主題歌「キャロライン」はテイラー・スイフト

 

89 真昼の暗黒(D)

今井正監督、橋本忍脚本、八海(やかい、映画では三原橋)事件の冤罪を扱ったものである。老夫婦殺害は単独犯だったが、妻を梁にかけて自殺に見せかけたりしたため、警察の見込みでは複数犯。そこで早々と自供した犯人に減刑を条件に、共同殺人の4人の名を挙げさせた。アリバイ、時間的な整合性などいくつもの無理があるのに、司法は死刑と無期懲役の判決を翻さない。映画は高裁判決で終わりであるが、最高裁で審議やり直しの判決が出て、高裁で単独犯の判決が出て、検察が控訴、最高裁無罪の経過をたどった。結審までに16を経ている。

この映画製作は被告4人の無罪を信じて、まだ係争中なのに作られたという点で珍しいという。司法から映画製作に関して圧力があったというが、言語同断のことである。監督とプロデューサーは被告が有罪であれば、映画界から身を退く覚悟だったという。脚本の橋本忍が資料を読み込むうちに無罪と確信しり、その線で映画は作られるべきと主張し、監督、プロデューサーも決意を固めたといういきさつがある。

 

90 無双の鉄拳(S)

久しぶりに韓国映画らしい映画を見た。ノワールとアクションと狂気とユーモアである。縦長の廊下での格闘シーンには「オールドボーイ」へのオマージュもあるだろう。監督、脚本キム・ミンホ、ざっと調べたところでは、この作品しか撮っていないようだ。2019年の作。

主演マ・ドンソクはもと荒くれ者。ぼくは彼の映画は2作目だが、表情が豊かで、ただの筋肉俳優でないことがよく分かる。彼を誠意で立ち直させた妻がソン・ジヒョ、やはり韓国の女優の典型のような感じがする。芯が強くて、そして優しくて。「アジョシ」で登場した韓国の異常かつユーモアを忘れない犯罪者の系譜を継ぐのがキム・ソンオ、この悪役でこの映画は成り立っている。そのアジョシで異常な犯罪者兄弟を演じたキム・ミンジェが剽軽ながら腕が確かな私立探偵を演じ、最初からおかしなカツラをかぶって、独特な味を出している。ドンソクの市場の同僚かつ彼を兄貴と慕うのがパク・ファフン。26歳という設定だが、どう見ても60は超えているだろう。つくづく思うのは、映画は脇役でもっているということである。

 

92 ジョン・レノン(T)

過去の映像と取材映像をつなぐドキュメント。レノンの父は遠洋漁業などでしばらく帰ってこない。母ジュリアはその間に男をつくり、そのあとも恋人が絶えない。レノンは叔母のもとに預けられ、たまに母に会う生活である。リバプールアイルランドからの移住者が多いといい、彼の家系もそれである。あと黒人奴隷貿易のまちとしてぼくなどは記憶するが。

レノンに「マザー」という悲痛な声で歌う曲がある。あるいは「ジュリア」と呼びかける歌もある。彼の好きな歌として挙げる「ヘルプ」はじつは元はスローな曲で、それがなかなかいいのである。ドイツハンブルグへのライブツアー、といっても小さなライブクラブである。マネージャーのブライアン・エプスタインがついて、彼らの服装や髪形まで変えてメジャーデビューをさせたが、レノンは「ハンブルグのあと、すべてはもう終わっていた」と醒めたことを言っている。

 

 

 

 

 

 

2022年の映画

 

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根津美術館

昨年見た映画で一番は「MINAMATA」だった。いま原一男水俣も掛かっている。6時間の大作で、こちらの腰が引ける。そこをMINAMATAは回避させてくれた、という思いがある。音楽の変化でスピーディに映画の方向性を見せたのもよかった。ユージン・スミスを英雄にしなかったことは評価すべきである。初めて彼が水俣に泊まった翌朝の、室内を満たす水色の美しさには息を呑んだ。こんな色彩を日本の家屋内で見たことがない。チッソ社長が単独で和解案を呑むところなど、どうもウソっぽいが、ぼくは史実を知らないので何ともいえない。ぼくの好みの映画としては「一秒先の彼女」、台湾のチェン・ユーシン監督である。ユーモアと哀しさと知的な香りがする。「天才スピヴェット(フランス映画)」「アメリ(同監督、フランス映画)」「ジョジョラビット(アメリカ映画、だけどヨーロッパっぽい)」「ライフ・アズ・ア・ドッグ(スウェーデン映画)」アスファルト(フランス映画)」などが同じ系列である。賞を獲った「スパイの妻」も、松竹100周年記念の「キネマの神様」もいただけない。製作側に緊張感がないとしか思えない。007も最悪だったし、ステイサムの最新作もひどかった。今年はさてどんな出合いがあるのか。

 

1 メア・オブ・イーストタウン(S)

UNEXTの7話完結である。ケイト・ウインスレット主演、客演ガイ・ピアース、ジュリアン・ニコルソン、アンガウリー・ライスなど。ガイ・ピアースの扱いが軽いのが気になる。たしかに軽薄な男の役ではあるが。ある小さな町で3件の若い女性の殺人事件が起きる。いくつもわざとらしい迷走の仕掛けをつくり、最後までもっていく。筋書き上、これはおかしいと思われる部分がある。なぜそんな当たり前のことを処理しておかないのだろう。ジュリアン・ニコルソンがシャリー・マクレーンに似ていてグッド。アイ・トーーニャで見ている。ケイト・ウインスレットは中年のアメリカのおばさんになっている。

 

2 ドライブ・マイ・カー(T)

評判の映画で、映画館はコロナ席ではなく満員。2時間50分だが、見ていることができる。ここ最近、なにも起きない淡々とした映画流行りの感じだが、この映画もそれに近い。監督濱口竜介、脚本同、大江崇光。

 

いくつかの疑問がある。演出がおかしいと思うものと、おそらく脚本がおかしいものとの2つがあるように思う。

まずは演出。舞台劇「ワーニャ伯父さん」のキャスティングが決まったあと、広島市の芸術館(?)のアシスタント的な韓国人が「家に来てください、謝らないといけないことがある」と劇演出家の家福(かふくと読む。何でこのネーミングなのか。西島秀俊が演じる)に言う。家に着くとオーディションで合格させた吃音の女優がいた。じつは妻であるという。「なぜ応募したのか」と聞くと、流産して迷いのなかにいたが自分を試したかった式のことを手話で言う。隣で聞いていた夫が驚いたような顔をするが、それはおかしいのではないか。流産は夫婦の経験である。悲しみに沈む妻を見ていて、そのチャレンジの動機を知らないなんてことがあるのか。

もう一つは、最後の舞台劇の本番の場面、手話でソフィァがワーニャ伯父さんに人生の意味を説くが、その時間が長すぎる。引きの絵になると余計である。そういうことは厭わない監督のようだが、やはり見ていて辛い。

3つ目の問題は、冒頭にある(これは脚本の問題の可能性がある)。海外に劇のディレクションで出かけようとするが、成田空港で先方からメールが入り、遅延のため空港近くで待機せよ、という。家福は家に戻るが、そこで妻・音の不倫を目撃する。そのまま家福は外に出る。夜、妻とネット会話をするが、妻は夫が外国にいると思って会話をする(家福は成田のホテルに泊まっている)。次のシーン、家福が交通事故を起こし、病院に運ばれ、妻がやってくる。ぼくはこれを翌朝のことだと思ったので、なぜ妻は夫に海外に行かず日本にいるのか、と問いたださないのかと思った。じつは海外の仕事がすんで、また成田から家に戻ろうとした矢先に事故ったということのようだ。ここはもう少し分かりやすく説明すべきだったのではないか。蛇足だが、多摩ナンバーのクルマでわざわざ成田から帰るか? 

脚本に関して。妻・音は子を4歳で亡くして迷走のなかにいるが、セックスの最中に物語を語り出すようになる。次の朝には忘れているので、夫がそれを思い出し、書き留め、妻に語り、妻はそれを基にTVドラマ脚本を起こすようになった。しかし、この説明はだいぶ映画が進行してからなされることで、劇の冒頭では二人のやりとりの意味が分からない。セックスの最中に語っていたのは妻なのに、翌朝には夫が物語り、妻がその話を聞いているからである。どうせ後で分かるから説明は省くということなのかもしれないが、不親切といわざるをえない。

 

さらに脚本に関して。ワーニャ伯父さん役に抜擢された高槻耕史(岡田将生)は音と不倫の関係にあった。家福が見届けたのも高槻のようだ。どうやら音はTV脚本を書くたびに、主役の男性役者と肉体関係に入るらしい。そのことを家福は知っていた。高槻は家福に「自分の心を深く見つめないと、人のことなど分からない」と分かったようなことを言う。そういう人物が自らのコントールが利かない人間であることを彼自身も、ほかの人間も知っている。あげくに高槻は衝動で人殺しまでやってしまう。そんな高槻になぜ訳知りのセリフなど言わせるのか。これは明らかに間違いである。

 

全体の構造とも関わることだが、ワーニャ伯父さんの配役を演じるのは英語を喋る中国人や聾唖者、何語だか分からない言葉を喋る人間、そして日本人などである。これは何を表現しようとしているのか。淡々と劇のトレーニングは進むから、ディスコミュニケーションが主題ではない。異言語の外国人を一つの劇に編み上げていく苦労が表現されるわけでもない。日本語と異言語がただ並列しているだけだ。あるいは、古典の枠さえあれば、異言語が飛び交っても問題ない、と言いたいのか。いずれにしろ、劇中劇の狙いが見えない。それと、家福は海外に呼ばれて演出するほどの人だが、どうも英語はそれほどの使い手ではない。もっと西島に英語のセリフを喋らせて、有能ぶりを際立たせるべきだったのではないか。それと延々と出演者に脚本の棒読みをさせる意味がいま一つ分かりにくい。セリフが自分の体に入っていないのに、それを演技に移してもちぐはぐなものになる、ということのようだが、その齟齬の様を中国人女と高槻のやりとりで見せるわけだが、どうも説得性を感じない。この監督はふだんからそういうメソッドで劇を作り上げていく人らしいが、観客への説得性は弱い。

 

演出でいいなと思うのは、いずれもセックス絡みである。音が騎上位で見せる呆然とした、狂気を孕んだような瞳は今までの映画で見たことのないものである。妻が上で果てたあと、下にいる夫の目の中央に光が来るようになっていて、その目の表情が虚無を通り越したような感じに見える。

 

音は、朝出かけようとする夫に、今夜話があるの、と切り出す。夫は軽く受けるが、帰宅は遅くなってから。家の中が暗く、音が倒れている。救急車を呼ぶが脳溢血で死亡。いったい妻は何を言おうとしていたのか。夫はそれを聞けば、すべてが瓦解するのではないかとおびえ、帰れなかったのである。おそらくその予感は当たっていたのではないか。夫の頸木から逃れないと、音はいつまでも自立ができない。家福は虚無のような男で、妻が言い出し自分も認めた次の子どもを持たない選択も、妻の不倫もすべて「愛」の名で呑みこんでしまう。それこそが、音を迷わせるものではないか。妻の不倫のセックスはそこからの離脱の予行演習だったのではないか。家福には家に福を呼ぶ才能が欠けている? あとで彼は、もっと妻に本音を言うべきだったと反省の言葉を吐くが、まさに異言語でも葛藤が起きないのと同じように、彼は妻との問題もすべて呑みこんで葛藤を殺して生きていたのである。

 

もう一つこの映画では家福と雇われドライバー渡利の関係が見えにくい。プロフェッショナルであることへの尊敬から始まり、そのストイックな姿勢の背後にある悲惨な過去に興味をもつことまでは分かるが、高槻の犯罪露見で興行の中止か実行かが迫られるなかで、なぜに急に彼女の故郷へ行こうと言い出したのか。それも広島から北海道へのドライビング。何年もまえに土石流で潰れた渡利の実家の残骸のまえで、2人は自らの過去を赦すという心理に至る。ここでの家福のセリフはかなり臭い。ありえる解釈としては、家福が渡利に「もし君がぼくの娘なら」と言うセリフがあるが、失ったわが娘の未来を救い、同時に自分も癒される、ということなのか。そうでも考えないと、差し迫ったなかでのこの北海道へのドライビングの意味が分からない。

ラスト、ドライバーは相変わらず家福のクルマSAABを運転し、ハングル名前のスーパーにやってきて、ハングル語でレジ係と会話をする。そのクルマに、広島でアシスタント的な役割をした韓国人の犬が乗っている。さて、これはどういうことになったのであろう。まったくシチュエーションが分からない。これもまた脚本のせいかもしれない。

 

3 リトルシングズ(S)

デンゼル・ワシントンなのに日本未公開。客演ラミ・マレック。ワシントンがお年を召された。煮え切らないというか後味が悪いというか、なんでこんな映画を撮ってしまうのだろうか。

 

4 クライマッチョ(T)

イーストウッド40作目だそうで、慶賀に堪えない。「ミスティックリバー」冒頭10分ほどで登場人物の現在の姿を鮮やかに描き出し、忌まわしい彼ら仲間たちを襲った悲劇へとスマートに連続する手際は見事というしかなかった。それは抑制されたシンプルさであった。今作はシンプルではあるのだが、背後にあるべき熱量が落ちたためにシンボルだけが羅列される感じなのである。名うてのロディオ乗りだった男の名声は、壁に張られた賞状や記事で代替され、依頼で向かったメキシコは国境のゲートに掲げられた文字で表記される。すべてがクリシェである。
反抗期の、だれの意見も聞かない、神出鬼没のガキはすぐに見つかり、ごく素直にロデオ男に付いてくる。その子のアバズレの母親が口を酸っぱく悪童ぶりを吹いたにもかかわらずである。彼ら二人のトラベル・オンザロードを追うのはたった一人の、鼻へのパンチ一つで怯むような男である。劇が生まれようがない。薹が立ったメキシコ女に惚れられ、依頼仕事が終わったあと主人公がそこに戻るのが見え見えである。異様な「チェンジリング」という作品を撮ったイーストウッドはもういない。冒頭べたべたのカントリーで始まり、すぐに場面が変わって静かなピアノ曲に落ち着き、メキシコでは熱情溢れる民族調音楽へと変わるわけだが、そのご都合主義をどう言おうか。

 

5 CODA(T)

ぼくは歌ものに弱い。冒頭、主人公が自転車を漕いでいるだけで泣けてくる。てっきり北欧あたりの映画だと思っていたが、マサチューセッツ州ボストンがそう遠くない港町の話だ。両親と兄が聾唖者で、一人だけ末娘が健常者、しかも歌がうまい。小さな漁船の上で声を張り上げて歌っている。彼女は3人に欠かせない翻訳者という役回りである。教師のサポートでバークリー音楽大学奨学金で進むことに。しかし、週1回の練習にも仕事で間に合わないことがあり、なかなか進歩しない。そんな彼女に、友達にいわれた「変な喋り方のときの声」を出すように言い、その荒々しさが残った声に魅了される。オーディションで歌うのはジョニー・ミッチェル「青春の光と影」、バークリーはポピュラーソングでも入れるのか。学校の発表会で彼氏とデュエットしたときに、音を消し、両親と兄が回りの人の反応を見て、彼女の歌が受け入れられているか確かめる面白い演出をする。「ドライブ・マイ・カー」で啞者の演技を取り入れていたのと比べれば、当然ながら話せない、聴けないひとの必然性が描かれていた。父親を演じた人は実際に啞者、母と兄は聾者で、テレビで活躍をしている。アメリカにはそういう活躍の場があるということか。主人公の恋人役をフェルディア・ウォルシュ・ピーロが演じ、彼は「シング・ストリート 未来へのうた」でぼくは見ている。主役エミリア・ジョーンズは初めて見るが、いろいろ作品に出ている。サンダンス映画祭で4冠である。ジョニ・ミッチェルのBoth Sides Nowが印象的に歌われる。

 

6  21ブリッジ(S)

麻薬の強盗事件でマンハッタンにかかる21の橋を封鎖、もっと橋との絡みが出てくると思ったが、そうではない。主演のチャドウィック・ポーズマンは「マ・レイニーのブラックボトム」で見ている。43歳で死去。妙な寂しさと色気のある男優さんである。監督ブライアン・カークはTV畑の監督らしい。

 

7 友よ、静かに瞑れ(S)

角川が大作路線から離れてプログラムピクチャー的な映画作りに入ったときの作品。崔洋一監督、脚本丸山昇一。主演藤竜也、客演倍賞美津子原田芳雄、室田日出夫、佐藤慶、宮川順子など。沖縄キャンプシュワブの近く、もしかしたら辺野古が舞台か。開発業者(佐藤慶)が土地を買い上げているが、一人だけ立ち退きを認めない男(林隆三)がいる。それが新藤(藤竜也)の大学からの友人で、開発業者に果物ナイフで切りつけようとしたということで警察に収監されている。藤はドクターで、何か致命的なミスで大学病院を追われ、いまは船舶のドクターを務めている。余命3カ月の友を助けにやってくる。原田は開発業者の用心棒、室田は業者とつるんだ刑事。友の林は曖昧ホテルを経営し、そこに数人の商売女たちがたむろしている。

前半部に、女たちの会話に語りめいた歌がかぶさったり、原田と藤が海岸沿いをこちらに向かって歩き、こちらからあちらへ数人のジャージ姿の男たちがランニングで2人をすれ違うが、交互に彼らを映し出す、といった演出をしている。中身に入り出すと、そういう小細工は少なくなっていく。うだるような暑さのなかで、ハードボイルドが進行するという感じにはならない。せっかく原作と舞台を変えたのだから、そこはやってほしい。ホテルの1階がスペースが広く、そのセッティングはグッド。もっとあくどい連中と戦うのでないと面白くない。北方健三原作。

 

8 愛情物語(S)

角川のミュージカルである。冒頭から踊りが始まる。セットは「ウエストサイド」で、設定は「スリラー」である。カメラがもっと動かないとダメである。カット割りも細かく入れる必要がある。バーに流れ込んで踊るが、決められた動作をするだけで、切れがない。そのあと、原田知世がビルのフラットで踊りを練習するシーンがあるが、「フラッシュダンス」である。しかし、手の動き、身体のしなり、もっと練習してから撮るべきだったのでは。ここで驚かせてほしい場面である。残念だが、最後まで見ることができなかった。義母役の倍賞美津子が力が抜けていてグッド。

 

9 メイド・イン・マンハッタン(S)

このmaidにはmadeがあるのではないか。マンハッタンの名門ホテルのメイドが、上院議員候補2世と恋に落ちるmade affairs からである。ジェニファー・ロペスとクリフ・ファインズ主演、客演がスタンリー・トウッチ(秘書役)、ホテルの上司ボブ・ホスキンス(これが渋い)、黒人の上司ルー・ファーガソン(これも温情溢れていていい)、あと子ども役がタイラー・ポシー(素直で、賢くて、余裕があってグッド。テレビの役者として活躍しているようだ)、それにロペスを囲む同僚たちがいい。子どもが冒頭からニクソン好きを披露したり、独特な感じが面白い。母親と2世議員の仲直りをさせるきっかけとなった質問がいい。「あなたは人の間違いを許せるか。許せないなら大統領も政治家もいなくなる」。この子でこの映画は成功した。監督ウェイン・ワン、名作「スモーク」の監督であり、2019年の時点で24作撮っている。

 

10 アンチャーテッド(T)

地図になし、という意味だが、ひたすら地図の意味を読み解くことになる。インディ・ジョーンズへのオマージュ、そして海賊カリビアン(予告編しか見たことがないが)へのそれ。ただ一か所、このご都合主義はちょっと、というのがあるが、全体ものすごく楽しめた。脇の女優がもっと魅力的ならもっといいのだが。ラストのおまけの意味がよく分からん。続き、ってこと? それなら見ます。主演のトム・ホランドスパイダーマンに出ているらしい。ぼくなど20年前のトビー・マグワイアで止まっている。マイケル・ウォーバーグが脇に回っているが、もうそういう年なのかもしれないが、いつもの彼がそこにいて納得。ヘリでマゼランの帆船を吊るなんて、ありえるのだろうか?

 

10 ブラックボックス(T)

複雑な話だが、最後までじっと見続けた。飛行機事故の原因を探る調査員が主人公、彼は最初アラブ過激派の犯行と考え、マスコミにも発表する。不可解なのは、事故現場に向かった上長が姿を消したことである。彼はその跡を継いで捜査に当たることになったのである。自らが出した結論に疑いを持ち始め、どんどん解明にのめり込んでいくが、過去に間違った判断をしたことがあって、周囲は彼の精神状態に疑いを持つようになる。設定にいくつか疑問が残る。上長の行動と時間の問題、主人公のクルマのAI化の問題である。監督ヤン・ゴスラン、主演ピエール・ニネ、客演ルー・ドゥ・ラージュ(妻役で、少し口のあたりがジェーン・フォンダに似ている)。

 

11 吠える犬は噛まない(S)

さすがポン・ジュノと言いたい。貧困を扱ったということでいえば、「パラサイト」よりこっちである。しかも、ごく自然に溶かし切っている。貯えのない助教授(イ・ソンジェ)が、なけなしのカネを工面して、学長に取り入ろうと決意する。彼は教え子の学生に飲み会で足の出た分を出してもらっている。彼の妻は妊娠を機に、11年勤めた会社をごく少ない退職金で馘首される。同じく彼の住む巨大団地の管理事務所に勤める女性(準主役ペ・ドゥナ)は、頻繁に外出するというので馘首。連続して団地で住人の飼い犬が失踪するが、「貧乏で暇な大学院生の仕業ではないか」とドゥナは疑う。

ソンジェは将来展望が開けず鬱屈した状態にあり、団地にこだまする犬の鳴き声に苛立ち、1匹目は殺そうとして失敗(地下室の廃棄された箪笥に隠しておいたが、管理人に見つかり、鍋にして食われてしまう)、2匹目は団地屋上から投棄し、3匹目は自分の妻が買ってきた犬を誰かに盗まれてしまう(あとで地下室に住まう浮浪者の仕業だと分かる)。しかし、彼がなぜ犬を殺すほどに執着したのかは、動機がきっちりと描かれているわけではない。

 

主人公、その妻、彼らが住む団地の管理人、地下室に住む浮浪者、高級犬をかわいがる老婦、そしてペ・ドゥナと彼女の友人の文房具屋の太った女、いずれもキャラクターがきちんと立っていて、見事である。妊娠妻はソンジェにくるみの殻を割らせ、忘れた買い物があるからとコンビニまで戻らせる。ソンジェが賄賂の工面に頭を抱えているのに、妻は高級犬を買ってくる。散歩の途中でソンジェは犬を失ってしまう。遅くまで探すが見つからない。妻がそれを非難し、金づちを夫の腿に投げつける。夫は怒りに燃え、その金づちをベランダの窓に叩きつける。そこで妻は、首になったこと、安い値段でその犬を買ったこと、自分のために贅沢などしたことなどない、残りの退職金は賄賂に回すつもりだった、と言う。夫はひと晩徹夜して、団地のまわりのあちこちに犬探索のビラ張りをする。

途中で挟まれる何気ないシークエンスも後できちんと回収される。全体の運びに余裕があり、とくに夫婦のやりとりの他に、ペ・ドゥナと女友達との交流が丁寧に積み重ねられる。

これはいいな、というシーンがある。ドゥナが屋上で浮浪者を見つけ、彼がソンジェの犬を食おうとしているのを阻止しようと立ち上がったときに、向こうに見える建物の上で、ドゥナと同じ黄色い服を着たたくさんの人びとがエールを上げ(声は聞こえないが)、紙吹雪を散らすシーンである。イリュージョンなのだが、これがポン・ジュノのすごいところである。ただ、その浮浪者が彼女を襲うようでそうでもない、といった中途半端さで描かれる。逮捕された映像から、男に精神障害があったことが暗示されるが、違和感がある。

懐かしいのは、文房具屋のセットである。所狭しと壁に、床に物が詰め込まれていて、「グエムル」の川辺の小さな小屋を思い出させる。そのごく狭いスペースでドゥナと太った女がインスタントラーメンを大きな鍋から食べ終え、お互いを押し出し、かぶさるようにして寝転がる。

映像的にも、いくつも遊びをやっている。冒頭のシーンとラスト近くのシーンが同じである。大きな窓枠の中に背中を向けたソンジェがいる。彼の向こうには緑が見える。冒頭は助教授のソンジェで、ラスト近くは教授になったソンジェである。そのラストのソンジェの後姿のあとにドゥナの後ろ姿が写される。やはりその彼女の前方にも緑の森が見える。

ソンジェの妻が高級犬を買って帰り、いつものように夫にクルミの殻を剥くようにと、その袋を床に落とすシーンがある。その落下の視線と合わせて、病院にいるドゥナに切り替わり、彼女の下向きの視線からベッドに横たわる老婦を写しだす。視線流しという撮影法があるが、それの変化形である。

 

きれいに後で話が回収されるのは、電車のなかで座席に座る人々の膝にチラシを配り置く老婆の件である。ソンジェはその紙をポケットにねじ込むだけだが、さまざまなことを経験したあと、学長への賄賂金を入れたケーキ箱を膝に置いて座席に座っていると、その老婆がやってくる。その文面には、老婆が夫を亡くし、自分も肺病である、と書かれている(これも貧困格差の一例である)。ソンジェはケーキの箱の下隅から手を入れ、お札を1枚引っ張り出し、その老婆に渡す。なかなかいいシーンである。

 

蛇足をいえば、ソンジェ夫婦のラストの2人並ぶ寝姿は、クリムトの「接吻」とそっくりである。首と身体が釘のように曲がっているのである。ぼくは是枝の「空気人形」でペ・ドゥナを見て、さして感慨を覚えなかったが、本作からは彼女のよさの秘密が分かった気がした。天然で、よこしまなところがなく、正義感にあふれ、そしてぼーっとしている。そのキャラクターがよく表現されている。

大団地をロングで正面から撮り、何階だかに人がいるという設定は、2、3年前の秀作「ハチドリ」でも踏襲されていた。パクリなのかどうかは分からないが、その映像に迫力がある点は共通している。

 

12 クーリエ(S)

ビジネスマンがソ連の最高機密を運ぶことになる。主演ベネディクト・カンバーバッチ、その妻役にジェシー・バックリー(ツゥェルガーの「ジュディ」で英国側秘書をやっていた)。カンバーバッチが俗な商売人と家庭人を演じ、しかもスパイ容疑で捕まったあとも罪状認否しない固いところも見せる。新境地ではないだろうか。監督ドミニック・クック(芝居畑である)、脚本トム・オコナー。一介のビジネスマンがキューバ危機を救ったことになる。もちろんソ連側の科学者も協力したわけだが(彼は処刑される)。カンバーバッチはいまアカデミー賞作品賞ノミネート「Power of the Dog」で主演である。有力候補である。

 

13 Mr.ノーバディ(S)

ジョン・ウィック制作陣による格闘ものである。ほぼそれをなぞっている。現役を家族のために(ウィックは妻のため)引退した伝説の殺し屋(本作はFBIの汚れ仕事一切を引き受けていた“会計士”である)が、ごくささいなこと(ウィックでは犬、本作では猫の人形)だが、自分にとって大事なことで前線に復帰する。ナイフ、格闘技を駆使し、ピストルも巧みである。ウィックは金貨を持ち、本作は金の延べ棒を使う。敵の資金である紙幣を焼き尽くすのも同じ。素晴らしいジョン・ウィックのシリーズを作った連中のやることか、と思う。最後、高齢の父親、FBIの元仲間が参戦するのが、ウィックとは違ってはいるが。ニーナ・シモンのDon’t Let me be understoodが冒頭に流されるが、これは懐かしく、こころが震えた。

 

14 裸足で散歩(S)

レッドフォード、ジェイン・フォンダ主演、監督ジーン・サックス、脚本ニール・サイモン。熱烈な愛を注ぐ新妻が風変わりな隣人と親しむうちに、わが夫の四角四面な感じに反感を覚え、離婚を考える。しかし、母親のアドバイスで思い留まる。かなり無理な運びで、見所は主演2人がときにアドリブような表情を見せるところだ。原題はBay Foot in the Parkで、ほぼラストにそのままのシーンがある。ジェインに下着姿にさせたり、シャツだけの姿にさせたりしている。最初、そういう女優だったのである。ぼくはエリオット・グールドと出た「コールガール」が最初である。この映画の2年後である。お年を召されて美しくなられたのではないか。出演作が却って多くなる。

 

15 ゴヤの名画と優しい泥棒(T)

ケン・ローチのダニエル・ブレイクのような人物が主人公、どうもこの種のマッドで、政治的頑固爺いを扱った映画が日本にない。盗む、だます、という映画が日本に少ないが、ここ最近、嘘八百、コンフィデンスと続き、慶賀にたえない。
この映画の主人公、テレビは高齢者の孤独をいやすものだ、というので、税金の取られるBBCだけコード(?)を外して視聴するが、見つかり2週間ほど収監される。それでも街頭で署名集めを息子とするほど徹底している。ふだんはまったく売れない戯曲を書いては版元やテレビ局に送りつけている。
せっかく見つけたパン工場の仕事も、同僚のパキスタン人をかばったことで解雇になる。話題の名画を盗み、結局をそれを返すことに。盗んだ理由は、その脅し金(あるいは報奨金?)でテレビ視聴のできる老人家庭を増やすことにあった。裁判での当意即妙を超えたイギリス式ユーモアに廷内は笑いの渦に。主人公をジム・ブロードベント、妻役がヘレン・ミレン。「第一容疑者シリーズ」で強くへこたれない刑事を演じ、彼女をずっとそのイメージを引きずりながら見ていたぼくは、この貧しい家庭のごく普通の主婦を演じる姿に脱帽である(彼女の映画は10本は見ている)。

 

16 ウエスト・サイド・ストーリー(T)

スピルバーグ監督、リタ・モレノが総指揮(お婆さんとなって出ている)、主演アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグナー。ぼくは前の作品はリバイバルで見ているが、それでもだいぶ前のことだ。ナタリー・ウッドがきれいだったこと。ジョージ・チャキリスはその後、ぱっとしなかった記憶だが、フィルモグラフィーを見ると、それなりに出演を果たしていたようだ。コリオグラファーはジェローム・ロビンソンで、スピルバーグと共同監督となっている。非常に快調に進むが、殺人事件のあと恋するマリアの設定でひとくさりあり、それから事件処理のあれこれと続くが、緊張感がほぐれてしまって、けっこうつらい。演出的に処理をするか、あるいはこのシークエンスはカットしたほうがいいのではないか。歌い、踊り出すまえに何かしら音による合図があって、自然とそこに入っていく工夫がしてある。トニーという男があまりに軽率で、感情移入が難しい。まえはちっともそんなことは思わなかったのに。この3月1日現在で7225万ドルの売上である。日ごとのボックスオフィス(Box Office Mojo by IMDbPro)が公表されているが、かなり日によって波が大きい作品である。100億は届かないか?しばらく続くミュージカルブームをうまく掴んだということになる。脚本のトニー・クシュナーは舞台人らしく、映画はスピルバーグリンカーン」「ミュンヘン」の脚本を書いている。

 

17  フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ カンザス・イブニングサン別冊(T)

あれあれと楽しんでいるうちに終わった。おそらくネットでもう1回見ることになる。冒頭、レア・セドウが絵のモデルとなって全裸だが(ティルダ・スウイントンのヌードまである)、これは合成ではないのか。というのはお尻がかなり大きいのと、制服を着たときの小作りの感じからいって、全体の質量が違うのである。彼女はすでにヌードの実績があるわけだから考えられなくもないが(ぼくはそのレスビアンの映画も、そして青春の痛さを描いたものも見ていない。その種の作品は、ぼくには正視に堪えないのである)、そんなに安売りする理由も見当たらないし、そういうことをしてほしくないという思いが強い。ベニチオ・デル・トロが狂人で殺人者という設定だが、彼の描く抽象画が、本当に女性のヌードに見えてくるから不思議である。カンザスの田舎にあるフレンチ・ディスパッチ(メキシコのローマみたいなものか)という新聞のコラムニストたちの記事から一篇を仕立てるという構造になっているが、後半になると、どれがどれだか訳が分からなくなる。別にそれで構わないのだが。こういう映画もないと寂しい、そう思える。編集長はビル・マーレィが演じているが、少しみぐしが少なくなった。ぼくはウェス・アンダーソンは3作(ロイヤルテネンバウム、ライフ・アクアティックダージリン急行)しか見ていない。「グランド・ブダペスト・ホテル」は何か最初から筋が見えそうで敬遠しているが、いずれ見ることになりそうだ。レア・セドウ、タランティーノ作品に出ているらしいので、さっそく見なければ。

 

18 マイ・バッハ(S)

右手が利かなくなり、ボクシングなどの興行師を経て、左手だけで弾くコンサートを成功させ、その左手さえ使えなくなり、指揮者として再起し、65名にのぼる楽団員を生地ブラジルの企業のお抱えとすることに成功し、多くの後輩を育て上げたホアゴ・カルロス・マルティンス。彼の凄絶な、そして意義深い人生を追う物語である。ぼくはすぐに彼の演奏になる「平均律クラビアータ」を購入した。グレン・グールドとは違った情感がありながら、切れもあるといったバッハを聴くことになる。

 

19 最高の人生の見つけ方(S)

お約束のことを何のてらいもなくやる見事さ。どこにも違和感がないし、ついでに驚きもない。それを哲学者風なモーガン・フリーマンと老いてやんちゃなジャック・ニコルソンが演じる。富豪ニコルソンの秘書役をジョーン・ヘイズという役者が演じていてグッド。映画出演もテレビ出演も少なく、しばらく新作もないみたい。もったいない。監督ロブ・ライナー、バラエティに富んだ作品を撮っている。いってみればアメリカのアラン・パーカーか。脚本ジャスティン・ザッカム。おそらく脚本がいい映画なのだろう。

 

20 ナイト&ザ・シティ(S)

デ・ニーロ、ジェシカ・ラング主演。口から出まかせ国選弁護人に真心を見出した女がラング、これがいい。いけすかない夫を裏切りながら真っ当な女を演じる。表情も細やかで、なんでこの人の映画を見なかったのだろう。やはりキング・コング・ウーマンという意識が先に立ってしまう。調べると、彼女はどんどん演技で評価を高め、郵便配達夫はベルを二度鳴らす、トッツィー(アカデミー助演女優賞)、ブルースカイ(主演女優賞)とキャリアを積み、テレビではゴールデングローブ助演女優賞、映画界を去って舞台でトニー賞。いやはや、恐れ入りました。

 

21 博士と狂人(S)

70年かけて初版オックスフォード大辞典が完成した。そのTの項まで成し遂げたのがマレー博士で、正式なアカデミズムの階梯を踏んでいない。そして、誤って人殺しをしたアメリカ軍大尉マイナーは妄想に追われ、精神病院に収監されるが、彼は語彙を投稿するボランティアにめざめ、マレー博士に膨大な数を送り届ける。博士をメル・ギブソン、大尉をショー・ペンが演じる。アウトサイダーの2人が国家の辞典を作り上げたという稀有な物語がじっくりと紡がれる。夫を殺された夫人で、大尉を愛するようになるのが、ナタリー・ドーマー。彼らを支える脇役陣がじつにいい。看守長をエディ・マーサン、辞書編纂の上司をスティーブ・クーガン。

 

22 孤狼の血 Level2 (S)

正編よりこっちのほうがいい。松阪桃李、鈴木亮平西野七瀬村上虹郎など。西野は演技の手前で止めているような良さがある。その弟役の村上がどこかで見た顔で損をしているが、哀しい役回りをうまく演じている。松阪桃李もいい。最後、鈴木に胸を刺されても生きているのはなぜ? 相手の組に殴り込みをかけて、中途半端に立ち去る鈴木、さていかがなものか。鈴木が力余って相手の目を潰してしまう、というのは、やはり趣味が悪い。でも危ない暴力男を演じて迫力がある。監督白石和彌、脚本池上純哉、原作柚月祐子。

 

23 こんな夜更けにバナナかよ(S)

主演を大泉洋、彼が好きになる相手に高畑充希、その高畑が好きな医学生三浦春馬、わきに萩原聖人、渡辺真紀子、宇野祥平など。どこまでが実話か、原作を読んでいないから分からないが、なぜに彼はわがままを通そうとしたかが、いまいち見えない。夜更けにバナナを買いに行かせるのは、相手のことを思えばできない要求のはずである。ふつうの暮らしをするのと、それは違うのではないか。彼は問題を投げかけ、ひとに何かを気づかせた、という意味では、そのわがままに筋が通っていたことになるのか。大人しく暮らしていたら、あのインパクトはありえなかったのか。原作の渡辺一史は、病を抱える者が声をあげないと、見えない存在にされてしまう式のことを言っている。障害者関連の改善策は、ほぼ当事者たちが声を挙げて実現されてきた、と。こないだ見た「浜の朝日の嘘つきども」と同じ演技を高畑充希がしていた。なんだ、彼女のこれが持ち味なんだ。

 

24 迷い婚(S)

ロブ・ライナー監督、脚本テッド・グリフィン、ジェニファー・アニストンマーク・ラファロケビン・コスナー、シャリー・マクレーン。「卒業」が実話という設定で、祖母、母と交渉をもったコスナーにアニストンが真実を知りたく接近し、一夜を共に。しかし、結局、恋人ラファロのもとに帰る、という話。このなかで、父親役をやったリチャード・ジェンキンスが一番の芸達者。それにしても、アニストンはそれほどの美人ではないのに、アメリカでなぜ人気があったのか。ときおり、ローラ・リニーに感じが似ているときがある。

 

25 任侠学園(S)

途中で止めようと思いながら、最後までいってしまった。まっとうなやくざがダメな学校を再生させる、という発想がいい。かえって堅気のほうがあくどかったりする。西島秀俊西田敏行生瀬勝久伊藤淳史葵わかな(「ラーメン食いたい!」に出ていた)などが出ていて、ラストに西田の「また逢う日まで」の歌が流れる。さすがにうまい。今野敏原作。

 

26 リベンジ・リスト(S)

ジョン・ウィツクのパクリだが、最後まで見てしまった。トラボルタの堂々としたカツラに敬意をおぼえる。相棒がいい。クリストファー・メローニ

 

27 トーベ(S)

ムーミントーベ・ヤンソンの物語である。ピアフとジャズの世代らしい。父親が著名な彫刻家らしいが、芸術家たらんとする圧力を受ける。なぜにムーミン谷のキャラクターが生まれたのかは、この映画からは判然としない。封切りで見るつもりで、忘れていた映画である。主演アルマ・ボウスティ。

 

28 ベルファースト(T)

監督ケネス・ブラナー、彼の小さい頃の思い出を基にしている。とても好感のもてる映画だ。役者でもあるブラナーの秀逸の映画では?

まず空からベルファーストの昼と夜の美しい風景を見せ、地上に降りて通り沿いの壁に沿ってカメラが上方に移動すると、壁の向こうに路地が見える。そこからモノクロの世界が始まるのだが、その展開が見事である。路地に満ちているのは生活の声である。しきりに子どもの声が呼ばれるが、それがこの映画の主人公バディである。やがてプロテスタントによるカソリックへの暴力が始まると、その声が消されて、怒号、汚い言葉、爆発の音しか聴こえなくなる。

本来、アイルランドカソリックの国で、地域によっては(北部)イギリスが強制的にプロテスタントを移住させたところがあり、宗教対立の火種があった。その狭い路地の地域はカソリックプロテスタントが混住する場所で、イギリス軍が暴動を抑えに出てくる。イングランドプロテスタント系である。歴史では、イギリス軍のやりすぎが反感を買って、カソリックとの戦いになる、というふうに習った気がするが、事情はもっと複雑である。

 

父親は2週間に一度しか戻ってこない。非正規で大工の仕事に就いていて、腕を見込まれて家もあてがうからロンドンに出てこい、といわれている。一方で、路地では顔見知りのチンピラが扇動者となってカソリックの食料品店などを襲っている。おまえも態度を決めると、脅されている。

 

母親はジーナ・ロロブリジダに似ている、イタリア系の女性っぽい。ミニスカートを履いて、踊りがうまい。彼女はすべての人間が顔見知りのこの町から離れたくない、あんたとも赤ん坊の頃から知り合いだ、と夫に言う。しかし、プロテスタントの暴動に息子が巻き込まれたことで、離れる決心をする。

 

監督自身の子供時代を演じるのが、ジュード・ヒル。この子はクラスに好きな子がいて、彼女はいつも成績優秀。成績が上がれば、彼女の隣に座れるというので、祖父に秘策を伝授される。算数では2と6か分からないように書き方をごまかすのだ(もう一つ組み合わせを言っていたが、忘れた)。それが効を奏してトップの席に座るが、どうしたわけか彼女はその時成績がふるわず、彼の後ろに。下校時に花を渡すのも、お爺さんの入れ知恵。女性の弱みは、愛を示されること、というアドバイスである。彼はカソリックの彼女と結婚できるか悩んでいる。

 

全体にサックスのメロディアスな曲が流れ、ときおりロック調の歌がかかるが、バン・モリソン(北アイルランド、つまりプロテストの多いところ出身)である。家族で映画を見に行くが、そこでかかっているのが「チキチキバンバン」やラクエル・ウェルチの映画「恐竜100万年」である。いずれも60年代後半の映画である。

 

お婆さん役がジュディ・ディンチで、、その夫がキアラン・ハインズ(ベルファスト出身)。悪役のイメージの人である。ジュディの言葉、「ここからはシャングリラの行く道はない」。孫のバディはロンドンに行くなら、祖父母も一緒に、と言うが、2人にはその気がない。やがてお爺さんは身体を悪くし、入院し、亡くなってしまう。

お母さん役がカトリーナ・バルフ、父親役がジェイミー・ドーナン。堅実で、愛し合っている夫婦で、パーティで夫が歌うと、そのまえで妻が踊る。バルフは元モデルということで、スタイル抜群。

 

母親と姉が通りのベンチに座り、争い事をもちこむプロテスタントのちんぴらたちのことを、こう言う。「あいつらは料理も洗濯もできないろくでなしだから、10分も戦いを続けられない」この視点は思いがけないもので、見当はずれのものだが、忘れたくない視点でもある。

 

29  ナイトメア・アリー(T)

死体を家の床に葬り、火を放った男が列車で眠りこけて、終着駅にたどり着く。そこにサーカス団が小屋をかけていて、世話になることに。才覚を表し、電気女と一味を抜けて、都会へとやってくる。その切り替わりが速く、もう2年が経っていて、女を演出して一儲けする話が、男自身が読心術を披露するショーを見せている。そのいかさまを破ろうとしたのが心理学者で、彼女は職業柄貴顕淑女の秘密を手にしている……。

 

アリーは路地のことで、ぼくは人の名前かと思っていた。悪夢通りにようこそ、というわけである。ある限られた仮想空間のなかに、人は神秘に騙されにやってくる。しかし、その外に神秘を持ち出すと、途端にいかがしくなり、詐欺罪となってしまう。主人公は師匠の厳しい言葉「ゴースト(心霊術みたいなもの)をやると魂を失う」を反故にして、まちの富裕層に取り入っていく。また繰り返される「ファースト物」である。

 

監督ギレルモ・デル・トロ、脚本、主演ブラッドリー・クーパー、電気女にルーニー・マーラー、心理学者にケイト・ブランシェット、サーカス団に付いて回る風呂屋の女主人にトニ・コレット、その夫がデビッド・ストラザーン、サーカス団の首領にウイリアム・デフォー。ルーニーとブランシェットは「キャロル」で共演している。

 

事が露見してブラッドリーがまちを去ることに。そのとき、ブランシェットが「I love you」と言い、彼は不審に思い振り返る。ここがよく分からない。「別れには大げさ過ぎたかしら」と彼女は言うのだが。

ブラッドリーが人の挙措などから素性などを言い当てる自らの才に気づいたときに、デフォーが呆けた顔で聴き入る、というのはおかしい。百戦錬磨の、人間を獣人にまで落とし込むことを平気でやる奴である。

トニ・コレットの読心術を地下でサポートするストラザーンが泥酔し、仕掛けが利かないでショーは失敗するが、そこがなぜ失敗なのかが分かりにくい。

 

30 マスカレードナイト(S)

最後まで楽しんで見ることができた。いくつもの枝葉をつくって進行を複雑にするのは、前作と同じ。ラスト、時計が5分遅れていたことが意味をもつが、その間、2人の女性には何があったのか。その説明がされていない。キムタク、老いたりの感がある。冒頭の社交ダンスも要らないのでは?

 

31 ある天文学者の恋文(S)

ジュゼッペ・トルナトーレ監督・脚本、彼の作品は4作見ている。幅の広い監督に思えるが、なにか共通するものがある。なにものかへのひたすらな愛ではなかろうか。それが際立って表れているのが、この映画ではないだろうか。オルガ・キリレンコのアクション経験をきちんと取り入れながら、生とは何ぞやと静かに問う作品となっている。いろいろな仕掛けも、そして天文学の知見も合わさって、味わい深い一篇となった。相手役ジェレミー・アイアン。老いてなお色気がある。1992年、初めて彼を「ダメージ」という映画で見て、強い印象が残った。

 

32 湯を沸かすほどの愛(S)

よくできた映画でした。家族とは精神によってつながったものだ、というが(J・F・グブリアム)、まさにそういうものを描いている。血のつながりは父親が媒介しているが、母親の死がなければ紐帯は強くならなかったはずだ。非常に愛情深く、かつ真剣に生きる女性とチャランポランな男たち。その女性(母親)によって強くなっていく娘たちの物語である。主演宮沢りえ、客演杉咲花(娘)、オダギリジョー(蒸発した夫)、松阪桃李(旅先で出会った青年)、駒河太郎(探偵)、篠原ゆき子(杉咲の本当の母、聾唖者)。監督・脚本中野量太

 

33 カモン、カモン(T)

ホアキンの映画である。ジョーカーの次はこれか、という感じ。白黒で撮られていて、子どもたちの声と意見を集めるラジオエディター(?)のジョニーとして、子どもにはふだんから接してはいるが、姉の難しい子を預ることで、ホアキン自身が静かな変容を遂げていく。ジェシーは精神的に不安定な父親と、ときに過剰なほど子を愛する母親のもとで、エキセントリックで、大人に同調と反抗をきわどく見せる子として育って行く。そういう意味ではジェシーとジョニーが出会うことで、なにかもっと中庸な、静穏な、だけど本音を隠さない人間関係のあり方を見つけていく。そういう映画である。子どもが出てきてこれほど内省的なアメリカ映画は、「ものすごくうるさくてありえないほど近い」以来かもしれない。

 

34 ファイブ・デイズ(S)

北京オリンピック開催でそこに世界の目が集まっているときに、ロシアはグルジアに侵攻した。民間人を殺し、それはグルジア政府が行っていることだとプロパガンダを流した。NATOは軍事関与を行わず、グルジア政府は孤立する。アメリカ人ジャーナリストの視点でそれを描いていく。グルジア人の結婚式、静謐に輝く平原に、スホイからものすごい速さと正確さで爆弾が発射されていく。ロシア兵のなかにも虐殺に抗う若い兵士がいる。前線部隊のロシア隊長は人を殺すことに倦んでいる。米ジャーナリストは、NYに留学したこのある現地女性と逃避行を繰り広げる。ピアノの静かな曲が流れる。フィクションなのだが、戦闘場面には思わず首をすくめるほどのリアリティがある。ウクライナでいま起こっていることとまったく同じことが2008年に起きていたなんて、なんて迂闊だったのだろう。

 

35 トスカーナ(S)

父親が死に自分の故郷の土地を売りに出すことに。しかし、そこで知り合った女性(じつは幼馴染み)に引かれて売却を諦め、自分でそこにあるレストランの切り盛りをすることに。彼は有名な料理人で、オランダで自前の理想のレストランをつくる資金づくりをするはずだったのだが、方針変更である。やや主人公の設定が違うが、ほぼ似たような筋の映画を見たことがある。タイトルを思い出せないが、アメリカ映画だったような気がする。これは全篇イタリア語、そして少しの英語とオランダ語である。

 

36 マイ・スモール・ワールド(T)

監督・脚本はこれが長編第1作という川喜多恵真、是枝裕和の監督助手だったらしい。主演嵐莉菜で、モデルらしい。役名サーリャ。母親は日独、父親はイラン、イラク、ロシアの血が混じっているという。クルド人で、難民申請がかなわず、就労をしてはいけないという規則を破り、収監される父親。申請が受け付けられず、しかも働くこともできない、というのは、追い出し策としか思えない。

サーリャは援交をしようとするが、中年男に迫られ逃げ出す。居住する埼玉を出ることも禁じられ、希望の大学(教育大学らしい)も受けられない。バイト先のコンビニで出会った聡太(奥平大兼)との関係が救いとなっている。静かで、綿密で、説得性があって、社会問題が見えて、是枝の弟子というのもよく分かる。

援交のカラオケ場面が既視感が強いのと、収監された父親に面会に行き、なぜ今になって自分たちを捨ててクルドに帰ろうとするのか、と言うときに、父親にそもそも日本に来た理由を尋ねるのはおかしい。申請却下の場面で、父親が拷問で傷つけられた足を係官に見せているわけだから、知っているはずである。ふだんの生活のなかでも、知っていてしかるべきことだ。父親は、自分が帰国すれば、娘にビザが下りる、と判断し、その決意を変えない。最後に、サーリャの弟が小さなまちの模型をつくる。埼玉と東京を結ぶ橋もあり、家族や聡太を表す石ころを置くスペースもある。タイトルはそこから。次回作が楽しみ。是枝のもとから巣立った西川美和の映画を追いかけたことが、思い出される。

 

37 マイ・ニューヨーク・ダイアリー(T)

原題はMy Saliinger yearで、原作がジョアンナ・ラコフ。yearsと複数になっていないのは、サリンジャーとの日々を特別なものとしているからだろうか。実話らしい。気難しいことで知られる彼のエージェントの元に職を得たジョアンナが、電話でのサリンジャーの励ましを受けて、詩人として旅立つ姿を描いている。『ライ麦畑』の主人公ホールデンが出てきたり、むかしの恋人と駅の廊下で踊りはじめる幻想など、とても自由に撮っていて好感である。所長にシガニー・ウイバー、彼女は作家と愛人関係にある。ジョアンナがマーガレット・クアリー。やっと作家に就いたのに、会社を辞めることに。ニューヨークタイムスに詩を持ち込み、そのあとシガニーの所へ行くが、これは詩人として契約をするためか、よくわからない。そのとき、サリンジャーその人が、シガニーの部屋から出てくるのだが。ぼくはサリンジャーが大学の先生をやっていたころに付き合っていた女子大生の回顧録を読み、サリンジャーについての評伝も読んでいる。『ナイン・ストーリーズ』が懐かしい。アップダイクもソールベローもマラマッドも。

 

38 ダブル・ジョパティ(S)

2回目である。アシュレイ・ジャッド、トミー・リー・ジョン。ジャッドをとんと見かけなくなった。少年のような笑顔の人だったが、ワースティンを訴えた映像を見ると、やはり、というような変わりようだ。サンドラ・ブロック、レニー・ツェウィルガーなど、ぼくの好きな女優がみんな様変わりで、見るのがつらい。この映画ではジャッドはヌードまで見せているが、本来ムキムキの筋肉女性である。

 

39 座頭市あばれ火祭り(S)

シリーズ21作目、勝プロ作品になっていて、脚本にも勝が加わっている。それがひどい脚本で、浪人仲代達也はただ全篇にふろふらしているだけ、大原麗子に入れ揚げたはずの市が最後に冷たく突き放す。監督三隅研二も腕の振るいようがなかったか、まるで絵が面白くない。悪党の闇の親分が森雅之が盲人で、この悪党ぶりがいい。やはり役者の格が違う。「浮雲」で見せた白皙の色男が白目を剥いて、あこぎなセリフを言うのである。田中邦衛がちょい役、西村晃が森の右腕で、跡目を継がせてもらえるはずが、権力欲旺盛と見られて、殺される。あと、吉行和子、ピーターとよくも揃えたもんです。ただそれだけの映画ということでもあるが。

 

40 浜の朝日の嘘つきども(S)

2回目である。冒頭から主人公は恩師の遺志で映画館の存続のためにやってきた、と明かしていた。まえは気づかなかった。恩師との死ぬまぎわのシークエンスはアドリブと思っていたが、大久保佳代子のアドリブに一拍ずらして高畑充希が受けに回った効果ではないか、という気がする。やはり最後の映画館をコミュニティの核にするという高畑のセリフは余分である。あるいは、もっと簡素にすべきである。おそらく3回目を見ることはなさそうだ。

 

41 教育と愛国(T)

教育をいう政治家は経済と比べて何を胡乱なことを言っているのかと思っていたが、じつは10年あれば、かなりの思想教育を施すことができる。小学校から始めれば高校生ぐらいまで仕込めるわけで、それがその人の一生ものになり、その子どもにまで継承されるとなれば、政治の狙いとしては悪くない、ということになる。

この映画はものすごく既視感が強い。教科書の検定と日本会議あたりを扱っているからである。戦後左翼が憲法におんぶに抱っこされているうちに、右の連中はたゆまぬ攻撃を仕掛けて、とにかく改憲まで持ち込むんだという意識でやり続けてきたことが実を結んだのが今の状況ではないかと思われる。一つ変わったことがあるとすれば、政府統一見解に縛られて、直接的に時の政府の意向が教科書会社に渡るようになったということである。

それにしても、自分の国の歴史をすべて肯定する神経というのが、分からない。われわれのふだんの感覚でも、自分の非を反省して、思想を深めた人を信頼するのであって、それは国家においても同じではないのか。

既視感に襲われたということは、この間、ずっと右の論調を変わらず続いているということでもある。いまの若者がいろいろな意味で体制的、保守的といわれるが、それはやはり教育のなせる賜物なのか。

 

42 私の寅さん(S)

前田武彦が売れないTVドラマ脚本家、妹が売れない絵描きの岸恵子。この映画、寅さんの中では出来のいい部類ではないかと思う。いわゆる芸術に対する寅さん、虎屋一家のスタンスが見えて、その具合がほどほどの加減に抑えられているからである。

前半は寅さん以外の九州旅行、そしていつもの恋騒ぎになるという異色の構成である。なにか事情があった、ということだろうと思う。それにしても、前田がそこそこの演技をしているのには、びっくりする。

 

43  エリザベス 女王陛下の微笑み(T)

ただの過去映像のつなぎ合わせである。それにしても若い頃の女王の美しさをどう表現すればいいのか。majestic荘厳かつserene澄み渡った、という感じ。

 

44 ラストキャッスル(S)

レッドフォード、2001年の作、共演ジェームズ・ガンドルフィニ(ザ・ソプラノズの彼)、マーク・ラファロ。陸軍の英雄が大統領令に反して作戦を実行し、部下を数人死なせた、という罪で刑務所に。そこの圧政を翻す、という中身。軍規違反で一般刑を受けることなんてあるんだ? 罪人がみんな軍人に様変わりするというのは、レッドフォード的にはどうなのよ、と言いたくなる。

 

45  プラン75(T)

早川千絵脚本、監督。是枝の「ワンダフルライフ」を思い出した。死をまえにした人が集められ、口頭試問を受けるが、まだ気持ちが固まっていないと分かると落第し、運営側に回りながら、決意を固めていく。アイデアとユーモアにあふれていたが、その是枝が「幻の光」も撮っていて、ぼくはすぐにファンになった。夕方の道路にぽんぽんと街灯が灯っていたシーンが忘れられない。
今作は、最初に銃撃事件があり、高齢者?(車いすが転がっているだけなので、分からない)を殺した若者が自害するところから始まる。国家のために死ぬのが日本人なのに、高齢者が無駄に生きて邪魔をしている、と彼は言う。そして、国が75歳以上の希望者に自死の選択権を付与する、という展開になる。書き割り的な説明で、安易である。この「日本人は国家のために死ぬ」は、映画の前振りとしてもどうか、と思う。諸外国は、そのまま鵜呑みにしてしまうのではないか。実際、この映画、カンヌ招待作ではなかったか。

 

本当は未来映画なのだろうが、まったくそういう設定にはなっていない。是枝の映画では古い学校だかが舞台にされ、環境が隔離されていたが、この映画では日常がそのまま写される。ボーリング場も出てくれば、深夜の道路整備も出てくる。未来に設定された映画でありながら、何も被写体を変えなくてもいい、というのは、それだけ日本の高齢化が、この映画の設定に近づいているということなのだろう。それにしてもズルイ。

 

途中で何人(フィリピン?)だかの看護師が出てくるが、仕事の合間に子どもや夫に電話するシーンがある。そして、次に宗教の集いの場面となって、彼女の子どもが心臓に病気をもつことが分かり、参加者から寄付が集まる。人の紹介で、より割のいい仕事がある、ということで終末施設へとやってくる。そこで初めて、本論とつながることになるが、あまり必然性のある展開とは思えない。冒頭の殺人のシーンも含めて、なにかつまみ食い的に映像を処理する癖がこの監督にはあるようだ。外国のアジア人のほうが人情熱く生きている、と表現したかったのかどうか。

 

プラン75の申し込みにやってくる高齢者と応対する役場(?)の青年。彼は、目の前にしばらく音沙汰のなかった叔父が来て動揺する。やがてその叔父さんを終末施設に届け、帰ろうとするが、納得がいかず、施設に戻り、遺体となった叔父を運びだそうとする。火葬場へ連れていこうというわけである。そのときに、手助けするのが、そのフィリピン? の彼女。これを監督はやりたかったのだろうが、成功しているわけではない。

彼女は、これから死を迎える人たちの所持品を回収し、それを点検する仕事をしているが、お金が入った手持ちバッグを見つけたあとのリアクションが描かれていない。自転車に乗って元気に坂を上がるシーンがそれなのかもしれないが、説明不足である。

先の青年も、終末事業者リスト(?)で「産業廃棄物処理業者」を見つけ、ネットで調べると「動物死体処理」と出てくるが、それ以上突っ込むこともない。プラン75で安楽死させた人間をそういうところで処理している、という暗示なのかどうか。

 

最後は、その終末施設で、麻酔が効かなかったのか倍賞千恵子は死なないで、生活に戻ることになるが、ベッドで座っているときにマスクは取っておいたほうがよかったのではないか。彼女が途中で考えを変え、マスクを取って助かった、という設定にすべきなのではないか。それに、家に帰ってもすでに家財は撤去されているはずで、そこはどうするんだろう。ラストに朝日を見て倍賞が歌をうたうが、ほぼ切れ切れで聞き取れない。

そういえば、もう何十年もまえに、人口減少のために国家が何かを企んでいて、それを暴こうとする話があった。結局、工場で死体を処理して食料に変えていたのだが、チャールス・ヘストン主演の「ソイレント・グリーン」である。あれは衝撃的な映画だった。終末を迎えた人たちに、過去の緑豊かだった地球の映像を見せるシーンがあるが、涙が出るほど美しかった。

 

46 エルヴィス(T)

バズ・ラーマン監督、「ムーランルージュ」「華麗なるギャツビー」を撮っている。冒頭の展開が早いが、こういう映画はたいてい期待外れのことが多い。エルヴィスが黒人文化のなかで育ったのは知っているが、歌う黒人教会でエクスタシーを感じたというのは知らなかった。映画ではそこから始まるが、史実かどうかは分からない。彼がパーカー大佐(トム・ハンクス)という男に食い物にされたことも知っているが、オランダ人で市民権も持たない人間とは知らなかった。ぼくはエルヴィス・オン・ステージを高校のときに封切りで見ている。伝説の人、過去の人だったプレスリーがものすごく身近な存在だと感じたドキュメントである。イン・ザ・ゲットー、サスピシァス・マインド、ブルー・スェイド・シューズなど名曲揃いだが、弾き語りで細い声で歌う彼もいい。スローテンポな曲でこそ彼の歌のうまさが光る。この映画は、表面をなぞっただけ。最初のメンフィス、ビールストリートを歩くエルビスを斜め上から撮ったときに、ふっと彼役のオースティン・バトラーにエルビスと同じ唇脇の笑い皺が見えて、身震いがした。あの笑い方は、映画でも共演したアン・マーグレットもやる。顔つきも2人は似ている。ユーチューブでは2人の映画の踊りのダイジェストも見られる。エルヴィスの取り巻きの一人だったJerry Schllingが書いたMe and a Guy named Elvisという本を読んだことがあるが、やはり彼は愛すべき人だった、プレスリーは。彼がなぜに目にブルーのアイシャドゥを施して、あの保守的な南部に登場したのか、それを知りたい。

 

47  ディスタンス(S)

是枝の長編3作目である。是枝はドキュメンタリーで始まった監督だが、この映画にはその匂いがする。外側からしか人間を描かない。DVD発売がなく、レンタルができない。アマゾンプライムで見たが、なぜDVD化されないのか分からない。

物語にしない、という強い意志が働いている。時間の流れも現在と過去が混じり合って進む。説明は最小限である。役者たちの声が小さく、録音も悪く、しかも沈黙が多いので、言葉の一つひとつを聴き取ろうと妙に緊張する。

あるテロ(オウムと思われる。どこかだかのダムに毒を撒く、という話があったのを利用している。駅名で清里の表示が見える)の実行犯の遺族が、毎年、その供養のために山奥の湖に集まる。その湖がダムによってできたものかはわからない。そこに実行犯の一人だったが、決行間際に逃亡した男(浅野忠信)が加わる。彼は警察での供述で、実行犯のやったことはまったく理解できない、と言い逃れるが、仲間の一人がいなくなったときには、「だからエリートは信用できない」と息巻いていた。いわばユダ的な人間として描かれている。湖に花を捧げ、黙祷し、食事をし、帰ろうとすると、彼らのクルマ、バイクが盗まれている。かつて実行犯たちが泊まっていた家で一夜を明かすことになる。クルマとバイクが盗まれたのに、警察に届けるというシチュエーションがない。

 

夫を亡くした教師(夏川結衣)、姉を亡くした花屋のアルバイト(ARATA)、兄を亡くした水泳インストラター(伊勢谷友介)、妻を亡くした建設業者(寺島進)。夫に妻、姉に兄という組み合わせである。ときおり過去の映像をはさみ、それぞれの相手との様子が描かれるが、ARATAと伊勢谷はきょうだいとの葛藤があったわけではない。寺島の妻は入信まえに子どもを2人下ろしていて、それをあとで警察から知らされる。

不思議なのはARATAが病室に老人を訪ねるシーンもはさまれるのだが、ほぼラスト近くで父親ではなく、他人であることが明かされるが、どういった他人かが明らかにされない。

ARATAの姉は浅野に、弟は自殺した、と語っていたという。だから浅野は帰りの電車のなかで、「あんたは誰か」と尋ねる。この映画で、いちばんスリリングな箇所だろう。もちろん姉は、気持ちの縁切りをするためにそう言っただけだろう。

身内の者が狂信に走り、犯罪を犯し、焼身を遂げる。そのことの意味を淡々と噛みしめるように描く。ARATAが湖に張り出した簡単な木橋に火をつけ燃やすところで映画は終わるが、この映像は姉の発言を浅野から聞かされたあと、一人で湖にやってきた、という設定か。そのときに、「おとうさん」とARATAは言う。木橋に着いた火勢はすごく強い。もう二度とお参りには来ない、という意思表示か。途中にARATAと伊勢谷で「神を信じるか」といった会話もあるが、大きな意味が付与されているわけではない。

映画のなかで提示されたものは、きちんと映画のなかで回収されなければならない。回収をしないのであれば、そういう造りの映画にしなくてはならない。ARATAが訪ねる老人のことは、映画のなかで解決されなくなくてならないし、盗まれたクルマやバイクのこともそうである。そこを許せば、脚本は甘くなるだけではないか。これは是枝の弟子たちにも通じることかもしれない。

 

48  七つの会議(S)

2回目だが、印象は変わらず。野村萬斎はまったく役柄をはき違えている。監督は彼の演技をストップさせて、変更すべきだった。それと、「半沢直樹」が回を追うごとに虚仮脅しの漫画みたいになったが、その悪弊がこの映画にも及んでいる。「あきらとアキラ」にも、そして「民王」にも。原作者はこれに抗議をするべきだと思う。映像と文学は別だという意見もあるが、原作者の責任というのもあるのではないか。池井戸フアンとしてすごく残念である。

 

49 私のはなし 部落のはなし(T)

かなり観客は入っていた。すでに1万人が見たという。監督満若勇咲、プロデューサー大島新。この監督はしばらく前に「にくのひと」という屠畜業者のことをドキュメントにしたらしいが、その描き方には部落解放同盟から批判があり、公開を断念した経緯がある。実名を出した、屠畜の映像に子どもが怯えるるシーンがあった、などのクレームだったらしい。この映画のなかの登場人物の一人(滋賀県津市の部落解放同盟?)は、アマチュア野球チームが「穢多(えた、えった)」から「エッターズ」と名前を付けていたのを問題視していた。それは、一般人(映画ではこの言葉を使っていた)が差別語を自分のチーム名にしていた、というふうにぼくは受け取ったが、しかしそれでは意味が分からない。前作を見ていないので何とも言えないが、やはり配慮が必要なことだったのかもしれない、と思った。というのは、その発言者がとても内省的で、哲学的な風貌をしていたからである。

 

この映画は205分の長尺で、途中で休憩が入って、ぼくは初めてこの映画がそういう長さの映画であることを知った。京都、伊賀上野などが扱われていた。被差別の地域やそこに住まう人を記載した本の復刻版を出版した当人も出てくる。意外な若さに驚いたが、彼は差別ではなく貧困であることに問題があったのではないか、と言う。よく分からない理屈だが、ならなぜそれを公表する必要があるのか。それも被差別地域だけを狙うのか。娘二人いるらしいが、もし結婚したい相手が部落出身だったら、あなたはどうしますか、と聞かれ、それは本人の意思だから認めるだろう、と述べている。

 

京都崇仁地区の市営住宅に住む女性は、早い時期から部落解放の運動に関わっていたらしい。叔母から京都へ行くと映画も見られていいよ、と(津から?)連れてこられたのが崇仁で、路地のなかの知らぬ家に押し込められたが、すでにそれは結婚の話がすんでいて、だまして連れてこられたのである。旦那は屠畜業、まわりもそういう人が多かったという。まちで行き会う彼女の友達なども、みんな昔はよかったという。たしかに暮らし向きはよくなったが、仲間で分け隔てなく暮らしていた紐帯がなくなったのは寂しい、と言っている。その年老いた女性が引っ越しすることになるが、その理由が映画では描かれない。なぜなのだろう。

 

一人、60代の女性で、差別する側の意見を言っていたが、血が違う、という言い方をしていた。顔を出さないのは、いまは平穏に付き合ている人に、本心を知られるのは嫌だから、と素直に答えている。子どもが結婚する相手の身元調査を当然やる、とも言っている。

女性の学者が出てきて明治以降の被差別にかかわる歴史を語るが、平沼騏一郎天皇主義者としていたが、あの時代、天皇主義者でない人など、ごく少数を除けばいなかったのではないか。それと、古く朝鮮人の血統だから差別された、という説も紹介していたが、それは本当なのだろうか。網野説は天皇家に仕えていた人びとが、天皇家の相対的な地位の下落によって、その庇護を失ったがゆえに差別を受けた、といっていたはずだ。字幕でも入れて、その説明をきちんとしておくべきではないか。監督は、その女性学者の意見も「はなし」の一つだと言うが、天皇制と被差別の構造を結びつけるための前段階として平沼の名前が出されるので、彼女はこの映画の柱ともいうべき役柄である。

 

50 キャッチミー・イフ・ユーキャン(S)

人は外形によって判断する。それを徹底して利用したのが、この映画の主人公である。最後は偽造小切手の手口を見抜く才を見込まれてFBI勤務となり、偽造の難しい小切手を発明して巨万の富を得たという。なんともはや、である。ディカプリオ、それを追うのがトム・ハンクス。若きエイミー・アダムスが出ている。スピルバーグ監督である。彼の映画はほとんど見たことがない。この軽さが合っているのではないか。

 

51 男はつらいよ16 葛飾立志伝(S)

考古学の樫山文枝がマドンナ、その先生が小林桂樹。独身の先生が弟子の樫山に求婚するも敗れる。寅さんもまた。全篇、流れるように進む。シリーズに脂がのっている感じがある。小林信彦御大が今月号文藝春秋で洋画・邦画ベスト100を挙げ、第6話を選出しているが、このシリーズに出合うまで、どうも渥美の座りが悪かった、という。ぼくはそれに強く共感する。フランキー堺にも同じ思いを持ち続けた。彼らは本来、シリアスこそが合っていたのかもしれないのである。

 

52 男はつらいよ11 忘れな草(S)

寅を初恋の人かも、と言うリリー。もう何度目になるだろう。今回はほんのささいなシーン、自然すぎて見過ごしてしまうところである。居間にテーブルがあって、向こうにさくらと博がいて、さくらの右におばちゃん、さくらと博の間にタコがいる。なにもセリフを言わずさくらが右手を伸ばす。すると、博が自分の左後ろにある小さめのポットをさくらに渡す。ただそれだけなのだが、されこれは演技なのだろうか、いやさくらが自然にやり、博が自然に応じたのではないか。

まえにも書いたが、この時点で浅丘ルリ子が33歳というのは驚きである。日活青春ものやアクションもので活躍していた時代が長い印象があったので、この映画に出た時は相当な歳のイメージなのだ。じつは倍賞千恵子のほうが1歳若いだけである。山田監督は倍賞を若い頃から本当に使い続けた。おばちゃんを演じた三崎千恵子の動きもきれいだが、倍賞もきびきびしてきれいである。冒頭、夢中劇で寅がエイヤッと悪い親分(タコ)を斬って、くるりと回って鞘に収める動きはさすが軽演劇の出身である。

 

53 ロクサーヌロクサーヌ(S)

NYブルックリン、80年代に登場した女性ラッパーの先駆者ロクサーヌ・シャンテ、まるで魅力的でない彼女が名を挙げてからは格段に輝き出すから不思議だ。しかし、15歳にして疲れ、どうしようもない暴力男に捕まって家庭に。やっと逃げ出して、また復活する。その暴力男のセリフがまさに「愛しているから殴るんだ」「おまえは俺の女で、逃げられない」。それをマハーシャラ・アリ(「グリーンブック」の金持ち黒人の役)が演じる。ロクサーヌの母親が厳しい人で、門限を守らせ、家事をやらせる。それが結局、ロクサーヌの根底をつくっていることが分かる。金で取り戻した我が子と家に戻ると、我が娘を迎え入れる。

 

54 マルケータ・ラザローバ(T)

55年前のチェコの映画で、日本初封切りらしい。1967といえば学生動乱が始まるころだ。チェコ動乱が翌年である。その不穏な気分は、映画のなかに漂っているといえる。この映画は13世紀のボヘミアが舞台。王党派とその敵対領主、追随領主の争いを描き、追随派の娘マルケータが敵対者の息子と割ない仲になることが、劇の中心にある。王党派をスターリン支持、あるいはソ連支持と考え、それになびく者、反対する者の血を血で洗う話である。

動きがあるのは戦闘の場面だけだが、カメラワークがアクション的に撮るわけではない。戦闘以外の場面は、進行しているようなしていないような進み方で、ドラマも起きない、あるいは起こさせない。象徴的な映像を写し込んで、リアルさから遠ざけようとしている(それでいて鎧、兜などは当時のものを再現したらしい)。マルケータは修道女になることが定められている女だが、戦場で性的な罪を負い、最終的に教会を選択しないところで、映画は終わる。あくまで受け身の、主体性のない女なので、心変わりに感情移入も、理知的な理解もできない。羊を一緒に放浪する神父が狂言回しのようになっている。発話がすべてアフレコで録っていていて、しかも音の遠近、強弱がない、みんなが大声で喋っているように聞こえる。なぜこんなことをしたのか分からない。3時間はやはりきつい。

 

55 トッツィ(S)

Tootsieにはおねえちゃん、売春婦といった意味がある。ダスティ・ホフマンが最初から女性っぽいメイクをしているのがみそである。友人の女性(テリ・ガールで、とぼけた味がいい。アメリカには美人ではない、とぼけた味のこの種の女優さんがいる。マリサ・トメイゴールディ・ホーンなど)のオーディションに一緒に出かけ、すぐに失格の烙印を押されたことに反発し、自分が女装してそのソープオペラを受けに行く。場面転換しただけで、もうオーディションに向かうトッツイの変身姿という大胆な演出をやる。そこに心理描写も何も介在させないことが、この映画のすごいところ。それには、やはり最初からの女性っぽいメイクが効いている。脇がジェシカ・ラング、じつをいえば彼女が見たくて見た映画である。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の翌年に、この映画を撮っている。やはり柔らかな演技をしていて、とても無理がない。ジェシカの父親役で、トッツイに惚れるのがチャールズ・ダーニング、ソープオペラで外科部長を演じるジョージ・ゲインズ(この人はおかしい)、トッツイの同宿人で芝居の仲間のビル・マーレイ、トッツイのエージェントがシドニー・ポラック(監督も)。この男性脇役陣の豪華さ!

 

56 ブレードランナー(T)

何回目になるだろう、最初義務感で見て圧倒されて、それから何度かになる。今回にして初めて全体がすぽっと手のうちに入ったような感覚がある。タイトルロールから笛(?)のような細い音が聞こえて、東洋風がすでに出ている。

地球へとやってきたネクサスという新レプリカントは感情を持ち始めるほどに進化しているので、4年限定の命にされている。それがすべてを解くカギとなっている。限られた命だからこそ、彼らには焦慮や諦観、仲間への友愛(肉欲の場合も)まで育ってくる。主人公は彼らを殺すことで、人殺しの感覚をからだに刻印されていき、最後、レイチェルとの逃避行を選ぶのである。はじめてキスをしたとき、kiss meと言え、I want you と言えと彼女に教えながらそのシーンが進む。切なくて、いいシーンである。

ずっと雨にたたられているのは、なぜなのか説明されない。日本風俗がそこらじゅうに埋め込まれているが、本格的にバブルで日本がアメリカの不動産を買いまくるのは80年代半ば以降にしても、81の制作だとその前触れはすでにあったということか。アジアの路上マーケットのような稠密、喧騒、けばけばしさと、未来の都市の高層ビルが並列していることが、この映画のミソになっている。人間に近いレプリカが作られようと(彼らを延命させることは技術的に不可能、と生みの親の博士&タイレル社長が言っている)、つねに警察空中車がうようよ目を光らせていようと、人間の営みは永劫変わらない、というサインでもある。

 

57 エイブのキッチンストーリー(S)

パレスチナイスラエルのあいだに生まれた子が、集まりたびに喧嘩になる親族を和解させようとミックス料理を作る。彼はそれぞれの言語で名を呼ばれるが、エイブというアメリカ式が一番気に入っている。せっかくの料理なのにまた言い争いが始まり、子どもが失踪することで気持ちが一緒に。その子が学ぶのが、ブラジル出身の料理人である。料理と人種問題をからめた点で、異色である。

 

58 go!(S)

監督行定勲、脚本宮藤官九郎、主演窪塚洋介、柴崎こう、窪塚の父母が山崎努大竹しのぶ、脇に山本太郎新井浩文大杉漣萩原聖人。久しぶりに見直したが、この映画、傑作かもしれない。とくに窪塚がセックスのまえに柴崎に在日であることを告白した時、柴崎は拒否する。窪塚は彼女を置いたままそのホテルを出て、橋のたもと(勝鬨橋?)まで来ると、自転車でやってきた警察官(萩原)が橋のたもとの自販機で何かを買おうとして、反対側を歩く窪塚を呼び止める。500円玉が使えないから120円貨してくれ、と。そのあと、君はどこから来たの?どこへ行くの?名前は?と尋問を始める。窪塚はその喉に手をかけて押し倒し、逃げ去ろうとするが、振り返ると倒れたままの萩原のところに戻る。次のシーン、横たわったまま目覚めた萩原の視界に缶コーヒーと、その先に座る窪塚が見える。2人は並んで座り、話を始める。窪塚はいま在日と名乗って彼女に振られてきたと言い、萩原は在日の彼女と付き合ったことがあり、ひどくキムチの味が悪く洗って食べた、と言う。窪塚はなぜ萩原を押し倒したかの理由を言う。在日は捺印した証明書がないとだめなので逃げた、と。萩原は、「在日でも必要なのか?」と問う。「そうだ」と言うと、「逮捕するぞ」「証明書のことも知らなかったくせに」というやり取りがある。最後、萩原が「すぐそこの交番にいるから、いい彼女が見つかったら、合コンしようぜ」と言って去って行く。

このシーンは絶妙なタイミングで挟まれるわけだが、いやはや脱帽である。二対の恋、それも立場が逆の恋の顛末と、警官と在日という危ない組み合わせをここで披露する大胆さと巧妙さに驚く。

山崎努演じる父親も魅力的である。ボクサー上がりで、そのパンチ力がすごく、息子をそれで鍛え上げ、パチンコ景品交換の仕事を4カ所掛け持ち、家出を繰り返す妻の大竹しのぶをこよなく愛し、自分の狭い範囲を突き抜けろ、と息子に言い続けるオヤジである。この親にしてこの子あり、である。

 

59 アプローズ!アプローズ!

スウェーデンで実際にあった話(1985年)らしく、刑務所内の囚人を使ってベケットゴドーを待ちながら」を上演し、評判を得る。強盗、殺人などで収監されている彼らは、罰として日常を奪われている。そこには掟、規則、順守といった暴力を背景とした抽象だけが支配する。まるで舞台装置のないベケットの世界である。なおしかも、待つことしかやることがない、という状況もまた。売れない舞台俳優が演出をするわけだが、「ゴドー」に目を付けたところに妙趣があったわけである。一筋縄ではいかない連中を舞台に上げるまでのくさぐさがあるが、舞台上での彼らの演技が素晴らしい。そりゃ役者なんだから、そうなのだろうが、素人だと思って見ている自分がおかしい。

ラストに事件があるが、ベケット自身が「お見事だ」と言っている。フランス映画で、だいぶ実話とは違う脚色をしてあるのではないだろうか。ぼくは大学のころに彼の全集を買って、途中でその全集がストップしたことが懐かしい。初期三部作にはやられてしまった。

 

60 ローマンという名の男(S)

デンゼル・ワシントン民権派弁護士事務所の実務的な裏方、裁判にはパートナーが立ち、彼は勝訴のための穴を見つけることに徹してきた。しかし、パートナーの突然の死で事務所は閉鎖に。しかし、そのパートナーに仕事を回していた男、これがコリン・ファレル、やり手ファーム経営者だが、やはり人権派の血が流れていて、ローマンを捨て去ることができない。ローマンは不正を働き、10万ドルを得るが、結局、報いを受けることに。ファレルが彼の遺志を受け継いで、司法改革へと進み出していく。ファレルがなかなかの役どころで、きちんと稼ぐところからは稼ぎ、余裕のなかで民権派の弁護に回っていく。その中間的なポジションをよく表していて、グッドである。ワシントンが老けて太っていて、アグリーな感じは悲しくなる。

 

61 男はつらいよ19(S)

アクションものも、シリアスも、どうも見たくない。となると、どうしても寅さんか釣りバカになってしまう。アメリカのコメディは肌に合わない。笑いほど国の壁の厚いものはない。

今作は真野響子嵐寛寿郎三崎千恵子が虎に突っ込まれたときの表情が、なんともいえずいい。寅に愛想を言って受け入れられたときの表情もまた。最近、叔母ちゃんの表情ばかり見ている。

拾った捨て犬の名トラを変えずにいるという神経が分からない。寅が怒るのは尤もである。毎回思うのは、なぜに寅は旅先では訳知りの、酸いも甘いも知った、賢人となるかということである。旅先にも柴又にも日常が根強くあるわけだが、旅先では日常に踏み込む必要がないからだろう。賢人、じつは浮世離れした渡世人で生きて行けるが、柴又では賢人であることは到底無理だし、日常に溶け込むことができない。だから、つねに喧嘩をおっぱじめては、出入りをくり返すのである。この映画に登場するマドンナは、その日常と非日常のあいだにいる存在だが、結局は日常を背負っていることが明らかになり、寅はまたしても破恋ということになる。寅=不能説はリリーのところで書いたので省略。

今作、嵐寛寿郎が息子の嫁に一度会ったことがあるといい、嫁(真野)は会ったことがない、という。これぐらいのことは直しておいてほしい。三木のり平が嵐の執事で出ているが、もっとはちゃめちゃをやってほしい。渥美と並ぶと渥美に貫禄があるのは、なぜか寂しい。

 

62 サンジャックのへの道(D)

フランスのル・ピュイというところから、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラまでの1500キロを3カ月かけて歩く、その過程を追いながら、確執のあったきょうだい3人の関係が少しよくなり(母の遺言でこの旅に出ることに。達成したら、遺産が転がり込む)、アラブの男子高校生とカソリックの女子高生の相愛が確かめられ、ガンと失恋に見舞われた女性は妻帯者であるガイドと関係を結び、字の読めなかったアラブの子は3人きょうだいの真ん中の女性高校教師からひそかに文字を習い次第に読めるようになる。ガンと失恋の女性は、最初はきょうだいの末弟と関係を結んだが、途中で旅の目的を終えたということで、きょうだい3人ともが戦線離脱した(あとで復帰するのだが)のを見て、その末弟との関係を断つことに。淡々と巡礼の道を写すだけだが、間あいだの眠りの夢のシーンでは、いろいろな幻想的な映像を流すのが、面白いといえば面白い。ただ、仕掛けをいくつも作っていながら、それを盛り上げることができず終わった、という映画である。

 

63  選挙(D)

映像がシャープで、きれいなのが印象的である。それと、テーマ性が最初からきちんと提示されて、最後まで迷いがない。川崎市宮前に落下傘で立候補した東大出で、切手・コイン商で成功したという男を追うドキュメントである。想田和弘が監督・脚本・撮影・制作をやっている。東大での同級生だという。ちなみに想田は東大の宗教学科を出ている。

男の選挙に現市議、衆議院議員参議院議員(川口順子)、そして小泉純一郎まで関わるが、これは補欠選挙であり、通常の選挙に戻れば、動員された人々も自分の候補の手伝いに回ることになるし、選挙民も自分の推してきたきた候補を持ち上げることになる。そういう意味では特殊な選挙といえなこともない。千票という僅差で当選するが、当人夫婦が自宅に帰っていて、遅れてやってくる、というドジぶりを見せる(案の定というべきか、次には落選の憂き目に遭っている)。

妻を家内と呼べとか、妻は仕事を辞めるべきだ、という古臭い倫理がはびこっている。妻は仕事を辞めろと言われ憤慨した様子を映像としてさらす。出陣式では神主がお祓いをする。名前を連呼するだけの選挙活動で、小泉の改革を引き継ぎます、と言いながら1回もその中身を言わない。選挙が人々を巻き込む祭りのようなものであることが、よく分かる。手伝いに来ているおばちゃんたちが、政治の裏側を知っているひとかどの人物に見える。

 

64  精神(D)

やはり想田の実験映画である。今度は、ある精神科医の診療所(岡山県にある)をめぐるものである。こころに病をもった人びとがやってくるが、25年通っているという人もいる。自殺念慮、強いうつ症状、統合失調症……。舞台は岡山県のどこかで、山本先生は給与10万円と年金をあわせて暮らしているが、所員のほうが給与は高いのだという。ときに診療代を割り引くこともする。みなさん、カメラのまえで実にきちんと話をする。ある女性は、薬の袋詰め係をやっている。家に帰りたくないという場合は、宿泊所をあてがうこともある。この診療所と患者たちは一緒に人生を過ごしているようなまとまりがある。ときおり木の実、飛び立つ鳥を写すなど、「選挙」に比べれば、だいぶ余裕が感じられる撮影になっている。蜘蛛の糸の先にぶらさがる一枚の葉っぱが何事かを暗示させている。自分の悩みを打ち明ける女性の背後には、窓の外に鉄枠がはまっていて、それが十字架にも見える。

 

65 peace(D)

想田作品で3作目、またしても岡山で、今度は義父が対象である。重度障害者ばかりか在宅ホスピスのご老人などの送迎をする仕事を追う。月に6万の稼ぎしかないので、いつも赤字である。喫茶去という要介護(?)の収益があるから、やっていられる。野良猫を飼っていて、はぐれ猫が次第にほかの一員になっていくのと、山本さんという肺がんのご老人のケア(義母がやる)が大きな2つの流れである。猫は3歳になると若者に譲って旅立っていくという。だから、つねに4、5匹という状態が保たれている。山本さんは召集令状で30歳で国内配置で終わったらしい。

3作目ともなれば、余裕さえ感じられる映画づくりである。相変わらずテーマの焦点が定まって、映像がクリアである。最初、2人続けて、発音に障害のある方が出てきたので、前作の続きか、と思ったが、まったくそうではなかった。老いの尊厳とはなにか。山本さんは病院に行くにも、部屋にカメラが入るにも背広を着込む人である。彼が行くと、医院の看護婦さんがみんなから挨拶される。どこかダンディなところが好かれるのもしれない。それなのに、彼が、早く死にたい、と言う。週に1、2度はカラオケに行って北島三郎を中心に歌うらしいが、人に迷惑をかけるだけの人生を終わらせたい、と言う。

 

66 デュエリスト(D)

ナポレオン治下の軍隊で2人の男が名誉を賭けて4度の決闘を行う。冒頭から決闘の場面である。フェロー(ハーヴェイ・カイテル)が決闘で市長の甥を殺す。市長の苦情を受けた軽騎兵隊の隊長がデュベール(キース・キャラダイン)をフェローに謹慎の申し渡しに差し向ける。そこはフェローが思いを懸けていた貴婦人の室内音楽会。彼は夫人の前で侮辱を受けたといって、決闘を申し込み、すぐに戦う。デュベールが腕に傷を与えて勝つ。

周りから女絡みの闘いではなく軍人の名誉の闘いと読み変えられたことで、えんえんと闘いが続く。ナポレオンが失脚し、ルイ王政が復活し、デュベールはもともとそれほどのナポレオン贔屓ではなかったこともあって中央に復帰し、フェローは死刑リストに載せられる(サドも載せられたが弁明で逃れた)。それをフェローに知らせずデュベールが救うが、結局、4度目の銃での闘いに。2度目を抜かせばすべてデュベールが勝ったことになる。

階級が違うと決闘できなくなるので、デュベールはフェローより先に出世するが、すぐにフェローが追い付いてくる。フェローは結局、将軍にまでなる。

最後、フェローが川を遠くに見はるかす丘に立ち、右前方から強い朝日が照り返すシーンで終わる。15年間おまえに支配されてきたが、もうおまえは死者だ、という言葉を投げかけられたフェローは、終止符が打たれた安堵感のようなものがある。監督リドリー・スコット原作ジョセフ・コンラッド脚本ジェラルド・ヴォーン・ヒューズ

この映画はキース・キャラダインの洒脱な様子とそれに関わる女性たちによって救われている。娼婦、姉、そして寄宿する姉の屋敷の隣にいる若き女性(結婚する)などである。淡々と進みながら、ときおりの決闘が迫力があるので、見飽きることがない。厳寒のロシアで2人でコサック兵に出合ったあとは和解もあるかと思ったが、フェローにはまったくその気がない。

 

67 バグダッドカフェ(S)

日本公開は1989年である。高名は聞き及んでいたが、見るのは初めて。何だろう、この映画。ドイツ人中年夫婦が砂漠のロードサイドにいる。尿意を催したらしく、旦那が事がすんでクルマに戻ってくると、車体の向こうから女房が立ち上がる。どうやら、そこで用足しをしていたらしい、諍いが耐えないのだが、夫の吸う葉巻を取り上げようとすると、その素早い動作をアップで撮る。ほかにもそういう何でもない仕草にアップとスピード感のある撮り方をする。結局、妻は荷物カバン一つでクルマから降りることに。

ガスステーションとあばら家が写る。それがバグダッドカフェのようだ。ものすごいスピードで車が滑り込んでくるが、これがさっきのドイツ人ご亭主である。片言の英語で、コーヒーマシンが切れた店で、妻が来なかったかと聞く。店主が拾ってきたポットにコーヒーが入っていたので、それを無料で振る舞うと、すごくおいしい、と言って飲む。謝礼に海藻を干したようなものを渡すが、店員も店主も受け取らない。ご亭主は上機嫌で出ていく。

店主の妻ブレンダ(黒人、CCH Pounder)が出てきて、コーヒーマシンを買って来なかったことや、変なポットを拾ってきたことをなじり、夫は嫌気がさして出ていくが、離れたところにクルマを止めて妻の挙動を見守っている(あとで和解)。そこに先ほどのドイツの太った中年女、このくそ暑い砂漠で、折り目正しい、ぴちっとした服装に、羽飾りの付いた帽子をかぶってやってくる。

いつも客としてやってくる男はキャンピングカーで寝泊まりし、元ハリウッドの背景描き、じつはジャック・パランスが演じている。もう一人、男と乗り付けてきてモーテルに泊まった美人女も常連である。途中からは敷地にキャンプを張り、毎日、ブーメランに励む白人青年も常連。

ドイツ女はきれい好きで、子どもが大好きで、マジックを練習して店で披露をする。それが評判を呼んで、トラック野郎が集まってくる。元ハリウッドの背景描き、彼女を絵にしたいと望む。というのは、ブレンダの息子が小さなピアノをつねに弾いているが、母親は騒音だといって演奏をやらせない。しかしドイツ女、自らジャスミンと名乗るのだが、彼の演奏に聴き入る(残念ながら、クラシック曲だが、曲名が分からない)。そのときの姿に光が当たり、神々しくさえ見える。それに感応されて、彼女に跪いて祈りの姿勢になる絵描き。彼女にモデルになることを求め、部屋で描き始めるが、しだいにヌードにまでなっていく。

グリーンカードとビザが切れて、インディアンの髪の長い警官に連れていかれ、みんなは虚脱状態に。しばらくして戻ってきて、ブレンダと抱き合い、砂漠の貧相な花の向こうで2人が仲睦まじくするシーンはとても美しい。そこは会話はサイレントである。

また客が戻り、ブレンダも一緒にマジックをやり、ミュージカル仕立てになる。ブレンダは歌唱力がある。いずれまたグリーンカードとビザの問題が発生するが、絵描きが自分と結婚すればいつまでもいられる、と求婚する。ジャスミンは、ブレンダに聞いてみる、というところで映画は終わる。

監督パーシー・アドロン、マーラーに関する映画を撮っている。脚本、同人、エレオノール・アドロン。主題歌ジェベッタ・スティール(Jevetta Steeele)のI am callingでセリーヌ・ディオンなどがカバーしている。

ウェス・アンダーソンの味わい、あるいはジャームッシュのそれもある。手品を披露してからは、特異な感じが消えていき、ブーメランをブレンダの娘、ジャスミンで夕暮れのなかで飛ばすシーンは詩情さえある。

テイストは完全にぼく好みの映画である。

 

68 ネゴシエーター(S)

何だか間の悪い映画で、見ているのが辛い。これは監督の責任だろう。サミュエル・ジャクソン主演、ケビン・スペイシー客演。悪徳上司にJ・T・ウォルシュ、人質にポール・ジォマッティ、シオパン・ファロン(悪徳上司の秘書)。

 

69  竜二(D)

川島透監督、脚本が主人公を演じた金子正次で、元やくざで、この映画のすぐあとガンで死んでいる。川島はプロデューサーだったが、演出が気に入らず自分で撮ることに。同時録音ではなくアフレコを多用している。妙にドキュメントっぽい感じが出る。主役が素人だから、そうしたのか。笹野嵩史がちょい役で出ている。スタッフに坂本順治がいる。女房役の永島映子がいつも笑顔で、しかもいつ家庭が壊れるか分からない恐れみたいなものも表現している。これでいくつか助演女優賞を取っている。

 

70  Love Life(T)

深田晃司監督、主演木村文乃。タイトルは矢野顕子の曲から取っている。愛ある生活でも生命を愛するでもなく、愛と生命のほうが近いニュアンスの歌詞である。

いくつか気になる点を挙げる。

 

一応、筋的には夫婦の関係が子どもが浴槽で過って死んだことからおかしくなった、ということだが、どうもこの夫婦は最初から何かがズレていたのでないかと思われる。夫(永山絢斗)は恋人がいたのを捨てて、妻(木村文乃)を選んでいる。その元恋人は今でも職場(役所)が一緒で、妻も併設の生活相談所に、おそらく夫の斡旋で職を得ている。この夫はかなり無神経な奴だと思われる。

 

妻は元夫(聾唖者、韓国人)が近くの公園で寝泊まりしていることを知っていながら、なぜ自分たち親子を捨てたのか、と詰問しないのか。それが知りたくて3年間、苦しんできたというのに、おかしい。

 

夫の父親(田口トモロオ)は、子連れの木村を認めていない。だから、子どもは戸籍には入っていないらしい。和解の場を夫が設けたが、父親は「中古をもらうなんて」と言い出す。中古とは子連れの木村のことだ。このセリフ、ちょっとやりすぎで、現実感がない。

 

元夫は韓国にも捨てた妻子があった。こいつはいったいどういう人間なのか。元妻の木村はかばうばかりで、責めるということがない。それはどうしてなのかが描かれない。

 

聾唖者で韓国人の元夫との手話のほうが、夫との会話より充実している。夫は人の目を見ない。元恋人ともキスを交わす。そのあと、妻が元夫と仲睦まじくしているのを見て嫉妬し、無理矢理妻の唇を奪おうとする。言葉を介在させないタイプである。そのことが理由なのか、元夫が父親の危篤で韓国に戻ると言い出したとき、頼りないから一緒に付いていく、ということに。ただ、このシチュエーションは説得性がない。

 

深田晃司は「さようなら」「淵に立つ」「ほとりの朔子」を見ているが、「よこがお」はどうも見る気になれず、久しぶりに深田作品を見た感じである。なかでは「さようなら」が一番できがいい。遊び心があるのと、早期にフクシマを扱って、きちんと的が合っていた。なにしろ大した動きもままならないアンドロイドが主役である。「朔子」もフクシマを扱っている。本作ほど疑問があったことはない。

それにして「コーダ」がアカデミー賞を取ったり、滝口が聾唖者を登場させたり、いったいが何が起きているのか。コミュニケーションの難しさの象徴ということなら、われわれより格段に会話を濃く交わしていることが、この映画から伝わってくる。

 

71 復讐は私にまかせて(T)

インドネシア映画、アクションの映画と思わせ、監督がやりたいのは不能者と健康すぎる女の純愛である。なんだが途中で筋が分からなくなった。主役の2人、どっちも知り合いにいそうな感じである。監督エドウィン、主役マルティーノ・リオとラディア・シェリル。人殺しのボスの釣りの場面、手下が「ボスが釣るときは、海に人を潜らせておくって本当ですか」と聞く「釣りは楽しむだけ」と答える。ボスが返るので、手下がそれを追う。すると海から黒装束の人間が出てくるので、なんだやっぱり仕込みなのか、と思うと、その黒い人物は魚を手下が持つバケツに入れ、前方にいるボスを殺す。この女はどうやらボスの一味にレイプされた女らしい。

主人公をはじめ運転するトラックの背後に絵が描かれ、その絵が動く遊びをやっている。

アクションはたしかに見ごたえがあるが、セックスに関してあけっぴろげなのが意外といえば意外。インドネシアは世界最大のイスラム国ではなかったか。

 

72 ロンゲストヤード(T)

74年の映画で、主演バート・レイノルズプロフットボール選手で、冒頭は赤いすけすけのネグリジェを着た女との別れ話から始まる。寝室にカメラが寄りながら、女が写った写真を舐めていくところなど、なんだかムードがありそうな映画に見えるが、女がもう一度、と言いながら下半身に手を伸ばすようなエッチなことをやるが、レイノルズは拒否し、女をベッドから落としてしまい、殴ったりもする。彼女のクルマを奪い、警官に追われ、2年ほどの刑期で刑務所に。そこの所長がフットボール好きだが、セミプロまで行ってそこから伸びないので、彼に助力を頼む。ところが、看守長が圧力をかけてイエスと言わせない。あとでその看守長自身、選手の一人と分かるのだが、なぜ彼がレイノルズを止めるのかがよく分からない。レイノルズは父親孝行のために何かズルをして6年ほど競技から遠ざかっているという設定である。

結局、看守チームと戦うことに。七人の侍よろしく腕の立つやつをスカウトし、黒人だけは取り込むことができなかったが、あとで看守を殴れる、特別料理が味わえる、というので黒人も参加に。彼らが勝ちそうになり、所長が、おまえは看守長に手荒なことをしたから刑期を延ばす、と脅し、レイノルズは手を抜き点差が離れるが、やはりプロだったロートルが奮起し、粉砕されたことでやる気を戻し、看守チームを最後1点差で勝ち抜く。

バート・レイノルズがすごくマーロン・ブランドに似ている。とくに皮肉な笑い方をしたときなど、そっくりである。アルドリッチ監督は、71年に「傷だらけの挽歌」を撮っている。わが愛するキム・ダービー主演である。彼の中では異色な映画に入るのはないだろうか。

 

73 ホットスポット(D)

いい映画である。1990年の制作である。デニス・ホッパーがここまでの映画を撮る監督とは知らなかった。淫蕩だが芯のある女と、なにを考えているわけでもない純真な若い女と、36歳の企み多き暴力男の絡みが、ねっちりと描かれている。
ある田舎町に現れたストレンジャー/ハリー・マドックス(ドン・ジョンソン)が銀行強盗を企む。そこに彼が職を得たカーショップの経営者の妻ドリー(バージニア・マドソン)とそこの事務店員である若い女グロリア(ジェニファー・コネリー)が絡んでくる。グロリアは19歳で、レズであったことをバラすとサットンという男にゆすられて、会社の金を使い込んでいる。ドリーはマドックスに惚れ込み、夫を殺してまでも、手に入れようとする。そこで彼女が使ったのが、マドックスの銀行強盗無罪の証言の撤回と、グロリアへの返済要求である。マドックスはドリーとの腐れ縁の中へと戻っていく。自分の欲しいものは絶対に手に入れるというドリーとマドックスは似た者同士である。マドックスはでは何を手に入れたのか。

74  絆(S)

根岸吉太郎監督、荒井晴彦脚本、主演役所広司(テッちゃん)、客演渡辺謙。まちで女が声をかけたのが、いまはヤクザから身を退いて実業をやっている(実態は違うが)テッちゃん。女が一緒にいたのがトップ屋、テツと女の関係を探りはじめて、テツの妹が売り出し中のバイオリニストで、資産家と結婚が決まっていることを知り、ゆすり始める。そこから糸が次第にほぐれていくのだが、テツも呼び掛けた女も、その女に惚れる居酒屋の亭主も、そしてテツをかばう組の者もみなある孤児院の仲間。テツは孤児院のときに居酒屋の亭主となった男を救っている。亭主はテツを守るために、そのブンヤを殺す。テツをかばう男が失踪したというので家に行くと、天井から床までの窓の向こうに光が見える。まるで焼津の海のようだ、と言う。そのシーンがすごく美しい。テツをかばう男も敵の組に殺され、テツはその親分を殺すことで、すべてを清算する(理屈がよく分からないが)。

主題歌が南米のどこかかの歌らしいが、テイストが合っていない。刑事役の渡辺謙がいい。きちんと撮られた映画だが、演歌的な撮り方が気になる。

 

75 ミッション・ワイルド(S)

トミー・リー・ジョンズ監督・主演、プロデュースの一人でもある。客演ヒラリー・スワンク。2014年の作。ジョンズには監督作は数編あるようだ。スワンクが31歳の敬虔かつ経済的にも自立している女性を演じる。ただし未婚。信心深さから3人の狂女をつれて東部のメソジスト系の教会に届ける。死刑で木の枝から首輪をかけられ、馬に乗せられているジョンズを助けて道連れに。狂女たちはそれぞれ家庭で性的にひどい目に遭って狂った。
スワンクが近所の男、いつも仕事を一緒にしたり、食事を振る舞ったりする男に、結婚してくれ、家産もある、と頼むが、男は結婚を断り、東部に嫁さんを探しに行く、と言う。「あんたは威張り過ぎる、平凡な女だから」と言って出ていく。「威張り過ぎる」はその男の劣等感がいわせた言葉である。そのあとの魂をなくしたような、あるいは戸惑いを内に取りまとめたようなスワンクの表情がいい。途中、相当に齢の離れたジョンズにも結婚を申し込むが、断られる。平凡だから? と聞くが、ジョンズは答えない。家産があるし、金も銀行にあり、将来やることもある、と言うと、ジョンズはかつて結婚し農夫になろうとしたが、すぐに捨てたぐらいだから、ダメだと言う。そのときのスワンクの表情がまたいい。平凡? 彼女は余りにも自活する、独り立ちの女性で、なおかつニューヨークで生まれ、いまは西部の片田舎にいるが、布に描いた線の鍵盤を弾きながら歌をうたう知的な女性である。そして極めて敬虔である。しかし残念ながら、性的な魅力がない。いずれにしろ、野卑な男たちには荷が勝ちすぎるのだ。翌朝、寝床にスワンクガいない。探すと、首をくくって死んでいた。セクスと何か関係があるのか。宗教的な何かか。
そこからはジョンズと3人の狂女の旅が始まる。ジョンは彼らを置いて逃げようとするが、一人の狂女が追ってきて、川で流されそうになり、他の2人がジョンズを手伝って救うのである。、3人の狂女ともうまくいきながら、途中で3日間物を食べず、必死で泊めてくれと頼んだホテルで軽くあしらわれ、ジョンは夜にそこに戻り、火をつけ、野中の一軒屋の真新しいホテルがごうごうと燃え盛る。その最中に豚の丸焼きを盗んで、狂女たちと一緒に食べる。そして、やっと目的地へとたどり着く。メリル・ストリープ演じるメソジスト系の牧師の妻に狂女たちを預けて、ジョンは東部へと戻ろうと川を渡るところで、終わる。その渡し船のうえで、スワンクにも見せた奇妙な踊りをおどる。スワンクのために作った木製の墓標がその船から川へと落ちる。供養の意味だろう。
とても好ましい映画だが、ジョンズは自分が監督なのだから、もっと抑制的に撮るべきだったのでは。東部の町で泊まったホテルの19歳の女性(ヘイリー・スタインフェルド)は、トランスホーム系のロボットものの映画で見ている。彼女にスワンクの話をし、とても素晴らしい女性だった、とジョンズは言う。

 

76 ディア・ファミリー(S)

主演ヒラリー・スワンク、母親(ブライス・ダナー)が認知症になり、すべてを仕切っていた父親(ロバート・フォスター)が施設に入れることを拒んだことで、弟(マイケル・シャノン)、娘、そして夫の関係を見直す契機となる。じっくりと、ていねいに、家族の確執を描きながら、人を愛するとはどういうことか静かに開示する映画になっている。監督エリザベス・チョムコ、脚本同。母親を演じたダナーが心臓病で急死した夫とのことを「ちょうどいいタイミングだった。遅ければ彼のことを気づけなかったし、早ければ深く愛しすぎた」と言う。父親の希望に従ってエリート男と結婚し、この騒ぎで絆の固い両親の姿を見て離婚を決意した娘は、いかにも納得した顔で母を見つめるところで、この映画が終わる。是枝を含めて家族の映画が続々と作られているが、それぞれが自分の思いをぶつけあうこのような映画は日本では一切作られない。では、家族が生み出した葛藤はどうやって日本では解消あるいは止揚されているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年後半の映画

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まちの記憶


69  Peantus Butter  Falcon
(S)

ダウン症の22歳の青年ザック(本人がダウン症。本名、ずっと役者志望だったらしい)が療養所(一緒の部屋なのがブルース・ダーン。なぜか老人たちばかりの中にザックがいる)から抜け出し、憧れのプロレスラーになろうとする話。それを手助けしてくれるのが、うだつの上がらない青年漁師(シャイア・ブルーフ)で、ひとの籠からカニなどを盗んだことがばれて、追われる身に。彼はまったくダウン症のことを気にかけないし、イーブンな付き合いをする。バプティスト派の黒人の盲人に出くわしたあと(ザックは川で洗礼を受ける)、青年はなぜか気落ちがする。その肩を抱いてザックが慰める。兄を自分が運転する車の居眠り事故で亡くしたことが尾を引きずっている。この映画17館でスタートし、公開6週目には1500館近くまで増えた。二人のたき火・ウイスキーがぶ飲みパーティで、彼のリング名が決まった。顔にピーナッツバターを塗った鷹(ファルコン)の英雄である。こういう映画を求めるアメリカもあるのだ。すごくできがいい。

 

70 イン・ザ・ハイツ(T)

プエルトリコ満載のミュージカル映画(メキシコなども出てくるが)。ラップで始まり、ささっとワシントンハイツに住む人たちをスケッチしていくところは、おっと思わせる。スタンフォードに進んだが差別から故郷に舞い戻り、期待する父親や周囲の人々の視線がつらいという妹、なんだか古臭い設定で、かつて黒人の映画でこういうのがあったな、と思う。

兄は台風でやられたプエルトリコの家を、故郷に戻って再建しようと考えている。その一部始終を海の家ふうの小屋で小さな子を前に兄が語るが、最後にちょっとしたサプライズが。

プールを上空から写し、中心に一人いて、その周りに多数の人が配され、動作に合わせてパタパタと花びら模様ができる――かつてのハリウッドミュージカルへのオマージュである。

そしてもう一つのオマージュ。妹とその恋人がハイツのバルコニーいる。恋人がバルコニーに腰かける。それが危なっかしいのである(こういう細かいところが伏線になる)。妹も同じことをやる。やがて二人は踊り出すが垂直の壁の上で踊るのである。そう、アステアの壁ダンス、天井ダンスの再現である。

みんなでプールに向かうシーン。歌いながら手で三角を作ると、そこに白い三角ができ、さっと投げるアクションをすると、それが飛んでいく。特殊効果の面白い使い方で、これは流行るのではないだろうか。

踊り手はヒップが張った、胸の大きい女性ばかり。それが踊る、踊る。ストリートでギターで南米風のコーラスが聴こえるところは、なんだかほっとする。お婆さんがひとりニューヨークへ着いたときの様子を歌うシーンはしみじみしている。結局、みんなから愛されたお婆さんは、ある奇跡のプレゼントを遺して死んでいく。

一か所、兄はせっかく愛しているファッションデザイナー志望の女性とダンスに行ったのに、一緒に踊らず、そのうち停電になってしまい、関係がぎくしゃくする。決してダンスが下手なわけでもない。あとの話に綾をつけるための細工としか思えない。

 

72 写真家ソウル・ライター(S)

ほぼ室内での彼の独言に終始する。ソームズという女性と夫婦のごとく住んでいたらしいが、2005年に彼女は死んでいて、写真家は自分が殺したのだという。町のスケッチ、それも雨や雪が多い。人物はデザイン的に写され、絵画のようでもあるが、スタイリッシュな感じもある。よくいわれるように赤が印象的。壁にいい感じの水彩画がかかっているが、彼の作品なのかどうか知りたいところである。たしかドイツで彼の初めての作品集が出版され、それがベストセラーになったのではなかったか。それもかなりの年齢になってからのことだ。彼の独り言はとりたてて何かということはない。

 

73 ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき(T)

生まれたときの性別に強い違和感を抱き、胸を取り、子宮、卵巣も取り、男子としての戸籍を得るが、結局はどちらの性でもないことに気付き、ペニスをつくることはしないでいる24歳のひとのドキュメントである。性的な対象を求めることもないらしい。それにしても、戸籍上の性別って何のために、あるいは何のために必要とされるものなのか。主人公は声優を目指すためにも、性別転換をしてマイナスをゼロに戻してからだ、と考え、そのように行動するが、いざ声優の世界に入ろうとすると性別の壁があり、夢を諦めたという。どこかの声優プロダクションのホームページだろうか、女性タレント、男性タレントの区別がされている。これは当たり前の話で、彼はそこを突破するためにいろいろな試みをしてきたのではなかったのか。声優で女性が男性の声をやることはいくらでもある。かえってユニセックスのほうが仕事がら合っているのではないのか。そこの情報が欲しかった。いまはアクセサリーの細工をしながら、ネットで声優、あるいは俳優ができないか考えているという。

 

74 探偵なふたり(S)

連続殺人の謎が最後に明かされる。刑事と素人探偵(本業貸しゲーム屋)が次第に心を合わせて捜査するようになり、最後は2人で事務所を開くことに。途中、ゆるいところもあるが、ラスト15分くらいはOK。ひさしぶりに残酷とユーモアのミックスした韓国映画らしさを味わうことができた。あまり美人が出てこないのも、以前の韓国映画らしくてOK。

 

75  キネマの神様(T)

山田洋次の映画を見る気がしないのはなぜか。学校、家族、故郷、おとうと……もうタイトルで見る気が失せる。というか、見る前から何が起きるか分かる気がするのだ。黒澤明の初期作品もそうだ。「生きる」は50歳を超えてから見た。葬式のシーンの猥雑な感じが面白かっただけで、テーマ自体が白々しい。名作かもしれないが、ぼくには興味がない。黒澤では「どん底」がいい、そして「七人の侍」。

この山田映画、なかなかに面白かった。まえに撮った「キネマの天地」が自己陶酔ふんぷんだったが、今回はその臭さが抜けた分だけ見ていられた。しかし、主演の沢田研二は最後までしっくりこない。台本どおりなのだろうが、まるで身が入っていない。甥っ子がシナリオをパソコンに打ち込んだのを感心して眺めるシーンがあるが、ただその振りをしているだけ。それに本当にアル中の手前か? ギャンブル好きか? どうもその匂いがしてこない。最初に出てくるサラ金屋があとは一切出てこないのはなぜか。

よしこという妻を宮本信子がやるが、その若いころを演じる永野芽郁にそのまま老け顔にしてやらせたほうがよかったのではないか。永野は「仮面病棟」という映画の予告編で、下手な人だなと思ったのだが、今回は好感。

沢田が助監督のときに書いた「キネマの神様」という脚本、映画通のラッシュ係寺新(寺林新太郎、野田洋次郎が演じる。年取ってからは小林稔侍)がべた褒めするが、後年、沢田が78歳で同作で賞を獲ったときに、みんなが褒める場面はバスターキートンからのいただきだ、と言う。では、映画通の寺新、そしてその当時のスター桂園子(北山景子)、その脚本で映画を撮ろうとした映画人たちはそのパクリについて何も言わないのはおかしい。パクリなど当たり前の世界だけど、誰かが「キートンだね、それ」ぐらいのことは言わないと。

木戸賞という脚本賞を獲ったというが、むかしクランクインまでしたホンを受賞対象にしていいものなのか。それなら、むかしのホンを今風に書き直せばいい、ということになってしまわないか。

100万円の賞金のうち、30万は使ったから残り70万を寺新が経営する映画館に、コロナ禍の危機があるので寄付するが、自分たちが大騒ぎしたサラ金の話はどこへ行ってしまったのか。娘の寺島しのぶは派遣なのか契約を切られて無職、どうやって生きていくのかと悩み、麻雀、競馬で何百万だかの借金をこさえた父親と離縁しようとまで考えていたのに、「借金なんて、明日は明日の風が吹く」で終わってしまうご都合主義。

せっかく息子(沢田からいえば孫)にシナリオの才能がありそうと分かったのだから、爺さんはそこで何かをする必要があるのではないか。ただ、浮かれて酒を飲んでないで。

冒頭、ラグビーのTV放送をみんなで見ている映像で始まり、「ラグビーに熱を上げたあの頃、まさか東京オリンピックと?(何だったか忘れた)が中止になるとは思わなかった」とナレーションが入るが、最初、いつの時代の話をしているのか分からなかった。どうも2019年のことらしい。翌年コロナが、みたいなことを言っているからである。なんでそんな始まり方をするのか。そんなにラグビー騒ぎは日本人の共通記憶になっているのか。それにオリンピックが中止というのは、いくらでも直しが利いたのではないか。不誠実といわざるをえない。

といくつか不満があるが、それでも全篇、見ていることができた。山田映画にしては珍しいことである。それにしても映画の中だけで生きてきた人たちを扱っても、一般観客の気を引くのは難しいだろう。Netflixの「マンク」も映画のなかだけに生きている人たちの話だが、それでもそこには権力と思想?の相克みたいなことは描かれている。山田の世界にはまったく外の風が吹いていない。

 

76 聖女 Mad Sister(s)

姉は格闘家(ということになっているが、何の格闘家は判然としない)、妹は知的障害がある。妹が市井の悪党どもにおもちゃにされ、最後はある議員のもとに。その議員は前にも妹に手を出したことのある、ワルからの出世組で、姉に現場をつかまえられ、目を刺されている(姉は半年服役)。今回はその復讐で、姉をおびき出すのに妹は使われた。

 

半年服役の裁判のときに、なぜ議員の悪が明かされなかったのか。いい加減な設定だらけだが、格闘シーンは見ていられる。ただし、ラストの議員を殴りつけるときの腕の角度がまったく違う。議員の手下で妹を拉致するが結局助ける男は、連続TVドラマ「秘密の森」で見ているイ・ジュニョク。議員に腹を刺された姉が車を運転し、眠りこける妹。そこで映画は終わるが、いい加減さは徹底している。

 

77 青春残酷物語(D)

大島渚脚本・監督、助監督に石堂淑朗、音楽真鍋理一郎。最初にプロデューサーの池田富雄と2本並びで撮影川又昂がどんと出てくる。大島のリスペクトのあり方かもしれない。脚本・監督という順番もハリウッドに倣っている。調子の高い曲で始まり、笛が高鳴りで入っている。

冒頭、桑野みゆき(真琴でマコ)が赤い車の男に話しかける。巣鴨に行くというから、方向が違うと断る。友達の陽子がこっちいいわよと声がして、そっちのクルマは緑色。ほかにそういう演出があるのは、桑野が姉久我美子と一緒に学校から出てきて雨、久我の傘が黒に近い灰色、桑野の傘が赤で俯瞰に撮っているところ。あとは映像的な凝り方はしていない。

中年男のクルマに乗り、男はホテルに連れていこうとする。そこに川津祐介(藤井清)が通りかかり、2人は付き合うことに。ボートでデートするが、木材が浮かんだ木場のようなところ。桑野を水に落とし、彼女がバチャバチャ右下に向けて斜めに進行する。それと並行に斜めの丸木の上を清が歩きながら、途切れ途切れの会話をする。面白い映像である。木材の上で2人は抱き合う。

2人は、クルマを運転する中年男から金を巻き上げるのを常習とするようになる。警察につかまるが、清がまえから付き合っていた夫人(家庭教師先の奥さん)の夫が、告発した中年男(二本柳寛)と会社的なつながりがある、ということで釈放に。中年男として山茶花究森川信が出てくる。

最後、まえから関係していたヤクザ(佐藤慶)に清は殺される。それを第六感で察知したマコは、中年男のクルマから飛び降りて死ぬ。最後は、その2人の仰向けの死のショットで終わる。清は、もうマコをものとして扱いたくない、つまり中年男カツアゲは止めよう、と別れ話をしたあとに、殺された。清はいくら抵抗しても、社会に潰されるみたいなことを言うが、彼は何も生産的なことはしていない。何が抵抗か。

マコの姉の久我美子はことあるごとにマコを叱責するが、自分は学生運動に挫折し、やはり中年男と付き合っている。マコに刺激を受けたのか、まえの恋人秋本(渡辺文雄)に会いに行く。かつて彼が医者カバンを持ち、姉は紙芝居をもって地方を回った式のことを言う。秋本は闇医者で、妊娠したマコの子を堕ろしたことが分かり、姉はまた秋本のもとを去る。ここでもいくら抵抗しても社会は強い式の生硬な言葉が秋本から吐かれる。政治の言葉となると、必ずとって付けたようなセリフばかりである。

 

78 潜入(T)

ハン・ジョンミンはしばらく映画に出なかったというが、本当だろうか。毎年、2ほんずつぐらいコンスタントに出ている。この映画は2006年の映画で、ちょっと感じがふっくらしている。彼のよさを出そうとしているが、どうも生煮えの感じ。潜入と名付けられているが、その感じがまったくしてこない。内通者の売人をやったのがリュ・スンボムで、何かで悪党役で見ている。

 

79  浜の朝日の嘘つきどもと(T)

タナダユキ監督、「百万円と苦虫女」を撮っているがぼくは見ていない。高畑充希の映画も初めてである。自然な演技をつくっているのではなく、あくまで自然に見える。学校の教師大久保佳代子がめっけもの。表情がないのが幸いしている。柳家喬太郎もまえに比べれば落ち着いてきた感がある。郡山弁ではなく東京弁をしゃべっているのはどうしてなのか。ほんのたまにそれっぽくするときもあるが。統一せよ、である。

その教師がガンで入院し、見舞ったときの2人の会話、というか高畑の間がおかしい。アドリブに見えるのである。大久保は決まったセリフを喋っているのだが、高畑がふつうにズラしているのである。
そして、教師が死ぬ間際に「(セックスを)やっておきゃよかった」と言った言葉に、ややあってその意味に気づいたというふうに、「それおかしいじゃん」と死体に言うシーンも何だかアドリブに見える。ここの場面がすごく面白い。ほぼラスト近くの臭いセリフも、変な間があり、セリフを忘れたか、と思うが、どうも演技の一部らしい。

タイトルの「嘘つきどもと」はちょっと分かりにくい。だれがウソをついているのか。可憐な高校生だった高畑がなぜ「うるせぇんだよ糞じじい」などと言うような女性になってしまったのかは説明はされない。自殺まで考えた高校生が東京の大学を出て、映画の配給会社に入ったということなのだが、その経緯が一切省かれる。大久保が本来やりたかったのは、その映画配給の仕事。しかも、高畑が潰れそうな映画館を救うのも、先生の遺言みたいなもの。
古い映画館にノスタルジーを感じるのは分からないでもないが、地方に行くと、胡散臭い路地の奥にひっそりと死にそうになった映画館がたくさんあった。どこもバタバタと潰れていった。あれは40年ぐらい前だっただろうか。1971年に撮られた名作「ラストショー」は50年代のテキサスが舞台で、すでに映画館が閉じている。この朝日館のように、とんでもない組み合わせの2本立てをやっているようなところは、潰れて当然という気がするが。

 

80 先生、私の隣に座っていただけませんか(T)

脚本・監督堀江貴大、主演黒木華(漫画家)、柄本佑(夫、漫画家)、客演風吹ジュン(母)、金子大地(教習所の先生)、奈緒(担当編集者、夫の不倫相手)。意地悪な、観客の心理を弄ぶような映画は趣味ではない。現実の不倫とマンガの進行を重ねるのが目的の映画で、谷崎『瘋癲老人日記』の世界である。ラスト近く、漫画と実写の別バージョンを3回(?)見せる箇所があるが、それがやりたくて作った映画であろう。

夫の性格を明るく、軽くしたことは救いだが、こんな奴を恨み切るのは時間の無駄ではないか。担当編集者も同じく明るく、図太くしたことで劇は進行したが、さて自分たちの不倫を題材に書き下ろしをされて「いい原稿です、連載いけます」という編集者などいるだろうか。ラスト、すべてお見通しという母親像はミスであろう。それと、いまどきケント紙にペンで絵を描いている漫画家などいるのだろうか。妻がこれだけ企み多く、演技もうまく、間夫にも展開を言い含めていたら、ふつう夫は完敗であろう。

 

81 ゲッタウェイ(D)

これで3度目だろうか。監督サム・ペキンパー、脚本ウォーター・ヒル。どの場面もくっきりと記憶に残っているが、2カ所だけ、あれ、そうだったっけ? というのがあった。冒頭のシーン、刑務所の外で働く囚人たちを俯瞰で撮って、左にカメラが寄ったときにカタカタカタというせわしない音がする。向こうからトロッコでもやってくるのかなと思うと、何も来ない。獄内のシーンとなって、それが繊維を織る機械の立てる音だと分かる。それがオープニングロールの間、ずっと鳴り続けている。マックイーンが機械に近づくまでのショットの切り返しが細かい。マッグローとの会話の場面でも、この頻繁な切り返しが行われる。

もう1つが、悪党ベニヨンの子分どもがエル・パソに向かうシーン。一台の車に6人が乗っている。これは何かのジョークなのだろうが、よく分からない。おふざけであることは確かなのだが。


基本は「俺たちに明日はない」である。そこに仲間割れのメキシコ人が、獣医の妻を奪ってマックイーン、マッグローを追う筋が入るが、それがやはり「俺たち~」のジーンハックマンとその妻を模している。ハックマンの妻は、軽薄だがお高くとまっているという人物像で、本来であればやくざ稼業の人間と付き合うのは不自然なタイプであるが、フェイ・ダナウェイへの対抗心もあって、次第にその世界になじんでいってしまう(それが何とも悲しいのだが)。獣医の妻は最初から犯罪者に色目を使うタイプではあるが、堅気であることは何回か表現される。ホテルでの殺し合いで叫び声を上げ続けるところなど、そっくりである。ちなみにその惨劇のホテルの管理人は、「俺たち~」の頭の弱い青年マイケルJポラードの父親役をやったダブ・テイラーである。

マッグローのおかげでムショを出て、彼女の部屋(?)に戻るマックイーン。彼女はシャワーを浴び、背中を見せてベッドに腰かける半裸の彼の隣に座る。やがてワイシャツを脱ぎ、意外と筋肉質で、幅広の背中を見せる。そのあいだ、セリフはごく少なく、じっと2人を撮っている。ペキンパーのしたたかさを見る思いである。

 

82 アイダよ、何処へ行く(T)

ユーゴから独立したボスニア・ヘルチェゴビナ。しかし、それには混在するボシュニュアク人(ムスリム)、クロアチア人、セルビア人のうち、セルビアの同意が欠けていた。そこで、セルビアによる内戦が起きた。この映画は、西部で優勢だったセルビアが東部にいるボシュニュアクとクロアチア人に攻勢をかけ、占領した時期を描いている。ぼくは2011年に「サラエボ、記念の街」というのを見ている。これはセルビア占領後のサラエボを描いている。大人しく日常生活を送っているかに見えた夫に、ちょっとしたことで反乱軍(といっていいのか……)への傾斜が起こるというものだ。ラストに市電が通る朝まだきのきれいな街並みが写されていたのは、あの映画ではなかったろうか(違う可能性もある)。「ノーマンズランド」(2002)というのもあったが、苛酷な状況なのにユーモアをまじえて撮っていた記憶がある。

 

アイダは元小学校の教師で、いまは国連のために通訳を担っている。夫、成人した2人の息子に何かと便宜を与えようとするが、国連幹部は特例は許されないという立場だ。セルビア側の将軍の、2万に及ぶ人々の移送提案を国連は受け入れる。しかし、その計画を立てるまえにセルビア軍が乗り込んできて、男女別のバスによる移送を行いはじめる。セルビア人を殺した男あるいはムスリムの男は、移送などでっち上げで、まとめて建物内で虐殺される。アイダはそれを予感し、家族の引き留めを画策するが聞き入れてもらえず、家族を失ってしまう。国連幹部にはその虐殺の話も入っているが、なすすべがない。

最後、アイダはむかしの住まいに行き、そこの新住人から小さなバッグを貰い(写真などの思い出の品)、職場に戻るが、担任する子供たちの発表会を見る父兄のなかに、その虐殺を主導した男がいる。映画はそこで終わる。監督ヤスミラ・ジュバニッチ、まえに「サラエボの花」というのを撮っている。ぼくは見ていない。

 

83 ビリーブ――未来への逆転(S)

最高裁の2人目の女性判事ルース・ギンズバーグを扱った映画である(まえにドキュメントも来た)。ハーバード大を首席で出たが弁護士事務所はどこも雇ってくれない。それで大学教師になるが、男性で母親の介護をするも、女性と違って税の控除がないことに異議を唱え裁判を起こした人の弁護を引き受ける。性差別に関わる200を超える法律が引っかかってくるということで、男性陣の司法界はタッグを組んで勝訴しようとする。女性保護のための法律だ、という理屈だが、ギンズバーグはそれは女性を家庭に閉じ込めておくためのものだ、と申し立てる。しかし、最初の弁論までは自信なげで(そういう演出にしたのだろう)、「では、戦争の前線にも女性は立つのか」と言われ、反論できない。

残り5分で何か補足があれば、と言われてからは、見違えるような弁論を展開する。補足時間も延長に。「国を変えろとはいわない、なぜなら国は勝手に変わっていくからだ。しかし、国が変わる権利を守ってほしい」と訴える。全員一致で前判決がひっくり返され、初めて問われた性差別をめぐる裁判はギンズバーグと夫の勝利となった。ギンズバーグを「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズ、夫マーティンをアーミー・ハーマー(ぼくは初見、いかにもアメリカ的なタイプだが、この映画ではグッド)、監督ミミ・レダー、脚本ダニエル・スティープルマン、原題はon the basis of the sex。こういう映画に中国資本が入っているのは、皮肉としか言いようがない。いずれ共産党は規制をかけてくるのではないか。あくまでジョークだが。

日本でははこういう映画ができない。生活の場から憲法やそれを基につくられる法律を見る視点が欠けているからではないか。司法自体も政治問題、安保などに臆病で関わろうとしない。先頃、過労死法案をつくるきっかけとなった女性が新聞に出ていたが、夫を過労死でなくし、失意のあとに立ち上がり、与党、野党含め100人を超える国会議員を説き伏せて法案化に進んだ。こういう人たちをプロデュースする人がいないのではないか。

 

84 琵琶法師 山鹿良之(T)

古い映像で、いつの時代のことかと思ったら、2004年の作品だった。それにしても、古臭い。ロマンポルノ時代のフィルムを見ているみたいだ。40本の演目をもち、それらをすべて語ると200時間を超えるらしい。本編は小栗判官を扱った話を中心に展開している(ほかに俊徳丸とか山椒大夫などがあると、上映後の監督とノンフィクション作家大島幹雄さんとの対談で言っていた)。最初が山鹿市の八千代座という小屋の映像らしいが、黒い背景に法師が坐って弾いているだけなので、小屋の様子が分からない。こういうのは全体が分かる絵を撮ってほしい。

歌自体、ぼくにはどうも上手いとは思えない。ふだんは近場を回るだけだが、浅草木馬座に出たときは、岡本文弥(浄瑠璃)、忌野清志郎、パンタ(頭脳警察)などが聞きにきていたというが、彼らの感想を聞きたかったものだ。

山鹿氏は坊さんでもあり、毎日、燈明を上げて祈りを捧げている。檀家を回っているのかは分からない。竈払い(かまどを清める。この映像は、やらせだと監督が言っていた)は琵琶法師の役目だったらしく、近所に頼んでその儀式をやらせてもらい、映像に撮っている。むかしは竈の上に神棚を作り、そこから白い半紙を垂らしていた。火の神の加護あらんことを祈った。

 

85 トムボーイ(T)

フランスの映画、小学校5年になる女子が転居した地で男子としてふるまい、やがて素性が明らかになる話。立ちションができない、泳ぎに行くのに粘土で男性器らしきものを作ってパンツのなかに隠したり、いろいろと大変。小さな妹が立派に演技している。「ライフ・アズ・ア・ドッグ」という佳作があったが、あれではさらしを巻いて胸の膨らみを隠していた。

 

86  レミニセンス(T)

温暖化で都市が水浸しになった世界で、記憶再生業を営む男が運命の女に出会い、最後はその記憶だけに生きていこうとする。ヒュー・ジャックマン、助手役ダンディ・ニュートン(彼女を見た映画を思い出せない。ややお年を召された)、そしてファムファタールレベッカ・ファーガソンダニエル・クレイグの007に出ている。水浸しがあまりストーリーと絡んでこない。海の上を電車が走る宮崎駿的な映像が出てくる。

 

87 恋するシェフの最強レシピ(S)

金城武主演、これで2度目である。見ていて、じつに楽しい。これをきっかけに彼の出演作を何作か見たぐらいだ。インスタントラーメン「出前一丁」の食べ方がすごい。2分茹でて、お湯を捨てる。そこにスープの素を入れ掻き回す。よく混ざったら、熱湯を注いで1分待ち、即座に食べ始める。「出前一丁」を箱ごと買おうと思ったが、ホームページを見ても見当たらない。

 

88 奇跡の絆(S)

レネ・ツウィルガー(デビー、妻)とグレッグ・キニア(ロン、夫)が夫婦。最初、レネと気づかず、声であれっ?と思い、調べると彼女だった。もう昔の面影がまったくない。
まず妻が貧民ボランティアを始め、夫がそれに付いて行く。離婚騒ぎを克服できたのは、そのおかげである。妻の夢に出てきた黒人男性がそのチャリティ施設にいた。殺人を犯した男だが、とても思慮深い、夫婦はその男デンバー(ジャイモン・フンスー)とウソ偽りのない交わりをしていく。デンバーもまた過去の差別体験や犯罪の話をし、心をほどいていく。
しかし、デビーは末期がんに侵され、死んでいく。告別の辞をデンバーが唱える。「富める者も、貧しき者も、その中間の者もすべてホームレスである。やっとデビーはわが家に戻ることができた」。参列者、もちろん多数の白人が立ちあがり、拍手を送る。
黒人ホームレスに肩入れする2人に対する反感はあまり描かれない。ロンの父親(ジョン・ボイト)とテニス仲間の一人だけが露骨な差別をする。それはある意味、この映画が成功した理由かもしれない。

主役を演じた2人には因縁があって、レネの初期作に「ベティ・サイズモア」がある。夫の虐殺されるところ盗み見て精神的におかしくなった妻が、いつもダイナーのウェイトレスをやりながらテレビで見ていた医者をめぐる恋愛ドラマの世界に入り込んでしまい、彼のいるテレビ局に押しかけてしまう。その妻役がレネであり、医者役をグレッグ・キニアがやっていた。夫を殺すモーガン・フリーマンとその甥っこ(?)のギャングコンビは抜群に良かった。本作のプロデューサーがその面白さを狙ったのは確かである。

いまはなき渋谷ブックファーストエスカレーターで2階に上がるとき、ふと右横にあったポスターに目が行った。とてもきれいな女性がそこにいた。1階に戻り、またエスカレーターに乗って、その映画名を記憶した。ベティ・サイズモア。ぼくはレネのファンとなった。高校生のときにキム・ダービィにいかれて以来のことである。キムの映画はほとんどやってこなかったが、来たかぎりでは映画館に見に行った。「傷だらけの挽歌」が忘れられない。

 

90 由宇子の天秤(T)

この映画、都内では渋谷ユーロスペース一カ所でしかやっていない。仕方なく浦和美園イオンという初めての映画館に行った。席はコロナ禍の条件下であるが、完売。きっと朝日新聞の映画評が利いたのだろうと思う。絶賛に近い。ぼくは「火口のふたり」で主演の瀧内公美を見ていたので、この映画も見るつもりでいた。前日に予約しようとして、一番前の数席しか空いていないことに驚いた。おそらくこれから上映館が増えていくのではないかと思われるが、上映者はどういう目利きで映画を選んでいるのか。ヒューマントラスト系でやってもおかしくないし、日比谷シャンテ、武蔵野館、池袋ロサあたりでもいいのではないか。ぼくは映画館での上映がどういう理屈で動いているか分からないが、邦画で、長時間で、題材が地味だということが影響しているのかどうか。それにしても、都内上映1館は、すごく退嬰的な感じがする。

教師と女子高生の交際が疑われ、両方が自殺。その事件の真相を追う独立のドキュメント制作会社のディレクター由宇子(瀧内公美)。対立する学校と生徒側という構図に持ち込みたいテレビ局に対して、由宇子は取材を重ねるなかで、教師そしてその遺された家族もまた被害者であるという視点を盛り込んでいこうとする。

それと同時に、ごく小さな高校生20人ほどを教える学習塾を経営する父親(光石研)が、その塾生の一人と性交渉をもち、それが妊娠と分かる。由宇子は何かれとその子(萌=河合優美)の世話を見るが、それは事が露見して自分のドキュメントが放映できなくなる可能性を考えるからである。父親が萌の父親に真相を話しに行くと言っても取り合わない。多くの関連する人間が巻き添えになる、と由宇子はいう。知り合いの医者に闇検査を頼むと、子宮外妊娠の手術が必要だといわれる。薬での堕胎で裏処理するつもりができなくなった。由宇子が隠してきたことが表に出る可能性がある。しかし、由宇子は2週間後の放映まで、その危ない状態に萌を放置する選択をし、父親も説き伏せる。

父親が人命がかかっていると言うと、由宇子は「こっちは死者を生かすのだ」と言い返す。由宇子の倫理の天秤が狂ってしまっている。彼女は自殺した教師の妻と子、その母親、そして自殺した女子高生の父親にも、非常にていねいな取材の仕方をする。彼らは頑なな心をやがて開いていき、由宇子を受け入れるようになる。その彼女が自分のこととなると、何の躊躇もなく保身に走る。父親に、そして自分の上司にスマホのレンズを向けて、その不正の言葉を記録しようとする由宇子。その行為は一種の病気といっていいかもしれないが、レンズを自分に向けることはない。

かなり後半になって、意外な事実が分かってくる。萌のアパートから男子生徒が出てくるのを目撃し、問いただすと、萌はウリをやっていたし、塾に通う男子とも性関係があった、あいつはうそつきだから気を付けろ、と由宇子はいわれる。次の検査に向かう途中でそのことを萌にいうと、萌はクルマから降り逃げて行ってしまう。あとの連絡で、道路に身を投げ、クルマに引かれて入院したことが分かる。そこで萌の父親にも、彼女の妊娠したことが知られる。父親は萌が売春をやっていたことを知っていたので、その誰かの子と思ったらしい。

その検査日、じつは途中で連絡が入り、自殺した教師の妻が取材された部分をカットしてほしいと言っている、と電話が入り、局の駐車場に萌を置いて、その処理に由宇子は向かう。妻から夫のスマホの映像記録を見せられ、さらに遺書の偽造まで言い出される。由宇子はこの企画自体の土台が崩れたと感じる。しかし、テレビ局の担当幹部(?)と話をした上司は、妻の証言部分をカットし、自殺した教師を含めた学校側と自殺した女子高生という対立構図で編集しろ、と由宇子に言う。由宇子はそれは違う、と言って飛び出し、萌と検査に向かう。


結局、由宇子は萌の父親に「萌の妊娠は私の父親のせいです」と告げる。父親は歩道で宣伝ティッシュを配る仕事をしているが、健康保険もガス代も払えない状況にある。娘ともうまくいっていないが、由宇子が出入りするようになり、3人で食事をするようにもなり、父子の関係はよくなっていく。父親は梅田誠弘という役者が演じているが、人のよさそうな、いかにもという感じで演じている。由宇子の告白を聞いた彼は由宇子の首を絞め、彼女は意識を失う。カメラはじっと動かない由宇子の足先だけ写すが、水を飲んだ遭難者が生き返るように息をゲホッと吐き出す音がして、足先が動く。かなり長いあいだそれをカメラは映し出すが、首を絞められ、生き返る人間にはそれだけの実際の時間が必要だということなのだろうか。珍しい映像である。その傍らに落ちていた由宇子のスマホには上司からの「企画が流れた」のメッセージが入っていた。それを聞いて、映画は終わる。

152分という長さだが、まったくそれを感じさせない。ふつうの映像をふつうに撮って、これだけ持たせる技に感服する。長回しで撮って、悠揚迫らぬ、といったところがある。自殺した教師の家で妻そして子と一緒にトランプに興じる場面など、きちんと撮っていて、納得させられる。ただ、これは時間の流れ方がよく分からない場面でもある。自殺教師の妻とアパートでの話が終わり、上司、音声と一緒にクルマに乗りながら、途中で由宇子は何かを思い出したように降りる。由宇子が何かを言うが、聞き取れない(ほかにも数か所、そういう場面があった)。ある少女を見かけ、声をかけるが、そこが先ほどのアパートの前なのかどうか。その子と一緒に家でゲームなどして遊ぶ。やがて母親も帰ってきて、一緒にトランプなどに興じる。先ほど、家内で妻から話を聞いていたときに、襖の隙間から覗いていた少女に由宇子は気づいていた。その少女に話を聞くべき、と思ったのかどうか。しかし、少女とは外で会い、しかも母親が不在なことをなぜ由宇子は知っていたのか。

妻が遺書を偽装したと言うが、川に飛び込んだ夫は河原に遺書を置いていたらしい(映画のなかで、そう言っていたように思う)。妻はそれを発見し、家に持ち帰って偽装して、またそれを河原に持って行ったのか? だれもそれを見ていなかったのか? 警察は必ず筆跡鑑定をすると思われるが、急ごしらえなのに、警察をだませるほど精巧にできていたのか。偽装がバレて、妻が殺したと思われなかったのか? 夫の遺したスマホ映像だが、そんなものを残しておいたのか? 罪の意識がそうさせた? わが罪の証拠として? ふつう女生徒とのうわさが立った時点で消去しそうなものだが。当然、警察はスマホを探索するわけで、そのあいだ妻はずっと隠し持っていたのか? そんな大胆なことをする女には見えないが。あるいは、一度は警察が押収し、その中身については学校側に知らされていたのか(ぼくは学校側が夫にどういう処分を下したかを覚えていない。戒告? 休職? その処分内容と警察が押収したスマホとは何か関連があるのかどうか)。

最大の疑問は、上司と局幹部が妻の証言を削る判断をしたとき、なぜにそれを受け入れなかったのか? ぜがひでも放映に持ち込みたい由宇子には、妻からの削除の提案は、棚から牡丹餅みたいなものではないか。萌の子宮外妊娠手術さえ遅らせた女が、ここでなぜ正義の顔をして、自分の作品を葬るような決断をするのか。たしかに、自殺教師を学校側にくっつける案にはいくら何でも乗りにくい、ということかもしれない。自殺教師の子ども、祖母に申し訳ない。しかし、不思議なのは、そこまで念入りな取材がされているものなのに、テープの切り張りで学校と自殺教師が共謀していたという筋を作れるものなのだろうか。もしそうだとしたら、由宇子の取材自体が甘かったといえるのではないだろうか。教師の妻が証言したごとく、過労で夫は追い込まれ、学校に異議を申し立てることが多く、諍いが絶えなかったといっているのだから、両者を女生徒に対する同じ加害者に仕立てるつなぎ方などできないのではないか。

ぼくが不思議なのは、なぜに普通に考えて疑問に思うことを、脚本を作る段階でクリアしておかないか、ということである。都合のいい話に合わせて事実を捻じ曲げる、省略する、矛盾を厭わない、ということが頻繁に行われる。これだけ丁寧に作られている映画でも、そういうことが起きる。しかし、最低限の辻褄合わせぐらいしておいてほしい、と思う。遺書の筆跡のこと、スマホの隠匿などは、一般人からすれば大変な選択である。そこには教師の妻の深い苦悩や怖れがあったはずだ。劇を面白くするための作為、あるいはある種の結末を付けるための仕業だったといわれも仕方がないのではないか。

※とても恥ずかしいことだが、遺書を書き変えたというのを、手書きで、と勘違いしていた。当然、ワープロソフトを使ってということになる。しかし、それも警察で機種は特定されるのではないだろうか。

91 昨日消えた男(D)

脚本小国英雄、監督森一生、主演市川雷蔵(吉宗、南町奉行所の役人鯖江新之助)、客演宇津井健(大納言、寺子屋)、三島雅夫(大岡越前)、成田純一郎(大岡配下)、沢村宗之助(悪党美濃屋)、藤村志保(居酒屋いかりや娘)、高田美和(廻船問屋河内屋娘)。まず幽霊船が写され、なぞを残したまま、城内の場面に。部下のかける謎を簡単に解いてしまう将軍様、実際に町場で起きている事件を解いてみたいと南町奉行所へ。現場の大岡越前は、「易しくもなく難しくもない事件を見つけろ」と配下の者にいう。もうここでこの映画の魅力にやられてしまう。
廻船問屋の雇い人が溺死体で見つかった件を調べるが、なかなか理論通りにはいかない。配下の者がお膳立てしていることに気付き、出奔することに。たまたま入った飲み屋で寺子屋で教えている侍と出会い、事件が立ちあがってくる。結局、幕府転覆を図る一味を捕えることになる。幽霊船や謎解きがあとで利いてくる。楽しく、わくわくしながら見ていることができる。ときおり、宇津井健の醒めた表情を写すと、敵か、とも思うが違うらしい。いくつも都合のいいことを繋げるが、それはそれでいいのである。タイトルが何を指しているのかよく分からないし、現代ものっぽい。朝廷の勅使がやってきて、吉宗などが下座に居並ぶというのは本当にあったことだろうか。ラスト、天守閣だかから江戸のまちを遠眼鏡で覗くが、その天守閣が妙に汚れている。脚本の小国は当時、最も稿料の高いライターだったらしい。1本で、家半分建てられるぐらい。黒澤と一番組んだ数が多いのではないか。

 

92 エヴァ(S)

ジェシカ・チャスティン主演の格闘映画、残念な出来になってしまった。アクションがむかしの撮り方、恋を入れて展開がダレたこと、チャスティンの体形が悪い、など。ハリウッドの女優がこういう映画に出る理由は? アンジョリーナ・ジョリィ以来か。彼女はワイヤーロープで踊っていたが、いまはそういうわけにはいかない。成功例はないのではないか。

 

93 No Time to Die(T)

とうとうボンド映画も終わりなのかもしれない。あのテーマ曲が流れるだけで、わくわくしてくる。「ゴールドフィンガー」以来だから、もう長い付き合いになる。あの時代、ジェームス・コバーンのスパイシリーズもあった。テレビではナポレオン・ソロもあった。今回は、よく分からないうちにラストまできてしまった。とくに残り20分ほど敵が人質を置いて姿をくらましては緊張感がほどけてしまう。そういう意味では本当に終わりなのかもしれない。脚本の出来が悪いのだろう。レア・セドゥをまた何かの映画で見たい。それだけが望みだ。

 

94 MINAMATA(T)

モノクロで女性が小さな声で子守歌を歌っている。そこからNYに飛んで、ユージン・スミスの暗室である。シンプルなロックがかかる。ぼくは救われた感じがした。映画のテイストが分かったからである。ラストに同じ映像で子守歌が聞こえる構造になっている。それも見事である。水俣浅野忠信真田広之加瀬亮がそれぞれ収まりよく描かれている。スミスを演じたジョニー・デップも好ましい。スミスの友人、そして雇い人ビル・ナイは「ライフ」の編集長。自堕落で約束を守らない、酒浸りのスミスに愛想尽かしをするものの、関係を切ることがない。音楽坂本龍一は抑制的である。
スミスとやがて夫人となるアイリーン・美緒子・スミス(美波)が初めて浅野の家に泊めてもらった翌朝、部屋の左右一杯ガラス戸がはまっているのか、薄いカーテンがかかっているのだろう、きれいな薄青に満たされている。こんな映像を日本の家屋で見たことがない。
世界での反響をぎりぎりまで見せない演出が逆によかったのかもしれない。スミスを英雄視しないという意味で。ハリウッド映画ならやりそうなことだ。
彼がチッソ工場のピケ隊とゲートを破り、場内に入ったときに2人の男に殴られ、蹴られる。それが後遺症となって後年の死因となったらしい。チッソの社長(国村隼)から現金を渡されるシーンで、それをスミスが受け取ったかどうかは後で知らされる。劇を引っ張るための作為だが、この映画で疑問があるとすればこの箇所と、反対派の勢いを見てチッソ社長がもう救済措置しかないと決める場面が本当なのかどうかだけである。
今年ナンバーワンの映画である。監督アンドリュー・レヴィタス、本来は画家で、映画はほかに1作だけ撮っているようだ。脚本デヴィッドKケスラーもデザイナー、スタンダップコメディアンで、これが初めての長編脚本。なにか変わった組み合わせで出来上がった映画のようだ。

 

95 コレクター(S)

モーガン・フリーマンアシュレイ・ジャッドのコンビで2作だか3作だか来たことがあった。それぞれレベルが高かった記憶だ。これもやはり封切りで見た映画で、よくできた推理ものだった。フリーマンが刑事でありながら犯罪心理学博士、ジャッドが誘拐監禁される医者のインターン小林信彦先生がジャッド好きで、大いに共感を覚えたものだ。彼女の新作が来なくなって久しい。

 

96  キャッシュ・トラック(T)

詐欺だと叫びたくなる。アクションなし、ステイサムの役柄が分からない、時間を前後するので筋が追えない、最悪はステイサムがほぼ出てこないところがある。教訓は、ガイ・リッチーには騙されるな、である。

 

97  パリに見出されたピアニスト(S)

なんだろ、このタイトル。貧しい家の青年(ジュール・ペンシェトリ)が駅内に置かれたピアノを弾く。それを見ていた音楽学校の部長(?)が惚れ込み、コンクールで優勝させるまでに育てる。その部長ランベール・ウイリソンが味があっていい。青年を厳しく仕込む“女帝”がクリスティン・スコット・トーマス(何かの映画で見ている)、黒人の恋人がカリジャ・トゥーレ、すごくきれい。これからやってくるアレサ・フランクリンを扱った「リスペクト」のジェニファー・ハドソンに似ている。単純な、目的が一直線の映画だが、音楽ものにぼくは弱い。

 

98 ハイクライム(S)

アシュレイ・ジャッドモーガン・フリーマンのコンビである。夫がメキシコで9人を虐殺した̚かどで逮捕され、軍事裁判にかけられる。軍はいろいろな脅しをかけてくる。しかし……である。この映画、3回目だが、基本的にインチキである。それに気づかないぼくも迂闊である。アシュレイ・ジャッドの色香に惑わされたか。

 

99 浜の朝日のうそつきどもドラマ版(S)

こっちが映画版より先にあったらしい。茂木理子の「くそジジイ」発言にすっかり虜になってしまった感がある。恩師の死が触れられているが、それを全面展開させたのが映画版である。なかに落語野ざらしから一句「月浮かぶ水も手向けの隅田川」が引かれている。さらっとした出来で好感である。黒澤「生きる」とキャプラ「素晴らしき哉、人生!」を同時上映する映画館、その意図とは? タイトルだけの符号か?

 

100 さすらいのカウボーイ(D)

傑作の誉れの高い作品(1971年)だが、香気、気品さえ漂わせる。スローモーションと映像の重ね焼きを多用し、川の光、朝夕の光に満ちている。夜の闇に灯るランターンの明かりもある。詩情豊かな映像を連ねながら、破局へと静かに進行していく。

冒頭、きらきら光る川に流されながら遊ぶ男、そして釣り糸を手に佇む男。3人の食事のシーンに切り替わり、カリフォルニアに行く話になる。若い男が魚がかかっているかもしれないと釣り糸を確かめに行き、2人を呼ぶ。金髪の少女が針に引っかかったらしい。ピーター・フォンダが釣り糸を切る。若い男が「なぜだ?」と迫ると、「引っ張るとバラバラになる」と答える。これがこの映画の構造を知らせている。詩情と突然の死。同じことが映画の後半に繰り返される。
静かな音楽が転調の役目を担う。バンジョーやスティールギター、そして高音の笛(楽器名分からず)。音楽はブルース・ラングホーン。ボブ・ディランと一緒にアルバムを作っている人らしい。
監督主演ピーター・フォンダ、脚本アラン・シャープ(西部劇が多い)、助演ウォーレン・ウォーツ(これが渋くてvery good)。監督としては3作しか撮っていない。タイトルは「さすらい」だが、出奔した妻のもとに帰る帰郷の話である。妻が10歳上、「俺は子どもだった」と妻のもとを離れた理由を言う。原題The Hired Hand 雇われ人みたいな意味か。妻子のもとに帰るが、罪滅ぼしに使用人として使ってくれ、と頼み込む。妻は彼がいない7年のあいだ、複数人の使用人と夜を共にすることはあったが、それだけで男は大きな顔をするから、季節が来れば追い払ったと言う。ヴァーナ・ブルームという少しメキシカンな感じのする、骨太の、意志の強い、農婦然とした女優さんをフィチャーしたことがこの映画の成功の理由だろう。きっと客の入りが少なかったと思われる。そうでないと、3作しか撮っていない意味が分からない。しかし、こころに沁みる映画である。早過ぎた映画といわれるが、もしそうでなければ後の世まで評判になどならなかっただろう。

ラストの重ね焼きがすごい。死んだフォンダを抱き起こすウォーツ、そこに妻の絵が重なるのである。少し鳥肌が立った。死体を馬に乗せてウォーツは家に帰ってくるが、ごく自然に納屋へ向かうのを妻は声もかけず見ている。おそらくこのあと彼らは親密な関係を結んでいくことになる。

 

101 ナッシュビル(D)

再見である。この緩さは何だろう。声高に言おうとはしない。カントリーの歌姫が最後に撃たれるのはなぜか。その混乱のなか、亭主から逃げ続けてきたシンガー志望の女がDon't Worry meを絶叫する。傑作の呼び声が高い映画だが、今となれば、なにそれ? である。

 

102 MONOS猿と呼ばれた者たち(T)

こけ脅し映画である。コロンビアが舞台らしいが、唯一面白かったのは何もない山頂にコンクリートの立方体が立っていることだ。「蝿の王」を思い出す。


103 Destiny鎌倉物語(S)
いやあ、愉しかった。特撮もOK、高畑充希堺雅人の夫婦もいい。現世から異界への移行がもの足りないぐらいスムーズである。小さな魔物を視界に走らせるなどの事前準備がしてある。黄泉の国のCGは手が込んでいてGOOD。やはり映画は食わず嫌いせず見るべきなことが分かる。映画館で見たかった映画である。監督山崎貴、SFX専門の人のようだ。「三丁目の夕日正・続」、デビュー作は「ジュブナイル」。高畑充希はほぼ見たことのある演技だった。死神を演じた安藤サクラがやや高めの声を出して、非常にいい。そして、堺の父親をやった三浦友和もいい。野暮な疑問をいえば、日露戦争のころに生まれたという中村玉緒がこの世で人でない証拠をどこかで見せてほしい、彼女が堺に渡す黄泉の国の住所は、もし黄泉は見る人によって世界が違って見えるとしたら、どういう住所表記になっているのか(数字やアルファベットなどの絶対表記か)、堺と高畑はずっと前世でも出会ってきたというが、いつも恋路の邪魔をする点灯鬼を排除して仲良く夫婦となったとすれば、黄泉には前世で何度も死んだ2人の夫婦が累々といるのだろうか……などと考えても詮ないことかもしれない。

 

104 ベル・エポックをもう一度(S)

倦怠期の夫を追い出す妻、それを救う息子。仕掛けが2人が出会ったころのシーンの再現。楽しく見ることができた。ウソと分かっていても、人はまんまとはまるものなのか。

105  屋根の上に吹く風は(T)

サドベリー・バレー・スクールというアメリカのホームスクールを模範とした鳥取県の山村の自由学校が舞台にしたドキュメンタリーである。授業がないから教科書も、カリキュラムもなく、通信簿も当然ない。学校扱いではないので、遠くの小学校の帰属となっていて、定期的にそこに行かないといけない。先生は2人、週に1度の補助が1人といった体制で、だれを常勤にするかというのも生徒が選挙で決めている。新人スタッフの一人が、自らが受けた衝撃を以下のように語る。「スタッフを雇うなら、日本語ができないとだめね、と言うと、言葉ができないのも結構面白いかも、と子どもが言う。でも走り回るから脚が悪い人は無理かな、と言うと、ルールを変えたら面白い、と言われた」。生徒の自主性だけではなかなか事が進まない。校長的な立場の洋ちゃんが創設の発案者だが、彼もそのさじ加減はいまだに分からないと言っている。デモクラシーの学校というのがテーゼだが、大人には大人の知見がある。それをどう子どもの自主性につき混ぜていくかは、本当に難しい問題だ。長野にもう数十年も通信簿のない公立小学校があるが、学習指導要領が変わるなかで「探究」が課題となって、実験的な学校の取り組みに関心が集まりつつある。子どもたちが喫茶店を出すことになり、むらの古老にスペースを借りるために電話を入れたり、資金をどこからねん出するが、何をどれくらい売れば儲けが出るかなど課題をクリアしていくなかで、算数から経済、人間関係などさまざまなことを集中的に学んでいく。これはアメリカカリフォルニアのHTH(ハイテックハイ)が長く実践を積んで生きたやり方である。

 

106 リスペクト(T)

アレサ・フランクリングラミー賞18回、グレン・グールドとも共演している。バプティスト派の教会牧師である父親の管理下で育ち、かなり後年までその影響下から抜け出せない。彼女が反抗的な態度をとると「虫が出た」と言って責める。アレサは家の客に幼いときに妊娠をさせられている。暴力的な夫、アルコール中毒。既視感が一杯の映画である。ヒット作を出せずコロンビアからアトランティックレコードに移籍し、向かったスタジオがかなりの田舎、しかも白人ミュージシャンンしかいない。ところが、即興で作り上げていくスタイルで、それがアレサに合っていた。はじめて彼女は自分の意見を押し出して、曲をまとめていく。アル中から癒えた彼女は教会でのライブ録音を主張するが、プロデューサーは反対する。それを押し切って実現させたが、彼女のアルバムのなかでは最大のヒット作に。ラストにケネディ・センターでの実写が出てくるが、これはYoutubeで見ていたものである。たっぷりとジェニファー・ハドソンの歌を堪能することができる。父親をフォレスト・ウィテカー、アトランティックレコードのプロデューサーをマータ・マロンが演じている。

 

107 461個のお弁当(S)

とてもウェルメイドの感じがした。ゆっくり撮っていて好感である。もう少し作った弁当に失敗があればいいのだが。卵が中心点になっているが、今日はニラだ、ジャコだ、といった説明もあればよかった。井ノ原快彦という人、意外と演技がうまい。最初のシーンから安心して見ていられた。監督・脚本兼重淳、脚本清水匡。

 

108 浅草キッド(S)

劇団ひとりの脚本・演出、主演柳楽優弥(ビートたけし役)、大泉洋(深見千三郎)、鈴木保奈美(深見の夫)、門脇麦(浅草フランス座の踊り子)など役者人がいい。鈴木保奈美が夫(大泉が演じる深見)のことを「あんな人とずっと一緒にいるのを、どう思う?」と聞くとタケシが「尊敬します」と言う。そのときの保奈美の表情が抜群にいい。劇団ひとりの演出が、あえて素人っぽくやってる感じがいい。夜中にたけしが花束を持っていくシーンがあるが、あれ? 深見が死んだのか、と思っていたら、あとで師匠のかみさんが死んだことが分かるようになっている。そのあたりの見切り方も面白い。柳楽のたけしは、ほどほどのリアルを追っていて、さすがである。やはりいい役者である。最後、亡き師匠とタップを踊り始めるところで終わるのもグッド。ぼくは途中、何度泣いたことだろう。深見がツービートを売れるようにあちこちの小屋に酒を持って行ってバックアップしていたのを知らなかった。深見の芸をぼくは知らないが、この映画のなかの深見であれば、たけしが惚れた理由が分かる感じがする。きんちゃんが井上ひさしとの対談で深見のことをしゃべっていたが、忘れてしまった。おしゃれで、切れがあって、アドリブが利いていて、という演技である。それを大泉洋が演じ切って、快感である。

 

109 ブルーズド(S)

ハル・ベリー監督、主演。彼女を初めてみた「ソードフィッシュ」の衝撃を忘れない。だいぶお年を召され、こんな格闘技映画を、と思ったら監督をしていた。彼女が求めていた世界とは、こういう世界だったのか、感慨なきにしもあらずである。

 

95 騙し絵の牙(S)

何なんでしょうか、この映画は。落ち目の大手出版社の生き残りが物流の拠点づくりかアマゾンとの直取引か、というのである。それも最後はK.IBAというシャレで終わるアホさ加減である。

 

96   ザ・ファブル 殺さない殺し屋(S)

一作目のアクションシーンがすごくいいので、これも映画館で見たかったのだが、つい2作目となると失敗作になりがちなのでネットで見ることになるが、やはりアクションの出来がすこぶるいい。冒頭のクルマを使った掴みのシーンも申し分ないし、中盤のマンションの外側に設けた足場を使ったアクションも素晴らしい。どこかに緩みがあるということがない。主人公の岡田准一とそのにせ妹役の木村文乃の絡みもグッド。悪党が堤真一で、その手下も含めて小粒なのがとても残念である。この映画、もっともっと話題になっていい。監督・脚本江口カン、脚本山浦雅大。