根津美術館 で
昨年見た映画で一番は「MINAMATA」だった。いま原一男 の水俣 も掛かっている。6時間の大作で、こちらの腰が引ける。そこをMINAMATAは回避させてくれた、という思いがある。音楽の変化でスピーディに映画の方向性を見せたのもよかった。ユージン・スミス を英雄にしなかったことは評価すべきである。初めて彼が水俣 に泊まった翌朝の、室内を満たす水色の美しさには息を呑んだ。こんな色彩を日本の家屋内で見たことがない。チッソ 社長が単独で和解案を呑むところなど、どうもウソっぽいが、ぼくは史実を知らないので何ともいえない。ぼくの好みの映画としては「一秒先の彼女」、台湾のチェン・ ユーシン 監督である。ユーモアと哀しさと知的な香りがする。「天才スピヴェット(フランス映画)」「アメリ (同監督、フランス映画)」「ジョジョ ラビット(アメリ カ映画、だけどヨーロッパっぽい)」「ライフ・アズ・ア・ドッグ(スウェーデン 映画)」 「アスファルト (フランス映画)」などが同じ系列である。賞を獲った「スパイの妻」も、松竹100周年記念の「キネマの神様」もいただけない。製作側に緊張感がないとしか思えない。007も最悪だったし、ステイサムの最新作もひどかった。今年はさてどんな出合いがあるのか。
1 メア・オブ・イース トタウン (S)
UNEXTの7話完結である。ケイト・ウインスレット主演、客演ガイ・ピアース 、ジュリアン・ニコルソン、アンガウリー・ライスなど。ガイ・ピアース の扱いが軽いのが気になる。たしかに軽薄な男の役ではあるが。ある小さな町で3件の若い女 性の殺人事件が起きる。いくつもわざとらしい迷走の仕掛けをつくり、最後までもっていく。筋書き上、これはおかしいと思われる部分がある。なぜそんな当たり前のことを処理しておかないのだろう。ジュリアン・ニコルソンがシャリー・マクレー ンに似ていてグッド。アイ・トーーニャで見ている。ケイト・ウインスレットは中年のアメリ カのおばさんになっている。
2 ドライブ・マイ・カー (T)
評判の映画で、映画館はコロナ席ではなく満員。2時間50分だが、見ていることができる。ここ最近、なにも起きない淡々とした映画流行りの感じだが、この映画もそれに近い。監督濱口竜介 、脚本同、大江崇光。
いくつかの疑問がある。演出がおかしいと思うものと、おそらく脚本がおかしいものとの2つがあるように思う。
まずは演出。舞台劇「ワーニャ伯父さん」のキャスティングが決まったあと、広島市 の芸術館(?)のアシスタント的な韓国人が「家に来てください、謝らないといけないことがある」と劇演出家の家福(かふくと読む。何でこのネーミングなのか。西島秀俊 が演じる)に言う。家に着くとオーディションで合格させた吃音の女優がいた。じつは妻であるという。「なぜ応募したのか」と聞くと、流産して迷いのなかにいたが自分を試したかった式のことを手話で言う。隣で聞いていた夫が驚いたような顔をするが、それはおかしいのではないか。流産は夫婦の経験である。悲しみに沈む妻を見ていて、そのチャレンジの動機を知らないなんてことがあるのか。
もう一つは、最後の舞台劇の本番の場面、手話でソフィァがワーニャ伯父さんに人生の意味を説くが、その時間が長すぎる。引きの絵になると余計である。そういうことは厭わない監督のようだが、やはり見ていて辛い。
3つ目の問題は、冒頭にある(これは脚本の問題の可能性がある)。海外に劇のディレクション で出かけようとするが、成田空港で先方からメールが入り、遅延のため空港近くで待機せよ、という。家福は家に戻るが、そこで妻・音の不倫を目撃する。そのまま家福は外に出る。夜、妻とネット会話をするが、妻は夫が外国にいると思って会話をする(家福は成田のホテルに泊まっている)。次のシーン、家福が交通事故を起こし、病院に運ばれ、妻がやってくる。ぼくはこれを翌朝のことだと思ったので、なぜ妻は夫に海外に行かず日本にいるのか、と問いたださないのかと思った。じつは海外の仕事がすんで、また成田から家に戻ろうとした矢先に事故ったということのようだ。ここはもう少し分かりやすく説明すべきだったのではないか。蛇足だが、多摩ナンバーのクルマでわざわざ成田から帰るか? 脚本に関して。妻・音は子を4歳で亡くして迷走のなかにいるが、セックスの最中に物語を語り出すようになる。次の朝には忘れているので、夫がそれを思い出し、書き留め、妻に語り、妻はそれを基にTVドラマ脚本を起こすようになった。しかし、この説明はだいぶ映画が進行してからなされることで、劇の冒頭では二人のやりとりの意味が分からない。セックスの最中に語っていたのは妻なのに、翌朝には夫が物語り、妻がその話を聞いているからである。どうせ後で分かるから説明は省くということなのかもしれないが、不親切といわざるをえない。
さらに脚本に関して。ワーニャ伯父さん役に抜擢された高槻耕史(岡田将生 )は音と不倫の関係にあった。家福が見届けたのも高槻のようだ。どうやら音はTV脚本を書くたびに、主役の男性役者と肉体関係に入るらしい。そのことを家福は知っていた。高槻は家福に「自分の心を深く見つめないと、人のことなど分からない」と分かったようなことを言う。そういう人物が自らのコントールが利かない人間であることを彼自身も、ほかの人間も知っている。あげくに高槻は衝動で人殺しまでやってしまう。そんな高槻になぜ訳知りのセリフなど言わせるのか。これは明らかに間違いである。
全体の構造とも関わることだが、ワーニャ伯父さんの配役を演じるのは英語を喋る中国人や聾唖者、何語だか分からない言葉を喋る人間、そして日本人などである。これは何を表現しようとしているのか。淡々と劇のトレーニン グは進むから、ディスコミュニケーション が主題ではない。異言語の外国人を一つの劇に編み上げていく苦労が表現されるわけでもない。日本語と異言語がただ並列しているだけだ。あるいは、古典の枠さえあれば、異言語が飛び交っても問題ない、と言いたいのか。いずれにしろ、劇中劇の狙いが見えない。それと、家福は海外に呼ばれて演出するほどの人だが、どうも英語はそれほどの使い手ではない。もっと西島に英語のセリフを喋らせて、有能ぶりを際立たせるべきだったのではないか。それと延々と出演者に脚本の棒読みをさせる意味がいま一つ分かりにくい。セリフが自分の体に入っていないのに、それを演技に移してもちぐはぐなものになる、ということのようだが、その齟齬の様を中国人女と高槻のやりとりで見せるわけだが、どうも説得性を感じない。この監督はふだんからそういうメソッドで劇を作り上げていく人らしいが、観客への説得性は弱い。
演出でいいなと思うのは、いずれもセックス絡みである。音が騎上位で見せる呆然とした、狂気を孕んだような瞳は今までの映画で見たことのないものである。妻が上で果てたあと、下にいる夫の目の中央に光が来るようになっていて、その目の表情が虚無を通り越したような感じに見える。
音は、朝出かけようとする夫に、今夜話があるの、と切り出す。夫は軽く受けるが、帰宅は遅くなってから。家の中が暗く、音が倒れている。救急車を呼ぶが脳溢血で死亡。いったい妻は何を言おうとしていたのか。夫はそれを聞けば、すべてが瓦解するのではないかとおびえ、帰れなかったのである。おそらくその予感は当たっていたのではないか。夫の頸木から逃れないと、音はいつまでも自立ができない。家福は虚無のような男で、妻が言い出し自分も認めた次の子どもを持たない選択も、妻の不倫もすべて「愛」の名で呑みこんでしまう。それこそが、音を迷わせるものではないか。妻の不倫のセックスはそこからの離脱の予行演習だったのではないか。家福には家に福を呼ぶ才能が欠けている? あとで彼は、もっと妻に本音を言うべきだったと反省の言葉を吐くが、まさに異言語でも葛藤が起きないのと同じように、彼は妻との問題もすべて呑みこんで葛藤を殺して生きていたのである。
もう一つこの映画では家福と雇われドライバー渡利の関係が見えにくい。プロフェッショナルであることへの尊敬から始まり、そのストイックな姿勢の背後にある悲惨な過去に興味をもつことまでは分かるが、高槻の犯罪露見で興行の中止か実行かが迫られるなかで、なぜに急に彼女の故郷へ行こうと言い出したのか。それも広島から北海道へのドライビング。何年もまえに土石流で潰れた渡利の実家の残骸のまえで、2人は自らの過去を赦すという心理に至る。ここでの家福のセリフはかなり臭い。ありえる解釈としては、家福が渡利に「もし君がぼくの娘なら」と言うセリフがあるが、失ったわが娘の未来を救い、同時に自分も癒される、ということなのか。そうでも考えないと、差し迫ったなかでのこの北海道へのドライビングの意味が分からない。
ラスト、ドライバーは相変わらず家福のクルマSAABを運転し、ハングル名前のスーパーにやってきて、ハングル語でレジ係と会話をする。そのクルマに、広島でアシスタント的な役割をした韓国人の犬が乗っている。さて、これはどういうことになったのであろう。まったくシチュエーションが分からない。これもまた脚本のせいかもしれない。
3 リトルシングズ (S)
デンゼル・ワシントン なのに日本未公開。客演ラミ・マレック 。ワシントンがお年を召された。煮え切らないというか後味が悪いというか、なんでこんな映画を撮ってしまうのだろうか。
4 クライマッチョ (T)
イーストウッド 40作目だそうで、慶賀に堪えない。「ミスティックリバー 」冒頭10分ほどで登場人物の現在の姿を鮮やかに描き出し、忌まわしい彼ら仲間たちを襲った悲劇へとスマートに連続する手際は見事というしかなかった。それは抑制されたシンプルさであった。今作はシンプルではあるのだが、背後にあるべき熱量が落ちたためにシンボルだけが羅列される感じなのである。名うてのロディオ乗りだった男の名声は、壁に張られた賞状や記事で代替され、依頼で向かったメキシコは国境のゲートに掲げられた文字で表記される。すべてがクリシェ である。 反抗期の、だれの意見も聞かない、神出鬼没のガキはすぐに見つかり、ごく素直にロデオ男に付いてくる。その子のアバズレの母親が口を酸っぱく悪童ぶりを吹いたにもかかわらずである。彼ら二人のトラベル・オンザロードを追うのはたった一人の、鼻へのパンチ一つで怯むような男である。劇が生まれようがない。薹が立ったメキシコ女に惚れられ、依頼仕事が終わったあと主人公がそこに戻るのが見え見えである。異様な「チェンジリング 」という作品を撮ったイーストウッド はもういない。冒頭べたべたのカントリーで始まり、すぐに場面が変わって静かなピアノ曲 に落ち着き、メキシコでは熱情溢れる民族調音楽へと変わるわけだが、そのご都合主義をどう言おうか。
5 CODA (T)
ぼくは歌ものに弱い。冒頭、主人公が自転車を漕いでいるだけで泣けてくる。てっきり北欧あたりの映画だと思っていたが、マサチューセッツ州 ボストンがそう遠くない港町の話だ。両親と兄が聾唖者で、一人だけ末娘が健常者、しかも歌がうまい。小さな漁船の上で声を張り上げて歌っている。彼女は3人に欠かせない翻訳者という役回りである。教師のサポートでバークリー音楽大学 へ奨学金 で進むことに。しかし、週1回の練習にも仕事で間に合わないことがあり、なかなか進歩しない。そんな彼女に、友達にいわれた「変な喋り方のときの声」を出すように言い、その荒々しさが残った声に魅了される。オーディションで歌うのはジョニー・ミッチェル「青春の光と影」、バークリーはポピュラーソングでも入れるのか。学校の発表会で彼氏とデュエットしたときに、音を消し、両親と兄が回りの人の反応を見て、彼女の歌が受け入れられているか確かめる面白い演出をする。「ドライブ・マイ・カー」で啞者の演技を取り入れていたのと比べれば、当然ながら話せない、聴けないひとの必然性が描かれていた。父親を演じた人は実際に啞者、母と兄は聾者で、テレビで活躍をしている。アメリ カにはそういう活躍の場があるということか。主人公の恋人役をフェルディア・ウォルシュ・ピーロが演じ、彼は「シング・ストリート 未来へのうた 」でぼくは見ている。主役エミリア ・ジョーンズは初めて見るが、いろいろ作品に出ている。サンダンス映画祭 で4冠である。ジョニ・ミッチェル のBoth Sides Nowが印象的に歌われる。
6 21ブリッジ (S)
麻薬の強盗事件でマンハッタンにかかる21の橋を封鎖、もっと橋との絡みが出てくると思ったが、そうではない。主演のチャドウィック・ポーズマンは「マ・レイニーのブラックボトム」で見ている。43歳で死去。妙な寂しさと色気のある男優さんである。監督ブライアン・カー クはTV畑の監督らしい。
7 友よ、静かに瞑れ (S)
角川が大作路線から離れてプログラムピクチャー的な映画作りに入ったときの作品。崔洋一 監督、脚本丸山昇一 。主演藤竜也 、客演倍賞美津子 、原田芳雄 、室田日出夫、佐藤慶 、宮川順子など。沖縄キャンプシュワブの近く、もしかしたら辺野古 が舞台か。開発業者(佐藤慶 )が土地を買い上げているが、一人だけ立ち退きを認めない男(林隆三 )がいる。それが新藤(藤竜也 )の大学からの友人で、開発業者に果物ナイフで切りつけようとしたということで警察に収監されている。藤はドクターで、何か致命的なミスで大学病院を追われ、いまは船舶のドクターを務めている。余命3カ月の友を助けにやってくる。原田は開発業者の用心棒、室田は業者とつるんだ刑事。友の林は曖昧ホテルを経営し、そこに数人の商売女たちがたむろしている。
前半部に、女たちの会話に語りめいた歌がかぶさったり、原田と藤が海岸沿いをこちらに向かって歩き、こちらからあちらへ数人のジャージ姿の男たちがランニングで2人をすれ違うが、交互に彼らを映し出す、といった演出をしている。中身に入り出すと、そういう小細工は少なくなっていく。うだるような暑さのなかで、ハードボイルドが進行するという感じにはならない。せっかく原作と舞台を変えたのだから、そこはやってほしい。ホテルの1階がスペースが広く、そのセッティングはグッド。もっとあくどい連中と戦うのでないと面白くない。北方健三原作。
8 愛情物語 (S)
角川のミュージカルである。冒頭から踊りが始まる。セットは「ウエス トサイド」で、設定は「スリラー」である。カメラがもっと動かないとダメである。カット割りも細かく入れる必要がある。バーに流れ込んで踊るが、決められた動作をするだけで、切れがない。そのあと、原田知世 がビルのフラットで踊りを練習するシーンがあるが、「フラッシュダンス 」である。しかし、手の動き、身体のしなり、もっと練習してから撮るべきだったのでは。ここで驚かせてほしい場面である。残念だが、最後まで見ることができなかった。義母役の倍賞美津子 が力が抜けていてグッド。
9 メイド・イン・マンハッタン (S)
このmaidにはmadeがあるのではないか。マンハッタンの名門ホテルのメイドが、上院議員 候補2世と恋に落ちるmade affairs からである。ジェニファー・ロペス とクリフ・ファインズ主演、客演がスタンリー・トウッチ(秘書役)、ホテルの上司ボブ・ホスキンス (これが渋い)、黒人の上司ルー・ファーガソン (これも温情溢れていていい)、あと子ども役がタイラー・ポシー(素直で、賢くて、余裕があってグッド。テレビの役者として活躍しているようだ)、それにロペスを囲む同僚たちがいい。子どもが冒頭からニクソン 好きを披露したり、独特な感じが面白い。母親と2世議員の仲直りをさせるきっかけとなった質問がいい。「あなたは人の間違いを許せるか。許せないなら大統領も政治家もいなくなる」。この子でこの映画は成功した。監督ウェイン・ワン 、名作「スモーク」の監督であり、2019年の時点で24作撮っている。
10 アンチャーテッド (T)
地図になし、という意味だが、ひたすら地図の意味を読み解くことになる。インディ・ジョーンズ へのオマージュ、そして海賊カリビア ン(予告編しか見たことがないが)へのそれ。ただ一か所、このご都合主義はちょっと、というのがあるが、全体ものすごく楽しめた。脇の女優がもっと魅力的ならもっといいのだが。ラストのおまけの意味がよく分からん。続き、ってこと? それなら見ます。主演のトム・ホランド はスパイダーマン に出ているらしい。ぼくなど20年前のトビー・マグワイア で止まっている。マイケル・ウォーバーグが脇に回っているが、もうそういう年なのかもしれないが、いつもの彼がそこにいて納得。ヘリでマゼランの帆船を吊るなんて、ありえるのだろうか?
10 ブラックボックス (T)
複雑な話だが、最後までじっと見続けた。飛行機事故の原因を探る調査員が主人公、彼は最初アラブ過激派の犯行と考え、マスコミにも発表する。不可解なのは、事故現場に向かった上長が姿を消したことである。彼はその跡を継いで捜査に当たることになったのである。自らが出した結論に疑いを持ち始め、どんどん解明にのめり込んでいくが、過去に間違った判断をしたことがあって、周囲は彼の精神状態に疑いを持つようになる。設定にいくつか疑問が残る。上長の行動と時間の問題、主人公のクルマのAI化の問題である。監督ヤン・ゴスラン、主演ピエール・ニネ、客演ルー・ドゥ・ラージュ(妻役で、少し口のあたりがジェーン・フォンダ に似ている)。
11 吠える犬は噛まない (S)
さすがポン・ジュノ と言いたい。貧困を扱ったということでいえば、「パラサイト」よりこっちである。しかも、ごく自然に溶かし切っている。貯えのない助教 授(イ・ソンジェ)が、なけなしのカネを工面して、学長に取り入ろうと決意する。彼は教え子の学生に飲み会で足の出た分を出してもらっている。彼の妻は妊娠を機に、11年勤めた会社をごく少ない退職金で馘首される。同じく彼の住む巨大団地の 管理事務所に勤める女性(準主役ペ・ドゥナ )は、頻繁に外出するというので馘首。連続して団地で住人の飼い犬が失踪するが、「貧乏で暇な大学院生の仕業ではないか」とドゥナは疑う。
ソンジェは将来展望が開けず鬱屈した状態にあり、団地にこだまする犬の鳴き声に苛立ち、1匹目は殺そうとして失敗(地下室の廃棄された箪笥に隠しておいたが、管理人に見つかり、鍋にして食われてしまう)、2匹目は団地屋上から投棄し、3匹目は自分の妻が買ってきた犬を誰かに盗まれてしまう(あとで地下室に住まう浮浪者の仕業だと分かる)。しかし、彼がなぜ犬を殺すほどに執着したのかは、動機がきっちりと描かれているわけではない。
主人公、その妻、彼らが住む団地の 管理人、地下室に住む浮浪者、高級犬をかわいがる老婦、そしてペ・ドゥナ と彼女の友人の文房具屋の太った女、いずれもキャラク ターがきちんと立っていて、見事である。妊娠妻はソンジェにくるみの殻を割らせ、忘れた買い物があるからとコンビニまで戻らせる。ソンジェが賄賂の工面に頭を抱えているのに、妻は高級犬を買ってくる。散歩の途中でソンジェは犬を失ってしまう。遅くまで探すが見つからない。妻がそれを非難し、金づちを夫の腿に投げつける。夫は怒りに燃え、その金づちをベランダの窓に叩きつける。そこで妻は、首になったこと、安い値段でその犬を買ったこと、自分のために贅沢などしたことなどない、残りの退職金は賄賂に回すつもりだった、と言う。夫はひと晩徹夜して、団地の まわりのあちこちに犬探索のビラ張りをする。
途中で挟まれる何気ないシークエンスも後できちんと回収される。全体の運びに余裕があり、とくに夫婦のやりとりの他に、ペ・ドゥナ と女友達との交流が丁寧に積み重ねられる。
これはいいな、というシーンがある。ドゥナが屋上で浮浪者を見つけ、彼がソンジェの犬を食おうとしているのを阻止しようと立ち上がったときに、向こうに見える建物の上で、ドゥナと同じ黄色い服を着たたくさんの人びとがエールを上げ(声は聞こえないが)、紙吹雪を散らすシーンである。イリュージョンなのだが、これがポン・ジュノ のすごいところである。ただ、その浮浪者が彼女を襲うようでそうでもない、といった中途半端さで描かれる。逮捕された映像から、男に精神障害 があったことが暗示されるが、違和感がある。
懐かしいのは、文房具屋のセットである。所狭しと壁に、床に物が詰め込まれていて、「グエムル 」の川辺の小さな小屋を思い出させる。そのごく狭いスペースでドゥナと太った女がインスタントラーメンを大きな鍋から食べ終え、お互いを押し出し、かぶさるようにして寝転がる。
映像的にも、いくつも遊びをやっている。冒頭のシーンとラスト近くのシーンが同じである。大きな窓枠の中に背中を向けたソンジェがいる。彼の向こうには緑が見える。冒頭は助教 授のソンジェで、ラスト近くは教授になったソンジェである。そのラストのソンジェの後姿のあとにドゥナの後ろ姿が写される。やはりその彼女の前方にも緑の森が見える。
ソンジェの妻が高級犬を買って帰り、いつものように夫にクルミ の殻を剥くようにと、その袋を床に落とすシーンがある。その落下の視線と合わせて、病院にいるドゥナに切り替わり、彼女の下向きの視線からベッドに横たわる老婦を写しだす。視線流しという撮影法があるが、それの変化形である。
きれいに後で話が回収されるのは、電車のなかで座席に座る人々の膝にチラシを配り置く老婆の件である。ソンジェはその紙をポケットにねじ込むだけだが、さまざまなことを経験したあと、学長への賄賂金を入れたケーキ箱を膝に置いて座席に座っていると、その老婆がやってくる。その文面には、老婆が夫を亡くし、自分も肺病である、と書かれている(これも貧困格差の一例である)。ソンジェはケーキの箱の下隅から手を入れ、お札を1枚引っ張り出し、その老婆に渡す。なかなかいいシーンである。
蛇足をいえば、ソンジェ夫婦のラストの2人並ぶ寝姿は、クリムト の「接吻」とそっくりである。首と身体が釘のように曲がっているのである。ぼくは是枝の「空気人形」でペ・ドゥナ を見て、さして感慨を覚えなかったが、本作からは彼女のよさの秘密が分かった気がした。天然で、よこしまなところがなく、正義感にあふれ、そしてぼーっとしている。そのキャラク ターがよく表現されている。
大団地をロングで正面から撮り、何階だかに人がいるという設定は、2、3年前の秀作「ハチドリ」でも踏襲されていた。パクリなのかどうかは分からないが、その映像に迫力がある点は共通している。
12 クーリエ (S)
ビジネスマンがソ連 の最高機密を運ぶことになる。主演ベネディクト・カンバーバッチ 、その妻役にジェシー ・バックリー(ツゥェルガーの「ジュディ」で英国側秘書をやっていた)。カンバーバッチが俗な商売人と家庭人を演じ、しかもスパイ容疑で捕まったあとも罪状認否しない固いところも見せる。新境地ではないだろうか。監督ドミニック・クック(芝居畑である)、脚本トム・オコナー。一介のビジネスマンがキューバ 危機を救ったことになる。もちろんソ連 側の科学者も協力したわけだが(彼は処刑される)。カンバーバッチはいまアカデミー賞作品賞 ノミネート「Power of the Dog」で主演である。有力候補である。
13 Mr.ノーバディ (S)
ジョン・ウィック 制作陣による格闘ものである。ほぼそれをなぞっている。現役を家族のために(ウィックは妻のため)引退した伝説の殺し屋(本作はFBI の汚れ仕事一切を引き受けていた“会計士”である)が、ごくささいなこと(ウィックでは犬、本作では猫の人形)だが、自分にとって大事なことで前線に復帰する。ナイフ、格闘技を駆使し、ピストルも巧みである。ウィックは金貨を持ち、本作は金の延べ棒を使う。敵の資金である紙幣を焼き尽くすのも同じ。素晴らしいジョン・ウィック のシリーズを作った連中のやることか、と思う。最後、高齢の父親、FBI の元仲間が参戦するのが、ウィックとは違ってはいるが。ニーナ・シモン のDon’t Let me be understoodが冒頭に流されるが、これは懐かしく、こころが震えた。
14 裸足で散歩 (S)
レッドフォード、ジェイン・フォンダ主演、監督ジーン・サックス 、脚本ニール・サイモン 。熱烈な愛を注ぐ新妻が風変わりな隣人と親しむうちに、わが夫の四角四面な感じに反感を覚え、離婚を考える。しかし、母親のアドバイス で思い留まる。かなり無理な運びで、見所は主演2人がときにアドリブような表情を見せるところだ。原題はBay Foot in the Parkで、ほぼラストにそのままのシーンがある。ジェインに下着姿にさせたり、シャツだけの姿にさせたりしている。最初、そういう女優だったのである。ぼくはエリオット・グールド と出た「コールガール」が最初である。この映画の2年後である。お年を召されて美しくなられたのではないか。出演作が却って多くなる。
15 ゴヤ の名画と優しい泥棒 (T)
ケン・ローチ のダニエル・ブレイクのような人物が主人公、どうもこの種のマッドで、政治的頑固爺いを扱った映画が日本にない。盗む、だます、という映画が日本に少ないが、ここ最近、嘘八百 、コンフィデンスと続き、慶賀にたえない。 この映画の主人公、テレビは高齢者の孤独をいやすものだ、というので、税金の取られるBBCだけコード(?)を外して視聴するが、見つかり2週間ほど収監される。それでも街頭で署名集めを息子とするほど徹底している。ふだんはまったく売れない戯曲を書いては版元やテレビ局に送りつけている。 せっかく見つけたパン工場 の仕事も、同僚のパキスタン 人をかばったことで解雇になる。話題の名画を盗み、結局をそれを返すことに。盗んだ理由は、その脅し金(あるいは報奨金?)でテレビ視聴のできる老人家庭を増やすことにあった。裁判での当意即妙を超えたイギリス式ユーモアに廷内は笑いの渦に。主人公をジム・ブロードベント 、妻役がヘレン・ミレン 。「第一容疑者 シリーズ」で強くへこたれない刑事を演じ、彼女をずっとそのイメージを引きずりながら見ていたぼくは、この貧しい家庭のごく普通の主婦を演じる姿に脱帽である(彼女の映画は10本は見ている)。
16 ウエス ト・サイド・ストーリー (T)
スピルバーグ 監督、リタ・モレノ が総指揮(お婆さんとなって出ている)、主演アンセル・エルゴート 、レイチェル・ゼグナー。ぼくは前の作品はリバイバル で見ているが、それでもだいぶ前のことだ。ナタリー・ウッド がきれいだったこと。ジョージ・チャキリスはその後、ぱっとしなかった記憶だが、フィルモグラフィー を見ると、それなりに出演を果たしていたようだ。コリオグラファー はジェローム ・ロビンソンで、スピルバーグ と共同監督となっている。非常に快調に進むが、殺人事件のあと恋するマリアの設定でひとくさりあり、それから事件処理のあれこれと続くが、緊張感がほぐれてしまって、けっこうつらい。演出的に処理をするか、あるいはこのシークエンスはカットしたほうがいいのではないか。歌い、踊り出すまえに何かしら音による合図があって、自然とそこに入っていく工夫がしてある。トニーという男があまりに軽率で、感情移入が難しい。まえはちっともそんなことは思わなかったのに。この3月1日現在で7225万ドルの売上である。日ごとのボックスオフィス(Box Office Mojo by IMDbPro)が公表されているが、かなり日によって波が大きい作品である。100億は届かないか?しばらく続くミュージカルブームをうまく掴んだということになる。脚本のトニー・クシュナー は舞台人らしく、映画はスピルバーグ 「リンカーン 」「ミュンヘン 」の脚本を書いている。
17 フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ カンザス ・イブニングサン別冊 (T)
あれあれと楽しんでいるうちに終わった。おそらくネットでもう1回見ることになる。冒頭、レア・セドウが絵のモデルとなって全裸だが(ティルダ・スウイントンのヌードまである)、これは合成ではないのか。というのはお尻がかなり大きいのと、制服を着たときの小作りの感じからいって、全体の質量が違うのである。彼女はすでにヌードの実績があるわけだから考えられなくもないが(ぼくはそのレスビアンの映画も、そして青春の痛さを描いたものも見ていない。その種の作品は、ぼくには正視に堪えないのである)、そんなに安売りする理由も見当たらないし、そういうことをしてほしくないという思いが強い。ベニチオ・デル・トロ が狂人で殺人者という設定だが、彼の描く抽象画が、本当に女性のヌードに見えてくるから不思議である。カンザス の田舎にあるフレンチ・ディスパッチ(メキシコのローマみたいなものか)という新聞のコラムニストたちの記事から一篇を仕立てるという構造になっているが、後半になると、どれがどれだか訳が分からなくなる。別にそれで構わないのだが。こういう映画もないと寂しい、そう思える。編集長はビル・マー レィが演じているが、少しみぐしが少なくなった。ぼくはウェス・アンダーソン は3作(ロイヤルテネンバウム、ライフ・アクアティック 、ダージリン急行 )しか見ていない。「グランド・ブダペスト・ホテル 」は何か最初から筋が見えそうで敬遠しているが、いずれ見ることになりそうだ。レア・セドウ、タランティーノ 作品に出ているらしいので、さっそく見なければ。
18 マイ・バッハ (S)
右手が利かなくなり、ボクシングなどの興行師を経て、左手だけで弾くコンサートを成功させ、その左手さえ使えなくなり、指揮者として再起し、65名にのぼる楽団員を生地ブラジルの企業のお抱えとすることに成功し、多くの後輩を育て上げたホアゴ ・カルロス・マルティンス 。彼の凄絶な、そして意義深い人生を追う物語である。ぼくはすぐに彼の演奏になる「平均律 クラビアータ」を購入した。グレン・グールド とは違った情感がありながら、切れもあるといったバッハを聴くことになる。
19 最高の人生の見つけ方 (S)
お約束のことを何のてらいもなくやる見事さ。どこにも違和感がないし、ついでに驚きもない。それを哲学者風なモーガン・フリーマン と老いてやんちゃなジャック・ニコルソン が演じる。富豪ニコルソンの秘書役をジョーン・ヘイズという役者が演じていてグッド。映画出演もテレビ出演も少なく、しばらく新作もないみたい。もったいない。監督ロブ・ライナー 、バラエティに富んだ作品を撮っている。いってみればアメリ カのアラン・パーカー か。脚本ジャスティ ン・ザッカム。おそらく脚本がいい映画なのだろう。
20 ナイト&ザ・シティ (S)
デ・ニーロ、ジェシカ・ラング 主演。口から出まかせ国選弁護人に真心を見出した女がラング、これがいい。いけすかない夫を裏切りながら真っ当な女を演じる。表情も細やかで、なんでこの人の映画を見なかったのだろう。やはりキング・コング ・ウーマンという意識が先に立ってしまう。調べると、彼女はどんどん演技で評価を高め、郵便配達夫はベルを二度鳴らす、トッツィー (アカデミー助演女優賞 )、ブルースカイ(主演女優賞)とキャリアを積み、テレビではゴールデングローブ助演女優賞 、映画界を去って舞台でトニー賞 。いやはや、恐れ入りました。
21 博士と狂人 (S)
70年かけて初版オックスフォード大辞典が完成した。そのTの項まで成し遂げたのがマレー博士で、正式なアカデミズムの階梯を踏んでいない。そして、誤って人殺しをしたアメリ カ軍大尉マイナーは妄想に追われ、精神病院に収監されるが、彼は語彙を投稿するボランティアにめざめ、マレー博士に膨大な数を送り届ける。博士をメル・ギブソン 、大尉をショー・ペンが演じる。アウトサイダー の2人が国家の辞典を作り上げたという稀有な物語がじっくりと紡がれる。夫を殺された夫人で、大尉を愛するようになるのが、ナタリー・ドーマー。彼らを支える脇役陣がじつにいい。看守長をエディ・マーサン 、辞書編纂の上司をスティー ブ・クーガン。
22 孤狼の血 Level2 (S)
正編よりこっちのほうがいい。松阪桃李、鈴木亮平 、西野七瀬 、村上虹郎 など。西野は演技の手前で止めているような良さがある。その弟役の村上がどこかで見た顔で損をしているが、哀しい役回りをうまく演じている。松阪桃李もいい。最後、鈴木に胸を刺されても生きているのはなぜ? 相手の組に殴り込みをかけて、中途半端に立ち去る鈴木、さていかがなものか。鈴木が力余って相手の目を潰してしまう、というのは、やはり趣味が悪い。でも危ない暴力男を演じて迫力がある。監督白石和彌 、脚本池上純哉 、原作柚月祐子。
23 こんな夜更けにバナナかよ (S)
主演を大泉洋 、彼が好きになる相手に高畑充希 、その高畑が好きな医学生 三浦春馬 、わきに萩原聖人 、渡辺真紀子、宇野祥平 など。どこまでが実話か、原作を読んでいないから分からないが、なぜに彼はわがままを通そうとしたかが、いまいち見えない。夜更けにバナナを買いに行かせるのは、相手のことを思えばできない要求のはずである。ふつうの暮らしをするのと、それは違うのではないか。彼は問題を投げかけ、ひとに何かを気づかせた、という意味では、そのわがままに筋が通っていたことになるのか。大人しく暮らしていたら、あのインパク トはありえなかったのか。原作の渡辺一史 は、病を抱える者が声をあげないと、見えない存在にされてしまう式のことを言っている。障害者関連の改善策は、ほぼ当事者たちが声を挙げて実現されてきた、と。こないだ見た「浜の朝日の嘘つきども」と同じ演技を高畑充希 がしていた。なんだ、彼女のこれが持ち味なんだ。
24 迷い婚 (S)
ロブ・ライナー 監督、脚本テッド・グリフィン、ジェニファー・アニストン 、マーク・ラファロ 、ケビン・コスナー 、シャリー・マクレー ン。「卒業」が実話という設定で、祖母、母と交渉をもったコスナーにアニストンが真実を知りたく接近し、一夜を共に。しかし、結局、恋人ラファロのもとに帰る、という話。このなかで、父親役をやったリチャード・ジェンキンス が一番の芸達者。それにしても、アニストンはそれほどの美人ではないのに、アメリ カでなぜ人気があったのか。ときおり、ローラ・リニー に感じが似ているときがある。
25 任侠学園 (S)
途中で止めようと思いながら、最後までいってしまった。まっとうなやくざがダメな学校を再生させる、という発想がいい。かえって堅気のほうがあくどかったりする。西島秀俊 、西田敏行 、生瀬勝久 、伊藤淳史 、葵わかな (「ラーメン食いたい!」に出ていた)などが出ていて、ラストに西田の「また逢う日まで 」の歌が流れる。さすがにうまい。今野敏 原作。
26 リベンジ・リスト (S)
ジョン・ウィツクのパクリだが、最後まで見てしまった。トラボルタの堂々としたカツラに敬意をおぼえる。相棒がいい。クリストファー・メローニ 。
27 トーベ (S)
ムーミン のトーベ・ヤンソン の物語である。ピアフとジャズの世代らしい。父親が著名な彫刻家らしいが、芸術家たらんとする圧力を受ける。なぜにムーミン 谷のキャラク ターが生まれたのかは、この映画からは判然としない。封切りで見るつもりで、忘れていた映画である。主演アルマ・ボウスティ。
28 ベルファースト (T)
監督ケネス・ブラナー 、彼の小さい頃の思い出を基にしている。とても好感のもてる映画だ。役者でもあるブラナーの秀逸の映画では?
まず空からベルファーストの昼と夜の美しい風景を見せ、地上に降りて通り沿いの壁に沿ってカメラが上方に移動すると、壁の向こうに路地が見える。そこからモノクロの世界が始まるのだが、その展開が見事である。路地に満ちているのは生活の声である。しきりに子どもの声が呼ばれるが、それがこの映画の主人公バディである。やがてプロテスタント によるカソリック への暴力が始まると、その声が消されて、怒号、汚い言葉、爆発の音しか聴こえなくなる。
本来、アイルランド はカソリック の国で、地域によっては(北部)イギリスが強制的にプロテスタント を移住させたところがあり、宗教対立の火種があった。その狭い路地の地域はカソリック とプロテスタント が混住する場所で、イギリス軍が暴動を抑えに出てくる。イングランド はプロテスタント 系である。歴史では、イギリス軍のやりすぎが反感を買って、カソリック との戦いになる、というふうに習った気がするが、事情はもっと複雑である。
父親は2週間に一度しか戻ってこない。非正規で大工の仕事に就いていて、腕を見込まれて家もあてがうからロンドンに出てこい、といわれている。一方で、路地では顔見知りのチンピラが扇動者となってカソリック の食料品店などを襲っている。おまえも態度を決めると、脅されている。
母親はジー ナ・ロロブリジダに似ている、イタリア系の女性っぽい。ミニスカートを履いて、踊りがうまい。彼女はすべての人間が顔見知りのこの町から離れたくない、あんたとも赤ん坊の頃から知り合いだ、と夫に言う。しかし、プロテスタント の暴動に息子が巻き込まれたことで、離れる決心をする。
監督自身の子供時代を演じるのが、ジュード・ヒル 。この子はクラスに好きな子がいて、彼女はいつも成績優秀。成績が上がれば、彼女の隣に座れるというので、祖父に秘策を伝授される。算数では2と6か分からないように書き方をごまかすのだ(もう一つ組み合わせを言っていたが、忘れた)。それが効を奏してトップの席に座るが、どうしたわけか彼女はその時成績がふるわず、彼の後ろに。下校時に花を渡すのも、お爺さんの入れ知恵。女性の弱みは、愛を示されること、というアドバイス である。彼はカソリック の彼女と結婚できるか悩んでいる。
全体にサックスのメロディア スな曲が流れ、ときおりロック調の歌がかかるが、バン・モリソン(北アイルランド 、つまりプロテストの多いところ出身)である。家族で映画を見に行くが、そこでかかっているのが「チキチキバンバン」やラクエル・ウェルチ の映画「恐竜100万年 」である。いずれも60年代後半の映画である。
お婆さん役がジュディ・ディンチで、、その夫がキアラン・ハインズ (ベルファスト 出身)。悪役のイメージの人である。ジュディの言葉、「ここからはシャングリラの行く道はない」。孫のバディはロンドンに行くなら、祖父母も一緒に、と言うが、2人にはその気がない。やがてお爺さんは身体を悪くし、入院し、亡くなってしまう。
お母さん役がカトリーナ ・バルフ、父親役がジェイミー・ドーナン 。堅実で、愛し合っている夫婦で、パーティで夫が歌うと、そのまえで妻が踊る。バルフは元モデルということで、スタイル抜群。
母親と姉が通りのベンチに座り、争い事をもちこむプロテスタント のちんぴらたちのことを、こう言う。「あいつらは料理も洗濯もできないろくでなしだから、10分も戦いを続けられない」この視点は思いがけないもので、見当はずれのものだが、忘れたくない視点でもある。
29 ナイトメア・アリー (T)
死体を家の床に葬り、火を放った男が列車で眠りこけて、終着駅にたどり着く。そこにサーカス団が小屋をかけていて、世話になることに。才覚を表し、電気女と一味を抜けて、都会へとやってくる。その切り替わりが速く、もう2年が経っていて、女を演出して一儲けする話が、男自身が読心術を披露するショーを見せている。そのいかさまを破ろうとしたのが心理学者で、彼女は職業柄貴顕淑女の秘密を手にしている……。
アリーは路地のことで、ぼくは人の名前かと思っていた。悪夢通りにようこそ、というわけである。ある限られた仮想空間のなかに、人は神秘に騙されにやってくる。しかし、その外に神秘を持ち出すと、途端にいかがしくなり、詐欺罪となってしまう。主人公は師匠の厳しい言葉「ゴースト(心霊術みたいなもの)をやると魂を失う」を反故にして、まちの富裕層に取り入っていく。また繰り返される「ファースト物」である。
監督ギレルモ・デル・トロ 、脚本、主演ブラッドリー・クーパー 、電気女にルーニー・マーラ ー、心理学者にケイト・ブランシェット 、サーカス団に付いて回る風呂屋 の女主人にトニ・コレット 、その夫がデビッド・ストラザーン、サーカス団の首領にウイリアム ・デフォー。ルーニー とブランシェットは「キャロル」で共演している。
事が露見してブラッドリーがまちを去ることに。そのとき、ブランシェットが「I love you」と言い、彼は不審に思い振り返る。ここがよく分からない。「別れには大げさ過ぎたかしら」と彼女は言うのだが。
ブラッドリーが人の挙措などから素性などを言い当てる自らの才に気づいたときに、デフォーが呆けた顔で聴き入る、というのはおかしい。百戦錬磨の、人間を獣人にまで落とし込むことを平気でやる奴である。
トニ・コレット の読心術を地下でサポートするストラザーンが泥酔し、仕掛けが利かないでショーは失敗するが、そこがなぜ失敗なのかが分かりにくい。
30 マスカレードナイト (S)
最後まで楽しんで見ることができた。いくつもの枝葉をつくって進行を複雑にするのは、前作と同じ。ラスト、時計が5分遅れていたことが意味をもつが、その間、2人の女性には何があったのか。その説明がされていない。キムタク、老いたりの感がある。冒頭の社交ダンスも要らないのでは?
31 ある天文学者 の恋文 (S)
ジュゼッペ・トルナトーレ 監督・脚本、彼の作品は4作見ている。幅の広い監督に思えるが、なにか共通するものがある。なにものかへのひたすらな愛ではなかろうか。それが際立って表れているのが、この映画ではないだろうか。オルガ・キリレンコのアクション経験をきちんと取り入れながら、生とは何ぞやと静かに問う作品となっている。いろいろな仕掛けも、そして天文学 の知見も合わさって、味わい深い一篇となった。相手役ジェレミー ・アイアン。老いてなお色気がある。1992年、初めて彼を「ダメージ」という映画で見て、強い印象が残った。
32 湯を沸かすほどの愛 (S)
よくできた映画でした。家族とは精神によってつながったものだ、というが(J・F・グブリアム)、まさにそういうものを描いている。血のつながりは父親が媒介しているが、母親の死がなければ紐帯は強くならなかったはずだ。非常に愛情深く、かつ真剣に生きる女性とチャランポラン な男たち。その女性(母親)によって強くなっていく娘たちの物語である。主演宮沢りえ 、客演杉咲花 (娘)、オダギリジョー (蒸発した夫)、松阪桃李(旅先で出会った青年)、駒河太郎(探偵)、篠原ゆき子 (杉咲の本当の母、聾唖者)。監督・脚本中野量太
33 カモン、カモン (T)
ホアキン の映画である。ジョーカーの次はこれか、という感じ。白黒で撮られていて、子どもたちの声と意見を集めるラジオエディター(?)のジョニーとして、子どもにはふだんから接してはいるが、姉の難しい子を預ることで、ホアキン 自身が静かな変容を遂げていく。ジェシー は精神的に不安定な父親と、ときに過剰なほど子を愛する母親のもとで、エキセントリックで、大人に同調と反抗をきわどく見せる子として育って行く。そういう意味ではジェシー とジョニーが出会うことで、なにかもっと中庸な、静穏な、だけど本音を隠さない人間関係のあり方を見つけていく。そういう映画である。子どもが出てきてこれほど内省的なアメリ カ映画は、「ものすごくうるさくてありえないほど近い」以来かもしれない。
34 ファイブ・デイズ (S)
北京オリンピック 開催でそこに世界の目が集まっているときに、ロシアはグルジア に侵攻した。民間人を殺し、それはグルジア 政府が行っていることだとプロパガンダ を流した。NATO は軍事関与を行わず、グルジア 政府は孤立する。アメリ カ人ジャーナリストの視点でそれを描いていく。グルジア 人の結婚式、静謐に輝く平原に、スホイからものすごい速さと正確さで爆弾が発射されていく。ロシア兵のなかにも虐殺に抗う若い兵士がいる。前線部隊のロシア隊長は人を殺すことに倦んでいる。米ジャーナリストは、NYに留学したこのある現地女性と逃避行を繰り広げる。ピアノの静かな曲が流れる。フィクションなのだが、戦闘場面には思わず首をすくめるほどのリアリティがある。ウクライナ でいま起こっていることとまったく同じことが2008年に起きていたなんて、なんて迂闊だったのだろう。
35 トスカーナ (S)
父親が死に自分の故郷の土地を売りに出すことに。しかし、そこで知り合った女性(じつは幼馴染み)に引かれて売却を諦め、自分でそこにあるレストランの切り盛りをすることに。彼は有名な料理人で、オランダで自前の理想のレストランをつくる資金づくりをするはずだったのだが、方針変更である。やや主人公の設定が違うが、ほぼ似たような筋の映画を見たことがある。タイトルを思い出せないが、アメリ カ映画だったような気がする。これは全篇イタリア語、そして少しの英語とオランダ語 である。
36 マイ・スモール・ワールド (T)
監督・脚本はこれが長編第1作という川喜多恵真、是枝裕和 の監督助手だったらしい。主演嵐莉菜で、モデルらしい。役名サーリャ。母親は日独、父親はイラン、イラク 、ロシアの血が混じっているという。クルド人 で、難民申請がかなわず、就労をしてはいけないという規則を破り、収監される父親。申請が受け付けられず、しかも働くこともできない、というのは、追い出し策としか思えない。
サーリャは援交をしようとするが、中年男に迫られ逃げ出す。居住する埼玉を出ることも禁じられ、希望の大学(教育大学らしい)も受けられない。バイト先のコンビニで出会った聡太(奥平大兼)との関係が救いとなっている。静かで、綿密で、説得性があって、社会問題が見えて、是枝の弟子というのもよく分かる。
援交のカラオケ場面が既視感が強いのと、収監された父親に面会に行き、なぜ今になって自分たちを捨ててクルド に帰ろうとするのか、と言うときに、父親にそもそも日本に来た理由を尋ねるのはおかしい。申請却下の場面で、父親が拷問で傷つけられた足を係官に見せているわけだから、知っているはずである。ふだんの生活のなかでも、知っていてしかるべきことだ。父親は、自分が帰国すれば、娘にビザが下りる、と判断し、その決意を変えない。最後に、サーリャの弟が小さなまちの模型をつくる。埼玉と東京を結ぶ橋もあり、家族や聡太を表す石ころを置くスペースもある。タイトルはそこから。次回作が楽しみ。是枝のもとから巣立った西川美和 の映画を追いかけたことが、思い出される。
37 マイ・ニューヨーク・ダイアリー (T)
原題はMy Saliinger yearで、原作がジョア ンナ・ラコフ。yearsと複数になっていないのは、サリンジャー との日々を特別なものとしているからだろうか。実話らしい。気難しいことで知られる彼のエージェントの元に職を得たジョア ンナが、電話でのサリンジャー の励ましを受けて、詩人として旅立つ姿を描いている。『ライ麦 畑』の主人公ホールデン が出てきたり、むかしの恋人と駅の廊下で踊りはじめる幻想など、とても自由に撮っていて好感である。所長にシガニー・ウイバー、彼女は作家と愛人関係にある。ジョア ンナがマーガレット・クアリー。やっと作家に就いたのに、会社を辞めることに。ニューヨークタイムスに詩を持ち込み、そのあとシガニーの所へ行くが、これは詩人として契約をするためか、よくわからない。そのとき、サリンジャー その人が、シガニーの部屋から出てくるのだが。ぼくはサリンジャー が大学の先生をやっていたころに付き合っていた女子大生の回顧録 を読み、サリンジャー についての評伝も読んでいる。『ナイン・ストーリーズ 』が懐かしい。アップダイクもソールベローもマラマッドも。
38 ダブル・ジョパティ (S)
2回目である。アシュレイ・ジャッド 、トミー・リー・ジョン。ジャッドをとんと見かけなくなった。少年のような笑顔の人だったが、ワースティンを訴えた映像を見ると、やはり、というような変わりようだ。サンドラ・ブロック 、レニー・ツェウィルガーなど、ぼくの好きな女優がみんな様変わりで、見るのがつらい。この映画ではジャッドはヌードまで見せているが、本来ムキムキの筋肉女性である。
39 座頭市 あばれ火祭り (S)
シリーズ21 作目、勝プロ作品になっていて、脚本にも勝が加わっている。それがひどい脚本で、浪人仲代達也はただ全篇にふろふらしているだけ、大原麗子 に入れ揚げたはずの市が最後に冷たく突き放す。監督三隅研二も腕の振るいようがなかったか、まるで絵が面白くない。悪党の闇の親分が森雅之 が盲人で、この悪党ぶりがいい。やはり役者の格が違う。「浮雲 」で見せた白皙の色男が白目を剥いて、あこぎなセリフを言うのである。田中邦衛 がちょい役、西村晃 が森の右腕で、跡目を継がせてもらえるはずが、権力欲旺盛と見られて、殺される。あと、吉行和子 、ピーターとよくも揃えたもんです。ただそれだけの映画ということでもあるが。
40 浜の朝日の嘘つきども (S)
2回目である。冒頭から主人公は恩師の遺志で映画館の存続のためにやってきた、と明かしていた。まえは気づかなかった。恩師との死ぬまぎわのシークエンスはアドリブと思っていたが、大久保佳代子 のアドリブに一拍ずらして高畑充希 が受けに回った効果ではないか、という気がする。やはり最後の映画館をコミュニティの核にするという高畑のセリフは余分である。あるいは、もっと簡素にすべきである。おそらく3回目を見ることはなさそうだ。
41 教育と愛国 (T)
教育をいう政治家は経済と比べて何を胡乱なことを言っているのかと思っていたが、じつは10年あれば、かなりの思想教育を施すことができる。小学校から始めれば高校生ぐらいまで仕込めるわけで、それがその人の一生ものになり、その子どもにまで継承されるとなれば、政治の狙いとしては悪くない、ということになる。
この映画はものすごく既視感が強い。教科書の検定と日本会議 あたりを扱っているからである。戦後左翼が憲法 におんぶに抱っこされているうちに、右の連中はたゆまぬ攻撃を仕掛けて、とにかく改憲 まで持ち込むんだという意識でやり続けてきたことが実を結んだのが今の状況ではないかと思われる。一つ変わったことがあるとすれば、政府統一見解に縛られて、直接的に時の政府の意向が教科書会社に渡るようになったということである。
それにしても、自分の国の歴史をすべて肯定する神経というのが、分からない。われわれのふだんの感覚でも、自分の非を反省して、思想を深めた人を信頼するのであって、それは国家においても同じではないのか。
既視感に襲われたということは、この間、ずっと右の論調を変わらず続いているということでもある。いまの若者がいろいろな意味で体制的、保守的といわれるが、それはやはり教育のなせる賜物なのか。
42 私の寅さん (S)
前田武彦 が売れないTVドラマ脚本家、妹が売れない絵描きの岸恵子 。この映画、寅さんの中では出来のいい部類ではないかと思う。いわゆる芸術に対する寅さん、虎屋一家のスタンスが見えて、その具合がほどほどの加減に抑えられているからである。
前半は寅さん以外の九州旅行、そしていつもの恋騒ぎになるという異色の構成である。なにか事情があった、ということだろうと思う。それにしても、前田がそこそこの演技をしているのには、びっくりする。
43 エリザベス 女王陛下の微笑み (T)
ただの過去映像のつなぎ合わせである。それにしても若い頃の女王の美しさをどう表現すればいいのか。majestic荘厳かつserene澄み渡った、という感じ。
44 ラストキャッスル (S)
レッドフォード、2001年の作、共演ジェームズ・ガン ドルフィニ(ザ・ソプラノズ の彼)、マーク・ラファロ 。陸軍の英雄が大統領令 に反して作戦を実行し、部下を数人死なせた、という罪で刑務所に。そこの圧政を翻す、という中身。軍規違反で一般刑を受けることなんてあるんだ? 罪人がみんな軍人に様変わりするというのは、レッドフォード的にはどうなのよ、と言いたくなる。
45 プラン75 (T)
早川千絵脚本、監督。是枝の「ワンダフルライフ 」を思い出した。死をまえにした人が集められ、口頭試問を受けるが、まだ気持ちが固まっていないと分かると落第し、運営側に回りながら、決意を固めていく。アイデア とユーモアにあふれていたが、その是枝が「幻の光 」も撮っていて、ぼくはすぐにファンになった。夕方の道路にぽんぽんと街灯が灯っていたシーンが忘れられない。 今作は、最初に銃撃事件があり、高齢者?(車いす が転がっているだけなので、分からない)を殺した若者が自害するところから始まる。国家のために死ぬのが日本人なのに、高齢者が無駄に生きて邪魔をしている、と彼は言う。そして、国が75歳以上の希望者に自死 の選択権を付与する、という展開になる。書き割り的な説明で、安易である。この「日本人は国家のために死ぬ」は、映画の前振りとしてもどうか、と思う。諸外国は、そのまま鵜呑みにしてしまうのではないか。実際、この映画、カンヌ招待作ではなかったか。
本当は未来映画なのだろうが、まったくそういう設定にはなっていない。是枝の映画では古い学校だかが舞台にされ、環境が隔離されていたが、この映画では日常がそのまま写される。ボーリング場も出てくれば、深夜の道路整備も出てくる。未来に設定された映画でありながら、何も被写体を変えなくてもいい、というのは、それだけ日本の高齢化が、この映画の設定に近づいているということなのだろう。それにしてもズルイ。
途中で何人(フィリピン?)だかの看護師が出てくるが、仕事の合間に子どもや夫に電話するシーンがある。そして、次に宗教の集いの場面となって、彼女の子どもが心臓に病気をもつことが分かり、参加者から寄付が集まる。人の紹介で、より割のいい仕事がある、ということで終末施設へとやってくる。そこで初めて、本論とつながることになるが、あまり必然性のある展開とは思えない。冒頭の殺人のシーンも含めて、なにかつまみ食い的に映像を処理する癖がこの監督にはあるようだ。外国のアジア人のほうが人情熱く生きている、と表現したかったのかどうか。
プラン75の申し込みにやってくる高齢者と応対する役場(?)の青年。彼は、目の前にしばらく音沙汰のなかった叔父が来て動揺する。やがてその叔父さんを終末施設に届け、帰ろうとするが、納得がいかず、施設に戻り、遺体となった叔父を運びだそうとする。火葬場へ連れていこうというわけである。そのときに、手助けするのが、そのフィリピン? の彼女。これを監督はやりたかったのだろうが、成功しているわけではない。
彼女は、これから死を迎える人たちの所持品を回収し、それを点検する仕事をしているが、お金が入った手持ちバッグを見つけたあとのリアクションが描かれていない。自転車に乗って元気に坂を上がるシーンがそれなのかもしれないが、説明不足である。
先の青年も、終末事業者リスト(?)で「産業廃棄物処理 業者」を見つけ、ネットで調べると「動物死体処理」と出てくるが、それ以上突っ込むこともない。プラン75で安楽死 させた人間をそういうところで処理している、という暗示なのかどうか。
最後は、その終末施設で、麻酔が効かなかったのか倍賞千恵子 は死なないで、生活に戻ることになるが、ベッドで座っているときにマスクは取っておいたほうがよかったのではないか。彼女が途中で考えを変え、マスクを取って助かった、という設定にすべきなのではないか。それに、家に帰ってもすでに家財は撤去されているはずで、そこはどうするんだろう。ラストに朝日を見て倍賞が歌をうたうが、ほぼ切れ切れで聞き取れない。
そういえば、もう何十年もまえに、人口減少のために国家が何かを企んでいて、それを暴こうとする話があった。結局、工場で死体を処理して食料に変えていたのだが、チャールス・ヘストン主演の「ソイレント・グリーン」である。あれは衝撃的な映画だった。終末を迎えた人たちに、過去の緑豊かだった地球の映像を見せるシーンがあるが、涙が出るほど美しかった。
46 エルヴィス (T)
バズ・ラーマン 監督、「ムーランルージュ 」「華麗なるギャツビー 」を撮っている。冒頭の展開が早いが、こういう映画はたいてい期待外れのことが多い。エルヴィスが黒人文化のなかで育ったのは知っているが、歌う黒人教会でエクスタシーを感じたというのは知らなかった。映画ではそこから始まるが、史実かどうかは分からない。彼がパーカー大佐(トム・ハンクス )という男に食い物にされたことも知っているが、オランダ人で市民権も持たない人間とは知らなかった。ぼくはエルヴィス・オン・ステージを高校のときに封切りで見ている。伝説の人、過去の人だったプレスリー がものすごく身近な存在だと感じたドキュメントである。イン・ザ・ゲットー、サスピシァス・マインド、ブルー・スェイド・シューズなど名曲揃いだが、弾き語りで細い声で歌う彼もいい。スローテンポな曲でこそ彼の歌のうまさが光る。この映画は、表面をなぞっただけ。最初のメンフィス、ビールストリートを歩くエルビス を斜め上から撮ったときに、ふっと彼役のオースティン・バトラーにエルビス と同じ唇脇の笑い皺が見えて、身震いがした。あの笑い方は、映画でも共演したアン・マーグレット もやる。顔つきも2人は似ている。ユーチューブでは2人の映画の踊りのダイジェストも見られる。エルヴィスの取り巻きの一人だったJerry Schllingが書いたMe and a Guy named Elvisという本を読んだことがあるが、やはり彼は愛すべき人だった、プレスリー は。彼がなぜに目にブルーのアイシャドゥを施して、あの保守的な南部に登場したのか、それを知りたい。
47 ディスタンス (S)
是枝の長編3作目である。是枝はドキュメンタリーで始まった監督だが、この映画にはその匂いがする。外側からし か人間を描かない。DVD発売がなく、レンタルができない。アマゾンプライム で見たが、なぜDVD化されないのか分からない。
物語にしない、という強い意志が働いている。時間の流れも現在と過去が混じり合って進む。説明は最小限である。役者たちの声が小さく、録音も悪く、しかも沈黙が多いので、言葉の一つひとつを聴き取ろうと妙に緊張する。
あるテロ(オウムと思われる。どこかだかのダムに毒を撒く、という話があったのを利用している。駅名で清里 の表示が見える)の実行犯の遺族が、毎年、その供養のために山奥の湖に集まる。その湖がダムによってできたものかはわからない。そこに実行犯の一人だったが、決行間際に逃亡した男(浅野忠信 )が加わる。彼は警察での供述で、実行犯のやったことはまったく理解できない、と言い逃れるが、仲間の一人がいなくなったときには、「だからエリートは信用できない」と息巻いていた。いわばユダ的な人間として描かれている。湖に花を捧げ、黙祷し、食事をし、帰ろうとすると、彼らのクルマ、バイクが盗まれている。かつて実行犯たちが泊まっていた家で一夜を明かすことになる。クルマとバイクが盗まれたのに、警察に届けるというシチュエーションがない。
夫を亡くした教師(夏川結衣 )、姉を亡くした花屋のアルバイト(ARATA)、兄を亡くした水泳インストラター(伊勢谷友介 )、妻を亡くした建設業者(寺島進 )。夫に妻、姉に兄という組み合わせである。ときおり過去の映像をはさみ、それぞれの相手との様子が描かれるが、ARATAと伊勢谷はきょうだいとの葛藤があったわけではない。寺島の妻は入信まえに子どもを2人下ろしていて、それをあとで警察から知らされる。
不思議なのはARATAが病室に老人を訪ねるシーンもはさまれるのだが、ほぼラスト近くで父親ではなく、他人であることが明かされるが、どういった他人かが明らかにされない。
ARATAの姉は浅野に、弟は自殺した、と語っていたという。だから浅野は帰りの電車のなかで、「あんたは誰か」と尋ねる。この映画で、いちばんスリリングな箇所だろう。もちろん姉は、気持ちの縁切りをするためにそう言っただけだろう。
身内の者が狂信に走り、犯罪を犯し、焼身 を遂げる。そのことの意味を淡々と噛みしめるように描く。ARATAが湖に張り出した簡単な木橋 に火をつけ燃やすところで映画は終わるが、この映像は姉の発言を浅野から聞かされたあと、一人で湖にやってきた、という設定か。そのときに、「おとうさん」とARATA は言う。木橋 に着いた火勢はすごく強い。もう二度とお参りには来ない、という意思表示か。途中にARATAと伊勢谷で「神を信じるか」といった会話もあるが、大きな意味が付与されているわけではない。
映画のなかで提示されたものは、きちんと映画のなかで回収されなければならない。回収をしないのであれば、そういう造りの映画にしなくてはならない。ARATA が訪ねる老人のことは、映画のなかで解決されなくなくてならないし、盗まれたクルマやバイクのこともそうである。そこを許せば、脚本は甘くなるだけではないか。これは是枝の弟子たちにも通じることかもしれない。
48 七つの会議 (S)
2回目だが、印象は変わらず。野村萬斎 はまったく役柄をはき違えている。監督は彼の演技をストップさせて、変更すべきだった。それと、「半沢直樹 」が回を追うごとに虚仮脅しの漫画みたいになったが、その悪弊がこの映画にも及んでいる。「あきらとアキラ」にも、そして「民王」にも。原作者はこれに抗議をするべきだと思う。映像と文学は別だという意見もあるが、原作者の責任というのもあるのではないか。池井戸フアンとしてすごく残念である。
49 私のはなし 部落のはなし (T)
かなり観客は入っていた。すでに1万人が見たという。監督満若勇咲、プロデューサー大島新。この監督はしばらく前に「にくのひと」という屠畜業者のことをドキュメントにしたらしいが、その描き方には部落解放同盟 から批判があり、公開を断念した経緯がある。実名を出した、屠畜の映像に子どもが怯えるるシーンがあった、などのクレームだったらしい。この映画のなかの登場人物の一人(滋賀県 津市の部落解放同盟 ?)は、アマチュア 野球チームが「穢多(えた、えった)」から「エッターズ」と名前を付けていたのを問題視していた。それは、一般人(映画ではこの言葉を使っていた)が差別語を自分のチーム名にしていた、というふうにぼくは受け取ったが、しかしそれでは意味が分からない。前作を見ていないので何とも言えないが、やはり配慮が必要なことだったのかもしれない、と思った。というのは、その発言者がとても内省的で、哲学的な風貌をしていたからである。
この映画は205分の長尺で、途中で休憩が入って、ぼくは初めてこの映画がそういう長さの映画であることを知った。京都、伊賀上野 などが扱われていた。被差別の地域やそこに住まう人を記載した本の復刻版を出版した当人も出てくる。意外な若さに驚いたが、彼は差別ではなく貧困であることに問題があったのではないか、と言う。よく分からない理屈だが、ならなぜそれを公表する必要があるのか。それも被差別地域だけを狙うのか。娘二人いるらしいが、もし結婚したい相手が部落出身だったら、あなたはどうしますか、と聞かれ、それは本人の意思だから認めるだろう、と述べている。
京都崇仁地区の市営住宅 に住む女性は、早い時期から部落解放の運動に関わっていたらしい。叔母から京都へ行くと映画も見られていいよ、と(津から?)連れてこられたのが崇仁で、路地のなかの知らぬ家に押し込められたが、すでにそれは結婚の話がすんでいて、だまして連れてこられたのである。旦那は屠畜業、まわりもそういう人が多かったという。まちで行き会う彼女の友達なども、みんな昔はよかったという。たしかに暮らし向きはよくなったが、仲間で分け隔てなく暮らしていた紐帯がなくなったのは寂しい、と言っている。その年老いた女性が引っ越しすることになるが、その理由が映画では描かれない。なぜなのだろう。
一人、60代の女性で、差別する側の意見を言っていたが、血が違う、という言い方をしていた。顔を出さないのは、いまは平穏に付き合ている人に、本心を知られるのは嫌だから、と素直に答えている。子どもが結婚する相手の身元調査を当然やる、とも言っている。
女性の学者が出てきて明治以降の被差別にかかわる歴史を語るが、平沼騏一郎 を天皇 主義者としていたが、あの時代、天皇 主義者でない人など、ごく少数を除けばいなかったのではないか。それと、古く朝鮮人 の血統だから差別された、という説も紹介していたが、それは本当なのだろうか。網野説は天皇家 に仕えていた人びとが、天皇家 の相対的な地位の下落によって、その庇護を失ったがゆえに差別を受けた、といっていたはずだ。字幕でも入れて、その説明をきちんとしておくべきではないか。監督は、その女性学者の意見も「はなし」の一つだと言うが、天皇 制と被差別の構造を結びつけるための前段階として平沼の名前が出されるので、彼女はこの映画の柱ともいうべき役柄である。
50 キャッチミー・イフ・ユーキャン (S)
人は外形によって判断する。それを徹底して利用したのが、この映画の主人公である。最後は偽造小切手の手口を見抜く才を見込まれてFBI 勤務となり、偽造の難しい小切手を発明して巨万の富を得たという。なんともはや、である。ディカプリオ、それを追うのがトム・ハンクス 。若きエイミー・アダムス が出ている。スピルバーグ 監督である。彼の映画はほとんど見たことがない。この軽さが合っているのではないか。
51 男はつらいよ 16 葛飾 立志伝 (S)
考古学の樫山文枝 がマドンナ、その先生が小林桂樹 。独身の先生が弟子の樫山に求婚するも敗れる。寅さんもまた。全篇、流れるように進む。シリーズに脂がのっている感じがある。小林信彦 御大が今月号文藝春秋 で洋画・邦画ベスト100を挙げ、第6話を選出しているが、このシリーズに出合うまで、どうも渥美の座りが悪かった、という。ぼくはそれに強く共感する。フランキー堺 にも同じ思いを持ち続けた。彼らは本来、シリアスこそが合っていたのかもしれないのである。
52 男はつらいよ 11 忘れな草 (S)
寅を初恋の人かも、と言うリリー。もう何度目になるだろう。今回はほんのささいなシーン、自然すぎて見過ごしてしまうところである。居間にテーブルがあって、向こうにさくらと博がいて、さくらの右におばちゃん、さくらと博の間にタコがいる。なにもセリフを言わずさくらが右手を伸ばす。すると、博が自分の左後ろにある小さめのポットをさくらに渡す。ただそれだけなのだが、されこれは演技なのだろうか、いやさくらが自然にやり、博が自然に応じたのではないか。
まえにも書いたが、この時点で浅丘ルリ子 が33歳というのは驚きである。日活青春ものやアクションもので活躍していた時代が長い印象があったので、この映画に出た時は相当な歳のイメージなのだ。じつは倍賞千恵子 のほうが1歳若いだけである。山田監督は倍賞を若い頃から本当に使い続けた。おばちゃんを演じた三崎千恵子 の動きもきれいだが、倍賞もきびきびしてきれいである。冒頭、夢中劇で寅がエイヤッと悪い親分(タコ)を斬って、くるり と回って鞘に収める動きはさすが軽演劇の出身である。
53 ロクサーヌ 、ロクサーヌ (S)
NYブルックリン、80年代に登場した女性ラッパーの先駆者ロクサーヌ ・シャンテ、まるで魅力的でない彼女が名を挙げてからは格段に輝き出すから不思議だ。しかし、15歳にして疲れ、どうしようもない暴力男に捕まって家庭に。やっと逃げ出して、また復活する。その暴力男のセリフがまさに「愛しているから殴るんだ」「おまえは俺の女で、逃げられない」。それをマハーシャラ・アリ (「グリーンブック」の金持ち黒人の役)が演じる。ロクサーヌ の母親が厳しい人で、門限を守らせ、家事をやらせる。それが結局、ロクサーヌ の根底をつくっていることが分かる。金で取り戻した我が子と家に戻ると、我が娘を迎え入れる。
54 マルケー タ・ラザローバ (T)
55年前のチェコ の映画で、日本初封切りらしい。1967といえば学生動乱が始まるころだ。チェコ 動乱が翌年である。その不穏な気分は、映画のなかに漂っているといえる。この映画は13世紀のボヘミア が舞台。王党派とその敵対領主、追随領主の争いを描き、追随派の娘マルケー タが敵対者の息子と割ない仲になることが、劇の中心にある。王党派をスターリン 支持、あるいはソ連 支持と考え、それになびく者、反対する者の血を血で洗う話である。
動きがあるのは戦闘の場面だけだが、カメラワークがアクション的に撮るわけではない。戦闘以外の場面は、進行しているようなしていないような進み方で、ドラマも起きない、あるいは起こさせない。象徴的な映像を写し込んで、リアルさから遠ざけようとしている(それでいて鎧、兜などは当時のものを再現したらしい)。マルケー タは修道女になることが定められている女だが、戦場で性的な罪を負い、最終的に教会を選択しないところで、映画は終わる。あくまで受け身の、主体性のない女なので、心変わりに感情移入も、理知的な理解もできない。羊を一緒に放浪する神父が狂言 回しのようになっている。発話がすべてアフレコで録っていていて、しかも音の遠近、強弱がない、みんなが大声で喋っているように聞こえる。なぜこんなことをしたのか分からない。3時間はやはりきつい。
55 トッツィ (S)
Tootsie にはおねえちゃん、売春婦といった意味がある。ダスティ・ホフマンが最初から女性っぽいメイクをしているのがみそである。友人の女性 ( テリ・ガールで、とぼけた味がいい。アメリ カには美人ではない、とぼけた味のこの種の女優さんがいる。マリサ・トメイ 、ゴールディ・ホーン など ) のオーディションに一緒に出かけ、すぐに失格の烙印を押されたことに反発し、自分が女装してそのソープオペラを受けに行く。場面転換しただけで、もうオーディションに向かうトッツイの変身姿という大胆な演出をやる。そこに心理描写も何も介在させないことが、この映画のすごいところ。それには、やはり最初からの女性っぽいメイクが効いている。脇がジェシカ・ラング 、じつをいえば彼女が見たくて見た映画である。「郵便配達は二度ベルを鳴らす 」の翌年に、この映画を撮っている。やはり柔らかな演技をしていて、とても無理がない。ジェシ カの父親役で、トッツイに惚れる のがチャールズ・ダーニング 、ソープオペラで外科部長を演じるジョージ・ゲインズ ( この人はおかしい ) 、トッツイの同宿人で芝居の仲間のビル・マーレイ 、トッツイのエージェントがシドニー・ポラック (監督も)。この男性脇役陣の豪華さ!
56 ブレードランナー (T)
何回目になるだろう、最初義務感で見て圧倒されて、それから何度かになる。今回にして初めて全体がすぽっと 手のうちに入ったような感覚がある。タイトルロールから笛(?)のような細い音が聞こえて、東洋風がすでに出ている。
地球へとやってきたネクサスという新レプリカント は感情を持ち始めるほどに進化しているので、4年限定の命にされている。それがすべてを解くカギとなっている。限られた命だからこそ、彼らには焦慮や諦観、仲間への友愛(肉欲の場合も)まで育ってくる。主人公は彼らを殺すことで、人殺しの感覚をからだに刻印されていき、最後、レイチェルとの逃避行を選ぶのである。はじめてキスをしたとき、kiss meと言え、I want you と言えと彼女に教えながらそのシーンが進む。切なくて、いいシーンである。
ずっと雨にたたられているのは、なぜなのか説明されない。日本風俗がそこらじゅうに埋め込まれているが、本格的にバブルで日本がアメリ カの不動産を買いまくるのは80年代半ば以降にしても、81の制作だとその前触れはすでにあったということか。アジアの路上マーケットのような稠密、喧騒、けばけばしさと、未来の都市の高層ビルが並列していることが、この映画のミソになっている。人間に近いレプリカが作られようと(彼らを延命させることは技術的に不可能、と生みの親の博士&タイレル 社長が言っている)、つねに警察空中車がうようよ目を光らせていようと、人間の営みは永劫変わらない、というサインでもある。
57 エイブのキッチンストーリー (S)
パレスチナ とイスラエル のあいだに生まれた子が、集まりたびに喧嘩になる親族を和解させようとミックス料理を作る。彼はそれぞれの言語で名を呼ばれるが、エイブというアメリ カ式が一番気に入っている。せっかくの料理なのにまた言い争いが始まり、子どもが失踪することで気持ちが一緒に。その子が学ぶのが、ブラジル出身の料理人である。料理と人種問題をからめた点で、異色である。
58 go! (S)
監督行定勲 、脚本宮藤官九郎 、主演窪塚洋介 、柴崎こう、窪塚の父母が山崎努 、大竹しのぶ 、脇に山本太郎 、新井浩文 、大杉漣 、萩原聖人 。久しぶりに見直したが、この映画、傑作かもしれない。とくに窪塚がセックスのまえに柴崎に在日であることを告白した時、柴崎は拒否する。窪塚は彼女を置いたままそのホテルを出て、橋のたもと(勝鬨橋 ?)まで来ると、自転車でやってきた警察官(萩原)が橋のたもとの自販機で何かを買おうとして、反対側を歩く窪塚を呼び止める。500円玉が使えないから120円貨してくれ、と。そのあと、君はどこから来たの?どこへ行くの?名前は?と尋問を始める。窪塚はその喉に手をかけて押し倒し、逃げ去ろうとするが、振り返ると倒れたままの萩原のところに戻る。次のシーン、横たわったまま目覚めた萩原の視界に缶コーヒーと、その先に座る窪塚が見える。2人は並んで座り、話を始める。窪塚はいま在日と名乗って彼女に振られてきたと言い、萩原は在日の彼女と付き合ったことがあり、ひどくキムチの味が悪く洗って食べた、と言う。窪塚はなぜ萩原を押し倒したかの理由を言う。在日は捺印した証明書がないとだめなので逃げた、と。萩原は、「在日でも必要なのか?」と問う。「そうだ」と言うと、「逮捕するぞ」「証明書のことも知らなかったくせに」というやり取りがある。最後、萩原が「すぐそこの交番にいるから、いい彼女が見つかったら、合コンしようぜ」と言って去って行く。
このシーンは絶妙なタイミングで挟まれるわけだが、いやはや脱帽である。二対の恋、それも立場が逆の恋の顛末と、警官と在日という危ない組み合わせをここで披露する大胆さと巧妙さに驚く。
山崎努 演じる父親も魅力的である。ボクサー上がりで、そのパンチ力がすごく、息子をそれで鍛え上げ、パチンコ景品交換の仕事を4カ所掛け持ち、家出を繰り返す妻の大竹しのぶ をこよなく愛し、自分の狭い範囲を突き抜けろ、と息子に言い続けるオヤジである。この親にしてこの子あり、である。
59 アプローズ!アプローズ!
スウェーデン で実際にあった話(1985年)らしく、刑務所内の囚人を使ってベケット 「ゴドーを待ちながら 」を上演し、評判を得る。強盗、殺人などで収監されている彼らは、罰として日常を奪われている。そこには掟、規則、順守といった暴力を背景とした抽象だけが支配する。まるで舞台装置のないベケット の世界である。なおしかも、待つことしかやることがない、という状況もまた。売れない舞台俳優が演出をするわけだが、「ゴドー」に目を付けたところに妙趣があったわけである。一筋縄ではいかない連中を舞台に上げるまでのくさぐさがあるが、舞台上での彼らの演技が素晴らしい。そりゃ役者なんだから、そうなのだろうが、素人だと思って見ている自分がおかしい。
ラストに事件があるが、ベケット 自身が「お見事だ」と言っている。フランス映画で、だいぶ実話とは違う脚色をしてあるのではないだろうか。ぼくは大学のころに彼の全集を買って、途中でその全集がストップしたことが懐かしい。初期三部作にはやられてしまった。
60 ローマンという名の男 (S)
デンゼル・ワシントン が民権派 弁護士事務所の実務的な裏方、裁判にはパートナーが立ち、彼は勝訴のための穴を見つけることに徹してきた。しかし、パートナーの突然の死で事務所は閉鎖に。しかし、そのパートナーに仕事を回していた男、これがコリン・ファレル 、やり手ファーム経営者だが、やはり人権派 の血が流れていて、ローマンを捨て去ることができない。ローマンは不正を働き、10万ドルを得るが、結局、報いを受けることに。ファレルが彼の遺志を受け継いで、司法改革へと進み出していく。ファレルがなかなかの役どころで、きちんと稼ぐところからは稼ぎ、余裕のなかで民権派 の弁護に回っていく。その中間的なポジションをよく表していて、グッドである。ワシントンが老けて太っていて、アグリーな感じは悲しくなる。
61 男はつらいよ 19 (S)
アクションものも、シリアスも、どうも見たくない。となると、どうしても寅さんか釣りバカになってしまう。アメリ カのコメディは肌に合わない。笑いほど国の壁の厚いものはない。
今作は真野響子 、嵐寛寿郎 。三崎千恵子 が虎に突っ込まれたときの表情が、なんともいえずいい。寅に愛想を言って受け入れられたときの表情もまた。最近、叔母ちゃんの表情ばかり見ている。
拾った捨て犬の名トラを変えずにいるという神経が分からない。寅が怒るのは尤もである。毎回思うのは、なぜに寅は旅先では訳知りの、酸いも甘いも知った、賢人となるかということである。旅先にも柴又にも日常が根強くあるわけだが、旅先では日常に踏み込む必要がないからだろう。賢人、じつは浮世離れした渡世人 で生きて行けるが、柴又では賢人であることは到底無理だし、日常に溶け込むことができない。だから、つねに喧嘩をおっぱじめては、出入りをくり返すのである。この映画に登場するマドンナは、その日常と非日常のあいだにいる存在だが、結局は日常を背負っていることが明らかになり、寅はまたしても破恋ということになる。寅=不能 説はリリーのところで書いたので省略。
今作、嵐寛寿郎 が息子の嫁に一度会ったことがあるといい、嫁(真野)は会ったことがない、という。これぐらいのことは直しておいてほしい。三木のり平 が嵐の執事で出ているが、もっとはちゃめちゃをやってほしい。渥美と並ぶと渥美に貫禄があるのは、なぜか寂しい。
62 サンジャックのへの道 (D)
フランスのル・ピュイというところから、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラ までの1500キロを3カ月かけて歩く、その過程を追いながら、確執のあったきょうだい3人の関係が少しよくなり(母の遺言でこの旅に出ることに。達成したら、遺産が転がり込む)、アラブの男子高校生とカソリック の女子高生の相愛が確かめられ、ガンと失恋に見舞われた女性は妻帯者であるガイドと関係を結び、字の読めなかったアラブの子は3人きょうだいの真ん中の女性高校教師からひそかに文字を習い次第に読めるようになる。ガンと失恋の女性は、最初はきょうだいの末弟と関係を結んだが、途中で旅の目的を終えたということで、きょうだい3人ともが戦線離脱した(あとで復帰するのだが)のを見て、その末弟との関係を断つことに。淡々と巡礼の道を写すだけだが、間あいだの眠りの夢のシーンでは、いろいろな幻想的な映像を流すのが、面白いといえば面白い。ただ、仕掛けをいくつも作っていながら、それを盛り上げることができず終わった、という映画である。
63 選挙 (D)
映像がシャープで、きれいなのが印象的である。それと、テーマ性が最初からきちんと提示されて、最後まで迷いがない。川崎市 宮前に落下傘で立候補した東大出で、切手・コイン商で成功したという男を追うドキュメントである。想田和弘 が監督・脚本・撮影・制作をやっている。東大での同級生だという。ちなみに想田は東大の宗教学科を出ている。
男の選挙に現市議、衆議院議員 、参議院議員 (川口順子)、そして小泉純一郎 まで関わるが、これは補欠選挙 であり、通常の選挙に戻れば、動員された人々も自分の候補の手伝いに回ることになるし、選挙民も自分の推してきたきた候補を持ち上げることになる。そういう意味では特殊な選挙といえなこともない。千票という僅差で当選するが、当人夫婦が自宅に帰っていて、遅れてやってくる、というドジぶりを見せる(案の定というべきか、次には落選の憂き目に遭っている)。
妻を家内と呼べとか、妻は仕事を辞めるべきだ、という古臭い倫理がはびこっている。妻は仕事を辞めろと言われ憤慨した様子を映像としてさらす。出陣式では神主がお祓いをする。名前を連呼するだけの選挙活動で、小泉の改革を引き継ぎます、と言いながら1回もその中身を言わない。選挙が人々を巻き込む祭りのようなものであることが、よく分かる。手伝いに来ているおばちゃんたちが、政治の裏側を知っているひとかどの人物に見える。
64 精神 (D)
やはり想田の実験映画である。今度は、ある精神科医 の診療所(岡山県 にある)をめぐるものである。こころに病をもった人びとがやってくるが、25年通っているという人もいる。自殺念慮 、強いうつ症状、統合失調症 ……。舞台は岡山県 のどこかで、山本先生は給与10万円と年金をあわせて暮らしているが、所員のほうが給与は高いのだという。ときに診療代を割り引くこともする。みなさん、カメラのまえで実にきちんと話をする。ある女性は、薬の袋詰め係をやっている。家に帰りたくないという場合は、宿泊所をあてがうこともある。この診療所と患者たちは一緒に人生を過ごしているようなまとまりがある。ときおり木の実、飛び立つ鳥を写すなど、「選挙」 に比べれば、だいぶ余裕が感じられる撮影になっている。蜘蛛の糸 の先にぶらさがる一枚の葉っぱが何事かを暗示させている。自分の悩みを打ち明ける女性の背後には、窓の外に鉄枠がはまっていて、それが十字架にも見える。
65 peace (D)
想田作品で3作目、またしても岡山で、今度は義父が対象である。重度障害者ばかりか在宅ホスピス のご老人などの送迎をする仕事を追う。月に6万の稼ぎしかないので、いつも赤字である。喫茶去という要介護(?)の収益があるから、やっていられる。野良猫を飼っていて、はぐれ猫が次第にほかの一員になっていくのと、山本さんという肺がんのご老人のケア(義母がやる)が大きな2つの流れである。猫は3歳になると若者に譲って旅立っていくという。だから、つねに4、5匹という状態が保たれている。山本さんは召集令状 で30歳で国内配置で終わったらしい。
3作目ともなれば、余裕さえ感じられる映画づくりである。相変わらずテーマの焦点が定まって、映像がクリアである。最初、2人続けて、発音に障害のある方が出てきたので、前作の続きか、と思ったが、まったくそうではなかった。老いの尊厳とはなにか。山本さんは病院に行くにも、部屋にカメラが入るにも背広を着込む人である。彼が行くと、医院の看護婦さんがみんなから挨拶される。どこかダンディなところが好かれるのもしれない。それなのに、彼が、早く死にたい、と言う。週に1、2度はカラオケに行って北島三郎 を中心に歌うらしいが、人に迷惑をかけるだけの人生を終わらせたい、と言う。
66 デュエリスト (D)
ナポレオン治下の軍隊で2人の男が名誉を賭けて4度の決闘を行う。冒頭から決闘の場面である。フェロー(ハーヴェイ・カイテル )が決闘で市長の甥を殺す。市長の苦情を受けた軽騎兵 隊の隊長がデュベール(キース・キャラダイン )をフェローに謹慎の申し渡しに差し向ける。そこはフェローが思いを懸けていた貴婦人の室内音楽会。彼は夫人の前で侮辱を受けたといって、決闘を申し込み、すぐに戦う。デュベールが腕に傷を与えて勝つ。
周りから女絡みの闘いではなく軍人の名誉の闘いと読み変えられたことで、えんえんと闘いが続く。ナポレオンが失脚し、ルイ王政が復活し、デュベールはもともとそれほどのナポレオン贔屓ではなかったこともあって中央に復帰し、フェローは死刑リストに載せられる(サドも載せられたが弁明で逃れた)。それをフェローに知らせずデュベールが救うが、結局、4度目の銃での闘いに。2度目を抜かせばすべてデュベールが勝ったことになる。
階級が違うと決闘できなくなるので、デュベールはフェローより先に出世するが、すぐにフェローが追い付いてくる。フェローは結局、将軍にまでなる。
最後、フェローが川を遠くに見はるかす丘に立ち、右前方から強い朝日が照り返すシーンで終わる。15年間おまえに支配されてきたが、もうおまえは死者だ、という言葉を投げかけられたフェローは、終止符が打たれた安堵感のようなものがある。監督リドリー・スコット 、原作ジョセフ・コンラッド 、 脚本ジェラルド・ヴォーン・ヒューズ 。
この映画はキース・キャラダイン の洒脱な様子とそれに関わる女性たちによって救われている。娼婦、姉、そして寄宿する姉の屋敷の隣にいる若き女性(結婚する)などである。淡々と進みながら、ときおりの決闘が迫力があるので、見飽きることがない。厳寒のロシアで2人でコサック兵に出合ったあとは和解もあるかと思ったが、フェローにはまったくその気がない。
67 バグダッドカフェ (S)
日本公開は1989年である。高名は聞き及んでいたが、見るのは初めて。何だろう、この映画。ドイツ人中年夫婦が砂漠のロードサイドにいる。尿意を催したらしく、旦那が事がすんでクルマに戻ってくると、車体の向こうから女房が立ち上がる。どうやら、そこで用足しをしていたらしい、諍いが耐えないのだが、夫の吸う葉巻を取り上げようとすると、その素早い動作をアップで撮る。ほかにもそういう何でもない仕草にアップとスピード感のある撮り方をする。結局、妻は荷物カバン一つでクルマから降りることに。
ガスステーションとあばら家が写る。それがバグダッドカフェ のようだ。ものすごいスピードで車が滑り込んでくるが、これがさっきのドイツ人ご亭主である。片言の英語で、コーヒーマシンが切れた店で、妻が来なかったかと聞く。店主が拾ってきたポットにコーヒーが入っていたので、それを無料で振る舞うと、すごくおいしい、と言って飲む。謝礼に海藻を干したようなものを渡すが、店員も店主も受け取らない。ご亭主は上機嫌で出ていく。
店主の妻ブレンダ(黒人、CCH Pounder)が出てきて、コーヒーマシンを買って来なかったことや、変なポットを拾ってきたことをなじり、夫は嫌気がさして出ていくが、離れたところにクルマを止めて妻の挙動を見守っている(あとで和解)。そこに先ほどのドイツの太った中年女、このくそ暑い砂漠で、折り目正しい、ぴちっとした服装に、羽飾りの付いた帽子をかぶってやってくる。
いつも客としてやってくる男はキャンピングカーで寝泊まりし、元ハリウッドの背景描き、じつはジャック・パランス が演じている。もう一人、男と乗り付けてきてモーテルに泊まった美人女も常連である。途中からは敷地にキャンプを張り、毎日、ブーメランに励む白人青年も常連。
ドイツ女はきれい好きで、子どもが大好きで、マジックを練習して店で披露をする。それが評判を呼んで、トラック野郎が集まってくる。元ハリウッドの背景描き、彼女を絵にしたいと望む。というのは、ブレンダの息子が小さなピアノをつねに弾いているが、母親は騒音だといって演奏をやらせない。しかしドイツ女、自らジャスミン と名乗るのだが、彼の演奏に聴き入る(残念ながら、クラシック曲だが、曲名が分からない)。そのときの姿に光が当たり、神々しくさえ見える。それに感応されて、彼女に跪いて祈りの姿勢になる絵描き。彼女にモデルになることを求め、部屋で描き始めるが、しだいにヌードにまでなっていく。
グリーンカード とビザが切れて、インディアンの髪の長い警官に連れていかれ、みんなは虚脱状態に。しばらくして戻ってきて、ブレンダと抱き合い、砂漠の貧相な花の向こうで2人が仲睦まじくするシーンはとても美しい。そこは会話はサイレントである。
また客が戻り、ブレンダも一緒にマジックをやり、ミュージカル仕立てになる。ブレンダは歌唱力がある。いずれまたグリーンカード とビザの問題が発生するが、絵描きが自分と結婚すればいつまでもいられる、と求婚する。ジャスミン は、ブレンダに聞いてみる、というところで映画は終わる。
監督パーシー・アドロン、マーラー に関する映画を撮っている。脚本、同人、エレオノール・アドロン。主題歌ジェベッタ・スティー ル(Jevetta Steeele)のI am callingでセリーヌ・ディオン などがカバーしている。
ウェス・アンダーソン の味わい、あるいはジャームッシュ のそれもある。手品を披露してからは、特異な感じが消えていき、ブーメランをブレンダの娘、ジャスミン で夕暮れのなかで飛ばすシーンは詩情さえある。
テイストは完全にぼく好みの映画である。
68 ネゴシエーター (S)
何だか間の悪い映画で、見ているのが辛い。これは監督の責任だろう。サミュエル・ジャクソン主演、ケビン・スペイシー 客演。悪徳上司にJ・T・ウォルシュ、人質にポール・ジォマッティ、シオパン・ファロン(悪徳上司の秘書)。
69 竜二 (D)
川島透監督、脚本が主人公を演じた金子正次で、元やくざで、この映画のすぐあとガンで死んでいる。川島はプロデューサーだったが、演出が気に入らず自分で撮ることに。同時録音ではなくアフレコを多用している。妙にドキュメントっぽい感じが出る。主役が素人だから、そうしたのか。笹野嵩史がちょい役で出ている。スタッフに坂本順治がいる。女房役の永島映子がいつも笑顔で、しかもいつ家庭が壊れるか分からない恐れみたいなものも表現している。これでいくつか助演女優賞 を取っている。
70 Love Life (T)
深田晃司 監督、主演木村文乃 。タイトルは矢野顕子 の曲から取っている。愛ある生活でも生命を愛するでもなく、愛と生命のほうが近いニュアンスの歌詞である。
いくつか気になる点を挙げる。
一応、筋的には夫婦の関係が子どもが浴槽で過って死んだことからおかしくなった、ということだが、どうもこの夫婦は最初から何かがズレていたのでないかと思われる。夫(永山絢斗 )は恋人がいたのを捨てて、妻(木村文乃 )を選んでいる。その元恋人は今でも職場(役所)が一緒で、妻も併設の生活相談所に、おそらく夫の斡旋で職を得ている。この夫はかなり無神経な奴だと思われる。
妻は元夫(聾唖者、韓国人)が近くの公園で寝泊まりしていることを知っていながら、なぜ自分たち親子を捨てたのか、と詰問しないのか。それが知りたくて3年間、苦しんできたというのに、おかしい。
夫の父親(田口トモロオ)は、子連れの木村を認めていない。だから、子どもは戸籍には入っていないらしい。和解の場を夫が設けたが、父親は「中古をもらうなんて」と言い出す。中古とは子連れの木村のことだ。このセリフ、ちょっとやりすぎで、現実感がない。
元夫は韓国にも捨てた妻子があった。こいつはいったいどういう人間なのか。元妻の木村はかばうばかりで、責めるということがない。それはどうしてなのかが描かれない。
聾唖者で韓国人の元夫との手話のほうが、夫との会話より充実している。夫は人の目を見ない。元恋人ともキスを交わす。そのあと、妻が元夫と仲睦まじくしているのを見て嫉妬し、無理矢理妻の唇を奪おうとする。言葉を介在させないタイプである。そのことが理由なのか、元夫が父親の危篤で韓国に戻ると言い出したとき、頼りないから一緒に付いていく、ということに。ただ、このシチュエーションは説得性がない。
深田晃司 は「さようなら」「淵に立つ」「ほとりの朔子」を見ているが、「よこがお」はどうも見る気になれず、久しぶりに深田作品を見た感じである。なかでは「さようなら」が一番できがいい。遊び心があるのと、早期にフクシマを扱って、きちんと的が合っていた。なにしろ大した動きもままならないアンドロイドが主役である。「朔子」もフクシマを扱っている。本作ほど疑問があったことはない。
それにして「コーダ」がアカデミー賞 を取ったり、滝口が聾唖者を登場させたり、いったいが何が起きているのか。コミュニケーションの難しさの象徴ということなら、われわれより格段に会話を濃く交わしていることが、この映画から伝わってくる。
71 復讐は私にまかせて (T)
インドネシア 映画、アクションの映画と思わせ、監督がやりたいのは不能 者と健康すぎる女の純愛である。なんだが途中で筋が分からなくなった。主役の2人、どっちも知り合いにいそうな感じである。監督エドウィン 、主役マルティー ノ・リオとラディア・シェリ ル。人殺しのボスの釣りの場面、手下が「ボスが釣るときは、海に人を潜らせておくって本当ですか」と聞く「釣りは楽しむだけ」と答える。ボスが返るので、手下がそれを追う。すると海から黒装束の人間が出てくるので、なんだやっぱり仕込みなのか、と思うと、その黒い人物は魚を手下が持つバケツに入れ、前方にいるボスを殺す。この女はどうやらボスの一味にレイプされた女らしい。
主人公をはじめ運転するトラックの背後に絵が描かれ、その絵が動く遊びをやっている。
アクションはたしかに見ごたえがあるが、セックスに関してあけっぴろげなのが意外といえば意外。インドネシア は世界最大のイスラム 国ではなかったか。
72 ロンゲストヤード (T)
74年の映画で、主演バート・レイノルズ 。プロフットボール 選手で、冒頭は赤いすけすけのネグリ ジェを着た女との別れ話から始まる。寝室にカメラが寄りながら、女が写った写真を舐めていくところなど、なんだかムードがありそうな映画に見えるが、女がもう一度、と言いながら下半身に手を伸ばすようなエッチなことをやるが、レイノルズは拒否し、女をベッドから落としてしまい、殴ったりもする。彼女のクルマを奪い、警官に追われ、2年ほどの刑期で刑務所に。そこの所長がフットボール 好きだが、セミ プロまで行ってそこから伸びないので、彼に助力を頼む。ところが、看守長が圧力をかけてイエス と言わせない。あとでその看守長自身、選手の一人と分かるのだが、なぜ彼がレイノルズを止めるのかがよく分からない。レイノルズは父親孝行のために何かズルをして6年ほど競技から遠ざかっているという設定である。
結局、看守チームと戦うことに。七人の侍 よろしく腕の立つやつをスカウトし、黒人だけは取り込むことができなかったが、あとで看守を殴れる、特別料理が味わえる、というので黒人も参加に。彼らが勝ちそうになり、所長が、おまえは看守長に手荒なことをしたから刑期を延ばす、と脅し、レイノルズは手を抜き点差が離れるが、やはりプロだったロートル が奮起し、粉砕されたことでやる気を戻し、看守チームを最後1点差で勝ち抜く。
バート・レイノルズ がすごくマーロン・ブランド に似ている。とくに皮肉な笑い方をしたときなど、そっくりである。アルドリッチ 監督は、71年に「傷だらけの挽歌」を撮っている。わが愛するキム・ダービー主演である。彼の中では異色な映画に入るのはないだろうか。
73 ホットスポット (D)
いい映画である。1990年の制作である。デニス・ホッパー がここまでの映画を撮る監督とは知らなかった。淫蕩だが芯のある女と、なにを考えているわけでもない純真な若い女 と、36歳の企み多き暴力男の絡みが、ねっちりと描かれている。 ある田舎町に現れたストレンジャー /ハリー・マドックス(ドン・ジョンソン )が銀行強盗を企む。そこに彼が職を得たカーショップの経営者の妻ドリー(バージニア ・マドソン)とそこの事務店員である若い女 グロリア(ジェニファー・コネリー )が絡んでくる。グロリアは19歳で、レズであったことをバラすとサットンという男にゆすられて、会社の金を使い込んでいる。ドリーはマドックスに惚れ込み、夫を殺してまでも、手に入れようとする。そこで彼女が使ったのが、マドックスの銀行強盗無罪の証言の撤回と、グロリアへの返済要求である。マドックスはドリーとの腐れ縁の中へと戻っていく。自分の欲しいものは絶対に手に入れるというドリーとマドックスは似た者同士である。マドックスはでは何を手に入れたのか。74 絆 (S)
根岸吉太郎 監督、荒井晴彦 脚本、主演役所広司 (テッちゃん)、客演渡辺謙 。まちで女が声をかけたのが、いまはヤクザから身を退いて実業をやっている(実態は違うが)テッちゃん。女が一緒にいたのがトップ屋、テツと女の関係を探りはじめて、テツの妹が売り出し中のバイオリニストで、資産家と結婚が決まっていることを知り、ゆすり始める。そこから糸が次第にほぐれていくのだが、テツも呼び掛けた女も、その女に惚れる居酒屋の亭主も、そしてテツをかばう組の者もみなある孤児院の仲間。テツは孤児院のときに居酒屋の亭主となった男を救っている。亭主はテツを守るために、そのブンヤを殺す。テツをかばう男が失踪したというので家に行くと、天井から床までの窓の向こうに光が見える。まるで焼津の海のようだ、と言う。そのシーンがすごく美しい。テツをかばう男も敵の組に殺され、テツはその親分を殺すことで、すべてを清算 する(理屈がよく分からないが)。
主題歌が南米のどこかかの歌らしいが、テイストが合っていない。刑事役の渡辺謙 がいい。きちんと撮られた映画だが、演歌的な撮り方が気になる。
75 ミッション・ワイルド (S)
トミー・リー・ジョンズ監督・主演、プロデュースの一人でもある。客演ヒラリー・スワンク 。2014年の作。ジョンズには監督作は数編あるようだ。スワンクが31歳の敬虔かつ経済的にも自立している女性を演じる。ただし未婚。信心深さから3人の狂女をつれて東部のメソジスト系の教会に届ける。死刑で木の枝から首輪をかけられ、馬に乗せられているジョンズを助けて道連れに。狂女たちはそれぞれ家庭で性的にひどい目に遭って狂った。 スワンクが近所の男、いつも仕事を一緒にしたり、食事を振る舞ったりする男に、結婚してくれ、家産もある、と頼むが、男は結婚を断り、東部に嫁さんを探しに行く、と言う。「あんたは威張り過ぎる、平凡な女だから」と言って出ていく。「威張り過ぎる」はその男の劣等感がいわせた言葉である。そのあとの魂をなくしたような、あるいは戸惑いを内に取りまとめたようなスワンクの表情がいい。途中、相当に齢の離れたジョンズにも結婚を申し込むが、断られる。平凡だから? と聞くが、ジョンズは答えない。家産があるし、金も銀行にあり、将来やることもある、と言うと、ジョンズはかつて結婚し農夫になろうとしたが、すぐに捨てたぐらいだから、ダメだと言う。そのときのスワンクの表情がまたいい。平凡? 彼女は余りにも自活する、独り立ちの女性で、なおかつニューヨークで生まれ、いまは西部の片田舎にいるが、布に描いた線の鍵盤を弾きながら歌をうたう知的な女性である。そして極めて敬虔である。しかし残念ながら、性的な魅力がない。いずれにしろ、野卑な男たちには荷が勝ちすぎるのだ。翌朝、寝床にスワンクガいない。探すと、首をくくって死んでいた。セクスと何か関係があるのか。宗教的な何かか。 そこからはジョンズと3人の狂女の旅が始まる。ジョンは彼らを置いて逃げようとするが、一人の狂女が追ってきて、川で流されそうになり、他の2人がジョンズを手伝って救うのである。、3人の狂女ともうまくいきながら、途中で3日間物を食べず、必死で泊めてくれと頼んだホテルで軽くあしらわれ、ジョンは夜にそこに戻り、火をつけ、野中の一軒屋の真新しいホテルがごうごうと燃え盛る。その最中に豚の丸焼きを盗んで、狂女たちと一緒に食べる。そして、やっと目的地へとたどり着く。メリル・ストリープ 演じるメソジスト系の牧師の妻に狂女たちを預けて、ジョンは東部へと戻ろうと川を渡るところで、終わる。その渡し船 のうえで、スワンクにも見せた奇妙な踊りをおどる。スワンクのために作った木製の墓標がその船から川へと落ちる。供養の意味だろう。 とても好ましい映画だが、ジョンズは自分が監督なのだから、もっと抑制的に撮るべきだったのでは。東部の町で泊まったホテルの19歳の女性(ヘイリー・スタインフェルド )は、トランスホーム系のロボットものの映画で見ている。彼女にスワンクの話をし、とても素晴らしい女性だった、とジョンズは言う。
76 ディア・ファミリー (S)
主演ヒラリー・スワンク 、母親(ブライス ・ダナー)が認知症 になり、すべてを仕切っていた父親(ロバート・フォスター )が施設に入れることを拒んだことで、弟(マイケル・シャノン )、娘、そして夫の関係を見直す契機となる。じっくりと、ていねいに、家族の確執を描きながら、人を愛するとはどういうことか静かに開示する映画になっている。監督エリザベス・チョムコ、脚本同。母親を演じたダナーが心臓病で急死した夫とのことを「ちょうどいいタイミングだった。遅ければ彼のことを気づけなかったし、早ければ深く愛しすぎた」と言う。父親の希望に従ってエリート男と結婚し、この騒ぎで絆の固い両親の姿を見て離婚を決意した娘は、いかにも納得した顔で母を見つめるところで、この映画が終わる。是枝を含めて家族の映画が続々と作られているが、それぞれが自分の思いをぶつけあうこのような映画は日本では一切作られない。では、家族が生み出した葛藤はどうやって日本では解消あるいは止揚 されているのだろうか。