2023年の映画

湯島天神近く




去年の収穫は例年になく貧しい。年も押し詰まって見た「ザリガニの鳴くところ」が一番心に残る。あとジョン・レノンの初期活動を追ったドキュメントである。彼はリバプールハンブルグですべては終わっていた、という認識を示している。その空恐ろしい冷徹な見方に驚く。今年はどんな映画に出合えるだろうか。

記号の意味=T-劇場、S-配信、D-DVD

 

 

1 嘘八百 京町ロワイヤル(S)

1作目をネットで見たが、これもそう。それぞれの個性を生かしたコンゲーム(ミッションインポシブルのような騙し仕掛けもの)の場面は、1作目のほうが面白かった。悪党をやっつける筋だが、愛があって、それほど悪者に描かないのが、この作品のよさかもしれない。主演中井貴一、佐々木蔵乃助、広末涼子友近など。予告通り、もう3作目がやってくる。

 

2 Dr.コトー診療所(T)

この種の映画は見ないのだが、なぜか映画館に足を運んでいた。監督中江功、脚本吉田紀子、主演吉岡秀隆柴崎コウ小林薫、高橋海人、大塚寧々など。病院経営の息子が研修に孤島(与那国島、映画では志木那島)へとやってくるが、それをアイドルグループの一員である高橋海人という人物が演じている。これがなかなかいいのである。人間関係がよく分からないうちに終わってしまった。そもそも柴崎コウ吉岡秀隆を先生と呼びながら夫婦であることが後で判明する、といったように。急性骨髄白血病で吉岡が床に倒れ、妻も産気づいて床に座り、しばらく誰も何もしない状態が続くが、ありゃ何なのだろう。困ったものである。客の入りはまあまあ。

 

3 汚れた血(D)

レオス・カラックス監督・脚本、86年の作品。ユーロスペースが大入りだった映画である。画面を赤と黒でスタイリッシュに構成し、あざやかなブルーが時折綴景される。言葉、言葉の映画である。だから、行為と呼ぶべきものがほとんどない。ラジオをかけてデヴィッド・ボウイのモダン・ラブがかかり、通りに出て曲に合わせて身を躍らせながら走るシーンは圧巻である。主演ドニ・ラバン、ジュリエット・ピノシェ(美しい!)、ジュリー・デルビー(かわいい!)、ミシェル・ピッコリなど。ラバンの父親は有名な鍵師、その腕を継いでいる彼がウイルス菌を奪う一味、といっても彼を入れて3人だが、それに加わってまんまと盗み出すが、一味の頭領に金を貸し付けているアメリカ女の一味に腹を撃たれ、飛行機で逃亡できずに終わる。素朴であることが一番難しい、と彼は死に際に言う。腹話術で喋るほうが楽だというのも、彼の自我の揺れを示している。決して主演を張れる顔立ちではないが、見ているうちに慣れてくる。

 

4 守護教師(T)

マ・ドンソク主演、また見てしまった。これもよくできている。「鉄拳」より落ちるが。友人の失踪を追う女子高生ユジンが、「アジョシ」に出ていたキム・セロン、見ているうちに面影を思い出してググッたところ、彼女だった。「アジョシ」は6、7回は見ている。

 

5 ペイル・ライダー(D)

イーストウッド監督作で、西部劇復興のきっかけとなった作品らしいが、ぼくとすればやはり「許されざる者」で注目したといっていい。この映画、あくまで伝統的な撮り方をしている。再見である。砂金を取る小さな村を飲み込もうとする成金がいる。そこに牧師、いや実はガンマンが助け舟を出す。村の娘が聖書の蒼ざめた馬の箇所を読んだそのときに、窓の外を青白い馬に乗ったイーストウッドが通り過ぎる。冒頭のシーンでも、まちの入り口に彼が現れ、気がつくとスッといなくなる。悪霊のような扱いだが、途中からは不吉な影などない早撃ちガンマンになる。村の母娘が一緒にイーストウッドに心を奪われる、というのは出来過ぎではないのか。その母親に惚れて、最後、イーストウッドに手助けするのがハル(マイケル・モリアーティ)で、気弱でも芯がありそうなキャラクターがよく出ている。今でも出演作のある脇の俳優さんだ。

 

6 キャバレー(T)

劇場で見るのは本当に久しぶりだ。高校生のころに見たのだったか。ほぼ記憶通りの映画である。ライザ・ミネリ(サリー・ボウル)のキュートな感じにやられてしまった。サリーが、「お腹がぺしゃんこ、お尻が小さく、そしてここは」と言いながら、ブライアン(マイケル・ヨーク)の手を胸にもっていくシーン。ぼくはヘップバーンとショーン・コネリーの「ロビンとマリアン」の草原のシーン、そしてフェイ・ダナウェイとウォーレン・ビーティ「俺たちに明日はない」のやはり草原のシーンを思い出す。いずれも性的なものに関連したシーンである。

今回、サリーがベルリンに来てまだ3カ月という設定だったのには、驚いてしまった。
それにしても悲しい役回りだ。妊娠が分かり、だれの子か分からないのに、恋人ブライアンが受け入れ、ひと時の幸せを味わうが、ブライアンが気塞ぎの表情を見せたことから、中絶を選ぶ。その処置をなじるブライアンに、ケンブリッジ(ブライアンはそこの大学院生で、ベルリンに英語個人指導のアルバイトで学費稼ぎに来ている)での田舎暮らしで、赤ん坊のおむつを積み上げ、どうせ私は退屈し、近くのパブで酔い潰れるに決まっている、そしてあなたは……というところでサリーは言いさして止める。「私に愛想を尽かす」と言いたかったのではないだろうか。このサリーの予測はおそらく真実を衝いているが、本心は彼の曇った表情にあった。サリーの父親は“大使らしい”が、娘に理由をつけて会おうとしない。サリーはそのことでとても不安定になる。

ブライアンは英語を教えながら宿泊費を稼ぐが、その顧客のひとり、富豪の娘ナタリア(マリア・ベレンソン) との1回目の授業。彼女が反吐汁という変な言葉を使う。「汁は付けない」とブライアン。サリーは「やる」とセックスのことを言う。ナタリアがその意味を聞き、当惑する。ブライアンがナタリアにケーキを渡そうとするが、彼女が断り、それをサリーに回す時に、皿からケーキが勢い余って飛び出す。ここのシークエンスは笑える。ナタリアがとても気品があるから、ダーティ・ジョークが効いてくる。

2人と男爵マクシミリアン(ヘルムート・グリーム)の自堕落な日々。クルマからブライアンが降り、そのあと彼が怒ったように運転手に声をかけるシーンがある。やがて、ブライアンとサリーにアルゼンチンに旅立つという電信が届く。おそらくだが、マクシミリアンはブライアンに一緒に来てほしかったのだろう。それを断られての振る舞いと思われる。ブライアンはサリーに、マクシミリアンと寝たことを告白する。そもそもブライアンは3度女性と同床するが、惨憺たる結果に終わったという人物である。サリーに誘われた時にそう言って断ったが、ふとしたときに気持ちが合い、事に至り、うまく関係を結ぶことができた。そういう同性愛的な傾きのある人間なのである。

やはりこの映画、傑作である。監督ボブ・フォッシー、脚本ジェイ・アレン。フォッシーは「スィートチャリティ」でこけて、この映画で復活したらしいが、「スィートチャリティ」のシャリー・マクレーンはとても美しい。

 

7 続・激突 カージャック(D)

スピルバーグである。ところどころ記憶にある映画である。この路線で撮っていれば、スピルバーグの映画も見るようになったかもしれない。何より全篇にわたる緩さがいい。のんびりした追走劇である。
親権を奪われた前科者の夫婦が警察官を人質にして、息子が養子となった先へと向かう。その間に、人質警察官との間に友情らしきものが芽生え、彼ら夫婦の行いは民衆の支持を得て、行く先々で歓迎を受けるが、全体を仕切る警部が子どもを返すと保障したのはウソで、子どものいる目的地にはスナイパーが待ち構える。ゴールデン・ホーンが妻、夫がウィリアム・アザートン、人質警官にマイケル・サックス、警部にベン・ジョンソン、脚本ハル・バーウッド、マシュー・ロビンス。ラストに死を置く「俺たちに明日はない」が下敷きになっているだろう。民衆に歓迎されるところ、だれも殺さない2人であるところなどにも共通点がある。そして惨劇の最期。

 

8   悪人伝(S)

もしかしてマ・ドンソクには外れがないのかもしれない。連続刺殺魔に刺されたヤクザの親分がドンソク、その事件を追う刑事がキム・ムヨル(なかなかいい。2人が組んで犯人を追い込んで行くが、最後は法廷へ。韓国の狂気を帯びた殺人鬼はみんな青ざめた、長い髪の、どっちかというとインテリの顔をしている。この類型化の意味は何か? アメリカ映画にもこの系譜を探せそうな気がする。

 

9  ある母の復讐(S)

マ・ドンソクの初期の作品なのだろう、脇役の若い刑事という役。パッとしないし、わざと時系列を複雑にして撮っているので、進行がかったるい。レイプされた少女の演出も間違っている。

 

10 プレイヤー(D)

アルトマンの映画は高校生のときに封切りで見た「マッシュ」が最初である。すごい映画だな、エリオット・グールドがいいな、という印象だった。下半身モザイクも印象に残る。初めて見たベトナムを扱った映画である。もちろんアルトマンと知らずに見ていたのだが。結局、有名どころしか見ていない、「ロンググッドバイ」「ナッシュビル」「ゴスフォードパーク」「今宵、フィッジェラルド劇場で」と本作、そして名前を忘れたのが1、2作ある。彼と意識して見たのは遺作「今宵~」である。あとは面白そうな映画だなと思って劇場で見たが、アルトマンと分からず見ていた。本作は2度目、今回は面白く見ることができた。冒頭のワンカメラで多彩な人物の出入りを撮り続けるのは、アルトマン流。ちょい役で出ている有名役者たちの数々! なんとなく彼がリスペクトされる監督である理由が分かった気がする。批判精神旺盛だが、エンタメに仕上げるぞ、という構えがある。正義面しないのもいい。評判の高い「ナッシュビル」は3回見ているが、どうも緩すぎて感心しない。

 

11 仕掛け人 藤枝梅安(T)

小さな劇場に、よく客が入っていた。東映設立70周年記念映画だそうだ。梅安を豊川悦司が演じ、仕掛け人仲間を片岡愛之助。冒頭に2人のシーンがあるが、片岡が下を向いたまま妙な長い間がある。あれは何なのでしょうか? こういうのを編集でカットするのではないか。殺しを依頼される対象に因縁がいくつか絡むのはいいが、どうも話が小さくなってしまう。梅安が殺しに入る動機などは、どこかで明かされることになるのだろうか。幼いときに父が、そして母と妹がいなくなり、孤独の身となった梅安。

それにしても、悪い奴なら殺してもいい、という理屈にはついていけないところがある。

新女房(天海祐希)にセックスを拒否され、足蹴にされる料亭亭主(田山涼成)がもっとあくどい男という設定は、ありなのだろうか。マゾということ? マゾが痛めつけられて遺恨に思うようでは修業が足りないのでは? その天海が演技も発音もすっきりしていいのである。梅安の家で下働きをする女を高畑淳子が演じていて、こっちもメリハリが利いてグッドである。4月にもう一本、豊川梅安がやってくる。結局、そっちも見てしまいそうだ。監督河毛俊作、脚本大森寿美男、いずれもテレビ畑の出身らしい。

 

12 ガンマン(S)

ショーペン主演で、4分の3を見たところで、再見であることに気がついた。どうも役者が知ったやつばかりと思っていたのだが。女優ジャスミン・トリンカ、客演ハビエル・バンデム、悪党にマーク・ライランス、インターポール刑事にイドリス・エルバ(テレビ連続刑事ものの主人公、黒人)。脳の損傷からの病気なのに、敵が襲ってくるとすぐに対応できるのが不思議。コンゴを食い物にする組織を描くが、主眼は愛する女性への一途な思い。

 

13 ラストガード(S)

おしゃれな映画である。アクション映画として見れば落第だが、狙いはそこにはない。ガードした金持ち女性に惚れ、相手も次第に傾斜していく。そのいきさつがごく自然に捉えられている。アクション場面は2回だが、きちんと撮っている。主演マーティアス・スーナールツ。監督アリス・ウインクール。女性監督である。なるほど、である。ほかに2作あるので、見てみたい。

 

12 顔のないヒトラー(S)

再見である。1963年まであのドイツでさえナチの犯罪を公けにできなかった。その意味は大きい。しかし、歴史はもしかしたら、一人の人間の善意によって変わる可能性がある。一人の若き検事は、みずからの父親さえナチスだったことを知り、裁判の準備ができなくなる。「どんな罰が適切か分からない」そのときに、そもそものきっかけを作ったユダヤ人の記者が言う、「罰に目を向けるな。被害者とその遺族に目を向けろ」それが彼の転換点となった。

 

13 アイ・キャン・スピーク(S)

ほのぼのとしたいい映画だな、と思って見ていた。韓国人の底知れぬ優しさが出ているな、と。主人公は「シグナル」に出ていたイ・ジェフン、お婆さん役がナ・ムニである。このご近所からは大いに嫌われるお婆さんが、とてもかわいい。お婆さんが英語を覚えるのは、幼い時に別れたアメリカにいる弟と話すためためだと思ったが、じつは従軍慰安婦で、アメリカ議会小委員会で証言するためだった。彼女を落とし込む日本人(官僚?)が汚く描かれている。始めからそうだと分かっていたら、この映画、見ただろうか。しかし、韓国の人がこれを当たり前として見ているとしたら? と思うとやりきれない。日本の軍人が旭日旗を刺青したとか、腹に深い傷をいくつも負わせたというのは、本当のことなのだろうか。幾冊か慰安婦絡みの本を読んできたが、そういう記述に遇ったことがない。またいくつか関連本を読むことになる。

 

14 無垢なる証人(S)

これも韓国映画。殺人事件を目撃した自閉症の子と弁護士の物語である。人権派で売ってきた男が父親の借金返済などもあって、ふつうの弁護士に。つまり金持ちのための腰弁になったのである。その彼が心を通わせた少女を法廷で悪利用することに。しかし、本心まで腐っていなかった――という話。弁護士をチョン・ウ・ソン(「私の頭の中の頸消しゴム」に出ていたそうだ。「アシュラ」は見ているが、記憶になし)、少女をキム・ヒャンギ。犯人役の女は「アイ・キャン・スピーク」で人のいい隣人を演じていた女優。ホームページからは名前が分からないが、なかなか貴重な顔をしている。酷薄な人間も、同情味のある役もできる。

 

15 特捜部Q Pからの伝言(S)

デンマーク発の刑事もの。重厚な映画づくりで、外連味がない。シリーズらしいので、ほかも見てみる。なぜに北欧発ミステリーはすごいのか? 今さらの疑問でもあるが。キリスト教が主題になっている。無神論の刑事こそ、ふだんから人を救っているではないか、と悪魔の申し子の男が言う。

※そのあと3作見たが、「キジ殺し」が一番出来がいい。過去と現在の混ぜ方に無理がない。しかし、養護院が犯罪の舞台になるというのは、ほかの何かでも見ている。

 

16 エンパイア・オブ・ライト(T)

サム・メンデスはいくつか見ている。「アメリカン・ビューティ」が最初で、あと「ロード・トウ・パーディション」「ジャーヘッド」「レボリューショナリー・ロード」と来て、007の「スカイフォール」「スペクター」である。父性を描く監督と思っていたが、いまや何を撮っているのかよく分からない。

またしても映画館が舞台、古くて豪奢であるが、もう使っていないスクリーンもある。最上階の4階はピアノがあるバーのようなものだったのか。

統合失調症の病歴のあるヒラリーが新しく入ってきた黒人青年スティーブンに惹かれ、二人は愛し合うことに。しかし、次第に彼女の均衡が崩れ、映画館でプレミア上映される「炎のランナー」の日、まちのお歴々のまえに支配人の次に立って一節をぶつ。そこでオーデンの詩を引用し、お客を唖然とさせる。さらに支配人の妻に彼との交情について暴露する。彼女は部屋に引きこもり、ボブ・ディランの曲を大きくかけ、酒におぼれる。民生委員がやってきて、警官がドアを破ったとき、彼女はもう精神病院に入る用意ができていた。

その後、支配人は別の館へと移り、ヒラリーは戻ってきて働き出す。外で白人の群れが通り過ぎる騒音が激しくなり、館の戸締りを急ぐが、群集がガラスを割って入り、スティーブンを半殺しにする。入院をする彼を見舞うなか、スティーブンとの関係も修復されるかに見えたが、彼はまえに一度落ちていた大学入試に成功し、別のまちへと旅立って行く。まるで南仏のような明るい海の風景を屋上から仲間と眺めるヒラリーの表情は晴れ晴れしている。そこで映画は終わる。

 

すべてがさりげなく回収されている。ヒラリーとスティーブンが初めて会話らしい会話をしたのは、4階で羽根の折れた鳩を見つけたときである。腕を伸ばして傷ついた鳩を両手に挟んだとき、服がめくれて黒い、健康そうな肌が見える。そこにヒラリーの視線が一瞬だが行く。このあたりがうまいし、彼らが肉体の関係に入る道筋を知らせている場面である。ヒラリーが詩が好きなことは、仲間がクロスワードをしながら「『荒地』の最初のAの付く言葉」と言ったときに、Aprilと平然と答えることで示唆される。スティーブンの母親が看護婦であることが語られるが、半殺しで入院した先の病院の看護婦であることが、ヒラリーが見舞いに行くことで分かる。スティーブンが人種差別を受けていることは、途中で白人のチンピラ3人に絡まれることで予知されている……といっても、どれもごく自然に描かれるので、わざとらしさは感じない。

 

アメリカに黒人差別があることは自明だが、わが母国イギリスにもあるぞ、というのでメンデスはこの映画を撮ったのではないか。ビートルズリバプールはアフリカからの黒人貿易の拠点だったことは、有名である。それにしても、懐古趣味になりがちな映画館を使って、統合失調症と差別を描くというのは、やるなぁと素直に思う。

 

17 秋津温泉(D)

原作が1942年に発表され、映画化が1962年。数年に一度会うだけの男女が、17年後に女の自殺によって終止符が打たれる。となると、原作は戦前の設定になっているのだろうか。この映画では敗戦の直前からを描いている。岡田茉莉子主演100本映画と銘打たれ、企画も彼女となっている。着物も彼女が担当。どうやら10年後ぐらいの逢瀬のときに初めて肉体関係に入ったように見える。これはいったいどういうあり方なのだろうか。

河本周作は肺病病みで自殺願望をもっている男で、たまたま満員列車で乗り合わせ、おにぎりを振る舞ってくれた縁で、その中年の女性が勤める秋津の旅館に身体を休ませることになる。介抱を担ったのが新子(しんこ)の岡田である。敗戦のラジオ放送を聞き、突っ伏して泣く新子を見て、周作は生きていこうと決める。河本はやがて結婚し、子どももできるが、売れない作家として暮らしている。義父(宇野重吉)も小説家だが新人賞を取ったことで売れっ子となり、彼の紹介で東京の出版社(?)の社員の口をあてがってもらう。店の売り子にモーションをかけるような浮薄な男である。

しばらくぶりに新子に会いにいくと、旅館を手放し、話し方もどこか平板な、投げやりな感じになっている。「あなたを生かすことが、私の生きる意味だった」式のことを言う。決して、その男、つまり周作のことを不甲斐ない、だめ男だったとは言わない。まだ希望をもって、一緒に死んでくれ、と真剣な目つきになるが、周作は「死ぬの生きるのは若いうちに言う言葉」で、「人間はそう簡単に死ねないと分かったよ」と言うばかり。帰る周作を見送ると、腕首を切って、河原に下り水に腕を浸して死んでしまう。異常を感じて戻った周作が死体を見つけ、抱きかかえて道まで戻ってきて映画は終わる。

新子は周作に何を期待したのだろうか。それが見えてこない。一度愛したら、それを続けるのが当然といった風情だ。周作はそれを見越して、数年経つと、秋津へと行きたくなる。不思議な関係といえる。

川端の『雪国』を思い出す。着想は案外、この小説から取っているのではないか。

 

18 ケイコ 目を澄ませて(T)

いい映画である。冒頭、点滅する街灯に雪が降りかかる。カメラがパンして赤茶色の窓を写すが、そこにも霏々として雪が降り注ぐ。その窓のなかに人の動く気配があって、そこがこの映画の舞台になるボクシングジム。ぼくはもうこの導入部で居ずまいを正す感じになった。

主人公のケイコはリーチが短く、背も低く、最大の問題は音が聴こえないということ。試合になってセコンドからの指示は手で合図が送られるが、情報が限られている。そんな彼女は2戦して2勝、ただし辛くもといった勝ち方である。

彼女の通うジムは10人もトレーニングに通う人間がいない。事務所の会長は脳に病気を抱え、ジムを閉じることを考えている。彼女も思うような勝ち方ができないために、ジムを止めようとするが、ふとジムに寄ったときに、会長が彼女の試合のビデオを見て、熱心に研究している姿に触れて思い留まる。会長は彼女が初戦を勝利で飾ったとき、メディアの取材で彼女の利点を「人間の器量がいい。素直で、純真」と答えている。

ケイコは弟と暮らし、弟はときおり黒人(?)の彼女を連れて来る。母親は別に暮らしているらししいが、父親の姿はない。どういう家族関係なのかが見えない。弟の彼女が手話を覚えてコミュニケーションをとってくると、ケイコは嬉しがる。彼女はホテルで清掃やベッドメイキングなどの仕事に従事している。

ジムでのトレーニング、ホテルでの仕事、弟とのコミュニケーション、そして河川敷での自主練習で成り立っている映画である。彼女が浅草松屋の東側の道路を北に歩いていくシーンがあるので、きっとジムも、河川敷もそういった界隈のことだろう。ただ「ここは戦火で焼けなかった」といいうセリフがあるから、かなり浅草の北の方ではないかと思われる。

シーンの一つひとつに意味があって、しかも過不足なく描写されていく。無駄がないのだが、全体はじっくりと進行する。曖昧なのは家族関係と河川敷でぼーっとしているときに2人の警察官に職務質問をされ、余りに彼女との応答が噛み合わず、もう一人の警官が「もう行こうや」といった感じで立ち去るシーンぐらいである。その警官の仕草、表情が曖昧で、何のためにこのシークエンスを入れたのかが見えない。

弟の会話はときにサイレント映画のように縦長の黒い長方形に文字が白くなったものが映される。林海象の映画を思い出す。友達二人と喫茶店で話をするときは手話だけ。こういう遊びはグッド。

試合で彼女はノックアウトされ、また河川敷で座ってもの思いにふけるが、そこを通りかかった作業服姿の女性が声をかけてきて、「こないだはありがとう」と言って去っていく。試合をした相手であることは顔に残るいくつもの傷で分かる。彼女の心にまた灯が点ったことが分かる。それで映画はジ・エンドである。

主演岸井ゆきの、会長三浦友和、監督三宅唱、脚本同、酒井雅秋。岸井が不細工に見えたり、とてもきれいに見えたり、それだけで映画を見ていることができる。三浦友和は「転々」でおやっと思った。いい役者さんだったのね、である。本作でも肩の力が抜けていてグッド。やや定型のきらいがあるが。

この映画、イーストウッドの「ミリオンダラーベイビー」が当然、意識されていると思われるが、しょぼいボクシングジム、老いたジムの会長という設定は同じ。一人黙然とトレーニングするのも同じ。しかし、方やチャンピオンとなっていくが、この映画の主人公は飛び抜けた才能があるわけではない。中学生のときにいじめに遭ったことがボクシングを始めたきっかけのようだが、動機も弱い。だから、辛勝のあとボクシングを止めようかと考える。

じゃあこの映画は何を描いたことになるのか。聾者の苦悶でもない、その日常を丹念に描いたわけでもない、反骨の様でもない……と考えてくると、この映画の良さが分からなくなってくる。だけど、最後までまんじりともしないで見てしまった映画なのである。監督三宅唱、脚本同、酒井雅秋(テレビが中心、映画「任侠学園」)。

 

19 人生の仕立て屋(S)

イタリア映画で、主人公はギリシャ人? 紳士服の仕立て業が行き詰まり、最初はその紳士服を屋台で売りに行き、まったく売れない。しかし、女性客が寄ってきて、紳士服しかないのを見てがっかりする様子などからヒントを得ていく。ウェディグンドレスを頼まれたのがきっかけで、商売が好転していく。隣のアパートの子どもとその母親と入魂になるが、夫の頸木からは逃れられない。仲のよかった娘も、母親と彼が睦まじくなったことで、反旗をひるがえす。最後にオフィスが荒らされた場面が映るが、銀行融資の返済ができず、差し押さえに遭ったということのようだ。だが、主人公はまた一人で出張仕立てに精を出す。このエンディングは後味が悪い。せっかくだから借金を完済し、恋も稔る、としてほしかった。彼が翻然と屋台を引くことを決心するのに、2度、途中でそれをほのめかす映像を入れている。台車に荷台を設置した屋台が通り過ぎるときに視線がいっている。だから、翻意が自然なのである。

 

20 不連続殺人事件(D)

監督曽根中生、脚本同、田中陽造大和屋竺(あつし)、荒井晴彦(助監督)、原作坂口安吾。資産家の家に集まった作家、弁護士、画家、医者などが8人の殺害に巻き込まれていく。もちろん犯人は内部にいる。金田一的な役柄を田村高廣が演じるが、彼の弟子巨勢(小坂一也)がすべてを解決する。登場人物が多すぎて、どこが不連続だか分からない。それとセリフが古すぎる。ATG制作。夏純子、宮下順子が裸を見せるが、絵沢萌子は脱がない。

 

21 コリーニ事件(S)

トルコ人の少年がドイツ人の資産家の庇護を受け成長し弁護士になる。その資産家が殺され、皮肉にも被告の国選弁護士になる。調べていくうちに、資産家が戦時にイタリアで民間人を殺していたことが分かる。その犠牲者の一人が被告の父親である。被告はまえに裁判を起こしたことがあるが、時効で却下されている。というのは、時効の数カ月前に法律が変わり、謀殺ではなく故殺が適用されたからである。まだ国際法が未整備で、女性、子どもでなければテロ行為に対する報復は故殺扱いとなったため、却下された。その法律変更を担ったのが、その検察官であることが分かり、裁判で主人公はそこを攻める。寡黙な被告をフランコ・ネロが演じている。久しぶりだ。

 

22   非行少女(D)

浦山桐郎監督、同・石堂淑郎脚本、主演和泉雅子、浜田光男。1963年の作品である。母親が死に、酒に溺れる父親(浜村純)が女を連れ込む家の一人娘・若枝が荒れた生活をしている。それを庇うのが三郎で、兄(小池朝雄)は市議会議員となり、さらに上を狙っていて、弟の不甲斐ない生き方を否定するばかりである。村は内灘闘争(と思われる)で反対派と肯定派に別れ、それを引きずり、不漁もあって低迷している。若枝は三郎が雇われている養鶏場の小屋に忍び込み、新聞紙を裂いて燃やしているうちに、周りにある藁に火が移り、全焼に。少年院に送られるが、そこで仲間と打ち解けあい、自立の道に進もうと、三郎に黙って大阪の紡績工場に旅立とうとする。しかし、三郎に見つかり、翻意を迫られるが、喫茶店で差し向かいになる二人の頭上に設置されたテレビでは美人コンテストで優勝した金沢出身の女性の映像が映し出されている。三郎の視界がぼやけ、やや長い時間があって、彼は若枝に出立を促す。ひと駅先まで同乗し、3年先まで心が変わらなければ付き合おうと誓い合う。若枝の入った少年院の担当夫妻がじつに民主的で、彼らがいてこそ彼女の自立への助走があった、という感じである。三郎も一から出直してみる、と前向きな青年である。何のてらいもない一本気な映画という印象である。弱いのは三郎の喫茶店での心変わりのシーンである。偶然駅で若枝を見かけるという設定だから、何か急な理由を用意しないといけない。それで考え出されたのが喫茶店に設置されたテレビとなるわけだが。和泉雅子がつねに走り回っている映画である。

 

23 猟奇的な彼女(S)

4度目である。やはり面白い。馬鹿げたストーリーを臆面もなく通す胆力に敬服する。韓国の民族性の明るさをもろに感じる。休みに安いからといって家族で連れ込みホテルに泊まるという人たちだ。暴力、笑い、韓国の2大特性がほどよく抑えられて融合されている。監督クァク・ジョエン、ほかの作品は見ていない。

 

24 善き人のためのソナタ(S)

ベルリンの壁崩壊数年前の東ドイツの話。秘密警察シュタージで舞台脚本家ゲオルクを盗聴することになったヴィースラー。彼はまだ社会主義の正義を信じているタイプで、上司がホーネッカーのことをネタにジョークを言うのを無表情に見つめる。ゲオルクの恋人・女優クリスタを我が物としようとする管轄大臣の行いにも批判的である(それについて公言はしないが)。大臣はゲオルクの身辺を洗え、と命じるが、それはクリスタを手に入れたい野心からのものである。

ゲオルクも過激な発言をする仲間を制したり、中間的なポジションを保持するが、信頼する演出家イエルスカが自殺したことで、西側に告発の文章を送る。国は自殺者のデータの発表を止め、ハンガリーが1位になったが、実態はひどい、という中身である。ベルリンの壁のもとで自殺する人間が後を絶たなかったようだ。国は自殺者を自己殺害者と呼んだ。

演出家の恋人・女優クリスタは管轄の大臣から誘いをかけられ、ゲオルクのために交接に応じるが、それに気づいたヴィースラーが彼女の寄るバーに先回りし、ファンとして変な行いはするな、とアドバイスする。その夜の盗聴では、大臣を振ったクリスタがゲオルクと熱く抱き合うところを、ヴィースラーは安心して聞き届ける。しかし、言うことを聞かなかったクリスタを大臣は許さず、精神安定剤?を闇で買っていた彼女を尋問にかけ、ゲオルクが告発文を書いたタイプライターが部屋の中にある、という証言を引き出す。彼女は実際の隠し場所を知っていたが、うそを行ったのである。今度はヴィースラーが尋問をやらされる。彼は細かな目つきで彼女に告白しても大丈夫だというサインを送る。それを信じてクリスタが証言したと思ったのだが、ヴィースラーが先回りしてタイプライターを回収していたことを知らず、シュタージの面々が来るまえにクルマに身を投じてしまう。

壁崩壊後、ゲオルクはシュタージが溜めた自分のファイルを読み、だれかが自分をずっと守ってくれていたことに気づく。友人と密儀を交わした場面は、次の新作の打ち合わせとしてでっち上げられている。ヴィースルーがまちの郵便配達夫になっていることを確かめる。ゲオルクは映画名と同じタイトルの本を出し、その人物のイニシャルに本を捧げた。

残念なのは、イエルスカの遺した「善き人のためのソナタ」と表に刷られたノートが、いったい何なのか分からないことだ。その装幀に分かる人はすぐ分かるのもしれないが、ぼくには分からなかった。それはゲオルクの誕生日に持ってきたものだが、イエルスカの死を知ってすぐ、ピアノに向かい弾きだす。その流れからいくと、楽譜かもしれないと遅まきながら気づく。彼はこう言う、「レーニンはベートーベンの熱情ソナタを批判した。『この曲を聴くと、革命が達成できない』と」。盗聴するヴィースルーの目から涙が流れる。ベートーベンの熱情を聴き直さなくてはならない。

 

25 僕を育ててくれたテンダー・バー(S)

自伝をもとに作られた映画、よくあるパターンだが、とても全体に抑制が効いていてグッド、それにシークエンスに過不足がない。監督ジョージ・クルーニー、脚本ウイリアム・モナハン、主演タイ・シェリダン(見たことのある役者だが、Xメンは見ていない)、、客演ベン・アフレック、リリー・レーブ(母親役、キュートでいいキャスティング)、ブリアナ・ミドルトン(主人公を何度も振る黒人女性)、クリストファー・ロイド(ドクである)。原作者はJ.R.Moehringer、父親は放浪のラジオ・パーソナリティ(良く分からないが、シンジケート局を回るDJということだろうか)。N.Y.Timesの記者になれず、とうとう覚悟を決めて父親に会いに行くが、新しい女と住んでいて、その女に暴力を振るうことで怒りを爆発、やっと父親との縁切れである。もう少しバーでの逸話が濃い目に描き込まれていたほうが、作品は良くなる。

 

26 イコライザー(S)

3回目である。1は「老人と海」が主人公の行動の背景説明になっているが、今度は「世界と僕のあいだに」(タナハシ・コーツ)である。タナハシは同作でピューリッツアーも取っているジャーナリストである。

 

27  ハロルドとモード(S)

1971年の作、どう見てもイギリス・テイストの映画だが、じつはアメリカ。主人公の青年は豪邸に住んで貴族に見える。きちんとした背広を着て、清潔な感じがある。母親の支配下にあって、首吊り、喉切り、自爆、腹切り(琴の音がしてくる。そして「すきやき」と言って刀を刺す)と脅かすが、母親はまったく取り合わない。大人になるべき、と見合い相手を3人用意するが、ことごとく奇妙な仕掛けで脅かしてダメにする。見合いの前に適性検査をすると言ってハロルドに質問をするのだが、そのうち自分で答えてしまう。

一方、趣味の葬式覗きで出会った不思議な婆さんとの交流が始まる。79歳なのに、氷の彫刻屋のヌードモデルになっている。「あの男が男であることを忘れないために、たまにヌードになっているの。だめ?」「いや」とハロルドは答える。モードは他人のクルマを拝借し、街中を破天荒に乗り回す。警官が追ってきても平気である。植物の多い部屋に住み、そこには自作の絵や木工のオブジェがある。ハロルドが木工の楕円に首を突っ込み、脇の木を撫で、楕円の下部に口づける。旦那は大学の先生だったようだ。

母親は軍人の伯父に息子を預けるが、その叔父は右腕がなくて、まともに敬礼ができない。戦場での偉勲を語り、おまえは有望だとほめるが、モードが現れて穴のなかに落としてしまったことで、甥っ子を諦める。これはハロルドとモードがたくらんだことだ。

ハロルドのかかる精神科医は、尻が垂れ、乳房が伸び、顔に皺が刻まれた女をなぜ選ぶのか、と助言するが、ハロルドは意に介さない。母親にも、モードと結婚すると伝える。

海岸で並ぶ二人。お互いに「好きだ」と言い、モードは「女学生の気分」と言うが、その左腕の裏側にナンバーが書かれているのをハロルドは見つけてしまった。移動サーカスで遊んだり、モードの誕生日にコインを送り、モードはそれを海に投げるが、「こうすれば、どこにあるか永遠に分かる」と言う。翌朝、ベッドで胸毛のある裸の半身を起こすハロルド、右を向いて顔をシーツで覆っているモード。

80歳になったモードは、もう薬を飲んだ、とハロルドに言う。慌てて病院に運び込むが、あえなく死んでしまう。崖に向かうハロルドの自家用車、そのまま突っ込んで落ちるが、ハロルドは崖上でモードから貰ったバンジョーを弾きながら、なだらかな丘を越えていく。

監督ハル・アシュビー、「さらば冬のかもめ」「シャンプー」「ウディガスリー」を見ている。脚本コリン・ヒギンズで製作もやっている。

黒柳徹子が舞台にかけているらしい。不思議な、キッチュで、アイデアに溢れた、ぼく好みの映画である。腕にある収容人ナンバーをさらりと見せるところなど、なんと奥ゆかしい。

 

28  魚影の群れ(D)

相米慎司監督、脚本田中陽造、主演緒方拳、夏目雅子佐藤浩市、撮影長沼六男、主題歌原田芳雄&アンリ菅野。なかで「涙の連絡船」「おけさ唄えば」などが緒方、夏目、佐藤によって歌われる。

有名なシークエンスがある。古い旅館の二階から緒方が外を見る。若い男と逃げた十朱幸代の下駄を履いた足を写す、立ち止まり上を向き、逃げ出す、それを俯瞰で撮っていて、二階から一階に出てくる緒方をその俯瞰のまま写し、音は下駄の音だけ、十朱を緒方が追うのをずっと後ろから撮り、次は正面から十朱を撮り、柵を越えて突堤に来て、疲れて仰向けになり、近づく緒方の脚を十朱の足が蹴飛ばす。この一連が、やはり映画的な快楽にぞっとする。

あとは、緒方と十朱の船倉でのセックスシーンも力がある。緒方が船底に寝ているところに、音がする。十朱が石ころを投げて寄こしている。抱いてほしいの言葉に、二人のセックスが始まる。ここは二人の裸の上半身での寄りの映像だけで、かなり長い間、お互いの過去を許し合うセリフが吐かれるが、青森弁で分かりにくい。逃げたのは20年もまえのことだからな、と緒方が言い、十朱が「時効か」という。そういう途切れ途切れの会話を交わしながら、セックスが描かれる。

男が外に迎えに来ていて、花火を打ち上げる。男と緒方が取っ組み合いの喧嘩になり、女は「マグロと人間の区別がつかない。針にかかると泳がせ、暴れたら殴りつける。何にも変わってない」と言い捨て、去っていく。「明日の晩まで船を停めておくぞ」と女に声をかける。翌日、十朱は荷物バッグを持って現れるが、マグロと格闘し、バラシて逃がした緒方は現れない。

佐藤浩市が若くて、はじめ違和感がある。夏目は熱演である。佐藤はテグスに巻き込まれて重傷を負い、最後もまた内臓破裂で死ぬ。

 

29 台風クラブ(D)

監督相米慎司、脚本加藤祐司、途中まではテンポよく、進むが嵐が強くなってからは、中身もなしにだらだら迷走するだけである。青年の一人が女の子を犯そうと追いかけ回すが、いざとなって止め、そのあと2人には何もわだかまりがない描き方は無責任をいいとこである。工藤由貴が突然家出するが、コンビニだかで男と話しはじめ、男のアパートに行く。どうやら初めてあったらしい。これも中途半端に外に出て、家に帰ってしまう。演出に困ると、女の子たちを下着姿に躍らせるなどのことをやっている。まえは冒頭のシーンで見るのを止めたが、それが正解だったかもしれない。

 

30 トリとロキタ(T)

ダルデンヌ兄弟監督、何人なのか年齢差がある男女(女が年上)がきょうだいかどうかも不確かだが、離れ離れになった弟を探しに行き、見つけた少年が、不吉な星のもとにある弟と感じが似ているというので、一緒に住み、小さなレストランの闇商売、クスリの売人をやりながら、五人の子のいる母親にも仕送りし、自分はビザが下りればヘルパーの仕事に就きたいと思っている。集中的に稼ぐために3カ月(?)、閉ざされた場所で、弟とも隔離され、クスリの栽培をすることに。弟はどうにか見つけ出し、そこで栽培しているものを横流しに。それが見つかり、どうにか逃げるが、間違って追っ手にヒッチハイクの手を挙げ、姉は殺され、弟が教会での葬式で簡単な別れの挨拶をし、小さな歌を歌うところで終わる。ごく素直な映画づくりである。ダルデンヌはカンヌ受賞の常連らしい。

 

31 パリタクシー(H)

原題は「いいコース」みたいなものではないだろうか。92歳になる女性がタクシーを拾い、養護ホームまで送ってっもらう、寄り道を含めてその一部始終を描くものである。アメリカ兵との短い恋で子どもを設け、次の男は暴力男で5年目にある仕置きしたことで13年の牢獄暮らし。まだ夫の許しがなければ銀行の口座も持てないし、働きにも出られない時代。「毎日、暴力を振るっていて、5年も過ごすことができるか」との弁明に、男だけの陪審員は彼女を23年の有罪に。その語りの瞬間にパリ俯瞰に代わり、その風景に重ねるように刑務所の扉が閉められる音がする。この演出はいい。彼女の過去が織り綴られ、その間に運転手の温かい人柄なども問わず語りに分かってくる。赤信号無視のとき、彼女の機転で加点されず、免許を失わずにすんだが、それまでの彼女のアクティブな過去の一面がひょいと顔を出すシーンである。

監督・脚本クリスチャン・カリオン、主演はリーヌ・ルノーダニー・ブーン。主題歌は英語。

 

32 私が棄てた女(D)

安保の敗北が主人公(吉岡:河原崎長一郎)を屈折させ、出世主義一辺倒にはさせない。その重し、あるいはしこりとしてミツが設定される。文通で会い、それから付き合い始めた田舎丸出しの、工場勤めの女である。「汚い言葉を使うな」「何でもづけづけ言えばいいってもんじゃない」と叱りつける。海水浴へ行き、先にプレジャーボートの浮かぶ海でボートを漕ぐ吉岡。楽しく音楽を鳴らして踊る若者たちにミツは平気で参加して踊る。その夜、ミツを抱き、翌朝吉岡は彼女を置いて逃げる。

彼は自動車会社の社長の姪(真理:浅丘ルリ子)と結婚するが、社長宅で階級の違いを見せつけられ、ミツとの関係も強請りをやるミツの友達シマコ(売春業者)からマリ子にちくられる。吉岡、ミツ、真理で回想の際の色を変えているが、ミツの相馬の馬追いを思い出すシーンではカラーに切り換わる。

最後は別れたはずのマリ子の想像図で、色は赤色、そこではミツが助けた老婆の息子八郎(加藤武)まで登場し、吉岡と将棋を指している。ある種のユートピアを思い描いているという設定なのかもしれないが、作者の願望としか見えない。マリ子が「あなた(ミツ)の分まで考えて生きていくわ」と言うのも、そうである。

能面を挟んだり、抽象的な画面を作ったりいろんなことをやっているが、そんなこと必要だったのだろうか。時代の要求ということだったのだろうか。ぼくには、そういう装飾がなくても、この映画、充分に成立していると思えるのだが。

 

33  サンドラの週末(D)

ダルデンヌ兄弟である。マリアンヌ・コーティヤール主演、病気で会社を休んだことで解雇となり、その代わり従業員にはボーナスが出ることに。もう働けると社長に言うと、多数決で決めると言われ、週末の2日間だけが説得の時間となる。仲間の家々を訪ね、言葉少なにサンドラは相手の意思を確かめる。その過程で、どこもボーナスがないと生活が苦しい、という状況が分かってくる。家の内装を変えるためにボーナスを当てにしていた女性は翻意し、サンドラ復職に一票を投じることにするが、彼女は夫の横暴さに嫌気がさし、離婚を決め、サンドラの家の厄介に。最終的には1票が足らなくて負けるが、社長から臨時工が2人期限が来るのでそれを切るから、残ってくれ、と提案sれるも、人を切って自分が戻ることはできない、と断る。静かなやりとりのなかで、人の善意があぶり出されていく。そういう映画である。

 

34 ハマのドン(T)

横浜市がカジノ導入を止めたその火元となったのが、親子2代で港湾に関わってきた藤木幸夫である。かつては博打を規制すると人夫が集まらず、そこにやくざも絡んできたが、藤木の父親はそういう連中から身を離した歴史がある。そこに問題の多いカジノなど論外だ、というので反対の拳を上げ、もともとは菅を押し上げる原動力となった人物がまともにそこと争うことになった。市民運動が18万の反対の声を集め、カジノを呼ばないと公言した自民党候補を抜いて、当選した。自分の子飼いの統制もできない首相は面目を失い、総裁選に出ずに降板した。新宿ピカデリーで160人入る小屋が満杯だった。検事長の定年延長の阻止、安倍国葬の反対と世論の風向きが変わってきているが、それとこの横浜の動きは密接に関連したものと思われる。

 

35 マーベラス・ミセス・メイゼル(S)

いま第5シーズンまで来ているスタンダップ・コメディアンの物語である。ユダヤ人、二人の子持ち、離婚、そんな彼女がレニー・ブルース張りのジョークを飛ばす。マネジャーを買って出たのがスージーで、小さくて、小太りで、不細工……だが、二人の息はぴったり合っている。バックステージの事情から家族の問題まで、じつに丁寧に、そしてのんびりと描いて、飽きが来ない。デ・ニーロにもスタンダップものがあるし、トム・ハンクスエディ・マーフィースタンダップの出身である。既存の、仮面をかぶったエスタブリッシュをけなしまくりながら、一方でその場に合った当意即妙のジョークをくり出す様に、すっかりやられている。

 

36  怪物(T)

こういうタイトルが付いたときは要注意という気がする。客寄せの匂いがするからである。そういう意味では、この映画に誰も怪物はいない。いるかのように見せて、すべての鍵が開けられていく。ただし、2カ所だけ、カギを与えてくれない。子どもが精神的に動揺していて、シングルマザーは心配でしょうがない。嵐の夜、外から帰ると窓が開いていて、風と雨が吹き込む。そこでこのシークエンスは終わる。観客とすると、子どもがベランダから身を投げたのではないかと恐れる場面である。それと同じ日なのか、嵐の中を母親と担当教師が息子を探す。前に息子を見つけたことのあるところに行き、二人で泥の中に沈む窓(使われなくなった電車の?)を開け、子どもの名を呼ぶ。このシークエンスもここで終わり。映画のラスト、時間を巻き戻すように、その天窓らしきところから息子と友人の子が降りて、二人で闇の中に入り、陽がさんさんと照るところに出て、息子が「生まれ変わったのかな」と言うと友は「変わらないよ、いつもの通りだよ」と言い、二人してさらに明るいほうに向かって行くところで映画は終わる。おそらく二人はもう死んでいるのではないか。

 

この映画は3つの視点で描かれる。息子の母親の視点(息子から担当教師の暴力を示唆されている)、担当教師の視点、そして息子の視点である。この3層には明らかに矛盾がある。母親の視点からすると、担当教師は校長、教頭とグルになって事件をもみ消すように見える。「誤解を与えたようで申し訳ない」とか「シングルマザーだからダメだ」式のことを言う人間である。ところが、教師の視点に移ると、学校幹部の行いに不服で、母親と話して誤解を解きたいと訴える。当然、その息子への虐待などなかったことも明らかにされる。そういう人間が、母親の視点ではまったく逆に見えるような演技をするだろうか。逡巡や羞恥や沈黙などが現れるのではないか。

 

息子は次第に友への愛に気づくようになる。その友へ負担がかからないように、教師に罪を押しつけた? ということになるのだろうか。

 

久しぶりに是枝映画に戻ってきた。「万引き家族」でがっかりして、それ以降、見る気がしなくなった。時間をあっちこっち動かしているのは、是枝のこれからの変化を表しているのか。非常に珍しい。脚本がそうなっているのかどうか。友を湯船から引き出すときに、あえて友の背の傷をきちんと撮っている。父親の虐待を知らせているわけである。こんな説明的な絵を撮らない是枝にしては珍しい。

是枝がこれだけ社会性を露骨に見せたのも珍しい。それにしても、母親に言質を与えまいとする教師たちの鉄仮面ぶりは、余りにもステレオタイプである。しかし、仮面を被った校長も結局、あとで人の良さを見せている。それに少年同士の愛など、是枝の追ってきたものでもないだろう。坂元裕二という脚本家に声をかけたらしいが、この中身は是枝のやりたかったことなのだろうか。彼は脚本を貰って、戸惑ったのではないか。

一番残念なのは高畑充希を起用しながら、いつもの紋切り型の演技をさせてすませていることである。

 

37 波紋(T)

荻上直子監督・脚本。いくつも撮っている監督だが、社会性がなさそうで見る気がしなかった。筒井真理子(深田晃司の映画で何回か見ている)が主演、その失踪した旦那が光石研(彼は「共喰い」以来である)、ガン末期ということで帰ってくる。波紋(枯山水)と手拍子が映画の主音となっている。波紋は宗教と結びつき、手拍子はラストの映像へと繋がっている。途中、九州に逃げた息子が吃音の恋人を連れてくるが、母親は露骨な差別をし、スーパーの同僚もそれを認めるというひどいことをやっている。あれあれ、である(監督は、女性差別をテーマに挙げているが、あれ? である)。その吃音の女性が突如、消えてしまって、その理由が語られない。あるいは、これが一番の問題だが、夫がなぜに出奔したかが、明かされない。息子が言うには、母親から逃げた、ということになるのだが、どういう風にひどいのかが語られない。そのあとに怪しい宗教に凝りかたまったわけだが、なんだかな、である。そういうこともあるかもしれないが、クリシェだという気がする。ラストに喪服を着て、やや長めにフラダンスを躍らせるのは余計である。赤い傘に喪服、その着物裏が赤で、実に美しい。それを上から撮ると、何だったか、名作やくざ映画の俯瞰のワンシーンを思い出す。狭い路地で赤い傘が人とすれ違い、倒れるのである。刺されたということを、それで表していた。

 

38 エール!(S)

これまったく「コーダ あいのうた」のフランス版パクリ、と思いきや、こっちが2015年の作で、アカデミー賞を受賞した「コーダ」が2022年の作。まったく知らなかった。プロデューサーが一緒である。しかし、「コーダ」の公式ホームページを見ても、翻案だと書かれていない。こういう隠蔽はよくないのではないか。「エール」の脚本は5人、「コーダ」は監督・脚本でシアン・ヘダー。プロデューサーが英語版を進めて、この監督を立てたのではないか、と思われる。やはり最後まで見てしまった。主人公があまりきれいではないのが、この映画のポイントではないか、と思う。

 

39 アンダードッグ(s)

またマンソクである。まちで暴れる若者と出逢ったマンソクもまた、表の世界の失敗を裏で返そうとしている男である。しかし、女性を借金の形にとっても、35%の高利を超えることはない。そこに、若者の密告でムショに入れられ、彼女も奪われた狂人(実は金持ちの子で、短い刑期で出られた)が戻ってきて、彼を追いかけ回すことから、事件が起きる。マンソクを全篇に見られないのが不満だが、彼を使って映画を作ろうとする工夫の跡が見えてグッド。

 

40 パリの調香師(S)

よく出来た作品である。無理がなくて、自然で、きちんといいところに落とし込む。運転手に雇った男が、意外な交渉力を見せることで、物語が動き出す。それが最後の場面まで生かされる彼の才能だ。頑なな調香ひとすじの女性が次第に変わっていく様も、この映画の見所だろう。こういう一篇を無理なく作れるのは、文化の厚い下地があるからである。日本で山本周五郎長谷川伸が発祥の世話物、人情物のなかに大変な財産が眠っている。

 

41 にじいろカルテ(S)

高畑充希主演、脇に三浦新、北村匠海。さらに脇の安達祐実水野美紀西田尚美池田良がいい。なかでも水野美紀ががさつだが真心のある人を演じて、ぼくには意外性があってとてもグッド。年老いた水野久美が出ているのにはびっくり。9話完結、平均で10%超の視聴率。脚本岡田恵和、演出深川英洋。ホームページでは脚本が先にクレジットされている。

 

42 兄弟仁義(S)

鈴木則文村尾昭が脚本、監督山下耕作。白黒で1966年の作、ぼくはこの映画を封切りで見ていない。このシリーズは9作まであって、ぼくは何作目かカラーで見ている。テレビで見ていた北島三郎がどぶを這い回って殺されるシーンを今でも覚えている。テレビで有名な歌手も、こういう役をやるんだ、という驚きがあった。組長がこれまた歌手の村田英雄だが、演技がうまい。ほかの映画でも村田は見ている。北島も演技がうまい。松方弘樹の身体の動きがやはり素晴らしく、それを見ているだけでも楽しい。やや下向き加減になったときの表情にはいわく言いがたいものがある。外部助っ人の鶴田浩二は安心の演技である。組のみんなを堅気にさせておくために、単身殴り込むスタイルだが、やくざ映画が緩み始めるきざしを感じる。なぜなら前であれば、組のもの、つまり松方も殴り込みに出かけたはずだからである。

 

43 トゥ・レスリー(T)

10万9000ドルのロトを息子の生年月日で当てた女が、自宅を買い、酒に溺れてすべて使い切り、泊まっていた安宿から追い出され、息子を頼っていくが酒浸りを止められず、息子が電話で頼んだ先に寄せてもらう。かつて多少は彼女の世話になったことがあるだけという夫婦で、何かあればすぐに出て行ってくれ、とはなから信用をしていない。息子が泣いて頼んできたから泊めただけである。レスリーは酒場に行き、男を誘って飲もうとするがうまくいかない。やはり追い出され、あるモーテルの脇で寝たことが再生のきっかけになる。部屋の掃除などの仕事をくれたのである。前借りをさせてくれることから酒に浸りはじめるが、ある若者が声をかけてきたことで、息子のことを思い出し、酒を断つことに。それからは予想通りの展開で、最後、10年以上もほったらかしされていたアイスクリーム売りの小さな建物をダイナーに変えて、その一番先の客が息子という展開に。その息子を連れてきたのが、家から追い出した夫婦のかみさんの方。いろいろつらく当たってきたが、じつは愛していたんだ、と言ってくれる。主演アンドレア・ライズボロー、翻意した妻がアリソン・ジャネイ(まるでネイティブのような化粧)、監督はテレビ畑らしくマイケル・モリス、脚本ライアン・ビナコ。

 

44 シモーヌ(T)

「フランスで最も愛された政治家」がサブタイで、それを知らずに哲学者のシモーヌ・ヴェイユのことだと思って見に行ってしまった。あれアウシュヴィッツ、あれEU議長選挙、あれ彼女の哲学は? あれ工場勤めは? と思っているうちに映画が終わった。さっそくウィキを見ると、哲学者のシモーヌは30代でイギリスで客死している。そのあとにカミユなどの手で彼女の論考が編まれ、『重力と恩寵』がベストセラーになった。ぼくはそれを読み始めているのだが、なんとうかつなことか。映画は楽しんで見ることができた。ただ、時間をあっちこっちし過ぎるのが玉に疵。中絶法や保健士資格の制定をした人のようだ。母、姉とアウシュヴィッツに送られ、そこの女性カポ(ユダヤ人の管理係)に気に入られ、労働の少ない収容所に移されて、命が助かった。父と兄はほかの収容所で殺されている。

 

45 グランド・ジョー(S)

ニコラス・ケイジ復活を告げるドキュメントがあったが、見逃してしまった。ここしばらく際物役者のようになってしまい、残念感が強かったが、この作品はきちんと人間関係が描かれていて、テーマも貧困の、親からの虐待を受ける青年を救う話で、好感がもてる。身体もそんなに肥満をしていない(2013年の作)。ジョーは樹に毒を入れて枯れ死を早め、それを倒れさせる仕事の頭領だ。法律で樹木は枯れ死しないと、新樹に換えられないのだという。ラストはその新樹を支える仕事に青年が就くところで終わる。こういう映画を観ると、本当に映画は前提条件なしに虚心に観ることがいかに大事か分かる。

 

46 リボルバー・リリー(T)

大正期の話、陸軍の軍資金をつくった男が、じつは戦争を止めようとして翻意、子どもに託して自害した。その子を救ったのがリリー、小曽根百合子(綾瀬はるか)である(実の母親である)。彼女は玉の井に家(娼館ではない)をもち、二人の女性(シシド・カフカ、古川琴音)がいて、一人の男(長谷川博巳、元海軍)も情報探索などの手伝いをしてくれる。リリーは元幣原機関の諜報員で50何人だかを殺して鳴りをひそめていたが、先の子どもの父親の殺害記事を読んで動き出す。陸軍との派手な銃撃戦が2回、陸軍がどっちも負けてしまう。なんで時代設定を大正などにするのだろうか。現代に引っ張って来たほうが無理が少なくなったろうに。銀髪の老婆が2回現れ、きっかいな魔術を施すが、これはなくても映画は機能している。胸を深く刺され、何度も弾をぶち込まれるが、彼女は不死身である。できれば、防弾具を着用しているとかの事前告知をしてほしい。綾瀬はるかの格闘シーンはもっともっと見たかった。座頭市、奥さまは取り扱い注意などでアクションは見ているが、ぜひリリーをシリーズ化させてほしい。客はまあまあの入り。

 

47 デンジャラス・ビューティ2(S)

再見である。サンドラ・ブロックはやはりコメディエンヌではないかと思う。男の白人と黒人警官のパートナーを女性同士に変えたものである。その最初は? 1982年の「48時間」ではないかと思うが、違うだろうか。TVドラマでも、人種が違うというのはあったろうか。「エージェント」のレジーナ・キングが出ている。ラガーマンの夫を劇愛し、そのためにトム・クルーズを焚きつける、あのときのレジーナはすごい。もっと彼女を動かしたらよかったのに。サンドラは顔の形が変わったので、新作を追いかけることができないのが残念。ほぼ彼女の作品は見ているが。

 

48 ファイティン(S)

マンソクにほぼ外れなし、はこれでも証明された。母親に養子に出され、アメリカで育ったアームレスラーが韓国に戻って大活躍。にせの家族も得て幸せに。その妹役にハン・イエリで不思議な顔をした女優さんだ。韓国顔のような、そうでないような、知り合いにもいそうな感じが……。舞踏家でもあるようだ。追いかけるかどうか微妙。

 

49  アステロイド・シティ(T)

存分に楽しませてもらいました。前作よりまとまりがいい。アメリカでごく少数館で始まり、拡大ロードショーとなり、彼の最高収益映画となったらしい。スカレーット・ヨハンセンを脱がした後に、替え玉だけど、とバラしている。前作ではレア・セドウを脱がして、その断りを入れていなかったが、きっとダミーである。小惑星都市にやってきた超秀才たち5人の一人がソフィア・リリス、ほとんど台詞もなく、可哀想。しきりに原爆実験をやっている町である。戦場カメラマンの3人の小さな女の子が元気で、キュートで、それが頑固なのがいい。色が脱色というか、露出オーバーに撮られていて、古びた感じを出している。役者がとにかくこれでもかと出ている。こういう映画もあってこそ、映画なのである。

 

50 535(S)

ジェシカ・チャスティンはこの前にアクションものがあったが、あまり良くなかった。今回はマーシャルより銃撃戦に迫力があった。ありふれた筋(同僚かつ恋人が裏切り者というパターンはお馴染み)で、お宝ものと異種チームものの合体である。それを全部、女性陣でやったことの面白さである。一人だけ格闘派ではない心理カウンセラーのペネロペ・クロスをどう扱うかがポイントだが、少しずつ彼女の分量を上げ、最後近くにマックスにもっていく手腕はなかなか。もしかして続編ができる? 黒人のルビタ・ニョンゴがとてもキュートである。「それでも夜が明ける」に出ていたらしいが、記憶にない。同作を見直してみるつもりである。ほかの作品も見られればいいのだが。

 

51 完全なる報復(S)

わが家で妻子を突然の強盗に殺され、主犯格が5年の刑、なにもしなかった従犯格が死刑になる。司法取引だというが、そんなことがあるのだろうか。証拠がないにしても、どちらが主犯かは分かりそうなものだが。その復讐を10年かけて仕込んだが夫が、じつは国防省の仕事を請け負った過去のある頭脳派の殺し屋。不正な司法・行政に関わった人間を獄中から殺していく、という映画である。この獄中からというのは、なにかほかで見たような気がする。脚本カート・ウィマーの作品のうち「ソルト」「トーマス・クラウン・アフェア」を観ている。「Xミッション」「ウルトラバイオレット」が面白さそうだ。監督はゲイリ・グレイ、主演ジェラルド・バトラー、客演ジェレミー・フォックス。

 

52 ジョン・ウィック(T)

コンスィクエンス、報復がテーマらしいが、それは毎回のことである。大阪篇は余計だったように思う。同じ技を延々と見せられて、途中で飽きが来てしまった。これがファイナルなのもよく分かる。ドニー・イェン座頭市をやっている。真田広之の娘役は日本人だが、服装から含めてそうは見えない。

 

53 カリフォルニア・ガールズ(S)

ロバート・アルドリッチ監督、メル・フローマン脚本。アルドリッチは「ロンゲストヤード」「北国の帝王」「傷だらけの挽歌」を見ている。「傷だらけの挽歌」は封切りで見ている。「カリフォルニア~」は女性プロレスタッグの名前で、きれいな二人が有能なマネジャーピーター・フォークのもと、チャンピオンまで駆け上る物語である。ミミ萩原とジャンボ堀が出ていて、彼女らの逆エビ固めがカリフルニア・ドールズの起死回生の技になる。最後に華麗なテクニックをいくつか取っておく心にくいことをしている秀作である。フォークはまだ両目が大丈夫で、演技も合っている。せこいが憎めない、分け隔てがなく、アイデアと交渉力をもった男である。一つひとつ真剣に戦うことでランクを上げ、プロレス雑誌で3位にランクされたことでシカゴに乗り込んでいく。ぼくが見た女子プロレスでは、たしかイギリスの田舎からアメリカへ勇躍するも戻ってきて地元でこじんまりとやる道を選んだのがある。数年前の映画だ。アメリカのテレビシリーズで女子プロを扱ったものがあるが、2、3回しか見る気になれなかった。女性がアイススケートでぶつかりあったり、マーシャルアーツで動き回ったり、スナイパーで頑張ったりの映画に弱い。原点は「レオン」であり、「ニキータ」である。

 

54 犯罪都市2Round UP(S)

マンソクで満足。ベトナムへ犯罪者引き取りに向かい、そこで極悪人と対峙するが逃がしてしまう。韓国に戻り、そこで大団円に。途中、かったるい感じがあるが、最後にスカッと終わる。マンソクに「殺されたミンジュ」「アンダードッグ 殺された二人」というのがあるらしいが、まだ見ていない。

 

55 噂の二人(D)

シャリー・マクレーン、オードリー・ヘップバーン主演、客演ジェームズ・ガーナー。一人の邪な女の子の狂言から、17歳からずっと一緒だった二人の女教師が同性愛を疑われ、失職ばかりか社会的な地位まで奪われる。しかし、マクレーンはやっと自分の性癖に気づく、ずっと友だったオードリーのことを愛していたことに。二人の罪が雪がれたとき、マクレーンは自裁する。ウイリアム・ワイラー監督、脚本ジョン・マイケル・ヘルズ、原作リリアン・ヘルマン。なぜヘルマンはこういう作品を書いたのか。マクレーンの演技の上手さに比べれば、ヘップバーンは余りにもステレオタイプの演技しかしていない。次の演技に移るまでが、あほな顔をしていて困ったものである。ワイルダーのほぼ晩年と作といっていい。原題はThe Children's Hourである。邪な女の子がじつに小憎らしい演技をしている。

 

53 犯罪都市(s)

2もそうだが、悪人のキャラクターがむかしの韓国映画っぽいのである。それがこのシリーズが愛される理由である。マンソクに外れなし、である。