なぜ夫は妻を殺したがるのか?―小コーエン論

kimgood2007-02-10

*名作「ファーゴ」
コーエン兄弟の映画を立て続けに見たことがあった。「バートンフィンク」(91)「ファーゴ」(96)にやられたからである。「ブラッド・シンプル」(84)「赤ちゃん泥棒」(87)「リック・リボウスキー」(98)「オーブラザー」(00)「バーバー」(01)「レディ・キラー」(04)「ディボース・ショー」(05)、これがぼくの見たコーエン映画である。
このなかで妻殺しが行われたり未遂に終わったりするのが「ブラッド・シンプル」「ファーゴ」「ビック・リボウスキー」「バーバー」である。「レディ・キラー」は地下室を借りた強盗団が大家(婦人)を殺そうとする話で妻殺しではないが、その変奏曲と言えないこともない。「赤ちゃん泥棒」は妻殺しの裏返しとこじつけることもできる。
まあそこまでする必要もないほど、コーエン映画は妻殺しに満ちている。ただし、その事情はちょっと複雑である。


処女作「ブラッド・シンプル」にすでにその萌芽がある。店員と妻の不倫を知った酒場の亭主が、私立探偵に2人の殺しを依頼する。この亭主というのが、ろくでもない奴。しばらくすると、探偵が2人を殺した証拠写真を持ってやってくる(実は合成写真の作り物)。亭主が金を払ったところで、探偵はその嫌みな亭主を殺す。横柄な態度が腹に据えかねていたようだ。殺害現場に残されたのが女の拳銃。その現場に死んだはずの店員がやってくる。彼はてっきり女が亭主を殺したと勘違いする。死体を埋めて戻ってくるが、女と話が噛み合わない。店員がトリックを見破ったので、探偵が結局、店員を殺してしまう。女は亭主はまだ生きていると思っているので、追ってくる探偵を旦那と思い発砲する……。
ややこしい展開だが、「ビック・リボウスキー」「赤ちゃん泥棒」にも似たようなテイストがあって、「ややこしさ」はコーエンの一つの特徴と言っていい。
妻を殺そうとして果たせない、あるいは殺そうとして翻意するが、妻はひょんなことから死んでしまう、というのがコーエンの妻殺しテーマの基本的な構図である。


「ファーゴ」は借金に困った男が金持ちの父親を持つ妻を偽装誘拐し、身代金をせしめようとする話である。2人のプロに仕事を依頼した矢先に、その父親から連絡が入る。男が持ちかけても首をタテに振らなかった事業に融資しようというのである。男はあわてて誘拐を依頼した男たちに中止の連絡をとろうとするが、うまくいかず、実行に移されてしまう。父親の話も、事業を男から取り上げるというものだった。それで再び男に復讐心が燃え上がる。結局、無軌道な誘拐者に妻も父親も殺される。プロの2人も仲間割れして、殺された1人は除雪機で粉砕され、血のしぶきを吹き上げ、白い雪の上に舞い落ちる。このシーンの綺麗さと言ったらない。「世界で最も美しい死体処理場面」とぼくは命名している。
途中からいかにも鈍くさい田舎警察署の女署長が事件解決に出てくるが、これが意外な腕こきで、ピタピタと核心に迫っていく。「ファーゴ」が一級品の映画になったのは、このあたりからの展開が見事だからである。陰惨な事件を解決して家に戻る女署長。彼女を待っているあくまで優しい旦那。小さな幸せこそ貴重というメッセージが伝わってくるラストである。コーエンらしくない、と言っておこう。
雪の降り積んだ駐車場予定地での車の動きを俯瞰で撮ったシーンは、墨絵のような、まるで現代アート誕生を見るような美しさである(コーエンの映像美については、丁寧に押さえたことがないので、いずれの課題にしたい)。
この映画でも中心主題は、はしなくも妻殺しに至ってしまうというものである。


「ビック・リボウスキー」は妻の偽装誘拐で自分の財団の金をせしめようと計画する男と名前が似ていたことで、犯罪に巻き込まれてしまう男の話である。「バーバー」は、床屋で働くエドベンチャー・ビジネスの投資話に乗り気になり、妻の不倫相手を強請(ゆす)って、金をせしめようとする。結局エドはその不倫相手を殺すはめに。ところが、犯人として逮捕された妻が自殺する。その後、エドの犯罪がバレてしまうのだが、この映画も相も変わらぬ「思いもかけぬ妻殺し」のテーマである。


なぜコーエンは直接的な妻殺しの映画を撮らないのか。おそらく、単線型では彼ら独特の苦いユーモアとも言うべきものが醸し出されてこないからだろうが、もう一つ、妻殺しは彼らにとって本当の禁忌、踏み越えがたい暗渠なのではないか、ということである。だからこそ、オブセッションとして繰り返し取り上げられるのではないだろうか。

コーエンは「オー!ブラザー」あたりから大きな制作費の、分かりやすい映画を撮るようになり、「レディ・キラー」に至っては彼ら独特の濃い味のテイストがほとんど残っていない。「ディボースショー」は離婚をめぐるややこしい仕掛けを楽しむ映画だが、かつてのような殺し合いをするような夫婦ではない。
もう彼らの映画を見ることはないのではないか、あるとすれば未見の過去の作品をたぐって、コーエンの栄光を称えるだけではないか、という気さえする。


追記*
ミラーズ・クロッシング」(90)を見た(08.2.4)。見事な出来に唸ってしまった。ギャングの裏切りを表のテーマにしているが、孤独を招き寄せるようにしか生きられない男が、美しい映像とともに淡々と描かれている。コーエンらしさは登場人物の関係図のややこしさに残るだけで、あとはオーソドックスに撮っていると言っていい。しかし、だからと言って普通の映画というわけではない。
主人公がミラーズ・クロッシングという疎林のなかへ処刑のために連れていかれるシーンで、背の高い杉の木を見上げるところがある。事態は深刻で、死も迫っているのに、時間が止まったような詩的な場面である。あるいは、帽子が森の道の真ん中に落ちていて、それが風に画面の奥へ飛ばされる映像。こういう絵をふつうのギャング映画は挟まない。
全体のセリフが決まっていて、映画の成りと同じように、スタイリッシュでさえある。一度は助けた恋人の弟を殺すシーン。コーエン映画の常連ジョン・タトゥーロは主人公に向かって、Look into your heart! と繰り返す。しかし、非情にもNo heart.の答えととともに頭に銃弾をぶち込む。主人公と恋人、実は自分のボスの女との会話も味がある。
コーエンが狙ったのはスタイリッシュな映画ということだったのではないか。それは十二分に達成されている。ぼくの「妻殺し」のテーマからは外れる映画だが、コーエンの力量の凄さに舌を巻く映画である。やはり「ファーゴ」を撮った監督である。


追記*
アカデミー受賞作「ノーカントリー」を見た。原題はNo Country for Old Manで、このOld Manは田舎の保安官役のトミー・リー・ジョンのこと、あるいは古い世代のアメリカ人と言っていい。「ファーゴ」から愛や希望やユーモアを引き去るとこの映画になる。
例によって登場人物の細かい説明をしないが、他の作品に比べればそれでも分かりやすい作りになっている。主人公役の殺人鬼が圧倒的な存在感で、顔は南米系(ほんとはスペイン系)、目が大きく、時に品のいい感じにも見え、声が太く、訳の分からない酸素ボンベ式ショットガンを持ち歩く。人殺しをしても銃弾は残らない。


老いた保安官は引退間際、もう陰惨な事件ばかりが目について、自分の仕事の空しさに胸が蓋がれている。彼はもうその種の事件には深入りはしたくないのだが、やはり職業意識に動かされて、現場へ足を運んでしまう。同僚との会話で、「この国は人にハードだ」「もう取り返しがつかない」といったことが吐露される。そう老人にはもう居場所がないのである。


殺人鬼の武器がエアガンであることと、彼が妙に哲学的であることが、この映画を尋常な映画とは違うテイストにしている。殺人マシンとも呼ぶべき彼の武器が圧縮した空気だというのが皮肉である。老保安官は冗談まじりに「銃弾がないんだから自然死だ」と言うシーンがあるが、殺人が日常と化した人間に相応しい武器と言うべきか。
彼を雇ったボスがもう一人の殺人者を送り込むが、前者に比べて饒舌で、ビジネスとして殺しをやっている。エアガンの殺人鬼は彼をこう評する。「お前は自分のルールを持っているが、その掟のために命を落としたら、その掟には何の意味がある?」。ルールなど要らない、目の前の課題をクリアするだけだ、と殺人鬼は言いたいのかもしれない。


麻薬がらみの内紛で浮き上がった大金を盗んで逃げる男、殺人鬼、老保安官、みんな床や地面に残された血痕から相手の動きを読もうとする。まるで西部劇の世界である。それでも過去の殺しとはまったく違った世界に入ってしまったとコーエンは言いたいようである。
大金を持ち逃げした男は殺人鬼に手傷を負わせることのできる才覚と度胸を持っているが、警戒心の薄い妻を呼び出したことで敵に居場所が知れ、あっけなく組織の人間に殺されてしまう。このへんの展開の切れ味のよさは、さすがである。殺人鬼は結局、その妻のもとに現れ、コインの裏表で自分の生死を決めろと迫る。これは映画の冒頭に近いシーンでも見ている展開である。そこでは砂漠の小さな雑貨屋の親父が試されるが、幸いなことに賭けに勝つことができる。では、妻は? 直接的に殺しのシーンはないが、家から出てきた殺人鬼が靴裏を払う仕草をすることから、妻が殺されたことがわかる。別のシーンで、人殺しのあとソックスを脱ぐところがあるが、それからの推量である。
そのあと殺人鬼は思わぬ自動車事故で腕を骨折するが、コインで人に偶然の生き死にを強要する人間は、同じ偶然の仕返しを受けるのだということなのだろう。こういう内的なつながりがきちんとされているので、コーエンの映画は煽ったり、説明したり、騒いだりといった余分なことをしなくてもいいようになっている。非常に作りのいいスーツのようなもの、ぴったりでいて、それでいて肩も凝らず自在で、スタイリッシュでさえある。


些細なことだが、殺人鬼が床に寝そべって警官を首締めにして殺すシーンがある。警官はもがき苦しみ、靴のかかとに付いた金具で床に擦り傷をつける、それが「ファーゴ」で雪に埋もれた空き地に描かれたカリグラフと似ている。前衛絵画風になったそれを絵に収めるところにコーエンの癖のようなもの、あるいは美意識の有り様を感じる。


最後、老夫婦の会話で終わるところなど、「ファーゴ」と似た感じも受けるが、夫の老保安官の絶望が深いだけに、親密な夫婦であってもどこか不安な感じが残るのが、この映画の特徴をよく表している。ぼくはもうコーエンは天井を打って、緩い作品しか撮らないと思っていたのだが、さてこの絶望の先にどんな展開があるのか、まだコーエンとの付き合いが続くことに密かな楽しみを見出している。

トゥルー・グリット
ジェフ・ブリッグス、ジョシュ・ブローリンマット・デイモン。デイモンが出ているのを知らず、よく似た役者がいるものだと思って見ていた。それだけいつもの彼と様子が違うのだ。冴えない、というか。ブローリンはシンデレラガールらしい、1万5千人の候補から選ばれたという。ジョン・ウエインの『大いなる追跡』のリメイクらしいが、元を知らない。

ブローリンは何かあるとすぐ「訴える」「優秀な弁護士が付いている」と相手を脅す。父親の敵に捕まったときも、言い逃れのために「弁護士に頼んで減刑してもらうから、助けてくれ」などと出任せを言う。保安官ジェフ・ブリッグスも、違法捜査・殺人をしたのではないか、と裁判の場で被告の弁護士から追求される。その法廷の様子は、いまとほとんど変わらない。


一方で、町を離れれば、無法の世界が広がっている。コーエンが描きたかったのは、その過渡期の姿ではなかったのか。『ノーカントリー』はまさに都市の中に無法が入り込む世界を描いていたが、今作はもっと過去の世界を扱い、法の誕生の牧歌的な姿を見るようだ。しかし、無法世界にも“法”があって、アウトローたちはそれによって生死の境を跨いでいる。最後に1対4で戦う姿には、何か凛々しいものが見える。都市の中の整備された法と、ワイルドな世界にある法との対比。


味わいは『ミラーズ・クロッシング』である。彼らの映画として、とてもまともだからである。


イーストウッドヒアアフター』、そしてコーエン、スピルバーグが共同プロデューサーだが、何が起きているのか。





追記*
ぼくがコーエン映画を見始めるきっかけとなった「バートン・フィンク」で、そのラスト近く、火の手が上がるホテルの廊下をショットガンを持った殺人鬼が刑事を殺しに走るシーンがあるが、そのとき彼が叫ぶのは「生命の精神を見せてやる」という言葉である。火炎に包まれて金色になった廊下の美しさと、大男でデブの殺人鬼が銃をかまえて突進する組み合わせは、コーエンならではである。
コーエンはこの殺人鬼を肯定しているようにも見える。その圧倒的な暴力の噴出に、今度の「ノーカントリー」との共通性を感じるのである。もうひとつ、「赤ちゃん泥棒」だったかにも正体不明の異様な黒づくめのライダーが登場するが、それもまた圧倒的な暴力そのものの形象である。コーエンのここしばらくの映画は、そのバイオレンスの噴出を極力抑えてきたわけだが、この絶対的な暴力が奈辺から来るのか不明だが、殺人鬼が刑事の額に銃口を突きつけて言うセリフが「ハイル・ヒットラー」である。コーエン兄弟はおそらくユダヤ系ではないかと思われる。「バートンフィンク」の主人公もユダヤ系で、彼の泊まるホテルについて刑事が「ここはユダヤ専門のホテルか」のような差別意識丸出しの嫌みを言うところがある。あまりこういう絵解きに魅力があるとも思えないが、ナチスが具現した圧倒的な暴力をコーエンが援用しているのは確かなようである。