今村昌平、カッコ付きリアリズム

kimgood2007-04-14

*スコセッシと今村
NHKのETV特集今村昌平に捧ぐ―スコセッシが語る映画哲学」の録画を友達が送ってくれた。スコセッシはNY大学の映像科に在籍していたときに、「にっぽん昆虫記」に接したという。爾来ファンであり続け、後年カンヌで会った折に、たまたま一緒になった食事の席で、今村ファンであることを打ち明けたという。


スコセッシはこんな言い方をする。自分はシシリー生まれの田舎者で、文学的素養も持たず、NYのリトルイタリーをどうやって抜け出そうかと悩んでいた、と。その気持ちを見透かしたのが今村映画だったというのである。ぼくはこのスコセッシの弁に違和感を覚える。
たしかに主人公のとめは田舎を出て、都市で彼女なりの幸せを掴もうと必死に生きるが、彼女には故郷を捨てるかどうかで悩んだ形跡はない。彼女はそういう近代人の悩みとは無縁である。
スコセッシはこうも述べる。とめは自分の欲望に忠実な女で、リトルイタリーで自分の周りにいたのもそういう人間ばかりだった、と。ぼくにはこの言い方のほうがしっくりとくる。とめをスコセッシが描いた奔放な生き方のチンピラに置き換えれば、頷ける話である。


ぼくは、「昆虫記」の衝撃的なテーマである、近親相姦すれすれの土俗性についてスコセッシがなぜ触れないのか、と思う。乳が張ったといって、とめが山仕事のあいまに父親に吸わせる有名なシーンがある。ぼくは「スコセッシ小論」で彼の禁忌に触れた。母親の存在と宗教と不能というテーマである。おそらく今村の映画は、その禁忌に触れたのではないか、というのがぼくの推論である。スコセッシは故郷を捨てるかどうかという自意識の問題を持ち出して、本題を糊塗しようとしたのではないか。


ある監督が自分の尊敬する監督について語る場合、自分の作品のどこそこにその監督のシークエンスを引用した式の言い方でオマージュを捧げることが多いのだが、今回のインタビューでは一切そういう話が出てこない。これはとりもなおさず、スコセッシの今村受容が表層の部分ではなくて、もっと深いところでなされたことをはしなくも物語っているのではないだろうか。


*首尾一貫する「自意識のなさ」
とめを始めとして今村作品に登場する人物には「内面」とも言うべきものがない。今村映画では土俗や野蛮が剥き出しで、登場人物も「内面」などという邪魔なものは持ち合わせていない。内面がないということは、人間をあくまで外から描いて、その「生態」を写し取るという手法にならざるをえない。
今村映画では人間も虫も蛇も同一の地平で扱われる。生き物はすべて「生存競争」に明け暮れている、というわけである。人間もその弊から逃れられない。順番から言えばこういう筋道になるが、今村は最初に「内面がない人間を描きたい」と思い、そこから逆算して「人間も動物と一緒」という設定にたどり着いたのではないか。
というのは、人間を動物と同じ地平で描く、という設定自体がとても観念的な産物の気がするからである。今村はよく動物界の弱肉強食の映像を挿入するが、迫力があるというより、「人間も動物だ」ということを説明するためのシンボル的な使い方に見える。そういう装飾なしに「内面のなさ」を描くには、少なくとも「復讐するは我にあり」の殺人鬼榎津巌を待たねばならなかった、とぼくは考える。


ここで思い出すのは黒澤映画「どん底」である。乞食の集う穴蔵のような宿を舞台に、人間世界から堕ちた輩の“生態”を撮ろうとした作品である。先に結論ありきの映画だが、虫けらのような人間の右往左往を顕微鏡で見るように撮る姿勢は、今村の世界に通じるものを感じる。黒澤はさまざまな趣向の映画を撮った人だが、今村は生態観察に集中したと言えないこともない。
黒澤は前面に観念を押し出すことにそれほど抵抗感がない監督である。それはそれですごいことだが、映画としては水気のないものになりがちである。今村映画は幸いにもその愚から危うい感じで逃れている。後でも触れるように、今村は芯は観念好きだが、それを表に出すことを嫌う性格が幸いしたというべきか。
どん底」は黒澤の役者使いのうまさを感じさせられる映画である。三船が人生に懊悩し、微妙な表情を見せる。左卜全も思わぬ細かい表情を見せて、聖者のような味わいである(ぼくは卜全が演技をしているのを初めて見たような気がする)。山田五十鈴はいつもの通りだが、三船の膝に頭を載せて、上向きに三船に未練を見せるシーンは、悦楽である。雁治郎が宇宙人のようなメイクで、声まで潰した感じで、因業な長屋のオヤジを演じている。田中春男のからかい気味の演技もいつものように心に残るし、三井弘治の訳知りの遊び人が悔いを込めて最後に自分の過去を語り出すシーンもいい。頑迷固陋とも称すべき鋳掛け屋東野栄次郎が病妻を亡くしてから自堕落な感じになるのは、この映画中、最も冷え冷えとした生態である。


今村は土俗や野蛮とは無縁な東京っ子で、後年、監督となってなぜその無縁な土俗や野蛮に向かったのかは、興味の尽きない問題である。風俗を撮りたくないという個性の問題もあるだろうが、思い起こすのは小津安二郎とその脚本家野田高悟が、今村作品を評して「何を好きこのんで地を這い回る蛆虫ばかり取り上げる」と揶揄したことが大きいのではないか、という気がする。もともと小津組で出発した今村は、役者の演技を殺す小津風作劇に反発し、川島雄三の元へ走った人間である。先のビデオでも小津の「蛆虫」発言に今村が、徹底してその世界を描いてやると憤慨した話が紹介されていた。


もう一つ、日本が高度成長期に向かい始めた頃に、田舎や地方を非常に暗黒的な視点で描くのが流行になったことがあった。マンガで言えばつげ義春的な世界である。黒木和雄の「祭の準備」、斎藤耕一の「津軽じょんがら節」と思い出せるストックは少ないが(いずれラインアップを揃えたい)、今村にもその傾向があることは確かである。因習の強い、排他的な異界としての地方である。僻地というとすぐに近親相姦を持ち出すおどろおどろしさは、非常にステレオタイプであり、映画もまた都市化を推し進める牽引車の一つだったことは確かである。


人間を駆動させる「欲望」は、すべて満たされるわけではない。だからと言って、今村映画の登場人物たちが悩みの回路に落ち込むことはない。次の当てを探して生き延びるだけである。この種の映画はラストの付け方が、当然、難しくなる。カタルシスでは終わらないし、ましてや問題提起で終わらせるわけにもいかない。なんとなく中途半端にうまく終わらせるのが、腕の見せ所となる。しかし、それは観客からすれば、欲求不満で終わる映画ということになる。今村作品はスカッとしないのである。
ぼくが今村作品のなかで「豚と軍艦」が好きなのは、最後にカタルシスがあるからである。今村からすれば観客に迎合した映画として、自己評価は低いものになるのかもしれないけれど。


同じくスコセッシの描く人物たちにも「内面」というものがない。処女作「誰がドアをノックする」はもろに自意識葛藤の映画だが、次作「ミーンストリート」ですでに「内面」問題から身をすり抜けている。後年の作品「アフターアワーズ」に少し自意識が顔を出すが、夢幻的な作風でカバーされて目立つことはない。
スコセッシの映画の舞台は、土俗や野蛮に満ち溢れたイタリア移民のアンダーワールドなNYである。「内面」など犬のエサに食われちまえ、の世界である。
スコセッシが今村に学んだのは、それである。自意識の悩みこそ近代の作劇法の核だが、それなしに映画が撮れる、それも現代映画として撮れる、というのが今村映画が差し出した最大の贈り物だったのではないだろうか。


スコセッシは「グッドフェロー」「カジノ」でジョー・ペシに情け容赦ない殺し屋を演じさせているが、今村が描いた最もあくどい人間は榎津巌。この連続殺人鬼が人間味があるように見えるぐらい、ペシ演じるギャングの切れ方がすごい。ぼくは今村は「悪者(あくしゃ)」には、それほど関心がなかったのではないか、彼が興味を持ったのは、ふとしたことで人道を外してしまう人間の様子だったのではないかと思う。
もし、今村が、スコセッシがNYを描いたように、新宿や渋谷のアンダーワールドを描いたなら、と夢想することもあるが、それはしょせん叶わぬ夢だったことが分かる。今村は基本的には、“善人”あるいは“善人もどき”にしか関心がない(あの榎津巌だって、多少は“善人”である)。


*「豚と軍艦」が第一
今村が昨年5月に亡くなって、早1年。彼の作品はすべて見ているわけではなく、ところどころ穴が空いているが、せっかくビデオで刺激を受けたから、今村賛歌を続けたい。
ぼくの見たのは制作順で「果てしなき欲望」(58年作、同年にあと2作「盗まれた欲情」「西銀座駅前」を撮っている)「豚と軍艦」「にっぽん昆虫記」「赤い殺意」「エロ事師たちより―人類学入門」「神々の深き欲望」「復讐するは我にあり」「女衒」「うなぎ」「赤い橋の下のぬるい水」である。最初期の2作と後期のいくつか、それと中盤のドキュメントが抜け落ちている。なかでも代表作のように言われる「楢山節考」が抜けている。これにはぼくの今村解釈が関係している。


ぼくの今村映画との接触は確か「神々の深き欲望」をどこか名画座で見たのが最初である。近親相姦を扱って妙に深刻にならないのがもの足りなかった記憶がある。そして、観念的だとも感じた。木箱に乗って歌を歌い、島の創世記を歌うイザリの老人の扱いを見ても、今村はリアルな映画を撮るつもりはなかったはずである。中途半端な映画だな、という印象はいまだに変わらない。


彼の考証癖はつとに有名である。「昆虫記」の取材でとめのモデルとなった女性の関係者に隈なくあたり、詳細な系統図を書いて脚本を仕上げたと言われる。彼が助監督として付いた川島雄三への追悼文にも、その考証癖が遺憾なく発揮されている(これは師への愛憎こもごもの文章で名文である。今村にはもう一篇川島に捧げている文章があるが、こっちは淡泊に過ぎて、面白くない)。
映画では食えなくなってドキュメントの世界に行き、再復帰を賭けた「復讐するは我にあり」も、その徹底した取材振りが喧伝されている。今村と言えば「重喜劇」、リアルな映画、というのが定説となっている。


しかし、「復讐するは我にあり」でさえ、ぼくにはどこか抽象的な映画に見えるのである。そもそも五島列島隠れキリシタンの末裔である父親が、憲兵に脅されて「天皇バンザイ」をする姿を子どもの時分に見たことが、主人公が殺人鬼となった動機である。こういうテーマの設定自体が、リアルを追求する姿勢とは異質なものを感じさせる。
ラストは、死刑となった息子を荼毘に付し、その骨を空中に投げるところで終わる。重たく撮ってきた映像も、最後は薄ぼけたような青空で終わるのである。
この映画でリアルなのは、主人公の妻とキリスト者・父親の危うい関係のほうである(風呂場で後ろから胸をまさぐるシーンは類例のないほどエロティックである)。今村映画の男女関係の中では、極めて異色の、煮え切らない間柄を描いていて貴重である。
これだけ殺しのバリエーションを尽くした映画も珍しいのではないだろうか。スコップ、包丁、首締め、タンス閉じ込め……これは実際の話に則った結果なのかもしれないが、内面の無い男を描くにはこうとでもするしかなかったかもしれない。大学教授の振りまでして違和感のない連続殺人鬼というのは、珍しい。
娘の頃に処女を奪われ、そのまましがない商店主の囲い者になったのが小川真由美、これが運命に逆らうことなど考えたこともない、悲しいくらいに美しい心の女である。それにしても、小川真由美という役者はどうしてこういう役柄が似合うのか。もっと冷たい役でも合いそうな人相なのだが、彼女の目つきや声、体の感じから醸し出されるものが、“はかなさ”とでも呼ぶべきものに直に結びつく体のものなのだろう。殺人鬼・榎津巌も心を許したかに見えたが、ビールをおいしそうに飲む女の首を見ているうちに、むらむらと殺しにかかる。このシーンのすごいことと言ったら。
小川の母親役が清川虹子で、かつて人殺しをやったことのある女で、榎津は同類の匂いを嗅ぎつける。競艇場の夕景で、二人が前後になって歩くシーン、殺意がひらめいて、一瞬二人の間で交差して、すーっと引いていくのが分かる。このシーンもゾッとするぐらいにすごい。


エロ事師たちより」は、その後に「人類学入門」というのが付く。ぼくはここに今村の衒いを見る。「エロ事師」でいいじゃないか、「人類学入門」などと格好をつけるからお客が入らないのだ。しかし、それでは今村は恥ずかしいのだ。お客が下世話な関心で見に来るのが我慢できない。だから「人類学入門」などという粉飾を施すことになるのである。これってリアリストのやることだろうか。
毒々しくも展開されたエロ事師の世界が、最後はボロ舟に籠もって究極のダッチワイフを作るようなエンディングになってしまうのが分からない。必ず観念のほうへとはみ出してしまうのが、今村流なのである。
今村というのは生来は観念好きで、それを押さえつけようとして徹底取材に走った、というのが真相ではないかという推論をぼくは立てている。人間の本当のところを描きたかったから入念な取材をしたと今村は言うが、あのひねくれ者の言うことをそのまま信じるわけにはいかない。


今村は「赤い殺意」を好きな映画に挙げているが、決して芯の部分は崩れない女の図太さを描くことができた、という理由らしいが、これも見終わったあとリアルな映画を見たという印象にならない。スコセッシも言うようにカメラアングルが尋常でなかったり、部屋の中の様子が妙に人工的である。それでいて駅に夫の言いつけで物を届けるシーンは、隠しカメラで撮ってリアリティに拘ったと言う。。
ぼくはこの映画は失敗作とは言わないまでも、全体にちぐはぐな感じが拭えない。単純に言えば、平凡極まりない、やけに太った女が強姦されて、自分が女であることに目覚めるという心理劇のような映画である(この項を書いてのちに、小林信彦がこの映画を指して「エリートの下降趣味ではないか」と批評していることを知った)。
ストリッパー出身の素人同然の春川ますみを主人公に抜擢したり、精神障害者っぽい子役も素人から選んだり、のちのドキュメントへの移行を思わせるようなことをやっている。
夫役の西村晃は図書館勤めで、そこの吏員と不倫関係にある。妻は、言ってみれば使い減りしないsex付きの使用人みたいなもの。小市民的で、ぬけぬけとして、せこくて、こういうどこにでもいる煮ても焼いても食えない男を演じさせたら彼ほどの適役はいない。山本薩夫松川事件」で冤罪をでっち上げる刑事役をやっているが、それもぴったり。どこかで西村特集があれば、じっくりとその“悪”に浸ってみたい。


今村映画で第一は「豚と軍艦」というのが、ぼくの考えである。意図と中身がぴったり一致していて過不足がない。加藤武丹波哲郎がとてもいい役者に見える。長門裕之がトイレに顔を突っ込むシーンがあるが、勢い余ってという感じである。この映画、珍しく脚本に今村が絡んでいないことも大きいのではないだろうか。それと先に記したように、最後にカタルシスを用意したことが大きい。


さらに初期の「果てしなき欲望」は「豚と軍艦」に似たタッチだが、よりコメディを意識して作られていて、あっちこっちに笑いのネタが仕掛けられている。しかも、ピカレスク(悪漢)映画とでも呼ぶべき趣があって、この映画は日本映画では特異な位置を占めるのではないか。
簡単に言えば、戦中にドラム缶にモルヒネ瓶を隠し、戦後、それを掘り出して大儲けしようと企んだ連中の物語である。中尉が主犯で残り3人。ところが、中尉はすでに死んでいて身代わりだという妹がやってくる。それに3人ではなく4人が待ち合わせ場所にやってくる冒頭から不穏な空気が漲る。誰かが偽物である。妹と称する女が渡辺美佐子、ほかの4人が西村晃加藤武小沢昭一、殿村泰司。
ドラム缶を埋めたところに肉屋が立ち、近くの空き家を借りて、そこまで掘り進めるが、ようやく到着という日に商店街立ち退き工事が始まるという運の悪さ。しかも、穴掘りを始める前に、加藤武が強盗、強姦で服役という事件まで起きる。この不自然な退場劇は、後で利いてくる仕掛けになっている。
仲間割れ、いがみ合いから、最後に生存者は女1人という酷さ。ブラックコメディの味が濃厚で、何かの映画の翻案ではないか、という気がする。あるいは、穴掘り脱獄物の「大いなる遺産」あたりにヒントがあって、それに“日常性”を織り込んだらどうなるか、と思いついたのではないだろうか。
表の顔を不動産屋にして、若者を1人、偽装で雇い、こまごまとした商店街との折衝が“穴掘り”の遂行を危うくするという設定は、スラプスティック的でもある。今村昌平さんの出自とは、こういうところだったのね、と深く、楽しく納得できる映画である。先に触れたように出来もいい。
何しろ役者が芸達者。渡辺美佐子は蓮っ葉女でとてもきれい、それに肉感的でもある。加藤武がマッチョの悪党で、今から振り返ると意外な感じ。ぼくは「悪い奴ほどよく眠る」の加藤武が絶品だと思う。悪だけど善人でもあるという調子がよく出ていた。殿山は仲間内で唯一、かたぎの人で、子ども3人を抱えるラーメン屋のオヤジである。彼がヒューモラスな味付けになっている。小沢昭一は今村組の役者で、「昆虫記」と同じく朝鮮人の役を振られている。ヒェヒェとしか笑うことのできない、自称教師。物を噛むとクチャクチャとうるさい。残る西村がくせ者で、これは種明かしをしないほうが、あとで見る人のためになる。
今村は初期も初期でこういう完成度の高い映画を撮っていた人なのである。それを壊そうとしてあとの映画を撮った、というのは言い過ぎだろうか。


次が「ニッポン昆虫記」、何と言ってもストップモーションで、とめの下手な短歌が流れるところが秀逸である。庶民は泥沼を這いずりながらも、こうやって明るくすり抜けていくのである。とめはその代表選手である。あるいは、警察で売春の事実をゲロするときも静止画に刑事の声だけが流れる趣向もいい。これも意図と中身のズレが小さく、充実した映画になっている。


先にぼくは「楢山節考」を見ないと書いた。息子が母親を棄てるだけのシンプルな話だから、映像を含めてどうしても抽象化されやすい、言ってみれば作り物めいてくるように思えて、食指が動かないのである。あるいは、「黒い雨」にしても原作のある映画で、それ自体が「楢山節考」と同じく今村的ではないのである。どうもぼくの場合、今村映画は初期で止まってしまっているようだ。


*ドキュメントは作り物?
今村が自分のプロダクションを起こして制作したドキュメントが何本かあるようだが、スコセッシのインタビューでは「人間蒸発」が扱われていた。実際に夫が蒸発した女と役者露木茂が探索する過程を追った作品のようだ。ラストがその3者に今村までも登場して、「みなさんは本物らしく喋っているが、カメラと共犯で、この部屋だって作り物です」と言っている最中に部屋の周りの壁が取り払われ、すべてがセットであることが明かされるところでエンドのようだ。
時代の古さを差し引いても、まるで青臭い青年の理論である。結局、今村の深度というのはせいぜいそれくらいのものだということだ。彼が抽象の魔に取り込まれずにいることは、とても難しい。
彼の門下から原一男が出、そこからまた是枝裕和などが育ったことを思えば、決して無駄な足取りではなかったということになりそうだが、この手の理屈張ったやり方では早晩行き詰まるのは目に見えている。10年の後、彼はフィクション映画に復帰する。


今村映画で気になるのは「赤い橋の下のぬるい水」である。脱力系の軽いタッチの映画だが、何か今村が到達した人間賛歌の究極のような気がするのである。彼の向日性が全開した映画とでも言うような。
この映画を、彼の全体像のなかでうまく語ることができたら、なにがしか今村の核心に近づいた感がするのではないか、と思っている。しかし、ぼくにはまだその手がかりが分からない。「ニッポン昆虫記」との比較で論じることになりそうだ、とは予感はあるのだが。


好きな監督なのに、あまり肯定的に語ることができなかった。そのお返しでもないが、日本映画のなかで彼と黒澤明の2人が、作家性を強く持ちながらエンタメもモノすることができた、と嘉することで今村小論を閉じたい。作家としては黒澤以上に禁欲的だったと言えるだろう。スコセッシもまた2者と同類の監督であることを付言しておくべきだろう。


*追補―「西銀座駅前」「にあんちゃん
京橋フィルムセンターの今村・黒木特集で「西銀座駅前」を見た。映画会社に併映用に撮らされた映画ということになっている。これが今村?というコメディタッチの映画だが、力量のほどは十分に分かる。ミュージカルもどきに始まって、狂言回しのフランク永井がいろんな職業で登場したり、柳澤真一と西村晃がダチ公として絡んだり、山岡久乃がまるで淡路惠子みたいな役を演じたり、今村の南方趣味とでも言うべきものが全編を覆っていたり、本人とすれば唾棄すべき映画かもしれないが、観客とすれば今村の出自が分かって、実に興味深い映画である。それにしても、恐妻家が主人公というのは、今村らしくない。これも嫌々だったのかどうか。
翌日、「にあんちゃん」を見た(途中で前に見た映画だと気が付いた)。炭坑閉山間際の集落を舞台に、散り散りになりながらも健気に生きる在日朝鮮人の4人きょうだいを扱っている。保健婦役の吉行和子にしばらく気づかなかった。実に健康で、ハツラツとしていたからである。炭鉱会社の課長役が芦田均で、人員削減に走らざるをえない経営者側の苦悩もきちんと描き出している。59年の作だが、三井三池闘争は53年、59〜60年の2回。この時点で複眼の視点で映画を撮っている今村という監督の凄さを思う。これだけものが見えている人だったのか、という驚きである。小沢昭一はここでも朝鮮人の役、殿山泰司が善良な山の男を演じてgood、子役がそれぞれうまい、長男の長門裕之はいつもの優柔不断な感じがいい、長女の松尾嘉代も初々しい。次男が「にあんちゃん」で、彼は小学生で東京月島に出奔する。自転車屋でアルバイトをしようとして、そこの店員に「月島っていう島は人口は?」と聞くくだりが面白い。結局、故郷に送還されるのだが、「東京も大したことない」と虚勢を張るのが嫌みに感じられない。
ヒューマンにしようとする気配もないではないが、全体に地に足が着いた感じがするのは、細部にリアリティがあるからだろうと思う。先の複眼の視点もそうだし、長男の勤め先の変化や、下の子2人が預けられた朝鮮人の家の食事が辛くて食べられないといったところなど、さもありなんという押さえが利いている。59年に制作された日本映画を全部見渡したら、この作品のリアリティの厚みが群を抜いていることが分かるのではないだろうか。


*追補―北村和夫死去
今日、5月6日、今村の盟友北村和夫が死んだ。別の道を考えていた彼を役者稼業に引きこんだのが今村だった。今村の横浜映画学校の生徒作品にまで顔を出すようなことをした男である。冥福を祈るばかりである。


*追補―「ええじゃないか」
フィルムセンターで。ゆるい映画で、見終わるのがきつかった。泉谷しげるを色男扱いしているが、それがそもそも間違いではないか。緒形拳がサムライから抜け出せないサムライ役を演じているが、これが類型的。露口茂が佐幕にも勤王にも商売で接するやり手ヤクザで、なかなか押し出しが利いていいが、やはり類型の人物像を出ない。草刈政雄を薩長に恨みを抱く琉球の青年に配しているが、そのキャスティングの妙は面白いが、これも類型人物。川向こうの小屋者たちが幕末の混沌としたエネルギーの発生源だったという設定だが、うまく時代を切り取れていない。「復讐」以後、今村はどうも「ユル」過ぎる。


*追補―
小林信彦が邦画ベスト100を選び、「果てなき欲望」を今村の代表作と呼んでいる。それと、「芸達者の演技合戦」とも。


追補―
フィルムセンターで「盗まれた欲情」を見た。今村の処女作で、58年の作。今村の脚本ではない。
旅役者の一座の座付き演出家が、大学出の長門裕之。友人からはテレビに転身しろと勧められるが、長門は座長の長女(南田洋子)で一座の二枚目(柳沢真一)の妻に惚れていて、決心がつかない。次女は長門にぞっこんである。
その一座が田舎の田圃のあとにテントを立てて、興行をうったことで、いろいろな波紋を呼ぶ様子などを、丁寧に撮っている。夜の河原で村の人間と役者連が喧嘩をするシーンは、無声映画のタッチで撮って笑わせる。
貧乏芝居とバカにしていた長門が、人知れず日本舞踊の稽古をする柳沢真一の姿に打たれるシーンが、この映画の白眉。長女と一夜を共にした長門が柳沢、そして座長(滝田修)にそのことを打ち明ける。すると、柳沢が2人が抜けるより1人が抜ける方が害が少ない、と言って退団しようとする。「いろいろなことを教わった。こんな幸せなことはなかった」というセリフに実が籠もっていて、ここのシーンもいい。結局、長女はその言葉にこころを動かし、長門とは出奔しないことに決めてしまう。座長は去っていく長門に「あんたのことは、好きだったよ」と言い、次女に金を渡して長門を追っかけさせる。
この映画には今村の立っていた場所がくっきりと現れている。インテリが土俗に入っていけない苦悩といったところか。長門を掴まえた次女が、眼下に遠ざかっていく一座に「さよなら」と言わず「アデュー」と言うところに、インテリと土俗の調和を示唆している。今村のその後は、土俗一辺倒になってしまったのだが。
田舎の雑貨屋に飯田蝶子、懐かしい。芝居小屋でもう一人(従業員?)と「ニセのコーラ」を売るのが笑える。小沢昭一が田舎の小金持ちの役。一座の役者に西村晃などがいる。例によって、村の娘を役者にするといって手込めにするなど、西村らしさを発揮している。
最後までなんで「盗まれた欲情」というタイトルなのか分からずじまい。客が入れば何でもありか。