リアルということ

kimgood2007-05-05

*新しいリアル
溝口健二の「浪速悲歌(なにわエレジー)」を見た。1936年の作品である(翌年、「祇園の姉妹」を撮っている)。DVD解説は新藤兼人がやっている。溝口の弟子で、「ある監督の生涯」で溝口の軌跡を関係者の証言で追っている。その新藤が、「浪速悲歌」は“リアリズム”の映画なのだと言う。全編、大阪弁で通したことも珍しければ、庶民の風俗を描いたことも驚きだった、と言う。スランプに陥っていた溝口は、この映画で復活を遂げたとも言う。


ところが、どう見ても「浪速悲歌」はリアリズムの映画に見えないのである。貧乏一家の長女が山田五十鈴で(この時、19歳だという!)貧しいがゆえに身を持ち崩すという筋書きだが、ちゃぶ台でご飯を食べるところぐらいはリアルかもしれないが、あとはどうも……である。彼女が囲い者になって住む所が、妙に抽象的なデザインで、アパートの一室を借りているという設定のようだが、無国籍な感じがする。大家がまたモダンな感じの女で、五十鈴と気の置けない会話をする。その2人の関係が、前段で説明がないので、座りが悪い。どこを指して“リアル”と言うのか、今となってみれば茫漠としたものだ(田中小実昌さんも同意見だというのをあとで知った)。


映画は“リアル”を追い求める芸術だと言われる。あるいは、ウソを本当らしく見せるのが映画だとも言う。観客は基本的にウソと知りながら見に来るわけだが、ウソがウソで終わっては見た気にならない。ゴジラの背中に縫い合わせの跡が見えてはいけないし、パルテノン神殿が浅草の花屋敷では即興醒めである。


映画のリアルを考える場合、外のリアルと中のリアルの区別をしておかなくてはならない。前者は技術的な問題であり、後者はテーマの問題である。



*リアルはややこしい
映画のリアルを論じる場合に、真っ先に思い浮かぶのは、フィクションンとドキュメントの違いである。ぼくの友人は、どちらも一緒だと言う。ゴダールもそのように言っているらしい。虚実は一緒というと奇矯に聞こえるかもしれないが、そんなに単純な話ではない。実際、NHKは「ゆく年くる年」で京都・知恩院の1年前の映像を流したし、中国奥地の秘境で砂なだれを起こさせたこともあった。
蟻の兵隊」という話題になったドキュメントを見に行ったところ、映写後、監督がインタビューに答えるおまけが付いていた。あるシーンのことを、「数回、リハーサルをした」と平然と言っていたのが、印象に残った。オウム信者を撮った森達也も同じようなことを言っている。
カメラがあることで素人でさえ“演技”を始めることは、原一男の「ゆきゆきて神軍」「全身小説家」で我々は経験ずみのことである。虚実は一筋縄ではいかない問題である。


溝口健二という監督は、現場で脚本を変えることで有名で、出演者はその対応に追われて大変だったという。もっとすごい話があって、脚本変更の指示を出しながら、どう変えるかという方針はいっさい溝口の口からは出なかったという。「脚本家はプロなんだから、脚本家が考えるべき」というのが溝口の理屈らしい。
事前に取り決めた通り撮るのがフィクションで、事実を取捨選択しながら積み重ねて撮るのがドキュメントという区別さえ、曖昧になってくる。


*無声から有声へ
映画の外側のリアルは、まず無声映画から有声映画への移行で始まった。次がカラー、総天然色である。これは極めて分かりやすい話である。音と色のある現実(リアル)に近づけばいいだけの話だからである。
といっても、技術的にはいろいろ難しいことがあったようだ。
マキノ雅弘の自伝には、トーキー自主開発の話が語られる。自分でトーキー制作会社まで立ち上げ、莫大な借金を返す算段がつく。トーキーなぞ輸入物で間に合わなかったのかと思うが、技術面、資金面で自主改良のほうが効率がよかったらしい。
あるいは、方言のなまりが強くて、トーキーに向かなかった役者は淘汰されることになった。たしか大河内伝次郎だったか、声質が悪いので、かなりトーキー転身には抵抗があったらしい。なまりもあるそうだ。チャップリンもトーキーへの切り替えは遅いはずだ。無声映画を盛り立てた活弁も、そぞろに洋楽などを流していた楽士も要らなくなった。


音がないときの演技は、どうしても大仰なものになりがちである。悩みのシーンではこぶしに頬を載せて首を振る(モンローがこれを「お熱いのがお好き」でやっていたのには、ぶったまげた)。恐縮の気持ちは、両肩を上げて頭を傾ける――これをトーキーでやると、喜劇になる。
成瀬巳喜雄の「あにいもうと」という作品を見ると、変なことに気がつく。これは「めし」などのあとに撮った作品なのに、なぜか古くさいのである。それは父親役の山本礼二郎を撮るときに、正面下からやや俯瞰で、小津のように静止した状態で撮るのが、無声映画っぽいのである。小津を見たときにはそういう印象を持たないのだが、おそらく絶妙な間でカットの長さを計算し尽くしているからではないかと思われる。しかし、逆を言えば、小津のあの正面の構図はもともと無声映画から発達したものだったのもかもしれないのだ。


もう一つ、ミュージカル「踊る大紐育」のジーン・ケリーの動きを見ていて感じたのも、無声映画の残滓である。端的に言えばチャップリン的な動作が随所に見えるということである。ミュージカルを映画の異端のように思いがちだが、映画成立時の事情から言えば、ミュージカルこそ正嫡だと言える。その当時、町にあった娯楽はボードビリヤンが活躍する小屋であったり、オペレッタだったわけで、映画がそれをすぐに取り入れたのは頷ける話である。役者の供給源も、日本は歌舞伎だが、むこうはボードビリヤンか芝居役者だったという。


ワイルダーの位置
ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」はサイレントで一世を風靡した女優が20年ぶりに映画に戻ろうと執念を燃やす話だが、トーキーへの恨みつらみを口にする。その様子自体がいかにも古臭い演技なのがミソであるが、彼女が「演技が良ければセリフは要らない」と言うのは一面の真理ではある。
この映画はワイルダーの“深刻物”の範疇に入る映画で、なかなか見応えがある。バスター・キートンがちょい役で、セシル・B・デミルがいい役で出ている。アカデミー賞を取った変な映画「失われた週末」の系列の作品である。
ワイルダー自身が新旧映画の架け橋的な存在という見方をされるようである。
プレミアで観客に評判の悪かった頭のシーンを撮り直したそうだが、やり直して正解。抜群のテンポと映像でこの映画は始まる。プールに浮かぶ死体を下から撮るのだが、これにも技術的に面白い話がいろいろあるのだが、それは省略して、同じワイルダーの「麗しのサブリナ」に同種の趣向で撮っているところがあるのを指摘しておきたい。新開発の透明プラスチックの向こうにハンフリー・ボガードの顔を撮すシーンがそれ。


この映画が恐ろしいのは、いくつもの二重性を潜ませていることである。いまはお呼びもかからないサイレントの人気女優を実際の老いたグロリア・スワンソンに演じさせ、彼女の元夫でいまは召使いの役がシュトロハイム、彼は監督時代にスワンソンを実際に映画に撮ったことがあり、この映画の中でも「少女の彼女を世に出したのは私だ」とのたまう元監督の役。さらに、しがない映画脚本家にウイリアムホールデン、彼も何本かの作品に出ていたものの、冴えない、売れない役者の一人に過ぎなかった……。このワイルダー映画で一流役者として踊り出る。監督が仕掛けた二重性の深さに背筋が寒くなる(DVDの特典映像からの受け売りです)。


もう一つ、近年のアカデミー受賞作「マメリカン・ビューティ」は死者の語りで始まるが、このワイルダー作品の趣向を盗ったのではないかと思われる。蛇足ながら。



*カラーの時代
白黒からカラーへの転換も一大事である。カラー化にも似た話があって、総天然色第一作となった「カルメン故郷に帰る」も、色を作り出すための苦労が並大抵ではなかったようだ。最終的に放映できないことも考えて、白黒でも撮っておいたという。主役高峰秀子の自伝を読むと、笠智衆の顔だけは色の調整ができず、最後まで赤銅色だったという。フジカラーの技術陣と一緒になって映画を撮っていった、と彼女は書いている。


小津はカメラの厚田雄春がカラーの技術に習熟してから転身したという(作品は『彼岸花』から)。白黒で十分に自分の世界を表現できていた監督がカラーに切り換えるにはそれなりの理由が必要であろう。白黒で統一感を保っていた監督が、自由な色彩を得ることで、かえって混乱するということもあったのではないか。


成瀬はカラーは色がうるさ過ぎて、映像にならないなどと言っていたそうだ。死の間際に遺したのが、まっしろのバックで映画を撮りたい、だったという(高峰の「私の渡世人日記」より)


黒澤がカラーに切り換えたのも、かなり遅い。ハリウッド挫折、自殺未遂のあと、『どですかでん』でカラーへ。色彩の氾濫とか言われたようだが、後年の『夢』を見ても、黒澤の色づかいは東洋の水墨趣味とはよほどかけ離れている。狐の嫁入りを扱った第一篇などにその感が強い。黒澤は最晩年まで血のしたたる分厚いステーキを食べた人らしいから、せせこまましい箱庭的色彩には無縁だったのだろう。
赤は赤のままに、黄は黄のままに。音声に加えて色、映画はさらに自らの持つ情報を増やしたのである。



*内容のリアル
次は内側のリアルである。分かりやすい例を挙げれば、戦争映画がある。
20世紀は<戦争の時代>で、おびただしい戦争映画が作られているが、それは当然である。すり切れた言い方だが、戦争は<一大ページェント>だからである。ぼくは戦争映画を見ない人間だが、ぼくの見た数少ない戦争映画を繋げても、たとえば「大いなる幻影」→「ナバロンの要塞」→「硫黄島からの手紙」とたどってみるだけで、戦争の描き方がどんどんどぎつくなっていることがわかる。前2者には内蔵が噴き出たり、足がよじれ曲がっているような描写は一切ない。誰もそういう描写を求めていなかったからだと言えば話は早いが、この稿の脈絡から言えば、時代によって“リアル”のレベルに違いがあるからだ、となる。
映画ができて、大衆娯楽となったとき、ベンヤミンは芸術から香気<アウラ>が無くなった、と嘆いた。では、テレビの登場で無くなったものは何か。高橋治は映画の良質な観客がいなくなり、駄作が持ち上げられるようになったのが昭和33年だと言っている。もう映像媒体を“作品”などと言うのもおこがましい世界が始まったのである。



*共犯関係が成立しない
戦前の映画を見ると、作り手と受け手の幸福な“共犯関係”とでも呼ぶべきものがあるような気がする。ぼくは詳しくないのであまり触れることができないが、いわゆるルビッチ・スタイルといわれる演出法は、受け手のある種のレベルを信じていないかぎり撮れないやり方である。
ぼくの見た作品ではグレタ・ガルボ主演の「ニノチカ」、ソ連の堅物女が資本主義のパリで恋に落ち、少しずつ軟化する過程を丁寧に描いた作品だが、彼女が資本主義化した事情を一瞬で見せるのが、奇妙な形の帽子である。ショッピングウインドーに飾られているのを彼女が見かけるシーンは短く巧妙に挟み込んであるが、のちに恋人の家に訪れるときにそれを被っていく。ドアをさっと開けて男がそれを見て、彼女の恋心を瞬時に悟るのである。
おそらく現代の映画では、こんなまだるっこしい演出はしない。女にすぐに帽子やスカートを買わせて、有頂天な様子を描くのではないだろうか。男の元へ行くときには、企みとして帽子を被っている、という具合だ。


また蛇足だが、この「ニノチカ」をぼくは高く評価する者だが、それは彼女が国に帰ってからの索漠とした気持ちと、それを押しつける故国の駄目さ加減を、彼女のせせこましい一室の光景ですべて描いている、その凄さに驚いたからである。確かにおしゃれなやり方だが、それ以上にルビッチという人の目の確かさみたいなものをぼくは感じる。彼は共産国家が硬直化し、国民を貧乏へ落とし込み、不平不満を押さえ込む体制であると知ったうえで、どぎつい資本主義謳歌との対比をしない。その足が地に着いた感じは、戦中の小津と似たものを感じる。ルビッチ・タッチといわれる演出法とは、これはまた別の話である(重なる部分があるにしても)。


小津作品に表の顔と裏側があることはよく知られた話のようである。たとえば、原節子が義理の父親から、亡くなった息子のことは忘れて、再婚をしなさい、と言われる。そこで原は「私はいけない女なんです。お父さんが思っているような女ではないんです」と返す。ここに女の色気が匂い立つと表現する人もいるが、それもそのはずで小津と脚本の野田は、義理の嫁が欲求不満からオナニーをしているという設定でこのシーンを作ったらしい。小津は明け透けなことは出さない方が、映画は良くなる、と考えていたらしい。しかし、彼の晩年には大島渚吉田喜重などの性を正面から描く世代がすでに勃興していた。
小津には近親相姦のテーマも透けて見える。これはドナルド・リチーも、指摘していることらしい。高橋治の本にはそう書いてある。しかし、ひとの見解をまつまでもなく、小津映画を見る限り、近親相姦のテーマはあちこちに鳴っていることに気づくはずだ。


*剥き出しの現実へ
映画のテーマはさらに“リアル”を追い求めて飽くことがない。では、どんなリアルが次のリアルだったのか。
そのヒントの一つは、先に触れた過渡期を担ったと言われるワイルダーの問題。もう一つは「イージー・ライダー」に軸足を置いてみる。さらにもう一つは「狼たちの午後」である。どちらもニュー・シネマの代表的な作品である。前者は69年、後者は75年の作品である。ちなみにベトナム戦争は59年から75年で、やはり反戦を含めて世界的なトピックになったのは68年、69年頃だろう。まさに渦中の映画が「イージーライダー」であり、反戦を含めたムーブメントが終わり、もう理想などこにもないといった風潮が定着し始めたときに「狼たちの午後」が封切られている。


ものの本(Movies at a Revolution)によれば、1967年が新旧ハリウッドの境目をなしているという。その年度のアカデミー賞のノミネート作品がそれをよく表しているという。
俺たちに明日はない」「卒業」「ドクター・ドゥリトル」「Guess Who’s Coming to Dinner」「In the Heat of the Night」(これが結局は受賞作品)、どうだろう、今に残る名作「俺たちに」「卒業」が受賞から落ちている。新旧の新だったために、選に洩れたということらしいが、いかに過去を振り返ることに意味があるかというのが、この一事からもよく分かる。我々は目の前のものを正当に評価できないのだ。


制作者と観客の合意が成り立たなくなったのが、戦後の60年代ではなかったかと思う。60年代は俗に<政治の季節>と呼ばれる。方や高度成長、消費社会の出現でもある。
戦前の映画人の書き残したものを読むと、実に早撮りで、1週間もかけずに映画を仕上げていたりする。それでいて大ヒットだったりするのが、不思議である。おそらく映画は最大で唯一と言っていい安上がりの娯楽で、観客の側に受け入れ態勢ができていたような気がする。
衣食足りて映画産業が衰退の道に入ったのは、よく分かる話である。映画で慰謝を受けなくても良くなったからである。だからこそ、映画はいつもの生理を発揮して、より時代に合ったリアルなものを撮ろうともがき出すわけである。


ワイルダーには喜劇調のものと深刻ものの両系統がある。深刻ものでは客が呼べず、最後は喜劇風作品ばかりになるらしい(小林信彦先生説)。喜劇風と言っても、「麗しのサブリナ」までそれに入れるのだから、今で言う軽いタッチの映画ぐらいに思っている方が、間違いが少ない。
しかし、後代にワイルダーが受け渡したものは、客の呼べない深刻ものの方だったのではないか、というのがぼくの推論である。先にも触れた「サンセット大通り」の意味深の二重性など、今でも面白いものだと思う。ほかにハリウッド批判の映画(これでワイルダーは冷遇されることになる)や、不倫の女を肯定した映画もあるらしく、ワイルダーが触れた禁忌こそ次代の“リアル”だったのではないか。


これはワイルダーだけが用意したものではないはずだが、いまのぼくにはそれを傍証する材料がない。「ミュージカル映画」という本(柳生すみまろ著)を読むと、デイレクターズシステムが壊れ、独立プロが輩出したのが60年代。大手映画会社は共同出資者、そして従来の配給元という位置に甘んじる。50年代の大作主義が行き詰まり、そこで登場してきたのがニュー・シネマだったというわけである。
時代も、アメリカで言えば、ベトナムの泥沼へと突き進む頃で、低予算、しかも現実を反映した映画ということで、一群の作品が雪崩をうったように登場してくる。


それを端的に言えば、テーマを正面から描く、ということである。性から逃げない、暴力から逃げない、政治から逃げない、現実に起こっていることをまともに題材に取り上げる――それが今に続くリアルの質ではないかと思う。
ワイルダーユダヤ人で、ナチスのドイツから逃げてきた監督である。親や親戚を殺されている。その彼が「第十七捕虜収容所」というナチスに捕虜になったアメリカ兵が脱獄を試みる話を描きながら、ナチスの残虐な行為を暴くようなことはまったくしていない。現代の監督であれば、いの一番にそれを撮ったことだろうと思う。
現実というのは、それを見ることのできるレンズがあって初めて見えるものらしい。ベトナムの経験がもしなかったとしたら、ナチスも、朝鮮戦争も、ノルマンジーも正面から扱うことはできなかったかもしれない。


60年代末から70年代にかけて、時代を象徴する作品として、先の2作をぼくは取り上げたい。先走りで言っておけば、両映画とも<ドキュメント>的な味わいがあることが共通している。
ミュージカルの世界でも、ドキュメントタッチのものが幅をきかせるようになったのが60年代だと、先の本に書いてある。「最もエポックメイング」なものとして『黒いオルフェ』を挙げている。筆者は次のように言う。
「現代の映画は、うまく作られた作り物の世界から脱却して、そしてまた《くそリアリズム》からも脱却して、現実を構成しようと努めている」
これはミュージカルに関して言われた言葉だが、もちろんほかの映画にも共通して言えることではないかと思われる。自分自身の記憶でも、高校生の頃だったか、『ウエストサイド物語』のリバイバルを見たときの驚きを忘れられない。ミュージカルはフィクショナルな作り物とばかり思っていたのが、身につまされる青春残酷物語を描いていた驚きである。「サウンド・オブ・ミュージック」でも、扱われているのはナチスの迫害である。確実に映画のテーマが変わってきているのが分かる。


*2つのエポック・メイキングな作品
そして、先に触れた2作である。「イージー・ライダー」が扱ったのはアメリカ南部の頑迷固陋さである。そしてその容赦のない暴力性である。ラストで主人公2人がまるで虫けらのようにあっけなく殺されるシーンは、衝撃的であった。かつて主役がそんなふうに無意味に殺されるなどということがあっただろうか。アンチヒーローとも呼べない彼らの最期は、いまなお強烈な印象を残す。
それ以上に酷いのは、飲んだくれの現地の弁護士が彼ら2人より先に殴り殺されることである。ただのアル中で、留置所を出たり入ったりしている分には、親の威光もあって、彼は平穏無事に過ごすことができただろう。それが北部のはねっかえりみたいな連中とつるんだことで、惨殺の憂き目にあってしまう。囲いから一歩でも外に出た羊は殺されて当然というわけである。この映画の怖さは、ここに表れている。


この映画はまたロードムービーの走りのような映画で、2人がバイクで伴走するシーンは、全部アドリブだそうだ。撮影自体もハプニングの連続で、資金がショートしたり、仲間割れしたり、脚本が出来上がらなかったり、散々な展開だったようだ。出演者はドラッグ漬けだったとも言う。全体に漂うドキュメントっぽい感覚は、この映画にふさわしいものであった。ザラっとした粗い感じの映像も、内容とマッチしてgoodだった。


狼たちの午後」は3人組が銀行強盗に入る話だが、のっけから1人が抜けたり、預金はすでに本店に移送されていたり、ドジな展開で始まる。主人公ソニーに投降を進める恋人がホモという設定も皮肉である。彼らは次第に警察に反感を持つやじ馬にヒーローとして祭り上げられていく。人質たちとも妙な共感が育っていく。最期は、相棒のサルが殺されるところで終わるのだが、封切りで見たときのこの映画の苦さを今でも忘れない。「俺たちには明日はない」に通じるアンチ・ヒーロー映画である。
警察や群衆とのやりとりでは、ドキュメントっぽい味を、かなり意識的に出している映画である。


この2作品から言えるのは、もう英雄を英雄として描くことはできなくなった、ということである。戦争の英雄は、たくさんの人を殺したが故に胸に勲章をぶら下げているのであり、有能なエリートサラリーマンは家庭をないがしろにした父親失格者でもあり、マッチョな男がマザーコンプレックスだったりする。
事件にも、人間にも、裏がある。みんながそう思う時代に、単純な善意の映画を撮ることは難しい。我々が直面しているのは(あるいは、求めてきたのは)、そういう明け透けなリアルである。ドキュメント的なタッチが必要とされたのも、むべなるかなである。


*リアル・リアル
我々はもうユートピアに戻ることはできない。たくさんの死体を見たし、たくさんの裏切りも見た。アドルノは「アウシビッツ以後、詩は存在しえない」と記した(最晩年は違う見解を持っていたというが)。確かにそうだと思う。家族を収容所で殺され、数少ない生存者の一人であるパウル・ツェランの詩は、ほとんど引きちぎられた蝶の羽根のようになり、それはモノローグとも呼べない、存在の不安が静かに上げる呻き声のようなものに変わった。そして、戦後も何十年もして、彼は自ら命を絶った。シベリア抑留帰りの石原吉郎のように。もう言葉も届かなければ、イマージュも届かない。「アウシュビッツ以後」、我々はジャコメッティの彫像のように立ちつくすだけだ。


そういう、ささくれだった感性しか持たない我々にも、しかし小津や成瀬の映画が福音のように届くのは、なぜか。
その映画作法は古くさいかもしれないが、そこに描かれた家族の物語は今でも心を打ってくる。
小津や成瀬にしたって、当時は新しかったはずだ。そうでなければ、そもそも作品が生き残るための最初の関門を通り抜けられない。新しさという衣裳をまといながら、本物の監督は真実の核へと迫っていく。


ウソを本当のように見せるのが映画だと言われてきたが、実はその逆で、本当をウソの中にどこまでうまく潜り込ませるかが、いつも変わらぬ映画の命題だったのではないか。
では、ドキュメントは? ウソを最小限に抑えながら本当をどう描くか、そこが腕の見せ所であり、ドキュメント作家の良心の有りようではないだろうか。


チャールズ・ブコウスキーは「オールド・パンク」というドキュメントのなかで、次のように言っている。
「魂が鈍ると、形式が現れる」
ぼくの言いたいのは、結局、単純なこのことである。