I can’t stop loving them.―愛する洋画10作

kimgood2007-03-21

*陳腐なラインアップ
これから自分の好きな映画を挙げていこう、と思う。でも、好きな映画って? なぜ自分は茶碗蒸しや納豆が好きなのかと考えることに意味がないのと同じように、あまり生産的なことではなさそうだ。自分の女の好みを力説しても、「ああ、そうかい」といなされるだけのことであろう。
しかし、小林秀雄ではないが、自分の好悪を離れて批評という行為がありえないとすれば、自分の好悪の拠ってくるところを探ることにも多少の意味があることになる。
たとえば、「愛の嵐」という作品は、ほとんどぼくの美意識を決めてしまったような映画だと思っているが、あとで記すように欠陥のある映画だというのは十分に承知している。しかし、私的な拘りを超えて映画を見る作法自体をぼくは知らない。
映画を論じるには映画の文法に則ってやるべきだ、との論がある。しかし、カメラワークがどうの、ショットがどうの、映像処理がどうの、演出がどうの、というのは素人がやることではない。演出を言うのであれば、シナリオを読む作業が必要になる。そんなことはどだい無理な話である。だから、印象批評の域を出ないことは仕方がないのである。ただし、たいていの評論家と称するプロも、素人と似たり寄ったりのことしかしていないのだが。


小林信彦はどの時代に映画を見たかで、好みの映画が違ってくる、と言っている。彼はアメリカのシチュエーション・コメディといわれる分野をこよなく愛していて、それは1930年代から50年代あたりまでにルビッチ、ワイルダーなどによって深められた映画ということらしい(『映画を夢見て』所収)。その伝でいけば、ぼくが洋画を初めて見たのは66年だから、まさにアメリカン・ニューシネマの時代である。当然、そこから70年代の映画がぼくの好みの映画の中心をなすことになる。
高校生のときに見た「ライアンの娘」や「ソルジャーブルー」「ソイレント・グリーン」「ジョンとメリー」「フレンジー」などの作品が忘れられない。「ソイレント・グリーン」はその後も何度かテレビなどで見ているが、「ソルジャー・ブルー」はインディアン虐殺場面が延々と続くことから、テレビ放映はされなかったのではないかと思う。高校生のときは、毎週必ず決まった小さな映画館で、掛かっているものは全部見るようにしていたのと、大作、話題作は札幌まで学校をサボって見に行ったものだ。


基本的にエンタメのない映画は好かない。何度も癖のように見たくなる、というのがいい映画の条件である。たとえば、ここしばらくの映画ではロシア映画父帰る」は傑作だと思うが、そう何度も見る映画ではない。あるいは「太陽」も素晴らしかった。天皇と皇后のやりとりや、学者との会話場面など、ほとんどアドリブで撮ったような印象で、ロシアの監督が日本語も分からずによくもここまで微妙な映画を撮るものだと感心したが、これも何度も見る映画ではない。


映画にはエンタメのほかに、多少の社会性がないと、手応えを感じない。先に触れたようにニュー・シネマで育ってきた人間とすれば、昨今、「エンタメ+社会性」という組み合わせの映画が少ないことが残念でならない(9.11の自粛が収まって、ハリウッドにも社会的な問題に目を向ける作品が復活しつつあるのが、うれしい。「クラッシュ」はロサンゼルスの人種問題を扱って、見事な手際の作品だった。きっと傑作である。監督ポール・ハギスイーストウッド映画の脚本家で、これが初めてのメガホン。次作がすごく楽しみ。「ロード・オブ・ウォー」「ナイロビの蜂」「グッドナイト&グッドラック」「カポーティ」などもある。出来はイマイチだが、これからもこの種の映画を期待したい)。


かつてはアメリカでも「ドライビング・ミス・デイジー」のような味わい深い映画が撮られた時代があった。同作は、人種問題や黒人解放問題を静かに、ヒューマニティをもって語る映画である。モーガン・フリーマンが愛情豊かで、誇り高い黒人運転手を演じている(人種問題ではスピルバーグの「カラーパープル」もしっとりとしていい。ウーピー・ゴールドバーグが絶妙な演技を見せてくれる。アリス・ウォーカーの原作が読みたくなる映画である)。


それにしても我ながら陳腐なベスト10になるものである。といっても、それに多少の自負を感じてもいるのだが。


1 卒業
言わずと知れたマイク・ニコルズの名作。ぼくは中学生のときにリバイバルを見ている。サイモン&ガーファンクルの「Book End」という処女アルバムを買ったのを思い出す。ぼくは中学生なってから毎週、みの・もんたがアメリカ・ビルボード誌のトップ20を紹介する番組を欠かさず聴くようになった。表を手書きし、歌手名と曲名を書き留めていくのだが、聞き取れなかったり、曲の頭しか流さないで次に移る場合など、手書きが間に合わないことがよくあった。その番組でトップ・ワンを8週だか続けたのが「サウンド・オブ・サイレンス」だった。
「卒業」では、キャサリン・ロスよりその母親役のアンバンクロフト(ミセス・ロビンソン)が好きだった。何というガキか。それにしても、母娘2代にわたって愛されるほどダスティ・ホフマン(ベン)は色男だろうか。
好きなシーンがいくつもある。アン・バンクロフトが車のキーを水槽に投げ入れてホフマンに取らせるシーン。ホテルのカウンターでポーターが呼び出しのベルを鳴らそうとするのをホフマンが手で押さえるシーン。初めてのホテルの密会で、ベッドの端に腰掛け、脱いだばかりのストッキングの汚れを取ろうとするバンクロフトの胸を後ろから掴むシーン(これはホフマンのアイデアだそうだ。現場は大笑いだったそうだ)。倦怠の日々をプールと自分の部屋とミセス・ロビンソンとの情事のカットで表現するところ。ストリップバーでキャサリン・ロス(エレーン)がつーっと涙を流すシーン。金門橋を渡っている最中にガス欠になりそうになり、それに合わせて「ミセス・ロビンソン」の曲が途切れ途切れになるところ。最後にエレーンを奪還して2人でバスの最後部で並びながら、笑いがこぼれてくるところ。こう書いているだけで、頭のなかで「四月になれば」が流れ出す。
エレーンの結婚式に乱入する前に、すべての音が消え、参列者がベンに向かって憎悪を剥き出しにするシーンがあるが、どういうわけかこの場面が好きではない。全体の流れでここだけ異質なような気がするのだ。うまく表現できないのだが……。
この映画に社会性があるのかとなると、難しい。普遍的なイニシエーションの映画と言っておこう。



2 いちご白書
回数は4、5回しか見ていない。いま見るとミュージック・ビデオ風に撮っているシーンが多く、不満があるが、高校生のときに封切りで見て、イカれてしまった映画なので、ジャンキーをやめられない。キム・ダービーが可愛い。「曉の挽歌」「ジェネレーション」を高校生のときに見ている。最近、ジョン・ウェインと出ている「勇気ある追跡」を見たら、これも見たことのある映画だった。ホアキン・フェニックスの「ウォーク・ザ・ライン」を見ていて、ホアキンがお金を下ろしに銀行に行くときに、その窓口にいるチョイ役のおばさん、きっとキム・ダービーである。胸がドキッとしたから、絶対にそうである。後でネットで調べたが、名前がクレジットされるほどの役でもないので、彼女を確認することができなかった。
この映画で大好きなシーンは、公園の森のなかをブルース・デイヴィソンと2人でショピングカートを押すシーン。彼女は足をカートの台にかけている。それを後ろから囲うようにデイヴィソン。キムが後ろ向きにキスをする。ものすごいミニ・スカートで、頭がクラクラ。
劇中でニール・ヤングが何曲も歌っている。バフィ・セント・メリーの「サークルゲーム」の声の震えには驚いた。のちに日本の歌手が「いちご白書をもう一度」などという甘ったるい歌を歌ったときには、映画への冒涜だと思ったものである。


3 キャバレー
ボブ・フォッシー監督の傑作である。彼には「オール・ザッツ・ジャズ」の名作もある。劇の進行と舞台の歌をシンクロさせるやり方は、両者に共通する。ダスティー・ホフマンの「レニー・ブルース」も同監督の作品。トニー賞を7回取っているそうである。「シカゴ」は彼の原作である。


ぼくはこの映画を高校生のときに見ている。ライザ・ミネリがきれいに見えるから不思議である。のちに触れるようにミュージカルの正統を継いだ彼が、ミネリを使いたくなるのはよく分かる。
ミネリの恋人マイケル・ヨークも人を疑わない、誠実な役柄を演じてグッド。ドラムの擦り音に合わせて、冒頭とラストの、歪んだ映像から次第にはっきりモノが見えてくる演出は、時を経ても色褪せない。キャバレーの道化役が腐敗の底まで見通していて不気味である。好きなシーンがいくつもあるが、一番大好きなのは、ミネリが胸をペタペタ叩いて、私のは平べったいの、と言うシーン。なぜ好きなのか、いまだによく分からない。
歌では「you could see her through my eyes」、そして「cabaret」。下品だが「money,money」もいい。発音は「はマニ、マニ」である。
金持ちの放蕩男が出てくるが、ミネリとsexいたすばかりかヨークともいたすというひどさである。貧乏な2人が可哀想だ。ユダヤの金持ち女が出てくるが、とてもピュアな感じで、それに惚れる貧乏な隠れユダヤ人の男も感じがいい。ミネリたちがどんどん泥沼に沈んでいくのに、この2人は逆風吹き荒れるなかで結婚へと歩み出す。


ナチスと頽廃というセットの概念を植え付けられた映画で、のちに触れる「愛の嵐」、ビスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」(原題the dammedで「クズども」ぐらいか)も同じテイストの映画で、それぞれぼくは高校生のときに封切りで見ている。最近見た「ヒトラー最後の12日間」にも、その種の場面があり、ああ、あれだ、と思った次第。ナチスを「清潔の帝国」と呼ぶ人があるが、それは権力で強制したもので、押さえ込んだすぐ裏側では腐敗が深く進行している。酒もたばこもやらない、それにノーセックスでもあったような(映画ではそう)ヒトラーこそ、第三帝国の模範である。
ぼくは去年「プロフェッサー」を見て、「ミュージカルって好きかも」と目覚めた感じ。その淵源はこの映画と「ウェストサイド物語」「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミュージック」あたりにあったような気がする。


4 俺たちに明日はない
これは不確かだが封切りではなく仙台の名画座で見たのではないかと思う。気だるい夏の日に男と女が出合う。女は詰まらない境遇から抜け出したくてしょうがない。たまたま2階の部屋から外を見ると、ギャングの男が現れることで、ローリング・サンダーな日々が始まることになる。
アーサー・ペン監督で、ボニーをウォーレン・ビューティ(Beaty)、クライドをフェイ・ダナウェイ。ビューティはいまビーティとかベイティと表記されるようだが、以前はビューティだった。この映画でのフェイ・ダナウェイは奇跡のような美しさだ。ぼくの好みの女優ではないが、この映画の彼女は文句ない美しさである。一方、ビューティはいくら犯罪を重ねても悪党顔にならない、万年青年のよう。


時代は大恐慌の頃、銀行の横暴で土地を失い、流浪の身になる農夫たちが描かれる。2人が銀行を襲って喝采を浴びるのは、そういう時代背景があるからである。彼らは最初の頃こそうまくいくが、やがて包囲網が出来てきて、ただ逃げ回るだけになっていく。クライドが夢見た華やかな生活など望むべくもない。
途中からボニーの兄貴とその妻、それと少し頭のネジがゆるい運転係が加わって、5人の一座で犯罪を繰り返す。兄貴のバックをジーン・ハックマン、その妻ブランシュをエステル・パーソンズ、運転手CWをマイケル・J・ポラード。 くせ者の役者揃いで、言うことなし。ブランシュだけは堅気の出身で、それを鼻にかけてもいて、彼女の一挙手一投足がクライドの神経に障る。銃撃戦が始まると、素っ頓狂な金切り声を上げる始末。しかし、この女もやがて一座のカラーに染まっていくのが悲しい。
ボニーがクライドを貴婦人として扱うように、バックもブランシュを丁重に扱う。この映画の救いはそこにあるように思う。はたから見ればただのギャング集団なのだが、彼らには彼らなりの倫理がある。


ボニーが足が悪いのは役柄だろうと思ったのだが、あとでビューティの映画を何本か見ているが、やはり足を引きずり加減にする。おそらく実際にそうなのだろうが、極めて珍しい例であろう。
この映画にはもう1つ大事な仕掛けがある。いくら感情が高ぶっても、ボニーはいたすことができない、不能者という設定である。これによって、ボニーとクライドの結びつきが精神的なものであることが分かる。映画もかなり進行してから、野原でボニーはいたすことができるが、そのときクライドは"You are perfect."と褒める。そのシーンが、大好きである(ショーン・コネリーとヘップバーンの「ロビンとマリアン」にも似たようなシーンがある)。


クライドが実家へボニーを連れて行くシーンもいい。ユダヤ系の家庭らしく、年老いたお母さんは謹厳実直そのものという感じ。娘が堅気の人間ではないことはお見通しだが、そういう境遇にある娘に救いの手を差し延べることのできない諦観が母親の全身を包んでいる。やがて別れの時がやってくるが、淡々と描いているだけに、印象深いシーンになっている。強めの風が吹いてきて、ドレスがはためいたり、帽子が飛びそうになったり、髪の毛がほつれたり、まるでモノクロのような映像処理で、一幅の絵を見るようだ。


結局はCWの家に立ち寄ったことが命取りになる。彼の父親が警察に密告をするからだ。この父親が実に嫌みな感じがよく出ていて、グッド。息子はボニー&クライドを尊敬の目で見るが、父親からすれば息子を悪の道に引きずり込んだ悪党とアバズレにしか見えない。この映画がよく出来ているのは、そういう世間の厳しい視線も織り込まれているからである。一方的なならず者礼賛映画にはなっていない。
この映画は筋も展開も立派だが、キャスティングが抜群だったことが名作になった理由ではないだろうか。よく映画は「脚本とキャスティング」で決まるというが、そのお手本みたいなもの。


5 レオン
これについてはほかの日記で書いたので省略。「卒業」と同じく社会性が低いかもしれない。それでもイタリア系やくざと悪徳警官の結びつきなど、ややそれめいた部分もあるにはある。


6 タクシー・ドライバー
これもスコセッシのところで触れたので省略。


7 ゴッドファーザー
伝説と化した映画とでも言おうか、封切りと同時に名作の風格を備えていた。それまでマフィア映画は当たらないと言われていて、その理由を映画会社が探ったところ、アングロ・サクソンの監督、主演で撮っていたからだと気付き、ではイタリア系の監督で誰かいないか、となって白羽の矢が立ったのがコッポラ。何作か撮ってまだ芽が出ていない。妙に凝るところがあって、彼に頼むのは冒険である。最終的にコッポラに決まるのだが、撮影が延々と延びたり、契約問題が起きたり(訴訟にもなったはず)、先行きの見えない状態になった。完成試写を見た首脳陣は「失敗」を覚悟したらしいが、封切ってみたら大入り、大盛況。こうしてゴッドファーザー・サーガが始まった――というのを何かで読んだ記憶がある(間違っていたら、ごめんなさい)。

ぼくは映画プロデューサーのベッドに転がる得体の知れないものを恐くて見ることができず、数回見てから、やっと馬の首と確認した次第。マフィア業界からいちばん遠くにいたマイケルが次第に頭角を現し、最後には名実共に次のドンとなるところで終わるわけだが、声や仕草まで父親のマーロン・ブランドに似てくるのには驚いた。恐い映画だな、と思った。


冒頭に「声」が聞こえてくる。画面は真っ暗。やがて暗闇に一人の男が浮かび出し、こちらを向いて窮状を訴えている。カメラが徐々に引くと、誰かの右肩が現れる。右手が傾けた頭を支えている。娘が男どもに強姦された、警察に捕まったが微罪で、しかも執行猶予が付いた、どうにか正義justiceを下してほしい、と男が訴える。感極まって嗚咽すると、こちら側の男の右手が軽く振られ、さっとハンカチを持った男が現れる。ここでやっと陰になっていたマーロン・ブランドの「声」が聞こえてくる。「なぜ長いこと私を訪ねて来なかったのだ」と。「私はおまえの娘の名付け親、ゴッド・ファザーなのに」……何とも言えない始まり方である。


最初が引きなら、この映画のラストも引きである。妻(ダイアン・キートン)から「義妹の夫を殺したのか」と問いつめられ、パシーノ(末弟マイケルで、海軍の英雄)は「絶対にやってない」と答える。安心して妻は部屋をこちら側に出てくる。開け放たれたドアの向こうでは、マイケル、つまり新ドン・コルレオーネのもとに挨拶の人間が次から次とやってくるのが見える。あとで触れるように、まるで冒頭のシーンの写し絵のよう。それをこちら側の妻の目線で撮すのだが、静かにドアが閉じられるところでパート1は終わる。


寄りの映像で印象的なのは、マイケルが深々とイスに座りながら、ソロッツォや悪徳警官などを殺すべきだ、と整然と述べるシーン。ここで彼は実質的な意味で、コルレオーネ家の代表者となる。


話を始めに戻すと、外では燦々と明るい、そして賑やかな結婚式のシーンが繰り広げられ、一方、暗い室内ではひっきりなしに裏の相談事をドン・コルネオーレに持ちかける場面が続く。この対比が見事である。
やがて外が騒がしくなったと思ったら、やや落ち目の人気歌手が現れて大騒ぎが始まる。それはニノ・ロータがモデルだと言われる。彼もまたドン・コルネオーレに頼み事があってやってきたのである。自分の主演映画を撮りたいが邪魔している映画プロデューサーがいる、というので先の馬の首のシーンに繋がっていく。そのプロデューサーとの交渉役がロバート・デュバル(トム)で、彼だけがファミリーのなかで1人血が繋がっていず、それもドイツ系である。それが全体に微妙な影を投げかけていく。
パーティのシーンからハリウッドに場面転換すると、それまではイタリア調の曲が流れていたのが、オールド・ジャズ風な軽いノリの曲に変わる。トムとプロデューサーの交渉が決裂する。そして、翌朝、豪邸の俯瞰図から室内へ、そしてプロデューサーのベッドの足元へとカメラがゆっくりと寄っていく。そこではあの有名なテーマソングがスローで流れている。


この映画では陰と陽、静と動、聖と卑、表と裏、などの相反するものがドラマを駆動するエネルギーになっている。
それを的確に表現するのが、同時進行の作法である。コルレオーネが市場で銃撃されるシーンは、殺し屋ルカが敵の罠にはまって殺されるシーンと、ほぼ同時。圧巻は、マイケルが同時多発テロで敵対者を皆殺しにするシーンである。荘厳な教会音楽が鳴り響くなかで、妹の赤子のミサが執り行われる。司祭が名付け親のマイケルに「悪魔をしりぞけるか」と訊き、彼は「しりぞけます」と答える。その間、教会のパイプオルガンの音だけが鳴り響き、床屋で、ホテルで、サウナで、惨劇は無言劇のように進行する。


役者は長男ソニーがジェームス・カーン、次男フレドがジョン・カザール。すぐにカッとする暴走タイプを演じたジェームス・カーンの表情が、実はいろいろと複雑で、見飽きない。最近の映画「マンダレイ」に出ていて、太った彼にしばらく気づかなかった。
カザールは頭のネジが抜けた役だが、「狼たちの午後」で見てその独特の存在感にやられた口だが、この映画でも貴重な役回りである。ベガスのやくざモスを演じた役者もいい。ショービジネスで俺は生きてきたんだ、若造が知った風なことを言うな、とベガス進出を狙うマイケルをなじるところは好きなシーンである。いかにもという感じが出ている。


結局、このファミリーを立て直すのは、軍人として部外者だったマイケルであり、捨て子だった顧問格のトムである。ソニーもフレドもその任に耐えないわけで、「ゴッドファーザー」は異端者の本家返りの話である。


ソロッツオと警官を殺したマイケルが身を隠すのがシチリア。その隠棲の日々が、いま一つ完成度が低い。
シチリアの女に一目惚れしたその日に、彼女との交際と結婚を父親に申し出るところなど、わざと紋切り型で押した臭さがある。いかにも、という感じはするが、それ以上ではないのである。それに、アメリカに残してきた恋人(ダイアン・キートン)のことは一顧だにしないのは、なぜなのか。ニューヨークに戻ってからすぐに求婚に行くぐらいなら、多少の煩悶があってしかるべきではないのか。
ただし、新妻が自動車爆破で死ぬシーンは見事である。従者に声を掛けるマイケル、足早に逃げる従者、新妻の乗る車に視線を向けるマイケル、そして叫ぶマイケル……。単純なカットの連続で新妻の突然の死を表現してしまう。


蛇足だが、この映画のタイトルのデザインは絶妙である。上から垂らされた操り人形の糸につながっているのがGod Fartherの文字。パート3まで見ると、よけいに意味深なデザインである。


8 愛の嵐(the night porter が原題)
これは高校生のときに見た映画だったか。シャーロット・ランプリングの衝撃のデビュー作である。ここ最近もフランソワ・オゾンの映画に立て続けに出て、ファンとしては嬉しいかぎり。監督は女性でリリアーナ・カヴァーニという。宗教絡みの映画を2、3本撮っているだけのようだ。


ナチの収容所で医師として勤務していたダーク・ボガード、そこに囚人として送り込まれてきたシャーロット。ボガードは彼女を助け、彼女はナチの男たちのあいだで半裸の踊りをおどる。その服装は軍帽に吊りズボンで、上半身を剥き出しにしている。ぼくはここのシーンにクラクラとする。
彼女はある将校のことを嫌いだと言う。すると、ボガードはその男の首を切り落として彼女にプレゼントする。監督はのちに「サロメ」という映画を撮っているようで、首切りは彼女のオブセッションかもしれない。


戦後、ボガードがホテルのポーターをしているところへ、有名作曲家の婦人となったシャーロットが夫と一緒にやってくる。もうそこから狂おしい顛末が始まっていく。時間も、理性も、何もかも吹っ飛んで、彼らだけの閉ざされた愛欲の世界へと雪崩れ込む。ところが、意外とその後の展開に緊迫感がない。一つだけ、男がグラスを砕いてまき散らし、女が裸足で踏みしだき、その血だらけの足を男が愛撫するシーンだけは、実が籠もっている。これと似たシチュエーションを使った映画を他に見たが、思い出す手がかりを失念した(あるいは、ジョン・ヒューストンの自伝に書かれていたことだったか……)。


ボガードは戦後、自分が戦争犯罪人であることを隠し通してきた。民間の査問会に呼ばれても顔を出さない。湖畔のレストランの主人が彼に見覚えがある様子をすると、すぐにその男を殺してしまうほどの冷酷さを、いまだに失っていない。彼にとって戦後は引き延ばされた“無”でしかなかったが、そこにあの熱情的な日々を演出してくれた“少女”が現れたのである。もう少しその冷酷な面を転落の日々に反映させると、もっとすごい映画が出来上がったのではないかと思う。


ぼくがよく分からないのは、ある程度の名声を勝ち得た作曲家であるシャーロットの夫が泊まるには、ホテルのカウンターが小さ過ぎるのではないかということである。きっとホテル本体も小さいはず。ぼくははじめ演奏シーンを室内楽と勘違いしたのだが、それもそのせいである。


この映画ほど背徳的な映画を見たことがない。何がと言って、ナチ収容所から引き続く異様な愛の在り方を堂々と肯定しているからである。ティム・ロスの「素肌の涙」も近親相姦を描いて最も背徳的な映画だと思うが、最後には父親が息子に裁かれる(殺される)ところで終わる。ボガードも殺されるが、罪を償ったようには見えない。


9 アマデウス
モーツアルトを扱った伝記映画ということになるのだろうが、そういう枠など忘れさせる傑作である。監督はミロシュ・フォアマン、「カッコーの巣の上で」を撮っている。


野卑な天才音楽家と愛くるしい、子どもじみた妻、彼を妬み、そねみ、表ではサポーターの振りをし、後ろでは追い落としをはかる宮廷音楽家サリエリ―いまは精神病院にいる彼が語り部となって映画が進行する。
当然だが、全編、モーツアルトの曲が流れる。映画の進行と彼の作る戯曲との絡みも見せ場で、幻影の父親像に震え、怯えるモーツアルトは、完全に近代人である。そして、その妻もまた(高橋英夫『疾走するモーツアルト』では、近代が彼を見出した式の言い方をしている)。


この作品を友人は、あまりにも類型的な人物像で見ていられなかった、と評した。たしかに、そういう面はあるかもしれないが、ぼくはモーツアルトがぼくたちの隣人であることを確認できたこと、そして彼の音楽作品に垣根なしに触れるきっかけを作ってくれたことに、いまなお深い喜びを感じている。今でも映画の最後に鳴っていたミサ曲は、ぼくの大好きな曲だ。


モーツアルトの日記は当時の人間には珍しく、生活の細々としたことが書かれていて、歴史的な資料としても貴重なものだそうだ。ぼくはそこにもまた近代人としてのモールアルトを見出す。彼の音楽についてうんぬんする資格は毛頭ないが、時折、天啓に打たれたように感じることがある。


いちばん好きなシーンは、サリエリ扮する黒づくめの男が、モーツアルトに仕事の依頼をしたあと、マントを翻して町中を歩くシーンである。あるいは、冒頭のサリエリモーツアルトとの運命的な出会いを語り始めるシーンもいい。人差し指を彼が立てると、軽快なピアノの音が響き出す。



10 スティング
ジョージ・ロイ・ヒル監督である。彼には「ガープの世界」という秀作がある。ジョン・アーヴィングの半自伝的小説を映画化したものだというが、実に不思議な母子関係が描かれている。「明日に向かって撃て!」も同監督の作品である。いずれジョージ・ヒル論をやりたいが、まだ未見の映画が何本かある。また小林信彦の弁だが、前衛手法と大衆的な路線とが混じっているのが、ヒル監督の特徴と評している。「ガープの世界」はまさにそういう作品である。風変わりな親子の生き方、考え方がアメリカの保守派の神経を逆撫でするにいたり、ガープは暴漢に撃たれて死んでしまう。リアリティとファンタジィが渾然としていて、軽い作品だがテーマは重たい。


ミュージカルでは「モダンミリー」がある。これはジュリー・アンドリュース主演で間に休憩が入る長い映画だが、面白い。彼女の「サウンド・オブ・ミュージック」以後の作品らしい。20年代の、田舎からNWに出てきた娘がモダンガールになろうとするが、あまりうまくいかず、結局はしがないセールスマンと結婚することになるのだが、それが実は大富豪の跡取りという設定。怪しげな中国人の人身売買グループが絡んで筋に飽きがこない。まあ、ジュリー・アンドリュースだけを見ていても時間の経つのを忘れることができる。彼女の映画は「メリーポピンズ」「サウンド」「暁の出撃」ぐらいしか見ていない。あまり作品数の多い人ではないはず。結婚を機に第一線から引いたという記憶があるが、それが正しい記憶なのか定かではない。


ミリーが寝起きしているのが中流のホテルという設定、そこのエレベーターが調子が悪く、タップを踏んだり、壁をドンとやったりしないと動かない仕掛けになっていて、これは面白い趣向である。歌と踊りのシーンは極力、それにふさわしいパーティなどに限られていて、無理な演出をしないことを心がけているように思う。単独の歌の場面でも、本人のふつうの演技に歌をかぶせるようなやり方をしている。もう昔のような無理な設定でも歌ったり、踊ったりすることをヒル監督は好まないようである。
なかに複葉機を飛ばすシーンがあるが、このあたりの懐古趣味は彼のお家芸ではないだろうか。20年代が似合う監督である。


さて、「スティング」である。小林信彦は「余裕ある作品」と称して、ヒル監督の円熟味を指摘している。ぼくはそれを論評する資格はないが、実におしゃれな出来の映画という印象である。ふつうネタで見せる映画は見終わればそれで終わりだが、この映画はネタばれしても何度も見ることができる。ということは、仕掛けのネタの面白さで見ているわけではなくて、それを作り上げていくプロセスを楽しんでいるのである。言ってみれば、ミッション・インポシブルのクラシカル版みたいなもの。


この映画もそうだが、「明日に向かって撃て」も、何かセピア色に染めた現在、とでも言うべき雰囲気に映画が出来上がっている。「ガープの世界」にも、振り返って見た未来、と呼べそうな趣がある。それが、おそらくヒル監督の持ち味ということなのではないだろうか。バタバタしない、落ち着いた気分が流れるのは、そのためではなかという気がする。


「スティング」で最も好きなのは、「七人の侍」の冒頭のように、適任の人間がタスクのためにパズルをはめるように集まってくるシーンである。なんだかそれだけでワクワクする。あと、賭けでスッテンテンになったレッドフォードが肩を丸めて路地を歩くシーンも好きである。


以上、10作がぼくのベスト10だが、新しいところでは、別の項で書いた「ファーゴ」、ヴィンセント・ギャロの「バッファロー66」、中国系監督の「スモーク」、中国映画「覇王別姫」、韓国映画オールド・ボーイ」、エンタメでは「エイリアン」「インディジョーンズ・シリーズ」「MI-3」「スパイダーマン1」、007シリーズ「ゴールドフィンガー」……偏愛の映画は尽きない。