12年9月からの映画

kimgood2012-09-08

93 昭和残侠伝 人斬り唐獅子(DL)
山下耕作監督、池部良が兄弟分で、敵方にいる。良心派やくざは大木実で、その血気盛んな息子が長谷川明男、継母が小山明子で、健さんがムショ勤めの間に大木に身請けされた形である。例によって悪やくざは国の手先と結託している。玉ノ井を仕切るのが旧やくざ、そこの女たちを戦地に送り込むのが悪やくざである。仲裁役で出てくるのが片岡千恵蔵である。


やくざ映画は「義理と人情」といわれる。しかし、悪いやくざはそれとは無縁で、無法を働いてくる。いいやくざは、それでも忍びに忍ぶ。どう見たって無法が勝つのが当たり前だが、最後に良心派も爆発して、悪をやっつける。ただし、正当やくざではなく、そこに一宿一飯の世話になっているようなのが殴り込みをかけるので、いいやくざはお咎めなしで終わることができる──これがやくざ映画の常筋である。


やくざはただ暴力を働いているように見えるが、中は論理と論理の戦いを繰り広げているのである。たとえば、親分の敵を討とうと組の者が血気に逸ると、健さんは親分の遺志にそむくことになるし、玉ノ井の人たちを守るのがあんたらの義務だろうと説得する。あるいは、敵方の親分を殺そうとした良心やくざの息子を助けに行った代貸し。池部が彼らを助けるために使う理屈は、「こうやって仁義を通してやって来たのを、無惨に帰すと、組の名折れになる」というものである。義理と人情の上に「道義」というものがあって、ジ・エンドまで常にその構造で動いていく。たとえ悪であっても、その道義を蹴散らすことは難しい。そうでなければ葛藤が生まれず、劇にはならない。


94 喜劇 女は男のふるさとヨ(T)
新文芸座森崎東監督作を4本、見た。これは71年の作。新宿芸能社はお座敷ストリップやストリップ小屋に女性を送る仕事をしている。主人が森繁、おかあさんといわれるのが中村メイ子、倍賞美津子が河原崎長三郎とロードムービーよろしく小さなバスで旅をする。どこかのストリップ小屋の近くのシーンでは、寅さんの主題歌がかかる。森崎は寅さんの2作目、3作目を演出している。


緑魔子が生命力のない女で、その踊りは奇妙なものである。クギの一本抜けた女は、このシリーズの特徴の一つである。結局、河原崎には妻子がいたことが分かり、別れることになる倍賞。彼女たちはつねに芸能社を起点・帰点に行動する。花沢徳衛が人情刑事役で、いかにもの適役である。


95 喜劇 女生きてます(T)
これも71年の作。おかあさん役が左幸子で、借金を残していなくなった女を追いかけて大阪くんだりまでやってくるが、見つからない。一本ネジの緩んだ若い子が後をついて芸能社へとやってくる。誰とでもする女だが、最後は下半身不随の富豪の男と結婚する。倍賞は最後にちょろっと顔を出すだけで、中心になるのは安田道代で、これが本当にきれいである。そのムショ返りの直情男が橋本功で、「おにいちゃん」と呼ぶ。児童施設で一緒だったからである。


左幸子が女の子と話をしている脇で、イヤホンをした森繁が笑っている。テレビで圓生をやっているらしい。ここの演出が面白い。あるいは、冒頭のシーン、里芋だろうか箸で挟んで口に運ぼうとしたときに、安田を送る歌を歌えといわれ、芋が中途半端に口の前で止まり、それが下に下ろされて、歌が始まる。そのときの間がいいのである。


吉田日出子が短大出のインテリの役で、何かというと資本主義が悪いと言い、環境汚染で酸素が数十年後にはなくなる、などと言う。田中邦衛が泥棒役で、子どもを人質に取るが、それをやっつけるのが吉田日出子。その子の父親藤岡琢也と夫婦になることに。


96 喜劇 女売り出します(T)
72年の作。おかあさん役が市原悦子、夏純子がスリ、その父親もスリで西村晃、その弟子が米倉斉加年。医者が財津一郎で、呼ばれてコタツに入るシーンで、足のつま先を両手で持って持ち上げ、靴下の臭いを嗅ぐ。財津はそういうことをやる男である。夏に惚れる純朴な税務署員が小沢昭一である。久里千春は1作目から出ているが、ここでは小料理屋のおかみになっている。最初は満員電車のシーンで、目の前に来た夏の股間に足を差し入れる森繁、女は森繁の股間に手を……。あとで気付くと財布が無くなっている、というわけである。その女が芸能社に身を寄せることで、あれこれが始まる。


西村が芸能社にやってきて、夏とのいきさつを話し、娘から手切れの通帳をもらい、腰を上げようとするシーン。カメラは後ろから撮っている。西村は着物である。両手を畳に付けた途端、座った足のつま先をすっと浮かせ、そのまま立ち上がる。見事なものである。西村が長いセリフを言う間、森繁がじっと見ている。まるで芝居を盗むような目である。


97 女生きてます・盛り場渡り鳥(T)
72年の作。おかあさん役は中村メイ子に戻り、今度は男と接するとジンマシンが出る女を川崎あかね、その色情狂のような母親を春川ますみ、そのさらに親を浦辺粂子、その商い汚い店にやってくる客が藤原鎌足で、いつも口にスルメをくわえている。彼がどもりの通訳をするのが山崎努で、これは間男を殺してムショに入り、出所したばかり。女房は逃げ、ほかの男に生ませた子を引き取りにやってくる。最後、あかねは山崎と同衾するがジンマシンが出ない。結婚間際に事故で山崎は死ぬが、運ばれる救急車のなかで何か歌を小声で口ずさむ。覗き魔がなべ・おさみで、これが連れ込み宿の息子。あかねに惚れるが、ジンマシンが出てうまくいかない


あかねは段取りのいい女で、食事、掃除、洗濯とよく気がつくが、手癖が悪く、人が信用したときに、灰皿、座布団、森繁のへそくり7万円を盗んでいなくなる。それを森繁は追いかけるのだが、行った先がすごい貧民窟のようなところ。


この映画の春川ますみは圧倒的である。いつもおっとりした役柄が多いが、この映画ではしゃべっりぱなし、それに手当たり次第に男に手を出す、というすごい役である。化粧が白塗りで、目に隈を入れるので、ちょっと凄みがある。自分が掴まえたどもりの男を娘が取ろうとしていると勘違いし、娘に何度もびんたを食らわせる母親である。


98 夢売るふたり(T)
西川美和監督である。「蛇いちご」「揺れる」「ディアドクター」(「蛇いちご」を最後に見ている)と見てきて、この映画がいちばん出来が悪い。繁盛している店が失火で廃業するのだが、焼き鶏を焼く台の上に品書きの紙がピラピラ舞っているのがおかしいし、ちょっとした隙に立ち上った炎でそれに火が付くというのもおかしい。なぜ今回だけそんなことが起きるのか。


さらに、店の客で来ていた不倫の女と性交渉があり、その女から交通事故で死んだ不倫相手の男の遺した手切れ金をもらったことから、妻が女をだまし、金をせびり取る犯罪を思いつくのだが、それってあり?


あと、阿部サダオ演じる夫が妻をいろいろ責め立てるが、その理由がよく分からない。2、3カ所、難詰の理由がいわれるが、こっちに届かない。言葉だけなのである。


最もひどいのがラスト。子どもが刺身包丁で人(鶴瓶)を刺す設定だが、それはないだろ、である。こうでもしないと、主人公を牢屋に入れられない、それも小さな子をかばっているので、観客には罪は軽減される。


この監督は見て損をしない監督だと思っていたので、大変、残念である。少なくとも師匠の是枝は、「花よりもなお」以外は、少なくとも見た映画に冠して損をしたと思ったことは一度もないし、レベルがものすごく高い。「歩いても歩いても」の完成度の高さよ!(朝日の映画評でこの映画を褒めていたが、どういうんでしょうか……)


99 スタア誕生(D)
名作と言われることもあるミュージカルであるが、どうだろう、という感じである。話に膨らみがないので見ているのが辛くなる。とくにジュディ・ガーランドが売れるきっかけとなった映画が封切られた日に、彼女が家に戻り、夫であるジェイムス・メイスンといろいろなシークエンスがあるのだが、挟まれるその映画のシーンが長いのである。もっとメイスンとのすれ違いを見たいと思うのに、そういう構造になっていない。


先頃、アカデミー賞を取った「アーティスト」はこの映画の焼き直しであることが分かった。誰もなぜそのことを映画評で触れないのか。小林信彦御大も触れておいででなかった気がする。


ライザ・ミネリ好きとすれば、ジュディ・ガーランドはかなり美人に見える。撮し様によって歳がいったように見えるが、この映画にたどり着くまでの波乱を知っているだけに、わびしさが胸に迫る。ぼくはイースター・パレードに出ていたときのガーランドはキュートだと思う。アステアとチャップリン風の格好をして踊るシーンがあるが、それを少し思い出させるシーンも、この映画にはある。


ジェイムス・メイスンがミュージカルである。彼は歌いはしないが、意外の感がある。ギャグニーがミュージカルスターだったのも驚きだが、何かいまのぼくたちの理解とは違うところにニュージカルは位置していたのだろうと思う。


100 追想(D)

ロミー・シュナイダー、フィリップ・ノアレ主演、ナチものである。再婚した若き妻と子を、ナチの迫害から逃して田舎の別荘に送るも、そこで2人は虐殺される。妻は放火機で焼き殺される。娘は強姦されそうになり逃げるが、背後から撃たれる。


医師である夫は別荘へ行き、そこに立てこもるナチスをやっつける。勝手知ったる館なので、敵の裏をかくことができる。その間にも、美しかった妻との様々な場面が追想される。のんびりした、緊迫感のまったくない映画だが、ロミー・シュナイダーを美しく撮ろうとという意欲が伝わってくる映画である。フランス製。


その別荘で田舎の人が集まるパーティのシーンが面白い。長テーブルに血抜きされた豚一匹が横たわり、破砕機で肉のミンチを作るのだが、それを何の料理にするのかは撮さない。とても残念なことである。豚、牛を内臓から含めて食べきる彼らの文化に敬意を覚える(ソーセージに血を混ぜるなど思いも寄らないことである)。韓国人が豚足を処理する熱意にも頭が下がる。人はおいしいものを求めて熱情を傾ける、もちろん生計の助けにするのだが。


101 カエル少年殺人事件(D)
殺人の追憶」と同じく韓国の田舎の迷宮猟奇事件を扱ったもの。全体に色彩が薄ぼんやりしてテレビ映像のよう。人間の葛藤もないので、出来は「殺人の追憶」の比ではない。しかし、屠殺場で牛の返り血を浴びた容疑者が目を剥いて笑うところは迫力がある。


少年5人がカエルを取りに行くといって行方不明。さらに、別の失踪事件も数年後に起きているが、関連性は分からない。日本では足利事件と関連する北関東連続殺人事件をTBSの清水潔氏が追い、ある人間を犯人としている。この事件では9件の殺人が関連するかもしれない、といわれる。ドキュメントではなく、映画にする人間はいないものか。


102 MONK(シーズン3)
元刑事モンクにはシャローナというアシスタントがいたが、シーズン3-1のパッケージに別の女性が顔を出している。これは交替かと思ったら、3-5で突然、登場しなくなる。元夫と再婚し、転居したという設定である。どういう事情があるか知らないが、きわめてドライなことをするものである。おそらく主演男優とうまくいっていなかったのだろうと思うが、だいぶ後になってシャローナは夫とまた別れて画面に戻ってくるらしい。


103 天地明察(T)
滝田洋二郎監督で、ぼくは『陰陽師』『おくりびと』しか見ていないのではないだろうか。コンスタントに映画を撮っているイメージがある。この作品を見ると、その安定度がよく分かる。改暦の権限は朝廷にあるのだが、それを翻して貞享歴を立てた人物安井算哲、のちの渋川春海が主役である。囲碁でも高名で、お城碁で天才道策と打ち、初手を天元に置いたことが知られる。奇矯な策といわれるが、あるプロは子細に見て、石に神経が行き届いているといったことを評している。


いくつもそうなのかと感心させられるところがある。寺社に算学を掲げ、それを解き合った話は知っているが、まるで合格祈願のように算数問題の絵馬が掛けられているのは驚きである。そこに数学好きがやってきては、腕を競うのである。トップは関孝和である。彼も暦に興味を持っていて、現今のもの(唐の時代に移植されたもの)にほころびがあることを知っている。そして、算哲が後で関の理論を使って推奨することになる元の時代の暦にもまた、あるほころびがあることが分かる。


天皇統治の政治の三要素は、時の支配、官位の支配、宗教の支配、とする説を読んだことがある。武家の世となっても、天皇家をこれらを手放したことはないし、それは現在も変わらない。


算哲は自らの限界を破るためには西洋の知識が必要と、囲碁のスポンサーの一人である水戸光圀に禁制の書物を取り寄せてもらう。地球儀を制作するうちに、中国と日本で時差があることを発見する。それによって、彼は自らの暦、大和暦を編み出すのである。算哲は1590年に生まれ、1652年に没している。ガリレオは1564年に生まれ、1642年に死んでいる。彼の業績が算哲の生きていた頃に広がっていたかどうか。


北斗七星を見ながら、一定の歩幅で歩き、その距離と星との角度で測量をする技術が紹介されるが、これは阿部昭間宮林蔵を扱った小説で読んでいる。その測量隊の頭二人も算術、数学好きで、算哲が持参した関の教本を見て、弟子入りを望むほどである。彼らは星との角度を割り出し、誰が近似値かを競って遊んでいる。算哲がぴったり当てると、「ご明察」と歓呼の声を挙げる。房総では台風に襲われ、青森の大間では雪深い山中を上がっていく。それほどのことをして地図を作成したのである。


数学、天文学などの俊英がこぞって謎を解き、自ら謎を立て、碁打ちは碁打ちで生死を賭けて歴史に残る棋譜をつくろうとする。日本という国の基礎にこういうものがあるのだということが誇りである。誰だったか、愛国心とは国を誇る気持ちだといったが、それは核心を衝いている。


幕府の改暦の動きを封じるために、朝廷は従来の暦を廃し、大統暦という明の暦を採用する。一度は失敗した算哲は、特定日に日食が起きるかどうかで勝負を決しようとする。舞台は京都。予告した刻限に日が翳らず、切腹をしようとすると、にわかに日が翳りはじめる。そのとき、彼は左手に剣を握って血を滴らせているのだが、駆け寄った妻の背に手を回したときは血がなくなっている。残念なことである。


測量隊のヘッドが笹野高史岸部一徳、算哲の支援者が保科正之松本幸四郎水戸光圀中井貴一、朝廷の実力者を市川染五郎関孝和市川猿之助。なんだか歌舞伎役者ばかりが目立つ映画である。やはり笹野、岸部の飄々とした演技が心に残る。主演岡田准一が怒りを露わに光圀に接する場面があるが、がなり立てているだけで、本当の怒りが感じられない。宮崎あおいは笑い顔がチャーミングだが、それだけというのも考えものである。


光圀が肉からワインから西洋風の豪奢な食事をするシーンが二度あるが、あれは考証は合っているのだろうか。たしか質素な食事だったと記憶するのだが(雑誌の企画で見たと思う)。日本で最初にラーメンを食べた人という印象はあるが。会津藩が長崎と太いパイプを持っていたということなのだろうか。それにしても……。


104 エージェント・マロリー(T)
ソダーバーグ監督、主演ジーナ・カラーノ。彼女は総合格闘技というもののチャンピオンらしい。「チョコレートファイター」で女性格闘技の未來を感じたが、これは本物なので意味合いが違う。男性の格闘技を見るのと何も変わらない。では、なぜわざわざ彼女を観に行く必要があるのだろう? タレントの島崎和歌子によく似ている。


脇がすごい。マイケル・ダグラスユアン・マクレガーマイケル・ファスベンダー(イングロリアス・バスターズで見ている)、アントニオ・バンデラスといった面々が出ている。マロリーは民間会社の雇われだったが、途中で政府の専属になる話が決まる。ということは、続編あり、である。


筋は、MIシリーズやボーンシリーズでおなじみの、中枢部の裏切りというやつである。マロリーが一般人の車を拝借し、持ち主を助手席に置いて、過去の経緯を説明するという不自然な構造になっている。


ソダーバーグは、オーシャンシリーズ、チェ2作、エンリコ・ブロコビッチ、トラフックぐらいしか見ていない。「セックスと嘘とビデオテープ」が気になっているが、タイトルが邪魔して見ていない。


105 オアシス(D)★★★


イ・チャンドン監督、主演ソル・ギョングムン・ソリ。すごい映画を撮るものである。ぼくはイ・チャンドンは「シークレットサンシャイン」を見ているが、かなり味わいが深い、しかしどこかノンシャランな(図太い)撮り方をするなあ、という印象だった。こないだは「ポエトリー」が映画館にかかっていたが、見そびれてしまった。たしか今年、カンヌかどこかで賞を取ったはずである。


男が障がいをもった女性に邪心から近づき、そして恋人同士になるも、女性が身体を許した日に、兄夫婦に見つけられ、暴行していたとして起訴され、刑務所に。


タイトルロールのときに、薄暗い部屋の壁に安物のタペストリーが掛かっていて、そこに南国風の絵が織られている。ターバンを頭に巻き、片手で頭に乗せた荷を支えている女、真ん中に子象、右に腰布だけの少年。左下にOASISの文字が見える。その飾りの上に木の影のようなものが絶えず揺れ、どこからからラジオらしき音が聞こえる。あとで、その壁掛けが障がいをもった女の部屋のものであることが分かる。彼女はそのタピストリーに投げかけられる外の木の影を怖がっている。


彼女は極度の身体的な硬直があり、手足もよじれる。言語のコントロールもできない。唯一の楽しみはラジオを聴くことと、手鏡に光を映して反射させること。


タイトルロールが終わると、部屋を白い、まばゆい鳩が飛んでいる。彼女は手鏡を使って、光を反射させている。その鏡を彼女は叩きつけるが、割れた鏡を手に持ち反射させると、雪が降ったように光が踊る。


男は出所したばかりで、一家の厄介者。前科3犯だが、今回のひき逃げは、兄をかばってのもの。兄が就職先を世話しようと連れて行く中華屋での面接の様子が面白い。アホな顔をしながら、店主の人の良さに付け込もうとするずるさも表現して、卓抜である。


彼はムショで知り合った人間の所を尋ねる。そこに見知らぬ夫婦がやってきて、隠してあるカギでドアを開けて入っていく。それが、障がいをもった女の部屋で、男はあとで女に声をかける。女は手鏡の光を男の顔に当てる。男はしゃがみながら、その光を逃げようとする。いつも身体を揺らしている男と、ひゃげたように身体を硬直させる女は、身体的に共振する。


あとで、男のもとに赤い豪華な花を届けさせる。部屋を尋ね、けっこうかわいい、みたいなことをいいながら、性的に迫ろうとするが、人の気配がして達せられない。このあと、しばらく2人には性的なつながりは発生しない。


男は、女に兄の経営する整備工場で働いているといった手前、兄に頼んで整備の仕事に就く。夜になると彼女のもとへと通っていき、かいがいしく彼女の身の回りのことをするく。次第に彼女を外に出すようになり、地下鉄に乗ったりする。そこで、急に健常人となった彼女の映像が、自然な感じで現れる。それは、このあと頻繁に起きるようになる。


男は一家の集まるレストランに連れていくようなこともする。家族は女性を排除しようとするが、男が抵抗する。しかし、結局、彼女を連れて外へ。彼女の機嫌を直し、キスをするが、そのときも女は健常者のそれである。


暴行で捕まった男が警官の隙を盗んで逃げ、彼女の家の前に立つ木の枝を切り倒す。最後は、服役中の男からの手紙が読まれるとことで終わる。


主人公は明らかに知恵遅れであろう。映画は彼の視点で描かれているといってよく、そういう意味では極めて変わった映画ということになるのではないだろうか。障がいをもった人を外から撮すのはあるだろうが、その人自身の意識に沿って描かれる映画である。男が女をごく自然に受け入れるところに、我々も素直に従うのは、この視点の確保があるからではないかと思われる。


106 僕たち急行──A列車でいこう(DL)
森田芳光監督、最後の作品である。いつもながら楽しませていただきました。そして、いつもながら善人だけの映画でした。鉄道好きの人々が中心で、九州左遷といわれても、現地の鉄道に触れられると喜ぶのが主人公(松山ケニチ)で、まるで釣りバカ日誌である。その友人が、鉄工所の息子瑛太である。父親が笹野高史、松山の勤める不動産会社社長が松阪慶子、専務が西岡紱馬、福岡の工場経営者がピエール滝、農場保有者が伊武雅刀。登場人物の名がすべて電車の名にちなんでいるのも趣向の一つか。


後半はビジネス絡みの話になるが、それもいつもの調子で淡々と進んでいき、変な成功譚にしないところが偉い。森田監督の映画は、見て気分が爽快になる効能がある。ぼくは「の・ようなもの」「家族ゲーム」「それから」「失楽園」「間宮兄弟」「おいしい結婚」「未來の思い出」「阿修羅のごとく」「サウスバウンド」「椿三十郎「39」を見ている。けっこう見ている監督かもしれない。その陽性がきっと好きなのだと思う。最近では、「サウスバウンド」がとても面白かった。


107 ハンガーゲーム(T)
話題の映画、というか原作がアメリカでバカ売れのようだ。未来世界の話だが、いつものように支配者と被支配者に別れている。アメリカは一方でアメリカンドリームを歌いながら、つねに貧富の差の極大化を恐れる心性が働いているのが、この映画からもよく分かる。ウォールストリート・オキュパイが話題になったが、アメリカ人の全収入が世界の残り99%の人の収入に匹敵すると知れば、彼らの抗議行動の意味がボヤけてくる。


主人公を演じたのが、「ウインターボーン」のジェニファー・ローレンス、どこかおばさんぽい感じがする。相変わらずサバイバル系では存在感がある。彼女の可憐な恋愛ものを見てみたい。生き残りをかけた戦いで同郷の青年と恋に落ちるが、ラスト、あっさりと捨てる。きっと次作の伏線だろう。それにしても、あっさりし過ぎで、あの恋愛は作戦だったのか、とさえ思う。ここを抜かせば、おおむね楽しんで見ていられる。


新趣向は、コンピューターが環境や新生物まで作り出して、くじ引きで選ばれた戦士たちをそこに放り込んだことである。支配者は好き勝手にやれるわけだが、それでも戦士のなかに反逆の心をもったものがいれば、思わぬ波が起きる。支配者のイメージは明らかにナチスで、それらしき紋章さえ撮す。選ばれた戦士は、次々とヒットラーの手に落ちた諸国の戦士ということになるだろうか。最高権力者をドナルド・サザーランドがやっている。息の長い役者さんだ。ぼくは高校1年でM★A★S★Hを見ている。


108 キラーエリート(DL)
ステイサムである。脇がデニーロにクライブ・オウエンである。ステイサムのポジションが明らかに上がっている。デニーロはなぜこういう映画に出るのか、晩節を汚しているという気はないのか。といっても、結構、いい動きをするので、感心するのだが。オウエンはもっとどうにかなる役者だと思ったのに、生彩に欠ける。ステイサムが殺し屋稼業から足を洗おうとするが、先輩であるデニーロが中東の長老(シーア)に捕まり、それを助けるために長老の3人の息子を殺したイギリスのスパイをやっつける、という話である。あまり格闘シーンがないのが寂しい。そこそこ見ていられるのは、ステイサムのおかげである。また新作がやってくる。


109 カット、コップアウト(D)
「カット」は劇場で見逃したものだが、見逃してよかった。10分で沈没。映画の復権を、といわれてもなあ、である。「コップアウト」はブルース・ウイルス主演で見たが、どうもリズムが悪く見ていられない。