12年4月からの映画

kimgood2012-04-11

36 ヘルプ(T)
テイト・テイラー監督、作品はこれが2作目? 主演エマ・ストーン、不思議な魅力の女優さんである。その母親役が、アリソン・ジャネイ、ぼくは「ベティ・サイズ・モア」で見ている。脇というか準主役がビオラデイビスで、「ものすごくうるさく、信じられないほど近い」での彼女とまったく様子が違う(「ダウト」の時の様子に近い)。ヒール役にブライス・ダラス・ハワード、「マンダレイ」の彼女がこんな役をやるとは……。その母親役がシシー・スペイセクである。この母親が実に軽くていい。「キャリー」を演じた彼女も、もうお婆さんである(といっても28歳で高校生の役をやったそうだ)。もう一人忘れてならないのが、ジェシカ・ジャスティンという女優で、胸の大きなお馬鹿さん役だが、彼女を受け入れない上流婦人たちに比べれば、数段も上の人格である。人を差別しないし、疑わない。「ツリー・オブ・ライフ」に出ているらしいが、退屈映画だったので記憶にない。テレビドラマ「ER」「ホワイトハウス」のエグゼクティブ・プロデューサーらしい(公式サイトに書いてある)。アメリカ映画では、胸が大きいグラマラスな女性を、頭が弱いが心は清いといった描き方をする。それは1つの神話なのかもしれない。


南部ルイジアナ州、60年代の話で人種隔離法があって、白人黒人の交わりは禁じられている。しかし、黒人はメイドとして白人の子を育て、モラルを含めて母親替わりである。その彼女たちを、大人になった白人がまた差別をする──少なくともこの映画の主人公はそうではないが。公民権運動が激しさを増すなかで、23歳の女性がメイドたちの本音を引き出し、1冊の本にまとめる。もちろん彼女たちは白人の報復を怖れて、始めは口を開こうとはしない。しかし、白人による虐殺が起きて、彼女たちは秘かに立ち上がる。出版社は近々マーチン・ルーサー・キング牧師の街頭行進があるから、それに合わせて出版したい、と彼女に強く原稿の催促をする。保守的な町がこの本で大騒ぎとなるが、本の中に仕掛けられたあることで、メイドたちへの嫌がらせはそう大きなものにはならない。


主人公のどこかおっとりした性格とも相まって、劇的に人種問題を云々する映画ではない。どちらかというと、メイドという仕事の豊かな中身を知っただけでも儲けものという映画である。


37 ジャスティス(D)
韓国映画、10分で沈没。


38 談志ひとり会・第1巻(D)
近くのゲオの品揃えがおそろしく良くなった。シナトラのTVショーをまとめたDVDがあったり、淀長の解説だけを集めたものがあったり、新作で大川橋蔵錦之助の時代劇が並んでいたり、そしてこの竹書房の談志「ひとり会」である。第1巻が「寝床」「権兵衛狸」である。92年の語りである。


「寝床」は志ん生文楽圓生と演じ分ける。最後は、小僧が寝床を奪われたのを「マンションを買ってやる」となだめるのが圓蔵のオチらしい。浄瑠璃語りも新内もまったく区別がつかないぼくとしては、談志が羨ましい。いくつも粋な詞がつらつら出てくるのだから、羨望である。

「権兵衛狸」、枕に動物談義をするが、相変わらず意味がない。談志に論理的な話は無理である。狸が「権兵衛」と呼ぶときの仕草がかわいい。ドバイの空港で係の人間が、「ドバイ!ボンベイ!」と声低く言っていたのが、狸が権兵衛を呼ぶときの言い方になったと説明を加える。談志はメタ落語なのである。狸の頭をカミソリで当たるところは、自分でも芸が細かいと言いながら演じている。人工的な、田舎じみた言葉遣いをするが、まったく嫌みがない。


39 暖春(T)
中村登監督で、小津が遺した脚本を元にしているらしい。よくできた映画で、全体にとても懐かしい。人々の仕草、言葉遣い、気の遣いよう……昔、映画で親しんだあれもこれもが詰まっている。新文芸座岩下志麻特集である。初めて岩下志麻が美しいと思えた映画である。


岩下が小料理屋の娘で、母親が森光子、相変わらず芸達者である。この人は舞台よりもっと映画での出来を褒めるべき人ではないだろうか。駅前シリーズで見せた軽妙な演技が印象的である。山形勲有島一郎と岩下の父が大学の同窓で、芸者だった森のところに通い、同時に肉体関係が進行した。森が子どもができたと打ち明けて、一人喜んだ男が岩下の父となった。そのいきさつを岩下が知っている、という奇妙な設定になっている。生き残った2人は、まるで戦友の妻にでも会うように、時折、京都に顔を出す。


母親は一人娘が心配であれやこれや気を回すが、娘はそれが重荷でしょうがない。それで東京に出奔するが、結局は戻ってきて、通い詰めの呉服屋のぼんぼんである長門裕之と結婚する。この長門は脇に徹して臭みがない。


山形勲がしばらくぶりに訪ねてきて、岩下を連れて東京に戻るまでの一連の運びがすばらしい。中でも娘の気を引こうと胸の急病を仮病する森の演技が面白い。京都弁の巧みな話法にうっとりとする。有島一郎には料亭の女将水野久美という愛人がいて、そのことは岩下に簡単にバレる(水野久美がいつもの厚ぼったい感じがなくていい)。有島の妻は音羽信子で、有島いわく、これはこれで夫婦円満の秘訣なのだそうだ。かなり男の身勝手で出来上がった映画で、小津も所詮、そういう価値観だったのかと思う。


もしこれを小津が撮ったら、どういう映画になったろうか。結論は変わらないにしても、もっと緊張感のある映画になったろうか。TVのホームドラマにするには、やはり毒が多すぎる。


40 銭形平次(T)
テレビ版の映画凱旋といったところか。それにしても舟木一夫の主題歌が流れると、心が躍る。本人も白皙美麗な剣の達人として登場する。監督、山内鉄也。役者陣が言うことない。大川橋蔵、大友柳太郎、小池朝雄(昔のダチ公で、平次を殺せない悪党)、大辻伺郎(手下)、遠藤辰雄(十手持ち)、水野久美(恋人)、沢村宗之助(善人の商人。いつも悪党)、名和宏(役人で悪人。決まっていつも悪人)、原健策(お奉行。悪も善もやるが、どっちかというと悪顔)、河野秋武(水野の父親、鳶の親方)。楽しんでみているうちに終わってしまいました。元々は長谷川一夫先生の当たり芸。平次は親が十手持ちなのに、グレて牢屋に入るような奴。それが世話になっている鳶の親方が殺されて、十手の世界に入ることに。時代劇で江戸を舞台にしたものが多いのは、ほかの時代と比べて資料が豊富だからだそうだ。


41 談志ひとり会2(D)
文七元結(もっとい)」、賭け事の借金で首が回らない左官屋長兵衛、娘が身売りして金を工面しようとするが、駆け込んだ吉原の店の女将が50両を貸してくれる。帰り際に掛け取りの50両を無くして自殺しようとする手代にその50両を渡し、あとでそのお金が戻り、手代が勤める大店と親戚付き合いをするという話。枕の落語論はほぼ無意味。話もうまくない。


「堀之内」、おっちょこちょいがそれを直しに願掛けに行く話に過ぎないが、歩いているうちにどこへ行くのか忘れてしまうような主人公なので、全編これギャグだらけといった話で、出来もグッド。圓蔵の狂気はにせ物で、こっちがそれをやってみましょう、と枕を振って話を始める。短いが、こういう馬鹿話を作る人間の狂気が面白い。


42 昭和残侠伝[死んで貰います]
マキノ雅弘監督、70年の作で、ぼくはこの映画、初めてかもしれない。そんなはずがないのだが、初見の感じがする。よく出来た作品で、場面転換がスマートで、話が鮮やかに紹介される。まず夜の大きな屋敷を俯瞰で撮り、次が室内の賭場のシーン。健さんがハッチングを被って、薄汚れた顔をしている。壺振り(山本麟一)のいかさまに気付き変な顔をするが、それとは言わない。次が健さんの後ろ姿、それを追うやくざ。いかさまを見破るには命を賭けろ、と殴りつける。場面が変わって、大きな木の下に健さん、そこを大きな酒の徳利を抱えた少女、藤純子がが通り、健さんに気が付く。酒で傷を拭うといい、寝るところがなければ女将さんに交渉してあげる、と少女はかいがいしい。次が女将に健さんのことを必死に頼む藤純子、やっと承諾を得て、大きな木の下に戻るが健さんはもういない。さらに場面が飛んで、また賭場のシーン、今度はこざっぱりとした着流しの健さんが、またもいかさまを破り、壺振りの手を突き刺す(健さんのキャラクターとしては珍しいくらい激しく、インモラルである)。また絵が変わって、刑務所の面会室、中村竹弥と若い女。中村は親分らしく、女は健さんの妹。立派に勤めて早く帰ってこい、と健さんに言う。健さんはお金を藤純子に渡してくれと言づてる。次が藤純子と中村・妹が会うシーン、そして木場での喧嘩のシーンへと切り替わる。この間、20分もないだろう。見事なものである。


健さんが喜楽という料亭の息子役、父親が加藤嘉、その父親に拾われた元やくざが池辺良、盲目の義理の母親が荒木道子、木場の仕切りをしている池田組の親分が中村竹弥、刑務所で知り合ったチンピラが長門裕之である。藤純子が辰巳の売れっ子芸者で、実に美しい。健さんと夫婦になるというのは珍しいのではないだろうか。


健さんがムショに入っているときに関東大震災が起きる。長門はまだ外にいて実際を見聞したことを受刑者に話す。そのときに、荷物を持って逃げた人はその荷物に火が移って死んでしまった、と言う。これは吉村昭の「関東大震災」にも書かれていることである。ムショの人間は安全でよかった、とも言うが、それは間違いで、ムショ内の動揺が激しく受刑者を外に出した、という記述が同書にはある。


いつも思うのだが、長門裕之というのは得がたい役者である。軽くて、饒舌で、狂言回しだが、いざとなれば義理と人情で命を捨てることに躊躇はしない、というタイプをいつも演じる。悪人の役はどう見ても無理である。


43 ドライブ(T)
雰囲気のありそうな始まり方をする。最初に逃亡を助けるルールを説明するのは、「トランスポーター」のパクリである。ディテイルの積み上げもいいが、好きになった人妻の旦那がすぐにムショから出てくると分かってからは、急に緊張感が無くなってしまった。企んだ犯罪に齟齬が出てしまうのは、「その朝、午前7時58分」でやっていた。主演ライアン・ゴズリング、「ラースと、その彼女」の主役らしいが、記憶にない。女優がキャリー・マリガン、新作が来るらしい。この種のベビー・フェイスがハリウッドで増えている印象がある。


*のちにマリガンが小林信彦先生のお気に入りと知り、我が意を得たり、である。コーエン兄弟の新作があるらしい。早く見たい。
*同じ小林先生、この映画を今年上半期のベストに挙げている。


最初のシーン、警察のクルマを次から次と振り切って逃げるのだが、「ボーンアイデンティティ」などではハンドルとギアの切り換えと前方画面のショットの切り換えでスピード感を出すのだが、この映画、ゴズリングの目線一つでそれをやり遂げる。ほぼ手元を撮さない。これは新しい領域だと期待したのだが、興奮のカーチェースはここしかない。製作者の意図がまったく分からない。


44 アーティスト(T)
全編サイレントだとなぜ誰も言わないのか。いくつか評を読んでいるが、言及したものがない。映画自体、別に、という出来である。サイレントへのオマージュをなぜ今頃、と思う。淀長サイレント映画批評を聞いているほうが、どれだけためになることか。最後がタップで終わるのは、すごく嬉しい。こうでなくちゃぁね。


45 ヤング・アダルト(T)
シャリーズ・セロンが主演だが、さて、である。完全に心の病気の主人公が人に迷惑をかけるだけの話だが、最後にそれでもいいんだ、と終わるのはおかしい。見ている間も、終わってからも、妙に違和感の立つ映画である。この監督、ほんとは女性差別主義者なのではないか。


46 東京公園(D)
青山真治監督で、「サッド・バケーション」以来の作品らしい。『映画芸術』では高い評価を得ている。三浦春馬主演、客演榮倉奈々小西真奈美井川遥である。三浦の演技は、ときに緩慢で、どうかな、という感じである。ポカンとした表情をするときがあって、カメラがきちんと撮っているので、そういう演出なのだろうと思うが、妙な間なのである。それは最初の三浦と依頼人の歯医者との会話、三浦がアルバイトで勤めるスナックに榮倉が初めて顔を出すシーンの台詞も、なんだが調子が悪い。これは、映画のラストにもあって、三浦が依頼人と心を通わせるシーンの、彼の台詞が絵解き的で、主題を露わにしていて、気恥ずかしい。依頼人の述懐の言葉も作り物めいている。妻はアンモナイトの形に東京の公園を経巡っている、という解説は鼻白むばかり。それを三浦が指で虚空に描くと、白い輪が現れるのは「パルプフィクション」あるいは「オールドボーイ」の引用であろう。


榮倉と三浦が何気ない会話をするところは、得がたい味がある。榮倉は初めて見る女優だが、軽さと明るさがいい。血の繋がっていない三浦と小西のきょうだいが唇を合わせるシーンには、緊張感がある。髪をほどいた姉を「黒い姉」と呼ぶのはエロティックである。


榮倉の彼は自殺しているらしく、これが三浦だけに見える亡霊として家の中にいて、面白い演出になっている。ガス・ヴァン・サントの近作を彷彿とさせる設定である。最後にサッといなくなるのはグッドである。


この映画、台詞に難があって、押さえが利いていない。別に主題なんか、明確に表現する必要などまったくない。最大の問題は、子どもの頃から姉が好きだったと言う男が、人にいわれるまで、そんな素振りも、感情も見せたことがない、ということである。ご都合主義だなあ、という感想である。


47 淀川長治の語り1(D)
TV解説からサイレントを主に集めたもので、ほとんどぼくも見たことのない映画ばかり。科学評論家の村上陽一郎氏は映画好きだが、サイレントを語り付きで見ていないのがコンプレックスと書いている。それは時代のせいで仕方がないと思うが、分からないわけではない。淀長の解説を聞くほどにそう思う。


大監督セシルBデミルをハリウッドは三顧の礼をもって迎えたという。母親が劇場を持ち、本人もそこで演じていたらしい。監督料を100万ドル(1作?)とふっかければ映画会社も諦めるだろうと思ったら即決なのでびっくりしたらしい。デミルは「映画は娯楽」と言っていたらしい。早川雪洲で「刻印cheat」というのを撮っているらしく、雪洲の人気はバレンチノ以上で、女性の観客は化粧をして彼の映画を観に行ったほどだそうだ。たしか、背丈を高く見せるための台を“せっしゅう”と言ったはずである。その『刻印』で雪洲が借金の形に白人の背中に焼き印を押すシーンがあり、それが日本人らしくない、ということでこの映画は輸入されず、その後も主役級の俳優なのに、雪洲の名は日本で上がらなかったという。


ドイツ芸術のすごさを何度も称賛する。美男子ジョン・バリモアを中村鴈次郎に似ていると言う。イギリス映画は理屈ぽいので敬遠されたとも言っている。ヒッチコック玉子屋の息子で大の玉子嫌い、ゆえに卵焼きに燃えさしのタバコを突き立てるシーンが何かの映画にあるらしい。「つばさ」という映画の脇でゲーリー・クーパーが出ていて、それを評価したのは日本人が先だと淀長は言う。「幌馬車」は西部劇なのにロッキーの雪のシーンがある。これは『怒りの葡萄』と同じく西から東へと移動する話だそうだ。キング・ビダー監督が初めてトーキーで撮ったのが、オール黒人の「ハレルヤ」だそうだ。面白いのはキャロル・リードの「第三の男」を傑作、映画の教科書と呼ぶが、あまりにパーフェクトなので好きな映画ではない、と言っていることである。先の村上氏は、イギリスが世界に送った唯一のプレゼント、と呼んでいるのが皮肉である。


48 シャンプー(DL)
1975年の作で、監督ハル・アシュビー。「ウディガスリー」を撮っている。主演ウォーレン・ビーティ、女優がジュリー・クリステル(今でもいろいろ出ているようだ)、リー・グラント(ぼくは刑事コロンボで見ているのでは? とても印象の強い女優である)、ゴールデン・ホーン、男優がジャック・ウォーデン


ビーティがプロデュースで、共同脚本である。ヘアデザイナーのモテ男が言い寄られれば誰とも寝る。決して誰とも諍いを起こすつもりがないので(あるいは、自我がないので)、ゴマカシ、ゴマカシの毎日になる。それを描いただけの映画である。


ゴールディ・ホーンはひと頃よく出ていた女優さんで、ぼくはなぜ彼女が主役を張るのかがよく分からなかった。その後も、あのキャラクターはいないのではないだろうか。少なくとも喜劇ではないのだから。アメリカではセクシーという評価になるのかどうか。あと、ミア・ファローがぼくには不思議だった。アメリカの映画に彼女のような人が居場所があるということが。


金持ちで辣腕家で、それでいて人のいいジャック・ウォーデンがいい。全然二枚目と違う老年だが、なんだかモテそうな気配があるのである。偏見がなく、素直、小心、正直……その辺が秘密か? ある女性作家は、二枚目や美人ではないのになぜか異性を惹きつけるのを本能的な色気と表現をしていたが、それが匂うのである。


49 談志ひとり会3(D)
「らくだ」、熱が入って面白い。大家に酒の肴を無心に行くと、大家のセリフで前後がつながらないところがある。談志さん、何か間違ったんじゃないだろうか。客の反応が良く、それを受けて「皮膚感覚だけでやっていると孤立無援になるが、たまに本を書いてよかった」と述べる。ぼくは山田洋次監督で、この落語を題材にした映画を見ている。


「幽女買い」、冥界で遊女を買いに行く話。なんということもなし。談志も照れ隠しに「これだけの話で」と終わる。


50 昭和残侠伝・唐獅子仁義(D)
冒頭に池辺と健さんの一宿一飯の義理からの果たし合いがあり、池辺が腕を切り落とされる(その時点では腕に傷を負ったぐらいしか分からない)。数年経って、娑婆に出た健さん、組は敵に押し込められて、壊滅寸前。若親分を捜して名古屋へ。その途次、世話になった志村喬の組へ居候に。芸者の藤純子と出会うが、それが池辺の女。健さんは、やはり横暴な新興組に圧迫される志村の組を助けるために命を張る。どのヤクザ映画も新旧ヤクザの抗争が主で、オールドパワーが仕切る権益(この映画の場合、石切場の仕事の受注)をニューパワーが力づくで奪い取ろうとすることで抗争が勃発する。あくまで旧勢力は隠忍自重を旨とするが、健さんのようなはぐれ者が暴力沙汰一切を引き受けることで、本体には迷惑がかからないという仕組みになっている。おそらく東映任侠映画の人気の秘密は、このアウトローへの共感にあるのだろうと思う。割が合わない生き方だが美学があり、分かってくれる人は分かってくれるという信頼がある。


志村喬は黒澤が好んだ役者だが、黒澤はヤクザ映画を唾棄していたらしい。志村はどんな思いで任侠映画に出演していたのだろう。藤純子がいかにも芸者といったしゃべりで全編を通す。不自然ではないが、そんな女どこにいるんだろうと思う。


ラストの道行きの場面、健さんをこちら真横から撮って、少し進むとまた真横に映像を戻す作業を何度も繰り返す。これには驚いた。あと、殴り込みの場面、敵方親分を追い詰めるとき、それを守る一人が、健さんに何度か斬りつけられトンボを切るのも珍しい。マキノはやはりくせ者である。


道行きの場面がドキドキするのは、2人が合流したときに、主に健さんがひたっと相手の目を見据えるからである。力が籠もっている。でも、ドキドキするのは、それが日本的ではないからだ。ぼくらには視線をひたと据える習慣がない。任侠映画でもある種のスタイルができるまでは、この直視の作法はなかったのではないかと思われる。


51 我が母の記(T)★
原田真人監督で、「クライマーズハイ」でのあの見事な群衆捌きを思い出す。俯瞰で新聞社の編集局全体がそれぞれのミッションで蠢く様子が撮される。それもごく自然な撮り方なのである。打ち合わせが大変だったろうが。


この映画では作家井上靖の母の認知症の進化と、自らの母親に捨てられたという思いの昇華が、より糸のように合わさって進んでいく。時折、これはアドリブかなと思う演技が、樹木希林役所広司に見られる。たとえば、疲れて山道の脇に腰を下ろす樹木希林、そこに三女の宮崎あおいがやってきて、話しかける。ふと樹木希林が手を握り、冷たいねぇと言う。そのとき、宮崎が半拍遅れのように「お婆ちゃんも」と言う。台詞の流れから言って手を握る必然性がない。しかし、孫を愛するお婆ちゃんであれば、ごく自然な行為である。あるいは、樹木希林が沼津の海を見たい、と言い出し、見知らぬ運ちゃんにそこまで乗せて行ってもらう。宮崎が後を追い、役所も追う。見つかって、役所がふっと宮崎の頭を撫でるシーンがある。そのとき、宮崎が少し驚いたような表情を見せる。役所がアドリブをやったのではないかと思われる。


よくできた映画で、大船に乗ったつもりで楽しみながら見ていることができる。謎が一つあるので、それが通底音となり、ぴんと静かな緊張感が支配している。それに認知症によって人が様変わりしていくのは、やはり怖いことである。三人の娘のうち2番目が引きこもりがちなのだが、親への反抗心を育てることで自立へと向かうのも、劇を締めている大きな要素である。この3姉妹のハーモニーもいい。長女がミナミという役者、下が菊池亜希子。それに役所の2人の妹も兄を愛していて気持ちがいい。上の妹がキムラ緑子、下が南果歩。上の妹の亭主が、コント赤信号の一人小宮孝泰が演じていて、いやあ達者なものです。これはめっけものですね。役所の妻も力が抜けていていい。赤間麻理子という女優で、知らない役者だなぁと思ったら、本作が映画本格デビューだそうだ。


映像がとても美しい。作家の室内、食事どころ、湯ヶ島の家、ホテル、別荘、自然、舞台になるところが、どこもきれいに撮れている。光がきっちり物を隈取っている印象である。闇の中のろうそくや懐中電灯の明かりを撮すときも、それは変わらない。
小さな瑕疵をいえば、母が死んだという知らせをもらい、役所が大写しになって台詞を言うシーンだけ。それまでの撮し方からいえば、異法である。それに大した中身の台詞を言うわけでもない。


52 ランダム・ハーツ(DL)
刑事の妻と女性下院議員の夫が不倫、飛行機事故でそれが発覚。刑事は執拗に妻の行跡を追い、不実の証拠を探そうとする。当日の朝、妻から求めて朝に性交渉を持ったのは、夫をたぶらかす策略だったのか? 次第に刑事と議員は恋仲になり、そのことがばれて議員は上院選に落選、再起を目指す。刑事をハリソン・フォード、議員をクリスティン・スコット・トーマスで、安心して見ていられる。少し刑事の真相追究は異常な感もあるが、そこには深入りしないで話は進む。携帯電話がない時代の話らしく、まだるっこしいコミュニケーションの仕方をしていたものだとは思うが、2つの心が近づくには別に携帯などなくてもいいのは、この映画を見ていてよく分かる。刑事が議員をデートに誘ったときに、あなたの誘いを断れる女性なんているのかしら、などというセリフが吐かれる。ハリソン・フォードが「アメリカン・グラフティ」のときにどんな顔をしていたか、見せたいものである。


妻の遺体を探しに空港へ行くと、人でごった返しである。そのとき、どこかから「私は日本人で、一切英語が分からないの」という声が聞こえる。刑事も人々も誰も気にも留めないが、なんで日本語をわざわざと思う。


53 日本春歌考(T)
15分ほどで爆睡、しかし大島渚はバカが付くぐらい論理を丁寧に追う人だという印象は変わらない。


54 ミレニアム─火と戯れる女(D)
1と3を見て2を見逃していた。やはりフィンチャーよりこっちである。父親がソ連からの亡命スパイで、政治家や警官などに少女売春を働きかけ、その秘密を握ったことで絶大な力を持った、という設定である。大男の殺し屋が無痛症で痛みを感じない、というのはいかがなものか。そのモンスターが主人公の異母兄である。1作目で性交渉をもった雑誌ミレニアムの編集長とは、今回、一切顔を合わせない。奇妙な連続モノである。やはりノルウェーも天国ではなく、他国と同じく様々な闇を抱えていることが分かる。それだけでもめっけものの映画だと思う。1作目が持っていた異様な感じは、この映画からは感じられない。スケールも小さい。


55 絞殺魔(D)
ツタヤが名画シリーズのようなことを始めていて、その1枚。しばらく経って、見た映画だと気づいた。どこかの名画座で見たのかもしれない。監督リチャード・フライシャーミクロの決死圏、トラ!トラ!トラ!、ソイレント・グリーンを見ている。中でもソイレント・グリーンは傑作で、死を迎えたエドワードGロビンソンが巨大画面で眺める失われた地球の自然の風景は心に染みる。


すごい役者がふんだんに出ている映画である。ヘンリー・フォンダジョージ・ケネディトニー・カーチス、ほかに刑事役の何人かは名前は出てこないが、別の映画で大事な役をやっているような人たちだ。原題がThe Boston
Strangerというシリアルキラーもの(実話だそうだ)。はじめ元看護士という老婆が3人殺されるが、黒人の若い女が殺された後は人種も年齢層もバラバラ。


二重人格者の犯罪ということでいえば、『真実の行方』のエドワード・ノートンに指を折ることになろうが、68年の時点でトニー・カーチスが演じた意味は小さくないのではないか。それと、異常者を探ってボストンの町を虱潰しに警察は動き回るが、その過程で都市の暗部にいる同性愛者などがあぶり出され、かなりあけすけな台詞が交わされる。一例をいえば、金持ちのゲイは一時、レズの女性と付き合っていたことがあるが、女性のほうが男性役だったというようなことを言う。あるいは、女性のカバンを使って自慰に励む男が登場する。彼は神の罰を怖れる敬虔な信仰者でもある。あるいは、ボストンの女性の3分の2は、見知らぬ男性を部屋に入れた経験がある、と答えるという。68年という時代にあって、この映画はアメリカでどういう評価を得たものだったのだろうか。


小さな画面を同時進行で2つ、あるいは複数を表示する手法は、マックイーンの『華麗なる賭け』などでお馴染みである。この映画ではそれがとても利いている。部屋でアイロンをかける女性、玄関のブザーを押す謎の手、階段を上がる男、ドアに向かう女──といったような展開を同時に見るのである。


マーキュリー計画の宇宙飛行士のパレード、JFケネディの葬儀風景など、その時代の映像がテレビに流れる。テーマと絡んでくるわけではないが、ドキュメントな感じが伝わってくる。映画の調子は、いまの感覚でいえば耐えられないぐらい緩慢だが(ヒッチコックの爪の垢でも煎じて飲むべきである)、それはひとえにヘンリー・フォンダの古臭い演技によるものと思われる。しゃべり出しに強いアクセントを置き、一気に早口で話す話法は、昔の役者さんみんながやったやり方だ。ジョージ・ケネディを含めて他の役者はみんな普通のしゃべり方をしているので、余計に目立つ。それに、フォンダにはどうも華がない。


56 キスキスバンバン(D)
シェーン・ブラック監督で、「リーサルウエポン」の脚本家らしい。主演ダウニー・ジュニア、客演バル・キルマー、ミシェル・モナハン(MIのトムの妻役)。泥棒から俳優に転身するはずが、ハリウッドで殺人に巻き込まれることに。ジュニアとモナハンは同級生で、モナハンは誰とでも寝る女だったがジュニアとは何もなく、彼はずっと彼女に憧れていたという設定。ろくでもない映画だが、十分に面白い。キルマーにはゲイの疑いがあり、ちょっとしたことでジュニアとのキスシーンがある。「シャーロックホームズ」もそうだが、ジュニアにはどうしてゲイのほのめかしが多いのだろう。


頭のタイトルロールのところが墨色のスケッチ風のアニメで、これが洒落ている。期待が持てそうな映画の雰囲気がしてくる。06年の公開。


57 のるかそるか(D)
ツタヤが名作発掘シリーズを並べていて、そこから借り出した作品である。この映画、途中で見たことのある映画と気がついた。賭け事が人生のすべてのような男たちが屯する場内の酒場に、19歳と自称する、いかにも田舎娘といった感じの女がチンピラ風の彼氏と入ってくる。口を開くと歯の矯正をしている──それで前に見た映画だと気づいた次第。


リチャード・ドレファスがハイテンションで賭け事好きの男を演じる。女房がテリ・ガールで、これがしみじみとした中年女で、マギー・ギレンホールマリサ・トメイなどと同じ、人生の哀歓を感じさせる体の女優である。抜けた頭の友人がデビッド・ヨハンセンという役者で、この2人でこの映画は持っているようなものだ。いや、もう一人、高額馬券の窓口の男、名前は分からないが、この脇もいい。始めはドレファスを舐めていたが、次第に勝ちを積み上げてくると、伝説になる、と賞賛に変わる。


ドレファスはちょっとやり過ぎ。何の映画だったか、ごく最近、彼が老年のマフィア(?)を演じていて、最初は誰だか気づかなかったことがある。それが渋くて、うまいのである。息の長い役者人生になる人だなと思ったものである。89年の作。監督はジョー・ペティカというが、ぼくは知らない。


58 恋のゆくえ(D)
ジャズ映画で、兄弟であちこちと流れながら演奏する。弟は才能があり、兄はビジネスを担当する。前者がジェフ・ブリッジズ、後者がビュー・ブリッジ、彼らに加わる女性シンガーがミシェル・ファイファー。この女によって、自らの夢を搔き立てられ、弟は兄にコンビ解散を申し出る。ゆっくりした展開のいい映画である。監督スチーブ・クロウブス、音楽がデイブ・グルーシン、特別プロデューサーにシドニー・ポラックの名前がある。ブリッジズがファイファとベッドを友にするときもジャズが流れている。これも89年の作。


59 シンデレラ・リバティ(D)
73年の作、監督マーク・ライデル。ジェームス・カーンが酒場の娼婦的な女マーシャ・メイスンに惚れ、その黒人の息子や、やがて生まれてくる別の男の赤ん坊まで一緒に面倒見てしまおうという変わり者。海軍兵で、航海明けに陸地に戻ると、身体検査で“もうそう病"というお尻の病気持ちと分かり、謹慎処分に。夜も12時までには病院に帰らないといけないので、シンデレラ・リバティとなる。元上官のフォシェンを演じたエリ・ワラックが軽快で、人情味があってグッド。この人、確か悪役もできるはず。アメリカの誠実そのものの男をカーンが演じる。『ゴッドファーザー』の切れる兄貴を見ていた僕としては、幅のある役者さんなんだ、と思った記憶がある。これが3回目になるだろうか。


60 テキサスの5人の仲間(D)★
66年の作、監督テイルダー・クック、主演ヘンリー・フォンダ、その妻ジェイン・ウッドワード、脇が大地主ヘンリー・
ドラモンド、弁護士ケビン・マッカーシー、医者バーガス・メレディス。原題が a big hand for the little lady である。big と来たのでlittleと付けたのだろうが、決して妻は小さな体ではない。「ご婦人の大ばくち」みたいな意味だろうか。


霊柩車が2人の男を拾い、町にやってくる。一人は娘の結婚式の途中で抜け出した大地主、もう一人は死刑になるかもしれない男の弁護の途中で抜け出してきた弁護士。もみ上げの太い、目玉の大きな町の雑貨商(?)が時計を見て立ち上がる。酒場に集まる4人の男。葬儀屋、雑貨商、大地主、弁護士、この4人は1年に一度、大ばくちをするために酒場の奥の部屋へと集まってくる。町の話題はそれで持ちきりである。


すでに勝負が始まっているところへ、男の子ども1人を連れた実直そうな夫婦がやってくる。馬車を直すために一晩だけ宿を借りたいという。家族で小さな土地を買い、そこへ移住する途中に寄っただけである。妻が車の修繕に行った隙に、男はポーカーの仲間に入れてもらう。なけなしの3千ドルをつぎ込むが、まだ勝てない。やっといい札が来たというが、金が底をついた。金時計を買ってくれ、馬車を買ってくれ、と言うが、ほかの4人は首をタテに振らない。そこへ妻が戻り、押し問答をしているときに、夫が心臓で倒れる。医者を呼ぶが、夫は妻に「絶対の札だから続けてくれ」と言うのがやっと。医者は夫を自分の診療所へと担ぎ込む。妻は夫の気持ちを汲んでポーカーの続きを懇望する。しかし、誰も取り合わない。そこで妻は銀行へ行き、金を借りる、という。あろうことか、手札を見せて、それでお金を貸して欲しい、と頼み込む。いかにも実直そうな銀行家は、5人で何かを企んでいるのではないか、と本気にしない。5人が元の部屋に戻り、しばらくすると銀行家が戻ってきて、ありったけを貸す、と申し出る。金持ち4人は、これは負けだ、とゲームから降りる。女嫌いで独身を通してきた葬儀屋は、レディの手を取って口づける。雑貨商は、晴れやかな顔で「妻のいる家へ戻る」と言う。地主は婚礼の途中の家に戻り、金目当ての娘の婚約者に、真っ当な女を捜せ、と金まで渡して窓から逃げさせる。みんなそれぞれに、夫思いの、潔いレディに目を覚まさせられたのである。ところが……。


いかにも純朴だが、かつてはギャンブルに狂ったことのある男がフォンダの役どころである。ポーカーでレイズを繰り返しながら、汗だくだくで、手も震えている。カードを切るが、まったく様になっていない。ほかの4人がそれぞれに一癖も二癖もある感じなので、よけいにフォンダの気弱さ、一途さが際立ってくる。女房の尻に敷かれるダメ男というイメージも付いてくる。このフォンダンの演技は名演と言っていいのではないだろうか。遊び人でもいけないが、木訥一辺倒でもいけない。一度は博奕でいい夢を見たことがなければ、そんなに入れ込まない。あれもこれも突き混ぜた演技が必要なのである。


演出がしゃれている。妻が金を銀行に借りに行くシーン。女がカードを持ったまま部屋を出ようとするので、雑貨商が止める。置いていったら見られるに違いない、と女は言う。それで、弁護士が付いていくと手を挙げる。しかし、「残ったこの3人は安心だろうか」とも言う。で、次の場面では、俯瞰で酒場から5にんがぞろぞろ出てくるところを撮す。あるいは、ラスト近く、まず椅子に座る銀行家を撮す、部屋に入ってきた女が銀行家の禿頭に軽くキスをする。カメラは左に移動し、医者を撮す。その間もシャカシャカと札を数える音がしている。これはきっと途中で顔を出した銀行員が札を数えているのだろうと思うと、子どもの絵になる。そこへまたフォンダが入ってくる……このあたりの映画作法も洒落たものである。


マックイーンの「シンシナティ・キッド」、ニューマンの「ハスラー」など、ほぼ室内劇だけど賭が絡むと緊迫の映画ができる。あるいは、この映画は「スティング」に出来は近いかもしれない。あれだって、室内劇といえば室内劇みたいなものである。


61 フライド・グリーン・トマト
監督ジョン・アブネット、主演キャシー・ベイカー、メリー・スチュワート・マスターソン、ジェシカ・タンディ(ドライビング・ミス・ディジーの女主人である)。意外なめっけものの映画である。静かに始まり、やがてDVや人種問題にまで及んでいく。原題はa wthitle stop cafeで、小さな田舎駅のすぐそばにあるカフェが舞台である。現代と過去を往復させる手法だが、ぼくは過去だけで十分に面白いと思う。
現代の部分にキャシー・ベイカーが登場する。


ジーは男まさりの女の子、長じてもそれは変わらず。兄のバディは恋人ルースの風に飛んだ帽子を取ろうとして、レールに足を挟み、そこにやってきた列車に轢かれてしまう。何年後か、ルースが久しぶりにやってきてイジーとうち解ける。しかし、ルースはフランクという男と結婚し、疎遠になる。懐かしく訪ねるが、戸口で会話をしているときに、ふとルースが右に顔を向けると、左が痣になっている(この映像がちょっと怖い)。そこにフランクが降りてきて、言い合いになる。後日、イジーはルースと赤ん坊をフランクから奪い取る。そしてイジーとルースはカフェを始める。黒人もお客として歓迎する(ただし、室外だが)。浮浪者にも施しをする。やがてフランクはKKKの変装で数人の仲間を連れて、妻子を引き戻しにやってくる。誰かが彼を殺す。裁判で、牧師がウソの証言をしてくれたおかげでイジーと、その使用人の黒人は助かる。誰が彼を殺し、その後どうしたかも触れられるが、趣味のいい話ではない。ルースは癌で死に、カフェも閉じられる。


現代の話とパラレルに進むが、過去のほうが濃密な時間が流れ、映像もみずみずしいので、現代がぺらぺらに見える。あえてそうしているということなのだろうが、先にも書いたように過去の話だけで十分楽しめる。


ジーという女性の造型が自然で、しかも人種的な偏見を持たず、結婚などという世の常識から離れ、問題があれば自分で解決する、その姿勢は一貫している。豊かな自然のなかで淡い同性愛の匂いを香らせながら、そこには踏み込まず、淡々と女同士の友情の在り方を示した秀作である。この映画の噂も聞いたことがなかった、というのは信じられない話である。


62 マシンガン・パニック(D)
67年の作で、ウォルター・マッソーが腕こきの刑事役である。彼は『がんばれベアーズ』のあと、どういうわけか16年間映画を撮っていない。復帰が91年の『JFK』である。シリアスとコメディをこれほど柔軟に行き来した役者もいないのではないだろうか。この映画の原題は a laughing policeman で、それからして何かちぐはぐである。マッソーの喜劇にひっかけたのだだろうが、それはないよ、である。相棒が非番なのに誰かを尾行していたらしいが、バスの中で殺戮で死んでしまう。死骸の中に身元の分からないジャンキーが一人混じっていたが、これが意外なところへと結び付いていく。


謎解きのハラハラでいえば、地道な足で稼ぐ刑事なので、さしたる冴えはないが、マッソーの人生の苦さを凝縮したような顔と彼らが捜索ではい回るアンダーな世界の様子を見ているだけで映画は終わってしまう。映画の色の感じはマックイーン映画のような赤く焼けたような色をしている。


冒頭の虐殺後の現場検証のシーンだけで20分はあるのではないだろうか。証拠写真を写すと、それが白黒写真となって表示されるところなど、おしゃれだし、リアルな感じが出ている。死体を検死するシーンもリアル(検死官の顔を見て、この映画が再見であることに気付く)で、この映画がアメリカ映画の犯罪ものの中でどういう位置を占めるか分からないが、リアルに行こうとしているのがよく分かる。死んだ相棒の肩代わりをするのがブルース・ダーンで、これがマッソーがまじめなだけに、とぼけ役をやっている。


63 フラッシュ・バック(D)
89年の作で、監督ブランコ・アムリー、主演キーファ・サザーランド、デニス・ホッパー。ホッパーは60年代の反政府のヒーローで、どういうわけか80年代末に捕まってしまい、どこかへ護送されることに。その搬送をFBI捜査官サザーランドがやる。彼はアルコールはやらず、菜食主義者で、合理性を尊ぶ。方やノールといった感じのオヤジである。当然、堅物の若者がイカレオヤジに感化される話になるわけだが、この若者が実はヒッピー村を開いた両親の子ども。コークにバーガーにフットボールという普通の生活の仕方に憧れて、FBIの道に。名前まで変えている。しかし、やはりシクスティーズのオヤジを解放し、自分も自由の旅に出る。


始めお堅いサザーランドが次第にほぐれていく感じがいい。ホッパーはやり過ぎ館があるが、次第に人間味を表してグッドである。副大統領の列車切り離し事件は、実は俺がやったのではない、と唯一の神話も自ら否定するところなどに、それが現れている。ホッパーの昔の反戦テープを駅頭で流すと、人々がしみじみと聞き入る。愛する子どもたちを国家の名において戦場に刈り出していいのか──と。アメリカにシクスティーズを評価する、何かそういう底流があって作られたものなのかどうか分からない。


64 歓びを歌にのせて(D)
スウェーデン映画で、「ミレニアム」シリーズの編集長役の男が主役。マイケル・ニイビストとでも読むのか。田舎でいじめられた子が後に世界的に有名な指揮者に。しかし、過労から倒れ、何十年ぶりかで故郷へと戻ってくる。名前を変えているので、誰も気付かない。廃校となった小学校に住んで、気ままな生活を始めるが、教会に集まる数人のコーラスグループの面倒を見ているうちに恋、因習の抑圧、DV、メンバーの中での上下関係など様々なものに遭遇することに。そして、いよいよ大舞台というときに、どういうわけか自転車でナポリの町を走り、慌てて会場に戻ってきたが、息が切れてトイレで転倒し、頭をぶつける。会場ではメンバーがハーモニーを合わせているうちに大合唱に。それをトイレで横たわりながら静かに聞く男。


指揮者の恋人となる女性が、人々に天使の翼が見えると言うが、彼女こそまさにそういう人。小さな雑貨屋の片隅で泣いていたのに、老女が入ってくると、小咄をして笑わせてやろうとする。妻子持ちと知らずに恋し、実情を知って別れた後だったようだ。猜疑心いっぱいの牧師、信心深いふりをしながら最も欲に動かされているオールドミス、暴力でしか人の愛を確かめられない男など、歌を歌いだけの人々のまわりに邪悪なものが配置されて映画は進行する。ラストがアンハッピーにする必要などまったくないのに、惜しい映画である。それとオールドミスが歌のメンバーから外れたあと、何のフォローもなく復帰しているのは、解せない。


65 幸福への奇跡(T)
マット・デイモンがボーン・シリーズを降りた。理由は知らないが、ショーン・コネリー症候群だろうと思う。一つの役の臭いが着くのを嫌ったのだろう。しかし、トム・クルーズのような行き方もあるのである。


実話に基づいた映画で、愛妻が死んで半年、心機一転で家探し、それで見つけたのが動物園付き住宅である。従業員もおまけに付いてくる。その中にスカーレット・ヨハンセンがいる。魔性の女もこんな映画に出るようになったか、という感慨がある。といっても、アイアンマンでカンフーを披露していたから、驚くこともないか。


とてもウェルメイドで、ステレオタイプで、言うことがない。楽しいな、人生っていいな、と思えてくる。二人の子がすばらしく、下の女の子は末恐ろしいぐらい演技がうまい。上の男の子は美男で、憂いがあり、これは人気が出ること確実である。彼が14歳の設定で、彼が好きになる子が、いかにもアメリカの女の子という感じで13歳の設定。この女の子もきっと人気が出ることと思う。デイモンの兄の役を演った役者が面白く、これにもうちょっと女がらみのエピソードを絡ませれば、もっと味わい深い映画になったのではないか。


66 ザ・クラッカー(D)
マイケル・マン監督で、「インサイダー」「コラテラル」を撮っている。81年の作。テレビの刑事物「スタスキー&ハッチ」「マイアミバイス」で出てきた人らしい。イギリス人でリドリー・スコットなどと英国でTVドラマを撮っていたようだ。この映画は原題がThe Thiefとおとなしいが、実は大きくて難物の宝石入れ金庫だけを狙うのが主人公で、ジェームス・カーンである。マン監督にしても初期のもので、カーンもゴッド・ファーザーの切れやすい兄貴の雰囲気がある。


冒頭から盗みのシーンで迫力がある。誰にも従わない独立独歩の男が大きなヤマを当てて後は引退、というところで裏切りにはめられるが力強く敵をやっつける。それがラストで、十分に堪能した。この映画の前に「ファウル(ゴールデン・ホーン主演)」「セブンアップ(ロイシャイダー主演)」、どちらも途中でギブアップしているので、その違いって何かと考えざるをえない。そして、いつもの結論になるのだが、映画はリズムなのである。映像、そして言葉、行為、そして映像、言葉……その転換がスムーズに編集されていれば、たいていの映画は見ていられるのである。


たとえば、カーンがバーで女と待ち合わせるシーン。女が時計を見て、こめかみに血管が浮き出る。店は人でごった返し。店内から外に乗り付ける車を撮す。そこから出てきて、ドアに向かうカーン。人混みから撮っているので、絵が切れたりするが、それがまたいいのである。ドアが開いて、人をかき分け女へと進んで来るカーン、そして言い合いが始まる。この一連のシークエンスは、言うことがない。それぞれのシーンがそういうレベルで撮られているから、それは映画なのである。彼を何とか舎弟に取り込もうとする高齢のボス(ロバート・ブロスキー)が、一癖も二癖もありそうで、その演技の妙がまた映画の中へと我々を引きずり込む。顔はほとんどコメディの感じだが。


内容的に残念だと思うのは、復讐を思い立ったときに、あれほど愛した女に何も言わず、金だけ渡して追い出すシーンである。そうでもしないと女は逃げないし、そうなればに災厄がかかるということが前提なのだろうが、意外と細やかな愛情の交わし合いをしていた二人にしては、設定がドライすぎる感じがする。どこそこで待ってろ、でいいのではないか。


67 冬の嵐(D)
アーサー・ペン監督、もちろん「俺たちに明日はない」の監督である。同作と「奇跡の人」「アリスの恋」でアカデミー賞を取っている。あと「ミズーリブレイク」「ターゲット」あたりを見ている。この映画の原題はDead of Winhterで「冬の死体」で、全編吹きすさぶ雪の中の邸宅が舞台である。空のロッカーの天井に張り付けられた鍵を取り、それで貸金庫を開け、金の入ったバッグを持ち出し、雪の中を走る車。女が乗っていて、あるパーキングで電話を掛け、車に戻ると絞殺され、指を1本落とされる……。最初、駅のパーキングだろうか、そこにLend a hand と書かれた大きな看板が映される。女が車でタバコを吸うシーンも、わざと手をハンドルの上に載せて、いらいらする指を映したり、執拗に強調する。もっとスマートなやり方はないのかね、と思ってしまう。


一人三役をやるのがマリー・スティーンバーゲン、ドクター・ルイスをジャン・ルーブス、秘書役をロディ・マクドォール、この人はちょっと狂気の入った感じが似合う。登場人物はほぼこの3人で室内劇と言っていいだろう。室内劇の演出をやってみたいという欲望はよく分かる。室内劇大全みたいなものがあれば、どういう作品があるか見てみたいものである。ぼくは精神病棟を革命の舞台にした映画が最初の室内劇の記憶かもしれない。「12人の怒れる男」などはやはり傑作であろう。


この映画、どうも調子がおかしい。というか、色の感じがテレビ映画っぽいのである。安上がりな感じがする。それがかなり興を削ぐ。スティーンバーゲンの失踪を心配する夫が生彩がなく、その部屋も安物じみている。低予算は仕方ないとしても、大監督でこのしょぼい感じは解せない。


68 怒れる12人の男(D)
これはテレビ用に作られたもので、ぼくは見るのは2回目。元々はテレビドラマ(1954年)で、それを映画化したのがヘンリー・フォンダ主演のもの。この作は97年で、最初のテレビドラマの脚本を使い(脚本レジナルド・ローズ)、監督ウイリアム・フリードキン、ジャック・レモンがフォンダの役、リー・Jコップをジョージ・C・スコットがやっている。法廷の天井で回る扇風機を見つめる青年、その映像からスタートし、裁判官の陪審員への説明が続く、本件は情状酌量はない、全員一致なら無罪か死刑である、と。


原題にあるangryだが、12人の中で怒らないのが3人いる。レモン、そして有罪説を最後まで理知的に説くアーミン・ミューラー・スタール、残りが広告屋である。広告屋は主義主張のない男なので、怒りとも無縁のようだ。あとは大なり小なり怒るが、とくに2人の人間が強度が強い。一人は息子を厳しく育てたのに、殴られたうえ早くに家出をされたスコット、そしてイララム風の帽子を被った男。非常に似た思想の持ち主同士で、ああいう無法な輩を放っておいたらダメになる、と主張する。スコットは37人の社員がいる会社の社長、これを極めて早い段階で披露する。もう一人も自営業者らしいが、経営がうまくいっていないので、早くこんな茶番なんかすませて帰りたい、といったことを言う。


不思議なのはこのイスラム男である。アメリカの保守の男とまったく同じ論理を展開し、周りの誰も不思議とも思っていない。いまはアメリカとイスラムは天敵のように思いがちだが、もともとアメリカはアルカイダを支援し、イランを除けばアラブの国々とも友好的な関係を保っていたのである。湾岸戦争サウジアラビアに米軍が常駐したことが、変化のきっかけと言われる。それにしてもこのテレビドラマが放映されたのが97年、すでに反イスラムの風は十分に吹いていたはずだが。


12人のうち、黒人が2名、1人は今でもスラムに住んでいると言い、半袖のTシャツを着ている。もう1人はワイシャツで、高校のフットボールのコーチだという。明らかに言葉がこなれていない移民(中東?)が1人、そして先のイスラムが1人、あとは白人。といっても、野球観戦に行きたくてしょうがない男が、イタリアっぽい。白人のなかにリタイアした老人が一人いて、重要な発見をいくつかする。理性的な人間の代表レモンの職業は建築家ということになっている。有罪派の理性者の職業は分からないが三揃えを着て、みんな汗だくなのに背広を脱がない。いくらアングリーになっても、議論を動かすのは理性のある者だというのが、このドラマの太い骨になっている。


怒り、それを鎮め、次の課題を出し、それを反駁し、また怒り、なだめ、次の理解へと進んでいく。このヘーゲル的な展開がつねに繰り返され、not guilty派が次第に数を増していく。その何度も繰り返される投票がカタルシスの役割を果たしている。


青年は法廷の論議を見る限り真っ黒guiltyである。それがシロにまで至る。それはダイナミックな構図であり、それを支える細部は謎解きが一杯だから、エキサイティングである。人種、職業、その人物の背景、それらから選択されたキャスティング。いくつか映画の教科書とされるものがあるが、これがその1つであることは疑いようがない。


69 運命の逆転(D)
ジェレミー・アイアン、グレン・グロースが貴族の夫婦、大学の先生で弁護士がロン・シルバーという人。ショーン・コネリーの映画でもあったが、大学の先生という一定収入のある仕事に就きながら、人権派の弁護士として活躍するということがアメリカにはあるらしい。ジェレミー・アイアンは男の色気を感じさせる役者で、かつてダーク・ボガードにもそういうものがあった。この映画はアイアンのために作られたようなものだ。何しろグロースはベッドで寝てばかりいる役なのだから。


アイアンの声が意外と太いのに驚いた。グロースは植物人間になって、意識だけは鮮明という役である。アイアンはその昏睡に陥った事件の首謀者として1審は有罪で、2審のためにユダヤ人の弁護士、それが先のロン・シルバーである。彼は優秀な学生や元妻の弁護士などを集め、合宿スタイルで短期間でアイアン無罪を勝ち取る戦略・戦術を考え出す。決定的だったのは、事件後すぐに聴取した検事のメモがでたらめだったこと、メイドの証言に思い違いがあったことである。しかし、無罪ではあるものの、妙な苦さを残す意図が明白で、アイアンの新愛人が品のない女で、それを侍らせて自分が雇った弁護士に向き合う様子などから、最後までアイアンのうさん臭さは払拭されない。不思議な味わいの映画で、佳品である。冒頭のシーンなど、空撮で切り立った海岸沿いにあるイギリス風の邸宅を撮していくところなど、荘重な音楽と相まって、なかなかの味わいである。


70 アメイジングスパイダーマン(T)
見なければ良かった。週刊文春のいつもの評者の点数が良く、期待したのだが、ぼくは前の作品のほうが好みである。今回の主役は、どうも生臭い感じがする。わざわざモンスターになって活躍する必要なんてなさそう。これからトータル・リコールなどリメイクがやってくるが、やはり見ないほうが良さそうだ。12月に来る007が楽しみ。


71 ゴールデン・スランバー(D)

監督中村義洋で主演が堺雅人、ぼくはこの人のにやけ顔が苦手である。客演柄本明竹内結子香川照之伊藤四郎などで豪華。仙台市が舞台で首相テロが起きる。その全体を警察が仕組んでいるという設定だが、それがなんのためなのかは明確に示されない。オープンカーで立ち上がって沿道の市民に応える、といった映像があるが、こんなのどこの国の話かと思う。それに、結局、中枢部で誰がそのテロを決断したかは触れられない。幹事長が首相の跡を襲うので、類推からいけばその線、という含みはあるが。テロのTV録画放送で分かるのだが、首相が官僚批判を声を張り上げて繰り広げている。野党なら分かるが、これは解せない。あと、いくつか不自然なところがあるが、面倒なので触れない(主人公の昔の運送仲間がなぜ、彼を警察に密告し、しかも偽装で彼を逃がそうとするのか、など)。


仙台が舞台で、多少は仙台弁的なニュアンスを出していたのは吉岡秀隆だけである。この男は確か東京から戻ってきた設定である。地の人間が一切仙台弁の匂いさえ出さないというのは、どうしてなのか。ぼくは駅前、町の風景、懐かしく眺めた。ああ、この路地はあそこだな、などと楽しむことができた。


ぼくはゴールデン・スランバーは、黄金のハンマー、ぐらいの意味かと思っていたが、「黄金のまどろみ」だそうだ。歌の調子が激しいので、そう思っていたのかもしれない。それにしても、同じサークルに属する大学の友人たちがすべてポール・マッカトニーのファンという設定は共感を覚える。ぼくはレノンは、ビートルズ解散後に名を上げた人だと思うのだ。それは、ハリスンも同じなのだが。


よく仕掛けの利いた映画で、どれも不自然が感じがしない。キラオという殺人鬼が出てくるが、設定が超現実的なので、反って違和感がない。いわゆる、奇人・奇形のキッチュの類である。このキャラクターで、この映画は決まったのではないか。役者は濱田岳と言い、見た目は石橋正二に似ていて、背が低く、舌足らずに話す。「ロボジー」に出ていたらしい。彼を整形した医者の密告で、主人公の整形ダミーの居所が分かり、先にキラオが所見し、あとで堺を迎える。敵はそれを察知し、にせ物をベッドに寝かせておいたらしく、キラオはそいつを殺し、そいつはキラオを撃ったらしい。すべてその場のシチュエーションをキラオがしゃべり終わったところで、彼が壁に沿って腰を下ろす。尻の下あたりから血がフワ−ッと流れ出す──このあたりの演出がいい。あと意外なのは、永島敏行が怪力の悪党役を演じていることだ。「探偵はバーにいる」の高島正伸級の驚きである。
音楽が斎藤和義という人で、これがパンクでいい。主題歌はCDを買いたくなる出来だ。


最後のシーンが円環構造で冒頭シーンに戻るのだが、主人公が整形していたという設定はなくもがな、である。興が冷める。


72 ダークシャドー(T)
初めての経験──違う映画を見てしまった。ほんとは「ダークナイトライジング」だったのに、予告編にそれがあったので何事か、と思っていたら、「ダークシャドー」の予告編が始まった。要約っぽい始まりなので、そのまま気づかず、「ダークナイト」に切り替わるのを楽しみにしていたのだが、本編が始まっていたのである。何という!


こういう機会でもなければ見ない映画なので、そういう意味では良かったのかもしれない。ミシェル・ファイファーは老けているが、前からその手の顔なので驚かない。「キックアス」の女の子が成熟度を増している。「アダムスファミリー」の女の子が「ブァッファロー66」に出ていて、感慨を新たにしたことがあったが、それと似た気持ちである(アダムスファミリーは予告編しか見ていない)。


いろいろな仕掛けがあって、楽しめるようになっている。彼が電子ピアノの上にかぶさって嘆くシーン。体が動く度に違った音色が聞こえる。あるいは、200年の眠りから覚めたらそこは1972年、まず舗装道路に驚き、煌々と闇を照らして近づいて悪魔の手先(車)、メフィストフェレスのいる館にはMの巨大なマーク(実はマクドナルド)、小さな人間が入っている箱(テレビ)に驚くといったお決まりの演出がある。流れる音楽はカーペンターだったりする。アリス・クーパーがお城のパーティで歌い上げるおまけあり。


傑作なのは、ラストシーン。岩場に打ち付ける波、主人公が死せる恋人をひっしと抱きしめる時、ほぼモノクロの世界で、かつての吸血鬼映画へのオマージュとなっている。美しいシーンである。


いわゆるバンパイアものだが、どうしてこうもアメリカ人は好きなのだろう。監督ティム・バートンで、ジョニー・デップのコンビである。小林信彦先生だったか、こんな映画を撮ってないで、うら寂れたギャング映画でも撮ってほしい、と言っている。半ば同感だが、デップにはこういう奇矯な映画に出たがる癖があるとしか思えない。


73 フィッシュストーリー(D)★
また伊坂幸太郎原作である。監督は「ゴールデンスランバー」の中村義洋で、役者もかなりダブっている。主題歌に斎藤和義が関わり、音楽は菊池幸夫という人が担当。いい映画である。


タイトルは「ほら話」の意味らしい。ほら話が広がって、最後は地球に激突間近の彗星爆破に至る。セックスピストルズのデビュー2年前に日本に伝説のパンクバンドがあり、彼らの売れないレコードの3枚目、これが商業ベースではラストになるアルバムの華は「フィッシュストーリー」という曲。それを後の人が聴き、「正義の人」を生み出す経緯に、この話の妙がある。眠り癖のある少女が、彗星爆破の大業のあと眠りこける設定には感心する。主演は濱田岳ということになるのだろうか。バンドのリーダーが伊藤淳史、ボーカルは高良健吾で、後者が本当に歌っているとすれば、実に見事な歌唱である。彼は「まほろ駅前」でちょい役のチンピラをやっていたが、それだけでぐっと人を惹き付ける魅力がある。眠り姫は多部未華子、シージャックをやっつける正義の味方、実は濱田岳の息子を森山未來が演じている。これもなかなかいい役である。地球を救う宇宙船がインド製というのは、何を物語るのか。


ぼくは「クラッシュ」をいい映画だと思っている。しかし、こっちのほうがどれだけレベルが高いかと思う。円環構造と、別々の話が最後に一つに結ばれていくという構図は一緒であるが、この映画のほうが遊びが多く、映画を見る人間の理解度を信頼する度においてレベルが高い。


74 縮図(D)
進藤兼人監督、主演乙羽信子、その父親が宇野重吉、母親が北林谷栄、旦那になるのが山村聡、次が進藤英太郎。3度目の置屋のおかみが山田五十鈴、同僚に奈良岡朋子いるのが見える(気を付けないと分からない)。口入れ屋が殿山泰司で、この人、ほかでもこの役をやっていないか。


冒頭、初めて置屋に行くのに急かされて用意をするシーン、乙羽を斜め上から撮る。髪を直すのに腕を上げると、脇毛が見える。このあたりは、昔は当たり前だったのかどうか。全体に斜め上からの構図が多く、それも部屋の外から中を覗くのが多い。乙羽にはそばかすがあり、芸者のときは隠しているが、家に帰れば素顔をさらす。


風俗的にいくつか気の付いたことを。最初の置屋のオヤジが藤原鎌足で、言うことをきかない乙羽を簀巻きにするが、助けに来た靴直しのオヤジが財産をはたいて我が子を請け出す。佃島のしがない男が全財産とはいえ、娘を請け出すことができる、というのが興味を引かれるところである。


結核にかかって死ぬ妹が最後に言うのが、姉と一緒に食べた屋台の焼き鳥のことである。屋台の暖簾には「酒」とも書かれているので、焼き鶏を食べて酒を飲ませたのだろう。おでんで屋台というのも、最近はとんと見かけなくなったが。


佃島から花街に行くのに、船を使っている。母親は巣鴨のとげ抜き地蔵にお参りに行ったりしている。母親の内職は傘張りから達磨の色入れ、人形の塗りと、その時々で変わっている。これはなぜなのか? 乙羽は芸者になりたくなくて、一度は靴直しの技術を習いに行ったことがある、と言うシーンがあるが、どこに習いに行ったものだろうか。


乙羽は喜々としてハチケンに興じる。ルールは分からないが、相手の手が空いたところに剣突くを喰わせれば勝ちか。ほかの映画でもよく見かけるお座敷遊びである。乙羽は東京から新潟に流れるが、そこで地元の大金持ちの若旦那の前で威勢のいいカッポレ(?)を踊るが、その動きがきびきびとして鮮やかである。東京の生きのいい女が流れてきた、という感じよく出ていて、若旦那が一瞬にして惚れる演出がよく分かる設定である。


新潟から東京に戻るのにまた同じ口入れ屋が話をつける。一度、糸口をつけた男が最後までその女の流転を支えるシステムなのか。これはほかの映画でも見た気がする。山田は、取り分は置屋が七、芸者が三だと言い、三味線と普段着と長襦袢は自分持ち、と言う。どっちにしろ大した稼ぎにはならないのだから、早く旦那を持ちな、と勧める。食事の量にも文句を言うどけちの女将だが、乙羽が死にそうになると、厚生証書(?)を破り、もうお前は自由だ、と家に戻ることを許す優しさがある。ところが、病が治ると、今回は費用がかかったから、調子が良くなったら戻っておくれ、と臆面もなく言いにやってくる。


小沢昭一先生の置屋探訪記などを読むと、芸者さんに客を選ぶ自由があったなど、自由があったような話が多いが、この映画はまったく逆で、紅灯の巷に沈潜する悲しみを描いている。こっちが本当なのか、あっちが嘘なのか。新藤兼人監督は進歩派なので、前者ということになるのだが。しかし、囚われの身の女を好きになって通うなど、歪んだ性意識がなさしめるものだ、という見解もある(確か和田芳恵の説=要確認)。


75 おくりびと(D)
共同脚本、小山薫堂。監督滝田洋一郎、主演本木雅弘、妻が広末涼子、脇が山崎努余貴美子など。全編、山形ロケらしい。最初の遺体を前にして「玄炭自殺」だと言うのはおかしいのではないだろうか。眼前に遺族がいるのだから。その遺体が、実は女装男性だという設定も、さて? という感じである。


長く発見されなかった遺体に接したあと、台所で昼間、妻にセックスを求めるシーンは、納得のいく設定である。しかし、胸の触り方など中途半端である。「いったい自分は何を試されているんだろう」と自問し、かつてプロを目指したチェロを持ち出して、河原を見下ろす道(これを日本語でひと言で何と言うのか)の上で弾くシーンがあるが、その流れが自然でいい。彼が弾いているように見えるが、さて?


あるシーンでは、時間に遅れて遺族の厳しい目にさらされるが、化粧を施すと雰囲気ががらっと変わる。妻は生涯でいちばん美しかった、と言う。遺体にキスする家族も現れる。家族で十分に看取ることができた時、人々の顔には喜びの表情さえ浮かぶというが、それはこの映画でもわかる。幼くして父が出奔した本木は、父を送ったあと、河原で妻と会話をする。これは小津へのオマージュではなかろうか。


76 オールドボーイ(D)
さてこれで何回めか。仕事をしながらサントラを聴いているうちに映画が見たくなった。いくくつかやはり気付くことがあったので。
前にも書いたが、娘ミドとの再会に辻褄の合わないことがあり、それはこの映画の決定的な瑕疵になる。


ミドが新聞記者になりすまして小さな美容院を訪ねる。そこはミドの家族が住んでいたマンションのすぐ近くらしい。そこの女主人は、ストックホルムからミドから電話があって、母親の消息を尋ねたという。夫、つまり彼女の父親に殺されたことを知らない様子だったと言う。韓国語も忘れている感じだったとも。そのミドが韓国語をぺらぺらとしゃべり、目の前にいる男を父親とも気付かない。彼女が幼少の頃に蒸発したにしても、父親がミドの名前に反応しないのがおかしい。では、ミドは仮名か? これは初見から付きまとう疑問である。


冒頭のタイトルロールの部分がやはりおしゃれ。最後の文字DとYがヨコになったときに、疑似監獄のドアの一番下に取り付けられた横長の小窓が映し出される。この連動がおしゃれである。あるいは、高校のホームページからそのまま昔の動画へと移るところもいい。主人公オ・デスが15年閉じこめられるビルの外壁には「海外留学センター」の看板が。こういう遊びが随所に盛り込まれている映画である。


77 陽気なギャングが世界を回す(D)
また伊坂幸一郎原作、監督前田哲。今回は音楽が大きなテーマになっていない。日本に珍しい明るい銀行強盗もので、それだけで気持ちがわくわくする。前半はすこぶる快調だが、2度目の強盗から生彩を欠いてしまうのが残念である。チームは4人で、リーダーを大沢たかお、脇を佐藤浩一、鈴木京香松田龍平で、佐藤を抜かせば概ね好演である。趣向が変わっているのは、ディスコの大音響で声が聞こえないという設定で、字幕が出るところである。ほかに松尾スズキが下手なギャグを3回ほどやる。古田新太が添え物的なのがちょっと残念。


78 重力ピエロ
またまた伊坂幸太郎である。監督森淳一、主演加瀬亮岡田将生、客演鈴木京香、小日向文生、渡辺篤郎。連続放火犯の見当が途中でつくので、かなり緊張感は落ちる。それと「最強の家族」だとか「楽しく生きていれば地球の重力なんか消してしまえる」などという大仰な言葉にはヘキヘキである。人を殺した弟に「おまえ以上にそのことを真剣に考えられるやつはいない」から、警察に出頭しなくていい、とする兄貴の論理もいい加減である。この映画には音楽が絡んでこない。ガンジーの非暴力の限界がいわれるが、さして目新しい視点ではない。


79 寅さん相合い傘
これで5度目くらいか。前にも触れたことも含めて、ちょっと気付いたことを。

1 渥美の生の表情が見られるのが2カ所。どちらも呆れたような感じを見せるために、上唇をすぼめて、頬を下げる。一緒に旅をする船越英二が「小樽に初恋の人がいる」と言ったときに、「初恋だってよ」と言いながら、その表情をする。もう1つは、リリー(浅丘るり子)と軽い諍いになり、「お前は夢のない女だね」に「夢じゃ食えないからね」とリリーが返した時に、渥美が先の表情をした途端、ぷっとリリーが噴き出す。すぐに場面転換するので後の演技はないが、あれはアドリブだろうと思う。


2 船越が持ってきたメロンで大騒動が起きるが、最後近くの場面ではスイカが出てくる。庶民はスイカで仲良く、といったところか。


3 リリーの好意を受けない寅にサクラが「どうして」と迫る暗い2階のシーン。「あいつは頭のいい、しっかりした女だ。お互い、たまたま傷ついた羽を休めているだけで、治ればまた羽ばたくのよ」と透徹した哲学を披露する。前にも書いたが、これだけの思想に達した男が、なんでまたバカな色恋沙汰に邁進するのか。寅の覚めた哲学からすれば、それは、叶わないと分かっているからこそやる遊びのようなもの考えるしかない。


80 アヒルと鴨のコインロッカー(D)
またまたまた伊坂幸太郎、監督中村義洋、主演濱田岳瑛太で、やたらブータンの話が出てくる。ディランの「風に吹かれて」が引き合いに出される。冒頭のシーンが車の中、これは「ゴールデンスランバー」で見た手口、瑛太が謎の男だが、これは「重力ピエロ」で岡田将生が演じた弟と通い合う。ということで、新しさがないのと、ストーリーがダルなので、途中で脱落。


81 断崖に立つ男(T)★
主演から脇からどこかで見た二流俳優という布陣だが、話は抜群に面白い。古い高層ホテルの外の狭い庇(?)に一人の男が立っている。群衆が決定的な場面を見たくて集まってくる。実はその群衆を利用しながら、あることを遂行しようとているのである。自分が無実の人間である証明を。手に汗握るという言葉があるが、足裏が汗でびっしょりになった。怖くて足許がヒューヒューした。


彼は女性の交渉人を名指しする。彼女は実績のあるプロだが、前回の事件で自殺を止められなかったことを後悔している。彼女を選んだ理由は、仕事に熱心なことと、不正と分かれば上司、組織にも逆らう意志を持っていることである。最後に、ホテルのボーイが死んだはずの父親だとか、そこまでやる必要はないのでは? という種明かしがあるが、とすれば群衆をある方向へ動かす黒衣的な役割をしたヒッピー風の初老の男こそ仕込みだったと明かすべきではないだろうか。群衆を主人公贔屓にする大きな役割を担っているからだ。主演サム・ワシントン、助演エリザベス・バンクス、悪党をエド・ハリス。ハリスは痩せ形で、背も小さい。よほどの迫力で演じないと大物の感じが出てこない。監督アスガー・レス。初の長編映画らしい。


82 ミッドナイト・イン・パリ(T)
ウッディ・アレンにしてはアメリカで興行成績が良かった映画のようだ。彼は本国よりフランスなどで人気だとインタビュー本で答えている。この映画は婚約者とその両親と一緒にパリに物見遊山に行った主人公が、ふとしたことから1920年代にタイムスリップし、ヘミングウエィやガートルドスタインなどと出会う話である。言ってみれば、それだけの映画である。


主人公がダリと出会うシーンでは観衆から失笑が洩れた。エイドリアン・ブロディがよく似ていることもあるが、もうミミックはいい加減にしてね、の気分になるからである。そこにブニュエルマン・レイが同席するが、主人公がブニュエルに映画のネタを提供する。これは後にブニュエルが撮ることになる映画の題材なのだろうが、ぼくには何の映画か分からない。そういうくすぐりがこの映画はあちこちとあるのだろうと思う。中にちらっとシェイクスピア書店が顔を出すが、こういうところもそのくすぐりの一つかもしれない。


主人公はオーウェンウイルソンで、ウエス・アンダーソン・ファミリーで、エイドリアンもその一人。MIゴーストプロコルで魅力的な女スパイを演じたリー・セイドクスが出ていて、最後、婚約を解消した主人公と雨の中の散歩をする。彼女は古雑貨屋に勤めていて、主人公がコール・ポーターのレコードを気に入って買っていくのが最初の出会いである。ポーターは20年代のシーンでは小さなピアノを弾いて、小粋な歌を歌っている。彼はミュージカルで数々の名曲を残した人物として知っているだけだだ、アメリカ人にとっては掛け替えのない財産なのだろうと思う。スタインを演じたのがキャシー・ベイツ、感じが出ている。


83 明日がある限り(T)
豊田四郎特集でシパトス。香川京子佐野周二が夫婦で、子どもが池内淳子山崎努、星由里子。星が長じるにつれて盲目になり、そのせいで兄、姉の結婚がうまくいかないが、本人はバイオリンの道を諦め、マッサージ師の道に。しかも、恋人を作り、家を出て行くという。香川が熱情型の母親を演じ、佐野がそれを理性をもって抑えるという構図。しかし、二人は周囲の反対を押し切って結婚した過去を持っている。なんやかやありながら愛し合う夫婦である。


外連味のない演出で、ユーモアも忘れない。なにか日本映画の伝統のような出来である。こういう映画を見ると、小津が描いたものが、かなり異種なものであることが分かる。家の体裁をとっているが、すでに瓦解が始まっている、あるいはその予感に支配されている。だから、ピンと張った緊張感があるのである。


84 私を離さないで(D)★
カズオ・イシグロ原作、映画を見終わったあと書棚を見ると、翻訳本を買ってあった。この映画は原作がいいのだろうと思う。主演キャリー・マリガン、客演ナタリー・ポートマンである。意外性が最後まで引き続く。というのは、その理由が明確には明かされないし、理不尽なことに反抗する者は誰もいないからである。そういう意味では、絶望の深さは並大抵ではない、ということになるのだろうか。イギリス寄宿舎ものの系譜に入る。


85 甘い汁(T)★
豊田四郎特集である。始まってすぐに前に見た映画と気付いた。京マチ子(梅子)の体当たり映画である。佐田啓二も悪役で、意外感に溢れている。室生犀星「兄と妹」の映画に、母親が娘に言う言葉に「お前もすごい女におなりだねぇ」というのがあるが、それに似た「あんたもすごい人になったのね」という梅子のセリフがある。


京の娘の竹子が桑野みゆきで、どういうのだか、ここに登場する若者は発音はっきりの、正義派と感じの人間ばかり。それがほかの自堕落な大人との対比になるのだが、やはり作り物っぽい。全体がリアリティを追った映画だから、余計にそう感じる。


よくぞまあ女の生態をここまでねっちり撮ったものだと思う。冒頭、小沢昭一が汚い裏小路を水たまりよけながらやってきて、ぷかりと浮かんでいる風船にタバコの火を点ける。明るい下界から店の中に入ると、あえぎ声が聞こえる。何かと思ってみると、女が抱き合っている。と思う間に喧嘩が始まる。小さな店の中を転げ回り、一人の女が喉を絞めようとしたところで、小沢が止めに入る。この間、5分以上はある。


あと、梅子の住まう長屋のシーン、狭い2間に母親、兄夫婦、その赤ん坊、弟、娘が住んでいる。梅子が飲んで帰った朝のシーン。いちばん手前で母親の沢村貞子がぶつぶつ言いながら、朝食の準備をし、向こう奥の部屋では兄嫁が梅子の文句を並べ、それに梅子が反駁する。兄嫁も手前の台所に来て、何かをやりながらものを言う。そういうやりとりが延々、10分は続くのだが、ノーカットで撮っている。


原作・脚本水木洋子である。小沢は梅子に旦那を紹介するが、ヒモになる当てが外れ、梅子の素性を旦那にバラしたらしく、梅子が契約解除されたあと、一切姿を撮されない。それに兄嫁の兄で行商人が長屋に身を寄せ、竹子に手を出そうとして失敗するが、その後、何日も泊まっている設定になっているが、まったく姿を撮さない。それでも違和感がないから、すごい。映画では、人物の出し入れも大事な要素である。


この映画、傑作であろう。


86 プロメテウス(T)
今年、最大の楽しみの作品だったが、駄作である。リドリー・スコット監督で「人間」の始原を探る旅だが、自己模倣に終わっている。人類を作った宇宙人が棲む惑星へと向かうが、すでにそこはエイリアンの巣となっている。その宇宙人はほかから移ってきたらしい。映像も、話も既視感が強い。


87 TVシリーズMONK(D)
妻を殺された元警部は強迫神経症、その彼が警察のコンサルタントとして事件を解決に導くシリーズで、「メンタリスト」や「ライ・トー・ミー」などのプロトタイプということができる。しかし、これも「コロンボ」あたりに発想の元があるのではないかと思う。人間的には社会性に欠ける刑事が、いざ事件となると天才的な働きをする。最初に犯人が分かり、あとでそれを解き明かすというスタイルも一緒である。かなりはまっている。


88 17歳の肖像(D)
キャリー・マリガン主演、見ているのが辛く、半ばで断念。少女専門に狙う中年男は、実は違法すれすれの仕事をしているらしい。そこに取り込まれていくのが悲しく、見ていることができない。娘にオクスフォードに行かせようと必死になるアンダーミドル層らしき父親。ここが少し面白かった。女性は同大を出て、何の道に進むというのか。学校で、彼女にかなり年上の彼氏ができたことを、かなりあけっぴろげに同級生が披露する。それも、厳格そうな担任の先生にまで言うところが、不思議である。先の中年男は父親など簡単に手玉に取ってしまう。何かそういうところが、ものすごく嫌なのである。


89 鶴八鶴次郎(T)
山田五十鈴特集である。この人は姿がきれいだが、声がいい。いかにも日本風の顔だが、化粧をすればバタ臭くも見える。横のオバサンが、この人はほんとは女優はやりたくなかったのよね、と男に話しかけている。そんなアホな。芸のことしか考えていなかった人なのに。


この映画は、成瀬巳喜雄が再生のきっかけを掴んだといわれるもので、確かにいいものを見たという気がする。長谷川一夫が初めて色男に見えた。少しワイルドが入っていて、顔もふっくらしている。その話し方には少し幼稚さみたいなものが混じって、なかなか快感である。ラストの場面、鶴八が堅気から元の芸人に戻ろうとするのを、あえて喧嘩をふっかけて仲間分かれにして、飲み屋の場面。手代みたいな藤原釜足を相手にグラスで日本酒を飲み干したところでジ・エンドである。その切れ味の鋭さは、ただものではない。


新内語りとは、こんなにいいものかと思う。聴いている客が、みんなその辺のおじちゃん、おばちゃんだというのが、すごい。これが文楽、歌舞伎になると、客層が明らかに違う。彼らのほかに寄席には娘浄瑠璃に手妻使い、人形遣いなども出ている。そういう芸が見られるだけでも、この映画、おすすめである。


90 ニッポンの嘘(T)
福島菊次郎という写真家のドキュメントである。もういい加減な歳なので、話していることがよく聞こえない。フガフガしているのである。広島、水俣三里塚を追った写真が挟まれる。彼の反体制の姿勢は立派だと思う。今度の福島にも出かけて、しばらく止めていた写真を撮っている(この止めていた、というところがいい)。しかし、広島の被爆にしても、民衆の側に差別がなかったのか。水俣にもそれはあるだろう。三里塚は分からない。政治の嘘は明らかにあったわけだが、では我々一般人の中に罪はなかったのか。そう考えさせられる映画だった。


91 イン・ザ・カット(D)

小林信彦先生が褒めていたことがあって記憶に残っていた映画である。確か公開当時は悪評さくさくだったような……。メグ・ライアンが脱いだからといって見に行くほど酔狂ではない。2003年作で、彼女は42歳である。もうシンデレラガールはやれないということだろう。あとは、母親役か何かで脇に回るのだが、彼女のプライドが許すかどうか。ダイアン・レインは見事復活したと言えるのではないか。サンドラ・ブロックのようにコメディに行く方法のあるが、すでに彼女は母親役をやっている。そういう意味では、メリル・ストリープというのは稀有な女優ということになる。


冒頭のシーンが美しい。花吹雪が舞い、白黒のスケート場の映像が挟まれる。それをベッドの中でまどろみながらメグが見ている、という始まり方である。中身はシリアル・キラーもので、意外な人物が犯人ということなのだが、思わせぶりにケビン・スペイシーが使われるのが悲しい。もっと本格的な悪で使ってほしい。メグには街の言葉を収集する趣味があるらしく(仕事は英語教師)、いつも乗る地下鉄には詩が印刷された広告(?)ポスターが張られていて、その詩を彼女は毎回、口に乗せる。ある時には、英詩の脇に日本語の訳が印刷されていたりする。これは日本のフアンへのサービスなのか。


いくつかユーモアが仕込まれていて、彼女のアパートメントの入り口階段の脇にショップのけばけばしい灯りが見えるが、それはPhychic Readerと読める。彼女は授業でバージニア・ウルフのto the Lighthouse を課題に使うが、映画のラストが灯台である。ここのシーンはもっと怖く撮ってほしかった。


刑事仲間が腕首に同じ入れ墨をしていることが隠された仕掛けなのだが、それについては繰り返し彼女は、バーの地下で見た、と言っている以上、勘のいい刑事は勘を働かせるべきである。


92 談志ひとり会6
「ザ・まくらスペシャトーク」と銘打たれている。あんまりつまんないので途中で止めに。