11年5月以降の映画

kimgood2011-05-03

53 綴り方教室(T)
山本嘉次郎監督、主演高峰秀子。38年の作で、高峰が24年生まれだから14歳の作品。ほんとに達者である。しゃべり方の平板な感じはそのままである。実にゆったり撮られていて、次の「馬」ともども悠揚迫らずといった進行である。ドロマツルギーを愛した黒澤が山本組で、肩書きは主任となっている。助監督のことだろう。


先生は滝沢修で、作文は見たままを書け、と教える。秀子はそれに忠実に従う。父親に仕事を斡旋してくれる人のことを、近所のおばちゃんが言った言葉だとはいえ、けちんぼうと書いたのが、先生が「赤い鳥」に投稿し入選したことで、当人に知られることに。先生は、綴り方といえど、社会と繋がっていると実感したと洩らす。ちょっと間抜けな感じである。


小さなエピソードの積み重ねだが、いつお金が途絶えて一家が転落するかもしれないという怖さがあるので、ずっと太い幹は通っているのである。秀子を芸者に出す話までしている。最後は父親が定職を見つけたので、大事には至らないが。


高峰は『渡世日記』に黒澤に振られた話、ある監督の思いものだったこと、初めての生理のことなど、実にあけすけに書いている。守銭奴で倫理観の欠如した養母が彼女の人生を決定したようだ。幼いときから10数人の親戚を養わなければならなかった人生など、想像もできない。


54 馬(T)
山本嘉次郎監督、41年の作、高峰が17歳である。親の言うことを聞かない一途な子を演じて過不足ない。この映画も淡々と進み、最後は苦労して育てた馬を軍用馬として競りで売ることに。420円まで値が上がってそこで止まるかと思ったら、軍の人間が550円を付ける。これで秀子は紡績工場で働かなくてもよくなった。


ほとんど室内劇と言っていい。場面転換で、秀子が居間の隅で頭を垂れていたり、田んぼを花嫁行列が進んだり、ほとんど波風の立たない演出だが、小さな起伏をいくつも用意してある。これで映画ができる、という見本のようなもので、ぼくは木下恵介にその種が蒔かれたと思う。


子馬を借金のせいで売ってしまったとき、秀子は紡績工場に勤めるから子馬を取り戻してほしいと頼む。すると両親はじめ祖母も、体を壊すなどと言って反対する。ほかの家の子はほとんど工場勤めをしているというのに。この映画は、冒頭に東条英機の訓辞が出るような戦意昂揚映画のはずだが、中身はそうなっていない。一応、軍馬を育てるということで採算が合っているのだろうが、41年というのは意外とのんびりしていたのかもしれない。


高峰は小津の「宗像姉妹」(50年)に出た26歳に、以降、「ドンパチ、エロ、グロには出ない」と決めたそうである。50年以降はほとんど成瀬か木下作品しか出ていない。あとは豊田四郎(雁、恍惚の人)と小林正樹(この広い空のどこかに、人間の条件)が2本、夫松山善三が2本(名もなく貧しく美しく、われ一粒の麦なれど)、あと1本が野村芳太郎(張込み)、稲垣浩(無法松)、五所平之助(煙突の見える場所)である。


55 わらの犬(D)
ペキンパーで71年の作品、これで3度目か。今回がいちばん身に染みて見ることができた。天文数学とかいう専門の研究者がダスティ・ホフマン、その妻がスーザン・ジョージ。妻の田舎(アイルランドか? ものの本(『アメリカ・ニューシネマ名作全史』田山力哉)によればイギリスのコーンウェル州)にアメリカから転居したのは、妻によれば戦いを避けたから、という。その中身は触れられない。妻はノーブラにセーターで過ごし、家の修理に雇った村の青年3人にセクシーな様子を見せる。車から降りようとしてストッキングの伝線に気づき、スカートをたくし上げ、パンティを見せる。あるいは、2階の開いた窓を上半身裸で通る(スーザン・ジョージは後年、とんと姿を見なくなった女優である。そんなことを言い出せば、キャンディス・バーゲンだって、キャサリン・ロスだって見かけなくなった)。


妻が可愛がっていた猫が見あたらず、夫がクローゼットを開けると、死んで吊されているのが見つかる。男達がやったに違いないと主張する妻、問い詰めようとしない夫。ようやく切り出そうとするが、狩りに誘われ、言い出せない。実は狩りは口実で、彼が見張り番をしているうちに、2人の男が妻を犯す。妻は最初だけは抵抗するが、快感も覚える。


男達の父親ヘイドンは飲んだくれ。いつも息子たちとパブにたむろする。そこの常連の男の弟が精神薄弱で、周りからは性的に危険だと言われる。ホフマンを誘う若い女はホフマンにその気がないと分かると、その弟を誘い、納屋に。キスを教え、胸を触らせる。しかし、娘の親や息子が騒ぎ出し、報復が恐くて、慌ててその女を首を絞めて殺してしまう。


自動車で彼をはねたホフマンは、彼を家に連れて行く。男共は取り返しにホフマンを襲う。ホフマンは熱い湯をかけたり、壁にかけてあった古臭いバネ仕掛けの罠を使ったり、結局、男共をすべてやっつける。ほっとしたとき、完全に参っていなかった男が彼を襲うが、妻にそいつを殺させる。この間、一度もホフマンは銃を使わない。彼は非暴力を唱える人間で、それはそれで理屈は通っている。汗で濡れて視界のない眼鏡を拭こうともしない。ふつふつと身内に溢れる暴力の快感を彼は感じているようだ。


最後に、精神薄弱者を乗せて車を運転するホフマン、相手が「帰る家がない」と言うと、にやっと笑って「ぼくもさ」と答える。その笑いが、「卒業」のラストとダブる。これはペキンパーのサービスであろう。


この作品の5年後に「タクシドライバー」が封切られる。「わらの犬」ではまだ都市と田舎という設定や、銃は使わない、といった縛りがある。しかし、「タクシードライバー」のトラビスはベトナムを経験した都市の人間である。正義を施すと言いながら、やっていることはめちゃくちゃである。しかも、最後には彼は英雄扱いになる。「わらの犬」がおとなしく、牧歌的にさえ見える。しかし、トラビスもまだ正義とかいうものに囚われているのは確かで、都市で生きること自体が戦場と同じである、といった黒人層やほかのマイノリティの存在を描くようになれば、トラビスさえ古臭くおとなしく見える。とくに「シティ・オブ・ゴッド」を見たときの衝撃よ。


56 盗聴作戦(D)
シドニー・ルメット監督、主演ショーン・コネリー、音楽クインシー・ジョーンズ。ムショを出た泥棒がまた大きな仕事をしようと仲間を集め、資金をマフィアから借りる。そのマフィアはいまは実業家のように振る舞っているが、この話が持ち込まれて、やくざな血が騒ぎ、資金を提供する。そのあたりの演出が面白い。


仲間の一人、ゲイを演じるのがマーティン・バルサムで、これも味があっていい。キッズと呼ばれるのが、一緒にムショを出た若者で、なんとクリストファー・ウォーケンが演じる。


仕事は最後には失敗するのだが、テーマは“監視”。主演のコネリーが動くたびに映像、音が盗まれる。最後、これだけ網を張りながら犯罪予防ができなかったことがバレると大変なので、あわてて消去をすることに(FBI?)。狙いがそっちにあるものだから、泥棒が不首尾で終わることも含めて、もう一つスキッとしない。設定はかなり面白いし、途中からは泥棒の進行と、被害者の後日談を交互に撮すやり方に切り替わり、これがなかなか見せる。71年の作品である。


57 「英国王のスピーチ」(T)
監督トム・フーパーコリン・ファース主演、客演ジェオフレイ・ラッシュ(ライオネルという役柄)。アカデミー賞作品賞である。吃音の王室の次男が、兄の離婚妻との結婚で王位に就くことに。そのスピーチ矯正に雇われるのがオーストラリア人、しかもドクターの資格を持たない男。彼は戦場で心に疵を負い、吃音になる兵士を何人も救ったことがあり、いまもロンドンで吃音の子どもたちを治している。


5歳のときに左利きを右に直され、X脚を矯正機で真っ直ぐされ、父親からは「我を恐れよ」と強制され、彼は吃音に。心理的な要因が大きいことを明らかにする。それは当時にあって異端の学説だったようである。ライオネルは殿下が「ドクター」と呼ぼうとすると、名前で呼んでくれ、と要求する。相手の名もあだ名で呼びたい、と申し出る。対等な関係でなければ、スムーズな発話ができない、とする。


ヒトラーはイギリスに「制海権は英国のものだ」というサインを出し続け、英国首相チェンバレンはその言葉に惑わされ、ヒトラーの野望に気づくのが遅かったといわれる(児島襄『ヒトラーの戦い』より)。兄から王座を譲られたときに、チェンバレンが辞意を伝え、次を襲ったのがチャーチルである。彼は、開戦のスピーチを行う王に、私も吃音に悩んだことがあるが、克服したと応援する。


心が通じ合うほどに王はパーソナルな話を洩らす。召使いの女に兄ともども性の手ほどきをされたこと、乳母にいじめられ胃が悪くなったこと、それに両親が気づくのに5年もかかったことなど、意外な話が披露される。この種のネタは、どこから外部に漏れるものなのか。まさかライオネルが何かに書いたのか。それは医者の倫理に反することではないか。それにしても日本の皇室からは一切その種のことが漏れ出てこない。


開戦の言葉を述べにBBCが用意した部屋に向かい、そこで国民に話しかける間、ずっと鳴っている音楽はさて何だっけ。バッハではなかったかと思うが。サークルを描きながら、少しずつ音階が上昇していく感じが、王のスピーチの上達に相まって抜群の選曲である。


58 オリエント急行殺人事件(D)
シドニー・ルメット監督である。豪華キャストだが、ポアロアルバート・フィニーである。最近のポアロを見慣れているので、アクが強すぎる。というか、演技の方針が間違っているのではないか。


ルメットを職人監督というらしい。それに、ハリウッドが好まないテーマを取り上げ、しかも撮り続けることができた希有な例であるという。メジャーな俳優に支持されたからだというが本当か。


役者陣ではバネッサ・レッデオグローブが美しい。あえて地味役を選んだイングリッド・バーグマンがしたたかである。ほんとに目立たない。この映画は女優人が立派で、男優はコネリーも含めて添え花である。


59 デス・トラップ(D)
やはりシドニー・ルメット監督、主演マイケル・ケイン、客演クリストファー・リーブ、ダイアン・キャノンである。室内劇で、いくつかのドンデン返しがある。落ち目の脚本家が弟子の秀作を盗もうとして事件が起きる。全体に演出があざとい感じで、胃もたれがする。


60 226(DL)
五社英雄監督、脚本笠松和夫、89年の作。見なければよかった。ほぼ10分ほどで後は早回し。劇がない、あるいは劇を作る気がない。


61 ツォツイ(D)
イギリスと南アフリカの合作、2005年作、ギャヴィン・フッド監督。民族音楽的な曲とラップが全体を覆う。金持ちから赤ん坊を盗み情が移ったチンピラの話。最後は返しに行く。現地語と英語が混ざるが、これはふつうのことなのか。落ち着いた、いい映画である。しかし、すでにしてハリウッドの影響が大である。


62 ナチス、偽りの楽園(T)
ナチスの裏面をドキュメンタリーフィルムと再現フィルムで繋げて描いている。原題はPrisoner of Paradiseで、こっちのほうが的確である。


主人公のゲロンは太っちょで背も高い喜劇俳優で、歌い手でもある彼がユダヤ人で、ナチが政権を握り、仕事を干され、パリへ、アムステルダムへと仕事を求めて移動する。ブレヒトやディートリッヒと仕事をしたこともあり、ドイツでは監督もやっていた。アメリカに逃げた連中からは、早く来い、と催促を受けるが、彼は時機を逸してしまう。


とうとう、テレージェンシュタットというユダヤ人の芸術家を集めた収容所に送られる。もちろん一般の人が圧倒的なのだが、ここは旧貴族の別荘を利用した建物で、そこで芝居、演奏会、講演などが繰り広げられる。ナチスユダヤ人対策に疑問をもつ国が多く、代表して赤十字から視察官が一人でやってくる。それも27歳である。彼はナチが用意した表の顔だけ見て帰っていき、ナチに好意的なレポートを作成する。その彼が収容所長に言い残したのは、合唱団のメンバーをいつも一緒にいさせろ、である。所長はその言葉を守り、全員一緒に移送し、処刑する。


ゲロンの前に一人、対外宣伝用フィルム制作を任された人間は、ウソの映像にがまんならず悲惨な映像を挟んだことでゲッペルスの憤激を買い、夫婦共々別の収容所へ移送される(ユダヤ人は移送は死に直結すると恐れたという)。ゲロンは喜々として記録映画を作るが、やはり収容所の暗い面に気づかないわけがない。それが暗い影として映り込んだのか、彼の作品が劇場公開されることはなかったという。


ゲロンは自分には功績があるから移送はないと思っていたらしいが、最後の11番貨車で移され、到着地ですぐに処刑。彼を裏切り者と呼ぶ同胞もいれば、あれはしかたがなかったと擁護する同胞もいる。映画が好きで、歌も人気で、ひたすらその世界で遊んでいたかった男が、最後に撮った作品さえ公開してもらえない、という悲劇。


よくできたドキュメントである。既存のフィルムを繋げてここまでできる、というのが凄い。マイケル・ムーア、どうだ、である。


63 必殺仕掛け人 梅安蟻地獄(DL)
なんで蟻地獄なのか分からない。侍から不正商人(ろうそくを扱う)になったのが佐藤慶で、その弟が小池朝雄、医者で女好きで、過去に人妻を身籠ませて江戸に逃走。それを追うのが娘で、苦界に身を落としている、病弱でもある。それを助太刀するのが林与一。もちろん梅安は緒方拳で、動きも表情もピキピキして、本当にいい役者である。エッチなシーンがたくさん挟まれているが、湯屋で男女混浴、女が裸でうろうろしていても男は誰も視線を動かさない。幕末に日本にやってきた外国人は、日本の風呂に入ってみたが、目のやり場に困ったという(渡辺京二『逝きし世の面影』)。セクシュアリティとは何かを示唆する例ではないだろうか。性的対象には民族差、あるいは国別差がありそう。性的対象は宗教による禁忌と関連があるのではないか(日本人は性を豊穣の源と考えた。その証拠は現代でもそこらじゅうにある)。


元締めが山村聡で、貫禄がある。女優陣がいま一つで、一人頑張っているのが松尾嘉代である。秋野太作、前の名前は何と言ったか忘れたが、彼が若い。寅さん映画でも弟分として出ていたが、途中からいなくなった。何があったのでしょう。73年の作、トランペットを吹き鳴らす闘牛のような主題歌は平尾正晃作曲、なんで時代劇に?


64 クレイマー、クレイマー(D)
79年の作、監督ロバート・ベントン、ぼくは数年前に『白いカラス』を見ている。ほかに数作品あるが、社会的な視点のある監督なので、そういう味付けのされた作品ではなかろうか。ぼくはタイトルの「クレイマー」は呼びかけだと思っていたが、原題はCramer vs.Cramerである。「クレイマー対クレイマー」で夫婦二人の裁判のことを指しているのかもしれない。それにしても、ただvs.を取ってしまってタイトルにするとは、ふざけたことをするものである。第一、「クレイマー、クレイマー」ってどんな意味なのか。


結婚8年の妻が突然、離婚を言い出す。夫には突然だが、妻は結婚1年目にして違和を感じていたという。もともとはデザイナーで、夫のもとを去ってカリフォルニアで仕事に就き、3万1千ドルの報酬を貰うようになる。夫は重役候補だが、3万3千ドルである。5歳の子どもの世話で仕事に身が入らず、首になり、裁判で無職は不利になるからと押し込み入社した会社では2万8千ドル、50万円のダウンなので、裁判のときは妻より収入が低い。なんだか、よく分からない。8年もブランクがあって3万1千、一方、バリバリに働いて、出世が目前の夫が3万3千では、辻褄が合わないのでは?


ホフマンが最初に主夫として作るのがフレンチトーストなるもの。卵にミルクをかき回し、フライパンに薄切りパンを入れ、そこに卵をかけるというもの。朝食にドーナツを食べるシーンもある。夕食を子どもが頑として食べず、冷蔵庫からアイスを出してきて食べ始めようとするシーンもある。きつく叱り、あとで慰めるときに、昔語りになり、「お父さんの小さいときはテレビもなかったし、ファーストフードもなかった」と言うのがおかしい。年代的にはクレイマーは団塊の世代あたりだろうか。


この作品は30年以上も前のもの、今頃になってイクメンなどと騒いでいるのに愕然とさせられる。それだけ新しい映画だったのか、あるいは世の中の進化がやっと追いついたのか。いずれにしろ、最後に母親が裁判で勝った親権を夫に譲るところは、いまだにアメリカにおいても新鮮な結末ではないだろうか。蛇足だが、ダスティン・ホフマンが新鮮である。メリル・ストリープもおきれい。泣き出すと鼻の頭が赤くなる。


65 ローズ(D)
未見だと思って借りたが、見た映画だった。ベッド・ミドラージャニス・ジョップリンを演じる。酒に溺れ、身勝手なふるまいが多いので、彼女のまわりから人が去っていく。脱走してカントリー歌手の専属ドライバーをしている軍曹と知り合い、細身の優男に見えるが、喧嘩も強く、彼女はその男らしさに惚れるが、結局は破局に。勝手気ままに生きて、それを是としている人間と付き合うのは難しい。最後、故郷に錦を飾るが、男が去ったあとの傷心もあって、コンサート会場に行き着けない。自分が通ったハイスクールのフットボール練習場の脇の公衆電話から、ぶちまけた小銭を使って電話するシーンは、孤独感が深い。つい彼女も、せっかく止めていた痲薬に手を出してしまう。コンサートに遅れて着いて、2曲目で後ろに卒倒する。彼女が何を求めていたのかが分からない。彼女自身もまた知らなかったのではないだろうか。


66 ショージとタカオ(T)
ドキュメントで20年近く回したフィルムを編集したもの。茨城県布川(ふかわ)町で大工で、人にカネを貸してもいた男が殺され、当時、チンピラとして悪さを重ねていた2人が捕まる。物的証拠がまったくなく、自白が唯一の証拠といっていい事件である。そこらじゅう室内を物色しているのに指紋も少ない。目撃証言もあるが、灯りのほとんどない田舎の夜闇をバイクで通り過ぎて、人物の視認ができるのか。被害者の下着で首を絞めようとするが、小さすぎて適わず、手で絞殺、というのが自白だが、のちにやっと検察が提出した下着は扼殺に有り余るほどの大きさがある。しかも、当日、二人にはアリバイがあるのだが、検察は相手にしない。事件当夜に二人が泊まったというショージの兄がそれを否定しているからである。しかし、当日、兄が勤めているバーに寄ったことを、そのときのママは今になっても覚えている。警察は予断があって、細かく調べなかったのか、あるいは握りつぶしたのか。


ふつう無期懲役であれば、20年もあれば出てくるらしい。それが29年、彼らは獄中にいた。それは判決を不服として抗告し、さらに再審も求めたからだという。やってなくても罪を認めたほうが、刑期は軽い、というのは痴漢罪で捕まったときの警察、検察の手口と同じである。


取り調べの可視化がいわれるが、この映画を見ると、弁護側がいくら証拠の開示を求めても検察側に応じる義務がない、ということが最大の司法の問題ではないかという気がした(同事件を扱った佐野洋『檻の中の詩』では、「代用監獄」と「自白調書」の在り方を問題にしている)。


二人とも仮釈放になってから、しばらくして結婚をし、タカオは子どもまでできる。兄の住んでいたアパートのあとに立った建物を見ながら、ここで人生が別れたんだ、とタカオが感慨を洩らすところが印象が深い。それと、2回目の再審開始請求が高裁でどう判決されるかというときに、二人は同じことを言う。家庭があり、支援者がいて、弁護人もいる、そういう状態のままでいいんじゃないか、と。次の審判が出れば、いまの生活が壊れてしまうのではないか、と。このへんの心理は当事者でないと分からない。

*検察が控訴を止めたので、彼らの無罪が確定した。


67 接吻(D)
評判の高い小池栄子の映画ということで見た。世間から疎外されてきた男(豊悦)が見ず知らずの一家3人を金槌で殺す。ぶらぶらと金槌を持ったまま、こぎれいな家の玄関のノブに手をかけ、開かないと次に移り、2件目で凶行に及ぶ。盗んだカードでカネを下ろすときに、わざと防犯カメラに顔をさらし、警察にも電話を入れる。河川脇の公園のベンチに座る男、そこにボールを追って小さな子が近づき、腰を曲げ頭を下げる。男は金槌を高く掲げ、打ち下ろす構えをするが、実行しない。このシーンが不気味である。


男は逮捕時に、妙な笑いを笑う。そのニュースに惹き付けられ、裁判通いを始める女、それが小池栄子。これも、職場で仲間にさえいいように使われるOLである。やがて二人は獄中結婚する。最後に小池は弁護士まで殺してしまう。世間に虐げられたから人を殺すということが、この映画では肯定されている。


この女をもっと異常な女として描くべきである。それを普通の女として描くから映画が弱くなっているのである。世間に疎まれた、では動機が弱すぎるからである。それよりは、人を殺しても痛みを感じないほうがつらい、と言う豊悦の人物造型のほうが納得できる。殺人のあと、キッチンテーブルに3人の死体を座らせ、豊悦がハッピーバースデーを歌うところもすごい(あとで小池も同じ歌を豊悦の誕生日に歌うが)。あとで夢でうなされるところもリアリティがある。


小池に関しては可も不可もなしだが、監督の演出過多がある。逮捕時の豊悦と同じ、世の中を突き放したような笑いの表情を、マスコミに二人の結婚がばれて、小池が取材陣に追いかけられるときにさせる。そんな必要などどこにあるというのか。豊悦が控訴を決めたときに、あなたは死にたくなくなったのか、同じ戦いを戦わないのか、と小池に言わせるが、これもやり過ぎだろう。ここらあたりでパソコンのスイッチを切ろうと思ったが、結末に何かありそうな気配があったので、最後まで見てしまった。もっとふつうの感じの小池を見てみたい。


68 丘(D)
またルメットで、初期の作品である。主演がショーン・コネリーで、戦場で上官に逆らった罪で収容所に送られてくる。同時にやってきた4人も何らかの罪を負っていて、コネリーと相部屋になる。副所長が実権を握り、何かあるとすぐに収容所の中央に盛られた砂の「丘」の昇り降りをさせてしごく。部下の一人が「丘」を罰に使い過ぎて、1人が死亡。そこから、収容所の秩序にヒビが入り始める。


それなりに見ていることができるが、ほぼ3分の2あたりか、囚人が仲間の死に抗議して騒ぎ出すところから迷走、何の映画を撮っているのか分からない状態になっていく。相変わらずのルメットの尻切れトンボ癖である。ストーイリー・テイリングの巧みなあのワイルダーにもそういうしょうむない終わり方をする作品があるが、ルメットは率が高いのでは。


69 パーマネント野バラ(D)
吉田大八監督で、「腑抜けども」でサトエリを起用した監督が、今度は小池栄子を起用している。この監督、こんなに上手かったのか! 小池がいい。「接吻」など比較にならない。あとは、はちゃめちゃに狂うような、自分の地でしかやれない芝居を観てみたい。


この映画、傑作である。西原恵理子の原作がいいのだろうが、映画は別物である。人物像もくっきりしているし、風景もきれい(小池の狂った父親が電柱をチェンソーで切ると、闇に火花が散って美しい)、ロケーションもいい(駅の表示が一瞬、有田と読める)、仕掛けもスマートで、言うことなし。そうかあのセリフはこの展開があったからか、という発見がいくつもある。それにしても、まともな人物や、まともに幸せな人間がだれも出てこない。


菅野美穂が主演でなおちゃん、小池栄子がその幼児からの友達でみっちゃん、もう一人の親友がともちゃんで池脇千鶴。菅野は離婚し、小池と池脇は男に逃げられるが、池脇がいちばん悲惨。みんな暴力男ばかりで、一人だけまともだと思った男が、賭け事狂い(借金の取り立てから山中に逃げ、餓死)。その池脇が実は菅野の保護者的な位置にいるのが、この映画のすごさだ。菅野がふにゃふにゃとした、実に頼りないしゃべり方をするが、これは演技なのか。ほかの彼女の作品を見たことがないので、よく分からないが、誰かこういう演技をしていたのがいたなあ、と思いながら思い出せない。しかし、その浮ついた感じは、役柄にぴったりだと、ラストになって分かる。

長門裕之が死んだ。新聞の見出しが「名脇役」、ふざんけな、である。ぼくはやはり「豚と軍艦」である。小さいときには、やくざ映画でも触れている。奥さんのこと、弟との確執、マスコミもそっとしとばよかったのに。


70 アンノウン(T)
リーアム・ニーソンのアクション物である。共演がダイアン・クーガ、ナタリーポートマンに似ている。ニールソンの妻役がジャニュアリー・ジョーンズで美しい。元東ドイツの諜報員で、いまは人捜しなどをしているのが名優ブルーノ・ガンツ、悪党の一人がフランク・ランジェラで、「ニクソン/フロスト」でニクソンを演じた役者である。いやいあや豪華な顔ぶれである。そして、みんな渋い。


どうも既視感の強い映画である。みんな何かで見たようなことばかり。「ボーンシリーズ」やハリソン・フォードの「フランティック」などなど。あるいは、ヒッチコックあたりにもありそうな感じである。ガンツが冷戦時代の遺物で、彼を殺す悪党も冷戦時代の遺物、そこにバイオ植物開発などが絡むという構図である。それにしても、ニーソン活劇が続く。


71 サッド・バケィション(D)
青山真治監督である。主演浅野忠信、脇が中村嘉葎雄石田えり、宮崎みどり、豊原巧補などなど豪華。ここに登場するの家族はすべて壊れている。ゆえに疑似家族が実態のように見える。


いくつか分かりにくいところがある。しばらく後にならないと浅野と一緒に住まっていた女が誰だか分からないとか、九州から突然東京の場面になり、それが九州との関連が分かりにくい、とかいくつか観客に不親切なところがあり、しかも浅野のしゃべりがモソモソで、それで低声にすると何を言っているか分からない。松田優作の口跡が悪くて難儀したことがあるが、浅野の場合、わざとである。


筋も凡庸で、結局、母性強し、というところにすべてを収めてしまう。そんな監督でしたか、青山真治監督は? 豊原という役者、それと光石研という役者が光っている。しょぼいオヤジのようだが、人生の甘辛が見えている感じがよく出ているのが中村である。石田えりはもう、貫禄としか言いようがない。しかし、エロティックな女優さんである。タイトルは「悲しい休暇」だが、さて何を指してのことか?


72 噂の寅次郎(D)
22作目でマドンナが大原麗子である。何度目になるだろうか、それにしても妙な発見があった、寅が異様なのである。ひと目惚れして旅に出るのを中止、腹痛を偽装、大原が救急車を呼ぶ。医者の見立ては“ガス溜まり”である。寅はいい赤っ恥をかいた、誰が救急車なんぞ呼んだんだ、とすごい剣幕である。品がないくらいである。大原が「実は私が……」と言ったとき、その存在に気づかずにいた寅が「あっいたんですか」と言ったときの目が、底意地の悪いような光を見せる。


寅と大原の二人だけの寅屋、食べかけの弁当を食べる大原を見る寅、大原は「見ちゃいや」と言う。寅は漬け物でもないかと慌てて探す。大原は、「寅さんは怖い人かと思ったら違った」と言い、寅も「すました人かと思ったら違った」と返す。名前も荒川だから、と付け加えると、大原は私も嫌いな名前、本当は水原だと言う。絶対、そっちが似合う、と寅。でも、どうして荒川なんだ、と聞く寅、「結婚してるから」と大原、寅はがっかり。そのとき寅は大原の背に回っている。「でも別居中なの」と言ったとき、寅の目が底意地悪く光る。


午前中、離婚届に役所に行って休みの大原。寅はどうして来ない、と駄々をこねるが、ここまで露骨に女への執心を人に見せる寅も珍しいのではないだろうか。きっとこんな貧乏臭い団子屋なんか見限ったんだ、と寅が言ったところに大原がやってくる。寅はまた豹変し、「今日は休めばよかったじゃないか」と言うと、大原は「寅さんが心配するでしょ」としなだれかかるような言い方をする。桜に、今日から水原です、と大原が言うと、寅は「すっきりしたろ」と言う。涙で目元が光る大原、それを下から見つめて不思議がる寅、大原は「私、泣きそう、寅さん、2階行っていい?」と甘い声を出す。寅はその心理が分からず、どうにか対処しろ、と周りをせかす。ここはいつもの寅である。


あえていえば、1作目の寅が帰ってきたような感じなのである。下品な寅、どう猛な寅である。目つきの怖さはただ者ではない。誰だったか、渥美の人間性を指して、瞬時に人間を幾種類かに見分け、それに合わせて厳しく付き合った、と言っているのを読んだことがある。そういう渥美が地を出しているような気がするのだ。それはきっと大原のせいなのである。男の気を引く気は毛頭ないのに、自然と引いてしまう女がいるが、それが大原の演技である。彼女自身はもっと自立志向の女だったのではないだろうか。どうして渥美が異様なテンションを見せたのか、ぼくには分からない。DVDのおまけで立川志らくが、大原を最高に美しい、と言っているが、男好みの、都合のいい女を演じた大原に幻惑されているのである。ぼくは、小学生の頃に見た大原がいちばん好きである。


73 ボクサー(DL)
アイルランド、ベルファーストが舞台で、元IRAのボクサーが5年の刑期を終えて戻ってくる。そして、ボクシングジムを始め、宗教を問わず入門者を受け入れる。もとの彼女の父親は穏健派のIRAで、イギリスと平和交渉を進めているが、過激派は不満を募らせ、そのボクシングジムを目の敵にする。というのは、過激派のボスには元ボクサーに負い目があるからである。彼の罪をかぶって元ボクサーは服役をし、責任を自ら負ったからである。


主演ダニエル・デイ・ルイス、あの「ギャング・オブ・ニューヨーク」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の役者である。とてもナイーブで、精悍な30歳の青年を演じている。もと彼女がエミリー・ワトソンである。ラース・フォン・トリアに、「奇跡の海」で俳優への信頼を回復させたといわれる女優である(トリアのカンヌでの「ヒトラー」へのシンパシー明言が問題になっている)。父親がブライアン・コックス、過激派のボスがジェラード・マクソォレイ(良い感じの役者である)、ほかにも脇役で何人か見覚えのある役者さんがいる(たいてい悪役で)。


再起を期したはずが、もと恋人の息子にジムを焼かれ、彼は傷心してロンドンへ。金持ち連だけがリングを囲むところで、黒人と試合をする。テーブルごとに客は座り、勝者にはおひねりが飛ぶ。主人公は、雌雄が決しているのに倒れない黒人を哀れみ、リングを降り、敗者となる。シャンペンを飲み、美女をはべらせ、殴り合いを鑑賞するとは、アングロ・サクソンとは残酷なことをするものである。


ぼくはIRAが何者かを教科書的にしか知らない。町全体の動きが常に彼らによって監視されている。闘士が入獄している女の行動も監視され、おかしなことがあると懲罰を受ける──これはほぼマフィアの世界の引き写しではないか。その町の警察はイギリスの支配の出先機関で、町の上空をつねにヘリが飛んで監視を怠らない。まるでブレード・ランナーの世界である。先頃、初めてエリザベス女王アイルランドの地を踏んだというのでニュースが流れていたが、この映画はIRAとイギリス、そしてアイルランド国内のことを知るのに最適な映画ではないか。作品としても充実していて、素晴らしい。


74 マイ・バック・ページ(T)
山下敦弘監督、主演妻夫木聡(雑誌記者)、松山ケンイチ(エセ運動家)。原作の川本三郎が何か事件を起こして朝日を去ったのは知っていたが、こういうことだったのか、という感慨である。インチキ革命家にだまされたということである。アジトに行くと、整然とメットが並び、闘争ビラがきちんと置いてあるなど、ありえる話だろうか。自分の書棚から勝手に宮沢賢治の本を持ち出し、会社の留守中に返しに来て、そこに居合わせた上司に「妻夫木に貸した金を用立ててください」と1万円貰い、あとで妻夫木が確かめると、自主的にカンパをしてくれた、とウソをつくような男である。仲間にもウソをつき、いかにも大物の闘争家を演じる。仲間の女を抱くのに、君を幸せにしたいから、暴力革命をやるのだ、という背中に寒気が走るようなセリフを言う男である。裁判ではそれらが暴露され、悲惨な仲間割れに。


かかる曲みんな懐かしく、出だしがピンキー&キラーズの「恋の季節」で、途中では妻夫木と松山がCCRの「雨を見たか」をハモる。ラストの真心ブラザーズの「マイ・バック・ページ」は、ディランの『ノー・ディレクション・ホーム』で聴いている。


京大の中園という理論家が出てくるが、男が女や競馬に狂うように、俺たちは闘争に狂っただけだ、といった発言は好感が持てる。その大阪弁もいい。けっきょく、彼はエセ革命家に濡れ衣を着せられ、潜行、逃亡の人生の果て、捕まる。この人物、実在の滝田修で、そういえばそういう人物がいたなぁ、という感じである。


妻夫木の会社には新左翼応援雑誌と、もう一つ普通の週刊誌がある。後者の表紙を飾るモデルが、真っ直ぐな視線で、好感である。「真夜中のカウボーイ」でホフマンが泣くシーンがよかった、男が真剣に泣く姿が好きだ、と言う。妻夫木がエセ革命家に入れあげたのは、彼がやはり同じことを言ったからではないか、あのホフマンは俺だ、と。映画のラストも、妻夫木の涙で終わる。この映画の第一の収穫は、この女優(忽那汐里)を見つけたことではないか。それと、時代の雰囲気がかなり忠実に再現されているように思う。その彼女と妻夫木が見に行くのが「ファイブ・イージー・ピーセス」である。妻夫木がオールナイトで見るのが、川島透の「洲崎パラダイス」である。服装も頷ける感じである。妻夫木の先輩も、当時はいたなぁという感じの記者である。取材対象者と切り結んでこそ新聞記者だというタイプである。妻夫木はそれを真似た感じである。しかし、朝霞の駐屯地で武器を奪うために罪もない自衛官を殺した奴らを、取材源を明かすことはできないと言い張り守るのは、同情に値しない。スクープに逸り、人としての倫理を忘れたことを深く悔いているようには見えない(少なくともこの映画では)。


75 プリンセス・トヨトミ(T)
予告編がよかったので見たが、ハズしてしまった。大阪国独立など何の興味もない。せっかくの謎解きも早々に終わり、あとは理屈の辻褄合わせが延々と続く。下らない映画ほど、だらだらしまりがない。綾瀬はるかが美しい。またまた好感である。しかし、もうちょっと色々やらせてあげたらよかったのに。あと中井貴一が円熟の演技である。彼はいい年の取り方をしているのではないだろうか。どんどん重厚な役を振られるようになるから、ハメの外れた役を選んでやってほしいものである。喜劇もできる人なのだから。


76 黙秘(DL)
テイラー・ハックホードという監督で、脚本がトニー・ギルロイ、主演キャシー・ベイツ、脇がクリストファー・プラマーである。原作はスティーブン・キングである。キャシー・ベイツが微妙な役どころを見事に演じている。2度の殺人を疑われる役である。そこに父親っ子で、ジャーナリストとして名を上げようとしている一人娘(上昇欲が強いが、実力が備わっていない)が、愛憎半ばの母親に絡んでくる。もしかしたら、母は愛する父を殺したのではないか?


キャシー・ベイツは人使いの荒い、鼻持ちならない老嬢の介護にいそしむが、次第に2人の間にはこまやかな愛情が育つことに。その金持ちとの交情の様子が、この映画の救いである。けっこう老嬢はいいヤツなのである。


実によくできた映画である。娘役の女優にちょっとやり過ぎ感があることと、第一の殺害の場面の人工的な映像が安手で気になることだけを除けば、引き込まれるように見てしまった。青い色調で過去を写し、いまの映像に変わるとカラフルになったり、映像的な楽しみもある。孤島がしっとり濡れたような色で海に浮かぶ様子は、旅心を誘うことしきりである。


77 シャーロット・グレイ(DL)
ケイト・ブランシェットが主演、諜報員として即席の訓練を受け、パイロットの恋人を探す目的もありながら、フランス南部へ潜入する。そこでパルチザンと行動を共にしながら、恋人の探索も仲間に頼む。裏切り、新たな恋、匿ったユダヤ人の子どもとの交情などが描かれる。村の教師がナチへの密告者で、俺は実力者だから従えとブランシェットに迫るが、のちにパルチザンに殺される。


ブランシェットは列車でフランス語の本を読んでいたところ、同席の男から声を掛けられ、のちにパーティーに誘われる。実はそれが諜報員へのルクルートだったのである。こういう色々なかたちで人材をピックアップしたらしい。その訓練の様子も撮される。


78 ミツバチの羽音と地球の回転(T)
鎌仲ひとみ監督で、ドキュメンタリーである。山口県上関町に中部電力原発を作ろうとし、対面にある祝島の人たちが30年近く反対運動を続けている。かつては5千人の人が住んでいたが、いまは500人。国の施策でみかんを作ったが、オレンジの自由化の波に押しつぶされ、島外に職を求めて人がいなくなったのだそうだ。映画では、びわ、ひじき、魚などが特産として紹介されていた(ネットでも売っている)。外に出て帰島した若者が映画の中心人物で、彼の父親が反対運動のヘッドをやっている。千年以上続く神舞祭りが紹介されているが、それはさぞかし派手に賑わったことだろう。九州・国東半島との繋がりから生まれた祭りで、船の舳先と艫に立って化粧の若者がきびきび踊る姿は、海民の血筋かとも思う。瀬戸内は村上水軍の本拠地である。


映画はスゥエーデンにも足を運び、自然エネルギーの先進的な取り組みを紹介する。ある村では、自分たちで何かをしなければ何も解決しないと覚悟を決め、エコエネルギーへの転換を決意し、見事モデルケースとなるような村作りを行った。循環型でかつオートメ化されたの乳牛の飼育場、木くずを燃やす村の発電所など、すべて住民の手作りで、後者の場合は株式を村民が買い合い、支えている。もちろん、利益は還元される。彼らからすれば、日本がまだ電力の発送電を寡占しているのが信じられないという。日本では自由化は電力という国家的インフラになじまないという意見が圧倒的である。しかし、これも虚妄だということが、この映画から分かる。やはり発送電の分離は急いでやるべきである。青森の風力発電が現地の必要量を超えていて、結局、東京へと売電されることになった、という話にはびっくりした。


いま具体性をもって語られているのは、天然ガスを燃やして電力を作り、その間に原発廃炉も進め、自然エネルギーの割合も高める、というメニューである。日本の産業界は、なぜこぞって高い電気代に文句を言わないで、逆に原発推進を言い募るのか。法人税を下げろと言うなら、電気代も下げろ、と声を上げるべきである。スウェーデンのエコエネルギー推進派が言うように、当初は高く付いても、あとで格段に安くなるのが実例として分かっているのだから、脱原発に明確に踏み出すべきだろう。それにしても、出版社がエコ電力を売る会社までやるのには、心底、びっくりした。自由化とはここまで行くことなのか。


祝島の人たちの反対運動の在り方が魅力的である。やはり年配者が多いと、独特な雰囲気になる。ゆっくり、長く、しつこく、じわじわと、楽しく、ひとのことを思いやりながら、腹がすいては戦はできぬと自前の弁当を食べながら。先鋭化するだけでは運動は続かない、生活に即した運動こそ原点だという実例のようなものだ。


79 アメリア(DL)
ヒラリー・スワンク主演、リチャード・ギアユアン・マクレガーが脇である。初大陸横断(アメリカからアイルランドへ)女性飛行士の物語である。初回は操縦士は男子が行い(女性では未熟ということで、2回目に彼女は成功する)。スワンクが美しい。それを見る映画である。ギアが目をしょぼしょぼするのが面白い。彼はあいかわらず大根である。


80 長屋紳士録(D)
小津の項に譲る。


81 東海テレビ・ドキュメントシリーズ(T)
1本が1時間で5本で5時間、それでもあっという間に終わってしまった、感じである。観客は5人くらいか。「裁判長のお弁当」(ナレーション宮本信子、天野鎮雄)「検察官のふろしき」(ナレーション宮本信子)と名張ぶどう酒事件を扱った「証言」(佐藤慶がナレーション)「毒とひまわり」(ナレーション仲代達也)、そして光市殺人事件の弁護士を追った「光と影」(ナレーション寺島しのぶ)。名張は40年近く冤罪を訴えている事件で、事件の存命者の証言を集め、その不備を突いている。あるいは、再審請求のための新証拠発見の過程も収めている。村人の証言が当初と2週間ほど経ってからでガラッと変わったのはなぜか。みんなそれを指摘されると、言葉を濁す。もう昔のことで覚えていない、と。


一升瓶の蓋を歯で開けたという奥西被告の自白があり、鑑定医は蓋の歯形の痕跡は奥西氏と一致すると証言したが、後年、科学捜査が進み、一致しないことが判明。それを医科大の学長になっていた元鑑定医に正そうとしたが、取材を拒否。一度下した判断は変えないと言う。あるいは、ある農薬を一升瓶に入れたと奥西被告は自白を残しているが、それも違う薬品だったことが判明。再審開始を審議した最高裁の裁判官は、証拠を調べようともせず、なぜ奥西氏は自分に不利な自白などするのか、それは真実だからだ、とバカのような理由で門を閉ざす。この裁判官は適格性に欠ける。


光市の事件は、ごうごうと弁護士たちに非難が集まったもので、いまの大阪府知事がテレビで当該弁護士たちの資格剥奪の署名を集めようと扇動したのが記憶にある。即刻死刑にせよ、という世論。しかし、それでは審理のなかで真実を明らかにする裁判の意味はどこへ行ってしまうのか。


弁護士たちは計画的な殺人ではなかったことを証明しようとする(首の締め方など)。このあたりのことは雑誌で読んで知っていたが、びっくりしたのは、被告が12歳、あるいは4、5歳の精神年齢で止まっているという専門医の所見である。被告は殺した主婦に母性を感じたという証言もしている。それと、死姦を母子にしたのは生き返りの儀式だったという。これを荒唐無稽と言うが、彼らの精神を病んだ論理から言えばありえることではないか。宮崎が祖父の骨を食べて、再生を願ったことが思い出される。人を死刑にするには、そのための最善を尽くすべきではないか、と考えさせられるドキュメントである。足利の幼女連続殺人の真犯人を追っているのもテレビマンである(雑誌でそのへんのことを書かれた日テレの清水潔氏の記事を読んだことがあるが、かなり真実に迫っている印象を受けた。放送批評懇談会のギャラクシー賞を取られた)。魚住昭氏がオウム事件の裁判に通い、麻原の法廷での言動には合理性があると感じられた、そのへんのことは雑誌で連載するつもり、と書いておられたが、地道な活動の中からしか真実は浮かび上がってこないのではないだろうか。


82 四月の涙(T)
フィンランド内戦を扱ったものという。1917年にロシア革命が起き、それを機会にフィンランドが独立。しかし、白衛軍と赤衛軍に別れ、内戦が勃発。それを扱った作品だが、妙な仕組みになっている。「性」と「政治」をくっつけるのはナチス映画で経験してきていることだが、この映画もその範疇に入る。内戦というねじくれた戦争を描くのに、それが相応しいということだったのだろうか。


人文主義で有名な作家兼詩人が白衛軍の捕虜収容所を仕切り、彼の裁判で銃殺刑を行っている。その皮肉を彼も明言するが、本来持っていた嗜好が花開いたとおぼしい。いとも簡単に人を殺し、殺されるほうもほとんど叫び声一つ挙げない。酒と葉巻を手から離さず、無軌道で退廃の影が濃い。


そこに虐殺の中から一人の赤衛軍の女を救った准尉がやってくる。たとえ敵でも、正当に裁くべきだというので、人文主義の所長なら希望があると思ったのである。所長は彼にワイン、肉を振る舞い、歓待する。都市から女房を呼び、その准尉とのセックスを黙認する(促す?)。あるいは、赤衛軍の女の様子を壁の穴から盗み見る。ついに、准尉を踊りに誘い、夜の相手もさせる(何度も赤衛軍の女と寝たかと尋ねるのは、軍紀違反を疑ったのではなく、准尉の性癖を探ったのではないか。捕虜と見れば、男は殺し、女はレイプの果てに虐殺するのが白衛軍の兵士だから、その環境で女を手込めにしなかったのは、ゲイの性向が強いということになる)。准尉はなぜ所長の異常に従ったのか。見る限り女を救うための行為に見えるのだが、ここらあたりは曖昧に表現されている。所長の女房が、ベートーベンの交響楽7番第2楽章の触りをピアノで弾くところがあるが、いいメロディーである。


所長がその道の人間で、いつ准尉を誘うのかが、妙な緊張感を醸す原因である。結局、准尉が女を逃がし、殺されると、所長は木の枝を使って首つりをする(それを前所長と同じく写真に撮らせる)。彼もまた戦争によって人間性の中心部を破壊されていた、ということか。


83 卒業(D)
また見てしまった。この映画は時折、見返したくなる。69年の作である。今回もいくつか発見があった。全体に間然するところがなく、いろいろな仕掛けが相互に効くようになっている。主人公のベンジャミンは卒業ということだが、年齢は20歳で、あと1週間で21歳だという。奨学金資格もパスして、実業へ行くか、大学院へ行くかの選択肢の中にいる。しかし、なぜ20歳で卒業なんだろう?


後半になると、エレインを追ってよく走るのだが、彼は陸上選手(トラックマン)という設定である。確かに腿を高く上げた、正当ふうな走り方をする(後年、「マラソンマン」に出た遠因はこのへんにあるのだろう)。それと、新聞部で部長まで務めたらしい。アメリカでは大学の新聞部で部長というのは、ちょっとしたステータスなのかもしれない。しかし、ベンがどこの大学を出たかは明らかにされない。方やエレインはバークレー大、名門である。


ロビンソン夫人が露骨に誘いをかけ、自宅まで送らせ、酒を飲ませる。この一連のシチュエーションは、あまりにも精巧にできすぎていて、ぼくは見ているのが辛いくらいだ。ほかでも指摘したように、ロビ夫人が車のキーをわざと金魚の水槽に投げ入れるところなど、なんという演出かと思う。ベンは緊張のあまり変な「ウッ」というような声を出す。これはホフマンのアイデアだそうだ。夫人が全裸になってドアを背にホフマンに「あとで電話をして」的なことを言うシーンは、彼の視線と夫人の体の細部のカットを交互に重ねて、緊迫感を処理している。その最中にロビ主人が帰ってきた車の音が聞こえ、慌ててベンは階下に降りる。


恐るべきことだが、この時、ロビ夫人を演じたアン・バンクロフトとホフマンは6歳しか違わなかったという。髪の毛を脱色したり、老け顔のメイクをしたのだろうか。バンクロフトを二流のセクシー女優で、この映画で一流の仲間入りをしたという輩がいるが、ぼくは「奇跡の人」(62年)で彼女を見ている。経歴を見ても、舞台出身で、そちらで賞を取っている。人生に飽いた倦怠が漂っていて、それがよく現れるのが、初めての密会のシーン。ベッドに座り、上着を脱ぐ夫人、後ろからホフマンが着て、やにわにブラジャーの上から胸を掴む。夫人は何事もないように上着の汚れでも取るつもりか両手でしごきだす。ここもホフマンのアイデアが生かされているらしい。もう一つ、そろそろセックスだけの関係だけに飽いてきたホフマンが夫人にいろいろと尋ねるシーン。夫人はうるさがり電気を消す。ホフマンが点ける。それを繰り返す。何か話題がないか? ない、と夫人。美術は? 興味ない。亭主とはどこで知り合った? 大学の専攻は? 美術と答える(ここにも彼女の倦怠が顔を出している)。初めてのセックスはどこで? 車の中で。車って? フォードよ。フォードかあ! そして、娘エレインを身籠もって、仕方なしに結婚を選んだと分かる。「エレインにそのことを聞いてみよう」と闇の中でホフマンが言うと、やおら電気を点け、彼の顔を押さえ付け、絶対に娘に近づくな、と言う。それはあんたの娘にぼくが相応しくないからか? とベン。と激しいやりとりがあって、結局はベンが折れて、セックスをすることに。彼は部屋の隅で脱ぎ始め、夫人はベッド脇に掛けながら、ストッキングを脱いでは、投げやりな、力ない様子で投げる。そこにも行き場のない倦怠感が溢れている。


両親の強い勧めで仕方なくエレインを誘ったベン。有名なストリップのシーンのあと、二人の心が近づく。そのあとが、車中でドライブ・インのファースト・フードを食べるシーンで、明らかにロビ夫人との交情とは世代の違うシチュエーションにしてある。ここらあたり、うまいなあ、と思う。二人が会話をしている隣の車からは大きな音量でS&Gの曲がかかっている。ちょっと静かにしてくれないか、とベンが言うが、ここらあたりは監督のユーモアだろう。


あとコメディタッチのところがいくつかある。エレインを追ってバークレーに行く、結婚する、でも彼女はぼくを嫌っている、と言われ、両親はびっくり、不可解な顔。ベンがいなくなると、ポンとトースターからパンが飛び出し、また両親はたまげる。あるいは、初めての密会のホテル。彼がドアを入ろうとすると、向こうから老父婦の群れが次々やってくる。それをやり過ごして、入ろうとすると、今度は2組の若い新婚さんが彼を追い抜いていく。しかも、ホテルの受付が、何か御用ですか、シングルマンパーティですか? と聞き、ベンはそうだと答え会場に。ところが、そこはシングルマンさんの誕生パーティだった、というオチ。彼が独り身であることを強調する仕組みになっている(この映画のラストは有名なエレインの結婚式からの略奪である。ちゃんと結構ができている)。あと、夫人に急かされて部屋を取るシーンから、部屋に入ってからのあれこれは、小ネタの連続である。受付で偽名を使ったり、呼び鈴(受付にあるあのチンというやつ)を手で押さえたり、荷物は歯ブラシだけだから自分一人で部屋に行く、とか偽装する。夫人にハンガーを取ってくれ、と言われ、クローゼットを開けると木とワイヤの2種あって、どっちがいいと聞く。夫人はどっちでもいいと答え、木のほうを取ろうとすると、棒から外れない。それから、先の胸の掴みのシーンまで、これでもかとコメディタッチである。ベンの初体験のあたふたした感じがよく現れている。


カメラワークで今回気づいたのは、ガラスをうまく使っているということである。ベンがホテルのバーで夫人を待つシーン。ガラスのテーブルの上の飲み物を撮し、そのテーブルに夫人の姿が映る。突然視界にやってきた感じがよく出ている。これは前も感心したことだが、もう一つ、夫人が全裸でベンを部屋に閉じこめたシーン。ベンはドアに後ろ向きで、夫人が入ってきたのに気づくのは、部屋の箪笥にはまったガラスにさっと夫人の姿が見えたからである。あるいは、21歳の誕生日に潜水服を着せられ、水中からメガネ越しに両親やゲストを見るシーンもある。


メイキングフィルムを見ていて、長年、あれは幻だったのかと諦めていたベンの家の階段上のピエロの絵が出てきたのには、鳥肌が立った。ぼくは初見で見て面白い演出だなと思ったのだが、その後、映画館でもビデオでもその絵を見ることがなかった。何かの事情でカットされたのかと思ったが確信がなかった。今回の映像でもやはり欠けていたのだが、原作者の回顧談の中に映画のシーンが挟まれていて、そこには白黒のピエロの絵がはっきりと映し出されている。ぼくは、ベンがパーティから逃げ出し、2階の自分の部屋に戻るときに呼び止められ、振り返ったバックにその絵があった、という記憶だったのだが、今回のそれは、ベンが客に呼び戻されたあと、瞬間のカットして入っているのである。それも、階段と直角の壁に掛かっているので、ベンの背中に来ない位置である。絵はあったが、ポジションが違うということである。その絵は、怒りを含んだようにピエロが眉を吊り上げている。そんなピエロってあるのだろうか。しかも、繰り返すが白黒である。


原作者も言っているが、時代は60年代末の変革期。優秀な人間ほど先の見えない焦燥感に駆られた時代である。このままエリートで、エスタブリッシュで行くのか、独自の価値観を模索するのか。ベンの宙ぶらりんは時代の反映である。遊び呆ける息子に父親が「何をやりたいんだ?」と尋ね、ベンはI want…と言いよどみ、父親がyou want? と続け、ベンはI want to be diffrennt.と言い切る。エレインを追って泊まった宿のオヤジは、ベンを胡散臭い人間と思い、「扇動者か?」と訊くが、英語ではagitator?と言っている。学生運動のことを指している。ほかには、直接的に時代の匂いを表した箇所はないように思えるが……。


またしてもこの映画に惚れ直した。幻のピエロに出合えたことが何よりの収穫だが。


84 ダブル・ミッション(DL)
ジャッキーである。スパイ生活から身を引き、隣人の3人の子連れと結婚をする気だが、リタイア後も事件が起きる。いくつかジャッキーが身代わりのスタントを使っている。顔も目の周りがたるんでいる。それでも楽しい。映画が暗くならないのが最大の喜びである。子役の長女、3女が頑張っている。悪党は中途半端で、狙いは石油を無化するバクテリアの繁殖。ロシア以外の石油を消滅させ、大もうけするというのだ。ははは、である。


85 ワイルド・バンチ(D)
また見てしまった。ペキンパーである。血である、暴力である──と言いたいところだが、見るたびに彼の暴力性など柔なものだったと思う今日この頃である。血がまるで粘っけのあるインキのように飛ぶのには笑ってしまう。悪党の親玉がなぜか可愛い。知り合いの飲み屋のおばちゃんに似ているからか。ウイルアム・ホールデンが善人の悪党で、彼は敵の陣地に住まう現地人に撃たれて死んでしまう。ここにもペキンパーの良心が覗いている。ラスト、老いた善人の悪党と、それを追う老いた善人が一緒に旅をしようと手を結ぶのは、そこにしかノスタルジーがないということ。


全体の絵の感じが、やはりマカロニ・ウエスタンの歴史を経た映画という気がする。絵がゆるいし、撮し方もゆるい。話もゆるいし、全体に妙に汚い。急に寄ったり引いたりにもそれは感じられる。


次は懐かしの「ゲッタ・ウェイ」でも見てみよう。


86 アジャストメント(T)
お客はまあまあ入ってました。年齢が高いのはどうしてか。ぼくはてっきり「ボーンシリーズ」の一作だと思って見に行った。どこかでそんなキャッチを見たような……。


フィリップ・K・ディックが原作らしい。まったく彼のことは知らないが。仕掛けはマジカルだが、基本は愛は勝つ、である。女優がエミリー・ブラントで、どこかで見たなと思ったら「プラダを着た悪魔」である。あと、「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」にも出ていたらしいが、思い出さない。マット・デイモンがブルックリン生まれの大統領候補という設定である。後ろから撮すとかなり太りじしで、おっさんの風格さえある。あまり好きな設定の映画ではないが、十分に堪能しました。ドタンバで結婚式からエミリーを奪ってからのひとしきりがやや退屈である。もっと刈り込んでいい場所だし、エミリーはもっと驚かないとおかしい。大役者テレンス・スタンプが善悪兼ね備えた天使である。「コレクター」で見て、もう何十年が経つだろう。それが「イギリスから来た男」で再びの衝撃。脇がアンソニー・マッキーで、これが哀愁のあるいい役者である。ぼくは「ハートロッカー」で見ている。


87 理由(D)
コネリー主演で、彼が特別プロデューサーを兼ねている。見るのは2度目である。白人少女を残虐に殺害した黒人青年が捕まり、その母親から弁護を頼まれた死刑廃止論者の大學教授が、その無罪のために人種偏見の濃い町へと乗り込み、真相を暴くというストーリーだが、どんでん返しが用意されている。監督アーネ・グリムシャー、あまり映画を撮っていないようだ。


青年はハーバード大の出身で、女性誘拐事件を起こしたという嫌疑で、奨学金を打ち切られた過去をもつ。それは濡れ衣で、女のほうから声をかけ、その女の恋人が警察官で、彼を落とし込めようとしたが、無罪放免。それでも奨学金は切られた。その裁判で検察を務めたのがコネリーの妻で、いまはもう引退している。ケイト・キャプショーで、「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」で見ている。


少女惨殺を担当した2人の刑事。一人はいかにも黒人に偏見のありそうな白人、もう一人が黒人(ローレンス・フィッシュバーン)で、これが青年を締め上げ、ロシアンルーレットで青年の口に銃を突っ込み、自白を強要させる。都合のいいところだけテープ録音するのを見ると、取り調べの可視化はすべて記録に残さないと意味がないと分かる。黒人警官がなぜ青年に目星をつけ、執拗に有罪の確信が揺るがないのか、それがいま一つ映画からは分からない。


異常殺人者としてエド・ハリスが登場する。ぼくは彼を見た最初の映画がこれかもしれない、と思った。眉を落として、腰を屈めたような様子で話をする彼、出色の演技である。こういう位置から出てくる役者はすごい。


88 グッバイ・ガール(D)
77年の作で、ハーバート・ロス監督(「チップス先生、さようなら」が懐かしい。69年の作)。原作がニール・サイモンで、数々の賞に輝いた作品。主演リチャード・ドレファスとマーシャ・メイスン。再見である。2回連続男に、しかも俳優に突然去られた元ダンサーが、またしても俳優と一つ屋根の下に。2回目の男の知り合いが部屋の権利を買い、NYへやってきたからである。彼女と子どもは部屋に居座り、そのうちに恋仲にというお決まりの映画である。


ドレファスがゲイのリチャード3世を演じて悪評さくさく。メイスンはダンスのオーディションに行くが、体が動かない。やっと見つけた仕事が、スバル車の宣伝ショーガール。二人の演技はぼくには大げさに見える。メイスンはあえてそうしているのだが、浮いている。いちばんしっくりくるのが娘の演技である。とくに仲が良くなって初めてドレファスがハリウッドへ仕事に行くとなったとき、また振られるのではと母親が落ち込み、同じく娘が落ち込むシーンで、ほろりとさせられる。母親が幼く、子どもがおませなのは常道。台詞が多く、長い。それを映像化するのが監督の役目だが、別に気の利いたことをするわけではない。


ドレファスは裸で寝て、寝付かれないときは深夜にギターを鳴らし、朝は着衣で足を組んでマントラを唱える。裸で寝るなど面白い設定だが、最初の夜にネタで使われるだけで、あとで何も効いてこない。ギターも似たようなもの。


89 サイモン・バーチ(D)
ジョン・アービングの原作、サイモンという小さく産まれ、12歳で世を去った子どもを中心にした話である。神から特別な計らいがあって生を受けたと信じている子である。おっぱい大好き人間である。両親は彼の不具に愛想を尽かし、一切構おうともしない。彼の大の友人は私生児で、父親が誰なのか常に知りたがっている。母親がアシュレイ・ジャッドで、若くて美しい。彼女はサイモンが初めてバットを振って当てたボールに頭を直撃され、死ぬことに。結局、真実の父親を見つけたものの、母親の最後の恋人が父親になってくれる。バスが川に転落する事故で、サイモンが危機を脱する大きな役目を働く。これが神の計らいだったか。


サイモンと友人が時折、泳ぎに行く沼が美しい。俯瞰で撮ると、溜め息が出てくる。


アービング原作では「ガープの世界」も見ているが、あれは傑作と呼べる作品である。そして、このサイモンもいい。ちょうど本多哲郎の聖書関連の本を読んでいることもあって、彼が主張する「小さくされた者」にこそ聖性が宿るという考えに、まさにアービングが重なってくる。さっそくアービングの本を読みたくなったが小説ばかりで、一つだけ自伝らしきものがあるらしく、それを発注した。本多氏の説は驚天動地とも言うべきもので、キリスト、マリア、そして十二使徒、すべて社会的に虐げられた者たちだというのである。そんな宗教など見たことがない。日蓮は自らを被差別の生まれと宣言したが、彼の周りに集った人間が被差別かどうかは、ぼくには分からない。遺された手紙を見る限り、その痕跡は見えない(と思う)。親鸞と川の民の接触を言う人がいるが、それは傾聴に値する。


90 我らの生涯の最良の年(D)
46年の作、ワイラー監督で、様々な賞を取っている。アカデミー賞に秀作なしという思いが強いが、これは別格であろう。脚本ロバート・E・シャーウッド。


2次大戦の復員兵3人が、軍の小さな飛行機に乗り合わせ、同じ故郷の町へと向かう。このシチュエーションを一般の飛行機や列車で設定することは難しく、軍の飛行機を使うのがミソである。


その手続きカウンター、主演のフレッド(ダナ・アンドリュー、大尉)が故郷へ向かういちばん早い便を訊く。そこに、一人の男ホーマー(ハロルド・ラッセル)がやってきて同じ手続きを。サインする手が両方義手である。海軍で船の中にいたので戦地も戦いも知らなかったが、甲板にいたときに火傷を負った。フレッドは激戦の爆撃手、もう一人の年配者の軍曹アル・スティーブンソン(フレデリック・マーチ)は20年連れ添った妻を置いて戦地に。みんな、出征時より帰還する今のほうが不安だという。とくにホーマーは、器用に義手で何でもこなし、タバコの火も自分で着けるし、ジュークボックスも掛けられる、という。だが、恋人ウィルマがどういう反応するか……。


故郷を俯瞰で眺めながら、高校や見知りの名を上げる。タクシーに乗り込んで、まずホーマーの家に行く。道順がそうらしい。ホーマーは怖じ気づき、叔父のブッチがやっている店に寄らないか、と誘うが2人に断られる。着いたのが郊外の瀟洒なマイホームで、小さな妹、父母、そして隣の家からは恋人ウィルマが出てくる。みんな大喜びだが、義手を上げて、それまで一部始終を見ていた車中の2人にグッバイすると、父はぎょっとし、母は膝を崩す。一瞬にして、彼は自分が帰ってきた環境を察知する。露骨に「その手はどうした」と訊いてくれれば、実は……と切り出すことができるが、遠回りに気を使われるのはたまらない。フレッドがフロントヤードでの様子を見て「幸せそうだ」と言うと、アルは「でも彼はウィルマの髪を撫でられない」とリアルなことを言う。


次がアル、広壮なマンションが彼の住まい。職業はなんだい? とフレッドが訊くと、バンカーさ、と答える。突然の帰還に驚く息子と娘、そして妻。固く抱き合う。


次がフレッドのところ、一目見て貧しい住まいであることが分かる。父母は喜ぶが、父の手には酒瓶が。出征20日前に結婚したばかりのマリーは、ナイトクラブに勤めるために市内へ引っ越していない。それを探しにフレッドは町へ。
この3つの住まいの違いを撮していくのが、心憎い。アメリカの階層の縮図のつもりなのだろうと思う。しかも、フレッド大尉が下界ではいちばん下層という設定もいい。しかし、フレッドは過去の栄光で生きるような男ではない。


シーンは戻って、アルのマンション。息子に日本刀や、日本兵が持っていた家族の寄せ書きなどを土産として渡す。息子は、日本人は家族思いだ、と言うと、父親アルがアメリカ人と反対だ、と答える。息子が、広島はには行った? 放射能の影響はどんなものなのか? と訊くと、アルは「そこまでは気づかなかった」と言う。娘(ペギー、テレサ・ライトが演じる)は娘で家事の手伝いをして、外で働いてもいる。父親は、メイドはどうした? と訊く。しばらく前にいないわよ。家庭科で習ったから、何でもできるわ、とペギーが答える。
家族とどうもしっくりこないアル。そこで、彼は急に3人で飲みに行こうと言い出し、何軒もはしごをし、最後はブッチの店にやってくる。そこにはすでにフレッドがいる。妻のいるナイトクラブを探したのだが、見つからなかったのだという。そして、ホーマーも加わる。らんちき騒ぎを主導するのはアル。妻と懐かしの曲で踊るが、そのうち正体が分からなくなり、妻にあなたは誰か、と言い出す始末。スティーブンソン一家はフレッドを家まで届けるが、ブザーを押しても誰も出ない。ぼくは、フレッドがみすぼらしい自分の家を見られるのがイヤで、適当な家のブザーでも押したのだろうと推測した。ベルには何の反応もなく、彼はそのまま座り込む。見かねて、アルの家に泊めることに。


フレッドは自分の機が撃墜され火に包まれる夢を見る。それをなだめるペギー。朝、フレッドは目覚めるが、何も覚えていない。誰の家にいるのか、ペギーが誰であるかも分からない。早々に失礼して、妻のもとへ。ペギーが仕事が一緒の方向だから送っていく、と言う。次に目覚めるのがアル、自分の隣の枕に異様な目を向け、起き上がる。窓のシャッターを開けようとして、あまりの明るさにすぐに閉じる。整えられた髪型に立派な服装の自分の写真を見て、髪を撫でつける。やっとシャワールームへ行くが、ちょうどその後、妻がドアを開けて様子を見ようと顔を出す。夫がふつうに行動しているので、少し安心した顔に。シャワールームの中、カーテンの向こうで陽気な声がしたな、と思ったら、パジャマでずぶ濡れのアルが飛び出してくる。アルがベッドで朝食が食べられるように妻は準備をし、ホテルで出すような食台を持ち、小さな花生けを載せるが、また元に戻す。部屋に行くと、夫がガウンを着ている。妻がこまめに動くたびに、アルも身を動かす。何か妻に言いたげ、したげな感じが出ている。ついに二人は抱き合ってキスを。この一連の流れはすべて音なしである。無声映画のよさが顔を出す。


フレッドの妻のアパート。昨夜ブザーを押したアパートである。また反応がない。そこへすっと手でドアを開けて人が入る。ブザーとドアは関連していなかったのである。そこでフレッドとペギーは別れる。フレッドの帰還を喜ぶマリー、しばし抱き合い、昔のように遊びましょうと言うと、フレッドはそれはもう無理だ、と暗い顔。それでも気を取り直して町へと繰り出す。


ここまでが前半のシチュエーションと言っていいであろう。人物紹介からその人物を囲む人間関係まで、実にこまやかな演出が続く。とくにステーブンソン夫妻のやりとりが熟練の技である。酔いつぶれた夫にパジャマを着せるのに、ぐだぐだにしなだれかかってくる夫の顎を肘で押さえるのには、唸らされる。上を向いて寝るといびきがうるさいからと、下に向けようとするが、左手がひねって体の下にある。それを探って、エイッと引っ張ると、上下が逆になり、今度は右手が体の下に丸め込まれる。妻はそっと顔を近づけて、夫の頬にキスをしようとするが急に、触るな! と夫が声を立てる。何かの夢を見たのだろう。そのまま妻は別の部屋へ。


アルは銀行への復帰を急かされる。復員兵のための融資制度ができたので、ぜひ彼らの気持ちの分かる君に副頭取になって頑張ってほしい、と頭取に頼まれる。結局、彼はそれを引き受けるのだが、いちばん最初に融資を受けにきた復員兵が何の担保を持っていないので、貸せないと断る。男は、戦地で野菜を作り、同僚に喜んでもらえたし、親父は小作で苦労したが、自分は土地を持って農業をやりたい、と主張する。彼は、先兵として地雷除去に当たり、南方の島を転々とし、どこも同じようなところばかりだったが、硫黄島だけは違ったと言う。自分もそう聞いている、とアル。そこへ、軍からのお金を取りに来たホーマーを見かけ、話をしているうちに気が変わり、その担保のない男に融資をすることに。あとで頭取から、融資するカネは預金者のカネで、不安定な相手に貸せない、と注意を受ける。君を家族のように思い、抜擢したのだから、期待に応えてくれ、と言う。アルがこれから気を付けると言い、部屋を出ると、すっと頭取の顔が曇る。2、3日後の頭取の邸宅でのパーティ、挨拶を促されアルは、銀行は担保のない個人に貸しだす時代がやってくる、と皮肉混じりのことを言う。妻は感激し、抱き合う。


ホーマーは、腫れ物にでも触るような恋人や周囲の反応がイヤで、自分の殻に閉じこもり、唯一気晴らしが叔父のブッチのところへ行くこと。このブッチが人生の酸いも甘いも噛み分けた人で、ホーマーに人生への復帰を説き聞かせる。ブッチはピアノを覚え、叔父と一緒に演奏するまでに上達する。


フレッドは仕事が見つからず、結局、出生前に勤めていたドラッグ・ストアで、むかし「ドジ」とあだ名を付けた部下のしたで働くことに。それでも一生懸命である。そこへペギーが現れ、食事をすることに。お互いに引かれるものがあることは分かっている。食事がすんで、ペギーの車のところでキスを。ペギーからフレッドとのことを聞いたアルは、ブッチの店にフレッドを呼び出し、娘と切れるように説得する。店の出口近くのボックスでペギーに別れの電話をするフレッド、画面の半分はブッチとホーマーのピアノ連弾とそれを立って聴くアルが占める。遠く左側にボックスのフレッドが見える撮し方である。なかなか味のある演出である。フレッドは、あのキスは遊びのキスで、すぐに本気になる君には困るから、もう会わない、と言ったとペギーは母親に打ち明ける。


しかし、フレッドは妻が部屋に男を引き入れているところに遭遇し、離婚をすることに。それまでも月に35ドルしか稼げない夫に妻は愛想を尽かしている。兵隊のときは軍から支給もあり、自分の稼ぎと併せて月400ドルの収入があった。夫が所持金1000ドルがなくなる前に自粛だといって、自分で料理を作り始めたりしたので、マリーは夫婦を続ける気を失っていた。彼女は派手な、そして自堕落な生活が身に付いてしまっている。


フレッドは町を出るために、また軍の飛行場に。いちばん早い便で、東でも西でも行く、と言う。時間潰しに見に行ったのが、飛行場に並べられた戦闘機の墓場、墓場。首を折られ、頭を落とされた無惨な飛行機たち。その一機に懸垂の要領で下腹に空いた穴から入り、操縦席に。外から、汚れで曇った先端にフレッドが見える。異様な音楽が流れ、異様な風体の戦闘機を連続して撮す。ここがこの映画の圧巻である。人声がして、フレッドに下りてこい、という。解体工事をやっている会社の親方で、元海軍だという。即決でフレッドを雇うことに。それまでもフレッドは就職活動しているが、まともに働いた経験がなく、戦争でもマネジメントというより、爆弾を落とす職人みたいな存在だったらしく、ことごとく雇ってもらえない。それが、所属の軍が違うとはいえ、元軍人が即決で雇ってくれたところに、アメリカの戦後社会の一端を見ることができる。


最後は、ホーマーの結婚式。ペギーと別れたフレッドから、強くウィルマとの結婚を勧められたものの、どうしても踏ん切りがつかない。夜、一人でミルクを飲んでいるところへウィルマがやってくる。父母がつれないホーマーから身を離させるために、明日、叔母の家にやらされるが、行きたくないとウィルマ。ホーマーは、そのほうがいい、と取り合わない。ぼくと一緒にいると自由を奪ってしまう、と。それでも彼女は、愛していると言うので、ホーマーは義手を取った様子を見せる。何もできない、赤ん坊のようなものだ、と言う。その彼をウィルマは抱きしめ、和解へ。結婚式には付き添いでフレッドも現れ、再会したペギーとよりを戻すことに。アル夫妻もいるのだが、何もリアクションを起こさない。


ラストシーンの甘さは、それまでの入念な積み上げからいくと残念である。フレッドに電話の1本でもペギーに入れさせておいたらどうだったのだろう。「妻と別れた。仕事を見つけた。ほんとは愛していた」ぐらいの。


義手のハロルド・ラッセルは実際に戦争で障害を負った素人さんを使ったらしい。出番はそう多くないが、まったく違和感のない演技である。ワイラーのすごさをひしひしと感じた映画である。こんなのを戦後すぐに撮っていたのだから、日本映画人が度肝を抜かれたのがよく分かる。それも圧倒的な戦勝国の映画なのである。