2013年の映画2

kimgood2013-11-30

100 42(T)
監督・脚本ブライアン・ヘルゲランド、『LAコンフィデンシャル』や『ミスティックリバー』などの脚本を書き、監督作には『ペイバック』などがある。初めて黒人でメジャー・プレイヤーになったジャッキー・ロビンソンを扱ったもので、ぼくは泣き通し。とくにフィラデルフィアだかで道の反対側から険しい顔の男が寄ってきて、喧嘩でも始めるかと思いきや、才能ある人間は評価されるべきだ、と激励するシーン。ここにアメリカがある。


ロビンソンと彼をメジャーに呼んだ球団経営者ハリソン・フォードは同じメソジスト派。ロビンソンが辱めを受けて切れそうになった時、主も耐えたのだからお前も、という言い方をする。あるいは、ロビンソンを外さないと試合をしないと言ったチームの経営者には「神の前で言えるのか」と攻撃する。ハリソンには大学時代の野球仲間に優秀な黒人がいたが、差別に落ち込み敗残の身になった過去がある。


ハリソン・フォードが変な演技をするのが困ったものである。口をひんまげて、大声でどなるような話し方をする。それに眉毛が逆立てられていて、いつもの彼らしくない。そんなことしなくても、と思うのだが。次回作の予告編では普通の彼のなので、一時の迷いと思いたいのだが……。


101 料理長殿、ご用心(D)
78年の作で、ジャクリーン・ビセットのための映画。彼女、34歳で、とても美しい。それだけの、それだからこその映画である。


102 Pay it Forward(DL)
オスメント少年が主人公で、教師がケビン・スペイシー、母親がヘレン・ハントジュリア・ロバーツが『エンリコ・ブロコビッチ』で変身したのと同じものをハントに感じる。胸を露わに、汚い言葉を平気で使うところなど。ぼくはサンドラ・ブロックの変身を高く買う者である。シリアスから喜劇に行ったのは、大した度量である。ケビンは全身にケロイドがあり、それが彼が女性に奥手になる理由にもなっている。オスメント少年の情けない顔が愛くるしい。青年となった彼の、やや太り気味の様子を見ると、うたた月日の残酷さに思いが至る。


よく出来た映画で、楽しんで、悲しんで、はらはらしているうちに、とうとうラストまで来てしまう。良質で丁寧な演出である。冒頭でチラッと写るナイフがあとで凶器となるところなど、心憎いぐらい。女性監督のミミ・レダーはTV畑の監督のようだ。ホームレスの母親をハントは許しに行くが、母親は一緒に住むことは肯んじない。オスメントは、今度のことでいちばん勇気があったのは、我が母親であると褒めているが、たしかにそうである。


103 波止場(DL)
何回目になるだろうか。エリア・カザン監督、ブランドー、カール・マルデンエバー・マリ・セイント、ロッド・スタイガー、リーJコップ……何という配役だろう。ブランドーの仕草はゴッド・ファザーを思い起こさせる。マルデンのどこか気弱な感じは「シンシナティキッヅ」でおなじみだ。この映画で見せるロッド・スタイガーの哀愁は心に残る。そして、何よりもエバの純真な感じがこの映画を支えている。長い芸歴での人で、2006年に「バットマン・リターンズ」に出ている。音楽がうるさいぐらいで、これは昔の映画の常套である。カザンがマッカーシーで仲間を売ったことは、彼の最大の汚点であろう。だからといって、この映画の価値が下がるわけではないが。


104 太陽とバラ(T)
木下恵介作品、主演沢村貞子、中村葎津夫など。太陽族が流行りましたので作りました、という映画である。息子が事故で死にそうになったとき意識を失って倒れバラのトゲに刺されたとうのが母親の回顧談である。貧乏暮らしの内職が模造バラの花づくりである。この映画、会社にいわれて撮った写真だろうと思う。木下はそういうことをやりながら、次回は自分の好きな作品を撮った監督だと長部日出雄が書いている。しかし、そういうことをしていたから、後年の評価が低いということもあるのである。『日本の悲劇』という大傑作をものにしたのに、である。


105 昭和残侠伝 唐獅子仁義(DL)
待田京介狂言回しの役をやっている。藤純子の演技がとても型を踏んでいるのがよく分かる。妹分の芸者が嫌みな大貸しに引っ立てられそうになったときに、「野暮ね、野暮天ね」と言いながら部屋の外に連れ出すなんて、型で押し通すからできることで、現実味はまったくない。健さんに抱かれようと決意したときの「悪い女房になりたいんです」、夫池部良に抱きついて「抱いて、抱いて、強く」と言うときの台詞の調子など、みんな型である。これはきっとマキノが求めたことだろうと思うが、さて「緋牡丹」ではどうだったろうか。それにしても綺麗である。


二人の死地への道行き、池部が健さんに言う台詞、「死に花を咲かせてやっていただきます」、これは本来なら「死に花を咲かせてやってくだせぇ」だろうと思うが、文法的に合っているのだろうか。あと健さんの「〜しておくんなぃ」も独特である。ぼくにはたまらない発音だが、健さんはどこで仕込んだ言い方なのだろう。それと、殴り込みに行くときの、あの猫背。着流しで、何の構えのない健さんもいいが、あの緊張感でねじれたような猫背はラストの大立ち回りに相応しい。警官が来て、俯瞰で健さんが出てくるところを撮ってエンドだが、見事である。


どこかで書いたが、明治を舞台にすると絵がきれいにならないので抵抗感があったそうだが、確かにこの映画もほとんどセットである。遠くの山、岩山は明らかに書き割りなことが分かる。ほかの場面も安い見栄えで、とくに室内となると、素人劇団の洋物演劇のよう。会社はこれで量産して大儲けしたわけである。桜木健作が藤の弟役をやっていて、いい顔をしている。


106 ゼログラビティ(T)
2人の登場人物だけ、しかも途中から1人である。サンドラ・ブロックが体型がきれいで、びっくりさせられる。ジョージ・クルーニーがずっとしゃべり続け、ジョークを言い続けるのは、やはり何かのスペースドラマのパクリではないか。監督アルフォンソ・キュアロンで、ぼくはほかに見たことがない。3D映画を初めて見たが、こういう無重力世界を描くにはぴったりかもしれない。頭の後ろから物が現れる感覚は、なかなか得がたいものだ。しかし、あとで軽い頭痛が来た。話自体はごく単純なもので、ひたすら暗黒の宇宙にいつ放り出されるかという恐怖だけで見る映画である。


107 県警対組織暴力(T)
深作欣二監督、脚本笠原和夫、プロデュース日下部五朗、主演菅原文太、松方英樹。文太は戦争の生き残りで、警察に入ったのはピストルが撃ちたいのと、闇をやっているときに警察に没収されたので、次は没収する側に回りたかったからだという。市警察に入った人間はまともな就職ができなかった落ちこぼれで、やくざと境遇は一緒。しかし、市警の這い上がりは部長止まりなのに、やくざは儲かれば羽振りがいい(ここまでバーの中で警官とやくざが一緒になって台詞をつなげるシークエンス)。映画の中でも、警察からやくざに転身する者が出てくる(佐野浅夫)。やくざ若頭の松方も死に、その盟友ともいうべき刑事菅原も死ぬ。勝ったのは県警、県議会議員、市議会議員、そしてもとはやくざとつるんでいた市警の刑事たちである。
この映画、東映岡田茂山口組に利益供与したのではないかとしょっ引かれたのに腹を立て、仕返しに作ったものである。


笑うのは遠藤達津朗の親分がムショから出てきたら、信心深くなっていて、1日1時間は勤行しないと気がすまないというところ。いつもの悪の強さが一切ない。そばに田中邦衛がいるが、これはムショでのアンコ(おかま)である。『仁義なき戦い』の金子信雄の親分役で全体が引き締まったが、今回も悪徳市会議員の金子がいい。


台詞が抜群にいい。中でも菅原が県警のエリート梅宮辰夫(ほんとに演技が下手くそ)に反旗を翻して言う言葉がすごい。
  あのころ上は天皇から下は赤ん坊まで、横流しのやみ米を食っ
  て生きていた


108 サラの鍵
フランスにとってドイツへの荷担が今も拭いがたい傷痕となっている。The Tender Hour of Twilight という、アメリカにジュネやベケットを紹介した編集者が書いた本の舞台が戦後すぐのパリ。そこで知り合うフランス人にはドイツに荷担したことの罪悪感が生々しく残っている。この映画は現代を描きながら、実はその時代と地続きになっている人々を描いている。良質な、いい映画で、主人公の遅い妊娠が映画の根底を支えている。生むか、殺すか。


なかにユダヤ人を収容したヴェルディブという屋内競技場が出てくる。そこでは排泄さえ許されず、往時を振り返った近隣者が、匂いが臭くて窓を閉じた、といった証言をする。サラは収容所から逃げるが、監視員の名を呼んだことが、相手の人間性に触れたらしく、鉄条網の底を押し上げて逃亡を手助けしてくれる。そのあと、ある老夫婦に助けられるのだが、彼らはパリまで同行してくれ、身元引受人にもなってくれるが、サラは長じてから彼らのもとを離れ、アメリカで結婚をする。しかし、のちに反対車線に車が飛び出して、自殺を遂げる。ぼくはパウル・ツェランを思い出した。1970年になってセーヌに投身自殺したツェランのことを。彼もまた収容所経験者である。

主役がクリスティン・スコット・トーマスで、「ずっとあなたを愛している」で見ている。「ゴスフォードパーク」に出ているらしいが、記憶にない。大人のサラを演じたのがシャーロット・ポートレルで、この配役は素晴らしい。凜とした美しさと、支えようもないはかなさのようなもの……。惜しむらくは彼女はほとんどその後、映画に出ていないようだ。


109 鑑定人と顔のない依頼人(T)
ウエルメイドな映画だが、あまりにもウエルメイドであり過ぎる。鑑定人が絵画を多数秘蔵していると、どうして知ることができたのか。鑑定人が夜に暴漢3人に襲われるが、それをきっかけに女が外に出ることになるのだが、そこまで小細工が必要なのか。鑑定人の恋愛の師であるメカニシャンが、女の名を何度も呼んでいる、とそのメカニシャンの恋人に言わせているが、これは嫉妬を覚えさせて、次の行動に移させるための餌だったことになるが、これも仕掛けが細かすぎる。女はペンネームを使って小説を書いているらしいが、それが特定されなくても鑑定人は満足だったのか。自動人形がいいアクセントになっているが、オチの付け方はそんなにスマートじゃない。よくもまあいろいろと仕掛けの好きな監督ね。女の屋敷の向かいのカフェの入り口右側に座る矮小の女も仕掛けだろうと思っていると、彼女がつねに口にする数字がそこで生きてくる。この仕掛けは上品である。


それにしても、後味の悪い映画である。最後、男が女を捜して訪ねた奇妙なカフェでは、少しの救いぐらい用意してもらいたかったものだ。もっといえば、これはコン・ゲームといわれる分野の映画である。「オーシャンズ・イレブン」「ミッション・インポッシブル」「スティング」などなど、本来は仕掛ける側の手口をほぼすべて見せながら進行させるのが王道である。それをこの映画では、いっさい仕掛けの様子を見せずに、だまされる側だけで撮っていくわけだから、それは映画としては作りやすいだろう。いくらでもウェルメイドにできるからである。先に、なぜメカニシャンが女の名を何度も口にしたのか、という疑問を書き付けたが、揺れ動く、あてにならない心理などをコン・ゲームに織り込むには、もっと説得性がなくてはならないと思うのだ。


110 ドラゴンへの道(DL)
前に一度、見たかどうか。ブルース・リーの映画は「燃えよ、ドラゴン」を最初に見た(これはみんな共通の体験である。そして、すぐに彼の訃報が届いた)ので、そのあとの彼の映画がダサく見えたのが不幸だった。しかし、やはりブルース・リーはすごい。動きが素早い。肩を回して筋肉を解きほぐすときに、逆三角形に膨張するところなど、驚異的である。そして、あの「アチョー」の声。「ア」のときもあれば「チョ」のときもあり、「アチアチ」のときもあって、この快感は凡庸な映画の筋など完全に忘れてしまう。ラストのシーンで、ときおりかわいい猫の目を写したりするのはOK。リーが三白眼でねめつけるところなど、絶対にジャッキーにはありえないし、彼はリーとは別の世界に踏み出すしか道はなかったのだろうと思う。


112 サイド・エフェクト(T)
ジュード・ロウ精神科医。彼の患者が実は詐病で、薬の副作用で殺人に及んだというニュースによって、対抗の薬品会社の株上昇で儲けることを画策し、半ば成功するが、ジュード・ロウはさらに上を行く。キャサリン・セタ・ジョーンズがレズの精神科医で登場する。
2本立てで、もう1本が「パッション」とかいう映画で、「ドラゴンタトゥーの女」の主役が出てくるが、こっちもレズ絡み。あまりにも駄作なので、途中で映画館を出ることに。意地悪支社長がレイチェル・マクアダムスで「恋とニュースの作り方」の女優である。こんな役もできるのかと、ちょっと驚きである。


113 チャイナ・シンドローム(DL)
なぜこの映画を見ていないのかよく覚えていないのだが、見る前から何が描いてあるか分かるような映画は基本的に見たくないということがある。これもそれだろうと思ったら、なんだ、である。シンドロームが起きない映画だったのだ。ははは、である。マイケル・ダグラスがプロデューサーを務めていて、中でも反骨のキャメラマンを演じている。ジャック・レモンはさすがの演技と思われるが、ところどころ妙に間が悪いところがあるのはどうしてか。


もともとはバラエティ情報の現場アナウンサーであるジェーン・フォンダは、できれば本格的なニュース・キャスターになりたがっている。たまたまインタビューに行った先が原発で、そこで核燃料棒露出かという事故に遭遇する。マイケルが所員の右往左往の一部始終を隠し撮りをする。それでも設置者も、事故の原因となった納入業者もグルになって隠蔽にかかる。1日の損失費用がいくらになる、という現今の日本でも同じ理屈で再稼働が行われようとしている。再稼働の無理がたたって、核燃料棒の入った容器が脱落するが、それ以上、事故は進行しない。こういうことが科学的な妥当性のあることなのか詳らかにしないが、なんだ、そんなオチですか、という残念感はある。


フォンダが酒場でジャック・レモンと会うシーン。群がった酔客みんなが、彼女を美人だ美人だという。本当にそうだろか。彼女は71年の「コールガール」がいちばん美しかったのではないか(「バーバレラ」だという人もいるが、ぼくは前者派である)。確かに年をとってもきれいな女優さんであることは確かだが。この映画は79年作で、公開の12日後にスリーマイル島事故が起きている。監督はジェームス・ブリッジズで、「ペーパーチェイス」という作品をぼくは見ているかもしれない。


114 ハンナ・アーレント(T)
アイヒマン裁判を傍聴したアーレントは、彼には「凡庸な悪」しか見いだせない。悪魔的でもなければ、絶対的な権威でもない。官僚であり、テクノラートである。それが巨大な悪をなした根幹にあるもので、ではユダヤ人指導者のなかにも同じものはなかったのか。もし彼らの一部にでも「善」が作用すれば助かる人はもっといたのではないか、と彼女は問う。自身が収容所経験を持つ彼女が、である。雑誌「ニューヨーカー」に4回掲載されたエッセイは、初回から嵐のような騒ぎを引き起こす。夫とのこまやかな愛情は終生変わらず、それが彼女の支えだが、「あなたはイスラエルをどう思うか」と尋ねられ、私に大事なのは友人の一人ひとりだと答える。これは、収容所を経た人の透徹した見解だろうとぼくは思う。映画では「根源的な悪」と「凡庸な悪」が対比されるが、「根源的な悪」がどういうものかは明らかにされない。ヒトラーは絶対的な悪か。「絶対的なものは善しかない」(引用が不正確かもしれない)という言葉も出てくるが、これは著作に当たらないと分からない問題かもしれない。今年一番の刺激作であるが、なぜ岩波ホールに人が群がったのか、その理由を知りたいものである。ぼくは、ある哲学書の中に彼女のことが言及されていたので、いずれ本を読みたいと思っていたから、ちょうどいい機会だったわけである。映画は同時代に生きていないと正確なことは分からないと小林信彦先生はおっしゃるが、まさにこの映画など好例である。


115 武士の献立(T)
加賀騒動というのがあるらしい。いわゆる跡目争いである。その中和剤として料理が供される。もともと幕府に反抗の意志のないことを示すための供応料理を、世情を鎮めるために利用したわけである。その料理を作るのが包丁侍といわれる一群で、その仕切りの家系をいやいや継いだ次男とその嫁の話である。高良健吾が次男役で、彼は「まほろ駅前」「フィッシュストーリー」で見ているが、どっちもキレている役で、なかなか目が鋭い。今回は侍になりきれない鬱屈した男の役で、やはりキレ役のほうが合っているような気がする。妻は上戸彩で、可もなし不可もなし。着物を着ると、全体が大柄な感じに見えるのが意外である。義母が余貴美子、義父が西田敏行、監督が朝原雄三で「釣りバカ」の監督である。


116 フットールース(T)
これはリメイクだが、よく出来ている。シンプルな構造の映画なので、やり直しが利くのだろうと思う。十分に楽しむことができた。神父の娘役をやった女優ジュリアン・ハフが、ジェニファー・アニストンによく似ていて、キュートである。その父親がデニス・クエイドである。「エデンより彼方に」で同性愛者を演じていた。その妻がアンディ・マクドネル