2011年秋以降

kimgood2011-10-15

118 HOAX(D)
ハワード・ヒューズを売った男、というのがサブタイで、なんとリチャード・ギア主演である。売れない作家が起死回生で謎の富豪とコンタクトがあり、その自伝の独占権を持っているとマグロウヒル社(実在)をだます話である。ほんとにあった話らしい。ヒューズがまったく人前に出ないことをいいことに、自分が策動してもバレないと踏んだ犯罪である。途中でヒューズ側も彼を政治的に利用しようとし、ニクソン追い落としの資料などを渡す。結果、政治的妥協ができ、売れない作家は孤立する。いろいろな資料を読み込むうちに、男は自分をヒューズと同一化するようになるが、ギアにそんな細かい演技を求めるのが間違っている。彼の仕事のパートナーはほとんどアホで、最初の版元との交渉でも馬脚を表すようなことを平気で言ってしまう。後半3分の1は見ているのもつらい。


119 ブローン・アパート(D)
壊れたアパートだと思ったら、blown apart で粉々に吹き飛ばされて、だった。最初のセックスシーンで、向かいの高級アパートが爆発するだろうと身構えたのは間違いだったが、そのセックスの間にTVでかかっているサッカー試合の最中にテロが起きる。自分が不倫している間に、その試合場には夫と息子が出かけ、犠牲者となり、当然、罪の意識を抱くことになる。再生の過程で、爆破犯の息子と出会い、彼と母を赦す。彼らも彼女に謝罪をする。その間、彼女はセラピーの一環として、ビンラディンに仮の手紙を書き続ける。しみじみとした映画で、好感である。夫が爆破処理班で、それが最初は明かされない。やたら衰弱した様子で帰ってきて、妻の言葉にも反応しない。もちろん性的な関係を持とうともしない。妻の咎めるような目に、「とにかく生きて帰ってきたろ」と答える。その言葉が謎として宙に浮いたまま、映画は進行するわけである。その彼の上司が、ほかの政府要人を狙ったテロに注意を向けたために、サッカー場のテロを知りながら黙認。テロ犯は一人で被害は大したことないだろうと。上司は妻と別居していて、部下の妻を誘う。しかし、真相を知り、彼女は離れる。


妻がミシェル・ウイリアムズで、ぼくは「シャッター・アイランド」「彼が二度愛したS」を見ている。不倫相手がユアン・マクレガー。「彼が愛した〜」でミシェル・ウイリアムズと共演している。この人の映画をぼくは結構見ているが、必ずセックス・シーンがある。


120 猿の惑星ジェネシス
主演ジェームズ・フランコ(スパイダーマン、127時間で見ている)、女優フレイダ・ピント(スラムドッグ・ミリオネアで見ている)、父親役ジョン・リスゴー(いろいろ見ている)、猿の檻の看守長がブライアン・コックス(ボーン・シリーズで見ている。いい役者である)。猿が脳薬で劇的に進化、その息子がシーザーで彼は自分が誰かと悩むまでに進化する。主人と離れ、猿の統率者となり、言葉を話すまでに成長する。その最初のひと言が「NO!」である。



シーザーが成長するまでは面白いが、あとは反抗の目的があるわけではないので、単なる暴徒の描写が続くだけで退屈である。最後は森に落ち着いて終わり、というだけの映画である。我々が見た「猿の惑星」プロトタイプは、もっともっと不気味だった。かぶりものの猿だが、顔の表情がよく動いたものだ。シーザーの小さい頃の面影に、プロトタイプの女性猿医学者の顔を思い出す。口をやや開け気味にするのが似ている。


121 ブリッツ(T)
久しぶりにユナイテッド系の映画館で見た。ステイサムの映画の観客、ほぼ中年夫婦、それに独りで見ている中年女性が2、3人。どういうんでしょ、これ。


トランスポーター以来の出来である。全編、練り込まれていて、たるみがない。アナーキーだが、知的でもある警官連続殺人犯ブリッツ(稲妻だそうだ)がいい。エイダン・ギレンというらしい。こいつ、もっと出てくるだろう。それとステイサムと相棒を組むゲイの刑事局長(?)もいい。ステイサムが機械に弱く、それを助ける女性警察官(事務官?も)、妙にステイサムと仲がいい黒人の警官もいい。


ぜひシリーズ化を望む。できれば、1年に1本、それも2作目が1作目よりいい、というシリーズにしてほしい。アイアンマンもスパイダーマンも、何もかも2作目でがっかりである。せっかく浮上したんだから、その浮力を保ってほしい。そういう意味では007など脅威ということになる。ダウニー・ジュニアの「シャーロックホームズ」2作目がやってくるが、はてさていかがな出来か?

今年は「ゴーストライター」「アジョシ」「ブリッツ」が光っている。新作をあまり見ていないので、大したことも言えないが。


122 白いリボン(D)
ミハイル・ハネケの映画である。白黒の映像が美しい。静かなたたずまいの家を撮すとき、なんとも言えぬ幸福感に浸される。そのオーストリアの田舎で邪悪な意志が動き、ドクターが落馬を仕掛けられ、少年が裸で逆さまに木に吊され、知的障害児が目にナイフを入れられる。村の教師は、躾のきびしい神父の長女を疑う。実際、彼女は父親の飼っている禽にハサミを刺して殺し、父親の机の上に置くようなことをする。その弟も、その土地一帯を所有する男爵の子どもと沼の縁で遊んでいるときに、自分の笛が思うように鳴らず、その金持ちの子がやすやすと吹くのを見て、沼にその子を突き落とす。それ以前に、父親は、彼らに白いリボンを着けて、道徳的戒めとしていたが、それを解いたばかりの事件だった。突然、ドクター一家が村からいなくなり、目にナイフを入れられた子どもの母親もいなくなる(母親は、一連の事件の犯人が分かったと言って、中央の警察へ届けに行くと言って、姿をくらましてしまう)。その母親はドクターの手伝いをする人間で、二人は肉体的な関係にある。しかし、落馬の病が癒えて、家に戻ると、女とは無理に付き合ってきた、その暗い顔を見たくもない、と追い払う。女は、ドクターの近親相姦をほのめかして出て行く。実際、のちの場面でそれらしきところが出てくる。男爵家も平穏ではなく、妻は離婚を考え、息子の事件のあとイタリアへ逃避し、そこで彼女を温かく庇護する男性と出会ったと夫に告白する。嫉妬、憎悪、裏切り……それらが渦巻くこの村はいられない、と彼女は言う。しかし、皇太子がセルビア人青年に殺され、それが発端で隣国セルビアと戦争が始まり、第1次大戦へとつながっていく。


映画は何ら解決を提示しているわけではない。犯罪自体も、確実な死を狙ったものではない。それでも邪悪な意志が働いているように見える。それを支えている、あるいはそれに支えられているのが、思春期の危ない感性である。彼らは平時であればそれをやすやすと乗り越え、ふつうの大人として成長するのだろうが、あとに控えているのがもっと邪悪な意志・戦争である。ハネケは、小さな村の狂った歯車がそのまま軋みを立てて、戦争の響きとなっていくことを暗示している。


ぼくは彼の作品は3作目で、「ピアニスト」は主題と映像が正直すぎて、見ていられない感じだった。「隠された記憶」は、据え置きカメラのまったく動かない映像、それも10分は動かないのには、うんざりさせられた。それと非常に残酷な映像を撮るので、それも避ける理由だったが、この映画は残虐性はそれほど強調されていない分、落ち着いて見ることができる。やはり秀作であろう。


123 スリー・デイズ(T)
ポール・ハギス監督、脚本である。ラッセル・クロウが無実の妻を脱獄させる話。どう見ても、妻は無実に見える。それをぶち込む警察のほうが問題だろうと思うが、この映画は脱出劇にポイントがある。かなりギリギリに逃げおおせるが、空港で彼ら(子どももいる)が検査ゲートを通ったあとに、彼らの顔写真がネットで届くというのはご都合主義である。ラッセル・クロウは太ったままである。彼をハンサムと言う妻の目はどうなっているのか。この映画を見るかぎり、ポール・ハギスも普通の映画監督の一人である。


124 風と共に去りぬ(DL)
長い……4時間である。それにしても何という映画だろう、というか何という主人公だろう。アイルランド系の勝ち気な女スカーレットは、一人の男アシュレイを愛し続けるが、その間、自分の都合で3回結婚する。最初は、ほかの女(メラニー)と結婚したアシュレイへの腹いせ、2回目は自分の領地タラに対する郄税金を払うため妹の彼氏を奪い、3回目も金目当てで、相手は戦争の英雄バトラー。


スカーレットは周りは南北戦争必至と浮かれているのに、まったく興味がない(現実的なバトラーと似ている。しかし、南部の旗色が悪い、と分かった段階でバトラーは戦地へ赴く。そのときに北部の財宝を盗み、戦後、財をなしたという設定である)。2番目の男が戦争で死んでも、喪に服するのが嫌でダンスパーティに出かける。戦争の被害者を診る病院でナースのまねごとをするが、死体や血に嫌気がさして逃げ出す。3番目の夫と新婚旅行に行ったときは、淑女にあるまじき食べ方をする。子どもを産んだあとは、夫とベッドを共にしないと宣言する。聖女のようなメラニー(スカーレットの不義を信じないし、夫を愛し抜き、娼婦ともふつうの口をきく)が死んで初めて、彼女はアシュレイではなくバトラーを愛していたと気付く、というのだが、男争いの一方が死んで、競う気をなくしただけであろう(映画では、夫の愛にやっと気付く、という設定になっているが)。バトラーは熱烈にスカーレットを愛しているが、打算的な面や母親失格なども含めて愛している。そういう意味では、スカーレットが一切虚飾を脱いでいられる相手でもある。


夜を拒否されたバトラーが、酔いに任せて、彼女と強引に事に至るシーンがあるが、翌日の彼女の晴れやかなこと。小唄のひとつも歌い出しそうな様子である。しかし、バトラーは子どもを連れて、商用に事寄せてロンドンへと旅立つ。結局、子どもが母親恋しと言うので、もとの鞘に戻ることになるが。しかし、人生の暗転が続き、娘は落馬で死に、2人目は流産である。メラニーの死でスカーレットが晴れてアシュレイのもとに走るだろうと、バトラーは彼女の制止を振り切って家を出る。彼女は、「どうしたらいいか分からない。明日考えよう」と歩き出し、「いやいま考えないとダメ」と変な独り言を言う。そして、魂の故郷タラへ戻って考えよう、と思い立ち、現地の夕日の中に立つところで映画は終わる。


いやはや、独特な女である。この映画が長く愛されてきたのは、このスカーレットの独自性が理由だろう。よくぞこういうずば抜けた女性像を1936年の時点で提示したものだと思う。原作が読みたくなる映画である。


125 さすらいの女神(ディーバ)たち(T)


監督マチュー・アマルリック、俳優でもあり「007慰めの報酬」に悪役で出ているらしいが、記憶にない。この映画でも主演で、目や鼻の感じが三木のり平に似ている(もっと似ている人がいるのだが、顔は思い浮かぶが、名が思い出せない。もじゃもじゃ頭で、目がぐりぐりで、少し腰を曲げて話す役者である。たしか「俺たちひょうきん族」の中の定例の居酒屋コントで、しがないサラーマン役で出ていた人だ)。侘びしくて、せつない、そんな男である。


そもそもは、こんな体でストリップ巡業をする女がいるのか、と何かの記事を見て、びっくりしたのが元らしい。その裸は政治的なプロテストである、と思ったという。歳をとり、お腹がたるみ、横幅がたっぷりの女たち。それを、かつて敏腕テレビプロデューサーだったアマルリックが一座としてフランスに呼び、主に海岸の町を中心にショーを繰り広げていく、というものである。その間に、興行界の帝王らしき男にパリ興行のことで談判したり、離れて暮らす子ども2人との交情などが挟まれる。ホテルやレストランで、そこの受付などに置いてあるキャンディやガムを取れるだけ取る癖(?)が面白い。昔の部下に帝王との仲介を頼み、そのあと喧嘩しながらも酒場で飲み、翌朝同じベッドに寝ているシーンがあるが、ゲイではないらしい。びっくりする掃除のおばさんに「酔って寝ただけだ」と言う。


一座は「ニューバーレスク」、単なるストリップではなくショーアップされたもので、それは見応えのある作りになっている。映画「キャバレー」で繰り広げられた世界は、かなりミュージカルに寄ったものだったが、こっちはストリップを中心に演出を加えたものである。


最後に踊り子の一人とアマルリックが結ばれ、一座がほっとする。最後は、プールのある広壮なアマルリックの自宅に集い、彼がマイクを握り、「俺にやれるだろうか」と独り言を言い、そしてシャウトしたところで映画は終わる。エンドロールに流れるのも、そういうシャウトを利かせた曲である。彼も一座の一員になるということなのか。


どこかの映画祭で賞を取っている。懐かしい映画だなというのが第一観である。こういう映画が撮られなくなって久しい、そういう感想である。第一、旅の芸人を撮ることがなくなった。そういう文化が消えたわけでもないのだが……。


126 シンデレラ・ストーリー(DL)
ヒラリー・ダフ主演、どうしようもなく駄作だが、彼女は可愛い。歌手でもあるらしく、全世界350万ヒットの曲があるらしい。TVの役者さんなのかもしれない。


127 ムッソリーニとお茶を(DL)
フランコ・ゼフィツレリ監督で、イタリア・フィレンツェに居住するイギリス老婦人たちの話である。その“スコーピオン”と称される数人の婦人のボスが、夫が外交官だった未亡人、マギー・スミスが演じている。絵画を買い漁るアメリカの成金にシェール、未亡人と肌合いが合わず反目する。未亡人はムッソリーニはイタリアに規律を呼び込むとして好意的で、次第にファシストの横暴が募っても、ムッソリーニに談判すれば解決できると楽観する。実際に会いに行くが、口から出任せの言葉を信じて帰ってくる。敵性外国人として粗末な施設に収容され、しばらく経ってホテルに移送されたときにも、ムッソリーニのおかげだと言う。実はシェールが資金を出していたのである。シェールは、惚れたイタリア男に全財産をだまし取られ、失意に沈むが、反目していた未亡人に励まされ、国外へ脱出することになる。


イギリスの狷介な老婦人のなかに、何か時代を超えて変わらぬ価値観のようなものを見出そうとした映画かもしれないが、退屈である。


127 マネーボール(T)
メジャーリーグのアスレチックスのGMが管理野球に目覚め、監督、スカウト、そして外部圧力を戦いながら、メジェーリーグ記録の20連勝を成し遂げる。一人の有力選手が抜ければ、その穴を安い給料の選手3人で埋める。そういうやり方で選手補強をし、最後、レッドソックスの13億円弱の移籍話を蹴って、アスレチックスの地区優勝、ナショナル優勝を今なお追っているという。ブラッド・ピット主演、20連勝まではぐいぐい引っ張る感じがあって、映画館のなかもぴしっと集中している感があった。さすがに地区優勝がないと分かれば、気分はダレる。主演ブラピである。フィリップ・シーモアが旧弊の監督を演じるが、生彩がない。こういう役を受けてはいけない俳優さんのはず。それより一癖、二癖ありそうなコーチ陣がいい。ブラピの娘がギターで歌う思春期の少女の歌はグッド。


128 メカニック(DL)
ステイサム兄いの映画である。いいです。ただ、騙されて殺した恩師の息子を、いとも簡単に殺すのはどうか。冷た過ぎはしないか。誤解だ、と説得したらどうか。それを抜かせば、楽しめました。ノリはトランスポーターのアサシンものという感じ。


129 ロシアン・ルーレット(DL)
またステイサムだが、脇役である。貧乏青年がふとしたことから大金を稼ぐ話に首を突っ込み、気付いてみればロシアン・ルーレットで勝者に賭けをするゲームの参加者に。運良く一人残り勝者となるが、家に帰る電車でステイサムに殺される。脇に回ってステイサムは脇でしかないのが寂しい。


130 いちご白書(T)
もう日本で35ミリフィルムをかける映画館が無くなるらしい。ゆえにデジタル化されていない名画で映画館にかからないないものが出てくる──その1つがこれであり、あと「ひまわり」もそうらしい。新宿・武蔵野館でそういうシリーズをやっている。アンケートがあったので、「ハリーとトント」「ドライビング・ミス・デイジー」「さよならチップス先生」を書いておいたが、もしかかしたらデジタル版はすでにあるかもしれない。


この映画、もうどれくらい見ているだろう。やはりキム・ダービィは永遠に美しい。


131 ウインターズ・ボーン(T)
このボーンはさて何のボーンかと思ったら、骨のボーンであった。「冬の骨」とは、さて? 監督は女性でデボラ・グラーニック、これが3作目らしい。


舞台はミズーリ州のど田舎、森の中という設定。父はクスリ(覚醒剤?)製造で刑務所に、母親は精神を病み、17歳の女の子(ジェニファー・ローレンス)が小さい男の子と女の子の世話をしている。ムショの父親が保釈で出て、その担保に家と土地を差し出したことが分かる。もし次の審判までに姿を現さないと、彼女一家はそこを追い出されることになる。しかし、父親探しを始めるほどに、その土地の暗部に手を突っ込むことになる。


結局、父親の兄(ジョン・ホークスが渋い)が助け船を出してくれ、父親の死骸も見つかって、立ち退きを免れる。父親の保釈に金を援助した人間(土地のボスで、殺すために保釈させたらしい。警察に仲間のことをゲロしたことが掟破りというわけである)がいたらしいのだが、その金も彼女に渡される。


彼女が探りを入れる先は、甥であったり、遠い親戚であったり、何らかのかたちで血の繋がった連中ばかり。それが、すべてどうやら犯罪を生業とする一族のようだ。彼女自身、その一族の反権力的な在り方には共感を持っている。


行き場のない映画だが、多少の希望もある。それに寒々しい風景──どれも「フローズンリバー」を思い出させる。国家だとか自治体だとか、どこにそんなものがあるのか、という感じである。まして、この映画では誰の手も借りずにサバイバルしてやるぞ、という17歳の女の子の根性の座ったところが主題なのである。彼女は幼い弟に自分が習得した生き残りの技を教え込もうとする。リスの捌き方、ライフルの撃ち方などなど。まるで西部劇である。


アメリカって、どうなっているのかと思う。NYなどで格差反対デモが起きているが、もうそんなことで取り返しがつかないほどに壊れているしか思えない。コーエンの「ノーカントリー」は現代都市のなかで人間狩りをするノー・ルールな世界を描いていたが、この「ボーン」もノー・ルールは一緒である(コーエンの西部劇「トルー・ブリット」の方がまだしも、背中から撃たない、果たし合いをするなら、ある程度の距離をとってから、などの殺しのルールがあった)。行き着くところまで行ってしまった世界である。


132 アリス・クリードの失踪(T)

登場人物は3人、それもほぼ室内。ダレることなし。筋を面白くするために無理な設定もあるが、致し方ないかもしれない(誘拐犯がホモ同士というのが、のちにならないと明かされない、など)。最後に大金が逃げていくという設定は、キューブリック初期作品や「地下室のメロディ」を挙げるまでもなく古典的である。犯人たちが誘拐した女をMissを付けた呼ぶのが印象的である。若い犯人がマーティン・コムストン、表情に翳があってグッド。ケン・ローチの「スゥイート・シックスティーン」に出ている。監督はこれが長編処女作でJブレイクソン。


133 この愛のために撃て(T)
フランス映画、ちょっとしたことからマフィアの復讐騒ぎに巻き込まれた夫婦の話。殺し屋の黒人が次第に人間らしくなっていく様子が面白い。どうしてこうも警察腐敗ものって多いのだろう。日本でその種のテーマを取り上げた映画は記憶にない。この映画、楽しめました。妊娠後期らしい妻の焦りを時々差し挟むと、もっとドキドキものになったに違いない。


134 アメリカン・グラフティ(D)

これで10回目くらいになるだろうか。いくつかの発見があったので、それについて触れたい。この映画は、田舎を出て外の世界へ出て行く人間と、田舎に留まって生きる人間の愛情・葛藤・相剋を描いている。その象徴がクルマで、外に行こうとする2人はクルマに乗らず、内に留まる2人はクルマを乗り回す。クルマこそ娯楽のないこのローカル・タウンの遊び道具なのである。道を走りながら声をかけあい、気に入れば乗り移る。クルマを乗り捨てて、また後で戻ってきたり、自在な移動の道具であり、異性を誘う最大の道具でもある。


ティーブはカートの妹ローリーと付き合っている。生徒会長で、ローリーはチアガール長。スティーブは大学に行ったら、お互いに自由に交際しようと申し出る。ローリーは肯うが、真情は離れたくない一心。そのスティーブは自分のクルマをテリーに貸し、休みで帰ってきたときは戻してくれ、と言う。もう一人の脱出組カートはクルマを持たず、人のクルマに乗ってばかりいる。彼はチンピラのファラオ団の一味になったり、幻の女、実は高級娼婦を追いかけたり、東部の大学へ行こうかどうか逡巡する一夜で、ローカル・タウンの深部をのぞき見る。まして、伝説のディスクジョッキー、ウルフマン・ジャックの素顔まで拝んでしまう。彼は裏の世界でさえチャチであったり、薄っぺらであったり、すごく美しいものであることを知って、翌朝、心おきなく旅立っていく。一方、スティーブはローリーの反発に戸惑い、彼女がミルナーというレース男(ハリソン・フォード)と同乗していると聞き、テリーからクルマをもぎ取り、探しに行く。彼がクルマの人となった時点で大学行きは無くなったと同然である。


カーレースで不敗のジョンが独特で、カートの田舎脱出にいちばん神経質になているのは彼のようだ。そろそろ子どもの遊びから抜けなければとも思っているようだ。そんな彼のクルマに乗ってくるのが14歳の女の子キャロルである。2人の掛け合いは楽しく、子どものキャロルにジョンが巻き込まれ行く様子がおかしい。彼はミルナーとのレースに勝つが、実質は負けの試合だった。

テリーはクルマを持たない。経済的な理由らしいが、いかにも持てそうもない風采と相まって、独特な雰囲気を醸し出している。その彼が淑女して扱うのがデビーで、その待遇にデビーはテリーに好意を見せる。メガネをかけているからインテリだとテリーに言うのがデビーである。この映画のなかでいちばんしっくり行っているのが、この2人である。ローカルにいることに何の疑問も逡巡もないからである。


故郷を出るのはなぜか? カートは「家を探すために家を出るのはおかしい」と迷う。スティーブは「友達を捨ててまた友達をつくるのはなぜか」と惑う。学校の先生は大学へ進んだが、1年で田舎に戻ってきたと言う。I'm not a competive man.と先生が自分を表現すると、カートも「ぼくも同じ」と言う。そこに女性生徒が先生と相談事を始める。その様子は、恋人のよう。田舎に留まることの意味を、このシーンは示唆している。こっちにも幸福がある、という意味だが。


この映画は73年の作、いつの時代を扱っているか分からないが、ローカルから都会へと出て行くことがいかに試練だったかが分かる。72年に北海道から仙台の大学へと進んだぼくにも、この映画の主人公たちが持っていた怖れや不安、憧れが手に取るように分かる。


135 レオン(D)
何回目になるだろうか、見るたびにこの映画に惹かれていく。前も完全版を見ているが、封切りとは22分違うらしい。増やしたのは主にマチルダがレオンにモーションをかけるシーンのようだ。レオンはマチルダが言う18歳という偽りを信じてしまう(実は12歳)。それがないと、罪に触れることになるからだろう。公開時に2人の恋愛要素を削ったのも、そういう事情が絡んでいたのではないかと思われる。


今回気付いたのは、冒頭とラストのシーン。まずこんもりとした森の俯瞰で始まり、カメラが上空を飛び、イタリアン街のアイエロの店内へと潜り込む。ラストは、マチルダが鉢植えの葉っぱを孤児施設の前庭に植え、それからカメラが上空に上がり、冒頭と同じくNYの遠景へと近づくところで終わる。レオンはどこに移動するにもその鉢植えを携え、丹念に水やりをする。マチルダは、根のない草も植えれば根を張る、とレオンに教える。それがラストの場面と繋がっていく。


レオンは19歳のときに金持ちの娘と恋をするが、娘の親の反対に遭う。その親は娘を射殺するが、事故扱いですぐに出てくる。レオンは復讐し、アメリカへと渡る。この話をマチルダにし、まだセックスはできない、と断る。レオンは少し頭の弱い人間なのだが、この理屈の合った話で少し利口そうに見える。レオンの位置が曖昧に感じるのは、こういうところである。あまり理知的に振る舞わせないほうがいいのではないだろうか。


136 ジョージ・ハリソン(T)
スコセッシ監督で、210分もある。副題がLiving in the material worldである。「物質世界に住んで」くらいの意味か。長尺の映画だが、まったく飽きが来ない。彼がヒューモリストで、女にもて、モンティパイソンを援助し、しまいに映画会社を作り、F1レーサーとも付き合ったり、ガーデニングに凝り、実に多彩な、人間味のあるミュージシャンだったことに驚いた次第である。友人が死んだときに「彼はまだ俺たちの周りにいる」と言って人を慰めたという話には、ほろりときた。売り出し中のビートルズの映像にも涙。ああ、元気に跳ねたり飛んだりしているなぁ、と。


ジョージがほかの3人の触媒を果たしたようである。だから、彼がグループを抜けようとしたときに瓦解が起きる。アルバムに彼の曲が採用されないことも大きかったようだ。マッカートニーは、ジョージの独立を「音楽のため、そして金のため」式のコメントを言っている。彼はビートルズで音楽的にやれることは全部やった式のことを言っている。ここにもジョージとの違いが出ている。シングルのA面は決まってマッカートニーだったそうだ(ということはレノンがB面!)。


スコセッシがこの映画でやれることは限られている。ザ・バンドのコンサートを撮ったときも、ライブという制約があった。ボブ・ディランでは、今回と同じように過去の映像を使って、表現するという制約があった。すでに故人となった人間の映像を繋ぎ、音楽を合わせ、家族や知人たちのインタビューを挟むことしかできない。しかし、さすがビートルズというか、さまざまな映像が残っていて、それを手際よく処理することで映画にリズムが生まれてくる。手練れのスコッセッシである。


137 Glee(D)
高校を舞台にした歌と踊りの連続テレビである。落ち着いた出足、少しずつ物語を動かしていく様子も好感である。あざとい部分もあるが、我慢できる範囲である(主人公の妻の想像妊娠とその後の策略、チアリーダー部の監督先生の横暴さなど)。1カ所、地の部分からすっと歌に入るところがあって、ああ、ミュージカルと胸が躍った次第。どこまで付き合うか分からないが、まだアメリカにミュージカルの根は枯れていないという証拠を見てみたい。


138 ばかもの(D)
金子修介監督で、「デスノート」を撮っている監督らしい。プロデュースに奥山和由の名がある。主演内田有紀成宮寛貴である。小林信彦先生が週刊文春で褒めておられたので、いつも借りようと思いながら、レンタル屋で空きがなかった作品である。


内田有紀がこんなにいい役者とは思いませんでした。小池栄子よりいいじゃないか。ただ、あれだけセックスシーンが多くて、一切胸などを見せない、というのはいかがなものか。不自然である。成宮という役者は初めてだが、もう一つしっくり来ない。その理由はぼくも分からない。たとえば、内田としばらくぶりで会うシーン。彼女はどうしてか髪が真っ白になっている。その理由はあとで明かされるが、再会のときに何のリアクションもないというのはおかしくないか。これは監督の演出の悪さが大きいが、役者だって自己主張があるべきだろう。


高崎の三流大学の男が年上の女に惚れ、セックスに溺れていく感じがよく出ている。好きだな、バカだな、と思う。女は急に結婚をするといって、男の目の前からいなくなる。あとで言うには、惚れすぎて怖くなったという。たしかに、男は別の女とも結びつくが、しっくりしたセックスにならない。あるいは、大学生の頃から付き合っている彼女とは、肉体関係には発展しない。お互いに一度だけ、アプローチするが、片方がその気にならない。男にとっては内田演じる年上の女が、ファム・ファタール(運命の女)だったというわけだ。


男が友人の結婚式で東京に来たときの描写が笑わせる。高崎こそ自分の生きる場所という、何のわだかまりもない様子がすがすがしい。それは年上の女も同じである。監督はコメディーを撮っているらしく、その感じはよく分かる。


139 シークレット・サンシャイン(D)
イ・チャンドンという監督で、これが4作目の作品だそうだ。主演がチョン・ヨンドンという女優、そしてソン・ガンホである。最初がクルマのフロントガラスから見た青空。ガラスの日除けの人工的な青が、けっこうな分量で画面を覆っている。それを眺めているのが小さな子ども。映像が2、3秒、長い気がする。クルマの外に母がいて、窓をコツンコツンと叩いて、外に出たら、と言う。これと同じシーンがもう1回繰り返されるが、その時は母がフロントガラスを見て、外から刑事がコツンとやる。外に出ませんか、と刑事が言い、事件現場が撮される。息子が誘拐の果てに殺されたのである。


浮気の夫を自動車事故で失い、その故郷・密陽(シークレットサンシャイン)にやってくる。ピアノ教室を開き、投資用の土地を探していると言いふらす。実は夫の借金返済でそれほどのお金を持っていない。誘拐犯は投資の話を耳にし事件を企てたのである。


ソン・ガンホは整備工場の社長で38歳独身、事あるごとに母親から電話がかかってくる。不動産屋と関係があるのか、女の住まい兼仕事場を見つけてやる。俗物の塊に見えるが、実は母親思いの純真な男なのが徐々に分かってくる。


女は失意からキリスト教にのめり込む。ガンホもそれに合わせて協会通いをする。女は神に癒されたと言い、誘拐犯を赦すために刑務所へ行くと言い出す。ところが、犯人も獄中で神に帰依し、すでに赦しを得ていると言い、平安な顔つきをし、なおしかも女に向かって「あなたの平安を願っている」などと言い出す。女はこれで神にも嫌悪を憶える。そもそも彼女を宗教に誘った薬屋の主人を誘惑し、セックスに至ろうとするが、男は途中で止める。神が見ているかもしれないから、と言う理由で。女は吐く。その日はガンホとデートのはずだったのだが、わざとポカしたわけである。ガンホは家で一人食事をし、母からの電話に「仲間と飲んでる。食事もした」と嘘を言って心配させないようにする。そこへ女が現れ、あんたもセックスしたい? と訊く。あなたは遠くからただ見ているだけ、という即興の歌なのか小さい声で歌い出す。ガンホは怒り、室内の物を壊す。女は怯え、狂ったように飛び出す。


氷で顔を冷ます女。果物を持って、剥き始めるが、ナイフから直接口に入れる。すっとカメラが下に行くと、血塗られた手首が写る。女は病院へ入る。相変わらずガンホの献身は続く。退院後、髪の毛を切りに入った美容院で、店員となっている犯人の娘に出合う。少し言葉を交わすが、突然、外へと飛び出す女。家の庭でイスに座り、不安定な台の上に鏡を置いて、髪を切り始める。そこへガンホは現れ、俺が持つよ、と言って鏡を支える。すぅーっとカメラは左下へと移動し、粘土質の地面に水が少し溜まった様子を、これまた3、4秒余計に長く撮る。2人の会話が聞こえるわけでもないし、切った髪が風に吹き寄せられるわけでもない。撮されるのはただの寂れた庭の片隅である。しかし、光は十分に当たっている。


彼女は、誰かに常に見られている感覚が気持ちいい、それが神だ、と言う。結局、この映画では、ガンホがそれである。神のように裁きもしない、言ってみれば完璧な善なる神である。それでいて俗そのもの。うまいこと描くものである。ガンホだからできた役か。この監督の新作『ポエット』がかかる。旧作もぜひ見てみたい。


140 「ペーパームーン」(D)
もう何回目になるだろう、新たに気付いたことについて触れたい。いわゆるロードムービーで、喧嘩・反目しながら次第に打ち解けていく様子が描かれる。この映画の場合、疑似親子が実は本当の親子という変化を追うのだが。娘がアディ、父親がモーゼ・プレイという聖書売りに引っかけた名前である。監督ピーター・ボグダノビッチ、脚本アルヴィン・サージェント、73年の昨である。


冒頭がアンディの母親の埋葬の場面。そこにモーゼが現れるが、ほかの墓前に備えられた、すでに枯れてしまっている花をもぎとり、それを墓穴に投げ入れる。これでこの男の素性がすぐ知れる。立ち会っていた近所の老女が、アンディをどこそこの親戚に連れて行ってほしい、と頼む。そこからイヤイヤ2人連れが始まる。


アンディは母親がバーで男を掴まえたがゆえに自分が生まれたと思っている。モーゼは「バーで出合ったら必ず子どもが生まれるとは限らない」と名台詞を言う。アンディは顎の形が似ているからモーゼは父親ではないか、と言う。ほかの2、3の親切な男もそうかなと思ったが、確信がない、とも言う。


モーゼは、アンディの母親をクルマで跳ねた男の兄の経営する店に行き、いくらかでも払わないと、訴訟で破産するぞ、と脅す。1千ドルを求めるが、相手は足許を見て200ドルと言い、モーゼは承諾する。アンディはその一件を見ていて、父親でないならそのお金を返せ、と粘る。結局、これが2人が旅を続けざるをえない動機となる。心憎い設定である。


死亡記事を見ては喪中の家に行き、ご主人が生前特注で奥様の名前入りの聖書を頼んでいた、と嘘をつく。こう言われて断る奥さんは珍しい。モーゼスが持ちかけるのは7ドルとか8ドル、ところが娘は相手を見て24ドルと言ったり、タダで渡したり、実に機転が利き、眼力と才能がある。

深夜、モーゼが女を連れてくるが、部屋に入れず帰す。そのままモーゼはベッドに倒れ込む。アンディは起き出し、いつも持ち歩くブリキの小さな宝箱(そんな高級なものではないが)を持ってトイレットへ入る。そこでタバコを吹かしはじめ、鏡にシナを作ったり、ブレスレットを着けてみたり、体に香水を拭きかけたりする。白いランニングシャツに白いパンツ姿である。ふと「レオン」のマチルダを思い出した。


詐欺を重ねながら逃げる2人は、言ってみればボニー&クライド物のパスティーシュではないか(「俺たちに明日はない」1967年)。時代も大恐慌の時代で、道端に家族で困っているのを見かけると、きまってアンディが「助けてあげよう。大統領も助け合いが大事だと言っている」と言う。


面白いのは父親が“ときそば”をやるシーンがあること。店の老婆に「若くて孫がいるなどとは思えない」とか次から次と世辞を言い、お金をごまかすのは“ときそば”と一緒である。もう1つ、父親が10ドル札で買い物をする。次に娘が5ドル札で買い物をし、釣りが違う、お婆ちゃんの形見の印が付いた10ドルで払ったと泣き出しそうな顔をする。確かめると、サイン入りの10ドル札が見つかる、という次第。


いつ見ても深く印象に残るのがマデリン・カーンの演技である。サーカスの小屋でエジプトの女王役をやっていたのを、モーゼが何回も見続けて旅に連れ出すことに成功する。実は、付き人の黒人少女のセリフによれば「自販機みたいに、金を入れさえすればすぐに寝る」女だという。モーゼはそんなことにはまったく気付かない。「高校出の女だからしとやか」という評価である。つまりモーゼはそういう程度の知能や常識の男だということである(ここでもレオンを思い出した。利発な女の子と胡乱な大人の男)。
アディは女の登場が疎ましく、休憩した小さな岡のてっぺんから動こうとしない。女がやってきて、哀願する。「あんたは将来、いい体型の女になるよ。私は16になってやっと体ができてきた。私は長く男と続かない女、一時ドレスなんか買ってもらってチヤホヤされるが、それで終わり。だから、このおっぱいの大きい女をしばらくクルマの前に座らせて」と言う。アディはうなずく。カーンのセリフの語尾が何度も「チャ、チャ」と跳ねるように聞こえる。それはbone structureと言っていて、「体型」のことを言っているらしい。


アディが9歳、黒人の付き人少女が15歳、このコンビが抜群である。大人2人が足が地に着かない、どこか1本ネジだ抜けたような感じだが、彼らは実にしっかりと成り行きを見守り、思い通りの演出さえする。女とホテルのフロントマン(これがクラーブ・ゲーブルをぐっとニヤつかせたような男)を結びつけ、その現場にモーゼを行かせることで破局を作り出す。2人がニッと口元で笑って、首尾良く行ったことを確認するシーンは、素で演じているような感じがある。


監督ボグダノビッチは名作「ラストショー」も撮っているが、映画の本数はそれほど多くなく、途中からTVの世界に活躍の場を移したようである。どういう事情があったのか知りたいものである。


蛇足ながら、『誰がジェローム・ロビンスを殺したか』(津野海太郎)という本を読むと、大恐慌時に政府お抱えで芸術家がさまざまな活動をしたことが触れられている。そのおかげで思いもよらぬ芸術家の顔合わせもあったらしい。国が経済的に困っているときに、国民に仕事を与えて活性化させる、その一環で芸術家が公的に雇われたのである。日本では絶対にこういう発想にならない。津野氏も、アメリカがソ連のような施策を打った、という言い方をしている。
この津野氏の本については、またどこかで触れたいものである。ハリウッド・ミュージカルは『ウェストサイド・ストーリー』で死んだ、という捉え方をしていて、これは和田誠氏とも共通する。ぼくは賛成はするが、『ウエストサイド』からミュージカルに触れた人間とすれば、心穏やかではないのは確かである。


141 「無言歌」(T)
ワン・ビン監督で、ドキュメントの人らしい。ほぼ満席である。映画は、文化大革命で荒れ地の開墾に追われた人々の様子を描く。ほぼ岩盤を穿った竪穴の中の起居を撮すだけと言っていい。死んだ夫を捜しに来た上海の女が、墓を探し回るシーンは外景を撮すが、あとは竪穴の中である。ネズミを殺し、変な実を食べ、果ては人肉を食う。実の入らない薄いスープが与えられるだけなので、死者が毎日のように出る。


上海の女が探索する様子が延々撮されるが、荼毘に付したあと、ぷっつり彼女は出てこない。おそらく帰路についたのだろうが、駅まではかなりの距離があると脱走兵が語る場面があるので、彼女はどうしたのだろう、とそれが気に掛かる。この監督はそういうことは別に観客に任せるという立場のようだが、不親切なことは確かであろう。


右派として弾劾され、下放させられた者の家族、伴侶には離婚や離縁の強要もあったらしい。上海の女に収容所長は「なぜあんなヤツを離婚もしないで追い回すのか」式のことを言う。ある男は離縁状を受け取り、「勝手にしゃがれ」式のことを言う。


死んだ上海の男は、自ら北方の地の開拓に志願してやってきた。家族は引き留めたが、是が非でもとやってきて、失意のうちに死んでいく。男が後事を託した若者は、男が埋葬もされず、かっさらいに衣服まで?がされて荒れ野にうち捨てられているのを知っているので、男の妻に墓の在り処を訊かれても答えようとしない。余りの執念に、死体に慌てて砂をかけてごまかすようなことをする。この男の善意は見ていてこの映画の救いで、脱走を企てたときも、先生と呼ぶ老人が力尽きたときに背負って歩き、それもダメになると防寒着を被せて、極寒の中を去っていく。監督はこの男の跡も追わない。


余りにも死者が出、開墾も進まない、ということで一斉に釈放されることになる。こういうランダムの措置は、かえって民衆の恐怖心を育てることになる。またいつ収容されるが、はっきりした理由が分からないからだ。いみじくも収容所長が部屋の看守長に「人民は自分の地へ戻る。そしやがてまた右派断罪が起きる」と言う場面がある。


ソ連の収容所送りもそうだが、同胞が何千万も殺されたというのに、なぜ誰もこれを止めることができなかったのか。まして途中で収容所経験者が帰還しているというのに……。それが素朴な疑問である。


142 「冷たい熱帯魚」(D)
話題の園子温監督作品である。まず「愛のむきだし」を見始めたが、“この種”の映画を見ていることができない。トルフォーの「隣の女」もそう。破滅的な方向に行くのが分かっていて、その過程をじっと見ているのが辛い。言ってしまえば「俺たちに明日はない」もそうなのだが、いろいろな演出が掛かっていて、一直線の破滅というふうには見えないようになっている。


すぐに見るのを止めて、次が「冷たい熱帯魚」。これもきつい。最後まで見たが、早回しと目をつむることも多く、ああ見るんじゃなかった、という映画である。なんでこんな陰惨な映画を撮るのだろう。でんでんが意外な好演だが、何かもう一つ抜けきれないものがある。発音するときに少し難があって、それが気に障るのかもしれない。



2011年の映画ベスト<劇場で見たもの>
1 ゴーストライター
ポランスキー映画の達した最高点ではないだろうか。風に舞う木の葉が象徴的である。寒々しい風景と政治のどろどろした暗闘がない混ぜに描かれる。


2 アジョシ
韓国アクションいや暴力映画である。圧倒的な迫力で2日続けて見てしまいました。


3 ウインターズボーン
これは近代が崩壊した世界なのか、あるいは近代以前にあったワイルドウエストの世界の残滓なのか。森のなかに棲む住人はみな血でつながり、しかも犯罪に手を染め、互いを殺すことを厭わない。その中で少女は、狂人の母と幼い妹・弟を抱えて、必死に生きていく。


4 キック・アス
ヒーロー物を解体し、しかも再生させた快昨である。女の子が圧倒的にかわいい。彼女があまり大きくならないうちに続編をぜひ見たい。


5 イップマン
中国カンフーで、ブルースリーの師匠の物語である。丸テーブルを上下逆さまに重ね、そのうえで繰り広げられるカンフーは必見。サモハン・キンポーが技術指導並びに大物役で出演、嬉しい。あとで封切られた「序章」は日本人が悪役ということもあるが、映像的な美しさを含めてこの作に敵わない。


6 四月の涙
フインランド内戦を扱った映画だが、味わいは「愛の嵐」である。戦争とエロスが深く結びつけられて描かれる。それがよく内戦のねじくれた感じを表している。


7 ドキュメント5題
今年はドキュメントに印象に残る作品が多かった。「ナチス、偽りの楽園」「ショージとタカオ」「ミツバチの羽音と地球の回転」「証言」「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」などである。中でも名張ぶどう酒殺人事件を扱った東海テレビのドキュメント「証言」は、時間が経って証言者が物故するなかで、丹念に事実を追って説得性がある。「ショージとタカオ」も冤罪を扱ったもので、布川事件と呼ばれる。昨年無罪になり話題になった。佐野洋さんの本も読んでいる。「ミツバチ」は3.11を受けて、間を置いて続映が決まったもので、北欧などで進む自然エネルギーへの転換が、実は民主的自治の在り方と固く結びついたものであることが分かる。山口県祝島原発反対が主題だが、平安の古くからある祭りの様子などを見ると、ここに無粋なものを作ってはいけないと端的に思う。「偽りの楽園」はナチスの偽装工作に結果的に利用されたかたちになったある芸人を扱ったもの。いま「ジェームス・ロビンソンが死んだ」を読んでいるが、政治と芸能、あるいは芸術との関わりを考えさせられる。「イグジット」は、複製芸術に惚れた男が自らそれを始め、名声を得る皮肉を扱っている。<DVD、DLで見た映画>

1 白いリボン
初めてハネケの映画に圧倒された。邪悪な意志を明示しないことで、迫り来る戦争とのオーバーラップが効いてくる。彼にはローカルなものに悪が潜んでいるという観念がありそうだ。


2 パーマネント野バラ
これは傑作ではないか。確かに小池栄子がいいが、菅野美穂なしでありえない映画である。猥雑を装って、とても切ない。デジャブな映像が多いのは、こちらが年をとったせいか、あるいはこの映画が持っている過去への振り返りのせいか。


3 シークレットサンシャイン
神を扱ってこれほどスマートな映画はそうないのではないか。ラストがぶっきらぼうに投げ出した感じで、よけいにこの監督の才気が知れる。新作の「ポエット」が楽しみ。


4 ロイヤルテネンバウム、ライフアクアティック、ダージリン急行
エス・アンダースンがいれば、世界はうまく回っていくかもしれない。この人以外、こんな映画(どんな映画?)は撮れない。


5 ばかもの
内田有紀バンザイ! と言いたい。でも日本の女優は脱がないね。「冷たい熱帯魚」はバンバン脱いでたけど、名前のある女優さんはやらない。シャーロット・ランプリングローラ・リニーを見習え、である。


6 我らが生涯の最良の年
ワイラーここにあり。戦争の悲惨を日常生活の破綻で表現する。それを映像が過不足なく語っていく凄さ。ラストの戦闘機の墓場のシーンは筆舌に尽くしがたい。


7 吹けば飛ぶような男だけど
これは山田洋次の傑作ではないか。テンポもいいし、頭の釘が1本抜けた女を愛し抜くなべ・おさみがとてもいい。なんでこの人、大成しなかったの?


8 綴り方教室、馬
どっちも静かな、淡々とした映画だが、引き入れられるように見た。山本嘉次郎監督が日本にいてくれてよかったと思う。山本の下からあの激しい黒澤が出ている。


9 二十四の瞳
政治性と庶民性と批判性を自然に含んで、淀みなく進む。食わず嫌いで見ずにいた映画である。これって天才のなせる技か? 木下、再評価を望む。


10 フォーリング・ダウン
奇妙な映画で、マイケル・ダグラスの不条理な怒りが伝わってくる。


11 パンチライン
トム・ハンクススタンダップ・コメディアン物である。舞台裏も含めて、実に楽しめる映画である。このハンクスなら買いである。ジーン・ケリーへのオマジュがある。


12 フリーダム・ライターズ
ヒラリー・スワンクが学校の先生で、その学校は子どもたちが拳銃をぶっぱなすような悪環境にいる。熱血先生が作文によって彼らを再生させる物語だが、説得性がある。スワンクが美しく見えるから不思議である。