10年8月から

kimgood2010-08-14

73 「どたんば」(新文芸座)
九州の小さな炭鉱で経営者のけちりから中央塔の修繕を怠ったことから、川の濁流が流れ込み、破損。それで坑内が水で溢れ、5人の人間が閉じこめられる。地上では対策本部が作られ、ポンプを使って汲み出しをしたり、泥を運び出したりするが、4日経ってもラチが明かない。そこにほかの炭鉱に出稼ぎに行っていた男が戻り、秘密の抜け道があると言い出す。弛緩していた救助隊にも力が漲りはじめる。誰が主人公とも言えない群像劇で、最後まで見ることができる。


落盤のニュースが流れ、人びとが見物にやってきて、今度はそれを当て込んでキャンデー屋までやってくる(杉狂児がやっている)。このあたりの感じはワイルダーの「地獄の英雄」を借りているかもしれない。落盤事故という設定も同じである。ワイルダーのは51年の作、こっちは57年である。


有効な解決策が見つからない中だるみのときに、映画も生彩をかいていく。被害者家族と経営者、対策本部の連中と炭鉱の人物たち、そういった対立軸をもっと激しくぶつけたらどうだったろう。この映画が異色なのは、岡田英二率いる朝鮮人たちが重要な役目を果たすことである。事故を聞いてすぐに駆けつけるが、中央対策部といざこざがあって引き上げ、再度、必死になった経営者の頼みで岡田が一人でも俺は行く、と立ち上がり、ほかの人間も付いてくる。「朝鮮人がいないとだめなのは分かっていた」といったような発言が、現場主任らしき人物の口から発せられる。ぼくはこういう正々堂々とした朝鮮人の扱いをした日本映画を知らない。「にあんちゃん」でさえ、どこかまだるっこしいところがある。のちに内田は名作「飢餓海峡」を撮るが、その主人公は被差別部落の出身だとはっきり言っている。脚本は橋本忍と内田の合作である。


74 「血槍富士」(新文芸座)

タイトルロールに小津などが制作委員として名が出ている。内田吐夢監督の復帰を願って制作されたものらしい。55年の作である。片岡千恵蔵主演で、主人に付いて槍を持ち運ぶ奴さんの役、もう一人の相方が加東大介である。主人は酒癖は悪いが、いたって人思い、部下思いの人で、飲み屋で従者とさしで飲むことも平気である。宿屋で泥棒を掴まえたのが部下の片岡、なのに褒美の書状をもらったのが主人。これはおかしいではないか、なぜ手下の手柄が主人のものになるのか、と悩む御仁である。
結局は酒が仇になって、数人の侍に斬られることに。それを怒った千恵蔵が槍でその連中をやっつける、という話である。


鳥追いの母娘が千恵蔵を慕う。その母親が「奴さん」の歌を歌うときに千恵蔵が嫌な顔する。自分の仕事を恥じているのである。いずれは殊勲をあげて侍になると言う。そういう道があったのかしら。


封建主義や身分差別を軽くテーマにしたという風情の映画で、やはり時代の匂いがする。


75 「ベストキッヅ」(劇場)
やはり元の脚本がいいんだろうと思う。今回もやられました。一見無意味と思われる修行が実はとてもカンフーの基本技を網羅したものだったという設定は以前と同じだが、今回のほうがもっと凄い。これはジャッキーのアイデアだろうか。


主人公の黒人の男の子がとってもかわいい。そういえば、前の子も黒人の血が入っていたかもしれない。それにしても、悪役の子どもたちの通う道場の設定はひどすぎないか。ほかは全部、ごく普通のカンフーレッスンをしているように見えるのに。初めて主人公の少年が、圧倒的な数の子どもたちがカンフーの練習をしている様子を見るところは、カンフー映画では付きもののシーンで、淵源はやはり『燃えよ、ドラゴン』である。


ジャッキーの凄腕が披露されるのは、けっこう時間が経ってからで、その引き延ばしが成功している。しかも、交通事故で妻子を亡くしているという設定、毎年、その事故車を直しては命日に壊してしまうという設定もいい。ジャッキーがずっとがに股歩きをするのはちょっとがっかりだが。それにしても、ジャッキー、最高の演技だったのでは。前作もそうだが、無意味な修行がとても役立つと知るシーンが、あっと言う間に始まるのがいい。こういう呼吸の良さが前作にもあった。


最後のカンフー大会は、思ったほど面白くない。少年が倒れた相手にパンチを食らわすのは、悪逆非道な相手が使う技ではないのか。じっくり撮ってきて、ここだけ残念な出来である。ワルの先生がありきたり、それに従う生徒もありきたり、怪我して復帰する少年もありきたり。何か工夫の一つも欲しかったところである。


この映画で映される中国の、なんと現代的なことよ。ぼくが見た映画の中の中国では、これがいちばん新しい風俗を見せている。第一、少年の母親は自動車工場で働くためにデトロイトから北京に来た、という設定である。まさか工場労働者ではなくマネジメントで? それにしてはこの母子、貧乏である。


76 「ミス・リトル・サンシャイン」(D)
06年公開で、アカデミー賞脚本賞助演男優賞を取っている。家族にケンタッキーチキンを毎回食べさせる母親、人生を勝ち負け論理で生きる夫、アメリカ第一のプルースト学者だがゲイで恋人に振られた義弟、ニーチェかぶれで2年近くだんまり修行をしている息子、太って眼鏡をかけながらミスコン優勝を狙う娘、そしてセックスのことしか考えないじじい。この家族が、娘のためにおんぼろワーゲンに乗ってアルバカーキーからカリフォアルアまでの旅で和解する話である。ほとんど人生の落伍者ばかりなのだが、それが最後に価値の大転換をする。いいじゃないか、このままで、と。自分たちはハグレ者なんだ、と自覚するのが潔い。それにしてもプルーストに、ニーチェというのが、なんだかなぁである。しかも、義弟の恋敵もプルーストニアンで、その著作がベストセラーだという。何を書いたか知らないが、この設定は無理としたものでしょう。いわば鈴木道彦氏の本がベストセラーになるようなものである。


77 「クジラとモーツアルト」(D)
アスペルガーの男女が恋に落ちる話だが、アスペルガーがどういうものかよく知らない。表面に現れた行動や行為が奇妙でも、中の心理は我々とそう変わらないのではないか。しかも、恋をすれば不安になるのは当然で、ふつうの付き合いは持てる力の5分や6分の力を出せばすむが、こと恋愛は自分の弱さを含めてぜんぶ投射することになるから不安である。全部を相手に預けて、それが袖にされるのは辛い。アスペルガー同士の恋もぼくらの恋も不安定で不安であることはまったく違わない。キルケゴールの言う“深遠を飛び越す”信仰と同じである。


男優がジョシュ・ハートネット、女優がラダ・ミッチェル、この人は初見で、まるでアンジョリーナ・ジョリーを小さくした感じ(経堂のスナックのママも似ている。世の中にはアンジョリーナ一派がいるようである)。ちなみに男がクジラで、女がモーツアルトである。女はほとんどふつうで、金属音に弱いのと、言葉を真っ正直に受け止めるのと、レストランなどでふつうに振る舞えない、といったところが変わっているぐらいである。彼女はセックスは素晴らしいと言うが、セックス後に男女の地獄があることもある。


しかし、アメリカはなぜこういう人びとを題材に映画を撮るのだろう。多様性を保証するため? アスペルガーのほうが個性的だから? ドラマになりやすい? 日本だってやればいいじゃないかと思うが、座頭市、寅さん、裸の大将ぐらいしか思い浮かばない。


78 「サマーズ・エンド」(D)
何か色の薄い映画だなと思って見ているうちに、場面転換が短く、そのたびにフェードアウトを繰り返すので、これはTV用映画だと気付いた。調べてみないと分からないが、きっとそうだろう。


ある湖に黒人が土地を買う。大きな病院の部長で、心臓の専門家。彼に白人の子がシンパシーを抱き、母親も同じなのだが、兄が反発する。そして彼の悪友たちも黒人差別を露骨に行うようになる。兄弟の父親は、酔っ払い運転の犠牲で死んでいる。


この湖はかつて黒人ドクターが住んでいた土地で、彼の父親は白人たちにリンチで殺されている。黒人たちのいたところは今は湖の底に沈み、墓の中の死体は掘り出され焼き尽くされたという。ドクターはその魂の弔いのために石に死者の名を刻む。


湖を中心とした生活を野尻湖の国際村で見たことがあったが、ヨット、ボート、水泳、釣り、バーベキューなど、この映画そのものの情景があった。


差別の根がどこにあるか、というのは根源的な問題である。他者を排除することでしか自分を律することができないとしたら、差別は永遠に続くことになる。ラース・フォン・トリアはアメリカ三部作のラストを撮っていない。アメリカの黒人差別を扱いながら差別の構造を撮ろうとしたものの、それがアメリカにだけ特殊にあるものではないと気づき、同時並行的に彼我の差別をどう処理するのか、という問題にぶち当たったのではないか。差別はつねに自分の中にある、ということである。そういう意味では、この映画の主人公ジェイミーとその母は、頭抜けて高潔である。


79 「我が青春に悔いなし」(D)
黒澤映画、脚本が久板栄二郎昭和8年の京大事件を扱っている。放擲される教授の娘が原節子で、始め嫌みなお嬢様、最後は農村自由化の先兵。自分に唯一なびかない男が藤田進で、地下に潜り、掴まり、改心したかに見せて、ずっと地下活動とつながっている。原はそれを承知で結婚し、夫亡き後、夫の実家に戻り、そこで繰り広げられる非国民差別を痛いほど味わうことに。


まあそんな映画だが、真っ正直に京大事件を扱っているのが貴重である。藤田進に共産党の影がないのが不思議である。お嬢様が自分の生きる道が分からず、惚れた男に感化され強くなるという設定が通俗的だが、原がせっせと田植えをするシーンが涙ぐましい。藤田のお母さん役の杉村春子が、いつも以上に演技が軽いのが好感である。夫が藤堂高典で、沈黙の果てに立ち上がるシーンはドアップである。原が京大生とピクニックをし、小さな川の飛び石を渡ろうとして躊躇しているときに、藤田がすくっと彼女を抱きかかえて、こっち側の岸に下ろすと、原の顔の不自然なアップである。原はそれなりの演技をするが、作劇が不自然なのだから、演技もそうならざるをえない。ここに無声映画の手法の残像を見る。そのあと、坂道を走りのぼる原、それを追う学生たち、交互に写すので、まるで強姦に追われる女のよう。


いま黒澤明の初期作品をなるべく見るようにしているわけだが、この映画も好感である。戦後に何を撮っていいか分からず監督たちは呆然としていたというが、黒澤がこういう明快な映画を撮っていたことは多としなくてはならないだろう。


80 「誰のために」(D)
オランダ映画で、反ナチで殺人を重ねる2人が主人公で、実話らしい。誰が味方なのか、敵なのか判然としないなかで、家族とも離反しながら殺人を繰り返す彼ら。反ナチ映画として異色であるが、ほかでも何回か書いているようにエンタメの要素を入れてあの時代を描くことが一種の流行になっている。この映画の映像が水色が勝っていて、美しい。


81 「マイライフ、マイファミニリー」(D)
なかなかの佳作である(それにしてもタイトルがひどい)。フィリップ・シーモアローラ・リニーのきょうだいが認知症に突き進む父親を、老人だけの町サン・シテイから連れ出し、もっと安い老人ホーム(映画ではナーシングホームと言っている)に入れ込みながらも、罪の意識もあって、連日のように父親の部屋にやってくる。その間に、兄と妹の確執が描かれ、ついに和解に至る、というものである。兄はブレヒトの専門家で博士号を取った教授、妹は派遣で働き、9.11で被害を被ったという理由で公金を獲得(詐取?)して、せっせとグッゲンハイム財団に戯曲を送りつけ、奨学金をもらい、その道に進もうとしている。兄は42歳にしてポーランド人との結婚に迷い、妹は38歳で妻子ある額の禿げた男との関係に倦み疲れている。


冒頭のシーンがおしゃれである。青空と瀟洒な建物のコントラストが美しく、幾何学的に刈り込まれた背の低い木の連なりの陰からさっと同じ服装の女性陣が現れ、ゆったりした踊りを踊り出す。よく見ると、お婆さんばかり。そこから、老人ばかりの町の様子へと移り、そして主人公たちの父親の部屋へとカメラが入っていく。


ローラ・リニーという女優はよく脱ぐ女優で、今回もその伝かと思ったが、ぎりぎりのところでヌードはなし。さすがに限界か。別にその種のことが必要な役者ではないので、いつもぼくには彼女が裸になる理由が分からない。スーザン・サランドンにもその傾向があって、どっちかというと、知的な印象を受ける女優にこのタイプがいるように思う。これは1つのアメリカ文化論になるのではないか。父親がきょうだいの確執を理解しながら黙っているほどに理性的な存在なのに、いま一つきょうだいと絡んでいかない脚本の悪さが、この映画に少し傷を付けている。


82 「花のあと」(新文芸座)
藤沢周平原作で、女性剣士が主人公なのが珍しい。藤沢作品を映画にすると、なぜかみんな調子が似てくる。ゆっくりと人物を撮し、その合間に自然描写を挟む、というやり方である。北川景子という役者はきれい過ぎるのではないだろうか。相手役の男優は名前も分からない。父親役が国村隼、その囲碁相手が医者の柄本明、悪役が市川亀次郎という歌舞伎役者、語りが藤村志保である(田中絹代と声がそっくり)。柄本が「いや、やられた」と碁盤を見るシーンがあるが、別に石の生き死にとは関係のないところである。こういうところの手抜きはやめてほしい。


83 「日本侠客伝」(D)
マキノ雅博である。よくできていて、最初から最後まで間然するところがない。健さんの演技がふだんより少し軽い感じがする。藤純子が自分で縫った着物を着せかけるときに、健さんがスッと腰を下げる。その様子が妙に品のいい感じで、健さんらしくない。あるいは、これが健さんの地なのかもしれない。健さんが、相手に寝返った親方衆を説得に行くシーン。右手で着物の前をパッと叩いて座るのがかっこいい。
松方弘樹の演技はやはり切れ味があって好感である。ムショ帰りの田村高廣の演技も力が抜けていてグッド。長門裕之南田洋子の掛け合いも味わいがある。もちろん藤純子がきれいである。錦之助が身を寄せる客人で、恋女房を三田佳子が演じている。二人は駆け落ち組である。相変わらず安部徹がこづら憎い。いつも通りの設定だが、そんなことはちっちも構わない。


84 「リ−サルウエポン4」(D)
2度目になるだろうか。ジェット・リーの不気味さを今回はそれほど感じなかった。主人公二人の掛け合いに時間を使い過ぎて、アクションの面白さに欠けている。おしゃべりのジョー・ペシが絡むから、余計にアクションが不足する。メル・ギブソンの恋人にレネ・ルッソ、これが滅法強い。


85 「告白」(池袋ロサ)
この映画館はショボい感じが好きなのだが、今回は客が入っていた。ほぼ若者ばかり。題材が題材だからかもしれない。今年の映画の中でも成績がいいほうではないのか(大ヒットとどこかで書いていたのを後で読んだ)。
ぼくには題材が暗すぎて、悲しい。この作家はこういう作品を書いて、どういうつもりでいるのだろうか。先生が生徒に復讐をする。その生徒が冷血漢そのもの。題材、撮り方を見ると、岩井俊二の「リリイシュシュ」を思い出す。あっちにはまだ子どもたちに繊細に震える蝶のような心があったが。


86 「我が闘争正・続」(シネマM)
当時のドキュメント映像を繋いだもので、正編の日本封切りは61年、再映が74年、続編は61年公開で、再映はされていない。
正編が主にナチの政権掌握に詳しく、後編はニュールンベルク裁判を中心にナチの所業を扱ったものである。スペイン内戦が共和国政府とそれに叛旗を翻したフランコ軍との戦いで、この構図はワイマール体制で過酷な条件に置かれたドイツも同じで、共和国がダメだから、弱腰だから苦渋を舐めているのだとナチは攻撃し、古い体制から新しい体制に変わるべきと主張する。1次大戦の合間にロシアで革命が起き、その火の粉がドイツにも降りかかり、共産党が大きな勢力を持っていたことも、ナチスの台頭を許す糸口となった。財閥がナチを嫌いながらも財政的な支援をしたからである(このあたりのことは「地獄に堕ちた勇者ども」や「キャバレー」に詳しい)。ただ、国防軍を引き入れ、議会で圧倒的な多数派になるには、それなりの時間がかかったわけで、なぜドイツ人はそれを放置し、認めてしまったのだろうか。映画を見ていて一つのヒントがあったのは、政府第一党は国防軍を、共産党は過激な闘争部隊を、というように政治と暴力がきわめて親和性を持っていた時代だということである。だから、ナチが政治に食い込みながら、片方でテロを繰り返すことは、それほど違和感のあることではなかったようなのだ。
もう一つ気になったのは、オーストリア人であるヒットラーがドイツの市民権を得るのが、政治家としても名が通ってからである点である。異国人としての違和感はまったくなかった、ということなのであろうか。その彼が自国を占領したときに、「恥じ入ることはない。我々が国を良くする」みたいな演説をする。ヒットラーアイデンティティは奈辺にありや、である。


この映画で貴重なのは、正編でユダヤ人のゲットーらしきものが撮され、そこでの生活が多少なりとも垣間見られることである。ナチにやられる前からそこでの生活には厳しいものがあったようだ。物乞いをする子どもたちの姿も写される。
あるいは、強制収容所で自民族を監視するのは、犯罪歴のあったユダヤ人だった、という醜悪さ。江戸時代に目明かしに穢多・非人を使った構図と似ている。「愛を読むひと」の主人公は、戦争犯罪を問われるわけだが、はたして市民がナチに抵抗できただろうか、と問いかける。看守に指名された犯罪者たちも、そう主張したかっただろう。いかにも悪という顔はしているが(映像は明らかにの意図で彼らの写真を出している)。


最後にクレジットで、「ナチスの犯罪に関しては、その後いろいろと疑義が出されているが、映画が作られた当時のままで上映する」との断り書きが出る。ぼくには、どこの部分にナチ解釈の変更があったのか分からない。できれば、教えてほしいものだ。


ぼくはこの2つの作品を見ながら、「愛の嵐」を思い出していた。いかに犯罪的な、あるいは反道徳的な映画だったかと思う。強制収容所に収監された女が、そこの医師に可愛がられ、愛人となり、生き延びる。ナチの制服で上半身裸で看守たちの前で踊るシャーロット・ランプリング。その美しさよ!彼女は戦後、著名ピアニストの妻となり、ドイツのある都市のホテルに宿泊にやってくる。そこのポーターがダーク・ボガートで、かつての愛人である。ふたたび彼らに狂気の愛が戻ってくる。一方で、市民による潜伏ナチへの査問も始まっている……。ぼくはほかでも書いたが、この映画と「地獄に堕ちた勇者ども」「キャバレー」を見たことで、ナチと美学、退廃と付けてもいい、その関連性の強さを知ったものである。これはエロスと権力という、三島などにも通じる回路である。実際に三島には「わが友、ヒトラー」がある(高橋英郎によれば、トーマス・マンチャップリンほどには、ヒトラーのことを分からずに書いた、となるのだが)。
ただ、ヒトラーその人には退廃の匂いがしないことも「ヒトラー最期の7日間」を見た感想として書いた。喫煙、飲酒、セックスとは無縁の彼の周りで享楽、淫蕩、男色などが渦巻いている。中心に虚の空間があるというイメージは、天皇制と似ている。


87 「おっぱいバレー」(D)
「スイングガール」の成功以来、若者集団再生物語が流行っている。落ちこぼれが発憤して何かを成し遂げるというものである。この映画では軟弱バレー部員が新着の美人先生のおっぱい見たさに奮闘する。アメリカでよくある性欲丸出しおバカ映画の一種で、日本では珍しいタイプである。その新任先生を綾瀬はるかが演じている。この先生は前任中学で生徒たちと「シーナ&ロケッツ」のコンサートに行く約束をするが、学校から不謹慎だと言われ、「生徒から誘われた」とウソをつく。そのことを子どもたちに責められ、転任することとなった。恋人とも別れた。先生の再起はなるのか──というわけだが、落ち込んだ理由が小さすぎる。再会した恋人と仲が戻り、ベッドに二人で横たわり、男が胸のボタンを外そうとすると、「この胸はあなただけのものではない」と訳の分からない理由で部屋の外へ飛び出す。ひとと深い人間関係を結んだり、目の前の問題にぶつかろうとしない主人公が、どんなドラマを呼び寄せるかは予想の範囲内である。どうも辻褄合わせのような映画で、どこにも真実がない。こう撮れば映画になる、という前提ですべてが作られているので、驚きも感激もない。救いはアホ丸出しの子どもたちで、よく演じている。もう少し一人ひとりの個性が際立つように撮れば、もっと面白い映画になったことだろう。一カ所、面白い撮り方をしているのは、強豪と戦うことになって意気消沈して家路に付く先生とガキども。その後ろ姿をかなりの高度の俯瞰で撮って、言葉だけきっちり拾っている箇所がある。次には彼らのアップに回るのだが、ほかにさして演出的な工夫がないので、ここだけ目立つのである。


88 「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(D)
佐藤江梨子が面白いという記事を何度か読んだことがある。それでこのDVDを借りたが、さほど、という感じである。彼女としてもやりやすい役だったのではないだろうか。いわゆる勘違い自信過剰女の役である。貧乏田舎の出で、両親が交通事故で死に帰郷する。残るは腹違いの兄、その嫁、そして血の繋がった妹。兄はサトエリと性的な関係にあり、言ってみれば弱みを握られている。永瀬正敏が兄である。その嫁が永作博巳で、コインロッカーベイビーで、30歳まで処女で結婚。しかし、夫とはセックスがない。サトエリが禁じているからである。妹はそういうエゴイスティックな姉の行状を漫画にし、投稿して賞を得る。サトエリはそれが自分のそもそものスタートを暗いものにしたと、事あるごとに妹をいじめる。最後は、妹が東京へ出奔しようとし、それをサトエリが追いかけ、ちゃんと私の行状を見届けなさい、と言うところで映画は終わる。
タイトルが仰々しいから中身がないだろうと思ったら案の定という感じである。それにしてもサトエリの足の細いこと。かわいそうなくらい。


89 「一心太助 天下の一大事」(新文芸座)
昭和33年の作品で、沢島忠監督。月形龍之介特集である。ぼくの小学生のころの憧れの役者さんである。大久保彦左衛門を演じている。


錦之助の地を出すために江戸っ子の正義感溢れる男が主人公。いざとなればバックに天下のご意見番大久保彦左衛門が控えている。魚河岸を俯瞰で撮ったり、大久保の屋敷とその隣をだいぶ上から舐めるように撮ったり、絵が大きい。河岸のなかを突っ走る錦之助を移動で元気いっぱいに写している。祭り御輿で木場と魚河岸が競い合うところなど、マキノ調である。彦左衛門の元で働く中原ひとみが可憐である。田中春男が恋人に振られた“絶望男”を演じている。沢島は田中がいれば映画がどうにかなる、と大変重宝した役者さんである。小津映画の常連でもある。錦之助でも誰でも、目張りバッチリの化粧はどんなものか。河岸で働く連中の目が隈取られているのはいただけないのでは。悪役の進藤英太郎も化粧が濃い。錦之助は家光を演じるときはゆっくりしゃべるので、発音のおかしさが目立つ。江戸っ子の早口なら、それがごまかせる。


90 「人生劇場 飛車角」(新文芸座)
昭和38年の作で、やはり沢島監督。吉良常が主人公となるべきを、それでは売れないと大映岡田茂が原作者尾崎士郎にお百度を踏んで許可を得て小山角太郎が主人公となった。これが鶴田浩二で、一緒に駆け落ちした女が佐久間良子、草鞋を脱いだ先の舎弟が高倉健である。
「人生劇場」は内田吐夢もあるらしい。


沢島監督が会場にゲストでやってきて、鶴田と佐久間、健さんと自分、みんなヒット作が出ないで鬱々としていたときの企画がこれで、当たってほっとしたと言っていた。自伝にも書かれている話である。吉良常が月形のオヤジ、いいなあ渋くて。本来の主人公の青成瓢吉を誰あろう、梅宮辰夫が演じている。帰ってきてネットで調べるまで、そうと気付かない初々しさだった。


健さんが佐久間と絡むところで妙なはしゃぎ様である。恋に悩んで佐久間を犯したり、仲間に煩悶をしゃべって頭を抱えるような演技をする。鶴田は鶴田で海に向かって声を張り上げるシーンがある。まだやくざ映画としての定型に至っていない、という意味で貴重な映画である(健さんの侠客伝シリーズが翌年、網走番外地がさらに翌年の出来である)。悪いヤクザを水島道太郎がやっていて、これがいい演技をする。健さんが単身で殴り込んだときに、健さんはドス、水島は長刀、その長いやつで右から左からバッバッと無造作に斬るのが目新しい。ラストは鶴田の単身殴り込みだが、争いの途中でカットでエンドである。これも後のヤクザ映画の定型とは違っている。カタストロフィが来ないのである。


鶴田の服役中に佐久間が健さんとできるので、映画が中だるみというか、どこに行こうとするのか見えにくくなる。その全体をどうにか持たせたのが月形の演技ということになろうか。沢島監督は、別にやくざ映画を撮ったのではなく、恋愛悲劇を撮ったつもりだったかもしれない。鶴田が太り気味で、切れ味に欠ける。佐久間が可憐で、美しい。健さんはもうちょっとでぼくらの健さんになる。いいものを見させてもらいました。


91 「あんにょん由美香」(D)
ポレポレに見に行こうと思った映画である。200本近いエロ映画に出た林由美香が急死し、学生のときに彼女で映画を撮ったときに「まだまだね」と言われたことのある若き監督が「由美香とは誰?」を探った映画ということになるのだろうか。彼女の人となりを証言する人びとも言うように、なぜこの映画が作られたのかが、いま一つ不明である。アイドル的な人物だった由美香の知られざる実情を追った、というのでもない。というのは、由美香はあけすけでさえある女で、彼女の告別式で彼女の男だった連中が棺を担いだのだという。不思議な女優で、一人の監督には愛の告白めいた映画を作られ、もう一人の監督にはプライベートビデオのような映画を撮られている。彼女を扱った本もあるらしい。さて由美香とは?


彼女からお父さんと呼ばれたカメラマンは、「豪傑だった」と言う。そういう女がいなくなり寂しいとも。女で豪傑とは? 前貼りなしや、ハメ撮りを求められても、平然と受けるところなどを指して言っているのかどうか。北海道での不倫旅行をプライベートビデオのように撮った監督は、この映画の監督に「いま由美香を撮るのはリスクの大きい題材だぞ」とか「ごまかすようなマネはするな」みたいなことを言う。ぼくにはこの思い込みが奈辺から来るのか分からない。


日韓合作エロビデオを撮り、韓国人俳優はみな変な日本語をしゃべる。その監督、主演、通訳に会いに韓国へ行くが、いかに韓国でその種の映画が低く見られているか、監督は変態扱い、俳優はまとまな映画には出られない、という。日本ではピンク映画から巣立った監督がたくさんいる。しかし、女優はどうだろう。男優でもいい。殿山泰治、キタローのような、普通の役者からエロ映画に行き、また普通に戻った人もいるが(殿山先生は両建てだったかも)、さて女優は? ぼくは宮下順子がすぐに思い浮かぶが、ほかに誰がいるのだろう。白川和子がそうか。


合作映画でカットされたラストをいま現在で撮り直すのが、みそである。そこにあるセリフが、「純子(由美香の役名)はだれも所有できない」である。いちおうこれがこの映画の映画的な結末ということになる。(別記:谷啓が死んだ。謹んで冥福を祈ります)


92 「裸足のブルージーンズ」(シネパトス)
20分で退散。和田アキ子が意外とかわいい。原田芳雄特集で、彼の偏愛の映画とチラシに書いてあった。彼が出てくる前に嫌気がさしてしまった。


93 「奇術師フーディーニ」(D)
監督ジリアン・アームストロング、主演ガイ・ピアス(メメントの彼である)、相手がセタ・ジョーンズ、その娘がシャーシャ・ローナン。フーディーニの名前は、うろ覚えだが Shot in the Heart で目にした記憶がある。誰もが知っている有名マジシャン。それが、母の遺言を当てた人間に賞金1万ドルを出すと言う。挑戦するのがいかさま霊能者役のセタ・ジョーンズ。結局が娘が意外な活躍をするのだが、この娘がいい。もうちょっとで大人の階段に差しかかる微妙な時期だ。おそらく長じてもいい役者になるのではないだろうか。「ラブリーボーン」に出ているらしいので、見てみよう。


しっとりとした、実に風格のある映画で、出来映えが非常にいい。同じ奇術師の功名争いを扱った「プレステージ」より格段にいい。それはガイ・ピアスの意外な魅力によるのではないだろうか。体を鍛え、レディには優しく、虚無を抱え、つねに生死の境へと突き進む──そういう人物をよく演じている。


94 「去年の夏、突然に」(D)
ジョセフ・レ・マンキウィッツ監督、脚本がゴア・ビダルテネシー・ウイリアムズである。主演リズ、モンゴメリー・クリフト、キャサリン・ヘッパバーン。監督の名も変わっているが、モンゴメリーが演じる脳外科医の名はクックロウイッツである。何でこんなややこしい名前にする必要があるのだろうか。物語はほとんど会話に終始し、それも室内である。キャサリン・ヘッパバーンが登場するとき、四方が開いたエレベータで椅子に座って降りてくる。それが神様現る、といった趣である。その一人息子セバスチャンが、いつもは母親と行く夏の旅行を姪のリズと行くことに。その旅先であるギリシャアマルフィで突然の死を遂げる。その秘密とは?


セバスチャンと言えば、三島の愛した磔刑図が有名である。父親が旅先で買って与えたそうだが、どういう父親だろう。あとで後悔したらしいが。テネシー・ウイリアムズの自伝はそれこそゲイのセックスの話ばかりで、毎夜、何人もの男と関係する。それは異常なほどだ。セバスチャンは、美人の母親に若い男を集めさせ、母親に魅力がなくなると、今度はリズを餌に男を集める。それでセックスに及ぶわけだが、現地の人間に復讐されるようにして死ぬ。母子の恋人同士のような濃密な関係を、誰も不思議がらないのが不思議である。ジャングルを模した庭、奇妙な骸骨の彫像など、テネシー・ウイリアムズ好みが横溢している。


モンゴメリー・クリフトが力が抜けた演技で、妙に惹かれる。胸が薄く、それから腹にかけて細く、アメリカの俳優では珍しい体形ではないだろうか。リズはむちむちで、セバスチャンに強制されて海水に浸かるとスケスケになる水着を着て海から出るシーンは、1959年の作品としてはかなり際どかったのではないだろうか。当然のごとく、ポスターはその水着姿のリズである。


モンゴメリーロボトミー手術の権威であるらしい。ヘッパバーンは姪のいまわしい記憶を消し去るために、病院に多額の寄付をする見返りに姪へのロボトミー手術を依頼する。冒頭に手術の様子が写されるが、観客が上から見られるようになっている。それがガラス張りでも何でもなくて、体育館の上階にぐるりと設けられた手すりのようなものがあり、そこから2、3メーター下の手術の様子を見る格好である。観客はマスクもしていない。
ロボトミー手術に関して、モンゴメリーは「結果が分かるのに数年かかる」「ほかの問題を発生させるかもしれない」と慎重である。それがために富豪の夫人の強要をはぐらかしながら、姪の精神状態を探るのである。次第にセバスチャンの死が一時期、彼女の精神的な安定を奪ったことを知る。しかし、映画を見ているこちらとしては、どう見てもリズが精神的におかしいとは見えない。それがこの映画を決定的につまらなくしている。いくら精神病棟の患者を奇妙に写そうと、ごまかしはきかない。


95 「酔いどれ詩人になる前に」(D)
ブゴウスキーが名をなすまでの前史的な映画で、マット・ディロンが演じている。ブゴウスキーが職を転々としていたことは知っているが、長く郵便の仕分けに従事していたというイメージがある。あるいは、この映画の後の時代のことなのかもしれない。ベント・ハーメルという監督、マリサ・トメイがちょい役で出ている。ブゴウスキーの彼女役がリリ・テイラーという女優で、筋肉質で、ちょっとネイティブアメリカン風、素朴でタフな女を演じていて、これがハマっている。いい役者である。


ぼくはブゴウスキーの小説は読んだことがない。奇妙な死姦を描いた白黒の映画があったが、あれはブゴウスキーの小説のいくつかを翻案したもののはずだ。彼の分厚いコレクテッド・ポエムズがあって、ひまがあると読んで楽しんでいる。とても素直な、真っ直ぐな詩ばかりである(いま石垣りんの詩を読んでいるが、明晰に言葉を遣う、平明に遣う、社会に目を向ける、ということでは共通するものがある)。
短詩を一つ。
 午後に
 彼らは互いに
 もたれ合う
 どんなに彼らが太陽が
 好きか分かるはず
 (elephant in the zoo)


95 「群衆」(D)
1928年の作、キング・ヴィダー監督、主演がエレノア・ボードマン、女優がジェームズ・マーレイ。監督の「ビッグパレード」のリメイクだそうだ。無声映画で、字幕もほとんどない。しかし、不思議なことにまったく話の展開を追うのに困らない。今どきの忙しく場面転換したり、複雑に登場人物をからませるようなことをすれば、字幕があっても筋は追えないが、ごく単純なストーリーなので、新たな登場人物が誰かぐらい分かれば、全然支障がない。ライナーノーツによれば、トーキーの過渡期にある映画らしく、まさにその感を強くする。第1回アカデミー賞監督賞にノミネートされている。


主演のボードマンはマストロヤンニに似て甘い顔、妻になるマーレイはジョディ・フォスターに似ている。戦前のアメリカ女優は目の隈取りがきつかったりして、やはり古臭い感じを受けるのだが、この女優さんはまったくそんな感じがない。モダンなのである。


主人公は第一次大戦後の若者で、都市へ出てひとかどの人物になろうとする。勤めた先が保険会社で、ずらっとタテヨコに並列に並んだ机の様は、「アパートの鍵、貸します」とそっくり。あれも保険会社だった。ボードマンは自らの勉強のために夜の遊びの誘いを断るほどの男なのだが、つい仲のいい同僚の誘いに乗り、そこでデートの相手として出会ったマーレイと恋仲に、そして結婚。ここにすでにこの男の優柔不断さが出ている。


結婚5年目、すでに夫婦には倦怠が忍び込んでいる。夫は妻にささいなことで指弾し、妻は夫がいつまでも出世しない、口先だけの男であることに倦んでいる。朝の食事場面。閉めてもまた開いてくるドア(新婚ほやほやの時にも登場)、流れない水洗トイレ、壁に収納するベッドはきちんと収まらない(最初は収まった)、会話の途中で轟音を立てて窓外を通る電車──そういう前提があって、妻が皿に載ったパンを渡そうとすると、夫はほかに気が行っていておとしてしまう。そこから細かい喧嘩の場面が始まる。妻が何かをナイフで切ると、その破片が夫の背広に飛ぶ。夫が牛乳を飲もうとすると、ぴゅっと飛ぶ。「なぜ一杯だと言わないんだ」と夫は切れる。そして、とうとう離婚ということに。夫は会社へと出かける。妻は後悔し、窓の外を行く夫を呼び止める。話があるから、と。そして、夫に妊娠を告げる。このあたりの細かいシークエンスの積み重ねが見事である。無声で十分である。そのあと、子どもが二人できて、海岸へピクニックへ行くシーンも、また細かい演出がたくさんあり、意欲を持っていた男が家庭に埋没している様子が巧みに描かれる(商品コピーの応募で500ドル手に入った日に、下の女の子を交通事故で亡くすエピソードもある)。


妻の兄弟たちは、義弟が保険会社を辞め、転々と職業を変えるのを厭い、離婚と別居を進める。男は必死で仕事を探し、球のジャグラーの得意技を利用してピエロの服を着たサンドイッチマンになる。妻は一度は荷物をカバンに詰めるが、「私がいないとだめな人なの」と部屋に戻る。彼は、再スタートのために劇場のチケットと、小さな花束を買っていた。そしてレコードをかけ、二人で踊り出す。最後はボードビルの劇場で、二人は腹を抱えて笑い転げる。それをカメラがどんどん引いて撮り、笑いで体の揺れる人の数が増えて、画面一杯になったところでエンドである。


小ネタで一杯の映画で、それがこの映画をいきいきとしたものにしている。たとえば、今日はクリスマス。妻の母と兄弟がやってくる。母は耳が遠い。その母が娘の夫に「昇級はあったかい?」と尋ねる。夫は「今に出世します」と答えるが、母には聞こえない。兄弟の一人は「また言い訳をしている」と訳して母に伝える。兄弟に出すお酒がなく、近くにいる同僚に貰いに行く。新妻に、氷が張ったから気を付けて行ってね、と言われ、ぼくは大丈夫さと外の階段を降りた途端にスルリである。同僚はちょうど2人の女とパーティの最中。男は所期の目的を忘れて(妻の兄弟から小言を言われるのがイヤで、あえてそうした)飲んだくれ、深夜に同僚と家に戻ってくる。出がけに滑った階段を登るのに、同僚が後ろから右足、左足と支えて上げてくれる──といったような細かい演出があちこちにある。暗い部屋に入ると、妻は背を向け寝ているふり。夫はいろいろ言い訳をする。妻は許して仲直り。この時点ではまだ二人は仲違いに至っていない。そして、次のシーンが、先に挙げた朝食のシーンである。


なかなか無声映画を見る機会が少ないが、小津のあのセリフの少ない映画は、外国人にすれば無声映画とどっこいどっこいではないだろうか。一度、「麦秋」でも何でも音声を消して見てみようかしら。


96 「野盗、風の中を走る」(シネパトス)
夏木陽介特集である。彼はテレビの人だと思っていたのだが、50年代から映画に出ている。この作品は61年の作で、稲垣浩監督である。いろいろな意味で刺激的な作品だった。というのは、四方田犬彦氏が黒澤の『七人の侍』には野盗を不気味な敵としてしか描いていない、と批判的である。実際に黒澤は「インディアンを殺して何が悪い」式の発言をしているらしい。アジアの監督で黒澤好きがいて、逆に野盗の立場から似たシチュエーションを描いているのがあるらしい。


ところがこの稲垣作品がまさに“野盗の目”から描いた映画なのである。明らかに黒澤映画を意識して作ったのがよく分かる。戦禍に疲弊した村を助けようと義侠心を起こす野盗たち。うまくおだてて、野盗を味方につける百姓たち。うまくいっているようでいて、お互いに猜疑心が抜けない。それが、新領主の城作りに狩り出された28人の村の若い男を助け出したことで、村人の信頼が高まる。そして、自分たちも死を賭して村を守る決意を固める百姓たち。黒澤映画のニヒリズムは見事に打ち砕かれている。


そもそも、この映画の野盗にはエリートは一人もいない。百姓出身者も混じっているが、三船が演じた菊千代のようなスーパーヒーローではない。黒澤の七人は、志村勘兵衛が念入りにテストした優等生ばかり。百姓と分かり合えない事情は、こんなところにもある。


黒澤の英雄主義、ヒーロー主義は「生きる」を始め、いろいろな映画に見ることができる。そのほうが客が入るという事情があったにせよ、黒澤にはもっと違った面があったことは強調しておく必要があるだろう。なぜそっちへ行かなかったのか、行けなかったのか。成瀬、小津、木下、溝口、だれを取っても英雄主義とは遠い。フロイトは強靱な精神力の人だったらしく、彼の精神分析はその強さを背景に作られたもので、ひ弱な精神の持ち主には劇薬だとの説がある。同じく、黒澤作品も彼のもつ強烈なパワーが表出されたものだろうと思う。しかし、そこへと収斂したことの悲劇を思うべきである。野村芳太郎が言ったごとく、ジョーン・フォードとビリー・ワイルダーと誰かを足したような監督になれたかもしれなかったのだから。


97 「13人の刺客」(マイカル)
三池崇史監督で、彼の映画はぼくは1本も見ていないと思う。外連味がありそうで敬遠なのである。この映画は63年に工藤栄一監督で撮られているもののリメイクだそうである。ラストの延々と続く殺し合いの場面がとにかくすごい。黒澤真っ青とは言わないが、あっぱれと彼も言うのではないだろうか。


室内で蝋燭を立てて会話をするシーンが面白い。ほかの照明を使っても、かなり控えめなのか、蝋燭が揺れるたびに室内が揺れ、人物の影が動くという珍しい経験をすることになる。キューブリックが「バリーリンドン」を蝋燭の光で撮ったということだが(評判が余りにも悪く、しかも作為的なものを感じて未見)、この映画では少し気になるものの、うまい効果を出しているように思う。


侍たちが狂気じみた、サディスティックな主君を討つという設定で、最後に山の民である小弥田が加わって13人となる。この小弥田が精力絶倫で村の女を何人もいかせ、それでも足りなくて庄屋のうしろを掘る。その庄屋が岸辺一紱で、ちょっとやりすぎかな。しかも、この小弥田、喉に刀が刺さって、前からもバッサリ切られても、あとで生き返るのだから、やりすぎである。いくら侍の視点とは違うものを差し挟みたかったとはいえ、違和感がきつい。三池のことだから、分かり切ってやっているとこのなのだろうが。小弥田はアイヌのような設定である。頭の女を盗んだので仲間のところに戻れない、と言う。その女が何かアイヌのような名前だった。歴史的には、山の民とアイヌは同一という設定のようだが、さて?である。山の民の起源は諸説あって定まっていないのではないのか。


狂気の主君が誰あろう稲垣吾郎で、最初は分からなかった。女は犯すし、助けに来た夫は殺すは、上意で切腹した家臣の親族も弓で殺してしまう。足と手を切り落とした女をセックスの道具にし、舌も抜いてしまう。映画のほぼ冒頭にその女の姿を映像として見せられる。なんと悲惨な(バタイユの中国人リンチ写真を思い出す)。もう十分に観客にも義憤が溜まってくる。それにしても、スマップの彼がなぜにこの仕事を受けたのか。やはり人気に翳りが出て、転身を考えているのか。スマップと気付かなければ、妙な違和感は立たずにすんだことだろう。それくらいハマっていた。彼は徳川家斉の弟という設定で、明石藩領主から来年には徳川の老中になる予定である(冒頭に広島・長崎に原爆が落ちる何十年前の話である──という断りが出る。なんだこれ?である。アメリカへの当てつけか)。そんなやつを御政道に付けるわけにはいかない、と大炊頭の平幹二郎大目付役所広司に刺殺の依頼をするのである。剣のライバルだった市村政親が主君側の筆頭で、侍はどんな主君であっても守るという考えである。


先に触れた「広島・長崎の原爆」云々の文字は、白抜きで表現される。よく昔の映画がやった手である。ほかに、主君一行の動きと地図をダブらせたり、交互に写すのも昔の手である。このあたりはかなり遊びながら、ぬけぬけと三池監督はやっている。それが、こっちも楽しい。


新聞評で、カンヌだったかがこの作を受賞させなかったのは、あとで後悔することになる、と書いていた。ぼくは小弥田の生き返りさえなかったら、賛成である。すごい映画で、宣伝文句のようだが息を継がせぬ、という出来である。善悪がはっきりしていることと、刺客が一人、二人と揃ってくるところの面白さ(「七人の侍」ほどのものではないが)、村を買い切り、そこに仕込んだ仕掛けの意外性、しかも凄絶な闘いが延々と繰り広げられる──これで面白くないわけがないだろう、という映画である。ひとり松方弘樹が旧映画人としての抜擢で、それも役所の脇というのだから可哀想だが、客集め上仕方がない。殺陣のうまさは群を抜いているというか、別物である。映画用に習練したひとの殺陣である。演技はもともと軽いのが身上のひとだから、今でも通じるものがあるのかもしれない。胡座からさっと立ち上がるところなど、なかなか素早いものがある。


週刊文春の品田さんを初めとする面々の評価は概して低いものだが、ぼくは不当な気がする。ここしばらくの日本映画でこれを抜くものはあったのかと言いたい(と言っても、ぼくは邦画はあまり見ないのだが)。「告白」がいろいろと賞を取っているようだが、それに比べれば数段上だろう。斎藤綾子が工藤栄一の映画が良かった式のことを言っているので、ぜひ見てみたい。週刊現代では井筒監督が酷評している。やはり工藤栄一の映画は良かったが、今度のは13人で200人を斬る設定もおかしいし、とにかく殺陣が見ていられない、と言う。どの殺陣のどこがおかしいとは書いていないのだが、そんなことを言うのであれば『野盗、風のなかを走る』の殺陣なんて遊びみたいなもので、ただ軽々と振り回すだけで敵が死んでいく。今度の映画では見事な松方の殺陣が浮くほどにほかが無手勝流なのだろうと思う。それは監督の演出なのである。いちおう村の通りのあちこちに剣が鞘を抜いて突っ立ててあるが、剣は換えられても腕が持たない。そこは荒唐無稽でいいじゃないか、とぼくは思う。工藤栄一作品、見たし。


98 「地上より永遠に」(D)
1953年の作で、フレッド・ジンネマン監督、アカデミー賞8部門で受賞。フランク・シナトラ助演男優賞を取っている。主演はモンゴメリー・クリフト、脇にデボラ・カー、ドナ・リード(助演女優賞)、バート・ランカスターである。アーネスト・ボーグナインがいじわる営倉長を演じている。やはりものすごい大男である。モンゴメリーとドナ、デボラとランカスターの恋が同時進行する。方や男相手のバーの女との恋、方や上官の奥様との不倫の恋。


おかしな軍隊で、ボクシング好きの大尉が仕切っていて、毎年開かれる隊対抗の拳闘大会で勝てば昇進させてくれる。そこに仲間をボクシングで失明させ、二度とグラブに手を通さないと誓ったモンゴメリーが格下げになって転任してくる。試合に出ろと言っても、言うことをきかないので、しごきに遭うことに。同僚のシナトラがいろいろとかばってくれる。ところが、そのシナトラが営倉行きに。しごきに遭い、脱走するが死ぬ。モンゴメリーは営倉長をナイフで殺し、自分も怪我を負い、女のもとに身を寄せる。女はふつうの暮らしが夢で、モンゴメリーに兵隊を辞めて本国に戻ろうと言う(舞台はハワイ)。モンゴメリーは早くして両親を亡くしているので、食うために軍隊に入り、そこでしか生活したことがないという男。真珠湾攻撃が始まると、腹の傷が癒えていないのに軍隊に夜陰にまぎれて戻ろうとし、日本兵と間違われれ銃殺される。


一方、ランカスターは上官の女、デボラ・カーと逢い引きを重ね、抜き差しならぬ仲に。女は結婚して2カ月で夫の不倫に気付き、それでも妊娠していたので我慢するが、出かける夫に医者を呼んでちょうだいと言った夜に産気づき、床に倒れる。夫は妻の言葉を忘れ、帰ってきて倒れているのを見ても、そのまま寝てしまったという。結局、流産に。その失意から軍隊のいろいろな男と浮き名を流してきたが、本気になったのはランカスターだけ。どういいう理由か知らないが、将校になって二人で本土へ戻ろう、と誘うが、ランカスターは将校になる気がない。デボラは、そしてドナは同じ船でアメリカ本土に戻ることに。


なんだかよく分からない映画である。軍が協力したというから、こういう煮え切らない感じになったのかもしれない。軍隊好きの男に惚れたふつうの女の悲劇、あるいはふつうの女に惚れた軍隊好きの男の悲劇ということなのか。つまり何をやりたかったの? である。それでも、軍隊でのしごきや、それを黙認した大尉が解雇されるなど、いくつか面白い点がある。シナトラが「ちびのイタ公」などと言われたり、スターらしき扱いは一切ない。プレスリーが映画に出たのとのは意味が違っている。
モンゴメリーはいい役者さんである。憂いがあり、自信もなさそうなのに芯がある。ちょっと猫背で、泣いたような顔をする。大役者というイメージがないのは、40歳で亡くなっていること、大作出演を断り機会を逸した(「エデンの東」「波止場」「サンセット大通り」「真昼の決闘」など!)、交通事故で顔に傷を負った、などいくつも要因が重なっているようである。酒とドラッグに溺れていたらしい(ウィキペディアから)。