監督という仕事

kimgood2007-06-23

*野田高悟、橋本忍
高橋治の「絢爛たる影絵」、そして橋本忍「複眼の映像」、この2つの著作に触発されて、簡単に監督の仕事って何か、ということについて考えてみたい。
どちらもすこぶる付きの面白い本で、小津と黒澤という二大天皇の創作の秘密に肉薄したスリリングな内容である。高橋は小津のチーフ助監督にまでなった人、橋本は言わずと知れた名脚本家である。


戦前の映画のことを記した本を読むと、監督のことを演出家と呼んでいることが多い。たしかに黒澤の「姿三四郎」のクレジットは演出家である。高峰秀子も自伝の中で監督と言わず、演出家と言っている。脚本があって、それを演出するのが監督の仕事だということであろう。アメリカはそれが当たり前で、プロデューサが脚本家に脚本を書かせ、それから監督を選んだりしている。あるいは、役者が監督を選ぶケースもあるらしく、「ナバロンの要塞」の監督は役者が選んでいる。


我々は監督という仕事は、脚本も書き、役者も選び、もちろん演出もする万能の人間と思いがちだが、事情はだいぶ違うようである。20世紀フォックスの大プロデューサー・ザナックは脚本家上がりの人物だが、ジョン・フォード(!)「荒野の決闘」のラスト・シーンが気にくわないと言って、自分で撮り直したという。監督という仕事の位置が分かる話である。


そのザナックに黒澤が「トラトラトラ」から降板された経緯を扱った「黒澤明VSハリウッド」という本がある。それを読むと、監督という仕事のとらえ方の違いが、結局はもの別れの真因だった気がする。黒澤は強大な権力を持った総監督として、アメリカ側の監督選びや脚本の出来をチェックできるものと思っていたらしい。しかし、フォックスの契約書では黒澤は日本のシーンを撮る一監督にしか過ぎない。同書は黒澤が映画を撮れないほどに神経が参っていたことを実際の資料にあたって検証しているが、病気で撮影が遅延した場合、あるリミットを超えたら解雇というのも契約書には当然、盛られていたわけである。


*小津は小津ではない、黒澤は黒澤ではない
小津は脚本書きに茅ヶ崎を選び、そこに野田高悟とふた月、み月と引きこもって、新作の執筆に明け暮れたという(のちに野田の別荘「雲古荘」に場所を移す)。血のにじむような作業の中から絞り出した一字一句だから、役者が勝手に変えることは絶対に許さなかった。しかし、二人が常に同じ方向を向いていたかとなると、それは違う、と高橋治は前著に記している。


小津は1948年に「風のなかの牝鶏」という変わったタイトルの映画を撮っている。ぼくは未見だが、高橋によると不倫を扱った映画らしく、小津にしてはなまなましい撮り方をしているらしい。興行成績も芳しくなく、野田は企画自体を反対していたらしい。これに懲りたのか以後、小津はなまなましいテーマを正面から取り上げることはなくなった。


戦前の小津は簡単にいえば「傾向映画」と見られていたという。明らかに左翼的な色は出さないまでも、そういった趣向のもとに作られた映画ということである。これは戦後の映画しか知らないぼくには、たいへん意外な見解である。そこから分かるのは、戦後にも別の小津がいた可能性があった、ということである。その可能性の芽を摘んだのが野田高悟という脚本家である。


高橋治は、いま小津調といわれる特色は、野田がリードしたものだとほぼ断言している。「牝鶏」の翌年、「晩春」を撮ったときに、いままで底辺に生きる民衆を描いてきたのに、鎌倉に住む中流階級に軸足を変えたと小津は批判されたという。我々の知っている小津は、変節を遂げたあとの小津だったのだ!


いみじくも黒澤にも脚本家橋本忍が同じような作用を及ぼしていたことが、橋本本人によって語られている。それが「複眼の映像」である。


*地獄の脚本書きレース
橋本忍が黒澤に呼ばれて最初に書いた脚本が「羅生門」、次が「生きる」で「七人の侍」へと続く。ため息の出るようなラインナップである。
橋本は伊丹万作の一人弟子で、戦地で伊丹が亡くなったあと、黒澤に呼ばれて脚本を書き始めたわけである。その時点ではまったくの素人と言ってよく、彼を選んだ黒澤の眼力の凄さを思う。
黒澤は橋本と組むまでにも幾人も脚本家を替えているが、映画脚本のプロと呼べる人はまったくいない。彼の裁量でいけると思った人間を脚本家に抜擢しているのである。


一人でも脚本を書けるのになぜ共同執筆にするのかというと、自然と味が似てくるのを避けるためらしい。2作品ぐらいで脚本家を替えるのも、味が似てくるのを避けるため。いかに黒澤という監督が自分の作品に貪欲かが分かる話である。


羅生門」までの共同執筆のやり方を簡単に言うと、まず第一稿を橋本が書く。次に、それを元に黒澤と橋本が頭の部分からシナリオを書き直すのである。橋本のが良ければそれに黒澤が手を入れるし、黒澤のが良ければ、最後に控える小國英雄が意見を言う、というやり方で進行する。ご意見番の小國は一切原稿を書かず、いつも英語の本を読んで、2人の出来を待っているという役回りである。


この異様な執筆形態で、たいていの脚本家はボロボロになるものらしい。拘束時間も長く、黒澤映画にかかわると他の映画3本分の収入が吹っ飛ぶという。この地獄の特訓のようなスタイルを変えたのが次作「生き物の記録」からだそうだ。共同執筆という形は変わらないが、第一稿がなく、最初から決定稿を作っていくやり方である。


第一稿がないということは、背骨がないようなものだ。それに、司令塔として機能していた小國もほかのメンバーと同じく決定稿作業に入ったことで、どこにも歯止めがなくなり、ずるずると決定稿が出来上がるという最悪のことになった。興行的にも失敗し、橋本はいよいよ黒澤のもとから離れようと決める。


*クロサワ without 橋本?
この本には恐ろしい挿話が挟み込まれている。ものが見えている人物として監督野村芳太郎が登場するのだが、彼に橋本は「黒澤さんにとって、橋本忍って何だったか」と聞いたところ、次のような返事が返ってくる。
「黒澤さんにとって、橋本忍は……会ってはいけない人だったのです」
その真意は、もし橋本という重厚派に会わなければ、黒澤はもっと幅広く羽ばたいて、ビリー・ワイルダーとウイリアム・ワイラーを足して2で割ったような大監督になっていた、という意味らしい。
運命で出会ったものを後でとやかく言うことはできない相談だが、野村の意見は傾聴に値する。黒澤には別の黒澤の可能性があったのである。


日本では脚本家の存在に重きを置かない風潮があるが、少なくとも野田と橋本の二人を見る限り、天皇とまで言われた監督の作品の傾向まで決める力があることが分かる。監督という仕事は、一般の芸術家のイメージからは遠い。共同執筆ということが成り立ってしまうところに、それが現れている。脚本を書かない監督もいれば、カメラを覗かない監督もいる。演出らしきことはしない監督もいる。最後の編集をしない監督もいる。では、監督の仕事って何なのか(監督と映像監督としてのカメラマンの関係は、渡辺浩『映画キャメラマンの世界』に詳しい。映像的な演出はほとんどキャメラマンの仕事と考えて良さそうだ。小津はそういう意味では特殊なのかもしれない)。


問題の立て方を変えてみる。これを抜かすと監督とは言えないというものがあるだろうか。英語のdirecterにそれが現れているとぼくは考える。directionのdirectorである。方向を定める者、それが監督ではないだろうか。野球の監督、サッカーの監督、どの監督も基本的には自分ではプレイをしない。差配して、全体を組み立て、ある方向へ導く者、それが監督である。
だから、脚本もカメラも監督の戦力の一つと考えると分かりやすい。そのなかでも脚本家は4番打者、強力ストライカーみたいなものと考えれば、先の野田、橋本の存在意義がはっきりと分かってくる。


橋本脚本には黒澤と関わった系列と、違う系列の2つがある。そういう意味では、橋本にもまたもう一人の橋本がいたことになる。その可能性を引き出したのが黒澤だったということになろうか。