好きな日本映画

kimgood2007-10-05

*あえて10本
「アステアとジンジャー」の項が思いのほか長くなった。気分転換もかねて和ものでいこうと思う。題して「好きな日本映画」。ベストテンと名乗るほどの蓄積もないので、思いつくままに10本ほど好みの映画を挙げていこう。いまさら小津や溝口でもないだろうから、自分の同時代かその周辺で見てきた映画を挙げていきたい。


外国映画ほどに偏愛の映画がないのは、もの心ついた頃には邦画の斜陽が始まっていたからで、ひとり寅さんだけが頑張っていた印象である。ATG映画も、つまらなさが先に立って、まともに見る気にならなかった。映画は頭で見るものではないし、映像的でない映画は見る気がしない。この映像的という言い方は、説明が難しいのだが。寅さん映画は、多感な高校生、大学生を惹きつける映画ではなかった。人生も黄昏てきて初めてあのシリーズの良さが分かってきたような気がするのだ。とくに「リリー・シリーズ」において。


一つ一つの映画をこの項のために見直しながら書いていくので、かなり気長な作業になりそうである。なるべく最近の映画から拾い出したいと思っている。映画をかなり意識的に見たのがここ最近のことだからである。


1 「ワンダフルライフ」
まずは是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」(99年)。この映画はあまり評判にならなかったが、とても味わい深い、アイデアも豊富な、見事な作品である。天国への扉の前に立った人間(幽霊?)たちに自分の人生を集約するビデオを作ってもらうという設定で、すんなり作る人もいれば、なかなかまとまりの付けられない人もいる。ヒントなどを与えて制作を促す側の人間が、実は昨年、ビデオ制作に至らなかった落ちこぼれという設定が利いている。
是枝監督はほかに「誰も知らない」と「幻の光」を見ているが、両作ともすばらしい。特に後者の江角まきこの演技は秀逸である。幸福の絶頂で夫に自殺された女の悲しみがひたひたと迫ってくる。静かな映像の重ね方を見ていると、この作品、小津へのオマージュではないか、と思えてくる。
是枝の時代劇「花よりもなほ」は、けれん味があって、珍しくハズレの映画である。もう少し落ち着いた調子が是枝流だと思うのだが。商業映画を撮るのだという意気込みが空回りしたか。ただチンピラやくざをやった加瀬亮はいい演技をしている。國村隼も得難い感じである。
是枝はドキュメントも撮っているが未見である。


※のちに是枝作品「歩いても歩いても」を見て感銘を受けたことは、08年の作品の項を見てもらえば分かる。家族の表から裏まで知ってつつがなく日常を繰り返す樹木希林演じる老主婦が怖い。


2 「シコふんじゃった
シコふんじゃった」(92年作)は「Shall we dance?」の周防正行監督の作品で、この映画には泣かされた。冒頭にコクトーが相撲を詠んだ散文詩が紹介されるが、それが実に神話的でいい。周防監督、この詩に出会って企画を思いついたのではないか。
外国人の助っ人スマイリーは、お尻を見せるのが嫌でレオタードを履いているのだが、本番ではそれは通じない。ほかの部員が必死で戦うのに、彼だけが不戦敗。ところが、3部リーグからやっと抜け出せる最後の取り組みになって、彼は意を決してお尻を出し、土俵に上がる。ここで滂沱の涙である。


周防監督は本当に寡作で、久しぶりの新作「それでもぼくはやっていない」を楽しみにしていたのだが、映画好きの友人が否定的な評価だったので、食指が伸びなかった。ところが、作品賞など総嘗めで、これは見ておくべきかもしれない、と思い直した次第。
「シコ」「Shall」に竹中に代表されるけれん味が多少はあったとすれば、この映画は淡々と進み、実に癖がない。いまの裁判制度の問題点なども案配よく説明されているし、裁判マニアという人種も登場させて世相も取り込んでいる。逆にいえば、お行儀が良すぎて、教科書的な匂いまでしてくる。やはり友人の評は当たっていたということになる。周防監督はバランスのいい監督なので、それが行きすぎるとこういう枠にはまったような絵が出来上がってしまうのではないか。


周防監督というのは、とても常識人なんだという気がする。たとえば、「シコ」のスマイリーは、日本および日本文化に対して、どこかで何度も聞いたことがあるような批判をする。相撲部を守っているのは落ちこぼれの先輩、それがマネージャーに恋心を抱いている――何から何まで予定調和的な設定ばかりである。それを積み上げていく手法も王道である。
それは「Shall we?」にも言えて、これにも異常なところは一つもない。主人公はダンス教師に憧れを抱くものの、愛妻家であることは少しも揺るがない。ただ仕事以外の充実感が欲しかっただけなのである。


としたら、周防監督はもっと多作であるべきだと思う。時代に合ったテーマで、それなりにエスプリの利いた作品を、ふつう以上のレベルで撮ることができるのだから。産廃問題を軽く扱うとか、長良川河口堰を扱うとか、オーストラリア人で賑わう倶知安を舞台にするとか、映画祭を続ける湯布院の奮闘を描くとか……テーマなんてそこらじゅうに転がっている。「フラガール」のような映画がたくさん生まれないかぎり、邦画興隆とは言えないはずである。


3 「スワロウテイル
岩井俊二という監督の作品は数作見ただけだが、「スワロウテイル」(96年)は衝撃の映画だった。96年作というから、バブル崩壊後の気分がみなぎっているのかもしれない。日本の国際化はアジア化である、との強烈なメッセージがまず驚きだった。激しい暴力描写、マッドマックスのような核戦争後の廃墟、おかしな合成語……チャラという異色の存在を得て、突き抜けた映画ができた。ほかに「四月物語」(98年)「Love Letter」(95)年というのも見ているいるが、思いつきだけの映画で、見ている時間がもったいない。
最近作の「花とアリス」(04年)の女の友情を描いて、秀作である。この年は「スイングガール」「下妻物語」と邦画復興の兆しが見えたかに思われた。そのなかでも岩井作品が頭抜けていたように思うが、何の賞も取らなかったのではないだろうか。


岩井は2001年に「リリィ・シュシュのすべて」を撮っている。冒頭に西鉄バスジャック事件(00年5月)の映像がテレビに流れている。17歳の少年が精神病院から退院を許されたあとに起こした事件で、青山真治ものちにこの事件を予見していたと言われる「ユリイカ」で扱っている。そのテレビ映像を主人公雄一(14歳)の新しい父親が見て、こういう奴は即刻死刑にすべきだと言う。
雄一は同じクラスのワル星野のいじめに遭い、万引きなどに使われている。星野は闇の権力者風で、蒼井優に援交をさせてもいる。かつて雄一と星野は仲のいい友達で、西表島へ数人で夏休みに出かけ、そこで水死しそうな経験を経て、悪への傾斜を強めるようになった。
雄一はカリスマ歌手リリィのファンサイトを開き、フィリアの名でリリィファンとメールのやりとりをしている。そのうちの一人に青猫というハンドルネームの人間がいて、映画もラストに近づいて、リリィのコンサート会場で2人は顔を合わせることになった。思いがけず、雄一は会場で星野に出会う。その星野が手に持っていた青リンゴの皮にblue catの文字が刻まれている。
チケットを星野に取られ、コンサートを見られなかった雄一。会場の外で終結まで待ち、「リリィがあそこにいる!」と叫んで群衆心理を誘導し、その人の群れの混乱を利用して、雄一は星野を背後からナイフで突き刺す。その後は、また安穏と停滞の日々がやってくる。高校受験はもうすぐだというのに……。


この映画は怖い映画で、中学生の世界はほとんど暴力と金と性で彩られ、それらがほとんど剥き出しで現れるだけに、雄一のようなナイーブな人間には地獄を生きている感覚に近いのではないだろうか。援助交際を強いられる蒼井優にしても、平気な顔をしながらも、野原で凧揚げを楽しんだ直後、飛び降り自殺をする。闇の覇者となった星野にしても、青猫という名で送るメッセージにはピュアなものが溢れているが、現実ではエリート女学生久野を仲間にレイプさせたり、暴力を止めることができない。


中学生を演じる役者がそれぞれ見事に役回りを演じて、見事である。よくもこれだけ揃えたものだと思う。エリートの久野を嫌うスケバン風の女とそれを囲む数人のグループも、それなりの雰囲気である。雄一をいじめる連中もそれぞれに個性がきちんと見える。これって、とても大変なことだと思う。大人の出来上がった役者を集めるのだってそううまくいかないことが多いのだから。


不満なのは、会員同士で交わされるメールの文字が頻繁に映し出されたり、西表島での水泳シーンでしつこくビデオカメラの映像をあちこちと振り回すなど、見るに辛抱を要する箇所があることである。観客を困らせて何かいいことがあるのだろうか。


岩井監督には「四月物語」や「花とアリス」のような朗らか系列と、「スワロウテイル」「りリィ」のような暗黒を描く系列の2方向がある。どちらも得難いものだが、中学生を扱って、ここまでの深い映画を作れることを思えば、後者の悪の系列の映画をもっと見てみたいものだと思う。


4 「家族ゲーム
家族ゲーム」は森田芳光の傑作である。83年作、もうそんなに時が経ったのか、と思う。卵焼きの半熟焼きにこだわり、じゅるじゅる音をさせながら食べる父親の妙な生々しさは忘れられない。この「食べる=エロス」というテーマは、後年、映画を撮ることになる、この映画の主人公役の伊丹十三にも共通する。
冒頭のシーンは、受験期の中学生の次男が煮豆をごはん茶碗に埋め込むところから始まる。次は長男がめざしを食べるシーン。そして、先の父親の卵シーン、最後が母親のたくわんポリポリ。船の舳先に立って、まるでブルース・リーのように登場する家庭教師役の松田優作は、お茶でもコーヒーでも一気に喉を鳴らして飲み干すキャラクターである。ほかにも、せんべい、ケーキ、すき焼き、ワイン、豆乳(これも父親がストローでちゅるちゅると吸う。幼児性のアリュージョン)と飲食物が、まるで映画の一人物のように登場する。
細長いテーブルは、「最後の晩餐」をイメージしたというが、狭いマンションの一室で全員が揃った絵を撮ろうとすると、しぜんとこの構図になる。しかしそれを思いついたときの喜びは、ひとしおのものだったろうと思われる。
さらに、勉強部屋での家庭教師と次男のやりとりを、下から透明ガラスで撮るところも、奇策でおもしろい。次男が教師に頬を張られて、机に突っ伏すシーンが何度があるが、それが全部、この透明ガラス越しに撮されるのである。
言ってみればマンションの狭い一室でほとんどのシーンが終始するので、細かい演出と、いいセリフがないと映画がもたない。そういう意味では、この映画はよく練られた、熟練職人の映画とも言えるのである。
松田優作ホモセクシャルと見紛う男子少年への接し方。母親と長男の異様な親しさ。もとはフットボール選手だったという父親の事なかれ主義。家族崩壊をこれほど先見性をもって映像にした作家はいなかったのではないか。「逆噴射家族」なぞ、ただのお遊びである。
狭い横長の、肘が重なり合うテーブルという設定は、言葉遊びではないが、正面から向き合わない家族関係を表している。唯一例外は、戸川純扮するマンションの新住民が訪ねてきて、重篤の義父が死んだら、どうやって棺をあの狭いエレベーターで運ぶのか、と涙ながらに訴えるシーンである。彼女は、横にぴったり座るスタイルが苦手だといって、母親役の由起さおりの正面に椅子を移動させるのである。
この映画のラストのシーンが問題である。次男の受験が成功し、緊張から解かれてどこか弛緩した感じの昼下がり。子供2人は部屋で寝込んでいる。クラフトエイビングに余念のない母親も睡魔に襲われる。そのほとんど奇跡のようなのどかさを脅かすように、ずっとヘリコプターの音が鳴り続けている。ヘリを撮すこともなければ、戸外にカメラを向けることもしない。耳障りな音が彼ら家族を包むだけである。
これを何か外部の不安な情勢とか圧力の象徴だとしても、映画の流れから言って、違和感が立つのは当然である。あえて社会性をまとわなくても、十分に時代の匂いを表現し切れている映画である。それに、社会性をうんぬんする監督ではないはずだ、森田は。以後の作品でも、つぶさに検討してみないと分からないが、その種のことが彼の映画の主題として前面に出てきたことはなかったのではないか。
ほかに森田は「の・ようなもの」「おいしい結婚」「未来の思い出」「間宮兄弟」を見ているが、「未来の思い出」は職人森田にしてこれほどの駄作を撮るのかという映画である。何か裏事情がありそうな出来である。「おいしい結婚」で唐沢寿明を初めて見て、色気のある男優さんだなと印象に残ったのを思い出す。
間宮兄弟」はもてない2人の兄弟が自足しながら生きている様を淡々と描いた映画だが、森田映画にあるディスコミュニケーションというテーマから熱量を奪った果ての、ほとんどユートピアのような世界を描いている。ここまで退行していいのか、と見ているこっちが苛立ってくるほど、この聖人のような兄弟に監督は無批判である。森田は主人公に皮肉な視点を差し挟むことのできないタイプの監督なのかもしれない。間宮兄弟が正常な位置からズレることで聖域を保っているとすれば、沢尻えりかとその妹の存在は、ごくノーマルな人間関係を表していて、ぼくはもちろんこっちのほうが健康的だと考える。
森田の最新作「サウスバウンド」、ぼくは泣き通しだった。いろいろ不満はあるが、森田がいまなぜこんなアナクロの映画を撮ったのか、そのことの意味を考えさせられた。反権力で突き抜けたイッちゃってる父親と母親、それに翻弄されながら次第に親以上に大人びていく子どもたち、正義を貫くひとになろうね、という根太いメッセージ。人間関係のディスコミュニケーションが、社会とのディスコミュニケーションにまで延引したと考えることができる。快作、あるいは怪作と呼びたい映画である。先のヘリの爆音という通奏低音がやっと表で鳴るような、そんな描き方を見つけた映画、ということになるだろうか。それと、森田の映画テクニックの多彩さに見とれる映画でもある。この監督、やはりただものではない。

12.1
今日封切りの森田最新作「椿三十郎」を見た。黒澤作品との比較をしたいのだが、映画を見たあとレンタルを借りに行ったら貸出中。かならずこういう輩がいるから不思議である。リメイクを見ないで元版を見る輩が。ぼくは小学生のときに封切りで見たあと、2、3度見ただけで、ここ最近はご無沙汰ということもあって、あまり旧作の内容に自信がない。それを前提に話を進めていく。
織田裕二が主演で、これは文句なくいい。声の出し方、しゃべり方に三船が乗り移ったかと思われるような瞬間が何度もあった。体の動きもいい。ぼくは「湾岸警察」という人気シリーズから彼が抜け、いったい何をするつもりなのかと思っていたら、「県庁の星」に出て、それがなかなかの佳作だったので、彼を見直したものである。しかし、演技の質は「湾岸」と大同小異のものであった。それが、「椿」では過不足のない演技で、とても好ましいものであった。


藩政改革を画策する9人の若者を剽軽な一団としたり、そのなかの2人が今風の若者の顔つきで、それも双子のように似ているので、映画が軽くなったのはそもそも森田の狙いだが、成功しているとは言えない。映画に緊迫感がなくなったことで、展開がまどるっこしくなったからである。そこに、のんびりした平和主義者の奥方とその娘がからまるから、よけいにスピードが殺されてしまう。このあたりが黒澤映画ではどうだったのか、そこが知りたいのである。


ワルの3人組に仕えるのが豊川悦史で、「サウスバウンド」と同じしゃべり方なのには笑ってしまった。この人、もともとこんなしゃべり方なのかしら。ほとんど喉を使わない、重みのない発声法で、どちらかというと映画向きではないのではないか。それにしても、味のある役者さんで、もそっとしっとりした役柄のときを見てみたい。


映画は最初っからバリバリの時代劇で、タイトルが太鼓の音に合わせてスクリーンいっぱいに打ち出されたときには、胸がドキドキしてしまった。この調子、この調子と思ったのも、すぐに若者集団の素人まがいの演技で興醒めに。誰かが何かを言うと、一斉に体を寄せたり、頷いたり、まるで子供の集まりである。野武士のような三十郎との違いを見せつける演出かもしれないが、それにしても青過ぎる。


できたら織田と豊川で何か現代物、それこそ軽いタッチの刑事物かなにか撮ってくれないものか。ねえ、森田さん。


5  「大誘拐
ぼくは岡本喜八作品はほとんど見ていない。「独立愚連隊」「助太刀屋助六」とこの映画「大誘拐」である。有名な「肉弾」は見たかどうか記憶にない。作品の幅が広く、長期に活躍した監督だが、あまり遭遇の機会がなく、これからのんびり見る数を増やしていこうと思っている。川島雄三に見るような芸術と興行のジレンマみたいなものは、岡本監督はひょいと乗り越えている感じである。テーマは国家の暴力の否定のようなものを根太く持っている監督に見受けられる。「独立愚連隊」は軍隊内部の不正と隠蔽を扱ったもので、進行にムラがあって好きになれないが、彼のテーマ性はすでにして出ている。


大誘拐」は封切り時jに評判の高かった映画である。ほかに似た作品が思いつかないのだが、それだけ独特の映画なのである。何がと言えば、誘拐された老婆が事件を利用して、あることを企み、警察などの裏をかいて事を成し遂げてしまうという設定が、独特である。つい最近、老人ばかりが集まって銀行強盗を決行する「死に花」という映画があったが、筋の見事さ、キャラクターの立っている感じ、事件の舞台である紀州の深い森の描き方、そして監督の情念のようなテーマ性など、一段も二段もこの映画が上である。
映画を見終わったあとの感じは、「マルサの女」の痛快感に近い。社会性とエンタメ性がほどよくマッチしている感じが近いのである。「マルサ」にも謎解きめいたところがあるので、よけいにそう思う。ハリウッドに「スティング」があるが、あれは爽快ではあるが、社会性が乏しい。


紀州の山持ち大富豪の老婆に北林谷栄、誘拐犯に風間トオル、警察の指揮官に緒形健、老婆をかくまうのが元の使用人の樹木希林。誘拐犯は3人組で、みんな演技が下手くそなのが、この映画の逆に味になっている。北林の演技もヘタウマの元祖みたいな気配がある。それは樹木希林や緒形健にも言えて、この映画、全部が全部北林に引っ張られるように出来上がっているのである。


老女誘拐の身代金運搬に使われるヘリコプターのパイロットを演じた役者が、くせ者の匂いふんぷんで、映画の濃い味付けになっている。東京から来ているエリート候補の警部も味が濃い。主人公関連が薄味の演技をするのをカバーするかたちになっている。この事件を報じる海外メディアの有り様も、それなりの真実味がある感じに撮られている。こういうところが薄っぺらだと、映画の魅力はぐんと落ちてしまう。必要な映像はそれらしくすべて収まりよく撮られている、という感じの映画である。監督はエンタメで行くと決めたところで、題材を扱う手つき、いわば“軽み”を手に入れたように思われる。


丹誠に守り育ててきた森が、自分の死によってほとんどが国に贈与税として差し押さえられてしまう。それをどう回避するか、誘拐犯に身代金は100億にしろ、と迫るのには、そういう事情があるからで、なかの述懐に「国はあて(私)に一体何をしてくれた。夫、子供を戦争で奪い、今度は私の命とも思う森を奪うのか」──これがおそらく岡本監督の変わらぬテーマなのだろうと思う。

※古本屋のワゴンセールのなかに中野翠さまの映画関連の本を見つけた(「中野シネマ」だったか)が、この映画を傑作とほめていた。さもありなん。


6 「麻雀放浪記
品田雄吉氏の本を読んでいると、84年は2人のアマチュアが撮った映画がダントツに光っていたといって「麻雀放浪記」と「お葬式」を挙げている。どちらも好きな作品なので、この2作について筆を遊ばせたいと思う。


麻雀放浪記」は白黒で、博打に女も命もぶち込んで、しかもさらっと生きるドサ健が主人公である。その生き様に惹かれながらも、独自の道を歩もうとするのが“坊や哲”、真田広之である。いわゆるビルディングス・ロマンといわれる種の映画である。麻雀のインチキ技を丁寧に撮っているのが、当たり前とはいえ、映画のリアリティには大事なことである。黒木和雄が久しぶりにメガホンを取ったと評判になった「スリ」は、せっかくのプロの技を見せなかったことで、薄っぺらな映画になってしまった。フランス映画の古いのにたしか「スリ」というのがあったが、よく内容を覚えていない。多少はスリの技を見せていたのではなかったろうか。


映画の冒頭は、焼け残った上野の町をパンして撮るのだが、どう見てもそれはミニチュアとわかる。ラストに、出目徳の遺骸を内縁の女に届けて輪タクのようなもので坊や、ドサ健、女衒の辰の3人が帰るシーンの背後の町並みは、立派なセットである。このちぐはぐさがよく分からない。あるいは、坊やが年上のマダム役の加賀まりことどこかの川辺を歩くシーンは、背後の川と2人の合成である。なぜなのか、その事情が知りたい。



上野の西郷像の脇の階段を下に下りる坊や、それを脅して金品を巻き上げようとするのが上州虎役の名古屋章。2人は勤労動員先の顔見知り同士、それも博奕好き。さっそく賭場へと足を運ぶことに。叩きつけるような雨のなか、筵掛けの小屋のなかで膝つき合わせて一心にチンチロリンにふけるる男たちは、下界がどうなろうと関係がないという様子である。坊やがドサ健の醒めた博奕哲学に惚れ込み、のちに弟子入り志願をする。それからのドサ健の躾は、その道ならではの裏切りや騙しまで加味されて、坊やは一筋ではいかない世界にどんどんはまり込んでいくことになる。坊やを手ほどきする役の加賀まり子が、もう薹が立っていて、年下の男を籠絡するのに十分な貫禄である。ぼくは加賀は「泥の河」(81年)のときがピークだったのではないかと思っている。
加賀が坊やに麻雀の積み込みを教えるシーンで、彼女の手がアップになるが、震えていてギゴちないのが明瞭である。なぜこういうシーンを撮り直したりしないものか。


とにかく役者がいい。名古屋章も人生にうらぶれながらも博打打ち精神を絶対になくさない。女衒の辰を演じた加藤健一は理性的でありながら、やはり博奕の魔に憑かれて押しとどめようがない。出目徳という名代の博打打ちを演じた高品格は、他の作品を知らないが、これが最良の出来ではないのか。彼を得たことで、この映画が2段も3段もすごみを増したことは確か。覚醒剤を打ちながら賭けにのめり込み、最後は死んでしまう。ドサ健は身ぐるみはぐのが掟だといって、持ち物から着ているものでまで取っ払ってしまう。それを呆然と眺める坊やと女衒。出目徳が住んでいたところまで遺骸を運び、土手の上から転がすと、下に溜まった汚水に俯せの状態でおさまってしまう。それを見ながら、オッサンのように死にたい、とはなむけの言葉をかける。これは冗談でもなんでもないのである。妙にうきうきした気分でヤドに戻ろうといつもの飲み屋にさしかかると、上州虎が「俺も入れろ」と声を掛ける。ああロクでもないな、と思う一方で、ああ羨ましいな、とも思う。ぼくもこういうやくざな生き方ができたかもしれないからだ。



ドサ健を演じた鹿賀丈史のこざっぱりした、やくざな生き方しかできない男の様子が好ましい。左利きで麻雀のパイを卓に叩きつける姿が惚れぼれするほど格好いい。彼の女が大竹しのぶで、惚れた男が博打打ちだから、彼のやりたいようにやらせるために娼婦にまでなろうという女である。つまりこのか弱き女のほうがドサ健より格段に強いのである。坊やは年上のマダムに熱を上げるが、ドサ健とその女のぎりぎりの愛し方から見れば、やはりバーチャルなものとしか言いようがない。大竹が愛想が尽きて「もう故郷に帰る」と言うと、鉄路にぶら下がりながら健は「帰らないでくれ」と言う。もう立場が逆転しているのである。あるいは、娼婦になってくれ、と頼むシーン。ウソでもいいから何か言ってくれ、ウソをいうときはいつも饒舌じゃないか、としのぶが言う。鹿賀が「真実だからほかは言えない」と答える。そこに蛾が飛び込んできて、鹿賀が恐怖で凍り付く。それを平然と団扇で殺して、しのぶが言うセリフ、「そんなに怖いなら逃げればいいのに」。ここでも逆転である。


名古屋章がしのぶに言い寄るシーンがある。お前みたいな若い女には俺のような年寄りが合うんだ、そばにいてくれればそれだけでいい、愛してくれるのは慣れてからでいい、としみじみとした口説きをする。襲われるのではないかと疑心もあったしのぶの体から緊張感が抜けていく。名古屋はそのままにして自分の部屋へ戻るのだが、この一連の流れもしみじみいい味わいである。


きっと、いや絶対に和田誠は「大人の映画」を撮ろうとしたのだろうと思う。それは上州虎や出目徳の扱いを見てもそう思うし、とくに加賀まりこ演じるマダムにそれを強く感じる。旦那の囲い者だが、お店は繁盛している。米兵と対等に渡り合う。坊やとの初床で、一度は果てた坊やがまた元気を取り戻し、会話の最中にちょっとでも動くと、微妙に加賀が反応するシーンは、非常にエロチックなものである。坊やは元気ね、今度は私が充分楽しむ番よ、と言って上下を替えるのだが、そのセリフはちょっと臭い。今度は私がたのしむわ、ぐらいでいいのではないか。それはそれとして、この2度いたす、という設定は秀逸だし、その微妙な体の反応を表情と、ちょっとした体の動きで表現するのは、やはり大人の世界と言うほかない。


意外なことにこの映画は男たちの愛情の映画でもある。上州虎は老年の恋を語り、出目徳は10年一緒の内縁の女をさして「なぜ俺といるのか分からない。男と女のあれもない。今日の勝負が終わったらケツを撫でてやろう」と言う。ドサ健としのぶの愛は前述のごとし。「俺の女なんだから何をしたってかまわない。おめえらはそれほどに女を愛したことはねぇだろう」と啖呵を切るシーンもある。女衒の辰にも、ドサ健と似た愛し方の女がいる(画面に登場しない)。そして坊やの一途の恋……ともするとすさんだ感じの映画になりそうなところを、これらの愛が救っている。



和田誠はこの映画のあと、4、5作あったと思うが、鳴かず飛ばず。ぼくも食指が動かなかったので、見ていない。映画にすべき題材が見つからなかったとも思えない。古典もの、たとえば「鞍馬天狗」や「旗本退屈男」のようなものを彼なりのアイデアで撮ったらどうだったろう。才気走った演出が見てみたい。


7「お葬式」
伊丹映画を丁寧に見ているわけではないので、気が引けるが、やはり「お葬式」は戦後を代表する映画に挙げていいのではないかと思う。ぼくが見ている伊丹作品は「たんぽぽ」「ミンボーの女」「マルサの女」「スーパーの女」である。あれだけ多彩な監督が、一本道のような作品しかないのが、異常といえば異常である。一人で映画界を背負って立っているような気分だったらしいが、それにしても脇道の映画も撮るだけの余裕が欲しかったものである。
ぼくは途中から伊丹映画を見なくなって、これではいけないと思って「スーパーの女」を見て、まったくの出来の悪さに唖然としたものである。マンネリなら我慢もできるが、映画のエネルギーや緊張感が落ちているのは、見るのが辛い。
職人技の映画監督というイメージだったので、あれ? っという感じだった。


この映画は、ベランダの籐椅子に眠る老婆の映像で始まる。それが動かないので、すでに死んでいるのではないか、と思ってしまうが、死ぬのはその夫のほうである。夫は検診から帰ってきて、何も異常がなかったと言って、みやげに買ってきたうなぎの蒲焼きとアボガドを夫婦で食べる。食べ物にカメラをかなり寄せて撮ると、何か異様な物体を写したように見える。その食事が終わって、しばらくして夫の容体がおかしくなる、という設定である。心臓病の発作らしいが、病院へ行くのに自分でタクシーに乗ることもできたのに、不帰の人となる。


「お葬式」は突然の葬儀にかかわれるあれこれを生態学的に撮った映画である。日本人の文化として突き放すように撮ったということもできる。主人公は俳優らしく、同じく女優の妻の義父の死から物語が始まる。義父の死が知れ渡ると、職場ですぐに弔意の言葉をかけられたり、病院から遺体をそのまま運ぶかお棺に入れるかを義父の兄と論じあったり、いかにもありそうなディテールが積み重ねられていく。そして、第1日目の最後のショットは、お棺のなかの死者の顔である。人間の空騒ぎを突き放して見る姿勢がここにも現れている。


大滝秀二が義父の兄の役で、実業家の成功者という設定である。その人を人も思わない様子に甥(?)役の尾藤イサオが通夜の席で突っかかり、やがて誰もいなくなって、尾藤、故人の妻(菅井きん)、その長女(宮本信子、その夫が山崎努)が飲み直しだといって、故人の好きだった島倉千代子の「東京だよおっ母さん」を歌い、踊るシーンがこの映画でいちばん美しいシーンである。宮本信子が歌のうまいのには驚きである。
もう一つ、焼き場の煙突から煙が上がったときに、それを見上げる人物たちを下から撮ったシーンも美しい。


途中で映像がモノクロに変わるところがある。役者が仕事の山崎、現場からカメラを持った人間がやってきて、記録と称していろいろな映像を撮るのだが、それがモノクロという設定。実に役者連がいきいきして見えるから不思議である。まるで「お葬式」という映画のメイキング映像を見ているような気分になってくる。ホームビデオっぽいタッチが出ていて、なかなかの演出である。ここの撮影は浅井慎平がやっている。蛇足だが、映画のクレジットを見ていると、助監督に黒沢清の名が見える。


山崎努に愛人がいて、それが葬式の場に顔を見せて、醜態を見せる。おとなしくさせようとするが、女は奇声を発し、しまいにはセックスを強要する。高瀬春奈が愛人役だが、肉もたるみ、脇毛もそのままで、妙になまなましい。建前だらけの儀式を相対化させるための仕掛けだが、よく利いている。死とエロスは対概念のようなもの。その立ち居SEXに、遊動円木に乗っかった妻の映像を差し挟むシーンは、ぼくにはやり過ぎという感じである。円木を男根に見立てる演出はダサイ。


役者陣が岸部一徳やら笠智衆藤原鎌足津川雅彦財津一郎、あるいはやくざ映画で見た面々も出ていて多彩である。腹の大きい女性が一人登場するが、産気づかせるとか、もう少し使い道があったのではないか。死との対比で持ち出されたアイデアなのだろうから、もう少し工夫があってしかるべきである。


ぼくは初見でとても理知的な映画を撮るものだと感じた。テーマというより題材が先にあって、それを腑分けして、人物とストーリーを組み立てた、という印象である。それは「マルサ」にも感じたことである。そこが新しいと感じたわけだが、そのやり方は先が詰まるのは目に見えていて、目新しい題材がなければ映画ができないのである。それに観客にも飽きがくる。扱う題材にいつも反応してくれるとは限らない。
ぼくは理知的な匂いを嗅いだのと同時に、生々しいエロスも伊丹映画から感じた。「お葬式」でいえば、夫婦で食べるうなぎとアボガド、高瀬春奈の脇毛とたぷたぷの太ももの肉、「マルサ」の女体盛り、電話しながら女をまさぐる場面、山崎努が足が悪くくねくねと歩くところ、山崎が頭にかぶるヘアーネット、腐った手首、親指の腹に疵をつけて血判を押すところ──今村昌平に「エロ事師」という映画があるが、ぼくはあれにエロスを感じない。エロスを題材にしてもエロスを感じさせるかどうかは別物である。
伊丹監督のこの奇妙な特質は、もっと深められ、発展させられるべきだったのではないか、とぼくは思っている。そのほうが、少なくとも監督生命も長かったろうと思うのだ。


「たんぽぽ」という作品は失敗作である、というのは常識かもしれないが、伊丹が亡くなったあとで見直せば、この失敗作にこそ伊丹がいたと思えるのである。ラーメンウエスタンと銘打ちながら、奇妙なことをいくつもやっていて、不思議な味わいの映画、あるいはやりたいことは全部やった映画である。当時の予告編に「五目うま煮映画」というコピーがあったようだが(DVDのおまけに出てくる)、その五目はバラバラに投げ出されている印象である。決して、うま煮にはなっていない。「葬式」のモノクロシーンでも、何か先行映画で見たような映像だなと思ったものだが、この「たんぽぽ」にはそう思わせられるところが随所にある。ある種、映画へのオマージュで作られた映画である。だから、この映画、解放感に溢れているのである。


まず出だしから変で役所広司が手下と女を連れて、映画を見に来る。手下は女の肩を抱きふんぞり返る役所の前に小さなテーブルを用意し、そこに料理とシャンパンを盛る。その伊丹、カメラ(あるいはスクリーン)に顔を寄せて、「そっちも映画館? 何、食べてるの?」と言う。それから、映画の本編が始まるというわけで、単純なウェスタンなど望むべくもない。最近の映画館では、本編の登場人物を使って「携帯は切れ」と告知することが多いが、この「たんぽぽ」は期せずして同じ効果を狙ったことになるのが不思議である。ポテトチップスなどカシャカシャ音立てて食うな、と役所は言うからである。それにしても、役所の化粧の濃いのはなぜなのか。映画を見ていくと、この世の世界の人物ではないような印象を受けるのだが、それを企図してそういうメーキャップにしたのだろうか。


映画へのオマージュ説が有力なのは、大友柳太郎、加藤嘉を大事な役で使っていることからも分かる。冒頭のシーンで出る大友が歯抜けなのか発音が明瞭でないのがまずこの映画への興を削ぐことになる。それに比べて、加藤嘉の発音の立派なこと。恐ろしいかぎりである。


ラーメン道に邁進する未亡人たんぽぽの話のほかに、料理を横糸にいろいろな逸話が挟まれる。
フランス料理を右へならへで注文するサラリーマンたちと一人独自に注文する新人サラリーマンの挿話、スパゲティは絶対に音を立てて食べないという料理講座の脇でずるずる音を立てて食べる外国人と、それにつられて生徒たちもずるずるとやる挿話、その同じホテルで役所が情婦を相手に食べ物とエロスの饗宴を繰り広げる挿話、その役所と海女の少女とのエロティックな挿話、電車内で歯痛で悩む男に少女が飲茶を給する挿話、スーパーで柔らかい、弾力のあるものとみると指で押す癖のある老婆の挿話、そのスーパーの主人が仕事帰りに北京ダックを食べ、同じく北京ダックを食べる詐欺師の一部始終を見ている挿話、走って家に帰り危篤の妻に向かって夕食を作れと言い、その声に蘇生してチャーハンを作って息絶える妻の挿話、拳銃で撃たれ、死にそうな役所が最後に、山芋をたらふく食べたイノシシの腸詰めはさぞかしうまいだろうと言い、ワサビ醤油が合うわねと情婦が答える挿話……などなど食べ物にまつわる枝葉の話が唐突に差し込まれている。このダラダラとした挿話の思いつきのようなつなぎ方は、ヨーロッパ映画の何かのパスティーシュではないかと思われる。


とくに役所の関わる挿話はエロスが横溢していて、伊丹監督の面目躍如である。
女の乳首に塩とレモン汁をかけ、それを吸う。唇に蜂蜜を流し、それを吸う。透明ガラスに生きエビを閉じこめて女の腹の上で踊らせる。卵の黄身だけを女の口との間でやりとりする。それが潰れて、役所の背広と女の白い服が汚れる。一転、海の岩場のシーンで、女が海で何かを洗っているようにも見える。情婦が服を海水で洗っているのかと思うと、それが海女だと分かる。役所がその少女を迎え、獲物のカキを食わせてくれと言う。殻で唇が切れ、少女は殻からカキを外し、私の手から食べたらいいと言う。そのカキに役所の唇から血が一滴したたり、それを食べた役所の血のついた唇を少女が舐める。その少女の濡れた薄衣の下には黒々した乳首が見えている。海には数人の少女がいて、役所と少女の痴態を無表情に眺めている。
やりたいだけやって、さぞ伊丹さん、ご満足ではなかっただろうか。


主人公のたんぽぽとそれを助ける五郎(山崎努)が雨の夜に、一夜を一緒に過ごしたかどうかは、明らかではない。しかし、その場面で差し込まれるのが、柔らかいものをひたすら指で押しつぶすのが好きな老婆の挿話である。最初が桃なのだが、これで監督は暗示したつもりかもしれない。「葬式」の遊動円木も稚拙な比喩だったが、これもそう。あまり象徴作用のうまい監督ではないようだ。


映画のラストは母親の乳首を吸う赤ん坊の大写しである。これがこの映画のいちばん駄目なところで、取って付けたような免罪符はせっかく積み上げたエロスを裏切るものだ。急に自分のやってきたことが怖くなったのか、この自制心はいただけない。伊丹自身で自分の可能性に蓋をしたようなものだ。エロスなぞ映画を面白く見せる材料に過ぎないとでも観客に思わせようというわけか。せっかく客の入らない映画を撮ろうと決めたのだから、変な妥協をしないほうが良かったのだ。


8 「泥の河」
見た最初から名作の雰囲気を漂わす映画というのがある。たとえば、「ペーパームーン」のような作品、あるいは「ドライビング・ミス・デイジー」、あるいは……挙げていけば切りがないが、共通するのは奇をてらわず、淡々と描きながら、鑑賞後の味わいが深いという点である。この「泥の河」もまたその種の映画の一つである。


四方田犬彦「月島物語」を読むと、川で生きる人々は陸(おか)に住む人間より一段下に見られていたらしい。もちろん船上だけで生活は完結せず、陸から水や電気を確保しなければならない。いつの頃からか川筋から彼らの姿が消えてなくなったが、それは取りも直さず流通経路が水運から道路へと変わったことを意味する。「泥の河」の登場人物たちはそういう川で生きる、下賤な人々の織りなす物語である。


川のたもとの小屋でうどんやかき氷を食わせる店を営んでいるのが田村高廣で、初見では意外な配役だなという印象だった。そういううら寂れた、汚い役をやる役者とは思っていなかったからだ。この田村が人生の機微を知り尽くした男で、息子が船で客をとる私娼の子供と仲良しになっても、夫婦ともども差別も区別もしないで接する(妻役の藤田弓子もすばらしい)。息子は声だけで姿を現さない新しい友達の母親のことが気になる。脂粉の香りも彼の鼻には届いていることだろう。たまさか男との情交の場面をちらっとだが盗み見て、驚いて家に逃げ帰るシーンなど、イニシエーションが大きなテーマであるこの映画のポイントである。その春をひさぐのが加賀まりこで、ぼくは小さい頃、彼女のポスターをまともに見られないくらい好きだったので、いたくがっかりしたのを覚えている。この思いは、きっと加賀まりこファンみんなにあったのではないだろうか。


ディテールをじっくり積み重ねて、不安定な生活を強いられる人々のたたずまいを愛情持って描いたもので、ぼくは出身階層にそう違いがないこともあって、とても親近感のある映画である。小栗康平監督は、その後、「死の棘」「眠る男」しか見ていない。あと2作ほどあるようだが、何か自分で難しいところへ踏み込んでしまった印象の監督である。


この映画はもう一度見直して細部について語りたい。


9 「バウンスko GALs」
原田真人監督で97年の作である。何度見ても、この映画には泣かされる。ぼろぼろ、である。傑作である。
いまどきの女の子の生態などいっさい知らないが、97年の作がまったく古く感じられないのである。この映画のことを話そうと、30歳の女性に「援交の映画があって…」と言い出したら、ぼくが援交批判を始めたとでも思ったのか、猛烈な反論で「援交にも愛がある」などとやられてしまった。しかし、速水由紀子の「あなたはもう幻想の女しか抱けない」を読む限り、援交をする女の子の大半はオヤジ連中の欲望に吐き気のようなものを覚え、好きなカレシにはコクることもできない純真さをもつと書いている。ぼくは自分の体をウリに出すなんて、人間、最後にやることではないのか、と思ってしまうのだが。
それと日本では処女性なり若年にエロスを感じるようになったのは戦後も最近のことで、かつては処女は恥ずかしいもので、性的に熟練した女が尊ばれたため、女は進んで処女を捨てたものだという。


この映画がすごいのは、ジョン子という佐藤仁美演じる元締めが、一流の女は体を売らないで稼ぐことだ、という価値観を持ちながらも、さまざまな事情のギャルたちを束ねていることだ。その表情が抜群にいい。この映画は彼女の表情を見ているだけで終わってしまう感じである。女の子たちの会話がズレながらも微妙に交錯するのも、とてもすごい演出だと思う。遠くから撮って、あえて録音をはっきりしない方法も効果的である。
真剣なこと、まじめなことを一切言わないで、真実に届こうとする意志を明確に感じる。


田舎から出てきてNYに旅立つまえに一稼ぎしに渋谷にやってきたのが、岡本夕紀子演じるリサ。この子のピュユな心意気にジョン子およびラクちゃん(佐藤康恵が演じる)が加勢して一夜の荒稼ぎをする。そこにやくざまがいの刑事役所広司ブルセラショップの店長桃井かおり、スカウトの青年、ウリで堕胎を繰り返すマル(ついにリーマンに顔面を崩され、瀕死に陥る)などが絡んで話は進行する。そのピークが、クラブで女をはべらす官僚がジョン子とリサと、同席していた中国女に男子トイレの掃除を素手でやることを命じる場面である。男は便器に口をつけたり、とんでもないことをする。それを女たちにやらせて、一人宛20万円ずつやる、お前たちは言われたことをやり、俺たちが日本を動かすのだといったことを口走る。女3人は期せずして男に襲いかかり気絶させ金をかっぱらう。このチームの組み方にも演出家の意図を感じるが、それはあえて指摘すべきことでもないだろう。



リサとの別れの場面が抜群である。相変わらず3人の話はズレながら微妙に交錯する。リサが乗り込み、電車が走り出し、2人は追いかける。諦めて柱にもたれかかり、ラクちゃんがずるずると背中から崩れていく。それを見下げながらジョン子が頭を小突いて「なに泣いてんだよ」と言う。見上げてラクちゃんも「おまえだって泣いてんじゃん」と言い返す。滂沱である。



ぼくは佐藤仁美というすごい女優が誕生したと興奮した覚えがある。ただ、それ以降、思ったほどパッとしなかったのではないかと思う。タモリナインティナインと組んだバラエティ番組で彼女がアシスタント的に出ているのを見て、ドキドキしたのを覚えている。しかし、それもパッとしなかったのである。だれか彼女を主演にものすごい映画を撮ってほしい。それと役所の演技もほめておかないとバランスがとれないかもしれない。素人にショバを荒らされたやくざの親分、実はやくざな警察という設定だが、カラオケでインターナショナルを歌わせたり、ジョン子と世相問答するところは、ご愛敬といったところか。子どもは1万円でキスさせるのは嫌だが100万円ならOKと言う。その子どもの論理を真に受ける大人が大勢いることが怖い、とそれこそ真実ずばりなことをジョン子は言うのである。


この映画の難はただ一つ、3人を神社に遊ばせたときに3人の巫女さんとすれ違わせるシーンである。これは余分だし、せっかく積み上げた自然さにケチがついてしまう。原田監督はいろいろとエンタメ系を撮っているようだが、友達が「クライマーズハイ」をほめていたので、見てみようかと思っている。


10 「月はどっちに出ている」
崔洋一監督である。夜中にイカテンのような番組があって、そこでむちゃくちゃいい加減な司会をしていたのが主演の岸谷五朗で、映画の主役と聞いて「えっ?」である。相手役がルビー・モレノで、この映画のあとどんどん評判を落としたが、この映画での彼女はとてもきれいで可憐である。ずっと白い服と下着で通すのだが、ラストだけチェックのワンピースに変わる。


朝鮮の北と南の軋轢、在日のなかの分裂と共存、そして彼らを取り巻くフィリピン女性、やくざ、差別主義者などが歯に衣を着せない言葉遣いでやり合う。その痛快さにやられた映画である。岸谷といういい加減なキャラクターが、どこにも属さず、肩肘張らず、そして常にやわらかく、好きな女にはウソをついてでも誠意を貫こうとする、といった複雑でだらしない感じにぴったりであった。


冒頭が俯瞰のショットでタクシー会社の全景が写される。誰かの声でこんなセリフが聞こえてくる。新人に先輩が何かを教えている体である。「この仕事をなめちゃいけない。プライドを捨ててやれ」……この論理が面白い。この仕事は意義のある仕事だからプライドをもってやれ、というのなら分かるのだが。それからカメラがさらに上に上がって2階窓から中の様子を映し出し、2人の人物が礼服を着て、どこかへ出かけようとしている様子。左に歩きだし、建物のかげに隠れて、すぐに1階へ下りてくるをずっと撮っている。この一連の古くさい映画手法が、たまらなくいいのである。崔監督自身、そのベタな撮り方を意識的に採用して、楽しい映画が始まるぞ、という期待感をふくらませてくれる。民族だ、差別だ、という深刻な言葉が飛び交う映画だが、冒頭のいかにもといった演出で観客は、この監督、ディープな問題もうまく処理してくれる、と予感を抱くことができる。音楽もビッグバンドのスイングジャズで、うきうきとした感じを支えている。


ルビー・モレノが岸谷と初めて会ったときに「儲かりまっか」と言葉をかけて、彼が黙っているので、こういうときは「ぼちぼちでんなぁ」と答えるんだ、と教える。結局、2人が別れるシーン、田舎のスナックの建物のなかに消えた彼女に二度、「儲かりまっか」と岸谷は叫ぶ。このシーンは絶品である。モレノと同衾した翌朝、白い下着をつけてベッドに横たわる彼女を写すが、これが美しい。



崔監督の次作が同じく新宿を舞台にした「犬、走る」だったが、これがちっとも面白くなかった。「マークスの山」も良くない。たまたまこの「月はどっちに出ている」がうまく撮れたフロックだったのかもしれないと思う。







〈つづく〉