2008年7月までに見た映画

kimgood2008-02-24

*その時々の映画
映画館で映画を見ることが少なくなった。都内にでも住んでいれば、単館ロードショーを見まくるのだが、都会を遠く離れて住む者には、そういう贅沢は許されない。どなただったか、東京とそれ以外では映画的環境がだいぶ違うので、東京目線で語るとだいぶズレが出る、というのを読んだことがある。
このブログは、なるべくまとまったテーマで映画を論じたいと思っているので、単発の作品に触れる機会がない。そこで、「綴れ織り」と題して、その時々に見た作品の印象を書き記していこうと思う。DはDVDを、Tは劇場を表す。


*マッチ・ポイント(D)
話題になった「マッチポイント」を見た。珍しいものを見たな、というのが第一の感想である。ウッディ・アレンらしくない、という意味で珍しいのである。とてもオ−ソドックスな映画で、ぼくはウッデイ主演じゃないウッディ映画は「インテリア」以来である。「インテリア」もオーソドックスといえばオーソドックスだが、ベルイマン風の風景、設定のせいでオ−ソドックスという感想は浮かんでこなかった(*のちにエリック・ラックスがインタビューした『ウッディ・アレンとの会話』という本に、ウッディの尊敬する2人の人物としてボブ・ホープベルイマンの名が出ていた。さらに、83年の時点でコミさんこと田中小実昌さんがベルイマンとの相似を指摘していた)。


「マッチポイント」はウッディがスカーレット・ヨハンセンに刺激を受けて作られた映画と言われているのではないかと思う。たしかにその気配は濃厚なのだが、やや違和感があるのは、魔性の女の設定が、妊娠が分かった途端に普通の女に変わってしまう点である。不倫の男は魔性の女のやりきれなさに殺人を思いついたというより、あからさまに普通の女になったことに嫌悪感を持ったのではないか。そういう意味で、ヨハンセンに入れ込んで撮ったとは思いにくいのである。魔性の女が妊娠してさらにパワーアップという設定自体、ありえないことではあるが。


それにしてもこの映画の“上流気取り”はどうだろう。結局はそこに憧れたアイルランド青年とそこから弾き出されたアメリカのコロラド娘の、なかばエグザイル的な恋の破綻物語だが、「インテリア」にも上流気取りはあったが、父親が再婚する相手が俗も俗、家族のテイストにまったく合わないエネルギッシュで野卑な女性であることで、その高等趣味が相殺されていたが(それが主題でもあるが)、この映画ではあくまで上流気取りは安泰である。
ウッディにはそういう指向や憧れがあり、自分が主演の映画ではそれをぶちこわすことで喜劇を創り出すが、こと他人を撮るとなると、密かな欲望が顔を出すのかもしれない。
いま彼のインタビュー集をつまみ食いしながら読んでいるので、もしかしたらそのへんの事情が分かってくるかもしれない。
ヨハンセンで次作「タレットカード殺人事件」を撮っているようだが、未見なので、いずれ見てここで触れてみたい。


雨月物語(D)
溝口健二の項に譲る。


*「エリザベス ゴールデンエイジ」(T)
「エリザベス ゴールデンエイジ」という映画を見た。イギリスがスペイン無敵艦隊を破り、世界の覇者となる頃を描いている。ケイト・ブランシェットエリザベス女王を演じていて、ときに野太い声を出すところなど、迫力もあり、快感である。天使の羽根のような衣裳や、鮮やかなブルーのドレスなど、とてもきれいなファッションなのは驚きである。それにカツラを被り、夜はそれを取って入浴したり、寝たりするのだが、髪はショートヘアである。おそらく時代考証がきちんとされているのだろうが、新しい発見だった。
ほかにも奇妙な拷問具が出てきたり、貴顕の士の見守るなかでメアリー女王の首に処刑人が大きな斧を振り下ろす場面、エリザベスが入る花を浮かべた浴槽など、見どころはあちこちにある。


基本的にはプロテスタントの英国と、カソリックのスペインの宗教戦争である。メアリーの謀反を咎めて、エリザベスは苦渋の選択で死刑を宣告するが、それが「傷宸フ子を殺した」ということで負い目になり、スペインのフェリペ2世に引け目を感じるところなど、宗教と統治者の正当性の在り方など、面白い発見があった。それと、エリザベスは妾腹の子と言われていて、しかもバージンであることも重なって、彼女を見る目には厳しいものがある。しかし、私はイギリスと結婚したのだ、と彼女は言い、戦闘でも戦士たちと一緒に前線に立つことを宣言する。


エリザベスは一人の男に心を動かされる。新大陸の領土に彼女にちなんでバージニア(処女地)という名をつけたローリー卿である。彼を直接的に愛することができず、同名の侍女を代理に立てて愛を進行するところが、この映画の不思議なところである。侍女と卿が踊るシーンでは、エリザベスが侍女に成り代わる映像が挟まれる。結局は、その侍女が卿の子を産み、最後のシーンはその子を女王が抱くところで終わる。


戦闘場面が思ったほど迫力がなかったのが、残念と言えば残念だが、とても楽しく見ることができた映画である。ふつうはこんな歴史大作など見ないのだが、予告編でケイトの荒ぶる声を聞いたために映画館に足を運ぶこととなった。何が映画を見るきっかけになるか分からない。


ケイトの「あるスキャンダラスな記録」は教師役の彼女が15歳の生徒と愛欲に溺れる話だが、あまりにも辛い設定で、途中までしか見ることができなかった。彼女を密かにいたぶる老女教師がレズで、話の先が読めるだけに見ているのが辛い。


*「エンジェル」(D)
フランソア・オゾンの最新作である。ぼくはシャーロット・ランプリングがらみで「まぼろし」「イン・ザ・プール」を見ただけである。2作ともイマイチという印象である。前者はゲイの映画評論家が過分の褒めようで、ほかにも彼の扇動に乗って見たものがあるが、どれもイマイチであった。タケシが言うごとく、批評を生業にする人間が頻繁に映画のコマーシャルに出るのは、倫理規定違反ではないのかと思う。オゾンの作品はあと「8人の女」をDVDで見て、途中で止めている。展開が緩く、見通すことができなかったが、気になるので再見するつもりである。


もともとそんなに奇を衒ったことをしない監督だが、この「エンジェル」はまさにそれ。先に挙げた2作より面白く見ることができた。作品の構成がしっかりしているのが安心感のもとになっているように思う。
エンジェルは食料品店の一人娘、勉強もしない、本も読まないが、空想癖が強く、文章を書いて作家になり、憧れの大邸宅「パラダイス」に住みたいと考える。その夢がかなって彼女は従者を幾人も抱える「パラダイス」の住人になる。エンジェルは自分の過去を否定し、偽りの出自、人生を言い繕う。母親が死ぬと、その母親をピアノが上手な芸術家だったと妄想するようになる。
彼女を偉大な作家として崇める女性をそばに置き、その弟で売れない画家を夫にする。その披露の席で、エンジェルは夫が描いた自分の肖像画を客に見せる。それは華やかなパーティの気分を一瞬にして凍らせるような出来であった(表現主義っぽい)。やがて夫は絵が売れず、女遊びや酒に溺れ、絵を描かなくなる。エンジェルの虚構の楽園に囚われて身動きができないのである。彼は牢獄から脱出するようにして戦争(1次大戦?)へと従軍し、片足をなくして帰還する。しかし、八方ふさがりであることは変わらず、首を吊って死ぬ。


ふとしたことで夫に愛人がいたことを知り、面会に出かける。その相手はかつての「パラダイス」の住人で、エンジェルの夫とは幼なじみ、男女の関係などなかったと主張する。エンジェルの作品もすべて読んでいると言う。部屋から出たエンジェルは、ちょうど2階から降りてきた少年と顔を合わせるが、夫とうり二つであることに気づく。
ロマンティックな通俗小説を書いたエンジェルは死後忘れられ、自殺した夫は真の芸術家としての名声を得るようになる。長年付き従った夫の姉は、偉大なエンジェルが忘却されることが分からない、と洩らす。エンジェルのいちばんの理解者、伴侶というわけである。


これが粗筋だが、エンジェルが病み衰えていくとき、その表情はかつて夫が描いた肖像画に似ていくのが、ちょっとした味付けになっている。エンジェルが死ぬ瞬間体を起こすシーンは、田舎芝居めいている。
エンジェルの本を出す出版社のオーナーがシャーロット・ランプリング、彼女はエンジェルの作品を一切認めないが、その徹底した虚構の生き方には敬意を抱くと言う。それはそれで大変なことだからである。ランプリングがふくよかな面差しなのが、何となく残念である。


エンジェルが過去をひた隠しにするのがよく分からない。それほど貧しい生まれとも思えないからだ。確かにこういう夢見る夢子さんのようなタイプがいることは確かだが、それにしても度を超している。しかも彼女の生み出した作品は大衆受けがしてよく売れた。オゾンは決して彼女を否定しているわけではない。自死を遂げた画家よりシンパシーをもって描いているとさえ言える。それはなぜなのかは、改めて考えるテーマである。


*「バンテージ・ポイント」(T)
ポール・ハギス監督のアカデミー受賞作「クラッシュ」は傑作で、監督の仕掛けたラストにぼくは不覚にも涙を流してしまった。複数の人間を描いて的確で、しかも一見関係のなさそうな人間が最後にはすべてなにがしかの繋がりがあることは分かる仕組みには舌を巻いた。それも無理に絡めた印象がないのがすごい。
この「バンテージ・ポイント」はその類似品で、さらにテレビの「24時間」を足したような作りになっている。かといって面白くないということではない。仕掛けやカーチェースなども十分に楽しめた。アメリカがテロ抑止の会議をスペインで開くのをテロ組織が阻止する話だが、アメリカ大統領はダミー、それを承知で裏をかくテロ組織のボスはハンディ・コンピュータで銃を遠隔操作してダミーの大統領を殺し、本物の大統領も誘拐してしまう。


テロ組織がITを使いこなし、アメリカの鼻をあかすというのは、初めて見る設定である。しかも、誘拐された本物の大統領を救うSPが、かつて大統領警護のときに腹に銃弾を受けた過去があり(その大統領は偽物の大統領)、やっと復帰してこの騒ぎである。派手なカーチェースの果てに大統領を奪還するわけだが、テロ組織がスマートでアメリカ側が泥臭く、マッチョという対比はユニークである。


この映画には大きな疑問が3つある。主人公を現場に戻した人間が実はテロの一員という設定だが、少なくとも現場を仕切るぐらいの人間が敵の人間と分からないほどアメリカは間抜けなのかどうか。それと、すぐに報復すべしとの部下の声を押さえて、敵の挑発に乗らず、話し合いのテーブルに就こうと米大統領が言うのだが、これはいったい何のジョークなのか。次の大統領にはこうあってほしいというメッセージなのか。本国アメリカでこの大統領は、どう受け止められたものだろうか。最後の疑問は、大統領を襲う特殊工作員というのが凄腕なのだが、彼は弟をテロ組織の人質に取られていて、犯行は弟の解放と引き替えだというのだが、いったいこの特殊工作員とテロ組織はそもそもどんな関係なのか、まったく描かれていない。


だからといって面白くないと言っているわけではない。ある一点に集中し、そこに関わった人物たちの視点ですべて語り直される手法は、とても効果を上げている。「クラッシュ」と同じく少女がキーポイントになっている点、シガニー・ウイバーが筋に絡んで来ない点など、ほかにも不満はあるが。


*「今宵フィッツジェラルド劇場で」(D)
アルトマンの遺作である。しかも、劇場の終幕を扱ったもので、何か暗示的である。例によって複数の人間がてんでに話したり、カメラをさまざまな人物に移動させてワンショットで撮るアルトマン方式は健在である。この劇場で行われるショーはラジオで流され、ずっと地元で愛されてきた。ところが再開発で買収され、取り壊されるというわけである。なかに女性の天使が出てくるが、これは番組の司会者のジョークのせいで車の運転を間違って死んだという設定である。そのジョークが、ペンギンのジョークで、「きみはまるで背広を着ているようだ」「何を言う、こっちが本物だ」というものである。天使はこれのどこが面白いのかと司会者に聞く。司会者いわく、「みんなが笑うからさ」。


この劇場は実際にある劇場らしく、司会者役のガリソン・レイラーはそこに出ていたことがあるらしい。彼は「ニューヨーカー」誌のライターでもあり、ナッシュビルの有名な劇場「グランド・オウル・オープリー」の物語を書き、それが発展して「A Prairie home conpanion」という作品になったという。フィッツジェラルド劇場の映画内のショーの名前が、まさにそれ。


DVD特典で出演者の来歴を読むと驚くことばかり。レフティ、ダスティというカントリーコンビが出てくるが、そのダスティ役をやっているウディ・ハレルソンの父親は殺人者だそうである。劇場を潰す役のトミー・リー・ジョンはハーバード大出身で、ゴア元副大統領と同窓とのこと。姉妹で小さい頃からショービジネスで生きてきたという役のメリル・ストリープは、若い時オペラ歌手を目指していたそうで、映画のなかでも達者なところを聞かせてくれる。いやはや何という出演陣だろう。


警備役をやったのがケビン・クラインで彼が小ネタギャグを3つほどやる。1=進行係の女性が受話器を置こうとしたそこに彼の手がある、2=背広掛けのスタンドにぶつかる、3=電話の相手が目の前にいる。こう書くと別に面白くも何ともないが、映像的には小さく笑えるようになっている。ぼくはこういうのがたまらなく好きである。


ぼくはアルトマンの「ショートカッツ」も「フールフォラブ」も見ていない。「プレイヤーズ」は途中で放棄。ほかに何作か見ているが、この映画がいちばんしっくり来たという感じである。実に余裕のある手練れの演出である。力が抜けていて軽く作った映画だが、好ましい出来である。


デ・パルマのダサさ(D)
パルマスピルバーグや誰それが師と仰ぐ監督だというのだが、ご冗談を、と思う。彼の作品は「殺しのドレス」「ミッドナイトクロス」「アンタッチャブル」「虚栄のかがり火」「ミッションインポシブル」「スネイク」「ブラックダリア」を見ているが、どれをとってもイマイチ(ミッションは例外)で、とくに「ブラックダリア」は原作を読んでいたこともあったが、見終わった途端、激怒するほど出来がひどかった。週刊文春だったか、数人の映画評がいい点をつけていたのが信じられない。この監督、不必要に女の裸を撮ったり、観客に色目を使いすぎる。志が低すぎるのである。
今回、DVDで見たトラボルタ主演の「ミッドナイトクロス」もそんな映画。何度、途中で投げだそうとしたことか。我がトラボルタがかわいそう。これ以上、言うことなし。


*「カンフーくん」(T)
見たのが間違いだった。柴崎コウの「少林少女」に期待しよう。でも、柴崎が少女とはきつい。


*「ALWAYS三丁目の夕日正・続」(T)
個々に割り振られた明確な役回りを演じる役者たち。そのなかで異質なのが三浦友和演じる医者と小雪演じるストリッパー。この2人の実のある演技でこの映画は救われているのではないか。やはり「続」は続でしかないという典型的な映画である。ぼくは田舎の出身なので、この映画の舞台となった土地が特定できない。東京タワーが間近に見えて、大きな川も流れている。品川行きとか何とかいう路面電車も走っている。いずれ調べてみるつもりだが。


*「ダウン・バイ・ロウ」(D)
ジャーミッシュはディスコミュニケーションをテーマにする監督で、この映画も基本的にそれだが、ラストには和解が用意されていて、ほっとさせられる。ザックとジャックというほとんど双生児のような二人は、どちらも仲間にハメられて投獄、そこへ英語の拙いイタリア人が加わることでドラマが動き出す。


ただ、ディスコミュニケーションを強調するためにイタリア人に無用な言葉をしゃべらせ過ぎるような気がする。初めて彼らが会うシーンがそれ。イタリア人がちょっとやり過ぎるので、興醒めに近いものを感じる。


脱走して果てない沼地を巡るシーンは、誰の映画だったか思い出せないが、アメリカ映画に似たのがある。きっとそれへのオマージュのようなつもりがあるのではないか。


*「I'm not there」(T)
ボブ・ディラン映画である。監督はトッド・ヘインズ、ディランの生き方に刺激を受けて作られた、と説明が出る。たしかにそうで、いくつかの人物を通してディランを浮き彫りにする、という意図らしい。ウディ・ガスリーと名乗る黒人少年が病床にある老いたガスリーを訪ねるシーンに思わず落涙。実際、ディランはウディを病院に見舞っているはずである。マスコミとのやりとりがうるさいほど差し込まれているが、そのディランの発言があまり知的でないのには少しがっかりした。「ぼくはそこにいない」というタイトルは、過去の映像を綴り合わせた「No direction home」と同工異曲である。ケイト・ブランシェットがディランを演じているが、あまりうまく行っていなかったのではないか。


ディランは新人当時、ものすごい吸収力ではやりの歌手や曲をおさらいしていて、どう自分を打ち出していくかにとても意識的な人間だったようだ。そうでなければ雨後の竹の子のように新人歌手、グループが登場するなかから、彼が抜け出すのは難しかったと思う。プロテストソングだって、もちろん彼の資質もあるだろうが、そういうマーケティングのなかから出てきたと言っていいのではないだろうか。のちの彼のエレキギターへの転身を裏切りと当時のファンは怒ったわけだが、そこにも彼独特の時代の変化を読む嗅覚が働いていたのだろうと思う。

ぼくはそこにはいない──ではディランはどこにいるのか?


*少林少女(T)
およそ30分で劇場を後にした。設定がカンフー君とまったく同じなのに驚く。闇の組織が日本の教育を牛耳ろうとしている。カンフー君は小学校が舞台、こちらでは大学のスポーツ。冒頭が少林寺で免許皆伝をもらうシーン、次が中華料理屋で投げられたラーメンやチャーハンを妙技で受け取るシーン。まったく頭を使っていない演出である。


*命の食べ方(T)
オランダの映画である。牛、豚、鶏、植物、岩塩、魚など人間の口に入るさまざまなものを撮り、その間に昼食を食べる人々を基本的には一人ずつ撮って挟んでいる。鶏がまるでバトミントンの球のように機械から吐き出されたり、ブルドーザーで太い木の幹を揺らして果実を落としたり、収穫が終わってまるで芝居のあとの幕引きのように枯れ蔓などが処理されたり、一撃で殺された巨大な牛がそのまますっぽりケースに収まったり、すべてが機械化されている。そして、そこで働く人間はその機械の補助として働いている。岩塩をブルドーザーで掘り出す二人の人間は、真っ白で寒々とした洞窟内で昼食を食べ、一日をそこで過ごしている。人の命に関わるものを“生産”している現場がいかに非人間的であるか、痛いほど伝わってくる。そして、物として消費される生き物たち。何の解説もない、淡々とした事実だけの積み上げの映画だが、2時間、まんじりともしないでスクリーンを見つめていた。巨大な施設を俯瞰で撮るとき、映画版「Xファイル」の映像とそっくりなのには驚いた。



*実録あさま山荘(T)
若松孝二監督の作品。あの連合赤軍の結成から破綻までを描いたもので、大筋を知っているぼくとしては気分はおさらいだったのだが、やはり胃に衝撃を受けるような体験だった。では、何が? オウム事件を経た我々としては、あの事件が抱えていた“悪"はいまだに生命力豊富に生きていると思わざるをえない。組織や権力が一点に集中した場合の怖さ、そこに参加した者の弱さ、あれやこれや。若松監督は、山荘に籠城した一人に「ぼくらは勇気がなかった」と言わせている。仲間を"総括"といって虐殺し続けたことを指している。それに対比して監督は、首謀者森恒夫の獄中での「これからは勇気をもって真の革命に進みたい」という一文を挙げている。この森は一度は戦線から離れた人間である。こういう負の要因を持った人間が組織を握ると、えてして過剰な掌握に走るのは、よくある話ではないだろうか。永田洋子を演じた役者は実にハマリ役であった。ぼくらがこの映画を見て恐怖を抱くのは、日常にも森や永田がいて、それに阿諛追従する自分がいるからである。
この映画、あまり映画評が良くない。ぼくは新解釈がないところが、若松監督の誠実さではないかと思った。警察は山荘を壊すのに大鉄球を使ったのだが、その映像を映さないので、事情を知らない人間はなぜ山荘が轟音を立てて揺れるのか分からないのではないか。予算の関係で渋ったのかと思う。


越前竹人形(T)
1963年の作で、吉村公三郎監督である。若尾文子、山下洵一郎主演。父親が通った娼婦を身請けしたものの、その父親の幻影に付きまとわれてセックスができない息子の物語である。結局、娼婦の同輩から父親と性交渉はなかったと聞き、やっとその気になるが、時すでに遅し、娼婦だった妻はほかの男の子を宿し、堕胎に赴いた京都で子を流産し、ほうほうのていで越前に戻るものの、すぐに死んでしまう。闇夜に家の玄関にたどり着き、雷の光にうらぶれた姿が浮かび出すところは、怪談映画そのものである。若尾文子が夫に迫るところ、川の渡しをする中村雁治郎のこの世のものとも思えない造形など、見どころが幾箇所かある。なかでも夫・山下洵一郎がいい。目がきれいである。ほかにどういう作品に出ているか知らないが、いい役者さんである。昔、一度、見てはでやかな映画だった記憶だったが、小品の佳作という印象だった。


*風の中の牝鶏(D)
小津作品のなので、その項に譲る。


東京物語(T)
小津作品なので、その項に。


*王将一代(T)
新文藝座の香川京子特集である。
55年作「王将一代」は伊藤大輔監督で、辰巳柳太郎主演。坂田三吉という稀代の将棋指しの物語である。別に言うこともないが、娘役の木暮美智代がなかなか妙な味を出していて、この親ならこういう変わった娘ができるな、という気にさせられる。坂田を庇護する田中春男がいい味の役者さんである。特別好きなわけでもないが、ずっとこの人のバイプレイを見続けてきたように思う。
誰の評だったか、この映画と車引きを扱った「無法松の一生」は被差別出身をまったく触れずにいるのが瑕瑾だというのがある。


ラスベガスをやっつけろ!(T)
ぼくはこの種の映画に弱い。この種というのは、知的スリルで出し抜くというタイプ。だから「オ−シャン」シリーズや「ミッション」シリーズのようなものが来ると、心が騒ぐ。007やマット・デイモンの「ボーン」シリーズは知的なものより肉体系に寄っているので、“その種”のものとは趣は異にするが、そっちもやっぱり好きである。
今日は「インディ」の再復活の日だが、あえて見るのを止めて、「ラスベガス」の方を見に行った。何となくの感なんだが、インディがショーン・コネリーと組んだのと同じ構造の映画になっていて、結局、動き回るのは新人俳優ということではないかと思うのだ。それでは“ぼくらの”インディではないわけだ。
「ラスベガス」は主演俳優に少し難があるかもしれない。華がないのである。チームの一人一人ももう少し色づけをしたら魅力的な映画になったのではないか。中国人らしき青年が、ホテルでもどこでも備品から飲み物まで拝借しまくるのは、中国をからかう気でもあるのか。ハーバード大に入るのに教育資金がなく、奨学金も貰えるか分からず、それでカジノに手を出す話で、いたって筋は単純そのもの。面白いのは、その奨学金を貰うのに、独自の経験をエッセイに書いていないと受からない、というところである。前年の受賞者は片足だったという。「君には何がある」と主人公は尋ねられ、ハタと行き詰まる。結局は、バクチ生活がウケて合格することになるのだが。
ケビン・スペイシーがまたしてもスマートな悪党役である。しかも数学の教授で、かつてギャンブラーとして鳴らしたという設定である。これははまり役だが、ちょっとお年を召されたなという印象である。冒頭から昔の青春映画っぽい音楽が軽快に流れて、気分は上々で始まる。その気分がもう一つ全体に回っていかないのは、ひとえに人物の描き方に深みがないからである。彼らを狙うカジノ付きの見張り人が、オールドタイプで、コンピュータの生体認識などで敵を掴まえられない、という考えである。このあたりも書き割り的で、もっとそのオールドタイプとの知的な対決を際立たせると、面白い映画になったはず。
いろいろ難はあるが、楽しんで見られる映画なのは確か。


*恋愛小説家(D)
ヘレン・ハントがアカデミー女優賞を取った映画である。ニコルソンが神経強迫症の恋愛小説家で、ウエイトレスのハントに恋をするが、毒舌の癖がたたって成就できない。彼にすれば、その毒舌の壁を破って侵入して来る者を受け入れようというわけで、いわば毒舌はリトマス試験紙である。同じマンションの隣人がゲイの絵描き、この男、「ベティ・サイズモア」に医者役で出ていた。小説家は、破産した彼を一緒に住まわせたり、ハントの病気の息子に高名な医者を差し向けたりする善人でもある。


ニコルソンが化粧が濃いのか、妙に薄汚く感じた。もういい歳なんだから、作品を選ぶべきである。ハントのきれいなヌードが見られる──そういう意味では一見の価値あり。


ロンリー・ハート(D)
トッド・ロビンソンという監督の祖父が刑事で、彼が実際に扱った詐欺師・殺人鬼の事件がもとになっているという。男女2人の詐欺師が出会ったことで、いままでは金をだまし取って逃げるだけだったのが、女の嫉妬が燃え立って、結局はだます「寂しい女(ロンリーハート)」を殺してしまうハメになる。その様子がよく描けていて、この映画、パルマの「ブラックダリア」より数段、映像的にも優れている。とくに風呂桶で手首を切って死んだ若い女性のシーンは、美しい。彼らを追うのがトラボルタで、妻を謎の自殺で亡くし、しばらく現場を離れていたが、この自殺事件がきっかけで2人の詐欺師を追いかけることになる。同僚役の役者が、実際にトラボルタの近所に住んでいたそうで、父親がトラボルタの店を使っていたという。近所で有名な俳優になる奴がいるなら、自分もできるかもしれないと映画の道に進んだという。トラボルタとは「ゲット・ショーティ」からの付き合いだという。あの映画のどこに出ていたろうか。
ときにこういう映画に出会うからうれしい。何の評判にもならなかったし、トラボルタ映画なのに耳にも入ってこない。だけど、佳作である。


*夜のピアニスト(D)
フランス映画で、主人公は不動産の取りたて屋をやりながら、昔の夢だったクラシックのピアニストに再挑戦する。取り立てのいざこざ、同業である父親との確執、同僚のかみさんとの恋、そのあいだにもベトナム人の女性教師のもとでレッスンに励む様子が、丁寧に撮られている。全編にクラシックとテクノポップが流れている映画で、なかで触れられるハイドンピアノソナタ32番を速攻アマゾンで注文してしまった次第。エンドタイトルを見ると、バッハ、ドビュッシーモーツアルトなどの曲が流れていたようである。いい映画である。


シェルタリング・スカイ(D)
四方田犬彦が「人間のための読書」という本でテネシー・ウイリアムズの自伝について触れていた。それで再読したのだが、そこにポウル・ボウルズとジェシー・ボウルズ夫妻が出ていて、T・ウィリアムズは旦那より奥さんの作品が絶品だと褒めている。彼はモロッコのタンジー(タンジールである)に旅行しているが、カポーティもそこへ行っている。ゲイの人間にはメッカみたいな場所で、実はポウル・ボウルズも同種の人間で、ややこしいことに妻のジェシーレズビアンだという。
シェルタリング・スカイ」はその夫ポウルの小説を使った映画で、彼自身が映画のナレーションをやっている。うまくいかない夫婦がうまくいかない理由を明示しないまま劇は進行し、夫は最期、腸チフスで死に、妻は錯乱する。テーマがきちんと押さえられていない、坂本龍一の音楽がうるさい、砂漠のシーンがやたら長い、最期にボウルズに擬した老人の箴言で映画が終わるというダサさ、などなどでこの映画は駄作である。
実際の生活では、妻が先に死に、その際にカソリックに改宗していたことを夫が知って、激怒したという。DVDのおまけ映像で「これは私たち夫婦のこととだと監督は思っているようだが、それが違うとは明確に説明しきれないので、放っておく」式のことを言っているが、よくもまあ適当なウソをつくものである。夫は少年に狂い、妻も現地の女に狂っていたのだから。


ところで四方田犬彦は「モロッコ流たく」でボウルズのことやタンジールのことを詳しく書いている。しかし、T・ウイリアムズが奥さんの方を高く評価していたことをまったく触れていない。それは、なぜなのか。彼はボウルズ作品を1つ訳している。
ぼくはベルトリッチ監督は「ラストタンゴ・イン・パリ」しか見たことがない。若い頃に見たままなので、正当な映画評はできない。「ラスト・エンペラー」のような大きな作品はまちがっても見たくない。しかし、このボウルズ映画を見るかぎりは、しまりのない監督という感じである。


*「歩いても歩いても」(T)
是枝裕和監督の映画である。前作「花よりもなほ」はまとまりのない、うるさいだけの映画だったが、今回は是枝ワールドに戻って、十分堪能した。出だしが状況説明するためにやや演出過多な気もするが、途中からは順調である。すべてが予定調和的な設定ながら、それも舞台が家の中と限られているのに、最後までじっくりと見ることができる。やはり映画は脚本、配役、そしてヌケ(映像)である。ぼくは是枝は「幻の光」を見て以来、小津直系ではないかと思っているのだが、今回、さらにその思いを深くした。三谷幸喜の新作がかかって興収を挙げているようだが、こういう映画こそ大事にしたい。蛇足ながら、樹木希林はかなりアドリブで演技をしているようだ。


*「イースタン・プロミス」(T)
クローネン*バーグ監督作である。前作(?)「ヒストリー・オブ・バイオレンス」はぼくにはちょっとあざと過ぎる映画で、なぞが解けてからはただのスーパーマン映画になってしまった。今回も主人公はウィーゴ・モーテンセンで、イギリスのロシアン・マフィアという設定である。昨年だったか、ロシアの諜報部員がロンドンで奇妙な病死を遂げたことがあったが、かなりの数のロシア人がいるようだ。
例によって全編暴力シーンだが、ナオミ・ワッツが出ていて、懐かしい。なんとなくヨハンセンっぽかったのが、さらにヨハンセン似である。コーエンの「ノーカントリー」を見たぼくとしては、クローネンバーグはまだ殺し合いの武器として肉体があるだけ救いかとも思った次第。


*「好色一代男」(D)
増村保造監督で市川雷蔵が主演。「卍」も一緒に借りたのだが、なんだかつまらなくて30分ほどで退散。岸田今日子若尾文子がレズの関係である。それにしても谷崎という作家はエライものを書いたものである。「好色」は井原西鶴原作だが、どこまで翻案しているのか、本を読んでいないので見当がつかない。
一貫して流れるのは、女性は尊いもので、一心に崇めればそれに応えてくれるという哲学で、世の男どもはいっかなその価値に気づいていない、というのである。市川雷蔵の洒脱な演技を堪能しているうちにエンドマークが出る、といった出来である。歌ったり、踊ったり、それはそれは身の入った演技である。それに引き比べると、代わりばんこに出てくる女たちの演技不足が目につく。あの水谷八重子も生彩がない。まして太夫に扮する若尾文子なぞ大根役者である。
松竹は庶民の哀感、日活は活劇、大映は悪を潜ませたエロ、東映は男臭さ、東宝は怪獣を含めた大きな映画、といったところが五社の特徴づけということになろうか。なかで一番見たのが大映雷蔵映画である。あとはゴジラ東宝、そして健さん東映である。若大将シリーズクレイジーキャッツ・シリーズはどこの会社だったろうか。


*「4分間のピアニスト」(D)
冒頭のシーンが衝撃的である。首つり人の足が見える。それを上に追っていくと、2段ベッドの上で誰かが寝ている。それがごそごそ動き出して、死人のポケットからタバコを取り出す。タバコの火が見つからないので、ブザーで係官に知らせる。


著名な女性ピアニストが刑務所の若い女性囚人の才能に惚れ込み、若手コンクールに出す経緯を綴ったものだが、当人はナチの収容所で看護師をしていたときに、囚人であるユダヤ女性を恋し、裏切った過去がある。一方、若い女性囚人は義父に鍛えられ、数々のコンクールで優勝した過去をもつが、人形であることを拒否したところ、12歳で犯される。しまいに人殺しの罪で服役し、流産を経験する。
おぞましい設定だが、ピアニストを描く映画はどうしてか面白い。まるでナチの将校のように接する女性教師への反発、しかし、ピアノへの夢を捨てきれない女。その葛藤を抱えながら、ラストへとなだれ込む。世間へのアピールを画策する所長のはからいで新聞記者が取材に来るが、その目の前で手錠をしたまま後ろ手でジャズを演奏するシーンが圧巻である。
コンサートで彼女が弾いたのはシューマンをアレンジした即興の曲。現代音楽にジャズとクラシックが解け合ったような演奏で、あっけに取られた観衆も最後には棒立ちになって拍手を送る。


*「赤線地帯」(D)
溝口健二の項に譲る。


告発のとき(T)
原題は“in the valley of Elah”となっている。戦士ゴリアテが少年に投石で殺されるのがErrahという谷で、この挿話は中で語られる。邦題のタイトルは、過去の似たようなタイトルをいろいろ思い出させ、またかと感じさせるぶんマイナスである。監督がポール・ハギス、ぼくはこの監督を追いかけていくつもりである。


いわゆる軍内部の腐敗を扱ったもので、戦場ではなく、休暇のために本国へ帰還したあとの事件というのが変わっているかもしれない。アメリカはつねに外部に戦争を仕掛けてきた国だが、イラク戦争は特別だ、という意識がハギス監督にはあるようだ。戦場の異常を経験することで、帰還後の日常にとけ込めず、犯罪や自暴自棄に走る、といった設定の映画はたくさん作られている(ディア・ハンター、7月14日に生まれて、ブラックサンダーランボーetc)が、ささいな喧嘩から仲間を殺し、腹が減っていたので穴を掘って埋めるのが面倒くさく、焼き殺してチキンを食べに行く、といった在り方は初めて撮されたものではないか。


2人の子を戦場で亡くしたのがトミー・リー・ジョンズ、スーザン・サランドン夫婦。殺人捜査にあたる警部がシャリーズ・セロン。謎解きを絡めながら、ついに正義の戦争などなしえなかったアメリカ軍の在り方を静かに告発する体になっている。元軍警察勤務だった父親は、戦場からかかってきた息子の「ここから連れ出してくれ」という悲痛な願いを遮り、しっかりしろ、と戦場へと押し返す。息子は携帯で途切れ途切れの映像を撮り続けていたが、彼は自分が異常な領域へ踏み出したことを理解していなかったようだ。帰還してからもドラッグに逃げようとしていた。


父親が失踪した息子捜索に初めてモーテルに泊まるシーン。ベッドメイキングをしゃきっしゃきっと進めるのを映像をカットすることで手際よく表現していて、こういうささいな演出にも見事なテクニックを感じる(映画好きの友は、この歯切れのいい映像で、元軍人の感じがよく出ている、と言う)。


なかに息子が撮ったイラク人の焼死体の映像がある。服は焼けずに体だけ焼けている、と息子は表現する。たしかにそのように映っているが、これは何という武器を使った結果なのか。焼死体を作り出すことに慣れっこになった彼らは、結局、仲間まで焼き殺してしまったわけである。殺人者の一人は、俺がやらなければ、あとでこっちが殺された、と供述する。


1つ不満があるとすれば、イラク戦争がほかの戦争と違って異常な理由をもっと明確に示して欲しかった、ということである。ベトナムの森で疑心暗鬼から手当たり次第に人を殺すのと、イラクの街で停車したらロケット弾を打ち込まれるからと、通行者をひき殺してでも前進するというのは、相似形のように思えるのだが。