2013年の映画

kimgood2012-12-20

1 ハル(DL)
森田芳光の作品で始められる幸福を思う。ぼくはこの作品をタイトルからロボットを扱ったものと勘違いしていた。見ると、ハルはチャットのハンドルネームで、文字のやりとりで親交を深めていく男女を扱っている。黒に白い文字の画面が頻繁に出てくるが、まったく違和感がないのは、どうしてか。これがもしサイレントであれば、人はあえて見ることはしないだろう。しかし、要するに仕掛けは一緒なのである。


ハンドルネーム「ほし」が深津理絵、ハルが内野聖陽である。「ほし」は恋人を事故で亡くして、傷心の日々を盛岡で送っている。彼女をストーカーのように追う男から逃れるように、パン屋、コンパニオン、図書館員などの仕事に就く。彼女の本棚の中心には村上春樹が置かれている。ハルはラガーマンだが身体を壊し、会社では肩身が狭い。スーパーなどでトムヤンクンスープ缶を営業するのが仕事である。彼は失恋し、ネットで下ネタばかりを振ってくるローザと付き合うが、ローザは実は歯科医院に勤める女性で、身持ちは固い。あとで彼女が「ほし」の妹であることが判明し、少し上記2人には冷却期間が。それを乗り越えて、東京駅で顔を合わせるのがラストである。


例によって悪意の人は一人も出てこない。これが森田映画である。そして、映画的な仕掛け(この映画でいえばサイレントもどき)が必ずしてあるのも、彼の特徴である。


森田の作品であと見ていないのが結構ある。今年はそれを見切ってしましたい。


2 壮烈新撰組 幕末の動乱(DL)
58年の作、東映で、監督佐々木康、近藤勇片岡千恵蔵芹沢鴨山形勲倒幕派桂小五郎高田浩吉、あと大友柳太郎、大川橋蔵。近藤がかなりいい人に描かれている。芹沢鴨を確か、女と同衾しているところを殺したはずだが、この映画では屋外での近藤との斬り合いになっている。近藤が危ないところを勤王派に助けられたり、かなりいい加減な脚色を施しているが、やはり千恵蔵がセリフを言うと、重みがあっていい。大友先生は発音が悪く、それを一生懸命克服しようとするので、メリハリの利いた話し方になる。動きも鮮やかで、きれいである。月形龍之介京都所司代から言いつけられて新撰組に加わり、あとで袂を分かち、勤王、佐幕、両天秤を掛けるという、締まらない役である。フアンとして、ちょっと残念である。大川橋蔵の恋人役が花園ひろみで、可憐である。女間諜が花柳小菊で、瓜実顔の、浮世絵のような女優である。小五郎の愛人が大川景子で、この人は時代劇でよく見かける人だが、その後はどうなったのだろう。


3 拝啓、愛しています(T)
韓国映画で、老人の恋を描いている。メルヘンタッチにしているのは、事が深刻になるので、それを避けるためだと思われる。認知症からガンになった妻と無理心中する男の挿話などもあるためである。しかし、これがどうも成功しているとは思えない。


韓国は65歳以上が14%を占める高齢社会へと進み、自殺者はこの10年で2倍、OECDでは自殺率1位、特に高齢者の自殺が多い。出生率は1.24で、深刻な人口減に見舞われる可能性が高い。そういった背景を持った映画である。先の無理心中の夫婦には3人の子があるが、結婚して誰も寄りつかない。これは、日本以上に家族の紐帯が弱くなっていることを示唆しているように思う。


4 マイレージ・マイライフ(DL)
ジョージ・クルーニーが首切り説得屋で、あちこち飛行機で飛び回る独身男を演じる。大学出の新人がネットでの首切りシステムを提案し、実行されようとするが、実戦でさまざまな人の苦悩に接したことで転職することに。クルーニーは相性の合う、これもマイレージ溜まりまくりの女と結婚まで考えるが、実は相手は既婚者。


ルーニーの妹夫婦が結婚することになり、その祝いに2人の厚紙看板のような写真を持って、指定の風景をバックに撮影することを頼まれる。これが皮肉な味になっていて、面白い。


中でデトロイトの連中は手強い、というセリフがあるが、かつてのモータウンもひどい人口減に見舞われているわけで、手強くなるのも当然か。


5 ひばり捕物帖 ふり袖小判(DL)
いい加減なタイトルである。振り袖と小判はまったく関係がない。ひばりは二役で姫と岡っ引き。ある藩の金が盗まれ、その探索方が東千代ノ介、酒に目がなく、酔っての剣術はまるで酔拳である。監督が内出好吉。歌舞伎の話が挟んであるが、まったく無駄な脇筋だが、この無駄が生きている。座長の幼少時に別れた姉が盗人で、襲名披露の千両を集めようと狙ったのが先の盗まれた小判という設定である。こういう取って付けたような設定が、マキノは大好きだったという。


6 96時間リベンジ(T)
やはり1作目を超えることができない。プロの工作員の凄さを知ってしまった以上、もっと先をと思うからである。まして、今回は前回で殺した男たちのオヤジが復讐で登場するので、よけいに前作の超え方が難しい。拉致された後の自分の位置の確認に目新しさがあるが、人質となった神さんがなかなか殺されないのは問題であろう。


7 幸せのレシピ(DL)
アエロン・アッカートとセタ・ジョーンズの恋愛ものである。取りたてていうことはないが、善良なアッカートに出会って本当によかったね、という感じである。一流レストランの経験のないシェフという存在がアメリカで認められるというのが本当のことなのかどうか、まったく分からない。


8 ノーホエアボイー(DL)
とても清潔な映画である。淫乱ともいえる母と、その謹厳実直な姉の間で取りっこされるジョン・レノン。その綱引きが行われながらも、彼はビートルズのリーダーとして成長していく。姉妹の和解がなったあと、母は交通事故で死んでしまう。路上で横たわるその顔をしかり撮すが、その必要があるのかどうか。マッカートニー、ハリスンも加わり、ドイツ・ハンブルグに出かけるところで映画は終わる。もちろんすでにイエスタデーは作曲されている。


9 コロンビアーナ(DL)
レオンのちょい成長版南米編という感じで、最初の、父母が殺されて、独りで少女が逃げるシーンがいい。あとは、どうも肉体性を失って、陳腐な映画に。


10 アウトロー(T)
トム・クルーズの新しいシリーズになるようだ。MIのサイエンス抜きといった感じで、昔のデテクティブ物の感じもある。パーキングでの格闘シーンは見ものだが、あとは残念感が強い。ヒロインが少し年を取りすぎているのと、理知的なはずが、トムと犯罪推理シーンではほとんど間抜けの役割を振られている。片方が推理を立て、片方がそれを否定する、という構図なため、そういうキャラクター無視のやりとりになるのである。悪しきハリウッドである。


11 ダーク・ナイト・ライジング(DL)
なかなか見応えがある3時間である。それにしても長い。悪のヒーローの声が別世界から聞こえてくる感じが緊張感を高める。残念なのは、最後のどんでん返し。あれだけ重厚に運んだはずが、最後にこれか、というようなものである。ラストシーンからいうと、次作もあり?


12 グレン・ミラー物語(D)
甘いジェームス・スチュワートが主演、女優がジューン・アリスンである。グレン・ミラーのそばに必ず妻がいた、という映画である。自分のトロンボーンを質に入れたり出したりしながらミュージシャン生活を続ける、コロラド大学卒のミラー。途中で夢を諦めようとするが、妻が助け船を出す。レッスンに通っていたピアノの先生の所へ通い出す。ミラーは自分のバンドを持つも、自分なりの編曲の個性とは何か、と悩み続ける。あるとき、リハーサル中にトランペットが口に傷ができて吹けない。かわりにそのパートをクラリネットが受け持つことで、彼の曲想が決まっていく。人気絶頂で志願し、軍楽で兵隊を慰撫し、鼓舞する。しかし、墜落事故であえなく死亡。


見事な流れのシーンがある。二人が結婚し、旅行には行けないので、自分の演奏する姿をコンサート会場の桟敷から見せる。終わって二人でホテルに戻るが、花嫁を腕に抱え上げて、部屋に入るとサプライズで、友人たちが演奏を始める。ひとしきり騒いで、今度はライブハウスへ。そこにサッチモがいて、主人公たちを引き上げて演奏に加わらせる。それが深夜に及び、二人はまたホテルへ。今度もまた抱え上げて入室。そして、朝、早起きの妻はお財布から少しずつ貯金をするわ、と宣言する。それがあとでバンドを結成して旅に出るときの当座の資金に変わる──この一連の流れがまったく淀みがないのである。


13 世界でただ一つのプレイブック(T)
うわさのジェニファー・ローレンス主演。ウインターボーン、ハンガーゲームと見てきたぼくとしては、このラブ・ロマンスも今までの延長に見える。暴力的、ワイルドなんだぜ〜、である。デ・ニーロがイカレタ親父の役だが、どこか理性が残っている感じがいい。それにしても、野球賭博にレストラン開業資金を賭け、さらにプロに混じってド素人がダンス大会に出場し、その点数まで賭けにするという仕組みは、もう恋愛物を超えている、あるいは逸脱している。亜流が出てきそうな、そんな予感。


14 ボーン・レガシー(DL)
まるでロッキーの秘密特訓のような始まり方。狼と戦うなんて、まさか!? それでも展開は充分に楽しめる。今回はエドワート・ノートンがボーンを追い詰める役だが、よかったねエドワード、こういう役回りにハマって、とフアンの一人として喜ぶ。ほかにウエス・アンダースンで「ムーンライズ・キングダム」にも出ているようなので、要チェック。ボーンは、連続物にしようとする意図が見え見えで、長い時間かけて本編を進めながら、最後は次回のために尻切れトンボというのはどういうつもりか? もう見てやらないぞ、と思うが、さて。


15 フライト(T)
ゼメキスの映画を見ることになるとは思いもしなかった。やはりテーマのせいである。デンゼル・ワシントンは名優だそうだが、ぼくにはよく分からない。今回はウイル・スミスに軍配が上がるのではないか。ラストはまあこんなものか、という感じである。ぐでんぐでんに酔っぱらっていてもクスリをやれば、たちどころに治ってしまのだから、恐ろしい。結局、恋人であり、仲間でもある人間までは裏切れないということである。


主題は神、あるいは信仰である。事あるごとに神の業だという副操縦士、生き残ったキャビンアデンダントも神を称え、アルコール依存症脱却の会はもちろん神の試練を言う。主人公が事故後入院した病院で、煙草を吸うために病室を抜け出し、裏階段のようなとこに出ると、先客がいて、会話を始めると、もう一人末期がんの若い男が加わる。男は、自分ががんになったのは、神の企みだからジタバタしない、などと言う。そのシーンが、不自然なほど長いのである。パイロットである主人公は、一切それを信じないが、自らの罪を認めて服役すると、同じく神の名を呼び始める。そういう露骨な主題の押し出し方をしている映画である。



16 KT(T)
珍しいくらいにセリフの立った映画である。とくに佐藤浩一演じる自衛官タブロイド新聞の記者原田芳雄の二人に顕著である。佐藤に力が入りすぎていると感じる部分さえある。あるいは、金田中のボディガードに付いた在日青年のもとに、日本の彼女が荷物を持ってやってきて、男に言う、「私は両親を捨ててきた。あんたはできるの?」これも印象に強い言葉である。


よく出来た映画で、ほぼ間然するところがない。ラストもOKである。馴染んだ朝鮮の女が駅前で待っている。そこに近づいていく佐藤。ふと女の目に不審なものが走り、佐藤は背後にその視線の先を追い、また女のほうに向き直ると、ズドンとやられる。それはKCIAの仕業という設定なのだろうと思う。


軽いテンポで映像を処理していくときに、まるで「マルサの女」のような曲がかかる。音楽は布袋寅泰である。KCIAを下に見る大使館員が出てくるが、さもありなん、と思うが、これがリアリティである。その一等書記官が、敵に内通したというかどで、バラバラに解体され、残った血だまりなどはきれいに水で流される。これは、創作なのかどうか。原子温はこれを参照したのだろうか。金田中を解放する際に、KCIAは近くに電信柱があるから、そこで小用を足せ、と促し、彼らのクルマが走り去っていく。実際、金田中はその言葉に従うのである。これもリアルである。


金田中が死なずにすんだのは、偶然の作用である。いつもはホテルの部屋で会談や打ち合わせが終わったあとは、一人で廊下を歩いてエレベーターに乗るのに、その日に限って彼を敬愛する人間が一緒に見送りに出たことで、拉致・暗殺団の計画に狂いが出たからである。日韓関係を考えれば、天の配剤があったとしか思えない。金田中の演説シーンがあるが、「先民主 後統一」と言っていて、これはパクチョンヒ大統領には侮辱に映るのは当然である。しかし、それでは暗殺を、となるのは、大統領の資質かもしれない。



17 遠雷(D)
根岸吉太郎監督で、主演永島敏行、女優は石田えり、脇がジョニー大倉。栃木の田舎を舞台にした青春グラフィティのような感触の映画である。どこかにカタストロフィがあって進んでいるわけでもない、一つずつの必要なことを重ねているうちに、ラストへとたどり着く体である。アクセント付けにセックスシーンが挟まれる。ジョニー大倉が下手なりの演技で、殺してきた女との顛末を語るシーンは10分はあろうか。これが身に沁みていいのである。ラスト、新妻と2人で桜田淳子の「幸せの青い鳥」を歌うときの、永島の不器用な手振りがかえって新鮮である。


18 ヴァイブレーター(D)
廣木隆一監督、主演寺島しのぶ大森南朋。コンビニで頭の中の声に付きまとわれる女が、長靴姿の男を見初め、男の運転するトラックに同乗し、新潟まで旅をする。ほぼトラックの中だけで話は終始する。その間、女が男の話に聞き入り、ときにセックスに及ぶ。食べては吐くを繰り返す女が、男と一緒になってからはその症状が消える。頭の中の声も消える。一度、男が求めてもその気になれず、自分でオナったところへ男がチン入。その後、女は嘔吐する。最初のセックスで、男は女にどうオナニーするのか尋ねた際に、女は「直接にはやらない」と答えるが、これがタイトルの意味らしい。


女とすれば、運命の男と出会ったということかもしれないが、別れ際はさっぱりしたものである。もの狂いの憑きものをやりたいことをやって取り払ったということになるが、そのために選んだ男が完璧だったということのようだ。母親と確執があったらしいことは分かるが、深いところまで触れられるわけではない。


男が女に仕事を尋ねると、フリーのルポライターだという。雑誌あたりで小さな記事を書いているということか。その話のあと、急に女がそれふうの聞き込みの態度になり、男も妙にインフォーマントのような感じになる。もっと自然にやるべきところだろうと思う。そのあとしばらく、男の内幕話が、取材されている気分で進んでいくのも違和感がある。ラストに女の部屋が薄暗がりで撮されるが、どう見ても売れっ子ライターの構えである。


19 ジャンゴ(T)
タランティーノの新作である。スピルバーグリンカーンを撮って、2人で奴隷制を扱い、アカデミー賞にノミネートされて意義があった、とタランティーノ自身が語っている。この映画、「パルプフィクション」以来の出来ではないだろうか。主演ジェイミー・フォックス、クリストフ・バルツ(イングロリアス・バスターズに出ていた)、あとサミュエル・ジャクソン(これがいつもとまったく違う印象である。役者はほんうとに恐ろしい)、デイカプリオ、その姉役がロウラ・カヨエッテである。銃弾が当たると血しぶきが飛ぶ映像を初めて見た気がする。鮮血が流れて、さぁーっと白い花々を染めるシーンがあるが、見事である。タイトルが出るまでに、急に対象からカメラを引くのを何度かやっている。マカロニウエスタンの常套である。しかし、急な寄りの映像がないのはなぜなのか。サミュエル・ジャクソンが演じる執事が、この映画をぐっと引き締めている。なかなか差別の構造は複雑である。バルツ演じる反差別主義者が清々しい。ドイツ人であるという設定が、なにがしかの意味を持っているのだろうか。ディカプリオの演技を褒める人がいるが、さて、普通ではないか。


20 ニクソンを暗殺しようとした男(D)
ショー・ペンが主役で、離婚調停中で、やっと見つけた家具会社でもうだつが上がらない。商売をすることは人をだますことだと考えているので、うまくいくはずがない。彼はタイヤを車に積み、必要な人に直接販売し、その場で取り付けもするビジネスを思いつく。30%の利益が出る値段設定になっているが、そのうち15%はバックする、と客に説明するという。兄が黙って15%のかすりを取っているのが気にくわないから、自分は正直なビジネスをやる、という。15%のかすりを取るのは同じなのだが……。このアイデアを公的機関の融資をもらうために提出するが、しばらく待ってきた答えがノーであった。彼は万策尽きて、何度も国民をだましながら大統領の座に居座るニクソンを暗殺することに決める。そこまでの積み上げは、ほぼ「タクシードライバー」のなぞりである。脚に木枠を付け、銃を装填するアイデア、それから飛行機をハイジャック(これをホワイトハススに突っ込むつもり)をしたときの会話のシミュレーションなども、すべて同作のパスティーシュである。ショー・ペンが気弱な、不遇な、すべてそれらを人や世間のせいにする男の感じをよく出している。彼がマフィアのボスを演じる新作が来るが、楽しみである。


21 のぼうの城(T)
主演が野村萬斎、脇が榮倉奈々佐藤浩一、成宮寛貴山口智充、監督犬童一心樋口真嗣である。呆けた城主が大軍勢の明智軍に勝つ話だが、結局、この人物の凄さがさっぱり分からない。野党に襲われそうになった姫(榮倉)を救ったというが、どういうふうにしたか説明されない。唯一、捨て身で仲間の奮起を促したのが彼の戦略だが、はて、それ以外に方法などなかったとしたら、そもそも戦争を始めないほうがよかったのではないか。


成宮、そして明智軍の知将といわれる人物の言葉遣いが現代風で(とくに後者は演技がド下手なので、余計に聞きづらい)、とても耳障りである。それくらいの訂正さえ役者にしないで、何が演出かと思う。


22 ヒッチ(T)
アンソニー・ホプキンスヒッチコックで、妻をヘレン・ミレンである。名作「サイコ」封切りまでの困難を描いたものだが、ぼくは堪能することができた。おおそよ知っていることだが、妻との関係にも嫉妬心をもっていたことを知らなかった。最後に、彼女が最高のブロンドだとヒッチは言うが、これって本当なのか? 見終わって、帰りにツタヤで「サイコ」を借りようとしたところ、DVDはないらしい。なんということか。仕方なく「鳥」にし、これも堪能した。主人公(ロッド・テイラー)の母親がジェシカ・タンディで、妙な若々しさとエロティシズムがあって、この設定は抜群である。彼女の息子へのねじ曲がった愛に自然界も感応する設定である。これは息子が母親に異常な愛を抱いた「サイコ」の裏返しである。


23 サニー(D)
韓国映画でコメディに入るだろう。全羅南道出身の女の子がソウルの名門女子校に入学し、そこでカルチャーショックを受け、クラスの不良グループに加盟。喧嘩や遊びに精を出し、友情をはぐくんでいく。その中の一人がモデル志望で、実際に雑誌に出るほどだが、顔に傷をつけ、仲間との付き合いから遠ざかる。


そして、現在。全羅道出身の子は主婦に。かつて絵がうまく、成績も優秀だったのに、夫と娘の世話に追われている。母親の見舞いに病院に行ったところ、ある病室の患者の名前に見覚えがある。サニーの頭領だったハチュナがガンで入院していたのである。彼女は死ぬ前に仲間に会いたいと頼む。それから人捜しと過去の映像とのオーバーラップが始まる。


実に過去と現在との交換がスムーズで、まったく違和感がない。最後に思いがけない仕掛けがあるが、さほどのサプライズではない。頭領は、かつて頬に傷をつけた仲間のことで泣くメンバーに、何があってもいつまでも一緒にいよう、困っている仲間がいたら助けよう、と檄を飛ばし、仲間もその声に応える。しかし、病院での再会まで、彼女たちは仲間の活動をしていなかったことが分かる。頭領のかつての熱意とは何だったのか。それが心残りなのと、全羅道の女性が自分の道(画家? 自立?)を歩み出すぐらいのことはやってほしかった気がする。


24 キッチン(DL)
森田芳光監督である。主人公はひょろひょろとした女の子で、不思議な生き物のよう。祖母の寄る花屋の店員が、祖母が亡くなったときに自分の家の一室を紹介してくれる。彼の母親はゲイで橋爪功が演じている。どういう訳かモダンで広壮な家に住んでいる。この商売は儲かるのか? 主人公2人の演技のまずさも、見ているうちに普通になっていくから、さすが森田である。だが、なんだかレトロで新しかったものが、ただのレトロになったような感じがある。主人公たちの持っている空気感がそう思わせるような気がするのだが……。


25 放浪記(T)
成瀬で2回目である。林文子が作家になっていく過程を描くわけだが、彼女を取り巻くインテリたちの薄っぺらさが見えるような映画である。かといって、預かった原稿を締め切りを過ぎて出して、文壇に先に出ようとする文子にも同情できない。成瀬もそのつもりはないようである。こういう役に挑戦した高峰の凄さに感服である。眉を下げ気味にして、肩を下げ、お腹を突き出す様子は、彼女が発案したものだろうか。作家となって大成し、母である田中絹代に変な房飾りが下がった服を着せるところが面白い。ずっと文子を日陰で助けた印刷職工の加藤大介が出世し、小さな印刷会社の社長になって、文子の邸宅に通うのもいい。


26 浮雲(T)
これは3回目か。音楽が南洋風から和風へとつながるようなメロディで、いつも主人公たちが出会ったシンガポールの過去を思い出させる。森雅之が温泉地で岡田茉莉子とできるシーンは、やはりこの映画の白眉かと思う。どこまでも墜ちて、それで平気である。主人公の女はこういう男が好きなのである。男が八丈島に森林監督の仕事に就き、病を押して女が付いていく。女が死んだとき、山の中の駐在事務所みたいなところにいる男がはっと顔を上げて、正面を向くシーンが一瞬だけある。虫の知らせという意味なのだろうが、すぐにその場の光景に切り替わり、連絡隊から女の死を知るシーンに切り替わる。成瀬はこのシーンをなぜ残したのだろうか。映像的には不自然だと思うのだが。もう一つの白眉は、別項でも触れたように八丈島で賄いをしてくれる女(不美人である)にも嫉妬の目を向けるシーンである。愛欲の絡まりはほどけようがなく、女はそれを生き甲斐にさえしているように思う。高峰の処女を奪った山形勲がインチキ宗教者で儲けるところは珍妙である。戦後をたくましく生きる男の象徴である。山形はうどんを食べるのに不細工な箸の持ち方をしている。


27 ジャッキー・コーガン(T)
アンドリュー・ドミニク監督で、ブラピと「ジェシー・ジェイムズの暗殺」を撮っている。原題はKilling Them Softlyで、それをジャッキー・コーガンにしたのはなぜか。アメリカらしくということなのか、それとも原題と似たタイトルの映画があったからか(Killing Me Softly)。珍しいケースである。


ほとんど会話だらけで、その間に緊張が高まるのはタランティーノが得意とするところ。原題とは違ってかなり手荒に殺していく。ジェームズ・ガンドルフィーニ(あの「ソプラノズ」のボスである)が依頼された仕事をせず、酒と娼婦に溺れる様は見応えがある。勝手にセックスの話をほざくのを、じっとブラピは聞いていて、すでに相手が人間的に崩壊していることに気付く。このあたりは非常に面白い。レオ・レオッタを殺すシーンの超スローモーション、ドラッグをやっての会話シーンのとろんとした繰り返し、どれもやり過ぎ感があるが、この間延びが殺しのあざとさを引き立てている。このあたりもタランティーノ的な感じがする。


全編にアメリカ議会の様子、息子ブッシュのスピーチ、オバマの当選スピーチなどが流れる。アメリカは一つだとテレビはいうが、ブラピは「アメリカは個人の国だ、ビジネスの国だ」と宣い、殺し一人につき1.5万ドルを1万ドルに値切った相手にちゃんと払え、というところで終わる。何か短編小説でも読んでいるような味わいである。


全編に既存の曲が流れている。これがチープな感じが出ていい。個人的にはダスティ・スプリングフィールドの「風のささやき」が永遠の相をもって懐かしい。


28 舟を編む(T)
辞書づくりの話で神保町が舞台。知っている居酒屋が出てくる。主人公の住まい早雲莊は、往時友人が住んでいた高田馬場の下宿屋によく似ている。幻冬舎のような名の版元が出てくるが、原作は光文社で音羽である。主人公のキャラクターは地味過ぎ、それにステレオタイプ過ぎる。下宿屋の女将が渡部美佐子で、清川虹子を小さくしたような顔になってしまった。整形崩れか。宮崎あおいが女房役、料亭の板前修業らしいが、一人で板場に立つのは不自然である。


29 総長賭博(DL)
昭和44年、山下耕作監督、三島が褒めて有名になった映画だが、脚本の笠原さんは自分の傑作シナリオ3本の1つに挙げている。三島の『映画論集成』にその論が載っていて、おまけに鶴田浩二との対談も載っている。三島はこの映画を「何という絶対的肯定の中にギリギリに仕組まれた悲劇であろう。しかも、その悲劇は何とすみずみまで、あたかも古典劇のように、人間的真実に叶っていることだろう」と評している。対談では鶴田は活動写真ではセリフを言わないならそのほうがいいと言い、三島もそれに賛成し、舞台は長いセリフでごまかせるが、映画は「一ぱいどうだ」の短いセリフが難しいと述べている。


総長賭博は中間管理職の悲哀のような映画である。言ってみればこの劇の中でまともな理性をもったのは鶴田だけで、あとは自分の思いや欲望を真っ正直に遂げたい人間ばかりである。それは陰謀を巡らせる奴も同類である。ものが見える鶴田だからこそ規範の外に出ることができず、最後は殺人へという破局に至るしかない。三島はそれを古典劇と称するが、神に試練を施される人間と比べて余りにも卑小ではないか。


対談で鶴田が面白いことを言う。少ない友人はみな医者などの職業に就いていて、年輪を重ねていい顔になっている。若いときはのっぺらぼうで何も考えていないように見えた私のような役者が、少しはそういう内容のある人間に外見は近づくことができたかもしれない、と述べている。これは知恵者の言葉である。対して三島の言葉の何と浅薄なことか。伝法な言い方をするほどに底の浅さが見える。しまいに「昭和維新。いざというときは、オレはやるよ」と言い出す始末。それに鶴田は「三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから」と答える。鶴田はきっとその言葉を守ったろうと思われる。


30 L.A.ギャングストーリー(T)
出だしが好調で、これはいける、という感じの映画である。七人の侍風にはぐれ警官を集めてギャング退治をするわけだが、どうもいま一つ盛り上がってこない。演出が何かメリハリを欠いているのではないか。せっかくのショー・ペンの悪役ぶりも、もう一つ生きてこない。主人公をジョシュ・ブローリン、「トゥルー・グリット」に出ていた役者である。ライアン・ゴスリングが今回、一番の儲け役ではないか。優男で魂のある男を演じてクールである。監督はゾンビ物を撮っているルーベン・フライシャー


31 昼下がり、ローマの森(T)
デ・ニーロで借りたのだが、なんだ3部作か。それも最後の短編みたいなのに出ているだけ。新味のない話ばかり。ダマされる私が悪いんでしょ、きっと.


32 幸福の条件(DL)
アドリアン・ライン監督、主演ウディ・ハレルソンデミ・ムーアロバート・レッドフォード。ハレルソンはどこかでも書いたが、父親がマフィアの雇われ殺し屋で、本人にいろいろトラブルメイカーである。いわゆるメフィスト・フェレス物である。一夜、大金持ちに女房を金の形に貸したのがもとで、夫婦生活が危機に。最後にどうにか元に戻るというもので、これはこれで楽しんで見ていられる。レッドフォードは歳をとり過ぎている。ムーアはよく胸を見せる。


33 ザ・ドライバー
ウォルター・ヒル監督で、ライアン・オニールが主演、脇がブルース・ダーンイザベル・アジャーニ。途中で見たことのある映画だと気付いた。出来のいい映画で、ライアン・ゴズリング主演の「ドライブ」より格段にいい。いわゆる犯罪ドライバーで、いかに警察の追跡を振り切って逃げるかという商売である。カーアクションはOK。少し残念なのはアジャーニをうまく筋に絡ませていないこと。ゴズリング映画ではキャリー・マリガンの亭主が出所してから展開が甘くなる。それに比べればマシだが、それにしてももっとアジャーニを使うべきである。


34 5つの銅貨(DL)
レッド・ニコルズという実在のミュージシアンをダニー・ケイが演じる。彼の楽団にはベニー・グッドマン、ジミー・ドーシー、グレン・ミラーなどの逸材が揃っていて、名声を得つつあるときに、ニコルズの子が小児麻痺にかかる。子を放って旅に出ていたことを悔い、一切の活動を止めて子どものリハビリに専念する。そのおかげでどうにか杖と脚の支えがあると歩けるようになった娘。小さいころ、父親と旅したこと、彼の楽団員に愛されたこと、ルイ・アームストロングで輪唱したことなどもすっかり忘れている。自分のために父親が音楽家としての道を捨てたことを知り、再起をうながす。妻も同様である。「もう唇が硬くてコルネットが吹けない」と抵抗するが、母子の強い押しでナイトクラブに出演する。そこには昔の仲間が集うサプライズが用意されていた。


男どもがポーカーでがやがややっていて、寝つけない子ども。紫煙の籠もる部屋に顔を出すと、父親を残してみんなルイの店に出かけてしまう。ダニーは寝かしつけようとするが、子どもは寝られない。ポーカーをやって負けたら寝る、というのでやるが、娘のブラフにひっかかってしまう。どうしても寝ないので、一緒にダンスを踊る。ベッドで話をして、もう寝たなと思うと実は起きていて、ルイの店に連れて行ってという。仕方なく店に行き、興が乗るうちにまた一曲、また一曲と増えていく。この一連のシークエンスが実に余裕たっぷりで、見事なものである。


妻は良妻賢母で、これは「グレン・ミラー物語」と同様である。ミュージシャンといえば破滅型夫婦と思うのだが、この時代の夫婦は健全という設定である。子が産まれてニコルズはNYに腰を下ろすことを考えるが、妻は子の犠牲になってほしくないと主張し、一緒に旅回りをする。それがしばらくすると、いつ定住するのかと言い出す。10ヶ月の長期ロードが終われば、と答え、子を寄宿舎に預け、妻ともども旅回りに出る。その間に子が小児麻痺にかかるのである。やがて先に触れたごとく、母子で再出発を懇請するのだが、どうもこの良妻には定見というものがないらしい。ダニーが「君が子の犠牲になってほしくないと言ったじゃないか」と弱々しく言うシーンがあるが、ただそれだけである。


ダニー・ケイは実生活で人知れず不幸な子どもたちの施設などに慰問を繰り返していたそうである。日本贔屓で、たびたび慰問に訪れたという。それと似たシーンがこの映画にもあるが、何が彼をそうさせたのか。あるいは、ユダヤ系の出自が関係しているか。


ルイ・アームストロングとの掛け合いが抜群である。ルイは意外に小体なつくりの人である。彼のマネでダニーが歌うが、さずが芸達者である。


35 探偵はBarにいる
残念である。調子に乗りすぎたか、ターゲットを勘違いしたか。でも、客は前より入っていたかもしれない。前作のリズムの良さがまったくない。松田龍平の出番が少なく、演出不足も残念。何か新しいことをやらせてほしかった。ヒロインも魅力に欠ける、エッチなサービスは要らない。環境派政治家を渡辺篤郎、環境派ということでいかにも悪党面という役者にするわけにはいかなかったのだろうが、どうもいかがわしさが出てこない。彼の支持者がバットをもって主人公を襲うなど、絶対にありえない。左翼系市民という設定だが、そんなことがあるわけがない。冒頭は「オールドボーイ」のパクリである。親友のようなオカマが死んでしばらく豊満な肉体の女に溺れてそのことを忘れてしまうのは問題である。のっけから真剣味が出てこない。監督は橋本一、さすがに3はなさそうだ。


36 陽はまた昇る(DL)
ビクターのVHS開発物語で、NHKのプロジェクトXが元になっているらしい。話がよく出来ているので、安心して見ていることができる。主演が西田敏行、ビデオ部の総務課長が渡辺謙、西田の妻が真野あずさ、ビクターの社長が夏八木勲松下電器会長が仲代達也。あと若手で緒形直人篠原涼子(なんだかイメージが違って、できるOLの感じが出ていた)。それにしても、日本は異端の開発をするのは本当に大変である。ソニーのゲーム機も同じ。


37 警視庁公安部公安課第5部(DL)
5分も見ていられない。加瀬亮がかわいそうだ。


38 追憶(D)
シドニー・ポラック監督で、ぼくは2度目か。ほとんど内容を忘れていた。左翼の女(バーブラ・ストライザンド)が浮ついた男(ロバート・レッドフォード)に恋心を抱く。女は小説家志望で、男が作文教室で特等だったことで見る目が変わる。町で声をかけられ、緩んだ靴のヒモを膝の上で結んでくれたことで、心が動く。しかし、そのままで月日は流れ、ある兵隊さんクラブで彼が熟睡しているのを見かけ、声をかけ、彼を家に連れて行く。いびきを立てる男の傍らに忍び込むと、男は相手が誰かも分からずセックスに及ぶ。いろいろあって、彼らは結婚する。


印象に残ったのが、ストライザンドが自分のことをきれいではないと言うところ。それと、夫の友人をなじったことで別れ話になり、思い直して自分の部屋から夫に長電話をするシーン。親友でもいいから付き合ってくれ、と懇願する。その間、ずっと彼女が話す様子だけを撮し続ける。


ハリウッドに脚本家として籍を置いた夫と仲むつまじく暮らしているが、やがてマッカーシーの波が襲ってきて、夫婦の間にはすきま風が。もう少し赤狩りの酷烈な様子が描かれれば、映画は盛り上がっただろうと思われる。『だれがティム・ロビンソンを殺したのか』を読むと、その辺の事情がよく分かる。それにしても、左翼一点張りのはずのストライザンド、マッカーシー騒動まで、どんな活動をしていたかが見えない。


ストライザンドを見て、マルクス兄弟のハーポに似ているな、と思ってみていたら、ハリウッドの連中とマルクス兄弟仮装パーティをやり、彼女は「グルーチョは嫌、ハーポがいい」とハーポになる。ハーポは喋ることができず、返事は小さなラッパで表現するのだが、彼女がプファー、プファーとやるのが、おかしい。夫に映画の筋書きを作ったと言い、それは中国系ユダヤ人が主人公だと言うシーンもある。ハリウッドではユダヤ人であることを隠すのがお決まりだったのが、この映画では控えめながら、その表出をやっている。


大人の映画だなと思う。それはレッドフォードが世知に長けた人物を演じているからで、ストライザンドは常にマイペースを変えない。言ってみてば、ずっと青臭いのである。ハリウッドはこういう映画も撮っていたのだ、とうたた感慨にたえない。


36 ダンシング・ハバナ(DL)
キューバが舞台で、そこへ転校した優等生っぽい高校生が現地の青年(ベスト・キッドの彼に似てる)とダンスコンテストに挑戦する話である(ちなみに、彼女の両親はダンスのプロを目指していたような2人だ)。青年はホテルでバイトをしているのだが、外国人と付き合ったということで辞めさせられるはめに。コンテストで緒戦を勝ち上がり、3組の1つに残り、決勝で踊っている最中に青年の兄が会場にテロを仕掛け(なんでわざわざ?)、大騒ぎに。兄と逃げている最中に、町で革命が成就したという声が上がり、青年はアメリカに行く夢を捨て、彼女と別れる。


安っぽい作りで、スターもいないが、ぼくは楽しんで見ることができた。キューバの踊りは解放のための踊りなのだから、心を自由にして踊るべきだ、と青年が言うシーンでは頷いていた。彼はごく貧しい生まれだが、どうして英語が話せるようになったのだろうか。それが知りたい。


37 さよなら渓谷(T)
吉田修一という作家の原作らしい。高校生のときにレイプした女と再会し、暮らし始める、という話。その内縁の妻が真木よう子。二軒長屋の隣の女が子ども殺しで逮捕される騒ぎが起き、男は共犯を疑われ、取り調べを受けることに。内縁の妻が、彼と隣の女はできていたと証言するが、あとで撤回し、隣の女もそういう事実はなかったと証言する。


ストーリーはごくありきたりである。男は贖罪に生き、女はいくら肉体関係を持とうが、過去を振り切れない。男が警察から戻ってきたときに、「どうして怒らないの?」と聞くが、男はまた女が贖罪を試したのだと思ったはずで、怒るなど無理だと知ってて、それを聞くのである。では、男が怒ったとしたら? そこで初めて普通の関係に戻ってかもしれないが……女はそれを期待していたのかもしれないが……。結局、女は男の元から去って行き、男は諦めずに居所を突き止める、と言うところで映画が終わる。


真木よう子の演技に期待するも、メリハリがはっきり付いた演技で、あまり関心しない。小林信彦先生は、細身なのに胸が大きいところを評価なさっているが、そんなものかな、である。ぼくは「パッチギ」での存在感に驚き、ネームを確認した覚えがある。ただし、この作が2作目だが。雑誌記者役の大森南朋がひどく、居酒屋で女の記者(鈴木杏)から真木の過去を聞くシーンなど、まるでお人形。さらに、男と暮らす女とレイプされた女が同一では? と気付くシーンも、演技になっていない。それに比べ、杏ちゃんはごく普通にやることをやっている。


この種の静的な映画が好きだが、どうも予定調和ですべて撮っている感じがする。どこでぼくはこの映画に驚けばいいのだろうか。隣人の女が我が子殺しの真犯人かどうかも分からないで終わってしまう。それって単なる味付けではないのか。レイプ、幼児殺し、どっちもすごいテーマなのに淡々と映画が終わっていいのだろうか。


38 レオン(T)
またレオンである。ほとんど言うこともないが、2人でパントマイムをやるときに、ポートマンがモンローをやり、レオンに近づくと、レオンが目を伏せるシーンがある。それはエロティックなものを感じているからだが、それにしても西洋人が目を伏せるなどというシーンがあるだろうか。完全版は12歳の少女が19歳と偽って中年男にモーションをかける、というのが太い線になっているが、前のバージョンではそこまではっきりとは気付かない。どこをカットしていたかを確認する必要がありそうだ。


39 華麗なるギャツビー(T)
ディカプリオ、キャリー・マリガン(デイジー)、トビー・マクガイア、ジョエル・エドガートン(デイジーの夫)、監督バズ・ラーマンで、「ムーランルージュ」を撮っている。脚本はラーマンとクレイグ・ピアース(ムーランルージュの脚本)。ぼくはレッドフォードのを見ていないが、こういう中身だったのね、と意外感と既視感がある。貧農の出で、16歳で家出、難破しそうになっていた富豪を助け、彼から上流人の手ほどきを受けるが、遺産はすべてほかの人間に掠め取られる。軍に入り、将校になり、デイジー家のパーティに出かけ、恋に落ちる。しかし、財産がないことから、身を隠すことに。その間、5年、やっと裏稼業で成り上がり、すでに既婚者となっているデイジーの前に。誰も彼の出自は知らないが、デイジーは彼が貧しい将校であったことは、彼からの手紙で知っている。彼は富豪の出で、オクスフォード大を出ていると言いふらす。


ギャツビーが自分の城で派手なパーティを開いていることは、なぜごく近い対岸にいるデイジーに届かないのか。デイジーはギャツビーの過去をどこまで知っているのか。再会の場面でギャツビーはド緊張だが、はてそれはわざと? 素なのか? キャラクター的には、もっと遊び慣れた感じのほうが相応しいし、ミステリアスな感じが出ていいと思うのだが。


カメラをしきりに動かして、派手に派手にという演出だが、2時間強もあって疲れる。マリガンはコケティッシュな感じの女性で、いい男二人が奪い合うというのとは違うキャラクターではないか。ぼくはきれいだと思うが。


40 座頭市と用心棒(DL)
岡本喜八監督で、勝プロ製作の新座頭市である。用心棒が三船敏郎若尾文子が出ている。米倉斉加根、砂川秀男、嵐𥶡寿郎、滝沢修などが出ている。雨の中で2人を殺め、犬小屋のようなところで強い風雨を避けながら、そよ風、せせらぎ、梅の香が恋しい―というので、以前、訪れた村へ、という設定自体がいい加減である。座頭市が「そよ風…」と声に出して言うのである。村に入ってからも、ちっとも物語が駆動してこない。よって15分で沈没。


41 座頭市二段斬り(DL)
これを見るのは2度目か、3度目か。三木のり平が「いたち」という名の壺振りで、娘が幼い小林幸子。按摩の師匠が殺され、娘・坪内みき子は女郎屋の牢屋に入れられている。市は代官と結託し女郎屋も経営するやくざをやっつけ、女郎たちを解放する。この映画、のり平に花を持たせた作りになっていて、これがなかなか渋いのである。


座頭市と用心棒」は役者は揃えたが、話になっていない。こっちは加藤武がやくざ側の遣い手で、あとはさしたる役者も出ていない。だけど、後者は無理なく見ていることができる。演出の違いもあろうが、やはり脚本が違うのだろうと推測するしかない。


42 おすっ! バタヤン(T)
田端義雄は島育ち、十九の春、帰り船、大利根月夜ぐらいなら知っている。独特のギターの持ち方だが、あれはピックを使わず、指で弾く人のやり方だという。ギターの重みが全体で感じられるのだという。田端は、飲み屋などで気に入った歌があると採譜し、それをレコード化してヒットにしたそうだ。


大阪・鶴橋が第二の故郷で、そこの小学校体育館でのコンサートを中心に、過去の映像が挟まれたり、妻や娘、後援会長などの談話が挿入される。現代のミュージシャンからのオマージュもあって、さすがバタヤンという感じである。中でも小室等がバタヤンのギターを持って、これはいいものだ、と歓声を上げる。歌っている間に具合が悪くなり、舞台上で玄翁で修理している映像も出てくる。


大劇という大阪の劇場が彼の根拠地みたいなもので、大阪では抜群の人気を誇ったという。声の質が、赤線の女性を知らぬ間に引き寄せる類のものだった、と解説する人がいる。服装、その佇まい、そして声、どれを取っても庶民の出そのものの歌い手だったという。


バタヤン作曲で「骨のうたう」という曲が紹介される。戦地慰問でたくさんの卒塔婆を見たことが記憶に残り、同名の詩を歌にする。その詩の中の「ひょんと消ゆる」「ひょんと死ぬる」の「ひょん」をどうにか表現したいと工夫をしたそうだ。何か豪快に見て、たくさんの浮き名を流した男のごく繊細な神経を見たような気持ちになった。


43 セーフは(D)
ステイサム主演、NYが舞台、中国マフィアとロシアマフィアがNY警察と組むというトンデモない設定だが、面白い。ステイサム兄いは、ほぼハズレがない、という感じ。少し「レオン」の匂いがある。中国人の少女がもっと可愛ければ、この映画、もっと魅力的になったとぼくは思う。


44 永遠の人(DL)
木下作品なので、その項に譲る。


45 風立ちぬ(T)
アニメを、それも封切り初日に見るなんて、どうした風の吹き回しか。なんと言うことはない、当日の新聞に宮崎駿のインタビューが載っていて、そこにゼロ戦設計者・主人公堀越二郎のことについて触れ、彼が戦闘機を作ったことを現在の視点で断罪はできない――と述べていたからである。それはそうだろう。戦争の時代に、戦争荷担の仕事をしていた人間がすべて断罪されたら、歴史は止まってしまう。その伝でいけば、文学者の戦時期の発言を戦後になって批判することも無意味で、無駄なことになるのだろうか? 堀越がゼロ戦を作ったように、高村光太郎は自分の磨き上げた言葉で戦意高揚を歌ったにすぎない……。高村はたかが言葉の武器を使ったに過ぎず、堀越は人殺しの道具を作ったのだから、堀越のほうが罪が重い? いや、洗脳を担った分、文学者のほうが罪が重い……?


映画は大ホールがほぼ満杯。さすがというべきである。映画自体は至って地味なもので、堀越を賛美するような、急テンポの開発物語にはしていない。あくまで技術屋の夢を追う姿として描いている。アニメらしさは夢の部分と関東大震災の描写で、ほかは実写でもかまわないといったできである。細密、精妙な描画を見るにつけ、その感が深い。肺結核の女性と婚儀を交わし、夜、堀越は「疲れたろうから眠りなさい」と言うと、女は「こっちへ来て」と誘う。そういうシーンのはさみ方を見ても、この映画は実写で見ても、そう感想が変わらないのではないだろうか。


46 黄金を抱いて飛べ(D)
井筒和幸監督なので敬遠していたが、これがなかなかいい。会話がいいのである。残念感があるのは一味の頭領浅野忠信で、こういう人物がいるなとは思うが、ふだんはおとぼけで、実践で凄みが出るという設定ならもっと面白くなったのではないか。自分で仕掛けた爆弾が破裂するたびに「オウオウ」と驚き、がに股で仕掛けたところへ走るのはいただけない。妻子を殺され、しばらくすると「独り身も気楽だ」と言うのは、人間的深みを無くしてしまう。もう一人、西田敏行も、どの映画も抑えた演技をすればいいと勘違いしているのかもしれないが、浮いて見える。元神父で、裏街道を知っているという設定なら、違う人物像になるのではないか。それぞれその道のプロが集まって、ひと山当てようという面白さにならない(これが集団強盗の醍醐味なのに)。原作がどうだったかは忘れてしまっている。


47 人生はノーリターン(DL)
バーブラ・ストライザンドが母親役で、息子がセス・ローゲン。ヤシなどの自然素材で作った洗剤をあちこちで売り込むセールスツアーに母を同伴し、その間の愛憎をやんわり描くもので、全編、会話、会話。手慣れた感じで破綻がない。話が一直線で分かりやすいので、あとはセリフだけ。圧巻はレストランで1.4キロのステーキを制限時間内で食べたら無料になり、失敗したら100ドル取られる試みに挑戦するところ。母親のアドバイスが効いて、商品説明がうまくいき、商談が成立するところも、予定調和だが面白い。監督はアン・フレッチャーという女性、もともとは振り付けの人らしい。


48 飢餓海峡(T)
三國連太郎特集で、1回目は10分前に行ったら立ち見だというので、次の回に。ぼくの思い出の映画なので、やはりスクリーンで見たい。犬飼太吉が極貧の生まれで、実家を見届けた刑事が「あれでは罪の意識などなくなるのではないか」というすごい発言をする。最後に三國が入水自殺するのは、やはり一夜だけ情を交わした薄幸の女を殺したからだ。全体に間延びした演出なのは昔風と思えば、仕方がない。健さんの演技は一本調子で、困ったものである。爪と筆跡で有罪に持ち込めると気が逸るが、それってありなのだろうか? 盲いたイタコを白黒反転したり、ATG系のような演出はどうしてなのか。きっと流行りだったのだと思う。


49 オブリビオン(T)
何かが侵略をしてきて、地球人は火星に棲まっているが、水がないので地球から持っていく必要がある。反乱軍がいて邪魔をするので、それとの戦いが主人公の役目である。ところが、火星移住は嘘で、何か機械生命体みたいなものに地球はやられ、反乱軍こそ生き延びた地球人で、主人公は一度、死んだものの再生、増殖され、地球の水の防衛をしているのは無数の彼ともう一人の無数の女という設定である。既視感の強い映画だが、元を思い出せない。ふつうはこの種の映画は見ないのだが、ほかに食指が動かず、仕方なく。でも、それなりに楽しむことができた。主演トム・クルーズ、彼を守る目玉のおやじみたいな空飛ぶ兵器が、愛嬌がありながら残酷である。トムが「アウトロー」を撮れば、ピットが「ジャッキー・コーガン」を、トムが本作を撮れば、ピットが「ワールドウォーZ」を撮るといったように歩調を合わせているのはなぜか。どっちがどっちを真似ているのか。


50 ダウンタウン・ヒーローズ(DL)
山田洋次監督、原作早坂暁、脚本山田、朝間義隆。四国松山の旧制高校生の寮が舞台で、寮祭で芝居をかけることになり、マドンナとして薬師丸ひろ子を招き入れる。演出をする柳葉敏郎が恋心を抱くが、彼女は主人公を演じた中村橋之助に思いがある。娼婦(石田えり)をやくざから匿って逃がしてやるなどヒーローの面があるのは確かだが、あとは何がヒーローか不明である。やたらゲーテの格言が披露されるが、旧制高校のそれこそヒーローの感がある。1948年が時代設定で、みんなひもじさに追い立てられるように生きている。


51 ニューヨーク! ニューヨーク!(D)
目を掛けた女が自分より脚光を浴びるようになったのを嫉妬する男――「スタア誕生」のパスティーシュである(奇しくもライザのお母さんの作品だ)。デ・ニーロがライザ・ミネリを口説くところ、あるいは産院のベッドで彼女と話すところ、トラビスを見るようだ。人の気配にふっふっと肩をひねって、後ろを向くところなどが、特にそうだ。主題歌は成り上がりを歌ったもので、そう気持ちのいい歌ではない。デ・ニーロと別れてからどんどん名を上げる過程はライザの一人舞台。きれいで、可憐で、申し分ない(作品の中でも彼女はきれいだと言われるが、本当だろうか。ぼくには美人なのは確かなのだが)。スコセッシがリアルな人物と人工的な背景を意図して撮ったと述べている。まったくおっしゃる通り違和感なし。ライザを追って雪の中の電話ボックスで電話をかけるデ・ニーロ、その間に切り絵のような汽車が動き出し、慌ててカバンを捨てて取りすがり、そのまま汽車に引きずられる……このシーンの書き割りは特におしゃれである。


52 利休(T)
勅使河原宏監督、脚本勅使河原、赤瀬川原平、主演三國連太郎、秀吉が山崎努。秀吉が茶の湯を政治の道具にし、天皇に振るまったりする。しかし、海外出兵にイエスと言ってこない家康を茶席で説得せよ、場合によっては毒殺せよ、と言われるが、いずれも実行しない。ほかに利休の木像が作られたことも疑心を起こす1つとなり、ついに所払い、しかし利休が頭を下げて来なかったので切腹を命じる。侘び茶とは何か、ということが、全体でぼんやりと分かる、といった体の映画である。秀吉のいずれの心変わりが分かっているので、それが通奏低音となって緊張感を持続させる。



53 鍵泥棒のメソッド(D)
内田けんじという監督・脚本である。無理な筋を併せて作っているので、最後までしっくりこない。いちばんは堺雅人が一世一代の芝居を打ったのがバレたあと、やくざ者が関係者の殺しを初めて会った人間に任せること。そなあほな、である。すべて根も葉もない設定なのに、恋だ愛だだけは真実味を持たせようとしても無理がある。


54 その夜のことは忘れない(T)
吉村公三郎監督で、構成が水木洋子となっている。田宮二郎がジャーナリストで、戦後17年の広島に当時の惨禍が残っていないかと取材に来る。寝台列車の朝の洗面台のシーン、占拠者がいたので、手持ちぶさたに足許から細長い窓の外を見上げる。この奇妙な撮し方がほぼ中盤まで継続される。


広島に過去の傷痕を探りながら、徒労に終わりそうになるまでの描写が、なかなか問題意識を感じさせていい。もう広島に被曝の残滓はないと気落ちしたときに、バー「あき」のママ若尾文子に出会う。次第に彼女を愛し始めるが、連れ込み宿で迫ると、若尾は胸を開き、被爆者のケロイドを見せる。ここからが大甘の映画になり、唯一、河原に残る被曝石のもろさだけがリアリティを保つ。


この映画は被曝を扱いながら、そこに夜の世界を絡ませたことが目新しい。吉村監督自身、社会派ではない。しかし、制作の意気込みは非常に感じることのできる作品である。


55 終戦のエンペラー(T)
天皇を有罪とするかどうかをGHQが10日で決めたという設定だが、戦前、あれだけ日本の戦後処理を詰めたアメリカがこんな応急措置的なことをやるだろうか。天皇マッカーサーに会い、戦争責任はすべて私にある、と述べたという設定だが、これはマッカーサーの明かしたこととなっているが、彼の日記には一切記されていない。ポツダム受諾は天皇制維持を前提にしていたわけで、天皇が自分を有責と言うだろうか。西田敏行は海軍の大佐なのか、彼は日本は「無私と忍従の国」で、日本人に共通してあるのは「武士道」だと間抜けなことを言う。江戸は商人が仕切り、一般の人間は徳川様には畏れ多いものは感じていたが、幕末時には天皇? それは何? ぐらいの意識だったはず。敗戦の歴史さえアメリカに都合のいいように回収されるのだから、この国はどうしようもない。しかし、フェラーズ准将も困ったことだろう。一度は天皇有罪と決め、そのあとすぐに木戸幸一の進言があったとはいえ、天皇無罪に反転するのだから。


56 スーパー・チューズディ(DL)

原題はThe Ideas of Marchで、ローマ時代に予言者がカエサルに「3月15日に気を付けろ」と言ったことから、不吉な日ぐらいの意味だろうか。いい映画で、全体がよく締まっている。選挙参謀がフィリップ・シーモア、担がれるのがジョージ・クルーニーで、彼は監督、脚本(3人の1人)、プロデューサーでもある。シーモアの下にいるのがライアン・ゴスリングで、同じ民主党対立候補陣の参謀がポウル・ジオマッティ、タイムの記者がマリサ・トメイである。大統領候補者が自分の選挙スタッフの20歳の女性に手を出し、孕ませるというのは、最大の爆弾である。それを使って、一度は解雇されたゴスリングが復活する。苦い映画だが、さすが選挙映画の伝統の厚い国で、見応えがある。イーストウッドほど小林信彦御大はクルーニーを買っていないようだが、この作品は上出来である。民主党の予備選に共和党支持者が投票できることで、おかしな力学が働く。つまり自党の候補が大統領選本戦で勝てそうもないときは、反対党の有力候補ではなく、駄目候補に投票するという。そこが予備選で駆け引きを複雑にするようだ。


57 88ミニッツ(DL)
無理に筋を分かりにくくしてあるか、脚本が整理されていないか、あるいは両方ともありえる映画である。収監されている死刑囚が外部の人間を使って殺人をするというのは、何かの映画のパクリである。パシーノが薄汚く、彼を慕う女学生がいるという設定は不自然である。キムという生徒が味があるが、演技が下手で残念である。


58 落語娘(DL)
中原俊監督、主演津川雅彦ミムラである。監督は「櫻の園」を撮っている。どうも座りの悪い映画である。落語界の異端児が不吉な噺を何十年ぶりに高座にかける、という設定だが、語りの合間に説明画像が流れ、陳腐そのもの。津川も落語になっていない。ミムラという女優が寿限無を唱えると悪霊がいなくなるという設定が面白い。浅草演芸ホールでこないだ若手女流が寿限無を一生懸命やっているのを見たばかりである。


59 危険なメソッド(T)
デビッド・クローネンバーグ監督である。ユングフロイトとの確執を描く。ユングマイケル・ファスベンダーフロイトがビイゴ・モーテンセンユングの患者でキーラ・ナイトレイ、のちに児童心理学を修め、ロシアで幼稚園などを開設した女性らしい。


次の「コスモポリス」でも触れることだが、全編が会話で出来ている。ナイトレイが被虐的な仕打ちをされると性的興奮を覚えるというので、彼女の尻を打ち付けるシーンぐらいが絵的な部分である。しかし、ナイトレイとの情事、師弟の相克などの緊張があるから、会話に集中することができる。


フロイトが「アーリア人を信用するな」というところと、ユングアメリカに渡る際に、アメリカは我々を歓迎するだろうか、彼らは厄介を抱え込むことになるだろう、と述べるところは印象に残る。やおらフロイトの『モーセ一神教』を読みたくなった。渡米の船上で二人は自分が見た夢を語るのだが、ユングの夢はフロイトには自分との確執を象徴しているように見える。フロイトユングに夢を促されるが、理由を忘れたが(自分の尊厳に関わる、とか何とかいう理由だったような……)、話そうとしない。そこがユングが師を離れる端緒になったと後年に述べる。この船上のシーンなどユングが書き残しているのであれば、読んでみたいものである。


60 コスモポリス(T)
主演ロバート・パティソンで「トワライトサーガ2」で見ている。全編会話、それもリムジンの中でほぼ終始する。そこに乗り込んでくる人間との会話、会話。中国の元の暴落で何千億を損したという男がNYの生まれた地域の床屋に行こうとするが、大統領暗殺の噂が流れたり、彼を殺そうとする奴もいるというので、ずっと警護員が付く。その妻とセックスに及び、夫も殺してしまう。妻に何度もセックスをねだるが、妻は離婚を考えている。最後に自分の会社に勤めていたというパウロ・ジオマッティとの対話があるが、抽象的なもので、彼に後頭部を銃で狙われたところで映画は終わる。ドン・デリーロの原作で、小説ならリムジンの中で資本主義の堕落を描くこともできようが、映画では退屈なだけ。


61 一本刀土俵入り(T)
57年の作で、マキノ雅弘監督、井出雅人脚本、ぼくは4歳でこの映画を見ていると思う。そのことを確認するために見に行ったのだが、間違いはないようだ。お蔦(越路吹雪)が居酒屋の2階で酌婦をやっている。その下を腹を空かせて通りかかったのが駒形茂平という破門された相撲取り(加藤大介、駒形は生地の名前)。お蔦姐さんに金と櫛を恵んでもらって元気が出た茂平、横綱になるまでこの名前で通します、と言い、両国に向かう。やがて10年経って、お蔦はやくざ者の子を成していて、夫(田中春男)はいかさま博奕でヤクザの組に追われている。これまたやくざになった茂平が恩返しに越路、そして夫と子どもを助ける。


堂々として、しっかりとした、余裕のある展開である。加藤と越路の初対面でのシークエンスは急がず、騒がず、その一場で、女の境遇をすべて見せてしまう。自堕落な生活だが、一本筋の通った女がお蔦で、伝法な言い方が格好いい。茂平は腹が減るのをごまかすために川の水を飲むが、近くにいた子守の子に「その川の水は汚いよ」と言われて、「ずいぶん川の水を飲んできたが、ここのが一番うまい」と答えるような男である。白黒の映像もきれいで、昔はこういう映画を楽しんだのだか、と感慨が深い。


82 共喰い(T)
小説が原作だが、ひとを殴りながらセックスする男のことなど読みたくない。ただ、映画としてどうかという興味だが、これが実にいい。光石研が暴力親父で、まったくぼくの印象と違う役どころだが、いかれた男によく合っている。蚊帳のセックスが終わり、彼の逸物が薄紗の向こうに見えるが、これが立派である。張りぼてでないとしたら、見事である。


田中裕子が戦争で左手首から下をやられたお母さんで、暴力夫を避けて家を出た。一人お腹に子がいたが、堕胎した。モンスターの子を世に出させる気はない。出せばあいつのものになるから、堕ろして自分のものにしたという。魚の下処理をする仕事なのか、いつも魚の皮をじゃりじゃりやっている。暴力夫は酒場のママを連れ込み、外では売春の女にも暴力を振るっている。主人公である息子も恋人の首を絞めるようになり、その父親が通う売春婦にはビンタを使ったらしい。父親が彼の恋人を犯したことで、息子が復讐しようとするが、母が制止し、自分で殺す。それも手首に付けた鉄の義手で。


面会に行った息子に「あの人はどうなった?」みたいなことを言う。やりとりから昭和天皇下血の話だと分かる。あの人が始めた戦争で手首をやられた以上、あの人以上に生き延びようと思っていた、と言うところがあるが、やや映画の流れから言うと違和感がある。それと、息子が「恩赦」という言葉が分からない顔をするが、彼は吉行淳之介だったり、常に本を手放さない人間らしいので、それはおかしい、という気がする。そんなにアホじゃないということである。


おそらくこの映画が今年の賞を総なめにするのではないか。そういう出来である。


83 東ベルリンから来た女(T)
クリスティアン・ペッツオルトという監督で、ドイツ映画。壁の解放9年前のことを扱っているらしい。西への移住申請がはねられ、ベルリンから田舎町の病院へ移された精神科医(?)。つねに秘密警察の監視、見回りがある。西側にいる恋人との逢瀬を森、外人専門ホテルなどで繰り返し、お金(西側への脱出用費用)や煙草などを受け取る。結局、医院の優しい医者(前の病院で新鋭機械を導入するも、部下の取り扱い説明書の読解不足で2人の子を盲人にした責任をとって、田舎の病院に回されてきた)。


映画館に5分遅れで入ったので、最初、主人公のポジションがよく分からなかった。題名から東ベルリンから西ドイツに来た女の話だろうと思いこんでいたからである。しかし、秘密警察が出てくるに及んで、そうか、東西の壁が崩壊する前の話なのだ、と納得した。しかし、なぜ今この種の映画がドイツで撮られるのか。簡単に言ってしまえば、東側にも良心の人がいた、という映画である。


彼女は結局、患者の一人を身代わりに逃がすわけだが、その大きなきっかけは男が東側で暮らそうか、と言ったからではないか。東側には自由などないのに……その甘さに嫌気が差したのではないか。それと、外国人ホテルで知り合った隣室の女が、西側の男に会うたびに物を貰うし、結婚をすれば西側に行けるかもしれない、と語ったことも影響しているか。自分も言ってみれば彼女のあり方とそう変わるものではない……と悟ったか。


女優がニーナ・ホスという人で、姿も美しく、凛とした風格を漂わせながら、エロティックでもある。この人の抑えた演技で、この映画はもっていると言っていい。優しい医師を演じたロバルト・ツアフェルトで、太っているが、顔はかわいげのある二枚目である。


84 ゼロ・ダーク・サーティ(T)
監督キャスリン・ビグローで「ハートロッカー」を撮っている。51年生まれで、赤字続きの監督が57歳で同作で女性初の監督賞を受賞。女性が戦場物を撮り、それで評価が高いというのも稀有である。主演ジェシカ・ジャスティン。今作はビンラディンの居場所を見つけ、射殺するまでの経緯を描くが、捕虜に対する拷問や武器を持たない女性まで殺害するところを描いていて、そういう意味でも異色である。ビンラディンを殺したあとの妙な興奮のなさ、静けさがかえってリアルな感じを抱かせる。


ビンラディン殺害計画にはパキスタン軍から絡んでいるという説があったが、この映画によればそれは無かったようである。隠れ家からそう遠くないところにパキスタン軍の士官学校があるので、内通していないわけがない、という話だったのである。


85 ラストターゲット(DL)
原題がThe American とは素っ気ない。中身も渋く、銃の特注製作の男が主人公、イタリアで娼婦に惚れて足抜けを図ろうとするが……。ドンパチがない、音楽もない、色調も淡い、それでも見ていられる。最後に何かがあると思っているからである。


86 社長紳士録(D)
監督松林宗恵、20作目である。森繁が常務から支社の製袋屋の社長になり(前社長が左卜伝)、ライバル会社社長とクラブのママや、熊本の取引先の取り合いやで頑張る、という設定。子どもが3人いて、長女には岡田可愛。熊本の会社社長がフランキー堺で、衆道の人で、社長と一緒に来た総務部長の三木のり平の宴会芸を見て惚れる。この宴会芸がこの映画の呼び物となっているが、確かに笑わせられる。旅先で池内淳子が積極的に迫る芸者を演じるのは、いつものこと。艶笑話が多く、朝から女房と事に及ぶようなこともしている。小林先生がおっしゃった、森繁の人より半拍早い演技というのは、見ていてよく分かった。相手の言葉の尻にかぶせるようにサッと言うのである。シリーズはこれをもって終わるはずが、人気がそれを許さず、続編が作られた。


87  ランナウェイ(T)
レッドフォードの前作が良かったので見に行った。ベトナム戦争反対の過激派ウェザーマンの残党の一人(スーザン・サランドン)が自首したことでFBIが動き出し、弁護士として一般生活を送っていたレッドフォードに司法の手が伸びることに。結局は無実だったという話なのだが、彼らの結束が非常に固く、30年も経って、誰も仲間の密告などしていない。それにネットワークも確かに生きていて、レッドフォードがかつての恋人(ジュリー・クリスティ)を探す旅も、その情報網に拠っている。シャイア・ラブーフが新聞記者、クリス・クーパーがレッドフォードの弟、ニックノルティが同志といったように出演陣も豪華。いかんせん12歳の子どものいるレッドフォードが歳を取りすぎているのがきつい。今となっても革命を信じるクリスティは、言ってみれば「追憶」のストライザンドの将来の姿そのもので、やっとこの映画でレッドフォードの市民性が勝ったという話である。


88 ゼロの焦点(T)
3、4度目になるだろうか。やはりラストの断崖での絵解きが長すぎる。それに東京・立川の娼婦が偶然、能登の同じ町にいて、間接的なつながりがあるという設定自体、不自然である。山田洋次橋本忍と脚本を書いている。


89 点と線(T)
小林恒夫監督、井手雅人脚本。原作と比べると、登場人物全体に老けている感じがする。とくに九州の刑事鳥飼を加藤嘉が演じているが原作では40代半ばだが、映画では60代末に見える。容疑者安田の山形勲も原作は30代半ばで、どう見ても50代の貫禄である。その妻高峰三枝子は20代後半とのことだが、原作は32、33歳。これだけが逆になっている。


原作では偽装心中は抱き合って死んでいることになっているが、映画では2人が仰臥で並び、男の腕が女の頭の下に通っている。青酸カリで死んだという設定からいえば原作の方が理に適っている。悶死する劇薬で、どうしてきれいに並んで死ぬことができるだろう。原作の2人抱き合ってというのも無理っぽいが。


映画が優れているのは、安田の妻を表に出してきたことである。映像で見せる以上はそうせざるをえないという事情もあるかもしれないが、彼女の関与を浮き立たせたことで、原作以上の情の深まりができたと思う。原作では妻関与の経緯は、刑事三島の鳥飼への事件解決報告の手紙でちょっと触れられる程度である。


高峰が冴え冴えとした美しさをたたえて恐ろしいほどである。ぼくはこの人が美人などとは夢にも思わなかったので、そのキャスティングの上手さに唸ります。原作の文庫解説を平野謙が書いているが、偽装心中に持ち込む経緯が書かれていないのが、この作の唯一の落ち度である、という。安田は殺した2人と面識があり、妻の高峰は男とは顔を合わせているが、女のことは夫の愛人、性欲処理係として知っているだけである。安田が女房にどう共犯を唆したかは分からないが、映画では会社に三島刑事がやってきたあとすぐに女房に電話をさせている。それは安田が事を実行するのに、妻と通じていることを明らかに提示しておこうということなのだろうと思う。


映画を見て原作を見たくなるなど初めてのことである。それだけ高峰の人物造型が魅力的だったということであろう。それと加藤嘉のしなびた演技もいい。たとえ女はたらふくでも、男が何かを食おうとすれば相伴するものだ、との見解は人の機微に触れた者でないと言えないことである。原作でもそこは光っている。文庫で250pほどの作品で、意外な薄さにびっくりした。


90 カストラート(DL)
去勢で高音域の声が出る歌い手をカストラートと呼ぶらしい。ヘンデルが王の使いとして彼を専属にしたいと誘いに来るが、誘いに乗らない。貴族の劇場で人気を博すが、貴族と王が対立しているらしいことがわかる。イギリスでもイタリア語で歌う。会話までイタリア語である。そもそも去勢をしたのは兄で、二人はセックスも共同でやる。最後、兄は弟の妻に子を孕ませ、戦場に出るところで映画は終わる。


92 グランドイリュージョン(T)
面白い! やはりこの手の犯罪グッドジョブ物にぼくは弱い。それほど複雑な構成になっていないのも好感である。マーシャルアーツのような技を使う若者もいい。もちろん他の3人もいいチームだが。モーガン・フリーマンはなかなか歳をとらない役者だなぁ。「コンサート」「イングロリアスバスターズ」のメラニー・ローレントがインターポールの新米捜査官の役。切れ役のウッディ・ハレルソンはメンタリストという役柄。もともとは知的な人なんだから、あり、である。主演といっていいのがマーク・ラファロで、何の映画で見たか覚えていないが、今回は妙に哀愁があってよかった。ただ、冷静に考えれば、設定に無理はあるのだが……。きっと続編を作る気がするが、さてこの作を超えられるか。


93 アラバマ物語(DL)
監督がロバート・マリガン、脚本ホートン・フートン、音楽エルマー・バーンスタイン、プロデューサーがアランJパクラである。マリガンはあまり作品は撮っていないようだ。フートンはあとでThe Young Man from Atlanta でピューリッアー賞を取っている。プロデューサーのパクラは監督として大統領の陰謀推定無罪ペリカン文書などがある。


子どもが鉛筆なのか紙にこするとTo Kill a Mockinbird というタイトル文字が浮かび出るという粋なことをやっている。黒人差別告発の映画なのに、しばらく子どもの世界の話に終始する。それが実は、子どもの世界にも偏見や差別などがあって、それが徐々に解明されていく過程で大人の側の事件も大団円を迎えるという構図になっている。とてもスマートな作りで、納得がいく。


弁護士の父親をグレゴリー・ペックが演じていて、彼は黒人レイプ容疑者の弁護を判事に頼まれ、原告側のウソを明かしたように見えたが、陪審員は黒人有罪を選ぶ。これは被告に不利な土地での陪審制の問題点だろう。なぜアメリカでこれだけ法廷ものが多いのか。そこで宣じられる自由と平等の尊さ――裏を返せば、いつも確認をされなければ、それらはガラス細工のように弱いものだということではないか。


真夏の裁判に人々が押しかけるが、入り口階段脇に氷がバスケットに山盛りになっている。人はそれを口に含んで建物へと入っていく。初めて見る映像だが、南部ではこういう習慣があったのかもしれない。あるいは、容疑者の身柄が危ないということで、拘置所の入り口に椅子を出して腰をかける父親。案の定、身柄引き渡しを求める白人団体がやってくる。その場に子どもがやってきて、団体の一人に顔見知りを見つけて「カニンガムさん、こないだは作物を持ってきてくれてありがとう。息子さんは同級だから、よろしく言ってください」と平静の声を掛けると、男たちの間にあった緊張が薄れ、引き揚げていく。匿名の暴力や熱が、個別の名前でクールダウンされたのである。あるいは、こういうシーンもある。貧しい同級生を夕食に呼んだところ、牛のステーキなど久しぶりだ、いつもはリスやウサギだから、と言う。シロップが欲しいというので出してやると、何にでもそれをかけるので、下の女の子が「シロップでみんなぐちゃぐちゃだわ」と言ってしまう。黒人のメイドが飛んできて連れ出し、人の食べ方にあれこれ言ってはいけない、と注意を与える。この映画には、こういったリアルな描写がある。


銃を持つのが当たり前の社会のようだ。家に遊びに来た、父親が鉄道会社の社長だという子は8歳にして銃を持っているという。ペックは17、18歳で持ったが、撃つのは鳥ぐらいにしなさい、モッキンバードのような人間に害を与えない、きれいな声で鳴く鳥は撃ってはいけない、と諭す。これが原題の由来である。


とてもいい映画を見たという印象である。じっくりとプロセスを描いて、多層的にテーマを深める手腕に敬服する。


94 水の中のサイフ(DL)
ポランスキーの処女作で、気分は「太陽がいっぱい」で、中年夫婦のヨットにやんちゃな、独身男を連れ込んで、セイリングが始まる。中年男はニコラス・ケイジ似、若者はユアン・マクレガー似、女はアン・マーグレットか。心理の綾を織りなしながら、つねに中年男が若者に「子どもだから、子どものくせに」といった態度で接するうちに、穏やかならぬ気持ちが育っていく。映像的にも実験がされていて、見飽きない。たとえば胸高い女が横たわるのをこちら側から撮し、その体の線に沿うように川向こうの木立が点継されるといった具合である。モノクロでジャズ、フランス語。ポランスキーの出自とは、こういうとこだったのね、という驚きの映画である。明らかな才気を感じる。


95 父ありき(D)
1942年の作品で、戦地から帰ってきて、何を撮るかと期待されながら、検閲で当初の作品を進めることができず、満を持して放った作品がこれである。他の監督たちが秀作として評価し、客の入りもよかった。戦後の小津のほぼすべてが出ているといっていいのではないか。石油タンク(?)、洗濯物、近代的ビルの窓、少ない会話、会話の主の顔の切り替え、映像の切り替え持に写す風景の遊びカット……。ただ主題は父と娘ではなく父と息子だが。


鮎釣りのシーンが3回あって、二人が同じ動作をする様子がユーモラスでもあり、父子の絆の深さも表している。一回目のシーンで、父と離ればなれで暮らすことがわかったあと、息子の竿の動きが止まる。息子が長じて教師になり、久しぶりに那須塩原で温泉に浸かるシーンがあるが、二人が入って一杯の小さな木製の浴槽が見え、二人は正面を向いて、お前の腕は太くなったなどと他愛のない話をする。ずっと引きの映像で、妙にセット臭い。中学受験の後、息子と入った飯屋のシーンも、引きの絵で、二人の足下まで写すようなことをしている。店の人は姿も表さないし、どうもセット臭い。息子が教師として秋田に赴任するが、そこの子供たちがしゃべる言葉が聞き取れない。


息子が母親の仏壇を仰ぐシーンが印象的である。捲っていたワイシャツの長袖を直し、背広を着、線香を焚いて、という一連のことを実にゆったりと写すのである。こういうところに小津の価値観のようなものが明らかに表れているいるように思われる。息子が教師を辞めて東京で一緒に住みたいと言い出したとき、珍しく、笠智衆が声を張り上げ、早口で「分を尽くせ」といった意味のことを長めにしゃべる。こういうご時世だから、あやふやなことではいけない式のことも、ちらっと言う。背後に戦争があることが、ごく淡彩に触れられる。よくぞ1942年で、こういう、言ってみれば女々しい反戦映画を撮っていたものである。


若き佐分利信や三善弘治などが出ている。仲のいい同僚の教師に坂本武、息子に佐野周二である。どういう会社の勤め人か分からないが、笠の家には女中が一人いる。息子は結局、坂本の娘と結婚することになる。父親が会社に出ようとしたとき、遊びに来ていた息子が別の部屋に行き、本を持ってごろっと畳に転がり、天井を向く。妙な間だな、と思うと女中が父親の急変を知らせに来る。ここの間が本当に微妙である。


96 キャリー(T)
前のが1976年、ブライアン・デ・パルマの「キャリー」である。「エクソシスト」が73年で、それが火付け役になって怪奇ものが矢継ぎ早にやってきた。もともと怖い映画が苦手なので、2、3本しか見ていない。そのうちの1つがスティーブン・キングの「キャリー」である。元の映画をほぼなぞっているように思うが、あるいはもっとパワーアップしたのかもしれない(道路を裂き割るるなんて、前はあったかしら)。母親をジュリアン・ムーア、キャリーをクロエ・グレース・モレッツ、あの「キックアス」のかわいいい彼女である。監督が「ボーイズ・ドント・クライキンバリー・ピアース。プロムというパーティがいかに大事かというのがよく分かる。あと、ブタの血をかける、というのは何か宗教的な意味があるのだろうか。


97 レイヤーケーキ(DL)
ダニエル・クレイグ主演、セルビア人の麻薬を奪った連中から話を持ち込まれたことから、クレイグが追われる身に。さらにボスが彼を裏切る画策が絡んで、ごちゃごちゃに。ボスのボスがそこに登場するからよけいに厄介なことに。娘がダメ男に捕まって行方がわかなかくなっているので探ってくれと言われるが、その娘がいっさい出てこない。セルビア人って怖いのね、という印象ばかりが強い。やっと組を抜け出したと思ったら、彼女の元彼に簡単に殺されるところは、ちょっと面白い。


98 シェフ(DL)
ジャンレノが落ち目の三つ星シェフ、料理オタクとも呼べるジャッキーが彼を助け、最後は自分が三つ星レストランのシェフに。レノは新しい恋人のレストランで働くことに。審査委員が分子料理を好きだというので、その専門の料理家のところに行くが、レノが侍、ジャッキーが芸者? の姿で、きっと吹き替えでなければ変な日本語をしゃべっているはず。ここのシークエンスはまったく下らない。


99 スティング(DL)
レッドフォードがNYからシカゴまで逃げ出すまでの展開が鮮やかである。それとFBIを絡ませて、どんでん返しを仕組むところも見事。列車でロバート・ショーのボスをポーカーで負かし、そのあとレッドフォードが寝返りの話も持ち込むところは出来すぎていないか。大親分であれば、もっと鼻が利くべきだと思うが。それと仮設馬券売り場でショーに声をかける人間がいつも同じで、しかもわざとらしいのを、なぜ冷酷な親分は気づかないのか。この映画の初見から気になっているのは、レッドフォードが惚れる女が、どう見てもきれいではないことである。「ロッキー」のエイドリアンにもそれを感じたが、何か制作者に狙いのようなものがあるのだろうか。ポール・ニューマンの女もそういえばパッとしない。ただ、アンダーグランウンドの生活に倦んでいながら、図太い処世のわざは忘れないといった貫禄はよく出ている。


全体がレッドフォードのいわゆる“道路屋(路上を使った詐欺。冒頭、うまくいった仕事が実は組の人間の財布を盗んだと分かり、物語は動き出す)”仲間のルーサーが殺されたことへの復讐であるというところが味噌である。実際、最後にレッドフォードは分け前も要らないと言っている。一人ひとり仕掛けの人物を選んでいくところは「七人の侍」っぽい。考えてみれば、「ミッション・インポッシブル」も仲間でターゲットをだまくらかすわけで、アメリカにはこの種の犯罪の伝統があるのかもしれない。脇役が揃った、やはり名品というべき映画である。