アステアとロジャース

kimgood2007-09-03

*アステア・ジンジャー物、総点検
版権切れの特価DVDには意外なほどミュージカル物が多い。「雨に唄えば」「巴里のアメリカ人」「ショウ・ボート」「イースター・パレード」などは、その種のものを買って見ている。
どういうわけか、ぼくがミュージカルを追いかけ始めたのと符節を合わせたようにツタヤにアステアVSジンジャー・ロジャース物が一気に出そろった。ミュージカル・コーナーも充実しているなと感じてはいたが、何かひそかなブームでも起きているのか?(そんなわけないか)。
せっかくだから黄金コンビの作品をまとめて見ることにした。コンビの作品は全部で9作あり、手に入るかぎりのものは見るつもりである。

2人の作品は以下のごとくである。

空中レヴュー時代(33年)
コンチネンタル(34年)
ロバータ(35年)
トップ・ハット (35年)
艦隊を追って(36年)
有頂天時代(36年)
踊らん哉 (37年)
気儘時代(38年)
カッスル夫妻 (39年)


*「コンチネンタル」34年
最初は「コンチネンタル」、1934年の作品である。アステア・ジンジャー物の第2弾である。翌年に「トップハット」を撮っている。
地質学者の夫との離婚を考えているジンジャーの前に、ダンサー・アステアが現れる。
彼は積極的に彼女にアプローチし、2回目の出会いで結婚を申し込む。そもそもの出会いは、ロンドン空港で叔母の旅行鞄にスカートを挟まれたジンジャーの手助けをしたのはいいのだが、力任せに引っ張ってスカートを破ってしまったために彼女の反感を買う仕儀に。彼はコートを貸すのだが、のちの返却には手紙も添えていなかった。
結局、彼女が離婚をするために仕組んだ偽装不倫の相手に、そういう道のプロのイタリア人とアステアがかち合うことでゴタゴタが起き、最後は夫の本物の不倫が発覚して、すべてが丸く収まる、という話である。


映像が躍動的なのが新鮮である。ミュージカルは室内ものという固定観念があるせいか、屋外撮影がけっこうあるのが珍しいくらいのものだが、考えてみればキートンにしろ、チャップリンにしろ屋外のシーンがふんだんにある。ミュージカルが部屋の中に閉じこもった理由が奈辺にあるか詳らかにしないが、踊りの仕掛けが大がかりになるほどに戸外撮影が難しくなったのではないか。この映画ではカーチェイスまである。それがけっこうスピーディに撮っているのである。


アステアの独り踊りもいいが、やはりジンジャーと踊るシーンは、身震いするほどに優雅で、すばらしい。海辺のホテルのダンス会場での踊り、ホテルの部屋内での踊り……ため息が洩れる。アステアの広げた腕の先で、指がひらひらと揺れる、そしてジンジャーの指も揺れる。並列でタップを踏みながら、肘を同じ角度に突き上げる。アステアが伸ばした腕の先にくるくるとジンジャーが絡め取られる。二人が踊りながら、まるで流れる水のように階段を下りてくる……。


この映画は台詞のメリハリも利いていて、会話に飽きがこない。アステアの表情も豊かで、身のこなしは例によって気品を漂わす。ジンジャーの夫の前で、口に指を入れ、ポンと音を立てる演出は、馬鹿げているがアステアがやると変ではない。この妙な魅力は、のちのち考えていきたいテーマである。弁護士のドジでアクの濃い友人がいい味付けで、バンドワゴンのこてこてのプロデューサー役を思い出させる。こういう脇がいるからこそ、芝居はしまってくる、というお手本のようなもの。


*「トップハット」35年
アステア&ジンジャー物としては最高の出来といわれるが、ぼくはそうは思わない。人違いパターンで話が進むが、その人違いに緊張感がないのである。アステアを好きになるロジャース、ところがそのアステアをダンサーではなく興行主と勘違いしてしまう。その興行主の恋人マギーとジンジャーは知り合いだが、本物の興行主には会ったことがないので人違いのまま進行する。本来ならアステアに惹かれるほどにマギーへの不誠実が募るはず(マギーの夫が興行主で、ジンジャーはアステアを興行主として勘違いしているわけだから、興行主=アステアを愛するほどにマギー=興行主の恋人への不誠実が募るはずである)が、当のマギーは自分の彼氏が浮気性であろうとあまり構わないという質なので、緊張感が生まれようがないのだ。


踊りにも冴えがあるとも思えない。せりふが生き生きしているわけでもない。興行主のサーバントが一癖、二癖のある人間だが、これもその味が出ていない。ひとつ面白いのは、ロジャースがいなくなった部屋の後片付けをするメイドが、花の入った壺を傾けゴミ箱に入れるときに、コンコンと花瓶の縁をゴミ箱に打ち付ける。すると、指揮棒で譜面台を叩くシーンに切り替わる。こういう場面転換は好ましい。


ジンジャーはきっと美人なのだろうが、ぼくにはよく分からない。ただ、相手の魂胆を見据えてふっと余裕の笑いを洩らすところなどに、彼女の愛嬌を感じる。



*スイングタイム〈有頂天時代〉」36年
次が36年制作の「スイングタイム」である。今度は攻守ところを替えて、アステアが婚約中の身。それを隠してジンジャーを愛するようになることでいざこざが起きる、というのが大まかな筋である。アステアはダンサー、ジンジャーはダンス教室の先生という設定である。
2人はNYの繁華街で出会う。アステアの友が自販機でタバコを買おうとして小銭がなく、通りがかったジンジャーにアステアのラッキーコインを渡して、崩してもらう。自販機が動かず、ドンと叩くと、タバコがいくつも出てくる。それで、さっきのコインを返してくれ、とジンジャーを掴まえるが彼女が承伏しない。そこで彼女のカバンからラッキーコインを盗み出すのだが、彼女は奸計に気づきポリスを呼ぶ。ところが、このポリス、アステアの身なりがいいので、ジンジャーの言葉を信じない。その扱いから、あまり彼女がハイクラスの出でないことが分かる。


この映画、どうも全体の調子がいまひとつ悪く、アステアとジンジャーの道ならぬ恋がうまく行きすぎるので、甘くなってしまっている。それに、アステアがラッキーという名の強運の賭け事好きという設定には無理がある。脇役のカードの手品師はいい味を出してはいるが、もう一つ映画の流れにのってこない恨みがある。
お話が緩いと、踊り自体にも興が乗ってこないのは仕方がない。セリフ、ドラマ、踊りが混然一体となってミュージカルが出来上がっているのがよく分かる。

誰だったかアメリカの作家が、アステアを指して「ミッキーマウスのよう」と表現したが、この映画での彼の漫画的な表情を見ると、その評言に狂いがないことが分かる。へそを曲げたジンジャーをなだめるために小さなピアノを弾くシーンがあるが、そのときの彼の目の表情は人間というよりアニメに近い。心ほだされてアステアの肩にジンジャーが手を乗せると、それこそ喜びにとろけるようなミッキーと同じ表情になる。


アステアの隠し事を知って離れようとするジンジャーを誘うダンスシーンは、さすがに見応えがある。よそよそしい様子の彼女が次第にアステアのテクニックに快活な踊りへと変化していく様が見物である。


*「踊らん哉」37年──なぜダンサーの恋物語ばかりなのか
「踊らん哉」、原題がSahll we dance? である。1937年の作で、またしても前2作と同じくアステアはダンサーの役である。別に靴磨きでも、社長でもいいように思うのだが、アステアの様子がどれにもふさわしくなかったのかもしれない。彼は競馬狂いで、自分も馬主でもあったが、糟糠の妻を亡くしたあと、女性ジョッキーと結婚しているぐらいの人だが、彼にジョッキーの役なんかさせたらどうだったのだろう。細身で、粋で。馬と一緒に踊ったり、ムチを使った小技を披露したり、いろいろやることはあったように思うのだが。


「踊らんかな」は中盤ぐらいまでテンポ早く展開する。アステアがジンジャーの写真を見て、結婚まで考えるという馬鹿げた設定で始まるのだが、そんなことはすぐに忘れて、アステアとジンジャーの掛けあいの面白さに惹かれてしまう。アステアがロシア人のバレーダンサーということになっていて、ジンジャーの滞在するホテルに押しかけて、妙なロシア語をしゃべるのには笑ってしまう。


クラシックバレーの踊り手ながら、自分の部屋ではタップダンスを練習するアステア。マネージャーが「ジャズか?」と聞くが、そうではない、と答える。自分の故郷の音楽だ、とアステアが言うが、ここには彼のダンス観が現れている。彼はクラシックバレーは好まず、かといって俗な踊りにも肩入れしない。アステアは自分と姿形がそっくりな振り付け師と二人三脚でさまざまな踊りを案出したというが、黒人っぽい要素は、その陰の振り付け師のアイデアでもあったという。


はたせるかな、NYへと戻る大型客船の船倉で、黒人清掃人たちと接触するシーンがある。接触というのは、一緒に歌ったり踊ったりしないからである。黒人がジャズを歌い、アステアはそれに聞き入る。引き継いで、アステアが歌い、踊る。そのシーンには黒人は絡まず、アステアが踊り、歌い終わって黒人たちは拍手をする。なぜそんな不自然なことをするのか、やはり時代の臭いを嗅ぐ思いがする。
アステアはあくまでポピュラー的な歌い方をする。もちろんタップも披露するが、いつもの彼の踊りである。しかし、アステアが黒人の音楽やステップに、ある種の親近感を持っていたことは指摘しておくべきだろうと思う。


映画は小技の連続で、それだけで楽しく見ていられる。これは、いい映画の条件のようなものである。演出が利いているのである。まず最初が、ジンジャーの小さな写真集。それをパラパラの要領で早めくりすると、ジンジャーが動き出す。その情景に、実際のジンジャーの姿がオーバーラップして場面転換になる。それに続くのがアステアのロシア語もどきである。
アステアは自分を有名なバレーダンサーとして紹介し、少しばかり跳んだり跳ねたりする。それをジンジャーが呆れ顔で見つめる。観客である我々としては、いつアステアが伝家の宝刀のタップを出すのか、そこに興味が絞られる。


ジンジャーはもうショービジネスに飽いていて、アメリカに戻って(いまはパリ公演中)結婚しようと考えている。別れないでくれ、お金は払うから、とマネージャーが言うのを、食事を部屋に運んできたホテルのボーイが聞きとがめ、「あんたは最低だ」と言って出て行く。金で若い女を買っている、と勘違いしたらしい。そこで、2人は笑い転げる。


帰りの客船の甲板で、犬の散歩をさせる紳士淑女。そのなかにジンジャーもいる。狭いスペースなので、行ったり来たりの回数が多い。アステアは一計を案じ、大きな犬を借りる。そのうちに、ジンジャーの犬はぽつんと座って動きをやめる。かわりにアステアがジンジャーに付き従う犬のように見える。船のデッキに2人が立つと、アステアの借りた犬も両足を柵にのせる芸当を見せる。翌日、アステアは狩りにでも出るように数匹の犬を引き連れて登場し、ジンジャーを呆れさせる。


アステアは自分を監視し、放さないマネーッジャーを引き離すために、変な技を仕掛ける。船が揺れてもいないのにゆらゆらと体を揺らせることで、マネージャーを船酔いの気分にさせるのである。まんまとその罠にかかり、マネージャーはアステアの部屋から退散し、バーへ行き、そこでジンジャーの同業と親交を結ぶ。2人は同じ価値観、危機感を有している。自分の子飼いが手元を離れていくのではないか、という危惧である。せっかくのくせ者2人が絡みながら、ここのシーンはほとんど笑いがない。


その2人がアステア・ジンジャーの偽りの恋を本物にする策略を練る。ジンジャーそっくりの人形を熟睡するアステアの横に置き、2人の恋の証拠写真をでっち上げ、マスコミにそれを流す。この写真がよくできているので笑っちゃう。


NYに着いてからは、ウソの恋をめぐるさまざまな仕掛けが連続する。当然、ジンジャーのフィアンセも絡んでくるわけで、ここらあたりハリウッドのお家芸ではないだろうか。すれ違いコメディとでも言うような感じである。妙に2人に気をきかすホテルマンがそのすれ違いのいい味付けになっている。



ジンジャーが許嫁と食事を共にする場で、アステアが舞台に呼ばれる。そこでやっとアステアがタップを披露に及ぶことになる。ジンジャーはびくりするものの、やがて2人で楽しげに踊り出す。



傑作「イースターパレード」も小ネタの連続で、ぼくはもしかしたら、その種の小さな笑いが好きなのかもしれない。そういえば「プロデューサーズ」もそうだった。もちろん脚本がいいとか、展開が上手だとか、いくつかいい映画の条件はあるが、小ネタがある程度揃えば、観客はそう不満はない、ということだろう。


先日、文楽「菅原伝授手習鑑」を見たが、鶏の人形が出てきたり、邸内の池に人魂が浮かんだり、小ネタの連続で笑わせてもらった。2月に見た「妹背山婦女庭訓」でも蛇が空を飛び、さすが人形遣いだからここまでやるのね、と納得がいったものだ。おそらくミュージカルの出来にしても、ハリウッド的な、あるいはアメリカ的なノリのようなものがあって、日本ならやらないな、ということも平気でやってしまったりするのだと思う。
先に触れたアステアの指で口をポンも、普通ならありえないことである。ましてアステアは紳士で通っているスターである。ところが、ハリウッド的な文脈では、それは不自然でもなければ、取って付けたようなものでもない。吉本新喜劇ではいろいろな技が繰り出されるが、あれをほかの国びとが見れば、ちょっとした違和感を持つのではないか。「〜じゃあ〜りませんか」でなぜみながドッとこけるのか、それを説明するのは難しい。アステアが口をポンとなぜやるのか明確な答えが出せないのと同じように。


もっと脱線すれば、「コンチネンタル」にはっきり現れているが、多少のエロっぽさがミュージカル人気の支えになっていたのではないか、という気がする。戦前の30年代に水着の女性に踊らせたり、タンクトップで跳ねさせたりするわけで、それほど扇情的な描き方をするわけではないが、時代が時代である。日本ではどういうリアクションで見られたものか、ぜひ当時の評を知りたいものである。
もちろんジンジャーも激しく踊れば下着も見えるわけで、そもそも男女2人で踊る様子にエロが見え隠れする。「イースターパレード」の有名なポスターでは、シド・チャリシーが網タイツもあらわに大股開きになっている。あまり清潔な目で映画は見ないほうがいい。といって、ありもしないことをあれこれ勘ぐるのは趣味ではないが。


*「カッスル夫妻」39年
これは実話を元に作られたものらしい。ドタバタ喜劇の役者がある女性に出会ったことがきっかけでダンサーに転身し、2人でダンスで食べていこうとするが、なかなか芽が出ない。ひょんなことからパリで辣腕の女エージェントにチャンスをもらい、有名なレストランで踊ることになる。そこで喝采を浴び、またたくまにスターへの階段を駆け上がる。
やがて戦争が始まり、イギリス人の夫アステアは空軍へと志願する。危ない目に遭いながらも、どうにか切り抜け、戦地勤務からアメリカで操縦訓練を施す役へと切り替わる。ところが、飛行訓練で編隊を組んでいたときに、下から飛行機が一機飛び立ち、アステアの乗る機にぶつかりそうになる。ほとんど直角に急上昇したことで、飛行機は失速し、墜落する。妻との再会の日にあえなくアステアは命を落とす。


アステア・ジンジャー物としては珍しい点がいくつかある。まず夫婦ものだということ。そして、アステアが国を思って志願兵となったこと。軟派のアステアが、である。当然、戦場が舞台になるが、飛行機から地上を見た映像があったり、大砲の実写シーンが挟まれていたり、ドキュメントっぽい演出が施されている。さらに、アメリカの地図の上を2人が踊り、あちこちと移動するのだが、踊り終わったところからたくさんの小さな人間が湧きだす仕掛けには正直驚いた。ラース・フォン・トリアー監督の「マンダレイ」にも似た趣向があるが、もしかしたらこのアイデアを使ったか。


そして、決定的なのが、ラストが悲劇だということ。何を措いてもハッピーエンドにこだわるハリウッド映画、それも戦前の映画で悲劇で終わる、というのは画期的なことではないだろうか。
おそらく1939年という制作年が関係しているのだろうと思う。この映画は第一次大戦を扱っているものの、現実には2次大戦の戦局が進んでいたはずである。戦意高揚映画ではないが、十分、時代の気分を背景に作られていると思われる。もちろん、アステアは戦時であろうと賑やかな映画に出続けたわけで、これだけを声高に言う必要もないのかもしれないが、異質な映画であることは確かで、後年、シリアスものにも出たアステアの片鱗が窺えると言っていいのではないだろうか。


そのかわりと言うべきか、2人の踊りには生彩がない。マギーという名の年寄ったエージェントは、演技が新しい。自然体と言っていい。ともするとアステアの映画に出てくる老役者は、サイレント時代の大仰な芝居癖が残っているような人が多く、演技のあとの妙な間に違和感を抱くことがあるのだが、この人はまったくその種の心配が要らない。エドナ・メイ・オリバーという名で、戦後は映画に出ていないようである。


*演劇と映画の違い
閑話休題ということで、ボブ・フォッシーが初監督作品「スイート・チャリティ」のおまけ映像で面白いことを言っているので、紹介したい。同作はニール・サイモン脚本のブロードウェイのヒットミュージカルで、舞台監督のフォッシーが映画に進出した記念碑的な作品である。
まず予算規模がけた違いである。同作の登場人物は舞台が26人、映画は500人を超える。「舞台は示唆的、映画は現実的」と彼は言うが、頷ける話である。別項でぼくは映画はリアルを求めるものだと書いたが、二次元という制約がそうさせるのだと思うが、これには深入りしない。
映画ではカメラが大きな役目を果たす、とも言っている。舞台は眼前にあるものがすべてだが、映画は何を切り取るか、どう切り取るかが重要になってくる。初めてベテランカメラマンに指示を出したところ、首を横に振らずに従ったのでホッとした、と彼は語っている。
もう一つ、映画は役者を動かす場所を選ぶことができる、とも言っている。セントラルパーク、国連会議場、ヤンキースタジアム……確かに演劇の舞台を映像のように変えるわけにはいかない。
おまけ映像で語っているのはこれくらいのものだが、ぼくには興味津々の話だった。ボブ・フォッシーは最後にこう語っている。オスカー・ワイルドの言葉らしい。
「とても不安だが、これ(※映画撮影)がいつまでも続いていてほしいとも思う」


*「気まま時代」38年
久しぶりにアステア&ジンジャー物を見る。アステアが精神科医という設定が珍しい。友人のフィアンセ(これがジンジャー)が結婚を前にすると婚約を解消するということを3回も繰り返すので、ちょっと診察してほしい、というので例によって恋愛のごたごたが始まる。催眠術をかけて2人を結婚させようとするところなど、今なら犯罪扱いだろう。


アステアの自伝を読むと、ショーの合間を見つけてはゴルフに興じている。この映画では踊りながらボールを次々とショットする場面が冒頭にあるが、これはアステアのアイデアだろうと思う。どんな仕掛けでダンスを踊るのか、これがミュージカルの楽しみの一つだが、アステアが箒と踊ったり、ゴルフクラブで踊ったりするのを見ると、前にも触れたがどうしてもジャッキー・チェンを僕は思い出す。身体を使いながらエンタメとして見せる、という意識は両者に共通、というより古くは無声映画時代から続いている映画的な太く深い鉱脈の一つではないかと思う。これはジーン・ケリーにも言えることで、彼らのような驚異的な身体芸を見せる演者がいなくなって、ミュージカルはパフォーマンスの仕掛けを見せたり、ストーリーに癖を持たせたり、ほかのことで代償を補うようになった、というのが簡単なミュージカルの歴史ではないだろうか。


歌と踊りと筋、これが間然と合わされば傑作だが、ミュージカルに筋はそれほど必要ではないことは、アステア&ジンジャー物を見れば明かで、彼らは大したストーリーもなしに9作を撮っている。お客は身体芸を見たくて足を運んだのだ。あとは、ちょっとした演出が利いていれば、申し分ない。この映画ではジンジャーが催眠術にかかったまま暴走するシークエンスが2箇所ある。警官の警棒を借りて町中を運ばれる大ガラスを割ったり、ラジオ番組の生放送でスポンサーの悪口を言ったり、射撃大会で銃をぶっぱなし、あげくにはアステアを殺そうとしてみたり、ジンジャーらしからぬ不届きな振る舞いが連続する。これら一連の挿話は彼女の希望で入れられたらしい。


*「艦隊を追って」36年
珍しくアステアが水兵さんの役である。元ダンサーで、結婚まで申し込んだジンジャーとは離ればなれ、久しぶりの上陸で昔の熱が戻ってくる。ジンジャーには姉がいて、これが奥手で、アステアの同僚の遊び人に惚れてします。それを取り持つのがアステアという次第。
水兵とあって、いつもと違って張りのある声、身振りを心がけているように見える。

なんだかギクシャクしたテンポの悪い映画で、見ているのが正直辛い。最後の最後で、二人が踊るシーンはさすがに見応えがある。後ろからライトが当たっているせいか、ジンジャーのドレスが透けて見るのがちょっとエッチっぽい。なかで小猿が使われるが、演技上手なのには驚きである。


アステア&ジンジャー物は次第に観客に飽きられ、最初は客は入るが、すぐに尻すぼみになる興行結果だったようだ。いずれその日が来ると二人で話をしていたようで、コンビ解消は既定路線だった。独り立ちしたアステアは一作ごとに相手女優を変え(ジンジャーのいとこのリタ・ヘイワースとは2作)、それぞれに好評を博したという。
ぼくはジョン・レスリーとの「青空に踊る」(43年)を見たが、これがなかなかいい。セリフがいい、ということは会話がいいということ。展開のテンポも無駄がなく、ぼくが見たなかでは水準の高い部類に入る。戦意高揚映画ということで、零戦を11機撃墜した将校の役で、たまの休暇を利用してバンチュールを楽しむという設定である。
例によって小さな仕掛けがたくさんあって、それが映画にリズムを作っている。たとえば、ふと見かけて興味をもった女のあとをあちこちと付いて回るが、そのひとつが兵隊用のバー。アステアがひと踊りを始める前に「俺は踊りが下手なんだ」と話しかけてくる兵隊がいる。これが妙な踊りをさっとやっていなくなる。別に大したシーンではないのだが、こういう小技が利いていることが大事。
あるいは、彼女がアステアが無職というので、自分の勤める雑誌社に紹介する。そのオフィスでのこと。どういうわけか子供のガチャンコみたいなものが壁に取り付けられていて、取っ手をがちゃんと回すとリンゴが出てくる。アステアはそれを囓りながら、雑誌社の社長と話をする。
その前に受付の社長秘書とのやりとりがあって、彼女のストッキングが椅子のせいで伝線する。それをマニキュアをつかって応急処置をするのがアステア。秘書に後ろ向きにさせて、脚をテーブルに掛けさせているところに社長が顔を出す、という設定。これも何でもないシーンだが、面白い。あるいは、同僚に身分をバラすと脅されてスネークダンスをレストランのテーブルの上でさせられるシーン。妙なくねくね踊りをアステアがするのだが、本気なのか、ちょっとしたシャレなのか、微妙な踊り方をするのがおかしい。何でも完全主義の彼がやっているわけだから、あれはあれで完全形の演技ということになるのだろうか。
さらに、またしても彼女の斡旋で軍需飛行機製造会社の社長に会うシーン。いかに操縦が難しいか説明するシーンはリアリティがある。飛行機を改良してくれとアステアが言うのだが、あれはある程度リサーチしたセリフではないかと思う。


*最後に
アステア・ジンジャーはキスをしないから仲が悪いと噂されていたようだが、最後の作品で長々とキスをするシーンがあるらしい。それはスローモーションで撮っているので長く見えるだけのことらしい。アステアはこの映画の社内試写に妻を連れて行って、長いキスの誤解を解いている。ちなみに彼のワイフはグレース・ケリーに似たノーブルな感じの美人である。


いくつか見てきて、先述ともダブルが、いいミュージカル物の自分なりの定義をしておきたい。まず、意外かもしれないが、セリフがいい、というのが第一条件、そして小技が利いていること、さらにテンポがいいということ、あとは踊りの仕掛けといい音楽。最初に踊りと音楽を挙げるのが礼儀と言うものだろうが、素人考えでは僕の挙げた順番になる。
逆に言えば、音楽と踊りがなくても映画は撮れても、いいセリフに小技、グッドテンポがないと映画にならない。ミュージカルも映画なのだから、そこから抜け出すことはできない。
アステアは自伝で、複雑な筋は要らない、と言っている。それは音楽や踊りを差し込むのに障害になる、ということだろう。これは彼の映画に限ったことではなく、当時の映画は全体に筋が立て込むことは少ない。ミュージカルはそれがさらに求められる分野だと言うことができそうだ。


アステアを継ぐ者がいない。そして、もう楽しく踊るだけの映画は作りようがない。そのなかで「プロデューサーズ」が我々を魅了する意味を、いま一度考えてみる必要がありそうだ。たわいない映画だが、ぼくのいいミュージカルの条件を満たす映画なのは確か。さあ、今夜もまた夢の世界へと戻ることにしよう。