10年6月から

kimgood2010-06-13

43 「沈まない太陽」(新文芸座)

組合運動の中心人物が冷遇され海外を転々、日本に戻ってからは墜落事故の事後処理を任される。新社長が関西の繊維会社から迎えられるが、首相の使者は曰くありげなフィクサーという設定(どうも時代がかっていて笑える)。新社長は会社内の膿を出そうとするが、それが結局は政治が絡んでいたために、辞職の引き金に。


主人公恩地を渡辺謙がやっている。ぼくにはなぜ彼がひどい扱いを受けながら会社を辞めようとしないのかさっぱり分からない。それが説得性をもって語られないわけだから、この映画は骨のないタコのようなものだ。海外に持って行けば、日本人の不可解な生態が評判になるかもしれない。うなわけないか。


44 「パイレーツロック」(D)

イギリスでは1967年まで海賊放送が流されていたそうである。ロックを中心に反公序良俗的な内容のため、政府が潰しにかかる。沖合に船を浮かべ、そこが発信元である。一団の長を演じるのがビル・ナイで、いかにもイギリスの役者風、しかも不良老年の匂いがぷんぷん。ぼくは彼を「ラブ・アクチュアリー」で見ているが、そのときもやはり元ロッカーのはじけたオヤジ役をやっていた。ほかにアメリカからやってきたDJという設定で、フィリップ・シーモアが出ている。彼は盛りを過ぎ、「あとは下り坂だけだ」と言う。そのセリフが心に響く。カールという青年の父親探しがこの映画の柱になっている。はじめはビル・ナイ演じるクゥエンティがそうかと思わせるが、実は朝まだきに放送するボブが、それと分かる。ボブは、船が沈没しそうなのに気づかず、息子が逃げようと言うのに、お気に入りのレコードを持っていこうと必死になる男である。

ごちゃごちゃと進行し、下ネタもたっぷりだが、スタイリッシュな感じはけっしてなくならない。それがイギリス映画である。これをアメリカ調で撮ると、とんでもないハチャメチャ映画になるのは必至である。


45 「ダウト」(D)

学校が付属したある教会の神父と、その学校の校長であるシスターの権力争いのような映画である。自由主義の神父をシーモアが、厳格過ぎるシスターをメリル・ストリ−プが。神父を少年愛と疑い、問い詰めるが、少年の母親が意外なことを。息子自身にその気がある、と。それにもうすぐで卒業なのだから、構ってくれるな、と言う(この母親役の演技がいい)。それでもシスターは諦めず、ウソをついてでも神父を追い詰める。いわく、前の教会のシスターに電話して、不行跡があったことを聞いた、と。実は電話など一切していないのである。しかし、神父はその脅しに負けたかたちになる。シスターが「地獄に堕ちても、あんたを追い詰める」とすごいことを言ったからである。このストリープの演技はさすがである。シーモアに最初に疑いを持ったシスターがエイミー・アダムスで、可憐である。


ところが、神父の転任は出世である。シスターは司教に神父のことをバラしたが、司教は信じなかったか、あるいは政治的に黙殺するために、あえて出世させた可能性が高い。正義をなすために時に神から遠ざかることもある、として自分の行いを肯定していたシスターは、自分の信仰に疑い(Doubt)を持つところでこの映画は終わる。数年前にアメリカで神父たちによる少年への性的干渉がスキャンダルになったが、常に彼の地では現在形の問題である。


歴史家のトクビィルはアメリカに「対等な個人からなる階層なき社会」を見るが、「社会的紐帯から切り離された抽象的個人は、その孤独に耐えることができるか」という疑問を抱く。彼が注目したのが、アメリカが極めて宗教的な国で、教会が人びとの精神的共同体になっている、ということである(これは池田信夫氏の著作からの引き写しである)。ぼくは、この映画に同じような思いを抱く。映画は現代の話として語られているのである。しかも、監督ジョン・パトッリック・シャンレイの生まれ育ったNYブロンクスが舞台だという。アメリカの不思議を見る思いである。


46 「プリンス・オブ・ペルシャ」(池袋ヒューマックス)
懐かしのRPGの実写版である。展開が早く、お金もかかっている。20年ぐらい前のことを思い出し、感慨深い。


47 「南極料理人」(D)
400日以上も雪の中の閉ざされた生活を送る8人の男の物語である。別に殺人が起きたり、深刻な諍いがあるわけではない。そこは純日本的である。主人公は海上保安庁から派遣された調理人で、実は子どもの頃から南極へ行きたくてしょうがなかった先輩が晴れて選ばれ、壮行会のあとに交通事故に。その代役で急遽、人跡未踏の地に赴任することになったのである。ペンギンもアザラシもウイルスもいない。沸点は85度くらいで、メンを茹でても芯が残る。水がないので、雪を溶かす。地下2万メートルから雪柱をえぐり出し、それを分析することで地球の歴史が見えるらしい。


主人公を演じているのが堺雅人、しじゅう笑い顔なのは演技なのか。ぼくの知り合いとそっくりである。脇が生瀬勝久、この人がアクが抜けていて、それでいて一癖、二癖あってグッド。ラーメン狂いのきたろうはハマっている。きたろうと一緒に夜中にラーメンを食べたり、バターの固まりに食いついたりする男も印象が深い。一人若者が混じっていて、電話の向こうで徐々に彼女の反応が悪くなり、しまいに「彼氏ができた」と言われるのは悲しい。ところが、いつも電話を取り次いでくれるKDDの女性に電話アプローチ。意外なラストが待ち受けている。


途中で、スーパーだかの特設スペースで、隊員と子どもたちがテレビ電話会話をするシーンがある。堺の娘ゆかりがいっくつか質問するが、それと気づかない。隊員には子ども側の絵は映っていないのか。としても、ここは身分を明かしてほしい。十分それくらいの演技のできる子である。よくもまあいい子役を見つけたものである。かつて井筒の「ゲロッパ」の子役に舌を巻いたことがあったが。


この原作を春風社という横浜の出版社が出している。学術書を中心にしたところらしいが、最近、中島岳志氏の『保守のヒント』というのを出した。注目していきたい出版社である。


48 「ずっと愛していた」(ギンレイ)
フランス映画である。妹が幼いころ姉は息子殺しで15年の服役に。養子2人を抱え幸せに暮らす妹のもとへ出所した姉がやってくる。妹は大学の教員、姉は元医学研究員。彼女は裁判でずっと黙秘を続けたため、息子殺しの動機が分かっていない。それがこの映画を最後まで駆動させる力になっている。


姉と妹、姉と妹の養子たち、姉と妹の夫、姉と夫の父親、そして姉と出会う幾人かの男性たち。謎をもつ美しい中年女を世界はどう受け止めていくのか。親身にひと月に1回の面談を受け持つ警察官は、いまだ源流の確定されないオリノコ川(エンヤ!)への旅を夢想し、彼女に会うたびにその話をする。しかし、突然、自殺する。妹の同僚は刑務所で教える機会があって、自分もいつそっちの世界へ行くか自信がなくなった、と述べる(加賀乙彦氏も殺人者と一般人の壁の薄さを指摘する)。
姉は町のカフェバーで男を誘い、昼日中のセックスに及ぶ。男が「どうだった?」と聞くと「最低」と答える。妹にその話をして、二人で笑い合う。


小谷野敦が『天皇制批判の常識』のなかで三浦綾子の『氷点』を差別的な作品とこきおろしている。息子を殺した殺人者の娘を復讐のために養女に取る話らしく、最後はそれも誤解だったというオチらしいが、殺人者の娘だからというので異端視する視線は寸分も疑われていないらしい。それに比べてこの映画の凜とした在り方は淡々と撮っているだけに、心に残る。



49 「イングロリアス・バスターズ」(D)
ナチ殺し専門の集団を率いるブラッド・ピットがずっと変な話し方をするのだが、そんな必要があったのかどうか。「オーケストラ」で美しかったメラニー・ローレンがそれほどでもないのはなぜか。彼女を見たくて借りてきた映画なのに。家族をナチに殺され逃亡、いまはパリで映画館主である。黒人の映写技師(?)が恋人だが、なんだかあまり惚れ合っている感じがしない。ユダ・ハンターといわれるクリストフ・ウォルツが英語、フランス語、イタリア語を操り、ティム・ロスのような酷薄な感じがよく出ていてグッド。自軍が敗れることを知っていて連合軍に寝返るわけだが、あっさりブラッド・ピットに裏切られるところは納得がいかない。


タランティーノ映画は、この映画もそうだし、「パルクフィクション」も会話のシーンがとても多い。それも長い。会話で10分、20分持たせるのは、よほどの映画作法がないとできない。とくに冒頭のシーン、床下に匿ったユダヤ人のことを白状するまでの長いシークエンスよ!


バットで人の頭をぶっ飛ばしたり、頭の皮を剥いだり、別にそんなことをしなくても十分に映画を撮れる人なんだから、次はタランティーノ風恋愛映画を見てみたい。しゃれた会話一杯に。ドンパチなしに。


50 「鉄男」(シネロサ)
塚本晋也監督、ぼくは「6月の蛇」を少しだけ記憶しているぐらい。ごく単純な映画だが、映像処理で見ていられる。まったくの空白の画面があるなど考えられるだろうか。ほとんどダークベーダーのような鉄男が悲しみや怒りを湛えているのがよく分かる。
外に出て黒々と濡れた町を見たら、ほとんど塚本ワールドそのもの。黄色や赤や緑は闇を彩っているに過ぎない。


51 「相棒ザ・ムービー」(D)
つまらんなぁ。演技ヘタだなぁ。なんでチェスなんだろ。発想が古いなぁ。緊迫感ないなぁ。相棒の寺脇康文がひどい。それと、警察を指揮する人物、俳優の名が分からないが、これもひどい。号令を掛けるのに声が出ていない。事件が解決してからも長い。救いは、議員を演じた木村佳乃が思いがけなくいいことである。2世議員ながらやり手の感じが出ている。次回作は相棒が変わるらしいが、当然であろう。脚本、練ってよね。


52 「生きる」(D)
やっと黒澤ヒューマンタッチの名作とやらを見ることにした。「素晴らしき日曜日」もそうだが、初期黒澤の解禁である。もっと破綻の少ない映画かと思っていたのだが、ギクシャクしている部分があって、それが思いがけなかった。


息子夫婦が父親(志村喬)の退職金を自家を建てる資金にしよう、一緒に住まわせてやれば納得する、みたいなことを言いながら暗い2階に上がってきて電器を点ける。すると、そこに父親がじっと座っている。何も言わず階下へ下りる。夫婦はレコードを掛け、女は「抱いて」とベッドに横になる。
それからの映像が目まぐるしい。妻の位牌の入っている仏壇を見る。そこから火葬場へと向かう車中に転じる。雨に濡れる窓、後ろの席で前の霊柩車をじっと見つめる幼い子(息子)、黒々とした髪の毛で目もしっかり見開いている父親。急に場面が切り替わって、志村が父親から嫁をもらえ、と諭されるシーンへ。「子ども、子どもと言っても、大きくなって女ができれば父親なんて忘れられる」と。2階から息子ミツオが呼ぶ声。駆け上がろうとする志村。だが、「戸締まりをお願いします」の声に動きが止まる。バットを戸のつっかえ棒にしたところで、また場面転換で野球試合へ。ミツオがヒットを飛ばし、志村は自慢そうに隣に座る男に「いま打ったのは実は……」と言ったところでミツオがスチールに失敗し、その隣の男に野次られる。期待を裏切られた志村。また場面が変わり、簡単な作りのエレベーターの中。男がベッドに横たわり、かたわらに志村が立っている。どこかの階に着き、ベッドが運び出される。ミツオが言う、「手術に立ち会ってくれるね」「用事があってだめだ」と志村が言うが、どうも言い訳がましい。すでに親子の関係に冷え冷えとしたものが入り込んでいる。突然、現在のシーンに戻り、「ミツオ!」と叫んで2階に行こうとするが、途中で止める。次がミツオ出征のシーンで、志村は汽車の外でじっとしている。また現在に戻り、ズボンを脱いで、布団の下に敷く志村。目覚まし時計を巻いているうちにうっと来て、布団に慌ただしく潜り込んで嗚咽を漏らす。梁の上の勤続表彰状を写して、この一連のシークエンスは終わる。


これが第1の破綻である。場面転換の技を見せたくて、どうも無理してやり過ぎた感がある。最後の出征のところなど要らないのではないか。もう1つは有名なお通夜の場面である。勇躍、市民公園を作ることを思いつき、市役所の外へ出ようとする渡辺勘次。その次が、もう葬儀の場面である。ここは見事である。
助役から何から役場関係者が居並んでいる。市民公園ができたのは市民課長の渡辺のおかげという者がいるが、それは市役所の機構を知らない者が言うことだ。真の立役者は助役だ、とおだてる者がいて、助役はいい気分に。そこへ、空き地に蚊が出て大変だから公園でも作ってくれ、と陳情していた住民の婦人連が焼香にやってくる。遺影の前で涙を流す住民たち。はからずも助役たちの言葉がウソであることが分かる。住民が去ったあとで、助役も気が削がれたか、幹部連と一緒にいなくなる。そして、それからが渡辺勘次の業績をめぐるあれこれで、部下や同僚たちの回顧シーンと現在の評議(勘次は偉かったかどうか)が交互に進んでいくが、そのつなぎがうまく行っていない。回顧シーンのあとに座にいる者のリアクションが続くのだが、妙な間があったり、調子が合ってなかったり、別撮りした弊が出ている。


勘次の優柔不断な様子を出すために終始志村は涸れたような声で、しかも最後まで言い切らない話法を続ける。どうもこれがいただけない。やり過ぎな感がする。


役場の臨時雇いで、澱んだような、何もしない職場の空気に嫌気が差し、辞めようと辞職願にサインを求めてやってきたのが小田切みきで、この女優が生き生きとしていていい。志村が自分のケーキや汁粉をやると、実に嬉しそうな顔をする。ストッキングが破れているので買ってやると、給料2、3カ月分もする、と嬉しがる。市民課の誰それにあだ名を付けた、なまこ、コンニャク、どぶ板、はいとり紙、そして志村はミイラ。新しく入った人形製作工場にまで誘いにやってくる志村に、次第に気持ち悪い思いを抱くようになる。華やかな喫茶店で2人、ほかのスペースではきれいななりの女性たちがパーティを開いている。小田切は自分が作っている人形を見ながら、「日本中で子どもと仲良しになった気がする」とあくまで前向きである。志村がなかなか本心を言わず、いつも口ごもるのを「雨だれみたいにポツンポツン言わないで」となじる。志村は癌であることを告げているうちに、何かを思い出す(ここがよく分からない)。階段を駆け下りる。向こうの女性陣が新たにやってきた階下の人間に向かって「ハッピーバースディー」を斉唱する。もちろん、新生勘次を言祝ぐ歌というわけである。これ以降、小田切は一切顔を出さない。もう役目は終わったということなのだろうが、ちと寂しい。


ぼくはやはり勘次が敢然と突き進む様子を、回顧ではなく現在形で撮ってほしかったと思う。それくらいは黒澤ならお手の物だったはず。映画作法に逃げたな、と思うのである。


53 「バベル」(D)
アモーレス・ペロス」を撮ったアレハンドロス・ゴンザレス・イニャリトウの映画で、何かアカデミーで賞を取っている。例によって循環する物語である。そこの中心にあるのが銃。父親が羊との交換で手に入れた銃で観光バスを狙うと、なかのアメリカ人女性に当たる。それがケイト・ブランシェットである。夫がブラッド・ピットで、夫婦仲が冷え切っている。長男を亡くし、ピットは家庭から逃げた過去があり、いま2人の子がいても関係は直らない。その子ども2人は……というようにモロッコ、日本、メキシコでの話が絡まり、進行する。聾唖者の役をやる菊池凛子は熊切和嘉の「空の穴」に出ていたらしいが、何となくぼんやり記憶があるだけである。ガエル・ガルシア・ベルナルは「モータサイクル・ダイアリーズ」が初見で、こいつはブレークすると以前に書いたが、「アモーレ・ペロス」が映画初登場らしい。「アモーレ」の印象が強烈なので、この映画は理に落ちたような印象にならざるをえない。同監督の「21グラム」を見なくてはならない。


54 ハングオーバー(池袋シネリーブル)
客の入りはまあまあ。アメリカのお馬鹿コメディだが、なかなか仕掛けも効いて、やるなお主、という感じ。どうしても米国コメディはしつこい、過剰、うるさい、下ネタ過ぎる、など難点が多いが、この映画の遊び具合はそれほどひどくない。あるいは、こっちがアメリカナイズされたか……そんなワケない。
結婚前に男だけで遊びまくる習慣というのは、いつから始まったものなのか。中にはそれをミステリー仕立てにしたものもあったが、この映画だって、多少はミステリー、謎解きである。この4人組で、ほかのネタをやってみてほしい。シリーズ化、大賛成。


歯医者が惚れるストリッパーがなかなかいい。ヘザー・グラハムで、『ボビー』で見ているのかもしれない。人前で赤ん坊におっぱいをやるシーンは驚きである。アメリカにもあるんだ! である。日本でもごく最近、小田原のソバ屋で見かけたが。


55 「必死剣 鳥刺し」(新宿バルト9)
いいとか悪いとかより、藤沢周平原作で映画を撮ると、実に足許がしっかりした映画になる、という印象である。言葉少なの登場人物、外連味のない筋、きれいな自然、純愛、これで満腹である。
ただし、「たそがれ清兵衛」「隠し剣」「武士の一分」「蝉しぐれ」などと比べると、この映画はいかにも暗い。準主役と言っていい吉川晃治の演技がいいのにはビックリものである。10本を超える映画に出ている。


56 「愛を読むひと」(DVD)
なんだナチスものだったのか、と言いたいところだが、ナチスものと知って借りた次第。そうでなければ借りなかっただろう。映画配給元は、ナチスじゃ売れない、ロマンスで行こう、と相変わらず姑息である。
ケイト・ウインスレットがよくお脱ぎになる。路面電車の車掌で、よく働くので内勤に、と言われたあとに、付き合っていた15歳の少年(21歳年下)に八つ当たり。そして姿をくらます。その事情はあとで明らかになる。成人してからをレイフ・ファインズが演じている。「ナイロビの蜂」ぐらいしか記憶にないが、あの情けない感じの顔は適役である。
監督は、「リトルダンサー」「めぐり会う時間たち」のスティーブン・ダルドリーで、彼はこの3作しか撮っていないのではないか。「リトルダンサー」では男色をほのめかし、「めぐり会う時間たち」ではレスボスをほのめかした監督が、今回は何もほのめかさない。ましてや一応、政治的なテーマを扱ったことに敬意を表したい。


原作を読めば分かるのかも知れないが、彼女がなぜそういう事情なのかの説明が一切ない。それは何か差別と結びついたことなのか。もしそうなら、もっとこの映画は深いものになったはずだ。
お互いに歳をとって、それでもなお女が男を「キッド」と手紙で呼びかけるところは戦慄が走った。その文字がまた直立不動のような文字で、彼女の事情を明かして十分である。


57 「ナチュラル・ボーン・キラーズ」(D)
オリバー・ストーン監督、脚本タランティーノで、94年の作。もうそんなになるのか。人殺しをするだけの映画なんて、と敬遠していたが、「イングロリアス」がまあまあだったので見てみることに。正直、時間の無駄。主役のウディ・ハレルソンは「ラリーフリント」で見ている役者で、相手役ジュリエット・ルイスは初見である。癖のある顔と身のこなしで、何となくぼくの知り合いに似ている。犯罪ドキュメンタリー番組の司会者がロバート・ダウニーJrで、今と比べてふっくらとしている。
音楽がレオナード・コーエンで、9.11を扱ったベンダース映画「ランド・オブ・プレンティ」で同題の主題歌を歌っていて、それが良くてアルバムを買ったことがある。確かラストがグランドゼロの俯瞰だった。何でもある国がゼロを抱えて項垂れている。「ナチュラル〜」のコーエンのFutureというエンディングの曲は、歌詞がぶっとびである。


暴力を扱う映画はたくさんあるし、犯罪者の側から描くのもあるわけだが、これだけ全肯定に近いのも珍しいのでは。「俺たちに明日はない」の末裔たちの映画である。オリーバー・ストーンの中にある暴力性の強さに驚く。かつて淀川先生は、彼の正義感に胡散臭さを嗅ぎ取っていたが、まさに当たりではないのか。


58 「次郎長三国志」(D)
よくやくツタヤdiscasで借りることができた。東映版である。もっと生きのいい映画かと思ったが、あにはからんや喧嘩で人殺しをしては旅(兇状旅と言う)に出てほとぼりを冷ます、というパターンである。松方弘樹の動きがモダンで、ちょっとほかの役者と違っている。堺駿二が歌のうまいところを見せるが、松方も上手い。次郎長も歌う。こりゃミュージカルだ。
全体にハジけた感じがなく、どこが人気を呼んだのか分からない。


52年に東宝版で9作撮り、63年に東映版で4作を撮っている。森繁の石松の目が明くのは東宝版である。それを白井佳夫氏は日本映画の最高峰みたいなことを言っているらしい。DVDがないからどこか劇場で見るしかない。


最初から次郎長は旅の途次である。清水を酒でしくじって旅に出て渡世人になった、という設定である。清水に戻って音を上げ、大きな喧嘩の仲裁をしたことでお上に目を付けられ、旅に出て宿に困り、以前の旅で世話になったするが屋という旅館へ。何年経ったかの説明がないが、本陣とも称すべき宿がいまやかつての賑わいがなく、とても裏寂れた雰囲気。そこの主人が藤山寛美で、妻がよく見る女優だが名前が分からない。ふだんは冷たい感じの役が多いが、今回は至って庶民的で、博打で身代を潰す夫をあくまでかばう役である。これが今回の一番の収穫である。


もう一つ、親分の器量に惚れて少しずつ個性豊かな子分が揃っていく過程は、まるで「七人の侍」である。マネしたとは言わないが、影響がないとは言えないのではないか。黒澤は絶対否定しそうだが。


沢村忠の自伝「ぼん、ゆくっくり落ちやいね」を読むと、鶴田浩二という役者は付き合いづらいタイプだったようだ。なかなか役者として売れ線ができなくて、その悩んでいるときに沢村に会っている。監督がほかの役者とうまくいくと、嫉妬を覚えるのが通例らしく、ひばりと錦之助に付き合った沢島は、二人の鞘当てに相当に神経を遣ったようだ。


59 「次郎長三国志 甲州路殴り込み」(D)
これは陰々滅々とした内容で、ほとんどお上に追われる逃避行で、その最中に次郎長の最愛の妻が死んでしまう。演じるのは佐久間良子である。彼女が亡くなったあと、恩義を裏切った遠藤辰夫組を殺しに行く。事がすんで、門を開けると捕り手が待ちかまえている。そこへ次郎長一家が踏み込んでいくところで映画は終わっている。これじゃ客の入りは大したことがなかったのではないか。

石松のダチが町田京介で、その女房が南田洋子、彼女の演技が生き生きしていて、マキノも惚れたのか長い演技をさせている。権現様の周囲を回りながら、御利益を求めるためにいろんな理屈をこね回す。町田が帰ってきたあとの掛け合いも漫才のよう。暗い映画なので、彼女で救われる思いがする。相変わらずミュージカルである(途中まで前に見た映画と気づかず見ていた。ハハハ)。


60 「39刑法三十九条」(D)
いわゆる心神耗弱規定を扱った映画で、その規定を知り尽くした男がある計画犯罪を犯す、という設定である。森田芳光監督である。主役が堤真一で多重人格を装う。鈴木京香精神科医、その恩師に当たるのが杉浦直樹、被告人弁護士が樹木希林、検察官が江守徹、検察上層部が岸辺一紱である。この布陣はなかなかのものだが、ベテラン役者の演技が過剰である。樹木希林はぼそぼそと声が聞こえない、江守が酔っぱらったような話し方を通す、岸辺はニヤニヤとガムを噛み続ける。何ですかね、これ。森田は役者が揃って満足のようだが、もっとコントロールすべきではないのか。映画評で「ベテラン陣の抑えた演技」などと触れているのがあるが、ほとんど何も見ていないのと同じである。
鈴木が堤の郷里に調べに行って、砂浜で幼少時の虐待の証拠を見つけるというのは、いくら何でもである。森田は、映画的に許される、と言うが、うなばかな、である。


62 「あにいもうと」(D)
30分くらいの短いテレビ作品で、山田洋次脚本、渥美清主演(演出は違う)でTBSで放送された4本をまとめてセットでDVDを作ったその1つだそうだ。72年の放送だから、寅さんが69年が第1作、すでにシリーズは始まっていたわけだ。


成瀬の「あにいもうと」の抜群のセリフに比べればおとなしいものだが、妹・倍賞千恵子が兄・渥美に切れるときのセリフはやはり迫力がある。「おまえがションベン臭い女を追っかけてたときの私じゃないんだ」「このタイル屋め」「取れたところうろうろしているような男め」と啖呵が続き、嵐が収まって母親・音羽信子が「おまえ、たいへんな女になったね」と言うところは、成瀬でも印象に残ったシーンである(成瀬では「おまえさん、たいへんな女におなりだね」だったはず)。川で生計を立てる(さかい川とか中で言っている)父親が宮口精二で、網の手入れをするシーンがある。渥美は父親の紹介でタイル屋で働いている。妹を孕ませた若造が謝りにきたのを殴りつけ、ちょっと反省したのか「そこを真っ直ぐいけば地下鉄だ」みたいなことを言う。成瀬では川向こうのような言い方をしていたが。やはり室生犀星の原作を読まずばなるまい。


63 「セブンティーンアゲイン」(D)
バスケの有望な選手だった男が恋人の妊娠を知って普通の社会人に。いまや中年太りで、離婚協議の真っ最中。ふとしたことで過去に逆戻り。そしてまたもや同じ女に有望な未来を捨てる──これって「ペギーースーの結婚」の男版である。妻役をやった女優が老けているが美しい。


64 「舞台のような素敵な生活」(D)
人気演劇脚本家はしばらくヒットがない。妻は常に子どもを欲しがり、その生活臭が創作の意欲を削いでいる、と彼は考えている。しかし、妻とはとても仲がいい。だけどEDである。


近くに足の悪い少女が引っ越してきてから、彼の考え方は変わっていく。そもそもは子どもの“なりきり”遊びに付き合ったのがきっかけ。それは芝居と呼吸は同じである。少女は素直でいい子だが、足の問題もあってやや引っ込み思案。母親も牽制しがち。脚本家夫婦は少女に長いシークエンスの踊りを教える。母親はそれを“子どもを見せ物にした”と怒る。


不眠症の脚本家は夜に近所を散歩する。そこで出会ったのが彼のフリーク。夜ごとに会話するうちに、次第に相手が彼を模倣するようになる。そして、とうとう脚本家を夜ごと吠え声で悩ませていた犬を射殺する。ちなみに原題は How to kill your neighbor's dogである。


男は行動をしない人間で、すべて脚本の中に注ぎ込むことで人生をやりくりしてきたような男だ。いくら毛嫌いする犬でも殺すようなことは絶対にしない。それが少女と知り合うことで、何か別の可能性が見えた、という感じで映画は終わる。


男はロサンゼルスに住むイギリス人という設定。たしかに皮肉いっぱいの受け答え、ユーモアは英国人らしい。ベッドに入っておならをする癖は英国人らしいのかどうか。ストーカーの件で調べに来た警官が、「サンセット大通り」「キャッツ」「オペラ座の怪人」が彼の作品かと聞くと、すべてA・ロイド・ウェバーの作と答える。それはそれで凄い劇作家がいるものである。


この作品、とても好感である。人生を見つめる落ち着いた雰囲気は、やはりイギリス人を連れてきたほうが似合う。奥さん役に飄逸な感じがあってグッドである。全然好みではないが。


65 「21グラム」(D)
イニャリトウ監督である。例によって循環する物語の構造で、なぜ彼がそれに固執するのか分からないが、映画はそれなりに面白い。今回はベニチオ・デル・トロにショー・ペンがなぜ殺されるかが最後まで映画を引っ張る謎になっている。しかも、ショー・ペンは自ら銃で撃って瀕死の状態になるのである。デル・トロのなんとはまり役なことか。犯罪者で人生の落伍者、キリストに熱烈に帰依するが、自動車事故で二人の女の子とその父親を殺してしまったことから神を遠ざけることに。ショー・ペンが心臓移植される大學教授、交通事故で死んだ男の妻がナオミ・ワッツ。ペンはその男の心臓を貰ったことでワッツに近づき、関係する。「フローズンリバー」のメリッサ・レオがデル・トロの妻を演じている。人は死んで21グラム減るというが、それはハチドリの重さ、チョコレートバー一個の重さらしい。


アモーレス・ペロス」が99年の作、ポール・ハギスの「クラッシュ」が04年、循環するように見える「パルプフィクション」が94年。タランティーノの先見性に拍手を送りたい。


66 「アパートの鍵、貸します」(D)
何回目になるなるだろう、しかし今回ほどシャリー・マクレーンが美しく、可愛いと思ったことはない。彼女を見ているだけで映画が終わってしまう。


この映画は設定が奇抜で、しかしその奇抜さを奇抜としない中身がないと全編がもたない。そこで、彼の人間的な成長を最終目標にして、少しずつそこに向けて歩を進めていく。それをまた観客にそれと知らせずにやるという高等さである。


ジャック・レモンの演技が相変わらず細かすぎて、うるさい。これはこの映画を見るたびにそう思う。ただし、テニスラケットで茹でたスパゲティの湯を切り、バックハンドで器に移し、シュワッポンみたいな音と動作をするところはさすがである。


小ネタがいろいろあって、コメディはそれがないと成り立たない。彼の部屋を借りたいという人事部長にポケットから鍵を出そうとして、次から次と使ったティッシュが出てくる。その部長に言い訳をしようとしてつい手に力が入り、鼻薬の容器をぐっと握ってしまいピュッと液が部長に飛ぶ。彼の愛しているエレベータガール、これがマクレーンだが、彼女から貰った小さな花を胸に付け、デートの約束ができたときにその花にまたピュッと鼻薬をかける。マクレーンが上司の女として知ってやけ酒を飲むシーン、向かいの女がストローの紙をふっと吹いて彼のほうに飛ばすが、彼が気付かないので次々と吹き矢のように飛ばす。マクレーンが自殺するのを恐れてひげ剃りから刃を抜くが、それを忘れてヒゲを剃ろうとする。マクレーンの腕に医者が注射をしようとして「いい血管だ」と言うシーン。こういう小さなギャグが詰まった映画である。


ワイルダーは「サンセット大通り」でハリウッド批判、「失われた週末」ではアルコール依存症を扱っている。といっても、それほど過激とは思えないのだが、前者はハリウッドの大幹部を激怒させたと言われている。発表当時は不評だったが、いまや彼の代表作といわれるのが「地獄の英雄」で、これはマスコミ批判の映画らしい。ぼくは未見である。
娯楽映画に徹した監督といわれ、本人もその意識で映画を撮っていたわけだが、なかなか一筋縄ではいかない御仁である。
この映画だって、社員3万人を抱える大保険会社の“性”を媒介にした出世競争を描いたものと考えれば、社会性は十分である。


67 「デボラ・ウィンガーを探して」(D)
ロザンヌ・アークエット監督、この人、「グランブルー」に出ていた女優である。彼女が40代に差しかかって女優として、母として、どう生きるべきかを女優に尋ね歩く映画である。ぼくはデボラ・ウィンガーで思い出す映画はない。『愛と青春の旅立ち』に出ているらしい。きっぱりと女優稼業を辞して家庭に入った人らしい。


インタビューされる中の一人がシャーロット・ランプリングで、「これだけはと蔑ろにしないものを持つ」「人間は小さいから自分より大きなものを持つ」と深いことを言う。さすが、である。やはりお美しい。「ピアノレッスン」のホリー・ハンターは、「40代は体もいいし、演技も良くなる」といたってポジティブである。ジェーン・ホンダは49作に出演し、8回だけ思う存分の演技ができたと言っている。その作品を知りたいものだ。その至福の瞬間を描く彼女の様子が、やはり女優である。ぼくは「コールガール」で見た彼女が忘れられない。


68 「隠し砦の三悪人」(新文芸座)
農民2人が戦争に参加し、翻弄される話だが、あくまで欲得一点張りなので同情心は湧いてこない。哀れで、滑稽でさえある。彼らがそれなりに生き生きとしているのに比べ、逃げ延びる姫とその従者が定型から抜け出せない。姫は奔放な性格だが、それも定型であることは変わらない。三船の家臣はなおさらに。


その姫の短パン姿は歴史上ありえたことなのだろうか。町の雑踏を行く人間を見ても、誰もそんな姿の町衆はいない。これじゃ目立ってしょうがないだろう。さらに火祭りだか薪焼き祭りだかの踊りが暗黒舞踏風で、むかしの映画ってそういえばこういうワケのわからない振りの踊りをよく挿入したものだ。姫はこの祭りがいたく気に入ったと捕縛されたときに言うが、はからずも祭りの嘘臭さを糊塗したものと思われる。


三船が馬で敵方を追って殺す場面は細かいカットを重ねて迫力がある。敵将藤田進と槍の戦いをするが、あまり迫力がない。


最後がお白洲の場面で、まるで遠山の金さんみたいになるのがご愛敬である。甲冑姿の三船がまるでロボットのように、あるいは「オズの魔法使い」の臆病な案山子にも見える。


映画の白眉は、姫が女郎に売られた女を自藩の女だからと三船に買い戻させたところ、その女が彼らに付いてきて、敵の目をごまかせたことと、いよいよ四方八方を敵に囲まれたときにその女が敵中に飛び込んで、姫と三船を救おうとするところである。途中、女が一人で買い出しに行き、町で姫たちの素性を知って帰ってくるところの描写がおかしい。密告でもしたような顔つきをさせるのだが、余計な演出である。名もない女の献身的な働きを称揚するのは、いかにも黒澤だが、奉仕する相手が高貴な相手というのはいかがなものかである。


それにしても「隠し砦の三悪人」って誰のことか? 敵側から見れば確かにそうかもしれないが、それにしても農民2人が悪人とは思えない。視点が逆転したような妙な付け方である。いわゆる引っかけである。


69 「椿三十郎」(新文芸座)
脚本から橋本が抜けて、黒澤、小国、菊島となっている。橋本がいても変な脚本は出来上がるわけだから、この映画で取り立てていうことでもないが、やはり仲代達也が演じる室田は切れ者のはずが、あまりにも間抜けである。三船に惚れているとはいえ、あっちへこっちへと翻弄されるだけの愚者扱いである。それと、悪の3人組のうち藤原鎌足志村喬も悪事を働くには小者過ぎる。志村の目の下の隈取りはやり過ぎではないか。


この映画、森田芳光の演出でリメイクされているが、のんびり奥方と三十郎の関係は森田演出のほうがうまく撮れているように思う。冒頭の若者たちの滑稽な様子も、森田演出のほうが細かいように思う。ちなみに黒澤では奥方は入江たか子、森田では中村珠緒である。入江は伝説の美人女優だが、演技の下手さ加減をかなり手ひどく批判され続けた人で、途中から映画に出なくなり、戦後になってまた使われ出した人のようだ。


どこかで黒澤映画での音楽の扱いについて人の意見を引いて触れたが、少なくとも「隠し砦」とこの作では、いかにも上げ上げの扱いしかしていない。隣家に上代がいると分かって、若者蓮が一斉に浮き立つときの音楽など典型である。たしかラテン系の音楽が突然鳴り出し、急にこれではいけないと音無しで喜び合う。三十郎が風切って歩くと、音楽がそれを煽る、煽る。何が黒澤は微妙な音楽使いをしているものか。


だが、ぼくはこの映画を褒めたたえたい。エンタメに徹して、ユーモアもあって、そしてヒューマンであり(それを奥方が演じる)、十分楽しませてもらえる。とくに敵方の男を連れて逃げ、それが押し入れから出たり入ったりする趣向は見事である。こいつが訳知りなのがミソで、三十郎の性格から奥方の人間性の豊かさまで見事に言い当てる。千秋実の儲け役ではなかろうか。
それと冒頭の、床板を上げて若者連が顔を出すシーンも秀逸である。叔父の家に探りに行って若者連が三船にキンギョの糞のようにぞろぞろ付いて歩くシーンも笑ってしまう。
どうしても独立プロとして作品を売れるものにしなくてはならず、この映画と「用心棒」「天国と地獄」と見事、それを果たしたのだから、やはりすごい。木下恵介は撮りたい映画を撮るために収益の上がる映画を挟み、ちゃんと実績を残して好きなことをやったという。黒澤もそこに行けば良かったのではないか。「どですかでん」を撮ったらエンタメに行く、といったような反復運動である。


「隠し砦」で買い戻された女郎を演じていた女が、奥方のそば女を演じている。一度は逃亡を試みるが、三船の説得で守備の敵方を酒で酔わせる役へと戻る。それを指して三船は「お前たちよりよっぽど侍だ」と若者たちをからかう。ここにも黒澤のヒューマンな姿勢が脈打っている。死をも恐れず人に献身するとき、いちばんそのヒューマン度が光る。『生きる』の渡辺勘次がそうだったように。


深刻ぶった黒澤の中にかなりユーモアが豊かにあったことを明かす映画である。それがもしかしたら橋本が抜けた効用だとしたら……?


70 「地獄の英雄」(D)
ビリー・ワイルダーの問題作といわれる映画で、封切り当時は不評で、ようやくここに来て彼の代表作のように言われつつあるらしい。たしかに陰気な映画で、展開も乏しく、主演のカーク・ダグラスの演技が一本調子で映画をさらに単調なものにしている。小さな落盤事故をフレームアップし、全国ネタに仕立てていくわけだが、そこにそもそも無理がある。大新聞の介入を許さず、次期選挙に意欲満々の保安官を取り込んで報道管制を敷くわけだが、なぜ大新聞はその悪を書き立てないのか、それこそがマスコミの悪ではないか、という視点はまったく描かれない。やはりこの映画、凡作という当時の評価が合っているのでは。


71 「深夜の告白」(D)
ビリー・ワイルダーである。原題がDouble Idemnity で「倍額補償」の意味だそうである。ふつうにはありえない列車事故による死は、保険では倍額になるというのが犯罪の誘因なので、そういうタイトルらしい。idemnityには「同語、同書、同上、同前、同所」などの意味がある。素直に考えれば、+この映画は同一人物が同じ時間に別の所にいることで成り立っているので、そのことを指したと取れないだろうか。あるいは、惚れた女の二重性をも指していると?


共同執筆にチャンドラーが就いている。長年、脚本のコンビを組んできたチャールズ・ブランケットに不道徳な内容だと断られたための組み合わせである。チャンドラーは金目当てで映画会社と契約をしたわけだが、彼の小説は売れていなかったのだろうか。


腹に傷を負ったらしい男が深夜に保険会社のオフィスに戻り、ゴルフのクラブヘッドのような形のマイクに向かって録音を始めるのが最初のシーンである。ということは全編、彼の語りで進むということである。金持ちの女に心を奪われるが、保険金殺人を誘われ、あるトリックを思いつく。しかし、同僚のキーズ、これをエドワード・G・ロビンソンが演じている、彼の胃に棲まう“小さな男”が騒ぎ出すとき、事件の闇が次第に剥がされていく。この演技がいい。ぼくはマックイーンの『シンシナティ・キッド』で見慣れた人で、あの映画もこの人の演技でもっている部分が大きい。


主役は「アパートの鍵、貸します」でシャーリー・マクレーンの愛人を演じたフレッド・マクマーレン。非常に背の高い男である。初見で女の虜になり、2回目に殺人を誘われ、一度は断ったものの夜、自宅に女がやってくるともう荷担することを肯う。いわゆる“ファム・ファタール”である。女はどうも夫の前妻の死とも関連しているらしい。義理の娘ローザの恋人とも関係を結んでいるらしいことも、後半に分かってくる。つまり毒婦というわけである。


ややまだるっこしいところもあるが、最後まで飽きずに見ていることができる。すごいセリフだなと思うのは、殺人の偽装工作がすんで家に戻り、車の修理を頼んでいた人間に姿を見せ、これから腹が空いたので買い物に行く、と言って、しばらく歩いたときに「自分の足音が聞こえない。死者の歩みである」と語るところである。そこから話が展開して、保険詐欺を見破る天才キーズが犯人を別の人間に特定したとき、マクマーレンは「地に足が着いた」という言い方をするが、これには先のセリフが関連している。


いわゆるフィルム・ノワールの先駆けで、保険金殺人の走りで、撮影、音楽ものちの規範となったという。事件が終わったところから語り始める手法もよくマネされたらしい。ワイルダーは「サンセット大通り」でもそれを使っている。


72 「情婦」(D)
またワイルダーで57年の作、前に一度見ている。デートリッヒが二重結婚した相手がタイロン・パワーで、彼が金持ちの老婦人殺しかどうかが裁判で争われる。腕利きの法廷弁護人(barristerという)がチャールズ・ロートンという役者だが、目線がきょろきょろ動くのが気になる。心臓が悪く、病み上がりでこの裁判に関わることになるのだが、常に口うるさい看護婦が付き添う。これがエルザ・ランチェスターという人で、味がある。ロートン夫人だそうだ。アガサ・クリスティ原作だが、パワーが老婦人の遺産相続人書き換えの事実を知っていたというのは重大な問題で、それを頭からロートンが取り上げようとしないのはこの映画の最大の欠陥であろう。片眼鏡の反射光で相手の善悪を見抜くのが得意らしいが、それよりも杜撰な頭をしているほうが問題ではないか。


前にもこのブログで書いたが、デートリッヒが弁護士を罵るときに上げる「ダミョー、ダミョーDamm you!」の声が悪魔の声のようで、地の底から聞こえてくるようだ。映像は弁護士、声は左側の証言台から聞こえる。そこにカメラがパンすると、さらに「ダミョー」である。デートリッヒが名優であることがここで分かる。もう一つ、彼女が別人を演じて、右頬の上の引きつりアザを弁護士に見せるシーンの動きの良さ。あるいはドイツの町の場末のキャバレーでパワーと知り合ったときのシークエンスがいい。女が何かを探している。アコーディオンだという。男共の争いでどこかに紛れ込んだらしい。パワーが探そうとすると、足許でプワーと音がする。I think I found it.と言いながら足をどける。パワーはタバコとガムを差し出す。顔は下を向いていて、彼女がどっちを選んだか分からない。彼はライターに火を着けて差し出す。だが女の手にはガムが。ここで女の意外な一面を見せていて、これがあとの法廷場面での彼女の振る舞いの背景を説明している。家はどこだい、と訊くとnear by と言いながらすぐ隣のカーテン越しの楽屋兼住まいに入る。天井は屋根裏部屋のように傾斜し、壁を支える木も不安定になっている。男どもの憧れのような女がそんなわび住まいである。パワーはコーヒー缶やらチーズなどを次々とカバンから取り出す。二人は急速に心を寄せていく。パワーが低いベッドに仰向けに身を投げると、不安定な木組みがはずれ、ガタガタピシャン。煙が立って、また二人がキスをする。


ラストのどんでん返し、それも二重にやる。かなり作り物めいているので、そんなに面白い仕掛けではないが、当時は斬新で、すごいウケだったのではないだろうか。しかし、デートリッヒはこの時、56歳である。ありきたりだが妖艶である。