善意の人――森田芳光作品

kimgood2014-10-18

ぼくは知らない間に森田の映画を何本か見ている。振り返ってみたら、けっこう親しい友人だったと気がつくようなものだ。何を見てきたかというと、
  の・ようなもの(1981年)
  家族ゲーム(1983年)
  それから(1985年)
  キッチン(1989年)
  おいしい結婚(1991年)
  未来の想い出 Last Christmas(1992年)
  (ハル)(1996年)
  39 刑法第三十九条(1999年)
  阿修羅のごとく(2003年)
  間宮兄弟(2006年)
  サウスバウンド(2007年)
  椿三十郎(2007年)
  僕達急行 A列車で行こう(2012年)
「それから」「阿修羅のごとく」は脚本筒井ともみ、ほかは監督・脚本である。全体ではこの2倍はあって、「の・ようなもの」の後にポルノを2本撮っている(「(本)うわさのストリッパー」「ピンクカット 太く愛して長く愛して」)。映画が斜陽産業となってから監督業を始めたにしては、結構な数を撮っている。それがまず不思議である(ある程度の興行成績は残してきたということになるのだろうか。イーストウッドにしても、そこそこは客が入るので年に1本は撮らせてもらえているはずだ)。しかし、そのために「失楽園」などの作品も撮らざるをえなかったのだとしたら、本数が多いことが単純には勲章にはならないだろう。


劇場公開で見ているのは「家族ゲーム」「おいしい結婚」「サウスバウンド」「椿三十郎」「A列車で行こう」の5編である。中でも「家族ゲーム」は映画史上でも屈指の傑作であろう。彼の映画を意識的に見ようと思ったのはごく最近のことで、「キッチン」「(ハル)」「A列車で行こう」である。ぼくの感じでいえば、「それから」を撮りだしたあたりから、ちょっと縁遠い感じがし始め、しばらく敬遠をしていた。日本映画がダメになった理由は多々あろうが、こういった原作物に安易に寄りかかったのもその一因でないかと考える。では成瀬、溝口はどうなのかということだが、まだ映画界が盛んな頃は彼らもワン・オブ・ゼムでしかない。森田が映画を撮り始めた時代は、もう斜陽が明らかになった時代だ。森田の原作翻案ものには「キッチン」「失楽園」「阿修羅のごとく」などがあり、ぼくには森田はそういう映画を撮る人ではない、という思いがある(実際に見ると、イメージは違うのだが)。「の・ようなもの」や「家族ゲーム」の森田が本来の森田であって、しばらくぶりに見た「サウスバウンド」には心ときめくものがあった。60年代安保を未だに引きずっているというか、全身まだその熱の中で生きているような男が主人公で、そのはちゃめちゃぶりは爽快である。


これからぼくは森田映画とは何だったのか、それを語っていきたいが、すべての作品をそのつもりで見直すのはしんどい。時間があればやりたいが、その余裕がない。前に書いたものを集めるだけでお茶を濁すが、彼の作品には悪人が登場しないということと、もう一つコミュニケーション不全の問題がかなり大きなテーマとしてある。「家族ゲーム」で新鮮だったのは、はっきりとそれを映像化した点にあった。小津もしつこく追ったのは家族の崩壊だが、人々の関係が冷えたとはいえ、憎しみを含めてまだ繋がりがある(「東京物語」はしごく寂しい老親の孤立の映画だが、それでもまだ「家族」という幻想は残っている)。森田は、家族がバラバラであることに居直ったようなところがあった。関係が不全であることを越えようとすれば、食卓をめちゃめちゃにし、ガキを殴る家庭教師に象徴されるように、ある種暴力の介在が必要なまでに、我々は希薄スカスカの関係性の中で生きている。だから、森田映画では「暴力」がどこで噴出するかが、一つのカギなのである。その猛威を恐れると、善き人ばかりの映画に落ち着くというわけである。平穏であるということは、暴力的な世界を忘れているということではない。それをよけて作っているのである。
さらに、彼のユーモアのセンスを挙げておくべきだろう。それが全体を包むこともあれば(の・ようなもの)、一部分に発揮される(武士の会計簿)こともある。邦画では稀有な才能と言っていいのではないだろうか。<の・ようなもの>
森田監督の処女作である。金馬が得意とした「居酒屋」で、店の小僧が出せるものの名を挙げて、最後に「のようなもの」と付けたので、それをくれ、と注文する。そこから取ったタイトルである。この映画は2度見ている。落語家の卵の青春群像というところ。伊東克信という方言丸出しの、下手くそな俳優を使うところに森田の抜け目なさみたいなものを感じる。映画に感情移入させないのである。それはそれぞれのシークエンスにも通じていて、決して登場人物たちのコミュニケーションは深まらない。それにしても何も中身のない映画をよく撮れるものである。これは心からの褒め言葉である。


この映画の主人公は「しんとと」という芸名。好きになった高校生の家で落語を披露するも、下手だといわれて落胆し、終電もないのでテクテクと夜道を50キロくらい歩く。その間、目に入るもの、作り話などをまじえて落語語りで歩くシーンは、この映画の最良の部分である。話が転換するたびに「しんとと」と合いの手を入れるのが面白い。ラストの、音声を消して尾藤いさおの味のある歌でエンディングするのは気が利いている。寂れた、小さなビアガーデンに飾り付けられた提灯が風に揺れるのが、とても映画的である。<ハル>
ぼくはこの作品をタイトルからロボットを扱ったものと勘違いしていた。見ると、ハルはチャットのハンドルネームで、文字のやりとりで親交を深めていく男女を扱っている。黒に白い文字の画面が頻繁に出てくるが、まったく違和感がないのは、どうしてか。これがもしサイレントであれば、人はあえて見ることはしないだろう。しかし、要するに仕掛けは一緒なのである。


ハンドルネーム「ほし」が深津理絵、ハルが内野聖陽である。「ほし」は恋人を事故で亡くして、傷心の日々を盛岡で送っている。彼女をストーカーのように追う男から逃れるように、パン屋、コンパニオン、図書館員などの仕事に就く。彼女の本棚の中心には村上春樹が置かれている。ハルはラガーマンだが身体を壊し、会社では肩身が狭い。スーパーなどでトムヤンクンスープ缶を営業するのが仕事である。彼は失恋し、ネットで下ネタばかりを振ってくるローザと付き合うが、ローザは実は歯科医院に勤める女性で、身持ちは固い。あとで彼女が「ほし」の妹であることが判明し、少し上記2人には冷却期間が。それを乗り越えて、東京駅で顔を合わせるのがラストである。


例によって悪意の人は一人も出てこない。これが森田映画である。そして、映画的な仕掛け(この映画でいえばサイレントもどき)が必ずしてあるのも、彼の特徴である。<キッチン>
主人公はひょろひょろとした女の子で、不思議な生き物のよう。祖母の寄る花屋の店員が、祖母が亡くなったときに自分の家の一室を紹介してくれる。彼の母親はゲイで橋爪功が演じている。どういう訳かモダンで広壮な家に住んでいる。この商売は儲かるのか? 主人公2人の演技のまずさも、見ているうちに普通になっていくから、さすが森田である。だが、封切り後しばらく経って見ると、なんだかレトロで新しかったものが、ただのレトロになったような感じがある。主人公たちの持っている空気感がそう思わせるような気がするのだが……。<家族ゲーム>
これは森田芳光の傑作である。83年作、もうそんなに時が経ったのか、と思う。卵焼きの半熟焼きにこだわり、じゅるじゅる音をさせながら食べる父親の妙な生々しさは忘れられない。この「食べる=エロス」というテーマは、後年、映画を撮ることになる、この映画の主人公役の伊丹十三にも共通する。


冒頭のシーンは、受験期の中学生の次男が煮豆をごはん茶碗に埋め込むところから始まる。次は長男がめざしを食べるシーン。そして、先の父親の卵シーン、最後が母親のたくわんポリポリ。船の舳先に立って、まるでブルース・リーのように登場する家庭教師役の松田優作は、お茶でもコーヒーでも一気に喉を鳴らして飲み干すキャラクターである。ほかにも、せんべい、ケーキ、すき焼き、ワイン、豆乳(これも父親がストローでちゅるちゅると吸う。幼児性のアリュージョン)と飲食物が、まるで映画の一人物のように登場する。


細長いテーブルは、「最後の晩餐」をイメージしたというが、狭いマンションの一室で全員が揃った絵を撮ろうとすると、しぜんとこの構図になる。しかしそれを思いついたときの喜びは、ひとしおのものだったろうと思われる。さらに、勉強部屋での家庭教師と次男のやりとりを、下から透明ガラスで撮るところも、奇策でおもしろい。次男が教師に頬を張られて、机に突っ伏すシーンが何度があるが、それが全部、この透明ガラス越しに撮されるのである。言ってみればマンションの狭い一室でほとんどのシーンが終始するので、細かい演出と、いいセリフがないと映画がもたない。そういう意味では、この映画はよく練られた、熟練職人の映画とも言えるのである。


松田優作ホモセクシャルと見紛う男子少年への接し方。母親と長男の異様な親しさ。もとはフットボール選手だったという父親の事なかれ主義。家族崩壊をこれほど先見性をもって映像にした作家はいなかったのではないか。「逆噴射家族」なぞ、ただのお遊びである。


狭い横長の、肘が重なり合うテーブルという設定は、言葉遊びではないが、正面から向き合わない家族関係を表している。唯一例外は、戸川純扮するマンションの新住民が訪ねてきて、重篤の義父が死んだら、どうやって棺をあの狭いエレベーターで運ぶのか、と涙ながらに訴えるシーンである。彼女は、横にぴったり座るスタイルが苦手だといって、母親役の由起さおりの正面に椅子を移動させるのである。


この映画のラストのシーンが問題である。次男の受験が成功し、緊張から解かれてどこか弛緩した感じの昼下がり。子供2人は部屋で寝込んでいる。クラフトエイビングに余念のない母親も睡魔に襲われる。そのほとんど奇跡のようなのどかさを脅かすように、ずっとヘリコプターの音が鳴り続けている。ヘリを撮すこともなければ、戸外にカメラを向けることもしない。耳障りな音が彼ら家族を包むだけである。
これを何か外部の不安な情勢とか圧力の象徴だとしても、映画の流れから言って、違和感が立つのは当然である。あえて社会性をまとわなくても、十分に時代の匂いを表現し切れている映画である。それに、社会性をうんぬんする監督ではないはずだ、森田は。以後の作品でも、つぶさに検討してみないと分からないが、その種のことが彼の映画の主題として前面に出てきたことはなかったのではないか。


追記:
ぼくは「家族ゲーム」に川島雄三の「しとやかな獣」の影響はないか、と考える。室内劇だということと、それがためにカメラを壁をぶち抜いて設置するなどの工夫を施すなどのテクニカルなことばかりではなく、ラストの雰囲気が似通っているように思うのだ。今まで室内だけで終始していたものを、外部からの視線で終わらせるのが川島作品だが(風にはためくカーテンで内部が見えない!)、森田は外の爆音を室内から聞くかたちで終わらせるので視線は逆だが、何か社会的なメッセージのようなものを出そう、という雰囲気が似ている気がするのだ(川島が映画の中で爆音を響かせるのが何本かあるはずだ)。
川島について触れたブログから一文を抜き出しておく。


家族ゲーム」には台詞と役者という両方が揃っていたし、外部からやってくる3人の人間(主人公の松田優作、隣人と次男の幼な友達)には来室の必然性がある。次男が名門校に合格するという明確なゴールが設定されていることも、筋に発展性を持たせる大きな要素になっていた。それに次男の通う学校のシーンなど外部の映像を差し挟むことで、映画を外に解放できたことが大きい。夫婦は、深刻な話になると、家では狭いので外に駐車してある車のなかで会話をするという、部屋から擬似部屋への移動という皮肉な設定も利いている。<未来の思い出>
職人森田にしてこれほどの駄作を撮るのかという映画である。何か裏事情がありそうな出来である。<間宮兄弟>
間宮兄弟」はもてない2人の兄弟が自足しながら生きている様を淡々と描いた映画だが、森田映画にあるディスコミュニケーションというテーマから熱量を奪った果ての、ほとんどユートピアのような世界を描いている。ここまで退行していいのか、と見ているこっちが苛立ってくるほど、この聖人のような兄弟に監督は無批判である。森田は主人公に皮肉な視点を差し挟むことのできないタイプの監督なのかもしれない。間宮兄弟が正常な位置からズレることで聖域を保っているとすれば、沢尻えりかとその妹の存在は、ごくノーマルな人間関係を表していて、ぼくはもちろんこっちのほうが健康的だと考える。<サウスバウンド>
森田の最新作「サウスバウンド」、ぼくは泣き通しだった。いろいろ不満はあるが、森田がいまなぜこんなアナクロの映画を撮ったのか、そのことの意味を考えさせられた。反権力で突き抜けたイッちゃってる父親と母親、それに翻弄されながら次第に親以上に大人びていく子どもたち、正義を貫くひとになろうね、という根太いメッセージ。人間関係のディスコミュニケーションが、社会とのディスコミュニケーションにまで延引したと考えることができる。快作、あるいは怪作と呼びたい映画である。「家族ゲーム」で鳴っていたヘリの爆音という通奏低音がやっと表で鳴ったような、そんな描き方を見つけた映画、ということになるだろうか。それと、森田の映画テクニックの多彩さに見とれる映画でもある。この監督、やはりただものではない。<椿三十郎>
今日封切りの森田最新作「椿三十郎」を見た。黒澤作品との比較をしたいのだが、映画を見たあとレンタルを借りに行ったら貸出中。かならずこういう輩がいるから不思議である。リメイクを見ないで元版を見る輩が。ぼくは小学生のときに封切りで見たあと、2、3度見ただけで、ここ最近はご無沙汰ということもあって、あまり旧作の内容に自信がない。それを前提に話を進めていく。
織田裕二が主演で、これは文句なくいい。声の出し方、しゃべり方に三船が乗り移ったかと思われるような瞬間が何度もあった。体の動きもいい。ぼくは「湾岸警察」という人気シリーズから彼が抜け、いったい何をするつもりなのかと思っていたら、「県庁の星」に出て、それがなかなかの佳作だったので、彼を見直したものである。しかし、演技の質は「湾岸」と大同小異のものであった。それが、「椿」では過不足のない演技で、とても好ましいものであった。


藩政改革を画策する9人の若者を剽軽な一団としたり、そのなかの2人が今風の若者の顔つきで、それも双子のように似ているので、映画が軽くなったのはそもそも森田の狙いだが、成功しているとは言えない。映画に緊迫感がなくなったことで、展開がまどるっこしくなったからである。そこに、のんびりした平和主義者の奥方とその娘がからまるから、よけいにスピードが殺されてしまう。このあたりが黒澤映画ではどうだったのか、そこが知りたいのである。


ワルの3人組に仕えるのが豊川悦史で、「サウスバウンド」と同じしゃべり方なのには笑ってしまった。この人、もともとこんなしゃべり方なのかしら。ほとんど喉を使わない、重みのない発声法で、どちらかというと映画向きではないのではないか。それにしても、味のある役者さんで、もそっとしっとりした役柄のときを見てみたい。


映画は最初っからバリバリの時代劇で、タイトルが太鼓の音に合わせてスクリーンいっぱいに打ち出されたときには、胸がドキドキしてしまった。この調子、この調子と思ったのも、すぐに若者集団の素人まがいの演技で興醒めに。誰かが何かを言うと、一斉に体を寄せたり、頷いたり、まるで子供の集まりである。野武士のような三十郎との違いを見せつける演出かもしれないが、それにしても青過ぎる。


できたら織田と豊川で何か現代物、それこそ軽いタッチの刑事物かなにか撮ってくれないものか。ねえ、森田さん。<A列車で行こう>
森田芳光監督、最後の作品である。いつもながら楽しませていただきました。そして、いつもながら善人だけの映画でした。鉄道好きの人々が中心で、九州左遷といわれても、現地の鉄道に触れられると喜ぶのが主人公(松山ケニチ)で、まるで釣りバカ日誌である。その友人が、鉄工所の息子瑛太である。父親が笹野高史、松山の勤める不動産会社社長が松阪慶子、専務が西岡紱馬、福岡の工場経営者がピエール滝、農場保有者が伊武雅刀。登場人物の名がすべて電車の名にちなんでいるのも趣向の一つか。


後半はビジネス絡みの話になるが、それもいつもの調子で淡々と進んでいき、変な成功譚にしないところが偉い。森田監督の映画は、見て気分が爽快になる効能がある。ぼくは監督の陽性な部分がきっと好きなのだと思う。<失楽園>
森田芳光追悼特集である。取り立てて言うこともないが、きっと森田は次の映画が撮りたくて、この映画の監督を引き受けたのではないか。最初にごうごうと落ちる滝を撮すなんて、なんと恥ずかしいことよ! それでも、ピンク映画ではなく、一般公開でやれるとこまでやろうとする姿勢は感じられる。それが救いである。


大手出版社の雑誌編集長から調査部に回された男(講談社の社内が撮される)と、医者の妻で書道の先生(カルチャーセンターで教える)が出会って、倫ならぬ恋に落ちていく話。50歳と38歳という設定である。ぼくにはこの2人が情死にまで至る理由が分からない。というのは、少なくともこの2人には下界との葛藤がきわめて少ないからである。止むに止まれず死に至る、そのプレッシャーが薄いのである。<それから>
これは森田の失敗作ということになっている? ぼくは食わず嫌いで見ていなかった映画だが、明治という時代の情緒をおもちゃのように扱った楽しさが伝わってくる。主人公代助って、こんなに金持ちだったか。彼を我々と同時代の人間ととらえるのは無理がある。高等遊民漱石は言ったが、下等遊民なら現代でもごろごろいる。お爺さん役の笠知衆と間合い10センチぐらいで話をするシーンには笑ってしまった。あと、小津的に顔の正面を交互に撮すパロディも面白かった。静止画像で雨だけが油のように粘っこく動く映像は、清順へのオマージュか。藤谷美和子という人はいつも脱力系で、演技の幅のない人である。可憐ではあるが。小林薫がわざと平板で、大きな声で喋るのも、明治なのかどうか。森田先生、好き放題にやりましたね。映画は、制約がないと、なかなかいいものが撮れないというのは真理ではないか。<39刑法三十九条>
いわゆる心神耗弱規定を扱った映画で、その規定を知り尽くした男がある計画犯罪を犯す、という設定である。森田芳光監督である。主役が堤真一で多重人格を装う。鈴木京香精神科医、その恩師に当たるのが杉浦直樹、被告人弁護士が樹木希林、検察官が江守徹、検察上層部が岸辺一紱である。この布陣はなかなかのものだが、ベテラン役者の演技が過剰である。樹木希林はぼそぼそと声が聞こえない、江守が酔っぱらったような話し方を通す、岸辺はニヤニヤとガムを噛み続ける。何ですかね、これ。森田は役者が揃って満足のようだが、もっとコントロールすべきではないのか。映画評で「ベテラン陣の抑えた演技」などと触れているのがあるが、ほとんど何も見ていないのと同じである。
鈴木が堤の郷里に調べに行って、砂浜で幼少時の虐待の証拠を見つけるというのは、いくら何でもである。森田は、映画的に許される、と言うが、うなばかな、である。<武士の家計簿>
テレビの録画で見たが、まるでテレビのような平板な色で、ナレーションで運ぶ構成自体もNHKの大河ドラマを見ているような味わいである。森田はここまで創作意欲が落ちていたのかと愕然とするものがある。唯一、草笛光子が「塵劫記」を読んで算数問題を解くところだけは愉快な感じがあった。中村雅俊の演技の下手なこと! あの妖艶だった松坂慶子がでっぷりと太った様子! 正視に堪えない。