2008年10月以降の映画

kimgood2008-10-12

*「網走番外地 悪への挑戦」(D)
シリーズ9作目、舞台は九州博多。67年の作で、石井輝男監督。健さんのふるさとである。この映画、タイトルからして矛盾がある。網走帰りのヤクザが正義を名乗るのである。しかし、そこは健さんだから、みんな大目に見るのである。
悪ガキを預かる保護司のもとに鬼寅の親分(嵐寛寿郎)がいて、そこに健さんが身を寄せる。まるで教育者のまなざしで若者たちに健さんが接するのを見ると、禍々しいイメージで始まったこのシリーズもそろそろ命運が尽きるのではないか、と思わせられる(そのあとも10本近く撮っているが)。健さん、ロマンチックという言葉を聞いて、英語? フランス語? と言うのには笑ってしまう。小津が52年作の「お茶漬けの味」で佐分利信にプリミティブとかインティメイトという言葉を使わせていることを考えれば、いかに小津がハイブラウを狙っていたかがわかる。決して庶民の映画ではなかったのである。ぼくは健さんのほうが日本の庶民の感覚に近かったのではないかと思う。
健さんは表情も細かい演技があって、そこそこやっていたことが分かる。嵐寛寿郎が相変わらず渋い。谷隼人前田吟、小林念侍などみな若い。川津祐介が自分のあこぎな親分に反旗を翻す役で、なかなか貫禄もあり、切れ味もある。



*「ディア・ピヨンヤン」(D)
朝鮮総連幹部だった父親を撮ったドキュメントである。ヤン・ヨンヒ監督、05年。何ということもないが、娘に朝鮮人以外との結婚を認めない父親が、次第に軟化し、フランス人と結婚するのはいいと言い出すところなど面白かった。アメリカのイラク派兵に反対したからだ、というのが理由である。それと、北朝鮮に帰国した3人の息子を訪ねるシーンで、自分の70歳の祝いを子供たちが開いてくれるが、その費用は父親持ちというところも印象に残る。音楽学校に通う長男の息子が部屋でピアノを弾くシーンは、こんなことが北朝鮮の子供にも赦されているのか、とある種の驚きがあった。


*「ダブリンの街角で」(D)
主人公も、それから彼が好きになる人妻も、実際の歌手であるらしい。グレン・ハンザードがチェコでマルケタ・イグロヴァを見つけ、ペアを組んだ。2人にはアルバムがあるらしい。2006年の作、監督ジョー・カーニー。
ぼくはサントラを先に聴いていたので、何だか音楽ビデオを見ているような気分になった。2人で歌うIf you want me はすごくいい曲である。



*「次郎長三国志」(T)
マキノ雅彦監督の2作目である。1作目は下ネタ映画なので見ていない。マキノ雅弘の同名映画のリメイクなのか、元を知らないので何とも言えないが、この映画はいただけない。次郎長一家の面々が魅力がない。期待した森の石松温水洋一がやっていて、まったく威勢が良くない。話もまとまりがなく、何を撮ろうとしているのか、さっぱりである。妻のおちょうが死ぬシーンが無闇に長い。ライバル黒駒の勝蔵との決戦もない(史実としてもないのかよく分からない。黒駒が知的なインテリに設定されている)。
同監督で「旭山動物園」が3作目だが、まるで見る気がしない。
福田和也週刊新潮マキノ雅彦映画の3作をべた褒めしていた。これだけでも日本映画はもつ、とのご託宣である。ぼくは「次郎長」しか見ていないので何とも言えないが、この作品のどこを評価するのか聞いてみたいものである。金返せ、の映画である。


*「お茶漬けの味」(D)
小津の項に譲る。


*「ウエルカム・トゥ・コリンウッド」(T)
ソダーバーグとジョージ・クルーニーが作った制作会社セクション・エイトの第一作だそうだ。02年の作。コーエン映画の真似っこみたいな作品で、間抜けな泥棒仲間がけっきょくは間抜けな仕事をしてしまうというものである。出だしから小品の作りで、ラストもこの映像を使うな、と思ったら案の定。それなりのウィットも効いているが、ただそれだけ。鳴り物入りでないところが好感が持てるが。


*「ブラックサイト」(T)
ダイアン・レインが主演のホラー物である。グレゴッリー・ホブリット監督。06年の作。人を殺すところをネットで公開し、アクセス数に応じて死の遅速が決まる、という不気味な仕掛けがすごい。その殺し方も驚異である。最後まで肩の力が抜けない。といっても、中心にあるのは父親の復讐劇という古くさいものである。デジタル世界と古い怨念の世界を結びつけたのが妙手である。
ダイアン・レインは新作も来ているが、この人でアメリカで観客が入っているのか、それが不思議である。ひところスクリーンから遠ざかっていたのはなぜなのか。


*「明治侠客伝 三代目襲名」(D)
加藤泰監督、65年作。鶴田浩次主演、脇が津川雅彦大木実藤純子、安部徹、藤山寛美。鶴田の精悍で、実直そうな様子が、この作品を清潔な感じにしている。脂の乗りきった感じがする。それと、津川にも清潔感がある。藤山寛美がさすがという演技で、これも清々しい。
話はやくざ映画の定型だが、それぞれの人物、とくに善人側の造形がくっきりしていて、気持ちいい。意外なのは、津川が酌婦と濃厚なキスシーンを展開したかと思うと、鶴田と藤がキスをするなど、変わった映像があることである。ほかのやくざ映画でこんなことってあったろうか。
藤純子はぽっちゃり感があって、手などもふっくろしている。でも全体にきびきびした動きで、好感である。この人はやはり美しい。
63年に佐伯清監督で「日本侠客伝」というのがあるが、やくざ映画としては早いほうかもしれない。この作品は65年である。
この道の専門家と目された笠松和夫は徹底的にやくざ世界のことを調べて脚本を書いたという。別にやくざが好きだったわけではなく、仕事でやったのだが、何に対しても手を抜かない、一片の真実でも盛り込みたいというプロ根性がなせるワザである。


加藤泰といえばローアングルだそうで、それはしつこいほど随所で発揮されている。それと対照的に、群衆を真上から撮る映像もある。ローアングルを違和感なく見ていられるのはどうしてなのか。


これは余談だが、黒澤が「トラ!トラ!トラ!」を珍しく京都のスタジオで撮っていたときに、環境が違う、スタッフが違う、ハリウッドとうまくいかない、というので神経衰弱に陥るが、彼のそばでやくざ映画を撮っているのを、蛇蝎のごとく毛嫌いしていたという。「最初から売れる映画を撮るのは観客に失礼だ」といって、黒澤プロ第一作として「悪い奴ほどよく眠る」を撮った黒澤にすれば、全編、日本の既成の情念に寄りかかったようなやくざ映画には反吐が出る思いであったろう。しかし、政治家の汚職を扱ったからと言って、高尚な映画になる、というのは低次元の話である。実際、この黒澤作品は面白くないし、話に無理がある。


加藤泰のこの作品を見る限り、観客に阿っている印象はない。娯楽に徹しよう、ただそれだけである。黒澤先生の意図とそう遠いところにいるとも思えない。とくに警察に引っ立てられる鶴田に藤がすがりついて離れないラストなどは、やくざ映画としても異例である。どんどん男だけの閉じられた世界へと向かったやくざ映画も、当初はこれだけ女性のウェートが高かったのである。ぼくの好きな「侠骨一代」なども藤の演技が光る。


*「幕末残酷物語」(D)
これも加藤泰監督である。1964年作。テロリスト集団・新撰組の欺瞞を徹底的に描いた作品で、なんだ、もうずっと以前に新撰組の化けの皮は剥がされ、テロリスト集団の生理も描かれていたのね、である。恐るべし、加藤泰である。
大川橋蔵の主演100本目の映画らしいが、彼だけがミスキャストではないかと思える。リアリズムの映画に橋蔵の演技は浮いている。見ているあいだずっと違和感が消えない。
新撰組は、脱組者、違反者を許さず次々粛正していくが、その長である近藤勇は4人の妾を持ち、組の金を流用している。それが露見すると、勘定役の男に罪を着せて、部下に斬り殺させる。そもそも近藤、土方などの幹部連はもとの幹部連を殺めることで権力を手中にした奴らばかりで、組長芹沢鴨は娼婦と寝込みのところを襲われる。その甥が橋蔵で復讐のために新撰組に潜入したという設定である。
壬生の新撰組宿舎に働くのが藤純子で、橋蔵と恋仲になるのを誰も咎めたり、止めたりしないのはなぜなのか、分からない。それと人斬りを見ると反吐を戻していた橋蔵が、突然自分から申し出て、違反者を斬り殺す役につく変異が不自然である。
いくつか気になるところはあるが、この映画、傑作である。
加藤泰のBOXを買おうか、迷っている。


*「アイアンマン」(T)
これは面白い。エバンゲリオンはじめロボットのなかに人間が入って操作する、日本お得意の分野があるが、それだと思えば間違いはない。こけ脅しのシーンが一切なく、実にきちんと作られていて、間然としたところがない。
ジェフ・ブリッジズが禿頭の悪役を演じている。体も肥満して、「ラストショー」ぐらいしか記憶になかったので、はじめ彼だとは信じられなかった。
最後におまけまで付いているが、エンドロールが延々と続く割りに、ちょっとだけのおまけ。サミュエル・ジャクソンが顔を出す。ぼくは続編もきっと見るだろうと思う。


*「みなさん、さようなら」(D)
近所のツタヤが洋物コーナーがどんどん狭まって、韓流だとかアメリカ連続テレビ物などが幅を利かせるようになった。劇場の洋画不振が影響しているのだと思う。時流物がダメなら、昔のいい作品をごそっと揃えればいいものを、そうもしない。映画好きにすれば、苦難の時代がやってこようとしている。やはりネットレンタルか、と思う。でもラインナップそのものが貧弱なのだから、ネットでも事はそう変わらない。

閑話休題。探しに探してやっと借りたのが「ブエノスアイレスの夜」、30分でギブアップ。異常性欲の女の話をえんえんと見る気にはなれない。「モーターバイク・ダイアリー」の青年がモデル兼娼年の役で出ている。


次に見たのが、カナダの監督の映画「みなさん、さようなら」で、原題は「蛮族の侵入」らしい。監督ドゥニ・アルカン。03年作。カナダ・ケベックの映画でフランス語である。特典映像の監督インタビューから、そのタイトルであることが分かる。
同じ役者、同じ配役で「アメリカ帝国の滅亡」というのを、この映画の18年前に撮っているらしい。いわくありげな監督である。
末期ガンにかかった元大学の歴史の先生が友と家族に囲まれて死に行くまでの様子を描いたものだが、9.11、文革批判や、日本と同じくカナダでも進む市場化・民営化の様子なども織り込まれ、一筋縄ではいかない感じが随所に見て取れる。
ロンドンの証券会社に勤める長男が金にあかせて病室をあつらえたり、痛み止めのヘロインを買ったり、父親の教え子を見舞いのバイトに雇ったり、至れり尽くせりのことをするが、なかなか父親との和解が難しい。早くに母親と離婚し、女遍歴を重ねてきた父親が許せない。父親は資本主義の手先になった息子のことが気にくわない。
最後は、血管に薬を注入して、安楽死を選ぶ。その前に太平洋上をヨットで航海する次女からネットの映像が届き、父親が初恋の人だった、などと感涙のセリフを言う。


周りを囲む友達はゲイだったり、昔の恋人だったり多彩だが、予定調和的な雰囲気があるのも確かである。憎たらしいほど勝手に生きて、いまなおわがままを押し通そうとする男の死を、何があってもやさしく見守ろうとするのが決まっているだけに、破綻が起きようがない。そういう映画である。
長男の幼なじみの女性が痲薬中毒で、彼女のツテでヘロインを入手するのだが、彼女の母は死にゆく男の恋人だったことがあり、今も死に際に駆けつけている友達の一人である。
友人の別荘で最後を迎えるのだが、みんなで自分がイカれた主義をなぞる場面が面白い。実存主義に始まって社会主義、毛イズムなどと進むのだが、ソルジェニツインで構造主義となるのは、意味が分からなかった。何かの間違いでは、と思うのだが。


男が亡くなって、彼の住んでいた家に長男の幼なじみが住むことになる。書棚を眺めると、そこにあるのはプリモ・レービィ「アウシュビッツは終わらない」ソルジェニツイン「収容所列島」E・Mシオラン「歴史とユートピア」が並んでいる。死んだ男とはそういう男だったのである。


主題の「蛮族」は、9.11でアメリカ帝国は蛮族に直接暴力を仕掛けられる国になった、というところから来ているが、一方、株の上下や会社のM&Aに明け暮れる息子を“蛮族”とからかったりするところから見ても、アメリカ人をも指している。途中、息子の口利きでアメリカの病院に移送される話もあったが、男は「イスラム人を殺す国に行けるか」みたいなことを言って頑強に拒む。


なんとまあ、カナダとはゴツゴツとした人びとが生きている国だろうと思う。神学論争をするナースもいれば、病室に出入りするキリスト教関係の女性も人間性が深い。単純で、出来すぎた話をそういう人びとの厚みで支え、しかも政治批判や社会批判をまともに織り込んで展開したのが、成功の秘密だろうと思う。この映画、皮肉なことにアメリカで外国語映画賞でオスカーを貰っている。


不思議なのは、なぜ「ブエノスアイレスの夜」のように30分も見ていられない映画があるのか、ということである。まったく筋やプロットがなっていないとか、撮り方が下手だというなら分かるが、「ブエノス」だとか「ピアニスト」はそういう映画ではない。考えるに、ぼくは“異常”を装う映画が嫌いなのだ。異常なことは普通に描写してこそ凄みが出るのに、最初からエキセントリックにやられると引いてしまうのだ。ぼくが速攻ギブアアップするのは、そういうわざとらしい映画である。


*「座頭市 二段斬り」(D)
10作目で井上昭監督。65年の作。3作目だか4作目で剣の師匠を殺し、それまでに実の兄を殺し、ほとんど双生児と思える剣客を殺し、とうとう魔道に踏み込んだ座頭市が、今度は按摩の師匠を殺されて、その復讐に立ち上がる。この10作目は集中、いちばんの出来だろうと思う。
というのは按摩・市の弱さと強さがバランスよく配置されていて、その流れに引き込まれるように映画のなかに入っていけるからである。

冒頭のシーン、荷馬車に上向きに乗る市、お天道様を仰ぎながらおにぎりを頬張る。調子に乗って、1つ手からこぼしてしまい、足のあいだに止めた半欠けのおにぎりを口に入れながら、「こんなことなら、さっさと食べちゃえば良かった」と言う。すでにしてここでめくら(当時の慣用語)の弱点が点描されている。
次に小さな木橋を渡るシーン、おっかなびっくり渡るのを草陰から覗く2人の侍。市に賞金がかかっているので、隙あらばと思っている。その木橋の渡り方を見て侮り、殺しを仕掛けるが、一閃あざやかに斬り殺す。いよいよ市の本領が顔を出す。
師匠が殺され、その娘が女郎にされていると知り、娼館に上がろうとする。口入れが、その娘は今夜いっぱい特定の客に買われていると嘘をつく。市は賄賂を口入れに渡してあったのだが、それを返せ、と言う。このへんのシワイ感じが市らしい。口入れは腹立ちまぎれに地面に銭を叩きつける。市の足の甲に乗っかったそれを、市がポンと弾いて、掌に載せる。市の底知れぬ能力が次々と明らかになる段取りであるこの一連の流れが何とも言えず味わい深い。


 主人公が按摩ということで、いろいろな効果が見込める。
 ①呼ばれればどこでも出入りできる
 ②目が見えないので相手が安心する
 ③障害を持ちながらスーパーマンなので意外性が強い
 座頭市の魅力はほとんど③に尽きる。事情があって人を斬られずにいられない苦さが、全編のテーマになっていることは断るまでもない。言い忘れたが、幼い小林幸子が出ているのはお宝ものかもしれない。


*「座頭市逆手斬り」(D)
11作目、監督森一生。65年作。人気シリーズを監督を変えて撮る理由は何なのか。ほかに撮っていて都合がつかないからピンチヒッターということもあろうし、若手監督に自信をつけさせる意味もあるかもしれない。本当のところを調べたいものだが……。このシリーズは三隅研治、田中徳三、安田公義、池広一夫あたりが撮っている。


この作品は前作と比べ格段に落ちる。ゲストが藤山寛美だが、多少芝居臭さがある。前作で三木のり平の芸達者ぶりを見た人間としては物足りない感じがぬぐえない。全体に映像が白茶けているのはどうしてなのか。


笠間生まれの市が初めて銚子で海に出会う。言ってみればそれがテーマみたいな映画である。


*「車夫遊俠伝 喧嘩辰」(D)
加藤泰監督で64年の作。内田良平が主役とは変わっている。東京から大阪にやってきた車夫の話であるが、荒唐無稽に過ぎて見ているのがつらい。桜町弘子がヒロイン、その芸者で妹分が藤純子曽我廼家明蝶が親分、大木実が悪党。内田が大木との決闘へ急ぐ場面、にぎりめしを手にしながら桜町を抱きしめるのには笑ってしまう。
やけにクローズアップを多用するが、話がそのたびにとぎれる違和感がある。小津は正面を写しながら必ず何かひと言喋らせていたように思うのだが。
不思議な映像が一箇所、あぐらをかく親分曽我廼家をぐるっとカメラが回って撮るのである。これはひところ嫌と言うほど流行ったハリウッド方式だが、それを40年以上も前にやっていたとは!


*「弥太郎傘」(D)
マキノ雅弘監督、主演中村錦之介、脇が桜町弘子、藤田進、大河内傳次郎田中春男、東千代介などなど。60年の作で、ほなお監督も同題で撮っている。けっこう最後まで見ていられる映画である。それはきっと錦之介のせいだろうと思う。思い決めたときのセリフ回し、さらっと語るときのやくざな感じ、それぞれに味がある。この人が現代劇に生き延びたのもよく分かる。
東千代介が関東見回り役だが、親友の弥太郎のために一肌脱ぐのだが、それが何の策もないやり方で、それがきっかけで善人親分一家の凋落が始まる。弥太郎は自戒し、周りも弥太郎悪しとなるのだが、ひとえに千代介の事の捌きが拙かったわけで、ここらへんがよく分からない。


橋蔵の「幕末残酷物語」とこの錦之介の「弥太郎傘」を見ていて思うのは、すでに監督たちの意識は先に行っているのに観客が付いて来れないためにスターを立てて仲介してもらっている、という気がする。大スターがいて成り立っている、というふうに見えないのだ。
撮り方は、実に現代でも通じるのだ。監督達が意識していたかどうか分からないが、早晩、日本で真っ当なチャンバラものは撮れなくなったと思われる。すぐに「股旅」「紋次郎」のような、スターが要らない映画が登場してくる。


*「闇の子供たち」(T)
タイにおける幼児売春と臓器売買を扱ったもので、映画の出来も、筋立ても凡庸で言うことはないが、とても苦い映画である。熱血の新聞記者が少年を買った過去があった、という設定は無理はないか。彼の部屋の壁に布きれがかかり、それを取ると鏡を除いて一面幼児売春の摘発記事ばかり張られている、というのも、猟奇殺人映画でよく見かける絵柄で、なんでこの映画で? と違和感がある。
それにしても、子供にむごいことをするものである。


*「イーグルアイ」(T)
スピルバーグ制作である。「ディスタービア」に出ていた子がまた主役である。いとこの小さかった頃の顔、髪型なので親近感がある。シャィア・ラブーフという役者である。監督D・Jカルーソ。カーチェイスには度肝を抜かれる。といってもCGと分かれば感興も薄まる。ひたすらノンストップ映像だが、既視感が抜けない。大団円にいたって巨大人工知能の暴走とわかって、なんだである。はるか昔に手塚先生がなさっておられる世界である。仕掛けはすごいが、思想が古い、というのが安定して客を呼ぶ秘訣なのか。


*ICHI(T)
ハリウッドの興行収入の6割は海外で上げるのだそうだ。その海外で売れなくなって、しかも上顧客の日本での落ち込みが大きいので、巨大メジャーの日本支店がジャパニーズ・シネマに資金提供始めている──という記事が新聞に載っていた。このICHIもワーナーが絡んでいる。

「ピンポン」を撮った曽利文彦監督作で、これはかなりイケています。主演が可憐な綾瀬はるか、それがボロをまとって離れ瞽女を演じるのである。しかも「何を斬るか分からないよ、だって見えないんだから」のセリフもいい。座頭市をここまで翻案するのかと嬉しくなった。脚本は浅野妙子。テレビ畑のようだ。

市が門付けに三味を弾くのも新鮮だった。雪の荒野を行く冒頭のシーンで、訳の分からない言葉で主題歌が流れるに及んで、まったく映像世界に没入してしまった。音楽はリサ・ジェルダ、オーストラリア出身で「MI-Ⅱ」「アリ」「インサイダー」「グラディエーター」などに楽曲を提供している。こういうところにワーナー制作の影響が出ているのかもしれない。


市に思いを寄せるのが、剣の達人でありながら剣を抜けない男。それを、大沢たかおが演じている。これも好感である。男が真剣を抜けないのは、小さい頃に剣の修行中に刃が折れ飛んで、母を失明させたトラウマがあるからである。市と木の枝をもって戦えば勝つほどの腕前だが、それでは藩道場のあとは継げないというので父親は養子をとり、彼は修行のために旅に出たという次第。
ある宿場町、そこを仕切るヤクザと、それを脅す浪人一味。大沢たかおは前者の若親分窪塚洋介に世話になり、剣の達人ということで歓待を受ける。後者の親分が中村獅童で、「ピンポン」と同じ組み合わせである。
悪党どもがどれも汚い大声を上げたり、窪塚も抑揚のない下品なしゃべり方をするのは、あまり気分がいいものではない。よけいに市と大沢の品の良さが引き立つのだが。
大沢が釣りをするシーンで、引いたのをバラすのだが、竿が最初から立っていたり、魚が逃げたあとに大げさに竿を振るなど、魚釣りをやったことのない人だとすぐに分かる稚拙さはあるが、それは愛嬌みたいなもの。
綾瀬はるかに主題を2どほど口にさせるなど、饒舌に過ぎる。せっかく面白く描いたのだから、せめて1回でやめてほしかった。


風すさぶ宿場の中央通りで両者が顔を揃えるシーンは、黒澤『用心棒』への完全なオマージュ。


この作品、座頭市フアンのバルデュースに見せたかったものである。少女しか書かない彼は狂喜したのではないか。


次回作が楽しみである(戦闘で死んだ大沢の太刀を彼の故郷へ持ち帰る、という設定になっているので、きっと2作目あり)。


*「日本の夜と霧」(D)
言わずと知れた大島映画である。60年作。結婚披露宴の一室で繰り広がれる60年安保闘争総括の映画である。共産党指導の誤謬を突いたものだが、ぼくにはまるで60年安保世代と68年安保世代の総括のように見え、この映画で戦っている2つの世代の区別がうまくできなかった、と白状しておこう。
新旧世代に共通するのは、仲間を見殺しにしたのではないか、という疑惑、悔いである。新世代は旧世代を共産党指導で動き、権威や権力に阿ねって、大衆に向かわなかったと批判する。
党指導の欺瞞性、その破廉恥な非人間性がきっちり描かれている。そして、すべてが予定調和的に収束していくことの空しさみたいなものも、もちろん描かれている。この1作を見れば、安保を巡って交わされた当時の議論のおおよそは分かるのではないか。ラストは、党の非人間性を体現した中山が朗々と無意味な平和革命論をぶち続け、そこに音楽をかぶせていくことで終わる。迫力のある終わり方である。


一室に場を限定し、光を落とすとそのまま人物の立ち位置で昔の状況を映し出すことになる仕掛けは、演劇的で面白い。展開の多様性は、過去のシーンをはさむことで難なく達成している。この映画で感じるのは、意外なことに大島監督の映画技法の豊かさである。


芥川比呂志渡辺文雄戸浦六宏佐藤慶、小川明子、桑野みゆき津川雅彦など。ここでセリフをトチらないのは芥川と桑野だけ。ほかの出演人はみんなトチりがひどい。わざと直させないわけだが、いまととなれば聞きづらいだけだ。


*「へそくり社長」(D)
56年の作で、記念すべき大ヒットシリーズの第1作である。千葉泰樹監督。シリーズは33本も続き、データを見ると必ず正続の2本ずつの放映だったらしい(実際には1回で撮ったらしい)。ゆえにこの映画も最後に「第一部 完」と出る。
モノクロで、大ヒットシリーズとなったとは思えない静かな出だしの作品である。三木のり平がほとんどちょい役みたいな出で、DVDでの息子(役者)の解説ではまさに飛び入りだったらしい。ラストに森繁社長が得意のどじょう掬いを踊るのだが、勝手が分からず、撮影所の隣で撮影していた三木に助っ人を頼み、そのまま出演陣の一人に収まったらしい。最初に株主会の場面があるが、そこに目に変な隈取りをした三木が上目遣いの目つきで、ひと言も発せず座っているシーンがあるが、あれは台詞がなかったので、ああいう処理になったのかもしれない。こっちが後撮りなんだろう、きっと。


珍しいのは森繁の妻役が越路吹雪で、妖艶と言おうか、夜の世界の人と言おうか、ちょっと異な感じの社長夫人である。二人はなかなかのアツアツで、寝坊の夫を起こそうとすると、「君が昨日、寝かせなかったからだ」と森繁が答え、キスをねだる。あるいは、森繁がお風呂に入っていると、「お背中、流します」と婦人が入ってくる様子。すっとスペースを開けながら森繁がつくる表情の、何とも言えない味わい。こういう森繁流演技があちこちに顔を出す。
森繁が妻の威光で社長になれた、という設定が観客の共感を呼ぶ仕掛けになっている。実力はないが、社員には慕われている。どこか抜けていて憎めない。先代社長の奥様は、どじょう掬いなどはしたない、小唄でも習いなさい、と叱りつけるが、そんなところも観客には好感である。



古川緑波が森繁追い落としを画策する大株主。まるでグルーチョ・マルクスのような顔の造作である。落ち着いていて、雰囲気が出ている。森繁は若き頃、ロッパの一座にいたことがあるらしい。


おいろけ、ユーモア、いずれも大人の世界の記号が溢れている。同じ森繁の「駅前旅館」にも似た味があって、これを当時の大人たちがニヤニヤ、ワハハと言いながら見ていたのである。娯楽の提供の仕方としては、しごく真っ当なことであるし、森繁のキャラクターはうまくそこにはまったということなのだろう。のちの植木等になると、おいろけの部分がもっと単純化されて、深みがなくなってしまう。たとえば、「駅前旅館」の番頭森繁の旅館に修学旅行の生徒を連れた淡路恵子がやってくる。これは昔のなじみの女で、二人は上野の山に夜のデートに出かける。腕を組んで歩きながら、森繁が丹前の袖に何かを探る仕草をする。すると、女が「懐紙、持ってきたわよ」と言う。森繁、「バカ言うない、タバコだよ」と応じる。なんとまあ、大人の会話だこと。こういうコノテーションのようなものが、のちの映画からは消えるのである。


*「最高の人生の見つけ方」(D)
07年、ロブ・ライナー監督である。モーガン・フリーマンジャック・ニコルソン。終末を迎えた2人が“棺桶リスト”なるものを作って旅に出るというもので、ピラミッドに行ったり、エベレストに行ったり、スポーツカーに乗ったり、といろいろなことをするも、結局は家族のもとへ帰る、という設定である。旅に出てから2人に葛藤がないので、世界漫遊紀行になってしまった。カナダの「みなさん、さようなら」を見てしまった僕としては、なんとハリウッドは甘い映画を撮るものだろう、という感想にならざるをえない。


「みなさん」では病院経営の民営化が否定的に扱われていた。この映画の一方の主人公ニコルソンはいくつもの病院を経営する辣腕家らしいが、冒頭にサービスの劣化などを指摘する行政裁判(?)のシーンが映されるだけ、刺身のツマ扱いである。それはアメリカとカナダの環境の違いということになるのかもしれないが、それならそれで冒頭のシーンなどカットしてしまえばいいのである。劇中でフリーマンが「ここの豆スープはまずい」と言うのが、やっとの皮肉である。


ぼくは封切りで「ドライビング・ミス・ディジー」を見ているが、その映画で初めてモーガン・フリーマンを認識したことになる。フリーマンはすでにして老人の役であった。人種問題をスマートに描いた名作である。竹中直人がフリーペーパーの「at once」で「スパイダー」を好きな映画に挙げていたが、これはフリーマンを主役にしたシリーズ物の1作で、たしか2作でこと切れたはず。ぼくもいいシリーズになるのではないかと楽しみにしていた映画である。何しろ格好良くない、しかも黒人が主役のシリーズなど聞いたことがない。


*「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」(T)
07年。トム・ハンクス主演、彼は機密防衛費に権限を持つ上院議員。いろいろな議員に貸しをつくることで、そのポジションを得ている。凡庸と見られていた政治家がパキスタンサウジアラビア、そしてイスラエルを動かすことでソ連追い出しを成功させる話で、実話に基づいているらしい。
色好みでハメをはずような男だから破天荒な政治もできる、とでも言いたい作りだが、そこからしてすでに定型にはまっている。


ダン・ラザーのアフガン取材番組を見て、強い関心を抱き、追加予算をポンと付けたことで、FBIや資産家女性(ジュリア・ロバーツ)などから目をつけられる。このアフガンはソ連が進行した頃の冷戦中のアフガンである(のちにダン・ラザーはブッシュの徴兵忌避を言い立て、それが誤報だったとして、番組をハズされることになる)。
よってチャーリー議員が支援するのはムジャヒディンであり、これがのちにアルカイダとつながり、テロ集団の温床となったことは、歴史の皮肉なのか、歴史とはそういうものなのか、ぼくには分からない。あのサダム・フセインだってアメリカが育てた為政者である。
少なくともアメリカが軍事介入してうまくいった国は1つもないのではないか(資産家ジュリアは、ニカラグアをはじめとする軍事介入をすべて正当なものと主張している)。この映画でも最後に、ソ連を追い出したあとの補完ができなかった悔恨が語られているが、おおむねアメリカの強権介入政策を肯定する始点で描かれている。マイク・ニコルズ監督というのは、そういう保守的な監督だったろうか。


フィリップ・シーモア・ホフマンが優秀だがハグレ者のCIAを演じていて、型にはまっているが、味があっていい。最初、彼と気づかなかった(シドニー・ルメットの最新作にも出ているらしい)。
ジュリア・ロバーツをセックスに誘おうとするなど、大胆なことをする。そのジュリアだが、てんで美しく見えないから不思議である。化粧の仕方の間違いではないか。


*「彼が二度愛したS」(T)
ユアン・マクレガーは『猟人日記』で行きずりのセックスを重ねる役を演じたが、この映画でもその手のことをやる。彼にはそういう役回りが似合うのか、東洋人にはとんと分からない。
タイトルのSはきっとスパイだろうと思い、チケットを買うときにもそう言ったのだが、単にマクレガーが好きになる女の頭文字だった。いい加減にしてね、である。
シャロット・ランプリングが、欲求不満解消にセックスクラブを使う実業家というちょい役で出ている。実に悲しいことである。ヒュー・ジャックマンがまたしても悪党役を演じている。「ソードフィッシュ」「タロットカード殺人事件」「プレステージ」と見てきているが、どこか垢抜けない感じがあるのは、どうしてか。


*「アメリカを売った男」(D)
07年、ビリー・レイ監督。クリス・クーパー主演というのも奇妙だが、その妻役のアシュレイ・ジャッド似の女優(キャサリン・クインラン)もまったく作り物めいた顔でgood、敬虔なカソリックでありながらアブノマールでもあるという役柄にばっちりである。クーパーは「アメリカンビューティ」ではゲイの役だったが、今回は妻とのセックスビデオを人に見せるのが好きなスパイ役である(実話だそうだ)。彼の唇、そして目の周りはなぜピンクなのか。
ローラ・リニーがクーパーの犯罪を暴くチームの主任の役だが、珍しく1回も脱がない。彼女もそろそろ方向転換か。
それなりに面白い映画だが、すべてがデジャ・ヴなのはなぜなのか。


*「トウキョウソナタ」(T)
いちおう評判の映画である。黒澤清監督である。ぼくは「アカルイミライ」「ドッペルゲンガー」「カリスマ」を見ている。
主演香川照之、その妻小泉今日子である。有名な健康器具会社の総務課長が突然のリストラに。「あなたは会社に何ができますか」と上司は訊くのだが、長年、課長を務めていた人間の能力評価もできないのか。
この課長が香川で、妻に馘首のことが言い出せない。それはふだんから権威ある親として振る舞ってきたからなのか、よく事情は分からないが、いまどきこんなオヤジっているだろうか。しかも、公園での浮浪者への炊き出しで昔の同級生に会うのだが、こいつも家族にリストラを打ち明けられずにいる。定期的に携帯が鳴るようにセットして、仕事の話が入っているような振りまでしている。結局は妻にバレて無理心中をするのだが。


一見がんこオヤジの2人の息子、一人は日本国籍のままアメリカ軍の兵隊になれる特別制度を使って中東へ、一人は音楽の才能が見出されて音大付属中学へ。どっちもごく平凡な夫婦から突然変異で生まれたような設定である。いいんだろうか、こんな脚本で。


それでも途中まではそれなりに見ていられるが、これも人生の敗者である役所弘司が家に強盗に入ってから、大甘の映画に。それに合わせるように、交通事故で死んだと思った夫も生き返り、役所と逃げた女房は元に戻り、息子は天才的な演奏で試験会場にいる人びとを魅了する。


いかに小津先生が家族の崩壊というテーマを細心の注意で撮ったかが分かる。けっして甘さやおざなりなプロットなど入り込んでこない。


蓮実重彦が『UP』09年1月号で、この映画を褒めちぎっていた。「ここで指摘しうる確かなことは、黒沢清のこの新作が、こんにちの合衆国に向けるべきわれわれの視線を思いがけぬやり方で鍛えてくれる作品だという一点につきている」と書いている。長男が志願してアメリカ軍に参加することを指しているのだが、それらしき日本人は前からいるわけで、何を今さらと思う。日本国から志願するのが新機軸かもしれないが、それがこれからの対米姿勢の選択肢の1つになるとは思えない。いかに上手にアメリカ離れをするかが、これからの日本の課題ではないのだろうか。黒沢の提示した問題は、ぼくにはアナクロに見える。


*「フリーダムランド」(D)
ジョー・ロスという監督である。06年作。サミュエル・ジャクソン、ジュリアン・ムーア主演である。サミュエルの白人同僚がウィリアム・フォルシーズ、行方知れずの子どもを捜す団体の長がエディ・ファルコ、この2人が渋い。ほかにも知らない役者がそれぞれしっかりと脇を固めているので見応えがある。


カージャッカーに遭ったと一人の女が病院に逃げ込んでくる。両手は血に濡れている。彼女は黒人居住区で保育園の先生をやっている。夜にその保育園に忘れ物を取りに4歳の子どもと行ったところ災難に遭い、子どもはバックシートに寝ていたので、そのまま誘拐されたかたちだという。犯人は黒人だった、と彼女は証言する。


ふだんから白人警官の横暴に苛立っている黒人たち。妹が黒人に手ひどい目に遭ったと怒りに燃える警官の兄。とうとう暴動が発生し、サミュエルは仲間から爪弾きに。だが、捜査がなかなか進まない。それはジュリアンは何かを隠しているからだ。


ここでエディ・ファルコが登場する。彼女は自分の夫が子どもを虐待死させたと思っているが証拠が見いだせないでいる。行方知れずの子を捜す団体を組織し、何件かの事件を解決してきている。その彼女の協力でやっとジュリアンは真実を話し出す。


このときの演技がなんともおぞましく、魅力的なのである。小さい頃から家族にも無視されて育ってきた彼女は、子どもを得たことで生きる喜びを感じ始めた。ところが、保育園に仕事で通っているうちに黒人の男に引かれ、男女の関係に。次第に息子のことが疎ましくなってくる。4歳の子なのに、男のもとへ母が行こうとすると、「きっと後悔することになる」とませた口をきく子である。事件はまさにその子の言ったとおりになることで発生する。
女性としての苦しみ、母親としての喜び、女としての昂揚、子どもへの疎ましさ、それらを完全に一つの演技のなかで演じきるのである。何か見てはいけないものを見たようなそんな演技である。ジュリアン・ムーアという女優の映画はほとんど見たことがないが、演技派だというのがよく分かる。


この作品は2006年の封切りである。まだまだ人種問題が根深いことをこの映画は教えてくれるが、しばらくその種の映画を見ていなかったので、何やら貴重なものを見たという印象である。


*「その土曜日、7時58分」(T)
シドニー・ルメット監督、84歳である。もちろん「12人の怒れる男」の監督である。ぼくは「セルピコ」「狼たちの午後」が印象深い。ほかに「ネットッワーク」「オリエント急行殺人事件」「エクウス」「評決」「ファミリービジネス」を見ている。
このタイトルはまがいもので、本題は「悪魔がお前が死んでいるのに気づくまえに」というものである。陰惨な映画で、兄弟で金に困り、母親の経営する小さな宝石店を襲うが、手違いで母が死ぬことになる。その真実を知って、父親が長男を殺すことでエンドである。


「クラッシュ」で成功した、同じシーンを違った視点で繰り返す手法を採っている。半ば成功しているが、半ば強引な場面転換もある。兄をフィリップ・シーモア、弟をイーサン・ホーク、父親をアルバート・フィニーが演じている。兄の妻は弟とも通じている。この妻がなかなか魅力的である。
冒頭の夫婦のセックスシーンのあとリオへとんずらしようと話すピロートークのところが、哀れでありながら幸福感も漂っていていい。全編のむごたらしさを、妻のノンシャランな感じが救っている。


兄は犯罪を弟一人に任そうとしたことで歯車が狂い出す。弟はダチ公を誘い込み、これが拳銃を持参する。アルバイトのドリー婆さんが来ているはずが、運の悪いことに母親が店に出勤。弟は顔を見られるのを恐れてクルマの外を見ていないので、父親が送りに来たことを知らない。結局、ダチ公と母親の撃ち合いになり、両方が死ぬ。


父親は若い頃に犯罪に手を染めていたらしい。知り合いの故買商との話からそれが知れるが、因果のそもそもの歯車はそこから回っているのかもしれない。長男は父親との確執からいまだに抜けきれない。それも悲惨な結末を呼び込む一因になっている。


迫力と胆力のある映画で敬服するが、やはりラストの苦さは耐えられない。そうまでしないといけないものなのか。やはりこの父親は息子を愛してはいなかったのか。


*「フィクサー」(D)
トニー・ギルロイ監督、主演ジョージ・クルーニー。例によってクルーニーは制作者に名を連ねている。面白いのはシドニー・ポラックも制作者の一人で、しかも劇中でクルーニーの太い声の上司の役を演じている。それがいいのである。同寮のアーサー(トム・ウィルキンソン)は法律事務所での長年のもみ消し稼業に嫌気がさし、原告である純朴な娘に恋したこともあって、巨大農薬会社の悪を暴くことに。しかし、彼は殺され、親友クルーニーも借金で首が回らないこともあって、800万円で友を裏切る。しかし、農薬会社が雇った殺し屋に車を爆破されて翻意、結局は相手を追い詰める。


彼が翻意するのが終幕から15分前、それまで物語は重厚に描かれ、けっしてクルーニーを英雄扱いしない。小賢しい映像テクニックも使わない、鳴り物も少ない、今時珍しいくらいの映画である。クルーニーが一命を取り留めたのは、ドライブ中にふと見つけた丘の上の3匹の馬たち。車から降りて馬に近づき、じっと見つめる。その最中に爆破が起きる。なかなか味わいのあるシーンである。


アメリカではこの種の企業悪を暴く映画がよく作られる。ほとんどが実話で、映画のもとになる本がある。日本では寡聞にして実話で、しかも巨大な企業悪を暴いた映画など見たこともない。この彼我の違いをどう考えるかである。結局は、我々は日々権力に飼い慣らされて、何も見えないでいるのかもしれない。たとえば、偽装請負にしてもトヨタ、シャープなどの世界企業、日本を代表する企業が行っているわけで、そこから映画を作ることだって可能なはずだ。あるいは、森功ヤメ検』、田中森一『反転』などを原案にして、権力の腐り具合を描くこともできるはずだ。日本ではいっかなそういう監督が出てこない(その前にまず社会悪、企業悪に立ち向かうヒーローがいないのかもしれないが)。


*「竜馬暗殺」(D)
黒木和雄監督で74年作。ぼくは彼の作品は「祭りの準備」「スリ」「美しい夏キリシマ」「父と暮らせば」しか見ていない。なかでも一昨年だったか岩波ホールで見た「父と暮らせば」が第一である。宮沢りえの何気ない演技に深く心を洗われた気がしたものである。その前の「たそがれ清兵衛」も良かった。


この映画、モノクロだがわざと白黒のコントラストを強くしているので、まるで無声映画を見ているような気分になってくる。まして冒頭のシーンはほとんど台詞がないので、よけいにその印象を強く抱く。


原田芳雄が竜馬、石橋蓮司中岡慎太郎松田優作が右佐という殺し屋。竜馬をつけ狙う奴が次から次と現れる。竜馬の身のこなしの軽いこと。彼は薩長を動かし、しかもその闘争の圏外に出ようとしている。新体制となったときの権力の在りどころに、すでに関心が移っている。「ええじゃないか」のバカ騒ぎがつねに映画のなかに挟まれる。


よくできた映画で、観念的になろうとするところを、よく抑えて作られている。それは無声映画的な映像処理にも現れていて、監督はエンタメで思想を撮ろうとしたのだろうと思う。それは十二分に達成されている。チャンバラのシーンも見応えあり、である。


不遇をかこった監督が最後に自らのエニグマとも言うべき戦中のエピソードを最後の3作に結晶化させたことは慶賀に耐えない。


*「ブギーナイツ」(D)
役者が揃っている映画で、ドン・シードル、若きマーク・ウォルバーグ、若きフィリップ・シーモア、老いたバート・レイノルズ、かのジュリアン・ムーア。なかでもバート・レイノルズがいい。渋い、寛い、うまい、鋭い、ずるい、いろんな要素が入ったポルノ映画監督を演じている。この人、こんなに味があったのか、と驚いた。


本作の監督ポール・トーマス・アンダーソンは数作ある監督で、ロバート・アルトマンの影響が言われるようだ。たしかに長回しの多様、その場面とは直接には関係のない人声を映像にダブらせるやり方、それぞれに悲惨な人生ながらそれなりに幸福に向かっているというエンディングなど、アルトマン的なものが目立つ監督である。しかも、ポルノ映画界ばかりか既存映画界へのイロニーを含んでいるところもアルトマン的である。ぼくはアルトマンの最大な特徴は“ゆるさ”ではないかと思うのだが、その同じ気分が横溢している。


巨大な性器を持ち、すぐに再戦、再再戦可能の男をウォルバーグが演じる。レイノルズはポルノ業界にあって、ただ扇情的な映画を撮っているわけではない、多少は良心的な監督。どんどんウォルバーグは調子に乗り、スターダムへのしあがる。そこで例によって、新人の登場に脅かされ、監督とも反目。ゲイにマスかきを見せる昔の自分に逆戻り、あるいはイカれた金持ちに偽のヤクを売りに出かけるようなこともする。最後は監督に泣きを入れ、和解をする。監督自身、ビデオなど撮りたくない、素人とはやりたくない、と老興行主に啖呵を切っていたのが、世の趨勢にあっさり迎合、自分まで美人局の役で映像に出るようなマネをするようになっていた。それが、素人を車に引き込んで女とやらせる映像を撮ろうとして、いざこざが起きる。監督も、そしてはすっぱないつもの女優も、その素人をさんざんに痛めつける。そういうこともあって、彼には少し良心が戻った気配があって、それでウォルバーグの帰還を許したのである。



ウォルバーグが仲間2人と金持ち男に片栗粉をヤクと言って売りつけに行くシーンがすごい。アラブ系の男がガウンをはだけて、パンツ一丁で出てくる(どこかで見た俳優だが…)。ボディガードなのか巨軀の男は柔道着で、なかに拳銃を偲ばせている。中国人の召使いなのか、小柄な男は始終爆竹を鳴らしている。金持ちはやたら水タバコのようなもので何かを吸ってハイになっている。拳銃を突然取り出し、ロシアンルーレットを一人でおっぱじめる。その間、ほとんど3人は無言、時折、爆竹の音にびくついて飛び上がる。これで何かが始まらないわけがない。おかしなシーンが一つあって、もう帰ろうと言い出したあと、ウォルバーグが目もうつろに黙ってしまう。それがけっこう長い間、そうしているのである。これは編集間違いとしか思えない。
とうとう仲間の一人が、ヤクの代金のほかにベッドの下の金庫も寄越せと言い出す。相手は当然、反撃に出、殺し合いになる。ウォルバーグと同僚は助かるが、欲をかいた仲間は死ぬ。この一連の狂気を孕んだ様子は、なかなか得難いものだ。上手にやるもんだと思う。いろいろな映画のパスティーシュなのがよく分かるシーンである。


先にも触れたが、ラストが実にいい。登場人物一人一人の現在の、それなりの幸福な様子が軽いスケッチで描かれてエンディングである。ドン・シードルはたまたま買いに入ったドーナツ屋で押し込み強盗に遭遇。しかし、ほかの客が発砲、泥棒が応戦、それで彼以外は即死。床に落ちている店の金をかっぱらい、それを元手に念願のハイファイ・ステレオを売る店を開店する──といったように小さな幸せ賛歌で終わる。
映画の進行係の妻は彼に公然と他の男とセックスする。路上で、人だかりのなかでアオカンまでする女房である。そのセックスの映像を遠いバックに、大写しで進行係はキャメラマンから次回作のカメラの台数などを質問される。そのやりとりが実におかしい。この進行係、ウイリアムマーシーという名前である。彼はとうとう、またほかの男とセックスに励む妻とその男を射殺、自分も自殺。それが、最後のシーンでは、監督が家の部屋部屋をめぐるときに、廊下の曲がり角の壁にニコッと笑った肖像画として登場する。この粋な感じ。


この映画の主題は、芸術からアトマスフィアが消えた、それはフィルムからビデオへの転換が促したものである、ということ。それが70年代と80年代の違いだという。ひと言で言えば、映画がお手軽にできるようになってしまい、おのずと素人が介在する余地が生まれたということである。しかし、監督はそれを声高に批判しているわけではない。その中でも人々はしぶとく、そして楽しく、そして悲しく生きていくのだというメッセージが伝わってくる。


*「エデンより彼方へ」(D)
原題はaway from Eden だから「エデンを遠く離れて」ではないだろうか。エデンは主人公が住む保守的な小さな町を指している。「ここには黒人はいない」と黒人の給仕を前に言うような人種が絶対多数派を占める地域である。そこを結局、夫と妻は追われることになる、夫はゲイに目覚めることで、妻は黒人(庭師)を愛することで。


監督トッド・ヘインズボブ・ディランを扱ったI'm not thereの監督である。夫がデニス・クエイド、妻がジュリアン・ムーア、黒人がデニス・ヘイスバート。夫は鉄鋼会社の重役、ほとんど巻頭のシーンから事件が起こる。当日のパーティに出席するはずの夫から連絡がない。やがて警察から電話があり、身を請け出してくれと言う。若い不審な男がいると言ったのに警察は信じない、と夫は主張する。家に帰り、ベッドに入る夫。妻と抱き合うが、疲れているので休ませてくれ、と言う。妻は別の部屋へと引き下がる。すでにここに夫婦関係の濃淡が映し出されている。
翌日、口さがない女友達が集まりティーパーティ、アルコールも少し含みながら週に何回夫は求めてくる、といった話で盛り上がる。しかし、ムーアの表情が冴えない。


少しずつディティルを重ねながら、夫の同性愛、ムーアが引き起こす人種問題などを丁寧に撮っていく。当時(50年代)、同性愛は病気として考えられていたようで、精神科医らしきところに妻の懇請で夫は通うことになる。会社にコトが露見すれば、馘首になることは目に見えているからである。ところが、夫は会社から与えられた休暇を使ってバミューダに妻と出かけ、そこで美青年の誘いを受けて、もろくもその道に突っ走ることになる。つまり離婚である。


妻は黒人と森を散策し、黒人のレストランに行き、そこでダンスを踊る。その様子をたまたま見かけた女がそこらじゅうに噂をまき散らす。ムーアは黒人を遠ざけるが、男の娘が白人の少年に石を投げられたことを知って、彼の家に駆けつける。男も黒人社会から爪弾きになって、その土地では食べていけないから、別所へ移ると言う。ムーアに「誇り高い生き方をしてください」と言う。実はムーアは、その前に黒人地位向上委員会のボランティアになろうとして支部に電話を入れている。彼女の将来はここに暗示されているように思う。


いかにも50年代という叙情的な音楽、映像(タイトル文字からしてそれ風)。それでいながら、中身は2大タブーを扱ったもので、それを典型的な中流家庭に持ち込んだところがスゴイ。恐ろしいことをしらっとやるものだと思う。


*「パンチドランクラブ」(D)
またポール・トーマス・アンダースンの映画である。今回はアルトマン的なものが一切なくて、かえって主題の出し方はコーエン風でもあるし、その暴力志向もそうだと言えなくもない。


倉庫なのか、やけに広い、殺風景な部屋の奥隅で青い背広姿の男(アダム・サンドラー)が、チラシのようなものを見ながら不当表示ではないか的な電話をかけている。やがて電子音が聞こえて、シャッターを開けて外に出ると、朝である。何棟か連なった倉庫群の一番奥まったところに彼はいるらしい。その倉庫群に直角に道路があるらしく、クルマが横切るのが見える。カメラはその道路に寄っていき、突然、猛スピードのクルマが横転する。カサベテスの「ジュリア」の一場面みたいである。次に来たトラックがなぜか小さなピアノ(ハーモニアというらしい)を下ろしていなくなる。主人公はそれを修理したりして、デスクの上に置いたままにする。


男は車の備品のセールスマンらしい。7人の姉をもつ女性恐怖症で、その彼にエミリー・ワトソン、あの「奇跡の海」でフォントリア監督に「役者もいいものだ」と改悛させた女優が惚れて、恋のいろいろが始まる。


その前に男はテレホンセックスに電話をし、その女から脅しをかけられるようになっている。その親分がフィリップ・シーモア。暴力的な傾向のある男は相手の攻撃を粉砕するが、恋する相手からは不信の目を向けられるが、先のチラシで抜け穴のマイレージを貯めて、いつでも君と海外旅行ができる、と決めのセリフを言う。


奇妙でありながら全体をうまくまとめていく手法は、やはりコーエン風ではないだろうか。十分に楽しめて、大納得の映画である。



*「ラース、その恋人」(T)
クレイグ・グレスビーという監督である。アメリカ映画だが、どうもそれっぽくない。極端な人見知りの男がセックス・ドールを購入し、それに恋をしたことで、小さな町に騒動が起きる。彼を愛する兄とその妻、穏和な女医、牧師をはじめとする町の人びとが、彼の妄想に乗ってあげて、次第に心理的に成長し、とうとうその人形の死を迎え、生身の女性との恋が始まるところで映画はエンディングである。牧師は人形の存在をこう表現する、「彼女は我々の愛を試したのだ」と。
いろいろ心理学的な絵解きがしてあるが、うるさいほどでもない。じっくりと主人公の成長の過程を追っているところが好感が持てる。妄想の始まるきっかけとなったのは、兄嫁の妊娠。主人公は生まれてすぐ母を亡くし、その後父はうつ状態に陥り、兄はそれを嫌って出奔。その間に、人と接することを恐れる人間になってしまったという設定である。彼は兄に、大人になるとはどういうことか、と尋ねる。兄は、いろいろなことに寛容な心をもつことだ、と述べる。さて、それは普遍的な大人の定義だろうか。


*「マグノリア」(D)
ポール・トーマス・アンダースン監督である。世の中に奇妙な偶然というのがある、たとえば、ということで2例紹介される。1つは雑貨屋を襲った3人組の名前を綴り合わせると、その土地の名前になる、というもの。もう1つは、青年がビルから身投げをする。その途中の階で夫婦喧嘩から妻が発砲。弾が逸れて、窓の外を落下する自殺青年の腹をぶちぬく。青年は下に張られていたネットに助けられるが、すでに死んでいた、というわけである。しかも、いつもは空のその銃に弾を詰めておいたのは彼で、彼は夫婦喧嘩をする2人の息子である。「殺してやる」と空の銃を持ちながら喚き叫ぶ様子に嫌気がさしての行為らしい。
これがこの映画の前振りである。そしてごちゃごちゃと入り組んだ話が始まるが、そのタッチが先頃アカデミー賞をとった「クラッシュ」に似ているのである。制作年がこの映画のほうが先だから、「クラッシュ」が真似たといったほうがいいのかもしれないが。
簡単に言えば、死を迎えた父とその子供の2つの物語を綯い交ぜにしたもので、お互いにまったく絡んでこない。前振りからいけば当然、なにがしかの奇跡的な繋がりをつけるのだろうと期待するが、別々のままに終わってしまう。
それに丹念に親子の葛藤を描いてきたのに、最後にカエルの大雨が降って、訳の分からない映画になってしまう。なんでカエルの雨なのか。これが“偶然の一致”だとしたら、ふざけるな、である。この作品は評判が高いらしいが、失敗作である。


例によってアルトマン的な箇所がある。天才クイズ少年がTV局に着き、うしろからカメラが付いていく。人とすれ違うと、今度はその人間のあとをカメラが追いかけるといったようなところ。それと、最後は結局、みんな何となく幸福に向かっている、と暗示するところなどがアルトマン的である。
ある歌が流れ、それに合わせて、薬を飲んで死にそうになっている女から瀕死の病人までが歌い出すところなどは、まったく違和感なしに見ていられるのがすごい。


「ブギー・ナイツ」に出ていた役者がほとんど顔を出している。おそらくアンダースン組ということなんだろうと思う。ウォーターゲート事件を扱った「大統領の陰謀」で渋い上司役を演じていたジェイソン・ロバーズが瀕死の父親の役をやっているが、役も役だが、かわいそうなくらい老け込んでいた。臆病なゲイ役のウイリアム・マーシイがいい。セックス狂教祖のトム・クルーズイカれていてgood。


*「ハードエイト」(D)
PTアンダースン監督で、これが処女作で、次が「ブギーナイツ」、そして「マグノリア」である。「マグノリア」で癌のテレビ司会者を演じたフィリップ・ベイカー・ホールがシドという元マフィアで、老ギャンブラーの役。タイトルはサイコロ賭博クランで4のぞろ目を出すこと。


シドはダイナーの入り口脇でうずくまる男に声をかけ、コーヒーとタバコをおごり、男がうらぶれている理由を尋ねる。母親の葬式を出すためのお金を稼ぐためにベガスへ行き、逆に文無しに。そのしがない男ジョンをジョンCライリー、「マグノリア」で善良な警察官をやった役者が演じている。その恋人役がグイネス・パストロウ、カジノのウエイトレスで、売春付きの仕事をしている。ジョンのダチが、ほかのカジノの守衛責任者をしているサミュエル・ジャクソン。


シドに育てられてジョンはいっぱしのギャンブラーになるが、浮気性のパストロウのせいで売春で金を払わなかった男を監禁することに。その一件の後始末をシドが引き受け、2人はナイアガラフォールへ逃避。ジャクソンはシドを脅しにかかるが、それは監禁の件とはまったく別な話で、実はシドはマフィアのときにジョンの父親を殺した過去があり、その償いでジョンをサポートしてきたのである。ジャクソンは6000ドルを要求し、脅し取る。その夜にハードエイトで稼ぎ、女を連れて家に戻ると、シドが拳銃を構えて待っている。


おおまかこういう内容の映画で、何か奇妙な撮り方をしているところというのはない。ジョンから監禁部屋に呼ばれて、室内に入ったときに、部屋の奥は一切写さないでシドとジョンの会話をじっと撮るところなど巧みである。何かとてつもなく陰惨なものが写されずにいる、と観客は思うからである。


小気味いい短編を見ているような出来である。「ブギーナイツ」でやや崩れ、「マグノリア」はじっくり撮っていたのに後半で大乱れ。さて、その次の作品は? 彼は短編で「coffee & cigarettes」を撮っているが、ジム・ジャーミッシュに同名映画があるが、さて?ハードエイトの元ネタらしいので、ジャーミッシュは無関係のようだ)。


*「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」(D)
またPTアンダースン監督で、昨年の作品。主演のダニエル・デイ・ルイス(プレインビューという役名)がアカデミー男優賞を取ったほか、いくつかの賞に輝いた作品である。彼はスコセッシの「ギャング・オブ・ニューヨーク」の狂気の入った演技が忘れられない。この映画はダイヤの採掘から始まって石油で財をなした人間を追ったものである。


石油の出そうなところには必ず子連れで出かけて、村人の説得に当たるのが常である。信頼おける、家庭的な人間というイメージが、相手の心理を和らげる効果を狙っている。しかし、子どもが自己で耳が聞こえなくなり足手まといになると、よその施設へ預ける冷酷さを持っている。その息子が長じて独立したいと申し出ると、「敵になるのか」と激怒し、「お前はバスケットに入った捨て子だった」と明かす。


ある土地から青年ポールがやってくる。双子の1人で、石油がにじみ出る土地がある、と言う。片割れはイーライといって、新興宗教の教祖になろうとしている。調査の結果、土地を買い占めようとするが、1人だけ手放さない。その男はイーライ教の信者で、「教会に帰依すれば、俺の土地にパイプラインを通させる」と言う。プインビューは改心したふりをして、イーライの唱える懺悔の言葉を復唱する。しかし、かつて約束した1万ドルを寄付するという言葉を守ろうとしない。
しばらく経ってイーライが、いまは豪邸に住まうプレインビューのところにやってくる。投資に失敗し、金に困っている、と泣きつく。金を出してくれたら、先のパイプラインを引いた土地の所有者を説得して、その土地を売ってやってもいい、と持ちかける。しかし、その周りの土地をすべて買い上げてあるので、ストローで吸い上げるように、くだんの土地の石油はすでにいただいている、と石油屋は言う。プレインビューはイーライに「私は嘘つきだ。宗教は間違っている」と言え、と強制する。イーライはそれに従うが、プレインビューは彼をボウリングのピンでたたきのめし、殺してしまう。


ただこれだけの映画なのだが、アメリカという国はこういう人でなしが築いた国なのだ、とも言いたげである。この映画はアルトマンに捧げられているらしい(クレジット未確認)。


この監督の映画では、音楽が常に鳴っているが、今回はいつものジョン・ブライオンではなく、レディオヘッドジョニー・グリーンウッドというミュージシャンが担当している。クラシックも手がける才人のようだ。


*「僕のピアノコンチェルト」(D)
フレディ・M・ムーラー監督で、スイスの映画である。久しぶりに映画らしい映画を見た、という感じである。ヒューマンで知的で最後まで飽きさせない。天才少年が天才であることに倦んで、普通を装って生きることに。ただ、家族のためにはその天才を使うことは厭わない。つまりお金に困っているお爺さん(ブルノ・ガンツ)のためにネットの株で大もうけし、会社で首になりかかっている父親のために経営参加する(もちろん実体を秘匿したまま)ことで救済する。最後は自分の天才と折り合って生きることを選択することろで映画は終わる。子ども時代の彼を演じる子役がとてもかわいくていい。その両親もなかなかハマっている。とくに母親は教育に厳しく、そういうときは英語が口を突いて出るというインテリである。父親は補聴器会社のエンジニアで、画期的製品を開発し、社内でも早い出世を果たす人物である。それが、結局、跡取り息子に疎まれることにもなるのだが。


*「人生とんぼ返り」(D)
マキノ雅弘監督、森繁が主演、殺陣師段平の物語である。妻のおはるを山田五十鈴がやっていて、相変わらず演技がうまい。結核なのか病にかかっているのを段平にさとられないようにしながら、夫のことを気遣うところなど、落涙である。新国劇澤田正二郎役を川津清三郎が、その座付き作者(あるいはプロデューサー?)倉橋を水島道太郎、段平夫婦の子供、じつは他人の子を引き取ったのだが、それを左幸子が演じている。澤田と川津はリアリズム演劇を求め、新しい殺陣を求めていた。それに応じたのが段平というわけである。


たしかに次郎長の立ち回りを見ると、動きがあり、捕り手を斬って捨てたあと、さっと懐紙で刀をぬぐい、その紙をパッを中空に放つところなど、非常に斬新である。新国劇が受け入れられた理由がよく分かる。そもそも段平は古い殺陣しかできなかったのが、澤田と倉橋に会ったことで殺陣師魂に火が付いて、新しい殺陣を思いついたのである。


ほぼ3分の2ぐらいまでは快調に進むが、段平が中風で病の床についてからがスピードダウン。止められていた酒を飲んで具合が悪くなり、医者が様子を見に来てからが無駄に長い。わざと尺を延ばしたのが歴然である。それでも、死の間際の中風の段平が、中風の忠治の殺陣を考案し、娘がそれを澤田に教えに開幕ぎりぎりの南座に駆けつけるところなどグッと来る。泣かせるところ、笑わせるところをきっちり押さえていて、言うことなし。“映画王"とも呼ばれるマキノならではの出来である。


稲垣浩の本を読むと、たしか阪妻だったと思うが、あまり人の意見に耳を傾けない彼が、自分の殺陣師の言うことだけは素直に聞いたものだという。いかに時代劇において殺陣師の役割が大きなものだったかが、それからも分かる。


*「シャイン・ア・ライト」(T)
これが08年の劇場見納め映画である。スコセッシが撮ったストーンズ公演である。ストーンズがカントリーをやったり、ボブ・ディランぽい歌を何曲か歌ったり、それなりに面白いものを見たという感じである。ミックがふっと後ろを向くと、すぐにこちら側から撮った映像に切り替わるなど、へぇーと思わせられる場面がいくつかあった。ミックがよく声が出るのもびっくりだが、飛んだり跳ねたり、メンバーみんな元気である。きっと公演後はぐっとへたり込むのだろうが。間違ってもそういう映像は写さない。
ぼくはスコッセシの「沈黙」(遠藤周作)が待ち遠しい。


*今年のベスト
今年もやはり100本以上の映画を見たことになるのだろうと思う。
初めての映画がおそらく3、4歳だったのではないだろうか。小学生の2年頃には、お忍びで映画館に入ったのを覚えている。母親が映画好きだったのだろう、大川橋蔵錦之助の映画などをよく見たのを思い出す。なかでも市川雷蔵の「眠り狂四郎」や「忍びの者」「陸軍中野学校」などの作品を覚えているから、きっと母親の好きな俳優だったのではないだろうか(いつか聞いておけばよかったと悔やまれる)。「網走番外地」「座頭市」は来れば必ず見に行っていたのではないだろうか。もちろん、ゴジラ大魔神クレージーキャッツ、若大将などのシリーズものも欠かさなかった。
夕方、病院の賄いをやっていた母のもとへ急ぐ。消毒液やら薬の臭いを嗅ぎながら廊下を歩き、母親の支度を待っていたものだ。いそいそと出かけて、映画が終わると、もうとっぷりと夜が更けている。きまって中華そば屋に寄るのが楽しみで、しんしんと冷える北海道の夜はなおさら熱いラーメンがおいしかった。
これがぼくの映画との馴れ初めである。もし母との経験がなかったら、ここに来て古い時代劇を見ようなどとは思わなかったのではないだろうか。その母が亡くなってもう来年で8回忌である。


今年はやはりコーエン兄弟の「ノーカントリー」が衝撃的だった。しばらく娯楽作品を撮っていた彼らがやっと戻ってきたという感じである。殺人マシーンの男が獲物を追い詰める作法が、まるで西部劇のよう。血のあと、靴あとなどをたどっていくのである。武器が空気銃、それが不気味な破壊力を持っている。暴力的な映画はごまんとあるが、暴力を描いた作品は数少ないのではないか。もう後戻りできないほど非人間的な殺人(語義矛盾?)が多くなったとトミー・リー・ジョンが演じる老刑事は考える。嫌な臭気が立ってくる事件で彼は深入りしたくないが、職業柄この陰惨な事件に首を突っ込むことになる。次回作が楽しみである。


是枝の「歩いても歩いても」は、今でも体のなかに余韻が残っている。ほとんど小さな家のなかで終始する映画だが、まるでそんな感じを与えない。無理な角度や工夫で映像を撮ることはない。ほとんど一室内で劇が行われる川島雄三森田芳光の作品(「しとやかな獣」と「家族ゲーム」)ではそれが味付けにもなっているが、彼らの作品が孕んでいる熱と比べれば、是枝作品はかなり抑えたものになっていることも、映像の質に関係しているだろう。奇異なことをすると浮き上がってしまう内容なのである。出演陣がハーモニーのように動いて、アドリブが随所に顔を出す。その中心にいるのが樹木希林である。彼女の母親としての醒めた目配りが恐いくらいで、ときどき繰り出す本音がこの映画をきっちり引き締めている。やはり脚本ですね、映画は。


「日本の悲劇」「幕末残酷物語」はどちらもあまり馴染みのない監督だったのが、この作品で俄然興味を持ったこともあってランクイン。木下恵介監督は骨太の民主主義者、加藤泰は意外なリアリストである。


「バルビー」のほかに「命の食べ方」「不都合な真実」などドキュメントをいくつか見た年である。なかでも「バルビー」は低予算の、既存映像のつなぎ合わせみたいなものだが、テーマがテーマだけにショッキングなドキュメントだった。


エデンより彼方に」のほかに「フリーダムランド」「フィクサー」などの社会ネタを扱った映画が印象に残る。ハリウッドの良心はここにある、という気がする。そう言えば、「エデン」のプロデューサーにジョージ・クルーニーの名前があった。この種のモノには彼が絡んでいると思ったほうがいいのかもしれない。


今年はエドワート・ノートン「ハルク」、ロバート・ダウニーjr「アイアンマン」、ほかに「ダークナイト」とダークヒーロー物が花盛り。スパイダーマンが続映はないはずだから、フアンとしては嬉しいかぎりである。やっとこの種の映画の撮り方が分かってきたのではないかと思う。暗いものは暗いままに撮る──しかし、なぜアメリカにダークヒーロー物が多いのか考察に値する。おそらく表の正義が強く過ぎる国家なのではないか、と思う。今回のオバマでも、黒人差別はあからさまに出せないから世論調査では違う回答はするが、本選挙となると本音が出ると言われたものである。


1位  ノーカントリー(T)
2位 歩いても歩いても(T)
3位 日本の悲劇(D)
4位 バルビー(T)
5位 幕末残酷物語(D)
6位 エデンを追われて(D)
7位 パンチドランク・ラブ(D)