09年8月からの映画

kimgood2009-11-07

87 「トレインスポッティング」(D)
10分で沈没。ユアン・マクレガーの初主演?


88 「ごくせん」(T)
見ちゃいました、泣きました、それもずっと。熱いっス、セリフが臭いっス。


やっと「ヤンキー文化論」が立て続けに出て、オタクやニートとは違う在り方が注目されている。いわゆる地元指向型で、学校では落ちこぼれだが、地元の会社や工場で大人への過程を踏む──つねに前向きな姿勢がオタクやニートとは違う。店の一軒でも持って暮らしたい、という経済の底上げのパワーもある。日本を明るくする原動力、というわけである。それと、ケータイ小説の支持層だというのは本当なのだろうか。
ありきたりな筋だが、ヤンクミの迫力とその運動音痴的な動きには敵わない。流れるようなアクションは期待すべくもなく、カットを重ねるだけの変なアクションシーンが展開される。いわゆるコマの少ないぺらぺらめくり動画みたいなもの。アンジョリーナ・ジョリーに完全に負けてました。結局、それでもいいってことなのでしょうね。テレビ的には。この監督としても。


89 「鉄道員」(D)
健さんです、イタリア映画ではありません。北海道・幌舞という駅が舞台だが、かつて炭坑で栄え、いまや閉鎖寸前の運命にある。そこで何も特別なことをしたわけでもない老駅長の過去が綴られる。仕事一筋だったので、子どもの死に目にも妻の死に目にも立ち会えない。それが彼の負い目でもあるが、駅員一人しかいないで、何ができたというのだろう。
健さん、あのいかにも映画館に響くいい声が出ない。かすれて、可哀想。彼の死んだ子が亡霊となって成長に合わせて3人登場するが、いちばん大きな広末を抜かせばほかの2人はかわいい。広末の甘ったらしい発音と表情は、どうにかならないものか。
小林捻持が枯れたいい演技をしている。ラストの表情など、ほろりとさせられた。
もう健さん、仕事を休まれてはいかがですか。


90 「バンクジョブ」(D)
ジェイソン・ステイサム主演である。71年に実際に起きた銀行強盗事件だそうだ。映画では小さな貸金庫だけの銀行に見えるが、その貸金庫は裏稼業の人間はじめさまざまな表に出せない事情の人間が金やら宝石、果ては娼館で遊ぶ大臣閣下の破廉恥な写真まで預けられている。マフィアのボスは賄賂警官に渡した金額を記した帳簿を預けている。そういう事情を何も知らない、ほとんど素人に近い町のチンピラ同然の男たちが銀行強盗を決行する。パンドラの箱を開けたことで大騒ぎが発生する。マーガレット王女のスワッピング写真を取り戻すために諜報機関が動き出す。当然、それを秘蔵していた自称左翼、本当は痲薬の売人にである黒人も強盗団を追い詰める。先のマフィアのボスも、もちろん。3つ巴、4つ巴の乱戦をどう切り抜けるかが、この映画のポイントである。
マフィアのボスを演じたのがデビッド・スーシェという役者で、どこかで見たなと思ったら、テレビのエルキューロ・ポアロシリーズの主役であった。このボスが酷薄でいい。
しかし、これだけいい材料がそろいながら、この映画、もう一つ盛り上がらない。期待が膨らむだけに、がっかり感があるのである。それは、映画のテンポの問題と、強盗団のキャラターの弱さが関係しているのではないかと思う。たとえば、エディというポルノ俳優が、必死になってみんなが地下を掘っている最中にフライドチキンか何か注文し、その配達がやってきて、みんながビビるというシーンがある。ステイサムが文句を言うと、だってお腹が空いていた、でこの件は終わってしまう。やはりガツンと殴るぐらいのやりとりがあってしかるべきだと思う。そういう細部の積み上げに丁寧さがないのである。結果、書き割り的な映画になってしまったのである。残念である。誰か撮り直しをしてはいかがなものか。
それにしても、この事件、世紀の大列車強盗以上の損害金額だったという。欧米ではこの種の強盗ものを目にするが、日本ではとんと映画の主題にならない。思い出すのは「果てしなき欲望」「死に花」「約三十の嘘」などである。「大誘拐」は趣が違うが、人情クライム物の傑作として加えておこう。
ステイサムの「トランポーター3」がそろそろやってくる。彼のこのシリーズのフアンである。


91 「東京暮色」(D)
小津作品なのでその項に。


92 「教え子ヒトラー」(D)
ヒトラーの贋札」で指摘したナチもののエンタメ化の一つである。かつてヒトラー若かりしとき、その演説法を教えたユダヤ人俳優を、いまは自信を喪失した総統のもとへ送り込むのがゲッペルス。彼の狙いは、その俳優のせいにして総統を爆殺し、全権をもぎとろうという計画。結局、100万人を前にした演説で総統は声が出ず、舞台の下でユダヤ人俳優が声色を使うことに。
彼の口を突いて出るのは、私は父親にいじめられたとか、いまは勃起もできない、といった二人の交流のうちに知った総統の事実ばかり。
この映画、実話がもとになっているというが、さて本当だろうか。
全体が喜劇調の調子をもっていて、寂しさにユダヤ人夫婦と添い寝するシーンでは、枕で顔をふさがれてもまったく平気、しまいにはその上にお尻をのせてぎゅうぎゅうやってもちっとも総統は起きない、というギャグまで披露する。
あるいは、床を四つんばいに歩かせるシーンでは、後ろから愛犬に交接のスタイルをさせるようなことまでする。
ゲッペルスが秘書嬢がタイピングする机の下でナニをするシーンがあるが、そこにユダヤ人俳優がやってくる。急いで女を隠し扉の向こうへ押し込んで、俳優を迎える姿勢になったときに、口から何かを取り出すような仕草をする。ことほどさように、この映画は性的なあてこすりがいっぱいである。
だが、出来はよくない。まるで緊張感がないからである。


93 「Do the Right Thing」(D)
スパイク・リーの映画である。黒人街にイタリア人の経営するピザ屋がある。親父がダニー・アエイロで、「レオン」の依頼人である。息子2人に黒人の青年(これがスパイク・リーで、ヴィッキーさんに似ている)で店を切り盛りしている。歴史は25年、ここの連中はおれのピザで育ったんだ、が自慢。ところが、店の壁にイタリア人の有名人しか飾っていないのがおかしいと一人の黒人が言い立てる。もう一人、でかいラジカセを持ち込んで親父に注意されたのが嫌で、こいつも不満を言い立てる。ふだんは物乞いにくれば必ずいくらかは恵んでもらえる吃音の男も、窓辺に座って町を眺める老婦人も、ピザ屋襲撃が始まると、一斉に荷担する。それまでの人物模様を丁寧に撮ることで、かえって一気に燃え上がる黒人感情が怖い。一人、市長(メイヤー)というあだ名の老人だけが、アルコールに浸りながらも、一人正気を保っている。こういう人物を配することで、リー監督の平衡感覚の良さがよく分かる。スタイリッシュで、軽薄でありながら、言うことはちゃんと言っているという映画である。やはり哀愁のあるアエイロを使ったのが大きかったのではないだろうか。


94 「白日夢」(T)
30分で退場。下品。武智、最低ですね。


95 「理想の恋人」(D)
またダイアン・レインである。相手役がジョン・キューザック。二人とも離婚組で、まわりから次を探せとやんやと急かさせる。アメリカというのはカップル幻想に病気のように突き動かされている国なんだと思う。シングルはかなりきつそうだ。ネットの出会い系で二人は出会い、恋に落ち、ちょっとしたすれ違いがあり、また結びついて、というお決まりの内容である。
キューザックのせりふに「君は自分の美しさに気づいていない」というのがあるが、「運命の女」でも夫リチャード・ギアからその種のことを彼女は言われている。これはどういう意味なんだろう。
二人が意気投合し、セックスへと突き進もうとしてコンドームがないことに気づき、夜の町をあちこちと探し回っているうちに、ダイアン・レインがその気をなくす、というシーンが笑える。


96 「リダクテッド」(D)
パルマ監督である。この人の映画は厚塗りの化粧のようなものばかりで、どこが巨匠なのかさっぱりだが、このイラクの戦場を描いた作品は戦争映画に似ず肩に力の入っていない、軽い筆捌きが好感である。しかも、テーマは15歳の少女のレイプとその家族の殺害という戦争犯罪である。映画監督志望の兵隊が持つハンディカメラ、そしてネットで流れるイラク側の映像、兵士と本国にいる恋人とのネットでの映像付き会話などなど、戦争がもう個人が映し出す映像で切り取られるようになっていることがよく分かる。
一人の兵士が、アフガンでは燃える意志で戦ったが、イラクはまったく違った。そこらじゅうに陰惨な“死”があった、と述べているが、これは両方を経験したアメリカ軍兵士が共通に言うことのようだ。


97 「ヤング@ハート」(D)
平均年齢80歳の合唱団を追ったドキュメントである。ボブという若い指揮官(といっても50代か)が厳しい。彼らの年に合わない、それも難曲を用意して、次のコンサートに向かっていくさまが描かれるのだが、その過程で中心人物が2人亡くなるなど、高齢化の厳しい洗礼を浴びながら、舞台に立つ彼らの姿にこころ動かされる。コンサートチケットは即売、海外コンサートまでこなすという集団である。かつて「ヴェナビスタ・ソシャルクラブ」という映画があったが、あれはプロの集まりだったが、こっちは正真正銘のアマ揃い。そんな彼らが刑務所慰問で歌うと、受刑者のスタンドオベーションを受ける。コンサートが終わると、握手攻めである。俺が聴いたなかで、いちばんのパフォーマンスだ、と一人は言う。おすすめの映画である。


98 「P.S.アイ・ラヴ・ユー」(D)
ヒラリー・スワンク主演のラブ・ロマンスである! 性同一障害と女性ボクサーで2度のアカデミー主演賞をとっている彼女である。まず違和感が先に立つが、これがなかなかいいのである。しまいにきれいに見えてしまうから不思議である。アイルランド人のミュージシャンと結婚し、いさかいがありながらも、幸福に暮らしていたのに突然脳腫瘍で夫が死んでしまう。それなのに、彼から手紙が次から次と届き、彼女がやることを指示してくれる。これは癒しから自立へと彼女を誘い込む手紙である。夫と学生のときに出会ったライブ・バーで一人の男と出会うが、これが夫と一緒にバンドを組んでいた男で、夫の無二の親友。夫の計算がいかに行き届いていたかが分かる。
彼女の母親は地元ニューヨークでダイナーを営んでいる。そこに勤める男がスワンクに惚れる。二人の仲がやっと縮まろうとしたときに、キスをした瞬間にお互いに「これは違う」と思うシーンが面白い。男は「妹としているようだ」と言う。スワンクも恋人のそれではないというような顔。これで二人は友達として生きていくことに。なかなか粋な設定である。
スワンクが自分で夫の骨壺をデザインし、ベッドの足先に置いておくばかりか、それを旅行にまで持っていく。こういう風習がアメリカにもあるのかと驚きである。


99 「キャデラック・レコード」(T)
マディ・ウォーター、リトル・ウォルター、チャック・ベリー、エタ・ジェイムズ(ぼくはこの名を知らない)などのブルースからロックンロールへと移り変わるブラックミュージックの先駆けを担ったチェス・レコードを扱ったものである。先にモータウンを扱った映画があったが、やはり舞台はシカゴ。たしか、南部から北に走る幹線道路がシカゴに結びついていたので、自動車労働者が大挙して南部からやって来たのに合わせて、そこに黒人音楽が花開いた、と何かで読んだ記憶がある。
レナード・チェスはポーランド移民で、「戦場のピアニスト」で主演だったエイドリアン・ブロディが演じている。どこがいいのだろう、この役者と思っていたのだが、この映画では実に色気があっていい。かなり幅のある役者ではないか、と思った次第。次回作から要チェックである。
エタをビヨンセが演じていて、オバマ就任式(?)で“at last”という彼女の曲を歌ったそうである。この映画の制作にも関わっているようである。映画を見ているあいだ、どうもオセロの中島を思い出してしょうがないのだが。
チェスはそれぞれの個性を大事にし、彼らの即興を認めて、ありのままで録音する。そのへんの勘の良さ、柔らかさが彼を成功に導いた秘訣なのかもしれない。それと、人種偏見を持っていなかったこと。自分が運転して隣りにウォーターを乗せることも、その時代としては画期的なことだったようだ。
チェス・レコードが凋落するのは、ビージーズエルビスなどの白人音楽がロックンロールの中心に躍り出るからである。そのへんのいきさつはさりげなく描かれている。
チャック・ベリーの奇矯について触れておきたい。酒もたばこもやらず金を貯め、ホテルで泊まらずクルマで寝泊まり、無類の女好きで、ついに淫行の疑いで逮捕される。彼のコンサートで初めて、黒人と白人を分けていたロープを越えて、男女が乱舞するようになったらしい。
途中で、チェス・レコードをローリング・ストーンズが訪ねてきて、ウォーターに「あなたの曲からバンド名を付けた」と言うシーンがある。チェスと黒人ミュージシャンの間にいさかいが絶えなくなって、モータウンと同じくラストは明るくないが、この映画はしばらく経ってウォーターがイギリスに呼ばれるところで終わる。人気が再燃しているというのである。半信半疑だが、飛行場に着くと、たくさんの記者、カメラマンが待っている。ということで、いちおうハッピー・エンディングで終わらせている。


100 「チェチェンへ」(T)
アレクサンドル・ソクーロフ監督である。主役のアレクサンドラを演じる女優はオペラ歌手らしく、監督の夫人らしい。ロシアでは戦地に家族を訪ねることが許されているらしく、夫を亡くして2年、一人寂しく暮らす祖母が孫を訪ねてチェチェンへやってくる。はじめ軍人の手引きで彼らと同じ貨車(?)に乗せられるシーンで始まるのだが、強制連行にしては歓待だな、と思っていると、それが孫を訪ねる旅だと分かり、奇妙な習慣がロシアにあるのだと知らされる。


新聞などによれば、ロシア軍兵の士気が極端に悪く、いじめ、自殺が頻繁に起き、賄賂を使った徴兵拒否の動きも一般化しているともいう。展望もなく長期化する正義なき戦争に狩り出された人間の虚無は、はかり知れない感じである。アレクサンドラが見届けるチェチェンの駐留部隊に漂うのも、そういう軍隊の弛緩した雰囲気である。


彼女がそこにやってきたのは、自分の死を意識して、孤独に耐えられなかったからだと孫に言う。しきりに、嫁をとれ、と勧めもする。優しい孫は祖母の言葉にあらがうことはない。それは虚無の一変態であるかもしれない。将校である孫が祖母の髪を三つ編みにするところなど、近親相姦的な気分さえしてくる演出である。


アレクサンドラは市場へ出かけ、そこで小さなテント風の店を出す現地の女たちと知り合うことに。具合が悪くなって、その一人の女の家へ休憩に立ち寄るが、振る舞われるのはお茶だけ。それでも心の通い合いがあって、最後の別れのシーンには、その女たちが姿を現し、肩を抱き合って再会を約す。息子の突然の出撃が、祖母の滞在を終わらせたのである。


爆音もなく、銃撃音もない。ただ、冒頭からずっと誰かの声が聞こえている。静謐なのだが多弁な世界がそこにある。監督が「太陽」で見せた巧まざるユーモアのようなものはこの映画にはない。淡々と、ただ淡々と、戦場の日常が描かれているだけである。一箇所だけなまなましいところがある。孫に「人を殺したか」と訊くと、「流れる血は実にきれいだ」と答える。このセリフだけ、この映画では突出している。


101 「フロスト対ニクソン」(D)
ロン・ハワード監督、実話のようである。ロン・ハワードがこういう政治物を撮るのは初めてではないか。そういう意味でも、フロストという本当のジャーナリストではない、かつてNYで活躍したものの落ちぶれてオーストラリアでショー番組の司会役をやっていた人間を扱うのは、似つかわしい。
フロストは、ニクソン辞任のあと単独インタビューすることを計画。その額60万ドルと破格、資金繰りがつかず、見切り発車で5日間のインタビューに向かうが、緒戦は圧倒的に老獪なニクソンに分がある。最終日の前日、夜中にニクソンから電話が入り、お互いにエスタブリッシュメントが敵だ、そのために自分は戦ってきた、明日も勝者は一人だ、という中身である。これでフロストはやる気になり、資料を漁り、ある点に気づき、それをもとにニクソンを窮地に追い込む。彼は「大統領なら法を犯してもいい」と言ってしまうのである。


日本のじゃれ合いのインタビューしか見たことのない我々としては、政治生命と司会生命をかけたやりとりに、ある種の嫉妬さえ覚えるほどだ。


102 「帝銀事件」(D)
今井正監督で、これで何度目かになる。帝銀は平沢という特殊な虚言癖をもつ男が被疑者となったことで、奇妙な展開をした事件である。どう見ても薬物、毒物の専門家の犯罪としか思われないものが、一介の売れない絵描きの仕業となったのは、彼の自白によるわけだが、それを押し返すことができなかった弁護側の弱さ、マスコミをはじめとする世論の圧倒的な圧力などが、平沢有罪説を強固なものにしていった。


いまとなればGHQの関与、それと結託した731部隊の実験が帝銀で行われたというのが定説となっているのではないか。松川事件下山事件にもGHQの影が色濃い。


平沢の死刑が決まって、新聞記者たちが雑談をするシーンがある。これで終わったと言う者がいると、いやまだ終わっていない、と反駁する者もいる。ひとりキャップらしき者が、「マスコミにも罪なきにしもあらずだ」と言う。この韜晦、いや鼻持ちならない他人事の見解を、今井監督は是としているように受け取れる。マスコミは犯人を作り出した一人として責任は重大ではないのか。


103 「霧の旗」(D)
清張映画で、監督が山田洋次で、脚本が橋本忍といった珍しい布陣である。強盗殺人で捕まった兄の無実を信じて、熊本から敏腕弁護士を頼って上京するのが倍賞千重子。弁護士が滝田修、その愛人が新玉三千代、その若き元愛人が川津祐介、その恋人が市原悦子、倍賞の兄が露口茂といった役者も粒ぞろいである。


滝田は金がない人間の弁護はできない、と言う。倍賞が引き下がってから、どうも気になって調書を取り寄せ、この事件は自分でも無罪にできない、と納得して罪の意識を消す。ところが、あるきっかけで犯人は左利きで、倍賞の兄は右利きと分かり、真実に近づくが、その時点では露口は拘置所で病死している。


実は、本当の事件はこのあとに起こるのだが、それは書籍に譲るとして、なぜ喜劇の山田洋次がこの作を撮ったがが気になる。よくできた映画で、やはり山田の実力はたいしたものだと思わせられるが、それが目的で撮った映画なのか、あるいは転身を図るつもりでもあったのか。我々は最近の時代劇物を見慣れているので、山田の中にリアルなものを目指す感性があることは承知している。あの「たそがれ清兵衛」の冒頭からの薄暗い室内風景などのリアリティよ! 

山田作品にはこのリアリティの系譜と喜劇の系譜、それに家族を扱ったものの3種がある。「黄色いハンカチ」をどうするかだが、リアリティとは言えず、喜劇と家族の間に位置させておくのが適当か。「キネマの天地」はどうか。いずれ整理しながら、考えてみたい。しかし、家族の系譜の映画がぼくは苦手で、何かきっかけがないと見ることができない。なぜその系統に監督が拘りがあるのか、それを知りたいとは思うのだが。


104 「社長三代記」(D)
シリーズ4作目で、58年の作。まだ白黒である。このシリーズは基本的に正続のつながりで作られていて、先代が創業者(河村黎吉で「三等重役」シリーズズで社長を演じ、部下に森繁がいた。「社長シリーズ」の社長室には彼の肖像写真が飾られている)で、その後を継いだのが森繁。先代の奥様が会長で、これに頭が上がらない。三好栄子が演じているが、この女優さんは怪優と言っていいのではないだろうか。木下恵介の「カルメン純情す」の怪演が記憶に鮮明である。その会長の娘が跳ねっ返り。会社の秘書が小林桂樹経理部長が三木のり平、営業部長が加藤大介という布陣である。ぼくは子どものころに見ているはずだが、鮮明な記憶がない。なにしろクレイジーキャッツで育った年代だから、この種のおっとりした喜劇にはなかなか子どもは反応しなかったのではないだろうか。ちょっとしたお色気が添えてあるのも、大人向けだった証拠である(誤解がないよう言い添えるが、かのドリフターズにしてもお子ちゃま向けにネタを作ったことは一度もなく、いつも狙っていたのは大人だったそうである)。


社長は例によって浮気性、奥さんが越路吹雪で夫を愛している。芸者が扇千景で若く美しい。バーのマダムが中田庸子で色気たっぷり。どういう訳か途中で森繁がアメリカに商談に行き、しばらく姿を見せないばかりか、最後にアメリカ支社長転任の話まで出てくる。新社長は加藤大介なのだが、主役禅譲のつもりだったのか。これはいったいどういう事情だったのだろうか。
森繁は当時ものすごい売れっ子で、ちなみに55年に18本の主役、56年に13本、57年に11本、58年に16本を撮っている。駅前シリーズ、次郎長シリーズ、三等重役シリーズなどなど、フル回転で働いている。そういうこともあって、本数減らしが狙いだったのではないかという気がする。しかし、加藤大介ではシリーズの趣がまったく違ってしまう。経営の才もありそうもない男が、なんやかや女性との浮き名を流しながらも、どうにかやっていくところに妙味があるわけで、加藤のガンバリ主義はまた別の映画のキャラクターである。


どうもぼくはこのシリーズ、喜劇としてはうまくいってないように思うのだが、どうだろう。それぞれ個性のある役者陣がそろいながら、その個性を出せずに終わっているように思うのだが、とくにその感が強いのが三木のり平である。「へそくり社長」でちらっと見せた抜群のギャグ(新製品のブラジャーを付けて変な仕草をする)が一つも炸裂しないのである。もちろん、姉妹会社専務の有島一郎も妙に堅物でしかなく、あの不思議な味わいが出ていない。森繁は例によって抑えの演技に徹している。


森繁は55年に「夫婦善哉」に出て以降、年に1つぐらいの割合で文芸作、あるいはシリアス物に出ている。最近、「雷蔵が語る雷蔵」という本を読んでいたら、やはり雷蔵も「炎上」や「好色一代男」などを剣劇物のあいだに撮ることで精神のバランスを保っているのがよく分かった。森繁もそうだが、どっちが優れているということではなく、両方をやって初めて役者なのだ、という考えである。


この社長シリーズは結局、30本を撮って70年に終わっている。56年から足かけ15年続いた偉大なシリーズである。しかし、それだけのテンションがあったかといえば、疑問符が付くのだが。映画が娯楽だった時代の勢いが繁栄した結果かもしれない。


105 「赤毛」(D)
岡本喜八監督で、69年の作である。「ええじゃないか」を扱っているが、ほかに今村昌平が本格的に、黒木和雄がちょっとした背景に取り上げている。なぜ「ええじゃないか」なのかである。民衆の放埒な運動としてこれ以上のものが日本には見出されないからではないのか。ぼくは、堺の自治、加賀の一向宗島原の乱、ぐらいしか思いつかない。


ぼくは、「ええじゃないか」を扱って、この映画がベストワンではないかと思う。その理由は、変な芸術性がないのがまずgood。『七人の侍』の菊千代を思い出させる三船のキャラクターが好ましい。かわいいとさえ言える。官軍にも徳川にも帰属しない旗本崩れの素浪人を演じた高橋悦史がとてもいい。悪代官だが間が抜けている役を伊藤雄之助がやっていて、これも怪演である。高橋のセリフで「葵が菊に替わるだけで何も変わらない」というのがあるが、その認識があるからこそこの映画は見どころを備えたと言える。


主役のゴンは百姓ながら官軍の先触れである赤報隊の一員。自分の田舎が近いということで、単身で乗り込みたいと隊長相良総三に申し出る。代官をやり込め、土地の実力者もやっつけて、ゴンは500両を使者に持たせて、相良のもとにやる。ところが、相良は処刑されている。上からの指示で赤報隊は、年貢はタダ、借金も棒引きと触れ回ったが、人気が集中し、しかも将来的に百姓から年貢が取れないのでは政治ができないと恐れて、官軍本隊は赤報隊を殲滅することに。このへんの経緯は長谷川伸著『相良総三』に書かれている。


ぼくは岡本監督の映画のいい観客ではない。『日本のいちばん長い日』『独立愚連隊』『大誘拐』『助太刀屋助六』ぐらいしか見ていない。どうもエンタメなのか、そうでないのか曖昧で、食わず嫌いの監督の一人である。『肉弾』ぐらいは見とかなきゃなとは思う。


106 「噂の寅次郎」(D)
22作目でマドンナが大原麗子、彼女は34作にも出ている。旦那と別れたばかりの大原がとらやのアルバイトに。寅は一目惚れ。大原にはいとこで室田日出夫が思いびとでいると気づいて、寅は潔く2人を結ばせる。この映画、ほとんと定型だけで進行するようになっている。なかなか新しい要素を見つけるのが難しい。この映画はもう4、5回は見ている。


大原が「寅さんが好き」とか「寅さんに会えてよかった」と言う背景のようなものがまったく分からない。唐突で、この種の演出には大原は文句をつけなかったのか。


大原麗子が自宅で一人死んで、勝ち気だった生前の様子などが週刊誌を賑わしている。新聞紙上で降旗監督は大原のずけずけ言う性格を指摘していたが、それは当たり前のことだろうと思う。三国連太郎先生もそうだったという。納得せずに演技などできるわけがない、と思うが、週刊誌あたりは否定的な論調のようである。


彼女を最初に見たのはきっと網走番外地4作目「北海編」が最初だったかもしれない。彼女19歳、ぼくは12歳だった。まさかそんなに歳が近かったとは。ぼくは藤純子藤村志保のファンで、そこに彼女が登場して、まぶしい感じがしたものである。丁寧に見ているわけではないので何とも言えないが、やはり『居酒屋兆治』が代表作ではなかったか。心より冥福を祈りたい。そして、少しずつ彼女の作品を見ていきたい。


107 「バンコックデンジャラス」(D)
ニコラス・ケイジである。毛髪の後退は致し方ないとしても、そのまま長髪にするというのは暴挙ではないか。それも熱いバンコックで。プロの殺し屋で、現地の青年を後継者に育てながら、引き際を探す、という設定である。タイの可憐な少女が彼に惚れる――それは無理があるとしたものだ。アジアを舞台にすると金のかかる俳優はケイジだけなので、かなり制作費は安く上がるのでは?


108 「お早う」(D)
小津作品なので、その項に。



109 「下町の太陽」(D)
山田洋次監督で、おそらく監督2作目。63年の作である。倍賞千恵子の「下町の太陽」という曲が売れたので、それの映画版というわけだが、ただの歌謡曲物にしないところに芸がある。山田監督、ただ者でない。


冒頭に東京の風景が流れるが、そこに重々しい、葬送歌のような曲がかぶさってくる。これが「下町の太陽」のソウルっぽいアレンジなのである。ここでまず頭をガツンとやられる。そして、土堤を歩いてくる倍賞。当然、自分のヒット曲を歌い出すが、さほど歌わないうちに場面が切り替わる。この映画の特徴として、場面の切り換えのうまさと、俯瞰の図が多いことを挙げておこう。冒頭の不気味な葬送歌風アレンジは、もう一度途中で流される。


倍賞は資生堂石けんの箱詰め作業が仕事。恋人は、コネを使って社内試験を通って、本社勤めを狙っている。その暁には団地に引っ越して、倍賞と所帯を持ちたいと考えている。倍賞がお茶を入れる姿を見て、女性の美しい仕草の一つだ、と言うような男である。倍賞は同僚と一緒に、結婚した仲間を訪問するが、旦那はゴルフと残業でほとんど帰ってこない。それでも化粧をして待っている、と聞いて暗然とする。その元同僚は、自分の境遇にさほど失望しているわけではない。


倍賞を電車で見初めたのが鉄工所勤めの勝呂誉、結局は許嫁の保守性、保身癖に嫌気が差して、彼女がチンピラと間違ったこの勝呂と付き合うことに。勝呂の鉄工所の様子を映すときに、モダンジャズのような音楽を流すのは常套手段か。それにしても、溶けた鉄が流れるシーンって、なんで誰でも似たような映像にしてしまうのか。


東野栄次郎が子どもを自動車事故で亡くし、日々、交通巡査のマネをする頭のいかれた役をやっている。これが、黒澤の「どですかでん」を思い出させる。なにしろ勝呂も、倍賞の弟も今でいう「鉄男」で、非番の列車に乗り込んで、発車オーライなんてやっているのである。


青山ミチがゴーゴークラブの歌手。この人、よくこの手の役で出ている。倍賞が勝呂とデートして、食事をするのがラーメン屋。コショウ入れ過ぎの定番ギャグが披露される。二人が乗るゴンドラは花屋敷で、広告の鉄塔の文字は、「花や○○き」と○の部分の電球が消えている。


ぼくは、この映画、今年の収穫として挙げたい。とくに左朴伝が、日向ぼっこで集まる老人連の一人で、ゴルフスイングのまねごとをするシーンは必見である。あるいは、倍賞と許嫁の別れのシーン、柴又の土堤のようなところでお互いのすれ違いが明確になるが、その間、ずっと模型飛行機のうなり声が聞こえている。その演出はOKである。


110 「The Bad,The Good,The Weird」(T)
悪い奴、いい奴、奇妙な奴、という意味の韓国ウエスタンである。悪い奴はきっとイ・ビヨンホン、いい奴はきっとチョン・ウソン、奇妙なのはきっとソン・ガンホである。舞台は関東軍が跋扈する満州帝国、そこに盗賊、馬賊が入り交じって清朝の隠された秘宝を追う、という設定である。全編これ西部劇、お色気はほとんどなしのboys onlyのむんむんの世界である。日本軍が恐れるのは、その秘宝が中国側に回ること。ネタが割れてみればナンダという結末だが、主役3人が死んでしまうのは、ちょっと寂しい。中だるみ感もあるが、まあよしとしよう。十分楽しみました。日本軍がもっと悪辣非道であれば、もっと面白い映画になったかもしれない。白龍が日本軍の大将を演じているが、これがもう一つである。ビヨンホンはクスリでもやってるのではないかといったキレ方で、瞳孔は開きっぱなし。こいつがトボけたソン・ガンホにかつて敗れ、手の指をカットされたことがある、というのがミソである。ほかの項でも書いたが、戦前の日本映画でも満州を舞台に西部劇もどきを撮った監督がいたそうである。何かそういう欲望を誘うものが彼の地にはあるのだろうか。


111 「チョコレート・ファイター」(T)
何あろう、あの「マッシュ」の監督がいたいけな少女を使って、すごいカンフー映画を撮ってしまいました。おつむが弱い少女が、とてつもなく強いファイターという設定は、異色でもあり、成功したかどうかはやや怪しいが(劇的に成長する、といった過程が描きにくいなど、いくつかの理由がある)、アクションシーンはやはりスゴイ。ほとんどの技にフエイントがかかっている。


敵の一人にやはりおつむの弱い感じの少年が現れるが、奇妙に体が痙攣したあとに攻撃に出るので、最初、間合いが分からず、少女はやられっぱなしである。この異種な二人の戦いをもっとドラマチックにしたら、この映画、もっとインパクトが出たろうと思うし、映画史に残るような場面になったのではないだろうか。ジャッキーの映画でこびと二人が火薬使いで、奇妙な声を上げながらジャッキーに火薬袋を投げつけるアイデアは面白かったし、それなりにジャッキーの敵役を果たしていた。


日本の俳優で阿部寛がヤクザ役で登場するが、彼の背後に浮世絵を配置したり、奇妙なジャポネスクがこの映画でも登場する。ヤクザ組織から足を洗って単身で昔愛した女を助けに行くのに、親分の前で膝を大きく広げて座り、右腕を大きく回して左胸から組織のバッヂを外す大仰なシーンがあるが、阿部君、日本人として注意するぐらいのことはあってもよかったのではないか。ステイサムのまったくデタラメのジャポネスクに比べればまだマシなほうだが、やはり外国映画に登場するニッポンのシンボライズはきついのひと言に尽きる。


112 「眠狂四郎 女妖剣」(D)
シリーズ4作目にして初めて眠の出生の秘密が明かされる。全編に振りまかれたエロスには恐れ入る。いかに続き物とはいえ、最大の敵(若山富三郎)とラストで戦うのに、中途半端に相手が逃げ出すというのはおかしい。藤村志保が全裸になり、久保菜穂子が怪しい格好をするのが、この映画の見どころなのかもしれない。監督は池広一夫という人。


113 「その男は、静かな隣人」(D)
会社のダメ人間が銃で同僚たちを殺そうと考えるが実行できない。今日こそはと思ったとき、誰かほかの人間が実行してしまい、その男を殺した彼は英雄になってしまう。背骨に銃弾が入って全身麻痺となった人気OL、といっても副社長なのだが、彼女に、なぜ助けたと最初は憎まれるが、やがて恋仲に。その彼女の席に彼が座ることに。やることは、社長の小間使い。つまり彼女は女を売ってその地位についていたのである。
二人の仲は次第に深いものになっていくように見えたが、彼女が事件の現場に行ってみたい、と言い出してから、何か歯車が狂い出す。実は彼女は、別の嫌みな女と勘違いされて撃たれたのである。


会社のカウンセラーからは、次の殺人者はあなただと名指される。同僚から彼女とのことをからかわれ、胸ぐらを掴む。社長が、多少は機能が回復した彼女にプレゼントを渡してくれ、と言われ、憤慨して断る。家に戻ると、社長がいて、クルマ椅子の彼女と話をしている。男は社長を追い出し、彼女に俺を愛しているか、と問う。彼女は、「それは私に無意味なの。言葉にする前に自分で確かめたいの」と言う。翻訳が悪いのか分からないが、男を愛していないことは確かなようだ。それに、社長から一連のいざこざについて話を聞いたとも言う。男は自分の部屋でピストルを取り出し、会社に向かい、後ろ向きの彼女に銃を向けるところで、映画は終わる。


主演クリスチャン・スレイター、監督フランク・A・カペラ。この監督、ほとんど脚本家で、映画はこのほかにあと1、2本しか撮っていないようだ。妙な味の映画だが、主題はあくまで古い。


114 「歌麿をめぐる五人の女」(D)
溝口なのでその項に譲る。


115 「デス・レース」(D)
ジャイソン・ステイサム主演、無実の罪で鉄壁の牢獄に入り、そこで行われる死のレースに参加を強いられる。5回連続で勝つと、外に出られるという条件である。ステイサムは、4回で死んだ男の後釜として覆面で走る。それはネットで放映され、賭け金は私営監獄の資金となる。所長はいかにもという感じの冷酷な女。ステイサムらしい映画と言っておこう。


116 「柳生一族の陰謀」(D)
徳川秀忠が薬殺される。実は、その長男である家光の家臣が忠義心から勝手にやったこと。当然のごとく腹違いの弟忠長とのあいだに跡目争いが勃発。家光は松方弘樹である。家光は顔に痣があり、出生も卑しい。忠長は西郷輝彦が演じていて、なかなか好感である。兄思いだが、部下に煽られた家光の不遜な態度に硬化する。


柳生家は家光に付き、忠長を追い詰める。柳生一門の親玉を万屋錦之助が演じているが、ほかの役者から浮くほどの古い演技である。シの音が不完全で、聞いていて非常に気になる。腕や首を斬るシーンは残酷というより汚い。当時、この映画が評判になった意味が分からない。駄作である。深作欣二監督である。


117 「カムイ外伝」(T)
崔洋一監督、松山ケンイチ主演。「外伝」のほんの触りのような映画である。CGとワイヤープレーの腕を試したような中身で、言うことナシ。小林薫が好演、その娘役の女の子も好演。ほかの時代劇でも感じることだが、悪党が話すとやけにドスの利いた、ひたすら汚いしゃべり方になるが(「ICHI」など)、あれはどうしてなのか。崔監督、もう「月はどっちに出ている」を超える映画は作れないか。


118 「夜の女たち」(D)
溝口映画なのでその項に譲る。


119 「ザ・クリーナー」(D)
犯罪現場専門の掃除屋さんがいるということで、途中まではそれなりに面白いのだが、途中でほとんどネタバレで見終わるのがしんどい。サミュエル・ジャクソンが主演、エド・ハリスエバ・メンデスが脇。監督レニー・ハーリン、「クリフハンガー」「ダイハード2」などいろいろ撮っている。


120 「空気人形」(T)
是枝の最新作で、どこかで賞を取っている。ダッチワイフが心を持ったために苦しむ、という設定だが、何を苦しんでいるかは明確ではない。心を持ったが、人間としての常識とか、血の出る肉体とか、感じる性器とかはまだ獲得していない──その悩みなのか。


空気人形が感情や思考をもつ一方、彼女を囲む人間たちは空気人間といった趣の人ばかり。そもそも彼女を購入した男は、恋人に逃げられたあとダッチワイフでしか性欲を処理できない。部屋に帰り、仕事のできな部下の愚痴を言うが、本当は自分こそがお客の注文さえまともに取れないダメ人間なのである。厨房の料理人から、「いつ辞めてもいい」と言われている。空気人形が思いを寄せるレンタルビデオ屋のアルバイト男性も、やはり恋人と別れ、まるで自分も空気人形と同じだと言う。その店に彼女目当てでやってくる青年はメイド喫茶に出入りし、その種のフィギュアを下方向から下着が見えるようにをコンピュータ画面に映してオナニーに耽る。彼女のアパートの別の女性の住人は引きこもりである。新宿高層ビルを臨む空き地で出会う老人も、人生は空虚だという。ローン会社受付嬢は、派遣の受付嬢が人気なので、自分が切られるのではないかと心配している。こんなふうに、空気人形が人間の代理だとすれば、彼女のまわりの人間もみんな代替可能な存在ばかり。違いは肉体があるかないかでしかない。


これは監督がそう読むように求めたテーマの読み方である。ぼくは是枝映画の持つ一種爽やかなものを愛する一人だが、この映画はどうも後味が悪い。テーマを消化仕切れていないのではなく、取り上げるテーマを間違ったのではないか、と思うのである。ダッチワイフに感情を持たせることで、いま現在に生きる人間の存在の薄さを際立たせようというのは、余計なお世話みたいな設定である。収拾がつかなくなって、まるで「クラッシュ」のようなハッピーエンドのラストを持ってきたことからも、是枝がこの映画の終わらせ方に困っていたことが分かる。そして、だらだらと長い。


人のいいように見えたレンタル屋のオヤジに空気人形を犯させ、人形が自分の性器を洗い、人形が愛する男の腹を包丁で切る──なんとおぞましい映像と設定か。ぼくはそれを是枝らしくないと感じるのである。


人形の胸のかたちと女優ペ・ドウナのそれが似ているのは、彼女のそれに人形のを似せたからであろうか。空気を入れたり抜いたりするときの彼女の腕の動きが、いかにもそれっぽいのがいい。板尾創路が彼女のご主人様だが、ほとんど新鮮味がない。オダギリが空気人形製作者の役だが、なんだかなあという感じである。


121 「ギルダ」(T)
1946年の作品だそうで、監督チャールズ・ビダー、主演グレン・フォードリタ・ヘイワース、助演ジョージ・マクレディ、スティーヴン・ジレー。いわゆる「ファム・ファタール(運命の女)」といわれる系統のテーマを扱っている。裏路地でいかさまサイコロを振って勝ち逃げしたものの、金を数えているところを後ろから拳銃を突きつけられる。それを助けてくれたのが、実は賭博場支配人で、稀少金属タングステンの独占支配を画策するバリン・マンドソン。彼に拾われるかたちで賭博場の支配人になるジョー。その昔の恋人がギルダで、あろうことかマンドソンと結婚するで、いろいろなことが起こる。タングステンの独占支配などというのは不要な筋で、映画を複雑にするだけである。


冒頭のシーンが快調で、なぜこの映画がいまなお劇場で映されるのかがよく分かる。ただし、ジョーとギルダの過去があまり明らかにされないまま劇が進むので、「運命の女」の「運命」の部分がなかなか感じにくい。脇役のスティーヴン・ジレーというのが良くて、ラウンドリーの勤め人なのだが、これが人生の訳知り、ちょっとした哲学者で、アメリカ映画にはバーテンダーだとかナンダとかで、この種の人間が登場することがある。リタ・ヘイワースが唄を2、3曲披露するが、地震でも何でもメイム(うろ覚え)のせい、という歌詞をギターで歌うところなど味がある。ほかの唄は観客へのサービスなのか、長すぎる。グレン・フォードダーク・ボガード風で、どことなく情けない顔つきがいい。シガレットケースからタバコを取りだし、さっと火を点けるところが実に流れるようで、格好いい。


122 「銀嶺の果て」(D)
47年の作で、黒澤脚本、監督谷口千吉である。銀行強盗3人組が雪山に逃げるという設定である。一人(小杉義男)は早々と雪崩に巻き込まれて死ぬ。残るは三船と志村喬、前者は仲間を殺しても金を独り占めしたいと思っている。志村は途中で立ち寄った山小屋で少女とプロの登山家にこころを癒されていく。逃避行で死ぬのは三船、残った志村が登山家を背負って下山する。


三船、鮮烈のデビューだそうである。美青年でありながら野性美があり、知的な匂いも放つ。長い前髪がしじゅう垂れてくる。黒澤が目をつけたのはさすがである。なんとなくこの映画、ジョン・ヒューストンの「黄金」を真似ているように思えるのだが、調べると「黄金」は翌年の出来である。極限状況における人間の様を描き、最後はヒューマンに終わるなど、黒澤らしさがよく出ている。ただ、監督が悪いのか、緊迫感も、手に汗握る感じもまったく出てこない。ただ、雪崩のシーンや鉱山風景などはよく撮れている。戦前にこういう山岳映画があったのかなかったのか詳らかにしないが、当時の人にとって映像は新鮮だったのではないだろうか。


123 「ローマ帝国に挑んだ男パウロ」(D)
パウロはパリサイ人で、キリストを弾圧する側の役人(軍人?)である。パリサイ人はローマ人の支配を受け、王はローマの意向に戦々恐々としている。そのパウロが突然、目が見えなくなる。ある人物に触れてもらえば治る、と言われそのようになり回心する。彼はいまは亡きキリストから異邦人に教えを説いて回れ、と命じられる。その目的地、キリストを殺したローマに向かうところでこの映画は終わる。テレビの聖書物語風の映画で、取り立てて言うことはないが、キリスト者であってもモーセの戒律は守らないと一般の人びとの支持を受けられなかった、というところは面白かった。それとパリサイ派の司教が若く、たとえ友人の前とはいえ結婚間近の女性といちゃいちゃするのは、歴史的にあったことなのだろうか。


124 「リミッツ・オブ・コントロール」(T)
ジャーミッシュの新作である。こんなに詰まらないジャーミッシュは初めてである。アメリカ系黒人の暗殺者がスペインに仕事に来て、目的にたどり着くまでにいろいろな指示がある、という設定である。ふつうなら緊迫感のあるテーマをわざと脱力感で撮るのが目的だが、いつもの軽いコントをいくつも重ねるジャーミッシュ風がまったく出てこない。前衛映画を撮るつもりもあったのだろうか、そういうのにはお付き合いしたくない。最後にビル・マーレーがギターの弦で殺されるが、なんだか取って付けたような配役で、ビルが可哀想。


125 「マイ・サマー・オブ・ラブ」(D)
レズものということになろうか。田舎の女の子が、たまたま帰省した金持ち女子と知り合い、恋に燃えるが、その金持ちは単なる遊びでやったことだった、という結末である。何かほかの映画でこういう設定のを見た気がするが、思い出せない。一生離れずにいよう、とまで言いながら、簡単に見捨てるところなど、ブルジョアの退廃がよく出ている。きれいな姉が拒食症で死んだなどという偽りの話を作り出すなど、この金持ち女の罪は深い。田舎娘の兄は暴力沙汰や強盗でムショに入っていた男だが、出所後、どういうわけか信仰に深入りする。それが、妹には気にくわない。ことごとに反発するうちに、兄はもとの粗暴な兄に戻る。ラストは、不実な金持ち女の首を絞めるが、殺さずにすます。タフな娘なので、これからもきっと逞しく生きるだろう、というのが力強い歩き方で分かる。金持ち女は「プラダを着た悪魔」に出ているらしいが、記憶に残っていない。


126 「二階の他人」(D)
山田洋次監督の処女作だそうだ。61年で、脚本は野村芳太郎と共同。山田は川島雄三と野村に助監督として付いたあと、この作を撮っている。無理をして一戸建てを建てたものの、ローンの返済ができず、二階を人に貸した夫婦の物語である。
最初は、家賃を払わない常習犯が店子。平尾昌章が夫で、妻は関千恵子。借家法の制約で追い出すことができず、最後は暴力を振るって解決。次が、外交評論家の年の離れた夫婦。表札が大家より大きく、ステーキを食べたり、クラシックを聞いたりと贅沢な暮らし。そんなにお金があるなら自分で家を持つはずが、そうしないのは訳ありのはずだが、大家夫婦は疑わない。結局、雑誌記事で会社の金を持ち逃げした男と、その愛人ということが判明。愛人は田舎の食堂の女で、借金の方に売り飛ばされそうになったのを男が助けたという経緯。結局、この二人は自首し、大家夫婦に用立てた20万円の金も返済無用と温情をかける。というのは、大家の待遇に一時の逃避行の幸せを感じたからである。


大家は小池一也と葵京子。葵は61年から64年にかけて年に7、8本は出ているのだが、65年からパタッと出なくなる。結婚でもしてスクリーンから遠ざかったのか。目の大きな、なかなか魅力的な女優さんなのだが。小池の母親役が高橋とよで、長男の嫁と相性が悪く、何かあるとすぐに末弟のところにやってくる。いすわり借家人の平尾とは、昼間から花札をやる母親で、息子の側ではなく借家人の肩を持つような母親である。長男、次男、三男で出奔してきた母親をどうするかと話し合ったときに、涙を流して立ち上がる。葵が「お母さん、どちらへ」と尋ねると、「おしっこ」という返事。煮ても焼いても食えない感じがよく出ている。


この映画は最初から最後まで間然するところがなく、山田監督の手腕、恐るべしである。たしかに同時代の篠田正浩大島渚吉田喜重などからすれば先鋭度に欠けるだろうが、別に映画が深刻になる必要などまったくない。ぼくはこの映画を、今年見た映画の最良の一つに数えたい。できれば、山田洋次論をまとめて記してみたい。


127 「愛の讃歌」(67年)
山口県柳町の島が舞台、山田洋次監督、共同脚本が森崎東倍賞千恵子、その恋人中山仁、中山の父親が伴淳三郎、診療所の医師有島一郎、連絡船の船長千秋実、按摩渡辺篤、床屋太宰久雄、伴の愛人京町子、郵便配達人小沢栄一といった布陣である。
親との確執からブラジルへと出奔した中山。その子を身籠もった倍賞。結局、中山は帰ってくるが、親と再び喧嘩し大阪の工場へ。伴は診療所の医師が我が子のように自分の孫を可愛がってくれているのが申し訳なく、その孫を連れて出て行こうとする息子が許せなかった、という次第。だが、父親が死んだことで、医師はその複雑な父親の思いに応えるつもりで、倍賞を中山のもとへと送りだす。


寅さん映画の第6作「純情編」に森繁が島の雑貨屋のオヤジを演じているが、その様子と伴淳が雑貨屋兼食堂のオヤジという設定がよく似ている。「純情編」では駆け落ちした森繁の娘(宮本信子)が乳飲み子を抱えているのを見かねて、故郷の島に連れて帰ってやるのが、寅さんである。舞台は五島列島の玉之浦、小さな教会があるだけの何もない小さな漁港である。


69年から寅さんシリーズが始まることを思えば、先駆的な映画ということになろうが、出来は良くない。伴の演技が一本調子なのと、その息子の中山仁も出来がよくないこともあって、劇が豊かになってこない。有島がかなり重要な役回りだが、シリアスとコメディのどっちでやるか踏ん切りがつかず、やりにくかったのではないだろうか。倍賞を中山へ押しやるために長いセリフを言うシーンがあるが、あまり上手ではない。


山田監督の映画は場面転換も含めて、とてもリズムのいいのが特徴である。それがこの映画ではまったく感じられない。だいたいが雑貨屋の屋内だけの撮影で、これは寅屋の設定と変わらないことを思えば、演出あるいは脚本の失敗ということになろう。それにしても、そろそろ安保というときに、のんびりした映画を撮っていたものである。しかし、寅さん映画がその安保の年に産声を上げている意味を考える必要があるだろう。


128 「さまよえる刃」(T)
東野圭吾原作、監督・脚本益子昌一、音楽川井憲次、主演寺尾聡。中学生の娘が家の近くで携帯をかけてきたまま行方不明。荒川土堤で死体で発見されるが、腕に5カ所注射の跡があり、体内には2種の精液が。顔面には殴られた傷がある。寺尾はすでに引退している気配の建築士である。2年前に妻を亡くし娘と二人の生活である。


警察へ行き、家に戻ると留守電に犯人を名指す若者の声が入っている。その指示に従い犯人の部屋に忍び込むと、レイプの様子を写したテープを見つけ、嘔吐する。犯人が帰ってきたのを後ろから刺しながら、首を絞めて、もう一人の居場所を聞き出す。菅平のペンションとしか言わない。もちろん寺尾はそっちへ足を向ける。


刑事のコンビは伊東四朗と竹之内豊である。後者は寺尾に同情し、洩らしてはならない情報を流す。未成年の犯罪は矯正が基本で、この映画はその理不尽を突くものだが、結局、寺尾は敵を追い詰めながら殺すことをしない。


一度は逃げた犯人を真っ先に見つけるのが後を追ってもいなかった年老いた伊東四朗というのも変だし、川崎商店街の出口で待っているのが寺尾というのも訳が分からない。彼が警察無線を盗み聞きしているシーンなんてあったろうか。


監督はプロデューサー業のあと行定監督の映画何本かの脚本をやり、それから監督に転身した口らしい。これが初監督作品のようだ。音楽の川井は「リング」などを手がけたようだが、この映画は冒頭からいい音が鳴って、即座に仕上げの良さを予感させる。映画の音楽の意味にはいろいなものがあろうが、ぼくはこの引きイッパツという効果というのは大事だと思う。


東野作品は「手紙」「容疑者Xへの献身」と見てきているが、この作品がいちばん出来がいい。


129 「殺人の追憶」(D)
やはり傑作である。真犯人がラジオ局に出した葉書から住所が知れるところは、もう一工夫あってもよかったかもしれない。それにしても3人目に真犯人として出てくる男が美男子の優男なのが意表を突く。地方の無法デカと都会のデータ中心主義のデカが、いつしか同じ地点に立っているのがうまい。非道な悪党はやっつけろ、という熱い地点である。


130 「レボリューショナリー・ロード」(D)
サム・メンデス作品なので、その項に。


131 「チェ39歳別れの手紙」(D)
前作は映画館で見ている。後編も淡々と戦場のチェを写している。農民から食糧は買い上げ、病気で困っている者がいれば治療する。隊のなかでは「脅しや暴力は許さない」という。つねに喘息で、彼には息することさえこの地球にあっては難しい。ボリビアでは外国人であることが、強くマイナスに働いたようだ。もちろん政府のプロパガンダが有効だったわけだが。デル・トロの何とも言えぬ魅力は抗しがたい。


同じ淡々系ではイーストウッドの「硫黄島」2作があるが、ぼくはどうもあの映画を買えない。御大小林信彦氏は傑作と褒めるが、ぼくは戦場そのものの苛烈さはこのソダーバーグの映画のほうが勝っていると思う。ひとはひょいと頭を上げただけで標的となって死んでいく。チェも同列である。それでいて、清々しさが胸をうつ。その違いがどこから来るものなのか、ぼくはそれを考えていきたい。


132 「ハウンテッド」(D)
これもデル・トロである。イラクで残虐を味わったために殺人マシンとなったトロ。その元教官がトミリー・ジョンで、ほぼランボー的な設定である。二人が格闘するシーンは見応えがある。トロがトミーと組み合った手からナイフを離し、空中で別の手で受け取り、それでトミーの腕を刺すところなどすごい。


133 「スナッチ」(D)
ガイ・リッチー初監督作品、ブラッド・ピットはおつむの弱いファイターの役がぴったりである。デル・トロが賭け事好きの窃盗屋を演じて、その品のいい、弱々しい喋りは味がある。ステイサムが出ているが、何もアクションをしない彼にどんな意味があるのだろう。1時間ほどで沈没。スタイリッシュなだけで中身のない映画はきつい。


134 「続日本残虐暴行史」(T)
若松孝二監督、1時間10分を見ているのがきつい。いわゆる精神異常者にレイプの罪を問えるか、というもの。



135 「ソプラノ」(D)
テレビシリーズ1の1、2を見た。テレビドラマの薄っぺらな撮し方ではあるが、作品は堂々たるものである。もう「ゴッドファーザー」の時代ではないと言いたげだが、あの映画だって人情ヤクザの残照のなかで撮っていたわけで、現代マフィアには殺伐とした日常しかないのは陶然である。中で、「『ゴッドファーザーは2がいい」と言うやつの気が知れない」みたいなことを言うシーンがあるが、アメリカで映画ベストテンをやるとゴッドファーザーは2がナンバーワンに輝く。



136 「カジュアリティーズ」(D)
casualityは災難、死傷者の意味で、複数だと「死傷者(数)」である。デ・パルマ作品で、89年公開。アルトマンの「マッシュ」が70年、マイケル・チミノの「ディア・ハンター」が78年、コッポラの「地獄の黙示録」が79年、オリバー・ストーンの「プラトーン」が86年、パルマの作品はかなり遅れてきた作品である。


パルマの評価はアメリカでも乱降下しているようだが、それは思想的にハリウッドとぶつかるというより、作品の出来、興行成績に安定性がないことが原因のようだ。だいたい「キャリー」「ミッションインポシブル」のような映画を撮って巨匠と呼ばれるのは、筋が違っている。


彼のイラク戦争を扱った「リダクション」はぼくは高く評価する者だが、この「カジュアリティ」もなかなか佳作である。最初が、混んだバスの内部の映像、そこに人が乗り込んできたり、降りていったり、一瞬、どこに視点を集めればいいのだろう、と不安になる。いちばん奥の男がそれか、と思うと、実は左の窓際に座る男にカメラは向かっていく。それが、マイケル・ジェイ・フォックスである。彼の視線の先に一人の女性、黒人に見えるが、アジア系の感じもする。その女性のうしろに新聞を開いている人物がいて、その見出しが、「ニクソン辞任」である。一気に映像は、ベトナムの戦場へと切り替わる。そのあたりの流れは、とてもいい。


フォックスはベトナムに来てまだ3週間、配属された部隊がショー・ペンが率いる5人の小部隊。のどかな農村で、帰国間際の黒人軍曹が撃たれて死ぬ。そこからショー・ペンをはじめ小部隊の連中の気が振れだしていく。休憩のあいまにベトナム女を買おうとするが足止めを食い、急に早朝に探索行に出ることに。ペンは女を一人調達し、探索のあいだにセックスの道具にしようと提案し、部下の了承を得る。フォックスは終始反対し、もう一人フォックスと同じく不同意の兵隊は、結局、仲間の圧力に抗しきれずレイプするハメに。


この兵士による民間人のレイプというテーマは、「リダクション」でも扱われたものである。後者では無罪となったものが、前者では有罪に終わるのが違っているが。フォックスは日常に戻っても、いまだに有罪となった仲間達の復讐を恐れている、という設定である。バスのなかで彼は一連の悪夢を見るのである。


いくつか疑問点を挙げる。フォックスが囚われの女を逃がそうとするときに、盛り上げ調の音楽がかかるところ。あるいは、フォックスが「ここでは正義と悪が逆転している」と道徳的な意見を吐くところ。そして、ラストでバスの中のアジア系女性がスカーフを忘れて降りたのを追いかけ、「チャオ・コー(さよなら)」と声をかけ、相手の女性が、悪い夢にうなされていたようだが、もう大丈夫のようね、と言い「チャオ・コー」と言って去ったあと、晴れやかな音楽を流し、のどかなアメリカ郊外の風景を見せるところ。どれもこれも、ありきたりの演出で、さもしい、受け狙いの、低俗な発想である。


これはいい、という点を挙げると、フォックスがジャングルですぽっと地面にはまる。下がベトコンのトンネルだったという設定だが、その喜劇性が軽くていい。部隊が東洋的な風景、つまり遠方に山水画的な山があり、その前景にはのどかな田園がある、といった風景をバックに歩くとき、まるで尺八のような音楽が聞こえるところ。雨のなかでショー・ペンとフォックスがいがみ合い、フォックスを仰瞰で、ペンを俯瞰で撮って、雨はスローモーションという撮影法は、なかなか面白い。


なかで、自己防衛以外に人を殺すな、とペンが言う。ただし、家の外にいるやつは殺していい、とも。これが、イラク、アフガンになると、自己防衛以外殺人はいけない、と表立っては規則が厳しくなる。


一方で倫理的に崩れた戦場を経験し、一方で何事もない顔で過ごす日常がある。戦争であるかぎりは、その経験に圧倒されたPTSDを抱えた大量の人間が生み出されるわけで、そういうことをずっとアメリカという国は押し進めてきた歴史がある。「ディアハンター」「帰郷」などにいくつか帰国後の兵士の悲惨さを扱ったものがあるが、もう一つ真理に届いていない、という感じがする。パルマのこの作品ももちろんその類である。


137 「黒の試走車」(D)
増村保造監督である。62年の作品。東大法学部出身、それに大映入社したあとでどういうわけか東大哲学科に入り直している。成瀬批判など辛口の評論をものしているらしい。


主演高橋英郎と言っていい。いちおう田宮二郎なのだろうが、高橋が劇を引っ張っていく。田宮は新車開発競争で悪事を重ねる上司高橋に反感を覚え、結局は、自分の会社を去ることになる。助演叶順子、なかなか味のある、エロティックな女優さんである。のちに主婦となってスクリーンを去っているらしい。船越英二が社長の婿養子で密告屋の役。線が細そうでいながら図太いところもあって、好演である。業界紙記者が年のいった上田吉次郎というのは、ややミスキャストっぽいか。どう考えても、こいつが片方だけの便宜を図ってしのぎをやっているとは思えない。つまり、両方からうまいこと汁を吸っているわけで、配役がそれをバラしてしまっている。
よく出来た映画で、原作の梶井重季が良かったのかもしれない。最初から最後までエンタメで押し通して、傑作とは言わないが、すこぶる付きの出来である。


138 「This is it」(T)
マイケル・ジャクソンの最後のツアー準備を撮った遺作である。アップテンポの曲もいいが、スローな曲が彼の細い声と相まって哀愁があっていい。スタッフとの言葉のやりとりが、とても丁寧な言葉遣いで、彼の人柄がここによく現れているのではないか。あの白塗りの顔は一部で、たいていはふつうの顔に映っていた。演出のひとつに、実際の映画の映像と彼を組み合わせるのがあるが、それが「ギルダ」と「三つ数えろ!」である。とくに前者は最近見たばかりなので、偶然の一致にやや驚きぬ、である。たしかにリタ・ヘイワースの歌には色気がある。


139 「山椒太夫」(D)
溝口作品なのでその項に譲る。



140 「カメレオン」(D)
阪本順治監督、ぼくは「どついたるねん」で出会って「鉄拳」「王手」と付き合って、しばらくこの監督の作品を見ていなかったのだが、「この世の外へクラブ進駐軍」「闇の子どもたち」とここ最近、見ている。もともとエンタメの匂いの強い監督だが、裏社会好きではある。


藤原竜也主演、助演水川あさみ。出だしから好調で、女占い師のもとへ男がやってくる。女は暇で縄文の埴輪にチンコを付けた絵などを描いている。男は老後が心配だという。女はそれでそれは使えるのか、と下半身を指す。すると、男は女を強引に地下街入り口の階段へ連れて行き、ズボンに女の手を入れさせる。「大丈夫、老後の心配は要らない」と女は答え、逆に自分の胸の張りがなくなってきたのが心配だと言って男の手を服の中に入れる。男は「まだぷりぷりしているから心配すんな」と言う。これが出だしである。


次に結婚式のシーン。犬塚ひろし、谷啓が会社の社長と部長(専務?)。その部下が結婚するというのでスピーチをするのだが、二人とも話の途中で編集カット。この切れ味がいい。その式の司会者が、さっきの老後が心配だと言った藤原竜也。ケーキにナイフ入刀というときになって、一人の男が殴り込んでくる。新郎はやくざから500万円を借りて返していないと騒ぎ立てる。新郎の社長、犬塚は、新郎を馘首し、妻(加藤治子)、谷啓ともども引き上げる。新婦の父も激怒し、結婚は破棄となる。しかし、司会者、新郎、やくざは仲間で、ご祝儀などをかっぱらう。しかし、クルマで逃げ出すときに、ある事件を目撃し、それが災いのもとになる。
古びた、今は使われていない工場のような建物に3人が到着する。中に入ると、先の犬塚、その妻加藤治子、部長の谷啓がいる。つまり売れない老齢役者と若者3人はつるんで、結婚詐欺をやっているというわけである。


非常にテンポもいいし、若者と老人の気の合った様子もきちんと描かれる。なによりも藤原竜也がいわくありげでいい。いろいろな危ない仕事、つまりやくざ、傭兵などを経験し、いわゆる悪の技ひとそろい覚えたという虚無を抱えた男である。頭も切れ、喧嘩も強い。それで友達思いである。


先の事件というのは、厚生大臣の不正を証言しようとした官僚を、大臣の意を受けて動くある組織が拉致する現場だったのである。その組織は、政治家などの不正を隠蔽するための私企業で、殺人でも何でも請け負う会社。大臣を岸部一徳、犯罪もみ消し組織の長が豊原巧輔で、岸部はテレビ画像か、国会の予算委員会での答弁に映像が限られている。悪の親玉が重々しくない。豊原という役者は凄みがあっていいが、やはり予算委員会での様子は生彩がない。追究する野党議員は、相手が答えるはずもない幼稚な質問をして、いっそう生彩がない。塚本監督は、こういう場面を描くのが苦手なのではないか。も一つ、藤原が警察に証拠写真を持って行ったときに、相手になった男が受け付けないという。雲の上のことに手を出すとキャリアの経歴に傷がつくから、というわけだが、これも通俗である。


よくできた映画で、ピカレスクをやろうとしたのは、ほぼ成功している。ノリは韓国映画オールドボーイ」で、実際、後半部分の藤原はサングラスにマント、髪はおっ立ちで、まさにオールドボーイの主人公そのもの。彼と恋人が銃でやられたのに生き返ったり、藤原たちを救おうとした若者の一人(『パッチギ』の男の子)が敵のバイクに立ちはだかり、死んでしまうところなど、おかしな設定がいくつかある。もう少し岸辺に演技をさせて、しかも筋の違えたところなどを修正すれば、この映画はすごい。


141 「母なる証明」(T)
ポン・ジュノ監督で、主演キム・ヘジャン。おつむの弱い息子と母親の家庭劇のように始まって推理ものに移行するという変わったことをやる。一応、推理ものなので、あまり詳しい話は書けない。
冒頭に見晴らしのいい草原でぼうっと薄汚い感じの初老の女が立っている。それがギター音楽に合わせて、民族的な感じというよりは、踊り子さん的な踊りをし、腕を上げて顔を隠したときにニヤッと笑う。この間にも、女の表情が微妙に変わるので、目が離せない。


次は何かカサカサと音を立てる干し草のような束を裁断機ジャキッジャキッと切るシーンなのだが、先の女はいつも視線を外にやるので、こちらに緊張感が満ちてくる。すると、突然、ドカンと交通事故で、息子が跳ねられるのが見える。


この息子が女子高生殺しで捕まる。母親は信じられず、犯人捜しを始める。そして、分かってくるいろいろなこと。女子高生は極貧であるがために、現金がない人間とは米と交換で寝るようなことまでやっている。その関わったすべての男の姿を、女は携帯で隠し撮りをしている。それが外に出ることを恐れて、何者かが殺した、と母親は推理する。


凶器の石のサイズが大きいことから図体の男が犯人と思わせるが、その石に難点がある。あるいは、愛する息子の出所に母親が来ないなども難点だが、映画的な感興は、今年見た映画のなかで随一である。最後、観光旅行に出かけ、辛い過去を忘れる針を太ももに打って、バスのなかで陽炎のように踊るシーンがいい。カメラが揺れて、対象からはずれて、映画はエンドである。にくい演出である。「殺人の追憶」でもタイトル文字がきれいだったが、この映画のハングル文字のタイトルはむちゃむちゃ美しい。


142 「おしどり駕篭」(T)
文芸座、錦之助特集である。これは面白い映画である。マキノ雅弘監督。58年の作。
錦之助は腹違いの弟に家督を譲るつもりで藩を出て、左官屋になっている。射的屋の美空ひばりに惚れていているが、それが言えない。美空も同じで、ほとんど映画の全編にわたってじれったい恋が展開される。とくに藩で進む不正に怒って錦之助が侍に戻り、行列をなして帰ろうとするのを、美空が追って行き、途中で二人が延々と恋のさやあてをするシーンが15分。これが、まったく下らないのだが、いいのである。


藩の悪人を月形龍之介がやっている。しかし、押し戻った殿に諫められると、すぐに改心するような家老である。まあ月形だから、悪者一辺倒というわけにもいかなかったか。
めでたく弟に家族を譲り、二人は大名行列の立派な駕篭ではなく、ふつうの駕篭で江戸に帰ることに。いくら駄賃がかかるのかしれないが、それでも豪勢である。


美空も歌えば、錦之助も歌う、ということで、和製ミュージカルの趣である。錦之助が月形が放った刺客20人ばかしと立ち回りをするときにも歌う。斬って歌い、斬って歌う、でぞくぞく来るような間である。


笑うのは、美空が商売道具の矢羽根を持って歩き、何か嫌なこと、不満なことがあると、錦之助の背をそれで打つことである。しまいには、乱闘の賊にも打つようなことをやる。観客席で笑いが起こるのは当然である。


143 「東海一の若親分」(T)
マキノで、次郎長である。61年の作。縄張り争いで父親が殺され、その恨みを晴らしにドモ安のところへ。その間に、石松(ジェリー藤尾)など面々が集まってくる。渥美清が怪しげなクスリを売る僧服姿で登場し、やはり次郎長に惚れて一家に入る。


目的の地では祭りが始まる。そこへ女性ばかりの講中姿の一団が集まってくる。これは人買いに買われた女たちで、たくさんの親分集集まる宴会場が、その女たちの値付けの場になる、という不思議な設定である。


もともと錦之助は石松の役で2度映画を撮っているらしいが、次郎長もよく似合う。ただ、戦いの場面でピストルを出してパンパンやるのは、ちょっと興醒めか。幕末の人だからおかしな設定ではないが、ドスでいいじゃないか、とぼくなんかは思う。
映画としては、まあ普通の出来。



144 「続親鸞」(T)
2時間はある。田坂具輶監督。60年の作。主に扱われるのは、親鸞の結婚、つまり僧侶の妻帯問題である。親鸞の師である法然(月形龍之介)は、まったく問題ないという立場で、娘が親鸞に惚れた関白もその意見を聞いて安心し、結婚に許しを出す。親鸞は生まれもよく、秀才。そして関白の娘と結婚する、という果報者である。このあと、念仏宗は集まってはふしだらなことをやっていて、そこに貴族の女が出入りしている、というので弾圧に遭い、法然親鸞ともに流罪となるのだが、それ以前の話である。


念仏だけ唱えていればいいというのは、実は革命的で、法然は僧侶が唱えるそれも、民衆が唱えるそれも違いはない、と明解に答える。妻帯をしないのは、そうしないでいるのが楽なだけだ、とも。もし男女が夫婦となって、お互いに弥陀を信じて、念仏を唱えるなら、それはとても幸せなことだ、というので親鸞の結婚を許す。


へえっと思ったのは、「人なおもて往生す、いわんや悪人をや」の言葉を法然が言っている。親鸞はそれを拝借したわけだが、きちんと史実を押さえてあるものだと感心した。


ぼくは「柳生一族の陰謀」を見て、錦之助の発音の悪さについて触れたが、そのときはサ行が気になったが、この映画ではラ行が気になった。歯切れのいい役だと目立たないが、ゆっくり喋ると、何か地のようなものが出るのかも知れない。


145 「森の石松 鬼より恐い」(T)
沢島忠監督。60年の作。石松が殺されるえん魔堂での殺陣を考える舞台監督錦之助、思案に暮れて、大酒を飲んで寝込み、そのまま石松の時代へタイムスリップ。照明のおじさん(山形勲)が次郎長に、秘書役の丘さとみが恋人に、と現代の人物が過去の人物に成り代わっている。錦之助は訳が分からず、東京へこだまで行って芝居の稽古をしないといけない、とか変なことを言うので気違い扱いに。


親分から金比羅さんへ代参してくれと頼まれるが、錦之助には石松が死んだ経緯が分かっているので気乗りがしない。しかし、恋人の励ましで旅に出ることに。いろいろなハプニングがあるが、筋書きが違ってくるから賛成だと
積極的にそれらを受け入れていく。はては商人風の男(田中春男)からくじで当たった1千両を預けられ、母親に届けてほしい、と頼まれる。親のない石松は肯う。ところがそれは盗品で、それを狙う悪党どもが追ってくる。


因果なことに、これも預けられた幼子が熱を発し、医師を連れて、最も行きたくなかったえん魔堂に通りかかる。そこに敵対するやくざ連が待ち受け、石松は死ぬことに。夢から覚めて、錦之助は課題だった立ち回りにヒントを掴んで、秘書役の丘と舞台の上で段取りをつけるところで映画は終わる。


現代と幕末をつなげたのがミソで、あとは錦之助がだんだん石松に変わっていく様子を楽しむ映画である。鶴田浩二が悪ガキ時代の兄貴分で、二人に振る舞うにも金がなく、夫婦で着物を売って酒を買い求める。もう晩秋なのか寒そうな気配なのに腹巻きにステテコ姿で、ああ暑いと言う鶴田浩二がけなげである。女房役が大川恵子である。


146 「一心太助 男の中の男一匹」(T)
59年、沢島忠監督。ご本人が文芸座で錦之助の思い出を語った。豪勢な遊び方、気っ風のいい性格、それいて心遣いのこまやかさ、錦之助の人となりを語って尽きないご様子。ぼくが先に死ぬべきなのに、とおっしゃった時は声が詰まった。


魚の棒手振りが太助の商売、河岸のにぎわいがものすごい迫力で映される。群集の俯瞰、そこを走り抜ける錦之助を今度は横からカメラが追う、追う。この移動撮影がこの映画の醍醐味である。酒癖が悪く、なまけ癖があるのを恋女房が支え、朝早くに河岸に出かけ、海辺から財布を拾う。それを巡る顛末は落語「芝浜」である。


家光の相談役大久保彦左衛門が太助のパトロン的な存在、月形龍之介が演じている。途中で死の床に。その威光を背景にしていた太助の影響力は、自然と落ちることに。権力の空白が起きて、以前から続いていた陰謀が表舞台に。南町奉行(進藤栄太郎)から、河岸を率いていた松前屋(大河内傳次郎)が豊臣の残党だという濡れ衣を着せられ、処刑場に。実は松前屋は、奥州藩の殿様で、弟に家督を譲るために江戸に出奔した人間。その弟が死に、殿を捜しに江戸にやってきた法師が、松前屋が豊臣残党ではない証拠を持っている。太助は筆頭家老で彦左衛門とも懇意だった伊豆守(山形勲)の出馬を願い、一件落着。


地の錦之助を初めて出した映画で、当時、新しい時代劇として評判が良かったと沢島監督が言っていた。錦之助も自著に自分がよく出た映画としているらしい。


147 「童年往時」(D)
侯孝賢監督で、自分史だそうだ。幼年時だけでなく、青年になってからも扱っている。父親の葬儀から時間が飛ぶ仕組みになっている。淡々と撮って、淡々と終わる映画で、何が主題ということもない。撮影カメラマンが付録でこう言っている、「起伏のない映画だから、映像にものを言わせないといけない」。かといって特別変わった映像があるわけでもない。あえて“詩情がある”ぐらいが適当か。


小津のファンだというが、些事を重ねれば映画になる、というのは悪い影響ではないか。この作品をぼくは好きだが、もっとテーマ性の強いものを撮ったらどうなるのか、そこが見てみたいと思う。


父が結核で死に、母が喉頭癌で逝き、祖母が老衰である。祖母は畳に横たわったまま腐って死んでいた。ということは、同居の孫たち4人はそれに気づかなかったということか。サブタイがthe time to live,the time to dieなので、生き死にを扱った映画ということになる。祖母が死ぬと、手の甲を蟻が歩いた、と言い、実際その映像を映すところなど印象が深い。。


登場人物たちがポリポリ食べるスティック状のものがある。一見細長いアイスに見えるのだが、音がポリポリで、時折口から何かを吐きだしている。とうもろこしかなとも思うが、それにしてもあの膨らみがない。


中国との軍事的な衝突が、この映画の背景として描かれている。夜に飛行機の音がしばらく続いたり、昼間に数頭の馬に乗った軍人があわてて村を行き過ぎるなど、断片的に触れられる程度である。。


148 「丹下左膳 飛燕居合い斬り」(T)
錦之助主演、五社英雄監督である。66年の作品で、同年に錦之助は「続 花と龍」を撮っている。その前年に「宮本武蔵 巌流島の決闘」「冷飯とおさんとちゃん」「花と龍」がある。そろそろ錦之助的なユートピアに亀裂が入ってきた頃である。安保がすぐ目の前である。


藩に潜り込んだ公儀隠密を倒すが、どういうわけか口封じに殺されそうになる。隠密に目を、仲間に腕を斬られて、丹下左膳の誕生である。話変わって、江戸城。悪徳家老が日光東照宮の改築に弱藩の柳生藩を指名、それは無理難題をふっかけて同藩を潰すためである。没収して天領とすることで、京都に近いために、朝廷に睨みを利かすことができるというわけである。しかし、柳生藩には“こけ猿の壺”という家宝があって、それには100万両の謎が隠されているという。映画はその争奪戦を描く。ところが、最後まで“こけ猿の壺”の底に書かれてあったことが何なのか分からずじまい。


左膳に惚れるのが淡路恵子、誘うために襟首を出すと色気が匂い立つようである。暑いのか肌が光ると妖艶である。藤岡琢也がその手下。柳生の大将が丹波哲郎である。最後に事件を締めくくるのが大友柳太郎で、大岡越前という役柄。


血の色が汚い。それに錦之助が妙に露悪的で、盗人たちとの宴会で「飲めや、歌えや」とおらぶときの品のなさよ。どうもぼくにはこの映画、座りが悪い。もっと爽やかな左膳が見たいものである。


149 「浪速の恋の物語」(T)
内田吐夢監督、主演錦之助、相手役が有島稲子。錦之助は飛脚屋の養子で、幼なじみのいとはんと結婚することになっている。ところが、遊郭で梅川という遊女に会って、その堅い性格に崩れが。小豆島のお大尽(東野栄次郎)が梅川を身請けすると知って、大事な商品である人の金250両の封印切りをしてまう。


その淪落の様子と、それを見つめる近松門左衛門という2つの筋が交わりながら劇は進行する。とてもよくできた映画で、二人が逃亡し捕まるまでは、十分に堪能することができる。残念なのは、事後処理の場面である。近松を筋に絡めた事情もあって、錦之助が捕縛され、梅川が遊女屋に戻り“二度詰め”(二度の勤めという意味らしい)となったあとのことを処理しなくてはならない。そこで文楽を持ち出すのだが、もう中心の劇は終わっているので、非常にそのシーンが長く感じられる。何かもっとあっさり終わる方法はなかったものか。そうすれば、この映画、かなり評点が高くなるのだが。


錦之助がおどおどした手代風を演じる、という趣向が面白い。すでに威勢のいいおあにいさんのイメージができているのに、こういう映画にも挑戦したというのは記憶されていい。


150 「扉をたたく人」(D)
トム・マッカーシー監督、主演リチャード・ジェンキンス、この人は脇役専門で、この映画が主演第一作だそうだ。監督のたっての要望で主役を演じたらしい。現代はThe Vitorsである。いい邦題を付けるものである。


週に一コマしか授業のない教授、本は4冊あるが共著で、ある一冊はまるっきり書いていない。その共著者が妊娠して学会に出られないということで、彼がピンチヒッターでニューヨークへ。そこにも住まいがあって、久しぶりにドアを開けてみると、二人の見知らぬ人間が。彼らは恋人同士で、友人に空き部屋だと騙されたらしい。ほかに行く先のない二人を教授はしばらく住まわせることに。


教授はピアニストだった妻を亡くしている。家でピアノを習おうとするが、指が着いていけない。同居することとなった男性はシリア生まれで、ジャンベという楽器を叩くミュージシャン。女はアクセサリーのデザインをやり、フリマでそれを売る。堅物に見えた教授はしだいにジャンベの虜になり、男と一緒に路上セッションをするまでになる。


男が不法移民ということで捕まり、連絡がなく心配になった母親がやってくる。息子のために奔走する教授に、彼女は惹かれ、教授も彼女に思いを寄せていく。結局、救助活動はうまくいかず、息子は強制送還され、母親もそのあとを追ってシリアへ。母親役がヒアム・アッバスという女優で、とてもきれいな女性である。品がいい。


教授が出席した学会は、第三世界とグローバリゼーションみたいなテーマで、かなり皮肉が効いている。ある一人は、金融のグローバル化第三世界の人びとも幸福にする、といった発言をする。ラストに母親が空港内に消えるとき、ゲートの上には星条旗がぼんやりと映し出される。


たった4館の封切りから評判を呼んで150万人の人が見たらしい。納得できる映画である。


151 「気になる関係」(D)
フランス映画、中年の男と少年が車の窃盗を繰り返す。男はファザーコンプレックスというか暴力的だった医者の父を憎んでる。その父を黙って見ていた母にも悪感情を持っている。少年はどこかからの移民らしく、父親がどこにいるかを知らない。母は父の帰還をひたすら待っているが、精神が病んでいて、家から一歩も出ようとしない。


男は二人の女を同時に愛するが、どちらともうまくいかない。少年の母親が錯乱し、病院に入れたあと、二人はビルの窓の清掃の仕事に就く。


不甲斐ない大人と父親を知らない少年の、行き場のない、それでもほのかな友情のようなものが通う映画である。