11年の映画

kimgood2011-01-04

1 バーレスク(T)
クリスティナ・アギレラとシェールの共演、監督はスティーブ・アンティンという人。存分に楽しませていただきました。アギレラの声の野太いこと。迫力が違います。ユーチューブで彼女の画像をいくつか見てみたが、ストリー付きで聴く歌のほうが絶対に迫力がある。


簡単にいえば、田舎出の女の子が、売りに出される寸前の有名クラブを救うという話である。クラブのマネージャーが「ラブリーボーン」で変態役をやったスタンレイ・タッチで、今回はゲイである。そういう偏った役が回ってくるようなタイプにも見えないのだが。「バーレスク」の演し物のなかにはエロティックなものもあって、「キャバレー」の一場面を彷彿とさせるところがあった。空中権という法律が結局はクラブを救うことに。


2 母べぇ(DL)
黒澤組のスクリプター野上照代原作と知って見た映画。独文学者の父(坂東三津五郎)が思想犯として捕まり、数年後に獄中死する。その間、母と姉と暮らし、時折父の妹(檀れい)と父のお弟子さん(浅野忠信)がいろいろ世話を焼きにやってくる。母役が吉永小百合で、いま週刊誌で彼女の苦悩多き人生が描かれていて共感するところが多い。やっと血肉の通った吉永小百合像に出会った感じである。この映画の配役が彼女で良かったのかどうか分からないが、きちんと前売り券がはけて興行の帳尻が合うとなれば、彼女を使うのだろう。それと余り思想性を強く出したくない監督の意図からすれば、普通の人である吉永の起用は頷けるのでは。


三津五郎が「武士の一分」では不作だったが、この演技は自然体でグッドである。檀れいがとてもきれいに見える。「武士の一分」よりはるかにきれいである。浅野忠信が木訥な学者(?)を演じていて、これも力が抜けていて非常にいい。彼の新境地ではなかろうか。全体に抑えた山田演出が好感だが、その反動か、ラストの三津五郎のセリフはちょっと臭い。鶴瓶三津五郎の弟として登場するが、はまり役かどうか分からない。ただ、こういう“しょうむない”親戚って必ずいたものである。それが前触れもなしに現れて、風のように去っていく。いわば寅さんである。


小林信彦山本夏彦から昭和16年まではのんびりしたものだったと聴いて、それは自分の実感にも合っている、と言っている。映画でも同年の日米開戦をエポックとして扱っている。しかし、思想犯を出した家庭にはシナ事変も太平洋戦争もひとつながりだったのではないか。


この映画が好感なのは、子役の二人が抜群にいい、それも姉妹の妹が実に可愛い。カステラ、すき焼きを目の前にして食べられなかったときの様子、いま泣いていたかと思うと皆がいなくなるとさっとコロッケに手を出す様子とか、母親に甘えてしなだれかかる様子とか……「ほたるの墓」の少女を思い出す。


いくつかの疑問がある。郵便受けの名前表示がNOGAMIとアルファベットになっているが、当時としては問題なかったのだろうか。それにその郵便受けが妙に新しい。同じく町の食堂などの造りがいかにもセット風で、しかも新しい。それと浅野の頭髪が色で染めたように見えるが、当時の風潮としてそれは問題はなかったのか。


4 息もできない(D)
昨年の韓国映画で、見過ごしたというか、潜在意識で見ないようにしていたというか。やはり後者らしく、3分の2まで見てギブアップ。最後の展開がほぼ見えたからだが、最初から最後まで暴力の嵐で、見ているのが辛い。チンピラが女子高生と知り合うのだが、そこそこいい暮らしをしている女だと見積もる。ところが、こっちの家庭も暴力が吹き荒れて家族の体をなしていない。しかし、この映画で息もできないのは誰か? 好き放題に暴力を振るう主人公か? 認知症の父親と遊びほうける弟を支えながらも、チンピラに刃向かう勇気を持つ女子高生か? 突然出てくる子持ちの腹違い(だと思う。よく分からない)の姉か? 主人公の妹を刺し、妻を殴り、事故で死なせ、ムショから帰ってきた父親か? あるいは、彼らを取り巻く中流階級か? 


殴ったあとに脚で蹴りまくる映像は、いつから始まったものか? 任侠映画ではありえない。山口組? たけし? スコッセッシにはあったろうか? カンフーには蹴り技があるし、たしか横たわった人間に蹴りを入れる。過去の価値観で言えば、少なくとも圧倒的に強い人間がやることではない。それが逆転して、一番の暴力男が蹴る! 蹴る! 蹴る! のである。相手は虫けらのような扱いである。これは見ているのが辛い。


5 かげろう絵図(T)
1959年の作で、監督は衣笠貞之助、主演山本富士子は二役、市川雷蔵は浪人のようだ。13代将軍家斉が院政を敷き、14代家慶が蔑ろにされる。さらに、家斉の愛妾(小暮美千代)とその父親(滝沢修)が画策し、犬千代とかいう孫を次の将軍にと企み、家斉に証文(お墨付き)を書かせる。滝沢修が剃髪の石翁という役だが、坊主上がりなのだろうか。一種、怪演である。


出だしの音楽が変わっていて、劇に引き込まれる。話に入っても底を打つような太鼓の音がしているので、緊張感がいや増す。しかし、しばらく経つと劇が一向に進まず、お目当ての雷蔵も出てこないとあって、イライラ度が増すが、最後まで演出テンポはスロー、スローである。しまいには尻切れトンボのように映画が終わる。これはきっと後編があるに違いない。しかし、フィルモグラフィーを見るかぎり、それらしきものがない。??である。


見どころはやはり山本富士子ではないだろうか。演技が達者で、ほかの映画でも体の動きのいいのに感心したことがあったが、この映画では二役をうまく演じている。もう一人、町医者の志村喬がいい。雷蔵と酒を飲むシーンで盃からこぼすのは愛嬌だが、その場の二人の楽しそうなこと。意外と気が合ったのかもしれない。雷蔵の剣術もおっとりして、まるで迫力がない。衣笠監督は動的なスピードに興味がないようだ。


6 カンフーキッヅ(D)
我慢して20分で沈没。冒頭に出て後は引っ込んでしまうジャッキーで客を釣っちゃだめだろう。画像が妙に鮮明なのはなぜか。


7 雨上がる(D)
小林御大が褒めておられたので、見る気になった。御大が指摘するごとく、夫婦愛的なまとまりの映画かと思っていたら、山田洋次三部作のような出来で、こっちが先なのである。きっと山田監督はこの映画に動かされて藤沢周平ものを撮ったのではないか。「雨」は山本周五郎原作だが。それにしても、もうちょっと違う宣伝の仕方をしてくれれば、封切り当時に見たかも知れないのに。


監督が小林尭史で、ずっと黒澤に付いていた人らしい。監督補として野上照代の名がある。剣術の達人だが、どういうわけか仕官が叶わない武士(寺尾聡)が、妻(宮崎美子)と就職の旅を続ける、という設定である。ある大河の渡し場で雨に降り込まれ、貧相な宿で足止めを食う。そこには娼婦から芸人、農民など雑多な人々が集う。黒澤の「どん底」を見るような楽しみがある。主人公が掛け試合をして得た金で購った珍味佳肴が盛りだくさん、いがみ合っていた人々も和気藹々と酒宴を繰り広げる。このシーンが長く、楽しい。


主人公はある藩で勘定方の仕事をしていたが、身に合わず、脱藩。江戸へ向かいながら、名のある道場で試合を申し入れる。いざという時に「参りました」と言って平伏すれば、道場主も気分がよく、歓待して土産までくれるという。場合によっては、剣術の指南もしてくれる。とうとう江戸一といわれる道場に乗り込み、そこの主、仲代達也が演じるのだが、木刀を交えしばらくすると、仲代が「参った」と膝をつく。スキだらけだが、相手に打つ気がないから攻めるのもならない。それで降参したというのである。主人公は、実はいつものように適当なところで止めるつもりだったと打ち明ける。それで2人は肝胆相照らす仲となり、主人公は師範代まで上り詰める。


雨で足止めを食ったところの藩主が三船史郎三船敏郎の子どもだそうだ。演技が下手だが、それが妙にはまっている。非常にオープンな性格で、周りに従う者たちも主君の分け隔てのない性格を愛している。やっと主人公は仕官ができそうな気がするが、藩主を手ひどくやり込めたことと、掛け試合の件がバレて、また振り出しに(最後に明るい逆転が用意されている)。


黒澤の相変わらずのヒーロー物だが、そこに「どん底」の雰囲気が加味されたり、友達夫婦のような清々しさが加わって、そのヒーロー主義も薄められている。やはり黒澤はすごい、この線で何本か撮れていたろうに、と悔やまれる。


8 アンストッパブル(T)
トニー・スコット監督で、暴走列車もの。主演がデンゼル・ワシントンで、首切りを宣言され、あと20日ぐらいしか勤めが残っていない機関士、4カ月の新人車掌がクリス・パイン。スコット監督とワシントンはいくつも組んでやっているようだが、ぼくは見たことがない。この映画も、黒澤の思い出がなければ見なかったろう。


緊張から肩が凝り、脚も痛い(ブレーキを掛けようとして踏ん張っていたらしい)。しかし、劇の展開に間延びするところがあって、しかも斜め上空から伴走する車と一緒に暴走機関車を撮ると、ゆったり走っているように見えるところが2、3カ所あって残念。
しかも、いろいろスピードダウンを試みたあと、最後は車が追いついて、そこから暴走列車の先頭車両に飛び移るわけだが、そんなら最初からやってたらどうだったのか。しかも、120キロ超のスピードに戻ったときなんかにやらないで。


若き車掌は離婚するかどうかのゴタゴタ、熟練機関士は妻をガンで4年前に亡くし娘2人と暮らす。その名を聞けば男がニヤニヤっとする酒場で働いて学資を稼いでいる。しかし、なぜいつも離婚なのか。暴走列車を追いかけながらお互いの今を語り合い、ラストは当然のハッピーエンド。このパターンを何度見てきたことか。それこそいつからこのパターンは繰り返されてきたのか。ドラマツルギーがマニュアル化されている。


9 二十四の瞳(D)
ゲオで急に木下作品がいくつか入荷された。彼の評価が低かったのはビデオやDVDの登場がなかったからだと指摘する人がいるが、これをきっかけに木下評価が高まればと思う。
ぼくもやっと「二十四の瞳」を見る気になった。ずいぶん遠回りをしたものである。子どもを使ったお涙映画、ハッピー物など見たくもない──そう思っていたからである。これ以降は、「木下」の項目へ。


10 「デザート・フラワー」(T)
ソマリア出身の少女(ワリス・ディリー=砂漠の花の意味)がロンドンで著名な写真家に見初められ、世界的なファッションモデルになり、映画のラストは国連で割礼の問題を訴える。一直線の成功物語にしない展開なので、何か変だなという感覚で見ていたのだが、割礼がテーマだったのか、と迂闊である。あと知恵だが、この原作のことが少し記憶に残っていたことに気が付いた。写真家をティモシー・スポールという役者が演じていて、とても感じがいい。ハリー・ポッターのシリーズに出ているイギリスの役者のようだ。


11 「愛と哀しみの果て」(DL)
2時間半の超大作である。1985年封切りで、原題はOut of Africaアイザック・ディネーセンの自伝が元になっているらしい。彼女はアフリカ・ケニアで過ごした日々のあと、故国で英語とデンマーク語で小説を発表し、ノーベル賞候補になった人のようである。メリル・ストリープが独立心旺盛で、しかも愛する人に全身を預けるような役を、いつもながらごく自然に演じている。お相手はロバート・レッドフォードで、もうピークを過ぎた頃の作である。1914年の第一次大戦の前後が扱われている。欧州人にとってアフリカとはいかなる意味を持っていたのか、きっとディネーセンの作品を読めば書いてあるのだろうと思う。コーヒー農園を経営してた彼女が借金を重ね、しまいに火事で作業場が焼けて、とうとうアフリカを去るときに、新任の総督に現地人の住居地を確保してほしい、もともと彼らの土地だったのだから、と主張するシーンがある。これは当時としては異色なことだったのだろうと思う(未だにか知らないが)。それにしても「愛と哀しみ」と付ければ、どうにかタイトルになるのだから、呆れたものである。


13 「破れ太鼓」(D)
木下恵介作品なので、その項に譲る。


14 「秋津温泉」(D)
最近、ゲオには木下恵介吉田喜重などの作品が増えている。清水宏もある。この「秋津」は吉田監督で、前から気になっていたものだ。小難しそうなイメージのある監督なので、ほとんど彼の作品は見たことがないが、この映画はタイトルに惹かれていた。岡田まりこ主演100作目と謳われ、企画も彼女がやっている。原作は藤原審爾である。62年の作で、監督の4作目である。吉田は木下恵介の下に付いていた。


岡田の相手役が長門裕之で、周作という名である。結核を患った学生が岡山の叔母を訪ねるが、戦火で家は焼失、叔母のいる鳥取へ向かうが、途中の列車で行き会った人から秋津の名を聞き、そこへ行くことに。古い旅館の娘で17歳の新子という女に出合う。彼女も横浜で女学校に通っていたという。周作は自殺願望を持ちながらも、弾けるような生命力の彼女によって生きる意志を吹き込まれる。敗戦と聞き激しく泣き崩れる新子、しかししばらくすると「戦争が無くなって気持ちが晴れ晴れ」と言い放つ女である。


周作は快方に向かい、秋津を去り、社会人となる。作家志望らしいが、うだつが上がらず、心理的に弱ると秋津へと舞い戻る。それが、3年ぶりだったり4年ぶりだったりする。その間、二人には性的な関係はない(らしい)。出合いから10年経って、周作は結婚し、子どもも生まれそう。秋津へとやってきて、ようやく性的な関係ができる。それは、翌朝の風呂の中での新子の表情で分かる。周作が結婚した相手の兄が宇野重吉で、人気作家になり、そのツテで周作は東京の出版社に職を得る。会社近くの貴金属売り場の女に手を出すなど、適当に生きている。そして義兄のふるさと再訪の取材に同行し、しばらくぶりで秋津へ舞い戻る。新子は親から引き継いだ旅館を手放し、抜け殻のような女になっている。表情にはかつての生彩がない。二人はセックスをするが、初めてそれらしい場面になる。翌日、虚無的な表情の新子は周作に死んでくれとせがむが、もうそんな年じゃない、以前に死のうと言ったのはウソだった、と断る。新子は周作を見送り、手首を切り、川に手を差し込んで一人で死ぬ。周作は異変に戻り、新子を抱きかかえ泣くところで映画は終わる。


音楽が常に情緒的に盛り上げようと全編に流れるが、二人の関係が妙にさばさばしていて、情緒的にならない。10年目の逢瀬でやっと性的な関係ができるなど、設定がおかしい。その逢瀬では、帰ろうとする周作を離さず、町の旅館に彼を引っ張り込むなどの行動に出る。しかし、翌朝、また別れのシーンがあって、次の秋津が新子自殺の一連のシークエンスである。


新子という女性は魅力的である。生命力に溢れている女性が、いかに衰えていくかが描かれないので、この映画はもの足りないのである。中途半端なダメ男の周作にカメラが集中し、たまに秋津に行くときに新子が登場する仕組みになっているから、こうなるのである。よんどころない関係というふうには見えてこないのである。


男が自殺を望み、女はまったく人生に苦悩があることすら知らない。それが、17年経って立場が逆転し、男は曖昧に生き(会社の近くの貴金属売り場の女にまで手を出している)、女が純真なままに死を望んで一直線に死んでしまう。監督が描きたかったのは、この皮肉な交差なのだろうと思う。それにしても、床を一緒にしながら、唇もまともに合わさない演出は、時代の制約なのだろうが、違和感が立つ。妙な首の角度のキスシーンばかりである。


15 タイガーキッド(D)
インドネシア映画でミナンカバウ族のムラントウという青年期の修行イニシエーションで都会に出るカンフー青年が主人公である。シラットというカンフーで、植木挟みのような妙な形のナイフを使う。構えは腰を低くして、脚を広げる。人助けばかりする青年だが、最後に殺されて死んでしまう。カンフー映画では珍しいことで、これでは2作目は作れない。


悪人が白人で、女性を買って売りさばく商売らしい。その白人が2人で、小さい頃からのダチ公らしい。妙な存在感のあるコンビである。主人公が助ける女の子も愛嬌がある。カンフー映画としてはアクションがもの足りない。インドネシアの風俗もよく分からない。


16 「本日休診」(T)
言わずと知れた井伏鱒二の原作である。本日休診の札を出すものの次から次と患者がやってきて天手古舞いの様子を描く。冒頭に狂人の三國連太郎が出てくるが、彼をなだめるために仰向けに寝かせて、交差させた脚を木の幹に掛けさせるシーンがあるが、これは井伏「侘助のいる谷間」からの借用である。ラスト近く、山中の川に釣りに行くが、テグスがなくて頭の毛を抜かれるのは「白毛」の借用である。医者を柳永二郎が演じている。出てくるのはヤクザ、娼婦、狂人、博打狂いなど底辺の人間ばかり。鶴田浩二淡島千景が恋人役である。渋谷実監督で、人物の顔に光を当てるのはサイレントの名残か。


17 「ソーシャル・ネットワーク」(T)
デビッド・フィンチャー監督である。ぼくはどういうわけか彼の映画はほぼ見ていて、「ゲーム」を見落としているだけである。なぜ見てしまうのかを考えてみたい。今まで見たのは「エイリアン3」「ファイトクラブ」「セブン」「パニックルーム」「ゾディアック」「ベンジャミン・バトン」である。「エイリアン」は続き物だから。「ファイトクラブ」はエドワード・ノートンが出ているから。「セブン」は残酷そうなので敬遠していたが、やはり見ておいたほうがいいかなと。ブラッド・ピットモーガン・フリーマンで見ない手はない、というのもあった。「パニックルーム」はジョディ・フォスターで、「ゾディアック」は謎かけが利いているのだろうと見に行った。「ベンジャミン」は魔が差して。本当に見たくて見たのはつまり「ゾディアック」1作だけである。どれも中途半端な映画ばかりで、「パニックルーム」が典型である。「ファイトクラブ」も考え落ちのような仕組みになっていて、残念。この「ソーシャル・ネットワーク」は見たくて見た映画だが、やはり中途半端。監督とすればバーチャル路線から少し外したいということだったのかもしれないが。


フェイスブック」の創始者の物語だが、最初から最後までいけ好かない。女に嫌われ、友達に去られるが、当然であろう。自分のエゴしかないのだから(彼に取り付くナップスター創始者いけ好かない)。全世界で1億人が参加し、いま進行中のエジプトの革命もフェースブックなしにはありえなかったらしい。


主人公は好きになれないタイプだが、しかし、いかに栄華が手に入ろうが、そんなことお構いなしにSNSの普及に邁進する姿は清々しくもある。それにしてもハーバードの名門クラブの存在がいかに学生たちの虚栄心を縛っているか、この映画でも知られされた。


途中で2、3度ビクトリアズ・シークレットが話題に出てくる。ある男が妻に下着を贈ろうと思うが、その種の店に男が入っていくと変態扱いされる。それで男も入れる店を作った(?)ところ大ブレイク、そして通販でも買えることでもっと手軽に。その創始者は自分の始めた事業の本当の価値が分からず途中で売却、数年もするとメジャー企業に成長し、その事実に打ちのめされハドソン川に身投げ。そんな失敗はするな、という意味でベンチャーの先輩ナップス創始者がこの話を持ち出すのである。ぼくはボブ・グリーンのエッセイで、婦人連の小さな集まりに下着を披露して即売する会社があることを知って、アメリカって変な国だな、と思ったことがある。しかし、その後日本にもピーチジョンのような会社もできたわけで、女性には下着へのhェチがあるのかもしれない。それを贈る男の気がしれないが。


18 「寅次郎夕焼け小焼け」(D)
講談社で寅さん全作DVDマガジンが発売された。第1期は人気投票順で刊行される。1位が第1回作品、2位がこの「夕焼け小焼け」で第17作である。太地紀和子がマドンナで、播州龍野の芸者ぼたん。ぼくは「リリー物」に指を屈する。やや老けた浅丘ルリ子の可憐さが何とも言えないのである。


この作品も見ているはずだが、ほとんど記憶にない。冒頭が映画ジョーズのもどきで、佐藤蛾次郎が下半身を食われ、血だらけになっているのが不気味である。しまいに桜も脚を残して食われてしまう。山田監督も相当のことをするお方である。


有名日本画家静観を宇野重吉、龍野で彼に随行する役人が桜井せんりに寺尾聡で、親子共演である。その寺尾がものを食べてばかりいるのがおかしい。桜井せんりが宴会で歌をせがまれて、正調で歌うのがおかしい。これはほんとに吹き出す。谷啓も死んで、クレイジーキャッツもあと残り少なくなった。静観が昔捨てた女性に会いに行くのだが、その相手が岡田嘉子で、沈黙の多いこの2人のシーンは心に残る。最後、静観の乗るタクシーを送るのに元気に手を振るのだが、これもいい。


寅さんが何かと言うとすぐに財布を出すのは、純情一途に合わないようにも思うが、寅は自分のために散在することは余りないのではないか。だいたいがそれほどの金子(金子光晴が「鳥目(ちょうもく)」と言ったと茨木のり子が書いている)ははなから持っていないわけだし。芸者ぼたんを騙し、200万円をかすめ取ったのが佐野浅男で、いかにも憎々しげな奴を演じていて、これもいい。


人気の作品なことはよく分かる。破綻がほとんどないからである。ないものねだりをすれば、ぼたんと寅さんのきわどい場面がちょっとだけでもあれば、複雑な映画になっただろうに。さくらに「ぼたんさん、お兄ちゃんのこと好きなんじゃない」と言わせておいて、「冗談もほどほどにしろよ」と男前のせりふを言うのは出来すぎではなかろうか。寅にはこういういい男振りがあることは認めるが。奥手の寅がいかにも軽々と「所帯を持とうな」とぼたんに言うのは、異色である。リリーはどさ回りの歌手、ぼたんは田舎芸者、寅がごく自然に愛することができる女たちである。しかし、そこには必死のロマンチシズムが欠けているので、寅は燃えないのである。


19 「イップマン(葉問)」(T)
久しぶりに伝統カンフー技を見た。嬉しい、楽しい。それでもやはり俯瞰移動をスムーズにやったり今風な映像だけど。全体に色が緑がかったしっとりした感じだ。不安定なテーブルの上で2人で戦うところなど、新趣向だ。道場を開くのに先輩連の承認とみかじめ料が要る、というのは初めて知ったことだ。その先輩連の親玉がサモハン・キンポーで、老け役を堂々とこなして安定感がある。柱に棒の出っ張りを作り、それを使ってカンフーの練習をするのは「ベストキッズ」で見ていたが、イップ・マンのそれはガタガタ音がするのが変わっている。


イギリス統治の香港が舞台で、現場主任らしき男がワルで、カンフー師匠たちは賄賂を強要されている。イップマンだけがそれに逆らうのだが、最後はサモハンを倒したボクシングチャンピオンと戦うことに。そのチャンピオンがいかにも憎々しげに撮っていて、ジャッキーで見たイギリス人とまったくイメージが違う。映画のノリは「ロッキー」である。相手を倒したあと、イップマンが「武術に優劣はない。みんな融和でいこう」などと述べるが、ちょっと白々しい。しかし、常に謙虚であれ、という儒教の精神はいまの中国になぜないのか、経済伸張は民族の特性さえ瞬く間に変えてしまうらしい。


この映画が5千人を集めると「序章 イップマン」が公開されるという。もろに反日の映画のようだ。5千人なんて簡単だろうが、反日に荷担するのもなんだかなぁである。


20 「青春ジャズ娘」(D)
監督松林宗恵で、全編これミュージックの変わった映画である。というか、ぼくが小さかった頃、日本の映画には音楽が溢れていたように思う。ハリウッド・ミュージカルの影響が色濃かったのだろうと今は思う。あの「カルメン」にしてもミュージカルではないか。1953年の作。


題は「ジャズ娘」だが、学生ジャズメンの話である。新倉美子という女優がシンガーなのだが、なかなか渋い歌を聴かせる。プロの歌手として江利チエミが登場するが、可憐で綺麗である。貧乏から仲間を裏切るのがフランキー堺で、妙なうらなりで、それに顎がしゃくれている。寂しい影を引いているのは、この映画でも同じ。途中でバンジュンがちょろっと出てくるが、これがおかしい。マンボを踊り、「パージャ」と叫ぶ。もちろんアジャパーの倒置である。バンドの劇場デビューで客演に呼んだ江利チエミが、映画撮影との掛け持ちでなかなか到着しない。その間、トニー谷が持たせるのだが、これも面白い。背広を脱ぎ、丁寧に畳んでからソデのほうに乱暴に投げるネタは、ヤスキヨがやっていた。変な外国語チャンポン・マージャンは藤村有弘が始まりというが、トニー谷の英語も相当にいかがわしい。ハエ取り紙をネタにした歌と妙な踊りをやるが、ハエではなく「ハイ」とはっきり言っている。


金語楼が学生楽団のリーダーの父親、女性シンガーの父親が古川ロッパ金語楼はイマイチだが、このロッパは笑える。すぐに昔取った杵柄で歌を朗々と歌おうとして娘に止められるシーンがおかしい(森繁の社長シリーズのロッパはつまらない。いくらも見ているわけではないが)。
この映画は、拾いものである。途中で世相を表すために全学連のデモと競馬と踊り狂う若者が挿入される。木下恵介の「日本の悲劇」にもこの手が使われているが、競馬というのはあの小津の映画にも風俗として登場する。きっと目新しい戦後風俗だったのだろう。


22 「小さな命が呼ぶとき」(DL)
何でしょ、このタイトル。ポリオ病といわれる難病のための薬を開発する物語である。研究者がハリソン・フォード、2人の子がポリオである父親がブレンダ・フレイザー、監督トム・ヴォーン。ハリソンがプロデューサーも兼ねている。


基金を募り会社を立ち上げるが資金が続かず大手製薬会社に身売りをする。へぇアメリカらしいな、と思って見ていると、その先の筋がよく分からない。製薬会社はポリオ関連で3つの新薬を作ろうとしていて、それとはまったく発想の違うハリソンの新薬開発と競わせている。どれが有望かということでめくらテストをするが、どれが勝ったかよく分からない。さらに、その有望新薬を2人の子に投与するわけだが、どうもハリソンが開発した薬らしい。ほかにもいくつか筋を追えないところがあって、こういうのは客観的に作品を見ることのできる立場の人間がサジェスションをしないといけない。監督にコントロールする力がないのであれば。


大製薬会社を悪に描く映画はあるが、この映画は意外と中庸である。異端の科学者ハリソンにだけ肩入れせずに、製薬会社は客観的な立場で医薬開発をしているというとらえ方である。主人公が我が子のために新薬を盗むが、それを咎めず、首を切ればもう社員じゃないんだから、新薬の投与対象に主人公の子どもを選べる、と会社側が処置するが、なかなか温情ある対応である。これはこれでハリソンの保守性がかいま見える演出で、記憶に値する。


23 「寅次郎 相合傘」(D)
リリーこと浅丘ルリ子との共演である。北海道で出会って、リリーが柴又に寅に会いに来るところから始まる。サラリーマン生活に嫌気がさして家出をした男が船越英二、寅とリリーと3人で夢のような旅を続ける。旅館の狭い一室で3人が雑魚寝、リリーが足が冷えると言って寅の足に付けると、寅は「しゃっこい」と言って船越のほうに行けとつれない。リリーは船越に足を付け、船越は一睡もできない。3人が夕日の浜辺でシルエットで撮されるシーンは、寄りはなしで引きのまま。それが叙情があっていい。


リリーは寿司屋を開き男と所帯を持つが離婚。場末のキャバレーで歌を歌って身過ぎ世過ぎをしている。自立した女で、船越が昔別れた初恋の彼女に未練たらしくしていると、その人はまったくあんたのことなんて気にも留めていないよと諭す。寅が「女らしくない」と言うと、「あんたも女をそういう見方をする男か」と啖呵を切り、いなくなる。あるいは、寅屋の連中が寅のメロンを用意していなかったことで寅が大騒ぎすると、あんたはどれだけここの人たちにちやほやされているのか知らないのか、とこれも立て板に水で言い切る。

浅丘ルリ子は1940年生まれ、この作品が1975年でシリーズ第15作目。浅丘35歳である。ぼくはもう40はいっていると思っていたが、意外と若いのである。しかし、もう若くはない気配は顔に現れている。その微妙なバランスが美しいのである。寅と結婚してもいいと言うが、寅は「あいつは頭がいいし、ちゃんとした女だ。いずれ旅立っていくのさ」と透徹した哲学を披露する。あれだけ惚れた腫れたでとっちらかしたような寅だが、一方でここまで深く人生を知っているのかという驚きがある。


24 キック・アス(T)
一度、見ようとして客が多くて止めた映画である。今度は早めに行って席を確保。また満員である。ノリはアメリカお得意のお馬鹿映画と見せながら、伝統的なスーパーヒーローものの真髄を踏んでいる。いわゆる平凡極まりない男がヒーローに変身するというパターンである。ただ、この映画の主人公はほかのスーパー親子に助けられてヒーローになるのだが。


ウイル・スミスが酔っ払いの薄汚いスーパーヒーローを演じたときに、何か微妙な変化のようなものを感じた。ダウニーJrが武器商人から平和の使者に変身したときにも、何か地殻変動のようなものを感じた。まして、かのエドワート・ノートンがモンスターになり、敵がティム・ロスだったときの驚きよ。もうマッチョでも、ムキムキでも、長身でなくても、この種の変身ヒーローを演じることができるのだ! と呆れた。「キック・アス」は何かこれらの先にある映画である。「プレシャス」が悲惨なのに楽しく撮ったように、おちゃらけているんだけど真面目に撮ったアンチ・ヒーローのヒーロー物といった作りである。途中で「荒野の用心棒」のテーマソングが流れたとき、ああ、タランティーノの影響ね、と納得した。音楽の使い方がぶっきら棒で、チープなのである。途中でアニメを挿入したり、日本刀が出てきたり、カンフーが登場したり、タランティーノ趣味が感じられた。その残酷さも含めて。子役の子が口元の血を手の甲で拭うシーンは、ブルース・りーへのオマージュである。翻訳を町山智宏がやっている。戸田奈津子先生を辛辣に批判している方である。戸田さん、もうお止めください、と。


ニコラス・ケイジがお父さん役である。彼のヒーロー物「ゴーストライダー」は結局、続編が来なかった。残念である。子ども役の子がかわいい。こいつは「バッファロー66」「アダムス・ファミリー」のクリスティナ・リッチのようになるのではないだっろうか。参りました。


日本ではアメリカのお馬鹿映画は受けないのだが、結局はヒーロー物になっている爽快感があるから、客が入っているのだろうと思う。ただ、「ハングオーバー」などの入りを見ても、何かこちらの日本人の側にも変化が感じられる。漫才グランプリに衆目が集まる国なのだから、下地は十分にあるはず。
蛇足だが、assには愚か者の意がある。kick assでバカをやっつける、か。辞書では「怒る」「怒りを見せる」ぐらいの意味が出ている。ass kickでぼこぼこにやられる、というのは映画の中で2、3度出てくる。


25 ダージリン急行(D)
公開が08年、ウェス・アンダースン監督。ぼくはほかには見てない。「ライフ・アクアティック」を保阪和志が激賞しているので、いずれ見てみたい。いわゆるロードムービーなのに、電車の中のシーンが多い。あとはインドの雑踏である。彼らは父を突然の死で亡くして以来、1年、顔を合わせていない。そこで長男が和解の旅を演出したというわけである。それがまるであれこれと指示がうるさい団体旅行のツアーガイドである。電車のサービス係の女性が性的に情熱的である。インド人にもこういう人がいるんだ……いやインド人はこういう人なのか、と思った次第。車掌が白人の乗客に毅然と接するのも意外だった、いやこっちが本当のインド人なのか……。


彼らの母はインドの修道院にいて、夫の葬儀に駆けつけなかった。その母を訪ねるのが長男の隠された意図だった。旅を続ける途中で川に溺れる子どもを助けたものの、子どもの一人が死ぬことに。村の葬儀に連なるまでの、無言で繰り広げられる彼らおよび村人のたたずまいにはスピリチュアルなものを感じた。その葬式のシーンで3人が横に並んだところで、急に場面が転換し、黒づくめの3人が並び、父親の葬儀の日のゴタゴタ場面になる。


インド少年の葬儀がすみ、アメリカに帰る飛行機のタラップの元でもめごとが起きる。何事かと思うが、飛行機の爆音で声が聞こえない。すると場面転換でバイクに3人が乗って、母のいる修道院へと向かうシーンになる。


母と子は語らい、母は翌朝にはいなくなる。いつも突然いなくなるのだという。彼女が子どもたちに残した言葉は、「言葉を遣わずに自分を表現してみたら」というものだった。


ウェス・アンダースン、これはただ者ではない。懐かしきインド賛美でもないし、疲れた白人という対比でもない。何か猥雑なほごらかさを共有したものの祝祭といった趣である。もちろん、白人たちには離婚騒動などの悩みは定番のようにあるにはあるが。次男役のエイドリアン・ブロディは「キャデラック・レコード」で色気のある男を演じて良かったが、この作品でも気弱そうでありながら芯のありそうな役がはまっている。3男のジェイソン・シュワルツマンは見たことのある顔だが、出演作を見ても思い出さない。小柄で飄々とした感じは得がたい。長男オイウェン・ウイルソンエディ・マーフィと共演した「アイ・スパイ」で見たことがある。妙にくぐもった発音をするのが印象に残っている。たまにこういう発音の俳優がいる。それにしても、いい年をした男どもが父に一番愛されたのは自分だとか、母は自分たちを見限っただとか、非常に幼い。自立の国アメリカにしてこれなのか。


26 男はつらいよ


シリーズ第1作である。寅はかなり粗暴で、隣の職工さんに使う言葉も荒いし、すぐに手が出る。さくらを平手打ちするし、ラーメン屋で大きな声を出して回りの人間を恫喝する。始終、ケツの周りは……のセリフを口にする。さくらの見合いの席では、やたらに汚い話ばかりする。その理由がいま一つ描かれないから、粗暴で卑しいだけの人間にしか見えない。テキ屋一家に挨拶に行くシーンもあり、かなりワルの面影が濃厚である。シリーズのどのあたりからこれが消えたのか、探ると面白いだろう。国民映画になるために、どうやってみぎれいになったのか。


27 コンサート(DL)
2回目である。やはり同じところで泣いてしまう。マリー・ジャケを演じたメラニー・ロランが美しい。監督は亡命ユダヤルーマニア人だというラデュ・ミヘイレアニュという人。主演のアレクセイ・グシュコブの指揮の様子はどうもウソっぽい。ロシアで共産党が集会を開くのに、アルバイトで人を雇って聴衆に見立てるところや、石油成金がマフィアと結びついているところなど、ソ連崩壊後の様子も少し分かる。楽団員の一人がパリで物売りに余念がないのは、金儲け主義のユダヤ人といったイメージ操作かと思ったが、映画の成り立ちからいってそれはありえないから、単なる挿入エピソードか。全体に演出があざといので、いい映画とは言えないが、メラニー・ロランで救われている。


28 ヒアアフター(T)
イーストウッド最新作である。主演マット・ディモン、セシル・ドゥ・フランス、脇でブライス・ダラス・ハワード、ジェイ・モア。それにしてもご老体、矢継ぎ早に作品を発表するものである。今回はスピルバーグが制作・総指揮に就いている。二人の接近は、ますます暗くなるテーマや、ある種異常なものへの偏愛にあるのではないか、というのが阿部和重の意見である。


死後の世界を見た人間と、死んだ人間と交信したいという人間の物語である。複数で進む話が最後に一カ所にまとまる、というご都合主義の映画だが、ぼくはイーストウッドの映画のなかでは、いちばんしっくりきた映画である。今までの彼の作品は、ぐっと頭を押さえ付けるような緊張感があったが、そうかあの世という抜け穴があったか、と安堵した次第。老年のイーストウッドもこれで安らかに死ねるのではないか。あの世は存在し、そこにいる人間は笑いもし、何にでもなれる、というのだから。


もう中年を越したセイル・ドゥ・フランスの配役は絶妙である。主人公とイタリア料理教室で知り合うハワードは、過去に触れるなとマットが言うのに、どうしてもとすがる。その理由がよく分からないが、マットは結局、彼女の秘められた過去に触れることに。「父親がすまないとしきりに言っている」とマットは伝える。何か近親相姦的な匂いを感じさせるが、明らかにはされない。ハワードはそれ以来、マットの前には姿を現さない。
ハワードは「ビレッジ」「マンダレイ」「スパイダーマン3」を見ている。独特な顔つきをしている。今度の映画も、スパイダーマンもそうだが、ちょい役的に扱われるところがある。「マンダレイ」が最高峰か。あの映画では、表情も違って見えた。ジェイ・モアは「エージェント」で見かけた俳優である。この映画は何回も見ているので、顔を覚えたのである。


イーストウッドのなかにある異常性がよく表れたのは「チェンジリング」であろう。あるいは、「ミスティックリバー」にも、それがある。後者の場合、まるでデュシャンの覗き窓のようなひねくれ具合で死体が見つかる。あるいは、ティム・ロビンソンの中にある少児愛、これはチェンジリングのテーマでもある。「真夜中のサバナ」ではホモセクシャルが扱われていた。


今回は、パリを除けば全体の色が白っぽい。イーストウッドの映画はもっと深い色を思い浮かべるが。冒頭の大津波の急迫するさまは、びっくりさせられる。イーストウッド、初めての大仕掛けCGであろう。自然の容赦ない感じがよく出ている。


28 デュプリシティ(DL)
クライブ・オーエン、ジュリア・ロバーツ主演で2人はスパイ。身を引くために、ある仕掛けを考えるが……。オーエンは色気のある役者だが、意外と胸板からお腹のあたりの肉が足りないのか、背広姿が貧相である。ジュリア・ロバーツトム・ハンクスと共演した映画で失望してから綺麗に見えない。「ブロコビッチ」のように胸を出しているが、興醒めである。しかし、全体にソツのない映画で、面白く見ることができた。


29 花も嵐も寅次郎(D)
30作目で、ジュリーと田中裕子が出ている。寅のキレの悪さが目立つ。セリフも動きも生彩がない。もうこの時点から病が進行していたか。人見明がちょい役で、早野凡平がこれまたちょい役で出ている。おいちゃんは下条正巳だが、初代森川信がいれば、もう浅草漬けみたいな配役である。渥美が恩義で呼んでいるのだろうと思う。彼が森繁をゲストに呼んだときは、どんな感慨をもったことだろう。3月10日にジローさん(坂上二郎さん)が逝く。地震で大騒ぎの新宿の駅売りでそれを知る。浅草は遠くなりにけり、か。


30 五木ひろし明治座特別講演2010 夢舞台・華舞台(D)
お芝居が2本、そして歌謡ショーという組み合わせ。お芝居は藤山寛美のもので、スマートに笑わせてくれる。寛美ならもっと泣かせるのだろうけれど、そこは東京風に薄めてあるのだろうと思う。演目は「人生双六」と「紺屋と高尾」で、前者が味わい深い。歌謡ショーは彼のヒット曲が15曲、それと人の歌を3曲披露するもので、その後者の「山谷ブルース」は心を打たれる。彼自身がギターを鳴らす。あるいは、同期で彼より先に人気が出て、紅白出場を果たした歌手の「雨の夜はあなたは帰る」を歌うのだが、これはどういう心理で歌っているものなのか。「股旅もの」だけを集めたアルバムも聴いてみたが、これも思いのほか心が動いた。初めてのことである。そういう世代ではないし、ほぼ演歌など聴いたことのない人間には、初体験に近い経験である。


31 「フリーダム・ライターズ」(DL)
ヒラリー・スワンク主演で、荒れ放題の高校の新人先生役。子どもたちはストリートで生きることを強いられ、日々、戦争のなかにいると感じている。教室のなかにも同じ論理が貫徹し、争いが絶えない。その彼らにスワンクは日々の日記を書かせる。しかも、アンネ・フランクの日記を、アルバイトで稼いだお金で全員に新品本を配る。子どもたちは新品の本をもらったことがない、という。そして、アンネを読むほどに、彼女が彼らと同じ境遇にいたことを知る。死がつねに身の回りにある環境。家族や兄弟も同じく殺されている。しだいに彼らの心がほどけてゆき、ホロコーストミュージアムでの見学では、入館時に一人一人にある子どもの名前を渡され、最後にその子の運命が教えられる。死、である。彼らはバザーなどを開き、お金をためて、アンネをかくまった夫人を呼び、話を聞くところまで漕ぎ着ける。スワンクは家庭を顧みる時間がなくなり、夫と離婚することに。
この種の映画にぼくは弱い。


32 「コーチ・カーター」(DL)

サミュエル・ジャクソン主演で、これも荒れた学校のバスケを州大会に出るまでに激変させる。しかし、スポーツだけではだめだ、と試合に出させず、勉強をさせることに。周囲からの圧力をはねのけ、全体で5%の子しか大学に行かない地域で、チームの内5人を進学させるまでになる。
実話らしい。ぼくはこの種の映画に弱い。


33 寅次郎 忘れな草(D)
シリーズ11作目、リリーの登場である。夜汽車で涙を拭う女を見て寅次郎の心が動く。網走の町でシングル盤レコードを売るが、からっきしダメ。そこにリリーが来て、2人で波止場へ。お互いにあぶくみたいな人生だとリリーが言えば、あぶくもあぶく、風呂でした屁みたいなもので、背中に回ってパチンだと言って笑わせる。
それで別れて、次が柴又。偶然会ったことになっているが、寅を慕って訪ねてきたにちがいない。寅を初恋の相手だと言うが、まんざらウソでもない。夜中に飲んだくれてリリーがやってくる。それをやんわり諫める寅が、まさに賢人に見える。最後はリリーが寿司屋のおかみに収まるが、寅は北海道の牧場へ再修業といって舞い戻る。

思いの外、寅とリリーの絡みが少ない。『相合い傘』でぐっと近づく、ということか。そこでは2人は大きな喧嘩をする。寅が美人と喧嘩するなど珍しい。それだけ気が合ったということである。


34 彼岸花
小津の項に譲る。

35 トゥルー・グリット(T)
コーエンの項に譲る。

36 吹けば飛ぶような男だけど(D)
山田洋次監督で、これは傑作ではないだろうか。主演なべ・おさみ、緑魔子。支えるのは犬塚弘佐藤蛾次郎、都蝶々、有島一郎などの芸達者。なかでも犬塚の出世できないやくざは秀逸である。68年の作品である。翌年に寅さんが始まっているから、充実期の作品ということなるか。桜井センリなどクレイジーの面々が出ているのは、ハナ肇で映画を撮っているせいか。緑がヌケた田舎娘の役で、天草のクリスチャンという設定。好きでもない男に手込めにされ、流産したことで自分も死ぬことに。なべは彼女を利用しようとするが、根が悪い人間ではないので、悪に徹しきれない。幼いときに母に捨てられていて、その母がトルコ経営の都ではないかと勘ぐっている。最後は、舟で東南アジアに出て行くところでエンド。全体に古風で大仰なナレーションで進行し、その語りが小沢昭一である。ゴミために生きているような人間達のさまを、まるで別世界のように描くナレーションの異化作用もあって、この映画は内容に反して品がよくできている。それにしても、山田監督がこんな猥雑な映画を撮っていたとは、驚きである。舞台は港神戸である。


37 駅前女将(D)
駅前シリーズは24作あって、この7作目からは佐伯幸三がメガホンを取り、かなり後までシリーズ監督である。その前は久松静児である。駅前旅館、駅前団地、駅前弁当、駅前温泉、駅前飯店、駅前茶釜、そして今作である。脚本をずっと長瀬喜伴という人が書いている。58年から69年まで続いたシリーズである。ちょっとエロティックな、大人の漫画読本といった趣で、昔はこういうので大人は楽しんでいたのだと思う。1作目などは随所に大人でないと分からないやりとりがあり、今作にもそれがある。森繁がどうにか浮気をごまかし、妻の森光子からお酒をもらう。1本飲んだとき、森が「つけましょか」と言うと、森繁が「もう1本飲ませてくれよ」と不満たらしく言う。これは森が夜の誘いをしたと森繁が勘違いしたという設定である。あるいは、三木のり平乙羽信子と夫婦で、野球チームができるくらいの子だくさん。「お父さんはコントロールが悪い」と乙羽に言われ、三木は「だからこんなにガキができたんじゃないか」と、その子どもたちのいる前で言う。全編こんな調子である。


誰も彼も「かおるちゃん、遅くなってごめんね」の歌を歌う。これはぼくが小学生の頃に流行った歌だ。映画が64年だから11歳の時。みんな熱に浮かされるようにこの歌を歌うが、その気分はよく分かる。それと、淡路恵子が「わたし、何々する人↑」と最後を上げながら言うのは、コマーシャルの真似だったか? あちこちに同時進行の風俗を入れ込んでいるわけである。


意外なのは森光子が元気で、おきゃんで、それで女っぽくて、なかなかいいのである。こんな気持ちで彼女を見たことがない。新発見である。最後に中尾みえが出てきて、堂々と2曲歌う。それが実にうまい。それに貫禄さえあるのだから、すごい。彼女、その後、不幸な人生を歩むが、いまだに現役で頑張っているからすごい。


配役を言うと、森繁と森光子が夫婦、京塚晶子と伴淳三郎も夫婦、三木のり平乙羽信子が夫婦、フランキー堺と池内純子が恋人同士、淡島千景が森繁の昔の彼女、淡路恵子がバーのマダム、という設定である。我が山茶花究が中国人の中華屋さん。みんな用もないのにそこのカウンターで話をするのが面白い。山茶花さん、京まち子主演の何という映画だったかで朝鮮人の役をやっていたこともある。森繁がこの人が大好きで、「夫婦善哉」に呼んだところ、思いのほかの演技で、それで弾みがついた、というのをどこかで読んだことがある。恐いやくざからとぼけた役も知的な感じもやれる。有島一郎もけったいだが、山茶花さんもけったいである。


三木のり平が仲人となり、集まった人に、あっちへ行けと言い、「焼き場に行く人はこっち」とギャグを飛ばす。このあたりのきわどいギャグが、いまは見られなくなった。ぼくは三木の動きが大好きだが、もっともっと映画の中で彼をいじくってほしいものだ。


38 駅前茶釜(D)
シリーズ6作目、前作は駅が1回も出てこなかったが、今回はちらっと申し訳程度に出てくる。いいかげんなものである。伴淳が寺のスケベ坊主で、そのお宝がぶんぶく茶釜。古道具屋が森繁で、別の茶釜を見つけて教祖になろうとするのでゴタゴタが起きる。有島一郎が茶釜を狙う詐欺、その兄弟分が山茶花究三木のり平が狸で、芸者になったりの化け具合が面白い。やはりこの人の喜劇は異色である。淡島千景が森繁の思い人、淡路恵子が恋女房。フランキーが境内の写真屋である。


39 フォーリング・ダウン(DL)
監督ジョエル・シュマッカー、主演マイケル・ダグラス、客演ロバート・デュバル、バーバラ・ハシー。何やらコーエン的な異常性で始まるが、そうか、タクシー・ドライバーの昼間版かと気づく。自分の狂気に気づかず、世の中のほうが狂っていると考える主人公は、タクシードライバーの主人公と一緒。


この映画の主人公が違うのは、coming homeする場所が、たとえ思い違いでもあるということ。気弱な母親もいる。彼はひたすらhomeを目指す。その行く手をさえぎる者を殺してしまう。そこに退職日当日の警部デュバルが絡むことに。彼の妻も病んでいて、夫の早期退職を求め、二人でアリゾナに土地を買い、移り住む予定でいる。そこには、本物を模したロンドン橋があるという。falling down,falling downのロンドン橋で、それが主題にとられている。主人公が娘のために買う水晶玉のようなオルゴールの曲がそれであり、デュバルが気の立った妻を慰めるのもその曲である。


主人公の勤め先や、ひと月前の解雇などが分かり、ほぼ映画の絵解きが見えたあと、少しダレるが、この映画、ものすごく出来がいい。上の上という出来である。シュマッカーはバットマンを撮ったかと思うと『評決のとき』『オペラ座の怪人』などを撮っている監督で、ぼくはこの映画がいちばん面白い。主人公の狂気がどこから吹き出してくるか、それが説得性をもって語れるかが大事なのだが、それをうまく描いている。最後の決闘シーンもデュバルの微妙な表情で難なく切り抜けている。少し、この監督を追いかけてみようかな。


40 続・拝啓天皇陛下様(D)
野村芳太郎監督で、脚本に山田洋次が入っている。正編も見ているが、何が面白いのだろう、といった感想しかなかったが、この続編のほうがぼくには合うようだ。肥担ぎをするまぬけな男が兵隊になって、娑婆にいるよりずっといいと思うのは前作と同じ。出征のために床屋に行くが、その床屋は中国人で、あんた戦争に行くのに中国人に頭を刈ってもらっていいのか、と王さん(小沢昭一、しかしこの人は中国とか朝鮮の役が多い)。渥美はまったく気にしない。奥さん(南田洋子が元気が良くていい。この女優はとてもいい女優さんだと思う)ともども喜び、生涯の友と呼ぶ。


渥美は軍隊で軍用犬係になる。その彼が可愛がる犬は、京都の篤志家(久我美子)が寄付したもの。ずっと戦争の間、連れ歩くが、終戦となって中国に残すことに。途中、八路軍との夜の戦いで、向こうの捕虜となった男が北海道夕張の出身。その捕虜は、日本はすぐ負ける、だから投降せよ、と言う。八路軍が彼から習った日本の歌を歌うとき、それに聴き入る日本兵を右から左へとカメラが舐めていくところは情緒がある。全体にのんびりとした軍隊風景である。犬をみんなで可愛がるところなど意外である。


帰国した渥美は夫が戦地から帰らない久我を助ける。そのうちに夫(佐田啓二)が帰ってきて、渥美はこれも少しヌケた宮城まりこと結婚する。競輪にはまった渥美は稼ぎがない。宮城はむかしのパンパンに戻ろうとし、それを渥美に見つけられ、捨てられる。反省して渥美は彼女を捜すが、やっと見つけたのは警察。売春婦として捕まり、渥美の子を妊娠しているのが分かる。宮城は子を産んで死ぬが、その死に際に歌うのは予科練の歌である。この途中々々に王の羽振りの良さ、それからの転落、最後はよりの戻った南田と勇躍ベトナムへ向かう、などのエピソードが挟まれる。


最後に、「天皇様、こういう赤子もおりました」で終わる。戦争があったから主人公の人生がおかしくなった、というような映画ではない。それよりも、イデオロギーがどうであろうと、人と動物に優しい男がいる、といった映画である。きっとこの主人公は、また戦争があれば戦地へと喜々として出かけるのではないだろうか。しかし、この映画、やはりなんのために撮られたか分からない。正編が63年、続編が64年である。


41 ギターを持った渡り鳥(D)
藤武一監督で、旭である、浅丘ルリ子宍戸錠金子信雄、、二本柳寛である。元神戸の警官が悪人とはいえ人を殺めたというので流れ者に。なんで有珠山の見える丘で馬車から小林旭は降ろされるのか。函館はすぐそこ、なんて馬車の男は言う。完全にウソである。


中原早苗が町のヤクザの金子信雄の妹、娘がルリ子。バーのマダムが渡辺美佐子でこれが元気でいい。大した筋じゃないし、言うこともないが、旭はやぱりかっこいい。もちっと下半身に安定感があれば、いい押し出しである。田岡組長の長男の還暦パーティで、感激のあまり「声は出ないが、涙が出ています」とやった旭。さすがナイス・ガイ。彼の「北帰行」に小学生の頃、しびれたものだ。日活アクションもたくさん見ました。ルリ子さんはぼくは年が召されたリリーのほうがきれいに見える。港、歌、ヤクザ、恋、ウイスキー、お嬢さんに熟女──居酒屋は出てこない。小林信彦先生が日活アクション映画、とくに小林旭ファンである。


42 ザ・ファイター(T)
デビッド・O・ラッセル監督、主演マーク・ウォバーグ、客演クリスチャン・ベールメリッサ・レオエイミー・アダムス、ジャック・マクギー。いやあ、堪能です。堪えに堪えて一発逆転で勝つボクシングなので、力が入る。つい体も動いてしまう。母親がマネージャーで、シュガー・レイ・レナードを一度ダウンさせたことのある兄がセコンド的な役割。ところが、カネのために無理な試合を組み、弟は不信感を持つ。兄が薬物、警官への暴行などで刑務所へ入ったのをきっかけに、家族から離れ別のプロモーターの元で9連勝し、ついにロンドンでウェルター級のチャンピオンに。母親と兄の呪縛から抜け出そうとするが、試合に勝つほどに彼らを受け入れる寛容さも見せる、といったところが、もしかしたら彼が覇者になれた理由かも知れない。実話がもとで、最後の3試合は同じチャンピオンに挑戦し、1勝2敗で引退し、その後、相手のトレーナーおよびスパーリングパートナーを務めたらしい。その話も、彼の寛容さを表しているように思える。


ボクサーが町角の賭け事のような世界から始まってどんどん中央へと出て行くというのは、何かどこかで見たような気がする。アメリカの街場には、そういうアメリカンドリームへと繋がる回路が埋め込まれているのではないか。腕相撲(いわゆるタッグ・オブ・ウォー)にも確かそういうものが。ハスラー(同名映画1、2)にも、カードにも(シンシナティ・キッド、ラウンダーズなど)。これはきっと一考に値する文化である。


クリスチャン・ベールが頬がこけ、歯が抜けて、天頂がハゲている。ここまでやるかという感じで、好きな役者だけにちと寂しい。これじゃ映画通りにウォバーグ引き立て役じゃないか。ウォバーグは「ブギー・ナイツ」「極大射程」「ロックスター」「ミニミニ大作戦」「ラブリーボーン」と見ているが、この映画の彼がいちばんいいのではないか。「ロックスター」も捨てがたいが。恋人役のエイミー・アダムスはぽっちゃりのお腹を出したり、色気満載で、ぼくは修道女役(ダウト)か真摯なOL(ジュリー&ジュリア)しか見ていないので、ちょっとびっくり。自信のなさそうな、線の細い感じのほうが彼女には合っているのでは。母親役のメリッサ・レオは『フローズン・リバー』で一躍名を挙げたときは48歳、すごいものである。その何番目かの夫を演じたのがジャック・マギーで、この映画はだいぶ彼に救われているのではないだろうか。それにしても、男兄弟のほかに常に6、7人の女が一つ屋根の下に住んでいるのだが、最初、それがいつもたむろするファンかと思ったら、きょうだいの面々なのである。母親がいろいろな男と産んだ娘ということらしい。そういうのは早めに説明してほしい。


43 フォエバー・フレンド(D)
ベット・ミドラー、バーバラ・ハシーの友情物語である。原題はThe Beachで、二人が少女時代に出会い、ほぼ死期間近に過ごすのもビーチである。ミドラーは浮き沈みの激しい人生を歩み、大歌手に。一方のハシーは大金持ちだが、両親の鋳型にはめ込まれた人生が嫌で一度はミドラーのもとに身を寄せるが、父親の病気で家に戻り、結婚し、弁護士の道を。そして、いつか専業主婦に。夫の浮気、病気、離婚と重なるときに、つねにミドラーが手助けをする。何という映画でもないが、女性の友情を描いた作品は少ないように思うが、どうだろう。言うまでもないが、ミドラーの歌がいい。


44 寅次郎ハイビスカスの花(D)
リリーが柴又のキャバレーに戻ってきたのをヒロシが見つけて声をかける。そのときの服が冷たい紫色、寅が病気見舞いに行き、二人で暮らし始めたときは明るい赤、寅と別れてまた旅先で再会したしたときが黄色に茶の模様が入った服である。バス停で寅は団扇を煽いでいるのだが、それがリリーの服と同じ色、デザインの団扇である。

冒頭、家族がリリーの噂をしているときに、寅から電話が入る。リリーのことを告げると、一瞬、寅は思い出せない顔をする。寅はもう忘れていたのである。それが病気と聞いて、矢も盾もなくなってしまう。病院へ毎日、寅が見舞いにやってくる。食事を口に運んだりかいがいしい。そのときにずっとリリーの手が寅のどこかを触っている。それから二人の部屋が別々の同棲が始まるのだが、寅は避けるふう。ついにリリーが「あんた所帯を持ったことある?」と尋ねるが、寅は「振られっぱなしだよ、そんなことまで言わせるな」と応じる。リリーは寅のもとを去っていく。


柴又に戻った寅にみんな顛末を聞きたがる。寅は、リリーが「所帯持ったことある?」と訊いたときの目は、妙に色っぽかった、と振り返る。しらを切っているわけではないらしい。寅はリリーの心情を知っているのに、ここでは知らなかった演出にしてある。これはミスだろう。


そんなところへ、ひょいとリリーが顔を出す。あのときは幸せだったとリリーが語る。寅たちに部屋を貸してくれた沖縄の家の主婦が三線で歌うのが、「どうして好きな人と一緒になれない」という意味の歌だった、とリリーが言うと、横に寝っ転がっていた寅がふと洩らす(寅が寅屋で寝っ転がるのは絶えてないことである。旅先ではよくやる仕草だが)。「リリー、俺と所帯を持つか」。自分でそう言っておきながら、「俺、いま何か言ったか?」と慌てる寅。リリーは「私たち、あんまり暑いから夢を見ていたのさ」とごまかす。寅は庭へ行き、「ああ、夢か」と独りごちる(この演出を見ても、寅が沖縄でのリリーの求愛に気づいていないわけがない)。


リリーの目がとても印象的である。先の寅屋のシチュエーションで、部屋のこっち側からリリーを捉え、花の間に彼女の目を撮すところ。そして、柴又の駅で寅と別れるときの目が何とも言えない。「どこ行くんだ?」「水上温泉」「そうか」というやりとりの目、「(電車が)来たぞ」「そいじゃ」と言うときの目。渥美も細かい演技が多く、やはりこの作品がベストワンであろう(リリーが水上温泉に向かったことは寅も知っていたわけで、再会といっても、寅が追いかけていったと考えたほうが自然である)。


44 サラエボ、希望の街角(T)
内戦があったなんてウソのようなサラエボの町。主人公は携帯のカメラで下着姿の自分を映して、ボディチェック。仕事はスチュワーデスで、夫は管制官。二人はセックスを楽しみ、生活をエンジョイしているが、子どもができず人工授精をすることに。しかし、夫は勤務中にアルコールを飲んでいたことがバレて、停職処分に。友達夫婦と湖に遊びに行ったときに、クルマが衝突。相手は軍隊時代の仲間。いまはアラーの教えに目覚めたと言う。夫はその男から仕事を紹介してもらい、あるキャンプへと旅立つ。そこは原理主義者の集まるところで、彼は次第にそちらの人間へと変わっていく。内戦で土地を追われ、なぜおめおめと従うだけで奪還しないのか、と彼は妻の親戚の前で大声を上げる。しかし、彼女の母は、私が生きているかぎり、この場では私が言うことが正しいと言って彼を否定する。結局、夫婦に和解はありえず、彼女は人工授精を止め、彼と離れることに。

こういう映画がサラエボからやってくることが奇跡である。彼女が自らが住んでいた家を見に行くシーンがある。そこに彼女たちを迫害した人々が住んでいる。近くで遊ぶ少女が声をかけてくる。私の家だったの、と答えると、何で捨てたのかと無心に訊いてくる。世代はもう回っているのである。


45 ロイヤル・テネンバウム(D)
ウェス・アンダースン監督、弁護士だが今は資格を失った父親がジーン・ハックマン、彼はお金がなくなり、ホテルを追い出され、別れて暮らす妻のもとへ末期ガンと偽って帰還。そこに金融投資で生きる長男、もとは舞台脚本を書いた次女、そして世界的テニスプレーヤーの3男が、父親の最期に立ち会うためにやってくる。次女は養女で、グイネス・パストロウが演じる。


例によって、アンダースンの家族再生の映画である。彼は妻が黒人男性と結婚するのを承諾する。その披露パーティの古い建物に、かつてテネンバウム家の前に住んでいたイーライ(脚本も書いているオーエン・ウイルソンが演じている。『ダージリン急行』で長男役をやっていた)がクルマの運転を間違えて突っ込んでくる。横にカメラを移動させながら、災難に遭いながらも幸福そうな面々を映し出していく。これは、至福の映像である。


小ネタの連続で、例によって、「第何章」という区切りで映画は進行する。パストロウが可憐で、しかもかなりズレている。風呂場に何時間も籠もり、タバコを吹かし、食事もしない。小さい頃に、実の父親に間違って右手の中指を斧で切られ、木の指を付けている。それを風呂の縁などにぶつけて、コツコツ音をさせる。老いたボブ・マーレーが夫で、彼を簡単に捨ててしまう。過去にもたくさんの男(ばかりか女とも)と付き合った過去があり、実は秘かに次女を愛していた三男は悲観して自殺騒ぎを起こす。しかし、それをきっかけに彼らは愛を告白することに。


ぼくは『ダージリン急行』よりこっちである。細部が光っていて、申し分がない。ハックマンが予定調和的に脱線オヤジを演じるが、それは仕方がない。劇が壊れてしまうからである。妻役のアンジェリカ・ハストンを美人として、高貴なものとして扱っている。それは「ライフアクアティック」でも同じだし、『ダージリン急行』の母親も別格の扱いである。片や父親になることを拒み、片や母性そのもの。これがアンダースンの核である。


46 「ライフアクアティック」(D)
傑作の呼び声が高いが、さて。ぼくは「テネンバウム」を見てしまっているので、何とも言い難い。ほとんどシャレのような話を大がかりな船や装置で見せるところなど、なかなかやるな、である。ラスト、みんなですし詰めの潜行艇に乗って、幻のジャガーザメを見に行くシーンは涙ものである。装置はチャチ、だけどサメがゴージャスというアンバランスがいい。海の生物がCGで、岩棚から何から人工着色されている。海洋ドキュメンタリーを発表する映画祭も本格的で、このへんの本気さ加減がいい。


ボブ・マーレーが伝説の海洋学者(?)で、探検の様をドキュメントにしてカネを資金稼ぎをしている。そこに自分の息子と名乗る男がやってきて、親子関係が徐々に築かれる過程が描かれる。息子をオーエン・ウイルソンが演じている。マーレーの妻はハストンで、この映画でも夫のもとを離れ、違うの男のところにいる。妻によればマーレーは「種なし」なので、ウイルソンが息子であるはずがない、と言う。ウイルソンは小さい頃からマーレーのファンで、クラブの会員証まで持っている。ファンレターへの返事も後生大事にしている。


夜中にウミガメの産卵を撮しに行き、みんなで感動するが、実は違う名前の生き物だったというオチは、なかなか味わいがある。カメラに向かって息子が発言すると、あとで俺を立てろ式のことを言う。そういう胡散臭さ、せこさみたいなものがきちんと描かれる。しかし、どこにも悪人が登場してこないので、晴れやかな気分である。この強い陽性はアンダースンの特徴であろう。


アンダースンの話法をあえていえば、ジャーミッシュの小話を重ねる感じに似ている。しかし、前者は小話の壁を取り外せば、一つの叙事詩として語れるものを細かく裁断しているのである。それは観客の感情移入を拒むためである。家族を扱う以上、どろどろにやるか、さっぱりやるかで、アンダースンは品良くさっぱり系でいく。


47 デンジャラス・ビューティ2(DL)
サンドラ・ブロックのコメディである。老婆になりすましたり、ショーガールになったり、偽おっぱいを動かしたり、格闘技を見せたり、いやはや。中盤までまったりしているが、ミス・アメリカの友達が誘拐されてからは、テンポもあって面白い。いわゆる白人、黒人コンビの警官が事件解決に力を合わせているうちに心が打ち解けていく系の映画である。それを女性でやった面白みを買いたい。それにブロックのチャレンジングな姿勢にも。相手役の黒人は、「エージェント」でフットボール選手の妻役を演じていたレジーナ・キングだ。


48 川の底からこんにちわ(D)
石井裕也監督、主演満島ひかり。むちゃむちゃ面白い。自分を「中流の下」と言い放つ女が、仕事と男にあぶれ、父親の病気もあって故郷に帰り、しじみ販売の会社を引き受けることに。斬新な社歌を作り、元気のいいポップも作って売上2倍弱に。彼女がいかに自分の惨めさに覚醒し、それを反転させるかが見物で、そのエネルギーがやはり大抵が「中の下」のおばさん社員などに伝播する。自分を卑下してチカラを溜める感じ、誰かいたなと思っていたら、波田陽区を思い出した。


全体の会話がすべて今風で、まともな話し方をするのは田舎の父親と叔父、そしておばさん社員ぐらい。かつては父の愛人と思っていたおばさんが何とも味があり、何度も「新しいお母さん」と主人公が呼ぶので、「抱いてやろか」と抱きしめるシーンは、いまだ邦画で一度も見たことのないシーンである。しじみを穫る漁師が妙に粋で、取材に来た女子大生と東京に駆け落ちするなどというのも、見たことがない。新社歌を目を剥いて一生懸命歌うシーンには参ります。しじみが売れないと政府を倒すぞ! と息巻く歌詞がすごい。


主人公が最後に連れ子の中年男に、なんだか好きになってしまいそうだ、と言うのはウソっぽいが、作劇だからいいとしよう、という感じである。


48 スペース・カウボーイ(D)
イーストウッド監督で、見ずに避けていた映画である。ビッグネームだけ揃えた宇宙物、イーストウッドが宇宙物なんて……ということで拒絶反応が先に立つ。ところがである、これがいいのである。


せっかく宇宙に行くのが夢で飛行訓練していたのに、猿にその座を追われた男達。それが70歳にして現場へ復帰、宇宙へロシアの通信衛星を修理に。ところが、それは核兵器だった、という設定である。


冒頭のシーン、飛行物体がものすごいスピードで上昇し、雲を突き抜ける。それでもうやられてしまう。映像の強さである。こないだの「ヒアアフター」の洪水と同じ効果である。なんだ、監督、ここで先にやってたのね、である。


老いた男たちがやけにモテる。アメリカ人はこのあたりはまったく違和感がないのだろうか。それも女のほうが言い寄る感じなのである。イーストウッドには妻がいるので、そういうエピソードは出てこないが、彼の私生活が複雑なことはよく知られている。


この映画では脚本にイーストウッドは絡んでいない。それにしても、宇宙物まで難なく撮って、余裕である。一人犠牲になって月に飛び込んだトミー・リー・ジョーンズが燃えずに残っているという設定はありなのか?


49 パンチライン(D)
サリー・フィールドトム・ハンクス主演。スタンダップ・コメディアンを目指す才能豊かな落第医学生ハンクス、2人の子持ちだが夢を捨てきれないフィールド。ハンクスは身近なところにネタがあると彼女に教え、彼女は見違えるほど面白いネタを繰り出すように。その妻を何とか家庭につなぎ止めようとするのがジョン・グッドマンである。


最初のシーンが生かしていて、中年の女がダイナーに入ってくる。男がカウンターにいて、声を掛けると、暗号を言え、と言う。男は20個入りのが30パックだ、カネは用意したかと訊く。こりゃ痲薬でも買いに来たのかと思うと、実は舞台にかけるネタがなくて、それを買いに来たというわけ。モノクロで訳ありげに撮っているのがおかしい。「パンチライン」とは「オチ」のことらしい。


いつもの舞台で、テレビ局がカメラを入れて、コンテストをやることに。ハンクスが挑発的な導入からコケたと思わせ、次第に笑いを取っていく、という設定になっている。それまでのキャラクターとそれは合わないわけで、違和感がある。実質的にはフィールドが1位なのだが、これだって主に下ネタなのだから、大したことはない。彼女はハンクスこそが優勝すべきというので競争から降り、夫のもとへと帰る。ハンクス優勝、めでたし、である。劇場のせこい支配人ロメオをマーク・ライデルという役者が演じていて、これが実に味がある。みんながハンクスを押し、彼が優勝しないなら最後の審判の舞台に立たないと言い出したとき、どうせ成功者は過去のことなど一切覚えていてもくれないぞ、と説き、納得させる。いい演技である。


ハンクスがフィールドに振られ、雨のなかで『雨に唄えば』をなぞる。このシーンが美しい。デービッド・セルツァーという監督、なかなかの才人だが、脚本家としての仕事のほうが圧倒的に多い。88年の映画で、ハンクスが若い。


50 ゲット・スマート(D)
スマートに行こう、といったような意味か。何度もエージェント昇格資格試験に落ちた分析官が晴れて事件の現場へ。しかし、ドジの連続、だけど事件は解決。主演スティーブ・カレル、ヒロインはアン・ハサウェイ。それほど過激なギャグはない、抑制されたコメディである。カレルは「40歳の童貞男」の主演らしい。本人はいたって真面目なのだが、やることなすことズレまくる、というのは喜劇でよくあるパターン。「ピンクパンサー」も「Mrビーン」もその口である。


51 無法松の一生(T)
稲垣浩の自分リメイクで、ぼくは2度目。松が芝居にタダで入れてくれ、と言うと、もぎりが「どこそこのやつが見る芝居とは違う」と入場を断られる。それの腹いせに夕方からの興行に出かけ、枡席でニンニクを焚いたり狼藉を働く。小屋の連中といざこざが始まり、その仲介に出てくるのが笠知衆である。土地の親分である。その親分のセリフに「車引きの法被は、新聞記者のようにお通り自由」というのがある。このあたりの仕組みをどう考えるかだが、松は生まれもあって小学校もろくに出ていない、と自分から言うが、明らかに差別の問題がある。


無声映画の残影が2カ所。恋いこがれる吉岡の奥様の息子が、タコを揚げられず困っている。客を人力車に乗せて通りかかった松がこんぐらがった糸をほどいてやろうとする。ほっぽらかしにされた客が、地団駄踏んだり、クルマに飛びついたり、無声のパントマイムをやる。もう一つは、おんぼろ長屋に奥様が用事があって松を迎えに来る。松は将棋をやめて跡をついて行こうとする。すると、将棋の相手が、これがオシで、松の女かと指を立てると、松がごつんとやる。オシは尻餅をついて、頭に手をやる。この一連がまた音無しなので、パントマイムに見える。


吉岡の奥様が高峰秀子。息子が長じて松が「ぼんぼん」と言うのが恥ずかしいと言うと、松に「吉岡と言え」と命じる。「これじゃ身内じゃない」と松は一人こぼつ。奥様は松をどういう人間だと思って、こういう発言をしたのだろうか。松への思いやりのかけらもない。


松は最後、雪のなかで倒れて死ぬ。それを小学生が見つける。つい小学校へ足が向いてしまうと言った普段の言行どおり、松は死に際に小学校へと向かったのが哀れである。


もしかしたらなのだが、暴力的で、しかし純真に女性に尽くす人物像は、寅に似ているように思う。直接的な影響はないかもしれないが、何か底に松がいるように思える。


52 雁(D)
鴎外原作、豊田四郎監督、高峰秀子主演、東野英次郎が高利貸しで、高峰を妾にする。妻に先立たれた呉服問屋と偽ってである。東野の妻は浦辺粂子で、夫の浮気が分かって半狂乱になるが、始めはうまいこと丸め込まれる。東野は口がうまい。高峰は一度、結婚したが、相手が既婚者と分かって離婚をしている。かつてはこういうことがよく起こったものか。


高峰が東大の学生である芥川比呂志と知り合うきっかけが、軒に吊した鳥を屋根から大きな蛇が狙ったのを、通りがかりの芥川が救ったから。雨が降ってきたので、追いかけて行って傘を貸す。芥川がそれを戻しに来たときに、ちょうど東野がやってくる。芥川は傘を返して早々に帰る。東野の疑いの目をごまかすために、高峰は胸をはだけて、襟足に白粉を塗ってくれ、と頼む。東野は渋るが結局、刷毛で塗っているうちに高峰の胸を掴む。その胸がかなり豊かであることが分かる。


東野の妻と高峰が偶然出くわすシーン。近くまで様子を見に来た感じの浦辺。その傘のざっくりとしたしゃれたデザインが高峰と同じで、見れば着物の柄は、先日寡婦金利のかたに置いていったもの。高峰は慌てて家に駆け込む。妾、それも高利貸しの囲われ者となると、女中が魚屋に買い出しに行くと断られる。風呂へ行けば、昼間っから風呂に来る女中は妾の女中だ、と言われる。しかし、秀子が自立をしようとお針子の師匠に就こうとすると、師匠は女一人で生きていくのは難しいと諭す。では、女はどうすべきなのか。


東野が高峰との逢瀬から家に帰り、吊った蚊帳の中に入ると、妻があられもない姿で寝ている。嫌気がさして高峰の名前を呼んでしまう。妻は寝ぼけて「何か言ったかい」と言い、そのときにさっとはだけた乳首が撮される。この映画1953年の作だが、シドニー・ルメットがハリウッドで初めて乳首を撮した監督だそうだが、その作品は何だろう。ルメットの第1作が「怒れる12人の男たち」で、1957年の作だから、どっちにしろ豊田のほうが先駆者である。といっても乳首だが。


東野が演じる高利貸しはそう悪い奴ではない。秀子に正体がばれたときに、俺は大学寮で小遣いをやり、小さなカネを貯めて高利貸しになった。それで、やっとお前のような女に会えたが、俺はいったいどうしてしまたのだろう……みたいなことを言う。あれこれ詮索したり、千葉に出張といって夜に戻ってきたり、飴売りだった秀子の親父に時折小遣いをやったり、抜け目がないのは確かだが、若い女を囲えば、これくらいのことはするのではないだろうか。東野がよく憎まれ役を演じている。彼はどっちかと言うと、もっと木訥な役が多いのではないだろうか。ぼくは黒澤の「どん底」で日がな一日鍋の底を叩いている東野を思い出す。


学生芥川は何かの試験が受かってドイツに行くことに。原作者鴎外がドイツから帰国したのを、恋人が追ってきた話は有名だが、それを裏返しにしたような設定である。鴎外はどういうつもりでこれを書いたのか。神経の太い感じが嫌みである。