7月半ばからの映画

kimgood2011-07-08

91 マイティ・ハート(DL)
主演アンジョリーナ・ジョリー、パキスタンで夫がテロ集団のヘッドにインタビューをするために会うが、人質に。それを救い出す過程を描く映画だが、パキスタンの警察が誠心誠意対応するのが印象的である。朝には祈祷で人が集まり、情報がパッと広まるので、深夜のうちに同国人の寝込みを襲うなどというリアリティのある話が織り込まれている。ジョリーと夫はアメリカの新聞社の記者、一緒に住むのがインド人の現地記者。パキスタンにとってインドは宿敵なので、インド人記者の存在がテロ集団にとっては気にくわない。パキスタンアメリカ寄りの政策をとるのも我慢がならない。そのあたりの雰囲気はよく出ている。しかし、いつまでアメリカ正義の映画を撮っているつもりだろうか。


92 マイティ・ソー(T)
時間潰しで見たような映画だが、浅野忠信のハリウッド・デビュー作である。神話世界が実は本当に存在する7つの宇宙の1つであるという設定。浅野は戦士の一人だが、セリフは2、3回。細かい演技をしようとするが、ほかの役者が反応しようともしないし、石のように動かないので空回り。出演作を過ったというか、何を見てハリウッドは彼をこんな映画に起用したのか。
続編があるらしく、長い長いエンドロールのあとにチラッとそれらしきものが撮される。「アイアンマン」でやった手口だが、疲れる。


93 私を野球に連れてって(D)
49年の作で、シナトラとジーン・ケリーの共演で、女優がエスター・ウイリアムズ、プールで背泳ぎしながら歌うシーンがあるが、彼女は世界記録を持つ本当のスイマーから女優に転身。監督バスビー・バークレーでブロードウェイの舞踊監督がキャリアの中心である。脚本にジーン・ケリースタンリー・ドーネンら4人が関わっている。制作MGMでアーサー・フリードがプロデューサーである。主題歌はアメリカ人ならみんな知っている曲らしく、MLBでは7回に決まってこの曲をかけて、ちょっとした休憩をとるらしい。


どういう訳かオフの間にシナトラとケリーは舞台で歌って、踊る。シーズンになってチームに戻るが、新オーナーは意外にも女性で、的確な打撃法を指示したり、守備も上手かったりする。はじめシナトラが惚れるが相手に気がなく、ケリーとオーナーが恋仲に。奥手のシナトラはストーカーのような女性にふと目覚めて恋仲に。


圧巻はケリーのタップ。アイルランド移民にとって意味の深い聖パトリックデイの曲に合わせて長いタップのシーンがある。ケリー自身がアイルランド系移民の子で、緑色のシルクハットを被り、踊る(緑はアイルランドでは象徴的な色)。次第に彼が興奮してくる感じが伝わってくる。何の映画だったか、ひよひよっと高い所にまるで猿のように登っていくケリーを見たことがあるが、彼は決してスタントマンを使わなかったという。「パリのアメリカ人」の冒頭のシーンなど、おそらく何度もテイクを重ねたことだろうと思う。ジャッキーにやらせてみたいシーンである。


ほんとにミュージカルというのは他愛がない。それがいいのである。いい歌を聴いて、見事な体の動きを見ているだけで、陶然とした気分になってくる。こういう陽気で、馬鹿な映画がなくなったことが、さみしい。


94 デッド・ポエット・ソサエティ(D)
いわゆる名門寄宿舎ものである。アメリカである。ロビン・ウイリアムスが主演で、若きイーサン・ホークが出ている。先進の教師が生徒を焚きつけ、生徒は親の束縛から逃れて自由に生きようとするが、結局は潰され、教師は放校される。なぜ彼は生徒をそそのかすのか、それが分からない。前歴では何をしていたのか。母校に戻ったので気が逸ったのか。たくさんの詩が登場するが、現代詩がまったく読まれない。それがそもそもこの先進教師の胡散臭さではないか。


95 127時間(T)
「スラムドッグ」のデビッド・ボイル監督である。粒子の粗い画像は前作と同じ。グランドキャニオンのような岩地の割れ目に閉じこめられた男の映画である。当然、主人公は動けないので過去の映像が挟まれる。ふつうの人間だからふつうの過去である。脱出のために酷いシーンがあるが、見ていられない。限界状況を作ると映画は撮りやすい。筋は一直線だからである。その分、何を工夫するかだが、この映画はすべて予定調和的である。ただ一つ、突然、天地創造のような激しさで雷がとどろき、雨が沛然と降り続く様は圧巻である。こういう神話的な土地を内部に抱える国家とはいかなるものか、島国に住む我々には想像もできない。


96 狼たちの処刑台(D)
マイケル・ケインが友の復讐に立ち上がり、だいぶ昔、海軍で鍛えた技でチンピラどもを殺すというもの。タイトルがHarry Brownという。英米の映画は、ただシンプルに人の名をタイトルにすることが多いが、これはどうしてなのだろう。それも、この映画のように無名の、フィクションの人物名でもタイトルにする。TVできちんと映画案内をするのだろうか。それにしもマイケル・ケインで「狼たちの処刑台」はないよなぁ。


年金で暮らしているケインが、荒んだ若者たちと対決するわけだが、暴力に立ち上がるまでがじっくり描いてあって好感である。それにしても、たかが数十年の年齢差で、人種が違うほどに住む世界が違う。これを哲学的、社会学的に説得性をもって語れる者は誰か。ケインに比べて、殺されるチェス友達(飲み友達でもある)が類型的なのは残念である。警部補がエミリー・モーティマー、何度も見ているが、何の映画か思い出せない。情けないデミー・ムーアといった感じ。「シャッター・アイランド」「マッチ・ポイント」にも出ているらしいが、さて?


97 ウォールストリート(DL)
新作である。オリバー・ストーン監督で、金融マンのgreed(強欲)を描いている。娘に権利のある100万ドルをウソをついて奪う父親と最後は和解だが、本当にそんなことができるのか? マイケル・ダグラスシャイア・ラブーフ(イーグル・アイ主演)、キャリー・マリガン(未見。ベビー・フェイス)、ラブーフの師匠がフランク・ランジュラ(フロスト×ニクソン)。金融マンが政府と緊密に付き合っている様子がよく描かれている。かつてダグラスを王座の地位から追ったのがジョシュ・ブローリンで、「ノーカントリー」「ブッシュ」「ミルク」と見ている。


98 「雪之丞七変化」(T)
大川橋蔵で、59年の作、マキノ雅弘監督。長谷川一夫主演で市川昆が撮ったのを見たことがあるが、どちらも女形が似合うとは思えない。橋蔵は余計にそうで、見ているあいだじゅう首筋がざわざわする。義賊との2役で、その仲間が淡島千景である。雪之丞に惚れるのが大川恵子、将軍の側女である。父親が娘の権勢をバックにコメ問屋と結託し、その上前を貰う。そのコメ問屋が雪之丞の敵である。大川恵子が可憐である。


99 「丹下左膳」(T)
松田定次監督、主演大友柳太郎、脇が大川橋蔵美空ひばりである。橋蔵は植木職人と貧乏藩柳生藩の次弟の2役である。ひばりが可憐である。大友は相変わらずの元気のよさ、滑舌の悪さである。月形龍之介大岡越前片岡仁左衛門が知恵者の有楽斎である。上野寛永寺の改修役に柳生藩が当たり、その費用の工面に百万両の壺が絡んでくるという筋である。


100 イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ(T)
ストリート・アーティストを映像で追っかけているうちに自分がアーティストになり、ほかのマネを駆使しながら成功を収めてしまった男のドキュメントである。有名なバクシンも登場し、男を支援したことに苦い後悔のようなものを感じている。それは、ほかのアーティストも同じである。しかし、これはコピーアートが行き着く姿でもある。方やヘンリー・ダーガーのようなアール・ブリュットの世界もある。しかし、それだって消費のテーブルに載せられつつある。


101 メンタリスト(TVシリーズ)
米国のTVシリーズがレンタル屋の棚のスペースをかなり占めだしたのは、いつ頃からか。あまり見ることはないが、「ソプラノズ」と「ハンナ・モンタナ」「プラクティス」「ヒーローズ」「24時間(これは少しハマった)」などを1、2回見て止めた。ちゃちなのである。「ソプラノズ」は深い人間模様を期待したが、やはりテレビ的な軽さを感じて見ていられない。いい役者が演じているのだが。


ところが、この「メンタリスト」は違うのである。展開がゆったりし、主人公の人間像が魅力的である。アメリカの犯罪モノは科学捜査ばかりが表に出るようになったが、このシリーズは人間の心理に重点を置く。ほかの捜査官や警官が捜査にいそしむ間、彼は被害者の部屋の様子や、家族の表情、仕草に目を止める。カジノへ行けば、そこで遊ぶ。浜辺で人殺しがあれば、そこで砂の城を造る。彼自身、もとは怪しげなサイキックで、TVでまやかしの心霊術を披露していた人間だが、あるシリアルキラーを挑発するようなことを言い、彼に妻と子を殺された過去を持っている。それがいろいろな捜査の過程で顔を出す仕組みになっている。こけおどしではない、じっくりとした手つきのシリーズで、あとが楽しみだ。


102 がんばれベアーズ(D)
原題がThe Bad News Bearsである。もう4、5回は見ているか。やる気のない選手に、アル中の3流プロだったコーチ、これが最後に地区優勝が手に入りそうな位置まで勝ち上がるという鉄板ストーリーである。徹底した放任主義が、勝つほどに管理を強め、最後はチーム分裂の危機に。それを反省して、負けてもともとと居直り、ダメ選手も起用して、結局2位に甘んじる。コーチ役のウォルター・マッソーが抜群の演技で、まだ目ぢからもある。ティータム・オニールが義理の娘といった役で、少女からの脱皮のときである。相手チームの勝てば官軍のコーチがビック・モローで、あの「コンバット」の軍曹である。彼は選手にも汚い言葉を吐くが、危険ボールを投げたピッチャーをはり倒すような正義感もある。ベアーズは、人種バラバラ、太っちょあり、不良あり、超尻込みあり、そんな彼らにも自負心がある。負ければ悔しいし、目の前の球を誰かに捕られれば怒る。アメリカ民主主義の根っこを描いている、と当たり前のことしか言えない。王道だからである。


103 「炎の肖像」(T)
1974年の作で、監督藤田敏八と加藤彰となっている。ジュリーが主役で、悩めるアイドルという役柄と、舞台でのパフォーマンスが同時進行で撮されるというものである。それなりに見ていられるのは、藤田監督のおかげではないだろうか。ジュリーがパンツ一丁になったり、中山麻里とのベッドシーンがあるなど、かなり頑張っている(中山麻里の胸が大きく、乳首まで撮すのは藤田監督のおかげである)。秋吉久美子とのシーンはあるが、彼女は背中を見せるだけ。藤田監督で「妹」「バージンブルース」をすでに撮っている。監督自身、「八月の濡れた砂」を71年に撮り終えている。


地井武雄がやけに茶色い顔の長距離輸送の運ちゃんを演じている。ジュリーの父親役が佐野周二である。タイガースではなく、沢田研二と井上尭之バンドとなっている。
客の9割が50代とおぼしきおばさんで、ずっとジュリーを追いかけている執念には頭が下がる。この映画の時点のジュリーがどんな状態だったのか見当もつかない。まだソロとしてのブレークがない時期だったのかもしれない。


104 「ゴーストライター」(T)
ポランスキー監督である。ウエルメイドな映画を見たと言いたい。ピアース・ブロスナンが英元首を演じて、いい感じである。ブレアのつもりらしい。気の強い妻役をオリビア・ウイリアムズ。ぼくは記憶にない女優だが、「シックスセンス」に出ているらしい。ユアン・マクレガーが元首相のゴーストライターで、前任者は酒の飲み過ぎでフェリーから落ちたということになっている。数は見ていないが、これがいちばん彼の中では秀逸な演技ではないだろうか。彼の報酬は2700万円である。日本では絶対にありえない金額である。


映画には謎があるわけだが、別にそれに引き込まれて見ているわけではない。寒々として風景や、冷たい雨、心理の綾のようなものを手繰って、時が経っていくだけである。元首相のアメリカの別荘には中国人のコックや掃除人がいる。それがなぜなのかは分からないのだが、妙な味付けになっていることは確かである。中国人の老婆が枯れ葉を集め、一輪車に載せるが、風に煽られてせっかくの枯れ葉がまた逃げていく。そのはかなさがゴーストライターという仕事を象徴しているのは確かで、ラストのシーンにそのアリュージョンがある。「戦場のピアニスト」などただ逃げるだけの芸術家を描いてアカデミー賞を取ったが、こっちのほうが断然、出来がいい。


105 「恋とニュースの作り方」(DL)
女性のキャリア・アップ物で、恋が苦手というタイプが新しいか。とにかく仕事、仕事の女である。ニコール・キッドマンの「誘う女」もそうだが、アメリカでは地方TV局やマイナー局(雑誌、新聞も)で名前を上げ、中央に出て行くのがサクセスストーリーである。


駄目な朝番組を新米に近いプロデューサー(レイチェル・マクアダムス=「シャーロック・ホームズに出ているらしいが、ジュード・ロウの恋人役だろう」)が起死回生させるのだが、それを担うのがダイアン・キートンであり、ハリソン・フォードという渋め役者であるところがミソである(ちょっと悲しい、いやすごく悲しい)。バカネタを連発するうちに視聴率が上がり、古株コンビのいじり合いも人気を呼び、かつての敏腕ニュースキャスター(フォード)は州知事の逮捕劇をライブで中継し株を上げる。新米女子はNBCから誘いが来るが、チーム一丸となった古巣へと帰る。それはフォードの捨て身の変身があったからである(なんと番組で自慢の卵料理を作り始め、これを初めて食べたとき、裸の女優と一緒だった、などと言う)。


106 「小さな村の小さなダンサー」(DL)
僻村からどういう理由でか分からないが選抜された子が世界的なダンサーになる物語である。400万人から40人が選ばれるというが、突然、北京からお偉方が3人やってきて、小さな学校の小さな教室の子どもたちをざっと見渡して、「いないな」と引き上げようとする。女の先生が「あの子はどうか」と指差した子が、その世界的に有名なダンサーになるのである。


北京での練習は過酷を極め、彼は訓練生のなかでは落ちこぼれに近い。ソ連式の舞踏法を教えていた先生は、毛沢東夫人の江青女子の観劇の不興をかって失脚することに。革命戦士の様子が描かれていない、というのである。結局、女子はのちに失脚する。その政治の雪解けのなかで、訪中アメリカバレー団の団長の目に止まり、彼はアメリカに行くことに。ここでも、なぜ彼が選抜されたのか、説明がされない。あとはサクセスと亡命、同業で才能の乏しい妻との別れなどが描かれ、最後はハッピーエンドで、自分の出身の村で再婚の妻と踊るところで終わる。公演に秘かに呼び寄せた両親を前に涙する主人公を見て、もらい泣き。


リトルダンサー』が持っていた暗さのようなものはないが、共産主義中国の怖さのようなものはしっかりと描かれている。帰国の刻限が迫り、主人公はアメリカ人の女性と結婚してその難を逃れようとするが、中国側は彼を軟禁して翻意を迫る。その間に、マスコミが嗅ぎつけ、報道合戦に。米副大統領ブッシュは、訒小平に直通電話をかけ、事態解決を求め、結局、彼の亡命が認められることに。


林立するビルに驚いたり、父親は年に50ドルしか稼ぎがないのに、自分のために衣服を500ドルもかけて買う団長に抵抗したり、紋切り型の表現が続くが、それはそれで見ていられる。息子に再会した父親が、観客の拍手が鳴りやまない壇上で裸同然の息子に向かって「なぜ裸なのか」と訊くシーンも、紋切り型だが納得がいく。母親が自分の子を常に「息子よ」と呼ぶのは、子供が7人もいるので、名前が覚えられないからではないか(冗談だが)。いかにも、という感じの慈愛深い母親を演じてgoodである。


107 「フィッシャー・キング」(DL)
91年の作、ジェフ・ブリッジズ主演、客演ロビン・ウイリアムス。不思議なナイトメアのような映画で、中だるみや展開のおかしいところもあるが、スコセッシの「アフターアワーズ」にどこか似ている。馬に乗って炎の騎士が駆けるところは、コーエン兄弟の「バートン・フィンク」を思い出す。


毒舌のDJだったブリッジズ、聴取者の一人が電話をかけてきて「ヤッピーの女でいい女を見つけた」と言ったのに、「ヤッピーなんて信用するな、ぶち殺せ」みたいなことを言う。彼はTVコメディ主演の誘いがあるほどの人気だったが、先の男がヤッピーの集まるクラブで銃を乱射、それで人生が暗転する。


酒に溺れ、自殺しようとした時、不良に絡まれ、ガソリンをかけられ死にそうに。それを助けたのがホームレスのロビン・ウイリアムスで、彼は狂人である。元は大学教授で、妻とクラブで飲んでいるときに先の銃乱射の巻き添えを食い、精神がおかしくなったのである。


飲んだくれのどうしょうもない男が、ホームレスに命を助けられ、その人物が自分の言葉の犠牲者だと知ったことで、献身的に世話をする。一番は、ロビンを彼が恋い焦がれる女性と近づけたことだ。この女性の造型がとても素晴らしい(女優はアマンダ・プラマースという)。まともに回転ドアに入ることもできなければ、店の棚にあるものを落とさずに見ることもできず、シュウーマイを箸で摘めず必ず落としてしまう……彼女の良質な部分をロビンは見抜き、彼女はロビンの良質な部分を見抜く。最後は、ロビンが言う聖杯(ただの記念のトロフィー。この話、聖杯伝説が背景にあることは、映画の中で語られる。はるか遠くに王は聖杯を求めたが、渇したときに差し出されたごく普通の杯が貴いものに見えた、という話である)を富豪から盗み、不良たちに傷つけられ、再び失語症になったロビンがそれを手に持ち、復活する。


ロビン・ウイリアムズは過剰である。演技のうまさをこれでもかと見せるところがあり、引いて演じることができない(何作かそうではないのもあるが。「グッモーニング・ベトナム」「グッド・ウイル・ハンティング」など)。それにブリッジズはよく合わせている。彼は今年、歌手デビューも果たし、円熟味を増している。「アイアンマン」の悪役には参りました。「クレイジーハーツ」は今イチだったけど。


108 「社長行状記」(D)
シリーズ23作目、映画の後半は森繁が金策に日本全国を回る。前半はディオールならぬチィオールとの提携話にいそいむ顛末である。フランキー堺がフランス生まれの奇妙な日本人で、ティオールの日本支配人で、女と見れば見境がない。


恒例の宴会芸はグループサンズもどきである。箒をギターにして、芸者衆の三味線をバックに踊る。森繁、小林、三木である。


“中だるみ”が一つのテーマになっているが、関係の弛緩ばかりか、下半身のそれも指して、1作目から続く中高年の性の問題がここにも顔を出す。観客にはそういう層を考えているということである。性的なあてこすりが随所にあって、これは駅前旅館シリーズでも顔を出すもので、日本映画を支えていた層が伺い知れる。


森繁の妻が久慈あさみで、ストッキングを脱ぐのを見て、その気を起こす森繁。あるいは、鳥羽のホテルに新珠美千代を呼び出して、事に及ぼうとするときに、「いい薬があるんだ」と言い出す。小林桂樹が朝、なかなか起きないのを妻の司葉子が「あなたは変わったは」とちょっかいを出そうとする……などなど性的な表現があちこちに埋め込まれている。それを観客はきっと夫婦で楽しんだのではないだろうか。外国なら絶対成人向けになってしまうだろう。


109 アジョシ(T)
母なる証明」のウォンビン、あの漫才師の徳井に似たやつだが、今回は精悍そのもの。アクションのものすごさは筆舌である。ドラマの緩急がうまくないと、アクションは生きてこない。まして、早業の連続だから、その前にゆっくりした演出がないといけない。この映画は、それが申し分ない。韓国で歴代ナンバーワンの観客数だという。


臓器売買組織が子供を使って警察の目をかいくぐる。死ねば、その子の臓器も商売にする。えぐい映像が頻繁で、ここまでやりますか、である。刃物を使った戦いでは、何度も相手の胸を突き刺す。ぼくは韓国の鬱屈を思う。グローバル化にうまく乗ったといわれるが、リストラによる失業者の群れが町にはびこり、貧富の差が広がっている。そういうものが過激な暴力映画を押し出す理由だろうと思う。それにしても、アクション場面はボーン・アイデンティティを超えた。



110 社長道中記
シリーズ10作目。太陽食料の社長が森繁、大学生ぐらいの娘がいて浜美枝小林桂樹は秘書ではなく、社長のお供を無事こなしたら課長に出世できる、という。新製品がカエル、マムシ、カタツムリの缶詰。これを出張して拡販しようとする森繁、そこに女が絡む。のり平の芸の細かさを堪能する映画である。浪曲を唸るがうまい。


111 社長えんま帳
シリーズ30作目で、弛緩している。秘書が関口宏小林桂樹の妻の妹が内藤洋子、この2人が大根。外部から補強してやりくりしようとするときには、もう終わりに近づいているのである。営業部長が小沢昭一である。やはり三木のり平で見たいものである。藤岡琢也が変な日系外人を演じるが、ツーマッチである。社長はセスナで営業に飛び回る。


112 28デイズ
サンドラ・ブロック主演、アル中女の更生物語。ヴィーゴ・モーテッセンが下半身に倫理がない役で出ている。施設長(?)がスティーブ・ブシェミである。これがなかなか味がある。どうもリズムの悪い映画で、とくに更生施設から立ち去っていく若い女のために、彼女の好きなソープドラマを元に劇を演じるシーンはひどい。その女は拘禁病(?)にかかっていて、社会に出るのが怖く、自殺する。


113 パブリック・エネミーズ
ジョン・デリンジャーという銀行強盗の末路を描く映画だが、よく出来ている。ノリは「俺たちは明日はない」である。銀行強盗も同じだし、民衆の支持があったのも似ている。少しだけだが女と逃避行するのも一緒。ジョニー・デップ主演、女はマリオン・コティヤール、『エディット・ピアフ』を演じているようだ。フランス人とアメリカン・ネイティブとの混血という設定。デリンジャーといえば小型の、足首などに巻き付ける隠し銃のイメージだが、それとの関連は映画では出てこない。デリンジャーを追うのがクリスチャン・ベイルで、相変わらずかすれ声である。もう少し太ったほうが、安心して見ていられるのだが。


114 社長漫遊記
第13作、監督杉江敏男である。森繁はあと半年で50歳と言っている。すでに孫がいる。アメリカ帰りでアメリカかぶれ、それを社内に徹底しようとしてチグハグが起きる。淡路恵子、池内純子とぎりぎりまでいくが、例によって邪魔が入ったり、事件が起きたりで、ベッドインに至らない。結局は奥様が現れて、めでたしめでたしの終わりである。不倫などしようものなら、観衆が許さなかった、ということか。三木も加東大介小林桂樹も快調である。フランキー堺がまた変な日系外人役、変調英語のあいだに「おまえ」など挟むのが面白い。


115 寅さん「ぼくの伯父さん」
ミツルが年下の子(後藤久美子)と恋をし、寅さんが指南役。その子は親の離婚で、京都、そして九州へ行ってしまうが、ミツルはバイクで追いかけていく。彼女の母親が夏木マリ、その妹が檀ふみ(夫を尾藤いさおが好演)で、彼女を頼ってミツルの恋人は転地するのである。バイクのシーンなどで変な歌が流れるなど、山田監督はかなり気楽に撮っている印象である。


この映画で寅は、ほとんどまじめで、ハメをはずこともしない。賢人寅さんである。声が出にくそうにしているし、マイクロバスに乗り込むシーンではそろりそろりである。42作である。ラスト、寅が旅先から虎屋に電話をかけると、オジちゃんからタコまでみんな競って寅に声を届けようとし、寅もそれを嬉しがる。なんだかとても寂しいシーンである。死に出の別れでもしているようで。倍賞千恵子はこの作品のヨシオが寅さんに見えることがあったとインタビューで答えている。


116 寅次郎相合い傘
何度目になるのか、また見てしまった。リリーにたしなめられる寅、意外と古い男女観をもっていることが分かる。さくらに聞かれてリリーが結婚してもいいと言うが、寅は「素人が本気にするから止めな」とごまかす。あとで、「あいつは頭のいい女で、俺のようなバカに合うわけない」と達観の言葉を述べる。前にも書いたが、山田監督は寅をよほど幅広いキャラクターに設定している。こんなセリフを吐く寅がバカなわけがない。


寅が食べるラーメンが実にうまそうである。すすり上げるように食べる。小津の映画で、ラーメンが新奇のご馳走のような扱いになっているのがある。ぼくはその感覚に近い。小学生で母に連れられて映画を見た帰りに決まってラーメン屋に寄るのが楽しみでしょうがなかった。あとで、親戚のおばさんの家で「何を食べたい」と聞かれてラーメンと答え、「安上がりだね、この子は」と言われたのは心外だった。


117 日本侠客伝(浪速編)
シリーズ2作目である。1作目は田村高廣長門裕之津川雅彦松方弘樹などの若手がぴちぴちして、実に気持ちのいい映画になっている。押さえに錦之助が出ている。2作目は大阪の港の荷役の組の話で、親分は村田英雄である。健さんは東京から弟の墓参りにやってきて、結局、そこに根を下ろす。この作でも長門の演技がひかる。鶴田浩二が刑務所勤めから帰ってくると、自分の女、南田洋子が親分・大友柳太郎のものになっている。阿漕な親分に刃を向けるが、そこに健さんが助太刀する。この戦闘場面も短いし、道行きもない。まだ任侠映画の様式が出来上がっていない感を受ける。監督はもちろんマキノ雅弘である。長門の女は八千草薫で、娼婦の役など珍しいのではないだろうか。