チャンバラ映画が最先端だった―山中貞雄

kimgood2006-11-19

*現存は3作品
山中貞雄には木下恵介と同じく天才という接頭辞が付く(なぜ巨匠でなく天才なのかは「木下恵介」の項を参照)。「人情紙風船」を撮って従軍、戦死(南京陥落のあとどこかで洪水に遭い、下痢症状などで徐州近くの開封という町の軍病院に入院し、帰らぬ人となった)。映画界に11年あって、シナリオ54本、23本の監督をしているそうだ。いま見られる作品は3作しかない。これでは天才かどうか分かりようもないが、「人情紙風船がぼくの遺作ではちとサビシイ」の言葉を現地からの手紙に記している。それを見ても、かなりの射程をもった監督だったことが分かる。
安岡章太郎の『僕の20世紀』という本を読んでいると、1930年代の洋画の素晴らしさについて繰り返し触れている。それに触発されて、30年代の邦画を見てみたいものだと思った。山中はその30年代にメガホンをとった監督である。


山中は加藤泰のおじさんにあたる。その加藤が『映画監督 山中貞雄』という評伝をものしている。山中は洋モノ映画にいかれていたのだが、マキノ映画の斬新さに憧れて映画界に入った人間である。マキノ映画が斬新だったとは、いまとなればにわかに信じがたいが、当時の日本映画の水準はかなりのものだったらしい。というのは、大正15年にユニバーサルが阪妻の映画に目をつけ、共同会社を立ち上げているからである。配給の関係で阪妻主演映画が松竹で押さえられ、ユニバーサルに流れるのは二線級のスターの映画だったことから、昭和2年にはユニバーサルから提携を解消されている。加藤は、もし敏腕プロデューサーがいれば、三船敏郎の前に阪妻が国際スターになっていただろうと書いている。


マキノ雅博のもとでの助監督を務めるが、ヌーボーとして、目立たない助監督に過ぎなかった。あだ名が昼行灯に、ロング・ロング・アゴーである(顎が長いから)。それがマキノの紹介で移った嵐寛寿郎のもとで開花する。寛寿郎は版妻たち花形スターたちが独立プロを旗揚げしたのに呼応して、寛プロを立ち上げたばかりである。
山中は、股旅もの監督としてデビュー(抱寝の長脇差し)しながら、添え物に過ぎなかった女優を引き立たせたり、市井の人に目を向けるなど斬新で、気鋭の映画評論家に絶賛され、次第に評価が高まっていく。アラカンは後日、山中の映画技法の冴えについて感嘆の言葉を洩らしている(「こりゃ大物かもしれない」と思ったと竹中労に語っている)。
丹下左膳 百万両の壺」は2作までほかの監督で封切りされていて、山中に回ってきたのが完結編。ところが、あまりにも軽妙な左膳になったので原作者の林不亡(別名、谷譲治、牧逸馬)がへそを曲げたため、最初のクレジットに「これは原作とは関係がありません。本当の作は次回に作られる」と入れて上映された。


山中に同時代の映画批評をさせると、縦横に、そして鋭く語ったものだという。外国の映画もよく見ていて、すぐに換骨奪胎して自分の映画に取り入れているようだ。これは小津も同じで、たしか蓮実だったか小津にウエスタンの影響があったとどこかで書いていたような気がする。あの「ニノチカ」のルビッチはルビッチ・タッチといわれる「モノに語らせる手法」が特徴だが、無声映画ではいかに映像に語らせるかが必須の課題になる。映像こそが映画の核である。無声映画でほとんどのことは試行ずみだと言った監督もいたほどである(四方田犬彦七人の侍』には、溝口、小津と比べ黒澤には無声映画経験がないから、映像技術に差がある式のことが言われる、と書いてある。同氏は反論として黒澤の兄が活動弁士だったことを挙げ、十分にそのエキスを味わっていたろうと言う)。


その時代は、自分の作品だけ撮っていればいいというわけにもいかず、他人の脚本で、ほかの監督の代役をさせられることもあった。それに早撮りを求められる。そこで編み出されたのが“中抜き"という技法である。同じシチュエーションの絵を全部、先に撮ってしまうというやり方である。山中の脚本はほとんどセリフしか書いていなかったそうだが、それでも絵はほとんど頭の中にあったということになる。
のちに鳴滝組の名で、数人で共同脚本を書くようなこともしている。


無声映画は絵で物語を語らせるのが主眼で、そこにテロップが流れるわけだが、山中はそのテロップさえ流さない実験もやっている。言ってみれば無声映画の極みでもあるし、夢のトーキーへの準備でもあるわけである(キング・ヴィダーの『群衆』はまさにそのテロップがまったく流れない。トーキーを準備した映画と言われる)。
ベストテンの常連だった小津も山中には一目置いていて、京都に遊んだときに山中に会い、好感をもったらしい。東京でも遊び、小津は自分も応召され、戦地にいる山中に会いに行っている。山中がデビューした頃に成瀬も頭角を表してきて、新進評論家に大きく取り上げられるようになっていく。。


今回、「河内山宗俊」を見て、そのセリフのモダンさと2人の俳優の“軽さ”に惹かれた。映画は、町の店々からみかじめ料を取り立てる金子(中村翫右衛門)の軽妙な演技で始まる。ある店主は、今日の稼ぎが少ないから取り立てを勘弁してくれ、と言う。一軒ぐらいゴマかしても親分にバレないだろうし、厳しく取り立てても金子の懐には一銭も入らないのだろう、と。金子は「いやすぐにバレる」と厳しく取り立てる。ところが、原節子茶店に来ると、さっき言われたセリフのちょうど裏返しを言って、一銭も取り立てない。この冒頭のシーンで、この映画の粋な感じがよく伝わってくるし、作品の出来がほぼ予想がつく。
稲垣浩の「日本映画の若き日々」を読むと、山中が中村翫右衛門を映画に引き入れた話が書いてある。映画と歌舞伎では演技が違う、と拒んだらしい。いざ出演が決まると、金子役を工夫し、爪楊枝を入れ物ごと持つキャラクターにしたのは翫右衛門だったとのこと。山中は彼の役者魂に惚れ込んでこの映画を撮ったという。


河内山を演じたのが河原崎長十郎で、戦後も長く活躍した人らしい。前進座を立ち上げた人で、知る人ぞ知る役者らしいが、ぼくはこの作品が初めてかもしれない。何とも飄々とした人で、しかも顔のつくりは今風で、戦後も活躍したのがよく分かる。これが原節子の本格デビューの映画だそうだが、だらしない立ち姿にはがっくり。でも、あのマッタリ感は、すでにして出ているから、すごい。


ラストがとてもスマート。品川の色町に売られた原節子を助けに駆け出す後ろ姿のショットで終わりである。切れ味のいい終わり方である。


続けて「百万両の壷」を見る。こちらは最後まで見られなかった。筋も会話も凡庸で、「河内山宗俊」で見せた冴えが一向に見られない。丹下左膳物ということで、定型から抜け出すのが難しかったか。丹下左膳を演じた大河内伝次郎の演技が古すぎる。どういうわけか、目線がちゃんと相手に向かない。女房役の喜代三という役者、これも演技に難あり。アクセントも妙だ。芸者出身ということだが、中で歌う場面がある。観客へのサービスなのだろうが、現代の我々にはちょっときつい。
城主の弟に沢村国太郎、これがやはり軽くて、明るい演技がいい。矢場(弓を引く店)で足を投げ出して話すシーンなど、侍とは思えない。沢村貞子加藤大介の兄で、長門裕之津川雅彦の父親である。2人組の漫才師らしき人物が登場するが、これは「河内山」にも出ていた。当時の人気コメディアンか。


歌舞伎役者が初期の映画を担ったわけだが、歌舞伎の因習を嫌った河原崎のような人たちが、演技の革新を進めたことが、この2作品からもよく分かる。



※「人情紙風船」を新文芸座
新文芸座「チャンバラ特集」で「百万両の壺」と「人情紙風船」をかけたので見に行った。「人情紙風船」はいまから見ればリズムの悪い映画ということになろうが、時代劇を新しくしたと言われる山中らしい映画という気がする。なにしろ長屋住まいのうらぶれた侍に、髪結いを止めた遊び人新三が主人公で、そこに長屋のさまざまな連中が絡む話で、取り立てて大きな筋がないのが新鮮である。
それに賑やかなミュージックもなしで、淡々と長屋の人間模様を描くことに徹している。これが山中、出征前の遺作ということだが、やはり惜しい人を亡くしたとしか言いようがない。

抑えた演出でいえば、たとえば、侍が就職活動が不首尾に終わり、そのことを妻に言えず、ウソをつくが結局バレてしまう。妻は、酒に酔って肘枕で横になる夫の後ろに蹌踉と立つシーンがあるが、彼女の絶望を語って十分な映像である。翌朝、妻が夫を殺し、自害して果てたことが長屋に知れ渡る。
あるいは、新三がやくざに誘い出され、ある橋のたもとで数人に囲まれる。長屋の一人に託された借り傘を、やくざの一人(若き加藤大介である)に手渡しながら、やや震え声で「たしかに返してくれよ」と言うシーン、おそらくそのあと袋だたきにあって殺される運命なのかもしれないが、それはまったく写されることはない。
映画の冒頭が長屋での自殺を検死に来る役人の姿ではじめ、ラストが侍夫婦の心中(長屋の連中は夫殺しとは思っていない)という陰惨な終わり方だが、映画は全体にいたって明るい。


やはり役者が良くて、河原崎長十郎が仕官を果たせない侍さん、新三が中村翫右衛門、前者は落ちぶれていながら育ちがいいのか、一向にそういう気配のない様子が、おっとりで丁寧な話し方に現れている。新佐は人望ある男で、やくざの目を盗んで賭場を開くようなこともしている。そのやくざが用心棒をしている大店の娘を腹いせに誘拐するのだが、ここのあたりは設定に無理がある。簡単に引き渡すし、その代償に大家が50両もふんだくる、というのはあり得ない話である。それも娘を隣り部屋の侍に預けて、誰にも気づかれない、などもありえない。


*一少年が観た「聖戦」
先に洋物の換骨奪胎に触れたが、小林信彦御大の同題エッセイに、戦時色が濃くなりつつも、いかに監督たちがアメリカの影響を換骨奪胎して取り入れたかが論じられている。たとえば、満州を舞台に西部劇を下敷きにした活劇を撮る、といった具合である(韓国映画の最新作でも満州が舞台の西部劇がある。09.8.31記)。映画は盗んだり盗まれたりが常道の世界で、それをどれだけうまくやるかが技の一つである。アメリカだってヨーロッパを真似たのであって、これは国籍を問わない。まして、ナチスを逃れて多数の監督がハリウッドに集まったことを思えば、パスティーシュこそが映画を豊かにしたそもそもの原動力ではないかとさえ思う。