「死」から見たアメリカ    ―サム・メンデスの世界

kimgood2007-01-07

*What's American beauty?
久しぶりにサム・メンデスアメリカン・ビューティ」を見た。格安950円でソフトが買えたからだ。ほかに「MI:Ⅰ,Ⅱ」の2本を買った。北海道美唄市のイエローグローブというホームセンターでワゴン売りされていた。
サム・メンデス作品は他に「ロード・トゥ・パディション」「ジャー・ヘッド」がある。「アメリカン・ビューティ」は処女作にしてアカデミー作品賞を取った幸運な作品で、昨年ポール・ハギスが同じく処女作「クラッシュ」でアカデミー作品賞を取っている。
アメリカン・ビューティ」を制作したドリームワークス総裁スピルバーグはメイキング・フィルムのなかで「マイク・ニコルズ以来の快挙」と述べている。66年に「ヴァージニアウルフなんか怖くない」でデビューしたマイク・ニコルズはこの作品でアカデミー賞を取っている。リズが飲んだくれの女を演じた、登場人物が4,5人しかいない、白黒の凄い映画である。
ぼくは「アメリカン・ビューティ」を封切りで見て、いい作品だと思い、友達何人かにも感想を洩らした。今回、見直してみて、改めて脚本の良さに襟を正す気持ちになった。もちろん監督の映像処理の見事さもあるが、脚本の完成度の高さがないと、あそこまで密度の濃い映画はできない。アラン・ボウルという名がクレジットされているが、調べてもほかに脚本を書いている様子がない。
この映画、初見で心打たれたのは、ホームビデオ撮影に熱心な青年(ウェス・ベントレイ)が、隣家に住む同級生の女の子に見せる「一番好きな映像」である。スーパーのビニール袋、それが吹き溜まった落ち葉と戯れるように風に翻弄される様子が、白い壁を背景にまるでスローモーションのように映される。ぼくの記憶ではモノクロ映像だったが、今回見直してカラー映像だったことに驚いた。それにしても、何と詩的な映像だろう。
青年はその映像を映した日の天気や、そのときの気持ちを女の子に打ち明ける。すべて地上にあるものは美しく、その背後に「善なるもの」がある、と感じたと。メンデスを初めとして役者、製作者、映画会社がすべてこの脚本に惚れ込んだというが、微妙な主題によくぞ反応するものだと思う。
この青年は死んだ鳩やホームレスの死体に「美」を見出す青年でもある。彼は15歳でヤクをやり、父親に殴られ、強制少年院に送られる。そこで髪型のことで悶着を起こし(父親は海軍出身で、自己紹介で必ずそれを言う。おそらく父親の髪型はマリン・カットで、青年はそれを踏襲している)、次は精神病院に送られる。
いま彼は従順な息子を演じ、バーテンなどのアルバイトに就いているが、本当はヤクの売人をやっている。父親は薄々それを疑っているが、正面から問いただすことはしない。
父親は銃の収集が趣味らしく、それらを展示したガラス棚には裏にナチのハーケンクロイツが刻印された大皿が飾られている。その秘密を知っているのは青年だけ。
母親は目を見開いたままで瞬きもしない、ほとんどコミュニケーション能力をなくした人形のよう。家の中はきちんと整理され、静謐、いや死んだように空気が澱んでいる。父親が支配する世界は凍り付いたように生気がない。
この手の頽廃の匂いをアメリカ映画で嗅ぐことは稀である。封切りで見たときは、主人公のケビン・スペイシーとその妻アネット・ベニングの中年夫婦の葛藤に目が行ったが、今回はこの病んだ青年こそが映画の主人公であることに気が付いた次第。うかつなことである。
父親からホモセクシャルを疑われた青年は隣家の少女と家出を決意する。しかし、父親を悲しい人だと言い、ほとんど事の意味を理解していない母を憐れみ、しかも「父をよろしく」とも頼む優しさを見せる。ヤクの売人で、異常な映像を撮り続ける青年が、実はアメリカの“美”の支えになっているという逆説。
主題は深刻である。死の世界、あるいはマイナスのベクトルからしか世界の美しさを捉えることができないのか。そこに反対命題としてのケビン・スペイシーがいる。彼は42歳にして娘の同級生の女の子に恋心を抱く。広告会社を辞め、妻の言いなりを止め、筋トレを始め、マリファナを吸い始め、ようやく少女をモノにできる瞬間がやってくる。しかし、遊びなれているはずの少女が、実はバージンであることを告白した途端、中年おじさんは保護者の面持ちで接するようになる。彼はようやくにして「父親」になりえたのかもしれない。最後に彼は青年の父親に背後から頭部を銃で撃ち抜かれて死んでしまうのだが、自分の愚にもつかない人生を最高のものだったと肯定する。


映画好きで映画読みの達人である友人は、メンデス映画に「家族」のテーマを読み取るが、それは次作「ロード・トゥ・パディション」に色濃い。彼は「ロード」からメンデス入門を果たしたので余計にそのテーマが見えるのだろうと思うが、ぼくは彼から「ロード」を勧められるまで、それが「アメリカン・ビューティ」の監督とは知らずにいた。トム・ハンクスの映画を見たいとも思わないので「ロード」には関心がいかなかったのだ。
アメリカン」から「ロード」を見たぼくとすれば、「悩めるアメリカ」というテーマが見えてくる。それを家族を軸にして描いているという捉え方である。処女作には、家族の崩壊、暴力、セックス、ヤクなどアメリカの抱える問題が浮き彫りになっている。では、再生の切り口はどこにあるのか、ということで「ロード」は古き良きアメリカの父親像を追ったもの、としてぼくには見える。
「ロード」は薄く雪の降り積んだ小さな丘から自転車で今にも転びそうになりながら町へと下りていくシーンで始まる。その自転車の危なげな様子を見ているうちに、もう映画に引きこまれている。次が、賑やかで、暖かな室内パーティのシーン。まったくムダのない運びに、唸らされる。終わり近くに少し乱れはあるが、安定したリズムの、堂々たる作品である。


3作目「ジャー・ヘッド」は湾岸戦争を主題にした映画で、ぼくは同名ノンフィクションを読んでいる最中だったので、とても印象深く見た映画である。殺す意欲を持ちながら、結局は1人も人を殺す機会がなかったマリンが主役である。皮肉といえば皮肉な映画である。強弱をはっきりつけた砂漠の映像が美しく、それだけで楽しんで見ていられる。
しかし、相変わらず侵略者の目で見た戦争でしかない。メンデスが捉えようとしたアメリカとは保守のアメリカではないか、と先の友人にメールで送った。その真偽は4作目以降で分かるのではないだろうか。


ちなみにメンデスはイギリス生まれの監督で、舞台の出身らしい(*のちに、ある劇場の舞台監督を務めていると判明)。彼のアメリカ体験は映画を通したものらしい。ラース・フォン・トリアが欧州人の目でアメリカを捉えようと「ドッグヴィル」「マンダレイ」と3部作を進めているが、彼もアメリカ大陸に足を踏み入れたことがないという。
アメリカをアメリカの外から描く――それにどういう意味があるのか。これも追い続けていきたいテーマである。次はラース・フォン・トリアの映画世界へ。


週刊文春新春号で伊坂幸太郎という作家が正月に見る映画でメンデス作品3つを挙げていた。これを見れば凄い監督だと分かる、とコメントを書いていた。3作を童話的と評しているが、「アメリカン」は分からないでもないが、ほかの2作をそう呼ぶのは見当違いだろう。しかし、同好の士がいて、うれしい。

ニコラス・ケイジ「ゴースト・ライダー」にブラックハートという悪魔の親玉役でウェス・ベントレイが出ている。妙に品のいい悪魔だな、どこかで見た顔だな、と思って見ているうちに思い出した。悪魔の化粧なので分かりにくいのだが。


「レボリュショナリー・ロード」(D)
メンデスとは劇場での付き合いにしたいと思っていたのだが、この映画が彼の作品と知ったのは知人から聞いたから。「タイタニック」コンビでは見る気がしないというのが正直のところである。


50年代の夫婦、妻は市民劇団に属するが女優の芽はない。夫は取り立てて目的があるわけではなく、大手の機械の会社の事務職をやっている。ちょっとした諍いのあと、妻はパリへ旅立とうと言い出す。夫にも自由に生きてほしい、と。夫は一時はその気になるが、ある提案が社内で評価され、コンピュータ販売チームに担ぎ出されることに。妻が妊娠したこともあって、パリ出奔は断念。夫婦の関係はぐっと冷えていく。


最後は、妻が自分で堕胎を行い、死ぬことに。それまでを丹念に淡々と撮った映画である。自分たちをスペシャルな存在と思い、つねに未来の別の違う自分たちを想像する夫婦。誰しも現実と折れ合って生きるのだが、この夫婦の妻にはそういう妥協点がない。


家を世話してくれる大家の息子は、精神科医にかかる男だが、真実しか言わないという点でおかしな男なのは確かだが、狂っているわけではない。猛烈な勢いで近代へと差しかかるアメリカこそが狂っているのである。だから、パリへと逃げ出す理由として、“絶望的な空虚”を挙げる若き夫婦に狂人は賛意を示すのである。メンデスの「狂っているほうが正常である」という視点は、「アメリカンビューティ」以来のテーマである。


メンデスのこの映画、トッド・ヘインズ「エデンの彼方へ」を思い出させる。アメリカの50年代は、イギリスのビクトリア朝のような偽善の時代なのかもしれない。そもそもは男女同権の荒々しい開拓で始まった若い国家が、分別をまとって、まともな中流の顔をし始めた時代。冒頭に、アメリカ映画には珍しく郊外からの満員通勤電車の風景が写される。ぼくは、ほかに2、3のアメリカ映画でしかこういう通勤ラッシュの映像を見たことがない。すぐにモータリゼションの波に揉まれて消えた現象なのかもしれない。


メンデス作品のなかで、これがどういう位置を占めることになるのかは、しばらく新作に付き合わないと分からない。