ひとの善意を試験管に入れて―――ラース・フォン・トリア

kimgood2007-01-11

*「ドッグヴィル」の衝撃
ドッグヴィル」をなぜ見たのか、判然としない。新聞評を読んだのか、広告を見たのだったか。あるいはニコール・キッドマンの映画を何となく気になって見ていたので、そのせいで関心がいったのだったか(小林信彦の新刊「映画が目にしみる」ではしつこくキッドマンを追いかけている。やはり気になるらしい)。
映画館は銀座シネ・スィッチ、ほどほどに客が入っていたのには驚いた。映画は実に刺激的なものだった。ある女(グレース)が何者かから逃げるようにドッグヴィルに迷い込む。彼女は村に溶け込もうと努力をする。村人たちは彼女に好意を寄せるが、彼女が犯罪者で警察に追われているらしいと分かると、彼女をみんなの共有物にすることに一致する。彼女は足に枷をはめられ、労役を強いられ、性を強要される。彼女を弱者と見て、村人は奴隷のように扱うわけだが、やがて彼女がマフィアのボスを父親に持つ女だということが分かってくる。
彼女は権威として振る舞う父親が嫌で家出をしたわけだが、ドッグヴィルの奴隷状態から脱するために、他ならぬその父親の力を借り、ドッグヴィルに火を放つ。
映画のラストは、これでもかというように黒人虐殺の写真が映される。映画のテーマから言って分からないわけではないが、ちょっとやり過ぎの感がするエンド・ロールである。
この映画が特異なのは、ほとんど舞台装置がない、ということである。広い体育館ぐらいのスペースの床に四角く線引きされ、それぞれに活字のような書体で「集会所」とか名前が書いてあるだけ。壁も何もないので、他人の生活は筒抜けである。といっても、登場人物には壁もあれば、家のドアもある、という設定になっている。
しかし、狭い村社会では壁があろうがなかろうが、実態はプライバシーは無いに等しい。夜ごと、男どもがグレースの小屋に忍び込み、こっそり事に及ぶのも、我々観客にも外から見え見えだが、村人にとってもスケスケなのである。この仕掛けは、ゾッと来るぐらいこの映画には利いている。
こうストーリーをたどってきても、実に嫌みな映画である。きわめて簡素な舞台装置で劇が進行するのも、余分なものの介入を避けて、ひたすら人間の悪意を浮き立たせるためである。ストーリーが転がりだすまでは、人物に寄ったり引いたりのカメラの動きも演劇的でがっかりしたが、グレイスがその名に反して品位を失いはじめてからは、ぐいぐいと引き込まれていった。つまり、見る側もドッグヴィルの連中と同じ品性に堕するのである。あるいは、グレースが村に火を放つときも、観客はカタストロフィーを感じる。彼女の怒りは我々のものでもある。ゆえに、この監督の悪意は二重に苦い。


*「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の悪意
ラース監督はデンマークの生まれ、ヨーロッパ3部作の後に「黄金の心」3部作があり、「ダンサー〜」「奇跡の海」は、その「黄金の心」3部作に入るらしい。そのあとに「ドッグヴィル」を始めとするアメリカ3部作が続くようだ。ただ「奇跡の海」の後に「キングダム」というホラー作品があって、ⅠとⅡで10時間近くの作品らしい。のちにスティーブン・キングはこの作品を翻案し、「キングダム・ホスピタル」としてテレビ放映された。ラースはそれの製作・総指揮をしている。


「ダンサー〜」はミュージカルで、しかもビヨークが主役、予告編などでは貨車の上で歌っているシーンなどを見ていたので、まるで触手が伸びなかった。
しかし、「ドッグヴィル」を見たぼくとしては、ラース監督というのは、追いかけたくなるタイプである。それで、またしても度肝を抜かれた。これは反ミュージカルなのである。死んだ人間が蘇ったり、主人公が最後にハンギングされたり、これだけ悪辣な仕掛けでもミュージカルは撮れますよ、という監督の哄笑が聞こえてきそう。カトリーヌ・ドヌーヴがビヨークの友人役で出ているが、この人、一度とて美しいと思ったことがなかったが、この映画の老けたドヌーヴはいい。
封切り当時、この映画はどういう見方をされたのだろう。印象を聞くと、「暗い映画」と言う人が多い。別に暗い映画で悪いことはないはずで、それではどうして評判になったのか、よく分からない。反ミュージカルという意図は明白なのに。これは「ドッグヴィル」を見、彼のフィルモグラフィーを多少とも知った目で見たからかもしれないが、予備知識なしでサラで見たら、どういう感想を持ったことだろう。
「黄金の心」3部作と言うのは、ビヨーク演じる主人公が決して人をだましたり、疑ったりしない、ピュアな心の持ち主だからであろう。


*「マンダレイ」へ
ドッグヴィル」に火を放ったグレースの父親は、地元では留守がちだったこともあって、ほかのマフィアの攻撃にあい、他へ転地することになった。そして、娘や手下とたどり着いたのが「マンダレイ」。ここまでの映像がすごくオシャレ。アメリカ南部の地図を俯瞰で撮り、その上を小さな点々が動く。少しカメラが近づくと、車のミニチュアが動いているのが分かる。しばらく行って、車列が止まると、中から人が出てくる。そして、普通のカメラの位置で彼らを捉える。
映画も半ばに、雁の群れが空をよぎり、その影が空を見上げるマンダレイ住民の顔の上を流れるシーンがある。抽象的な舞台設定を柔軟に使いこなしはじめているのが、よく分かるシーンである。もちろん、マンダレイも前回と同じく線描のトランスペアレントな村である。
マンダレイ」はいまだ奴隷制度の残る南部の町。グレースは前回の失敗から多くを学んでいる。父親からマシンガンを持った手下を数人借り、その威力を背景に「マンダレイ」の解放を推し進めようとする。人間不信とはいかぬまでも、ある種、力の背景がないかぎり民主主義を根づかせることはできない、と彼女は覚悟をしているようだ。このあたり、あきらかに強権ブッシュのアナロジーである。
裏切りがあったり、最後にドンデン返しありで、今回のグレースも散々である。エンドロールはまた黒人虐殺写真オンパレードで、今回はテーマがテーマだけに、本編との絡みが明確で、監督の意図がよく分かった次第。
メイキングを見ると、映画撮影を始める前提に、出演者を集めて、白人が撮ったこの写真集を題材に、討論をさせた模様である。その討論シーンは映さないので分からないが、かなり侃々諤々の議論が交わされたようである。その気分のまま、本編撮影へと入っていったらしい。
なかで次のようなせりふが印象的である。「アメリカは異人種を理解できるほどには、まだ成熟していない」。もっと辛辣な言い方だったが、いまは思い出せないので、このままにしておく。
前作と比べて洗練され、テーマが絞られ、グレースを実験の触媒のように使って劇を進行させる意図も明らかで、見応えのある映画になっている。


*「奇跡の海
ラース監督の出自を探るうえでも、過去の作品に遡る必要がある。それで見たのが「奇跡の海」、この映画も半ば独特である。半ばというのは、後で説明をする。
映画は結婚式および披露宴で始まる。村の長老が教会で何かをしゃべっているのだが、何語か分からない。デンマーク語なのか、舞台がどこなのかは最後まで明示されない。しかし、ほかの場面はみんな英語で進行する。
花嫁(ベス)は花婿の到着を待っている。花婿は友達を引き連れて、ヘリコプターに乗ってやってくる。長髪で、遊び人風で、職業はミュージシャンあたりかと思う。
披露宴の最中、ベスはトイレで花婿にセックスを求める。それもファースト・セックスとのこと。披露宴が終わり、どこかモーテルのようなところでまたセックスに及ぶシーンがある。夫がベッドに横たわり、ベスに自分の性器を触らせる。花嫁は目を剥いて、笑う。この新婚夫婦のやりとり、当たり前のようなものだが、映像としては初めて見るものだ。変なものを撮るなあ、という印象である。
しばらくの甘い生活を終えて、花婿はまたヘリコプターで飛び立っていく。その行く先は、海上に設置された巨大石油発掘場。男たちはそこの労働者だったのだ。そのうちに花婿は事故に遭い、下半身不随、不能になる。
ベスを演じるのはエミリー・ワトソン、ぼくはアラン・パーカーの「アンジェラの灰」で見ている。信心深い女で、何かあると教会へ行き、神の声を聞こうとする。神の返事は彼女自身がする。つまり、彼女は悩める人間でありながら、即席の神でもある。かつて、兄が事故死したときに精神に失調を来たし、その種の病院に入院したことのある女である。エミリー・ワトソンの斜め上方に目を向けて、神を見つめる表情が、独特である。
不能となった夫と彼女はある約束をする。彼女がほかの男とセックスし、それを報告すること。そのたびに自分は回復に向かう、と夫は言う。女は逡巡しながらも、夫のために狭い村で娼婦のような振る舞いを続ける。結局は、一度は断った荒っぽい船員のところへ再び出かけ、そこで半殺しの目にあい、それが致命傷となって死んでしまう。代償として、回復不能のはずの夫が歩けるようになる。
実に独特な雰囲気を持った映画なのだが、女が娼婦もどきとなってからは、ちょっと理に落ちた感がある。彼女は常に神との対話を欠かさないのだが、その対話が予定調和的で、破綻がないことが残念である。もっと彼女は分裂してもよかったのではないか。冒頭に「半ば」と書いたのは、このことである。
しかし、夫が奇跡的に立ち直ったことに一切説明も弁明も加えないのは、さすがである。ウソ1? とは思うものの、全編そのために費やしたわけで、しかも「奇跡」などというものは、こうとしか描けないのかもしれない、とも思う。


ラース監督はエミリー・ワトソンに出合ったことで初めて、役者を信用してもいい、と思ったらしい。静かにイッちゃってる、田舎の純朴な女を十二分に彼女は演じている。夫役のステラン・スカルスガルドという変な名前の役者は、額のはげ上がり具合、お腹のたるみ、どう見ても花嫁よりだいぶ年上に見える。しかし、こいつはベスと同じくらいにとてもいいやつである。「黄金の心」を持っている。


ラース監督の独創性はどこにあるかと考えると、思想的にはそう際立った、あるいは特異なものを感じない。アメリカ3部作にしろ、「黄金の心」3部作(ぼくは2作しか見ていないが)も、異常なものを扱っているわけではない。しかし、何か異質なものを感じさせる。それは恐らく、彼が人間の善意というものを試練にかけて、どこまで耐えられるか、倦まず弛まず見届けようとする、その姿勢にこそあるのではないだろうか。
映画の主題が決まっていて、それを何度も別の角度から、飽きもせず確かめる、小津のようなタイプの監督ではないだろうか。ジョン・ヒューストンの言葉を借りれば、それこそ「真の監督」ということになる。