背中(せな)の銀杏と緋牡丹が  泣いている

kimgood2006-12-24

*棒を飛ばすような話し方
健さん(高倉健)がいまのようなぶっきらぼうな話し方になったのは、いつの頃からなのだろう。ぼくは小学生のときに「網走番外地」シリーズを見て、健さんに惚れた口で、あのときはすでにいまの投げ出したような、棒のような話し方になっていた。
東映ニューフェイスで始まった人だから、本来は爽やか路線の人。しばらくはサラリーマン役をやっていた。その頃の映画はほとんど記憶になく、かすかに江利ちえみと撮った映画があったような……それくらいの印象である。主役を張って、人気シリーズを転がすようなスターではなかった。
それが昨今の団塊世代狙いの復古ブームのおかげか、ゲオで美空ひばり主演映画が何本か並んでいて、そこに健さんが準主役の「べらんめえ芸者と大阪娘」(62年作)というのがあった。「べらんめえ芸者」はシリーズらしく、健さんがひばりの相方で出ているようだ。
健さんは200本超の映画を撮っているが、新人の年から年に10本は撮っている。ものすごいハイペースである。やがて東映首脳陣がやくざ路線で誰か新しいスターをと考えたとき、高倉健の名前が挙がったらしい。下からねめつけるあの「三白眼」が、やくざに合っているかもしれない、との判断だったらしい。
「べらんめえ」での健さん、大阪の老舗のボンボンで、東京支店長という役柄。全体に喜劇調で、健さん、一生懸命演じていて、よく喋る。相手が何か言えば、即座に反応する。そこがいまと決定的に違うところだ。何か思いつくとパチンと指を鳴らすようなこともする。痛々しい気さえしてしてくる。共演の水原ひろし(歌手)の方が、どっちかと言うと落ち着いたいい演技をしているように見える。


彼が江利ちえみと結婚したとき、あるいは結婚していたと知ったとき、ぼくはいたくガッカリしたのを覚えている。健さんの嫁さんがチャキチャキと騒々しい、しかも決して美人とはいえない江利ちえみだとは(実は、江利ちえみの方が格上だったとは後年知った)。
中学生になると洋画を見始め、健さんとはオサラバ。全共闘のお兄さん方が健さんで騒いでいるのが、よく分からなかった。健さんが体よく利用されているような感じがした。ただの斬った張ったのやくざ映画に過分な思い入れなど必要ない。エリート学生が、やくざ映画を見ることで、「やさぐれて」いるような気分を味わっていたのかもしれない。東大の学生祭のポスターが健さんだというのは、北海道の田舎にいても聞こえてきた。それが橋本治の筆になると知ったのは、こちらも大学生になってからではなかったろうか。
健さんがその後、さまざまな映画を撮り、日本映画界のトップスターになっていったのは慶賀にたえないが、何となく他人事で、ぼくの健さんは「網走番外地」で止まっていた。ムショ仲間の田中邦衛、大先輩の嵐寛十郎、悪党の安部徹、それに絡む杉浦直樹などの芸達者、大原麗子の商売人とまがう化粧の濃さ、でも可憐。
このシリーズでときに健さんがひょうきんな面を見せることがあるのを知ったのは、ここ最近のこと。2作目では米軍流れのパンティを売る香具師の役をやる。寅さんみたいな格好で「こんなに丈夫なパンティはないよ」と言いながらぐっと引っ張ると破れてしまうというベタなことをやる。
あるいは「北海編」(第4作?)では大型トラックのドライバーで、同乗する大原麗子がラジオをつけて賑やかな曲をかけると、健さん、ウキウキ体を動かして「調子、出てきたぞ」なんて言ってしまう。
思うにこの辺のキャラに、往時の面影が残っているのではないだろうか。寡黙、だんまり、ぶっきらではない健さんが。
ぼくは大学生、社会人となって少しずつぼくの知らない健さんの映画を見るようになった。50を越して、その度合いが激しくなっているのは、小さいときの胸ふたがれる思いが蘇ってくるからだ。でも、まだ「鉄道員」「ホタル」あたりの映画が見られない。涙を誘われるのが分かって見る気はしない。しかし、「ホタル」でアリランを歌う健さんを切に見たいと思う。


健さん映画ベスト3を挙げるとすれば、「網走番外地シリーズ」を除いて「駅」「居酒屋兆治」「侠骨一代」の3作。「駅」は倍賞智恵子が飲み屋のおかみ、そこに健さんが客で来て、長い掛け合いが絶品。向こうに小さなテレビがあって、八代亜紀紅白歌合戦で「舟歌」を歌っている。倍賞との一夜があった朝、「わたし、大きな声出さなかった?」と倍賞が聞き、「いいや」と答え、倍賞がいなくなったときにボソっと「オホーツクまで聞こえたよ」と洩らすシーンがある。これも貴重。
「居酒屋兆治」は円熟期の健さん。奥さんの加藤登紀子も軽くていい。昔の恋人に大原麗子。向かいのバーのマダム役でちあきなおみが出ている。彼女の歌「紅とんぼ」の歌詞に「健さん」が出てくるのは果たして偶然か。
やくざ映画を丁寧に見ているわけではないので何とも言えないが、「侠骨一代」の出来は群を抜いているのではないだろうか。マキノ雅弘監督作品、藤純子大木実志村喬……とにかくいい役者が勢揃い。引き締まった構成で、どの役者もきちんと演じていて、過不足がない。
志村喬の訳知りの親分、肩の力が抜けていて、しかも親分の貫禄がよく出ている。藤純子の同僚の商売女も、細かい演技をする。いつもの東映脇役陣もそれぞれ抜かりがない。
小さいときに母と別れ、軍隊にいる間に母を亡くした健さん。娑婆に戻って出合った女が母親そっくりの藤純子。この藤純子が何とも言えず美しい。妖艶でありながら含羞もあり、母であり恋する人でもある様子が、きれいに演じられている。昨今の藤純子復活も慶賀にたえないが、「フラガール」でノーメイクのお藤さんを見た衝撃は、言葉に表せない。そして、その激しい演技にも肝を潰した。華麗とも言うべき人が、ここまで……。
彼女が歌舞伎の世界の人と結婚し、映画を引退すると聞いたときは、開高健ではないが「ポケットに穴が空いた」ような寂しさを覚えた。小学生の終わり頃のことだったろうか。
軍隊帰りの健さんは失業の身で、食いっぱぐれ。つい川に身投げするが、浅すぎて、話にもならない。このあたりにも、往時の健さんが見え隠れする。健さん、とうとう乞食に面倒をみてもらうまでに落魄の身だが、無精ひげを生やしている様子も貴重である。


健さんの「鉄道員」、さていつになったら自分に解禁できるものか。
もうそろそろとは思っているのだが。


藤純子を売り出したマキノ雅弘が、自分で撮った藤純子モノでは「侠骨一代」が一番いい、と自伝に書いているのを、最近、知った(07.3.25)。ほかに愛着が深い映画として「昭和残侠伝・死んでもらいます」を挙げている。
 
2007.11.26

数日前に「ホタル」を見た。やはりと言うべきか、見なければよかったという後悔の念に駆られている。健さん、もう声が出ないのだ。それに顎の線に老いが典型的に現れていて、痛々しいほどだ。妻役の田中裕子がいまだ若々しいだけに、余計に健さんの老いが目立つのが悲しい。生き残りの特攻隊員の映画なのだが、肝心の健さんがなぜ死なずに生き残っているのかの説明がなされない。朝鮮人の上官の遺言を言いに親族のもとへ訪れ、アリランを歌うが声が出ず、苦しい場面となった。
寅さんも最終作では声が出ず、きちんと座っていることもできず、横になるシーンが多かったが、なぜこうまでして映画に引きずり出さなくてはならないのか、残酷である。当人たちはこういう絵を是としたのか。観客への裏切りとは考えなかったのか。クリント・イーストウッドが歳を食って犯人を追いかけるのにオタオタしていたのがあったが、あれも老醜であった。あるいはウッデ・アレンが最近の作で目が見えない監督の役をやったが、目線のやりどころがいい加減で、老いを感じたものである。