2008年8月以降の映画

kimgood2008-08-02

*「バルビー」(T)
入館料千円のせいなのか、シアトルシネマが満杯。これは冗談で、やはり中身が評判を呼んでいるのだろう。戦後も図太く生きて、奇怪な役回りを演じたナチ将校バルビーを扱ったドキュメンタリーである。
冷酷な拷問者、子供まで収容所に送り込んだ冷血漢、その男が戦後、対赤化対策に使えるというので延命し、しかも南米に次々できる軍事独裁政権の後ろ盾になっていく。彼の戦歴、経験が買われたわけである。


バルビーはボリビアに食い込み、ついに海のない同国に海運会社を立ち上げる。外国に奪われた海路、海域を取り戻すというナショナリズムをくすぐるためである。図に乗ってかつて占領したフランスへ会社社長として顔を出す。それが結局、発覚の端緒となって、ナチハンターたちが動き出す。
しかし、ボリビアはバルビーを手放さない。やっと社会主義政権になって、フランスはバルビーを金で買い、リヨンへと移送する。そこはかつてバルビーが日夜拷問を繰り返した場所である。


彼の弁護を買って出るのがベトナム出身の弁護士、アメリカに散々やられた国の人間がナチスの将校を弁護するという。歴史はアイロニーに満ちているし、まるで絵に描いたような構図である。
彼はバルビーを時代の犠牲者だと主張する。ベトナム空爆したパイロット、アフガンで名を馳せたソ連兵、アルジェで戦ったフランス軍人、どれもみなバルビーと変わりはしないではないか、と。戦争犯罪を後世になって裁くことができるのか、“人道の罪”は問えるのか、など東京裁判で問題になった論点がここでも顔を出す。


最後に発言を求められてバルビーは言う、「子供を収容所に送る地位にはいなかった。私はレジスタンスと戦い、レジスタンスの闘士は尊敬するが、立場上、彼らを殺すのは仕方がなかった」と。


良質なドキュメントが封切りされることが多くなった。日本ではマイケル・ムーアが当たったのが大きいのかもしれないが、わが国から世界的なドキュメント作品が生まれてくれたらなと思う。少なくとも「バルビー」は過去の映像の組み合わせと、関係者など20人ばかりの証言ででき上がっている、単純な仕組みの映画である。予算的にそうかかるものでもないと思う。「命の食べ方」もロケ先は限られていた。それでも“事実”のもつ圧倒的な重さにたじたじとさせられた。


*「スモーキン・エース」(D)
ちょっとややこし過ぎる筋立てだが、役者が小粒ながらみんなそれぞれ味があって面白かった。スコセッシ映画で切れたあんチャン役をやっていたレオ・リオッタがFBI捜査官で出ていた。アンディ・ガルシアがその上司。ラスベガスのマジシャンからマフィアのボスへとのし上がった男を、永くトップに君臨する親分が消しにかかる。


多額の賞金を目当てにクレイジーな3人組、黒人女2人組、元警部2人と保釈代理人の3人組(この3人が何者なのかよく分からず。一応、殺し屋に入れておく)、単独の殺人狂が2人、そいつらがタホ湖脇のホテル最上階にいる元マジシャンへ襲いかかる。その連中が、みんな味があるのである。殺人法もそれぞれ特徴がある。一人で動くスークという殺し屋は長い菜箸みたいなもので相手の肺を刺す。すると3分もすると、痛みもなく相手は死んでいく。そのやり方で守衛長を殺す場面は、なかなかの場面である。女2人組の殺し屋も、友情関係で結ばれて、いい感じである。元マジシャンを守る間抜け白人に、切れ者黒人もきちんと描き分けられている。実に一人一人が生き生きしているのである。
ぼくはこの映画の監督ジョー・カーナハンに才気を感じる。データを調べるかぎりは作品は3作ぐらいしか出てこない。


*「インクレディブル・ハルク」「ダーク・ナイト」(T)
「ハルク」はエドワード・ノートンの項に譲る。

バットマンの「ダーク・ナイト」は、「ビギンズ」の主役はそのまま、あのかすれ声のクリチャン・ベールがまた帰ってきた。脇にモーガン・フリーマンマイケル・ケインゲイリー・オールドマンアーロン・エッカートマギー・ギレンホール、そしてジョーカーにヒース・レジャー(ぼくはこの俳優を知らない。この映画のあと急死しているようだ)。この豪華配役でどんどん最後まで押し切っていく。こんな贅沢な映画があるだろうか。


昔のスーパーパワー物は、主役、脇役で個性的で印象に残る人はいなかった。このバットマンの科学秘書的存在のモーガン・フリーマンはなんと香港まで足を延ばしてしまう。架空の都市が舞台なのに実名が出てくるところに、やはりダークヒーロー物の変質、よりリアルな主題へと寄っていく変質を感じる。


悩めるヒーローはここでも健在である。やっとマスクを脱ぐことができるかもしれないと思ったのに、ジョーカーは執拗な攻撃を仕掛けてくる。ジャック・ニコルソンのジョーカーを引き継いでいるが、その異常性はもっと研ぎ澄まされた感じで、このジョーカーはいい出来である。繰り返し幼児期の親による虐待話を引き合いに出すのには閉口だが。
上映時間がやたらと長い。3時間近くあるが、筋をごちゃごちゃにしたために、最後はバットマンは誰を攻撃しているのか分からなくなる始末。役者を揃えすぎて、時間の割り振りに気を遣ったのか。それとバットマンゴッサムの市民に悪党とも思われることがあるというのを知らないで見ると、よけいにややこしく見えるかもしれない。


*「タロットカード殺人事件」(D)
ウッディ・アレンとスカーレット・ヨハンセン、それにヒュー・ジャックマンである。連続殺人を扱いながら小粋なコメディタッチで撮った映画である。敏腕記者が天国へ向かう船で耳寄りな情報を掴み、それをジャーナリズム志望のヨハンセンに知らせに下界に時々戻る、というのが趣向である。原題はScoopである。
ウッディはもう役者としては映画に出ないほうがいいのではないかと思う。誰と絡んでも、うまくいっていない。ギャグが空回りするばかりか、ふつうの演技が相手に届かないのである。ヨハンセンは一生懸命頑張っているが、かえって痛々しい感じがした。


*「不都合な真実」(T)
新文芸座だが、よく客が入り、パンフレットも売り切れだった。映画はゴアの宣伝映画で、まったく面白くなし。爆睡してしまった。なんだこの映画。あいつはまた選挙にでも出るつもりなのか。


*「夫婦善哉」(T)
再見である。意外なことだが森繁より淡島千景の演技のほうが臭みが無くていい。森繁はちょっと演技をし過ぎている感じである。やはり淡島が森繁の子に習い覚えた英語を必死になって使うところで落涙。英語といっても「マイ・ダーリン」に「ウエルカム」なのだが。浪速千栄子をはじめ彼女を取り巻く女たちがみんな人がいいのには感心した。これは織田作の陽性が出たものなのか、理由は定かならねど。


*「暗夜行路」(T)
神保町シアター豊田四郎特集をやっていて、文芸物がオンパレードである。この映画、頻繁に声や映像が飛ぶがさして気にならない。いつか雷蔵特集を新座シネプレックスで見たときに、音声が雨音のようにかき消されて、とても見ていられたものではなかった。小津の「戸田家の兄妹」の格安DVDも同じく。
「暗夜行路」は時任謙作が主人公名で、母と祖父の間にできた子という出生の秘密を持ち、結婚話もそのせいでご破産になる。女中のおえいはその祖父の妾だった人、謙作はおえいに結婚を申し込むが断られる。京都で見初めた美人に求婚し結婚に漕ぎ着けるが、第一子を病気で亡くし、妻は幼なじみの男に陵辱される、といったように災難続きである。
謙作は、頭では妻に罪がないのは分かっていても、感情が許さない。妻に面と向かってそれを言う男でもある。いっそ感情に激して難じたほうが気持ちがいい、と妻も言うが、謙作にも同じ思いがある。志賀直哉は理性と体が離れたのが近代人の苦悩だと言いたいらしいが、頭と心が別々なのは何も近代の病ではないだろう。そのテーマの設定の独善性が嫌らしく、鼻につく。理性だかなんだか知らないが、感情で妻が訴えているときに、いかにも冷めた言葉で返すところなど、やはり人間性を疑われる。ぼくは小津の「風のなかの雌鳥」を思い出した。
謙作が池辺良、おえいが淡島千景、妻が山本富士子。淡島の可憐さ、あだっぽさは並大抵ではない。この映画の淡島は、過去のいきさつや、年上のお姉さん的な立場など、いろいろと複雑に絡んで謙作の求愛を受け入れられない。とうとう天津くんだりまで知人のところへ身を寄せにいくが、その前日、謙作と別れの場面。謙作が「今日は下におえいさんが寝ていると思うと、気が落ち着かない」などと、すでに結婚話が決まっているのにきわどいことを言う。謙作というのは、何という男か。
山本富士子も生き生きと邪気のない役を演じて、好感。身も軽く、こんなにパキパキとしたいい女優さんだったのかと感心した。八頭身美人の、コンクール入賞者という思い込みがあるから大柄な女性で、演技下手なのかと勘違いしていた。意外と小作りな体型でびっくりした。
それにしても、この映画、なかなか面白い。じっくり撮って、本格的である。淡島と山本をもう一度、見たいと思う。


*スナイパー(D)
モーガン・フリーマンがスナイパー役というので分かるように、決して陰惨な、あるいは酷薄な映画にはならない。結局は人のいいスナイパーなので、ハラハラドキドキ感はほとんどないと言っていい。追いつ追われつの場面も緊迫感がない。第一、元警官の親子に捕まったフリーマンはその気になればいつでも逃げられるのに逃げもしない。ということで、何とも不完全燃焼の映画である。元警官をジョン・キューザックがやっているが、演技がまどるっこしいし、相手に絡んでいない。妙な間を見せるのは、演出間違いか。
おまけ映像で監督が映画の意図を話しているが、ここがこういう設定でドキドキする場面と言っても、まったく出来上がったものが別物で、この監督、自分の映画の出来がどれほどのものかまったく分かっていない。


*甘い汗(T)
豊田四郎作品で、これはなかなか見応えがある。俯瞰で飲み屋街の路地を撮り、そこにチンピラ風の小沢昭一が現れる。軽快に歩きながら吸っている煙草で頭上にある風船をパンと割る。何か祭りが行われているようで、その流れで風船があるという設定のようだ。小沢は小さなバーの雇われらしく、暗い室内に入るとホステス同士の喧嘩が始まっている。それがしばらく続くのだが、一人がこの映画の主人公京まち子である。この出だしだけで、映画に引き込まれる。
豊田四郎ってこんな動きのある、しかも場末の汚いバーなんぞを舞台にして映画が撮れるのか、と驚きが先に立った。脚本が水木洋子で、この脚本家については、いずれ調べたいと思っている。
京はすでに太り肉(じし)の感じで、16歳の娘(桑野みみき)がいる。小沢昭一は京を使ってヒモになろうとする役、その小沢が取り持つ相手が小沢栄太郎、妾を何人も持つが、家庭は大事にしている。妾が裏切らない限り、いつまでもお金の面倒を見るという“モットー”を持っている金持ちの役。そして、佐田啓二は昔、京が結婚まで考えた男で、娘のためにそれを諦めた過去がある。いまはパチンコ屋など手広くやっている佐田が舞い戻って、京にある話を持ちかける。どうしても立ち退かない靴屋のオヤジ(山茶花究で、朝鮮人という設定)をたらし込んで、二人で店の経営をしろと。
京は真に受け靴屋と箱根に出かける。その間に、佐田の手下が店を壊し、パチンコ屋に改装、店の経営は佐田のかみさんがやることに。
京は母親や兄などと8人で狭い家に暮らしている。そこに娘もいる。母親が沢村貞子、兄が名古屋章である。その家族とのゴタゴタ、高校生の娘とのあれこれ、男とのすったもんだを、ごく自然な流れで繋いで飽きさせない。
2つだけ不満を言えば、ヒモになろうとした小沢昭一が京にソデにされ、京の素性を金持ちの小沢榮太郎にバラして、妾になる話をぶち壊したあと、まったく姿を見せなくなる。これはどう見ても不自然だ。
もう1つは、昔の男の佐田が10数年ぶりに京を探し出し、悪巧みの片棒を担がせるなんて、話が出来すぎである。第一、佐田は神戸に家があるらしい。それが何で東京の飲み屋街に顔を出すのか。
山茶花究がぷっくりして生彩がない。演技にも独特な斜に構えた感じがなく、実直な靴屋のオヤジそのもの。ということは、ぴったりの演技ということになるのだろうが、山茶花をこういう使い方をしてはいけない。
ラストは、昔、タクシーに乗って娘を捨てて逃げようとした京が、今度は愛想をつかされた娘がタクシーで去って、一人残される。それでも、「奴さん」を口ずさみながら、建物のシルエットがくっきりした朝まだきの風景のなかを飄々として歩いていくところで映画は終わる。
豊田監督、恐るべし、である。


ジェイソン・ステイサム2本(D)
「アナドレナリン」と「ローグ・アサシン」。前者は30分で放棄、マフィアに注射された薬のせいで、興奮状態に保たないと命が危なくなる、という設定にそもそも無理があって、それに付き合わされるのはタマラン。
「ローグ」はジェット・リーとの共演だが、これも設定に無理があって、見ているのが辛い。日本ヤクザが登場するのだが、言葉遣い、部屋のインテリア、全部いい加減。しまいにステイサムが変な日本語を喋るというおまけまである。どんでん返しまであって、やり過ぎ感というか、別にそんなことなんかしなくても、単純にアクション映画でいいじゃないか、と僕は思う。ステイサム、しっかりしろよ、と言いたくなる。


*「ニッポン泥棒物語」(T)
ぼくが小学生のときに見た映画で1965年作である。今回が3度目になるか、やはり傑作である。山本薩夫監督は62年にまじめな「松川事件」を撮っているが、同じ題材でこっちは喜劇仕立てである。これは監督とすればどういう心理なのか。あまりにまじめに撮りすぎて面はゆい感じがあったのか、いいネタを見つけてそれに一心不乱になったのか、真意を訊いてみたいものである。


破蔵、つまり土蔵破り専門の泥棒が深夜に出くわしたのが9人の図体のでかい男たち。この裁判では人数が焦点になっていて、検事側は首謀者3人説を採っている。
三国演じる泥棒は自警団に囲まれたと思って匕首に手をやるが、相手が襲ってこないので「お晩です」と声をかけると「こんばんは」と標準語が返ってきた。
4度のムショ暮らしのあとは堅気で通し、ニセ歯医者で生計を立て、きれいな妻に一人の子供に恵まれるが、ムショで一緒だった気のいい松川事件の犯人たちのことが忘れられない。最高裁の審議に至って初めて、証言台に立つことを承知する。
三国に偽証を迫るのが伊藤雄之輔、実に味わいが深い。怪優と呼んでいいだろう。妻役が佐久間よし子で、可憐で、生活の匂いがする。テレビの月光仮面などで見た悪役たちが、三国の子分で出たり、刑事役をやったりしている。東映映画なので、のちに健さん映画にも顔を出している。俳優クレジットに杉狂児の名を見たが、さて何の役で出ていたのだろう。
ラストの法廷シーンではつい落涙、そのままエンドマークが出るので、ほかの客に濡れた顔を見られるのが嫌で下を向いて出口に向かった。
白黒映画で小学生時代に打ちのめされたのは「飢餓海峡」である。あれも三国が主演だった。やにわに見たくなった。


Bad Boys(D)
つまらない映画である。リズムが悪い。一人ジャネット・ジャクソンみたいな女優が可愛い。


祇園の姉妹(D)
溝口の項に譲る。


*「飢餓海峡」(D)
ライブドアの「ぽすれん」の品揃えがまあまあで、そこで早速借りてみた。3時間を超える大作で、ぼくは4、5回見ているはずである。いちばん最初は小学生の6年ではなかったかと思う。
台風による宗谷丸の転覆と、北海道岩内町の資産家宅の放火・殺人を絡めた、スケールの大きい映画である。かといって大味な推理ものに落ちることなく、どどろとした情念を描く映画である。


三国が娼婦の左幸子と同衾し、首に手を添えたときにそのまま殺してしまうのではないかと思ったのは、今でも鮮明に覚えている。あとで左は三国に殺されるが、つねに外は稲光の嵐である。
あるいは、ときおり絵を白黒反転するのも恐く、とくに三国が川を渡って逃げるシーンは、まるでコールタールの流れに捕まったようで不気味だった。ただ、これは勘違いだったらしく、その後もこのシーンをじっと見つめるのだが、それらしいものが映らない。子供の神経が作り出した映像なのか。
かつて恩義を受けた三国のことが忘れられず、10年も前に切った三国の爪を持ち歩き、それを頬に当ててエクスタシーを味わうシーンは、子供心にも分かるように思ったものだ。


伴淳三郎が渋い田舎刑事役で、犯人三国を執念で追う。深追いして結果が出せず、早期の辞職を食ったらしいことが、あとで分かる。しかし、もう一度、チャンスが訪れ、勇躍、犯人のもとへ駆けつける。それを送り出す家族の葛藤も、書き割り的だが描かれている。ぼくはバンジュンの出る喜劇映画をけっこう見ていたので、非常に意外な役どころだと驚いたのを覚えている。コメディアンはシリアスはできるが、シリアスはコメディができない。森繁大先生しかり、フランキー堺しかり。


三国はいっぱしの資産家、それも刑余者に慈善を施す篤志家になっている。妻は足が悪く、まったく身寄りもない中国からの復員者だという。ぼくは、左が三国の立派な家を訪ね、この妻が出てきたところで、妙に寒々としたものを感じたことを覚えている。それは、今回、見ても同じで、主役の人物の凍ったような内面を見るような気がするのだ。


三国は丹後の極貧の生まれ、という設定で、映画のデータベースでは被差別部落の出身だという。水上勉の原作に書かれているのかもしれない。彼が障害をもつ天涯孤独の女を妻にした理由は、そのへんにあるのかもしれない。あるいは、娼婦である左幸子に、北海道岩内で放火、殺人で手に入れた金の一部を渡したのも、そういう薄幸の女性に心惹かれるものがあるからだろう。


映画では三国は6尺の大男と表現されている。たしかに大きいが、舞鶴署の刑事高倉健と並ぶと、健さんのほうが大きい。単純にそれだけでもぼくは、健さんはミスキャストだったのではないかと思う。というのは、後半は健さんと三国の対決場面がけっこうあるからである。健さん、一本調子の演技が少し残念である。


内田吐夢という監督は戦前から長く活躍した人で、左翼系のいわゆる“傾向もの”といわれる作品を撮ってきたらしい。その匂いはこの作品にもあって、貧困から金への妄執が生まれ、それがもとで人殺しに及んだ、と言いたいようだ。


*「橋のない川」(T)
今井正作品で、1部と2部で5時間超の大作である。水平社ができるまでの前史といった趣である。印象に残るのは、主人公の初恋の相手が部落ではなく在所の人で、明治天皇大葬の黙祷のときに手を握ってきたのは、恋心がさせたことではなく、部落の人間は夜になると手が蛇のように冷たくなるという説を確かめるためだった、とあとで告白するシーンである。大人も残酷だが、子供も残酷である。


あるいは、ふだんは露骨な差別をする地主の子とその取り巻きが、中学へ進む子を先生が依怙贔屓するのを見て、主人公に近づき、修学旅行で一緒の部屋に寝ようと誘うシーン。差別が連帯を生むのか、と思ったところ、夜中、主人公一人を残して別室に移動する。ガキの差別は、そう甘くはないと知らされる。


気になった箇所は、主人公の兄が勤める米屋のこと。部落出身など関係ない、人間は器量で見るものだ、と何かと取り立てる主人夫婦。ところが、娘が彼に惚れていることが分かると、妻は拒否の姿勢を明らかにする。しかし、主人の反応がまったく描かれない。立派な哲学をもち、米騒動に際しても貧窮の人びとに格安でコメを売ったような人物が、そう簡単に自分の哲学を撤回したとも思えない。そこのやりとりを描かないのは、便宜主義と言われても仕方がないのではないか。


*「社長太平記」(D)
もと海軍の仲間3人が下着会社に集う。いちばんの下っ端が社長(森繁)、曹長(小林桂樹)が専務、艦長が課長(加藤大介)である。社長は妻の父親が創業した会社を継いだかたちである。この3人の顔、小学生のときによく見たものである。とても懐かしい。


それにしても冒頭、戦艦でドカンドカンと戦うシーンから始まるのには驚きである。59年の作だが、戦争賛歌と見紛う出だしである。あるいは、「海軍バー」なるものも登場する。昔懐かしい軍人たちが集うバーだが、そこではヌードも行われる(配役名にジプシー・ローズの名がある)。
ただ、中身を見ればいくつか皮肉を効かせてあるのが分かる。たとえば、早食いが得意な森繁が曹長から、賢くも天皇陛下が下さったものだからゆっくり食えと諭される。しかし、艦長は見上げた心がけだと褒める(この早食いの癖が抜けず、戦後も家庭で料亭で所構わずやるのがギャグの1つである)。あるいは、3人が「同期の桜」を歌う場面、「同じ国体の庭に咲く」を「同じ会社のなかに咲く」と言い換えてある。


営業部長が三木のり平、吸い付きブラジャーを付けながら、社長から「踊ってごらん」「回ってごらん」と言われ、タコのようにくねくねするのには笑ってしまう。欽チャンが次郎さんをいじったコントを思い出してしまった。
ただし、この映画、三木の出番が少なく、次作以後の課題ではないだろうか。ライバル会社の専務が山茶花究で、ちょっとしか出ていないが、存在感あり。スマートでいながら、嫌みな感じはきっちり出ている。
例によって淡路恵子がバーのマダムの役で、この人、ぼくはほかの役を見たことがない。幼少のみぎりから気になる女優さんではあった。


この淡路が惚れるのが小林桂樹、森繁に仲介を頼むが、工場の火事騒ぎが起きて、その話がどこかへ飛んでしまう。いい加減なものである。


充実した作品で、続編ができたのはよく分かる。ラストで森繁と加藤大介がヒゲを剃って新規巻き直しを誓うところなど、制作側もシリーズ化のつもりで作っているのがよく分かる。


*「The Straight Story」(T)
そういえばデビッド・リンチが“まともな”映画を撮ったと話題になったことがあったが、それがこの映画。本当に“ストレート”な映画で、主人公の名もストレート。
10年近く仲違いしていた兄が脳梗塞で倒れたと聞いた73歳のストレートが、時速8キロの芝刈り機に幌を引っ張って、何百キロ先のウイスコンシン州の兄のもとへ行く話である。アメリカ物でよくある“頑固sturbborn者”の系譜に連なる映画である。


出だしからして麦畑を上空から撮す普通の映画である。カントリー風の音楽も伴奏される。太っちょのおばさんが外で日焼けのために寝ころんでいる。何かを取りに家に歩いていく。カメラは彼女の後ろ姿を追い、彼女は右に、カメラは左の家の窓を撮す。ドサッと音がするが、それが何かは明かされない。おばさんは飲み物と食べ物を持って戻ってくる。
場面変わって、酒場から老人が出てきて、待ち人が来ないと不満を言いながら迎えに行く。さっきの家に来て声をかけるが、なかなか返事がない。やっと中から声があって、入ってみると、天井を向いてストレイトが倒れている。ローズという娘(「キャリー」を演じたシシー・スペイセク)もやってきて大騒ぎになる。


娘は4人の子をなしたが、世間の人は少し“とろい”と言う。彼女が出かけたときに火事が起こり、親の責任を果たせないということで子供を取り上げられる。老いた父は彼女をかばい、「家のことはすべて彼女が仕切っている」と人に洩らす。2人は星空を眺めたり、稲光のする嵐が大好きである。


あとは芝刈り機で長旅をする過程の苦労や喜びを丁寧に映し出すだけの映画である。親切な人が、目的地まで乗せていってあげると申し出るが、自分の決めたことをやり遂げたいと断るところなど、アメリカ魂を見る思いだ。あるいは、壊れた機械を双子の整備士が修理、法外な請求をされたときに、とても論理的に値切っていくところなどもアメリカ的な感じがする。


自転車競技の若者達と一緒になったときに、若者から「年をとって嫌なこと」と「年をとって良かったこと」を訊かれ、それぞれこう答える。「若かったときのことを覚えていること」「実と殻の違いが分かり、小さなことで悩まなくなった」。けだし、名言ではなかろうか。


貧相な兄(ハリー・ディーン・スタントン、「パリ、テキサス」)の家にたどり着き、言葉少なに2人は向き合う。兄は、「あんな機械でここまでやって来てくれたのか」と涙ぐむ。なぜストレイトが芝刈り機に拘ったのかが、ここで少し分かった気になる。


この作品、「マルホランド・ドライブ」の前に撮られている。その後はまたいつもの作風に戻っているようである。リンチのいい観客ではないので何も言うことはないが、こんな真っ当な映画も撮れるのね、と驚くばかり。


*「イント・ザ・ワイルド」(T)
恵比寿に行ったら売り切れで、次にシャンテ・シネに行ったらここも売り切れ。仕方なく次回券を買うも、前から3列目。始めあまり近いと画面のどこに視線をやったらいいか困るが、そのうちに慣れてくる。
ショー・ペンの映画で、これが3作目? 前の「プレッジ」をやはり恵比寿で見ている。雪の降る疎林の風景が水墨画のようだったのが印象に残っている。


今度の映画は横暴な父親とそれに妥協して生きる母親から離れて、独り立ちを模索する青年のイニシエーションが題材である。彼が目指すのはアラスカ。60年代のヌーディストやヒッピーなどの風俗を盛り込みながら、自然の荒々しさに翻弄されていく様が描かれている。
何度か徒歩によるトライをするが、結局、自然に阻まれて挫折する。最後は、ベースキャンプの廃棄されたバスのなかで衰弱して死ぬのだが、ぼくにはそれはほとんど自殺と同じに見える。そこからは絶対にアラスカには行けないと分かっているのだから。


丁寧に撮っているが、冗長で長い。革製品を作る老人に信仰について教え諭すところなど、やり過ぎという感じである。


*「の・ようなもの」(D)
81年の作で、森田監督の処女作のようである。見るのはこれで2度目。落語家の卵の青春群像というところ。伊東克信という方言丸出しの、下手くそな俳優を使うところに森田の抜け目なさみたいなものを感じる。映画に感情移入させないのである。それはそれぞれのシークエンスにも通じていて、決して登場人物たちのコミュニケーションは深まらない。
それにしても何も中身のない映画をよく撮れるものである。これは心からの褒め言葉である。
この映画の主人公は「しんとと」という芸名。好きになった高校生の家で落語を披露するも、下手だといわれて落胆し、終電もないのでテクテクと夜道を50キロくらい歩く。その間、目に入るもの、作り話などをまじえて落語語りで歩くシーンは、この映画の最良の部分である。話が転換するたびに「しんとと」と合いの手を入れるのが面白い。
ラストの、音声を消して尾藤いさおの味のある歌でエンディングするのは気が利いている。寂れた、小さなビアガーデンに飾り付けられた提灯が風に揺れるのが、とても映画的である。


*「マルクス捕物帖」(D)
原題はA Night in Casablankaで名画「カサブランカ」のパロディらしいが、ぼくは後者がどんな映画だか記憶にない。見ているはずだが。制作会社からクレームが来たが、グルーチョが反駁文を書いて、事なきを得た、というのをThe Essential Grucho という本で読んだことがある。
ぼくはマルクス兄弟物は初見である。言語遊戯に天才的な冴えを見せたグルーチョは、映画界からテレビ界に転身したり、著作もいくつかあって、いまだに名声を保っている不思議な存在である。
この映画もギャグのオンパレードで、それが一つ一つ面白い。1934年の作とは思えない。その拠って来たる大部分は、やはりグルーチョの先進性にあることは明白である。
たとえば、ハーポが操縦法も知らないで飛行機のハンドルを握る。やっと浮かんだときにグルーチョは「浮かんだ」と言い、すぐそのあとに「つまらないことを言った」と前の言葉を否定して見せるのである。けっして観客を映画のなかに引き入れようとしないしたたかさがある。
唖の役のハーポの動きが美しい。チャップリンを彷彿とさせるところがある。彼がハープを弾くシーンは、実際に自分でやっているのだろう、見事なものである。これは余談だが、ウォルト・ディズニーミッキー・マウスを創造するときに、チャップリンの動きを研究しまくって、一部始終を反映させたのだという。
チコがピアノを弾くシーンは、おそらく代役がやっていると思われる。
筋がいい加減、展開もスローでちぐはぐだが、彼ら3人の動きと言葉だけで全編を楽しむことができる。貴重なものを見たという感覚である。
ほかにいくつか彼らの作品を見てみたいものである。