09年5月からの映画

kimgood2009-05-18

53 「グラントリノ」(T)
イーストウッド主演、監督である。もとフォードの工場に勤めていた頑固じいさんがイーストウッドの役柄。その彼の隣りにベトナム人のモン族がやってくる。その地域自体が黒人やアジア系のちんぴらが跋扈する状態で、それを彼は嫌悪する。
彼は老いてなお腕力と銃にものを言わせるスーパーな年寄りである。かつて彼が演じたガンマンの引き写しにすぎない。最後を撃ち合いにしなかったところに新味があり、それなりに老人の知恵として納得させられるが、それまでに持っていく仕掛けがあざとい。
白人のスーパーヒーローが力技で人種問題を解いていく。さらに、白人もアジア人もみんな、70年代にフォードが作り上げたグラン・トリノという車が大好きという設定である。白人優勢の構図は安泰である。


このタフ老人はしきりに独り言を言う。それも悪態ばかりである。話の筋から映画のテーマまで、全部彼の毒言で紹介される作りになっているわけだが、イーストウッドらしくない薄手の設定である。
その彼が、いざ隣人のパーティにビールを餌に誘われるといそいそと出席する。しかも、ここは自分の家族より馴染むことができると言い出すにおよんで、ああイーストウッド老いたり、と思わないわけにいかなかった。抑制が利いていないのである。


「つみきの家」でアカデミー賞アニメ短編賞を獲った加藤久仁夫がテレビでインタビューを受けていたが、一人暮らしの老人を主人公にして饒舌にする気はなかった、と言っていた。さらに、アップの映像より引きの絵を中心にしたのも、老人の内面を見つめる姿勢を表現したかったからだと言う。
この言をイーストウッドに聞かせてやりたいものである。
「グラントリノ」をーストウッドが「晩年(死んでもいないのにね)」に成し遂げた大きな成果のように喧伝する向きがあるが、ぼくは評が辛い。


54 「ミルク」(T)
ゲイムーブメントの火付け役となった人物ミルクをショー・ペンが演じている。肩の力の抜けたとてもいい演技である。たしか男優賞を取ったのではなかったか。
ガス・ヴァン・サント監督で、自身もゲイであることをカミングアウトしているらしい。「エレファント」はじめいくつかそれらしい映像があるので、予想のつくことではあったが。
インディーズ系などかけらもないような正々堂々の評伝映画である。ぼくは前作の「パラノイドパーク」が久しぶりにガス監督らしい映像だったので、今回の直球ぶりには驚いてしまう。

ミルクは40歳にして会社を辞めて、カメラ店をサンフランシスコに開店する。そこがゲイ活動の拠点となっていく。
市政委員になろうとして3度落選するのだが、その市政委員というのが政治家なのか、よく分からない。映画を見るかぎり政治家のようなのだが。
途中からは、ブリッグおよびアニーというキリスト教系保守政治家が提出した政策60というマイノリティの公民権を制約する条例が全米に広がるのを阻止する運動に邁進する。レーガン、カーターと保守とリベラルからも反対意見が出された条例のようである。


彼は4人の男と関係をもつが、いずれも相手が自殺、自殺未遂へと追い込まれる。途中で別れ、長く友情関係の続いた男は、「スパイダーマン」で友人の役をやっていた俳優だ。
ミルク自身は、保守系の市政委員の一人に銃で殺されて死んでしまう(この殺人者は「ジャンクフードの食べ過ぎで頭がおかしくなっていた、と主張し、5年の刑で出てきた、その後2年で自殺する」)。
最後に、実在の人物の写真と現在何をしているのか触れられるが、役者とそっくりなのにはびっくりする。ひとりショー・ペンだけは似ていないのだが。こういうところにガス監督の妙な拘りを感じる。
10人ほど客が入っていて、それはそれで驚きである。もしかしたら観客一人かもしれないと思っていたからである。


55 「ブルワース」(D)
ウォーレン・ビーティ監督、主演で、ハル・ベリーが出ている。彼女を「ソードフィッシュ」で見かけたときの衝撃を今でも忘れない。この映画でも相変わらず美しい。中身のない、だらだらした映画だが、彼女を見るためにエンドまで付き合ってしまった。
人生に飽いて殺し屋に自分を殺してくれるように頼んだ上院議員が、突然、過激な発言で大衆の心をつかみ、果ては大統領候補にまでなるが、銃弾に倒れてしまう、という筋の映画である。ハル・ベリーが実はその殺し屋だった、というわけだが、ビーティの悪のりした演技が鼻につく。この人はやはり「俺たちに明日はない」のときの、あのピュアな小悪党の演技が忘れられない。音楽エンリオ・モリコーネというのが懐かしい。


56 「アモーレ・ペロス」(D)
衝撃的である。あの「シティ・オブ・ゴッド」の再来かと思ったら、こっちのほうが2年早く出来ている(00年)。方やブラジルの少年マフィア、方やメキシコのちんぴらと上流階級、テンポの速い映像処理とざらざらとして、それで生な感じの色彩、それが両者に共通する。あと作中人物の突き放した描きようも相似である。「シティ」の監督はフェルナンド・メイレス、のちに「ナイロビの蜂」を撮り、「アモーレ」の監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトウは「9グラム」を撮っている。「アモーレ・ペロス」とは「犬のような愛」という意味だそうである。


冒頭はカーアクションである。後部座席には腹から血を出した犬が横たわる。クルマから拳銃をぶっぱなす相手から逃げおおせたと思ったところで、カークラッシュ。そこから物語は過去のある時点へと遡る。


3つの人間関係が同時に進行する。強盗を重ねる兄の妻に言い寄り、この町を逃げだそうと迫る弟オクタビオ。その資金稼ぎにコフィという飼い犬を闘犬に出場させる。オクタビオを演じているのは「モーターサイクリング・ダイアリー」でゲバラを演じたガエル・ガルシア・ベルナル
犬数頭を飼う元大学教授の殺し屋エルチーボ。自分の会社の商品のモデルと不倫し、妻とは離婚したダニエル、彼らもリチィという犬を飼っている。
この3組の人生がある瞬間に交錯する。映画は「オクタビオとスサナ(兄嫁)」「ダニエルとバレシア(モデル)」「エルチーボ(元大学教授)とマル(娘)」という3つの章に分かれている。
陰惨なのは、ダニエルの犬コフィを助けた元大學教授が依頼された殺しの調査に出かけて帰ってきたら、自分の犬がほとんど全部コフィにやられていたことである。老人はコフィを殺さそうとするが思いとどまる。


この映画では転倒した「愛」が語られている。やくざに頼んで兄を懲らしめる弟も、金のために人殺しをする元教授も、人生が暗転した不倫の男女にしても、犬への愛だけには偽りがない。このさかしまの愛のかたちは普遍的なものであるだろう。飼い主が不幸、不遇であるほどに、その倒立度は深くなる。


ポール・ハギスの「クラッシュ」が05年、なんだ「アモーレ」のパクリだったのね、である。それにしてもラテン、恐るべし、である。


57 「チェイサー」(T)
話題の映画である。残酷である。見終わったあと肩凝りがひどい。「殺人の追憶」の完成度には及ばない、「オールドボーイ」の遊び心に及ばない。しかし、残酷度は一等すごい。


コールガールが行方不明になる。胴元は客の誰かが売り飛ばしていると考え、捜索を始める。これがもと刑事。失踪した女たちは、いつも同じ携帯番号の男のもとで姿を消している。その男にひとりの女を送り出す。スキを見てメールを送れ、と命じるが、返事が返ってこない。焦ってクルマを運転しているときに事故を起こす。それに乗っていた男が実はその客だった。さんざん殴って警察に突き出すと、男は取り調べの最中に変なことを言い出す。9人、殺した、と。いや11人だと。クルマを借りた友達の名前も忘れたし、住んでいる家も忘れた、という。警察は色めき立つが、死体、あるいは殺害現場が見つからないかぎり、起訴することができない。実は、ほかの署でも2カ所、その男を挙げて、立証できず釈放していたことが判明する。ほぼここまでで30分。あとは、証拠固めの捜査が主になるが、いっこうに先が見えてこない。そしてついに男を釈放。


これ以上はネタばらしになるが、冒頭のシーンが分かりにくい、犯人と目される男が部屋の壁に描いた絵がよく分からない、ある偶然からある事が起きるが安易に過ぎる、殺害方法とキリストとの関係がよく分からない、など疑問がある。恐くて2度見ることはないだろうから、謎は謎のままに残る。


しかし、韓国の映画、血を流させたら一流ではないだろうか。パク・チャヌクの「残酷三部作」も血が一杯だったが、この映画はもっと酷い。ぼくは予告編しか見ていないが、「SAW」がこういう類の映画ではないのだろうか。



58 「ペギー・スーの結婚」(D)
とても古風なタイトルロールで始まる。高校の同窓会に出たペギー・スーが同窓会クイーンに選ばれ、その驚きからか失神する。目が覚めると何と50年代に逆戻り。同窓生と結婚し、やがて別居を選んでいたスーだが、もう一度人生をやり直そうとする。相手役がニコラス・ケイジで、その若いこと、髪の毛のふさふさだこと。しゃべり方、ふるまいに妙な幼さがあって、演技だとすると面白いことをするものである。ペギー・スーをキャサリンターナーが演じている。


取り立てて何と言うこともない映画だが、過去に引き返してみても結局同じ相手と結婚することになる、という設定が興味深い。考えてみれば、馴れ初めのころのほうが、男も親切で熱心だったはずで、その一途な様子にグラッとくるのも分からないことではない。


ところでこの映画、コッポラ作品である! 86年である。


59 「フェリーニ─大いなる嘘つき」(D)
02年の作で、インタビュー作品である。時折映し出されるフェリーニの故郷リミニの風景が美しい。赤ん坊のときの写真の何とふてぶてしいことか。


フェリーニは作り物が好きで、ということはセット組みが多い。海さえにせ物で作って撮影したという。


見ていてびっくりするのは演出の細かさである。足の位置、目線の送り先、何から何まで役者を人形のように扱う。それにいちばん適応したのがマストロヤンニなんだそうだ。この演出法は小津を思い出させる。


印象に残った言葉──「より恥知らずな満足を求めて映画を作っている」「完全な自由だと映画は撮れない」「私は光と闇に囲まれて生きてきた」「現実より創作したもののほうが本物に見える。自分で作ったリミニが本物になった」


高校生のころ、「サチュリコン」を見たときの背徳感は忘れられない。ビスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」にもどれだけ隠微な感覚を覚えたものか。そして「愛の嵐」に「キャバレー」……。どういうわけか今この種の映画に手が出ないのである。作り手が耽美を装っているだけに見えるのである。


やにわにフェリーニの映画が見たくなった。


60 「風櫃の少年」(D)84年
侯孝賢(ホウシャオシェン)監督である。台湾ニューシネマというのを聞いたことがあり、敬遠して見なかった記憶がある。芸術映画と思ったからである。あらためて見てみて、感慨深いものがある。それはなぜと言えば、奇妙な懐かしさに溢れているからである。


当時、目新しく見えた映画も時ふれば、その核の部分が露呈してくる。監督が撮ろうとしたものは普遍的なもの、いわば“過ぎ去りつつある青春”である。その痛みが全編を覆っている。それが懐かしいのである。


アチンとその悪童仲間3人で風櫃という村から高雄という大都市へやってくる。そこで出会う大人たちの世界。アチンは一人の娘シャオシンに恋をするが、叶えられない。


アチンの父親は野球でボールを額に受け、そこが陥没している。脳に損傷があったのか、日がな一日玄関のところに籐椅子に座って時を過ごす人間になってしまった。父親で思い出すのは蛇をバットで殺した様子と、あとで死骸を見に行ったら干からびていたという記憶である。このシュールな設定がこの映画を並ではないものにしている。もう一つ、アチンの父親の葬儀にかこつけて風櫃にやってきたシャオシンが、恋人の実家を訪ねるシーン。家の前で一人の女がしゃがんで2尾の魚をさばいている。そのまわりに雲霞のごときハエが飛んでいる。これも秀逸である。


61 「クライマーズ・ハイ」(D)
原田真人監督、原作はかの横山秀夫。「半落ち」は泣かされたが、映画としては樹木希林が光ったものの、イマイチだった。しかし「ハイ」はしばらくぶりにエンタメ邦画でいい映画を見た、という印象である。アメリカの刑事物のように組織内部(この場合は新聞社)のパワーゲームを描きながら、日航機墜落事故という前代未聞のニュースを追いかける記者たちの姿を活写している。


一報が入ってから編集局内の一部始終を追いかけるところが圧巻である。綿密な演出がなされないかぎり、撮ることのできない群集劇で、これだけ多人数を動かしながら臨場感を出した映像を見たことがない。焦点が誰かに定まっていれば撮りやすい話だが、そうはやらない。新聞社は大事件が起きれば、こういう生理で動くのではないか、という気にさせる迫力がある。まるでドキュメントと言いたくなる。


新旧記者の争い、編集と販売の確執、経営と現場のせめぎ合い、局内のいざこざ、組織のなかにあるすべてがここに描かれている。山崎努が演じる社主がエロ爺いで、まったく地方権力者の典型のように描かれているのは、ご愛敬といったところ。そして、主人公が社内のアウトサイダー的な人物でありながら、母親が社主の妾だったとかなかったとかという設定も、やりすぎ感があるが、それもご愛敬である。そういう意味では、すべての設定が“さもありなん”的にできている。だから安心して見ていることができる、というのと、その一方で“できすぎ”だろうという思いもある。


秀逸なのは、日航関連で1面を行くのか、群馬出身政治家中曽根の靖国参拝を1面にするのか、というジレンマをどう処理したか、というところである。まさか靖国参拝を褒めるわけにはいかない。だが、地元政治家だから取り上げないわけにはいかない。だけど地元の御巣鷹山では日航機が墜落している、といった状況で、主人公は遺体安置所の写真で両者をつなぐという離れ業(つなぎ業?)をやって、面目を施す、といったシーンがあるが、それってかなり現実にもありそうな話である。ぜひその紙面を見てみたいものである。


日航機事故を扱った『喪の途上にて』という野田正彰氏の作品がある。これは日航側がいかに遺族に対して不誠実であったか、しかし担当者が変わることでいかに遺族が癒されたかということを中心に描かれたノンフィションだが、そもそもはこういう大事故の場合、アメリカでは膨大な調査報告書が作成されるのがふつうだが、日本の場合、時が経って風化に任せるだけで、将来の検証に耐えるものが作られないないので、本書を上梓したと著者は言う(ぼくは『世界』での連載時から読んでいた)。


新聞によれば、横山秀夫の警察内部ものが登場してから、中途半端な作品が作れなくなった、という。かつて『西部警察』ではマシンガンをぶっぱなし、カーアクションが売り物だったが、リアルでないということでそういうシーンが撮れなくなったそうだ。クルマも性能が向上して横転することもなくなったという。ぼくは警察内部ものは高村薫が先にいると思うのだが。しかし、作り物と現実は違うわけで、好きなだけドンパチやったらいいと思うのだが。


62 「宮廷画家ゴヤは見た」(D)
あの「アマデウス」を撮ったミロス・フォアマン監督である。主演が「ノーカントリー」で不気味な殺人者を演じたジャビエル・バデム(最新のウッディ・アレンの映画にも出ている)、彼が異端審問官ロレンソ役である。ゴヤを演じるのがステラン・スカルスガルドで「奇跡の海」の彼である。なんと渋い配役だろう。それにナタリー・ポートマンが絡む。


時代は1792年から1807年あたりまで。スペイン国王の従兄弟がフランスのルイ15世で革命で処刑される。その波はスペインにも及び、ナポレオンの兄が国王の地位につくが、やがて英国とスペインが組んでナポレンオン一派を追い出すことに。


ロレンソは自ら異端審問を再開するべきだと提言。その網の目に引っかかったのがポートマン演じる富豪の娘イネス。容疑はユダヤ教を密かに奉じているいるのではないか、ということ。たしかに父親の先祖にユダヤの血は入っているらしいが、ユダヤ教徒ではない。後ろ手に縄で縛って、そのままの姿勢でつるし上げる拷問に遭い、虚偽の告白をする。ロレンソは異端者の牢獄を訪ね、イネスを抱きかかえる。ゴヤの部屋で彼女の肖像画を見ていたからである。富豪の父親がロレンソを館に招き、金銀財貨の寄付のかわりに娘の釈放を求める。イエスと言わないので、審問の拷問と同じやり方でロレンソをつるし上げる。彼は自らを猿であるとする証文にサインをする。牢獄へ行き、イネスに優しい言葉をかけ、事をいたす。ところが、司教は彼の意見を取り上げず、寄付はもらい、娘は監禁を続ける。やがて15年が経ち、ナポレオン軍が侵攻し、イネスは釈放され、フランスに逃げていたロレンソは革命派に寝返って先の司教の死刑を宣告する。我が世の春をうたうロレンソだが、英軍とスペインの混成軍につかまり、死刑に。機を見るに敏な彼だが、最後は革命の大義に殉じたかたちだ。


いくつか発見がある。ゴヤが途中から耳が聞こえなくなり、手話の通訳が付くことだ。彼の銅版画を作る過程が映し出されるのも興味深い。肖像画では手は描くのは難しいので別料金だという。片手より両手のほうが高い。では耳はただなのか、目は? 「楽園」を描いたボッシュの奇妙な絵がスペインに持ち込まれた経緯が触れられる(ぼくははるか昔スペイン旅行でその絵を厚い布地に印刷した大きな土産物を買ってきたことがある)。異端審問者を殺さず、ずっと牢獄に留め置くようなこともしていたというのも新発見である。イネスはロレンソの子を産むのだが、その子はポートマンのふた役で、公園で客を拾う娼婦の役である。そうか公園で昼間から客を引いていたのか──。パシーノの「ベニスの商人」でも感じたことだが、昔の女性はほとんど胸を剥き出しのドレスを着ている。


ポートマンが疥癬病みの姿で牢獄から出てくる。それをロレンソは精神病院へ送り込み、娼婦の娘は引っ捕らえてアメリカに奴隷に売り飛ばそうとする。彼は自分の過去が暴かれるのが恐かったのである。いまは勝ち組となって妻と子供2人とスペインに凱旋したのだから。ぼくはポートマンが汚い格好をしていることに耐えられない。


タイトルにゴヤが入っていても、ゴヤが中心の映画ではない。ゴヤもまた時代に流されているにすぎない。ではロレンソが主人公か。ぼくはポートマンの娘こそ主人公ではないかと思う。進軍してきた英軍に助けられ、その将校に見初められ、ロレンソが処刑されるのをバルコニーから優雅に眺める彼女こそ主役である。


62 「12人の怒れる男」(D)
あの有名なシドニー・ルメットのリメイク、というより本歌取りに近い。構造と精神を受け継いだが、あとは自由にやりました、といった体である。ニキータ・ミハルコフという監督で、この映画を見る限り面白そうな監督である。


細かいことは忘れたが、ルメットの映画はプエルトリコ人の少年が殺人の疑いで捕まる。初めは12人の陪審員のうち11人が有罪。それが最後に12人全員が無罪の評決を出す。その12人のキャラクター設定が実に計算されていてアメリカ社会の縮図になるようにいろいろな階層の人間を入れている。ただ、そこに黒人がいないのが最大の欠点だろう。あるいは、容疑者を黒人にする方法もあったはずである。ルメットはなぜ黒人をはずしたのか? 


室内劇、限られた人数と時間。それでていて真実にたどり着けるのか、と映画のポイントは一点に集約されている。シナリオの良さが決定的な意味を持つ映画である。


まず最初から犯人はプエルトリコ人ということで偏見が埋め込まれている(ミハルコフ映画では少年はチェチェン出身。あのロシアと戦った誇り高き民族である)。そこに証言者が加わり、誰も有罪を疑わない(証言者は足の弱った老人、向かいに住む独身女)。一人の「怒らない男」だけは。これを過去の映画ではヘンリー・フォンダが演じていた。最後まで少年有罪説に固執するのがロッド・スタイガーで、彼は自分の息子との関係に悩んでいて、それが容疑者への反発となって現れていたことが劇の進行とともに分かってくる。


ミハルコフ監督も大筋はルメットの進行に倣うが、それぞれ12人のバックグランド紹介にかなりのウエイトをかけている。それが冗長な感じを起こさせるところもあるが、息子との軋轢に悩む差別主義者のタクシー運転手の告白、年老いたユダヤ人の父親の駆け落ちの話、墓場管理人の裏家業の話など、すごい現実があるものだと感心させられる。この人間の深みに入っていく演出はロシア的と言っておこうか。どの人物も造型がくっきりしていて、味わい深い。もう中年を過ぎたような男どもで、人生が臭ってくる連中ばかりだ。


そもそも陪審員が協議をする場所が、裁判所ではなくて学校の校舎を借りて行われる、という設定からして、混乱するロシアを象徴している。部屋の電気は切れるは、パイプからは湯気がこぼれる(学校ができて40年になる)は、隣の脱衣所からは大きなブラジャーは見つかるは、部屋に小鳥が舞い込んでくるは、仕掛けはふんだんにある。ちょっと演出過多のきらいがある。才気に走っている、というか。
途中途中で戦闘場面と、そのあとの雨降る惨禍の場面が繰り返し流され、きまって犬が何かを咥えて画面奥から走ってくる映像でほかに切り替わるのだが、最後の絵解きを見ても、さほどの効果があったとも思えない。やはりやり過ぎ感がある。爆撃を受けて燃える少年の家の映像は、不謹慎だが荘厳な感じにさえ見える。


もうひとつ難を言えば、「静かな男」が事前に事件のことをいろいろ調べているのだが、それを劇が始まってかなりあとになって言い出すことである。ポケットを探り、脱いだコートを探り、やっとカバンの小さな鍵を見つけ、開けて出すのが犯人が持っていたのと同じ特殊ナイフ。検察の主張とは裏腹に、特殊でも何でもなくて市場にいくらでも売っている品物と分かる。これでほかの陪審員の気持ちが動くのだが、ちょっとやりすぎだろう。彼は先に容疑者を無罪とする信条告白をすませているので、そこで言っておくべきことである。「事前にいろいろ調べました、証拠もあります」と。容疑者の家族写真まで持っているにおよんでは、何をかいわんやである。ドラマの展開のためにリアルさを犠牲にしたのだろうが、納得がいかない。ついでにいえば、あれだけ揉めていた連中が、いそいそと犯罪現場を再現しようと力をあわせ始めるところも不自然である。それにすぐに「無罪」へと変心することも。やはり元「12人」に依拠している気軽さがあるかもしれない。


全体の進行役を買って出た男が最後まで有罪を主張する。彼は今は年金暮らしの素人画家だという。土壇場で元将校であることがわかる。彼は少年が無罪であることは始めから分かっていたという。しかし、彼を下界に解き放ったらどうなるか、と問う。真犯人を捕まえ、刑務所にぶち込んでから彼を釈放すべきである、と主張する。あるいは、彼を無罪にするなら、みんなで彼を敵から守らないといけないと主張する。われわれはこの40年間、顔を付き合わせてああでもない、こうでもないと言い合ってきたが、結局、パイプひとつまともに直せないで来たではないか、と彼は言う。この役者がけっこう優しさと凄みが混じり合っていてgoodである。この映画はこれを言いたいがために撮ってきたようなものだ。元祖12人もそこまでは考えていなかったでしょ、と。


陪審員のなかにユダヤ人がいたり、カスカフ(?)という地方出身の外科医がいたり、ロシア中心部の人間ではない者を入れたことが、この映画を深いものにしている。というより、12人全員がくせ者俳優ばかりで、その演技に見惚れてしまう。室内劇なんだから、役者の演技、セリフが命になってくる。まして緊張感のある映画にしようとすれば。


ルメット映画を翻案した邦画「12人の優しい日本人」があるが、ドラマツルギーがない、12人の俳優が弱い、演技がつながらない、などなどで見ているのがつらい。中原俊監督で、脚本三谷幸喜である。三谷の映画は不出来なものばかりだが(というわけで「有頂天ホテル」は見る気もしない)、本業である芝居の脚本は上出来なのだろうか。この映画を持ち上げる向きもあるようだが、ぼくには信じがたいことである。


63 「お遊さま」(D)
溝口作品なのでその項に譲る。


64 「恋恋風塵」(D)
侯孝賢監督である。これも田舎から都会に出る若者の話だが、主人公の男女二人は幼なじみである。冒頭、暗闇の向こうに何かが見える。それが次第に大きくなってトンネルの出口であることが分かるが、また闇の中に入る。山深い鄙が最初の舞台である。子どもが4人もいる貧乏一家、主人公は長男である。爺さまが食事をしない孫にあれこれと理屈をつけて食べさせようとする。しまいにご飯に何か野菜(?)の茎を突き刺して、台北のレストランで食べた物だとウソをついて食べさせる。次男はひもじさから家の薬品まで食べて、母親に叱られる。爺さまの「婿養子(一家の主、炭鉱事故で入院している)を取ったが失敗だった」みたいな繰り言が続く。


長男アワンは高校に行かず、台北に出る。それを追ってアフンも(この双子的な命名に監督の意図が現れている)。彼は印刷工場に、彼女は洋裁店に勤め、仲間との交流を重ねる。彼らが集まるのは映画館の裏手にある部屋で、そこには画家崩れなど若者が集う。映画館ではカンフー映画などが掛かっている(「風櫃の少年」で映画館が出てくる)。アワンは彼女が酒を飲んだりするのが気にくわない。ひねくれて一人で旅に出るシーンが懐かしい。海に向かって僧と母子が祈りを捧げているのである。御幣のようなものも突き立てられている。まるでATGのような映像。そのあと、父親の炭鉱事故でも祈祷のシーンが映される。


アワンが2年の兵役に行く。当初は頻繁にアフンから手紙が届くが、やがて間遠に。アワンの手紙も戻ってくる。彼の弟から事情が知らされる、彼女はユン便局員と結婚したと。祖父は、将来性のある男だ、と言ったと手紙に書いてある。ラストは兵役から帰ったアワンが爺さまの育てた野菜の話を聞くところで終わる。


いくつか面白いシーンがある。アワンは父親から高い時計を譲り受けたのだが、仲間に高級だ、防水だと言われる。夜、家族に手紙を書くシーン、机の上にあるコップの水に時計が浸けられている。あるいは、二人が学校から帰ってきて、列車を降りて、ふと目線を上げる。その先にあるのは、野外上映のための白いスクリーンである。だが、上映シーンは撮されない。台北の洋裁店、中でアフンが働き、外からアワンが声をかける。それが半月型の窓で地面に近くくり抜かれていて、たてに等間隔に細い棒が並んでいる。それを挟んで二人が話すシーンが、胸をほかほかとさせる。



何ということもない映画である。監督はあえてそれを撮ろうとしたわけである。父親の影の薄さ、それでいながら決定的な影響力がある様子が「風櫃」と同じである。女性が貞淑でいながら、どこかでふっと心変わりをするところも同種である。



この映画、音楽がいい。ギターが効果的で、大事な場面転換では必ずギターが鳴る。とくに兵役で広東省からの船舶難民を助けたあとの映像、遠くに平均的な高さの林が水墨画のように並び、カメラがパンして、それにかぶさるように管楽器の細い音に続いてギターが重なるところなど、こころが震える。



長回しでカットも台詞も少ないのは「風櫃」と同じである。プロデューサーは「風櫃」のラッシュで真っ青になったそうだが、映画の評判がよかったことで安堵したらしい。この映画ではもう思う存分長回しをやっている。



65 最後の初恋(D)
ダイアン・レインリチャード・ギアの初老恋愛を扱っている。2人は離婚組で偶然の出会いから燃えるような愛へ。再会を約すが、男は洪水事故で死亡。その洪水がチンケなのには目を覆った。ダイアンが意外なほど美しいのがめっけものだった。


66 「ブラインドネス」(D)
2度トライするも2度とも15分で沈没。穏当な出だしだが、カメラワーク、カッティング、演技の演出、つまり映画作法がなっていないのだ、きっと。あわせて「アイアンマン」を借りたが、こちらは2度目、また堪能してしまった。グイネス・パストロウの秘書役が自然体でいい、悪党のジェフ・ブリッジスも彼と気づかないほどの変身だが、堂に入った演技で納得である。絶対に2を見に行くぞ、という出来である。



67 スラムドッグ$ミリオネア(T)
ダニー・ボイル監督だそうだが、ぼくはこの作品が初めてある。イギリスの監督で、イギリス映画である。舞台はムンバイ、かつてのボンベイである。いまや躍進目覚ましいインドを象徴するような町。あの「シティ・オブ・ゴッド」を思わせる粗い映像と音楽の使い方、子どもがアンダーワールドを図太く生き抜いていくのも同じである。


クイズショーの各問題ごとに主人公の過去の話に触れていく構図になっている。答えは経験のなかにあったというわけだが、できすぎ感があるのは確かである。みのもんたの番組がパクリだったことは知っているが、ショーアップの仕方から音楽まで全部いただいたとは知らなかった。司会役がその番組の唯一の勝ち残りというところがミソである。主人公が手にするのは2000万ルピーで4千万円ほどである。皮肉なことに、最後の問題が「三銃士」で、主人公は幼いころ兄のほかにラティカという永遠の恋人となる女性を加えて三銃士と名乗ったものの、その3人の名を知らずにいた。当て推量でラストの問題をクリアするのだが、それもできすぎ。


主人公とその兄、そしてラティカという少女──それぞれ少年期から成長に合わせて3人の役者が演じる。兄弟が不正に列車内で物売りをし、乗客の食べ物を盗んだのがバレて、外に投げ出される。斜面をごろごろ転がって、ぱっと体を起こすと少年期の役者と替わっているという仕掛けはスマートである。


これは初恋の相手が悲惨な状況に落ちても、諦めず探しまくる純愛映画で、ミリオネアに出たのも彼女がその番組を見ているだろうと思ったからである。愛する人の境遇がどんどん悪くなるのは、ドラマとしては定番の盛り上げ術である。それに勝ち上がりのクイズ番組が重ねてあるのだから、強烈な布陣である。
ラストに踊りが付いているが、これは抜かすとインド映画ではない、ということか。悲痛な愛を演じた男女が朗らかに踊っても違和感がないから不思議である。日本のむかしの映画でもよく登場人物が歌ったり踊ったりしたものだが(山根貞男マキノ雅弘を指して「祭りとしての映画」という視点を提示している。まさに歌と踊りの熱狂である)、映画はもともと何でも入れられる自由な器だったのである。


68 「消されたヘッドライン」(T)
ラッセル・クロウ主演、よくもまあ太ったものである。「シンデレラ・マン」で痩せた反動なのか。ワシントン・グローブという新聞の辣腕記者という設定、その友人で軍事の民間委託を阻もうとする上院議員ベン・アフレック。彼のスタッフで不倫相手でもあるソニアが地下鉄駅で死ぬ。他殺か自殺か。ソニアを洗っていくと、奇妙なことが分かっていく。彼女は軍事の民間委託を請け負うポイントコープという会社が送り込んだスパイである。しかし、次第にアフレックを愛し、子どもまで宿し、情報提供に抵抗するようになる。その結果……。


巨大な軍事企業の犯罪と思わせ、実はアフレックがソニアの素行調査を頼んだ軍隊での同僚が、精神的にいかれていたので暴走しただけ、という結末はどう見てもおかしい。そのいかれ野郎をそれらしく描くべきだし、なぜアフレックは妻を同道してソニアとのことを言いに新聞社までわざわざやってくる必要があるのか。ポイントコープの仕業に見せるため? クロウを陥れるため? 設定がおざなりとしか思えない。なぜ素直にポイントコープの大仕掛けを見抜いたで終わらないのか。ハリウッドがどんどんダメになるのが、この余計なヒネリである。タイトルも思わせぶりだが、劇中いっさいヘッドラインは消されていないから、この日本語タイトルはやり過ぎである。
ヘレン・メレンが編集局長(?)だかの役で出ていて好感である。この人はテレビの連続刑事物が良かった!


69 「ミステリー・トレイン」(D)
ジム・ジャーミッシュ映画である。3編からなり、2編目と3編目はつながりがあり、最終的には全部が「銃声」で貫かれている。1編目が工藤夕貴永瀬正敏が主演で、恋人ふたりがメンフィスへやってくる。工藤はエルビス狂い、永瀬はカール・ピーターソン(ぼくは知らない)狂い。エルビスが初めてレコード録音したサン・レコードへ行き、つぎは聖地グレースランドである。ただ町を歩き、場末の安ホテルに泊まるだけの話である。そのホテルのナイトポーターとボーイの黒人コンビが、言葉の少ない漫才師みたいで抜群の存在感である。


二人のセックスシーンだけが丁寧に撮られていて、ジャーミッシュは何を考えているのか?(工藤が意外と胸が豊かなのは発見である) 永瀬が灯油ライター(ジッポ?)を妙な扱いで火をつけるのがかっこいい。工藤がエルビスブックみいたなものを作っていて、中東の石像、自由の女神、大仏などエルビス似の写真をくくるシーンには吹き出してしまった。メンフィスも、キングと呼ばれるエルビスも、日本人にとってはこれくらいの軽さよ、というところかもしれない。朝、出発の準備をしいているときに銃声が聞こえる。


なんと中身のない、たるい映画かと思う。ジャーミッシュのたるさもここまで来ると、付き合いきれないな、と思う。しかし、どういうわけなのか、ぼくはこの種の何も起きない映画に弱い。つい細部に目が行き、楽しんでしまっている自分がいる。ジャーミッシュの「コーヒー&シガレット」も「ナイト・オン・ザ・プラネット」もぼくの大好きな映画である。落語の小品を聞いているような感じがしてくるのである。


そして、第2話。飛行機事故か何かでメンフィスで足止めを食ったイタリア女と、暴力を振るうイギリス人の恋人で、エルビスというあだ名の男から逃げてきた二人が1話と同じホテルの同じ部屋に泊まることに。イギリス男のしゃべり方がセクシーというのは、ほかの映画でも何度か聞いたことがある。逃げてきた女はおしゃべりで、イタリア女は聞き役。イタリア女がダイナーで聞いたエルビスの幽霊話をおしゃべり女にしようとすると、もうそれは何度も聞いたと言う。おしゃべり女が寝付いたあと、イタリア女はプレスリーの幽霊を見る。太り始める前ぐらいのプレスリーか。朝、ホテルを出ようとしたときにまたしても銃声。


第3話、2話で触れられたイギリス男がビリヤード台のある酒場(よくアメリカ映画に出てくる)で酔って拳銃を取り出す。このイギリス男が永瀬のようにライターをつける。拳銃は危ないと一緒に飲んでいた黒人が、義理の兄(おしゃべり女の兄)とその友達の黒人を連れてくる。結局、その3人で飲み明かすことに。酒店に入り、ウイスキー“ブッチャー”の特大を頼む。そのとき、黒人が別の品物を触っていたのだが、店主は触るなと言う。黒人はすぐちょろまかす的なことを言った途端、イギリス男はその店主を撃ち殺す。クルマでのなかでへべれけになって、くだんのホテルにやってくる。黒人がそこの黒人ポーターと縁戚である。SM客用の部屋に通される。そこにもまた前の2話と同じく、部屋の壁にプレスリーの絵がかかっている。イギリス男は、ここは黒人のホテルではないか、なぜプレスリーなんだ、と言うと、持ち主は白人だ、と黒人は答える。少しだけここにジャーミッシュの正義感みたいなものが表現されている。朝、起きると、いざこざが起きて、イギリス男の拳銃が暴発し、義兄の脚に当たる。彼らは逃げ出し、あるところで電車の音か、サイレンかと迷うが、サイレンと分かって急いでトンズラする。その過ぎ去る電車に永瀬と工藤が、そしておしゃべり女が乗っている、という趣向である。



まあ適当に話をつなげましたという出来で、いつものジャーミッシュよりもっと中身がない。しかし、プレスリーが好きなのかもしれない、という感じは伝わってくる。初期のころのプレスリーの笑い顔がぼくは好きである。スタジオでぐるっと若い女の子に囲まれた若きプレスリーが、ギターの伴奏者1人だけをそばに革ジャンで監獄ロックを歌った映像でも、あの笑顔が忘れられない。その笑顔は晩年にもあったが、プレスリーが絶大な人気を誇ったのは扇情的な腰振りよりは、笑顔の無垢な感じが大きかったのではないか。



70 レスラー(T)
やや空席があったものの、入りは悪くはない。身じろぎもしないで最後まで見ている感じが惻々と伝わってきた。ロッキーのレスリング版である。整形の失敗で無惨な顔となったミッキー・ロークがかつての栄光を背負った、老いたレスラーを演じている。「ドミノ」で彼の変貌ぶりに驚いたことを思い出す。あのときよりもっと顔が崩れているのではないか。
相手役のストリッパーがマリサ・トメイで、ぼくは「その朝、7時58分」ぐらいしか記憶にない。


レスラー同士が尊敬の気持ちを持ち、お互いがショーマンとしての最善を尽くす様子がきちんと描かれている。何の技をいつ繰り出すか、前のアトラクションとかぶらない気遣いもする。心臓発作で倒れバイパス手術をしたあと、ロークは惣菜屋で客の前に立つことに。その店頭に行くまでの様子が、まるでトンネルをくぐってリングに向かうのと同じ。拍手の音もご丁寧にかぶせてある。しかし、さすがショーマン、店頭に立ってもサービス精神は忘れず、お客の受けはいい。ところが、ずっと離ればなれだった娘とのせっかくのデートを、浮気女と飲んだくれてセックスに溺れてすっぽかし、とうとう娘から永遠の拒絶に遭ったあと、彼はもう惣菜屋に収まることができない。またしてもリングに戻ることに。


ラストの場面、観衆の声に押されて、かつての必殺技を繰り出そうと、リングの角のポールに上って、両手を高々と上げるシーンは、まるで歌舞伎の見栄を見ているような錯覚を覚えた。


ロークのもう何も捨てるものがないような演技も心打つが、それよりも何よりもこの映画の野生の輝きみたいなものが、アメリカ映画再興のきざしになるのではないか、という気がした。作品賞の「スラムドッグ」にも剥き出しの野生が光っていたが、ハリウッドはいまそこに目を向けようとしているのではないか。


71 「テープ」(D)
登場人物が3人だけ、それもほぼ4分の3ぐらいは2人で進行する。舞台を翻案化したものらしい。イーサン・ホークロバート・ショーン・レナードが高校時代の旧友同士、そこに2人の恋人だったユマ・サーマンが加わる。イーサンはヤクの売人の生活、レナードは小さな映画祭に招待された売れない監督。イーサンの呼び出しに安っぽいモーテルにやってきたレナード、奇矯な友の振る舞いにやたら理論的な分析を加えていく。しかし、そのうちに攻守ところを変えて、レナードが徐々に守勢に回るようになる。イーサンのそもそもの狙いは、自分の恋人だったユマがレナードに乗り換え、しかも自分には体を許さなかったのになぜレナードに許したのかということにある。しかも、その行為がレープに近いものだったというのが、レナード本人ばかりか、過去にユマから漏れ聞いた話からイーサンもそう捉えていた。イーサンは執拗にその核心に迫ろうとする。ついに口を滑らせるレナード、それを実は密かにテープに録っていたイーサン、彼は意気揚々とユマを呼びつける。


ここまでの展開は非常に面白い。イーサンが狂気を隠し持ちながら、何か獲物を狙っている感じが伝わってくるから、全体に緊張感がある。しかも、レナードはまじめ一方、木訥、不器用とさえ言うことができる。その取り合わせはほぼ成功している。ただ、ユマが現れてからの展開は散漫で、しかも彼女が地方検事補のような仕事をやっていると前置きがあるので、ほぼラストが読める弱さがある。ユマはちっともレープだと思っていないが、本人がそういうなら逮捕してもらいましょう、イーサンは違法薬物所持で掴まえてもらいましょう、となる。警察に電話をかけるが、それも実は芝居で、ユマは2人を脅かして去っていく。


ぼくはイーサンという役者を「その朝、7時58分」で初めて認識したに近い。「ロード・オブ・ウオー」などいくつか彼を見ているようだが、記憶が定かではない。劇団を持ち、小説も書く才人のようである。ユマと結婚し、もう別れているようだ。ぼくはユマ・サーマンが美人だとはどうしても思えない。「パルプ・フィクション」のマフィアの囲い女の役が鮮明に印象に残っている。


72 「オールド・ボーイ」(D)
これで何回目になるだろう。映画館で一人きりの客で見て、誰彼にスゴイ映画だぞと言い回った。いまはDVDを買って、思い出したように見ている。今回は、チェロ四重奏のラ・クアルティーナによる「シャコンヌ」というアルバムを聴いていたら、突然、この映画の主題歌が鳴ったからである。まさに「シャコンヌ」の一部を主題歌に持ってきたらしい。ぼくはこの映画のサントラを持っていたが友人に貸したら戻ってこなかった。クラシックばかりでなくいろいろなジャンルの既存の曲を場面ごとにシャレで使っていた、と記憶する。
何度見ても、ぼくはこの映画は背筋に戦慄が走る。15年も人を幽閉する理由とは何か? それをあくまでユーモアを忘れずに撮ったパク・チャヌクに敬意を覚える。


以前から、気になっていた瑕疵について触れたい。1つは、幽閉中年男オ・デスが19歳のミドと、自分の監禁された場所を探し始めたときに、かつての住居あとの近くのたばこ屋でミドが新聞記者を名乗って情報を得るところ。そこの女主人は、オ・デスに妻は殺され、娘はストックホルムに養女にやらされた、と答える。その娘が実はミドなわけで、ミドにその種の記憶が蘇ってこないのはなぜか。これも犯人であるウジンが催眠術師を使って仕組んだものなのか。
もう1つの疑問は、高校生オ・デスの目撃によって、ウジンとその姉スアの危うい関係が覗かれ、ソウルに転向するその日にそれを目撃したオ・デスは友人に絶対に言ってはならないと口封じをして、自分が見たことを話す。女が誰であるかもオ・デスには明らかではない。しかし、その後、スアがふしだらな女である、誰とでも寝る女である、との噂が流れ、妊娠もしているとも言われるようになり、本人も想像妊娠をし、それを本物と悔いて自殺をした、と弟ウジンは語るのだが、はたしてそれは本当か。姉の胸を吸い、下着を脱がすほどの関係まで進み、姉は姉でその時の自分の姿態を手鏡で見るまでに境界線を超えてしまっているのに、弟はその先を抑えていることができたのだろうか。ぼくはウジンが嘘をついている、あるいは観客が引くのを計算して監督が踏み込まなかったと見たい。


この映画の音楽使いについては、また調べて詳しく記すこととする。


73 「アンダーカバー」(D)
ごく最近の映画である。マーク・ウォルバーグとホアキン・フェニックスが兄弟で、兄のマークが警官、弟のホアキンがロシアマフィアに仕えるやくざである。彼らの父親がロバート・デュバルである。この人は役者生命が長いひとだ。そもそもテレビの逃亡者で見かけて、かなりあとにかの「ゴッドファーザー」でただ一人血の繋がっていない兄弟を演じたことで、表舞台に出てきたという印象である。もちろんそれまでもたくさん出ていたのだろうが、ぼくの記憶はそうなっている。
イギリスではびこるロシアンマフィアを描いた映画「イースタン・プロピス」(クローネンバーグ監督、主役ヴィゴ・モーテンセン)があったが、むごたらしさはそっちのほうが何倍も凄かった。こっちのボスはどこかの商店のおやじぐらいの迫力しかなく、映画の押さえになっていない。それに、兄弟で警察とやくざでは、おおよそ話の筋は見えているようなものだ。ウォルバーグは「極大射程」でぼくは初めて主役を張ったのを見たが、そもそもトーマス・アンダースンの映画で出てきた人だと思う。この映画ではまったく覇気がなく、ホアキンの憂い顔にお株を奪われてしまった感じである。ホアキンはちょっとお太りのようである。どうにもレオ・リオッタの顔とダブってしょうがない。


74 「ディスコ」(D)
フランス映画である。40歳になる無職者が離れて暮らす息子と、ディスコ大会優勝賞品を勝ち取って、オーストラリア旅行を行こうとする話である。実にたわいないが、けっこう面白い。舞台が港町ル・アーブルとなっている。むかし取った杵柄というわけでBee Kingのかつてのメンバー2人、1人は電器屋勤め、1人は港湾労働者を誘って出場する。といっても心配なのでダンス教室に行き、手習いを始めるのだが、そこの教師がエマヌエル・ベアルである。いろいろ出ている女優で、「ミッションインポシブル」にも出ていた。美人なのか何なのか、非常に愛嬌のある顔をしている。中年オヤジがその女に惚れるのである。つい頭に血が上って、すぐに金持ちの彼女の両親に会いに行くのだが、その行動を見る限り、この男、相当におつむが弱そうである。
ディスコを経営し、大会を主催するのが、ジェラール・パルデューで、この方も十分にお太りになられた。もっと訓練の果てに今風の踊りを披露するまでに変身すれば、きっとドキドキする映画になったと思うが、全体にゆるいままで終わってしまうのである。
ぼくは踊り物を集中的に見ようかと思ったことがある。けっこう血湧き肉躍るのである。アステアは衣装を着た華麗さで踊るが、ここしばらくのダンス映画は訓練された肉体のすごさを見せるものに変わっている。この映画の主人公はトラボルタ主義者だが、もしかしたら彼が肉体派の走りということになるのだろうか。


「コニーとカーラ」というこれも喜劇仕立ての歌物を見はじめたが、ほぼ10分で沈没。演技もひどい、流れもひどい……言うことなし。


75 「バンディット」(D)
15分もしたころか、あ、この映画見たことある、と気づいた。ドジな話である。ブルース・ウイリスとビリー・ボブ・ソートンが脱獄する冒頭のシーンがまったく記憶になかったので、そのまま見てしまったのだが、2人が銀行強盗をするのにウイルスの甥ハービィにクルマの運転を頼みに行ったところで思い出した。このハービィが映画のスタントマンを目指しているのだが、銃で撃たれたときにパッと血が出る仕掛けなども自分で考える変な野郎なのである。
この3人に夫婦仲が倦怠期のケイト・ブランシェットが関わり、どちらも彼女を愛し、彼女もどちらも愛することに。おそらくだが、「俺たちに明日はない」を下敷きにしていると思われる。実際の2人組を材料にしているらしいが、映画の雰囲気としては「俺たち」に近い。人を殺さず、盗んだ金は保険で補償され、大衆人気がどんどん高まって、中には進んで2人の人質になるような人間も出てくる。人質というのは、強盗に入る前夜に銀行の支配人宅を襲い、そのままお泊まりして翌朝家族ともども出勤してカギを開け、金を盗んで逃げるのが2人のやり方だからである。
ウイルスの大胆さ、ソートンの神経質、ケイトの愛らしさ、ハービィの間抜けさ、いい組み合わせである。最後にどんでん返しで、2人は強盗に入りながら、喧嘩を始める。「ケイトなんか引き込んだのが間違いだ」とかなんとか。しまいに撃ち合いを始めるが、それが実は……これ以上はネタバラシなので書けないが、小気味のいい出来で、あまりこの映画の評判を聞かないのが不思議である。絶品は、ソートンとケイトがホテルで一緒の部屋に泊まることになり、2人が自分のアディクトについて意気投合するシーンである。白黒映画がだめだ、アンティーク家具が苦手だ、とやっているうちに自然と愛を交わし合うようになる。ここのちょっと長い2人の掛け合いがすばらしい。


76 「白昼堂々」(D)
野村芳太郎監督・脚本のコメディである。渥美清藤岡琢也がむかしの泥棒仲間、後者はすで足を洗ってデパートの警備をやっている。渥美は九州小倉のボタ山のふもとで数十人を束ねて、スリと万引きの手配をしている。次第に稼ぎが細くなると同時に逮捕者が増えてその費用もかかる。藤岡からデパートを狙え、とアドバイスを受ける。結局は二人はまた一緒のしのぎをやることになる。
彼らを真人間にしたと自負する定年間際の刑事が有島一郎、悪党ども専門の弁護士がフランキー堺、万引きの癖で2度の離婚を経験しているのが倍賞千重子、あと蛾次郎や新克利生田悦子田中邦衛、桜まちこなどが多彩な人物が絡んで、劇は進行する。
この映画、なかなかの出来で、それは多人数の役者をそろえて、それぞれ納得のいく使い方をしているからである。有島はまったくふざけた演技をせず、仕事一徹の刑事を好演している。妻を現場に狩り出すのだが、デパートを歩きながら、「あなたは年をとったわ、だって夜も弱い」みたいなことを妻が言う。あるいは、炭鉱の爆発で記憶喪失になっている田中邦衛は桜町と並んで突堤のようなところに座り、「あんたとこうしていると、前からの夫婦だったような気がする」などとトボけたことを言う。フランキーは有島から嫌みを言われるが、被告を助けるのが商売だ、と意に介さない。そのヌケヌケとした感じは、フランキーらしい。生田悦子は炭鉱で家族を亡くしているのだが、若い刑事の新克利を困らせて喜ぶ様子が生き生きとしている。渥美はごく抑えた演技で、藤岡との腐れ縁をうまく演じている。浅草では人の笑いをすべて引っさらうことで有名だった彼が、こういう引きの演技をしていたというのは明記していていいことではないか。
結局、脚本の良さと、監督の人間への目配りで、この映画は見ていられるのだろうと思う。
冒頭にコント55号がおまけで登場するが、欽ちゃんの目が鋭くて、チンピラのように見えるのが印象深いことだった。



77 「恋愛準決勝」(D)
アステア物なのでその項に譲る。


78 「歌行燈」79「驟雨」(T)
成瀬作品なので、その項に譲る。


80 「杏っ子」 81 「乙女ごころ三人姉妹」(T)
成瀬作品なので、その項に譲る。


82 「デイア・ドクター」(T)
「揺れる」の西川美和作品である。前作は「藪の中」のような設定に兄と弟、都市と田舎の対比を持ち込みながら、法廷映画にもしたという貪欲な映画だったが、今回もいくつかの仕掛けを施しているが、前に比べてずいぶんエンタメである。鶴瓶が主役で瑛太余貴美子八千草薫が脇である。八千草は何歳になるのか、実に色っぽいお婆さんである。彼女の作品をまったく見たことがなかったが、この歳の取り方は昰である。
無医村にやってきた奇特な医師が実はにせ物だったという設定で、彼は身元がバレそうになるたびに忽然といなくなる。人に語る氏素性はでたらめで、本当は医薬品の営業出身で、父親はお医者だった人だ。その父親が使っていた小さな蛍光器(眼科医がパチッと付けて目などに光を当てるあれ、である
)をくすねて、自分の診療に使う不届き者である。
瑛太は研修生で、都会の大病院の在り方に疑問を持ち、あえて辺鄙な診療所に研修にやってきた。彼は開業医の息子である。彼は鶴瓶の働きぶり、村人から尊敬される様子を見て、研修の後はちゃんとした医者として赴任したい、と申し出る。鶴瓶は、好きでここにいるのではない、金が儲かるかと思ったが、知らないうちにずぶずぶとはまり込んだだけだ、俺はにせ物の医者だ、と瑛太に言う。薄っぺらなヒューマニティなどこの村では通じない、とでも言いたげである。実際、鶴瓶がいなくなって、里人はそれぞれにここが胡散臭かった、あそこがひどかった、と彼を難じる。
面白い映画だし、今日的なテーマを扱っていて好感だが、鶴瓶瑛太に告白する場面は別に要らなかったのではないか、説明のしすぎのように思える。それと村人の掌を返したような対応は、非常にありきたりの設定である。田舎にこそ生活のリアリティがある、とでも言うのだろうが、人間のメンタリティなんか都市も田舎もさして変わらない、とぼくなんかは思う。
だた、エンタメでありながら上質な映画を撮ろうとする姿勢は大賛成で、異才にはもっと多作であってほしい。映画の取り方には、是枝の影響があるように思うが、どうだろう。
喜劇役者は笑わないと酷薄な顔になるが、鶴瓶もそので伝に洩れない。


83 「運が良けりゃ」(T)66年
山田洋次監督で、喜劇横溢である。時代設定は江戸時代である。音楽がジャズから何やらいろいろで、非常にダイナミックである。主役はハナ肇、脇に植木等を抜いたクレージーキャッツの面々、女優は倍賞千重子ですごく若い。長屋の大屋が花沢徳衛で、前歯を欠いて、妙な8の字眼鏡をかけている。その店子思いの演技がすばらしい。軽妙かつしみじみで、この人、こんなに味があったのかと驚いた。ハナ肇も変な小細工は一切なしで、堂々とした主役である。桜井センリが気の抜けたしゃべり方で、これがまたいいのである。桜井という演技者は、もっともっと名前が出ても良かったのではないか。クレージーにいた不幸があるかもしれない。
話は簡単で、腕ずくと悪知恵で生きているハナを中心に、長屋のさまざまな風情を描いたものである。立ち退き騒ぎあり、恋あり、喧嘩あり、死人あり、である。武智豊子が吝嗇の金貸し婆を演じているが、これがぴったしで、死体となったあとの演技も噴飯ものである。
山田洋次監督を会社べったりということで低く見る向きもあるが、ぼくは彼なしに日本映画界はどうなってしまっただろうと思う。そして、こういう構成のしっかりし喜劇を見ると、彼の手腕の凄さがよく分かる。もしかしたら「江戸の悪太郎」がもとになった映画ではないかという気がする。長屋が舞台、立ち退き、吝嗇婆さん、符節が合うのである。
倍賞が惚れるのが田辺康雄で、彼は肥汲みが仕事である。本も読めて頭もいい。二人は祝言をあげるのだが、この設定にはいたく驚いた。


84 「ヒトラーの贋札」(D)
ユダヤ人虐殺映画がエンタメになったのか──という感慨である。ある男がモンテカルロの賭場にやってくる。彼は大金を持っていて、賭けに勝ち続ける。それに見とれた美人と一夜を過ごすが、彼の腕に5桁のナンバーが刻されていることに気づく。収容所帰りということである。次に、賭場のテーブルのシーンからかつてのベルリンのナイトクラブのテーブルへ映像が飛ぶ。そこは男が経営し、裏ではパスポートや紙幣の偽造をしていたところである。女と同衾していたところをナチに踏み込まれ収容所送りへ。しかし、ナチが贋札計画“ベルハルト作戦”を実行するのに彼の技術が必要ということで、彼を逮捕した将校がヘッドとなってポンド、ドルの偽造が始まる。
共産党員のサボタージュがもとでドルの開発が遅れ、すんでのところで銃殺というときに紙幣ができ上がる。あるいは、ニセポンドが英国国立銀行のお墨付きをもらうなど、はらはらどきどきに事欠かない。音楽も軽妙で、ついサントラ盤を買ってしまったほどである。
また現代に話が戻って、男は結局賭けで勝ちをおさめることに嫌悪し、わざと負けるような賭け方をしてしまう。一夜を共にした女と浜辺で踊るところで映画は終わる。
主人公を演じた男がとても主役を張る男ではないが、見ているうちに次第に引き込まれていく。共産党員を演じた男も、ニセ紙幣でイギリスやアメリカの経済を痛打することに耐えられないと仲間を裏切るところまでいってしまう様子が説得性ある描き方になっている。この共産党員が原作者だそうである。
これからもきっと虐殺をエンタメにする映画が登場しそうな気がする。決定的に何かが変わったのである。


85 「運命の女」(D)
「最後の初恋」と同じ組み合わせで、ダイアン・レインが妻、リチャード・ギアが夫、鳴かず飛ばずだったレインがこの映画で復活を遂げたという。たしかに惜しげもなく裸体をさらしている。倦怠期でもない、幸福そうに暮らしている中年女がふとしたきっかけで知り合った異邦人と愛欲に溺れていく様子が描かれている。しかし、なぜ? その理由はいっさい明かされない。夫は妻の不倫に気づき、若い恋人のアパートに行き、殺害に及ぶ。警察が調べに来るが、夫婦でしらを切る。妻はそこで夫が気づいていたことを知る。
丁寧に描かれているのは、セックスに溺れていく妻の様子だけで、あとは付けたりみたいなものである。ラストが警察署前の交差点で信号が青になっても停まったままの夫婦同乗の車のシーンである。途中で夫が、自首する、と妻に言うシーンがあるが、妻は二人が黙っていればバレないから大丈夫と説得する。しかし、このラストを見る限り、夫は自首を選んだのかもしれない。
必要十分にカットを重ねる手法は好感がもてる。ただし、夫婦の愛憎が希薄なだけに、書き割り的な映画になってしまった。ダイアン・レインの表情がとても微妙に変化するのが楽しい。それに比べてギアの凡庸なことよ。


86 アパルーサの戦い(D)
エド・ハリス主演、監督、共同脚本でプロデューサーでもある。彼はもう1本「ポロック」を監督している。いい映画である。レニー・ウイルガーが薹が立っていて、見ているのが苦しい。エド・ハリスの相棒がヴィーゴ・モーテッセン、渋い。悪役がジェレミー・アイアンで、これもいい。実にゆったりと劇は進み、最後にモーテッセンが相棒への置きみやげに悪党を殺すところで映画は終わる。「許されざる者」でイーストウッドに刮目したが、何回か見ているうちにあの映画は飽きがきてしまった。設定が通俗的なのである。このエド・ハリスの映画のほうが格段にいいのではないか。音楽が盛り上げ調の、いかにも西部劇という感じなのが気になるだけで、申し分ない。