09年12月の映画と1年のまとめ

kimgood2009-12-02

152 「アンヴィル」(T)
ドキュメンタリー映画である。デビュー当時は注目されたヘビメタグループが、その後、鳴かず飛ばず。日本にも来たことがあるという。それから20年、もとのメンバーはボーカルとドラマーの2人。一人は惣菜関係のデリバリーの仕事、一人は建築現場に職を得ている。それでも地元でのライブや、ヨーロッパでのしょぼいライブツアーなどの仕事がある。ほとんど収入にはならないが。


それが、一念発起。ボーカルが姉から200万を借りて、凄腕プロデューサーの力を借りて、13枚目のアルバムを作成。いい仕上がりだというが、大手は発売に乗ってこない。彼らはインディーズだったために、いいマネジャーといいレコード会社が付かなかったことが、自分たちがメジャーになれなかったという思いがある。


さきにミッキーローク復活の「レスラー」を見たが、雰囲気はそれに似ている。逞しく、髪の長いオッサンというところもそっくり。惣菜屋で頭にビニールキャップを被るのもいっしょ。どさ回りしながらも、夢を捨てずにいるのもいっしょ。何か復活もののブームでもあるのか。ないな、それは。


153 「学校」(D)
山田洋次監督のシリーズ第1作である。夜間中学が舞台で、先生が西田敏行、生徒が6人。それぞれの過去が振り返られるが、みんな予定調和的でちっとも盛り上がらない。最後に田中邦衛の過去が語られる段になると、ぐっと生彩をおびてくる。父を幼くして亡くし、母は盲目で、彼は一人で山形から東京に出て、さまざまな職業に就き、50歳にして正社員になったという人物である。その喜びの電話を入れたときには、母は病死したばかり。結局、彼は体を壊して田舎に戻り、間もなく死んでしまう。田中邦衛の演技もあって、ここらあたりは真実みがある。ところが、そのあとに幸福って何かをめぐってやりとりがあるのだが、そこでまた鼻白む。かなりゆるい映画で、なぜシリーズ化されたのか不思議である。


154 「食客」(D)
韓国映画で、途中で何度も見るのをやめようとしたが、無理して最後まで見た。映画テクニックがないから、全然、映画になってこないのである。日本人が戦前の謝罪の意味を込めて、料理大会を催す、という設定がなんだかなあ、である。しかも、主人公の敵が、最後の課題であるスープで、内鮮一体(日本と朝鮮が一体という意味)の料理を作ってしまう、というオチがつく。
それにしても、料理人映画が洋の東西を問わず多いのはどうしたことか。そのきっかけを作った映画って何なのか。


155 「墨東綺譚」(D)
新藤兼人監督・脚本である。「墨東綺譚」というより、それを書いた荷風の物語である。「墨」の字はさんずいが付くのだが、文字化けするのでこの字を使う。「断腸亭日乗」の記述が土台になっている。映画のなかでも「日乗」と言っているが、画面に映るそれは「日記」になっている。これは、どっちが正しいのか。


50歳になって精力の減退を覚え、小説も書けなくなって、彼は偶然、私娼窟玉ノ井に刺激を求める。そこで出会った女がおゆきで、苦界にあってそれを意識しない、人に優しい女である。荷風は彼女の見立てでエロ写真家として通う。おゆきは年季が明けたら結婚してくれと言い、荷風は頷くが、結局は約束を守らない。しかし、おゆきは戦後もパンパンとなって逞しく生きていく。ぼくは作品を読んでいないのでどこまでが創作か分からないが、全体に軽い調子に仕上げ、戦争嫌悪の気持ちも盛り込んである佳品である。おゆきのエロ写真を撮る男どもが妙な面を被っているのをアップにして不気味な感じで撮るのは、進藤監督の悪い癖である。せっかく軽くやっているのに、意味ありげに重たくしている。音羽のぶ子が女将役で、右目が男にやられて丹下左膳みたいになっている。好演である。津川雅彦荷風で、ときおり真剣な表情をするときが、彼自身の老いの様子が表面に現れて、それはそれで映画に合っている。


156 「戦場でワルツを」(T)
1983年、レバノン内戦に乗じてイスラエルが侵攻する。与党ファランヘ党キリスト教で、バシャールが党首(原題 Waltz with Bashir)。その親イスラエルのバシャールが暗殺されてファランヘ党は怒り狂う。内部に抱える難民パレスチナ人を虐殺する。それがサブラ・シャティーラの虐殺である。


レバノンという国は複雑怪奇である。内部にいくつもの民族と宗教を抱え、そこにフランスなどの大国が干渉の手を伸ばしてきた歴史がある。ウイキペディアで見ても、その錯綜とした歴史の糸をときほぐすのに疲れる。


これはアリ・フオルマンという監督の実話を元にしたアニメ映画である。虐殺に荷担した進軍のことが記憶から飛んでいることに気づき、軍の仲間だった人間を訪ね、真相を探り始める。その間に、精神科医に相談を持ちかけたりもする。ところどころアニメ的な映像があるが、全体は実写でもかまわないのではないか、といった作りで、なぜアニメにしたのかという思いが胸中を去らない。ところが、劇が進むほどに、不思議なことにアニメでないと表現できない世界かもしれないと思い始めるのである。
監督は家族をナチに殺されていて、自分が側面的な支援とはいえ虐殺に関わったことで、自らをナチと同じ位置に置いたことが、過去の記憶を消した要因ではないか、と中で語られる。この映画はイスラエルで好評だったというが、監督のアイロニーが広く認められるほどにはイスラエルという国は開かれた国ということになるだろうか。


アニメ的な映像の場面。たとえば、表題になっているワルツの場面。敵からさんざんに狙い撃ちされている状況で、ある男が機関銃を持って立ち上がり、四方八方を目がけて撃ちまくり、その動きが次第にリズミカルになってショパンのワルツが流れて調子が合うところなど、これは実写では不可能だと思う。踊る男の背後のビル全面をバシャール大統領の肖像を印刷した幕が覆っている。そこから原題は取られている。
それと、繰り返し出てくる幻想のシーン。向こうにビル群が見える海中に裸の男が3人、身を沈ませている。照明弾が上がって、明るくなったところでその男たちが立ち上がり、浜辺を目指す。そのあいだ、ずっと音がなく、浜辺に着いた男たちは服を着て、戦闘準備が出来上がる。たた、それだけのことなのだが、この映像がいかにもアニメでしか表現できない夢遊病のような雰囲気を出しているのである。


ジブリでもない、ディズニーでもない、絵柄としてはパルプ雑誌のヒーロー物のような線の太い、コマ数の少ないものなのだが、顔の表情、目の動き、足の小さな動きなど、意外なところに繊細な配慮がある。戦いの休暇に自分を捨てた恋人をデイスコに訪ねるシーンでは、恋人が一人ダンスを踊るときの両足の動きを実に細やかに描写する。


人を訪ねる探索行の映画なので、当然、人と会話するシーンが多い。アニメがいちばん不得意な場面ではないだろうか。ところが、そのただ座って話している様子が、見ていられるのである。実写では絶対に細かく人物の表情に見入ることはないが、それがアニメだとつい目の表情、口の表情、手の動きなどをじいっと追っている自分に気づく。これは不思議な体験である。アニメの別の可能性を見た、と言っていいだろう。


どこかでも書いたが脚本家の石堂淑郎氏は、地面から足が離れたら劇にならない、と名言を吐いたが、さてこの映画を見てなんとおっしゃるだろうか。9割がた実写でいいじゃないか、とでもおっしゃるだろうか。おそらくこれを実写でやれば膨大なお金がかかっただろうし、自分の思い通りの映像が撮れたか疑問のところだろう。何しろ群衆を撮るシーンが多いからである。


157 「こまどり姉妹がやってくる ヤア!ヤア!ヤア!」(T)
ドキュメントである。岡本英子監督、『歌謡曲だよ、人生は』というのを撮っている。行定勲矢口史靖などの助監督を務めていたという。こまどり姉妹のショウを見て、やるきになったらしい。姉妹は北海道釧路の生まれ、樺太へ移住、そして門付け・流しの日々、さらに東京へ。しゃべり方や樺太の話から、ついお袋のことを思い出してしまった。


数年前にテレビで二人が出ていて、整形崩れのような容姿と、歌の調子がずれるのが、目を覆いたくなる感じだった。その思いが、この映画でひっくり返ってしまった。さまざまな苦難を、歌うことでお金を稼いで凌いできた二人に、何も批判がましいことを言う気はない。どこか近場でショウがあれば、見に行きたい。そう思った。それにしても、10代のころの二人の可愛さよ。フアンが姉と思って妹を刺した件が触れられていたが、昼と夜で位置を交替するので間違ったらしい、という。これは双子でなければありえない逸話である。妹が癌になり、姉は必死で一人で働く。そのときに私生児も産むのだが、その道徳規範からあっけらかんと外れた感じは、北海道の人間の特性のように思える。


158 「ウェーブ」(T)
ドイツ映画で、高校で「独裁」をテーマに1週間の実習授業が行われる。てんでんバラバラで勝手気ままだった若者が、次第々々に統制のとれた団体へと変貌していく。それまではのけ者扱いだったトルコ人や、成績の下位の者、家庭に不和のある者、容姿に自信のない者などが、積極的に独裁的なムードを歓迎し、それを自ら拡張させていく。先導する教師自身が、短大出の体育教師で、同僚ばかりか同じ学校の教師である妻にさえ劣等感があったことが明らかになる。


彼の実験授業はやり過ぎということで、同僚や妻から白眼視されるが、女性校長は密かにお墨付きを与えているらしい。彼との電話のやりとりで、それがほのめかされる。


排除された者が連帯感を覚え、まとまっていく。そして、自分たちと価値観の合わない者を排除する。いまの時代に独裁などありえない、とタカをくくっいた子どもたちが、やすやすと独裁体制の片棒を担ぐようになる。


拳銃を持ち出す生徒まで現れる。教師に心酔するこの若者の狂気がもっと描かれれば、この映画はもっと背筋の寒いものになったのではないか。それと優等生や個性的存在の若者さへ体制に巻き込まれていくのであれば、もっと恐ろしい映画になったと思うが、それらの存在を放置したのは教師の“教育的配慮”があったということになるのだろうか。
ヒットラーもののエンタメ化については、何度か書いたが、それらに比べればこの映画の問題意識は貴重であり、鮮明である。


159 「忘れられぬ人」(D)
マリサ・トメイクリスチャン・スレイターの恋愛ものである。トメイが若く、溌剌としているのがうれしい。スレイターは孤児院育ちで、もともと心臓が弱い。移植手術を受けたが、孤児院のナースは彼に神話を教える(彼はそれを真実と受け止めるのだが)。彼の父親は冒険家で、探検の最中に死に、哀れんだ部族の英雄がヒヒの心臓を彼に与えた、というのである。だから胸に傷がある。


スレイターはまったくの無口。同じダイナーの雑用係だが、トメイを深く愛している。トメイはいつも男に振られる女。彼女をレイプ男からスレイターが助け、恋仲に。ふだんから彼女が危険な目に遭わないように帰宅路を着けていたという。さらに深夜に彼女の部屋に忍び入って、寝顔を眺めていたことも告白する。ストーーカー以上だが、なぜかトメイは怒らない。
スレイターは仕返しを受け、腹にナイフを刺され入院する。傷は癒えるが、心臓が持たない、と医者は言う。スレイターは大事な心臓を取り替えるわけにいかないと病院を抜け出し、最後の日々をトメイと過ごす。
しかし、どういうわけか死と向き合った日々という設定にならない。だからめそめそはしないのだが、なんだか変だ。それに、スレイターが、トメイのことを思うと心臓のあたりが痛いから、心臓とハートは一緒だと主張するのには笑ってしまう。いくら何でもそりゃないよ、である。この映画はトメイの愛らしさを味わう映画である。
冒頭、トメイがデートに出かける用意をするときに、スザンヌ・ベガの「トムズ・ダイナー」がかかるのが嬉しい。トメイたちの舞台は「ジミーズ・ダイナー」だけど。



160 「ブッシュ」(D)
オリバー・ストーン監督なのに、軽い仕上がりなのが意外である。役者がみんな実在の人物に相似で、ライス報道官が上目遣いでブッシュに媚びるシーンには笑ってしまう。彼女がマスコミに登場したときは、とんでもないスーパーレディの扱いだったが、イラク戦争が進むほどに役立たずと分かって、その落差にげんなりしたことがあった。チェイニー副大統領を演じたのがリチャード・ドレファスで、始めは彼と気づかなかった。その演技のうまさはびっくりもので、この人、老けても活躍するなあ、と感慨しきり。


161 「3持10分、決断の時」(D)
ジェームズ・マンゴールド監督でジョニー・キャッシュの「ウォーク・ザ・ライン」を撮っている。ラッセル・クロウクリスチャン・ベイルの取り合わせで、方や天才悪党、方や落ちこぼれ農夫、その農夫が護送列車にクロウを乗せるまでのいきさつが描かれる。クロウの第一の手下を演じたベン・フォスターという役者がいい。キレ役者系列である。


クロウがスーパーな悪人で、しかもいい奴なので、全体に甘い映画になってしまった。それでも、クロウの笑顔には妙に惹きつけられる魅力がある。ベイルはダークな役がお似合いだが、今回はちょっとうらぶれ過ぎだったかもしれない。彼の「バットマン・ビギンズ」のかすれ声にはしびれます。
それにしても西部劇の秀作が続いている。イーストウッドが墓碑銘を立てたはずが、「ジェシー・ジェイムズの暗殺」「アパルーサの決闘」など、印象に残る作品が多い。先へ進むのに迷ったとき後ろを振り返るのはある話で、ハリウッドは西部劇を見直すことで再生を図ろうとているのだろうと思う。ドンパチをやりながらも、西部劇は基本的に人間くさいドラマである。最近の作は、さらにそこを強調する。


162 「転々」(D)
三木聡監督、「時効警察」というのを撮っているらしい。主演三浦友和、オダギリ・ジョー。脇が芸達者ばかり。話は妻を殴打し、過って死なせた借金回収業の男が、借金を返さない若者を道連れにてくてくと歩き、桜田門で自首するまでを扱ったものである。


若者は両親を小さい頃に亡くし、養父母で育った過去を持っている。自首しようとする男とふれ合ううちに、親子のような情が育ってくる。仮の母役の小泉今日子もいい。小さなエピソードを重ねていくが、どれもシュールな印象のものばかりなのに、劇はきちんとした作りになっている。それは、ロードムービーという体裁と、死者がマンションの一室に横たわり、つねに誰かに発見されるのではないかという緊張感があるからである(あるいは、実は死んだというのはウソで、ただ眠っているだけかもしれない、という気にもさせられる。それは次第に可能性として低いことが分かるが)。


カンフーの達人である正確屋という名前の時計店主、愛玉子(オーギョーチ)という名のレモン味の食べ物を出す店の息子は家庭内暴力、殺した妻が勤めるスーパーの上司の頭は“崖の臭い”がする、自分でアンプを背負い町中で大音量でギターをかき鳴らす青年、軍艦を攻める戦闘機の絵を描く女画家、商店街を一輪車に乗って走る3人のサラリーマン、コスプレに混じり込みロッカー泥をする仮面ライダー風の高齢男……こんな奇妙な連中が次から次と登場する。岸辺一紱は町で遭遇すると幸福になれる存在として、時折、現れる。


せつない映画である。親子を演じることで、まるで親子のようになっていくのがせつないのである。しょせん親子も他人だし、他人だって親子かもしれないのである。ラストは、突然にやってくる。オダギリが脇を見ているひまに、さっと三浦がいなくなる。警視庁に向かって急ぐ姿を見つけ、「なんだよ」とオダギリが言うところで、この映画は終わる。



「東京ソナタ」は家族の崩壊を描いたと思うが、この映画は崩壊した家族の先に何があるかを描いたものと思う。言葉にすると嘘くさいが、疑似家族として家族、つまり一緒にご飯を食べたり、散歩したり、いかにも親密な家族のように振る舞えば、多少は家族のようであり続けることができる、ということである。形から入る家族とでも言うような。



163 「遠く遙かなる山の呼び声」(D)
山田洋次監督、健さん倍賞千恵子主演、ハナ肇武田鉄矢鈴木瑞穂、西岡秀隆客演。妻が借金を重ね自殺、その弔いの席に金貸しがやってきて悪態を吐くのを我慢できず健さんが殴り殺し。それから2年、行方定めず放浪寄宿の旅。今度、世話になったのが夫を亡くして子どもと二人で蓄牛をする倍賞の家。その息子が西岡で、まあなんと倍賞と彼はそれからずっと寅さん映画でも親子だとは!


山田監督は倍賞と出会ったのが運命と言っている。芯が強いが、どこかはかなくもあるのが倍賞である。健さんが人殺しと分かって家を出て行くことが分かった夜、馬に異常が発生したシーンで、ついと抱きしめ、私、寂しい、と言うシーンは絶品である。健さんが護送される列車のシーン、窓にハナ肇が映る。そのまま列車は動き出したあと、刑事と健さんの間延びのしたやりとりがある。最後にこの映画、ダラけたなと思うと、先のハナが乗り込んできて、そのあとに倍賞もやってくる。二人が通路を挟んだ隣の座席に座り、ハナが「あんたは牧場を止めた。いまは市内で働いている。いなくなった亭主の帰りを2年待つんだってな、偉い」と健さんに聞こえるように言う。このシーンのための間延びだったことが分かる。


共同脚本が朝間義隆である。いいですな、この映画。健さんが人殺しながら感情移入できる人物像なのかがポイントの映画なのだが、それは十分に達せられていると思う。


164 「ジュリア&ジュリー」(T)
フランス料理をアメリカに大衆的に浸透させた女性の話である。外交官の夫の赴任でパリに来た初老夫人(メリル・ストリープ)が料理学校コルドン・ブルーに通い、料理の道に。時間が移って、現代女性のジュリーは何でも中途半端に終わってしまう自分が嫌で、ジュリアの500以上のレシピを1年で作ることを生き甲斐に。途中で夫との喧嘩やマスコミの裏切りなどあるも、最後は作家に。


場面の転換も人物描写もしっかりしていて、安心して見ていられる。主人公二人をじっくり描きながら、短い時間でよくこういうまとまった映画が撮れるものだと感心する。最後に、ジュリアがジュリーを評価していないという情報が編集者からもたらされるが、その理由は明らかにされない。せっかくの映画が後味悪くなってしまった。このシークエンスを挟まないと映画ができない理由でもあったのだろうか。


165 「キャラメル」(T)
レバノン映画で、舞台は首都ベイルート。ぼくはパリの移民の話かと思って見ていた。というのは、エステサロンの女性4人が主人公なのだが、一人が結婚が決まって処女膜再生のために病院に行くのだが、そこでフランス語ができないといって尻込みするシーンがあるからである。もう一人の女性が不倫相手をホテルに呼んで、誕生パーティをしようとするが、カウンターで「夫婦ですか」「身分証明書を」と言われ、結局、場末のひどいホテルに落ち着くのだが、パリでこんなことあるのかな、とは思ったのだが。


4人の女性のうち残り2人は、一人は男っぽい身なりで、どうもレズっ気があるらしい。彼女目当ての黒髪長髪美人が通ってくる。残りの一人は元役者で、いまなおいろいろとオーディションを受けている。すでに生理が無くなっているのか、トイレで偽装工作をして、今なおそれがあるように振る舞う。


向かいの裁縫屋には高齢の姉妹がいる。姉は街路で紙を拾い、誰か恋人が自分を連れにやってくると思っている。妹は背広の寸を直しにやってきた老男性と恋いに落ち、向かいのサロンに初めて髪を直しにやってくるが、姉のことを思うと男とのデートに出向くことができない。


いつも街路の駐車違反の切符を切る警察官は、不倫の女性に恋している。違反も見逃してやる。不倫女は相手に捨てられ、男の妻がどんな女か知りたくて、脱毛無料のニセの広告で釣って店におびき寄せる。さらには、自宅まで行って、様子を探る。そして、自分にはこの家庭に入り込むことはできないと悟る。


監督ナディーン・バラキーは不倫女性を演じている。4人を描き分け、それぞれに説得性があり、しかも精神を病んだ老婆をうまく使って、劇を拡散させたり、集中させたり、手が込んだことをやっている。音楽もすばらしく、こういう映画がレバノンで撮られているのが、驚きである。ちなみにキャラメルは飴状のもので、脱毛に使う。


166 「シリアの花嫁」(T)
第三次中東戦争でシリア領のゴラン高原イスラエルによって無国籍地帯となり、そこに住む少数派のドウルーズ派の人たちは家族と引き裂かれて住むことに。この映画はそのイスラエル側からシリア側へ結婚のために越境する女性をめぐる話である。


監督エラン・リクリス、主演ヒアム・アッバスで、「扉をたたく人」できれいなお母さん役をやった女優だ。彼女は長女で、実家の屋根の修理に来た男と1回会っただけで結婚、出産。妹はテレビで見た男優に恋をし、結婚をすることに。その結婚に合わせて、ロシア人と結婚し、父親から勘当同然の扱いを受けている長男も、中南米諸国を相手にビジネスを展開する次男も、実家へと集まってくる。父親は逮捕歴も反イスラエルの人物で、二女が“境界”へと向かうにも付いていけない可能性がある。


出だしからして、この映画、面白そうだと思わせる。女4人が何かしゃべりながら道を歩いていく。それだけで華やかである。髪型の話らしく、誰かスターの髪型がいい、といちばんの年長者が言う。それが実は長女で、話を聞いているのは二女と2人の妹たち。長女はジーパンをはいて、赤いセーターを着ている。


イスラエル側がパスポートに出国の判を押すも、シリア側がそれを認めない。認めると、向こうの土地を自分たちの土地ではないと承認したことになるからだという理屈である。イスラエルは占領、居座りをいつまで続けるのか、という抵抗である。ゲートを挟んで花婿、花嫁がいながら、いつまで経っても埒が開かない。やっとイスラエル側が折れて決着が付きそうになるが、今度はシリア側の担当者が勤務明けでいなくなり、振り出しに。みんな諦めかけたとき、花嫁は一人向こう側へと歩き始める。


父親と長男とその嫁、長女と夫、次男と恋人など、いくつもの一筋縄ではいかない問題が織り込まれながら、シリア女性のしたたかさを描いた映画である。
それと、父親が警官に引き立てられそうになったときに、長男は自分は弁護士だが、令状はあるのかと迫り、結局、今回は見逃すと言って警官がいなくなる。それで父親の心が和らぎ、後ろから息子の肩を抱くシーンは泣ける。


先に「キャラメル」という映画の評を載せたが、この映画との共通の表現があったので、記しておく。結婚の様子をビデオカメラで追うフリーカメラマンが、結婚が不安だと言う二女に向かって次のように言う。「結婚は割ってみなければ中身の分からないスイカみたいなものだ」。それが「キャラメル」では、スイカではなくメロンとなっていた。


*今年のベスト12

今年見た作品という意味で、昨年、一昨年、もっと前の映画も入っている。50本近くを劇場で見ているが、どこの館だったか忘れているものがあるのが、歳をくった証拠である。以前なら、その館の雰囲気まであわせて覚えていたものだが。
総括して思うのは、タイやロシア、韓国、メキシコ、イスラエルなどの映画が上位に入ったことが印象的である。これに「シリアの花嫁」(イスラエル、フランス、ドイツ共同)や「キャラメル」(レバノン)などを加えると、本当に多国籍になる。来年はもっとそのへんの映画を見るようになるかもしれない。ハリウッドのがちゃがちゃ映画は見たくもないし、日本の薄っぺらな人間描写も見たくもない。


10位 チョコレート=ファイター=少女カンフーものだが、知恵遅れの子が主人公というのは画期的では? フェイント・アクションの凄さに脱帽。きっと2もやってくる。そのときは、変なジャポニスムは止めてほしい。
9位 カメレオン=阪本順治監督、テンポの良さとそのピカレスク性に。冒頭の藤原竜也水川あさみの絡み場面がピカイチである。
8位 アパルーサの決闘エド・ハリス監督・主演の西部劇で、ヴィーゴ・モーテッセン、ジェレミー・アイアンと役者が揃った。イーストウッドを超えた! ただ、レニー・ツェルウイガーが美しくないのがとても残念。
7位 レスラー=プロレスって厳しいのね、ショービズだから、と納得させられる。日比谷の劇場で。人がたくさん入っていたなぁ。
6位 扉をたたく人=虚名で生きてきた偏屈な老教授とレバノン移民ミュージシャンとその恋人、母をからめた秀作。その母親が美しい。米で4館から拡大。
5位 12人の怒れる男ロシア映画、同名名作映画に触発されたのだろうが、別物と言っていい。ニキータ・ミハルコフ監督、ぼくはこの作品しか見たことがないが、いろいろ撮っているようだ。役者でもあって、この映画にも出演している。冤罪の青年がチェチェン人というのは、名作でもプエルトリコ人(?)という設定だったので、それを踏襲している。差別される人間を犯罪者に仕立てるのは洋の東西を問わないようだ。役者が粒ぞろいで、長回しで彼らの演技をじっくり撮るので、見応えがある。日本のリメイクとはレベルが違う。ただ、ときおりCGを使うのが難である。
4位 転々=都内を散歩するロードムービー。疑似家族を求める様子がせつない。シュールな小話を繋ぎながらも、ダレることはない。マンションの一室に死体が横たわっているのが、浮ついた調子を常に引き締める。三浦友和の演技は秀逸である。どことなく動きに志村けんを思い出すのはなぜか。
3位 スノー・エンジェル=ガス・ヴァン・サントのような味わい。湖畔での射殺シーンは心に残る。監督はこの作品ぐらいしか映画を撮っていないのではなかったか。
2位 母なる証明韓国映画で、ひさびさに映画を見た、という感じ。板橋の劇場で。監督はボン・ジュノで、名作「殺人の追憶」、ぼくの好きな怪獣映画「グエムル」を撮っている。
1位 アモーレ・ペロス=ぬめぬめとした血と暴力、そして構成の見事さ。「シティ・オブ・ゴッド」も「スラムドッグ&ミリオネア」「クラッシュ」もこの映画がなければ、誕生できなかったのではないか。メキシコ映画で、封切りは2000年、それを今頃見るとは間が抜けた感じだが、「シテイ・オブ・ゴッド」のような圧倒的な作品を続けて見る胆力はぼくにはない。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督で「バベル」を撮っているが、ぼくはこの映画を見ていない。
番外=「戦場でワルツを」今年最後に見た劇場映画でアニメ、その出来の良さに二日続けて足を運んだ。大事な映画だと思う。銀座の劇場で。


*今年見たクラシカル映画のベスト11

どうもハリウッドに元気がないせいか、あるいはぼくが単に歳をとったせいか、古い映画に向かいがちである。完全に溝口にはまっている。それと、日本の映画で喜劇が太い水脈としてあることを、今回のラインアップでも感じることができる。


11位 眠狂四郎 勝負=田中徳三監督、64年、シリーズ2作目。非常に出来がいい。加藤嘉が光る。
10位 おしどり駕篭=マキノ雅弘監督、58年、錦之助とひばりの長い告白シーンがいい。何かというと射的の矢を人に当てようとするひばりに笑っちゃう。喜劇と言っていい。文芸座で。
9位 二階の他人=山田洋次監督、61年、新居の二階を他人に貸した気苦労が軽快に描かれる。デビュー作。重喜劇ではなく軽喜劇。
8位 杏っ子=成瀬巳喜雄監督、58年、だめな夫にめげない、しなやかで強靱な女を描く。成瀬の女性像である。文芸座で。
7位 下町の太陽=山田洋次監督、倍賞千恵子が冒頭に歌うが突然カットで、汚い長屋にシーンが飛ぶ。その転換のすごさ。
6位 母のおもかげ=清水宏監督、59年、これが思いの外、よくできている。まま母役が淡島千景、なかなかなじまない子どもがいい。文芸座で。
5位 黒の試走車=増村保造監督、62年、企業スパイを描いて今でも納得させられる映画になっている。
4位 お早う=小津安二郎監督、59年、これも喜劇で、小津にしては珍しい才気走った構成。「大人はむだなことをしゃべる」がテーマ。自分の映画のネタ晴らしみたいなもの。
3位 驟雨=成瀬映画、56年、ほとんど室内に終始する喜劇。けっこう笑える。ラストもいい。成瀬に珍しく戦後風俗を諷刺する。文芸座で。
2位 二人で歩いた幾春秋=木下恵介監督、これも喜劇、62年、長々しい灯台守の映画「喜びも悲しみも幾歳月」の続編だが、こっちのほうが出来がいい。軽喜劇のような笑いが起こる。高峰秀子がそれをやるのである。文芸座で。
1位 山椒大夫=この映画は傑作である。54年。人の動きやセットなど、堪能できる。溝口に珍しく勧善懲悪になっている。冒頭から始まる場面転換の巧みさ! 木下映画「風花」の先駆けである。