09年の映画

kimgood2009-03-05

また新しい1年である。酒とテレビの正月が終わって、また酒と仕事の日々への復帰である。今年は別項で進めている木下恵介作品評価をもっと進めたいし、それに、アステア周辺のミュージカル物も、いろいろ探って楽しんでみたい。溝口作品も溜め込んでいきたい。ハリウッド映画がこの1年でどう変化を見せるかも興味のあるところだ。


1 「花と龍」(D)73年
加藤泰監督である。火野葦平が原作という。この作家がどういう作家か知らないが、たまたま磯田光一による熱烈な『吉本隆明論』を読んでいて、そこに共産党系の作家が戦時の転向作家一覧を発表したとして、そのなかに彼の名があった。たいていの作家が時の政府に迎合したわけだから、転向に大きな意味があるわけでもないが、元左翼作家がやくざ渡世を描いたのか、とある種の感慨がある。


「花と龍」は6度映画化されているらしい。冒頭から変わっていて、足6本が大写しで、そのうち2本は子どものものらしく、宙に浮いている。それが線路の上を歩いているらしい。次第に画面に全体の像が映って、夫婦が子どもの腕を引っ張っているのが分かる。
しばらくすると今度は、人間の肌の大写しになる。汗も浮き出ている。草むららしきものが見え、やがてセックスをしているのが分かる。主人公渡哲也と香山美子のからみである。それがなかなか迫力があって、事が果てたときの感じも実際に香山は演じている。この映画ってこんなだったっけ、という驚きが大きい。
ほかに渡と倍賞美津子のからみもあって、二人が体を合わせたときに開け放たれた窓から一陣の風が吹き込んで、入れ墨の図案を描いた紙が何枚もさあーっと二人の体の上を吹き飛ぶ場面など、実に美しい。香山もそうだが、一生懸命乳房を隠す姿勢なので、動きは不自然といえば不自然なのだが、それなりに迫力のあるセックスシーンとなっている。倍賞は体でその反応を演じている。
あと渡の息子役の竹脇無我太地喜和子とのからみでは、どういうわけか太地だけおっぱい剥き出しで、しかもバックとおぼしき体位まで披露する。香山、倍賞の扱いとは別物である。太地が軽く見られたということか。その時代、ぼくはもう邦画から遠のいていたので、この作品がどういう評判だったか知らないが、かなりエロチックということで話題になったのではないだろうか。


田宮二郎がどこにも属さない風来坊的なヤクザを演じていてグッド、首にスカーフを巻いている。その相棒で女だてらに親分にのしあがる「どてら婆さん」の役を任田順好(とうだ・じゅんこう)という女優が演じていて、これがなかなか食わせ者で、しかも人情味も凄みもある役柄を十分に演じていて、この女優を一見するだけでもこの映画、価値があるのではないだろうか。
それにしてもこの映画、ほとんどエロ映画に近いものがある。73年の作からいって、単純な切った張ったのヤクザ映画では飽きられていたのかもしれない。ふつう任侠映画は禁欲的で、ホモっけを醸すのが常套である。男女がねっちりとからむと、世話物っぽくなってしまう。


2 「幻影師アイゼンハイム」(D)08年
エドワード・ノートン主演なので、その項に譲る。


3 「近松物語」(D)1954
溝口の項に譲る。


4 「アクロス・ザ・ユニバース」(T)
監督ジュリー・ティモアで、「フリーダ」を撮っている。舞台で「ライオンキング」を演出した女性だそうである。「ラスベガスをぶっ飛ばせ」で主役をやった青年ジム・スタージェスが、この映画の主人公。リバプール生まれで、閉塞した町からアメリカへとやってくる。恋あり、ベトナム戦争あり、デモあり、破局あり。彼の恋人役をやっているエヴァン・レイチェル・ウッドは「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」で見た女優である。
ミュージカルで、曲はすべてビートルズ。楽しいったらありゃしない。
ところどころ旧作のパスティーシュがある。主人公がいちごを用いてアートを試みたあと、「いちご白書」のラストの階段のシーンへのオマージュが続く。あるいは、ビートルズのドキュメント映画「ゲットバック」のこれまた有名なラスト、ビルの屋上での無許可ライブを真似たシーンが、この映画のラストでもあるといった凝り様である。
知っている曲が大半だが、歌詞の意味を知らずにいたので、ビートルズのぶっとんだ歌詞に改めて尊敬の念を覚えた。
ちなみに登場人物がみんなそれぞれ自分で歌っているそうである。


5 「チェpart1」(T)
ソダーバーグ監督である。チェをベニチオ・デル・トロが演じている。同監督の「トラフィック」で初めて見た俳優である。チェが山間部から都市へと戦線を進める過程と、革命後、ニューヨークで国連本部で演説したり、パーティに出たり、取材を受けたりする白黒映像を混ぜて進行する。
兵隊に読み書き、算数を奨励したり、農民からの略奪を禁じたり、かなり倫理的にゲリラ部隊を統率していたことがわかる。戦闘シーンの迫力で、最後まで緊張して見ていることができる。国連本部で、パナマニカラグアの独裁、アメリカ傀儡政権批判をするところなど、当時の南米の状況を表していて勉強になった。都市での攻防戦では、ホテルや教会などの高い建物をどちらが占拠するかが鍵になっていた。かなりの確率で鉄砲玉が当たるのが意外である。ふと頭を出した、身を起こした、というだけで的中させられてしまう。その怖さが全編を覆っている。


6 「他人の顔」(T)66年
勅使河原宏監督で、主演が仲代達也、共演京まち子、岸田今日子平幹二郎。言わずと知れた安部公房原作である。事故で大やけどを負った男が人工マスクをつけることで、どう変化するのかを追った作品ということになるが、もっといえば表層が変わるだけで人間は個性を失って、誰でもないものに変化してしまうという脆弱さを衝いた映画である。
新橋のビアホール「ミュンヘン」が何度か登場するが、いま新橋を映画に撮るなど異例のことであろう。平幹二郎精神科医でありながら、義肢・義足や、しまいには人工マスクまで造ってしまう医者を演じているが、彼の診察室の様子がユニークで、まるでデュシャンの大ガラスのように、仕切りの大ガラスの表面に人体やその部分の絵が線描で描かれている。これは粟津潔の作だと思われるが、その絵柄の向こうを平や岸や仲代などが移動するわけで、見ていて面白い仕掛けになっている。
仲代は他人になりすまして妻を籠絡することを計画するが、それと平行して顔にケロイド状の火傷をもった女とその兄との近親相姦も描かれている。あえていえば、他人の顔を付けて妻を寝取る夫の軽薄さと、近親としか交わることのできない女の不幸の重さを比較しているわけだが、あまり符節が合っているとも思えない。観念的な操作なのである。
昔の映画、これは勘で言うのだが、とくに60年代の邦画は、なぜこんなに近親相姦にこだわっていたのか、いまとなれば不思議である。差別語がどんどん出てくるのには苦笑いである。たった40年前なのに、これほど野蛮だったのだ。蛇足でいえば、「ミュンヘン」のシーンでちらっと安部公房本人が出てくる。


7 「慰めの報酬」(T)
ダニエル・クレイグのボンド第2作である。マーク・フォスター監督で「チョコレート」「ぼくが主人公だった」を撮っている。幅広い作風が頼もしい。脚本は「クラッシュ」「告発のとき」を監督したポール・ハギスである。
前作「カジノロワイヤル」の続きらしく、前のことを忘れていたので、筋を追うのがやや面倒くさい印象である。それなのに画面はアップテンポで進むので、気持ちの整理がつかないままエンドマークへと至ってしまう。ダニエル・クレイグの人間臭さを前面に押し出したボンドなので、恋人を失った前作を継いだ内容になるのも頷けることだが、1年以上も前の作品の内容を覚えていろというほうが理不尽だし、そもそもボンドは1回読み切りのはずである。回顧シーンを挟むなどの工夫があってもよかったのではないか。
「カジノロワイヤル」がもっていたヒューマンな匂いが、この作品ではほとんど味付けとしてしか出てこない。いつものボンドに戻ってしまったと言っていいだろう。アクション場面などすばらしいが、悪党が小物なのが如何ともしがたいところである。


8 「4ヶ月と、3週と2日」(D)08年
ルーマニアの映画で、何か賞を取っているようだ。予告映画では独裁政権の残る1987年と言っているが、共産党独裁政権のことであろう。女子学生がルームメイトのために非合法の堕胎をサポートするための難儀を描いている。これをきっかけに彼女は知識階級らしき彼氏への疑念や、何事にもだらしないルームメイトへの反感を抱くようになる。細部の細かい描写と、椅子に座っているところをただじっと撮るような映像が、うまいリズムとなって飽きない映画になっている。
本来であれば女性の医者に頼むのが普通らしいのだが、ルームメイトは妊娠4ヶ月では受け入れてくれる堕胎医はいないだろうということで、見も知らぬ医者に頼むことに。堕胎処置をするホテルの予約を不確かな電話でやるとか、堕胎医を呼びに行くのは本人ということになっているのに彼女にやらせるとか、ベッドに敷くビニールシートを忘れてくるとか、ホテルの部屋の電話がうるさいといってトイレに置いておくとか、彼女が気が気でなくて彼氏の母親の誕生パーティからそそくさと引き返してきたのに一人でレストランで食事をしているとか、とんでもなく阿呆である。それでも主人公は友達のために胎児を捨てに行く役回りまで引き受ける。堕胎の費用が足りなく、闇医者が二人に体を要求するときも、主人公が先に犠牲になるようなことをする。


彼女の出自が、彼の母親のパーティで軽く取りざたされる。父親は軍人で、その関係で母も職を得ていた、といったことを彼女は言う。彼の部屋で二人になったときに、彼女は、彼の親戚ばかりか彼も私を軽蔑している、と言い立てる。社会主義国の階級制重視を表した話である。女学生たちがケント、マルボーロなどのアメリカたばこに目がないのは、ベトナム戦争に勝利したベトナムでも同じだった。


中絶の是非はいまだに論議されることだが、この映画を見るかぎり、その自由は保障されてあるべきではないか。3ヶ月がリミットなのか4ヶ月がリミットなのかは分からないが。


9  「ファーストフード・ネイション」(D)08年
アメリカのハンバーガーチェーンで製品に牛のフンが混入。その捜査に幹部の一人が出向く。その町に、メキシコから非合法でやってくる人々は、アメリカのドルが目当てである。途中までは、この2つが同時進行で映され、やがてその町で合流する。
肉を捌く工場の様子はまるで「命の食べ方」である。グローバリゼーションと食の合理化が至り着いた陰惨な世界。ドキュメントで取り上げるようなテーマを、ドラマでうまく処理した格好である。アメリカの告発物は大企業相手が多いが、生活レベルの問題点追求はマイケル・ムーアなどのドキュメント監督の範疇と思いきや、こういうやり方があったのか、と新鮮な感じがした。
出演陣が多彩で、ブルース・ウィルスまで登場する。


10 「残菊物語」(D)39年
溝口の項に譲る。


11 「江戸の悪太郎」(D)59年
マキノ雅弘監督、主演大友柳太郎。この人が出てくるだけで、画面がパッと明るくなる。ぼくは小さい頃この人の映画をたくさん見ていたような気がする。というのは、彼の姿を見た途端、胸にホッと灯るものがあったからだ。女優が大川恵子、きれいで可憐である。ほかにどういう作品に出ているのだろうか。脇に田崎潤、浪速千栄子、渡辺篤(目を剥いた老人役しか知らない)、堺駿二山形勲などなど、東映映画である。


清貧で無私の素浪人が大友の役、貧乏長屋の子供たちに読み書きを教え、大人にはそれとなく人の道を教える好人物である。この種のキャラクターは平成のベストセラー「居眠り磐音」シリーズにも確実に生きている。設定でもほぼ変わらない。そのユートピア的な長屋を潰して、インチキ占い師の館を建てようと画策するのが旗本の山形勲である。


大川恵子は信州の大店の娘で、親の決めた結婚が嫌で江戸に出奔し、ひょんなことから大友のもとで住み込むことに。なりは少年で、三吉と名乗る。彼女を見つけ出さんと信州から、爺やや使用人がやってきて、これも筋に絡んでくる。旗本のあくどいやり口、長屋の人情味豊かな付き合い、娘の純情などがごく自然なかたちで織りなされ、快適な調子で全体が進んでいく。ただマキノの作術に乗って楽しんでいればいいのである。


12 「マンマ・ミーア」(T)
97年初演のロングラン・ミュージカルの映画化である。監督は舞台と同じフィリダ・ロイド
主演がメリル・ストリープで、結婚を間近に控えた娘が、母親の過去の日記を盗み読んで、自分の父親と覚しき男性3人を母親に黙って式に招待することからゴタゴタが起き、最後はお決まりのハッピーエンドに終わる、というものである。中で歌われる曲はすべてABBAの曲。“ジュークボックス・ミュージカル”と言うそうだが、“アクロース・ザ・ユニバース”もその部類に入ることになる。
3人の父親をピアース・ブロスナンコリン・ファースステラン・スカルスガルドが演じている。スカルカルドは「奇跡の海」が記憶に強い。純朴な石油採掘者の役で、神秘性の強い女房を心から愛する役をやっていた。ブロスナンは歌に難があるのではないだろうか。振り絞るように声を出すので可哀想である。昔、メリル・ストリープはトリオを組んで歌っていたことがあったという設定で、残り二人がくせ者の感じの女優で、この二人でこの芝居は引き締まった感じである。娘役のアマンダ・セイフライドが可憐である。
劇が終わって最後におまけがつく。一曲が終わると、客席に向かってストリープが「まだいるの? もう一曲聞きたい?」と別の曲を歌い出すのがいい。かつて歌手を目指したことがある彼女としては最高の映画だろうが、やや老けすぎなのが辛い。もう少し若い、誰かほかの人でも良かったのではないか、とも思う。


13 「女であること」(T)
川島雄三作品なので、その項に譲る。


14 「マッチ工場の女」90年 15「コントラクト・キラー」90年(T)
アキ・カウリスマキ監督、フィンランドの監督だそうである。かなりの数の作品を撮っているようだが、ぼくはこの2本が初めてである。「マッチ」は冴えない女が行きずりの男と同衾し妊娠、男に告げるも冷たくあしらわれたことを恨み、「ネズミころり」を飲み物に混入させて殺し、そのあとバーで言い寄った男のグラスにも微笑みながら毒薬を注ぎ、家に帰ると母親と義父にも毒を飲ませる。自室で音楽を鳴らしているうちに食堂からカチャカチャという食器の音がしなくなる。女はその様子を見に行くが、映像は映さない。
こう書いてくると陰惨だが、映画はいたって静かで、淡々と進んでいく。登場人物はほとんど会話をしないし、声も発しない。皮肉なことだが、彼女の勤める工場の機械だけが喧しい。行きずり男が尋ねてきて義父と狭い室内で対面するシーンはいっさい会話がない。お互いに疑念があるのかもしれないが、フィンランド人は挨拶をしない、とある本に書いていた。男性は特にそうで、ダンスパーティなどでも女性が積極的に誘わないと男はずっと壁の花なんだそうだ。
この映画、全編にいろいろな音楽が鳴っている。人生に裏切り続けられているこの女ならこれくらいのことはやるな、と感じさせるからすごい。


コントラクト・キラー」はコーエン風で、イギリスで働くフランス人が馘首され、自殺を思い立つが死ねない。そこで自分を殺してくれるよう殺人を頼むが、バーで花売りの女と知り合ったことがきっかけで未練が生まれる、だけど殺し屋は迫る、という設定である。ちょっとしたブラックユーモアの短編のような出来である。この映画では全編に古いジャズボーカルの声が聞こえる。
どちらの作品も殺人が観客を引っ張る誘因になっているが、サスペンスの味わいはまったくない。サスペンスのふりをして、ある極限状況に置かれた人間の愚かしさを撮っている。それがこの監督の核かもしれないが、サスペンスはやはりどきどきしながら見たいと思う。



16 「スケアクロウ」(D)73年
ジェリー・シャッツバーグという監督である。この映画、見たような見ていないような、はっきりしない。部分的に覚えているところもあるので、見た映画らしいのだが。喧嘩っ早い大男がジーン・ハックマンで、貯めた金で洗車の商売をピッツバーグでやろうと考えている。たまたま知り合った小男がアル・パシーノで、こいつは5年前に妻を置いて家を飛び出し船員をやっていたという。妻のもとに子供のみやげを持って行こうとしている。その二人の道中を扱ったもので、パシーノの影響で荒くれのハックマンが次第に人を信頼し、情にほだされるような人間に変わっていく過程を描いている。その秘訣はスケアクロウになることである。人に笑われるが、そのおかげで人は安心して心を開く。実はパシーノは一心にそれを演じていたことが、ラストに精神のバランスを崩すことで分かる。置いてけぼりを食った女房に電話をかけると、すでにほかの男と結婚し、パシーノの子供はいるのだが、8ヶ月で流産したとウソをつく。それが彼の精神の崩壊を引き寄せる。
じつにしみじみとしたいい映画である。こういう映画がかつてアメリカにあった、とつい言いたくなる。家を前にして女房に電話をかけるシーンは、10分はあるだろうか。これがなかなかいいのである。女のほうにも未練がないわけではない。そういう情感がよく出ているのである。ぼくはこのシーンがいちばん記憶に残っている。
シャッツバーグという監督はほかにパッとした作品はないようで、この映画だけが突出して優れていたようだ。歌手にも一発屋といわれる人がいるが、監督にもそういうタイプがいる。実力はあっても、たまたま何かの巡り合わせが悪くて、結果を続けて出せなかった、ということなのか。パルマのようなダサい監督でも次から次と撮れるのもいる。このへんがぼくにはよく分からない。


17 「靖国」(D)05年
上映中止騒ぎになった曰く付きのドキュメントである。靖国のご神体が剣だということから発して、日本の侵略性は剣によって象徴される、と言いたい映画のようだ。実際に靖国境内で日本刀鍛錬所があり、8000以上の刀が作られていたらしい。
靖国のご神体は他に鏡があるようで、いずれにしろご神体は藭のヨリシロで、そこに暴力性を見たり、侵略性を見たりするのは、間違いと言っていいだろう。いわゆる「三種の神器」も剣、鏡、勾玉である。
刀の鍛錬所が作られたのには、何か理由があるのだろうが、坪内祐三の『靖国』を読むかぎり同神社はかなりキッチュで、いい加減なポリシーの施設らしく、刀の鍛錬所ができたのもちょっとした出来心かもしれない。
しきりに高知に住む靖国刀の刀鍛冶の映像を挟むが、ほとんど何の発言もしないこの刀匠はミスキャストである。靖国との精神的な関連性も一切浮かんでこない。それに老刀匠は発音が悪く、しかも方言なので何を言っているかさっぱり分からない。誰か外国人(中国人?)が拙い日本語でインタビューしているが、きっと相手が何を言っているかさっぱり分からなかったのではないだろうか。


それにしても、8月15日をめぐって靖国に集まる人々をいろいろと映像に収めることの面白さよ。思想問題もあるが、なにか日本で最も熱い場所、という感慨が浮かんでくる。それを引き起こしたのが小泉首相であり、昭和53年のA級戦犯合祀である。ラストの剣術トレーニング、中国人斬首、天皇騎乗姿などを何度も繰り返しながら、ドイツ語歌曲をかぶせるところは妙に絵と音がマッチしていて、不謹慎だが美しい。ただ繰り返し日本を暴力的な国として印象づけようとする手法は、プロパガンダの技術としてもかなり低劣なものだろう。
靖国では老人が元気なのには驚く。街で見かける老人の影の薄いことよ。しかし、大和魂とは英霊を敬うことだと言うに及んでは、鼻白むばかりである。


18 「ミスター・ブルックス」(D)
ケビン・コスナーの映画を見るのは久しぶりだ。彼の作品が来なくなった理由は何なのか。Dance with Wolvesに何か曰くがあった、ということではなかったか。
この映画はコスナーの肝煎りでできた映画らしく、プロデューサーも兼ねている。監督はブルース・A・エバンス、共演デミ・ムーア、ウイリアム・ハートなどである。
よく出来た映画である。ほとんど話題にもならなかったように思うのだが、宣伝の仕方を間違ったのかもしれない。タイトルもおとなし過ぎる。
まずコスナーが変わったことをアピールすべきである。軽い、あっさりした演技がはまっている。一代で財をなした陶器会社の社長がシリアルキラーという設定。彼のそばにはいつもデーモンが付き添っているという趣向が面白い。そのデーモンをウイリアム・ハートが演じていて、これも至って軽い演技がこの映画に品を添えている。
女刑事デミ・ムーアがサム・プリント(現場に血で被害者の親指のプリントを残すことから)を追っているが、最初の夫も、次の夫も殺されている。それはなぜなのか。
ケビンの娘が大学を辞めたい、妊娠したと言い出し、戻ってくる。しかし、彼女を追うように地元警察がやってくる。大学タウンで人殺しがあり、彼女にも容疑がかかっているという。そこで父親であるケビンは気づく、娘も自分と同類だと。彼は止むに止まれずある工作をしにその大学タウンへやってくる。
サム・プリントは自己コンロトールグループに加わり、自分の衝動を抑えてきたが、2年ぶりに殺人を犯す。それを外から写真に収めていた男が、自分も殺しをやってみたい、と言い出す。シリアル・キラーは一計も二計も案じて、複雑に糸を巻き付け、それを解きほぐす。
なかなかgoodな仕上がりで、コスナー復活を感じさせた映画である。


19 「喜びも悲しみも幾春秋」(T)
木下映画なのでその項に譲る。


20 「ベンジャミン・バトン」(T)
副題が「数奇な人生のもとに」で、原作はスコット・フィッジェラルドの短編だそうだが、思いっきり改変してあるそうだ。デビッド・フィンチャー監督で、ぼくは「エイリアン3」「ファイトクラブ」「セブン」「パニックルーム」「ゾディアック」と見ているが、ほかに「ゲーム」というのがあるらしい。「パニックルーム」「ゾディアック」と中途半端な作品が続き、がっかりしていたので、今作には大満足である。
3時間近くある映画だが、ごく自然に時間が経ってしまう。それだけ出来がいいのである。老人に生まれて次第に若返っていく、というおとぎ話をいかにも実話っぽく撮ってしまう手腕がすごい。


ブラッド・ピットも美しいが、ケイト・ブランシェットの美しいことと言ったら。この人は百変化のような人で、エリザベス1世を演じたかと思えば、戦うジャーナリスト、そしてボブ・ディランになりすましたりしている。この映画ではクラシックバレーを披露する。


1箇所だけ気になったのは、ボタン会社社長の父親が死んで、その経営や遺産をどうしたかである。映画を見ていると、別に働いてもいないのにヨットで遊んだり優雅なもので、これは遺産でも入ったのだろうと思うが、一切説明がない。工場や邸宅売却の話があとで出てくるので、誰かほかに社長業を継ぎ、遺産だけは彼の物になったのだろうか、と推測する。こういうところが不親切だと、蟻の一穴になってしまいかねない。



21 「大曽根家の朝」 22「お嬢さん、乾杯」 23「香華」(いずれもT)
木下映画なのでそちらに譲る。



24 「チェンジリング」(T)
イーストウッド作品である。主演アンジョリーナ・ジョリー、脇がジョン・マルコビッチ。子供が行方不明になり、5ヶ月後に見つかるが、それが偽物。警察は母親の申し立てを無視し、精神病院にぶち込んで真相もみ消しをはかる。時は1920年代、ロス警察は腐敗の極にある。ふとしたことで連続殺人が明るみに出て、失踪した20人ほどの子供が殺されていたことが分かり、そのなかに主人公の子もいたらしいと判明。少年を誘拐し殺すが、性的な虐待はないようである。


イーストウッドの映画はいくつか見てきているが、いい観客ではない。監督作は40作近くあるのではないか。初期の頃と比べて次第におもしろみの欠ける映画が多くなってきたが、この作品は最後まで緊張感をもって見ることができた。かの小林信彦氏が『硫黄島からの手紙』を週刊誌で絶賛していたのが腑に落ちなかった。
ミスティックリバー以来、音楽もまた彼である。子供を誘拐し、鉈などで殺してしまう殺人犯の役者がいい。名前が分からないが、はまり役である。アメリカ映画では、この種の異常性格の犯罪者を演じることのできる役者が豊富にいる感じである。



25 「スノー・エンジェル」(D)
デビッド・ゴードン・グリーン監督、フィルモグラフィーを調べたが数本撮っているが、ぼくはこの映画が初めての監督である。よくできた映画で、味わいはサントの「エレファント」に似ているかもしれない。
凍り付いたグランドでラグビーの応援のための楽隊練習が行われている。その最中に、遠くで銃声が2発鳴り響く。それから小さな町の様子が数カットで示され、遠くで救急車かパトカーの音が聞こえる。

2つの離婚家庭が主軸で、1つは妻に偏執する元夫、1つは踏ん切りがつかない大学教授の家庭。前者の妻は、後者の息子のベビーシッターをやっていたことがあり、その2人はいま町のレストランで一緒に働いている(青年はアルバイトだが)。その青年に学校で恋人ができる。その2人の初々しい様子と、家庭内のいざこざが同時進行で描かれる。
ある日、前者の一人娘がいなくなり、沼で氷に閉ざされた状態で見つかる。それを見つけたのは後者の家の息子である。事故と思われるが、精神が不安定な夫は元妻に過失あったと責め、その沼のほとりで銃で処刑する。最初に聞こえたのはその銃の音である。
大学教授は少女の死んだ現場に駆けつけ、心理的に動揺している妻と子を見て、家庭に戻ることを決心する。


どの場面も納得のいく撮りようで、妻を愛しすぎるがゆえに歯止めがきかなくなる元夫が、全体の緊張感を作り出している。この映画、必見である。


26 「ストリートファイター」(T)
カンフー物ということで足を運んだ。ゲームのキャラクターが主人公で、舞台は香港にバンコック。全部が全部、既視感に襲われる体の映画だが、可憐な少女がいかつい悪の男たちを倒しまくるシーンは納得がいく。陰のある師匠、その裏返しのようなひたすら邪悪なライバル、市警のイケイケ男女、まあよくもこれだけステレオタイプを揃えたものである。正直、負けました。楽しみました、2時間近く。香港の風景を写すときに、「燃えよドラゴン」を意識しているようなところもあって、その殊勝な心がけは多としたい。


27 「容疑者Xの献身」(T)
三丁目の夕日」でひたすらエネルギッシュな役をやっていた堤真一が、しおらしいほどの演技を見せる。自殺をしようとまでした男が、隣りに引っ越してきた明るい松雪泰子母子に命を助けられたかっこうになり、その恩返しに母子の犯罪の片棒を担ぐ、という話である。堤はかつて天才とうたわれた数学者で、いまはしがない高校教師という設定。ピュアな学者肌の天才が、その才を犯罪隠蔽に使うわけだが、それほどすごい仕掛けをするわけでもない。その謎解きをするのが、これまた天才の福山雅彦で、こっちもそう天才とも思えない。天才と見せようとするだけに、よけいにそう思う。


28 「さよならみどりちゃん」(D)
古賀智之監督、主演星野真里西島秀俊。西島が喫茶店(?)の店主で、モテ男。沖縄に逃げたピンサロの女が本命のようだが、つねに愛人がいる状態。その一人が星野真里で、彼女も幾人かの男を経験するが、西島が本命。西島は父親が遊び人で、どこかに隠し妹もいるという。その血を受け継いだというわけだ。最後に星野は本心をぶちまけるが、西島は「じゃあな」で立ち去ってしまう。星野という女優は、作中では美人ということになっているが疑問である。途中までいっさい裸身を映さないのだが、その本心を言うところだけ胸をさらすのはなぜか。さしたることもない映画で、劇場でお金を払うのはしんどいが、ビデオで最後まで鑑賞。ディティルはそれなりに書き込まれている。


29 「噂の女」(D)
溝口作品なので、その項に譲る。


30 「水戸黄門 天下の副将軍」(T)59年
黄門様を月形龍之介がやっていて、good。その息子が万屋錦之助で、高松藩領主。不穏な動きがあって、錦之助は狂人のふりをして首謀者を見つけ出す。といっても山形勲だからすぐ分かる。そこに忍び込む隠密が大川橋蔵で、どういうわけか流しの板前に扮して高松にやってくる。ほかに大河内傳二郎が爺や、東千代之介が助さん、里見浩太朗が格さん、東に惚れるのが丘さとみ高松藩の孝行家臣が進藤栄太郎、それに錦之助の側女中(?)が美空ひばりという豪華役者陣。監督松田定次、脚本が小國英雄で、黒澤脚本組のお一人である。一度も黄門さまが印籠を出さないし、みんなはじめは恐懼して接するのに、いざとなれば「殺してししまえ」と言われる元副将軍って何なのか。事が終わって3艘の船が沖に役者陣を乗せて出るが、その船がどう見ても中国風。高松ってこんな船を使っていたのかなぁ。まるでペーロンみたい。
といっても、わいわい楽しく拝見しました。


31 「眠狂四郎 勝負」
シリーズ第2作目で、1作目は田中徳三監督、これは三隅研次、3作目は安田公義「円月斬り」である。3作目は20分ほどでギブアップ、将軍職を狙うバカ殿が浮浪者を試し斬りにするところから始まるが、まったく絵や筋に抑揚がないのと、役者が下手なので見ていられない。ところが、2作目はすこぶる快調である。脚本がいい、キャスティングもいい、映像もいい、とダンチに違うのである。きっと3作目は手抜きをしたのだろうと思う。といっても1作目も変な出来で、主人公が赤毛の侍で、出生に秘密があり、やけにニヒリスティックで、しかも女にもててすぐに同衾する癖がある、という設定なのだが、それがうまくかみ合っていない印象で、ラストは海にせり出した岩の上で狂四郎が森厳な顔をするところで終わるのである。


2作目がいいのは、世直し一徹に励む勘定奉行加藤嘉を配したことで、そのキャラクターに狂四郎が惚れて、私設応援団を買って出るという設定がいい。冒頭、女が後ろを向き向き足早に逃げるのを追いかける奴がいる。それが狂四郎で、神社の祭礼の場なのか人混みを分けて女と狂四郎が進む。ややあって、空中に女の叫び声とともに女ものの着物が宙に舞う。狂四郎が斬りさばいて、ほどけたらしい。もちろん裸の女が逃げ去っていく。
その最中に、石段を登るのに難儀な人間のお尻に板をあてがって、下から押すのを仕事にしている少年が現れる。その客が加藤嘉で、少年のまじめさに感心する。狂四郎は財布を彼の足下に投げる。すると、少年は声高に持ち主を捜し、狂四郎にそれを戻す。謝礼をあげると言うが、少年は拒む。彼は侍の子で、道場破りに父を殺されていることが分かり、勇躍、狂四郎が乗り込み、少年の敵討ちをする。加藤嘉をその様子を見て、狂四郎にゾッコンになる──というのがこの映画の出だしである。スリというネタを使った実にうまい滑り出しで、カットも的確に必要なものを積み重ねていく手腕が、当たり前といえば当たり前だが、さすが三隅監督である。田中徳三も三隅も座頭市を撮っているが、三隅の座頭市はちょっとレベルが違う気がする。



加藤のせりふに今に通うものがあって興趣をおぼえた。たとえば、「富める者と貧しい者の差がひどく、どんどん困窮した人々が江戸に流れ込んでくる」「この危機を乗り切るのに、それぞれの支配(行政における管轄のような意味)をなくさないといけない」などなど。徳川家斉の時代という設定である。
その家斉が側女に生ませた「たか姫」(久保菜穂子)の化粧代を削ったことで、勘定奉行のやり方が意に染まない幕臣たちが彼女を持ち上げ、謀反を働く、というのが大筋である。


女優は久保菜穂子、高田美和、藤村志保、とぼくが小さい頃いつも見ていたお姉様ばかりである。大映映画の花形女優陣である。なかでも久保はエロティックな役が多く、幼な心にもその妖艶さが分かったものである。美和、志保、いずれも顔がパンパンである。志保の思い詰めた、切れ長の目が印象的で、ぼくはこの人のフアンだった。


狂四郎のニヒリズムをどこまでうまく緩和するかが、この映画のポイントではないかという気がする。3作目が失敗したのは、そこのところである。それだけ彼の憂愁は深いということである。なにしろ馴染みの女と横になりながら、開け放した障子の向こうの墓地を見て、愛の空しさを語るのが狂四郎なのである。
志保が狂四郎を狙うのは、彼を倒してその功で囚われのキリシタンの愛人を助けんがためだが、そのキリシタンが雨に黒々と濡れる石坂を役人に引き立てられるときに躓き、助け起こそうとした狂四郎に「あなたは神の手で助けられなくてはならない。私が日本に来たのはそのためである」と言う。この映画は、狂四郎の出生の秘密が次第次第に解き明かされていく面白みもある。



32 「弾丸を噛め」(D)
原題もBite the Bulletである。何のことかと思うが、歯痛で悩むメキシコ人を救うために、ライフルの弾を加工して歯型をつくって患部にはめたことから来ている。まあ、だましの常套手段である。
ジーン・ハックマン主演、女優がキャンディス・バーゲン、助演にジェイムス・コバーン。新聞社主催の長距離競馬に6人の人間が参加し、その道中の人間模様を描く、といった映画である。ハックマンが動物を愛し、ライバルの苦境には手を出す、といったヒューマンな人間として描かれる。バーゲンはレース参加を隠れ蓑に、途中で刑罰として線路工事に従事させられている夫を救い出すのが目的である。しかし、夫はあくどさを増していて、助けたことを即座に後悔する。コバーンは例によって洒落た賭博師の役で、喧嘩も強ければ銃の腕も立つという設定。
ほかにレース主催者に雇われたジョッキー、歯痛のメキシコ人、イギリス人、若造、訳知り中年がこのロードレースに参加する。雇われジョッキー以外はそれぞれ味のある人間ばかりで、抑揚の少ないレース展開にどうにか起伏をもたらすのは彼らそれぞれの演技である。
若造は馬のことは何も知らず蹴立てるだけだが、砂漠で一着の馬と競り合う場面は見応えがある。チェックポイント出立前に、係員から「馬に熱がある」と指摘されているので、いつ若造の馬が故障するかと思って見ているわけである。二頭の競り合いがスローモーションで描かれ、砂漠がまるで純白の雪のように見えるなか、騎手の息づかいだけが聞こえてくるという演出である。とうとう若造の馬は命尽き果て、倒れ込む。口から舌を出し、体には汗が固まって白蝋のようにこびりついている。ほかの乗り手の馬も白い汗が張り付き、とくに馬具との接触部分が顕著で、これは初めて見る映像である。


ハックマンは過去のある男という設定で、スペインと戦うキューバ人ゲリラの女を愛したことがあるという。女が敵につかまる。敵は陣地の前面に人の盾をつくったのだが、そのなかに彼女もいた。敵が撃ってくる。こちらも応戦しなければならないが、前面の捕虜たちに当たってしまう。すると、女が「アタック!」と声を立てる。彼は涙を飲んで敵へと突っ込んだ……それがバックマンの人間性の核となった体験のようである。過酷なレースを戦いながらも、女を助けたり、中年に手を貸したり、とにかくハックマンは善良そのものである。その彼が自分を評して「アメリカ人らしくない」と言うのだから、この映画はくせ者である。


ドンパチのほとんどない設定、馬への惜しみない愛情、異人種への配慮など、この映画はすでに往時の西部劇の規範を脱している。


33 「グエムル」(D)
これを見るのは2度目である。映画館で見て傑作ではないかと思った。今回もまたそう思う。「殺人の追憶」のボン・ジュノ監督である。「殺人の追憶」はもう10回近く見ているのではないだろうか。ぼくは友達などにこの映画の感想を、「韓国映画が邦画を超えた」と表現した。映画好きな友二人が大きく頷いた。その後、「オールド・ボーイ」を仰天、完全に日本を抜き去ったと思ったものである。
しかし、昨今の韓国映画には食指が伸びない。そもそも情報が入ってこない。ということは、日本を沸かせる作品が少ない、ということではないだろうか。


この監督はタイトルを出すところから芸があってわくわくさせられる。「殺人の追憶」でネズミ花火のようにモクモクと画面中央からハングル文字が湧き上がってきのたのには感心した。美しいなと思った。


米軍が漢江に捨てたホルマリンのせいで怪物が生まれた、という設定(これが隠れた主題である)があまり説得性がなく、その後に続く怪物登場シーンも意外なほど緊迫感がないのだが、次第々々に劇のなかに引き込まれていく。悲惨とユーモアがちょうどいい具合にブレンドされていて、その手練手管にまいってしまう。これだけの迫力のある映画を作りながら、うまい具合にギャグをはさむ天才性は端倪すべからざるものがある。


アーチェリー大会で緊張のあまり銅メダルに終わった姉、民主化運動に熱を上げたためにろくな就職ができなかった弟、幼児期にタンパク質が足りなかったためにおつむが足りない兄、賭け事やほかの遊びで家に寄りつかなかったために妻に逃げられた父親、そしておつむの足りない兄のかわいい中学生の一人娘。その娘が怪物に拉致されたのを家族総出で助けるのがこの映画の筋である。


たしかに一点に凝縮してぐいぐいと引っ張っていく映画ではない。そのために弛緩した部分もあれば、つなぎの悪い部分もある。しかし、そのダメ家族が自分の命を投げ出すことをまったく躊躇しないために、この劇は最後まで見ていることができる。なかでも探し疲れて、ある小屋で全員でカップ麺を啜るシーンが秀逸である。いないはずの一人娘が4人の輪の中に現れ、それをごく自然に受け入れて、父や爺や、姉が食べ物を食べさせる。ありえない映像だが、冒頭からのユーモアに慣れているので、まったく違和感がない。ぼくはこの映画はこのシーンを見るだけでも価値があると思う。
怪物の造形は、エイリアンを彷彿とさせる。写し方で大きな怪物に見えたり、意外と小さく見えたり、それはご愛敬である。


ゴジラ」が原爆の影を引きずっているように、このグエムルも何かの象徴である。そう考えるように監督がし向けているわけだが、あえてぼくはそれが何であるかを名指ししない。映画はもっと膨らみのある作り物だからである。



34 「Liesうそ」(D)
駅に設置のフリーペーパーで何人かの評論家が各自のアジア映画ベスト3を挙げていたなかの一作。ドキュメントを装いながら作り物であることも明かして進行する。20歳離れた男女の異常性愛を扱ったもの(男38歳、女18歳)だが、巻頭15分ほどで沈没、あとは早回し。ひたすらセックスをするのを見ているのはつらい。そもそも初めてのセックスで女性器をまじまじと見る男ってどんなヤツなのか。さらにそれを許し、アナルまで進む処女の女子高生というのがありえないだろう。


35 「ゴッドギャンブラー」(D)
これもフリーペーパーが薦めていたもの。巻頭10分で沈没。荒唐無稽にも流儀というものが必要ではないか。


36 「キムチを売る女」(D)
2005年の作品、監督チュン・ユリル。寡黙な朝鮮族の女(32歳という設定)と小さな一人息子、2棟で一軒の平屋に住む4人の売春婦が軸になって淡々と進む。女の夫は人殺しで服役をしているらしい。満州あたりから中国のどこかに流れてきたという設定か。女を助けるふりの男がみんな彼女の体を欲する。同じ朝鮮族の工員、結婚を控えた若き警官、工場で100人前の料理をつくる料理長。工員と情交を重ねるが、女房に露見し、娼婦だと弁明したことで、女房は女を警察に突き出すことに。その釈放の引き替えに警官は女の体を要求したらしい。


いくつもの短い、沈黙がちのシークエンスを重ねて、話は進んでいく。北野的と言っていいのか。ブルーを家の外装からさまざまなところで鮮やかに使っているところも北野的である。ほとんどラスト近くになって突然、救急車のシーンになり、線路際から誰かが運び込まれる。どうも子どもが死んだらしい。次のシーンは赤い人造花みたいなものを持って女がどこかから帰ってくるシーンである。火葬場にでも行ってきたのだろうか。
女はいつものように露天でキムチを売る。そこに警官とその恋人がやってきて、結婚式でキムチを用意してほしい、と頼む。女は引き受ける。キムチを作っている最中に、部屋の隅でネズミが死んでいるのに気づき、それを指で摘んで捨てにいく。あれほど毛嫌いして、子どもに捨てさせていたのに、である。その前に2度、子どもが死んだネズミを捨てるシーンがあるが、2度目は母親が警察から帰ってきた夜で、それも捨てたあとに自分で殺鼠剤を撒くことまでする。母親の男関係に不満をもっていた少年が、母親の代わりに敵(ネズミ=男)を殺そうとしたシーンである。
その後、女は結婚式用に作っているキムチにその殺鼠剤を入れる。これはカウリスマキの「マッチ工場の少女」を彷彿とさせるが、どちらもほとんど無表情で、人生に楽しいことは一つもないという顔をしているのが共通である。スマキの場合は必然性を感じた演出だが、この映画の場合、これをひたすらやりたくて映像を重ねてきたのではないか、という思いに囚われた。


結婚会場に急ぐ救急車、女は家に戻り、外にふらふらと出かける。前方にある貨車が動き出して死ぬのか、あるいは右手に走りすぎる貨車に飛び込むのか、と思っていると、そのまま駅舎を抜けて草原のようなところに出るところで映画は終わる。粒だった事件の起きない映画とすれば、こうとでもするしかないのかもしれないが、それにしても中途半端である。


非常に既視感の強い映画で、まるで北野映画や他の淡々系映画の手法を見せられている気になってくる。そういう意味では安易な映画だが、いくつか印象に残るところがあるので、最後まで見ていることができる。4人の若い娼婦の描き方がいきいきとしているのが、その一点。やっと買ってもらったテレビでアメリカ製アニメを見ている子どもからチャンネルを奪い、メロドラマに見入る4人。そこに母親がやってきて、後ろから写すのでテレビ画像が隠されるかっこうになる。体を売っている4人の女のほうがまだ夢を持ち、母親はすでにそういう位置から遠くずれていることが、このシーンから分かる。
4人が酔っぱらって、まず1人がいかにも中国風な歌をちょっと歌って画面右に消える、次は中国語だが仕草を見るとラップを歌っているようだ。これも短く歌って右に消える。次は何? と思うと両手をクラシックダンスのように組んだ2人が互い違いに顔を左右に振る仕草をさっとやって、右に消える。ちょっとだけ挟まれたこのシークエンスが際立って面白い。ほかがほとんど静止画像に近い処理なので、よけいに動きとテンポの良さに引き込まれるのだ。



もう一点、母親の朝鮮への帰属意識の問題がこの映画では重要なモチーフになっている。彼女は事あるごとに、中国で育った子に朝鮮語を教えようとしている。しかし、警察から帰ってきたあと、もうやらなくていい、と言い出す。彼女の絶望の深さを思うべきだろうが、映画はあくまで淡々である。子どもはあとで、「前の家にいつ帰る?」と訊く。母親が戸惑っていると「そしていつ戻ってくる?」と子どもが言う。これで彼女の故郷回帰幻想は吹っ切れたようである。



ぼくはキム・ギドクの「サマリア」を見たときも北野映画の影響を強く感じたものである。説明の要らないものは説明しないというのが北野流だが、それは映画の膨らみをそぎ落とすことにも繋がる。ほとんどの映像が“その前”か“その後”しか写さないために、映画に躍動感が出てこない。小津がその代表選手みたいなものだが、たとえば妻の不倫の現場は絶対に写さない。その前後のサジェスションはさすがにやるが、そのものずばりはやらない。暗示に留めるのである。
北野映画が袋小路に入ったように見えるのは、この要因が大きかったのではないか。ぼくはタケシに2ビート全盛時代をスピーディなタッチで撮ってほしかった(過去形である)が、叶わぬ夢である。漫才こそ、“その渦中”が大事だからである。
もっと映画は饒舌であっていいのではないか。
もっとエンタメであっていいのではないか。


37 「アニー・リボビッツ」(D)
女性写真家を扱ったドキュメントである。デミ・ムーアの妊娠ヌード、着衣のヨーコに蝉の抜け殻のように張り付くヌードのジョン、スワンの首を自分の首に巻き付けたデカプリオなどなど、あああの写真の……と思い出す写真家である。「ローリングストーンズ」誌の写真家として活躍し、そこから「ヴァニティフェア」や「ヴォーグ」などで多数の有名人を撮ったが、もともとはスモールカメラで市井の人々を撮るのが本流のようである。
スーザン・ソンターグの恋人となり、一緒に戦禍のサラエボに出向いて、その映像を写してもいる。
彼女の尊敬する写真家として2人の名が挙げられていたが、ブレッソンともう一人の名前が浮かんでこない。たしかに構えない、普通の人々の何気ない様子に“詩情”を感じさせるところが、彼女好みかもしれない。
その彼女、50歳にして養子4人(?)を取り、それを生きる支えにして仕事に励んでいたようだ。07年に没している。


38 「オールド・ルーキー」(D)
エデンより彼方に」のデニス・クエイドが出ている。「エデン」では自分の同性愛嗜好におずおずと気づいていくエリートビジネスマンを演じていた。こめかみに血管が浮き出た、太い首がいつも血流を止めているような、眼を剥いた男という印象である。
米軍の事務方であっちこっち転勤する父親は、息子クエイドが野球が好きなのを快く思っていない。やっと地元チームにとけ込めたと思ったときに、また別の地へと転勤する。息子はその地に留まっていたいと申し出るがあっさりと否定される。一度はプロの世界に入るが芽が出ず、テキサスの田舎の高校教師になる。彼と父親の心理的な確執がこの映画の核になっている。


クエイドが率いる野球チームのダメ生徒たちが、地区優勝したらもう一度プロに挑戦してほしい、と彼を煽る。最弱のチームがウソのように優勝し、先生は約束通りトライし、158キロの球を投げて合格。あとはサクセスストリーである。
彼が自分の球のスピードを測るシーンが面白い。道路に設置されたスピード計に気づき、球を投げる。すると76マイルと出る。120キロぐらいか。ところが古い計器で、点描の一部がやや遅れて点灯する(7が9になる)。すると96マイルの数字で、158キロである。彼は投げた球を拾いに行っていて気づかない、という設定がいい。


野球映画では必ず過酷なバスでの移動シーン、メジャーとマイナーの待遇の違いなどが描かれるが、この映画もその伝に洩れない。向井万起夫さんは大の大リーガーファン、彼は野球映画の主人公を演じる役者が、本当に野球がうまいか下手かを判断できる、と言っている。具体的な名を忘れたが、コスナーは下手だとたしか書いていたように思う。
この映画の子役がすばらしい。とくに長男、といっても5、6歳か、演技に余裕を感じるほどで、大したものである。トム・クルーズ「エージェント」の子役は天然の凄さだったが、この子は若年にしてすでに名優である。



39 「パッセンジャー」(T)
アン・ハサウェイ主演、「プラダを着た悪魔」に出ていた目の大きな子である。飛行機事故の生存者の心理的なケアをする精神科医の役で、サバイバーの証言に異同があったり、途中で姿を見せなくなる人間がいたり、航空機会社が何かを隠そうとしているのではないかと疑いはじめるが、意外な結末が。最近のアメリカの女優さんは、ティルダン・スウィントンをはじめ何か神経質が顔に出たようなひとが多いように思うが、このひともその感じ。



40 「梅蘭芳(メイランファン)」(T)
覇王別姫」のチェン・カイコー監督で、扱っているのも同じ京劇である。京劇がいかに民衆に愛され、中国人の魂の拠り所になっているかが分かる。扱っている時代も両作とも同じである。ただ、出来は明らかに「覇王別姫」のほうがいい。まるでギリシャ悲劇のような格調の高さがあったが、今回の映画はやたらセリフが多く、しかも人物描写に入り込みすぎているように思う。それだけに鷹揚な、ゆったりとした雰囲気が無くなっている。


主人公が途中で違う役者に変わるのは違和感がある。しかも、はじめ同一人物と思わず見ていると、実は役者が変わったのだと気づく。ぼくは若きメイランファンを演じた役者で押し通すべきだったと思う。それと、妻がありながら恋人のもとへ走ったメイを引き戻そうと、兄代わりの人物が暗殺者のような人物を差し向けるが、最初はなぜこの女装の男が出てきたのか、突然なのでよく分からない。あとで兄代わりの人物の仕業とわかるのだが、それにしても不自然な演出である。
日本軍が押し寄せてきたあとの進行も、何かもたもたしてうまくいっていない。メイの首を軍刀で斬るようなまねをして脅す上級軍人が出てくるが、「お前を殺せないとでも思っているのか」式の言葉を言うのだが、そんなことを日本軍人が言うだろうか。若い将校で京劇を愛し、できればメイを助けようとする人物が出てくるが、いま一つこの人物の造型がよく分からない。


メイはNY公演もやった人物らしい。しかし、ぼくは京劇のよさがまったく分からない。中国の魂だからメイを味方につけないかぎり、日本の占領は不完全だ、式の言葉を発するのが、先に触れた若き将官だが、歌舞伎以上に形式張っていて、感情移入は難しいように思うのだが。


チェン・カイコー監督はハリウッドに行ってハリウッド的な映画を撮った人だが、自らはそれを失敗だと総括している。その自分に比べてメイランファンの潔さよ、と賞賛する。ぼくは同監督の「北京バイオリン」のような小品を好む。いまの中国がいかにも自然に活写されていて、好感である。ジョン・ウーはさらにも増してハリウッド的な映画を撮っているわけだが、土着の根を離れた芸術家、あるいは土着性を脱ぎ捨てた芸術家とは、そもそもどういう存在なのか。映画で言えば、ハリウッド的に分かりいい、大仕掛けの、荒っぽい映画を撮ることが脱土着ということになるのだろうか。それはアメリカ人に任せておけばいいのではないか、と思うが、本拠地で自分の映画作法が通じるか試してみたい、という野望を留めがたいということか。映画も文化を引きずっている以上、この種の根の移し替えの問題がつねに横たわっている。ピカソは最後までスペイン人だったのか、という問題である。


41 「ワルキューレ」(T)
ヒットラー帝国壊滅のほぼ2年前、大がかりな爆殺、転覆計画があって、その作戦が、“ワルキューレ”というSS鎮圧の特別命令を発動させることで成就しようというものだったことから、このタイトルがある。主演トム・クルーズである。あれだけナチを問い詰め、国防軍はそれほどユダヤ人殺戮に関与していなかったという言説さえ封じ込めようとした戦後ドイツが、自分たちにだって多少の良心があったとするこの映画は、ある意味、非常にエポックメィキングだと思う。ユダヤ資本のハリウッドがなぜこの映画制作を黙認したのか。何か決定的な変化が起きているのか。
それにしても、それほど大きくもない会議室で爆弾を破裂させながらヒトラーを軽傷で終わらせるとは、なんと殺傷力の弱い爆弾を使ったものである。それが当時の技術的な限界なのか、そこが分からない。映画はそれなりに見ていることができる。
The Zookeeper's Wifeという本に、この反ヒットラーの蜂起について触れた箇所がある。この作品はポーランドユダヤ人救出を行った動物園管理人夫婦のことを記したものだが、爆殺失敗の噂が流れて、ドイツ兵たちにパニックが広がり、あちこちで逃亡や現場放棄が起きたと書かれている。映画ではそれについてはまったく触れていない。


42 「かけひきは恋のはじまり」(D)
ジョージ・クルーニーの監督第一作だそうだ。原題はLeatherheadでフットボールのギアが皮だったことからの命名で、プロフットボールの初期の頃の話である。といっても1920年代である。いまの隆盛から考えれば、ほんのちょっと前までマイナーなプロ競技だったとは信じられない。それにしても邦題がひどすぎる。


カーターという超人気大学生スターをプロに引き込むことで、まったく人気のないプロの世界を活性化させようとするのがクルーニーである。そのカーターは戦場で仲間を救った英雄ということになっているが、実は酒と疲れで寝過ごしたために敵陣まっただなかで目を覚まし、思わず「降伏!」と叫んだところ、それにつられてドイツ兵も降伏したというのが実情である。その事実を暴こうと乗り込んできたのがシカゴ・トリビューンの女性記者レニー・ツェルウイガー。クルーニーはこの映画を撮るなら彼女を、と思っていたという。
しかし、そのレニーがちっとも美しくないのである。31歳という設定にも無理がある。ここしばらくのレニーはまったく美しくなく、何か方向違いに進んでしまっているのではないかと思わざるをえない。「エージェント」「ナースベティ」のころの彼女が懐かしい。「シカゴ」でもそうだったが、あまり化粧を濃くすると彼女らしさが出てこない。
映画自体はそれなりに楽しく見ていることができる。ある程度、役者をそろえて(人気スターのカーター、それのスポンサーの2人がいい)、そこそこ面白いテーマなら、ずっとクルーニー監督でやっていけるのではないか。イーストウッドの例もあることだし。


43 「ネバーバックダウン」(D)
いやぁ面白かった。バットマンクリスチャン・ベイルに似たシーン・ファリスという青年が主役、恋人がアンバー・ハート、この子が可愛い。敵役ライアンがカム・ジャンデット、なかなかいい味である。マーシャルアーツの師匠がデジモンホーソン、サミュエル・ジャクソンをもっと東洋系に寄せたような顔をしている。監督ジェフ・ワトロウ、脚本クリス・ホーティである。


酔った父親がクルマを運転するのを止めなかったために、事故死に至らしめたと罪の意識をもっているジェイク。弟がテニスの奨学金を得たので、それに合わせて転居することに。フットボールの最終試合で相手チームの一人を殴りつけた映像がネットで流れて、次の学校では彼の話で持ちきりに。クラスで知り合ったバハという女の子からパーティに誘われ、そこで父親に対する侮辱を受けて試合をすることに。徹底的に痛めつけられたために、道場に通って修行をすることに。


そこの師匠は、天才的な格闘家の弟と一緒に飲みに行き、絡んできた相手を弟が倒したものの、外から戻ってきてピストルで撃たれた過去をもつ。以来7年、父親とは断絶状態である。それは父親から「2人の息子を失った」と言われていたからである。そういう師匠なのでジムの外で戦うことを厳禁する。しかし、ジェイクは親友マックスをボコボコにされたことでビートダウンという地下格闘技でライアンと闘うことに。師匠は当然止めるが、人には大切な価値のために闘わなくてはならないときがある、とジェイクは師匠を説得する。師匠は、勝つか負けるかは、おまえ次第だと送り出す。


筋を言えば、これだけのことだが、ジェイクと彼女の関係、ジェイクと母親、そして弟との関係、ジェイクと師匠の関係などが非常に丁寧に撮られていて、納得のいく展開になっている。ライアンに勝ったあと、2人には何のわだかまりも残っていない様子も映される。すべてが必然の運びになっていて、まったく違和感がない。


この映画はおススメである。ぜひ2も作ってほしい。


44 「もず」(T)61年
文藝座「淡島千景」特集である。渋谷実監督、水木洋子脚本。淡島は小料理屋の酌婦で50歳近辺、その娘が有馬稲子で、長く母子は離ればなれだったが有馬が田舎から母を訪ねて出てきたところから話は始まる。淡島がはすっぱな生き方を捨てて、娘と同居を始めるが、いろいろといざこざが絶えない。そのうちに脊髄脳症という病で死んでしまう。その間の母子の葛藤を描いたものだが、なにせ淡島に大きな娘がいるという設定が気にくわない。感情移入ができないのである。映画も2流なので言うこともないが。


45 「母のおもかげ」(T)59年
これも淡島特集。清水宏監督、根本淳が共演。再婚同士だが、根本の一人息子がなかなか新しいお母さんになじまないことで事件が起きるが、結局は新しい母を受け入れるというものである。出来は上々で、名作とはいわないがもっと喧伝されていい作品である。子どもの描写に冴えがあって、根本も息子も淡島の小さな娘も立派な演技をしている(実際、子どもの描写がうまいことで清水監督は定評があったようだ)。新ママに甘えられない少年は、部屋にかかっている母親のカーディガンの腕を引っ張って、「かあちゃん」と甘えるシーンはちょっとやり過ぎだが、ユーモアがあって救われる。とにかくこの疑似家族を囲む人間たちが善人ばかり、それも芸達者ばかりなので、この映画はじっと見ていることができる。
初めての見合いのあと、淡島と根本の2人は寄席にいき、ひとつ袋から豆を食べながら、林家三平のざれ言に笑い興じるシーンがあるが、まったく高座の三平を写さないのはなぜなのか。2人の親密な感じが薄れるというなら、もっと無名の落語家の声だけにしとけばよかったのではないか。
根本が渡し船の操舵手という純朴な役を力の抜けた感じで好演している。


小林信彦御大が文春で淡島の本『女優というプリズム』を読んだと書いていた。御大も淡島ファンで、原節子と同じでバタ臭いのがいいんだそうだ。それで小顔なのが、日本の女優のなかでは際立っていたとか。原節子と淡島を一緒にする美意識がぼくには不可解だが。あのいたずらそうな目と、上を向いた鼻がたまらない。「夫婦善哉」で共演するのに、森繁が手紙で「この映画で男にしてくれ」と書いてきた、と本に記しているそうだ。



46 「トップハット」(D)35年
フレッド・アステアジンジャー・ロジャース物なので、その項に譲る。


47 「大阪物語」(D)
吉村公三郎監督、脚本が依田義賢で原作が溝口健二で、元ネタは井原西鶴である。年貢が払えず逃散した一家の主が中村雁次郎その妻が浪速千栄子、娘が香川京子、息子が林成年。大阪に出て米問屋の米俵のまわりに落ちる米を拾って金を貯め、やがて大店になるが、かえって金の亡者、極端な渋チンになり、子どもの離反にあう。よくあるパターンの原型みたいな話である。
市川雷蔵がいとはんと恋仲になる手代の役で出ているが、あまり色男ではない。勝新太郎がそのいとはんが政略結婚させられそうになる「あぶみ屋」の若旦那で、雁次郎の息子吉太郎を遊郭の遊びに誘う役である。その吉太郎のお相手の遊女が中村玉緒で、実の父親、のちの夫との共演である。
取りたてて言うこともない映画だが、雁次郎のケチさに惚れて息子の縁談を進めようとするのが「あぶみ屋」の三益愛子で、2人のケチ比べがユーモアを添えている。


西鶴が人間のあからさまな様子を描いたのは、それだけ江戸時代の人々が経済に振り回される存在になっていたからであろう。きれいごとを書いても読者の支持を受けないと分かっていたわけだ。しかし、映画のラストに用意されたのは、やはり人間性の大切さみたいなもので、これでは予定調和でしかない。ぼくは成瀬の映画「娘・妻・母」を思い出す。母親を囲んで幸せそうな家族が、ひとたび一角が崩れると、露骨に経済の話になってしまう(具体的には誰が厄介者の母親を養うかということ)様子を描いている。多少の救いは用意されているが、その視線は格段に近代のものである。この「大阪物語」はそういうことを考えさせられた映画である。


48 「早春」 49「麦秋
小津作品なので、そちらに。


50 「稲妻ルーシー」(D)
佐藤仁美が主演なので借りたが15分で沈没。彼女があまりにもかわいそうだ。


51 「ブルースカイ」(D) 52「晴れて今宵は」(D)
どちらもミュージカルなので、その項に譲る。