2012年の映画

kimgood2012-01-05

また年が明けて、どんな年にしようかと思う。談志が亡くなって、フアンでもないのに妙にさみしくなって、CDを3枚格安で買った(「源平合戦」が唸る。「芝浜」はいろいろあるらしいが、それほどいい話か?)。いずれDVDも安いのがあれば手に入れよう。浅草、池袋にも通うつもり。映画は、目がだいぶ悪くなってきたので、これも小屋で見ることが多くなりそうだ。小説はジョン・アービング(「ホテル・ニューハンプシャー」を読み始める。冒頭から家族で性の話をおおっぴらにやるのには魂消る)と三浦哲郎(とうとう「忍ぶ川」を読み始めるが、通俗ではないかと読まずにいたのだが、やはり微妙である。連作のかたちで、出来にバラつきがある。あとで、調子を整えてみたら、どうだったのだろう)、そして安岡章太郎で数年はもちそうだ。三浦は古本屋の棚一つ分を格安で買い、そのあとも目に入れば買っている。できれば三浦論を物してみたい。安岡は全集があるし、アービングは原作で読むからハカがいかない。アービングの自伝から好きな一文を拾う。彼がレスリングのコーチから言われた言葉である。That you're not very talented needn't be the end of it.(才能が豊かではないからといって、終わりというわけではない)。確かにそうである。希望をもって前に、ということである。
今回から良かった映画に★を付けることにする。

1 ロボジー(T)
「スイングガール」の矢吹史靖(しのぶ、と読むらしい)監督で、珍しく試写を見に行った。ミッキー・カーチスが芸名五十嵐信次郎名で主演している。白物家電の会社がどういうわけかロボット開発を始め、どうしてもうまくいかず中身を人間にしてごまかす、という話である。予定調和的な進行なので別に言うこともないが、最後に面白い仕掛けがある。カーチスのとぼけた時の演技が、誰かに似ているのだが、思い出せない。ラストに流れる彼の歌は迫力があり、それくらいのパワーで演じる他の新作を見てみたい(洋楽のカバーのようである)。雑誌で内田樹と町山智宏が2011年の映画について往復メールをした中に、高齢者パワー炸裂の映画はできないかと述べている。ヘレン・ミレンリーアム・ニーソンの名が上がっている。同感である。


2 永遠の僕たち(T)★
ガス・バン・サント監督の項へ。


3 復讐捜査線(D)
原題はEdges of Darkness「闇の鋭角」ぐらいの感じ。ひさびさに見るメル・ギブソン大先生である。皺が夜叉のように彼の顔を覆う。何の記事だか読んでいるときに、彼をからかう箇所が2箇所もあって、ギブソンは何かと目立つ存在らしい。この映画は企業犯罪ものだが、刑事ギブソンを敵に回したのがいけなかったというお話である。彼の娘が研修生として勤める民間研究会社は、実は防衛省幹部と結託して核兵器を開発し、よその国製として偽装し、輸出している。それを暴こうとして娘は殺され、当然ギブソンは復讐に立ち上がる。途中に癌を患った殺しのプロが登場するが、最後になるまでこの男は行動を起こさないので、何で出てきたの? という疑問がずっと続くことになる。レイ・ウインストンというよく見る脇の役者である。殺し屋が宿痾に気づき、善人に立ち戻るという設定は、ほかの映画でも見ている。警察の規則によれば、ギブソンは身内の事件に関われないらしいのだが、まったく彼はフリーで行動する。はて? である。娘役がボジョナ・ノバコビック(発音は適当)で、可憐な感じである。それよりも、少女時代を演じた子がとても可愛い。中でギブソンが、戦争後遺症などウソだ、恐怖心など自分で克服すべきことだ、と大胆なセリフを言う。おいおい、である。こういうところがギブソン御大がからかわれる理由かもしれない。「マッド・マックス」や「リーサル・ウェポン」の頃が懐かしい。


放射能被曝を扱った映画で、もし今年公開されていたら、物議を醸したこと、確実である。しかし、被曝で鼻から血が出るというのは、ある話なのだろうか。


4 サイレンサー(D)
ヘレン・ミレンキューバ・グッディング(トム・クルーズ「エージェント」の唯一のクライアントのアメフト選手)が主演の殺し屋もの。映像をきれいに撮ろうとしていて、それはそれできれいだが、映画の展開が悪すぎるし、筋に無理がありすぎる。ミレンが脱ごうとする意欲は買いである(御年60歳の時の作品。今年67歳)。久しぶりに早回しで見てしまいました。


5 哀しみの獣(T)
かなり客が入っていた。中国延吉地方にいる朝鮮族の男は妻を韓国に送るのに借金をし、その妻は帰ってこない。借金を返すことができると、ミョンという男に韓国での殺人を頼まれるが、妙な行き違いが起きる。彼は中国にも戻れず、探していた妻は殺されているらしい。2つの組織から追われ、警察からも追われる。ナタ、マサカリ、包丁が武器で、拳銃が出てこない。ミョンという男は不死かと思うほどのモンスターである。なぜ行き違いが起きているのかよく分からぬままに、陰惨な殺しの場面が続く。船中の格闘シーンで、敵が一列になって次から次と襲ってくる場面は、明らかに「オールドボーイ」へのオマージュであろう。パク・チャヌクの「殺し3部作」も陰惨だったが、これは度を超している(原子温の「冷たい熱帯魚」には敵わないが)。


それにしても血、血である。漫画家の根本敬氏は韓国人はワイルドさ、いい加減さが魅力で、韓流ドラマに登場する人物たちとまったくイメージが違うと述べている。なにせ家族でキャバレーに遊びに行き、子どもがそばにいるのに店の女の子の体を触るお父さんがいるとのこと。安いからと家族旅行の泊まり先をラブホテルにし、持参のコメを炊く家族もいる、と根本氏。そういう話を読めば、なぜかこの種の映画が出来てくる理由も分からないわけでもない。

主人公をハ・ジョンウ、ミョンをキム・ユンソク(この役者がいい)、会社社長がチョ・ソンハ(この役者もいい)、監督・脚本がナ・ホンジンで「チェイサー」を撮っている。韓国の役者の名前が覚えにくい。あとで確認をしようとしても、役名が分からないと調べられないことが多い。IMBのような顔写真付きのデータベースのしっかりしたものを韓国映画ばかりか日本も早急に作ってほしい。


社長の愛人の裏切り(この愛人はエロティックである)、主人公の妻の二重の裏切り(あとで違う展開になるが)と、男を暴力に駆りたてるのが愛する女の裏切りという設定である。その悲しみは痛いほど伝わってくる。できれば、暴力なしで、そのよんどころのない様を描いて見せてほしい。途中で筋が分からなくなるのは、ハリウッド的である。


6 ミッション・インポッシブル4(T)★
息継ぐひまもなく、次のアクションが始まる。掌にじっとりと汗が滲む。余計な筋を持ち込まないで、すっきりしているのがいい(舞台をインドに移した理由がいま一つ分からないが……)。


重力を制御するツールとか、垂直の壁に張り付く手袋とか、あれこっちの方向に行くの? という危惧が少しある。でも、言うことないなぁ。


主人公イーサンは妻をこよなく愛していて、これはかつての007やナポレオン・ソロジェームス・コバーンの電撃フリントなどのスパイ物とはまったく違う。美女とアバンチュールというのが一つの見せ場になっていたからである。MIで踏襲されているのは、エキゾチックなロケーションとそこで展開されるゴージャスなパーティといったところか。分析官役のジェレミー・レナーは「ハート・ロッカー」の主役(『俺たちに明日はない』のマイケル・J・ポラードに似ている)、監督ブラッド・バードで元アニメ監督らしい。殺し屋の女モローがリー・セイドクスという女優で魅力的、フランス・パリの生まれである。ミッドナイト・イン・パリスというのをウッディ・アレンで撮っているようだ。フランス映画で危険な妖精的な映画もあるらしいが、彼女にぴったりの役ではないかと思う。


7 殺人の追憶(D)
また見てしまいました。何度見ても飽きない。もう5回ぐらいか。あまり新しく気づいたことはないが、最初に畑の側溝のコンクリート管の中の死体を確認するシーンで、ませガキが刑事ガンホの口マネをする。そのユーモアが全編に溢れているのだが、真犯人と覚しき人間が見つかってからは、ユーモアが影を潜めていく。韓国映画にある深刻な中のユーモアは得難い資質ではないかと思う。これはまじめかおふざけ一辺倒の日本人にはマネのできないことではないか。刑事が容疑者を次々呼んで、事情聴取をするのが次の場面。タイプを打ちながら調書を作るのだが、あまりに下手なので容疑者が手伝ったりする。容疑者の写真をインスタントカメラで撮るが、目をもっと開けろ、とある男に言う。埒が明かず、「なんだそういうちっこい目なのか」と言う。そこに出前がやってくるが、あれだけ言ったのに領収書を持ってこない、と怒るシークエンスが挟まれる。この猥雑で、生き生きとして、ユーモアがあって、というのが韓国映画の醍醐味ではないか。


もう一つの発見はガンホが身が軽く、ヒョンと飛んで相手の胸を足蹴にするシーンがあることである。もう一人の刑事は何回もそれをやる。やたら人を足蹴にするが、日本では北野武が始めたことではなかったか。ガンホは短大出で、相方は高校出(?)という設定で、その相方が「4年制大学では男女は乱交をしているのだろ?」とガンホに聞く場面がある。ガンホはソウルからやってきた刑事に聞け、といなす。このあたり、地べたに張り付いたような地方刑事の在り方をあざといほどに演出している。


ガンホの恋人役の女優がチョン・ミソンで、その後「トンマッコルへようこそ」で見ている。どう表現していいのか分からないが、ぼくの中ではこの人が韓国女優の代表的な(平均的な、という意味)顔のような気がする。「シークレトサンシャイン」の女優も、「オールド・ボーイ」の女優も、「哀しみの獣」の妻も愛人役の女優も、みんなぼくにはその手の顔に見える。日本でいえば酒井和歌子の顔がそれに近いかもしれない。


8 絵の中のぼくの村(T)
原田美枝子特集である。監督東陽一、脚本同及び中島丈博で96年の作。イラストレーターの田島征三、征彦の双子の少年時代を扱ったものである。母親役が原田美枝子、父親に長塚京三である。高知の山深い里での日々をユーモラスに綴るが、そこには被差別の子へのまなざしもある、原田は教師、長塚は教育委員会の人、という設定である。原田は、我が子の画才を認め、えこひいきと言われても県展に出すようなことをする。兄弟が性的な興味を抱くと、きちんとお風呂で教育をする。当然のごとく裸である。


人と平等に接することを教える母親だが、センジという子だけは家に入れない。被差別ということだろうが、深くそれを掘り下げるということはない。原田美枝子という役者さん、改めて敬服。シェイクスピアマクベス」のごとき老婆3人が、村のすべてのことを見通している役回りで、木の上などから世俗を眺めている設定が面白い


9 愛を乞う人(T)★
やはり原田美枝子で、監督平山秀彦でぼくは「しゃべれどもしゃべれども」「必死剣 鳥刺し」「学校の怪談1」を見ているだけである。98年の作で、当時、とても評判になったが、見ていなかった。


原田は母親に虐待を受け、高卒後、出奔。いまは子どもが一人いる(ステレオタイプの描き方だが、この女優野波麻帆には力強いものがある)。死んだ台湾国籍の父親(中井貴一)の遺骨を探して、台湾にまで足を伸ばす。その間に、自らの母親の虐待の様子が描かれるのだが、そのむごい母親役をやっているのも原田である。声の出し方、子どものなぶり方、堂に入ったものである。台湾人の夫に去られたあとは、気弱そうな男のところに子ども2人を連れて転がり込む生活である。しばらくは国村隼が演じるニセ傷痍軍人の元に身を寄せる。この国村がいい。虐待が始まると「顔だけはぶたないでくださいね」と小机を片付けにかかる。


最後、2役の原田が出合うシーンがあるが、どうしても、うまく撮せるだろうかと関心がいくぶん、映画の興趣が削がれる。遺漏無く撮しているとは思うが。夏木まりの老婆で「パーマネント野ばら」を見ているぼくとしては、その店の構えからしてこの映画のパスティーシュではないかと思う。


台湾での探索行も実にたっぷりと時間をかけて撮っている印象がある。この監督、悠揚迫らず、といった形容がぴったりかもしれない。台湾の日本語ができるタクシー運転手が味わいが深く、だじゃれも言うし、短歌も詠むし、歌も歌う。このキャラクターを出す出さないで、この映画はだいぶ違ったものになったろうと思う。


原田の少女役をやった子も実にいい(3人いて、10歳児の子がいい)。それにしても、原田がとにかくすごい。彼女の映画を少しずつ探っていってみよう──そういう気を起こさせる女優である。いじめ役といじめられ役を同じ訳者にやらせようとは、平山という監督、なかなかのものである。


10 J・エドガー(T)
イーストウッド最新作、FBI長官フーバーを描いたもの。8人の大統領のもとで権力を握り続けた男、というのは知っていても彼が、生涯妻を娶らず、ゲイの親友(副長官に任命)がいたとは……。敵の情報を掴み、追い落としにかける男に、当時とすれば、最大のタブーがあったというのが驚きである(なぜ彼の敵対者はそれを暴かなかったのか?)。女性からダンスを所望されたときの慌てよう、嫌悪感の表出、そしてその後、母親からダンスをしずしずと教わるシーンの言いようのない哀れさ。ディカプリはこれで主演男優賞を勝ち得るのではないか、そういう演技である。時にフィリップ・シーモアを思い出させるが。(後述:アカデミー賞にノミネートもされていないという。小林御大が憤慨なさっていたが、ぼくは『ミリオンダラーベイビー』よりこっちを買いますがね)


11 グレングールド(T)
アップリンクという渋谷の小さな映画館で、初めてである。30人ぐらいの席だろうか、ほぼ埋まっている。グールドの映像は前にテアトル東京で見た記憶があるが、それに似たコロンビアでの録音風景などの映像が出てくるが、これは等身大のグーグルを扱って印象的である。女性との付き合いも普通だし、コンサートを止めたあとのラジオ番組制作などでペトウラ・クラークをフューチャーしたり、当たり前のグールドがいる。ぼくは彼の音楽のどこが革新的だったのかは知らない。バッハを分析、分解し、それを別のものに組み立て直したのだというのが、映画で語られる彼の革新性だが、だからといって今まで聴いてきた彼への姿勢が変わるわけではない。いい音楽をただ聴いているだけである。


12 ハゲタカ(DL)
冒頭のシーンがセピアで、なかなか風情がある。畑に大人も子どももいて、何か白いものを撒いている。灰かもしれない。どこか日本風でもあり、そうでもない雰囲気もある。そこにクルマが疾走してくる。場面が変わって中国語が聞こえてくるので、さっきの映像は中国の風景だと知れる。


あとは中国政府がバックについたファンドが日本のクルマ会社を買い付けようとするのを、かつて“ハゲタカ”と呼ばれた和製ファンドが阻止する話が続くが、まるで面白くない。主役の中国残留孤児を演じた役者が作り物めいているのと、ハゲタカの親分も演技が下手で困ったものだ。


13 アジョシ(DL)
また見てしまいました。これはやはりよくできた映画です。前に気付かなかったことに触れたい。


まず臓器を摘出するマッド・ドクターを演じているのが、「哀しき獣」の悪党である。へえ〜である。


それと、この映画は「レオン」を下敷きにしている感じがする。レオンは恋人をその父親に殺され、復讐したあとアメリカにやってきた、という設定。この映画では、主人公は元特殊工作員で、その戦いの技量のすごさはレオンの同類である。彼は身重の妻を殺されるが、これもレオンと相似である。失意のもとに質屋を営んでいて、ほぼ食料の買い出し以外に外に出ることがない。これもレオンを踏襲していて、レオンは仕事で外に出る以外は室内で過ごす。アジョシの生活にあるただ一つの潤いが、同じアパートに住む少女である。これもレオンの引き写しである。彼は少女好きの性倒錯者ではないかといわれるが、そのへんのニュアンスはレオンにもある。あと、レオンでは少女の復讐劇にレオンが力添えをするが、アジョシでは拉致された少女の奪還が主題で、ここらあたりは趣向が違っているが、少女を助けるニュアンスは同じである。


違いを言えば、レオンにあるユーモアの感覚がまったくアジョシにはない。韓国映画には陰惨なテーマでも妙なユーモアがあるのだが、この映画にはそのかけらもない。あるとすれば、アジョシを追う下っ端刑事の中にそれ風の遊びがあるくらいである。


アジョシで特筆すべきは悪役・脇役の良さである。悪の主役のマンソク兄弟が実にいい。とくに弟はちあき・なおみと結婚した郷瑛治に似ていて、独特である。それとベトナム人の殺し屋を演じた男もいい。非情でありながら、戦う男して強い敵には敬意を払う。人で群れるダンスフロアでアジョシと対峙したときに、額の傷から出た血を指先に付けるシーンがあるが、あれはブルース・リーへのオマージュであろう。脇では麻薬課の刑事がいい。常に余裕があって、しかも辣腕である。最初はアジョシを追うが、取り逃がしたときもニヤついているのがグッドである。3度見ても、筋のよく分からないところがあるのは、やはり欠点として指摘しておくべきだろう。映画を見ている間も、妙な負担感がある。


14 閑話休題
たまたま「映画芸術」などというマイナー雑誌を買ってしまった。そこで昨年のベストとワーストをやっていて、園子温の「冷たい熱帯魚」は両方でランクインされている。しかし、三谷幸紀「ステキな金縛り」はワーストだけの、それもトップクラスである。映画になっていない、との評が多く、松本人志の「さや侍」も同じ扱いである。三谷作品のひどさは何度か前に触れているが、原作・脚本を書いた「笑いの大学」以後、見ていない。なかに昨年はドキュメントがよかったと言う人がいて、これも我が意を得たり、である。みんな考えることは同じである。岩井俊二の「東京公園」の評価が高く、この作品の存在さえ知らなかった自分が恥ずかしい。岩井作品はほぼ全部、見ているのに、である。どこかに情報収集の穴が空いているようである。


映画プロデューサーの対談も出ているが、「殺人の追憶」のような映画を撮ってもいいのだというので、「告白」ができたそうである。興行成績がよかったらしいが、ちょっとレベルが違いすぎである。


15 一命(T)
また三池のリメイクものである。上記雑誌ではワースト欄を飾っているが、元がいいので、この映画も見ていることができる。でも、海老蔵が主人公はないだろう。酔って人を殴っての記者会見での、あの白々しい口調のままである。声を張るのは、遺恨の一部始終を語ってからだが、ずうっとふわふわした発音と発声に付き合うのはしんどい。満島ひかるが娘の役だが、かわいそうなくらいに生彩がない。青白く撮すとほとんど幽霊である。敵役の役所弘司がいい。声がいい。片足が悪い、という設定は三池の癖玉みたいなもので、好感である。「十三人の刺客」の冒頭に手足を切断された女が出てくるが、あれのノリである。役所の膝に白い猫が座るのは、007のマネか(悪者スペクターの首領がペルシャ猫を抱いている)。中庭(?)で役所の背に家紋のばかでかいのが見える。左にパンするとまたそのでかい家紋が。さて、これって考証は合っているのかしら。


瑛太が病気の子のために狂言切腹に行くが、それを見抜いてむざむざと自害させ、しかも最後の嘆願に3両欲しいと言っても聞かない──それを義父の海老蔵が断罪するのだが、では藩はどうすれば良かったか。狂言と分かった時点でただ追い払うか、窮状を聞いて多少の施しをするか。温情の一つも欲しい、というのがこの劇の言いたいことだろうが、では狂言切腹自体に問題はないのか。瑛太は、諄々と金品が欲しい理由を訴えるべきだったのではないか。それではただの物乞いになるから、切腹をダシにするわけだが、言いがかりを付けられた藩とすれば、見せしめにして後顧の憂いを断とうと考えるのはありであろう。なぜこれが解決がつかないかと言えば、問題の行き場がクローズドになっているからで、職を失った侍を救済する制度を作れと申し出る場所がないからである。身分制がはっきりしているということは、一度、そこから落ちたら行きようがないということである。山本周五郎に「畜生谷」という作品があるが、武士が被差別に身を落として、そこの救済に当たろうとする話である。その覚悟は、瑛太にも海老蔵にもない(歌舞伎の歴代の市川團十郎を扱った本によれば、零落した武士が歌舞伎の世界に入ったのは、身分制の外にあったからだとする。いくら墜ちても商人の下とは見られたくないということである)。


16 ペントハウス(T)
アクション・コメディとも称すべき作品である。ベン・ステイラー主演だが、ぼくはこの人の映画は初めて。どうも表情がきつく、体形も細く、なんでこの人が主役なのかといった感じ。せっかくエディ・マーフィが出るのに、かなり時間が経たないと彼の出番にならない。コメディとしては笑える箇所はまったくなく、財宝を盗み出す際のはらはらドキドキはMI4を越えたか? そんなわけないか。でも、楽しめました。FBIの女性捜査官役のティア・レオーニは何で見た女優だったか。金庫のカギを開けるのがガブレイ・シディブで、「プレシャス」で可憐で、繊細な、超おデブを演じた子である。エレベーター・ボーイのマイケル・ペーニャは「クラッシュ」で重要な役をやっていた。ステイラーの弟役をやっているのがケイシー・アフレックで「オーシャンズ」シリーズで見ている。ホテルの住人で部屋代滞納のマシュー・ブロディックは『プロデューサーズ』に出ていた。もしかして、続編を作る?


17 ドラゴン・タトゥの女(T)
デビッド・フィンチャーのリメイクである。タイトルバックで007のような人体を使ったスタイリッシュな映像が楽しめる。こういう遊びがとみに最近の映画には足りない気がする。ほぼスウェーデン映画をなぞった感じだが、いくつか違いもある。殺されたのではないかとされるハリエットの残した謎の数字とアルファベットの謎を解くのは前作ではリスベットだが、今回は主人公のジャーナリストの娘の言葉がヒントになっている。それと、最後に分かるハリエットの居場所も違っている。一番の違いは、事件が終わって、主人公の汚名回復をするのに、リスベットがスイスまで飛んで画策をするところ。あとは撮し方までそっくりである。リスベットを演じた女性が愛らしく(『フエイスブック』に出ているらしいが、主人公を振る女性か?)、その分、前作のナオミ・ラペスのqueerな感じは削がれている。ラペスはやがてやってくるシャーロック・ホームズに出ている。


ぼくの好みを言えば、前作の重苦しい感じのほうが好きである。スエーデンにナチの影が深くあったことが驚きだったが、免疫ができていたせいもあるが、そのおどろおどろした感じはこの映画からは伝わってこない。


18 キンキー・ブーツ(DL)
まるで「川のなかからこんにちわ」の英国版である。といっても、こっちの方が05年と古いが。老舗靴製造会社を立ち直らせる話だが、主人公をジョエル・エドガートン、その恋人にサラ・ジェーン・ポット、これが可憐でいい。ニック・フロストという職工さん役がいい。よく脇で見かける人だが、頑迷な差別主義者だが、ものが分かれば打ち解ける役をごく自然にこなしている。映画はこういう人で引き締まる、というものである。


圧倒的なのが女装倒錯者のチウエテル・エジョホー(Chiwetel Ejofor)で、この人でこの映画は成り立っている。「ラブ・アクチュアリー」「インサイド・マン」に出ているらしいが、記憶にない。見直してみないとダメだと思っている。軽く腰を振りながら歩くだけで、匂い立つものがある。


靴製造会社は起死回生に、紳士靴からその種の特殊人間用のブーツに転換し、もう明日は展示場のミラノに行こうという日に、主人公はエジョホーに「男か女かはっきりしろ」みたいなことを突然、言い出す。いくら最後の盛り上げのためだとはいえ、安易に過ぎる。それまでの演技に一切、そういう匂いも伏線もないのだから。こういうことをやるから、小作品でいいモノなのに、評判にならないのである。


19 ものすごくうるさく、信じられないほど近い(T)★★
原題がExtremely loud & Incredibly closeである。監督ステファン・ダルドリーで「リトルダンサー」「めぐり合う時間たち」「愛を読む人」を撮っている。脚本エリック・ロスで「ベンジャミン・フランクリンの生涯」「ミュンヘン」「インサイダー」「グッド・シェファード」「フォレスト・ガンプ」などを手がけている。主演トーマス・ホーン、美しい少年である。演技が抜群にうまい。人に話せないことがある、それを話していいか、というシーンが2度あるが、そのときの演技のすごさ。原作がジョナサン・S・フォアという人。きっとこの原作がいいのだろうと思う。2005年に発表されている。


少年は探索行にタンバリンを持ちながら出かける。それが彼の緊張や寛解や安堵などを外に表現していて、面白い仕掛けになっている。何かこれに似たものがあったような……マルクス・ブラザーズでハーポがこんなことをしていなかったか……。それとも何か違う映画か。


映画を見終わってすぐ「すごい」と声が出た。傑作である。少年オスカーを演じたトーマス・ホーンがとにかくいい。それと口のきけない、オスカーのお爺さん役のマックス・フォン・シドーもいい。両親役のトム・ハンクスサンドラ・ブロックも堅実である。少年が「ブラック」なる人物427人を訪ね歩くが、そのうちの一人ビオラデイビスが美しい。彼女は「ダウト」で素晴らしい演技をしていたが、ここでも魅せる。目力にやられる。その夫役のジェフリー・ライトは「キャデラック・レコード」で見ている。陰影のあるいい感じの役者である。


少年にはアスペルガー的な要素があり、そうでなければこの映画の世界は埋まってこない。地図を作り、印をつけ、名前と場所の検索データを作り、日にどれくらい歩き、何人に会うと、目的は達成されるのか──そのお膳立ても面白いが、彼があとで感慨を洩らすように、大人たちはほぼ不幸の影を背負っている。あるいは、言葉を失っている。少年だけが過剰に言葉を繰り出すことで、世界はやっと結構を保っていることができる。そして、少年自身もまた。


少年が初めて訪ねたのが、ビオラデイビス演じるブラックさん。アパートメントなかで何か訳ありな騒動が起きている気配だが、ブラックさんはまるで彼を待っていたかのように家に入れ、話を聞く。その理由は、最後になって明かされることになる。


それにしても、ものすごい映画を撮るものである。ストーリーの運びもいいが、ショットもいい。ときにスタイリッシュ、ときに前衛的でさえある。9・11の悲惨はこう撮るしかないのではないか、といった感慨さえ浮かんでくる。日本でいつか3・11でこのレベルの映画がいつか誕生することがあるのだろうか。


一つ残念なことがあるとすれば、すべての話が終わって、少年が出会った人々に手紙を出す。その手紙を読んだ人たちの反応をスローモーションで次から次と撮していく。それが「クラッシュ」から始まった撮り方で、どうしても甘くなってしまう。せっかく最後まで持ち込まれた緊張感が、ここだけ弛緩してしまうのが残念である。母親が彼の先回りをしてお膳立てしていたという設定は、甘いが、許せる範囲。「リトルダンサー」もそうだが、この監督は少年を撮らせたら抜群ではないか。その項でゲイの可能性を指摘しておいたが、まず間違いはないと思われる。


見ているあいだに、ヨーロッパ映画のような味わいさえしてきた。なかなか人物の深い内面にまで米映画は入ろうとしないが、この映画は違う。先頃見たサントの「永遠の僕たち」の少年にかなり近い。あるいは、「アメリカンビューティ」の青年にも通うものがある。少年が出会うすべての大人たちは不幸の影を背負っていた、というあたりに。センシティブで、もろく、はかなく、覚めていて、優しく、反社会的で……つまりダルドリー監督がすごいということである。原作が読みたくなる映画である(アマゾンに注文をしてしまった)。


20 ハンナ(DL)
ラブリーボーン」のシャーシャ・ローナン、やはりちゃんと育ってました。それもアクションとは! 科学操作で強い肉体などを付与されたハンナ、彼女は父親にどこか北欧の人跡なきところで多言語、格闘技などを鍛え込まれる。そして、俗世へ殺された母親のための復讐に舞い戻る。彼女の異能が発揮されるのは、ほぼ最初だけで、あとは現実世界との接触と驚きを描くことが主眼。モロッコ人との出合い、電気・テレビなどとの邂逅、ロマ族の踊り、女優のすれっからし生活に憧れるそばかすアメリカ少女との友情、キャンプ生活、廃墟となった恐竜展示の草原、そして遊園地……母を殺したケイト・ブランシェットやその仲間に追われながら、彼女のイニシエーションが進んでいく。


ケイト・ブランシェットが冷たい政府機関の元締めみたいな役をやっていて、淡い緑のスーツが姿がいい。このブランシェットはもっと見ていたいと思わせるものがある。それにしても、ローナンと似た顔つきであることよ。ヨーロッパ風というのか、ノーブルというのか。


彼女が殺人を依頼するオカマ風男は、両性具有や小人をショー仕立てで見せる小屋の主なのだが、彼をもっと味付け濃くやると、この映画はもっと締まったと思われる。それと、ハンナの父親が実は育ての父親と分かるところもドラマ性に欠ける。第一、北欧にいたときの重厚な存在感が、背広になってからまったくないのが、残念である。


ぼくはシャーシャ・ローナンがこれからどうなっていくのか、見届けたいと思う。すぐに少女は成人した女に変身してしまうはずだから。


21 ならず者(D)
64年の映画で、石井輝男監督、健さん主演、客演三原葉子杉浦直樹江原真二郎、安部徹、丹波哲郎、鹿内タケシ、南田洋子加賀まりこはちょい役である。三原葉子が妖艶である(乳首が見えるシーンあり)。この人はけっこう健さんとは共演している。杉浦直樹は小学生の頃に見て、妙に印象に強い役者さんだった。どう彼を表現していいのか難しいが、インテリヤクザな風があって、理知と情念が解決がつかず、それが怒りを含んだ悲しみとして、こちらに伝ってくる──とでも言っておこう。冥福を祈るばかりである。


ほぼ香港ロケで終始する。健さんがサングラスの背広の殺し屋で、実に格好がいい。丹波も、杉浦も、ほんとに格好がいい。役者さんがみんな広東語を話すという珍しい作りになっている。どういう事情があってこういう映画ができたのか、とても興味が惹かれる。


冒頭からジャズが流れ、最後までそれが鳴っている。ぼくは南田洋子という女優さんはすごい演技派だと思う。しかも、体がよく動き、機敏である。この映画では香港に売られた娼婦の役で、肺病病みである。それを健さんが助けようとするのだが、喉に詰まった血を吸うというので、キスシーンが続く。健さん、本当にお珍しい。そのあと、ベッドで健さんが天井を見ながら自分の過去を語り、南田がそれをうつぶせになって聞くシーンが続くが、けっこう長いシークエンスで、ふと「駅」の倍賞千恵子との絡みを思い出した。いいシーンである。「あんた、もっと前に私に会っていたら、惚れたかもね」「お前、もう一度、人を信用してみろよ」の台詞がいい。最後に、悪党の安部徹を殺すときも、不必要に場面が長く、健さんの熱演が続く。石井監督、最大限に健さんへのオマージュを捧げているように僕には思える。


健さん、南田の絡みばかりか、全体に台詞が格好良く作られている。しゃれた暗黒ものでも作ろう、ということだったのかもしれない。フランス映画あたりの影響を受けて撮られた可能性がある。意外なめっけものの映画である。


22 しゃべれども、しゃべれども(D)
平山秀幸監督である。前に劇場で見たときに、それなりに面白い映画だと思ったものの、どこかすっきりしないものがあった。その理由が今回、すっきりと分かったのである。国分太一が演じた二つ目の落語家が、若い癖に妙に訳知りで、人の悩みには人生を達観したような意見を言いながら、自分が芸が伸びず、苦しんでいる感じが一向に伝わってこないのである。彼自身が、話し方に悩める連中と一緒に成長していくと面白いのだが、映画はそういう仕組みにはなっていない。国分なら十分にその演技ができると見たが、いかがなものか。前にも触れたことだが、今昔亭小三文というのを演じた伊東四朗の落語のうまさは尋常ではない。「火炎太鼓」をやるが、小さんの引き写しだが、立派なものである。


23 失楽園(T)
森田芳光追悼特集である。取り立てて言うこともないが、きっと森田は次の映画が撮りたくて、この映画の監督を引き受けたのではないか。最初にごうごうと落ちる滝を撮すなんて、なんと恥ずかしいことよ! それでも、ピンク映画ではなく、一般公開でやれるとこまでやろうとする姿勢は感じられる。それが救いである。


大手出版社の雑誌編集長から調査部に回された男(講談社の社内が撮される)と、医者の妻で書道の先生(カルチャーセンターで教える)が出会って、倫ならぬ恋に落ちていく話。50歳と38歳という設定である。ぼくにはこの2人が情死にまで至る理由が分からない。というのは、少なくともこの2人には下界との葛藤がきわめて少ないからである。止むに止まれず死に至る、そのプレッシャーが薄いのである。


24 それから(T)
これは森田の失敗作ということになっている? ぼくは食わず嫌いで見ていなかった映画だが、明治という時代の情緒をおもちゃのように扱った楽しさが伝わってくる。主人公代助って、こんなに金持ちだったか。彼を我々と同時代の人間ととらえるのは無理がある。高等遊民漱石は言ったが、下等遊民なら現代でもごろごろいる。お爺さん役の笠知衆と間合い10センチぐらいで話をするシーンには笑ってしまった。あと、小津的に顔の正面を交互に撮すパロディも面白かった。静止画像で雨だけが油のように粘っこく動く映像は、清順へのオマージュか。藤谷美和子という人はいつも脱力系で、演技の幅のない人である。可憐ではあるが。小林薫がわざと平板で、大きな声で喋るのも、明治なのかどうか。森田先生、好き放題にやりましたね。映画は、制約がないと、なかなかいいものが撮れないというのは真理ではないか。


25 新網走番外地(D)
マキノ雅弘である。敗戦後の新宿が舞台で、ほとんど健さん、ちんぴらヤクザである。新宿でMPと喧嘩をし、網走に舞い戻るが、そこは監獄ではなく、米軍の囚人キャンプのような作り。結局、新宿に舞台が戻り、敵が水島道太郎、男が男に惚れるのが三橋達也である。健さんを踊らせたり、変な背広を着せたり、けっこう監督、遊んでいます(マキノの祝祭好きは山根先生が触れておられるとおりである)。ぼくはときおり健さんの映画を見ないと、体調が悪い。


26 オペラ座の怪人(DL)
これは25周年記念にロイヤル・アルバート・ホールで行われた公演を撮したもので3時間近くある。最後10分くらいは脚本・作曲のアンドリュー・ロイド・ウエブナーが司会を務めて、歴代の怪人などを紹介し、初代クリスティーヌを演じたサラ・ブライトマンが主題歌を歌うなどのおまけが付いている。過去に何度か映画化もされ、舞台も3種あるらしい。ぼくは映画は2004年のジョエル・シュマッカー監督のを見ている。これはウエブナー版を基にしているらしい。もともとは虚実取り混ぜた通俗小説らしい。なぜ何度も映画化・舞台化されるほど人気があるのか、興味のあるところである。


映画もそうだが、このドキュメントもやはり怪人の正体が分かるまでが緊張感があっていい。中休みのあとがしばらくダレる感じがある。しかし、大きなホールを十分に使いこなした演出は迫力がある。非常に気持ちのいい旋律をもつ主題歌が常に鳴っているのが、劇を引き締めている。


言ってみれば、悪魔に魂を売っても芸術家になりたいか、という話である。結局、クリスティーヌは愛を選んで、悪魔とは手を切るわけだが、さてそれで一流の歌姫になれるのか……というのは劇では触れない。


この種の芸術的ドキュメントがダウンロードで見られるというのは、とても嬉しい。近々、ベルリンフィルの演奏を3Dで見る映画が来る。ぜひ見たいものである。


27 ピナ(T)★
初めての3D映像で、ベンダースのドキュメントである。ピナ・バウシュが死んで、それを回顧する映像である。カンパニーの団員が、ピナのサジェスションによって開眼した瞬間を語る。ある団員は、愛の動きをしてほしい、と言われて開眼する。ある団員は、私を怖がらせて、と言われて自分の動きを掴む。ベトナム人(たぶん)の女性は、なぜあなたは私を怖れるの? 私は何もしていないのに、と言われてから自由になる。その彼女の舞踏に思わず落涙。ピナはメンターとして一流だったということか。


3Dはやはり、別に、という感じである。一番前のものだけが突出するのは違和感が大きい。ふと3Dメガネから視線を外にやると、まさに3Dそのものの現実がある、というおかしさ。画面の奥から水をこちらにかけるときは、リアルな感じがあった。


映写が終わり、ジャンパーを着ようとして、ここ最近右肘が痛いので、頭を中心に腕を回すような仕草になったが、まるでピナの動きである。


28 シャーロック・ホームズ:影のゲーム(T)
いつもの4人に「ドラゴン・タトゥ」のナオミ・ラペスが出ている。どうしてこうもゴチャゴチャした筋の映画にしたがるのか。犯人に魅力がないのが、最大の欠点である。第1作で度肝を抜かれた格闘家ホームズが随所に登場する──食傷である。ワトソンとの同性愛ほのめかしの度が過ぎる。彼の新婚旅行に女装で現れるというのは、悪趣味である。できうるなら1作目の古風で、現代的なホームズに戻してほしい。


29 魂萌え(DL)
米国在住の知人は月6千円強で450局ほどのTVチャンネルを楽しんでいるという。新作映画は2、3カ月もするとオンエアされるので、映画館に行くのは3D映画の面白そうなものだけ、とのこと。次から次と繰り出される新趣向の連続ドラマにはまっているという。30rocksとかBossが人気だとか。日本も早くそんな時代が来れば、と思う。


「魂萌え」は阪本順治監督である。「どついたるねん」「鉄拳」「顔」「この世の外へ進駐軍クラブ」「闇の子どもたち」と結構見ている監督である。いずれ「大鹿村騒動記」も見るだろう。しかし、「魂萌え」までくると、阪本監督って何を撮る人なの、という疑問が湧いてくる。映画は楽しめたのだが、それだから余計にそう思う。かつて市川昆が、どんな題材でも映画にしてみせる、と豪語したことがあったが、阪本監督にもその気配が濃厚である。しかし、「闇の子どもたち」の中途半端さは、何か手に負えないものを感じた。


風吹ジュン主演、客演加藤治子豊川悦司藤田弓子今陽子、由起さおり、林隆三常盤貴子三田佳子、寺田聡など多彩。妙に間の悪い映画だが、最後まで見てしまうのは風吹ジュンの魅力に負うところが大きい。平々凡々と生きてきたことが、夫(寺田聡)にとってはある種の地獄であったことが次第に明かされる、という設定である。ぼくにはもう一つ、よく分からない。夫は急死してしまうので、彼が何を考えて外に愛人を作ったのか、明確になってこないからである。周りからそれを抉り出すという感じにもなっていない。平々凡々が悪いとしたら、それは本人の問題だろうと思うのだが。


秀逸は加藤治子で、甥の豊川がマネジャーを勤めるカプセルホテルに住まい、自分の深刻な身の上話を話しては、教訓になったろうから金を払え、と要求する。しかも、あんたの身の上話も聞くから金を払えと言い出す老婆である。次のターゲットが見つかると、それを追いかけて不自由にしていた手足がスススと動くから笑える。豊川は万事についてない男で、友と興した事業に失敗し、妻子に逃げられ、叔母の加藤が脳梗塞で倒れてからは費用弁済から逃げて、日雇い労働の身になる。風吹はそういう彼にも分け隔てなく接する。彼女の貴重さは、この純真さにあるのではないだろうか。


妻は、夫が隠れて愛人を持ち、その女とそば屋を始めるのに金まで出していたことを知る。週1回はその店で仕事をしていたという。ゴルフ場の会員にまでなっている。それをまったく知らなかった妻というのも魂消たものだが、死ぬちょっと前に夫が突然、彼女の手を握り、「ありがとう」と言う設定には無理がある。さらに、風吹が映画に興味があり、映写技師に弟子入りするに及んでは、はてさてである。多少の前振りがあるが、ウソにしか見えない。夫の裏切りも、妻の翻心も、シナリオのための方便に思えてくる。しかし、酒を飲んで勢いをつけて麿赤児演じる映写技師に弟子入りを頼むときの風吹はきれいである。


愛人役の三田は福島の出身という設定らしいが、話し方が福島らしくない。
そば屋で風吹と話をするときの三田は、心に病を持っているという設定になっているが、単に正妻と愛人の対話としても、非常にフラジャイルな感じが出ていてグッドである。「何も知らないのは罪だ」という名言を吐く。正妻という地位で圧力的な態度をとるのはおかしいと難じるが、いかにも愛の権利はこちらにあるというぬけぬけとした感じがいい。こういう負い目と勝ち気が綯い混じった感じを出せるというのは、すごいことである。「彼はあなたのことを古箪笥と呼んでいた。今さら変えるわけにもいかない」と三田は言う。それに反駁して「あんたは古いんだが新しいんだか分からない箪笥だから、夫は乗り換える気にもならなかったんだろう」と風吹が言う。「どうぞいくらでも悪口を言ってください」と三田。「口では勝てないから、この店を壊していいか」と風吹。ここは見応えのあるやりとりである。
その修羅のあと、風吹は立ち去り、三田は風の強い店の外に出て、暖簾を賭け、近くを過ぎる隣人(絵は撮されない)に挨拶し、休業の張り紙を剥がし、店の中へ戻るシーンは、味わいが深い。


風吹ジュンは「燃える金狼」で清純派のイメージが吹き飛んだ。それから幾年過ぎたことか。カプセルサウナの小さなお風呂に入るシーンで、少し裸体の片鱗を見せるが、ある種のみずみずしささえ感じられる。彼女と一夜を共にする林隆三が65歳という設定で、2回目のデートですぐラブホテルへ行こうとする。1回目はシテイホテルのバーで飲み、それからイン・ベッドという進行なのに。この林が、それと気付かないほどに魅力がない。そういう意味ではうまく化けたということになるのか、単に往時の色気がなくなったということなのか(たぶん前者であろう)。風吹に振られたあと、孫に電話して「お婆ちゃんに今日、晩ご飯は家で食べると伝えてくれ」と言うシーンは、ぜひそうあるべき、という設定である。


30 「青い塩」(T)
ソン・ガンホ、シン・セギョンで、監督は「イルマーレ」のイ・ヒョンスン。セギョンは新人らしいが、人形のように美しい。優香の化粧を濃くした感じである。彼女を見ているうちに映画が終わってしまった。まるでミュージックビデオ風に彼女を撮るので、余計にそうなる。韓国にヤクザがいて、それが大きな組織になっているというのは、ちょっと驚きだった。殺し専門の男の片目を覆う髪型は、「アジョシ」の悪党兄弟の弟とそっくり。ガンホの弟分役をやった役者が加瀬亮似で、感じがいい。セギョンは元射撃選手だが、その元コーチ役は「オールドボーイ」で主人公の監禁場所のオーナーをやった役者である。セギョンの周りにいるチンピラは、「アジョシ」で間抜けな刑事役をやっていた。


31 イップ・マン──誕生(T)
見なければよかった。サモハンのほかにユン・ピョウも出るというので、つい見てしまったが、3作目がいちばんひどい。日本人が悪党で出てくると、急にリアリティがなくなってしまう。これは2作目も同じ。第一、日本人の娘が中国語を話し、日本語が下手なんてことがあるだろうか。その父親役をやった日本人も魅力がなさ過ぎるし、自分のことを武士だというのだが、どういう意味なのか。忍者の格好で立ち回りをやるシーンもあるが、なんで忍者なのか。このいい加減さは、かつての香港映画に戻ってしまったような錯覚さえ起こさせる。


香港に亜流の達人がいて、その人間から技を習うところは、面白かった。足技を使うとか、後ろに向きながら肘を使うなど、細かい(?)ところで違いがあるらしいのだ。頬の肉の緩んだユン・ピョウが誰かに似ていると思ったら、山本譲二だった。


32 探偵はバーにいる(D)★★
橋本一という監督である。時代物を撮っているらしい。実によくできた映画で出色である。大泉洋が出ているので敬遠していたのだが、いや達者なものである。相方の松田龍平も抑えた演技で好感である。全体に間然するところがなく、最後まで快いテンポで進んでいく。台詞もいい。ポンコツ車の演出も利いている。映像も申し分ない。札幌・すすき野が舞台で、へえ映画的に見られる場所なんだと納得。ビルの屋上で、放火犯で自殺したと言われる昭の父親を締め上げるシーンを、俯瞰で撮っていて、感心させられた。この部分は、「オールドボーイ」の屋上シーンを想起させた。この父親が、「殺人の追憶」で犯人とされる、少し頭の弱い男にそっくりである。


役者も揃っていて、言うことない。とくに落ち目のヤクザ組の幹部松重豊がいい。「しゃべれどもしゃべれども」で口下手な野球解説者をやっていたが、脇役として貴重である。悪党の殺し屋に高嶋政伸で、役者名を確認するまで自信がなかったほどの変身である。目に覆い被さる髪型は、やはり韓国映画で見るスタイルである。それにしても、いかつく、膨らんで、高嶋に見えない。新境地開拓ではないか。カルメン・マキが役者として出ていて、主題歌も歌っている。寺山修司の「母のない子のように」が懐かしい。カルメンってこんなに歌の上手い人だったかしら。小雪が妊娠太りのような貫禄がある。大阪から乗り込んでくるヤクザの親分が石橋漣で、ほとんど頭頂部に髪が残っていない。それにしても息の長い役者さんである。


いい映画だとは評を読んではいたが、いや、この映画、久しぶりに堪能させていただきました。


33 サッチャー(T)
これはやはりメリル・ストリープの演技を見る映画ということになる。経済評論が浜矩子氏(橋下徹は自分を批判したとして彼女を紫頭と呼んだ。児戯に等しい)によると、サッチャーは自分の出自と同じ層(食料品店なので商店や小企業あたり?)を盛り上げることがイギリスを良くすると考え、かの新自由主義的な施策を推し進めたが、結果は大企業の跋扈を許し、貧富が拡大した、と述べている。それらしきことは映画にも出てくるが、彼女が自分の結果に落胆したといったことは一切出てこない。鉄の女がいまは認知症のとば口にいる、というだけである。


ほとんど「エドガー」と同じような過去回顧の手法だが、こっちはもっと素人っぽい。すでに死んでいる夫の幻像とダンスを踊り、体がよろけたところに3人の兵士を象った小さな像があり、それを契機にフォークランド紛争を思い出す、といったチャチなことをやっている。しかし、この映画を見ても、なぜ鉄の女が出来上がったのかは、さっぱり分からない。彼女は、最後は男どもの反感から首相の座を降りざるをえなかった、という設定だが、言葉の間違いの些細なことまで言い立てるボスというのは、確かに困った存在だったろうと思われる。しかし、彼女を引き立てて、首相にまで持ち上げた男たちがいたことも確かなのである。浩瀚な彼女の自伝を買ったまま読まずにいるが、さてどうしよう。この映画はドライブをかけてくれなかった。


34 パッチギ1、2(D)
パッチギ1はこれで3度目、また同じ箇所で泣いてしまう。高校を辞めて看護婦になる女優が存在感があるなと思っていたが、真木ようこという名前だった。主人公を演じていたのが塩谷瞬、ほかにいくつも出ているようだが見たことがない。純情で、しかも気張らず一途な感じがよく出ていた。実にぴったりの配役である。謎の放浪人オダギリ・ジョーは軽くていい。夜のTVで司会渡辺正行(コント赤信号)、爆笑問題と一緒に出ていたオダギリが懐かしい。


パッチギ2は目を覆うような出来である。主人公の妹を演じた中村ゆりが目を引く。「ばかもの」「さくらん」に出ていたようだが記憶にない。最近は「はやぶさの帰還」に出ているらしい。この映画と同じく、国籍韓国であることを広言している。1もステレオタイプだが、まだ魂があった。2は抜け殻である。


35 まほろ駅前便利屋多田軒(DL)
大森立嗣監督、「ゲルマニウムの夜」を撮っているらしいが、見ていない。瑛太松田龍平主演。瑛太は妻の不倫疑惑、赤ん坊の死、松田は親による虐待を経験している。2人は同級生で、小学校の工作の時間に、無口な松田をしゃべらせようとして、ふとした接触で体が揺れ、旋盤の歯で松田が小指に怪我をする。それが、お互いが人生の暗部を見たあとに出会う。松田はおしゃべり松田に変身している。瑛太が出会ったときの松田は、実は虐待親を殺すつもりで刃物を持っていたが、それをバス停のイスに置いたまま、瑛太の事務所に転がり込む。


どちらも人の不幸を捨て置けない。便利屋の仕事をしながら、どうしても名前のとおり「タダ」のことをやってしまう。ただ、その設定が少しあざとい。小学生の下校をサポートする仕事を受けるのだが、その子がヤクザからヤクの運搬を頼まれていたというのは、はて? である。家内のドアの調子を直しに行った売春のお姉さんの一人はストーカーに追われていて、これが狂気が入っているようなヤツという設定、それってありか?(そのストーカーを売人として抱える若いヤクザを高良健吾という役者が演じているが、これがグッド)。 刑事がその男を追うが、俺の仕事は人助けににもなっていない、便利屋なんかで人助けになった気になるな、と言うが、そんなの勝手だろ、と思う。松田は元製薬会社のセールスマンで、その納入先のレズビアンの内科医と偽装結婚し、精子を提供し、その後、別れ、それでも少額ながら金を送り続ける男だが、これってありなのか? 瑛太も松田もスーパーに喧嘩が強い。優しくて、喧嘩が滅法強い──都合が良すぎないか?


これだけ欠損を抱えた人間か、平均ラインをかなり外れた人物像ばかり。まほろという町をリサーチしたほうが、ぐっと面白いのではないだろうか。


松田の演技が光っている。ふとした拍子に声を立てて笑うのが自然である。あと、鈴木杏の娼婦も、なんだか人生が詰まったような体つきと表情でグッドである。


年の瀬から年の瀬までぐるっと1年間を描き、結局、元に戻る構造は面白い。場面転換が必ず瑛太の顔のアップというのは、見ているほうはしんどい。何が起きて、何が起きようとしているのか、予測がつかないので、緊張感が強いのである。汗の顔を大写しするが、その後、熱中症で倒れる、というのは安易に過ぎないか。最後の場面転換だけ荒れた部屋の俯瞰で始まるので、ふっと緊張感が溶ける。このあたりの演出は上手い、ということになるのだろうか。


★印を付けたいが、先に書いたように人物設定がどうも都合が良すぎる感じがするのである。しかし、秀作であろう。