社長シリーズ

kimgood2014-10-25

飛び飛びに見ている社長シリーズをここにまとめておくこととする。
その前に作品の一覧を掲げる。見て分かるように、1作を除いて正続で作られている。続はほぼひと月後の封切りが守られている。高度成長期に向かって、一散に作られた映画であることが分かる。


社長シリーズ

1 へそくり社長&続 千葉泰樹    1956.1.3
2 はりきり社長&続 渡辺邦男 単発作品
3 社長三代記&続  松林宗恵
4  社長太平記     松林宗恵青柳信雄 カラー作品
5 サラリーマン忠臣蔵&続 杉江敏男
6 社長道中記&続  松林宗恵
7 サラリーマン清水港&続 松林宗恵
8 社長洋行記&続  杉江敏男  フランキー加入
9 社長漫遊記&続  杉江敏男
10 社長外遊記&続  松林宗恵
11 社長紳士録&続  松林宗恵  シリーズ最終作
12 社長忍法帖&続     松林宗恵  1965.1.3
13 社長行状記&続     松林宗恵
14 社長千一夜&続  松林宗恵  続でのり平とフランキーが降板
15 社長繁盛記&続  松林宗恵
16 社長えんま帖&続 松林宗恵
17 社長学ABC&続     松林宗恵 1970.1.5 森繁は会長、小林桂樹が社長。




「へそくり社長」
56年の作で、記念すべき大ヒットシリーズの第1作である。千葉泰樹監督。シリーズは33本も続き、データを見ると必ず正続の2本ずつの放映だったらしい(実際には1回で撮ったらしい)。ゆえにこの映画も最後に「第一部 完」と出る。
モノクロで、大ヒットシリーズとなったとは思えない静かな出だしの作品である。三木のり平がほとんどちょい役みたいな出で、DVDでの息子(役者)の解説ではまさに飛び入りだったらしい。ラストに森繁社長が得意のどじょう掬いを踊るのだが、勝手が分からず、撮影所の隣で撮影していた三木に助っ人を頼み、そのまま出演陣の一人に収まったらしい。最初に株主会の場面があるが、そこに目に変な隈取りをした三木が上目遣いの目つきで、ひと言も発せず座っているシーンがあるが、あれは台詞がなかったので、ああいう処理になったのかもしれない。こっちが後撮りなんだろう、きっと。


珍しいのは森繁の妻役が越路吹雪で、妖艶と言おうか、夜の世界の人と言おうか、ちょっと異な感じの社長夫人である。二人はなかなかのアツアツで、寝坊の夫を起こそうとすると、「君が昨日、寝かせなかったからだ」と森繁が答え、キスをねだる。あるいは、森繁がお風呂に入っていると、「お背中、流します」と婦人が入ってくる様子。すっとスペースを開けながら森繁がつくる表情の、何とも言えない味わい。こういう森繁流演技があちこちに顔を出す。
森繁が妻の威光で社長になれた、という設定が観客の共感を呼ぶ仕掛けになっている。実力はないが、社員には慕われている。どこか抜けていて憎めない。先代社長の奥様は、どじょう掬いなどはしたない、小唄でも習いなさい、と叱りつけるが、そんなところも観客には好感である。


「社長太平記
もと海軍の仲間3人が下着会社に集う。いちばんの下っ端が社長(森繁)、曹長(小林桂樹)が専務、艦長が課長(加藤大介)である。社長は妻の父親が創業した会社を継いだかたちである。この3人の顔、小学生のときによく見たものである。とても懐かしい。


それにしても冒頭、戦艦でドカンドカンと戦うシーンから始まるのには驚きである。59年の作だが、戦争賛歌と見紛う出だしである。あるいは、「海軍バー」なるものも登場する。昔懐かしい軍人たちが集うバーだが、そこではヌードも行われる(配役名にジプシー・ローズの名がある)。
ただ、中身を見ればいくつか皮肉を効かせてあるのが分かる。たとえば、早食いが得意な森繁が曹長から、賢くも天皇陛下が下さったものだからゆっくり食えと諭される。しかし、艦長は見上げた心がけだと褒める(この早食いの癖が抜けず、戦後も家庭で料亭で所構わずやるのがギャグの1つである)。あるいは、3人が「同期の桜」を歌う場面、「同じ国体の庭に咲く」を「同じ会社のなかに咲く」と言い換えてある。


営業部長が三木のり平、吸い付きブラジャーを付けながら、社長から「踊ってごらん」「回ってごらん」と言われ、タコのようにくねくねするのには笑ってしまう。欽チャンが次郎さんをいじったコントを思い出してしまった。
ただし、この映画、三木の出番が少なく、次作以後の課題ではないだろうか。ライバル会社の専務が山茶花究で、ちょっとしか出ていないが、存在感あり。スマートでいながら、嫌みな感じはきっちり出ている。
例によって淡路恵子がバーのマダムの役で、この人、ぼくはほかの役を見たことがない。幼少のみぎりから気になる女優さんではあった。


この淡路が惚れるのが小林桂樹、森繁に仲介を頼むが、工場の火事騒ぎが起きて、その話がどこかへ飛んでしまう。いい加減なものである。


充実した作品で、続編ができたのはよく分かる。ラストで森繁と加藤大介がヒゲを剃って新規巻き直しを誓うところなど、制作側もシリーズ化のつもりで作っているのがよく分かる。


「社長三代記」
シリーズ4作目で、58年の作。まだ白黒である。このシリーズは基本的に正続のつながりで作られていて、先代が創業者(河村黎吉で「三等重役」シリーズズで社長を演じ、部下に森繁がいた。「社長シリーズ」の社長室には彼の肖像写真が飾られている)で、その後を継いだのが森繁。先代の奥様が会長で、これに頭が上がらない。三好栄子が演じているが、この女優さんは怪優と言っていいのではないだろうか。木下恵介の「カルメン純情す」の怪演が記憶に鮮明である。その会長の娘が跳ねっ返り。会社の秘書が小林桂樹経理部長が三木のり平、営業部長が加藤大介という布陣である。ぼくは子どものころに見ているはずだが、鮮明な記憶がない。なにしろクレイジーキャッツで育った年代だから、この種のおっとりした喜劇にはなかなか子どもは反応しなかったのではないだろうか。ちょっとしたお色気が添えてあるのも、大人向けだった証拠である(誤解がないよう言い添えるが、かのドリフターズにしてもお子ちゃま向けにネタを作ったことは一度もなく、いつも狙っていたのは大人だったそうである)。


社長道中記
シリーズ10作目。太陽食料の社長が森繁、大学生ぐらいの娘がいて浜美枝小林桂樹は秘書ではなく、社長のお供を無事こなしたら課長に出世できる、という。新製品がカエル、マムシ、カタツムリの缶詰。これを出張して拡販しようとする森繁、そこに女が絡む。のり平の芸の細かさを堪能する映画である。浪曲を唸るがうまい。


社長漫遊記
第13作、監督杉江敏男である。森繁はあと半年で50歳と言っている。すでに孫がいる。アメリカ帰りでアメリカかぶれ、それを社内に徹底しようとしてチグハグが起きる。淡路恵子、池内純子とぎりぎりまでいくが、例によって邪魔が入ったり、事件が起きたりで、ベッドインに至らない。結局は奥様が現れて、めでたしめでたしの終わりである。不倫などしようものなら、観衆が許さなかった、ということか。三木も加東大介小林桂樹も快調である。フランキー堺がまた変な日系外人役、変調英語のあいだに「おまえ」など挟むのが面白い。


社長紳士録
監督松林宗恵、20作目である。森繁が常務から支社の製袋屋の社長になり(前社長が左卜伝)、ライバル会社社長とクラブのママや、熊本の取引先の取り合いやで頑張る、という設定。子どもが3人いて、長女には岡田可愛。熊本の会社社長がフランキー堺で、衆道の人で、社長と一緒に来た総務部長の三木のり平の宴会芸を見て惚れる。この宴会芸がこの映画の呼び物となっているが、確かに笑わせられる。旅先で池内淳子が積極的に迫る芸者を演じるのは、いつものこと。艶笑話が多く、朝から女房と事に及ぶようなこともしている。小林先生がおっしゃった、森繁の人より半拍早い演技というのは、見ていてよく分かった。相手の言葉の尻にかぶせるようにサッと言うのである。シリーズはこれをもって終わるはずが、人気がそれを許さず、続編が作られた。


「社長行状記」
シリーズ23作目、映画の後半は森繁が金策に日本全国を回る。前半はディオールならぬチィオールとの提携話にいそいむ顛末である。フランキー堺がフランス生まれの奇妙な日本人で、ティオールの日本支配人で、女と見れば見境がない。


恒例の宴会芸はグループサンズもどきである。箒をギターにして、芸者衆の三味線をバックに踊る。森繁、小林、三木である。


“中だるみ”が一つのテーマになっているが、関係の弛緩ばかりか、下半身のそれも指して、1作目から続く中高年の性の問題がここにも顔を出す。観客にはそういう層を考えているということである。性的なあてこすりが随所にあって、これは駅前旅館シリーズでも顔を出すもので、日本映画を支えていた層が伺い知れる。


森繁の妻が久慈あさみで、ストッキングを脱ぐのを見て、その気を起こす森繁。あるいは、鳥羽のホテルに新珠美千代を呼び出して、事に及ぼうとするときに、「いい薬があるんだ」と言い出す。小林桂樹が朝、なかなか起きないのを妻の司葉子が「あなたは変わったは」とちょっかいを出そうとする……などなど性的な表現があちこちに埋め込まれている。それを観客はきっと夫婦で楽しんだのではないだろうか。外国なら絶対成人向けになってしまうだろう。


社長えんま帳
シリーズ30作目で、弛緩している。秘書が関口宏小林桂樹の妻の妹が内藤洋子、この2人が大根。外部から補強してやりくりしようとするときには、もう終わりに近づいているのである。営業部長が小沢昭一である。やはり三木のり平で見たいものである。藤岡琢也が変な日系外人を演じるが、ツーマッチである。社長はセスナで営業に飛び回る。


社長忍法帖
シリーズが終わっても、館主の要望が強く、その声に応えて新シリーズを始めた一作目。たるみもなく、三木のり平のギャグが効いていて面白い。とくに、盗聴器を使って、すぐ隣に座る森繁と会話するシーンは吹き出した。池内純子が追っかけ芸者、久慈あさみがちょっと色っぽいかみさん、札幌のバーのマダムが新珠三千代小林桂樹が技術部長、フランキー堺が札幌支社の社員、東野栄二郎が北海道の有力者といった陣立てである。新珠がバーのマダムが似合うのも不思議である。どうにも貞操の固そうな感じに見えるのだが。彼女のコメントを聞きたいものである。よく見ていると、やはり森繁は何かしゃべり終わったあとに、ちょっとした仕草をしている。それが彼の特徴なのだろう。

善意の人――森田芳光作品

kimgood2014-10-18

ぼくは知らない間に森田の映画を何本か見ている。振り返ってみたら、けっこう親しい友人だったと気がつくようなものだ。何を見てきたかというと、
  の・ようなもの(1981年)
  家族ゲーム(1983年)
  それから(1985年)
  キッチン(1989年)
  おいしい結婚(1991年)
  未来の想い出 Last Christmas(1992年)
  (ハル)(1996年)
  39 刑法第三十九条(1999年)
  阿修羅のごとく(2003年)
  間宮兄弟(2006年)
  サウスバウンド(2007年)
  椿三十郎(2007年)
  僕達急行 A列車で行こう(2012年)
「それから」「阿修羅のごとく」は脚本筒井ともみ、ほかは監督・脚本である。全体ではこの2倍はあって、「の・ようなもの」の後にポルノを2本撮っている(「(本)うわさのストリッパー」「ピンクカット 太く愛して長く愛して」)。映画が斜陽産業となってから監督業を始めたにしては、結構な数を撮っている。それがまず不思議である(ある程度の興行成績は残してきたということになるのだろうか。イーストウッドにしても、そこそこは客が入るので年に1本は撮らせてもらえているはずだ)。しかし、そのために「失楽園」などの作品も撮らざるをえなかったのだとしたら、本数が多いことが単純には勲章にはならないだろう。


劇場公開で見ているのは「家族ゲーム」「おいしい結婚」「サウスバウンド」「椿三十郎」「A列車で行こう」の5編である。中でも「家族ゲーム」は映画史上でも屈指の傑作であろう。彼の映画を意識的に見ようと思ったのはごく最近のことで、「キッチン」「(ハル)」「A列車で行こう」である。ぼくの感じでいえば、「それから」を撮りだしたあたりから、ちょっと縁遠い感じがし始め、しばらく敬遠をしていた。日本映画がダメになった理由は多々あろうが、こういった原作物に安易に寄りかかったのもその一因でないかと考える。では成瀬、溝口はどうなのかということだが、まだ映画界が盛んな頃は彼らもワン・オブ・ゼムでしかない。森田が映画を撮り始めた時代は、もう斜陽が明らかになった時代だ。森田の原作翻案ものには「キッチン」「失楽園」「阿修羅のごとく」などがあり、ぼくには森田はそういう映画を撮る人ではない、という思いがある(実際に見ると、イメージは違うのだが)。「の・ようなもの」や「家族ゲーム」の森田が本来の森田であって、しばらくぶりに見た「サウスバウンド」には心ときめくものがあった。60年代安保を未だに引きずっているというか、全身まだその熱の中で生きているような男が主人公で、そのはちゃめちゃぶりは爽快である。


これからぼくは森田映画とは何だったのか、それを語っていきたいが、すべての作品をそのつもりで見直すのはしんどい。時間があればやりたいが、その余裕がない。前に書いたものを集めるだけでお茶を濁すが、彼の作品には悪人が登場しないということと、もう一つコミュニケーション不全の問題がかなり大きなテーマとしてある。「家族ゲーム」で新鮮だったのは、はっきりとそれを映像化した点にあった。小津もしつこく追ったのは家族の崩壊だが、人々の関係が冷えたとはいえ、憎しみを含めてまだ繋がりがある(「東京物語」はしごく寂しい老親の孤立の映画だが、それでもまだ「家族」という幻想は残っている)。森田は、家族がバラバラであることに居直ったようなところがあった。関係が不全であることを越えようとすれば、食卓をめちゃめちゃにし、ガキを殴る家庭教師に象徴されるように、ある種暴力の介在が必要なまでに、我々は希薄スカスカの関係性の中で生きている。だから、森田映画では「暴力」がどこで噴出するかが、一つのカギなのである。その猛威を恐れると、善き人ばかりの映画に落ち着くというわけである。平穏であるということは、暴力的な世界を忘れているということではない。それをよけて作っているのである。
さらに、彼のユーモアのセンスを挙げておくべきだろう。それが全体を包むこともあれば(の・ようなもの)、一部分に発揮される(武士の会計簿)こともある。邦画では稀有な才能と言っていいのではないだろうか。<の・ようなもの>
森田監督の処女作である。金馬が得意とした「居酒屋」で、店の小僧が出せるものの名を挙げて、最後に「のようなもの」と付けたので、それをくれ、と注文する。そこから取ったタイトルである。この映画は2度見ている。落語家の卵の青春群像というところ。伊東克信という方言丸出しの、下手くそな俳優を使うところに森田の抜け目なさみたいなものを感じる。映画に感情移入させないのである。それはそれぞれのシークエンスにも通じていて、決して登場人物たちのコミュニケーションは深まらない。それにしても何も中身のない映画をよく撮れるものである。これは心からの褒め言葉である。


この映画の主人公は「しんとと」という芸名。好きになった高校生の家で落語を披露するも、下手だといわれて落胆し、終電もないのでテクテクと夜道を50キロくらい歩く。その間、目に入るもの、作り話などをまじえて落語語りで歩くシーンは、この映画の最良の部分である。話が転換するたびに「しんとと」と合いの手を入れるのが面白い。ラストの、音声を消して尾藤いさおの味のある歌でエンディングするのは気が利いている。寂れた、小さなビアガーデンに飾り付けられた提灯が風に揺れるのが、とても映画的である。<ハル>
ぼくはこの作品をタイトルからロボットを扱ったものと勘違いしていた。見ると、ハルはチャットのハンドルネームで、文字のやりとりで親交を深めていく男女を扱っている。黒に白い文字の画面が頻繁に出てくるが、まったく違和感がないのは、どうしてか。これがもしサイレントであれば、人はあえて見ることはしないだろう。しかし、要するに仕掛けは一緒なのである。


ハンドルネーム「ほし」が深津理絵、ハルが内野聖陽である。「ほし」は恋人を事故で亡くして、傷心の日々を盛岡で送っている。彼女をストーカーのように追う男から逃れるように、パン屋、コンパニオン、図書館員などの仕事に就く。彼女の本棚の中心には村上春樹が置かれている。ハルはラガーマンだが身体を壊し、会社では肩身が狭い。スーパーなどでトムヤンクンスープ缶を営業するのが仕事である。彼は失恋し、ネットで下ネタばかりを振ってくるローザと付き合うが、ローザは実は歯科医院に勤める女性で、身持ちは固い。あとで彼女が「ほし」の妹であることが判明し、少し上記2人には冷却期間が。それを乗り越えて、東京駅で顔を合わせるのがラストである。


例によって悪意の人は一人も出てこない。これが森田映画である。そして、映画的な仕掛け(この映画でいえばサイレントもどき)が必ずしてあるのも、彼の特徴である。<キッチン>
主人公はひょろひょろとした女の子で、不思議な生き物のよう。祖母の寄る花屋の店員が、祖母が亡くなったときに自分の家の一室を紹介してくれる。彼の母親はゲイで橋爪功が演じている。どういう訳かモダンで広壮な家に住んでいる。この商売は儲かるのか? 主人公2人の演技のまずさも、見ているうちに普通になっていくから、さすが森田である。だが、封切り後しばらく経って見ると、なんだかレトロで新しかったものが、ただのレトロになったような感じがある。主人公たちの持っている空気感がそう思わせるような気がするのだが……。<家族ゲーム>
これは森田芳光の傑作である。83年作、もうそんなに時が経ったのか、と思う。卵焼きの半熟焼きにこだわり、じゅるじゅる音をさせながら食べる父親の妙な生々しさは忘れられない。この「食べる=エロス」というテーマは、後年、映画を撮ることになる、この映画の主人公役の伊丹十三にも共通する。


冒頭のシーンは、受験期の中学生の次男が煮豆をごはん茶碗に埋め込むところから始まる。次は長男がめざしを食べるシーン。そして、先の父親の卵シーン、最後が母親のたくわんポリポリ。船の舳先に立って、まるでブルース・リーのように登場する家庭教師役の松田優作は、お茶でもコーヒーでも一気に喉を鳴らして飲み干すキャラクターである。ほかにも、せんべい、ケーキ、すき焼き、ワイン、豆乳(これも父親がストローでちゅるちゅると吸う。幼児性のアリュージョン)と飲食物が、まるで映画の一人物のように登場する。


細長いテーブルは、「最後の晩餐」をイメージしたというが、狭いマンションの一室で全員が揃った絵を撮ろうとすると、しぜんとこの構図になる。しかしそれを思いついたときの喜びは、ひとしおのものだったろうと思われる。さらに、勉強部屋での家庭教師と次男のやりとりを、下から透明ガラスで撮るところも、奇策でおもしろい。次男が教師に頬を張られて、机に突っ伏すシーンが何度があるが、それが全部、この透明ガラス越しに撮されるのである。言ってみればマンションの狭い一室でほとんどのシーンが終始するので、細かい演出と、いいセリフがないと映画がもたない。そういう意味では、この映画はよく練られた、熟練職人の映画とも言えるのである。


松田優作ホモセクシャルと見紛う男子少年への接し方。母親と長男の異様な親しさ。もとはフットボール選手だったという父親の事なかれ主義。家族崩壊をこれほど先見性をもって映像にした作家はいなかったのではないか。「逆噴射家族」なぞ、ただのお遊びである。


狭い横長の、肘が重なり合うテーブルという設定は、言葉遊びではないが、正面から向き合わない家族関係を表している。唯一例外は、戸川純扮するマンションの新住民が訪ねてきて、重篤の義父が死んだら、どうやって棺をあの狭いエレベーターで運ぶのか、と涙ながらに訴えるシーンである。彼女は、横にぴったり座るスタイルが苦手だといって、母親役の由起さおりの正面に椅子を移動させるのである。


この映画のラストのシーンが問題である。次男の受験が成功し、緊張から解かれてどこか弛緩した感じの昼下がり。子供2人は部屋で寝込んでいる。クラフトエイビングに余念のない母親も睡魔に襲われる。そのほとんど奇跡のようなのどかさを脅かすように、ずっとヘリコプターの音が鳴り続けている。ヘリを撮すこともなければ、戸外にカメラを向けることもしない。耳障りな音が彼ら家族を包むだけである。
これを何か外部の不安な情勢とか圧力の象徴だとしても、映画の流れから言って、違和感が立つのは当然である。あえて社会性をまとわなくても、十分に時代の匂いを表現し切れている映画である。それに、社会性をうんぬんする監督ではないはずだ、森田は。以後の作品でも、つぶさに検討してみないと分からないが、その種のことが彼の映画の主題として前面に出てきたことはなかったのではないか。


追記:
ぼくは「家族ゲーム」に川島雄三の「しとやかな獣」の影響はないか、と考える。室内劇だということと、それがためにカメラを壁をぶち抜いて設置するなどの工夫を施すなどのテクニカルなことばかりではなく、ラストの雰囲気が似通っているように思うのだ。今まで室内だけで終始していたものを、外部からの視線で終わらせるのが川島作品だが(風にはためくカーテンで内部が見えない!)、森田は外の爆音を室内から聞くかたちで終わらせるので視線は逆だが、何か社会的なメッセージのようなものを出そう、という雰囲気が似ている気がするのだ(川島が映画の中で爆音を響かせるのが何本かあるはずだ)。
川島について触れたブログから一文を抜き出しておく。


家族ゲーム」には台詞と役者という両方が揃っていたし、外部からやってくる3人の人間(主人公の松田優作、隣人と次男の幼な友達)には来室の必然性がある。次男が名門校に合格するという明確なゴールが設定されていることも、筋に発展性を持たせる大きな要素になっていた。それに次男の通う学校のシーンなど外部の映像を差し挟むことで、映画を外に解放できたことが大きい。夫婦は、深刻な話になると、家では狭いので外に駐車してある車のなかで会話をするという、部屋から擬似部屋への移動という皮肉な設定も利いている。<未来の思い出>
職人森田にしてこれほどの駄作を撮るのかという映画である。何か裏事情がありそうな出来である。<間宮兄弟>
間宮兄弟」はもてない2人の兄弟が自足しながら生きている様を淡々と描いた映画だが、森田映画にあるディスコミュニケーションというテーマから熱量を奪った果ての、ほとんどユートピアのような世界を描いている。ここまで退行していいのか、と見ているこっちが苛立ってくるほど、この聖人のような兄弟に監督は無批判である。森田は主人公に皮肉な視点を差し挟むことのできないタイプの監督なのかもしれない。間宮兄弟が正常な位置からズレることで聖域を保っているとすれば、沢尻えりかとその妹の存在は、ごくノーマルな人間関係を表していて、ぼくはもちろんこっちのほうが健康的だと考える。<サウスバウンド>
森田の最新作「サウスバウンド」、ぼくは泣き通しだった。いろいろ不満はあるが、森田がいまなぜこんなアナクロの映画を撮ったのか、そのことの意味を考えさせられた。反権力で突き抜けたイッちゃってる父親と母親、それに翻弄されながら次第に親以上に大人びていく子どもたち、正義を貫くひとになろうね、という根太いメッセージ。人間関係のディスコミュニケーションが、社会とのディスコミュニケーションにまで延引したと考えることができる。快作、あるいは怪作と呼びたい映画である。「家族ゲーム」で鳴っていたヘリの爆音という通奏低音がやっと表で鳴ったような、そんな描き方を見つけた映画、ということになるだろうか。それと、森田の映画テクニックの多彩さに見とれる映画でもある。この監督、やはりただものではない。<椿三十郎>
今日封切りの森田最新作「椿三十郎」を見た。黒澤作品との比較をしたいのだが、映画を見たあとレンタルを借りに行ったら貸出中。かならずこういう輩がいるから不思議である。リメイクを見ないで元版を見る輩が。ぼくは小学生のときに封切りで見たあと、2、3度見ただけで、ここ最近はご無沙汰ということもあって、あまり旧作の内容に自信がない。それを前提に話を進めていく。
織田裕二が主演で、これは文句なくいい。声の出し方、しゃべり方に三船が乗り移ったかと思われるような瞬間が何度もあった。体の動きもいい。ぼくは「湾岸警察」という人気シリーズから彼が抜け、いったい何をするつもりなのかと思っていたら、「県庁の星」に出て、それがなかなかの佳作だったので、彼を見直したものである。しかし、演技の質は「湾岸」と大同小異のものであった。それが、「椿」では過不足のない演技で、とても好ましいものであった。


藩政改革を画策する9人の若者を剽軽な一団としたり、そのなかの2人が今風の若者の顔つきで、それも双子のように似ているので、映画が軽くなったのはそもそも森田の狙いだが、成功しているとは言えない。映画に緊迫感がなくなったことで、展開がまどるっこしくなったからである。そこに、のんびりした平和主義者の奥方とその娘がからまるから、よけいにスピードが殺されてしまう。このあたりが黒澤映画ではどうだったのか、そこが知りたいのである。


ワルの3人組に仕えるのが豊川悦史で、「サウスバウンド」と同じしゃべり方なのには笑ってしまった。この人、もともとこんなしゃべり方なのかしら。ほとんど喉を使わない、重みのない発声法で、どちらかというと映画向きではないのではないか。それにしても、味のある役者さんで、もそっとしっとりした役柄のときを見てみたい。


映画は最初っからバリバリの時代劇で、タイトルが太鼓の音に合わせてスクリーンいっぱいに打ち出されたときには、胸がドキドキしてしまった。この調子、この調子と思ったのも、すぐに若者集団の素人まがいの演技で興醒めに。誰かが何かを言うと、一斉に体を寄せたり、頷いたり、まるで子供の集まりである。野武士のような三十郎との違いを見せつける演出かもしれないが、それにしても青過ぎる。


できたら織田と豊川で何か現代物、それこそ軽いタッチの刑事物かなにか撮ってくれないものか。ねえ、森田さん。<A列車で行こう>
森田芳光監督、最後の作品である。いつもながら楽しませていただきました。そして、いつもながら善人だけの映画でした。鉄道好きの人々が中心で、九州左遷といわれても、現地の鉄道に触れられると喜ぶのが主人公(松山ケニチ)で、まるで釣りバカ日誌である。その友人が、鉄工所の息子瑛太である。父親が笹野高史、松山の勤める不動産会社社長が松阪慶子、専務が西岡紱馬、福岡の工場経営者がピエール滝、農場保有者が伊武雅刀。登場人物の名がすべて電車の名にちなんでいるのも趣向の一つか。


後半はビジネス絡みの話になるが、それもいつもの調子で淡々と進んでいき、変な成功譚にしないところが偉い。森田監督の映画は、見て気分が爽快になる効能がある。ぼくは監督の陽性な部分がきっと好きなのだと思う。<失楽園>
森田芳光追悼特集である。取り立てて言うこともないが、きっと森田は次の映画が撮りたくて、この映画の監督を引き受けたのではないか。最初にごうごうと落ちる滝を撮すなんて、なんと恥ずかしいことよ! それでも、ピンク映画ではなく、一般公開でやれるとこまでやろうとする姿勢は感じられる。それが救いである。


大手出版社の雑誌編集長から調査部に回された男(講談社の社内が撮される)と、医者の妻で書道の先生(カルチャーセンターで教える)が出会って、倫ならぬ恋に落ちていく話。50歳と38歳という設定である。ぼくにはこの2人が情死にまで至る理由が分からない。というのは、少なくともこの2人には下界との葛藤がきわめて少ないからである。止むに止まれず死に至る、そのプレッシャーが薄いのである。<それから>
これは森田の失敗作ということになっている? ぼくは食わず嫌いで見ていなかった映画だが、明治という時代の情緒をおもちゃのように扱った楽しさが伝わってくる。主人公代助って、こんなに金持ちだったか。彼を我々と同時代の人間ととらえるのは無理がある。高等遊民漱石は言ったが、下等遊民なら現代でもごろごろいる。お爺さん役の笠知衆と間合い10センチぐらいで話をするシーンには笑ってしまった。あと、小津的に顔の正面を交互に撮すパロディも面白かった。静止画像で雨だけが油のように粘っこく動く映像は、清順へのオマージュか。藤谷美和子という人はいつも脱力系で、演技の幅のない人である。可憐ではあるが。小林薫がわざと平板で、大きな声で喋るのも、明治なのかどうか。森田先生、好き放題にやりましたね。映画は、制約がないと、なかなかいいものが撮れないというのは真理ではないか。<39刑法三十九条>
いわゆる心神耗弱規定を扱った映画で、その規定を知り尽くした男がある計画犯罪を犯す、という設定である。森田芳光監督である。主役が堤真一で多重人格を装う。鈴木京香精神科医、その恩師に当たるのが杉浦直樹、被告人弁護士が樹木希林、検察官が江守徹、検察上層部が岸辺一紱である。この布陣はなかなかのものだが、ベテラン役者の演技が過剰である。樹木希林はぼそぼそと声が聞こえない、江守が酔っぱらったような話し方を通す、岸辺はニヤニヤとガムを噛み続ける。何ですかね、これ。森田は役者が揃って満足のようだが、もっとコントロールすべきではないのか。映画評で「ベテラン陣の抑えた演技」などと触れているのがあるが、ほとんど何も見ていないのと同じである。
鈴木が堤の郷里に調べに行って、砂浜で幼少時の虐待の証拠を見つけるというのは、いくら何でもである。森田は、映画的に許される、と言うが、うなばかな、である。<武士の家計簿>
テレビの録画で見たが、まるでテレビのような平板な色で、ナレーションで運ぶ構成自体もNHKの大河ドラマを見ているような味わいである。森田はここまで創作意欲が落ちていたのかと愕然とするものがある。唯一、草笛光子が「塵劫記」を読んで算数問題を解くところだけは愉快な感じがあった。中村雅俊の演技の下手なこと! あの妖艶だった松坂慶子がでっぷりと太った様子! 正視に堪えない。

2014年後半の映画

kimgood2014-08-24

68 殺人の川(D)
雰囲気は「殺人の追憶」だが、もう一つ骨が細い。結局、犯人、おまえやんか、というのでは、「追憶」には到底、及ばない。しかし、韓国に連続殺人ものが多いような気がする。日本では「復讐するは我にあり」ぐらいしか思いつかない。いま佐木隆三が扱った殺人事件の犯人とのやりとりを回顧したものを読んでいるが、「復讐」の主人公は知的犯罪者でありながら、一方で非常に杜撰な連続殺人を重ねる人物で、その謎を解こうとするが、結局、佐木はたどり着けない。事実だけを書こう、とそこで決めたという。


69 ルーシー(T)
リュック・ベッソン最大の失敗作であろう。予告編ですべての能力が開かれた人間が主役と言っていたので、怪しいなとは思ったのだが、案の定である。手をさっと挙げただけで敵がバタバタ倒れたり、天井に張り付いたりするようでは、緊張感が生まれない。それにしても、すべてどこかで見た映像ばかりというのは、ベッソン老いたり、としか思えない。


70 私の愛した大統領(DL)
監督ロジャー・ミッシェル、主演ビル・マーレがルーズベルト大統領、その従姉妹で不倫関係になるのがマーガレット(ディジーが愛称)。ローラ・リニーがディジーを演じているが、さすがに身体に重量感が出ていて、彼女お得意の脱ぐシーンがない。あと女性秘書、妻がいるが、どれも何となく外貌が似ている。


イギリスからジョージ6世が妻のエリザベスと一緒に、ルーズベルトの別荘ハイドパークにやってくる。ドイツと戦うことになりそうだが、戦費が心配で、その無心にやってきたのである。吃音を自身でなじる国王に、ルーズベルトは自分自身が両足が使えないので、「吃音などなにするものぞ」と励ますシーンがある。明け方まで語り明かし、お互いの胸襟を開く。これは国難を抱える両者が、いざとなったときに頼れる相手か確かめるためである。国王夫妻の泊まった部屋にはアメリカが英国と戦った独立戦争の風刺画が飾られ、大統領の母が取り外させようとすると、大統領がそのままにさせたものという。翌日にはチェロキーインディアンの歓迎の踊り(これは妻のアイデアであるらしい。大統領は、あまりにも退屈なので途中で止めさせる)や、ピクニックでホットドッグを食することも予定されている。妻エリザベスは一連を侮辱ととるが、王は進んでその環境を受け入れようとする。とくにホットドッグに齧り付くシーンでは、記者たちが一斉にフラッシュを焚き、しかも参加者から温かい拍手が送られる。若い国王は、I have more! と声を張りあげる。これらは大統領が国王の器量を見ようと計画したものではないかと思われる。もしこんなことで短気を起こすようであれば、相手にするに足りない、というわけである。外交とはそういったもので、田中角栄が日中平和交渉で敵地に乗り込んだときに、彼の趣味が一切調べ尽くされていて、歓待のあちこちに仕込まれているのを感じて、ただならぬ国と交渉しようとしているのだと身を引き締めた話がある。


ルーズベルトが脚が悪く、身辺の女性に手を出す好色漢であったことも、この映画で初めて知った。それにマゾコンでもあるらしい。彼がデイジーをドライブに誘い、花の咲き乱れる岡で停めて、デイジーの手を自分の股に持ってくる。デイジーはそのまま何事かを始め、後ろからの引きの映像では、大統領、そしてクルマが少し上下運動する様が撮される。ベタだが、分かりやすい。複数不倫の事実を知ったあとも、一時は激情に駆られるが、結局大統領の好む構図の中に落ち着いていく。そこが今ひとつ分かりにくいところだが、大統領の魅力、そして周りにいる人々のそれへの親和性を思うしかない。


71、72 「くちづけ」「石中先生行状記」
成瀬作品なので、その項に移動。


73 でっかい、でっかい野郎(D)
野村芳太郎監督で、主演渥美清がフーテンで、病院の院長夫妻(岩下志麻長門裕之)の世話になる。みんなに無法松と言われるが、惚れているのは院長夫人ではなく、ナースの若い娘。実は彼女はほかの町でキャバレー勤め、そこのトランペッターと恋仲である。若い娘の父親が伴淳三郎で、いわゆる沖仲仕といういわれる仕事の頭領だが、もう定年を一年超えていて、引退が囁かれている。身体検査を受けさせられるが、病気持ちと診断される。文句を言いに、昔は一緒に働き今は社長の有島一郎に会いに行く。意外なことに、社長自らが辞めて、ほかに範を垂れる、と言い出す。それを聞いて伴淳は、自分は身体も悪いし、身を引く、と言い出す。この二人の会話のシーンは味わい深い。とくに有島の友情の深さを見せるところなど、押しつけがましさがなく、すっきりとしていて、好感である。
映画自体は、何が「でっかい野郎」なのか分からないが、渥美と無法松を結びつけるアイデアだけで撮ったものだろう。岩下志麻のミニスカート姿が貴重といえば貴重である。この人はコミカルなこともできた人なのだ。夫の長門裕之も余裕の芸で、実に何でもできる人だ。


74 真夏の方程式(DL)
小さな映画である。天才物理学者が解くような事件ではないのではないか。前田吟がいい芝居をしている。風吹ジュンは角度によっては、とっても年老いて見える。杏という女優は日焼けの化粧をしているのだろう。人を殺して大人になった苦悩は表現されていない。ロケ地は西伊豆町仁科というところらしい。きれいな海だ。


75 警察日記(D)
久松静児のヒット作で、森繁はこの55年に「夫婦善哉」も撮っている。抑えすぎくらいの演技で、それが味を残す。脇役陣が総出のような映画で、宍戸錠岩崎加根子だけが若々しい。いくつもの脇道が用意されていて、それが過不足なく処理される。最後は、子別れで盛り上がる趣向になっている。宍戸が想いを寄せる岩崎は、結局は身を売るようなかたちで年寄りの金持ちに嫁いでいく。単なるヒューマンで終わらせない姿勢は立派である。村の女を甘言を使って町工場の働き手として送り出すのが杉村春子で、こずるい、ぬけぬけとした感じをよく出している。告訴されようというのに、警察で昼の弁当を出して食べ始める図太さも見せる。飯田蝶子が娘を売りに出す母親で、これもまたいつにも似ず酷薄な感じを出している。久松、恐るべし、である。


76 クロッシング・カード(DL)
ショーン・ペン監督、ニコルソン主演。小さな宝石商を営むニコルソンは交通事故で娘を死なせた男を殺そうとする。出所してトレーラー・ハウスにいた男の寝込みを襲うのだが、銃に弾を込めていなかったという。そんなことがあるだろうか。銃は基本的には護身として持っているもので、いつ何時不測の事態が起きるか分からないから、いつも弾倉に充填しておくのが常識ではないのか。だから、年端もゆかない子の拳銃を使った事故が起きたりするのだと思う。もっと悪いのは、ニコルソンのその際の演技である。もう弾がないと分かった銃を何度も相手に向け、その間、なんだか魂の抜けたような表情なのである。監督は、名優ニコルソンに演技を任せたという風なのだが、それは間違いである。名優ショーン・ペンあればこそ、厳しく演技指導をすべきだったのではないか。この主人公は、夜な夜なストリップバーに繰り出し、女を買い、さしてきれいでもない別れた女房に未練たっぷりという男である。ほぼ30分で、沈没。見ているのが、つらい。彼の映画は2本、「プレッジ」「イント・ザ・ワールド」を見ている。どちらも印象があまり残っていないが、前者に墨絵のようなきれいな映像があったということ、後者は時代を違えたような映画だな、という印象が残っている。


77 摩天楼を夢見て(DL)
92年の映画で、監督ジェームス・フォレイ(有名な作品はないようだ。TVを手がけている)、出演陣がすごい。ジャック・レモン、アル・パシーノ、ケビン・スペイシー、アーレック・ボールドウィンエド・ハリスアラン・アーキンといった面々が、せりふを機関銃のように繰り出す。不動産のセールスマンなのだが、leadと呼ばれる「ネタ」を渡され、成約を勝ち取れば10%のコミッションが入る。彼らはサラリーではなくて、それで生きているようだ。しかし、渡されるリードは傷物ばかり、貧乏人、けち、精神が不安定な人……だから新鮮で、金持ちの載ったleadが欲しい。ところが、本社から来たやり手(ボールドウィン)は、上位の者にしかそれを渡さないし、最下位の者は辞めてもらうと宣言する。病気で入院する娘を抱えた老いたジャック・レモンは必死である。一番の稼ぎ頭のパシーノは怪しい哲学と精神論で客をたらし込む。余裕があるように見えるが、眼前の契約がふいになったら、ランチも食べられない、と嘆く。アーキンは性格が弱く、狙った客の居間へと入っていけない。相手の発言を繰り返す癖がある。ハリスは大口はたたき、会社に大きな不満を抱えるが、実行力がない。


92年の時点でこの映画を見ていれば、世界がこれからどんな方向へ進むか分かったかもしれない。究極の資本主義を見るようだ。競争心を煽り、責任は全部当人にあり、ジャンクの不動産でも買ったほうが悪い。高級車に高級腕時計――それが欲しかったら死ぬほど働け、というわけである。契約額が大きいから、ものにしたときの喜びも大きい。それが麻薬となって彼らはこの異常なビジネスから抜けることができない。、


パシーノがレモンから手柄話を聞くシーンがいい。身振り手振りで成果を語るレモン、それをすぐ近くで椅子に腰掛けながら熱心に聞くパシーノ。何かレモンからパシーノへの演技派の王位譲渡のようなシーンである。しかし、レモンが取ってきた8万ドルの契約は、ただセールスマンの話を聞くのが好きな、精神に問題のある老夫婦であり、いずれ破約になるものだと支店長に指弾される。パシーノはレモンを独立のパートナーと考えるが、さて……、というわけである。パシーノに年をとった、荒んだ感じがあって、それが怪しい、まがいもののセールス話法を繰り広げる人物にぴったりである。


彼ら営業マンが使う手口は、日本でも見られるもので、あなたの応募した景品が当たったから渡したい、ついてはいま当地に出張に来ていて、明日には発たないとダメなので、今日、時間を取ってもらえないか、と電話勧誘するのである。もしかして、それはアメリカ発だったのか?


78 フランキー&アリス
多重人格ものだが、当人が犯罪者でも何でもないので、単なる過去の絵解きで終わってしまう。ハル・ベリー期待の映画だったが、残念である。ステラン・スカルスガルド精神科医で、例によって離婚予備軍である。過去の忌まわしい事件を思い出すシーンでは、三重人格が交互に現れ、ほとんどエクソシスト状態である。ハル・ベリーも肉付き豊かに、おばさん化が進んだ感じがする。仕方ないか、あれ(「ソード・フィッシュ」)から13年も経つのだから。


79 NO
チリの政変(穏和な革命?)を扱ったもので、若い広告屋の考えた、楽しい、みんなが参加できるCMが大成功。国際的イメージを上げるだけのつもりの選挙が波乱を呼ぶことに。フィルムがドキュメントっぽい安手の感じがするのと、焦点が合ってない感じもする。エンドロール脇に出る映像はきちんとしているから、本編は意図的にああいうザラッとした感じのものにしたようだ。それが成功しているとは言えない。それと、いつ選挙合戦が始まったのか、よく分からないうちに火花が散り始める。事が終わって、主人公がスケボーで町を滑るシーンは、爽やかでいい。ガエル・ガルシア・ベルナルが主役、あの「アモーレス・ペロス」「モーターサイクル・ダイアリーズ」での彼の清新さを見て、この人は世界的な俳優になると思ったものだ。



80 ジャージー・ボーイズ(T)
イーストウッドの音楽もので、『バード』以来である。テンポがよくて、若々しい演出である。いつものプレッシャーをかけてくるような重い足取りではない。画面の切り替えが見事で、楽しいな、と思っているうちに終わってしまった。代表作「シェリー」を歌った「フランキー・バリとフォー・シーズンズ」を扱っている。バリの声は女性みたいで、よくモンスター扱いされなかったものである。バリはソロになってからもヒットを飛ばしている。ボス的な存在のボブが、メンバーの知らぬ間に多額の借金を抱えていたことが分かり、チームは解散に。しかし、借金はバリが返済している。ソロのCan't take my eyes off you(君の瞳に恋している)なんか、なかなかいい。これからミュージカル『アニー』もやってくる。まさかミュージカルの復活はないが、年に何本かでも来てくれれば、それがうれしい。


81 アバウト・タイム(T)
何も中身を知らずに見て、まずタイムトラベルものと知って、やや狼狽。間違っちゃったな、と思ってみていると、これがけっこうイケルのである。ただ、出会いに失敗したからといって何度も時間を戻したり、初夜をどんどんバージョンアップするなど、悪趣味である。アル中で、ダメ男から逃れられない妹を救うために時間を戻したのはいいが、子供が女の子から男の子に変わっていて、慌てて元に戻すようなことをしている。あとで、3人目の子をつくろうと決心したときに、父親の癌が進行。元気だった頃の父親に会おうとすると、その生まれてくる子に関係してくるということで、父親との本当の別れを経験する……というのだが、いま一つ理屈がよく分からないうちに映画は終わってしまった。父親役のビル・ナイ高田純次みたいないい加減さが売り物で、この映画でもその雰囲気を遺憾なく発揮している。妻役のレイチェル・マクアダムズはキュートである。


82 石榴坂の決闘(T)
主演中井貴一、妻が広末涼子、友人に高嶋政宏、仇に阿部寛藤竜也が薩摩の官僚。なかで藤竜也が訳知りの人物を演じて、無理がない。広末は顔に妙な線が走るのが気になる。中井は堂に入ったもので、目線ひとつで演技をやってしまう。しかし、なぜああもバタ臭い阿部寛桜田門外に使わないといけないのか分からない。


初めて主君と会うときに、近う寄れと言われて、中井が右膝を立てたまま、主から短歌を書いた短冊を貰う。あれは礼儀として適ったものなのだろうか。橋のたもとで一人の着物を着た男が、いかにも強欲そうな背広姿の男に、借りた金を即座に払えと脅している。そこに中井がやってきて、少しの猶予を与えてやってはどうか、と頼む。しかし、取り巻きのやくざも短刀を出して、息巻く。ところが、周りで見ていた町人風、職人風の中から、次々と何々藩の何々と名乗って出てくる。身は一般人にヤツしても、心は武士だ、みたいなことを言う。こちとら延々と百姓の家系だから、このシーンには大いに白ける。最近、武士、侍の魂が日本人にはある式のことを言うが、彼らだけが日本人だったわけではない。大半は庶民が歴史を作ってきたはずで、為政者は恐々とそれに乗っかっただけではないか。中井は主君亡きあと、13年も仇討ちを狙っているという設定だが、つねに小机の上に狙う相手の名を記した書状を置いてあるのは、どうしてか。それも年数が経っているのに、いかにも白々として新品のようである。少しは古びさせたほうがリアリティがあるのでは?


83 サード(T)
飯田橋ギンレイが名画特集を組んでいて、今回は1作で入れ替え制である。20分ほど遅れて入ったので、冒頭のシーンが分からない。だいぶ前に見た映画で、片桐夕子が出てきたときに、なぜかつて彼女が好きだったのかが分かった。森下愛子がよく脱いでいる。永島敏行は「遠雷」もいいが、これもハマリ役ではないか。そのお母さん役を島倉千代子がやっているのは、どうしてか。顔がパンパンに膨らんでいるのが愛嬌である。息子のパンツ一丁の姿を見て、お母さんも女なんだから、何か着なさいよ、というシーンはそのままパスされるが、本来、大事な台詞な気がする。お千代さん、演技は下手でもない。高校生売春など、こんな時代にもあったのね、である。監督東陽一、脚本寺山修司で、自分の短歌(身を捨つるほどの祖国、というやつ)のもじりなんかを中でやっている。絶倫、身体じゅう入れ墨だらけのやくざをやっている峰岸徹がいい。薬でもやっている感じが出ている。しかし、深くなろうとして浅く作ってしまったような映画である。


84 ディア・ブラザー(DL)
ヒラリー・スワンク主演、脇がサム・ロックウエルで、キレ役者ゲーリー・オールドマンを少し情けない感じにした顔つきである。残虐殺人事件で無期懲役を受けた兄を救うため高校卒業資格を取り、大学で法律を学び弁護士となった自殺罪の人物がスワンクである。結局、DNA鑑定の不一致と警察の不正な証言獲得が明かされて無罪に。どれも手抜かりなくきっちりと描かれていて好感である。スワンクもサンドラ・ブロックと同じく見て損のない女優の一人かもしれなし。美人でないことが、彼女の利点として働くかもしれない。


85 海の上のピアニスト(DL)
もちろんテイム・ロス主演だが、脇がプルイット・テイラー・ヴィンスという役者で、アップにすると目がちょろちょろ動くので印象が深く、TVシリーズメンタリストでもよく目が泳いでいた。たくさん映画に出ているし、TVにも出ている相当な役者さんなのかもしれないが、目立たない良さがあるかもしれない。この映画をずっと見なかったのは、一生を船の上で暮らした人間には自ずと限界があると思うからで、彼が地上に降り立たない理由も、廃船と一緒に死ぬのもハナからわかりきったことだ。彼が見初めた乙女は官能的でさえあって、ナターシャ・キンスキーを思わせる。監督は「シネマ・パラダイス」「顔のない鑑定士」のジュゼッペ・トルナトーレで、上手いことは上手い。ティム・ロスが嫌みなく演じていてグッド。ジャズの勃興期であるらしく、どっちが創始者かと争う場面があるが、ロスが弾きまくるジャズはフリージャズの世界だ。

86 プロミス・ランド(T)
ガスバン・サントの項へ。


87 インサイド・マン(DL)
前に一度見ている映画である。やはりよくできている。デンゼル・ワシントンジョディ・フォスター、クライブ・オウエン、クリストファー・プラマー、ウイレム・デフォー、そしてややこしいキウエテル・イジョホーと役者が揃っている。ジョディ・フォスターがしっくりこない、デフォーが意外と弱い、など気になるところがあるが、金を盗まないバンクラバーは珍しい。コンゲームの新しい形かもしれない。スパイク・リー監督で、ぼくはDo the right thing と25hoursしか見ていない。たくさん撮っているが、あまりクロスすることがないのはどうしてか。


88 イコライザー(T)
これは今年の収穫の1つだろう。スローモーションだとか、絵を荒らすとか、余計なことをしているが、全体は締まっていて、見応えがある。アジアの暴力映画を参考にしたな、というのは武器がトンカチだったり、すぐ身近にあるものを使う点と、じっくり殺していく怖さを強調している。行方の分からない女の居場所を聞くのに、「水を飲まないか」とか「お前は美しい」などと言いながら、手を握ったり、背後に回ったりするのである。ただのドンパチより手が込んでいる。それはラストの大ボスを殺す工夫にも表れている。これは次作が来るだろう。ロシアマフィアのマートン・ソーカスがケヴィン・スペーシーに似ているが、もっと灰汁が濃い。


89 武士の家計簿
森田芳光の項へ。


90 哀しみのサスペクト(T)
脱北者が愛する妻を奪われ、生き残った愛児を探す、という設定で、そこに政府幹部の暗躍が絡むという設定である。少し「哀しき獣」と似ている。後者で悪人経営者を演じた役者が政府高官である。脱北者を追う刑事とのあいだに情感が通うというのが、ありがちだが、映画の印象を良くしている。政府高官が狙うものが、実は化学兵器ではなく、麦の増産に画期もたらす新種というのがミソかもしれない。北は南からそれを送られ、互いに和解のムードが広がる。アクション場面で寄りのカット、拡大カットばかりなので、誰が誰とどう闘っているのか分かりにくい。はっとするような新しい技はなかった。カーチェースには見るものがあった。階段を逆向きに降りるシーンで、ジャッキー・チェンで同じようなおのがあったような……と思ったが、思い出せない。映画の冒頭に監督が出てきて、ハリウッドみたいにお金を使えなかったから不満が残った式のことを言うが、これは何のつもりか。観客に失礼である。


91 グッドモーニング! ベトナム(DL)
ベトナムのきれいな人が見たくて、また見てしまった。本当はタイ人らしく、いまはもう母親役なんかやっている。Youtubeで見ても、悲しくなるだけである。副大統領ニクソンがめためたにやられている。軍の検閲が厳しく、戦況がまずくなっているからこそ、硬直した考えの人間たちが破天荒な主人公を押さえ込もうとする。それを隊の将軍がサポートするのがアメリカらしいか。


92 ザ・レイド(DL)
アジアが鉈や包丁を持つと恐い。組み合って、顔面に銃をぶっぱなすというのは新奇ではないか。建物が要塞化していて、政府も手を出せない、という設定はおかしい。軍隊いっぱつで終わりのはずである。続編が来ているが、さて、どうするか。


93 浮草(DL)
小津の項へ。


94 居酒屋兆治(DL)
健さんが11月10日に亡くなった。テレビで特番が組まれ、生前の様子が流された。江利チエミへの墓参を欠かさなかったという。誰にでも平等に接する人であったらしい。冥福を祈りたい。健さんやくざ映画をどう扱うか、テレビ局には逡巡があるようだが、そこを抜かして健さんはありえない。


「居酒屋兆治」は歌手(加藤登紀子ちあきなおみ細野晴臣)やコメディアン(小松政夫左とん平)などが目立つ。とくに加藤登紀子の癖のない演技、左とん平の落ち着いた演技が光る。兆治は忍耐の人で、かさにかかって悪罵をぶつける伊丹十三や、彼を会社から追い出したかたちになる佐藤慶などに恨みを抱かない善人である。いい人でありすぎるのだが、健さんには複雑な事情の人間を演じるのは難しいだろう。家業を潰してまでもカラオケに狂う美里英二が白眉である。


田中邦衛がアドリブかと思うようなことをする。店の勘定といって、手製の貯金箱なのか、そこに1万円を入れる。多すぎるからと加藤登紀子が断ろうとする。健さんもその金を戻そうとして、田中邦衛からそれをひったくろうとするので、田中が「やるか」と喧嘩の振りをする。健さんが呆れたような、吹き出したような顔をする。「酒が入ると、なにするか分からない」と健さん。これがナマな感じがして、いいのである。あともう一つ、大滝秀次が30歳下の教え子と結婚する。それでナニのほうは大丈夫なんですか、と聞くときに、最初は少し笑って言葉を継がない。そして、また話し始める、その間が絶妙なのである。健さんが及ぶところではない。大滝が朝に卵3個の話をして、「悲惨です」と言うところは、やや分かりにくい。もう少し整理したほうがいいのではないか。


大原麗子健さんの昔の恋人で、彼女はいまだに健さんを思っているという設定である。過去に生きる女で、精神的に不安定である。健さんキングコングの映画を見に行ったが、あれは自分だ、と言うシーンがあるが、ちょっと不自然である。真剣すぎて、せっかくキングコングを出したおかしさみたいなものが表現されていない。店に突然やってきて、さっといなくなった大原を雨中に追ったが姿が見えず、健さんが橋の上、身を隠した大原がその下という絵柄が美しい。泣かされるシーンである。


客として池部良が二度、ホルモン焼きの師匠東野英治郎も二度登場する。池部がいま一つ何を商売にしているか見当がつかない。茶色の大きな鞄を持っている。役所勤めなのか。少し、サジェスションが欲しいところである。刑事役で小林稔侍が妙な癖のある感じが出ていてOK。いい人なのか意地が悪いのか分からない。最後に健さんの「時代遅れの酒場」で終わるが、加藤登紀子の歌を健さん流にすっきり歌っている。好感である。映画の音楽担当は井上堯之である。


95 フェルメールの謎(DL)
IT関連で成功した男がフェルメールに魅せられ、その絵を復元したいと考える。デビッド・ホックニーの本には、絵描きが鏡などを使って絵を作成したことが書かれていて、それに刺激されて、フェルメールの細密描写の秘密を探る、というドキュメントである。前からフェルメールにはその種の指摘をされてきたが、実際に鏡を作り、そこに対象を移し込んで、下に置いた白紙にそのままの色を再現していく。ちょっとでも色が違えば、レンズの絵と合わさらないが、もしまったく同じ色が塗られれば、鏡と紙の境が消えてしまう。その原理を使って、ほぼ200日かけて絵を再現し、ホックニーの称賛を浴びる。なかにホックニーの浮世絵風の絵が出てくるが、味がある。



96 ギャビー・ダグラス・ストーリー(DL)
「エージェント」でアメフト選手の愛する妻を演じたレジーナ・キングが子ども3人のお母さん役。離婚した貧困家庭だが、体操の才能ある娘をオリンピックまでやるスト−リーで、実話らしい。もともとは特殊な病気をもった赤ん坊だが、それが後年災いになるということはない。自分の可能性を信じて、遠くにいる中国人のコーチのところへ移り住み、ホームステイしながら練習に励むが、大事な予選で失敗し、落ち込むが、家族の励ましで復活する。アメリカでこの辺の映画を作ると、ほぼ外れがないのは、文化かなと思う。


97 ストックホルムでワルツを(T)
ワルツではなくジャズ、それもスウェーデン。小さな町の電話交換手をしながら、子どもを両親に預け、音楽に入れ込む。子のために映画監督などと結婚するがうまくいかない。ミュージシャンだった過去を持つ父親から疎まれる。レコード会社に言われ、ユーロビジョンコンテストでポピュラーソングに挑むが、得点ゼロ。一度、アメリカに呼ばれるが、黒人と組んで歌うこと自体が拒否され、さらにエラ・フィッジェラルドに自分の歌を歌えとさとされる。舞台で脚光を浴びるが、自殺未遂で難しい状況に。ビル・エバンスに自分で吹き込んだテープを送り、一緒にやることに。それが本国でも放送され、彼女の声明は上がることに。


主演女優の歌がうまい。それはもちろんなのだろうが、それを聞いているだけで時間が経ってしまう。自ら家庭を、男関係を壊していく様子は痛ましい。結局、自分のタイプではないと言う、凡人のベース弾きと結婚する。それはNYで、彼に捧げると言って、新曲を歌うからである。それが、何だかワルツという曲で、題名はそこから取っている。女優が誰かに似ているなあと思い続けながら見ていたら、エレン・ディレゲネスであることに気づいた。自らがゲイであることを公言したテレビ司会者である。彼女のショーはYoutubeで楽しむことができる。


98 チェイス(T)
インド映画で、舞台がNY、親の遺恨を晴らすサーカス団の話だが、双子の仕掛けはとっても懐かしい。曲馬団の名を思い出す。サーカスの演目に踊りも歌もあるから、途中でそれをやっても違和感がないし、わざわざその設定を選んだこちに敬意を表したい。ただ、最終決着まで長すぎる。カーチェースも、最後はボンド張りに逃げおおすというのであれば、興奮も半減する。でも、インドには期待である。


99 ゴーンガール(T)
フィンチャーで、ベン・アフレック主演、その妻がロザムンド・パイク。サイコな妻にはめられる話だが、どう見てもアフレックは疑わしくないし、そんな演出もしていない。では、この映画は何を見るのか。狂気の妻が帰ってきて、ベッドを別にしているはずが、子どもまでつくっちゃうアフレック。どうしょうもないなぁ、と思わせる映画か。ロザムンドの化粧あるなしの変身が見物。


100 イングリッシュ・ペーシェント(DL)
名作である。原作マイケル・オンダーチェ監督・脚本アンソニー・ミンゲラ、ぼくはNINE、つぐない、インタープリター、コールドマウンテンを見ている。主演、レイフ・ファインズ、ジュリエット・ビノシェ、クリスティン・スコット・トーマス、ナヴィン・アンドリュース(インド人少尉)、コリン・ファース(秘密工作員寝取られ男)、ウイリアム・デフォー(ファース同僚?)。2時間40分の大作だが、まったくゆるみがない。この映画のビノシェは純朴で、かつ愛する人が次々と死んでいくという不吉なものを持っている女である。彼女は地雷撤去係のインド人に惚れるが、そのあとの爆弾処理の場面は目を開けていられなかった。妻を寝取られて頭にきたコリン・ファースが砂漠の地図を何千枚とばらまいたというところが、よく分からなかった。そのせいで、ナチスの進行を許し(エチオピア?)、ウイリアム・デフォーも捕まり、拷問で手の親指を落とされる。復讐の意味もあって、寝取った男、いまや全身やけどのレイフ・ハインズに近づく、という設定である。


冒頭のシーン、墨絵かな、踊る人かなとおもっているうちに、飛行機の翼が見え、その下のまるで女の裸のような、ダリの絵のような砂漠が映り、本編へと入っていき、しばらくすると先のカリグラフが洞窟絵の泳ぐ人だと分かった。全員、役にきっちり収まって、間然するところがない。クリスティンも潔く脱ぐ。砂漠の猛威もきちんと描かれる。決して登場人物が多くないのに、大作の匂いさえする。このゆったりとして筋の運びは貴重なものである。


101 バンクーバー朝日(T)
カナダ移民となった日本人の野球チームを描いている。主人公たちは2世で、日中事変、真珠湾と進むうちに圧迫がひどくなってくる。そのなかで、バントと盗塁で優勝(どのレベルなのか分からないし、その後も他地域から誘いでゲームをやりに行っている。なにかで読んだことがあるが、かつては中国人より日本人は下品で、ずるいと言われていたようである。そういうなかでもカナダでは日本人にチームを持たせたのだから立派なものである。ゆっくりとして作りで、町のセットもよく出来ていて好感である。残念なのは3点。試合に勝って仕事場でカナダ人に「よくやった」と褒められたときに、妻夫木が「あれだけしかできなくて申し訳ない」と謝ったときに、「あれだけって?」とカナダ人が笑って妙な間がある。「あれだけでもすごいぜ」と言わせたらどうだったのだろう。さらに、妻夫木がホームに突っ込んでゲームセット。そのときにスローモーションで起き上がってから、チームメイトに行くまでに妙な間がある。仲間がわっと集まってきてもいいし、声を挙げるでもいいし、何かもっとはっきりした演出が欲しい。あと、遠く球場を望む日本人娼婦たち、彼女たちはその場に参加できないということなのだろうが、彼女たちも一緒に参加させればもっとおもしろいものになったのではないか。どうも史実というより、変なリアリティを出そうとして、かえって変なことになったのではないか。野球がお高くとまったハイソなもののわけがない。あと一人、誰かが何かいうと即座にきつい口調の突っ込みを入れる男がいるが、これは現代の若者のしゃべり方。


監督は「舟を編む」の石井祐也、脚本が奥寺佐度子、彼女の作品にはあの吉田大八「パーマネント野ばら」がある。あと相米慎二「お引越し」、平山秀幸しゃべれどもしゃべれども」、成島出「八日目の蝉」(未見)、細田守おおかみこどもの雨と雪」(アニメ、未見)などがある。とても実力者のようです。


102 インサイド・ジョブ(DL)
リーマンショックを引き起こしたグリーディな輩を告発するドキュメントである。サマーズ、グリンスパンなど錚々たるいかさま師が登場する。モーゲージローン証券化し、ジャンクと知りながら優先的に売りまくり、一方、それが破綻しても儲かる仕組みまで作っていたという。学者も、そして格付け機関も、責任をとらない。こんな腐れ資本主義を放っておくアメリカというのは、どういう国なのか。

2014年の映画

kimgood2014-01-06

結局、去年は最後にまとめて映画を見たこともあって、例年と同じような本数になった。危ないところでヘルペスになりかけたが、正月に逃げ込んで難を逃れた感じである。今年はますます劇場で映画を見ることが多くなるような気がする。


1 Find Out(D)
アマンダ・シェーフィールド主演、被害者なのに妄想だとして警察が取り合わないので、事件がさらに進行してしまうというパターンの映画である。それにしても連続殺人なのに警察がまったく動かないし、犯人は2度も主人公を取り逃がすことになる(2度目は自分が殺されるはめに)。誘拐した妹は縁の下にいたというのは、何だろう? 


2 マスター(D)
映画館で見るつもりが時間が合わなくて見なかった映画だ。これは傑作であろう。ポール・トーマス・アンダーソン(一人脚本)はすべて作品を見ているが、場面転換、主人公の孤影の深さ、ドリスという年若い恋人の純な様子、そしてマリーンとしてどこか天国のような南方の島で戦友たちと埒もない遊びに興じる様子、そして何度か繰り返される航跡の鮮やかな波模様、1940年代から50年代のスローテンポのヒット曲のかぶせ方、そしてマスターといわれる教祖の卑小さと大きさ……なんとまあ充実した映画であることか。ホアキン・フエニックスの猫背の年寄りじみた歩き方がいい。フィリップ・シーモアの優しい視線がいい。妊娠の妻に手こきされながら、私や信者に気づかれないように性の処理をするのはかまわない、と半ば脅しのようなことを言われ、彼女の繰り出す強調子の言葉を必死に写し取る人形としての教祖……。感服です。There will be blood でも、性と暴力と宗教がテーマとして表れていたが、ここにそれがより鮮明に表れている。教祖が言うがごとく、ホアキンは本当に自由な人間だろうか? 来世には最大の敵になるとは本当だろうか? そういう読みが教祖のなかに胚胎されるほど、彼らは親密な世界にいたということであろう。この作品はサイエントロジーというカルト集団の創始者をイメージしているらしい。トラボルタやトム・クルーズが宣伝塔となっている、あの教団である。


3 Trick ラスト(T)
相変わらずの脱線映画だが、これで終わりなのがさみしい。もっとこの調子でいってはどうか。世紀の巨乳(貧乳)天才(凡才)美女(まあまあ)マジシャンが活躍するわけだが、今回は少しうらがなしい。南方の霊能者と入れ替わって救世主となるのは感動的でさえある。これだけ遊びまくる映画なのに、その悲しさにきちんとたどり着く手腕はただものではない。ラストも虚実皮膜のあわいを行っていて、OKではないだろうか。それにしても、女性蔑視もはなはだしい映画だが、上田もヅラ刑事もからかわれているから、おあいこか。


4 シャッフル(D)
まだサンドラ・ブロックの見ていない映画があった。恐い映画なのでパスしてたらしい。原題はpremonition、予感という意味である。日本題のほうが的確なような気がする。夫の死から時間軸がずれるわけだが、それは夫の死を彼女が目撃したショックの影響ではないのか。ラストまで見ると、そういう解釈になる。確かに予見によって彼女は夫の死の現場へと行くわけだが……。


最初に幸せそうな夫婦を撮し、それから急な死の知らせに入るから、きっと仲のいい夫婦なのだろうと思うわけだが、回想シーンがおかしいのである。シャワーを浴びる夫に近づき抱きしめるのだがキスを交わさない。夜、夫とベッドに並んでいるが、夫は背を向けて取り合わない。結局、二人にはすきま風が吹いていたというわけである。そのへんのことが少しずつ明らかになっていく様子がよく描かれている。サンドラに外れなし、と言っていいのではないか。


5 殺人の告白(D)
監督チョン・ビョンギル、「殺人の追憶」の後編のような映画である。ただし、面白い仕掛けがしてあって、そこまでがちょっと長い。よけいなカーチェイスなどを入れているが、別に韓国映画でハリウッドを味わおうとは思っていないので、興ざめする。もっと密度の濃い、韓国映画らしい怨念の世界に踏み込んでほしい。韓国の監督がハリウッドで映画を撮り始めているが、さてどうなのか。自分の風土で撮って初めていい映画ができるのではないのか。そもそも闇や草の色から違うのだから。


6 リトル・ヴォイス(D)
ぼくは2回目である。Jane Harrocks というミュージカル女優のために書かれた戯曲をもとに映画化されたもので、ワンナイトショーで見せる彼女のパフォーマンスには度肝を抜かれる。ユアン・マクレガーが若々しい。落ちぶれたプロデューサーがマイケル・ケインリトル・ヴォイスの母親がブレンダ・ブレッシンでど迫力である。小品だが、ハロックスを見ているだけで幸せな気持ちになれる。彼女の写真集を探したが、イギリスでも出ていないようだ。現在、50歳。Youtubeで見る彼女はあまり魅力的ではない。


7 ブレイキング・ポイント(D)
なかなか渋い映画である。ダイナーに風采の上がらぬ男が入って来て、一人の客に何発も弾を撃ち込む。そして、踵を返して、父親、娘とその男友達のテーブルへやって、テーブルの端に銃身をコツコツやるところで病院のシーンへと飛ぶ。この跳躍があとで、いろいろな意味で効いてくる。


娘は急に堅い信仰の徒のように振るまい始める。そして、父は勇敢だったと言う。男友達は言葉を発しない人になり、世相に鬱屈を抱えた父と距離が縮まったかに見える。がんの告知を受けた黒人の客は犯人の隙を見て襲いかかろうとするが撃たれ、首にケガを。彼は病院を抜け出してカジノでアップダウンを経験し、やくざから借りた2万5千ドルを一晩で使い果たし、腕をツブされる。犯人とすれ違いで外に出た医師は、病院でさっきのダイナーの結末を見ることになる。彼は家に帰り、妻に副作用のある偏頭痛の薬を料理に混ぜて殺そうとする。レストランのウエイトレスは乳飲み子にミルクをやることを怠り、身体をあずける男を捜す。医者もその一人であるが、児童保護局に連絡される。


無口の男の子がレストランに銃をもって戻る。そこに娘と母親がやってくる。少年は彼女に本当のことを言えと迫る。父親はおびえて何もできず、小水を洩らしただけであったことを少女は告白する。最後は、カジノに黒人の娘が迎えに来るところで映画は終わる。


まさにそれぞれのブレイキング・ポイントが描かれた映画で、少しずつ追加の映像が流されるところがよくできている。残念なのは、医師が妻殺害に及ぶ動機がいま一つ分からないという点と、少女の信仰から覚める感じがあっけない点である。ウエイトレスをベッキンセール、医師をガイ・ピアス、黒人をウィトテイカー、娘をダコタ・ファニング、監督がロワン・ウッズ。


8 カラスの親指(D)
見ていられない。もう一度、トライするもやはり無理。阿部寛の演技も間違っているし、撮り方に一つも工夫も無い。出だしが原作と変えてあるからイケそうかなとも思ったのだが……。能年玲奈という女優を初めて見たが、先が思いやられる。


9 TATOOあり(DL)
高橋伴明監督で1982年の作、宇崎竜童が主演、関根恵子が相手役。音楽をシーンごとに入れるなど時代の匂いを感じるが、映画はじっくりと撮っていて好感である。母親役が渡辺美佐子だが、息子はこの母親の圏内から逃れることができないし、そうしようとも思わない。男なら30歳までに大きなことをすべきという母親の言葉に縛られて、銀行を襲うことに。原案は梅川昭美の実際の事件から取っている。当時、彼が行内でやった非道はマスコミは流さなかったが、後年、その残虐な所行が報道された。結局、この男を駆動させた元々のものが何であるかは分からない。被差別かもしれないし、両親の離婚かもしれないし、実の父親に愛されなかったことかもしれないし、その父親に生活力がなく母親に依存していたこともしれないし……破局に至る本当の理由は分からない。監督はそれを明示するつもりはまったくない。あるがままに犯罪に至る人物像を追っていくのである。大杉漣戸井十月などが出ているようだが、気づかない。プロデュースが井筒和幸、助監督に周防正行がいる。伴明監督、この作をとうとう超えることはできなかったのではないだろうか。


10 ワンディ―23年のラブストーリー(DL)
アン・ハサウェイが主演、学生時代に同衾するも事に至らなかった友達同士が、社会人となってもえんえんと付き合い、お互いにほかの人間と結婚もしながら、最後には結ばれるものの、あえなく女は交通事故で死んでしまう。1回しか見ていないのでよく事情が分からないのだが、映画のラストで分かるのは、同衾せずの後、二人で丘に散歩に出かけ、急にセックスをすることに話が決まるものの、男のアパートメントに戻るとその両親が来ていて、せっかくの機会を逸してしまう。そのことが二人の関係を続けさせた大きな理由かもしれないと思わせる作りだが、あるいは、ベッドを共にしながらもセックスに至らなかったのは、それをすると相手の女性を、いつも自分が遊びで付き合う女性たちと同じ位置に置いてしまうことを暗に恐れたからではないか、と考えれば、二人の関係が長く続くことの意味が分かってくる。何度かはっとするほど、ハサウェイがきれいに見えるシーンがある。男は、「アクロス・ザ・ユニバース」で、ビートルズの曲を中心に物語が進行する、その映画の主人公を演じた役者で、ジム・スタージェスという。色気があって、なかなかいい役者である。


11 ベルリン・ファイル(T)
舞台がベルリン、そこの北朝鮮支部長の座を奪おうとする一味があって、故国の英雄の妻がスパイに仕立てられ、その上司も資金を持って亡命するところを殺される。抜きつ抜かれつなのだが、いったい誰が何をやっているのか分からないで進行する。結局、故国の英雄の妻は身籠もったまま死に、英雄は韓国の諜報員に逃がしてもらう。その英雄を、「哀しき獣」のハ・ジョンウが演じていて、相変わらず哀愁がたっぷりである。アクションが切れ味があっていい。妻が「猟奇的な彼女」のチヨン・ジヒョンで、何度も確認して、やっと彼女だと確信。だいぶ大人びたものだ。それにしてもこの映画、ごちゃごちゃし過ぎていて、中身が追い切れないのは問題ではないのか。ぼくは、韓国映画の海外舞台の作品を初めて見た。


12 アメリカンハッスル(T)
期待の映画だったが、こんな小さなスケール感の映画かとがっくり。コンゲームの一種だが、伝説のマフィア(デニーロがちょい役)にバレそうになってからがスッキリしない。ウィッグで頭頂禿げを隠す一九分けのクリスチャン・ベイルは芸達者、彼はこれで俳優生命が延びたのではないか。それにしても、アメリカの映画ではかつらの主人公とは、見ないキャラクターである。エイミーアダムスがやたらハミ乳を見せるが、なんだかゴムまりみたいで偽物っぽい。ジェニファー・ローレンはそれほど演技うまい感じがしない。一本調子なのだ。FBIを演じたブラッドリー・クーパーは好感を抱くことができない。ヤンキー市長を演じたジェレミー・レナーは線が細い感じで、もうちょっと押し出しがほしい。アラビアが語が話せないはずのメキシカンが、どうして急にアラビア語を話すのか分からない。


13 ジャスティス(DL)
なぜこの映画を早く見なかったのだろう。軽いタッチで、重い主題をスマートに扱ったもので、手練れである。監督ノーマン・ジュイソン、脚本の一人がパリー・レヴィンソン。ジュイソンは『シンシナティキッド』『夜の大捜査線』『華麗なる賭け』『屋根の上のバイオリン弾き』『ジーザスクラライスス・スーパースター』『ローラーボール』『アグネス』と綺羅星監督である。レヴィンソンは『グッドモーニング・ベトナム』『レインマン』『スリーパーズ』『リバティハイツ』『ワックザドッグ』などの脚本を書いている。ものすごい組み合わせの映画である。


アーサーははぐれ者弁護士だが、貧しい人たちの弁護に精が出るタイプ。彼の同僚は努力むなしく被告を長期実刑にし、その後、すぐに自殺したことで精神の均衡を失う。アーサー自身も無実を信じる若者を実刑5年にさせられ、若者は監獄で看守を人質に取り、わずかな隙に外から射殺される。査問委員会に属する女と情事を重ねるが、二人は価値観の違いから喧嘩が絶えない。アーサーになにかれと目をかける判事(ジャック・ウォーデン)は、自殺願望があり、へりで油切れになるまで飛んだり、裁判所の4階の窓の張り出し縁で昼食をとり、トイレには猟銃を持って入る。いくつかの話が進行しているときに、アーサーに厳罰主義の判事(ジョン・フォーシー)から弁護を依頼される。レープ事件だという。当然、断ろうとするが、判事は彼の資格取得をちらつかせて、弁護を引き受けさせる。しかし、先の射殺された若者の再審理を求めに行ったときに、一般社会は犯罪にうんざりしている、なるべく重い刑にしてぶちこむべきだ、との判事の言葉に密かに決断し、法廷で……。


いくつかの話を並行で走らせながら、ラストの場面へと進んでいく道行きが、余裕があっていい。それぞれのキャラクターがきちんと点綴されている。まるで夜の都会の警察署のような賑わいの裁判所、ゲイの収監者をからかう先住者たち、裁判が行われている吹き抜けの2階の回り廊下で検察官と弁護士が必死で落としどころを探りあう場面など、印象に残るシーンが多い。ジュイソン、そしてレヴインソン、恐るべし。


14 拳銃の復讐(D)
原題はOdds Against Tommorow である。ロバート・ワイズ監督で、制作にハリー・ベラフォンテが参加し、劇の中にも登場する。主演エド・ベグリー(「12人の怒れる男」)、ロバート・ライアンワイルドバンチ?)、シェリー・フィンター(「ポセイドンアドベンチャー」で太っちょの可愛いおばあちゃんを演じた)。それぞれお金に困った男3人が銀行強盗を狙うが、どうしても黒人が一人必要な設定になっている。銀行にお金が集まってしばらくすると、裏の通用口に近くのダイナーから黒人がいつもコーヒーを運んでくるのが日課になっている。いちばんお金が集まる木曜日に決行するのだが、最後は仲間割れが起きる。ベラフォンテが人種問題を入れた映画を撮りたかった由。


ロバート・ワイズの作品歴が華麗である。B級から始まり、市民ケーン、ウエストサイド物語、サウンド・オブ・サイレンス、砲艦サンパウロスタートレック(1979年)と堂々たるものである。始めの道路脇の水たまりがきれいで、途中でも水たまり、川と水が関連してくる。マフィアに借りた金が返せず、脅されているベラフォンテが別れた女房のところから子どもを連れ出し、遊園地で遊ぶシーンは、まずメリーゴーラウンドの馬の顔を大写しし、次に幔幕に映ったそれらの影を写し取る。それから彼の顔にカメラが向けられるのだが、それは仰角で、あくまで不安な構図である。ほかには、ライアンがウサギを銃で撃つと、シーンが切り替わってベグリーが小さな石ころで空き缶に何度か当てる。似た映像の移りを狙っているわけだが、あとはあまりこれだといった映像はないが、のちに種々な映画を撮る下地はあるように思う。


映画自体は強盗に押し入ってから急に力を失っていく。それは強奪の計画がずさんだったこともあるが、監督もどう演出すべきか分からなかったのではないか。竜頭蛇尾というやつである。拳銃を撃つときに身体の動きをストップした状態で正面から撮るわけだが、その間抜けな映像からどう抜け出すか、といったことでアクション映画などの撮影技法が徐々に上がってきたのではないだろうか。


15 ハッピーロブスター(DL)
ドリス・デイジャック・レモンが主演、たわいない話だが面白い。1959年公開で、日本には未着。ドリスはロブスター販売を手掛けるが、鉄道会社のせいで荷がダメになる。会社はやり手の強欲男に買収されたばかりで、さまざまな訴訟に勝ってきた男である。それに友人の弁護士レモンが手を貸して裁判に持ち込み、列車を押さえ込んだりの奇手を放ったり、テレビに出て相手の不正を宣伝したり、なかなかの戦い方をする。ところが、相手はさらに強硬手段に出て、鉄道を廃線にしようとする。ドリスの見方だった町の人たちも急に尻込みを始める。そこでレモンがタウンミーティングで一説ぶつところがハイライトで、この町は直接民主制をとっている誇りある町で、かつて海で多数の遭難者が出たときも、何も報酬のことなど言い出さず救い出した高潔な歴史があるではないか、ここがアメリカの神髄の町なのだ、とやる。この一節で住民は立ち上がり、ドリスを救い、レモンを長年落選してきた行政官に選出する。この演説では、勇気をもって先住民を追い出した、とも語っていて、英語ではインディアンとなっている。アメリカで放送するときは、ピーが入っているのだろうか。


いくつか面白いところがある。ロブスターにはメス、オスがあって、サムという名のロブスターはオスなのにいつも間違ってメスの生け簀に入れられている。どういうわけかサムはいつも室内に入り込んでいて、慌ててレモンやドリスが生け簀に走って入れに行くのがおかしい。町の電話交換手は一人の女性で、小さな段ボール箱ぐらいの機器を使って電話を取り次いでいる。この女性はビール好きで昼間から仕事をしながら飲むのだが、プルトップではなく栓抜きで2箇所に穴を空けて飲んでいる。鉄道会社の社長、リタイアした機関士も含め、男どもは話の頭を強く出て、あとは一気呵成に早口にしゃべる喋り方をする。これは昔の映画に共通のもので、いつから普通のしゃべりに移行したのか調べる価値がある。ドリスの主導でボーイスカウトの歌を歌うシーンがあるが、困っている人には席を譲ろう、きちんと片付けものをしよう、人種は問わず付き合おう、などとパートごとに子どもに歌わせるのだが、こういういったかたちで子どもに道徳が入っていくのは自然である。道徳教科書に偉人が入ったからといって効果があるとは思えない。しかし、人種は問わず、と歌っている10人ぐらいの子どもたちのなかに黒人の子は一人もいないのだが。


よく戦後の日本によきアメリカ、民主の国アメリカを宣撫しようとしたといわれるが、実はアメリカ国内においても事情は同じだったのではないか。それはこの映画を見てみれば分かることで、民主主義を広める巨大な仕掛けとして映画産業が機能したことは間違いない。ある人が、アメリカの草創期の有名な演説や憲章をいろいろ調べて、そこにデモクラシーの言葉が見つからない、と書いていたが、それは徐々に意図的に広められた擬制であったのではないか、というのがぼくの考えである。


16 キックアス2(T)
前作から3年は経っているだろうか、あまりクロエ・グレース・モレッツの印象が変わらない。学校で冴えない女の子が悪と戦うヒットガールという設定。意地悪女王型クラスメートにいじめられ、それに反撃するところなど「キャリー」である。後者でもモレッツが着飾るシーンがあるが、今作でも初デートのときにミニスカートで彼女が現れると、息を飲むほど美しい。全編にえげつない作りになっていて、手首を切り落としたり、器械で上下でゲロさせたり、あと言葉遣いも汚い。なんでこんなものにしてしまったのか。前作が持っていたカンフー映画とヒーローものと少女ものを組み合わせた良さがなくなっている。元マフィアの大佐というのが出てくるが、それがジム・キャリーだとは後で調べるまで分からなかった。なぜ彼がヒーローとなろうとしたのか、そういうちょっとしたことさえ描かれていない。モレッツは「バァッファロー66」のクリスティナ・リッチに感じが似ている。小さいけどナイスバディ、妙にエロティックである。


17 エージェント・ライアン(T)
完全に2が予告されているような出来である。ボンドを思い出したり(パーティのシーン)、ボーン・アイデンティティを思い出したり(カーアクション、闘いアクションのすごさ)、ダイ・ハードだったり(金融攪乱を企む頭脳的な敵)、今までのアクション映画のごった混ぜ的な仕上がりである。とくに敵の攻撃目標が地上ではなく地下だと見抜くところなど、ダイ・ハードでやった手口である(あるいは、トム・クランシーの原作の方が先?)。監督がケネス・ブラナーで、今作ではロシアの悪党を演じている。テレビ映画「刑事ヴァランダー」で見ている役者だ。主演クリス・パイン、「アンストッパブル」で見ている。女優がキーラ・ナイトレイ、不思議な表情をする役者さんである。夫がエージェントと分かり、めまぐるしく犯人探索の指示を出す様子を、なかば呆れ・驚き顔で眺めるところなど、なかなかのものである。展開は速いが筋は一本なので、頭を使う必要はまったくない。そういう意味では、先の3作もあまりごちゃごちゃした筋にしない。


18 大統領の執事の涙(T)
ウィトテイカー主演、アメリカ大統領の側で働いた黒人執事の話である。領主に母を犯され、それを咎めようとした父が殺される。少年は屋敷で執事のマナーを教わるが、身の危険を感じ脱出する。町のレストランのガラスのショーケースを割り、パンを食べているところを執事に見つかる。客の話を聞くな、相手のしてほしいことを感知しろ、など厳しい修練に耐え、彼は青年へと育ち、大統領の執事長(白人)の目に止まってホワイトハウスへ。長男は反戦運動家へ、息子はベトナムで死ぬ。それぞれの大統領は黒人の地位を上げようと多少の違いはあれ努力をしているのが見える。しかし、黒人執事と白人のそれとは給料も格段に違い、いくら彼が直談判に及んでも、それでは辞めていい、と言われるばかり。キューザックがニクソンを演じるが、彼は副大統領のときに黒人執事の給料を上げる、と約束するが反故にする。ブッシュジュニア政権でホワイトハウスを去り、彼はオバマの誕生をことのほか喜ぶ。息子とも和解し、息子は政治家への道へと進む。黒人の執事の存在は、黒人の地位を上げることに大いに貢献があった、とする映画である。


19 ステイン・アライブ(DL)
スタローンが監督で、脚本である。彼は自演のものは監督しているが、ほかにはいくつもない。しかも、踊りである。何があって、この映画を撮ったものだろうか。トラボルタ主演、彼女役がシンシア・ローズ、敵役の女がフィオラ・ヒューズ。悪ガキがそのエネルギーで前衛ダンスの主役を勝ち取り、最後には筋さえ変えて自分で踊りまくる。それってなしだよね、という設定だが、やってしまう。その前衛ダンスがいかもので、もっと洗練されたものならよかったのに、と思うが、やはり力がある。さすがの悪ガキも彼女に振られ、狙った上級女にも振られたあと、母親を訪ね、昔の自分は本当の自分ではなかった式のことを言うと、母親はあれだけ突っ張ったからスラムを抜け出せたといったことを言う。それが彼の一つの転回点である。


このあと、ぼくの印象ではトラボルタは長い雌伏のときに入る。タランティーノに引っ張り出されるまでが長い。実際、この映画が83年で、翌年あたりは3本ほど撮っているが、あとは年に1本ぐらいのペース、ところが94年のパルプフィクションからぐんと本数が増え出す。タランティーノ様々である。ぼくは喜劇のBe Cool や Get Shorty がけっこうマニアックで好きな映画である。


20 ビル・カニンガム(DL)
こういうドキュメントをDLで見ることができるのは幸いなり、である。NYタイムスでon the Street というページを持つ写真家を追ったものだが、もう一つ社交界のパーティ写真も撮っている。前者ではファッションのトレンドを一般の人の服装から見つけ、実際それが半年もすれば流行となって現れるという。社交界通信は、だれが出ているから行くというのではなく、どういう趣旨の会かで決めているという。彼は若いころ、帽子屋で、人の金を借りて経営していたが、徴兵にあったときに過酷な取り立てが家族に回ったという。お金に余裕のある金持ちがそういうことをすると知ってから、彼はある雑誌で金を貰わずにページを作ることを続けた。いわく、金は人を不自由にする。


住まいがカーネギー・ホールの上階、すでに立ち退きが進み、住んでいるのは彼と友人の女性写真家、そして一般の老女。部屋は狭く、それも写真を仕舞ったキャビネットで一杯である。質素で、破れた道路清掃人用の合羽はガムテープで補修する。食べ物は安いサンドイッチやハンバーガー。それでも好みの店があるらしく、NYTの食事はまずいと言う。パリに取材に出かけても、食事は安いダイナーに。


自転車でNYのいつもの四つ角に来て、そこを通る人びとを撮りまくる。パーティに行くのも自転車である。28台盗まれ、いまが29台目。写真はフィルムで、しかも手巻きである。意外と小さ目なカメラで、ストロボは本体から離して使う。紙面レイアウトはもちろんデジタルだが、オペレーターに彼の指示は飽くことなく続く。パリに半年に一度は出かけるが、目はいつも新しいものに触れさせていないとダメだと持論を言う。フランスファッション協会から賞を受け、そのスピーチで、美を追う者は美によって報われる、式のことを述べる。


彼に2つの質問。恋愛の経験は? 彼は仕事が忙しくて、そういうことを考えたこともない、と返事をする。第2問、あなたに宗教とは? この返事に入る前に、彼は涙をこらえる。やがて声を出し、少年の頃は教会に来る女性の帽子に興味があったが、途中から変わったと言っている。彼は毎日曜は教会に行くという。彼はNYでhonestであることは至難の業と言う。まさに彼が仕事を通して行っていることは、そのこと。NYTのみんなが彼の誕生日を祝うサプライズをやるが、彼に捧げる歌の文句に、ねえビル、どうやればあなたのようにわがままを通せるの? というのがあるが、ずばり自分にも周りにもオネストだったからだ。ぼくは反省しきりである。


21 それでも朝がやってくる(T)
原題は12Yeasrs a Slave で、邦名ほど勇ましい映画でもないし、スカッとするものでもない。自由黒人といわれる音楽師がサーカス一座の音響を頼まれ、客の入りもいいというので余分に金を貰う。酒場でしこたま飲んで、起きた翌日には金具で手足を縛られて、知らない部屋で横たわっている。興行主から奴隷売買(ジオマッティ!)に売られたらしい。それからの12年、最初の主人は優しく、しかし現場監督に刃向かったことで、復讐を恐れ、よそへ逃げないとダメだということで次の過酷な旦那のもとへ売られていく。そこの主人は若い黒人女に入れ揚げ、妻との確執が生まれている。白人奴隷を信じて金を払って手紙を託そうとするが、男は裏切る。主人公も嘘をつき難局を逃れる。やがてカナダ生まれの、奴隷制反対流れ大工(ブラッド・ピット)に出遭い、彼に手紙を出してくれるように頼み、やっと苦境から逃げ出すことができる。


ある黒人女は領主の思いものになり、領主の妻から妬まれ、いじめられる。どこにも逃げ場がなく、主人公に川に沈めて殺してくれと頼む。身体が臭いからと隣の領主に石鹸を貰ったことを咎められ、はじめは主人公が代わりに鞭打ちを強制され、ついに領主が狂ったように打ち据える。最後に言うのが、自分の持ち物を好きなようにするのは気持ちがいい、である。この領主も、最初の領主も黒人に聖書を読み聞かせるのが好きだが、決して矛盾はないのである。なぜなら黒人は人間以下なのだから。


今年のアカデミー賞を取った作品で、肩が凝るほど恐い映画である。いわゆる荘園の旦那が気まぐれで、いつ暴力を振るうか分からないので、緊張が解けないのだ。現場監督からハンギングされ、別の監督に助けられるが、地に足が着くか着かないかの状態で放っておかれる。そのまま何時間か経つも、周りの黒人たちはいつも通りの仕事に余念がない。だから、余計にこちらの死に際の必死さが伝わってくる。口のくちゅくちゅ言う音、つま先の位置を変える音。


流れ大工に手紙を預けたあとの表情ということなのか、ほとんど静止画像のように、ややアップ気味に主人公を長めに撮るシーンがあるが、絵としては力があるが、それが何を意味しているのかは不明である。この監督は、冒頭から寄りの映像を多用し、こちらにその解釈の負担を強いてくる。安易だなあと思う。監督はスティーブ・マックイーン、「シェイム」を撮っている。あとIRAの収監された兵士を扱った「ハンガー」というのがあるらしい。主演キウェテル・イジョフォーで、あの「キンキーブーツ」の女装男である。最初の旦那がベネディクト・カンバーバッチ、これは新シャーロックホームズの彼である。2番目の旦那がマイケル・ファスベンダーで、クローネンバーグの「危険なメソッド」でユングを演じていた。どれもこれもややこしい名前ばかりだ。


22 ユー・ガッタ・メール(DL)
ノーラ・エフロンは親、姉妹が脚本家というハリウッド一家で、彼女は監督もやり、メグ・ライアンと組んでロマンチック・コメディなる分野で名を馳せた。スーパーのシーンが面白い。メグとトム・ハンクスが互いに顔を合わせないようにして、彼女は現金カウンターに並ぶ。ところが、現金が1ドルしかなく、別のラインに並べといわれるが、カードでと粘る。うしろの客は騒がず、現金がないんだって、などと言うだけ。ほかの映画でもこういうシーンがあるが、アメリカ人は鷹揚である。結局、カード決済ラインからトムが来て助け船を出してくれるのだが、それがレジの女性の名札からローズと名前を読み、いい名前だ、感謝祭が近いねローズなどという。うしろの客が「おれはヘンリーだ」と言うと、これにも「ごきげんよう、ヘンリー」と声を掛けて、優しい顔になったローズに現金を渡してOKとなる。こういうところに諍いの相手のトムの人柄が出るようになっている。


メグが風邪を引いて具合の悪いところにトムが押しかける。突然の客なので慌ててそこらへんにあるティッシュなどを片付けるのだが、その動きが昔の映画のなぞりのようになっている。ここらあたりを指してコメディと言っているなら、なかなかしゃれたものである。



23 アウト・アブ・サイト(DL)
ジョージ・クルーニーが銀行強盗、ジェニファー・ロペスFBI、監督ソダーバーグ。ロペスの映画は初めてである。車のトランクに詰められた二人が映画の話に興じるところなど面白い。ドン・シードルがいかれた犯罪者で、けっこう恐い。最後に押し込む金持ち(ムショで知り合ったやつで、ダイヤモンドの原石を金魚の水槽に隠して<石に偽装して>いる)の館に秘書的な女がいる。それがナンシィー・アレンで、何の映画で見たか思い出せない。たくさん出ているが、妙な色っぽさがある。


24 ディズニーの約束(T)
メリー・ポピンズ」を映画化するのに20年を要した理由が明かされる。原題はSaving Mt.Bank で、作者トラバース夫人の父親はアル中の銀行員勤め。世の中との折り合いが悪く、この世は幻だと娘に教える。病を得て現れたのが叔母、のちのポピンズさんである。しかし、やがて父親は死んでしまう。ディズニーは次第にポピンズ物語に隠された動機に気づき、夫人の説得に成功する。


ディズニーの評伝を読むと、あのウォルト・ディズニーにして商売の浮沈に見舞われている。後年はほとんどディズニー・ランドに入れ揚げて、アニメ制作に意欲がなかったと書かれている。そういえば、夫人の希望もあってポピンズは実写である。ロンドンからイギリスに契約交渉でやってきた夫人を、アメリカ人はみんなファーストネームで呼ぼうとし、その都度夫人は訂正をする。ウォルトにいたってはパルメ・トラバースをパムと言い続ける。夫人を演じたエマ・トンプソンがきれいである。運転手役がジォマッティで、また出てるのね、である。彼の娘が車椅子の障害者らしく、最初天候の話をするので、夫人はカリフォルニアなのになぜ、と尋ねるシーンがある。あとで、雨の日は外に出してやれずかわいそう、とジォマッティが言うシーンがある。夫人は別れの空港でジォマッティにはがきを渡し、そこにアインシュタインなどの著名人3,4人の名前が記されている。いずれも障害を持ちながら大活躍した人たちの名前である。


監督ジョン・リー・ハンコック、脚本ケリー・マーセル、スー・スミス。いいできばえの映画で、トラバース夫人の頑なさが取れるとともに、彼女の過去の核心が明かされる構図になっていて、それがじっくりと作品創作の過程と同時進行で進んでいく。それは見事なアンサンブルになっている。劇中劇のかたちで披露される曲も懐かしく、ジュリーアンドリュース好きのぼくには、ひときわ印象深い映画となった。


25 新しい人生の始め方(DL)
エマ・トンプソンの出ている映画をすぐにチェック、そしてこれがダスティ・ホフマンとの老いらくの恋物語である。娘の結婚式にアメリカからやってきたCMソング作曲家が空港にいる女性検査官(?)と出会う。仕事は打ち切られ、式でははじっこに座らされ、バージンロードも娘と歩けず、といった中老の男が恋に落ちて、復活するというもの。トンプソンは母子二人で、別に住んでいるが、頻繁に携帯に電話がかかってくるし、近くに住んでいるのでよく顔を出す。父親は若い女を追って家庭を捨て、本人も堕胎の経験がある。同僚が仕掛けてくれたデートに相手の知り合いが加わり、彼女ははじっこに。どこか集団に打ち解けないところが二人の共通点である。なぜ強く惹かれ合っていくか分明ではないが、何か波長の合う部分があるのだろう。トンプソンがかなりウエイトがありそうで、「ディズニーの約束」とはだいぶ体型が違う。最後に、ホフマンの身長に合わせてハイヒールを脱ぐが、なかなかのラストである。監督のジョエル・ホプキンはあまり本数を撮っていない。


26 エルビス・オン・ステージ(DL)
1970年のラスベガス・インターナショナルホテルでのコンサート3日分を編集したものらしい。後編が本チャンで、前編が粗編集ということなのか、分かりにくい構造になっている。ぼくが見たプレスリーのオン・ステージはハワイだった気がするのだが。それにもっと太っていた。プレスリーが「サスピシャスマインド」などを歌うことに違和感があった。やはりCCライダーであり、ポーク・サラダ・アニー(この歌詞のいい加減なこと!)が好きである。ハートブレイクホテルは画期的な曲らしいが、ぼくは遅れてきたプレスリーファンである。彼は「明日に架ける橋」を歌っているが、サイモンも「グレースランド」を歌って報いている。ホテル支配人は、ここを満員にできるのはシナトラとストライザンド、サミー・デイビス・ジュニアと言っている。ストライザンドはプレスリーに映画の共演を持ちかけたことがあるらしいのだが、プロデューサーであるパーカー大佐(綽名)がギャラのことで断っている。彼の付き人だったジェリー・シリングのMe and Guy Named Elvis を読むと、プレスリーという人が愛おしくなってくる。ある時、プレスリー夫妻、シリング夫妻で町に向かう途中、ラジオからプレスリーの新曲が流れてきて、急に家に引き返したことがあった。最終録音版を出して聞き比べると、明らかに違っている。シリングはこう書いている、「このときのことをよく覚えていないのは、ほかにも同じことが何度も起きたからだ」。パーカー大佐はプレスリーの曲をすべてRCAに売却したことで、印税の収入を断った張本人だが、シリングによるとプレスリーは決して私的な領域に彼を入れないよう注意をしていたという。独立独歩、我を枉げないところなど、二人は似ているとも記している。


27 大魔神(DW)
ゴジラは54年、大魔神は66年である。この間、大映は何をしていたのだろう。ゴジラと同じく二線級の役者を揃えた映画で、幼少のみぎりでもさみしい思いをしたものである。高田美和お姉さんは美しく思えた。魔神が腕を眼前に交差させると仏の顔から鬼の顔に変わるのが、ひたすら恐かった。初編は魔神は土に帰り、続編は火、水と、子供心にもよくできた設定だと思ったものである。今回、驚いたのは、魔神登場は残り5分の1といった、かなり終盤だったことだ。出るぞ出るぞでなかなか出てこないパターンである。藤巻潤が出ているが、この人はその後テレビで活躍したのではなかったか。悪役で遠藤辰雄があまり喉に音を籠もらせないでしゃべっているのが意外で、あのしゃべりは演技だったのか。魔神を鎮める踊りとその踊り手の衣装は、どうしてああも南方系の感じになるものか。これはほかの映画で決まってそういう演出になる。それはなぜなのか理由を知りたいものである。


28 LIFE(T)
見て良かったという類いの映画である。ベン・スティラーが監督・主演で、脚本はスティーブ・コンラッド。クレジットの流れるところから粋である。単純なストーリーだが、最後にうっちゃりを食う。前にも映画になっていて、ダニー・ケイが主演。原作はジェームズ・サーバーの短編らしいが、今作も含めてまったく原作とは内容を異にしているらしい。アメリカではとても有名な短編らしい(アメリカで短編アンソロジーを編むときに最も採用されることの多い作品らしい)。主人公がデイドリーマーであるところと、パイロットになるなど突飛な夢を見るところだけを借用しているようだ。自然の描写が美しく、大画面で見る映画である。雑誌LIFEがビジュアルで鳴らした雑誌なことは知っているが、そこの写真管理者が主人公である。現像もやっているので、日本語で何と言うのだろうか。デジタル化で首切りに遭うが、final edition を飾る写真が意外なのである。実際にはケネディ銅像が、最後となった2007年4月20日号のカバーを飾ったのだが。出演者では、姉のオデッサ役をやったキャスリン・ハンが妙な味があった。弟にぐっと馴れ馴れしいのだが、底深い愛情を持っていて、性格は極めてweirdである。舞台でも活躍しているようだ。


29 ロボ・コップ(T)
つい見てしまいました。頭と胸と左腕の先しかない人間がロボットとして再生させられる。本当は本物を警官として使いたいのだが、一般のロボットへの拒否反応があるので、半ロボットで成績を上げてガードを低くさせようとする。それがうまく行ったかに見えたが……。主演ジョエル・キナマン、妻がアビー・コーニッシュ、博士がゲイリー・オールドマン、ロボット製造会社の社長がマイケル・キートン、そして警備部隊長みたないのがジャッキー・ハール・アーレイで、何の映画かで世をすねた変なオヤジ役をやっていた。いろいろな悪役を混ぜ合わせたような印象の役者である。キートンの社長室の壁にフランシス・ベーコンの絵が掛かっていてハッとしたが、次のシーンでは別のものに変えられている。監督、遊んでますね。


30 ナッティ・プロフェッサー(DL)
エディ・マーフィがやせ薬を発明する超肥満教授ほか何役かを演じる。とにかくお下品このうえなく、大方は早回しをしてしまった。マーフィーには洗練されたよさがあったのだが、それがどこかへ吹き飛んでしまった(もう白人は狙わないということか)。アメリカンコメディのこの過剰さには付いていけない。


31 恋のてほどき(D)
監督ビンセント・ミネリ、主演レスリー・キャロン、脇にモーリス・シュバリエ。1958年の作で、ミュージカルで原題はGIGIでリメイクらしい。じゃれて遊んでいた年下の女の子に異性を感じて愛し始めるが、相手は戸惑うという話である。シュバリエがむかし恋遊びで鳴らした男、その甥っ子が女の子に惚れる設定である。甥にしろシュバリエにしろ、ほとんど話しているような歌い方で、レックス・ハリソンが「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授役を引き受けるのに、しゃべるように歌うのを条件にしたというが、もうだいぶ前からそれはやられていたことになる。パリが舞台で、みんな変な英語を話すミュージカルである。アイススケート場が出てきたり、女の悪口を歌にするのに、声を出すとバレるので、内面の声ということで歌うシーンは珍しい。噂の人間がカフェに入ってくると、いままで騒がしかった客が一斉に黙り、ストップアクションになり、当の人物が着席するとまた喧騒が戻る、という設定が面白い。甥っ子は、幼かった彼女が急にレディのように振る舞うのが不満なのだが、それをこの映画は明確に伝え切れていない。最後の男の逡巡も中途半端な描き方である。そのあたりがうまく処理できていれば、この映画はもっとよくなる。主役のレスリー・キャロンジュディ・ガーランドタイプで、もしかしたらミュージカルにはゴージャスな女優は合わない、みたいな鉄則があるのかもしれない。まさかミネリ監督のご趣味だとか(ガーランドと結婚している)?


32 フローズン・グラウンド(DL)
ニコラス・ケイジが転職間際の刑事、シリアルキラー候補がキューザック。妻にオーラルセックスを求めるのは失礼だから娼婦を買うという理屈をぬけぬけと言うキューザック。彼はかつて娼婦に暴力を振るい、銃を向けたことがあったが、無罪になっているらしい。それが一人の女を逃したことから過去の犯罪が暴かれることに。初めは捜査にのめり込む夫に否定的だった妻が妙に物わかりがようなるのが分からない。もっとごねたほうが、映画的には深みが増すはずだが。ケイジ刑事は妹を無残な事故死をさせていて、その悔いから若い娼婦を庇う。ありきたりだが、この映画はそれに支えられている。それにしても、カナダ(都市は分からない)にも娼婦街が厳然とあるのが、驚きである。


33 相棒3(H)
自衛隊出身者が民兵を組織し、細菌兵器をもって、あるプライベートな島を基地にする、という設定で、自衛隊上層部、政治家とも結びついているが、細菌兵器(天然痘)の開発が分かって自衛隊が出動する。途中、争いが起き、自衛隊の隊長を押さえたのに、どういう訳か民兵側が譲歩したかたちになっている。それとは別に単なる事故と思われたものが殺人と分かる謎解きが進行し、そっちが主眼のはずだが、なんだかよく分からない。蹄鉄が一つ無くなっていることがどう殺人と結びつくのか、それが分明ではない。蹄鉄を溶かしてステッキの柄にして、それで人を殴ると馬がやったように見えるのか? それもよく分からない。最後は、国防論争で終わりだが、細菌兵器を自衛のための武器というのには笑ってしまった。そんなアホなである。


34 夜の豹(D)
58年作で、監督ジョージ・シドニー、主演シナトラ、女性がリタ・ヘイワース、キム・ノヴック。クラブ歌手のシナトラはNYで客に手を出してサンフランシスコに流れてきたという設定。バーバリーとかいうクラブに潜り込み、すぐにそこの踊り子たちと仲良くなる。なかの一人がキム・ノヴァックで、ナイスバディだが可憐なところがある。シナトラは上昇志向が強く、元ストリッパーのシンプソン夫人、これは元ストリッパーで彼とは面識あり、その夫人の気を誘って、念願の店を持つことに。しかし、キムに嫉妬した夫人が解雇せよと迫り、受け入れないので初日にいsて閉鎖することに。結局、人に命令されることの嫌いなシナトラはまたNYで客へと発っていく、ノヴァックと一緒に。


シナトラがどんどん自分を押し出していく役柄で、ぼくには珍しい感じがする。どこか繊細な感じのある役が多いように思うからである。ミュージカルと言うには難しい映画で、ほぼナイトクラブで歌唱は終始し、あとヘイワースが自分の家の居間で、シナトラはヘイワースの家のベッドルームで歌うだけ。シナトラが実に歌がうまい。CDで持っているが、さしていいとは思わなかったが、この映画ではじっと聞き入ってしまう。あと、ヘイワースが大きなハート型の吊り物の後ろで歌う曲が、やはり可憐でいい。


35 シビル・アクション(DL)
小さな所帯の弁護士事務所が大企業相手の公害問題に取り組んだことから資金難に陥り、結局、不十分な結論のまま和解ということに。公害で子どもを亡くした遺族にも不満が残り、もちろん弁護士たちにも不満が残り、事務所解散ということに。しかし、ジャンは一人公害を追い続け、環境庁に新事実を持ち込むことで、大きな成果を得ることができた。もちろん無報酬である。彼、ジャン・シュリットマンは公害問題専門の弁護士として活躍した実在の人物らしい。弁護士の仲間が、トニー・シャルーブ(連続TV名探偵ンク主演)、ウイリアムマーシー(経理担当、この人は脇でよく出てくる)、ゼイコ・イバネク(この人も脇でよく出てくる)とそれぞれくせ者揃い。主人公はもっと濃いトラボルタ。企業側がロバート・デュバルで、この人物造形が決まっている。法廷に真理などないという信念の持ち主で、昼飯は書庫か何かで一人小さなラジオでヤンキースの実況中継を聞くのが楽しみで、電話をしながら壁に向かって野球ボールを投げてはキャッチすることを繰り返す。ハーバード大から表彰を受け、生徒たちから背にネーム入りのイスを贈られたといって喜ぶ。ちなみに主人公はコーネル大卒で、なかでさんざん侮辱される。


36 スピード(DT)
ヤン・デボン監督、キアヌ・リーブスの演技がまずいことがよく分かる。サンドラ・ブロックが「異常な体験で結ばれた二人は長続きしない」と言うと、「ではセックスしてみよう」とはどういう会話か? サンドラの笑顔がかわいい。それにしても、のちに相当パクられた映画だと分かる。電車の上で格闘中に相手の首が障害物にぶつかって飛んだり、走る車の下に人間スケートのようになって潜り込んだり、この映画、もう古典かもしれない。見るのは3回目。


37 八月の家族(T)
メリルストリープ(母)、ジュリアロバーツ(長女)、サム・シェパード(父)、クリス・クーパー(叔父)、マーゴ・マーティンゼール(叔母)、ジュリエット・ルイス(次女)、ジュリアン・ニコルソン(三女)、ベネディクト・カンバーバッチ(叔母夫婦の息子)、ユアン・マクレガー(長女の旦那)、監督ジョン・ウエルズで、「エデンの彼方に」「ホワイト・オランダー」「アイムナットゼア」などを撮っている。脚本トレイシー・レッツ(テレビ畑のようだ)、プロデューサーがジョージ・クルーニーで、舞台の映画化である。そういう雰囲気の映画である。


家族の課題てんこ盛りといった感じの映画で、夫の不倫から別居で諍いの絶えない長女夫婦、次女は実業家といいながら何やら怪しい男とできたばかり、三女は病気の母を見守ってきたが、ようやく彼氏ができたのはいいがいとこ同士の関係、本当は異母兄弟と分かる。母は喉頭がんを患い、薬でハイになっては、悪魔的に家族の粗を指摘する。その夫は若い頃は詩人として世に出ようとしたが、家族のためにそれを諦め、アル中生活を続け、とうとう自殺することに。その知らせで、離ればなれの家族が集まり、さらに決定的な崩壊へと突き進むのである。


メリルストリープを見る映画になってしまうのは仕方がない。そこにどれだけほかの役者陣が存在感を表すかだが、クリス・クーパーにぼくは点を入れたい。非常にノーマルで、ヒューマンな人物を演じ、妻の家族たちのある種の異常性を浮き立たせる役を十分に果たしている。


39 パーカー(DL)
ステイサムの作品の中ではかなり上位に来るできである。ニック・ノルティが老けた義父で出ている。一緒に泥棒をやった仲間に裏切られ、そいつらを懲らしめようとするが、そのうちの一人の叔父がマフィアのボスで、執拗に狙われることに。刺客はナイフ使いで、ステイサムを部屋で襲うシーンのカメラがすごい。ちょっとした撮り方の角度で、次はステイサムがやられる、反撃する、といったニュアンスが瞬時に表現される。それは小気味いいほどだ。ジェニファー・ロペスがうだつの上がらない高級地の不動産屋勤めの女で、これが出てきてから映画がだるくなるのではないかと思ったが、うまくステイサムの妻を出してきて、きれいに処理をしている。おすすめ映画である。


40 48時間(DL)
ニック・ノルティついでに見たが、こんなにかったるい映画だったかとがっかり。往時はそれなりに面白く見ていたはずだが。ノルティの演技の下手さが災いしている。


41 懐かしい風来坊(DL)
こんなにたっぷり有島一郎を見ることができるなんて! よく分かんないけど、面白いなぁやっぱり。妻が中根千枝子、自殺未遂が倍賞千恵子ハナ肇が流れの土方という役。電車で酔っ払いが昼間からくだを巻いている。それがハナだが、むかしはこういう人がよくいたものだ。その懐かしいという感覚が全編にみなぎっている。ぼくらはもうこの地点に戻ることはないのではないか。


42 ドロシー&ハーブ(DL)
深夜の郵便振り分け作業員と学校の教師だった夫婦がコンセプチュアルアート、ミニマルアートの収集に生涯を捧げた様子が描かれている。ついに彼らの収集物はナショナル・アート・ギャラリーに移されるが、それでも入りきらず、よその美術館に寄贈される。売るために買ったのではないので、彼らは無償で提供する。謝礼金はまた絵の購入に充てられる。NY美術界にはなくてはならない人たちで、先に写真家のドキュメントの紹介を書いたが、かの町、あるいはかの国にはこういうインディペンデントで素敵な人がたくさんいる。ボブ・グリーンが主に取り上げた人びとだ。


43 盲探(DL)
ジョニー・トウ監督、アンディ・ラウ主演。盲人の探偵が主人公という設定が抜群だが、中身がダサい。喜劇を入れるのは香港映画の特色かもしれないが、少なくとも猟奇殺人を扱っているのだから弁えてほしい。ジョニー・トウ監督はほかに見たことがない気がする。へたっぴぃである。


44 ハイスクール・ミュージカル(D)
踊りより楽曲の充実したミュージカルである。ヒーロー的な生徒がいて、彼には思い人もいるが、そこに金持ちの意地悪女がちょっかいを出すという典型的パターンだが、これはこれでいける。金持ち女の弟が妙な存在感がある。それと、主人公二人のために作曲をするメガネのキュートな女の子も。



45 マンデラ(T)
ほぼ実話であるらしい。マンデラ生存中に全編をつなぎ合わせたものは見せているらしい。夫人のウイニーの了解も取っているという。今回、ウイニーとの離婚が、マンデラ就役中に彼女が過激化したことが原因と知り、そうだったのかという思いである。ウイニーを演じたナオミ・ハリスが秀逸で、彼女が拳を振り上げるだけで、パワーが感じられる。しかし、政治的には向かないだろう。いま南アは、後ろで白人が仕切り、表には黒人を立てている企業が多いという。マンデラの中庸主義は、もっと長いスパンで国を見なければならないということか。



46 日本女侠伝――侠客芸者(D)
山下耕作監督で、主演藤純子の博多芸者、健さんの炭鉱経営者という設定。悪人が金子信雄遠藤辰雄太鼓持ち藤山寛美。脇に桜町弘子、庄司花江、土田早苗。よくできた映画で、全体に緩むところがない。絵もきれいで、最後の戦いのシーンに踊りをかぶせるのはうまく行っていないが、十分に堪能できる。藤純子の型にはまった演技がかえって気持ちがいい。これはめっけものである。プロデューサーに後藤俊滋、日下部吾郎がクレジットされている。


47 ブルージャスミン(T)
ウディ・アレンはもう手練れである。過去と現在をまったく同じ平面で処理して、まったく違和感がない。そのほうがジャスミンのもつアンリアルな感じが際立つ。見ているうちに、これは「欲望という名の電車」だと思ったら、あとで小林信彦先生が文春でそのことに触れていた。アレンがテネシー・ウイリアムズに帰るとは。小林先生はアレンは喜劇よりシリアスのほうがいいと同じ号に書いているが、ぼくも賛成である。彼の作品では「インテリア」が第一ではないか。あの寒々とした、それでいて底に野性がうごめいているような作品。


48 暖簾(D)
前に見ている作品。川島雄三監督、主演森繁、妻が山田五十鈴、結婚できずに別れるのが乙羽信子、大店の主人が中村鴈治郎、その妻が浪花千栄子、長男が山茶花究。森繁が二役なので、せっかく情緒たっぷりに進む前半がかすんでしまう。二人同時にそう写すのかとか変な方向に関心が行くからである。コブを扱う老舗から暖簾分けをされて、室戸台風と戦時統制、徴兵で家業は倒産。戦後は、息子世代が切り盛りして、東京へ進出するなどする。東京は高くてもいいものを出せば売れる、大阪の品揃えもクラシックなものを揃えて、客の買い気を誘うなど、いまでも通用する商法が見られる。原作山崎豊子は、かなり細かい商店の内幕まで書いているようだが、そのあたりは映画からは省かれている。言葉遣いは独特で、「飲みたいんでしょ?」というのを「飲みというごはんやす?」と「ご」が挟まる発音が多い。これは船場の言葉遣いなのかしら。山茶花究が目立つ芸はしないのだが、やはり渋い。小さい頃にこの人に目が行ったのは、いかがな理由か。


49 オンリーゴッド(D)
ライアン・ゴスリング主演、舞台はタイで、恐ろしく強い現地警部にゴスリンの兄、母がやられる。映像を気持ち悪く、アジアを神秘的に、といういつものパターンである。一つ特徴的なのは、現地警部に花を持たせることだ。こんなアジアの描かれ方って、珍しいのではないか。そのかわり、ゴスリンには近親相姦のイメージが付与されている。これでおあいこというつもりなのだろう。


50 ハミングバード(T)
ステイサム主演で、アフガンからの脱走兵である。中国マフィアの手先となって大金を稼ぎ、ホームレス支援に回したり、別れた妻子に届けたりする。ホームレス支援のシスターと結ばれるが、彼女はアフリカへ転身していく。なにやらメリハリのない映画で、DVDでよかったかもしれない。ステイサムはもう一作来る。


51 社長忍法帖(D)
シリーズが終わっても、館主の要望が強く、その声に応えて新シリーズを始めた一作目。たるみもなく、三木のり平のギャグが効いていて面白い。とくに、盗聴器を使って、すぐ隣に座る森繁と会話するシーンは吹き出した。池内純子が追っかけ芸者、久慈あさみがちょっと色っぽいかみさん、札幌のバーのマダムが新珠三千代小林桂樹が技術部長、フランキー堺が札幌支社の写真、東野栄二郎が北海道の有力者といった陣立てである。新珠がバーのマダムが似合うのも不思議である。どうにも貞操の固そうな感じに見えるのだが。彼女のコメントを聞きたいものである。よく見ていると、やはり森繁は何かしゃべり終わったあとに、ちょっとした仕草をしている。それが彼の特徴なのだろう。


52 ドキュメント/ジョージ・マーチン(DL)
かのビートルズの敏腕プロデューサーのドキュメントで、息子と、あるいはポール、リンゴと話をしながら、過去を振り返る。ポールはレノンの詩に憧れ、レノンはポールの作曲に憧れた、という話は面白かった。マーチンはクラシックの人だが、EMIのなかでは傍流レーベルにいて、そこでやっていたのはピーター・セラーズなどを使ったコミックミュージックみたないなもの。ポールはそれを気に入っていて、マーチンと組むとなったとき、喜んだそうだ。その面白い組み合わせが、その後の自由なビートルズの変貌を支えた原動力かもしれない。マーチンは、愛国心から飛行機乗りになって2次大戦に参加したりしている。リンゴのドラムを最初は評価していなかった。というのは、彼は当初のドラマーが気に入らず、代わりを自分の好みのドラマーにしようと考えていたのに、ビートルズの面々が勝手にリンゴを連れてきたからである。ところが、次第にリンゴは独特なドラムをたたく、と評価は変わっていく。ちょっと聞いただけでリンゴのドラムと分かるという。そんなものなのか。「シルク・ド・ソレイユ」の音楽を息子と作曲したらしく、君はイコールパートナーとして参加するのだと息子に言うシーンは記憶に残る。


53 マイ・フェア・レディ(D)
10回は見ているだろうか。しかし、今回ほどイライザのポジションの悲しさを思ったことはない。ぼくは、社交界デビューの成功のあと、自分をほったらかしてヒギンズとピッカリング大佐が興じるところを、主役の自分を人形のようにしか思っていなかったと知って怒っているのだと思っていた。そうではなく、彼女はヒギンズによって根っこを引きちぎられて、当て処がなくなっていたのだ。もう男に色恋でしか太刀打ちできない、あるいは色恋を材料にして釣られるしかない、しがない存在にされてしまったのだ。前の彼女であれば、たとえ貧相な花売りかもしれないが、男にすがる必要などまったくない。飲んだくれの父親が金をせびりに来るような存在なのだ。もし花が売れなくなれば、何か違うものを売るだろう。周りはそれを真摯に手助けしてくれるだろう。符節を合わせたように父親が身を固めることになる。彼は結婚など墓場だと歌う。そう父親もまた自分一人で生きる根を枯らそうとしているのだ。イライザとヒギンズが仲直りしたあと、ヒギンズが命令口調に戻るところは、この映画に相応しい結末である。ぼくはそれはヒギンズの最後の甘えとかつては読んでいたのだが、いや従前の支配関係はこれからも続くというサインなのである。


54 ブラインド・フィア(D)
これはめっけものである。ちょっとヘップバーンの「暗くなるまで待って」の翻案っぽいが、それらしいシーンもあって期待したが、監督はそのなぞりはやらなかった。残念である。それでも室内に終始して、これだけのことをやれるのだから了としなくてはならない。一度、事を成したあと、しばらく経ってまた動き出すのは何のためなのか。唯一、そこの間が分からない。主演ミシェル・モナハン、きれいな人で、MIPゴーストプロトコルに出ているらしいが、覚えていない。あとで見直すつもりである。悪役がマイケル・キートン(頭が禿げて悪役というのは、いい流れである。ロボ・コップにも出ていた)、バリー・スローン、このスローンがけっこう味がある。ゴスリングみたいに出てくる可能性を感じる。監督は『ファガットン』のジョゼフ・ルーベン。


55 推理作家ポー 最後の5日間(D)
原題はravenで「鴉」である。ポーの大鴉の詩にちなんでいる。彼の作品をなぞる殺人事件が起きる、というもので、これまためっけものである。空想の産物が実際の殺人に移されるわけだが、シャッシャッと大鎌が人体に迫る場面など、ああポーの世界だと納得する。それにしても、ポーのイメージがまったく違う。彼は幼女趣味の男ではなかったのだろうか。三度、妻と死に別れた式のことが出てくるが、はてな?である。ジョン・キューザックが主演。


56 パークランド(T)
ケネディ暗殺後の四日間を描いている。事件を撮した服地輸入商(?)、犯人オズワルドの兄、シークレットサービス・ダラス支局長、パークランド病院の医師、そして事件前にオズワルドと接触のあったFBI、この5人が主人公といっていい。ケネディ暗殺の背後を探るといったものではなく、リアルに“その後”の一部始終を積み上げた感じである。遺体を手術室から運びだそうとして、州の監察官が殺人の遺体は州のもので、解剖に付する必要がある、と言い張る。しかし、大統領警備の者たちはふざけるなと強行に搬出する。よりによってこんな(田舎?)ひどいところで死ぬなんて、といった台詞が飛び出す。大統領、夫人、副大統領を急いでワシントンへ連れ戻そうとする。そこにしか安全がないからだ、という理由で。この映画に透けて見えるのは、反ってワシントンの異様な警戒心である。現場写真を撮った社長(ジオマッティが演じている)は、マスコミの取材攻勢からTIMEを選ぶ。それは普段から読んでいて、信頼感がある、との理由である。ケネディに祈りを捧げる神父は、けっこう悪役をやる役者で、彼が十字架をケネディの胸の上に置くときに指が震えている。これって演技としたら、大したものである。名前はジャッキー・アール・ハーレイ、いい役者である(最新のロボ・コップにも出ていたし、ダメ親父を演じたものもあった)。


57 九チャンのでっかい夢(D)
山田洋次で、音楽が山本直純、これが和洋の曲で、盛り上げの急迫のリズムがいい。ヒロインは倍賞千恵子だが、竹脇無我と婚約する。九ちゃんはスイスにいる大富豪の遺産30億円をもらえることになるが、本人はそれを知らず、癌だと思って世をはかなみ、殺し屋に自殺幇助を頼む。受け元が谷幹一、殺し屋が佐山俊二(この殺し屋がいい)、九ちゃんが歌ったり踊ったりする小屋の主人が渡邊篤、倍賞の勤める喫茶店の亭主が斎藤達雄。九ちゃんのエンタメぶりを堪能できる映画、それと山田洋次の意外なミュージカル好きが知れる。死の病と勘違いして自殺幇助を頼むというのは、何の映画の翻案か。ヒッチコック? 失念。


58 カバーガールズ(DL)
チャールズ・ビダー監督で、同じリタ・ヘイワース主演で「ギルダ」を見ている。共演ジーン・ケリー、これが思いの外マッチョではない。1944年の作で、封切りが1977年と記録になっているのは、どうした事情か。冒頭に、「人類は生まれて虚偽を知ってから、ずっとShow must go on」 と繰り返される。皮肉な出だしである。筋は、小屋の踊り子が雑誌のカバーガールに応募して、一躍人気スターになり、大劇場に去って行くとともに、小屋の主兼恋人のケリーともおさらば。ふだんの練習には顔を出さないし、パーティだと顔を出せばヘイワースがいなかったり、だいぶこけにされて、とうとうケリーは彼女を追い払う。当然の措置であろうが、女は自分のわがままに気づかない。


ヘイワースの祖母がやはり小屋で踊る女で、それに恋して破れた男がいま雑誌のプロデューサーとして顔を出す。祖母は恋に一途で、それを見ていたヘイワースも心変わりを悔いる、という設定である。数人で踊るときに、明らかにヘイワースの動きがいい。ケリーとタップを踊るときも、その間合いの取り方が抜群である。3人が小屋がはねて向かうバーには、これまたお決まりの訳知りマスターがいる。彼らは必ずカキを頼むのだが、そとき変な仕草とおまじないをする。両手を挙げて、指をだらんとして、カキに向けながらぶるぶる揺らし、Come,pearl! とやる。真珠よ出てこい、というわけで、これが後で二人のもつれた関係をほどくことになる仕掛けになる。いろいろな踊り子がいろいろな雑誌のカバーガールに変わる演出も、どこかで見たな、である。



59 ゴジラ(T)
前回の屈辱を晴らすべくハリウッドがまたゴジラに挑戦。舞台も日本に取ったり、サービス旺盛。でもやっぱり何かが違う。最初にフィリピンのダム工事現場でゴジラらしきものが見つかるが、そのあと日本に舞台で大きな地震原発が壊れるシーンに移るが、前振りは何だったのか。あれはゴジラで、こっちは何? という訳の分からなさを引きずったまま、新怪獣ムートに付き合わされる。なんだか見たことのある怪獣である。名前が思い出せない苛立ちが襲ってくる。しかし、こいつがゴジラ以上に出まくる。放射能を食って生きているという設定だが、大きく育つまで国家機密にしとくという設定が分からない。じゃあ、ゴジラはどこで何を食って生きていたのか。とうとうムートは米国に伴侶を求めて向かうが、後ろを追いかけるゴジラはなぜ米上陸前に襲わないのか、やっけないのか。海から突き出す体の一部からは、どれがムトーだかゴジラだから分からない。やはり周りに都市建造物がないと、本気が出ないのか。渡辺謙が何か科学者の役だが、いつも口を開けて遠くを見つめるのはなぜか。彼のアシスタントはなぜか米人で、彼女、「ブルージャスミン」でケイト・ブランシェットの妹役をやっていたナイスな女優さんである。冒頭のタイトルバックで、第五福竜丸などのドキュメンタリー写真を一杯使っているのは好感だが、あれって世界に通じる写真なのかしら。


60 スリング・ブレイド(DL)
ビリー・ボブ・ソートン脚本、監督で、もともとは一人芝居のために書かれたものらしい。精神病院とおぼしきところ、一人の男がイスを床にじゃらじゃらいわせながら、窓辺にいる男の側に来て、毛深い女が好きだ、俺は話をするのが好きだ、という間、男はじっと聞いて、ときおり頷いてもいるようだ。音楽が低音のフラットなのがずっとその間続いている。その恐怖感がすごい。彼にインタビューに来た大学生新聞の女学生を前に、自らの殺人のストーリーを話し始めるところでは、音楽が心臓の音のようなものに変わる。話し終わって、彼は病癒えて、退院の日を迎えていることが分かる。次のシーンが陽光あふれる映像で、彼はしょんぼりと田舎のバス停に降りる。音楽が急に変わり、ポップ系の詰まらないものになる。最後の殺人シーンではヘビメタだ! これは音楽さえ変えてもらえれば、傑作と呼びたいくらいの出来だ。人のいい院長がなんとも言えない。彼が就職する先のよろず機械修理屋の二人もいい、雑貨屋のゲイのフロア長もいいし、そこに勤める太っちょの優秀社員の女もいい、主人公と慣れ親しむ子どももいいし、その親もグッドである、それに母子を傷めるろくでなしもいい。やはりミュージックの失敗がいちばん大きい。最初の調子なら、フィリップ・グラス調で全部、通したらよかったのに。


61 素晴らしきかな、人生(D)
フランク・キャプラ監督で、ぼくは「スミス都へ行く「群衆」を見ている。この映画、very goodである。良心的な住宅ローン会社を父親の急死で引き継いだジェームズ・スチュワートが、同社に勤める叔父が8千ドルを紛失したことで自棄に。クリスマスなのに子どもに当たったり、かみさんに当たったりで大変。万策尽きて死のうとしたときに、見習い天使が現れる。それが見事な登場の仕方なのである。橋から身を投げようとしたときに、ドブンと先に落ちる奴がいて、それを助けるために主人公が飛び込むのである。見張り小屋で衣服をかわかす二人。一人が羽根のない天使で、自分はあんたを助けるためにやってきたという。初老の、優しそうだが冴えない感じの男の話を、主人公はいっかな信じない。瞬く間に衣服が乾いても、そういうものかとやり過ごす。自分の人生はなくても良かったのだが、と言うのを聞いて、天使は一計を案じる。彼のいない世界を創出するのである。彼は自分の過去のない世界を経験し、いくら辛い人生でも、自分の過ごしてきた紛れもない人生が欲しい、と願う。それを言うのが、先に身投げしようとした橋のところ。彼のアップの後ろに雪が降り出す。それだけで、元の世界に戻ったことが暗示される。いや、見事である。そして、現実の世界では、主人公の妻が夫に助けられた多数の人に窮状を訴え、資金を募り、8千ドルなど超えてしまう。そこでハッピーエンド。妻は取り付け騒ぎのときも機転を利かせ、ハネムーンに使う予定のお金を、当座お金が欲しいという債権者に払うことで危機を脱する。このあたりも面白い。


封切り当時は不入りで、キャプラは新作を撮れない状態になったほどだという。しかし、年数が経つほどに評価が上がり、クリスマスの日に見る映画の定番になった、と言われる。たしかに当日に見るには暗いかもしれないが、よく出来ている。主人公の会社に取り付け騒ぎで集まるシーンや、主人公の結婚式、最後の寄金で人で部屋が一杯になるところ、実に群衆が生き生きと描かれている。細部まで均整がとれていて、演出の細やかさを感じることができる。ジェームズ・スチュワートがしゃべり過ぎで、そこを抑えれば、この映画、めっけものである。


62 女侠伝 鉄火芸者(D)
山下耕作監督で、一作目の侠客芸者が良かったので借りたが、これもいい。文太が藤純子(こしず)の相方だが、格落ちもいいところである。曾我屋明蝶が米問屋主人で、一応、こしずの旦那ということになっている。伴淳三郎が大臣で、これもこしず狙いで、手助けする。二人の喜劇役者が抑えた演技をしている。あと玉川良一、昭司照江が客演。最後、保名という能の曲を踊るが、それに討ち入りを重ねる趣向は一作目と同じである。前は博多芸者、今度は深川芸者、気っ風のいい女の世界があるからか、全体にどろどろしてこない。


63 サンシャイン(T)
原題はSunshine on Leith でレイスというきれいなスコットランドの町が舞台のミュージカルである。兵役から戻ってきた若者二人が中心になって話は進むが、片方で父親の若いときのただ一度の不倫が騒動の元になる。その父親がピーター・ミューランが渋い喉を聞かせる。妻役が「リトルボイス」のジェーン・ハロックで彼女はあまり歌わない。夫のことをジョニー・キャッシュのようだ、と歌うには笑ってしまった。破綻の少ない映画で楽しめるが、もう一つ何か激しいものが欲しい、そんな気になる映画である。



64 彼女が消えた浜辺(DL)
人にいつも頼られる善意の人が、ある事件では偽善者にも見える、という映画である。事が起きなければ、また彼女の善意は褒めそやされるのだが。イラン映画恐るべしと思うのは、事件が起きる転換のところ。子どものためにたこ揚げをしているうちに熱狂に駆られ、子守をすることも忘れているエリ。彼女の何と表現していいのか、幸福の絶頂に寂しさを感じるような、そういう表情がストップモーションされる。そして次にはすぐ別の時間が流れ始める。見事である。ベルリン映画金熊賞


65 善き人(DL)
これは見事な映画である。矮小と偉大さが同じ地平で語られ、彼が善を施すたびに天からgood!の声が聞こえてきそうだ(原題がgood)。彼には音楽がリアルに聞こえてくる習性があって、それが3箇所。共通項を言えないが、ユダヤ人が数人で集まっているときに、突然、ミュージカル調になる(主人公の善なる心が働くときにミュージカルになる、ような気がする)。それが抜群にいい。最後、収容所のなかで友を探していて、幻聴がまた聞こえるが、実はそれは被収容者に演奏させていた本物(本当の善心を働かせたからであろう)。


病気で寝込み、今にも死にたいと言う母親、同じく病気がちな、ピアノばかり弾いている妻、そして奔放な教え子の女学生。彼は妻のピアノに追われ、2階からの母の呼ぶ声に応え、手元では夕飯の用意に忙しい。そこに妻の叔父がやってきて、ナチ入党を勧めるが、主人公は取り合わない。皮肉なことに、その彼が書いた一編の小説がヒトラーの目に止まる。病気がちな愛する人安楽死させるところが、ナチにはいたくお気に入り。精神病者などの殺戮に、その理屈が使われていく。彼はそのことにかなり無自覚である。


誰一人、ナチへと身を売っていく彼を非難する者がいない。別れた妻も、自殺未遂をはかる母も……。パリへ逃げたい、力を貸してくれ、という友の願いを叶えようとするが、最初はうまくいかない。2回目は意を決して駅のチケット売りの窓口で脅しをかける、「いつまでもこんな所に座っていたいか」と。しかし、友はナチに連れ去られ、収容所へと送られる。それは、もし自分が不在のときに友が来たらこの切符を渡せ、と言ってあった妻が裏切り、ゲシュタポにたれ込んだから。妻を問い詰めると、「やっていない」と言うが、ゲシュタポは諜報したすべてをファイル化して、巨大な保管システムを作り上げていて、そこで彼は確認済みである。妻を去って、彼が向かうのは、友がいると思われる収容所。


学者である主人公と精神科医ユダヤ人の友は、一緒に一次大戦に参戦したことがあり、そのときに貧相な伍長のヒトラーを見ている。彼を見くびって、どうせ大したことなどできやしない、などと酒場談義を重ねているうちに、ナチはどんどん国家を専制していく。ナチで偉くなった友に先のチケットの件を頼むときに、友の好きだったケーキなどを買ってあって、歓心を誘おうとするのが悲しい。ナチで親しくなった人間は不妊で、同僚からいつ赤ん坊が生まれるのだ、としつこく聞かれるのがうんざりだ、と洩らす。ゲッペルスは、アーリア人種同士であれば、不倫だって何だってかまわない、という。そういったディテイルがきちんと描かれている。


66 デンジャラス・バディ(DL)
原題がHeatで、2013年の封切り。見てなかった! 無謀な女コップ(メリッサ・マッカーシー)とちょっと堅めのFBI女(サンドラ・ブロック)がはちゃめちゃをやる。アウトロー女二人はあるけど、警官で二人は珍しい。敵に捕まって脚にナイフを突き立てられ、一度抜いたのはいいが、また敵が戻ってくるというので差し直すのがおかしい。卑猥語ふんだんである。サンドラはまた金脈を見つけたか。ITMDで見ると、次作がクランクインしている。今度は映画館で見ます。


67 待ち伏せ(D)
15分で沈没。あまりにも出来が悪すぎる。三船プロで御大、石原裕次郎勝新錦之助、浅丘百合子が出ている。肝心の勝新が出てくる前にエンド。

2013年の映画2

kimgood2013-11-30

100 42(T)
監督・脚本ブライアン・ヘルゲランド、『LAコンフィデンシャル』や『ミスティックリバー』などの脚本を書き、監督作には『ペイバック』などがある。初めて黒人でメジャー・プレイヤーになったジャッキー・ロビンソンを扱ったもので、ぼくは泣き通し。とくにフィラデルフィアだかで道の反対側から険しい顔の男が寄ってきて、喧嘩でも始めるかと思いきや、才能ある人間は評価されるべきだ、と激励するシーン。ここにアメリカがある。


ロビンソンと彼をメジャーに呼んだ球団経営者ハリソン・フォードは同じメソジスト派。ロビンソンが辱めを受けて切れそうになった時、主も耐えたのだからお前も、という言い方をする。あるいは、ロビンソンを外さないと試合をしないと言ったチームの経営者には「神の前で言えるのか」と攻撃する。ハリソンには大学時代の野球仲間に優秀な黒人がいたが、差別に落ち込み敗残の身になった過去がある。


ハリソン・フォードが変な演技をするのが困ったものである。口をひんまげて、大声でどなるような話し方をする。それに眉毛が逆立てられていて、いつもの彼らしくない。そんなことしなくても、と思うのだが。次回作の予告編では普通の彼のなので、一時の迷いと思いたいのだが……。


101 料理長殿、ご用心(D)
78年の作で、ジャクリーン・ビセットのための映画。彼女、34歳で、とても美しい。それだけの、それだからこその映画である。


102 Pay it Forward(DL)
オスメント少年が主人公で、教師がケビン・スペイシー、母親がヘレン・ハントジュリア・ロバーツが『エンリコ・ブロコビッチ』で変身したのと同じものをハントに感じる。胸を露わに、汚い言葉を平気で使うところなど。ぼくはサンドラ・ブロックの変身を高く買う者である。シリアスから喜劇に行ったのは、大した度量である。ケビンは全身にケロイドがあり、それが彼が女性に奥手になる理由にもなっている。オスメント少年の情けない顔が愛くるしい。青年となった彼の、やや太り気味の様子を見ると、うたた月日の残酷さに思いが至る。


よく出来た映画で、楽しんで、悲しんで、はらはらしているうちに、とうとうラストまで来てしまう。良質で丁寧な演出である。冒頭でチラッと写るナイフがあとで凶器となるところなど、心憎いぐらい。女性監督のミミ・レダーはTV畑の監督のようだ。ホームレスの母親をハントは許しに行くが、母親は一緒に住むことは肯んじない。オスメントは、今度のことでいちばん勇気があったのは、我が母親であると褒めているが、たしかにそうである。


103 波止場(DL)
何回目になるだろうか。エリア・カザン監督、ブランドー、カール・マルデンエバー・マリ・セイント、ロッド・スタイガー、リーJコップ……何という配役だろう。ブランドーの仕草はゴッド・ファザーを思い起こさせる。マルデンのどこか気弱な感じは「シンシナティキッヅ」でおなじみだ。この映画で見せるロッド・スタイガーの哀愁は心に残る。そして、何よりもエバの純真な感じがこの映画を支えている。長い芸歴での人で、2006年に「バットマン・リターンズ」に出ている。音楽がうるさいぐらいで、これは昔の映画の常套である。カザンがマッカーシーで仲間を売ったことは、彼の最大の汚点であろう。だからといって、この映画の価値が下がるわけではないが。


104 太陽とバラ(T)
木下恵介作品、主演沢村貞子、中村葎津夫など。太陽族が流行りましたので作りました、という映画である。息子が事故で死にそうになったとき意識を失って倒れバラのトゲに刺されたとうのが母親の回顧談である。貧乏暮らしの内職が模造バラの花づくりである。この映画、会社にいわれて撮った写真だろうと思う。木下はそういうことをやりながら、次回は自分の好きな作品を撮った監督だと長部日出雄が書いている。しかし、そういうことをしていたから、後年の評価が低いということもあるのである。『日本の悲劇』という大傑作をものにしたのに、である。


105 昭和残侠伝 唐獅子仁義(DL)
待田京介狂言回しの役をやっている。藤純子の演技がとても型を踏んでいるのがよく分かる。妹分の芸者が嫌みな大貸しに引っ立てられそうになったときに、「野暮ね、野暮天ね」と言いながら部屋の外に連れ出すなんて、型で押し通すからできることで、現実味はまったくない。健さんに抱かれようと決意したときの「悪い女房になりたいんです」、夫池部良に抱きついて「抱いて、抱いて、強く」と言うときの台詞の調子など、みんな型である。これはきっとマキノが求めたことだろうと思うが、さて「緋牡丹」ではどうだったろうか。それにしても綺麗である。


二人の死地への道行き、池部が健さんに言う台詞、「死に花を咲かせてやっていただきます」、これは本来なら「死に花を咲かせてやってくだせぇ」だろうと思うが、文法的に合っているのだろうか。あと健さんの「〜しておくんなぃ」も独特である。ぼくにはたまらない発音だが、健さんはどこで仕込んだ言い方なのだろう。それと、殴り込みに行くときの、あの猫背。着流しで、何の構えのない健さんもいいが、あの緊張感でねじれたような猫背はラストの大立ち回りに相応しい。警官が来て、俯瞰で健さんが出てくるところを撮ってエンドだが、見事である。


どこかで書いたが、明治を舞台にすると絵がきれいにならないので抵抗感があったそうだが、確かにこの映画もほとんどセットである。遠くの山、岩山は明らかに書き割りなことが分かる。ほかの場面も安い見栄えで、とくに室内となると、素人劇団の洋物演劇のよう。会社はこれで量産して大儲けしたわけである。桜木健作が藤の弟役をやっていて、いい顔をしている。


106 ゼログラビティ(T)
2人の登場人物だけ、しかも途中から1人である。サンドラ・ブロックが体型がきれいで、びっくりさせられる。ジョージ・クルーニーがずっとしゃべり続け、ジョークを言い続けるのは、やはり何かのスペースドラマのパクリではないか。監督アルフォンソ・キュアロンで、ぼくはほかに見たことがない。3D映画を初めて見たが、こういう無重力世界を描くにはぴったりかもしれない。頭の後ろから物が現れる感覚は、なかなか得がたいものだ。しかし、あとで軽い頭痛が来た。話自体はごく単純なもので、ひたすら暗黒の宇宙にいつ放り出されるかという恐怖だけで見る映画である。


107 県警対組織暴力(T)
深作欣二監督、脚本笠原和夫、プロデュース日下部五朗、主演菅原文太、松方英樹。文太は戦争の生き残りで、警察に入ったのはピストルが撃ちたいのと、闇をやっているときに警察に没収されたので、次は没収する側に回りたかったからだという。市警察に入った人間はまともな就職ができなかった落ちこぼれで、やくざと境遇は一緒。しかし、市警の這い上がりは部長止まりなのに、やくざは儲かれば羽振りがいい(ここまでバーの中で警官とやくざが一緒になって台詞をつなげるシークエンス)。映画の中でも、警察からやくざに転身する者が出てくる(佐野浅夫)。やくざ若頭の松方も死に、その盟友ともいうべき刑事菅原も死ぬ。勝ったのは県警、県議会議員、市議会議員、そしてもとはやくざとつるんでいた市警の刑事たちである。
この映画、東映岡田茂山口組に利益供与したのではないかとしょっ引かれたのに腹を立て、仕返しに作ったものである。


笑うのは遠藤達津朗の親分がムショから出てきたら、信心深くなっていて、1日1時間は勤行しないと気がすまないというところ。いつもの悪の強さが一切ない。そばに田中邦衛がいるが、これはムショでのアンコ(おかま)である。『仁義なき戦い』の金子信雄の親分役で全体が引き締まったが、今回も悪徳市会議員の金子がいい。


台詞が抜群にいい。中でも菅原が県警のエリート梅宮辰夫(ほんとに演技が下手くそ)に反旗を翻して言う言葉がすごい。
  あのころ上は天皇から下は赤ん坊まで、横流しのやみ米を食っ
  て生きていた


108 サラの鍵
フランスにとってドイツへの荷担が今も拭いがたい傷痕となっている。The Tender Hour of Twilight という、アメリカにジュネやベケットを紹介した編集者が書いた本の舞台が戦後すぐのパリ。そこで知り合うフランス人にはドイツに荷担したことの罪悪感が生々しく残っている。この映画は現代を描きながら、実はその時代と地続きになっている人々を描いている。良質な、いい映画で、主人公の遅い妊娠が映画の根底を支えている。生むか、殺すか。


なかにユダヤ人を収容したヴェルディブという屋内競技場が出てくる。そこでは排泄さえ許されず、往時を振り返った近隣者が、匂いが臭くて窓を閉じた、といった証言をする。サラは収容所から逃げるが、監視員の名を呼んだことが、相手の人間性に触れたらしく、鉄条網の底を押し上げて逃亡を手助けしてくれる。そのあと、ある老夫婦に助けられるのだが、彼らはパリまで同行してくれ、身元引受人にもなってくれるが、サラは長じてから彼らのもとを離れ、アメリカで結婚をする。しかし、のちに反対車線に車が飛び出して、自殺を遂げる。ぼくはパウル・ツェランを思い出した。1970年になってセーヌに投身自殺したツェランのことを。彼もまた収容所経験者である。

主役がクリスティン・スコット・トーマスで、「ずっとあなたを愛している」で見ている。「ゴスフォードパーク」に出ているらしいが、記憶にない。大人のサラを演じたのがシャーロット・ポートレルで、この配役は素晴らしい。凜とした美しさと、支えようもないはかなさのようなもの……。惜しむらくは彼女はほとんどその後、映画に出ていないようだ。


109 鑑定人と顔のない依頼人(T)
ウエルメイドな映画だが、あまりにもウエルメイドであり過ぎる。鑑定人が絵画を多数秘蔵していると、どうして知ることができたのか。鑑定人が夜に暴漢3人に襲われるが、それをきっかけに女が外に出ることになるのだが、そこまで小細工が必要なのか。鑑定人の恋愛の師であるメカニシャンが、女の名を何度も呼んでいる、とそのメカニシャンの恋人に言わせているが、これは嫉妬を覚えさせて、次の行動に移させるための餌だったことになるが、これも仕掛けが細かすぎる。女はペンネームを使って小説を書いているらしいが、それが特定されなくても鑑定人は満足だったのか。自動人形がいいアクセントになっているが、オチの付け方はそんなにスマートじゃない。よくもまあいろいろと仕掛けの好きな監督ね。女の屋敷の向かいのカフェの入り口右側に座る矮小の女も仕掛けだろうと思っていると、彼女がつねに口にする数字がそこで生きてくる。この仕掛けは上品である。


それにしても、後味の悪い映画である。最後、男が女を捜して訪ねた奇妙なカフェでは、少しの救いぐらい用意してもらいたかったものだ。もっといえば、これはコン・ゲームといわれる分野の映画である。「オーシャンズ・イレブン」「ミッション・インポッシブル」「スティング」などなど、本来は仕掛ける側の手口をほぼすべて見せながら進行させるのが王道である。それをこの映画では、いっさい仕掛けの様子を見せずに、だまされる側だけで撮っていくわけだから、それは映画としては作りやすいだろう。いくらでもウェルメイドにできるからである。先に、なぜメカニシャンが女の名を何度も口にしたのか、という疑問を書き付けたが、揺れ動く、あてにならない心理などをコン・ゲームに織り込むには、もっと説得性がなくてはならないと思うのだ。


110 ドラゴンへの道(DL)
前に一度、見たかどうか。ブルース・リーの映画は「燃えよ、ドラゴン」を最初に見た(これはみんな共通の体験である。そして、すぐに彼の訃報が届いた)ので、そのあとの彼の映画がダサく見えたのが不幸だった。しかし、やはりブルース・リーはすごい。動きが素早い。肩を回して筋肉を解きほぐすときに、逆三角形に膨張するところなど、驚異的である。そして、あの「アチョー」の声。「ア」のときもあれば「チョ」のときもあり、「アチアチ」のときもあって、この快感は凡庸な映画の筋など完全に忘れてしまう。ラストのシーンで、ときおりかわいい猫の目を写したりするのはOK。リーが三白眼でねめつけるところなど、絶対にジャッキーにはありえないし、彼はリーとは別の世界に踏み出すしか道はなかったのだろうと思う。


112 サイド・エフェクト(T)
ジュード・ロウ精神科医。彼の患者が実は詐病で、薬の副作用で殺人に及んだというニュースによって、対抗の薬品会社の株上昇で儲けることを画策し、半ば成功するが、ジュード・ロウはさらに上を行く。キャサリン・セタ・ジョーンズがレズの精神科医で登場する。
2本立てで、もう1本が「パッション」とかいう映画で、「ドラゴンタトゥーの女」の主役が出てくるが、こっちもレズ絡み。あまりにも駄作なので、途中で映画館を出ることに。意地悪支社長がレイチェル・マクアダムスで「恋とニュースの作り方」の女優である。こんな役もできるのかと、ちょっと驚きである。


113 チャイナ・シンドローム(DL)
なぜこの映画を見ていないのかよく覚えていないのだが、見る前から何が描いてあるか分かるような映画は基本的に見たくないということがある。これもそれだろうと思ったら、なんだ、である。シンドロームが起きない映画だったのだ。ははは、である。マイケル・ダグラスがプロデューサーを務めていて、中でも反骨のキャメラマンを演じている。ジャック・レモンはさすがの演技と思われるが、ところどころ妙に間が悪いところがあるのはどうしてか。


もともとはバラエティ情報の現場アナウンサーであるジェーン・フォンダは、できれば本格的なニュース・キャスターになりたがっている。たまたまインタビューに行った先が原発で、そこで核燃料棒露出かという事故に遭遇する。マイケルが所員の右往左往の一部始終を隠し撮りをする。それでも設置者も、事故の原因となった納入業者もグルになって隠蔽にかかる。1日の損失費用がいくらになる、という現今の日本でも同じ理屈で再稼働が行われようとしている。再稼働の無理がたたって、核燃料棒の入った容器が脱落するが、それ以上、事故は進行しない。こういうことが科学的な妥当性のあることなのか詳らかにしないが、なんだ、そんなオチですか、という残念感はある。


フォンダが酒場でジャック・レモンと会うシーン。群がった酔客みんなが、彼女を美人だ美人だという。本当にそうだろか。彼女は71年の「コールガール」がいちばん美しかったのではないか(「バーバレラ」だという人もいるが、ぼくは前者派である)。確かに年をとってもきれいな女優さんであることは確かだが。この映画は79年作で、公開の12日後にスリーマイル島事故が起きている。監督はジェームス・ブリッジズで、「ペーパーチェイス」という作品をぼくは見ているかもしれない。


114 ハンナ・アーレント(T)
アイヒマン裁判を傍聴したアーレントは、彼には「凡庸な悪」しか見いだせない。悪魔的でもなければ、絶対的な権威でもない。官僚であり、テクノラートである。それが巨大な悪をなした根幹にあるもので、ではユダヤ人指導者のなかにも同じものはなかったのか。もし彼らの一部にでも「善」が作用すれば助かる人はもっといたのではないか、と彼女は問う。自身が収容所経験を持つ彼女が、である。雑誌「ニューヨーカー」に4回掲載されたエッセイは、初回から嵐のような騒ぎを引き起こす。夫とのこまやかな愛情は終生変わらず、それが彼女の支えだが、「あなたはイスラエルをどう思うか」と尋ねられ、私に大事なのは友人の一人ひとりだと答える。これは、収容所を経た人の透徹した見解だろうとぼくは思う。映画では「根源的な悪」と「凡庸な悪」が対比されるが、「根源的な悪」がどういうものかは明らかにされない。ヒトラーは絶対的な悪か。「絶対的なものは善しかない」(引用が不正確かもしれない)という言葉も出てくるが、これは著作に当たらないと分からない問題かもしれない。今年一番の刺激作であるが、なぜ岩波ホールに人が群がったのか、その理由を知りたいものである。ぼくは、ある哲学書の中に彼女のことが言及されていたので、いずれ本を読みたいと思っていたから、ちょうどいい機会だったわけである。映画は同時代に生きていないと正確なことは分からないと小林信彦先生はおっしゃるが、まさにこの映画など好例である。


115 武士の献立(T)
加賀騒動というのがあるらしい。いわゆる跡目争いである。その中和剤として料理が供される。もともと幕府に反抗の意志のないことを示すための供応料理を、世情を鎮めるために利用したわけである。その料理を作るのが包丁侍といわれる一群で、その仕切りの家系をいやいや継いだ次男とその嫁の話である。高良健吾が次男役で、彼は「まほろ駅前」「フィッシュストーリー」で見ているが、どっちもキレている役で、なかなか目が鋭い。今回は侍になりきれない鬱屈した男の役で、やはりキレ役のほうが合っているような気がする。妻は上戸彩で、可もなし不可もなし。着物を着ると、全体が大柄な感じに見えるのが意外である。義母が余貴美子、義父が西田敏行、監督が朝原雄三で「釣りバカ」の監督である。


116 フットールース(T)
これはリメイクだが、よく出来ている。シンプルな構造の映画なので、やり直しが利くのだろうと思う。十分に楽しむことができた。神父の娘役をやった女優ジュリアン・ハフが、ジェニファー・アニストンによく似ていて、キュートである。その父親がデニス・クエイドである。「エデンより彼方に」で同性愛者を演じていた。その妻がアンディ・マクドネル















 












2013年の映画

kimgood2012-12-20

1 ハル(DL)
森田芳光の作品で始められる幸福を思う。ぼくはこの作品をタイトルからロボットを扱ったものと勘違いしていた。見ると、ハルはチャットのハンドルネームで、文字のやりとりで親交を深めていく男女を扱っている。黒に白い文字の画面が頻繁に出てくるが、まったく違和感がないのは、どうしてか。これがもしサイレントであれば、人はあえて見ることはしないだろう。しかし、要するに仕掛けは一緒なのである。


ハンドルネーム「ほし」が深津理絵、ハルが内野聖陽である。「ほし」は恋人を事故で亡くして、傷心の日々を盛岡で送っている。彼女をストーカーのように追う男から逃れるように、パン屋、コンパニオン、図書館員などの仕事に就く。彼女の本棚の中心には村上春樹が置かれている。ハルはラガーマンだが身体を壊し、会社では肩身が狭い。スーパーなどでトムヤンクンスープ缶を営業するのが仕事である。彼は失恋し、ネットで下ネタばかりを振ってくるローザと付き合うが、ローザは実は歯科医院に勤める女性で、身持ちは固い。あとで彼女が「ほし」の妹であることが判明し、少し上記2人には冷却期間が。それを乗り越えて、東京駅で顔を合わせるのがラストである。


例によって悪意の人は一人も出てこない。これが森田映画である。そして、映画的な仕掛け(この映画でいえばサイレントもどき)が必ずしてあるのも、彼の特徴である。


森田の作品であと見ていないのが結構ある。今年はそれを見切ってしましたい。


2 壮烈新撰組 幕末の動乱(DL)
58年の作、東映で、監督佐々木康、近藤勇片岡千恵蔵芹沢鴨山形勲倒幕派桂小五郎高田浩吉、あと大友柳太郎、大川橋蔵。近藤がかなりいい人に描かれている。芹沢鴨を確か、女と同衾しているところを殺したはずだが、この映画では屋外での近藤との斬り合いになっている。近藤が危ないところを勤王派に助けられたり、かなりいい加減な脚色を施しているが、やはり千恵蔵がセリフを言うと、重みがあっていい。大友先生は発音が悪く、それを一生懸命克服しようとするので、メリハリの利いた話し方になる。動きも鮮やかで、きれいである。月形龍之介京都所司代から言いつけられて新撰組に加わり、あとで袂を分かち、勤王、佐幕、両天秤を掛けるという、締まらない役である。フアンとして、ちょっと残念である。大川橋蔵の恋人役が花園ひろみで、可憐である。女間諜が花柳小菊で、瓜実顔の、浮世絵のような女優である。小五郎の愛人が大川景子で、この人は時代劇でよく見かける人だが、その後はどうなったのだろう。


3 拝啓、愛しています(T)
韓国映画で、老人の恋を描いている。メルヘンタッチにしているのは、事が深刻になるので、それを避けるためだと思われる。認知症からガンになった妻と無理心中する男の挿話などもあるためである。しかし、これがどうも成功しているとは思えない。


韓国は65歳以上が14%を占める高齢社会へと進み、自殺者はこの10年で2倍、OECDでは自殺率1位、特に高齢者の自殺が多い。出生率は1.24で、深刻な人口減に見舞われる可能性が高い。そういった背景を持った映画である。先の無理心中の夫婦には3人の子があるが、結婚して誰も寄りつかない。これは、日本以上に家族の紐帯が弱くなっていることを示唆しているように思う。


4 マイレージ・マイライフ(DL)
ジョージ・クルーニーが首切り説得屋で、あちこち飛行機で飛び回る独身男を演じる。大学出の新人がネットでの首切りシステムを提案し、実行されようとするが、実戦でさまざまな人の苦悩に接したことで転職することに。クルーニーは相性の合う、これもマイレージ溜まりまくりの女と結婚まで考えるが、実は相手は既婚者。


ルーニーの妹夫婦が結婚することになり、その祝いに2人の厚紙看板のような写真を持って、指定の風景をバックに撮影することを頼まれる。これが皮肉な味になっていて、面白い。


中でデトロイトの連中は手強い、というセリフがあるが、かつてのモータウンもひどい人口減に見舞われているわけで、手強くなるのも当然か。


5 ひばり捕物帖 ふり袖小判(DL)
いい加減なタイトルである。振り袖と小判はまったく関係がない。ひばりは二役で姫と岡っ引き。ある藩の金が盗まれ、その探索方が東千代ノ介、酒に目がなく、酔っての剣術はまるで酔拳である。監督が内出好吉。歌舞伎の話が挟んであるが、まったく無駄な脇筋だが、この無駄が生きている。座長の幼少時に別れた姉が盗人で、襲名披露の千両を集めようと狙ったのが先の盗まれた小判という設定である。こういう取って付けたような設定が、マキノは大好きだったという。


6 96時間リベンジ(T)
やはり1作目を超えることができない。プロの工作員の凄さを知ってしまった以上、もっと先をと思うからである。まして、今回は前回で殺した男たちのオヤジが復讐で登場するので、よけいに前作の超え方が難しい。拉致された後の自分の位置の確認に目新しさがあるが、人質となった神さんがなかなか殺されないのは問題であろう。


7 幸せのレシピ(DL)
アエロン・アッカートとセタ・ジョーンズの恋愛ものである。取りたてていうことはないが、善良なアッカートに出会って本当によかったね、という感じである。一流レストランの経験のないシェフという存在がアメリカで認められるというのが本当のことなのかどうか、まったく分からない。


8 ノーホエアボイー(DL)
とても清潔な映画である。淫乱ともいえる母と、その謹厳実直な姉の間で取りっこされるジョン・レノン。その綱引きが行われながらも、彼はビートルズのリーダーとして成長していく。姉妹の和解がなったあと、母は交通事故で死んでしまう。路上で横たわるその顔をしかり撮すが、その必要があるのかどうか。マッカートニー、ハリスンも加わり、ドイツ・ハンブルグに出かけるところで映画は終わる。もちろんすでにイエスタデーは作曲されている。


9 コロンビアーナ(DL)
レオンのちょい成長版南米編という感じで、最初の、父母が殺されて、独りで少女が逃げるシーンがいい。あとは、どうも肉体性を失って、陳腐な映画に。


10 アウトロー(T)
トム・クルーズの新しいシリーズになるようだ。MIのサイエンス抜きといった感じで、昔のデテクティブ物の感じもある。パーキングでの格闘シーンは見ものだが、あとは残念感が強い。ヒロインが少し年を取りすぎているのと、理知的なはずが、トムと犯罪推理シーンではほとんど間抜けの役割を振られている。片方が推理を立て、片方がそれを否定する、という構図なため、そういうキャラクター無視のやりとりになるのである。悪しきハリウッドである。


11 ダーク・ナイト・ライジング(DL)
なかなか見応えがある3時間である。それにしても長い。悪のヒーローの声が別世界から聞こえてくる感じが緊張感を高める。残念なのは、最後のどんでん返し。あれだけ重厚に運んだはずが、最後にこれか、というようなものである。ラストシーンからいうと、次作もあり?


12 グレン・ミラー物語(D)
甘いジェームス・スチュワートが主演、女優がジューン・アリスンである。グレン・ミラーのそばに必ず妻がいた、という映画である。自分のトロンボーンを質に入れたり出したりしながらミュージシャン生活を続ける、コロラド大学卒のミラー。途中で夢を諦めようとするが、妻が助け船を出す。レッスンに通っていたピアノの先生の所へ通い出す。ミラーは自分のバンドを持つも、自分なりの編曲の個性とは何か、と悩み続ける。あるとき、リハーサル中にトランペットが口に傷ができて吹けない。かわりにそのパートをクラリネットが受け持つことで、彼の曲想が決まっていく。人気絶頂で志願し、軍楽で兵隊を慰撫し、鼓舞する。しかし、墜落事故であえなく死亡。


見事な流れのシーンがある。二人が結婚し、旅行には行けないので、自分の演奏する姿をコンサート会場の桟敷から見せる。終わって二人でホテルに戻るが、花嫁を腕に抱え上げて、部屋に入るとサプライズで、友人たちが演奏を始める。ひとしきり騒いで、今度はライブハウスへ。そこにサッチモがいて、主人公たちを引き上げて演奏に加わらせる。それが深夜に及び、二人はまたホテルへ。今度もまた抱え上げて入室。そして、朝、早起きの妻はお財布から少しずつ貯金をするわ、と宣言する。それがあとでバンドを結成して旅に出るときの当座の資金に変わる──この一連の流れがまったく淀みがないのである。


13 世界でただ一つのプレイブック(T)
うわさのジェニファー・ローレンス主演。ウインターボーン、ハンガーゲームと見てきたぼくとしては、このラブ・ロマンスも今までの延長に見える。暴力的、ワイルドなんだぜ〜、である。デ・ニーロがイカレタ親父の役だが、どこか理性が残っている感じがいい。それにしても、野球賭博にレストラン開業資金を賭け、さらにプロに混じってド素人がダンス大会に出場し、その点数まで賭けにするという仕組みは、もう恋愛物を超えている、あるいは逸脱している。亜流が出てきそうな、そんな予感。


14 ボーン・レガシー(DL)
まるでロッキーの秘密特訓のような始まり方。狼と戦うなんて、まさか!? それでも展開は充分に楽しめる。今回はエドワート・ノートンがボーンを追い詰める役だが、よかったねエドワード、こういう役回りにハマって、とフアンの一人として喜ぶ。ほかにウエス・アンダースンで「ムーンライズ・キングダム」にも出ているようなので、要チェック。ボーンは、連続物にしようとする意図が見え見えで、長い時間かけて本編を進めながら、最後は次回のために尻切れトンボというのはどういうつもりか? もう見てやらないぞ、と思うが、さて。


15 フライト(T)
ゼメキスの映画を見ることになるとは思いもしなかった。やはりテーマのせいである。デンゼル・ワシントンは名優だそうだが、ぼくにはよく分からない。今回はウイル・スミスに軍配が上がるのではないか。ラストはまあこんなものか、という感じである。ぐでんぐでんに酔っぱらっていてもクスリをやれば、たちどころに治ってしまのだから、恐ろしい。結局、恋人であり、仲間でもある人間までは裏切れないということである。


主題は神、あるいは信仰である。事あるごとに神の業だという副操縦士、生き残ったキャビンアデンダントも神を称え、アルコール依存症脱却の会はもちろん神の試練を言う。主人公が事故後入院した病院で、煙草を吸うために病室を抜け出し、裏階段のようなとこに出ると、先客がいて、会話を始めると、もう一人末期がんの若い男が加わる。男は、自分ががんになったのは、神の企みだからジタバタしない、などと言う。そのシーンが、不自然なほど長いのである。パイロットである主人公は、一切それを信じないが、自らの罪を認めて服役すると、同じく神の名を呼び始める。そういう露骨な主題の押し出し方をしている映画である。



16 KT(T)
珍しいくらいにセリフの立った映画である。とくに佐藤浩一演じる自衛官タブロイド新聞の記者原田芳雄の二人に顕著である。佐藤に力が入りすぎていると感じる部分さえある。あるいは、金田中のボディガードに付いた在日青年のもとに、日本の彼女が荷物を持ってやってきて、男に言う、「私は両親を捨ててきた。あんたはできるの?」これも印象に強い言葉である。


よく出来た映画で、ほぼ間然するところがない。ラストもOKである。馴染んだ朝鮮の女が駅前で待っている。そこに近づいていく佐藤。ふと女の目に不審なものが走り、佐藤は背後にその視線の先を追い、また女のほうに向き直ると、ズドンとやられる。それはKCIAの仕業という設定なのだろうと思う。


軽いテンポで映像を処理していくときに、まるで「マルサの女」のような曲がかかる。音楽は布袋寅泰である。KCIAを下に見る大使館員が出てくるが、さもありなん、と思うが、これがリアリティである。その一等書記官が、敵に内通したというかどで、バラバラに解体され、残った血だまりなどはきれいに水で流される。これは、創作なのかどうか。原子温はこれを参照したのだろうか。金田中を解放する際に、KCIAは近くに電信柱があるから、そこで小用を足せ、と促し、彼らのクルマが走り去っていく。実際、金田中はその言葉に従うのである。これもリアルである。


金田中が死なずにすんだのは、偶然の作用である。いつもはホテルの部屋で会談や打ち合わせが終わったあとは、一人で廊下を歩いてエレベーターに乗るのに、その日に限って彼を敬愛する人間が一緒に見送りに出たことで、拉致・暗殺団の計画に狂いが出たからである。日韓関係を考えれば、天の配剤があったとしか思えない。金田中の演説シーンがあるが、「先民主 後統一」と言っていて、これはパクチョンヒ大統領には侮辱に映るのは当然である。しかし、それでは暗殺を、となるのは、大統領の資質かもしれない。



17 遠雷(D)
根岸吉太郎監督で、主演永島敏行、女優は石田えり、脇がジョニー大倉。栃木の田舎を舞台にした青春グラフィティのような感触の映画である。どこかにカタストロフィがあって進んでいるわけでもない、一つずつの必要なことを重ねているうちに、ラストへとたどり着く体である。アクセント付けにセックスシーンが挟まれる。ジョニー大倉が下手なりの演技で、殺してきた女との顛末を語るシーンは10分はあろうか。これが身に沁みていいのである。ラスト、新妻と2人で桜田淳子の「幸せの青い鳥」を歌うときの、永島の不器用な手振りがかえって新鮮である。


18 ヴァイブレーター(D)
廣木隆一監督、主演寺島しのぶ大森南朋。コンビニで頭の中の声に付きまとわれる女が、長靴姿の男を見初め、男の運転するトラックに同乗し、新潟まで旅をする。ほぼトラックの中だけで話は終始する。その間、女が男の話に聞き入り、ときにセックスに及ぶ。食べては吐くを繰り返す女が、男と一緒になってからはその症状が消える。頭の中の声も消える。一度、男が求めてもその気になれず、自分でオナったところへ男がチン入。その後、女は嘔吐する。最初のセックスで、男は女にどうオナニーするのか尋ねた際に、女は「直接にはやらない」と答えるが、これがタイトルの意味らしい。


女とすれば、運命の男と出会ったということかもしれないが、別れ際はさっぱりしたものである。もの狂いの憑きものをやりたいことをやって取り払ったということになるが、そのために選んだ男が完璧だったということのようだ。母親と確執があったらしいことは分かるが、深いところまで触れられるわけではない。


男が女に仕事を尋ねると、フリーのルポライターだという。雑誌あたりで小さな記事を書いているということか。その話のあと、急に女がそれふうの聞き込みの態度になり、男も妙にインフォーマントのような感じになる。もっと自然にやるべきところだろうと思う。そのあとしばらく、男の内幕話が、取材されている気分で進んでいくのも違和感がある。ラストに女の部屋が薄暗がりで撮されるが、どう見ても売れっ子ライターの構えである。


19 ジャンゴ(T)
タランティーノの新作である。スピルバーグリンカーンを撮って、2人で奴隷制を扱い、アカデミー賞にノミネートされて意義があった、とタランティーノ自身が語っている。この映画、「パルプフィクション」以来の出来ではないだろうか。主演ジェイミー・フォックス、クリストフ・バルツ(イングロリアス・バスターズに出ていた)、あとサミュエル・ジャクソン(これがいつもとまったく違う印象である。役者はほんうとに恐ろしい)、デイカプリオ、その姉役がロウラ・カヨエッテである。銃弾が当たると血しぶきが飛ぶ映像を初めて見た気がする。鮮血が流れて、さぁーっと白い花々を染めるシーンがあるが、見事である。タイトルが出るまでに、急に対象からカメラを引くのを何度かやっている。マカロニウエスタンの常套である。しかし、急な寄りの映像がないのはなぜなのか。サミュエル・ジャクソンが演じる執事が、この映画をぐっと引き締めている。なかなか差別の構造は複雑である。バルツ演じる反差別主義者が清々しい。ドイツ人であるという設定が、なにがしかの意味を持っているのだろうか。ディカプリオの演技を褒める人がいるが、さて、普通ではないか。


20 ニクソンを暗殺しようとした男(D)
ショー・ペンが主役で、離婚調停中で、やっと見つけた家具会社でもうだつが上がらない。商売をすることは人をだますことだと考えているので、うまくいくはずがない。彼はタイヤを車に積み、必要な人に直接販売し、その場で取り付けもするビジネスを思いつく。30%の利益が出る値段設定になっているが、そのうち15%はバックする、と客に説明するという。兄が黙って15%のかすりを取っているのが気にくわないから、自分は正直なビジネスをやる、という。15%のかすりを取るのは同じなのだが……。このアイデアを公的機関の融資をもらうために提出するが、しばらく待ってきた答えがノーであった。彼は万策尽きて、何度も国民をだましながら大統領の座に居座るニクソンを暗殺することに決める。そこまでの積み上げは、ほぼ「タクシードライバー」のなぞりである。脚に木枠を付け、銃を装填するアイデア、それから飛行機をハイジャック(これをホワイトハススに突っ込むつもり)をしたときの会話のシミュレーションなども、すべて同作のパスティーシュである。ショー・ペンが気弱な、不遇な、すべてそれらを人や世間のせいにする男の感じをよく出している。彼がマフィアのボスを演じる新作が来るが、楽しみである。


21 のぼうの城(T)
主演が野村萬斎、脇が榮倉奈々佐藤浩一、成宮寛貴山口智充、監督犬童一心樋口真嗣である。呆けた城主が大軍勢の明智軍に勝つ話だが、結局、この人物の凄さがさっぱり分からない。野党に襲われそうになった姫(榮倉)を救ったというが、どういうふうにしたか説明されない。唯一、捨て身で仲間の奮起を促したのが彼の戦略だが、はて、それ以外に方法などなかったとしたら、そもそも戦争を始めないほうがよかったのではないか。


成宮、そして明智軍の知将といわれる人物の言葉遣いが現代風で(とくに後者は演技がド下手なので、余計に聞きづらい)、とても耳障りである。それくらいの訂正さえ役者にしないで、何が演出かと思う。


22 ヒッチ(T)
アンソニー・ホプキンスヒッチコックで、妻をヘレン・ミレンである。名作「サイコ」封切りまでの困難を描いたものだが、ぼくは堪能することができた。おおそよ知っていることだが、妻との関係にも嫉妬心をもっていたことを知らなかった。最後に、彼女が最高のブロンドだとヒッチは言うが、これって本当なのか? 見終わって、帰りにツタヤで「サイコ」を借りようとしたところ、DVDはないらしい。なんということか。仕方なく「鳥」にし、これも堪能した。主人公(ロッド・テイラー)の母親がジェシカ・タンディで、妙な若々しさとエロティシズムがあって、この設定は抜群である。彼女の息子へのねじ曲がった愛に自然界も感応する設定である。これは息子が母親に異常な愛を抱いた「サイコ」の裏返しである。


23 サニー(D)
韓国映画でコメディに入るだろう。全羅南道出身の女の子がソウルの名門女子校に入学し、そこでカルチャーショックを受け、クラスの不良グループに加盟。喧嘩や遊びに精を出し、友情をはぐくんでいく。その中の一人がモデル志望で、実際に雑誌に出るほどだが、顔に傷をつけ、仲間との付き合いから遠ざかる。


そして、現在。全羅道出身の子は主婦に。かつて絵がうまく、成績も優秀だったのに、夫と娘の世話に追われている。母親の見舞いに病院に行ったところ、ある病室の患者の名前に見覚えがある。サニーの頭領だったハチュナがガンで入院していたのである。彼女は死ぬ前に仲間に会いたいと頼む。それから人捜しと過去の映像とのオーバーラップが始まる。


実に過去と現在との交換がスムーズで、まったく違和感がない。最後に思いがけない仕掛けがあるが、さほどのサプライズではない。頭領は、かつて頬に傷をつけた仲間のことで泣くメンバーに、何があってもいつまでも一緒にいよう、困っている仲間がいたら助けよう、と檄を飛ばし、仲間もその声に応える。しかし、病院での再会まで、彼女たちは仲間の活動をしていなかったことが分かる。頭領のかつての熱意とは何だったのか。それが心残りなのと、全羅道の女性が自分の道(画家? 自立?)を歩み出すぐらいのことはやってほしかった気がする。


24 キッチン(DL)
森田芳光監督である。主人公はひょろひょろとした女の子で、不思議な生き物のよう。祖母の寄る花屋の店員が、祖母が亡くなったときに自分の家の一室を紹介してくれる。彼の母親はゲイで橋爪功が演じている。どういう訳かモダンで広壮な家に住んでいる。この商売は儲かるのか? 主人公2人の演技のまずさも、見ているうちに普通になっていくから、さすが森田である。だが、なんだかレトロで新しかったものが、ただのレトロになったような感じがある。主人公たちの持っている空気感がそう思わせるような気がするのだが……。


25 放浪記(T)
成瀬で2回目である。林文子が作家になっていく過程を描くわけだが、彼女を取り巻くインテリたちの薄っぺらさが見えるような映画である。かといって、預かった原稿を締め切りを過ぎて出して、文壇に先に出ようとする文子にも同情できない。成瀬もそのつもりはないようである。こういう役に挑戦した高峰の凄さに感服である。眉を下げ気味にして、肩を下げ、お腹を突き出す様子は、彼女が発案したものだろうか。作家となって大成し、母である田中絹代に変な房飾りが下がった服を着せるところが面白い。ずっと文子を日陰で助けた印刷職工の加藤大介が出世し、小さな印刷会社の社長になって、文子の邸宅に通うのもいい。


26 浮雲(T)
これは3回目か。音楽が南洋風から和風へとつながるようなメロディで、いつも主人公たちが出会ったシンガポールの過去を思い出させる。森雅之が温泉地で岡田茉莉子とできるシーンは、やはりこの映画の白眉かと思う。どこまでも墜ちて、それで平気である。主人公の女はこういう男が好きなのである。男が八丈島に森林監督の仕事に就き、病を押して女が付いていく。女が死んだとき、山の中の駐在事務所みたいなところにいる男がはっと顔を上げて、正面を向くシーンが一瞬だけある。虫の知らせという意味なのだろうが、すぐにその場の光景に切り替わり、連絡隊から女の死を知るシーンに切り替わる。成瀬はこのシーンをなぜ残したのだろうか。映像的には不自然だと思うのだが。もう一つの白眉は、別項でも触れたように八丈島で賄いをしてくれる女(不美人である)にも嫉妬の目を向けるシーンである。愛欲の絡まりはほどけようがなく、女はそれを生き甲斐にさえしているように思う。高峰の処女を奪った山形勲がインチキ宗教者で儲けるところは珍妙である。戦後をたくましく生きる男の象徴である。山形はうどんを食べるのに不細工な箸の持ち方をしている。


27 ジャッキー・コーガン(T)
アンドリュー・ドミニク監督で、ブラピと「ジェシー・ジェイムズの暗殺」を撮っている。原題はKilling Them Softlyで、それをジャッキー・コーガンにしたのはなぜか。アメリカらしくということなのか、それとも原題と似たタイトルの映画があったからか(Killing Me Softly)。珍しいケースである。


ほとんど会話だらけで、その間に緊張が高まるのはタランティーノが得意とするところ。原題とは違ってかなり手荒に殺していく。ジェームズ・ガンドルフィーニ(あの「ソプラノズ」のボスである)が依頼された仕事をせず、酒と娼婦に溺れる様は見応えがある。勝手にセックスの話をほざくのを、じっとブラピは聞いていて、すでに相手が人間的に崩壊していることに気付く。このあたりは非常に面白い。レオ・レオッタを殺すシーンの超スローモーション、ドラッグをやっての会話シーンのとろんとした繰り返し、どれもやり過ぎ感があるが、この間延びが殺しのあざとさを引き立てている。このあたりもタランティーノ的な感じがする。


全編にアメリカ議会の様子、息子ブッシュのスピーチ、オバマの当選スピーチなどが流れる。アメリカは一つだとテレビはいうが、ブラピは「アメリカは個人の国だ、ビジネスの国だ」と宣い、殺し一人につき1.5万ドルを1万ドルに値切った相手にちゃんと払え、というところで終わる。何か短編小説でも読んでいるような味わいである。


全編に既存の曲が流れている。これがチープな感じが出ていい。個人的にはダスティ・スプリングフィールドの「風のささやき」が永遠の相をもって懐かしい。


28 舟を編む(T)
辞書づくりの話で神保町が舞台。知っている居酒屋が出てくる。主人公の住まい早雲莊は、往時友人が住んでいた高田馬場の下宿屋によく似ている。幻冬舎のような名の版元が出てくるが、原作は光文社で音羽である。主人公のキャラクターは地味過ぎ、それにステレオタイプ過ぎる。下宿屋の女将が渡部美佐子で、清川虹子を小さくしたような顔になってしまった。整形崩れか。宮崎あおいが女房役、料亭の板前修業らしいが、一人で板場に立つのは不自然である。


29 総長賭博(DL)
昭和44年、山下耕作監督、三島が褒めて有名になった映画だが、脚本の笠原さんは自分の傑作シナリオ3本の1つに挙げている。三島の『映画論集成』にその論が載っていて、おまけに鶴田浩二との対談も載っている。三島はこの映画を「何という絶対的肯定の中にギリギリに仕組まれた悲劇であろう。しかも、その悲劇は何とすみずみまで、あたかも古典劇のように、人間的真実に叶っていることだろう」と評している。対談では鶴田は活動写真ではセリフを言わないならそのほうがいいと言い、三島もそれに賛成し、舞台は長いセリフでごまかせるが、映画は「一ぱいどうだ」の短いセリフが難しいと述べている。


総長賭博は中間管理職の悲哀のような映画である。言ってみればこの劇の中でまともな理性をもったのは鶴田だけで、あとは自分の思いや欲望を真っ正直に遂げたい人間ばかりである。それは陰謀を巡らせる奴も同類である。ものが見える鶴田だからこそ規範の外に出ることができず、最後は殺人へという破局に至るしかない。三島はそれを古典劇と称するが、神に試練を施される人間と比べて余りにも卑小ではないか。


対談で鶴田が面白いことを言う。少ない友人はみな医者などの職業に就いていて、年輪を重ねていい顔になっている。若いときはのっぺらぼうで何も考えていないように見えた私のような役者が、少しはそういう内容のある人間に外見は近づくことができたかもしれない、と述べている。これは知恵者の言葉である。対して三島の言葉の何と浅薄なことか。伝法な言い方をするほどに底の浅さが見える。しまいに「昭和維新。いざというときは、オレはやるよ」と言い出す始末。それに鶴田は「三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから」と答える。鶴田はきっとその言葉を守ったろうと思われる。


30 L.A.ギャングストーリー(T)
出だしが好調で、これはいける、という感じの映画である。七人の侍風にはぐれ警官を集めてギャング退治をするわけだが、どうもいま一つ盛り上がってこない。演出が何かメリハリを欠いているのではないか。せっかくのショー・ペンの悪役ぶりも、もう一つ生きてこない。主人公をジョシュ・ブローリン、「トゥルー・グリット」に出ていた役者である。ライアン・ゴスリングが今回、一番の儲け役ではないか。優男で魂のある男を演じてクールである。監督はゾンビ物を撮っているルーベン・フライシャー


31 昼下がり、ローマの森(T)
デ・ニーロで借りたのだが、なんだ3部作か。それも最後の短編みたいなのに出ているだけ。新味のない話ばかり。ダマされる私が悪いんでしょ、きっと.


32 幸福の条件(DL)
アドリアン・ライン監督、主演ウディ・ハレルソンデミ・ムーアロバート・レッドフォード。ハレルソンはどこかでも書いたが、父親がマフィアの雇われ殺し屋で、本人にいろいろトラブルメイカーである。いわゆるメフィスト・フェレス物である。一夜、大金持ちに女房を金の形に貸したのがもとで、夫婦生活が危機に。最後にどうにか元に戻るというもので、これはこれで楽しんで見ていられる。レッドフォードは歳をとり過ぎている。ムーアはよく胸を見せる。


33 ザ・ドライバー
ウォルター・ヒル監督で、ライアン・オニールが主演、脇がブルース・ダーンイザベル・アジャーニ。途中で見たことのある映画だと気付いた。出来のいい映画で、ライアン・ゴズリング主演の「ドライブ」より格段にいい。いわゆる犯罪ドライバーで、いかに警察の追跡を振り切って逃げるかという商売である。カーアクションはOK。少し残念なのはアジャーニをうまく筋に絡ませていないこと。ゴズリング映画ではキャリー・マリガンの亭主が出所してから展開が甘くなる。それに比べればマシだが、それにしてももっとアジャーニを使うべきである。


34 5つの銅貨(DL)
レッド・ニコルズという実在のミュージシアンをダニー・ケイが演じる。彼の楽団にはベニー・グッドマン、ジミー・ドーシー、グレン・ミラーなどの逸材が揃っていて、名声を得つつあるときに、ニコルズの子が小児麻痺にかかる。子を放って旅に出ていたことを悔い、一切の活動を止めて子どものリハビリに専念する。そのおかげでどうにか杖と脚の支えがあると歩けるようになった娘。小さいころ、父親と旅したこと、彼の楽団員に愛されたこと、ルイ・アームストロングで輪唱したことなどもすっかり忘れている。自分のために父親が音楽家としての道を捨てたことを知り、再起をうながす。妻も同様である。「もう唇が硬くてコルネットが吹けない」と抵抗するが、母子の強い押しでナイトクラブに出演する。そこには昔の仲間が集うサプライズが用意されていた。


男どもがポーカーでがやがややっていて、寝つけない子ども。紫煙の籠もる部屋に顔を出すと、父親を残してみんなルイの店に出かけてしまう。ダニーは寝かしつけようとするが、子どもは寝られない。ポーカーをやって負けたら寝る、というのでやるが、娘のブラフにひっかかってしまう。どうしても寝ないので、一緒にダンスを踊る。ベッドで話をして、もう寝たなと思うと実は起きていて、ルイの店に連れて行ってという。仕方なく店に行き、興が乗るうちにまた一曲、また一曲と増えていく。この一連のシークエンスが実に余裕たっぷりで、見事なものである。


妻は良妻賢母で、これは「グレン・ミラー物語」と同様である。ミュージシャンといえば破滅型夫婦と思うのだが、この時代の夫婦は健全という設定である。子が産まれてニコルズはNYに腰を下ろすことを考えるが、妻は子の犠牲になってほしくないと主張し、一緒に旅回りをする。それがしばらくすると、いつ定住するのかと言い出す。10ヶ月の長期ロードが終われば、と答え、子を寄宿舎に預け、妻ともども旅回りに出る。その間に子が小児麻痺にかかるのである。やがて先に触れたごとく、母子で再出発を懇請するのだが、どうもこの良妻には定見というものがないらしい。ダニーが「君が子の犠牲になってほしくないと言ったじゃないか」と弱々しく言うシーンがあるが、ただそれだけである。


ダニー・ケイは実生活で人知れず不幸な子どもたちの施設などに慰問を繰り返していたそうである。日本贔屓で、たびたび慰問に訪れたという。それと似たシーンがこの映画にもあるが、何が彼をそうさせたのか。あるいは、ユダヤ系の出自が関係しているか。


ルイ・アームストロングとの掛け合いが抜群である。ルイは意外に小体なつくりの人である。彼のマネでダニーが歌うが、さずが芸達者である。


35 探偵はBarにいる
残念である。調子に乗りすぎたか、ターゲットを勘違いしたか。でも、客は前より入っていたかもしれない。前作のリズムの良さがまったくない。松田龍平の出番が少なく、演出不足も残念。何か新しいことをやらせてほしかった。ヒロインも魅力に欠ける、エッチなサービスは要らない。環境派政治家を渡辺篤郎、環境派ということでいかにも悪党面という役者にするわけにはいかなかったのだろうが、どうもいかがわしさが出てこない。彼の支持者がバットをもって主人公を襲うなど、絶対にありえない。左翼系市民という設定だが、そんなことがあるわけがない。冒頭は「オールドボーイ」のパクリである。親友のようなオカマが死んでしばらく豊満な肉体の女に溺れてそのことを忘れてしまうのは問題である。のっけから真剣味が出てこない。監督は橋本一、さすがに3はなさそうだ。


36 陽はまた昇る(DL)
ビクターのVHS開発物語で、NHKのプロジェクトXが元になっているらしい。話がよく出来ているので、安心して見ていることができる。主演が西田敏行、ビデオ部の総務課長が渡辺謙、西田の妻が真野あずさ、ビクターの社長が夏八木勲松下電器会長が仲代達也。あと若手で緒形直人篠原涼子(なんだかイメージが違って、できるOLの感じが出ていた)。それにしても、日本は異端の開発をするのは本当に大変である。ソニーのゲーム機も同じ。


37 警視庁公安部公安課第5部(DL)
5分も見ていられない。加瀬亮がかわいそうだ。


38 追憶(D)
シドニー・ポラック監督で、ぼくは2度目か。ほとんど内容を忘れていた。左翼の女(バーブラ・ストライザンド)が浮ついた男(ロバート・レッドフォード)に恋心を抱く。女は小説家志望で、男が作文教室で特等だったことで見る目が変わる。町で声をかけられ、緩んだ靴のヒモを膝の上で結んでくれたことで、心が動く。しかし、そのままで月日は流れ、ある兵隊さんクラブで彼が熟睡しているのを見かけ、声をかけ、彼を家に連れて行く。いびきを立てる男の傍らに忍び込むと、男は相手が誰かも分からずセックスに及ぶ。いろいろあって、彼らは結婚する。


印象に残ったのが、ストライザンドが自分のことをきれいではないと言うところ。それと、夫の友人をなじったことで別れ話になり、思い直して自分の部屋から夫に長電話をするシーン。親友でもいいから付き合ってくれ、と懇願する。その間、ずっと彼女が話す様子だけを撮し続ける。


ハリウッドに脚本家として籍を置いた夫と仲むつまじく暮らしているが、やがてマッカーシーの波が襲ってきて、夫婦の間にはすきま風が。もう少し赤狩りの酷烈な様子が描かれれば、映画は盛り上がっただろうと思われる。『だれがティム・ロビンソンを殺したのか』を読むと、その辺の事情がよく分かる。それにしても、左翼一点張りのはずのストライザンド、マッカーシー騒動まで、どんな活動をしていたかが見えない。


ストライザンドを見て、マルクス兄弟のハーポに似ているな、と思ってみていたら、ハリウッドの連中とマルクス兄弟仮装パーティをやり、彼女は「グルーチョは嫌、ハーポがいい」とハーポになる。ハーポは喋ることができず、返事は小さなラッパで表現するのだが、彼女がプファー、プファーとやるのが、おかしい。夫に映画の筋書きを作ったと言い、それは中国系ユダヤ人が主人公だと言うシーンもある。ハリウッドではユダヤ人であることを隠すのがお決まりだったのが、この映画では控えめながら、その表出をやっている。


大人の映画だなと思う。それはレッドフォードが世知に長けた人物を演じているからで、ストライザンドは常にマイペースを変えない。言ってみてば、ずっと青臭いのである。ハリウッドはこういう映画も撮っていたのだ、とうたた感慨にたえない。


36 ダンシング・ハバナ(DL)
キューバが舞台で、そこへ転校した優等生っぽい高校生が現地の青年(ベスト・キッドの彼に似てる)とダンスコンテストに挑戦する話である(ちなみに、彼女の両親はダンスのプロを目指していたような2人だ)。青年はホテルでバイトをしているのだが、外国人と付き合ったということで辞めさせられるはめに。コンテストで緒戦を勝ち上がり、3組の1つに残り、決勝で踊っている最中に青年の兄が会場にテロを仕掛け(なんでわざわざ?)、大騒ぎに。兄と逃げている最中に、町で革命が成就したという声が上がり、青年はアメリカに行く夢を捨て、彼女と別れる。


安っぽい作りで、スターもいないが、ぼくは楽しんで見ることができた。キューバの踊りは解放のための踊りなのだから、心を自由にして踊るべきだ、と青年が言うシーンでは頷いていた。彼はごく貧しい生まれだが、どうして英語が話せるようになったのだろうか。それが知りたい。


37 さよなら渓谷(T)
吉田修一という作家の原作らしい。高校生のときにレイプした女と再会し、暮らし始める、という話。その内縁の妻が真木よう子。二軒長屋の隣の女が子ども殺しで逮捕される騒ぎが起き、男は共犯を疑われ、取り調べを受けることに。内縁の妻が、彼と隣の女はできていたと証言するが、あとで撤回し、隣の女もそういう事実はなかったと証言する。


ストーリーはごくありきたりである。男は贖罪に生き、女はいくら肉体関係を持とうが、過去を振り切れない。男が警察から戻ってきたときに、「どうして怒らないの?」と聞くが、男はまた女が贖罪を試したのだと思ったはずで、怒るなど無理だと知ってて、それを聞くのである。では、男が怒ったとしたら? そこで初めて普通の関係に戻ってかもしれないが……女はそれを期待していたのかもしれないが……。結局、女は男の元から去って行き、男は諦めずに居所を突き止める、と言うところで映画が終わる。


真木よう子の演技に期待するも、メリハリがはっきり付いた演技で、あまり関心しない。小林信彦先生は、細身なのに胸が大きいところを評価なさっているが、そんなものかな、である。ぼくは「パッチギ」での存在感に驚き、ネームを確認した覚えがある。ただし、この作が2作目だが。雑誌記者役の大森南朋がひどく、居酒屋で女の記者(鈴木杏)から真木の過去を聞くシーンなど、まるでお人形。さらに、男と暮らす女とレイプされた女が同一では? と気付くシーンも、演技になっていない。それに比べ、杏ちゃんはごく普通にやることをやっている。


この種の静的な映画が好きだが、どうも予定調和ですべて撮っている感じがする。どこでぼくはこの映画に驚けばいいのだろうか。隣人の女が我が子殺しの真犯人かどうかも分からないで終わってしまう。それって単なる味付けではないのか。レイプ、幼児殺し、どっちもすごいテーマなのに淡々と映画が終わっていいのだろうか。


38 レオン(T)
またレオンである。ほとんど言うこともないが、2人でパントマイムをやるときに、ポートマンがモンローをやり、レオンに近づくと、レオンが目を伏せるシーンがある。それはエロティックなものを感じているからだが、それにしても西洋人が目を伏せるなどというシーンがあるだろうか。完全版は12歳の少女が19歳と偽って中年男にモーションをかける、というのが太い線になっているが、前のバージョンではそこまではっきりとは気付かない。どこをカットしていたかを確認する必要がありそうだ。


39 華麗なるギャツビー(T)
ディカプリオ、キャリー・マリガン(デイジー)、トビー・マクガイア、ジョエル・エドガートン(デイジーの夫)、監督バズ・ラーマンで、「ムーランルージュ」を撮っている。脚本はラーマンとクレイグ・ピアース(ムーランルージュの脚本)。ぼくはレッドフォードのを見ていないが、こういう中身だったのね、と意外感と既視感がある。貧農の出で、16歳で家出、難破しそうになっていた富豪を助け、彼から上流人の手ほどきを受けるが、遺産はすべてほかの人間に掠め取られる。軍に入り、将校になり、デイジー家のパーティに出かけ、恋に落ちる。しかし、財産がないことから、身を隠すことに。その間、5年、やっと裏稼業で成り上がり、すでに既婚者となっているデイジーの前に。誰も彼の出自は知らないが、デイジーは彼が貧しい将校であったことは、彼からの手紙で知っている。彼は富豪の出で、オクスフォード大を出ていると言いふらす。


ギャツビーが自分の城で派手なパーティを開いていることは、なぜごく近い対岸にいるデイジーに届かないのか。デイジーはギャツビーの過去をどこまで知っているのか。再会の場面でギャツビーはド緊張だが、はてそれはわざと? 素なのか? キャラクター的には、もっと遊び慣れた感じのほうが相応しいし、ミステリアスな感じが出ていいと思うのだが。


カメラをしきりに動かして、派手に派手にという演出だが、2時間強もあって疲れる。マリガンはコケティッシュな感じの女性で、いい男二人が奪い合うというのとは違うキャラクターではないか。ぼくはきれいだと思うが。


40 座頭市と用心棒(DL)
岡本喜八監督で、勝プロ製作の新座頭市である。用心棒が三船敏郎若尾文子が出ている。米倉斉加根、砂川秀男、嵐𥶡寿郎、滝沢修などが出ている。雨の中で2人を殺め、犬小屋のようなところで強い風雨を避けながら、そよ風、せせらぎ、梅の香が恋しい―というので、以前、訪れた村へ、という設定自体がいい加減である。座頭市が「そよ風…」と声に出して言うのである。村に入ってからも、ちっとも物語が駆動してこない。よって15分で沈没。


41 座頭市二段斬り(DL)
これを見るのは2度目か、3度目か。三木のり平が「いたち」という名の壺振りで、娘が幼い小林幸子。按摩の師匠が殺され、娘・坪内みき子は女郎屋の牢屋に入れられている。市は代官と結託し女郎屋も経営するやくざをやっつけ、女郎たちを解放する。この映画、のり平に花を持たせた作りになっていて、これがなかなか渋いのである。


座頭市と用心棒」は役者は揃えたが、話になっていない。こっちは加藤武がやくざ側の遣い手で、あとはさしたる役者も出ていない。だけど、後者は無理なく見ていることができる。演出の違いもあろうが、やはり脚本が違うのだろうと推測するしかない。


42 おすっ! バタヤン(T)
田端義雄は島育ち、十九の春、帰り船、大利根月夜ぐらいなら知っている。独特のギターの持ち方だが、あれはピックを使わず、指で弾く人のやり方だという。ギターの重みが全体で感じられるのだという。田端は、飲み屋などで気に入った歌があると採譜し、それをレコード化してヒットにしたそうだ。


大阪・鶴橋が第二の故郷で、そこの小学校体育館でのコンサートを中心に、過去の映像が挟まれたり、妻や娘、後援会長などの談話が挿入される。現代のミュージシャンからのオマージュもあって、さすがバタヤンという感じである。中でも小室等がバタヤンのギターを持って、これはいいものだ、と歓声を上げる。歌っている間に具合が悪くなり、舞台上で玄翁で修理している映像も出てくる。


大劇という大阪の劇場が彼の根拠地みたいなもので、大阪では抜群の人気を誇ったという。声の質が、赤線の女性を知らぬ間に引き寄せる類のものだった、と解説する人がいる。服装、その佇まい、そして声、どれを取っても庶民の出そのものの歌い手だったという。


バタヤン作曲で「骨のうたう」という曲が紹介される。戦地慰問でたくさんの卒塔婆を見たことが記憶に残り、同名の詩を歌にする。その詩の中の「ひょんと消ゆる」「ひょんと死ぬる」の「ひょん」をどうにか表現したいと工夫をしたそうだ。何か豪快に見て、たくさんの浮き名を流した男のごく繊細な神経を見たような気持ちになった。


43 セーフは(D)
ステイサム主演、NYが舞台、中国マフィアとロシアマフィアがNY警察と組むというトンデモない設定だが、面白い。ステイサム兄いは、ほぼハズレがない、という感じ。少し「レオン」の匂いがある。中国人の少女がもっと可愛ければ、この映画、もっと魅力的になったとぼくは思う。


44 永遠の人(DL)
木下作品なので、その項に譲る。


45 風立ちぬ(T)
アニメを、それも封切り初日に見るなんて、どうした風の吹き回しか。なんと言うことはない、当日の新聞に宮崎駿のインタビューが載っていて、そこにゼロ戦設計者・主人公堀越二郎のことについて触れ、彼が戦闘機を作ったことを現在の視点で断罪はできない――と述べていたからである。それはそうだろう。戦争の時代に、戦争荷担の仕事をしていた人間がすべて断罪されたら、歴史は止まってしまう。その伝でいけば、文学者の戦時期の発言を戦後になって批判することも無意味で、無駄なことになるのだろうか? 堀越がゼロ戦を作ったように、高村光太郎は自分の磨き上げた言葉で戦意高揚を歌ったにすぎない……。高村はたかが言葉の武器を使ったに過ぎず、堀越は人殺しの道具を作ったのだから、堀越のほうが罪が重い? いや、洗脳を担った分、文学者のほうが罪が重い……?


映画は大ホールがほぼ満杯。さすがというべきである。映画自体は至って地味なもので、堀越を賛美するような、急テンポの開発物語にはしていない。あくまで技術屋の夢を追う姿として描いている。アニメらしさは夢の部分と関東大震災の描写で、ほかは実写でもかまわないといったできである。細密、精妙な描画を見るにつけ、その感が深い。肺結核の女性と婚儀を交わし、夜、堀越は「疲れたろうから眠りなさい」と言うと、女は「こっちへ来て」と誘う。そういうシーンのはさみ方を見ても、この映画は実写で見ても、そう感想が変わらないのではないだろうか。


46 黄金を抱いて飛べ(D)
井筒和幸監督なので敬遠していたが、これがなかなかいい。会話がいいのである。残念感があるのは一味の頭領浅野忠信で、こういう人物がいるなとは思うが、ふだんはおとぼけで、実践で凄みが出るという設定ならもっと面白くなったのではないか。自分で仕掛けた爆弾が破裂するたびに「オウオウ」と驚き、がに股で仕掛けたところへ走るのはいただけない。妻子を殺され、しばらくすると「独り身も気楽だ」と言うのは、人間的深みを無くしてしまう。もう一人、西田敏行も、どの映画も抑えた演技をすればいいと勘違いしているのかもしれないが、浮いて見える。元神父で、裏街道を知っているという設定なら、違う人物像になるのではないか。それぞれその道のプロが集まって、ひと山当てようという面白さにならない(これが集団強盗の醍醐味なのに)。原作がどうだったかは忘れてしまっている。


47 人生はノーリターン(DL)
バーブラ・ストライザンドが母親役で、息子がセス・ローゲン。ヤシなどの自然素材で作った洗剤をあちこちで売り込むセールスツアーに母を同伴し、その間の愛憎をやんわり描くもので、全編、会話、会話。手慣れた感じで破綻がない。話が一直線で分かりやすいので、あとはセリフだけ。圧巻はレストランで1.4キロのステーキを制限時間内で食べたら無料になり、失敗したら100ドル取られる試みに挑戦するところ。母親のアドバイスが効いて、商品説明がうまくいき、商談が成立するところも、予定調和だが面白い。監督はアン・フレッチャーという女性、もともとは振り付けの人らしい。


48 飢餓海峡(T)
三國連太郎特集で、1回目は10分前に行ったら立ち見だというので、次の回に。ぼくの思い出の映画なので、やはりスクリーンで見たい。犬飼太吉が極貧の生まれで、実家を見届けた刑事が「あれでは罪の意識などなくなるのではないか」というすごい発言をする。最後に三國が入水自殺するのは、やはり一夜だけ情を交わした薄幸の女を殺したからだ。全体に間延びした演出なのは昔風と思えば、仕方がない。健さんの演技は一本調子で、困ったものである。爪と筆跡で有罪に持ち込めると気が逸るが、それってありなのだろうか? 盲いたイタコを白黒反転したり、ATG系のような演出はどうしてなのか。きっと流行りだったのだと思う。


49 オブリビオン(T)
何かが侵略をしてきて、地球人は火星に棲まっているが、水がないので地球から持っていく必要がある。反乱軍がいて邪魔をするので、それとの戦いが主人公の役目である。ところが、火星移住は嘘で、何か機械生命体みたいなものに地球はやられ、反乱軍こそ生き延びた地球人で、主人公は一度、死んだものの再生、増殖され、地球の水の防衛をしているのは無数の彼ともう一人の無数の女という設定である。既視感の強い映画だが、元を思い出せない。ふつうはこの種の映画は見ないのだが、ほかに食指が動かず、仕方なく。でも、それなりに楽しむことができた。主演トム・クルーズ、彼を守る目玉のおやじみたいな空飛ぶ兵器が、愛嬌がありながら残酷である。トムが「アウトロー」を撮れば、ピットが「ジャッキー・コーガン」を、トムが本作を撮れば、ピットが「ワールドウォーZ」を撮るといったように歩調を合わせているのはなぜか。どっちがどっちを真似ているのか。


50 ダウンタウン・ヒーローズ(DL)
山田洋次監督、原作早坂暁、脚本山田、朝間義隆。四国松山の旧制高校生の寮が舞台で、寮祭で芝居をかけることになり、マドンナとして薬師丸ひろ子を招き入れる。演出をする柳葉敏郎が恋心を抱くが、彼女は主人公を演じた中村橋之助に思いがある。娼婦(石田えり)をやくざから匿って逃がしてやるなどヒーローの面があるのは確かだが、あとは何がヒーローか不明である。やたらゲーテの格言が披露されるが、旧制高校のそれこそヒーローの感がある。1948年が時代設定で、みんなひもじさに追い立てられるように生きている。


51 ニューヨーク! ニューヨーク!(D)
目を掛けた女が自分より脚光を浴びるようになったのを嫉妬する男――「スタア誕生」のパスティーシュである(奇しくもライザのお母さんの作品だ)。デ・ニーロがライザ・ミネリを口説くところ、あるいは産院のベッドで彼女と話すところ、トラビスを見るようだ。人の気配にふっふっと肩をひねって、後ろを向くところなどが、特にそうだ。主題歌は成り上がりを歌ったもので、そう気持ちのいい歌ではない。デ・ニーロと別れてからどんどん名を上げる過程はライザの一人舞台。きれいで、可憐で、申し分ない(作品の中でも彼女はきれいだと言われるが、本当だろうか。ぼくには美人なのは確かなのだが)。スコセッシがリアルな人物と人工的な背景を意図して撮ったと述べている。まったくおっしゃる通り違和感なし。ライザを追って雪の中の電話ボックスで電話をかけるデ・ニーロ、その間に切り絵のような汽車が動き出し、慌ててカバンを捨てて取りすがり、そのまま汽車に引きずられる……このシーンの書き割りは特におしゃれである。


52 利休(T)
勅使河原宏監督、脚本勅使河原、赤瀬川原平、主演三國連太郎、秀吉が山崎努。秀吉が茶の湯を政治の道具にし、天皇に振るまったりする。しかし、海外出兵にイエスと言ってこない家康を茶席で説得せよ、場合によっては毒殺せよ、と言われるが、いずれも実行しない。ほかに利休の木像が作られたことも疑心を起こす1つとなり、ついに所払い、しかし利休が頭を下げて来なかったので切腹を命じる。侘び茶とは何か、ということが、全体でぼんやりと分かる、といった体の映画である。秀吉のいずれの心変わりが分かっているので、それが通奏低音となって緊張感を持続させる。



53 鍵泥棒のメソッド(D)
内田けんじという監督・脚本である。無理な筋を併せて作っているので、最後までしっくりこない。いちばんは堺雅人が一世一代の芝居を打ったのがバレたあと、やくざ者が関係者の殺しを初めて会った人間に任せること。そなあほな、である。すべて根も葉もない設定なのに、恋だ愛だだけは真実味を持たせようとしても無理がある。


54 その夜のことは忘れない(T)
吉村公三郎監督で、構成が水木洋子となっている。田宮二郎がジャーナリストで、戦後17年の広島に当時の惨禍が残っていないかと取材に来る。寝台列車の朝の洗面台のシーン、占拠者がいたので、手持ちぶさたに足許から細長い窓の外を見上げる。この奇妙な撮し方がほぼ中盤まで継続される。


広島に過去の傷痕を探りながら、徒労に終わりそうになるまでの描写が、なかなか問題意識を感じさせていい。もう広島に被曝の残滓はないと気落ちしたときに、バー「あき」のママ若尾文子に出会う。次第に彼女を愛し始めるが、連れ込み宿で迫ると、若尾は胸を開き、被爆者のケロイドを見せる。ここからが大甘の映画になり、唯一、河原に残る被曝石のもろさだけがリアリティを保つ。


この映画は被曝を扱いながら、そこに夜の世界を絡ませたことが目新しい。吉村監督自身、社会派ではない。しかし、制作の意気込みは非常に感じることのできる作品である。


55 終戦のエンペラー(T)
天皇を有罪とするかどうかをGHQが10日で決めたという設定だが、戦前、あれだけ日本の戦後処理を詰めたアメリカがこんな応急措置的なことをやるだろうか。天皇マッカーサーに会い、戦争責任はすべて私にある、と述べたという設定だが、これはマッカーサーの明かしたこととなっているが、彼の日記には一切記されていない。ポツダム受諾は天皇制維持を前提にしていたわけで、天皇が自分を有責と言うだろうか。西田敏行は海軍の大佐なのか、彼は日本は「無私と忍従の国」で、日本人に共通してあるのは「武士道」だと間抜けなことを言う。江戸は商人が仕切り、一般の人間は徳川様には畏れ多いものは感じていたが、幕末時には天皇? それは何? ぐらいの意識だったはず。敗戦の歴史さえアメリカに都合のいいように回収されるのだから、この国はどうしようもない。しかし、フェラーズ准将も困ったことだろう。一度は天皇有罪と決め、そのあとすぐに木戸幸一の進言があったとはいえ、天皇無罪に反転するのだから。


56 スーパー・チューズディ(DL)

原題はThe Ideas of Marchで、ローマ時代に予言者がカエサルに「3月15日に気を付けろ」と言ったことから、不吉な日ぐらいの意味だろうか。いい映画で、全体がよく締まっている。選挙参謀がフィリップ・シーモア、担がれるのがジョージ・クルーニーで、彼は監督、脚本(3人の1人)、プロデューサーでもある。シーモアの下にいるのがライアン・ゴスリングで、同じ民主党対立候補陣の参謀がポウル・ジオマッティ、タイムの記者がマリサ・トメイである。大統領候補者が自分の選挙スタッフの20歳の女性に手を出し、孕ませるというのは、最大の爆弾である。それを使って、一度は解雇されたゴスリングが復活する。苦い映画だが、さすが選挙映画の伝統の厚い国で、見応えがある。イーストウッドほど小林信彦御大はクルーニーを買っていないようだが、この作品は上出来である。民主党の予備選に共和党支持者が投票できることで、おかしな力学が働く。つまり自党の候補が大統領選本戦で勝てそうもないときは、反対党の有力候補ではなく、駄目候補に投票するという。そこが予備選で駆け引きを複雑にするようだ。


57 88ミニッツ(DL)
無理に筋を分かりにくくしてあるか、脚本が整理されていないか、あるいは両方ともありえる映画である。収監されている死刑囚が外部の人間を使って殺人をするというのは、何かの映画のパクリである。パシーノが薄汚く、彼を慕う女学生がいるという設定は不自然である。キムという生徒が味があるが、演技が下手で残念である。


58 落語娘(DL)
中原俊監督、主演津川雅彦ミムラである。監督は「櫻の園」を撮っている。どうも座りの悪い映画である。落語界の異端児が不吉な噺を何十年ぶりに高座にかける、という設定だが、語りの合間に説明画像が流れ、陳腐そのもの。津川も落語になっていない。ミムラという女優が寿限無を唱えると悪霊がいなくなるという設定が面白い。浅草演芸ホールでこないだ若手女流が寿限無を一生懸命やっているのを見たばかりである。


59 危険なメソッド(T)
デビッド・クローネンバーグ監督である。ユングフロイトとの確執を描く。ユングマイケル・ファスベンダーフロイトがビイゴ・モーテンセンユングの患者でキーラ・ナイトレイ、のちに児童心理学を修め、ロシアで幼稚園などを開設した女性らしい。


次の「コスモポリス」でも触れることだが、全編が会話で出来ている。ナイトレイが被虐的な仕打ちをされると性的興奮を覚えるというので、彼女の尻を打ち付けるシーンぐらいが絵的な部分である。しかし、ナイトレイとの情事、師弟の相克などの緊張があるから、会話に集中することができる。


フロイトが「アーリア人を信用するな」というところと、ユングアメリカに渡る際に、アメリカは我々を歓迎するだろうか、彼らは厄介を抱え込むことになるだろう、と述べるところは印象に残る。やおらフロイトの『モーセ一神教』を読みたくなった。渡米の船上で二人は自分が見た夢を語るのだが、ユングの夢はフロイトには自分との確執を象徴しているように見える。フロイトユングに夢を促されるが、理由を忘れたが(自分の尊厳に関わる、とか何とかいう理由だったような……)、話そうとしない。そこがユングが師を離れる端緒になったと後年に述べる。この船上のシーンなどユングが書き残しているのであれば、読んでみたいものである。


60 コスモポリス(T)
主演ロバート・パティソンで「トワライトサーガ2」で見ている。全編会話、それもリムジンの中でほぼ終始する。そこに乗り込んでくる人間との会話、会話。中国の元の暴落で何千億を損したという男がNYの生まれた地域の床屋に行こうとするが、大統領暗殺の噂が流れたり、彼を殺そうとする奴もいるというので、ずっと警護員が付く。その妻とセックスに及び、夫も殺してしまう。妻に何度もセックスをねだるが、妻は離婚を考えている。最後に自分の会社に勤めていたというパウロ・ジオマッティとの対話があるが、抽象的なもので、彼に後頭部を銃で狙われたところで映画は終わる。ドン・デリーロの原作で、小説ならリムジンの中で資本主義の堕落を描くこともできようが、映画では退屈なだけ。


61 一本刀土俵入り(T)
57年の作で、マキノ雅弘監督、井出雅人脚本、ぼくは4歳でこの映画を見ていると思う。そのことを確認するために見に行ったのだが、間違いはないようだ。お蔦(越路吹雪)が居酒屋の2階で酌婦をやっている。その下を腹を空かせて通りかかったのが駒形茂平という破門された相撲取り(加藤大介、駒形は生地の名前)。お蔦姐さんに金と櫛を恵んでもらって元気が出た茂平、横綱になるまでこの名前で通します、と言い、両国に向かう。やがて10年経って、お蔦はやくざ者の子を成していて、夫(田中春男)はいかさま博奕でヤクザの組に追われている。これまたやくざになった茂平が恩返しに越路、そして夫と子どもを助ける。


堂々として、しっかりとした、余裕のある展開である。加藤と越路の初対面でのシークエンスは急がず、騒がず、その一場で、女の境遇をすべて見せてしまう。自堕落な生活だが、一本筋の通った女がお蔦で、伝法な言い方が格好いい。茂平は腹が減るのをごまかすために川の水を飲むが、近くにいた子守の子に「その川の水は汚いよ」と言われて、「ずいぶん川の水を飲んできたが、ここのが一番うまい」と答えるような男である。白黒の映像もきれいで、昔はこういう映画を楽しんだのだか、と感慨が深い。


82 共喰い(T)
小説が原作だが、ひとを殴りながらセックスする男のことなど読みたくない。ただ、映画としてどうかという興味だが、これが実にいい。光石研が暴力親父で、まったくぼくの印象と違う役どころだが、いかれた男によく合っている。蚊帳のセックスが終わり、彼の逸物が薄紗の向こうに見えるが、これが立派である。張りぼてでないとしたら、見事である。


田中裕子が戦争で左手首から下をやられたお母さんで、暴力夫を避けて家を出た。一人お腹に子がいたが、堕胎した。モンスターの子を世に出させる気はない。出せばあいつのものになるから、堕ろして自分のものにしたという。魚の下処理をする仕事なのか、いつも魚の皮をじゃりじゃりやっている。暴力夫は酒場のママを連れ込み、外では売春の女にも暴力を振るっている。主人公である息子も恋人の首を絞めるようになり、その父親が通う売春婦にはビンタを使ったらしい。父親が彼の恋人を犯したことで、息子が復讐しようとするが、母が制止し、自分で殺す。それも手首に付けた鉄の義手で。


面会に行った息子に「あの人はどうなった?」みたいなことを言う。やりとりから昭和天皇下血の話だと分かる。あの人が始めた戦争で手首をやられた以上、あの人以上に生き延びようと思っていた、と言うところがあるが、やや映画の流れから言うと違和感がある。それと、息子が「恩赦」という言葉が分からない顔をするが、彼は吉行淳之介だったり、常に本を手放さない人間らしいので、それはおかしい、という気がする。そんなにアホじゃないということである。


おそらくこの映画が今年の賞を総なめにするのではないか。そういう出来である。


83 東ベルリンから来た女(T)
クリスティアン・ペッツオルトという監督で、ドイツ映画。壁の解放9年前のことを扱っているらしい。西への移住申請がはねられ、ベルリンから田舎町の病院へ移された精神科医(?)。つねに秘密警察の監視、見回りがある。西側にいる恋人との逢瀬を森、外人専門ホテルなどで繰り返し、お金(西側への脱出用費用)や煙草などを受け取る。結局、医院の優しい医者(前の病院で新鋭機械を導入するも、部下の取り扱い説明書の読解不足で2人の子を盲人にした責任をとって、田舎の病院に回されてきた)。


映画館に5分遅れで入ったので、最初、主人公のポジションがよく分からなかった。題名から東ベルリンから西ドイツに来た女の話だろうと思いこんでいたからである。しかし、秘密警察が出てくるに及んで、そうか、東西の壁が崩壊する前の話なのだ、と納得した。しかし、なぜ今この種の映画がドイツで撮られるのか。簡単に言ってしまえば、東側にも良心の人がいた、という映画である。


彼女は結局、患者の一人を身代わりに逃がすわけだが、その大きなきっかけは男が東側で暮らそうか、と言ったからではないか。東側には自由などないのに……その甘さに嫌気が差したのではないか。それと、外国人ホテルで知り合った隣室の女が、西側の男に会うたびに物を貰うし、結婚をすれば西側に行けるかもしれない、と語ったことも影響しているか。自分も言ってみれば彼女のあり方とそう変わるものではない……と悟ったか。


女優がニーナ・ホスという人で、姿も美しく、凛とした風格を漂わせながら、エロティックでもある。この人の抑えた演技で、この映画はもっていると言っていい。優しい医師を演じたロバルト・ツアフェルトで、太っているが、顔はかわいげのある二枚目である。


84 ゼロ・ダーク・サーティ(T)
監督キャスリン・ビグローで「ハートロッカー」を撮っている。51年生まれで、赤字続きの監督が57歳で同作で女性初の監督賞を受賞。女性が戦場物を撮り、それで評価が高いというのも稀有である。主演ジェシカ・ジャスティン。今作はビンラディンの居場所を見つけ、射殺するまでの経緯を描くが、捕虜に対する拷問や武器を持たない女性まで殺害するところを描いていて、そういう意味でも異色である。ビンラディンを殺したあとの妙な興奮のなさ、静けさがかえってリアルな感じを抱かせる。


ビンラディン殺害計画にはパキスタン軍から絡んでいるという説があったが、この映画によればそれは無かったようである。隠れ家からそう遠くないところにパキスタン軍の士官学校があるので、内通していないわけがない、という話だったのである。


85 ラストターゲット(DL)
原題がThe American とは素っ気ない。中身も渋く、銃の特注製作の男が主人公、イタリアで娼婦に惚れて足抜けを図ろうとするが……。ドンパチがない、音楽もない、色調も淡い、それでも見ていられる。最後に何かがあると思っているからである。


86 社長紳士録(D)
監督松林宗恵、20作目である。森繁が常務から支社の製袋屋の社長になり(前社長が左卜伝)、ライバル会社社長とクラブのママや、熊本の取引先の取り合いやで頑張る、という設定。子どもが3人いて、長女には岡田可愛。熊本の会社社長がフランキー堺で、衆道の人で、社長と一緒に来た総務部長の三木のり平の宴会芸を見て惚れる。この宴会芸がこの映画の呼び物となっているが、確かに笑わせられる。旅先で池内淳子が積極的に迫る芸者を演じるのは、いつものこと。艶笑話が多く、朝から女房と事に及ぶようなこともしている。小林先生がおっしゃった、森繁の人より半拍早い演技というのは、見ていてよく分かった。相手の言葉の尻にかぶせるようにサッと言うのである。シリーズはこれをもって終わるはずが、人気がそれを許さず、続編が作られた。


87  ランナウェイ(T)
レッドフォードの前作が良かったので見に行った。ベトナム戦争反対の過激派ウェザーマンの残党の一人(スーザン・サランドン)が自首したことでFBIが動き出し、弁護士として一般生活を送っていたレッドフォードに司法の手が伸びることに。結局は無実だったという話なのだが、彼らの結束が非常に固く、30年も経って、誰も仲間の密告などしていない。それにネットワークも確かに生きていて、レッドフォードがかつての恋人(ジュリー・クリスティ)を探す旅も、その情報網に拠っている。シャイア・ラブーフが新聞記者、クリス・クーパーがレッドフォードの弟、ニックノルティが同志といったように出演陣も豪華。いかんせん12歳の子どものいるレッドフォードが歳を取りすぎているのがきつい。今となっても革命を信じるクリスティは、言ってみれば「追憶」のストライザンドの将来の姿そのもので、やっとこの映画でレッドフォードの市民性が勝ったという話である。


88 ゼロの焦点(T)
3、4度目になるだろうか。やはりラストの断崖での絵解きが長すぎる。それに東京・立川の娼婦が偶然、能登の同じ町にいて、間接的なつながりがあるという設定自体、不自然である。山田洋次橋本忍と脚本を書いている。


89 点と線(T)
小林恒夫監督、井手雅人脚本。原作と比べると、登場人物全体に老けている感じがする。とくに九州の刑事鳥飼を加藤嘉が演じているが原作では40代半ばだが、映画では60代末に見える。容疑者安田の山形勲も原作は30代半ばで、どう見ても50代の貫禄である。その妻高峰三枝子は20代後半とのことだが、原作は32、33歳。これだけが逆になっている。


原作では偽装心中は抱き合って死んでいることになっているが、映画では2人が仰臥で並び、男の腕が女の頭の下に通っている。青酸カリで死んだという設定からいえば原作の方が理に適っている。悶死する劇薬で、どうしてきれいに並んで死ぬことができるだろう。原作の2人抱き合ってというのも無理っぽいが。


映画が優れているのは、安田の妻を表に出してきたことである。映像で見せる以上はそうせざるをえないという事情もあるかもしれないが、彼女の関与を浮き立たせたことで、原作以上の情の深まりができたと思う。原作では妻関与の経緯は、刑事三島の鳥飼への事件解決報告の手紙でちょっと触れられる程度である。


高峰が冴え冴えとした美しさをたたえて恐ろしいほどである。ぼくはこの人が美人などとは夢にも思わなかったので、そのキャスティングの上手さに唸ります。原作の文庫解説を平野謙が書いているが、偽装心中に持ち込む経緯が書かれていないのが、この作の唯一の落ち度である、という。安田は殺した2人と面識があり、妻の高峰は男とは顔を合わせているが、女のことは夫の愛人、性欲処理係として知っているだけである。安田が女房にどう共犯を唆したかは分からないが、映画では会社に三島刑事がやってきたあとすぐに女房に電話をさせている。それは安田が事を実行するのに、妻と通じていることを明らかに提示しておこうということなのだろうと思う。


映画を見て原作を見たくなるなど初めてのことである。それだけ高峰の人物造型が魅力的だったということであろう。それと加藤嘉のしなびた演技もいい。たとえ女はたらふくでも、男が何かを食おうとすれば相伴するものだ、との見解は人の機微に触れた者でないと言えないことである。原作でもそこは光っている。文庫で250pほどの作品で、意外な薄さにびっくりした。


90 カストラート(DL)
去勢で高音域の声が出る歌い手をカストラートと呼ぶらしい。ヘンデルが王の使いとして彼を専属にしたいと誘いに来るが、誘いに乗らない。貴族の劇場で人気を博すが、貴族と王が対立しているらしいことがわかる。イギリスでもイタリア語で歌う。会話までイタリア語である。そもそも去勢をしたのは兄で、二人はセックスも共同でやる。最後、兄は弟の妻に子を孕ませ、戦場に出るところで映画は終わる。


92 グランドイリュージョン(T)
面白い! やはりこの手の犯罪グッドジョブ物にぼくは弱い。それほど複雑な構成になっていないのも好感である。マーシャルアーツのような技を使う若者もいい。もちろん他の3人もいいチームだが。モーガン・フリーマンはなかなか歳をとらない役者だなぁ。「コンサート」「イングロリアスバスターズ」のメラニー・ローレントがインターポールの新米捜査官の役。切れ役のウッディ・ハレルソンはメンタリストという役柄。もともとは知的な人なんだから、あり、である。主演といっていいのがマーク・ラファロで、何の映画で見たか覚えていないが、今回は妙に哀愁があってよかった。ただ、冷静に考えれば、設定に無理はあるのだが……。きっと続編を作る気がするが、さてこの作を超えられるか。


93 アラバマ物語(DL)
監督がロバート・マリガン、脚本ホートン・フートン、音楽エルマー・バーンスタイン、プロデューサーがアランJパクラである。マリガンはあまり作品は撮っていないようだ。フートンはあとでThe Young Man from Atlanta でピューリッアー賞を取っている。プロデューサーのパクラは監督として大統領の陰謀推定無罪ペリカン文書などがある。


子どもが鉛筆なのか紙にこするとTo Kill a Mockinbird というタイトル文字が浮かび出るという粋なことをやっている。黒人差別告発の映画なのに、しばらく子どもの世界の話に終始する。それが実は、子どもの世界にも偏見や差別などがあって、それが徐々に解明されていく過程で大人の側の事件も大団円を迎えるという構図になっている。とてもスマートな作りで、納得がいく。


弁護士の父親をグレゴリー・ペックが演じていて、彼は黒人レイプ容疑者の弁護を判事に頼まれ、原告側のウソを明かしたように見えたが、陪審員は黒人有罪を選ぶ。これは被告に不利な土地での陪審制の問題点だろう。なぜアメリカでこれだけ法廷ものが多いのか。そこで宣じられる自由と平等の尊さ――裏を返せば、いつも確認をされなければ、それらはガラス細工のように弱いものだということではないか。


真夏の裁判に人々が押しかけるが、入り口階段脇に氷がバスケットに山盛りになっている。人はそれを口に含んで建物へと入っていく。初めて見る映像だが、南部ではこういう習慣があったのかもしれない。あるいは、容疑者の身柄が危ないということで、拘置所の入り口に椅子を出して腰をかける父親。案の定、身柄引き渡しを求める白人団体がやってくる。その場に子どもがやってきて、団体の一人に顔見知りを見つけて「カニンガムさん、こないだは作物を持ってきてくれてありがとう。息子さんは同級だから、よろしく言ってください」と平静の声を掛けると、男たちの間にあった緊張が薄れ、引き揚げていく。匿名の暴力や熱が、個別の名前でクールダウンされたのである。あるいは、こういうシーンもある。貧しい同級生を夕食に呼んだところ、牛のステーキなど久しぶりだ、いつもはリスやウサギだから、と言う。シロップが欲しいというので出してやると、何にでもそれをかけるので、下の女の子が「シロップでみんなぐちゃぐちゃだわ」と言ってしまう。黒人のメイドが飛んできて連れ出し、人の食べ方にあれこれ言ってはいけない、と注意を与える。この映画には、こういったリアルな描写がある。


銃を持つのが当たり前の社会のようだ。家に遊びに来た、父親が鉄道会社の社長だという子は8歳にして銃を持っているという。ペックは17、18歳で持ったが、撃つのは鳥ぐらいにしなさい、モッキンバードのような人間に害を与えない、きれいな声で鳴く鳥は撃ってはいけない、と諭す。これが原題の由来である。


とてもいい映画を見たという印象である。じっくりとプロセスを描いて、多層的にテーマを深める手腕に敬服する。


94 水の中のサイフ(DL)
ポランスキーの処女作で、気分は「太陽がいっぱい」で、中年夫婦のヨットにやんちゃな、独身男を連れ込んで、セイリングが始まる。中年男はニコラス・ケイジ似、若者はユアン・マクレガー似、女はアン・マーグレットか。心理の綾を織りなしながら、つねに中年男が若者に「子どもだから、子どものくせに」といった態度で接するうちに、穏やかならぬ気持ちが育っていく。映像的にも実験がされていて、見飽きない。たとえば胸高い女が横たわるのをこちら側から撮し、その体の線に沿うように川向こうの木立が点継されるといった具合である。モノクロでジャズ、フランス語。ポランスキーの出自とは、こういうとこだったのね、という驚きの映画である。明らかな才気を感じる。


95 父ありき(D)
1942年の作品で、戦地から帰ってきて、何を撮るかと期待されながら、検閲で当初の作品を進めることができず、満を持して放った作品がこれである。他の監督たちが秀作として評価し、客の入りもよかった。戦後の小津のほぼすべてが出ているといっていいのではないか。石油タンク(?)、洗濯物、近代的ビルの窓、少ない会話、会話の主の顔の切り替え、映像の切り替え持に写す風景の遊びカット……。ただ主題は父と娘ではなく父と息子だが。


鮎釣りのシーンが3回あって、二人が同じ動作をする様子がユーモラスでもあり、父子の絆の深さも表している。一回目のシーンで、父と離ればなれで暮らすことがわかったあと、息子の竿の動きが止まる。息子が長じて教師になり、久しぶりに那須塩原で温泉に浸かるシーンがあるが、二人が入って一杯の小さな木製の浴槽が見え、二人は正面を向いて、お前の腕は太くなったなどと他愛のない話をする。ずっと引きの映像で、妙にセット臭い。中学受験の後、息子と入った飯屋のシーンも、引きの絵で、二人の足下まで写すようなことをしている。店の人は姿も表さないし、どうもセット臭い。息子が教師として秋田に赴任するが、そこの子供たちがしゃべる言葉が聞き取れない。


息子が母親の仏壇を仰ぐシーンが印象的である。捲っていたワイシャツの長袖を直し、背広を着、線香を焚いて、という一連のことを実にゆったりと写すのである。こういうところに小津の価値観のようなものが明らかに表れているいるように思われる。息子が教師を辞めて東京で一緒に住みたいと言い出したとき、珍しく、笠智衆が声を張り上げ、早口で「分を尽くせ」といった意味のことを長めにしゃべる。こういうご時世だから、あやふやなことではいけない式のことも、ちらっと言う。背後に戦争があることが、ごく淡彩に触れられる。よくぞ1942年で、こういう、言ってみれば女々しい反戦映画を撮っていたものである。


若き佐分利信や三善弘治などが出ている。仲のいい同僚の教師に坂本武、息子に佐野周二である。どういう会社の勤め人か分からないが、笠の家には女中が一人いる。息子は結局、坂本の娘と結婚することになる。父親が会社に出ようとしたとき、遊びに来ていた息子が別の部屋に行き、本を持ってごろっと畳に転がり、天井を向く。妙な間だな、と思うと女中が父親の急変を知らせに来る。ここの間が本当に微妙である。


96 キャリー(T)
前のが1976年、ブライアン・デ・パルマの「キャリー」である。「エクソシスト」が73年で、それが火付け役になって怪奇ものが矢継ぎ早にやってきた。もともと怖い映画が苦手なので、2、3本しか見ていない。そのうちの1つがスティーブン・キングの「キャリー」である。元の映画をほぼなぞっているように思うが、あるいはもっとパワーアップしたのかもしれない(道路を裂き割るるなんて、前はあったかしら)。母親をジュリアン・ムーア、キャリーをクロエ・グレース・モレッツ、あの「キックアス」のかわいいい彼女である。監督が「ボーイズ・ドント・クライキンバリー・ピアース。プロムというパーティがいかに大事かというのがよく分かる。あと、ブタの血をかける、というのは何か宗教的な意味があるのだろうか。


97 レイヤーケーキ(DL)
ダニエル・クレイグ主演、セルビア人の麻薬を奪った連中から話を持ち込まれたことから、クレイグが追われる身に。さらにボスが彼を裏切る画策が絡んで、ごちゃごちゃに。ボスのボスがそこに登場するからよけいに厄介なことに。娘がダメ男に捕まって行方がわかなかくなっているので探ってくれと言われるが、その娘がいっさい出てこない。セルビア人って怖いのね、という印象ばかりが強い。やっと組を抜け出したと思ったら、彼女の元彼に簡単に殺されるところは、ちょっと面白い。


98 シェフ(DL)
ジャンレノが落ち目の三つ星シェフ、料理オタクとも呼べるジャッキーが彼を助け、最後は自分が三つ星レストランのシェフに。レノは新しい恋人のレストランで働くことに。審査委員が分子料理を好きだというので、その専門の料理家のところに行くが、レノが侍、ジャッキーが芸者? の姿で、きっと吹き替えでなければ変な日本語をしゃべっているはず。ここのシークエンスはまったく下らない。


99 スティング(DL)
レッドフォードがNYからシカゴまで逃げ出すまでの展開が鮮やかである。それとFBIを絡ませて、どんでん返しを仕組むところも見事。列車でロバート・ショーのボスをポーカーで負かし、そのあとレッドフォードが寝返りの話も持ち込むところは出来すぎていないか。大親分であれば、もっと鼻が利くべきだと思うが。それと仮設馬券売り場でショーに声をかける人間がいつも同じで、しかもわざとらしいのを、なぜ冷酷な親分は気づかないのか。この映画の初見から気になっているのは、レッドフォードが惚れる女が、どう見てもきれいではないことである。「ロッキー」のエイドリアンにもそれを感じたが、何か制作者に狙いのようなものがあるのだろうか。ポール・ニューマンの女もそういえばパッとしない。ただ、アンダーグランウンドの生活に倦んでいながら、図太い処世のわざは忘れないといった貫禄はよく出ている。


全体がレッドフォードのいわゆる“道路屋(路上を使った詐欺。冒頭、うまくいった仕事が実は組の人間の財布を盗んだと分かり、物語は動き出す)”仲間のルーサーが殺されたことへの復讐であるというところが味噌である。実際、最後にレッドフォードは分け前も要らないと言っている。一人ひとり仕掛けの人物を選んでいくところは「七人の侍」っぽい。考えてみれば、「ミッション・インポッシブル」も仲間でターゲットをだまくらかすわけで、アメリカにはこの種の犯罪の伝統があるのかもしれない。脇役が揃った、やはり名品というべき映画である。

12/10月後半からの映画

kimgood2012-10-28

110 ルート・アイリッシュ(DL)
ケン・ローチ監督である。これも劇場で見たかった映画だが、なぜか見逃してしまった。イラクバグダッドにはルート・アイリッシュと呼ばれる危険な地域があって、そこで民間兵である親友が殺される。そもそも高給が出るからといって、その土地に親友を誘った主人公は、すでにアイルランドに戻っていて、友の訃報を聞く。戦場での真実を知ろうとするが、邪魔が入る。次第に分かってきたのは、兵による“民間人狩り”のようなものが現地で行われ、それに親友が反対していたということ。告発もすると言い出したため、最も危険なルート・アリリッシュの警備に頻繁に回された結果、殺されたことが分かる。軍隊と違って戦争請負会社がやる殺戮には法の網がかからないといわれる。この映画でも、疑惑の人物は、すぐに別の戦場に送り込まれている(あとで親友を殺していないとわかるのだが)


夜に行う“民間人狩り"の様子が怖い。戦場ものをそう見ているわけではないが、もしかして、今までで一番怖い感じがする。「チェ」のときのように、いともあっけなく人が死んでいく。そして、実に簡単に人を殺していく。それがとてもリアルで怖い


この映画、ケン・ローチにしては詩情がほとんどない作りになっている。それに話も単純である。


111 リアル・スティール(DL)★
これはエンタメです、楽しめました。ロッキーのロボット版で、廃物を集めて作ったロボがストリートファイトから駆け上がり、無敵のロボと戦い、やっつけるのである。このストリートファイトという形式が、とてもアメリカ的なものの気がする。マックイーンの「シンシナティキッズ」はポーカー、ポール・ニューマンの「ハスラー」、いずれもストリートから始まってセンターワールドへと駆け上っていく。デモクラシーの暗喩であるし、アメリカ大統領選の擬似形である。

この映画、ヒュー・ジャックマンというまったく無個性の役者が、そこそこ演技しているのが分かるだけでも貴重か。女優がエヴァンジェリン・リリーといい、これが愛嬌があっていい。彼女の父親がジャックマンにボクシングを教えた、という設定なっているのもロッキーの映しである。ジャックマンの息子役も可愛い。何よりもロボットの動きが微妙なのが、映画をリアルなものにしている。


息子はゲームで日本語を覚え、それをロボットの命令に使うシーンがある。新聞でドバイのコスプレ大会の話が載っていたが、そこに集まる彼ら、彼女らは日本語をアニメから学んでいる。これはある意味、すごいことである。日本はなんという文化を産んだものか。といっても、CIAのスパイといわれるデーブ・スペクターも漫画で日本語を覚えたというから、ここ最近、始まった話でもないか。


冒頭から映像がきれいで、期待感が膨らむ。各シーンを思い出してみても、本当に過不足がない感じがする。大試合になってジャックマンが怖じけづくのはお約束だが、ちょっと前半のアウト・オブ・ルールな感じからいえば違和感があるが、気になったのはそれくらい。


112 ロック・オブ・エイジズ(T)
何気なく見た映画がミュージカルだった、という幸運。トム・クルーズがいかれたロッカーの役だが、何の映画だかで産めよ、殖やせよ教のセールス教祖みたいな役をやったときのような切れ方である。時折、こういう振り幅にいきたいタイプなのだろう。キャサリン・セタ・ジョーンズも力が入っていて、彼女のダンスは見ものである。名声のある女優で、よくここまでやるものだと思う。トム・トムクルーズといい、何か日本的なあり方とかなり開きがある感じがする。トムに絡もうとして、舌をピロピロさせるところは不気味かつ笑える。「嗚呼! 花の応援団」を思い出しました。この人、コメディいけます。


ライブハウスの主がアレック・ボールドウィンで、最初、汚いのと太っているのとで、それと気付かない。あとでゲイと分かるが、その話は余計である。つなぎに一つ話が欲しかっただけという感じである。彼はテレビ人気ドラマシリーズで活躍しているはずである。主演はジュリアン・ハフという女の子だが、ごく普通のアメリカのティーンエイジャーの感じである。ダンサーで、カントリー歌手でもあるらしい。トムのマネージャーが、ポール・ジオマッティ、これがはまっていてgood。この役者、目立ちます。


113 一枚のめぐり逢い(DL)
戦場で見つけた一枚の女性の写真が不思議と自分の身を守ってくれたと信じた退役マリーンが、その女性を探し求める(原題はThe Lucky One)。彼女は犬の飼育士をしていて、それを手伝うが、事情を打ち明けることができない……といったラブロマンスである。イラクでの戦闘シーンは、「ルートアイリッシュ」のような迫力はないものの、やはり民家に押し入って敵を探し出すシーンは緊張する。誤射するのではないか、人違いではないか……と。


落ち着いた映画で、彼女の母親役が訳知りで、知的で、ユーモアもある役柄で、この人物の設定でこの映画はかなり上質なものに仕上がっている。よく見かける人物像ではあるのだが、母親役の女優がかわいいのである。ブライス・ダナーという。主演男優はザック・エフロン、女優はテイラー・シリング。


113 ニューイヤーズ・イブ(DL)
晦日タイムズ・スクエアで大きなボールを落とすイベントがあるらしく、人々がそれを目撃しに集まってくる。グランドホテル形式といわれるやつで、複数の話が同時進行し、最後はそれぞれにあるまとまりがついていくという趣向である。さまざまなカップルが生まれるが、一つだけ最後までピースが埋まらないものがあるので、緊張感が続くことになる。映画では大事な要素である。


ヒラリー・スワンクがその大イベントの責任者で、その瀕死の父をデ・ニーロが演じている。病院の優しい看護師がハル・ベリーであり、彼女は戦場にいる恋人とネット画面で大晦日を祝う。友達の結婚式に出た帰りに自動車事故に遭った男は、今夜はスピーチをすることになっていて、その後、大事なことがあるという。1年前の大晦日に出合った女性と再会を約したが、そこに行くべきか否か。そして、その女性とは……。イベントに中学生の娘が友達と行くことを許さない母親、窓から逃げ出す娘、それを追って人混みの中へ入ったあと、母親がシンデレラになって向かった先は?


まだ組み合わせがある。わざとらしいイベントが嫌いな男が、バックコーラスを務める女性と古いエレベーターに閉じこめられ、次第に人とのコミュニケーションを取り戻していく過程も描かれる。ようやく脱出した女性シンガーがサポートする男性人気歌手は、当夜のあるパーティ(先のスピーチ予定のある男性は、このパーティの主催者の一人)の料理一切を仕切る女性シェフとヨリを戻そうとしている。


ご都合主義の映画だが、けっしてそうは思えないのは、もっと究極のご都合主義が用意されているからである。中年のおばさん、これをミシェル・ファイファーが演じていて、年齢が半分と思われる自転車宅配の青年(ザック・エフロン)に、夢のいくつかを叶えてくれたら有名仮装パーティの券をやると頼み込む。いわく世界一周、いわくバリ島旅行、いわく劇場出演……これをニューイヤーイブの半日で実現しなければといけないという。ところが、見事をそれをクリアしてしまうのである。もちろんこの二人にも愛が……。


114 完全犯罪クラブ(DL)
サンドラ・ブロック主演である。悪い高校生にライアン・ゴスリング、これは存在感がある。切れ者で、人気があり、何をやっても上手くやれる──そう考える若者を演じている。ゴスリンが操るのが天才肌の、暗い同級生で、これが行きずりの女を殺し、警察を煙に巻く。サンドラは刑事で、前に結婚で失敗し、暴力夫に切り刻まれた跡が胸にある。次第にそのトラウマを克服する過程と、犯罪捜査の進展が同時に描かれる。その大きな支えになったはずの刑事が、まるで魅力がない。それでも楽しみながら見られる映画である。サンドラ・ブロックにハズレなし、といっておこう。


115 ミッドナイトFM(DL)
韓国映画で、「オールドボーイ」のユ・ジテが狂気の犯罪者で、あまり変わり映えしない。それでも彼には存在感がある。イーストウッドの「恐怖のメロディー」、韓国映画殺人の追憶」にもFM番組を使った展開がある。最後の放送に臨むDJ、その娘が、ユ・ジテの人質になり、脅しをかけられる。何年何月にかけた曲を、同じ解説で流せ、など。ストーカーもどきの男がスタジオの外にいて、これが最後までDJのために献身的に尽くすのが痛々しい。


DJが窮地に陥っているのが分かっていて、勝手な番組を流すな、と放送中止にする上司が出てくるが、こんなことありえるのだろうか。それと、ユ・ジテが何度も娘を殺したといいながら、そうはしないでラストまでもっていくので、間が抜けてしょうがない。もっと脚本を整理して、撮影も上手にやれば、この映画はどうにかなるように思うのだが。犯人が細かい注文を出してくるところに妙味があるからである。


116 寅次郎の青春(D)
シリーズ第45作、風吹じゅんがマドンナということになっているが、寅に精力がないので、ただ行きずりに泊めてもらっただけという関係である。恋のもがきも苦しみもない。たとえば、寅のアリアと呼ばれるシーン。寅が満男の恋の行方を語り始めるが、あろうことかおじちゃんが止めるのである。バカバカしくて聞いてられない、という理由だが、寅のアリアでを止めるのは御法度のはずである。中止された寅にリアクションがないのが、余計にさみしい。さらに、満男が、寅が風吹の誘いを断ったのは尤もだ、なぜなら叔父さんはいつも最初は面白いが、1年もすれば退屈な人間になることを自分で知っているからだ、と分析するのだが、言われた寅はうなずくだけである。渥美にリアクションの映画ができなくなっている。声も細い。妙に化粧も濃い。おいちゃんも、おばちゃんも、そしてタコもみんなほっそりしちゃって、中でもタコとおばちゃんは声まで細くなっている。


それにしても粘りの山田はどこへ行ったのか。渥美なら演技の緩みは仕方ないとでもいうのか。寅を愛してやまない山田が、寅のアリアを否定し、あろうことか恋愛不能症を甥の若造に指摘させて終わりにさせるなぞ、ずいぶん冷たい。もうこの時点では、山田は寅さん映画を諦めていたのではないかという気がする。


風吹の後ろ姿を撮すときに、彼女の脚を撮すのようなことをしている。それを寅の目線でやるのである。あるいは、散髪の際の妙な胸のくっつけ方、やり過ぎである。肉感派風吹を意識した演出というわけだが、山田監督らしくない。


117 ローラーガールズ・ダイアリー(DL)
ドリュー・バリモア監督で、彼女は役者としても出ている。どうという映画でもないが、アメリカらしい感じもする。いい子を演じるのが嫌になって、体力系のローラーゲームにはまり、旧式な母親と確執が起こる、というパターンである。田舎町からバスで、少し都会っぽいところへゲームをやりに行くのだが、自分の町を離れるところなど、田舎→都会ものの一つに見える。お母さん役はマルシア・ゲイ・ハーデン。よく見る顔だが、名前を初めて確認した。バリモアは才能はないが、これくらいの映画が撮れるなら、長くやれそうな気も。


118 アルゴ(T)★
ベン・アフレックが監督、主演、製作でもある。ジョージ・クルーニーが製作に一枚噛んでいる。イラン革命時にカナダ大使私邸に逃げ込んだアメリカ大使館員6名をCIAが助ける実話である。期限はたった2日、ということはその準備に時間を使い、終わってからも時間を使わないと、もたない。


とてもウエル・メイドな感じがする。複数の選択肢のうち、その救出作戦に決定するのに40何日もかけているアメリカ、ほかにも60名以上が400日以上、大使館に人質に取られていたわけだが、いまのアメリカならもっと手早く行動を起こすのではないか、という気がする。あるいは、カーターという大統領に特殊な現象だったものか。

アフレックは5本の映画を撮っている。ぼくはこの映画が初めてである。脚本家としてはマット・ディモンと『グッドウィルハンティング』を書いたのは知っているが、ほかは2本が自分の監督映画、あとはテレビシリーズで何か書いているようである。製作は13本、調べたところ知らない作品ばかりだった。


いまの落ち着いた撮り方でいけば、第二のイースト・ウッド誕生かと思う。もっともっとたくさん映画を撮って、楽しませてほしいものである。これから要チェックである。


119 大鹿村騒動記(DL)★
評判の映画だったので見なかった映画である。なんとなく見る前から仕組みが分かるような。それでもやはりよくできた映画で、楽しませていただきました。老人映画で、若者には何だこれ、だろう。田舎歌舞伎が太い柱になっていて、後半にはその長い劇の様子も撮されるが、これも若者には何だだろう。大楠道代がマドンナ的扱いだが、いやはや。原田芳雄岸部一徳三國連太郎、石橋蓮、佐藤浩一、松たかこ、瑛太、でんでん、などなど。三國が長い台詞を言うシーンがあるが、時折、聞こえないところもあるが、立派なものである。シベリア体験を言うのに「ラーゲル」と言っているが、それが正しいのだろうか。一瞬、笑い顔が『泥棒日記』のときのあの笑顔を思い出させた。こんな経験、映画で初めてである。これはぼくが歳をとったということだろうか。


なんだか井伏鱒二の世界を見るような味わいがある。監督阪本順治で、『どついたるねん』からはるばる遠くへきたもんだ、である。いま『北のカナリヤ』をやっているが、見てもよさそうな予感がする。彼の映画はほぼハズレがないからである(『闇の子どもたち』を抜かせば、である。金大中のは見ていない)。


120 最強の二人(T)★★
冒頭から意表を突き、あとの展開も納得である。「オアシス」はエンタメにいかずにすごい映画になったが、こっちはエンタメにしてすごい映画を撮ってしまいました。主人公の一人である黒人がまったく身障者に分け隔てがない。差別をするし、労るし。ラストで、下半身不随のもう一人のリッチな主人公が、のちに子が産まれた、とテロップが入るが、それは本当か。差別はこうやって克服されていくか。


121 足にさわった女(T)
1952年、市川昆監督で、主演が池部良越路吹雪である。そこにホモっぽい坂々安古という名の通俗作家・山村聡がからんでくる。越路の弟が伊藤雄之介である。ところこどころにサイレント的なやりとりがあって、非常に意図的にそれをやっている。市川監督はなぜにこんなことを? 戦前から撮っている永い監督だから、こういうオマージュをやりたがるのか。越路が意外と演技が上手なのと、美人に見えるから不思議である。ちょっとエロティックな場面が用意されているが、越路先生、ちゃんとやってらっしゃいます。後年のNHKライブのこーちゃんしか知らないぼくは、ちょっと感心してしまいました。池部の喜劇を見られるだけでもめっけものである。飛んだり跳ねたり、一生懸命やっています。


122 寒流(T)
81年の作である。鈴木英夫監督、原作松本清張で、堂々としたものである。主人公が池部良新珠三千代、それに平田照彦、宮口精二中村伸郎志村喬丹波哲郎など豪華。中でも志村の総会屋は見ものである。それと、ヤクザの丹波が手下を並べて、きちきちと池部に脅しをかけるシーンが秀逸である。新珠三千代がこんなにきれいな女優だとはちっとも思わなかった。大収穫である。清張の黒い画集というシリーズの1つで、権力には歯が立たないという苦い物語。池部が長身で、体もいかつい感じがする。着流しのイメージとずいぶん違うものであある。


123 ヘドウィグ&アングリーインチ(T)
2回目で、いい映画だと思う。主人公を演じるジョン・キャメロン・ミッチェルが美しいというのが圧倒的である。彼が監督も兼ねていて、ニコール・キッドマン、エイロン・アッカート主演で『ラビットホール』という映画を2010年に撮っているが未見。どんな場末でもパンク命という感じで、誠実に歌い上げる。元々は東ベルリンで生まれ、養父に犯され、それがもとでジェンダーに揺れが出たという設定である。米兵に見初められ、性器切除を求められ渡米するが、すぐあとにベルリンの壁が崩壊する。彼が、あるいは彼女が乗り越えたものはなにか。主人公のライフヒストリーとそれを色濃く反映した曲が流れ、映画は進行する。


124 ここが、帰るべき場所(T)
監督パオロ・ソレンチーノ、イタリアで映画を撮っているようだ。主演ショーン・ペン、これが家でもロッカーの化粧をする変な男である。ペンの妻役がフランシス・マクドアマンドで、あの傑作「ファーゴ」の女警官である。ペンは大金持ちなのに、彼女は消防士をしているというのがおかしい。こういう奇妙な役柄にぴったりである。夫が鬱だというと、結婚して30年、始めの頃と同じ熱情でセックスをするあんたは鬱などではない、という名言を吐く。デビッド・バーン本人が出てくるが、これは監督のリスペクトなのか。


伝説のロッカーが父親の死を境に、父が追っていたナチ戦犯を追いかけはじめる。それまでは、自分の暗い歌で死に追いやった若者のことで歌を捨て、世捨て人のような生活をしていた。結局、年老いたナチを見つけ出すが、彼が働いた罪は実にささいなこと。しかし、屈辱を受けた父親は許せず、追跡の手を緩めなかったわけである。ちょっとした罰として、全裸で白い砂漠の上を歩かせるが、それはまるで強制収容所の囚人のごとくである。


前半部と後半部のつながりがよく分からない。タイトルの「ここ」は民族の場所でもあるかもしれないし、人を許すことのできる心理的なあり方を指しているのかもしれない。そういう深読みをさせる映画ではないが、ちょっと考えたくなるところである。


全編にわたってアルボペルトの曲が流れ、とてもうれしい。Spiegel Im Spiegelである。たしかガス・バン・サントの「マイ・プライベート・アイダホ」にも、この曲が流れていた。


125 60セカンズ(DL)
ニコラス・ケイジ主演、脇にアンジョリーナ・ジョリーにロバート・デュバルである。2000年の作。弟が受けた仕事を果たせず、依頼主から殺されかけ、すでに足を洗っていた兄ケイジが、自動車泥棒に復帰する。警察との駆け引きと、4日で50台の高級車を集められるか、という話である。全体によくまとまっていて、気楽に見ていることができる。ジョリーの出番が少ないが、これはどうしたわけか。ケイジは色男に見えないし、額もはげ上がってきたのに、まだまだやれる。眉、口が曲がっているのが、親近感を覚えさせる。2013年には、「キックアス2」「ナショナルトレジャー3」も控えている。「ゴーストライダー」も続編が昨年リリースされている。日本に来たかどうか未確認。


126 死刑弁護士(T)
安田好弘弁護士のドキュメントである。彼が扱った事件は、新宿西口バス放火事件、名古屋女子大生殺人事件、和歌山カレー毒殺事件、オウム真理教麻原、光市母子殺人事件などなどである。自分自身、麻原裁判の最中に微罪で起訴される。


新宿放火事件の犯人丸山博文は、朝から同所で酒を飲み、映画では何の理由だか聞こえなかったが、駅前の芝生のなかにガソリン入りのタンクを隠し、それをもって夕方、駅前のバスに近づく。自分右手に光があり、そっちに向けてガソリンタンクを振り回したら、人が死んだ、という抗弁をしている。安田氏はそれを信じ、無期懲役に罪を減じさせたことが勝利と考えたが、最後の面会から6年後に丸山は自死を遂げる。安田弁護士は、被告と寄り添うと言いながら、減刑のあとしばらく見舞いにも行かなかった自分を悔い、もっとやれることがあったのはないかと思い惑う。場合によっては、ニセの証拠を作ってでも上告をすべきであったかと述懐する(これはどうかという発言である)。この容疑者にとことん寄り添おうとする姿勢ははどこから来るものなのか。


和歌山カレー事件は林真須美という希代の女性が容疑者だが、いくつかの疑問から安田氏は、その無罪を信じる。いわく、目撃者の証言は信憑性が薄い、殺人の原因とされる唖ヒ酸がなぜ数十人もで家宅捜索しながら4日目になって冷蔵庫の一番目立つ場所から見つかったのか(狭山事件松川事件と酷似)、真須美は保険金詐欺で8億円を詐取しているが、お金以外で人に害を加えることのない人間である、などである。安田氏は、この裁判で負けたら弁護士の資格がない、とまで言う。


麻原に関しては、井上嘉浩被告がすべて麻原の指示だったと陳述したあと、弁護側が被告人尋問をしようとしたときに、麻原が「解脱した人間を侮辱することはできない」と言って、井上を庇ったものの、安田が反対尋問をしたことで、それ以後麻原は崩壊し、法廷でも意味のない私語を繰り返すだけになってしまった、という。ある本で、精神科医の野田正彰氏は、拘禁反応の診断を下している。その人間に死刑を下すことに何の意味があるのか、裁判の無意味化を指摘しておられる。あるいは、ノンフィクションの魚住昭氏は、週刊誌で「麻原の意味不明の私語は、実は弟子たちを庇うときに限って発せられている」式のことを書いている。


名古屋女子大生事件の被告木村修二は、被差別の生まれで、若くしてお店の経営を任されるなどしたのが、店舗を繁華街に移そうとしたところ、妻と義父に阻まれ、それが自分への差別ゆえと思い込み、酒と借金にまみれ、とうとう誘拐および身代金要求をする。捕まった木村は、拘置所のなかで死刑反対に転ずる。安田弁護士は、借金したって返さないやつも多いし、踏み倒してトンズラするやつがいることから考えれば、木村はまじめだ、という。


光市事件は、3審抗告で安田氏は弁護団に参加するが、そのことで被告が変心し、母子殺害は計画的なものではない、と証言を変えることになる。そこを指して集中的なバッシングが起こり、あの橋下徹弁護団リコールを扇動した。安田氏らによれば、母親を絞殺した指の角度が違う、これは大きな声を出したのを衝動的に押さえただけだ、と主張した。それに精神的に非常に幼く、彼に性衝動からくる計画的な犯罪はありえない、とも主張する。


裁判は何のためにあるのか。犯罪の白黒を付けるためか? たしかにそれもあるが、光市事件の判決にいう「更正の可能性がないとはいえないが、母子を殺害した重みは拭いがたいものだ」からもわかるように、犯人に生きて悔い改めさせることが法の中心概念である。そのために実刑の年数にいろいろな幅があるのである。もし、安田氏のような人物がいなければ、ごく単純にいえば、刑期は長くなるだろうし、冤罪の可能性も高まると思われる。


死刑弁護士は、被告が死んだあとも関わることになる存在だという。もしぼくが冤罪に巻き込まれたときは、安田氏に弁護のリクエストをしたい。彼のスクリーンでの表情を見る限り、この人は信頼おけるな、という顔をしている。


127 スカイフォール(T)
ぼくにすれば苦い映画である。ボンドも、そしてMもリタイアを示唆される年齢になっている。ボンドは復活するが、Mは死ぬことになる。Qも若手に変わられる。全体にボンド退潮の雰囲気で進行するので、お尻が落ち着かないのである。題名は、たしか中国の故事に天が落ちてくると騒ぐ民衆の話があったが、それのことかと思ったが、ボンドの生地の地名とのこと。黒い雲がたれ込めて、地に触れんばかりなのが、いかにもsky fallである。


冒頭の追い駆けっこは素晴らしいが、MIⅣでも同じ手法を使っていたので、新鮮味が落ちる。監督がサム・メンデスとは意外で、これからこういうアクション路線もやっていくのかしら。出だしのスピーディな感じは、あとの場面では封印され、とても地味な展開になる。マカオ不夜城に舟で向かうシーンは、「燃えよ、ドラゴン」を思い出させる。


冒頭の追跡シーンの最後、ボンドは敵と戦っているときに、仲間に胸を撃たれて水中にドボン。しばらくすると、女性とベッドインしているのだが、どうやって逃げ出したか、絵解きをしてほしい。こんな手抜き、今回が初めてではないだろうか。もう一つ、敵のボスを硝子ケースに閉じこめられるが、しばらくするともぬけの殻。これもどうやって逃げたかの説明がない。


128 人生の特等席(T)
イーストウッド主演、エイミー・アダムスが娘役。デジャブ一杯の映画だが、楽しみながら見ることができました。娘と別れて住んだ理由、豪腕投手を見つける偶然など、表面だけ辻褄を合わせたような話だが、途中で小さく逸話を挟んであるので、小さく納得することができる。


目は見えなくなっても耳でバッターの素質を見抜ける、というのが一つのヤマ場なのだが、それが明かされるまでに時間がある。もっと早めにバラして、その凄さを堪能させてほしい。何を出し惜しみをするのだろうか。映画の時間稼ぎにしか感じられない。


アダムスは有能な法律家であるらしい。経営パートナーになれるチャンスなのに、父親の援護に向かい、結局、ライバルにイスを奪われそうになる。そのライバルがドジを踏んだことで、彼女にまたお鉢が回ってくるのだが、拒否することに。たしかにろくでもない経営者たちだが、彼女も仕事を放棄したに近いのだから、あまりイーブンな扱いになっていない。


129 声を隠すひと(T)★
レッドフォード監督で、いい映画である。原題はconspiratorで共謀者といった意味。いい加減なタイトルを付けるものである。話は冤罪法廷モノで、事件はリンカーン暗殺、舞台は軍事法廷、裁かれるのは政治か正義か。南北戦争がいまだ完全に終わったとはいえない不穏な時期に、南部人を中心にした暗殺が行われ、彼らに宿を貸していた未亡人が共犯者として裁判にかけられる。


彼女を弁護する元大尉で戦争の若き英雄は四面楚歌になり、恋人も去っていく。死刑は仕組まれたもので、人権保護申請も大統領によって破棄される。人心の沈静を狙って政治劇である。それでも、この裁判の翌年には、北部と南部半々の陪審員制が始まり、未亡人の息子も共犯者として起訴されるが、全員一致の評決に至らず、無罪となる。しかも、戦時であっても民間人を軍事裁判にかけるのは不当とされる。


コーエン兄弟の「トゥルーグリット」は西部劇だが、その中に裁判シーンがあって、ワイルドフィールドの小さな裁判所だが、そこできちんとした手続きで裁判が行われているのを見て感心したことがあった。検察が起訴の理由を証人を使って論証し、弁護側がそれに反論し、被告に有利な方向へ持って行こうとするのは、まったく現代と変わらない。リンカーンの時代からゴー・ウエストの時代までそれほど時間が経っているとも思えないが、正義を見つけ出そうとする姿勢がすでにして備わっていた。


キャスティングが素晴らしい。婦人、その娘、若き弁護士を裁判に引き込む老練弁護士、司法長官、飲んだくれの酒屋のオヤジ、適材適所を得て、重厚な映画が出来上がった。


130 座頭市・関所破り
監督が安藤公義という人で、全体に仕上がりがダサイ。冒頭、子どもの遊んでいる凧が糸が切れて、屋根に引っかかり、その軒下でおにぎりを食べている市の鼻面にぶら下がる。市は手にしたおにぎりを捨てて、その目の前の何物かに手を伸ばす。昔の人が、おにぎりをほっぽり出すなんてことがあるだろうか。中におかずもなしに山盛りのご飯に食らいつくシーンがあることを思えば、ここは不穏当である。


高田美和、瀧映子の女優陣の演技がひどい。それにつられてか、美和の父親が殺された事情が分かったときに、市が目をパチパチさせて驚くのは、名優勝新らしくない。戦いが終わってのセリフ、「おれは明神様のご来光を拝みに来て、この仕込み杖を使うつもりはまったくなかった。それを抜かせたのは、お前たちがみんな悪い」は、いただけない。「お前たちがみんな悪い」は不要である。勝新は自分と市をダブらせるように生きた役者といわれるが、このセリフを許したところを見ると、その説も怪しい。


★今年の洋画ベスト5

1位 ものすごくうるさく信じられないほど近い
2位 永遠の僕たち
3位 最強の二人
4位 断崖に立つ男
5位 声をかくす人

邦画はDVDで見たのが「探偵はバーにいる」、これは次作が作られているようだ。日本映画らしくない乾いた人間関係、ユーモアのあるセリフ、スマートな展開、言うことなし。しかし、たいがい2作目は不作で終わるが、ぜひその神話を崩してほしい。あとは「我が母の記」。伊豆の山奥の川や緑が美しい。邦画は旧作しか見ていないので、格段、言うことなし。豊田四郎の再評価を望む、といったぐらいである。彼の「甘い汁」にはやられた。先頃亡くなられた小沢昭一先生が女衒のような役をやっていて、軽快な動きがいい。飲み屋が密集した路地を水たまりをよけながらピョンピョン歩き、宙に浮いた風船に手を伸ばして煙草の火を点けようとするシーンがいい。