2014年の映画

kimgood2014-01-06

結局、去年は最後にまとめて映画を見たこともあって、例年と同じような本数になった。危ないところでヘルペスになりかけたが、正月に逃げ込んで難を逃れた感じである。今年はますます劇場で映画を見ることが多くなるような気がする。


1 Find Out(D)
アマンダ・シェーフィールド主演、被害者なのに妄想だとして警察が取り合わないので、事件がさらに進行してしまうというパターンの映画である。それにしても連続殺人なのに警察がまったく動かないし、犯人は2度も主人公を取り逃がすことになる(2度目は自分が殺されるはめに)。誘拐した妹は縁の下にいたというのは、何だろう? 


2 マスター(D)
映画館で見るつもりが時間が合わなくて見なかった映画だ。これは傑作であろう。ポール・トーマス・アンダーソン(一人脚本)はすべて作品を見ているが、場面転換、主人公の孤影の深さ、ドリスという年若い恋人の純な様子、そしてマリーンとしてどこか天国のような南方の島で戦友たちと埒もない遊びに興じる様子、そして何度か繰り返される航跡の鮮やかな波模様、1940年代から50年代のスローテンポのヒット曲のかぶせ方、そしてマスターといわれる教祖の卑小さと大きさ……なんとまあ充実した映画であることか。ホアキン・フエニックスの猫背の年寄りじみた歩き方がいい。フィリップ・シーモアの優しい視線がいい。妊娠の妻に手こきされながら、私や信者に気づかれないように性の処理をするのはかまわない、と半ば脅しのようなことを言われ、彼女の繰り出す強調子の言葉を必死に写し取る人形としての教祖……。感服です。There will be blood でも、性と暴力と宗教がテーマとして表れていたが、ここにそれがより鮮明に表れている。教祖が言うがごとく、ホアキンは本当に自由な人間だろうか? 来世には最大の敵になるとは本当だろうか? そういう読みが教祖のなかに胚胎されるほど、彼らは親密な世界にいたということであろう。この作品はサイエントロジーというカルト集団の創始者をイメージしているらしい。トラボルタやトム・クルーズが宣伝塔となっている、あの教団である。


3 Trick ラスト(T)
相変わらずの脱線映画だが、これで終わりなのがさみしい。もっとこの調子でいってはどうか。世紀の巨乳(貧乳)天才(凡才)美女(まあまあ)マジシャンが活躍するわけだが、今回は少しうらがなしい。南方の霊能者と入れ替わって救世主となるのは感動的でさえある。これだけ遊びまくる映画なのに、その悲しさにきちんとたどり着く手腕はただものではない。ラストも虚実皮膜のあわいを行っていて、OKではないだろうか。それにしても、女性蔑視もはなはだしい映画だが、上田もヅラ刑事もからかわれているから、おあいこか。


4 シャッフル(D)
まだサンドラ・ブロックの見ていない映画があった。恐い映画なのでパスしてたらしい。原題はpremonition、予感という意味である。日本題のほうが的確なような気がする。夫の死から時間軸がずれるわけだが、それは夫の死を彼女が目撃したショックの影響ではないのか。ラストまで見ると、そういう解釈になる。確かに予見によって彼女は夫の死の現場へと行くわけだが……。


最初に幸せそうな夫婦を撮し、それから急な死の知らせに入るから、きっと仲のいい夫婦なのだろうと思うわけだが、回想シーンがおかしいのである。シャワーを浴びる夫に近づき抱きしめるのだがキスを交わさない。夜、夫とベッドに並んでいるが、夫は背を向けて取り合わない。結局、二人にはすきま風が吹いていたというわけである。そのへんのことが少しずつ明らかになっていく様子がよく描かれている。サンドラに外れなし、と言っていいのではないか。


5 殺人の告白(D)
監督チョン・ビョンギル、「殺人の追憶」の後編のような映画である。ただし、面白い仕掛けがしてあって、そこまでがちょっと長い。よけいなカーチェイスなどを入れているが、別に韓国映画でハリウッドを味わおうとは思っていないので、興ざめする。もっと密度の濃い、韓国映画らしい怨念の世界に踏み込んでほしい。韓国の監督がハリウッドで映画を撮り始めているが、さてどうなのか。自分の風土で撮って初めていい映画ができるのではないのか。そもそも闇や草の色から違うのだから。


6 リトル・ヴォイス(D)
ぼくは2回目である。Jane Harrocks というミュージカル女優のために書かれた戯曲をもとに映画化されたもので、ワンナイトショーで見せる彼女のパフォーマンスには度肝を抜かれる。ユアン・マクレガーが若々しい。落ちぶれたプロデューサーがマイケル・ケインリトル・ヴォイスの母親がブレンダ・ブレッシンでど迫力である。小品だが、ハロックスを見ているだけで幸せな気持ちになれる。彼女の写真集を探したが、イギリスでも出ていないようだ。現在、50歳。Youtubeで見る彼女はあまり魅力的ではない。


7 ブレイキング・ポイント(D)
なかなか渋い映画である。ダイナーに風采の上がらぬ男が入って来て、一人の客に何発も弾を撃ち込む。そして、踵を返して、父親、娘とその男友達のテーブルへやって、テーブルの端に銃身をコツコツやるところで病院のシーンへと飛ぶ。この跳躍があとで、いろいろな意味で効いてくる。


娘は急に堅い信仰の徒のように振るまい始める。そして、父は勇敢だったと言う。男友達は言葉を発しない人になり、世相に鬱屈を抱えた父と距離が縮まったかに見える。がんの告知を受けた黒人の客は犯人の隙を見て襲いかかろうとするが撃たれ、首にケガを。彼は病院を抜け出してカジノでアップダウンを経験し、やくざから借りた2万5千ドルを一晩で使い果たし、腕をツブされる。犯人とすれ違いで外に出た医師は、病院でさっきのダイナーの結末を見ることになる。彼は家に帰り、妻に副作用のある偏頭痛の薬を料理に混ぜて殺そうとする。レストランのウエイトレスは乳飲み子にミルクをやることを怠り、身体をあずける男を捜す。医者もその一人であるが、児童保護局に連絡される。


無口の男の子がレストランに銃をもって戻る。そこに娘と母親がやってくる。少年は彼女に本当のことを言えと迫る。父親はおびえて何もできず、小水を洩らしただけであったことを少女は告白する。最後は、カジノに黒人の娘が迎えに来るところで映画は終わる。


まさにそれぞれのブレイキング・ポイントが描かれた映画で、少しずつ追加の映像が流されるところがよくできている。残念なのは、医師が妻殺害に及ぶ動機がいま一つ分からないという点と、少女の信仰から覚める感じがあっけない点である。ウエイトレスをベッキンセール、医師をガイ・ピアス、黒人をウィトテイカー、娘をダコタ・ファニング、監督がロワン・ウッズ。


8 カラスの親指(D)
見ていられない。もう一度、トライするもやはり無理。阿部寛の演技も間違っているし、撮り方に一つも工夫も無い。出だしが原作と変えてあるからイケそうかなとも思ったのだが……。能年玲奈という女優を初めて見たが、先が思いやられる。


9 TATOOあり(DL)
高橋伴明監督で1982年の作、宇崎竜童が主演、関根恵子が相手役。音楽をシーンごとに入れるなど時代の匂いを感じるが、映画はじっくりと撮っていて好感である。母親役が渡辺美佐子だが、息子はこの母親の圏内から逃れることができないし、そうしようとも思わない。男なら30歳までに大きなことをすべきという母親の言葉に縛られて、銀行を襲うことに。原案は梅川昭美の実際の事件から取っている。当時、彼が行内でやった非道はマスコミは流さなかったが、後年、その残虐な所行が報道された。結局、この男を駆動させた元々のものが何であるかは分からない。被差別かもしれないし、両親の離婚かもしれないし、実の父親に愛されなかったことかもしれないし、その父親に生活力がなく母親に依存していたこともしれないし……破局に至る本当の理由は分からない。監督はそれを明示するつもりはまったくない。あるがままに犯罪に至る人物像を追っていくのである。大杉漣戸井十月などが出ているようだが、気づかない。プロデュースが井筒和幸、助監督に周防正行がいる。伴明監督、この作をとうとう超えることはできなかったのではないだろうか。


10 ワンディ―23年のラブストーリー(DL)
アン・ハサウェイが主演、学生時代に同衾するも事に至らなかった友達同士が、社会人となってもえんえんと付き合い、お互いにほかの人間と結婚もしながら、最後には結ばれるものの、あえなく女は交通事故で死んでしまう。1回しか見ていないのでよく事情が分からないのだが、映画のラストで分かるのは、同衾せずの後、二人で丘に散歩に出かけ、急にセックスをすることに話が決まるものの、男のアパートメントに戻るとその両親が来ていて、せっかくの機会を逸してしまう。そのことが二人の関係を続けさせた大きな理由かもしれないと思わせる作りだが、あるいは、ベッドを共にしながらもセックスに至らなかったのは、それをすると相手の女性を、いつも自分が遊びで付き合う女性たちと同じ位置に置いてしまうことを暗に恐れたからではないか、と考えれば、二人の関係が長く続くことの意味が分かってくる。何度かはっとするほど、ハサウェイがきれいに見えるシーンがある。男は、「アクロス・ザ・ユニバース」で、ビートルズの曲を中心に物語が進行する、その映画の主人公を演じた役者で、ジム・スタージェスという。色気があって、なかなかいい役者である。


11 ベルリン・ファイル(T)
舞台がベルリン、そこの北朝鮮支部長の座を奪おうとする一味があって、故国の英雄の妻がスパイに仕立てられ、その上司も資金を持って亡命するところを殺される。抜きつ抜かれつなのだが、いったい誰が何をやっているのか分からないで進行する。結局、故国の英雄の妻は身籠もったまま死に、英雄は韓国の諜報員に逃がしてもらう。その英雄を、「哀しき獣」のハ・ジョンウが演じていて、相変わらず哀愁がたっぷりである。アクションが切れ味があっていい。妻が「猟奇的な彼女」のチヨン・ジヒョンで、何度も確認して、やっと彼女だと確信。だいぶ大人びたものだ。それにしてもこの映画、ごちゃごちゃし過ぎていて、中身が追い切れないのは問題ではないのか。ぼくは、韓国映画の海外舞台の作品を初めて見た。


12 アメリカンハッスル(T)
期待の映画だったが、こんな小さなスケール感の映画かとがっくり。コンゲームの一種だが、伝説のマフィア(デニーロがちょい役)にバレそうになってからがスッキリしない。ウィッグで頭頂禿げを隠す一九分けのクリスチャン・ベイルは芸達者、彼はこれで俳優生命が延びたのではないか。それにしても、アメリカの映画ではかつらの主人公とは、見ないキャラクターである。エイミーアダムスがやたらハミ乳を見せるが、なんだかゴムまりみたいで偽物っぽい。ジェニファー・ローレンはそれほど演技うまい感じがしない。一本調子なのだ。FBIを演じたブラッドリー・クーパーは好感を抱くことができない。ヤンキー市長を演じたジェレミー・レナーは線が細い感じで、もうちょっと押し出しがほしい。アラビアが語が話せないはずのメキシカンが、どうして急にアラビア語を話すのか分からない。


13 ジャスティス(DL)
なぜこの映画を早く見なかったのだろう。軽いタッチで、重い主題をスマートに扱ったもので、手練れである。監督ノーマン・ジュイソン、脚本の一人がパリー・レヴィンソン。ジュイソンは『シンシナティキッド』『夜の大捜査線』『華麗なる賭け』『屋根の上のバイオリン弾き』『ジーザスクラライスス・スーパースター』『ローラーボール』『アグネス』と綺羅星監督である。レヴィンソンは『グッドモーニング・ベトナム』『レインマン』『スリーパーズ』『リバティハイツ』『ワックザドッグ』などの脚本を書いている。ものすごい組み合わせの映画である。


アーサーははぐれ者弁護士だが、貧しい人たちの弁護に精が出るタイプ。彼の同僚は努力むなしく被告を長期実刑にし、その後、すぐに自殺したことで精神の均衡を失う。アーサー自身も無実を信じる若者を実刑5年にさせられ、若者は監獄で看守を人質に取り、わずかな隙に外から射殺される。査問委員会に属する女と情事を重ねるが、二人は価値観の違いから喧嘩が絶えない。アーサーになにかれと目をかける判事(ジャック・ウォーデン)は、自殺願望があり、へりで油切れになるまで飛んだり、裁判所の4階の窓の張り出し縁で昼食をとり、トイレには猟銃を持って入る。いくつかの話が進行しているときに、アーサーに厳罰主義の判事(ジョン・フォーシー)から弁護を依頼される。レープ事件だという。当然、断ろうとするが、判事は彼の資格取得をちらつかせて、弁護を引き受けさせる。しかし、先の射殺された若者の再審理を求めに行ったときに、一般社会は犯罪にうんざりしている、なるべく重い刑にしてぶちこむべきだ、との判事の言葉に密かに決断し、法廷で……。


いくつかの話を並行で走らせながら、ラストの場面へと進んでいく道行きが、余裕があっていい。それぞれのキャラクターがきちんと点綴されている。まるで夜の都会の警察署のような賑わいの裁判所、ゲイの収監者をからかう先住者たち、裁判が行われている吹き抜けの2階の回り廊下で検察官と弁護士が必死で落としどころを探りあう場面など、印象に残るシーンが多い。ジュイソン、そしてレヴインソン、恐るべし。


14 拳銃の復讐(D)
原題はOdds Against Tommorow である。ロバート・ワイズ監督で、制作にハリー・ベラフォンテが参加し、劇の中にも登場する。主演エド・ベグリー(「12人の怒れる男」)、ロバート・ライアンワイルドバンチ?)、シェリー・フィンター(「ポセイドンアドベンチャー」で太っちょの可愛いおばあちゃんを演じた)。それぞれお金に困った男3人が銀行強盗を狙うが、どうしても黒人が一人必要な設定になっている。銀行にお金が集まってしばらくすると、裏の通用口に近くのダイナーから黒人がいつもコーヒーを運んでくるのが日課になっている。いちばんお金が集まる木曜日に決行するのだが、最後は仲間割れが起きる。ベラフォンテが人種問題を入れた映画を撮りたかった由。


ロバート・ワイズの作品歴が華麗である。B級から始まり、市民ケーン、ウエストサイド物語、サウンド・オブ・サイレンス、砲艦サンパウロスタートレック(1979年)と堂々たるものである。始めの道路脇の水たまりがきれいで、途中でも水たまり、川と水が関連してくる。マフィアに借りた金が返せず、脅されているベラフォンテが別れた女房のところから子どもを連れ出し、遊園地で遊ぶシーンは、まずメリーゴーラウンドの馬の顔を大写しし、次に幔幕に映ったそれらの影を写し取る。それから彼の顔にカメラが向けられるのだが、それは仰角で、あくまで不安な構図である。ほかには、ライアンがウサギを銃で撃つと、シーンが切り替わってベグリーが小さな石ころで空き缶に何度か当てる。似た映像の移りを狙っているわけだが、あとはあまりこれだといった映像はないが、のちに種々な映画を撮る下地はあるように思う。


映画自体は強盗に押し入ってから急に力を失っていく。それは強奪の計画がずさんだったこともあるが、監督もどう演出すべきか分からなかったのではないか。竜頭蛇尾というやつである。拳銃を撃つときに身体の動きをストップした状態で正面から撮るわけだが、その間抜けな映像からどう抜け出すか、といったことでアクション映画などの撮影技法が徐々に上がってきたのではないだろうか。


15 ハッピーロブスター(DL)
ドリス・デイジャック・レモンが主演、たわいない話だが面白い。1959年公開で、日本には未着。ドリスはロブスター販売を手掛けるが、鉄道会社のせいで荷がダメになる。会社はやり手の強欲男に買収されたばかりで、さまざまな訴訟に勝ってきた男である。それに友人の弁護士レモンが手を貸して裁判に持ち込み、列車を押さえ込んだりの奇手を放ったり、テレビに出て相手の不正を宣伝したり、なかなかの戦い方をする。ところが、相手はさらに強硬手段に出て、鉄道を廃線にしようとする。ドリスの見方だった町の人たちも急に尻込みを始める。そこでレモンがタウンミーティングで一説ぶつところがハイライトで、この町は直接民主制をとっている誇りある町で、かつて海で多数の遭難者が出たときも、何も報酬のことなど言い出さず救い出した高潔な歴史があるではないか、ここがアメリカの神髄の町なのだ、とやる。この一節で住民は立ち上がり、ドリスを救い、レモンを長年落選してきた行政官に選出する。この演説では、勇気をもって先住民を追い出した、とも語っていて、英語ではインディアンとなっている。アメリカで放送するときは、ピーが入っているのだろうか。


いくつか面白いところがある。ロブスターにはメス、オスがあって、サムという名のロブスターはオスなのにいつも間違ってメスの生け簀に入れられている。どういうわけかサムはいつも室内に入り込んでいて、慌ててレモンやドリスが生け簀に走って入れに行くのがおかしい。町の電話交換手は一人の女性で、小さな段ボール箱ぐらいの機器を使って電話を取り次いでいる。この女性はビール好きで昼間から仕事をしながら飲むのだが、プルトップではなく栓抜きで2箇所に穴を空けて飲んでいる。鉄道会社の社長、リタイアした機関士も含め、男どもは話の頭を強く出て、あとは一気呵成に早口にしゃべる喋り方をする。これは昔の映画に共通のもので、いつから普通のしゃべりに移行したのか調べる価値がある。ドリスの主導でボーイスカウトの歌を歌うシーンがあるが、困っている人には席を譲ろう、きちんと片付けものをしよう、人種は問わず付き合おう、などとパートごとに子どもに歌わせるのだが、こういういったかたちで子どもに道徳が入っていくのは自然である。道徳教科書に偉人が入ったからといって効果があるとは思えない。しかし、人種は問わず、と歌っている10人ぐらいの子どもたちのなかに黒人の子は一人もいないのだが。


よく戦後の日本によきアメリカ、民主の国アメリカを宣撫しようとしたといわれるが、実はアメリカ国内においても事情は同じだったのではないか。それはこの映画を見てみれば分かることで、民主主義を広める巨大な仕掛けとして映画産業が機能したことは間違いない。ある人が、アメリカの草創期の有名な演説や憲章をいろいろ調べて、そこにデモクラシーの言葉が見つからない、と書いていたが、それは徐々に意図的に広められた擬制であったのではないか、というのがぼくの考えである。


16 キックアス2(T)
前作から3年は経っているだろうか、あまりクロエ・グレース・モレッツの印象が変わらない。学校で冴えない女の子が悪と戦うヒットガールという設定。意地悪女王型クラスメートにいじめられ、それに反撃するところなど「キャリー」である。後者でもモレッツが着飾るシーンがあるが、今作でも初デートのときにミニスカートで彼女が現れると、息を飲むほど美しい。全編にえげつない作りになっていて、手首を切り落としたり、器械で上下でゲロさせたり、あと言葉遣いも汚い。なんでこんなものにしてしまったのか。前作が持っていたカンフー映画とヒーローものと少女ものを組み合わせた良さがなくなっている。元マフィアの大佐というのが出てくるが、それがジム・キャリーだとは後で調べるまで分からなかった。なぜ彼がヒーローとなろうとしたのか、そういうちょっとしたことさえ描かれていない。モレッツは「バァッファロー66」のクリスティナ・リッチに感じが似ている。小さいけどナイスバディ、妙にエロティックである。


17 エージェント・ライアン(T)
完全に2が予告されているような出来である。ボンドを思い出したり(パーティのシーン)、ボーン・アイデンティティを思い出したり(カーアクション、闘いアクションのすごさ)、ダイ・ハードだったり(金融攪乱を企む頭脳的な敵)、今までのアクション映画のごった混ぜ的な仕上がりである。とくに敵の攻撃目標が地上ではなく地下だと見抜くところなど、ダイ・ハードでやった手口である(あるいは、トム・クランシーの原作の方が先?)。監督がケネス・ブラナーで、今作ではロシアの悪党を演じている。テレビ映画「刑事ヴァランダー」で見ている役者だ。主演クリス・パイン、「アンストッパブル」で見ている。女優がキーラ・ナイトレイ、不思議な表情をする役者さんである。夫がエージェントと分かり、めまぐるしく犯人探索の指示を出す様子を、なかば呆れ・驚き顔で眺めるところなど、なかなかのものである。展開は速いが筋は一本なので、頭を使う必要はまったくない。そういう意味では、先の3作もあまりごちゃごちゃした筋にしない。


18 大統領の執事の涙(T)
ウィトテイカー主演、アメリカ大統領の側で働いた黒人執事の話である。領主に母を犯され、それを咎めようとした父が殺される。少年は屋敷で執事のマナーを教わるが、身の危険を感じ脱出する。町のレストランのガラスのショーケースを割り、パンを食べているところを執事に見つかる。客の話を聞くな、相手のしてほしいことを感知しろ、など厳しい修練に耐え、彼は青年へと育ち、大統領の執事長(白人)の目に止まってホワイトハウスへ。長男は反戦運動家へ、息子はベトナムで死ぬ。それぞれの大統領は黒人の地位を上げようと多少の違いはあれ努力をしているのが見える。しかし、黒人執事と白人のそれとは給料も格段に違い、いくら彼が直談判に及んでも、それでは辞めていい、と言われるばかり。キューザックがニクソンを演じるが、彼は副大統領のときに黒人執事の給料を上げる、と約束するが反故にする。ブッシュジュニア政権でホワイトハウスを去り、彼はオバマの誕生をことのほか喜ぶ。息子とも和解し、息子は政治家への道へと進む。黒人の執事の存在は、黒人の地位を上げることに大いに貢献があった、とする映画である。


19 ステイン・アライブ(DL)
スタローンが監督で、脚本である。彼は自演のものは監督しているが、ほかにはいくつもない。しかも、踊りである。何があって、この映画を撮ったものだろうか。トラボルタ主演、彼女役がシンシア・ローズ、敵役の女がフィオラ・ヒューズ。悪ガキがそのエネルギーで前衛ダンスの主役を勝ち取り、最後には筋さえ変えて自分で踊りまくる。それってなしだよね、という設定だが、やってしまう。その前衛ダンスがいかもので、もっと洗練されたものならよかったのに、と思うが、やはり力がある。さすがの悪ガキも彼女に振られ、狙った上級女にも振られたあと、母親を訪ね、昔の自分は本当の自分ではなかった式のことを言うと、母親はあれだけ突っ張ったからスラムを抜け出せたといったことを言う。それが彼の一つの転回点である。


このあと、ぼくの印象ではトラボルタは長い雌伏のときに入る。タランティーノに引っ張り出されるまでが長い。実際、この映画が83年で、翌年あたりは3本ほど撮っているが、あとは年に1本ぐらいのペース、ところが94年のパルプフィクションからぐんと本数が増え出す。タランティーノ様々である。ぼくは喜劇のBe Cool や Get Shorty がけっこうマニアックで好きな映画である。


20 ビル・カニンガム(DL)
こういうドキュメントをDLで見ることができるのは幸いなり、である。NYタイムスでon the Street というページを持つ写真家を追ったものだが、もう一つ社交界のパーティ写真も撮っている。前者ではファッションのトレンドを一般の人の服装から見つけ、実際それが半年もすれば流行となって現れるという。社交界通信は、だれが出ているから行くというのではなく、どういう趣旨の会かで決めているという。彼は若いころ、帽子屋で、人の金を借りて経営していたが、徴兵にあったときに過酷な取り立てが家族に回ったという。お金に余裕のある金持ちがそういうことをすると知ってから、彼はある雑誌で金を貰わずにページを作ることを続けた。いわく、金は人を不自由にする。


住まいがカーネギー・ホールの上階、すでに立ち退きが進み、住んでいるのは彼と友人の女性写真家、そして一般の老女。部屋は狭く、それも写真を仕舞ったキャビネットで一杯である。質素で、破れた道路清掃人用の合羽はガムテープで補修する。食べ物は安いサンドイッチやハンバーガー。それでも好みの店があるらしく、NYTの食事はまずいと言う。パリに取材に出かけても、食事は安いダイナーに。


自転車でNYのいつもの四つ角に来て、そこを通る人びとを撮りまくる。パーティに行くのも自転車である。28台盗まれ、いまが29台目。写真はフィルムで、しかも手巻きである。意外と小さ目なカメラで、ストロボは本体から離して使う。紙面レイアウトはもちろんデジタルだが、オペレーターに彼の指示は飽くことなく続く。パリに半年に一度は出かけるが、目はいつも新しいものに触れさせていないとダメだと持論を言う。フランスファッション協会から賞を受け、そのスピーチで、美を追う者は美によって報われる、式のことを述べる。


彼に2つの質問。恋愛の経験は? 彼は仕事が忙しくて、そういうことを考えたこともない、と返事をする。第2問、あなたに宗教とは? この返事に入る前に、彼は涙をこらえる。やがて声を出し、少年の頃は教会に来る女性の帽子に興味があったが、途中から変わったと言っている。彼は毎日曜は教会に行くという。彼はNYでhonestであることは至難の業と言う。まさに彼が仕事を通して行っていることは、そのこと。NYTのみんなが彼の誕生日を祝うサプライズをやるが、彼に捧げる歌の文句に、ねえビル、どうやればあなたのようにわがままを通せるの? というのがあるが、ずばり自分にも周りにもオネストだったからだ。ぼくは反省しきりである。


21 それでも朝がやってくる(T)
原題は12Yeasrs a Slave で、邦名ほど勇ましい映画でもないし、スカッとするものでもない。自由黒人といわれる音楽師がサーカス一座の音響を頼まれ、客の入りもいいというので余分に金を貰う。酒場でしこたま飲んで、起きた翌日には金具で手足を縛られて、知らない部屋で横たわっている。興行主から奴隷売買(ジオマッティ!)に売られたらしい。それからの12年、最初の主人は優しく、しかし現場監督に刃向かったことで、復讐を恐れ、よそへ逃げないとダメだということで次の過酷な旦那のもとへ売られていく。そこの主人は若い黒人女に入れ揚げ、妻との確執が生まれている。白人奴隷を信じて金を払って手紙を託そうとするが、男は裏切る。主人公も嘘をつき難局を逃れる。やがてカナダ生まれの、奴隷制反対流れ大工(ブラッド・ピット)に出遭い、彼に手紙を出してくれるように頼み、やっと苦境から逃げ出すことができる。


ある黒人女は領主の思いものになり、領主の妻から妬まれ、いじめられる。どこにも逃げ場がなく、主人公に川に沈めて殺してくれと頼む。身体が臭いからと隣の領主に石鹸を貰ったことを咎められ、はじめは主人公が代わりに鞭打ちを強制され、ついに領主が狂ったように打ち据える。最後に言うのが、自分の持ち物を好きなようにするのは気持ちがいい、である。この領主も、最初の領主も黒人に聖書を読み聞かせるのが好きだが、決して矛盾はないのである。なぜなら黒人は人間以下なのだから。


今年のアカデミー賞を取った作品で、肩が凝るほど恐い映画である。いわゆる荘園の旦那が気まぐれで、いつ暴力を振るうか分からないので、緊張が解けないのだ。現場監督からハンギングされ、別の監督に助けられるが、地に足が着くか着かないかの状態で放っておかれる。そのまま何時間か経つも、周りの黒人たちはいつも通りの仕事に余念がない。だから、余計にこちらの死に際の必死さが伝わってくる。口のくちゅくちゅ言う音、つま先の位置を変える音。


流れ大工に手紙を預けたあとの表情ということなのか、ほとんど静止画像のように、ややアップ気味に主人公を長めに撮るシーンがあるが、絵としては力があるが、それが何を意味しているのかは不明である。この監督は、冒頭から寄りの映像を多用し、こちらにその解釈の負担を強いてくる。安易だなあと思う。監督はスティーブ・マックイーン、「シェイム」を撮っている。あとIRAの収監された兵士を扱った「ハンガー」というのがあるらしい。主演キウェテル・イジョフォーで、あの「キンキーブーツ」の女装男である。最初の旦那がベネディクト・カンバーバッチ、これは新シャーロックホームズの彼である。2番目の旦那がマイケル・ファスベンダーで、クローネンバーグの「危険なメソッド」でユングを演じていた。どれもこれもややこしい名前ばかりだ。


22 ユー・ガッタ・メール(DL)
ノーラ・エフロンは親、姉妹が脚本家というハリウッド一家で、彼女は監督もやり、メグ・ライアンと組んでロマンチック・コメディなる分野で名を馳せた。スーパーのシーンが面白い。メグとトム・ハンクスが互いに顔を合わせないようにして、彼女は現金カウンターに並ぶ。ところが、現金が1ドルしかなく、別のラインに並べといわれるが、カードでと粘る。うしろの客は騒がず、現金がないんだって、などと言うだけ。ほかの映画でもこういうシーンがあるが、アメリカ人は鷹揚である。結局、カード決済ラインからトムが来て助け船を出してくれるのだが、それがレジの女性の名札からローズと名前を読み、いい名前だ、感謝祭が近いねローズなどという。うしろの客が「おれはヘンリーだ」と言うと、これにも「ごきげんよう、ヘンリー」と声を掛けて、優しい顔になったローズに現金を渡してOKとなる。こういうところに諍いの相手のトムの人柄が出るようになっている。


メグが風邪を引いて具合の悪いところにトムが押しかける。突然の客なので慌ててそこらへんにあるティッシュなどを片付けるのだが、その動きが昔の映画のなぞりのようになっている。ここらあたりを指してコメディと言っているなら、なかなかしゃれたものである。



23 アウト・アブ・サイト(DL)
ジョージ・クルーニーが銀行強盗、ジェニファー・ロペスFBI、監督ソダーバーグ。ロペスの映画は初めてである。車のトランクに詰められた二人が映画の話に興じるところなど面白い。ドン・シードルがいかれた犯罪者で、けっこう恐い。最後に押し込む金持ち(ムショで知り合ったやつで、ダイヤモンドの原石を金魚の水槽に隠して<石に偽装して>いる)の館に秘書的な女がいる。それがナンシィー・アレンで、何の映画で見たか思い出せない。たくさん出ているが、妙な色っぽさがある。


24 ディズニーの約束(T)
メリー・ポピンズ」を映画化するのに20年を要した理由が明かされる。原題はSaving Mt.Bank で、作者トラバース夫人の父親はアル中の銀行員勤め。世の中との折り合いが悪く、この世は幻だと娘に教える。病を得て現れたのが叔母、のちのポピンズさんである。しかし、やがて父親は死んでしまう。ディズニーは次第にポピンズ物語に隠された動機に気づき、夫人の説得に成功する。


ディズニーの評伝を読むと、あのウォルト・ディズニーにして商売の浮沈に見舞われている。後年はほとんどディズニー・ランドに入れ揚げて、アニメ制作に意欲がなかったと書かれている。そういえば、夫人の希望もあってポピンズは実写である。ロンドンからイギリスに契約交渉でやってきた夫人を、アメリカ人はみんなファーストネームで呼ぼうとし、その都度夫人は訂正をする。ウォルトにいたってはパルメ・トラバースをパムと言い続ける。夫人を演じたエマ・トンプソンがきれいである。運転手役がジォマッティで、また出てるのね、である。彼の娘が車椅子の障害者らしく、最初天候の話をするので、夫人はカリフォルニアなのになぜ、と尋ねるシーンがある。あとで、雨の日は外に出してやれずかわいそう、とジォマッティが言うシーンがある。夫人は別れの空港でジォマッティにはがきを渡し、そこにアインシュタインなどの著名人3,4人の名前が記されている。いずれも障害を持ちながら大活躍した人たちの名前である。


監督ジョン・リー・ハンコック、脚本ケリー・マーセル、スー・スミス。いいできばえの映画で、トラバース夫人の頑なさが取れるとともに、彼女の過去の核心が明かされる構図になっていて、それがじっくりと作品創作の過程と同時進行で進んでいく。それは見事なアンサンブルになっている。劇中劇のかたちで披露される曲も懐かしく、ジュリーアンドリュース好きのぼくには、ひときわ印象深い映画となった。


25 新しい人生の始め方(DL)
エマ・トンプソンの出ている映画をすぐにチェック、そしてこれがダスティ・ホフマンとの老いらくの恋物語である。娘の結婚式にアメリカからやってきたCMソング作曲家が空港にいる女性検査官(?)と出会う。仕事は打ち切られ、式でははじっこに座らされ、バージンロードも娘と歩けず、といった中老の男が恋に落ちて、復活するというもの。トンプソンは母子二人で、別に住んでいるが、頻繁に携帯に電話がかかってくるし、近くに住んでいるのでよく顔を出す。父親は若い女を追って家庭を捨て、本人も堕胎の経験がある。同僚が仕掛けてくれたデートに相手の知り合いが加わり、彼女ははじっこに。どこか集団に打ち解けないところが二人の共通点である。なぜ強く惹かれ合っていくか分明ではないが、何か波長の合う部分があるのだろう。トンプソンがかなりウエイトがありそうで、「ディズニーの約束」とはだいぶ体型が違う。最後に、ホフマンの身長に合わせてハイヒールを脱ぐが、なかなかのラストである。監督のジョエル・ホプキンはあまり本数を撮っていない。


26 エルビス・オン・ステージ(DL)
1970年のラスベガス・インターナショナルホテルでのコンサート3日分を編集したものらしい。後編が本チャンで、前編が粗編集ということなのか、分かりにくい構造になっている。ぼくが見たプレスリーのオン・ステージはハワイだった気がするのだが。それにもっと太っていた。プレスリーが「サスピシャスマインド」などを歌うことに違和感があった。やはりCCライダーであり、ポーク・サラダ・アニー(この歌詞のいい加減なこと!)が好きである。ハートブレイクホテルは画期的な曲らしいが、ぼくは遅れてきたプレスリーファンである。彼は「明日に架ける橋」を歌っているが、サイモンも「グレースランド」を歌って報いている。ホテル支配人は、ここを満員にできるのはシナトラとストライザンド、サミー・デイビス・ジュニアと言っている。ストライザンドはプレスリーに映画の共演を持ちかけたことがあるらしいのだが、プロデューサーであるパーカー大佐(綽名)がギャラのことで断っている。彼の付き人だったジェリー・シリングのMe and Guy Named Elvis を読むと、プレスリーという人が愛おしくなってくる。ある時、プレスリー夫妻、シリング夫妻で町に向かう途中、ラジオからプレスリーの新曲が流れてきて、急に家に引き返したことがあった。最終録音版を出して聞き比べると、明らかに違っている。シリングはこう書いている、「このときのことをよく覚えていないのは、ほかにも同じことが何度も起きたからだ」。パーカー大佐はプレスリーの曲をすべてRCAに売却したことで、印税の収入を断った張本人だが、シリングによるとプレスリーは決して私的な領域に彼を入れないよう注意をしていたという。独立独歩、我を枉げないところなど、二人は似ているとも記している。


27 大魔神(DW)
ゴジラは54年、大魔神は66年である。この間、大映は何をしていたのだろう。ゴジラと同じく二線級の役者を揃えた映画で、幼少のみぎりでもさみしい思いをしたものである。高田美和お姉さんは美しく思えた。魔神が腕を眼前に交差させると仏の顔から鬼の顔に変わるのが、ひたすら恐かった。初編は魔神は土に帰り、続編は火、水と、子供心にもよくできた設定だと思ったものである。今回、驚いたのは、魔神登場は残り5分の1といった、かなり終盤だったことだ。出るぞ出るぞでなかなか出てこないパターンである。藤巻潤が出ているが、この人はその後テレビで活躍したのではなかったか。悪役で遠藤辰雄があまり喉に音を籠もらせないでしゃべっているのが意外で、あのしゃべりは演技だったのか。魔神を鎮める踊りとその踊り手の衣装は、どうしてああも南方系の感じになるものか。これはほかの映画で決まってそういう演出になる。それはなぜなのか理由を知りたいものである。


28 LIFE(T)
見て良かったという類いの映画である。ベン・スティラーが監督・主演で、脚本はスティーブ・コンラッド。クレジットの流れるところから粋である。単純なストーリーだが、最後にうっちゃりを食う。前にも映画になっていて、ダニー・ケイが主演。原作はジェームズ・サーバーの短編らしいが、今作も含めてまったく原作とは内容を異にしているらしい。アメリカではとても有名な短編らしい(アメリカで短編アンソロジーを編むときに最も採用されることの多い作品らしい)。主人公がデイドリーマーであるところと、パイロットになるなど突飛な夢を見るところだけを借用しているようだ。自然の描写が美しく、大画面で見る映画である。雑誌LIFEがビジュアルで鳴らした雑誌なことは知っているが、そこの写真管理者が主人公である。現像もやっているので、日本語で何と言うのだろうか。デジタル化で首切りに遭うが、final edition を飾る写真が意外なのである。実際にはケネディ銅像が、最後となった2007年4月20日号のカバーを飾ったのだが。出演者では、姉のオデッサ役をやったキャスリン・ハンが妙な味があった。弟にぐっと馴れ馴れしいのだが、底深い愛情を持っていて、性格は極めてweirdである。舞台でも活躍しているようだ。


29 ロボ・コップ(T)
つい見てしまいました。頭と胸と左腕の先しかない人間がロボットとして再生させられる。本当は本物を警官として使いたいのだが、一般のロボットへの拒否反応があるので、半ロボットで成績を上げてガードを低くさせようとする。それがうまく行ったかに見えたが……。主演ジョエル・キナマン、妻がアビー・コーニッシュ、博士がゲイリー・オールドマン、ロボット製造会社の社長がマイケル・キートン、そして警備部隊長みたないのがジャッキー・ハール・アーレイで、何の映画かで世をすねた変なオヤジ役をやっていた。いろいろな悪役を混ぜ合わせたような印象の役者である。キートンの社長室の壁にフランシス・ベーコンの絵が掛かっていてハッとしたが、次のシーンでは別のものに変えられている。監督、遊んでますね。


30 ナッティ・プロフェッサー(DL)
エディ・マーフィがやせ薬を発明する超肥満教授ほか何役かを演じる。とにかくお下品このうえなく、大方は早回しをしてしまった。マーフィーには洗練されたよさがあったのだが、それがどこかへ吹き飛んでしまった(もう白人は狙わないということか)。アメリカンコメディのこの過剰さには付いていけない。


31 恋のてほどき(D)
監督ビンセント・ミネリ、主演レスリー・キャロン、脇にモーリス・シュバリエ。1958年の作で、ミュージカルで原題はGIGIでリメイクらしい。じゃれて遊んでいた年下の女の子に異性を感じて愛し始めるが、相手は戸惑うという話である。シュバリエがむかし恋遊びで鳴らした男、その甥っ子が女の子に惚れる設定である。甥にしろシュバリエにしろ、ほとんど話しているような歌い方で、レックス・ハリソンが「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授役を引き受けるのに、しゃべるように歌うのを条件にしたというが、もうだいぶ前からそれはやられていたことになる。パリが舞台で、みんな変な英語を話すミュージカルである。アイススケート場が出てきたり、女の悪口を歌にするのに、声を出すとバレるので、内面の声ということで歌うシーンは珍しい。噂の人間がカフェに入ってくると、いままで騒がしかった客が一斉に黙り、ストップアクションになり、当の人物が着席するとまた喧騒が戻る、という設定が面白い。甥っ子は、幼かった彼女が急にレディのように振る舞うのが不満なのだが、それをこの映画は明確に伝え切れていない。最後の男の逡巡も中途半端な描き方である。そのあたりがうまく処理できていれば、この映画はもっとよくなる。主役のレスリー・キャロンジュディ・ガーランドタイプで、もしかしたらミュージカルにはゴージャスな女優は合わない、みたいな鉄則があるのかもしれない。まさかミネリ監督のご趣味だとか(ガーランドと結婚している)?


32 フローズン・グラウンド(DL)
ニコラス・ケイジが転職間際の刑事、シリアルキラー候補がキューザック。妻にオーラルセックスを求めるのは失礼だから娼婦を買うという理屈をぬけぬけと言うキューザック。彼はかつて娼婦に暴力を振るい、銃を向けたことがあったが、無罪になっているらしい。それが一人の女を逃したことから過去の犯罪が暴かれることに。初めは捜査にのめり込む夫に否定的だった妻が妙に物わかりがようなるのが分からない。もっとごねたほうが、映画的には深みが増すはずだが。ケイジ刑事は妹を無残な事故死をさせていて、その悔いから若い娼婦を庇う。ありきたりだが、この映画はそれに支えられている。それにしても、カナダ(都市は分からない)にも娼婦街が厳然とあるのが、驚きである。


33 相棒3(H)
自衛隊出身者が民兵を組織し、細菌兵器をもって、あるプライベートな島を基地にする、という設定で、自衛隊上層部、政治家とも結びついているが、細菌兵器(天然痘)の開発が分かって自衛隊が出動する。途中、争いが起き、自衛隊の隊長を押さえたのに、どういう訳か民兵側が譲歩したかたちになっている。それとは別に単なる事故と思われたものが殺人と分かる謎解きが進行し、そっちが主眼のはずだが、なんだかよく分からない。蹄鉄が一つ無くなっていることがどう殺人と結びつくのか、それが分明ではない。蹄鉄を溶かしてステッキの柄にして、それで人を殴ると馬がやったように見えるのか? それもよく分からない。最後は、国防論争で終わりだが、細菌兵器を自衛のための武器というのには笑ってしまった。そんなアホなである。


34 夜の豹(D)
58年作で、監督ジョージ・シドニー、主演シナトラ、女性がリタ・ヘイワース、キム・ノヴック。クラブ歌手のシナトラはNYで客に手を出してサンフランシスコに流れてきたという設定。バーバリーとかいうクラブに潜り込み、すぐにそこの踊り子たちと仲良くなる。なかの一人がキム・ノヴァックで、ナイスバディだが可憐なところがある。シナトラは上昇志向が強く、元ストリッパーのシンプソン夫人、これは元ストリッパーで彼とは面識あり、その夫人の気を誘って、念願の店を持つことに。しかし、キムに嫉妬した夫人が解雇せよと迫り、受け入れないので初日にいsて閉鎖することに。結局、人に命令されることの嫌いなシナトラはまたNYで客へと発っていく、ノヴァックと一緒に。


シナトラがどんどん自分を押し出していく役柄で、ぼくには珍しい感じがする。どこか繊細な感じのある役が多いように思うからである。ミュージカルと言うには難しい映画で、ほぼナイトクラブで歌唱は終始し、あとヘイワースが自分の家の居間で、シナトラはヘイワースの家のベッドルームで歌うだけ。シナトラが実に歌がうまい。CDで持っているが、さしていいとは思わなかったが、この映画ではじっと聞き入ってしまう。あと、ヘイワースが大きなハート型の吊り物の後ろで歌う曲が、やはり可憐でいい。


35 シビル・アクション(DL)
小さな所帯の弁護士事務所が大企業相手の公害問題に取り組んだことから資金難に陥り、結局、不十分な結論のまま和解ということに。公害で子どもを亡くした遺族にも不満が残り、もちろん弁護士たちにも不満が残り、事務所解散ということに。しかし、ジャンは一人公害を追い続け、環境庁に新事実を持ち込むことで、大きな成果を得ることができた。もちろん無報酬である。彼、ジャン・シュリットマンは公害問題専門の弁護士として活躍した実在の人物らしい。弁護士の仲間が、トニー・シャルーブ(連続TV名探偵ンク主演)、ウイリアムマーシー(経理担当、この人は脇でよく出てくる)、ゼイコ・イバネク(この人も脇でよく出てくる)とそれぞれくせ者揃い。主人公はもっと濃いトラボルタ。企業側がロバート・デュバルで、この人物造形が決まっている。法廷に真理などないという信念の持ち主で、昼飯は書庫か何かで一人小さなラジオでヤンキースの実況中継を聞くのが楽しみで、電話をしながら壁に向かって野球ボールを投げてはキャッチすることを繰り返す。ハーバード大から表彰を受け、生徒たちから背にネーム入りのイスを贈られたといって喜ぶ。ちなみに主人公はコーネル大卒で、なかでさんざん侮辱される。


36 スピード(DT)
ヤン・デボン監督、キアヌ・リーブスの演技がまずいことがよく分かる。サンドラ・ブロックが「異常な体験で結ばれた二人は長続きしない」と言うと、「ではセックスしてみよう」とはどういう会話か? サンドラの笑顔がかわいい。それにしても、のちに相当パクられた映画だと分かる。電車の上で格闘中に相手の首が障害物にぶつかって飛んだり、走る車の下に人間スケートのようになって潜り込んだり、この映画、もう古典かもしれない。見るのは3回目。


37 八月の家族(T)
メリルストリープ(母)、ジュリアロバーツ(長女)、サム・シェパード(父)、クリス・クーパー(叔父)、マーゴ・マーティンゼール(叔母)、ジュリエット・ルイス(次女)、ジュリアン・ニコルソン(三女)、ベネディクト・カンバーバッチ(叔母夫婦の息子)、ユアン・マクレガー(長女の旦那)、監督ジョン・ウエルズで、「エデンの彼方に」「ホワイト・オランダー」「アイムナットゼア」などを撮っている。脚本トレイシー・レッツ(テレビ畑のようだ)、プロデューサーがジョージ・クルーニーで、舞台の映画化である。そういう雰囲気の映画である。


家族の課題てんこ盛りといった感じの映画で、夫の不倫から別居で諍いの絶えない長女夫婦、次女は実業家といいながら何やら怪しい男とできたばかり、三女は病気の母を見守ってきたが、ようやく彼氏ができたのはいいがいとこ同士の関係、本当は異母兄弟と分かる。母は喉頭がんを患い、薬でハイになっては、悪魔的に家族の粗を指摘する。その夫は若い頃は詩人として世に出ようとしたが、家族のためにそれを諦め、アル中生活を続け、とうとう自殺することに。その知らせで、離ればなれの家族が集まり、さらに決定的な崩壊へと突き進むのである。


メリルストリープを見る映画になってしまうのは仕方がない。そこにどれだけほかの役者陣が存在感を表すかだが、クリス・クーパーにぼくは点を入れたい。非常にノーマルで、ヒューマンな人物を演じ、妻の家族たちのある種の異常性を浮き立たせる役を十分に果たしている。


39 パーカー(DL)
ステイサムの作品の中ではかなり上位に来るできである。ニック・ノルティが老けた義父で出ている。一緒に泥棒をやった仲間に裏切られ、そいつらを懲らしめようとするが、そのうちの一人の叔父がマフィアのボスで、執拗に狙われることに。刺客はナイフ使いで、ステイサムを部屋で襲うシーンのカメラがすごい。ちょっとした撮り方の角度で、次はステイサムがやられる、反撃する、といったニュアンスが瞬時に表現される。それは小気味いいほどだ。ジェニファー・ロペスがうだつの上がらない高級地の不動産屋勤めの女で、これが出てきてから映画がだるくなるのではないかと思ったが、うまくステイサムの妻を出してきて、きれいに処理をしている。おすすめ映画である。


40 48時間(DL)
ニック・ノルティついでに見たが、こんなにかったるい映画だったかとがっかり。往時はそれなりに面白く見ていたはずだが。ノルティの演技の下手さが災いしている。


41 懐かしい風来坊(DL)
こんなにたっぷり有島一郎を見ることができるなんて! よく分かんないけど、面白いなぁやっぱり。妻が中根千枝子、自殺未遂が倍賞千恵子ハナ肇が流れの土方という役。電車で酔っ払いが昼間からくだを巻いている。それがハナだが、むかしはこういう人がよくいたものだ。その懐かしいという感覚が全編にみなぎっている。ぼくらはもうこの地点に戻ることはないのではないか。


42 ドロシー&ハーブ(DL)
深夜の郵便振り分け作業員と学校の教師だった夫婦がコンセプチュアルアート、ミニマルアートの収集に生涯を捧げた様子が描かれている。ついに彼らの収集物はナショナル・アート・ギャラリーに移されるが、それでも入りきらず、よその美術館に寄贈される。売るために買ったのではないので、彼らは無償で提供する。謝礼金はまた絵の購入に充てられる。NY美術界にはなくてはならない人たちで、先に写真家のドキュメントの紹介を書いたが、かの町、あるいはかの国にはこういうインディペンデントで素敵な人がたくさんいる。ボブ・グリーンが主に取り上げた人びとだ。


43 盲探(DL)
ジョニー・トウ監督、アンディ・ラウ主演。盲人の探偵が主人公という設定が抜群だが、中身がダサい。喜劇を入れるのは香港映画の特色かもしれないが、少なくとも猟奇殺人を扱っているのだから弁えてほしい。ジョニー・トウ監督はほかに見たことがない気がする。へたっぴぃである。


44 ハイスクール・ミュージカル(D)
踊りより楽曲の充実したミュージカルである。ヒーロー的な生徒がいて、彼には思い人もいるが、そこに金持ちの意地悪女がちょっかいを出すという典型的パターンだが、これはこれでいける。金持ち女の弟が妙な存在感がある。それと、主人公二人のために作曲をするメガネのキュートな女の子も。



45 マンデラ(T)
ほぼ実話であるらしい。マンデラ生存中に全編をつなぎ合わせたものは見せているらしい。夫人のウイニーの了解も取っているという。今回、ウイニーとの離婚が、マンデラ就役中に彼女が過激化したことが原因と知り、そうだったのかという思いである。ウイニーを演じたナオミ・ハリスが秀逸で、彼女が拳を振り上げるだけで、パワーが感じられる。しかし、政治的には向かないだろう。いま南アは、後ろで白人が仕切り、表には黒人を立てている企業が多いという。マンデラの中庸主義は、もっと長いスパンで国を見なければならないということか。



46 日本女侠伝――侠客芸者(D)
山下耕作監督で、主演藤純子の博多芸者、健さんの炭鉱経営者という設定。悪人が金子信雄遠藤辰雄太鼓持ち藤山寛美。脇に桜町弘子、庄司花江、土田早苗。よくできた映画で、全体に緩むところがない。絵もきれいで、最後の戦いのシーンに踊りをかぶせるのはうまく行っていないが、十分に堪能できる。藤純子の型にはまった演技がかえって気持ちがいい。これはめっけものである。プロデューサーに後藤俊滋、日下部吾郎がクレジットされている。


47 ブルージャスミン(T)
ウディ・アレンはもう手練れである。過去と現在をまったく同じ平面で処理して、まったく違和感がない。そのほうがジャスミンのもつアンリアルな感じが際立つ。見ているうちに、これは「欲望という名の電車」だと思ったら、あとで小林信彦先生が文春でそのことに触れていた。アレンがテネシー・ウイリアムズに帰るとは。小林先生はアレンは喜劇よりシリアスのほうがいいと同じ号に書いているが、ぼくも賛成である。彼の作品では「インテリア」が第一ではないか。あの寒々とした、それでいて底に野性がうごめいているような作品。


48 暖簾(D)
前に見ている作品。川島雄三監督、主演森繁、妻が山田五十鈴、結婚できずに別れるのが乙羽信子、大店の主人が中村鴈治郎、その妻が浪花千栄子、長男が山茶花究。森繁が二役なので、せっかく情緒たっぷりに進む前半がかすんでしまう。二人同時にそう写すのかとか変な方向に関心が行くからである。コブを扱う老舗から暖簾分けをされて、室戸台風と戦時統制、徴兵で家業は倒産。戦後は、息子世代が切り盛りして、東京へ進出するなどする。東京は高くてもいいものを出せば売れる、大阪の品揃えもクラシックなものを揃えて、客の買い気を誘うなど、いまでも通用する商法が見られる。原作山崎豊子は、かなり細かい商店の内幕まで書いているようだが、そのあたりは映画からは省かれている。言葉遣いは独特で、「飲みたいんでしょ?」というのを「飲みというごはんやす?」と「ご」が挟まる発音が多い。これは船場の言葉遣いなのかしら。山茶花究が目立つ芸はしないのだが、やはり渋い。小さい頃にこの人に目が行ったのは、いかがな理由か。


49 オンリーゴッド(D)
ライアン・ゴスリング主演、舞台はタイで、恐ろしく強い現地警部にゴスリンの兄、母がやられる。映像を気持ち悪く、アジアを神秘的に、といういつものパターンである。一つ特徴的なのは、現地警部に花を持たせることだ。こんなアジアの描かれ方って、珍しいのではないか。そのかわり、ゴスリンには近親相姦のイメージが付与されている。これでおあいこというつもりなのだろう。


50 ハミングバード(T)
ステイサム主演で、アフガンからの脱走兵である。中国マフィアの手先となって大金を稼ぎ、ホームレス支援に回したり、別れた妻子に届けたりする。ホームレス支援のシスターと結ばれるが、彼女はアフリカへ転身していく。なにやらメリハリのない映画で、DVDでよかったかもしれない。ステイサムはもう一作来る。


51 社長忍法帖(D)
シリーズが終わっても、館主の要望が強く、その声に応えて新シリーズを始めた一作目。たるみもなく、三木のり平のギャグが効いていて面白い。とくに、盗聴器を使って、すぐ隣に座る森繁と会話するシーンは吹き出した。池内純子が追っかけ芸者、久慈あさみがちょっと色っぽいかみさん、札幌のバーのマダムが新珠三千代小林桂樹が技術部長、フランキー堺が札幌支社の写真、東野栄二郎が北海道の有力者といった陣立てである。新珠がバーのマダムが似合うのも不思議である。どうにも貞操の固そうな感じに見えるのだが。彼女のコメントを聞きたいものである。よく見ていると、やはり森繁は何かしゃべり終わったあとに、ちょっとした仕草をしている。それが彼の特徴なのだろう。


52 ドキュメント/ジョージ・マーチン(DL)
かのビートルズの敏腕プロデューサーのドキュメントで、息子と、あるいはポール、リンゴと話をしながら、過去を振り返る。ポールはレノンの詩に憧れ、レノンはポールの作曲に憧れた、という話は面白かった。マーチンはクラシックの人だが、EMIのなかでは傍流レーベルにいて、そこでやっていたのはピーター・セラーズなどを使ったコミックミュージックみたないなもの。ポールはそれを気に入っていて、マーチンと組むとなったとき、喜んだそうだ。その面白い組み合わせが、その後の自由なビートルズの変貌を支えた原動力かもしれない。マーチンは、愛国心から飛行機乗りになって2次大戦に参加したりしている。リンゴのドラムを最初は評価していなかった。というのは、彼は当初のドラマーが気に入らず、代わりを自分の好みのドラマーにしようと考えていたのに、ビートルズの面々が勝手にリンゴを連れてきたからである。ところが、次第にリンゴは独特なドラムをたたく、と評価は変わっていく。ちょっと聞いただけでリンゴのドラムと分かるという。そんなものなのか。「シルク・ド・ソレイユ」の音楽を息子と作曲したらしく、君はイコールパートナーとして参加するのだと息子に言うシーンは記憶に残る。


53 マイ・フェア・レディ(D)
10回は見ているだろうか。しかし、今回ほどイライザのポジションの悲しさを思ったことはない。ぼくは、社交界デビューの成功のあと、自分をほったらかしてヒギンズとピッカリング大佐が興じるところを、主役の自分を人形のようにしか思っていなかったと知って怒っているのだと思っていた。そうではなく、彼女はヒギンズによって根っこを引きちぎられて、当て処がなくなっていたのだ。もう男に色恋でしか太刀打ちできない、あるいは色恋を材料にして釣られるしかない、しがない存在にされてしまったのだ。前の彼女であれば、たとえ貧相な花売りかもしれないが、男にすがる必要などまったくない。飲んだくれの父親が金をせびりに来るような存在なのだ。もし花が売れなくなれば、何か違うものを売るだろう。周りはそれを真摯に手助けしてくれるだろう。符節を合わせたように父親が身を固めることになる。彼は結婚など墓場だと歌う。そう父親もまた自分一人で生きる根を枯らそうとしているのだ。イライザとヒギンズが仲直りしたあと、ヒギンズが命令口調に戻るところは、この映画に相応しい結末である。ぼくはそれはヒギンズの最後の甘えとかつては読んでいたのだが、いや従前の支配関係はこれからも続くというサインなのである。


54 ブラインド・フィア(D)
これはめっけものである。ちょっとヘップバーンの「暗くなるまで待って」の翻案っぽいが、それらしいシーンもあって期待したが、監督はそのなぞりはやらなかった。残念である。それでも室内に終始して、これだけのことをやれるのだから了としなくてはならない。一度、事を成したあと、しばらく経ってまた動き出すのは何のためなのか。唯一、そこの間が分からない。主演ミシェル・モナハン、きれいな人で、MIPゴーストプロトコルに出ているらしいが、覚えていない。あとで見直すつもりである。悪役がマイケル・キートン(頭が禿げて悪役というのは、いい流れである。ロボ・コップにも出ていた)、バリー・スローン、このスローンがけっこう味がある。ゴスリングみたいに出てくる可能性を感じる。監督は『ファガットン』のジョゼフ・ルーベン。


55 推理作家ポー 最後の5日間(D)
原題はravenで「鴉」である。ポーの大鴉の詩にちなんでいる。彼の作品をなぞる殺人事件が起きる、というもので、これまためっけものである。空想の産物が実際の殺人に移されるわけだが、シャッシャッと大鎌が人体に迫る場面など、ああポーの世界だと納得する。それにしても、ポーのイメージがまったく違う。彼は幼女趣味の男ではなかったのだろうか。三度、妻と死に別れた式のことが出てくるが、はてな?である。ジョン・キューザックが主演。


56 パークランド(T)
ケネディ暗殺後の四日間を描いている。事件を撮した服地輸入商(?)、犯人オズワルドの兄、シークレットサービス・ダラス支局長、パークランド病院の医師、そして事件前にオズワルドと接触のあったFBI、この5人が主人公といっていい。ケネディ暗殺の背後を探るといったものではなく、リアルに“その後”の一部始終を積み上げた感じである。遺体を手術室から運びだそうとして、州の監察官が殺人の遺体は州のもので、解剖に付する必要がある、と言い張る。しかし、大統領警備の者たちはふざけるなと強行に搬出する。よりによってこんな(田舎?)ひどいところで死ぬなんて、といった台詞が飛び出す。大統領、夫人、副大統領を急いでワシントンへ連れ戻そうとする。そこにしか安全がないからだ、という理由で。この映画に透けて見えるのは、反ってワシントンの異様な警戒心である。現場写真を撮った社長(ジオマッティが演じている)は、マスコミの取材攻勢からTIMEを選ぶ。それは普段から読んでいて、信頼感がある、との理由である。ケネディに祈りを捧げる神父は、けっこう悪役をやる役者で、彼が十字架をケネディの胸の上に置くときに指が震えている。これって演技としたら、大したものである。名前はジャッキー・アール・ハーレイ、いい役者である(最新のロボ・コップにも出ていたし、ダメ親父を演じたものもあった)。


57 九チャンのでっかい夢(D)
山田洋次で、音楽が山本直純、これが和洋の曲で、盛り上げの急迫のリズムがいい。ヒロインは倍賞千恵子だが、竹脇無我と婚約する。九ちゃんはスイスにいる大富豪の遺産30億円をもらえることになるが、本人はそれを知らず、癌だと思って世をはかなみ、殺し屋に自殺幇助を頼む。受け元が谷幹一、殺し屋が佐山俊二(この殺し屋がいい)、九ちゃんが歌ったり踊ったりする小屋の主人が渡邊篤、倍賞の勤める喫茶店の亭主が斎藤達雄。九ちゃんのエンタメぶりを堪能できる映画、それと山田洋次の意外なミュージカル好きが知れる。死の病と勘違いして自殺幇助を頼むというのは、何の映画の翻案か。ヒッチコック? 失念。


58 カバーガールズ(DL)
チャールズ・ビダー監督で、同じリタ・ヘイワース主演で「ギルダ」を見ている。共演ジーン・ケリー、これが思いの外マッチョではない。1944年の作で、封切りが1977年と記録になっているのは、どうした事情か。冒頭に、「人類は生まれて虚偽を知ってから、ずっとShow must go on」 と繰り返される。皮肉な出だしである。筋は、小屋の踊り子が雑誌のカバーガールに応募して、一躍人気スターになり、大劇場に去って行くとともに、小屋の主兼恋人のケリーともおさらば。ふだんの練習には顔を出さないし、パーティだと顔を出せばヘイワースがいなかったり、だいぶこけにされて、とうとうケリーは彼女を追い払う。当然の措置であろうが、女は自分のわがままに気づかない。


ヘイワースの祖母がやはり小屋で踊る女で、それに恋して破れた男がいま雑誌のプロデューサーとして顔を出す。祖母は恋に一途で、それを見ていたヘイワースも心変わりを悔いる、という設定である。数人で踊るときに、明らかにヘイワースの動きがいい。ケリーとタップを踊るときも、その間合いの取り方が抜群である。3人が小屋がはねて向かうバーには、これまたお決まりの訳知りマスターがいる。彼らは必ずカキを頼むのだが、そとき変な仕草とおまじないをする。両手を挙げて、指をだらんとして、カキに向けながらぶるぶる揺らし、Come,pearl! とやる。真珠よ出てこい、というわけで、これが後で二人のもつれた関係をほどくことになる仕掛けになる。いろいろな踊り子がいろいろな雑誌のカバーガールに変わる演出も、どこかで見たな、である。



59 ゴジラ(T)
前回の屈辱を晴らすべくハリウッドがまたゴジラに挑戦。舞台も日本に取ったり、サービス旺盛。でもやっぱり何かが違う。最初にフィリピンのダム工事現場でゴジラらしきものが見つかるが、そのあと日本に舞台で大きな地震原発が壊れるシーンに移るが、前振りは何だったのか。あれはゴジラで、こっちは何? という訳の分からなさを引きずったまま、新怪獣ムートに付き合わされる。なんだか見たことのある怪獣である。名前が思い出せない苛立ちが襲ってくる。しかし、こいつがゴジラ以上に出まくる。放射能を食って生きているという設定だが、大きく育つまで国家機密にしとくという設定が分からない。じゃあ、ゴジラはどこで何を食って生きていたのか。とうとうムートは米国に伴侶を求めて向かうが、後ろを追いかけるゴジラはなぜ米上陸前に襲わないのか、やっけないのか。海から突き出す体の一部からは、どれがムトーだかゴジラだから分からない。やはり周りに都市建造物がないと、本気が出ないのか。渡辺謙が何か科学者の役だが、いつも口を開けて遠くを見つめるのはなぜか。彼のアシスタントはなぜか米人で、彼女、「ブルージャスミン」でケイト・ブランシェットの妹役をやっていたナイスな女優さんである。冒頭のタイトルバックで、第五福竜丸などのドキュメンタリー写真を一杯使っているのは好感だが、あれって世界に通じる写真なのかしら。


60 スリング・ブレイド(DL)
ビリー・ボブ・ソートン脚本、監督で、もともとは一人芝居のために書かれたものらしい。精神病院とおぼしきところ、一人の男がイスを床にじゃらじゃらいわせながら、窓辺にいる男の側に来て、毛深い女が好きだ、俺は話をするのが好きだ、という間、男はじっと聞いて、ときおり頷いてもいるようだ。音楽が低音のフラットなのがずっとその間続いている。その恐怖感がすごい。彼にインタビューに来た大学生新聞の女学生を前に、自らの殺人のストーリーを話し始めるところでは、音楽が心臓の音のようなものに変わる。話し終わって、彼は病癒えて、退院の日を迎えていることが分かる。次のシーンが陽光あふれる映像で、彼はしょんぼりと田舎のバス停に降りる。音楽が急に変わり、ポップ系の詰まらないものになる。最後の殺人シーンではヘビメタだ! これは音楽さえ変えてもらえれば、傑作と呼びたいくらいの出来だ。人のいい院長がなんとも言えない。彼が就職する先のよろず機械修理屋の二人もいい、雑貨屋のゲイのフロア長もいいし、そこに勤める太っちょの優秀社員の女もいい、主人公と慣れ親しむ子どももいいし、その親もグッドである、それに母子を傷めるろくでなしもいい。やはりミュージックの失敗がいちばん大きい。最初の調子なら、フィリップ・グラス調で全部、通したらよかったのに。


61 素晴らしきかな、人生(D)
フランク・キャプラ監督で、ぼくは「スミス都へ行く「群衆」を見ている。この映画、very goodである。良心的な住宅ローン会社を父親の急死で引き継いだジェームズ・スチュワートが、同社に勤める叔父が8千ドルを紛失したことで自棄に。クリスマスなのに子どもに当たったり、かみさんに当たったりで大変。万策尽きて死のうとしたときに、見習い天使が現れる。それが見事な登場の仕方なのである。橋から身を投げようとしたときに、ドブンと先に落ちる奴がいて、それを助けるために主人公が飛び込むのである。見張り小屋で衣服をかわかす二人。一人が羽根のない天使で、自分はあんたを助けるためにやってきたという。初老の、優しそうだが冴えない感じの男の話を、主人公はいっかな信じない。瞬く間に衣服が乾いても、そういうものかとやり過ごす。自分の人生はなくても良かったのだが、と言うのを聞いて、天使は一計を案じる。彼のいない世界を創出するのである。彼は自分の過去のない世界を経験し、いくら辛い人生でも、自分の過ごしてきた紛れもない人生が欲しい、と願う。それを言うのが、先に身投げしようとした橋のところ。彼のアップの後ろに雪が降り出す。それだけで、元の世界に戻ったことが暗示される。いや、見事である。そして、現実の世界では、主人公の妻が夫に助けられた多数の人に窮状を訴え、資金を募り、8千ドルなど超えてしまう。そこでハッピーエンド。妻は取り付け騒ぎのときも機転を利かせ、ハネムーンに使う予定のお金を、当座お金が欲しいという債権者に払うことで危機を脱する。このあたりも面白い。


封切り当時は不入りで、キャプラは新作を撮れない状態になったほどだという。しかし、年数が経つほどに評価が上がり、クリスマスの日に見る映画の定番になった、と言われる。たしかに当日に見るには暗いかもしれないが、よく出来ている。主人公の会社に取り付け騒ぎで集まるシーンや、主人公の結婚式、最後の寄金で人で部屋が一杯になるところ、実に群衆が生き生きと描かれている。細部まで均整がとれていて、演出の細やかさを感じることができる。ジェームズ・スチュワートがしゃべり過ぎで、そこを抑えれば、この映画、めっけものである。


62 女侠伝 鉄火芸者(D)
山下耕作監督で、一作目の侠客芸者が良かったので借りたが、これもいい。文太が藤純子(こしず)の相方だが、格落ちもいいところである。曾我屋明蝶が米問屋主人で、一応、こしずの旦那ということになっている。伴淳三郎が大臣で、これもこしず狙いで、手助けする。二人の喜劇役者が抑えた演技をしている。あと玉川良一、昭司照江が客演。最後、保名という能の曲を踊るが、それに討ち入りを重ねる趣向は一作目と同じである。前は博多芸者、今度は深川芸者、気っ風のいい女の世界があるからか、全体にどろどろしてこない。


63 サンシャイン(T)
原題はSunshine on Leith でレイスというきれいなスコットランドの町が舞台のミュージカルである。兵役から戻ってきた若者二人が中心になって話は進むが、片方で父親の若いときのただ一度の不倫が騒動の元になる。その父親がピーター・ミューランが渋い喉を聞かせる。妻役が「リトルボイス」のジェーン・ハロックで彼女はあまり歌わない。夫のことをジョニー・キャッシュのようだ、と歌うには笑ってしまった。破綻の少ない映画で楽しめるが、もう一つ何か激しいものが欲しい、そんな気になる映画である。



64 彼女が消えた浜辺(DL)
人にいつも頼られる善意の人が、ある事件では偽善者にも見える、という映画である。事が起きなければ、また彼女の善意は褒めそやされるのだが。イラン映画恐るべしと思うのは、事件が起きる転換のところ。子どものためにたこ揚げをしているうちに熱狂に駆られ、子守をすることも忘れているエリ。彼女の何と表現していいのか、幸福の絶頂に寂しさを感じるような、そういう表情がストップモーションされる。そして次にはすぐ別の時間が流れ始める。見事である。ベルリン映画金熊賞


65 善き人(DL)
これは見事な映画である。矮小と偉大さが同じ地平で語られ、彼が善を施すたびに天からgood!の声が聞こえてきそうだ(原題がgood)。彼には音楽がリアルに聞こえてくる習性があって、それが3箇所。共通項を言えないが、ユダヤ人が数人で集まっているときに、突然、ミュージカル調になる(主人公の善なる心が働くときにミュージカルになる、ような気がする)。それが抜群にいい。最後、収容所のなかで友を探していて、幻聴がまた聞こえるが、実はそれは被収容者に演奏させていた本物(本当の善心を働かせたからであろう)。


病気で寝込み、今にも死にたいと言う母親、同じく病気がちな、ピアノばかり弾いている妻、そして奔放な教え子の女学生。彼は妻のピアノに追われ、2階からの母の呼ぶ声に応え、手元では夕飯の用意に忙しい。そこに妻の叔父がやってきて、ナチ入党を勧めるが、主人公は取り合わない。皮肉なことに、その彼が書いた一編の小説がヒトラーの目に止まる。病気がちな愛する人安楽死させるところが、ナチにはいたくお気に入り。精神病者などの殺戮に、その理屈が使われていく。彼はそのことにかなり無自覚である。


誰一人、ナチへと身を売っていく彼を非難する者がいない。別れた妻も、自殺未遂をはかる母も……。パリへ逃げたい、力を貸してくれ、という友の願いを叶えようとするが、最初はうまくいかない。2回目は意を決して駅のチケット売りの窓口で脅しをかける、「いつまでもこんな所に座っていたいか」と。しかし、友はナチに連れ去られ、収容所へと送られる。それは、もし自分が不在のときに友が来たらこの切符を渡せ、と言ってあった妻が裏切り、ゲシュタポにたれ込んだから。妻を問い詰めると、「やっていない」と言うが、ゲシュタポは諜報したすべてをファイル化して、巨大な保管システムを作り上げていて、そこで彼は確認済みである。妻を去って、彼が向かうのは、友がいると思われる収容所。


学者である主人公と精神科医ユダヤ人の友は、一緒に一次大戦に参戦したことがあり、そのときに貧相な伍長のヒトラーを見ている。彼を見くびって、どうせ大したことなどできやしない、などと酒場談義を重ねているうちに、ナチはどんどん国家を専制していく。ナチで偉くなった友に先のチケットの件を頼むときに、友の好きだったケーキなどを買ってあって、歓心を誘おうとするのが悲しい。ナチで親しくなった人間は不妊で、同僚からいつ赤ん坊が生まれるのだ、としつこく聞かれるのがうんざりだ、と洩らす。ゲッペルスは、アーリア人種同士であれば、不倫だって何だってかまわない、という。そういったディテイルがきちんと描かれている。


66 デンジャラス・バディ(DL)
原題がHeatで、2013年の封切り。見てなかった! 無謀な女コップ(メリッサ・マッカーシー)とちょっと堅めのFBI女(サンドラ・ブロック)がはちゃめちゃをやる。アウトロー女二人はあるけど、警官で二人は珍しい。敵に捕まって脚にナイフを突き立てられ、一度抜いたのはいいが、また敵が戻ってくるというので差し直すのがおかしい。卑猥語ふんだんである。サンドラはまた金脈を見つけたか。ITMDで見ると、次作がクランクインしている。今度は映画館で見ます。


67 待ち伏せ(D)
15分で沈没。あまりにも出来が悪すぎる。三船プロで御大、石原裕次郎勝新錦之助、浅丘百合子が出ている。肝心の勝新が出てくる前にエンド。