宗教・不能・母─マーチン・スコセッシ小論

kimgood2007-02-15

*mother & religion
スコセッシは映画ばかりかTV番組を製作したり、実に多作な監督だ。役者としての顔もある。確か若きころスダンダップ・コメディアンだったはずである。
30本近く映画作品があるが、初めての長編が「誰がドアをノックする」で、1967年の作である。白黒の映画で、ヨーロッパ調のシックな雰囲気で、なかなかいい。意外な処女作である。例によって行き場のない町のチンピラ共がつるんで遊んだり喧嘩したりする話だが、主役がハーベイ・カイテル。2度目か3度目のカメラテストで彼を採用したみたいなことを監督自身が言っているから、カイテルを見出したのはスコセッシということになる。
カイテルは、いまのマッチョ気味、切れ気味のカイテルとは別人で、実に繊細な青年の風情である。ちょっとした衝撃で崩れ落ちそうなガラス細工のよう。美しい、と言いたくなる類である。
そのカイテルが知的な感じの、素朴な女に惚れるのだが、初めて声を掛けるシーンがいい。女が通勤の船を待つベンチに座って欧州ものの雑誌を読んでいる。それを横から覗いて、「外国の雑誌?」「ぼくはジョン・ウェインが好きだ。映画が好きだ」みたいなことを言う。女とデートするのは、古いレンガ造りのビルの屋上などで、これも雰囲気のある撮り方をする。
しかし、彼はその女とセックスをすることができない。売春婦であれば可能なのだが、そこに微妙に母親との問題、宗教の問題がスケッチ風に触れられる。売春婦とのシーンは、前衛風に撮っている。


冒頭に母親らしき人物がパン粉をこねるシーンがあって、そこにアップテンポのジャズがかぶさる。あるいは、途中で教会内の様子を映すシーンでも同じことをやる。被写体と音楽がまったく合わないのだが、ちょうど彼のオブセッションである母親と宗教に絡む場面であることが、象徴的である。


*一つのピーク
ハリウッドで最も尊敬される3人の監督は、ロバート・アルトマンウディ・アレン、そしてスコセッシだそうである。アルトマンは「マッシュ」で反ベトナム戦争を明確にした監督である(題材は朝鮮戦争だが)。それ以後も、「ゴスフォード・パーク」「バレーカンパニー」など一風変わった映画を撮り続け、先頃亡くなった。何となく彼が尊敬される意味合いが分かるような気がする。未見だが「プレイヤーズ」はハリウッド批判とのこと。
ウディの作品は数えるほどしか見ていないが、おそらく余人とは違う監督ということで、敬意を払われているのではないだろうか。「インテリア」など、どこか北欧風である。
そして、スコセッシ。何度もアカデミー賞にノミネートされながら、未だに無冠の帝王である。彼がなぜ尊敬される映画監督なのか。
ぼくはアカデミーが「タクシードライバー」で賞をやらなかったことで、次の機会を逸したまま今に至ったと考えている。しかし、あれを超える作品を期待するのは酷というものである。


スコセッシは「誰がドアを〜」のあとに「ミーンストリート」(1973年)を撮っている。この作品にはハーベイ・カイテルのほかに若きデ・ニーロが登場する。デ・ニーロとスコセッシのつながりはここから始まったようだ。映画は例によってヨタ者があれこれといざこざを起こす話である(カイテルよりデ・ニーロのほうがイカれた役をやっている)。のちに組織の人間ばかりを撮ることを思えば、この頃のスコセッシは身の丈に合った人物を撮っていたということになる。アウトローの青春群像で、いい作品である。
ちょっと先のことを言えば、スコセッシ作品は「アリスの恋」「タクシー・ドライバー」「ニューヨーク・ニューヨーク」「ラスト・ワルツ」「レイジング・ブル」「キング・オブ・コメディ」と撮り、一つのピークをなす。「ラスト・ワルツ」はザ・バンドのラスト・コンサートのライブ映像で、ゲストも多彩で見応えがある。ニール・ダイヤモンドとニール・ヤングの両ニールを見ることができる。台本は、一発撮りのため、それぞれの曲に合わせた綿密な撮影手順(カメラ割り)が記されたものだったという。この作品以外はすべてデ・ニーロ主演映画である。
スコセッシは昨年、ボブ・ディランのフィルムを綴り合わせた「No Direction Home」という4時間に及ぶ長い作品も作っているし、彼プロデュースの音楽シリーズもある(その1巻がイーストウッドが監督・出演・取材した「ブルース」である)。


これらのあとに、「アフター・アワーズ」という奇妙な作品を撮っている(85年)。中年男のナイトメアとも呼ぶべき、一夜のファンタジーである。ぼくは、意外とこの作品が気に入っている。88年には「最後の誘惑」という、一度はお蔵になったキリスト受難映画を撮っている。メル・ギブソンの映画「パッション」は、この映画なくして誕生しえなかったのではないかと思う。その先駆性、冒険心には脱帽する。ウィリアム・デフォーがキリスト役である。
この作品でトラブルを抱えたスコセッシは、当時、監督業断念まで考えていたそうだ。いまのマフィアばかり撮るスコセッシとは違う面があったことは強調しておくべきではないかと思う。彼はいくつもの可能性を持っていたのに、それをどこかで捨てたような気がしてならない。あるいは、商業的な意味で、捨てざるをえなかったか。とくに、先に触れた母親や宗教へのオブセッションも、彼の映画のなかではまともに扱われることがなかった。
「最後の誘惑」での失敗が、大きな痛手になったのか。しかし、彼が尊敬される理由も、そのへんにあるのではないか、とぼくは考えている。作家性が強く出た作品が続いたこの時期がなければ、彼はただのマフィア物の監督である。何しろ「アリスの恋」のような強くて、可愛い女をうまく撮ることのできた人なのだから。この映画はいま見てもまったく古さを感じさせない。もっと評価されていい映画である。少年のようなジョディ・フォスターが出てくるのも貴重である。


*トラビスという神話
品田雄吉氏だったか、「アビエイター」が公開されたときに、こう評していた。「スコセッシは芸術性を持った作品を作るので、それほど客は入らないと思う」。初期の頃から作品を追ってくると、この発言がよく分かる。スコセッシという監督は少し変なのである。エンタメになりきれない過剰なものを持っている。それがよく現れたのが「タクシー・ドライバー」である。
トラビスという主人公が大統領候補の殺害を狙うがうまくいかず、一転、やくざを殺して売春少女を助けるというのが、大筋の話である。??である。その2つはどう関連するのか? トラビスとは何者なのか?


この映画の冒頭のシーンは語り草となるほどの映像美である。色の氾濫が収まると、娼婦たちがたむろするNYの繁華街が現れ、立ち込める煙の中からゆっくりと車の頭が姿を表してくる。物憂いジャズがスローモーションの映像にぴったりだ。


トラビスは不眠症で、ほかのドライバーが危険だといって避けるようなところへも客を乗せていく。
彼は町で見かけた、大統領候補の選挙事務所を仕切っている女に接近する。事務所のボランティアとして登録するのに政治的な意見を聞かれるが、まったく何も出てこない。押しの強さで女と喫茶店で会うことになるが、そこで精神分析もどきを披露する。「君は自信家のようだが、不安を抱えている」とかなんとか。おそらく、トラビスは女を誘うテクニックではなく、本気で言っているのである。
そして、次がデート。当たり前のようにポルノ映画のチケットを買う! 「本気なの?」と聞かれて、「カップルならみんなこういう映画を見る」とトラビスは平気である。結局、女はすぐに席を立って外に出る。これで女から完全に疎まれ、トラビスはストーカーまがいのことをするのだが、彼は明らかにコミュニケーション・ディスオーダーの人であり、しかもそれに気づいていない。それどころか、相手のほうが悪い、と考えるタイプの人間である。


タクシー運転手が集まる喫茶店の外で、先輩に「悩みがある」と相談するが、何か具体的なことを言い出すわけでもない。「眠れない」みたいなことを言うと、先輩も「そういうことはよくある、気にするな」みたいなことを言う。ここのやりとりは、ごく普通の会話に見えるが、表面の辻褄が合っているだけで、内実が何もない。またしてもコミュニケーションの不在である。トラビスも先輩もそのことにはまったく気づいていない。何ということもないが、トラビスのいる環境がどんなものかが分かる、大事なシーンのひとつである。


女に振られたトラビスは、怒りの矛先を大統領候補に向け、体の鍛練を開始する。これは女への復讐ということなのだろうが、相手憎ければ、その神も憎い、といったところ。
彼は武器の密売人から銃を何丁も購入する。トラビスは遊興に金を使う人間でもなさそうなので、武器をたんまり買うことができるのだろう。ベッドの上に広げられた銃をゆっくりカメラが舐める――そういうところに、スコセッシのこだわりが出ている。


ここらあたりから、トラビスの動きがきびきびしてくる。それと共に異様な気配も漂ってくる。彼にはやっと生きる“目標”ができたのだ。彼が痩せた体をしていたり、武器を手作りするところなど、貧相なだけにリアリティがある。
なかで一カ所だけ、トラビスが意外な姿をかいま見せるシーンがある。イスに座ったトラビスがすぐ正面の小さな台に載ったテレビを見ている。両方の足裏でテレビの画面を押さえ、揺らす。中では男と女が映っている。次第に揺らし方が激しくなり、ラブ・シーンが始まると、とうとうテレビを蹴落とすことに。トラビスは頭を抱え、うめき声を発する。これがこの映画で唯一、彼の人間らしい振る舞いである。
彼は日記をつけ、自分がいかに不当に扱われているか、才能に見合った処遇をされていないか、綿々と綴っている。もっとでかいことのできる人間なのに……というわけである。その自己肥大症の彼が唯一“弱さ”を見せたわけである。彼には自分のなかにわだかまる不満の持って行く場所がない。相手は大統領候補であろうが、やくざであろうが、彼には同じなのである。

都会に住む、鬱屈した、不満だらけの、自信過剰の、ゴミのような人間―それがトラビスである。この映画を何度も見ているが、トラビスの造型がよくできているという当たり前のことに、最近になって気がついた。そこらじゅうにこういう人間がいる。何かを批判することでしか自分の存在理由を見出せない、平凡なくせに自分は特別な人間だと思いたがる連中である。スコセッシがこの映画を撮った当時より、きっといまのほうが普遍的にいる人物像である。トラビスは神話になったと言えそうである。


*狭い、赤い
ある夜、彼が運転する車に少女が乗り込んでくる。ところが、男に少女は連れ出される。少女はジョディ・フォスター、男はぽん引きのハーベイ・カイテルカイテルはランニングに悪魔のような帽子をかぶった長髪で、ものすごい存在感がある。後年、彼をスクリーンに見出して、「ああ、あいつだ!」と叫んだものである。

トラビスは町で見かけた少女に話しかけ、売春の仕事をやめろと説教をする。少女は、彼の忠告をきかない。ここでもトラビスは説教をたれる人である。その際のジョディ・フォスターの演技が素晴らしい。よく見れば少女だし、よく見れば女である。この掃きだめのような都会で、自分だけが汚れていない、正義を行う資格がある、とトラビスは思っている。

暗殺が失敗に終わり、その足で少女救出に売春窟に向かうことになる。ここのシーンが何ともおぞましい。売春窟のビルの中が階段、廊下とも異常に狭いのである。しかも、赤外線カメラで撮ったような映像なので、赤と黒が強調される。そこで手の指が吹っ飛んだり、弾丸で体がぶっ飛んだり、血が大量に噴き出したり、圧倒的である。カイテルなどはなかなか死なない。惨劇が終わって少女のかたわらの床に座ったトラビスが、血塗られた指で拳銃のかたちを作り、「プシュー、プシュー」と言いながらこめかみに弾を撃つマネをするが、それまで機械のように無慈悲に動いてきたトラビスが、急に動きを止めた名残がその「プシュー、プシュー」で表現されていて、絶妙である。デ・ニーロのアイデアではないかと思うが、すごいことを思いつくものである。


結局、トラビスは少女を悪の手から救った英雄扱いされるのだが、これはどう見てもおかしい。彼の部屋に行けば犯罪の証拠はごまんとあったろうし、モヒカン頭の彼の写真を見れば、大統領候補の警護班の人間たちはすぐに分かったはずだからである。少女が親元に戻り、その親からの感謝の手紙が部屋の壁に貼られているというのも、甘すぎる。トラビスを振った女がよりを戻そうとタクシーに乗り込んでくるが、彼がそれを無視するというラストの設定も、下世話な終わり方である。


初見では、こういう異常者をヒーローとして扱うアメリカ社会こそが異常なのだと監督は言いたいのだろうと忖度したが、どうもそうではなかったようだ。単にかっこいいエンディングにしたかっただけではないか。いまではそう思う。
しかし、だからといってこの映画の価値が下がるわけではない。傑作は傑作である。
孤独な、やり場のない不満を抱える、都会の青年の狂気を描いて余す所がない。この青年像は、スコセッシが初期の頃からずっと描いてきたものと近似している。町のチンピラが、つるむのをやめ、堅気の仕事に就き、多弁を抑制すればトラビスができ上がる。ぼくのほかの日記でも触れているように、真の映画監督はいつも同じ主題の周りを巡るのだ。


*これからどこへ
『最後の誘惑』以後のスコセッシ作品は数えるぐらいしか見ていない。「グッドフェロー」「エイジ・オブ・イノセンス」「カジノ」「ギャング・オブ・ニューヨーク」「デパーテッド」(「ハスラー2」というのもある)である。「エイジ・オブ・イノセンス」「カジノ」はまだしも、ほかは大味に過ぎる。ただダラダラ撮っているような感じなのだ。最新作「デパーテッド」に至っては、彼独特のアウトローへの思い入れさえ無くなっている。いくらリメイク映画とはいえ、巨匠のやることではない。撮りたくない映画だったが、撮らざるをえなかったと記者会見で語っていたが、そんな話を断れない巨匠とは何なのか。役者では「カジノ」のジョー・ペシ、「グッドフェロー」のレイ・リオッタ、「ギャング・オブ・ニューヨーク」のダニエル・ディ・ルイスと、個性的で魅力的でイカれたのをフューチャーしているのはさすがである。
93年の「エイジ・オブ・イノセンス」は1870年から世紀末あたりのニューヨーク社交界での悲恋物語を、まるでヨーロッパ貴族を撮るように撮っている。街はまだぽつんぽつんと屋敷めいたものが散在するだけで、ほとんど人もいない。人妻ミシェル・ファイファーに恋するのがダニエル・ディ・ルイス、後年の「ギャング・オブ・ニューヨーク」での存在感ある悪党ぶりとは正反対の役をやっている。初期の頃のスコセッシにはヨーロッパ趣味があったが、突然、ここに来て復活したのはなぜか。きちんとした、正調の映画で、ということはスコセッシが撮る必要もないということになる。このあたりを境に映画に締まりがなくなっていくのはなぜか。

これからどこへ、と思う。スコセッシにせっせと付き合ってきたが、もう希望も持てない監督になってしまったのではないか、との思いが消えない。それくらい「デパーテッド」には落胆した(彼の映画では一番客が入ったらしい。ウソ!? である)。もう一度、「アリスの恋」のような映画を撮ってくれないだろうか。ごく軽いタッチで。


*追補―「デパーテッド」でスコセッシ、念願のアカデミー賞受賞! 撮らされた映画で取ったでは悲しいものがある。しかし、次は遠藤周作の「沈黙」を撮りたいと言っているらしい。ぼくが触れた彼のオブセッションの一つ「キリスト教」が描かれるわけで、今回の受賞にもそれなりの意味があったということになる。


*追補―週刊文春最新号(3月5日の週売り)で小林信彦氏が、やはり「レイジングブル」などの一連の作品の頃がスコセッシのピークという説を書いている。それと「アフターアワーズ」を好きな作品に挙げている。スコセッシは大きな映画ではなく小さな映画が似合うとも書いているが、同感である。