不思議な監督─ガス・ヴァン・サント

kimgood2007-02-24

*冴えないパッケージ、すごい中身
ロシア映画に「父帰る」というのがある。DVDのパッケージには「シックス・センス」のオスメント君のような少年が写っている。ぼくはてっきりオスメント君の映画だと思っていて、友人に勧められても、オスメント君の映画ではね……と気が進まなかった。ところが、何の拍子か手に取ってみたらオスメント君とは別の少年で、そう言えば友人もロシア映画とか言ってたなと思い出した次第。そして、傑作映画であることを知った(この映画の凄さについてはいずれ触れたい)。


ガス・ヴァン・サントの「エレファント」は「小さな恋のメロディー」のようなパッケージで、間違っても手の出ないデザインである。これも何の拍子か手を出して内容説明を見たら、何とコロンバイン高校の惨殺事件を扱ったものだった。
ここでパッケージの話を持ち出したのは、邦題の付け方から含めて、映画会社が観客の設定を間違っているのではないかと言いたいからである。「父帰る」も「エレファント」も映画好きの人間が見る映画で、なかなかそれ以上の広がりを得るのは難しいタイプの映画である。そのかわり、一度見た人間は誰かに話したくなる。そうやってこの種の映画は生き延びていくのである。いわゆるロングセラーというやつである。
映画会社は地味な中身の映画だというのを隠そうと必死である。訳の分からない映画はロマンティックな外装にしておけば無難だろうというわけだが、それこそ本来の観客を逃しているのである。ぼくの友人でも「あのパッケージじゃ手が出ない」と言う人間が多い。


話を元に戻すと、コロンバイン高校事件は、マイケル・ムーア「ボウリング・フォ・コロンバイン」、デボラ・ウインガー主演「コロンバインの空に」でも扱われている。アメリカ人にとって繰り返し立ち返るエポックメイキングな事件ということなのだろう。
あるジャーナリストが当時、青年たちの間に暴力的なグループの階層があって、その抗争から引き起こされた事件だと解説していて、その説を鵜呑みに誰彼なしに喋った記憶があるが、少なくとも3作品を見る限りそういうものは見えてこない。
マイケル・ムーアは武器社会を攻撃し、デボラの映画は事件で娘を失った母親が学校から銃器をなくす社会運動を始める様を描いている。では、「エレファント」は?


*掛け替えのないもの
複数の青年の何気ない1日を丁寧に追い、最後は2人の同窓生による銃乱射へとなだれ込む。ただのお喋りが、ふつうの会話が、いずれ惨劇で血塗られることが予定されているので、掛け替えのないものに映る。いくつかの場面が、何通りかの視点で捉え直される。実験的な映像にも見えるが、主題が主題だけに、繰り返しの映像が貴重なものに思えてくる。時折、映し出される空をゆく雲の早回しも、それに被さる「エリーゼのために」の曲も、はかなく、とても美しい。すべて「末期の目」で捉えられた世界である。


射殺の主犯アレックスは、いじめられっ子だが、家に帰れば彼はピアノを弾いたり、絵を描いたりすることの好きな青年である。「エリーゼのために」を弾き終わったあと、シューティングゲームをする現代っ子でもある。彼がピアノを弾く位置の右の壁にも小さなデッサンが飾られている。その絵が「象」である。この映画がひと癖もふた癖もあるのは、残忍な射殺犯をこういう芸術家肌の、静かな雰囲気の青年に設定したところにも現れている。
アレックスが犯行当日の朝、シャワーを浴びているところへ、従犯の青年が入ってくるシーンがちょっと風変わりである。「今日、死ぬんだな」と言った後、「まだキスをしたことがないんだ」と言って、2人で抱き合うシーンがある。ホモセクシャルと言うには幼い、ちょっと変わったシーンである。


この映画でドキッとするのは、2人の犯人が武装して高校へと乗り込むシーンが、映画がスタートして15分くらいの早い時期に挟まれていることである。それと、惨劇の開始を告げる「カシャツ」という銃の音もまた、早い時期のシーンに収められている(ミシェルという女の子が図書館でバイトを始めるシーン。これは3回繰り返されるのだが、その2回目)。


ジョン、イーライ、ミシェル、ベニー、ネイサン……登場人物は必ず歩く姿で撮される。それも後ろ側からカメラは追って行く。カフェテリアや図書館などの目的地に着いてからは、いわゆるワンカットの長回しの映像になる。人物を次々と繋げていく手法で、ガス監督は余り使わない手法ではないかと思う。ロバート・アルトマンはひたすらこの手法だが(ジョン・ヒューストンは自伝で、この撮影法ができる監督はそういない式のことを書いている)。


もう1つ触れておくべきは、音楽の使い方である。登場人物に合わせて、微妙に被せる音楽を変えている。惨劇のシーンではコンピュータの雑音のようなが聞こえてくる。場合によっては、それが鳥の声にも聞こえる。ラストの映像でまた空を流れる雲が映されるが、そこでははっきりと鳥の声に変わっている。この細やかな演出には、恐れ入る。


あのおぞましい事件をこうまで静謐に撮るか、という仕上がりである。登場人物は素人のオーディションで配役したらしい。素人を使った映画といえば、アラン・パーカーの「フェーム」という傑作があるが、あれも高校生を扱った映画である。「エレファント」はカンヌで賞を取ったらしいが、頷ける話である。この監督、やはりただ者ではないし、この映画、傑作と呼びたい。


*流れる悲哀感
ガス監督というと“インディペンデント”が決まって枕詞に付く。インディペンデントというのは、メジャーで配給されない(あるいは、配給を断る)といった意味なのか、それにしては「グッドウイル・ハンティング」や「小説家を探して」のような普通に上映された映画もある。彼は寡作で、全部で10作ほど、なかに「サイコ」のようなリメイクもある。何を指してインディペンデントと言うのだろう。


ぼくが見たのは先にあげた「エレファント」「グッドウイルハンティング」「小説家を探して」のほかに処女作「ドラッグストアカウボーイ」と「誘う女」「ジェリー」「ラスト・デイズ」の7作だけである。「ジェリー」はとんでもない駄作だが、音楽にぼくの好きなアルボ・ペルトの「アリーナ」を使っているのが驚きだった。映画を早回しで見たのは、これとタケシの「TAKESHI’S」だけである。途中で止める映画はあっても、早回しはしないものである。2人の男が砂漠を徒歩で横断するだけの話で、そこに事件も起きなければ、ドラマもない。しかし、相変わらず空と雲を切なげに撮るのがうまい。


最新作「ラスト・デイズ」はニルバーナというロック・グループのボーカリストの自殺する最後の日々を撮ったもので、「エレファント」で多用した繰り返し映像や、映像とは無関係な音を入れたりする手法を使っているのが目立つぐらいで、さしたる映画ではない。ただ、自らもPAGOTAというグループの一員である主役の俳優マイケル・ピットが歌うBirth to Death という曲はグッド(彼は「ヘドウィグ&アグリーインチ」に出ているらしい)。どこかで手に入れたいものである。また「エレファント」と同じくホモセクシャルの場面が挟まれている。ガス監督には「マイ・プライベート・アイダホ」というホモ映画があるが、ぼくはまだ未見である。いずれ見たら、併せて論じてみたい。



「ドラッグストア・カウボーイ」はドラッグストアから薬を盗み出して、トリップ用に使えるものを売り飛ばしたり、自分で使ったりする連中の話だが、途中から主人公が改心して映画の様子ががらりと変わるという代物である。面白いのは主人公が変な縁起担ぎをすることである。ベッドの上に帽子を置いておくと不吉な事が起こる、とか。結局、彼が悪事から足を洗うのも、その縁起が的中したからである。
最初のシーンがハンディカメラで撮ったような映像で、中身とはそぐわないのだが、インディペンデント系の匂いがするとすれば、このあたりかもしれない。ラストはモノクロの思い出写真集で、変な犬の映像が出てきたり、楽しめる。悲惨な人生を歩む彼らも、いつぞやは幸福に包まれていた時代があったということが分かる。ガス監督の映画に流れる悲哀の感じは、この映画にも確かに流れている。


「誘う女」は原題"to do for"で、当て推量で言えば"to do for her success"となるだろうか。ひたすらテレビに出て名前を売ることしか考えない女が、お馬鹿な高校生をたらしこんで、邪魔になった夫を殺す話である。といっても、女には才能がなくて、あくまでごくごく小さなローカル局のお天気お姉さんになっただけのこと。しかし、アメリカにはそういうところから這い上がったサクセスストーリーがたっぷりとある。それに、立派でふしだらな“体”さえあれば大丈夫、といった“神話”まで揃っている。
この映画、そういう勘違い女の凄さをもっと強烈に描いたら、面白いアメリカ文化論の映画になったことだろう。残念なことに、ガス監督にはそのつもりはなかったようだし、演じているのがニコール・キッドマンである。
この映画は、下手うまのような出来。お馬鹿な高校生をホアキン・フェニックスが演じていてグッド。馬鹿だけど繊細な感じがよく出ている。そういう意味では貴重な映像である。


*ひどい落差
同じ監督でこんなに出来が違うか、ということがある。小津などは決定的な失敗作などはない監督である。黒澤は「乱」あたりは目を覆うばかりである。いつも同じようなテーマを追う監督は大きな失敗はしないが、一作一作意欲的にテーマを設定する監督の場合は、失敗の可能性は前者より高くなる。ぼくは色々なテーマに果敢に挑んで、バラエティに富んだ映画を撮る監督が好みである(成瀬は別格)。
そういう意味で、アラン・パーカーを高く評価する。何しろ「アンジェラの灰」のような糞リアリズムとファンタジーが混じった渋い傑作から、とても緊密な構成の「フェーム」「コミットメント」のようなエンタメもある。さらに、「ミッッドナイト・エクスプレス」「ミシシッピ・バーニング」「ライフ・オブ・デビッドゲイル」のような思想性を帯びたものや、「エンジェル・ハート」のような不気味系まである。それがそれぞれに味わいがあって、最後まで楽しみながら見ていられるから凄い。
アルトマンもテーマは雑多で、多数の作品を撮っているが、傑作と呼ぶべきものは1つもない(半分が未見なので、断定は保留だが)。初期の「MASH」「ロング・グッドバイ」は優れた作品だが、アルトマン映画らしく「ユルイ」。「ゴスフォード・パーク」「バレエ・カンパニー」は重厚で、楽しんで見ていられるが、やはり「ユルイ」。未完の映画の印象なのだ。


ではガス・ヴァン・サントは? リメイクの「サイコ」は未見だが、ヒッチ映画をなぞっただけ、という評価を聞いたことがある。いずれ見てみるつもりだが、そもそもリメイクするような監督がインディペンデントなのか? ときに「奇才」とも称されるが……? ひたすら駄作の「ジェリー」をどう考えるか、である。これは監督もそのつもりで撮っているので、駄作と言うのもおこがましい。しかし、実験作でもない、という体たらくである。これと「エレファント」「ラスト・デイズ」で“死の三部作”とか言うらしいが、お好きにどうぞ、という感じである。
しかし、「小説家を探して」「グッドウイル〜」という実に手練れの作品もある。見終わってクレジットを見ても、これがガス監督作品? という感じである。作品ごとのバラツキの激しさに特徴がある、それがガス・ヴァン・サントである。


*難しいテーマを難なく処理
「小説家を探して」は青年が小説家への道を歩む過程を、「グッドウイルハンティング」は青年が数学者になる過程を描いたもので、難しいテーマを難なく処理しているのが凄い。前者は、1作をもって世に衝撃を与え、以後、隠棲した天才小説家にショーン・コネリーが扮して、青年の導師を演じている。その心の通い合いのなかから青年は育っていく。
冒頭のシーンに面白い仕掛けがしてある。ベッドにうつぶせに眠る青年の横に小さな台があって、そこに本が積み重なっていて、MISHIMAの名前が確認できる(これを見ても、彼はそれほどの貧乏でもない)。
あるいは、コネリーが書棚を背に片手にコーヒーカップを持って立っている。空いた片手がすーっと真横に伸びて、ちょっど指先のところの本が飛び出しているのを、そっと押し戻すシーンがあるが、いい演出である。同じことを後で青年もやることで、成長著しいことが暗示されるし、彼もまた本をめぐる世界の住人であることが示される。
青年の書いた作品を盗作と断じる学校の先生役が、あの「アマデウス」のサリエりをやった役者である。ここでも自分に才能がないために生徒を不当にいじめるサリエリ的な役で、この人、顔つきからしてぴったり。


「グッドウイル〜」ではマット・ディモンがスラム街出身の天才数学者の卵を演じている。その彼が、正規の大学生さえ解けない問題を解いてしまうところから物語が始まる。つかみはOKである。数学の先生と同期の精神科医がロビン・ウイリアムスで、彼自身、大学でエリートコースを歩むことを止めた人物で、さらに最愛の妻を失って心を病んでいる。その彼が、心を開こうとしないディモンに接することでドラマが生まれていく。
ちなみにデイモンは両親が幼い頃に離婚、大学で教える母の元で育ち、彼はハーバード大に進んでいる。「グッドウイル」は子どものときからの友人ベン・アフレックとの共同脚本で、アカデミー脚本賞を取っている。


両方の作とも、実にドラマツルギーのしっかりした映画で、ガス・ヴァン・サントという監督、見れば見るほど上手いのか下手なのか、クエスチョンの監督である。


*「パロノイドパーク」
「エレファント」を小さくしたような映画である。常にある地点に戻るシナリオ、常に場面ごとに音楽が変わるところ、少しホモジニアスなところ。スケボーで右に左に揺れるのをスローモーションで撮るのが、主人公の心理に沿っていて、ラストの中途半端な感じも必然的である。全体に不安定ながら調和のとれた世界なのに、たまたま偶然に人殺しをし、胴体が半分になった男がそれでも這って主人公に近づくところだけは生々しい。こういうところにこの監督の非凡さを感じる。佳作だし、人も入る映画である。


*「永遠の僕たち」
パラノイドパーク」的な味わいの映画であるが、これだけ死の色が濃い作品は初めてではないか。「ミルク」で政治的な映画を撮り、しばらく新作が来なかった事情は何か。加瀬亮カミカゼで死んだ亡霊として登場する。実に英語が堪能で、もしかして日本に軸足を置いた役者で、ハリウッドであれだけ台詞が多く、大事な役柄を演じた者はいないのではないか。渡辺謙などちょい役にしか過ぎない。浅野忠信も要反省だろう。しかし、なぜ特攻隊の亡霊なのか。彼は死より辛いものを経験したという、それは愛の断念なのだという。この映画で繰り広げられる死のゲームから愛の行為への転換を用意したのが、この亡霊であるかもしれない。途中で、長崎の原爆の写真が挟まれる。サント監督に何か大きな転換が訪れているような予感がする。亡霊などという幻術を彼は使ったことはないはず。


父母を交通事故で失った青年は、つねに死を感じていようと、他人の葬儀へと顔を出す。そこで知り合った少女は児童ガン患者で、死期が近い。二人で死の場面をシミュレーションするところでは、つい笑ってしまう。少女はグイネス・パストロウを、ときにミア・ファーローを思い出させる。少年はナイーブそのもので、「エレファント」に出ていた大量殺人少年を思い出させる。死の側から現世を見る青年は、「アメリカン・ビューティ」を思い出させるが、それほどの冷たさはこの映画にはない。いずれにしろ愛の映画であり、イニシエーションの映画なのだから。


*「マイ・プラベート・アイダホ」(D)
やっとレンタルすることができた。ツタヤではまったく埒が開かず「ぽすれん」で借りることができた。
サント監督のゲイ趣味がまともに取り上げられているという意味では貴重な映画ということになるが、中身自体はごく普通の出来。相変わらず雲の流れるシーンが美しい。主演のリバー・フェニックスは23歳で死んでいる。舞台となったポートランドは監督の住んでいるところ。
主人公がナルコレプシーという奇病の持ち主であることがうまく生きているわけでもない。ラストシーンで路上に倒れ、行きずりの2人組は彼から物を盗み、次に通りかかった人間が彼を助けるところでは、その病気がうまく生かされている。彼は自分の出生にもがき苦しんでいるが、生そのものが運命のようなものに翻弄されていて、しかも結局祝福されているのだというメッセージが伝わってくる。
砂漠の真ん中を突っ切る道路のイメージは「ジェリー」と共通するものを感じる。


*「プロミス・ランド」(T)
しばらくぶりにマット・ディモンとのコンビ復活である。シェール石油開鑿のため土地の借り受け交渉をするやり手セールスマンがディモンで、相棒が「ファーゴ」のフランシス・マクドーマンドである。現地で説明会を開くが、学校の科学の教師というのが危険性を指摘する。彼は実業から大学の教授まで務めた人で、ディモンは初っぱなからやられてしまう。環境派が乗り込んできて、よけいに分が悪くなったかに見えたが、敵が作成したポスターに偽造があることが分かり、逆転に。しかし、映画はもう一つ逆転を用意している。


これといった仕掛けのある映画ではないが、ディモンが地元女性と近づきになっていく過程にしゃれた会話が大きな役目を果たしていることは、監督の新たな趣味として特筆しておく必要がある。あるいは、相棒のマクドーマンがレンタルしたクルマがマニュアル車で、始終エンジンのかかりが悪いという設定も全体に利いている。ラストのタウンミーティングで彼は真実を述べるのだが、少しそこの印象が弱いように思える。自分の会社の悪をもう少し鮮明に描いておくべきだったのではないか。


もともと社会性のある監督なのは確かだが、ここまではっきりとその種のテーマを打ち出したことはなかった。一方で青少年の不安定なあり方を描きながら、一方で大人の世界のあり方をも描いていこうということなのかどうか。この先の展開を待つこととしよう。