二重性の震え―俳優ノートン覚え書き

kimgood2007-03-06

*役者を論じる
ある一人の俳優のことを語りたい。個性派の役者というのは、たくさんいる。しかし、気になる俳優というのは、そういるものではない。異性の俳優であれば、憧れで見続けることも可能だが、同性となると、特殊な趣味でもないかぎり難しい。
ついその役者の映画だと見てしまう、という結果論的な俳優というのはいる。たとえば、ジャック・ニコルソン、たとえばひところのダスティ・ホフマン、アル・パシーノ、あるいはトラボルタ。そこそこ見応えのある映画に出るので、お金を払ってもそう損はしない役者たちである。映画会社としても貴重な人材である。


しかし、自分から好んでわざわざ求めるように見る役者となると、ざらにいるものではない。色川武大氏の映画コラムなどを読むと、実に細かく脇役陣や端役を追っている。そこについ目が行ってしまう性のようなものが色川氏にはある。特殊とは言わないが、独特な目線であることは確かである。


これから論じようとするエドワート・ノートンはどちらかと言うとバイ・プレイヤータイプである。見た目が優男で、色白で、生彩がない。インテリ風である。影が薄いという言い方が当たっている。もともとどこか有名大学の卒業である。その冴えない男が2作目にして主役級に躍り出て、それ以後、特異な路線を歩んできている。彼を表現すれば、次のようになる。“二重性の役者”。


*二重人格
例によって彼の出ている映画で、ぼくが見たものを挙げていこう。「ラリーフリント」「真実の行方」「アメリカンヒストリーX」「ラウンダーズ」「ファイトクラブ」「スコア」「25時」「ミニミニ大作戦」「ダウン・イン・ザ・バレー」、これが製作順である。監督作は「僕たちのアナ・バナナ」というのを「ファイトクラブ」出演のあとに撮っている。ぼくは見ているはずだが、再見しないと自信がない。あと「レッドドラゴン」というのに出ているらしいが、「恐いもの系」は苦手なので、これからも見る機会はなさそうだ。以上でほぼ彼の作品を挙げたことになる。
ぼくが最初に見たのが「真実の行方」、次が「スコア」で、ぼくは後者で面白い役者だなと思い、それで「25時」を見て、さらに先の「真実の行方」を見直して、はまっちゃったという感じである。
これらの中で主役の映画は「アメリカンヒストリーX」「25時」である。


ノートンの基調にはナイーブさがある。処女作「ラリーフリント」に若き弁護士役で出てくるが、あくまで傲慢、強引のクライエントに反感を持ちながらも従ってしまう役を演じている。唇の内側で発音するような独特な喋り方で、喉にくぐもった、少し語尾に震えがあるところが、よけいにナイーブさを印象づける。
しかし、後年の彼を知っているぼくとしては、いつ豹変するのかと気を揉んで見た映画である。というのは、ノートンにはナイーブさが深くなるほどに、それに反比例するように暴力性が剥き出しになってくる傾向があるからである。はっきり言えば二重人格である。


*真実などどこにもない
ノートンは「ラリー・フリント」の次に「真実の行方」に出ているが、これが彼のイメージを決定づけたと言えるだろう。主役はいちおうリチャード・ギアだが、ノートンに完全にお株を奪われている。寄る辺ない青少年の保護などの慈善活動で有名なある偉い坊さんは、内実は児童性愛者で、目の前で子どもたちにセックスを強要し、それを楽しむという変態である。ノートンはその坊さんをやむなく殺したという設定で、リチャード・ギアが弁護士である。しかし、か弱く、おどおどしたノートンにそんな大胆なことができたとは思いにくい。
ところが、接見を何度か繰り返しているうちに、ノートンの人格が変異し、凶暴なもう1人の人物が出現する様を目撃する。坊さんを殺ったのはそいつだということで、ギアは裁判で無罪を勝ち取る。監房に帰ってきて、これで一件落着という時に、ノートンが種明かしをする。実は凶暴な人格のほうが本物で、気弱なもう1人は演じられたものだと、勝ち誇ったように言うのである。


ブラッド・ピットと撮った「ファイトクラブ」が彼の映画では一番の大作だが、これはノートンのための映画で、よくピットが出演をOKしたものだと思う。何しろピットはノートンの幻影、もう1つの人格に過ぎないのである。
気弱なセールスマンのノートンがたまたま飛行機の座席で横に座ったピットに興味を引かれる。アパートがなぜか爆弾で火事に遭って、ピットのことを思い出し、廃ビルを利用したねぐらに転がり込む。ピットは悪の帝王の面影があって、人望も、根性も、ファイトもある。夜な夜な意気盛んなはぐれ男どもを集めて、素手で殴り合うファイトクラブを主催する。血の匂い、味を知って、ノートンは野性に目覚め、会社も辞めることに。
ピットは別の町でも同じ仕組みを次々と作り上げる。ピットはそれを私兵化し、都市を破壊、占拠することを画策する。手に負えなくなったノートンはピットの企みを潰そうとするが、行く先々でピットが自分そのもの、いや自分が造り出した影の存在であることに気づく……。
バイ・プレイヤーでありながら大作の主役級を振られ、しかもノートンが最も生きる役回りであるというところが、独特である。脇専門で、決まった役柄しか求められない役者とは意味が違う。それに、二重人格など一度演じればそれで終わりの役である。そういう意味で彼の独自性は際立っている。


順番から言えば、「ファイトクラブ」より先に「アメリカン・ヒストリーX」を撮っている。「真実の行方」の次にもうこの映画というのが驚きである。というのは、前作はうらなりで脇、この作品では急激な肉体改造を果たしたのか、とてもマッチョで、しかも主役。顎ひげまで蓄えて、まるでイスラム過激派のような感じだ。
話もハードである。黒人排斥などを主張する、ナチ信奉のノートンが、刑務所でボス連の言うことをきかなかったために激しい攻撃に遭う。ところが、仕事場のクリーニング室で穏和な黒人青年と気持ちを交わしたことで、黒人側のサポートが受けられるようになり、無事に出所を遂げる。
その時点で、彼は家族思いの真っ当な人間に変身している。出所を待っていた熱烈なシンパたちは彼の豹変をなじり、彼を襲うが、それでもノートンは我を押し通す。
落差の大きい人格の変わり様を見れば、二重人格の映画と言っても、そう間違いではないだろう。タイトルの「X」は“可能性”という意味で、歴史なんていつでも変わる(変えられる)可能性がある、というメッセージとしてぼくは考えた。宮崎哲弥宮台真司の「M2の時代に」でこの映画について触れていたが、ピントを外していたと記憶する。
ノートンは、何かクスリでも使ってあのマッチョ・ボディを作り上げたのだろうか。


「スコア」「ミニミニ大作戦」は犯罪者集団のなかの裏切り者の役で、ここにも二重性がある。途中までは仲間を装うからである。「スコア」はカナダ・モントリオールが舞台で、まるでヨーロッパの古都で撮ったような、しっとりとした味わいがある。アンジョリーナ・ジョリーもここで何かの映画を撮っていたが、それもとても美しい。「スコア」はロバート・デ・ニーロマーロン・ブランドという組み合わせが豪華だが、ブランドの衰えは隠しようがない。
ミニミニ大作戦」はマーク・ウォルバーグ、シャリーズ・セロン、ドナルド・サザーランドが出ていて、ノートンの悪役ぶりはイマイチだが、見ていられる映画である。出だしの映像処理、そして大金庫をモノにするスピーディな展開も小気味いい。原題はThe Italian Jobなので、邦題をどうにかしてよ、という感じである。


「ラウンダース」はマット・ディモンがポーカー賭博の腕こきで、刑務所から出てきて再会するダチ公の役をノートン。結局、これも友を裏切る役である。最終的には大学を辞めて、「ハスラー2」のように、ポーカー稼業の中央大会に出場するところで、映画は終わる。なかなか良く出来た映画で、町のあちらこちらにポーカーの稼ぎ場があるのが面白い。知らずに警察官たちのクラブで開帳し、袋だたきに遭う。あるいは、学長たちのテーブルにも出没する。そこで手際の良さを買われて、一度は有り金を捲き上げられた実力者への再チャレンジの資金の提供を受けるようになる。


「25時」は刑が確定し、25時間以内に収監されることになっているノートンが、残された少ない時間で、なぜ自分が捕まるハメになったのかを探る映画で、恋人がタレ込んだと思っていたのは間違いで、友達の1人がやったことだった。それが分かり、父親のクルマで目的地に向かうが、父親は逃亡を勧める。二股の道が来ても、ノートンは収監の道を選ぶところで映画は終わる。ここにもかすかに二重性のテーマが鳴っている。


最新作「ダウン・イン・ザ・バレー」はカーボーイ気取りの中年男が18歳の少女に惚れ、純朴な男と見えたのが、やがて狂気を帯びていることが分かるというもので、ノートンお得意の“二重もの”だが、狂気が中途半端で、もの足りない。駄作である。


弱さと強さ、ナイーブさと大胆さ、ひ弱さとマッチョ、病気と正常――それらが同居する役を演ずることのできる役者など、ノートンのほかにいるのだろうか。しかし、今までの映画で二重性のカードはほぼ出そろったような気がする。
アメリカンヒストリーX」のようなプラス方向への変身映画が1作だけなので、ほかにも期待したいところである。次にノートンは、どこへ紛れ込み、我々をたぶらかすつもりだろう。


※追補---先日(6月中旬)、パソコンを買い換えて、セッティングを店の人に頼んだのだが、その彼がエドワート・ノートン似なのには、驚いた。目の笑った感じがよく似ているのである。彼にそれを言うと、かつて役者をやっていたことがあるとのこと。幼少から高校生までやっていて、いじめなどもあって、役者稼業をやめたそうである。そのあと、ロックバンドでドラムをやっていたとのこと。それも休止して、いまは電器量販店の営業というわけである。ぼくの指摘にニコッと笑い、「ありがとうございます」と言ったときがまた、ノートンに似ていて、ぼくは大満足。


※追補――「幻影師アイゼンハイム」
ニール・バーガー監督、エドワート・ノートン主演、女優がジェシカ・ビールでぼくは初めて見る。ノートンが希代の奇術師で、一切が彼の仕掛けだったというオチは見事である。それもカットを重ねるだけで種明かしをするところは手際がいい(よく考えると、辻褄の合わない感じもあるのだが)。
全体に重厚な絵で、見応えがある。音楽がフィッリップ・グラスで、同じ旋律を繰り返す彼の手法が、かなり効いている。皇帝の手先でありながら、次第にアイゼンハイムに肩入れする敏腕警部がポウル・ジアマッティという役者。これが渋い。
ノートンが奇術師を演じるのはハマリ過ぎで、興醒めの感じがあって劇場で見なかったのだが、惜しいことをしたものである。これは劇場で楽しみたかった映画である。
若き殿下が皇帝である父親を倒し、王位に就こうと画策するが、政略結婚するつもりだった女が奇術師の幼友達、それも愛し合った二人だったことから、計画が崩れていく。君主制ではなく共和国という設定なので、奇術師贔屓の観客、つまり国民は殿下の悪事を暴けと警察を責め立てるシーンなどがある。皇太子をはじめ警部なども奇術の謎解きに夢中で、科学で解けないものはないという信念が行き渡っている、意外と現代と違わない時代の話である。
「ハルク」のノートンも良かったが、やはり演技力のある彼を見るのは一つの快楽である。新作来着が楽しみである。


※追補――エドワード・ノートン主演「ハルク」はやはりノートンファンとしては見ておくべき映画だと思って出かけた。前作で何かマジシャンをやった映画は、ああそっちに行くのね、とがっかりして見るのをやめたのである。二重性の面白さを演じてきた彼がマジシャンになるということは、つまり種明かしみたいなもので、興醒めに近い。それが今度は変身してモンスターである。そろそろ年貢の納め時かもしれないと思い出している。


ところがこのハルク、存外に面白いのである。やはりノートンが演じるとモンスターにも深みが出るというものだ。線が細い印象があるだけに、その変身後のむごたらしさが余計に身に染みる。感情をコントロールするために腹式呼吸をしたり、しまいには座禅までやってしまうノートンである。


ハルクの力に憧れるのが警官のティム・ロス。39歳という設定だが、それにしては老けている。そのロスがハルクのあとを追ってモンスターとなり、彼と戦うことになる。それにしても、ノートンにロスとは……、冗談もかなりきつくなってきた。つまりもう化け物映画は、いくらでもCGができるから、マッチョマンを選ぶ必要がなくて、かえってしなびた感じの男のほうが、変身後の醍醐味があるから味があっていいのである。これは、あのスパイダーマンが実証したことである。
だから、ウイルアム・ハートなども脇に付けて、見ていて安心できる演技になっている。超人もの、スーパーマンものはもうこの路線から引き返せないのではないかと思われる。