2019年の映画

 

 

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sea of summer


2019年の映画

2019-01-05

 

T=映画館、S=ネット、D=DVD

 

1 ぼんち(D)

見るのは二度目だと思う。山崎豊子原作である。脚本を市川崑和田夏十(なっと)が書いている。和田は市川崑の奥さんで、つねに二人三脚で映画を創った。

 冒頭のシーン。女中らしき女が裸の雷蔵の首のあたりに天花粉をかけ、着物を着せていく。気のなさそうな感じの市川雷蔵だが、何から何までお膳立てされる境遇であることが、このシーンで分かる。その女中(倉田マユミ、表情がないが、かえってそれが一途に若旦那に尽くす感じに合っている)は生涯雷蔵の世話をすることになるが、最後に「ぼんは船場に生まれなんだら、そして優しすぎなんだら、大きなことをなした人やった」と述懐させている。

雷蔵は足袋問屋の跡継ぎで、その部屋に、2人の人間が近づいてくる。しかし、足袋をはいた足許しか写さない。一糸乱れず、その4本の脚がスッスッと動く。それだけでこの二人(祖母と母)が不即不離の関係であることが示される。こういう演出の的確さこそ、監督の仕事である。

舞台となる船場の家は女系でもってきたという自負がある。雷蔵に嫁取りを奨めるが、家の指図に従わない女はたとえ長男を産んでも家に帰らされてしまう(その気の強い女を中村玉緒が演じている)。いくら雷蔵が放蕩を尽くしても、家うちに外の女やできた子を入れなければいい、という考えである。一生親子で暮らせるだけの手切れ金を渡して縁を切ってしまう。祖母を演じた毛利菊枝はあくまで表情を消して、冷酷に徹している。それに形影沿うようにして雷蔵の母である山田五十鈴が付き従っている。この芯のない、個性のない山田も見ものである。

何事にも控えめな芸者を草笛光子が演じていて、雷蔵の2号さんになるが、後ろ向きになったときに帯に触っただけで、はらりと落ちる。理由を問うと、「旦那のために特別に工夫した」と言う。それを雷蔵はうれしいことをしてくれる、と考える。そういう文化の中にいる人間たちなのである。ちなみに草笛は突然病で死んでしまう。その葬式に出ることができず、雷蔵は料亭の布団部屋の窓から葬列を眺める。その差配をしてくれたのが京マチ子で、そのまま部屋で二人は交情を交わす。それには前段があって、祖母は雷蔵のお披露目に使った料亭の女頭である京の采配と、その肌の良さ、身体つきに感心し、ぜひ雷蔵の子を産ませたいと考える。さらに、祖母が、京の肌は私の肌とそっくりだと言い出す。山田五十鈴が、「そんなにいい肌でしたか」と聞くと、祖母が少し肌脱ぎになって、中を見せる。それを見て、五十鈴が「あれ、ほんまやわ」といつものお世辞を返す。このシーンのおぞましさは、なんとも言えない。布団部屋で事がすんで、京マチ子が、自分は石女(うまずめ)である、と告白し、その皮肉を雷蔵と2人で笑い合う。

 雷蔵はすべての女に優しく、大震災で逃げ場のなくなった女3人(若尾文子越路吹雪京マチ子)が、一つだけ燃え残った蔵にやってくる。それぞれにたんまりとお金を渡して、疎開先を紹介する。若尾はその金で置屋を開こうと考え、越路は今度は馬ではなく株をやるといい、京はしばらく飲んで遊んでそれからのことはそれから考えようと言う。女3人が昼間から風呂に入りじゃれ合っている様子を見て、やっと雷蔵は女から自分の運命を離す決意がつく。その顛末を、雷蔵が何番目かの妻の告別をやっている自宅に弔問に来た、売れない落語家中村鴈治郎に語る。これで冒頭のシーンに回帰したことになる。その円環構造は、かなり意味深である。

船場の風習とそれに柔軟に逆らおうとする「ぼんち」との戦いが筋になっているが、やはり船場言葉のやりとりが快感である。丁稚上がりから旦那となった雷蔵の父親を船越英二がやっていて、いつもの頼りない感じがぴったりである。死ぬ間際になっても、わてはどれだけ財産を増やしたろうか、と気にする男である。雷蔵に「おかあちゃんとはあっちの方はどうやった」と聞かれ、「わては寝てるだけや。そっと戸が開いて、寝床に入ってくる」との返事。その船越が死んだときに、山田は取り乱して涙を流す。祖母は、はしたないことしな、と怒る。山田は別の部屋に駆け込んで泣く。家の娘と使用人の関係に見えて、そこには男女の気持ちの交わし合いがあったことが分かる。雷蔵も女遊びに明け暮れるが、商売のアイデアを考えることに怠りがない。そこがあるから、問屋の古株たちも納得して付いてくる。船場の商人の意地みたいなものもきちんと描かれている。

 

2 それだけが、僕の世界(T)

 このタイトル、なんだかよく分からない。英語ではKeys to the Heartとなっている。本編でピアノ弾きが扱われているので、このkeyにはその関連があるはずで、「心ふるわせる鍵盤」といったようなタイトルである。久しぶりに韓国映画を見た、という感じである。ユーモアがあり(韓国映画に欠かせない要素である)、ちょっぴり涙もあり、もちろんちょっとしたアクションもある。監督チェ・ソンヒョン(「王の涙」というのを撮っているが、ぼくは見ていない)、主演イ・ビョンホン(いつ以来だろうか。西部劇風の「グッド・バッド・ウィアード」以来か)、その弟役でサブァン症候群のパク・ジョンミン(「ダンシングクイーン」に出てたらしいが、記憶にない。日本の役者に似ている人がいるが、名前が思い出せない)、母親役をユン・ヨジュン(「青い塩」に出てたらしいが、記憶にない)。障碍者を扱った映画ではイ・チャンドン監督で「オアシス」がある。彼の「シークレット・サンシャイン」も懐かしい。

ビョンホンがコミカルな演技をしていて、好感である。食堂で家族で写真を撮ろうと母親が言い出し、店員が撮ろうとしたときに、ビョンホンがおどけた格好をする。あるいは、母親が二人で踊ろうと言い出したときに、一人でラップ風の踊りをおどり、曲に合ってないな、と言うシーンなど。こんなビョンホンはほかにあるのだろうか。40歳のボクサーという設定だが、もう少し彼の恰好いいところを見たかった。サブァン症候群の弟が名曲クラシックを何曲か演奏する場面は、やはりグッドである。母親役の女優が田中絹代に似ていて、これもしみじみとしていていい。女優陣がみんな整形韓国顔しているが、まあこれはこれで仕方がない。突拍子もない設定もあるが、これも韓国映画らしいのである。虐待の夫から逃げ、13歳の息子ビョンホンを手放した母親、久しぶりの再会、奇矯な行動の弟との心の通い合い、弟のコンサート、そして母の死……

よくぞ盛り込みましただが、無理なく楽しめる。日本のエンタメは、ここまで徹していない。おちゃらけて終わりである。これが韓国映画、復活の狼煙となるか。

 

3 ローマ(S)

ベネチアで金獅子賞を取っているが、ネットフリックスだけの配信である。アルフォンソ・キュアロン監督で、ぼくは「ゼロ・グラビティ」しか見ていない。さして印象に残った映画ではないが、最後、地球に戻ったサンドラ・ブロックが非常に鍛えられた、美しい身体をしていたが、それはおそらく再生するエヴァという意味をもたせたのだろうと思った程度である。この「ローマ」は、制作もネットフリックスで、ほかにコーエン兄弟の「バスターのバラード」もネットフリックスが制作で、ネット配信だけである。後者についても、のちに語りたいが、カンヌがネット映画は受賞対象にしないことと対比されて話題になった映画である。ぼくはこのレベルの映画であれば、劇場公開もしてほしいと思う。スコセッシも同ネットで撮るらしい。タイトルの「ローマ」はメキシコ近郊の町の名前のようで、さして意味がある感じではない。

冒頭からすごいシーンがある。タイルのような模様がざーっと水に洗われる。何度か繰り返すと、そこに白い四角が浮かび出る。泡の効果なのか、天井の明り取りの窓が四角く映っているらしい。その白い四角の右斜めを小さな飛行機が横切るのである! なんという奇跡のような映像だろう。そのあともざーっと水が流される。あとの展開からいえば、これは主人公のクレオが、犬の糞を洗うための水を流しているのである。そこは外部から車が入ってくるための場所で、ここがやはりのちに大事な意味をもってくる。さらにいえば、波はのちの海水浴での危険な波ともかぶってくる。

この家には妻と3人の子と2人の使用人がいる。その使用人の一人がクレオである。家主の夫はビジネスマンなのか、妻は生化学者という設定である。居間に大きな書棚があるような家である。夫が大きな車ギャラクシーで帰ってくる。家の内部に作られた車入れの幅が狭いので、ぎりぎりに通すために何度も前後をくり返す。これは明らかにいま帰った家庭での座りの悪さを表現したものだろう。のちに離婚が決まったときに、妻が酔って帰って、ごりごりに左右をぶつけるシーンがある。そのあと、気持ちが固まったのか、小型車に乗り換えて、ごくスムーズに帰還する。この車入れが非常に象徴的に使われていることと、さらに何回も同じ要素をくり返すのがキュアロンの癖のようだ。

その繰り返しを列挙すると、以下のようになる。

1 飛行機――――先に触れた冒頭のシーン、クレオの恋人フェルミンが主宰する剣術道場のゲストの頭上、クレオがマンションの階段を上がっていくとき(大型ギャラクシーでの最後の遠出海水浴のあと)

2 移動撮影―――クレオたちが街へ映画を見に行くところ右から左へ、信号で左から左へ切り換わる、避難場所でのピクニックは左から右へ、街路でのテロを左から右へなどなど

3 声、楽隊―――つねに何らかの声が聴こえてくる。ラジオ、街の言葉、銃声など。楽隊は最初と最後を飾る

4 死――――――冒頭でクレオを彼女が仕える家族の最年少の子と仰向けになって死んだふりをする。あとは、街の中の銃撃戦の死、死

クレオフェルミンと性交渉をもち、懐妊する。産むと解雇されると恐れるが、夫人は一緒に病院まで行ってくれる。のちにテロ部隊が激しく活動するなか産気づき、病院に入るが死産。そのまえに病室の窓から外の銃撃戦を見ているときに室内に入ってくるテロの数人。追ってきた人間を殺し、引き下がるが、その一人がフエルミンだった。彼は日本びいきで、剣術の稽古では「いち、にい、さん」と号令をかける。クレオとのセックスのまえに、フルチンで素早い剣術の型を見せる。クレオの妊娠の告白を聞き、彼はすぐに姿を隠す。そして、別の町で数十人の会員をもつ剣術道場の経営者になっている。あとで認知を求めてクレオがやってくるが、「この使用人め」と言って拒絶する。

離婚を決意した主人の妻が、避難先で海水浴をしたあと、夜の食事のときに、再生を宣言する。翌日、また浜辺に。しかし、波が高く、水際で遊ぶように母は言って、車に(?)いなくなる。クレオが女の子を連れながら、簡易休憩所に右から左へと戻りながら、右の方にいる男の子2人にさかんに注意の声をかけるが、とうとう危ないと見て、海へと走り始める。大波に2人は飲み込まれ、クレオも危なくなるが、どうにか助け、砂浜で抱き合う。そこに母、そして女の子もやってきた、抱き合う。クレオは「欲しくなかったの。生まれてほしなかった」と泣く。死産だった子のことである。抱き合った子どもたちが、「クレオが好きだ」と言う。

 

3 トゥモウロー・ワールド(D)

キュアロン監督である。まえに途中で見るのを止めた映画である。ほとんど既視感の映画。荒涼とした未来世界、反政府軍と政府軍の戦いが描かれる。その間に、子どもが生まれない世界でただ一人子どもを産んだ女を、主役クライブ・オーエンが守り抜く。味方も敵も、乳児の泣き声に戦闘を止める。キリストの再誕を言いたいようだ。原題はChiidren of Men とストレートである。 「キンキーブーツ」のキウェテル・イジョフォーがすごく痩せている。

 

4 エル・スール(T)

ビクトル・エリセ監督で、文芸座も珍しく若い女性が多い。冒頭、窓の明かりのなかで女性が目覚め半身を起こし、カーディガンのようなものを着る。不思議なことに、その肩に窓からの光が来ていない。やがて暗くなり、ベッドの据えられた壁の模様が光に浮き出してくる。そんな照明のいたずらでこの映画は始まるが、劇が進んでも、そういう小細工はやらない。物語がないし、もちろん劇的なこともない。父親の突然の自死もまるで日常のように消化されていく。その父親が目に見えて変わってきたのは、南(エル・スール)に住む女性に手紙を出し始めてからである。娘がその未知の土地に療養のために旅立っていくところで映画は終わる。

 

5 ミツバチのささやき(T)

見るのは2度目である。エリセ監督である。フランケンシュタインを実在と信じた少女の話と言っていいだろう。父親は戸外にミツバチを育て、屋内でも透明なガラスの中に飼って観察し、日記にそのことを記している。「ミツバチの精妙な働きが見える」といったようなことである。その父親の声がナレーションとして聴こえるシーンは、外から写されていて、はめこみ窓の模様がまるでミツバチの巣の模様のように見える。つまりこの映画は、姉妹の心理、行動をまるでミツバチのように観察した映画ということになろうか。

 

6 ベストキッド4(S)

ヒラリー・スワンク主演の初めての映画らしい。知らなかった。スワンクは祖母と暮らす高校生で、学校ではセーフガードのマッチョ軍団が彼女を狙っている。結局、技を磨いた彼女は彼らと戦うことになる。途中の僧院での修行中、僧侶たちがダンスを踊るシーンがあるが、マスター・ミヤギが言うには、踊りも踊れない僧侶は信用が置けないそうだ。ミヤギの家に移った祖母(代わりにミヤギがスワンクの養育係としてやってきた)からの電話に出るスワンク、恋人に電話をかけるときのスワンクがきれいなこと。短いスカート姿の彼女も。

 

7 浪速の恋の寅次郎(D)

27作目で、きわめて出来がいいし、寅が元気である。やや俯きの横顔のときに深い寂しさが見えることがあるが。松坂恵子がういういしさも残り、すごくきれいである。志摩から大阪、そして対馬へと舞台は動く。その中心にあるのはもちろん柴又である。わざわざ寅を訪ねてきた松坂は、じつは結婚の報告のために来たのだった。残酷なことをするなぁ、と松坂がいなくなったあと、2階の暗がりで寅が言う。大阪で寅とちょっとしたことがあったのである。芸者が職業の松坂は長年会わなかった弟が死んでいることが分かり(寅に勧められて会うことに決めたのだが)、その夜、仕事先の宴席から抜け出して寅の泊まり先の汚い旅館にやってくる。寅は寝ていたが起き出し、松坂が寅の膝枕で寝入る。泊まっていい、と聞いたときの、寅の驚愕の顔が印象的である。寅はそっち方面はまったくダメという設定になっている。途中までは積極的で、ずいぶん恰好をつけるのだが、ことそれに至ると瞬時に身を引いてしまう。窓辺で松坂が歌うシーンなどを見ていると、リリーとの相似を思い出す。寅と積極的に腕を組んだり、やはり寅は芸者、売れない場末歌手、ストリッパーなどにすごく親近感や安心感をもつ。自分とクラスが一緒だと思うからである。

 

8   迫りくる嵐(T)

中国映画で女性ばかり狙うシリアルキラーを扱っている。地方にある大工場の工員が犯人らしいところや、主人公が最初の現場に遅れて着くところ、その死体のある草むらには緩い傾斜を降りないとたどり着けないこと、死体がうつぶせであること、しつこい雨の中の探索など、韓国映画殺人の追憶」を思い出させるが、それよりも数年前に来たやはり中国映画のシリアルキラーもの「薄氷の殺人」にニュアンスが似ている。後者は、冷え冷え、どんよりした天気のまちが舞台(華北省)で、かなり北方だろうという気がする。石炭の産地での事件だったが、石炭を山盛りにした貨車に死体の一部が載っているなど、猟奇的な感じはもっと強かった。刑事の激しい暴力、コの字型のアパートの中庭(?)で花火がさく裂するシーンなど、映像的に印象的なところがいくつかあった。

今作には、工場労働者を突然解雇するところや、夕方になると男女がどこかしらから集まってきてダンスをする工員広場、そのあとどこかにしけこむような様子、それと工場労働者が住むコの字型のアパートの貧寒とした内部なども描かれている(中国も余裕が出てきたということか)。犯人はその工員広場で獲物を物色しているのではないか、という読みなのである。

工場の保安課の人間が主人公で、何度か優秀工員の表彰を受けていて、仲間からもその鋭い手腕を買われ、公安に出世しろ、と焚きつけられるが、男は今のままでいい、とり合わない。男が警察の、映画では公安といっているが、その手伝いをするうちに、深間にはまり、自分の恋人を犯人らしき男のいる区域に居抜きで美容院を出させ、そこに男が近づくのを監視するまでになる。女は手首に幾度か自傷した跡があり、このまちを抜け出して香港に行きたい、という。男に望みはあるか、と聞くと、男はあるが言えない、という。しかし、男もあっけなく工場を解雇されたあと、心細くなったのか、2人でどこかへ出よう、などと言い出す。

女が捜索を続ける男の意図に気づき、美容院の長椅子に座りながら、思い悩み、やおら男のリュックサックを開き、そこに入っていた日記を見つめるシーンを実にじっくりと撮るのだが、とてもいい。彼女は男に「襲われた方がよかったのか」と迫るが、男は答えない。そのあと、橋上で男と女は話をするのだが、女は自然な感じで両腕で身体を持ち上げて、欄干に座って男と対峙する。もうその時点で横から撮った映像で彼女の肩が不自然に1回揺れるので変な予感がする。別の映像を挟んだあと、彼女は後ろ向きでそのまま身を倒して自死する。まるで「オールドボーイ」での近親相姦の噂を立てられた姉の自殺シーンをほうふつとさせる。

映画の最後に、中国南部で発生した大寒波の影響で、1億人に影響が出た、などと説明が出るが、としたらこの映画は南部で撮られ、しかも実話ということになるのだろうか。雨が降りやまず、いかにも寒げな様子なのだが、さて?

 

9 アリー(T)

スター誕生のまたしてものリメイク。登りゆくスターの卵と、下りゆくかつてのスターの対比がこの映画の柱なのに、ほとんどかつてのスターが嫉妬をしないのでは、劇が成り立たない。自分の生育の過去に悩んでいては、嫉妬にまで行き着けない。レディ・ガガホイットニー・ヒューストンよりはうまい。監督はブラッドリー・クーパー。もし自分で歌っているとしたら、うまい(あとで実際に歌っているらしい、とYoutubeで知った)。

 

10 プレディスティネーション(S)

こねくり回しすぎ。リインカーネションの複雑版。イサーン・ホーク、サラ・スヌーク。サラはジョディ・フォスターにそっくり。

  

11 man on fire(S)

この映画、前に見ている。デンゼル・ワシントンが元優秀な軍人(?)、いまは私立ボディガード。メキシコである家の少女を守ることに。大した裕福でもないが、周りへの手前からボディガードを雇う。心傷つき、アルコールに浸り、自殺さえ考える男が少女(ダコタ・ファニング)に癒され、生きる望みが湧いてくる。その少女が誘拐され、必死で奪還しようとする。

ワシントンはいくつかこういう映画を重ねることで、イコライザーに至り着いたということなのだ。イコライザー3がやってくるらしい。慶賀にたえない。

 

12 サスペリア(T)

「君の名前でぼくを呼んで」(ぼくは未見)の監督が、若き頃に見て感動したサスペリアをリメイクしたという映画である。ぼくも1977年以来の再見ということになるが、なんだかこけおどしに付いていけず、途中で退散。

いくつもおかしなところがある。初めて館に来たとき、なにか音がして、壁をさっと見るシーンがあるが、意味不明である。あるいは、一か所、急な寄りの映像を撮るところがある。ほかで使わないので不自然である。あとで起こる残酷シーンの映像を先に早回しで見せるところは、なんだかなあ、という感じである。ドイツの過激テロ組織バーダー・マインホフの事件を絡めて描くが、事情を知らないとその結びつきがよく分からない。マインホフが女性で、それが館の呪力の源泉であるマザーとダブらせてあるわけだが……。

ぼくが唯一見ていられる怖い映画はやはり「キャリー」だけかもしれない。

 

13 マスカレイド・ホテル(T)

楽しく見ることができた。テーマ音楽がよろし。木村拓哉の演技が劇が進行するほどに少しずつ落ち着いていく感じがあった。しかし、せっかくグランドホテル形式をとっても、一人ずつ容疑者もどきが処理されていくのでは、緊張感が生まれない。ほとんど推理に絡んでこないからである。ホテルという仕事の説明が多すぎる。それと連続殺人が個々にバラバラだったという絵解きは最大の弱点だろう。しかし、現場には共通に暗号が残っていたわけで、真犯人はなぜ自らが知らない殺人の現場にそれらを置き残しておくことができるのか。

  

14 ジョン・ウイック2(S)

再見である。今回の方が落ち着いて見ることができた。キアヌ・リーブスの運動神経のなさそうな、腰高の、足をちゃんと上げない歩き方が、かえってその後の激しい動きとの差が激しくて、薬味のように利いていいのである。しかし、余りにも闇の世界の話だということになれば、荒唐無稽が過ぎて、リアルさがなくなってしまう。もちろん3が楽しみだが。

  

15 七つの会議(T)

半沢直樹のテレビ版監督TBSの福澤克維が監督である。まるで漫画。この人は映画は撮るべきではない。登場人物もほぼ一緒で、新鮮味がまったくない。なかでオリエンタルラジオの藤森慎吾、それに世良公則が印象に残る。藤森は単純な役だが、よく演じている。役者でやっていける。世良はなかなか気づかない変貌ぶりで、最後に役者名をチェックして確認したほどだ。彼の生命はこれで伸びたことになる。

主役の野村萬斎も漫画。なんだかキャラクターを完全に間違っている。ビジネスの上で人を殺す結果になった罪の意識がない。

  

16 I Saw the Light(S)

ハンク・ウイリアムスというカントリーソングのヒットメーカーの伝記、といっても29歳で心臓病で死んでいる。6年ほどの活躍で1100万枚を売り上げている。本当にカントリーソングである。高音と裏声を交えて歌う。なぜ彼がそれだけ絶大の人気を誇ったのかは、映画からは分からない。トム・ヒドルストン主演、妻役がエリザベス・オールセン。すごいニセ医者に動物に投与するような薬を処方されている。背中がものすごく痛いという。タイトルは彼のヒットソングから。主の光を見た、という意味。

 

17 ファースト・マン(T)

ララ・ランドの監督デミアン・チャゼルと主演ライアン・ゴスリングのタッグである。月面に降り立ったアームストロング船長は寡黙なのか中身がない人間なのか、このドラマの中では後者というしかなさそうだ。というのは、第1回目の宇宙への旅立ちに際して息子たちに言い残さなかったからだ。今度も、月面を目指すというのに無言で行こうとするのを、妻が諫めて子供に向かわせる。ところが、テーブルに着いても、息子たちに質問をさせるだけで自分からは何もいわない。こういう人間でないと宇宙になど行けないのかもしれないと思うが、映画の主人公として魅力に欠ける。

 

18  眠る村(T)

東海テレビ名張毒ぶどう酒事件を扱ったものである。犯人と目された奥西勝は再審請求が9次に及び、獄中で死んだ。一番最初の津地裁は無罪、名古屋高裁で死刑、最高裁で確定。7次請求で名古屋高裁は再審決定したが、検察の控訴ですぐにひっくり返った。弁護団がつねに新しい科学的根拠をもって再審の扉をたたくものの、司法は自白に重きをおいて翻ることがない。人は簡単にやってもいないことを自白することを判事が知らないとしたら、不勉強としかいえないし、そうでなくても検察側の論証が穴だらけであることは、ふつうの頭があれば分かることである。

一つ気になることがあるとすれば、妻と愛人が死にそうになっているときに、なぜに奥西氏はぼーっと突っ立ったままだったのか。反射的に体が動かないものか。逆のこともいえる、彼が真犯人であれば、わざと目立つように妻の救護のふりをするだろうということである。まえにも書いたが、彼と妻の仲は事件前には修復されていたらしい。

 名張村は事件後北と南に分かれたまま。奥西氏の2人の子はほかへ引き取られていった。墓も近隣の人のいじめにあって移動することに。事件現場にいた人、そうでない人、奥西がしゃべったのなら、それでいいじじゃないか、誰かを犯人にしないと収まらなかったのだから……というのは、余りにもむごい。訳知りの村人が、奥西は学歴もない、分家で発言権もない、友達がいない、女性問題を抱えていた、とマイナスばかりの条件を覆すのは難しかった、と言うが、ではプラスの条件を揃えた人間は村にどれだけいるというのか。ナレーターは仲代達也で、まえにやはり東海テレビ制作で奥西に扮したことがある。司法もまた「眠る村」であるという主張は、ちょっと見えみえで、恥ずかしくなる。

 

19 レオン(D)

もう何回見たかしれない。これまでに触れなかったことを記していこう。レオンは成熟度でいえば12歳のマチルダに及ばない。マチルダはダメな父親、その後添い、能天気な姉に邪険にされながら生きてきて、ある種のしたたかさを身に着けている。レオンは文字が書けないが、マチルダは書ける。新しい宿のポーターに、レオンは父親でなくて愛人などとうそをつき、驚かす。レオンに殺し屋家業入門を断られたときに、やおら拳銃で窓の外にぶっ放したり、小さなチンピラたちにたかられたときに、10ドルのところ100ドル渡して黙らせるなど、度胸が座っている。2人で押し込みをやるときも、初めから機転が利いている。ビルの屋上からライフルを使う時も、押し込みでインクの入った偽の銃を撃つ時も、実に落ち着いたものだ。友達はみんな好きでもない男の子にバージンを捧げているが、私は好きな人に、と思っていると言うときの冷静な口調もまた大人びている。 どこかでこれと同じ感覚を味わったことがあるな、と考えていたら、ボグダノビッチの「ペーパームーン」を思い出した。あれも齢の離れた男女が主人公で、少女がませていて、父親かもしれない男の聖書売りの巧みな手伝いをする。違うのはそのイフの父親が女に手を出すのが早いということである。齢の差と中身が逆転しているので、ロリコンにならない、とトミヤマユキコが女子大生家政婦を扱った漫画について述べているが、それと同じことがいえる。

 

20 パルプ・フィクション(T)

何度か見ているが、やっと構造が単純な映画であることに気が付いた。最初のレストランのカップル強盗のシーンから別の殺しのシーンへ飛び、そこからはずっと時系列でものが進み、最後に冒頭のレストランに戻る、という構造である。シチュエーションの中は言葉、言葉で、しゃべりまくる。そして、行動を起こすときは早い。ファミリーレトスランでのティム・ロスと女との無駄な会話のあとの強奪蜂起、エゼキエル書の一節を読み終わったあとのサミュエル・ジャクソンとトラボルタによる殺害、トラボルタとユマ・サーマンの中身のない会話のあとのダンスコンピテンス、掃除屋のハーベィ・カイテルの理論立った指令のあとの実にプロらしき手早い処理――その強弱で映画ができている。蛇足でいえば、冒頭のタイトルバックのときにベンチャーズ風の曲が流れ、途中でブチッとターンテーブルの針を持ち上げたときの音がして、急にアップテンポの今風の音楽に切り替わるのも、同じ緩急の例である(最後のタイトルロールでは、ベンチャーズ風の曲で通している)。緩い部分が長いだけに、そのあとのスピーディな展開が利いている。一人だけ、落ち目のボクサーのブッチ(ブルース・ウィルス)だけが、言葉の量が少なく、行動の量が勝っている。彼はだからこそまんまと八百長の世界から抜け出すことができた。彼の愛人はディスコミュニケーションの人で、ブッチが盗んだオートバイに乗ってエンジンをふかしているのに、なにかとりとめのないことを言って、気が急いているブッチを焦らす。ここにも別の意味の緩急がある。

それと、くり返しが3つ。トイレとエゼキエル書と秘密である。トイレは、どちらも緊迫したときにたまたまトイレに入っていて、出てきたら殺されたというものである。トラボルタはこれで呆気なく死ぬ。エゼキエル書は最初の殺害と、ティム・ロスカップルの蜂起の場で唱えられる。秘密は、ヤクでぶっ倒れたユマ・サーマンが付き添いのトラボルタに内緒にしてくれと言い、その情夫というかやくざのボス・マーセラス(ヴイング・レイムス=ミッション・インポッシブルでおなじみ)が変態の男2人にかまを掘られたことをほかに漏らすなとブッチに言うシーンである。ブッチはボクシングの八百長試合から逃げたことは、これでチャラにさせられる。円環構造の映画は、こういう細部によって建造されているといういい例である。

 

20  フォーカス(S)

2度めである。前にはそれほどの評価ができなかったが、今回、とてもウェル・メイドな感じがした。コンゲームなのに恋愛が中心にあって、それがしかも仕掛ける犯罪に大いに絡んでくるのである。これを前には見逃したわけで、コーンゲーム好きなのに恥ずかしい限りである。だいぶ冒頭に父親との確執を言っていたのが、最後の仕事に利いてくるか、である。ということは、その時点ですでに視聴者への仕掛けはすんでいたわけで、こりゃやられたね、である。ウィル・スミス、マーゴット・ロビージェスが主演。

日本で土地取引の見事なコンゲームがあったが、あれを映画にしてほしい。 

 

21  ビール・ストリートの恋人たち(T)

初っ端の俯瞰のシーンからシックな映像で始まる。まるで日本の秋の風景のよう。左画面を覆うように秋の紅葉のような木の葉が映り、その下に上方から恋人2人(キキ・レイン、ステファン・ジェイムズ)が現れる。意外性があり、しかも差別の構造を静かに撃つ映画にふさわしい。

こんな言い方が許されるのかどうか分からないが、本作は黒人映画のエポックになるだろうと思う。白人警官によるでっち上げを扱いながら、あくまでヒューマンに仕上げていく感じは見事である(黒人暴動の最中に白人警官が黒人をリンチにした件を扱った「デトロイト」が従来のティストである)。それでいて浮っついた感じにならず、抑制が利いている。一か所、音楽が派手になったときに、ああこの映画も変質するのかと思ったが、そうはならなかった。well-madeも極まれりという出来である。監督バーリィ・ジェンキンス、「ムーンライト」でアカデミー賞を取っている。ブラッド・ピットが制作陣に名を連ねている。原作はjames BaldwinのIf beale street could talkで、これもBeale Street Bluesから来ているらしい。

 

22 輝ける人生(S)

老いて夫の不倫に遭い、長らく無沙汰をしていた奔放な姉の元へ。そこで昔プロにまでなろうとしたダンサーの夢が立ち返り、好きな男性もできて、という映画。姉は結局がんで死んでしまうのだが。その姉役のセリア・イムリーがかわいい。「カレンダーガール」に出ていたらしい。妹の彼氏となるティモシー・スポールがいい。「否定と肯定」でちゃちな「ユダヤ人虐殺はなかった派」の学者を演じていた。彼は認知症の妻のために家を売り、施設に入れ、自分は川に浮かべた舟で暮らしている。イギリスには川舟で暮らすことは、ごく普通のことだ。ユアン・マクレガー主演の「猟人日記」を見よ、である。姉妹が汚い川で泳ぐシーンもまたイギリスらしい光景である。イギリスの役者では女優ではエマ・トンプソン、男優ではビル・ナイに指を屈する。監督はリチャード・ロンクレインで、今回が初めて。

 

23  アリータ(T)

ジェームス・キャメロンの映画を見るとは思わなかった。ひたすらアクションムービーを期待したのである。しかし、ものの見事に裏切られたというか、自分が悪いのである。アニメの実写化でありながら、主人公が逆にアニメ化されている映画なのだから、肉体によるアクションなど期待しても無理だったのである。それにサイボーグだらけでは、アクションが成り立たない。

筋的につながりの悪い部分もある。一度参戦したローラーボール(?)に、再び挑む動機がなくなっているのに(天空都市に行くには資金が要る――それ自体が天空都市の神話化を促進するための嘘だった)参戦してしまうところ。冒頭、ドクターの看護師が自分の住むアパートのドアを開けたときに、振り返って不審なものを見たはずが、あとで触れられない。

次回、乞うご期待、と終わるなら、最初から「アリータ1」とか出すべきである。どうせ次作はヒットしないと思っているのだ。出来からいっても、そうである。 

 

24  僕の帰る場所(T)

日本に難民申請するも受け入れられず、不法滞在をする家族が、とうとう居たたまれず父親を残して、ミャンマーへ母と男の子2人が帰り、上の子が現地になじめず、家出をし、1日経って戻ってくる顛末を追っている。明らかに素人を使っているのが分かるし、役所に書類提出するのに、無職と偽っているところなども写しているので、ドラマだと分かるのだが、なんだかドキュメントを見ているような気になってくる。というのは、日本語がたどたどしいのは当たり前と思って見ているので、それが芝居のまずさとは感じないのである。かわりに子どもたちは日本語が上手で、ミャンマー語ができない、という設定である。筋はさすがに素人を使うのでこざかしいことはできないが、それでも最後までじっと見ていることができる。じゃあ、ストーリーとか役者とは何なのか、と言いたくない。男の子2人はミャンマーで生まれて、現地の政情不安から日本へやってきた、という設定である。これを見ても分かるが、移民受け入れ枠を拡大するとなったものの、10年に滞在を延長した場合に、家族をどうするか、という問題が切実になってくる。短期滞在に比べ格段に家族をもちたい、あるいは家族を呼び寄せたい、という思いは強くなるはずだからである。そういう問題提起の映画なのだと思う。監督は藤元明緒

 

25 ノーカントリー(S)

3度目である。あまり前の感想に付け加えることはないが、牛の脳天に金属をぶち込んで死なせる道具を見つけたことが、この映画の発想の元にあるのではないか。主題は、歯止めのきかないアメリカの暴力の荒地である。それを常にコーエン兄弟は扱ってきたが、これが一番冷え冷えとした世界になっている。終わりは短編のような感じで、トミー・リー・ジョーンズの独白もさして重たい意味を担わせているわけではない。ただ、死んだ父親が夢で歩く自分を追い越し、牛の角に火を入れそれが月のように光り、先方でたき火をして待っている、というイメージからは、なにか荒廃とは違った昔の面影が主張されている。このはっきりと明示しない抑制の利かせ方は恐ろしいほどである。よほど観客の理解度を信頼しているのであろう。

 

26 津軽のカマリ(T)

竹山とその弟子が主に彼のことを証言する。「かまり」は津軽の言葉で匂い、空気のことらしい。最晩年、青森県小湊の夜越山温泉での演奏では三味線を支えていることができず、音も出ていない。二代目は女性で10年近く青森では演奏ができなかったらしい。地元が継承を認めなかったということか。盲人の男性は門付けをして、「ぼおさま」「ほいど」と呼ばれ、盲人の女性は魂寄せの「いたこ」となったという(篠田正浩監督「はなれ瞽女おりん」では、盲人の女性が三味線を弾いて馴染みの家々に呼ばれている)。「ぼおさま」は坊様、「ほいど」は乞食である。映画では差別の対象だったと説明されていたが、坊様の言い方からもわかるように、そう一面的な存在ではなかった。ふだんは差別される者が祭りや告別の場などで特別な扱いを受けたことも確かである。そこに芸能の力があったわけである。ぼくは女性の「ほいど」さんが鉦をたたきながら経文(?)をとなえ、家々でお米などのもらい物をしながら門付けしているのを小さいときに見ている。母は乞食然とした女性に差し出された小さな皿に恭しくお米を載せ、手を合わせ、何かを唱えていた。だからぼくには「ほいど」には尊敬の思いもあるのである。もっと探れば、寺の建立などで寄進勧進に回った坊さんなどに起源を発するのではないだろうか。映画で「いたこ」が、神社の階段下などに集って、茣蓙の上で相談者に魂寄せしている姿には、いつも胸を撃たれる。死者と魂の交換ができるという素朴な思いをもっていることが尊いのである。この映画会は最後に津軽三味線の合奏と韓国の民謡歌手がアリランを歌った。そのアリランの歌声と太鼓の空打ちのような微妙なアンサンブルは、古色をたたえて心に響く。

 

27 チャック(S)

映画「ロッキー」にはモデルがいたらしく、その実話である。ヘビー級ボクサー、チャック・ウェブナー。「ロッキー」ではかなり低位のボクサーで、イタリア系に設定されているが、もう少しでベルトに手が届くという、非イタリア系の白人である。もともと遊び人の要素があったが、アリと戦って15ラウンドまでもったことで天狗になり、しかも映画化で舞い上がってしまった。不思議なことに契約金なども一切貰っていないという。主役がリーブ・シュレイバー、よく見かける役者さんだが、この映画での作り込みは、前髪も剃ってまるでいつもの様子と違っていた。芸域の広い役者なのだ。 制作と脚本もやっている。

 

28 グリーンブック(T)

イタリア系のナイトクラブの用心棒リップと黒人のエスタブリッシュ・ジャズマン「ドク」がディープサウスを演奏旅行する。下層白人が黒人に仕え(といっても、無軌道なことをしでかすが)、黒人は南部で散々に差別される。そこから2人の関係が変わっていく。演奏家として呼びながら、外にある木造の簡易トイレを使うように言われたり、警官に理由なく牢屋にぶち込まれたり、予想内のことだが御難続きである。

 カーネギーホールの上に住む黒人で、まるで王様のような身なりで暮らしている。母親にピアノを習い、5歳でロシアに修行に行かされる。彼はきれいな英語を話し、マナーに厳しく、ブラックミュージックにはまったく疎いし、フライドチキンも食べない。リップが、あんたより俺はブラックだ、というと、ドクは、自分がどこに帰属しているのか分からない、と憤慨しながら告白する。

この映画の中心にあるのは、アメリカ的な文化からはぐれた、極めて人工的な黒人がいる不思議さである。彼がディグニティやグレースを白人に求めるという逆さまの構図になっている。この映画を「ドライヴィング・ミス・ディズィー」の焼き直しと言う意見があるらしいが、ぼくはそうは思わない。雇われ運転手の性格がまったく違い、雇い主もかたや南部の金持ち老婆(といってもキング牧師の説教会に出かける自由主義者ではあるのだが)、かたや差別を受ける黒人のピアニストである。

我慢を重ねて南部の気取った上流階級を回る2人だが、最後の会場ホテルで、粗末な物置きを控室にされ、レストランにも入れてもらえず、とうとう初めての公演キャンセルに。2人が出かけたのは黒人専門のバー、そこでドクはリップに促されてジャズを引きまくり、大喝采

 8週間の旅に出るというときに、ストリートで妻が見せる悲しげな表情がいい。用心棒をビーゴ・モーテンセン、ピアニストをマハーシャラ・アリが演じる。実在のリップは、のちにナイトクラブ「コカパバーナ」の支配人になる。その息子がこの映画の製作、脚本を担当。監督はピーター・ファレリで、喜劇の監督らしい。「メリーに首ったけ」を撮っている。本年アカデミー賞の作品賞、脚本賞助演男優賞(アリ)を取っている。

 

29 ストリートオーケストラ(S)

ブラジルのスラム街が舞台。神童といわれたバイオリン弾きがオーディションで緊張のあまり弾けない。生活の資を稼ぐために町の子に演奏を教えるが、みんな家庭環境が酷烈である。それでも音楽は彼らを癒し、育てていく。一人の青年は、俺にはモンスターが巣くっているが、音楽でどうにかなだめている、という。結局、主人公はオーディションに受かり、子どもたちも見事なアンサンブルを見せるまでに成長する。

 

30  ブラック・クランズマン(T)

スパイク・リーの映画はほとんど見ていない。なぜ引っかかってこないのかよく分からない。見たのは、ドゥ・ザ・ライト・スィング、マルコムX、25時だけである。この映画もアカデミー賞に絡んで、グリーンブックを彼が批判したから見ようと思ったのである。

少なくともこの作品の質はよくない。ポリスのなかに人種の融和があった、という設定の映画で、それはよく撮れているのに、最後、デモに殴りかかった現実の白人主義者の映像を流し、余計なトランプの映像まで流すのは、映画としてのまとまりがなくなっている。本編通りに進めば、ほとんど批判したグリーンブックと同じテイストである。そこまで監督は来ているわけで、むかしの尻尾にまだ未練があるのが、恥ずかしいくらいのものである。設定自体はものすごく面白い。黒人集会のシーンで、一人ひとりの顔を闇に浮かび上がらせるべタな演出を見たときに、ダメ映画だなと思ったが、それからはまあまあの出来である。一度、KKKに顔を見られた黒人警官の主人公が、敵地に乗り込んで誰も気がつかないなんてことがあるのか。替え玉作戦がばれたのに、ユダヤ人警官に身の危険がまったくない、という設定もおかしい。

 

31 素晴らしき哉、人生!(S)

フランク・キャプラ監督で、1946年の作、ぼくは2度目である。キャプラは「オペラハット」「スミス都に行く」を見ているが、「或る夜の出来事」は見ていない。3度アカデミー賞に輝く、職人気質の監督である。

この作は、ディケンズ守銭奴スクルージに悪夢の将来を見せて悔悟に導くのと逆で、羽根のない天使が、主人公ジェームズ・スチュワートがいなくなった不人情で冷たい世界を垣間見せることで、自殺を思いとどまらせる。

ぼくは前は注意をしなかったが、彼は住宅金融専門会社を親から継いだ人で、家を建てるのに必要なお金を持ち合わせない貧しい人々に貸付する仕事で、街を牛耳るグリードな奴に抵抗する。その守銭奴はいまの金儲けだけのアメリカ的な資本家を思い出させる。実際に、刻苦勉励しない貧しい人間を甘やかせるな、的なことを主人公に向かって言うシーンがある。貸家に住まわせてずっと家賃を取り立てたほうが、資本家にはいいのである。本当は住専とは、福祉的な理想をもった組織であり、何を間違ってバブル期にあんな醜態を演じてしまったのか。

 

32 タリーと私の秘密の時間(S)

シャリーズ・セロン主演、3人の子持ち、大いに太っている。新生児にとうとう音を上げ、ナイトシッターを雇うが、これが完璧。しかし、子どもを置いて飲みに行こうと誘うまでになる。酔った帰り道に居眠り運転、川に落ちるが人魚となったベビーシッターが救う。こりゃスリラーかと思ったら、なんとファンタジー。ひどい映画もあったものである。セロンの映画はけっこう見てるほうだ、これが最低だろう。

 

33 ナチュラ(S)

2度目である。レッドフォードが35歳でプロデビューする野球選手を演じる。ロバート・デュバルが彼のブランクの理由に気づきながら、それを記事にしないのは不自然である。キム・ベイジンガーが美しい。彼女と付き合い始めたら愕然と打撃が振るわなくなるが、どうしてなのか。むかしの恋人グレン・グロースが現れると持ち直す。いったいなぜなのか。

 

34 多十郎殉愛記(T)

ラスト死闘30分!という宣伝はウソである。殉愛とうたっているが、それも怪しい。剣の達人がなんで刀を振り回すだけなのか。捕り方の頭領に負けるより華々しく死ぬラストの方がいいのでは? 逃げながらあかんべーをするのは間違っているのではないか。役者連中の声が細いし、身分の割に大声を出したり、着物の襟がゆるくなっていたり、なんだかな~である。中島貞夫はなぜこんな映画を撮ったのか。高良建吾はいい役者だが。多部未華子が立派な下半身で納得である。中島が何を言おうと、時代劇素人の山田洋次のほうが断然、映画はいい。小さいころ、刺す又や打ち縄、大八車で体の動きを止められる映像に身震いしたものだ。夢にまで見てうなされた。今回もそのシーンがあったが、あまり怖くなかったのが不思議である。

 

35 31年目の夫婦喧嘩(S)

倦怠期の熟年夫婦が、妻の先導でセラピーを受けて、関係を改善していく話である。メリル・ストリープ、トミーリー・ジョーンズ。ベッドを共にしないと離婚理由とされるというアメリカだが、ここに出てくる夫婦はまるで日本の夫婦のよう。スティーブ・カレルがカウンセラーである。

 

36 バイス(T)

ときおり挟まれる語り手の映像。この普通の人は何なのか、というのがかなり後半まで分からない。あとは大した仕込みのない映画である。行政からも議会からも離れて大統領は一元的な権力をもつ、とするディック・チェイニー副大統領は息子ブッシュ以上の力を発揮する。彼はイラク侵攻も信念に基づいてやったことだ、あの時点でそれをしなかったらどうだったんだ、国民の意思ではないか、と引き下がることはない。飲んだくれて大学を放り出される人間がここまで登りつめる。長女が下院選に出馬するために、同性愛否認に回る。同性愛である妹を切り捨てることをチェイニーが許したのである。自分の師であるラムズフェルド国防長官を切り、イラク侵攻をためらうパウエル国務大臣を強いて国連でイラクを攻めると発言させる。ただのサンピンにすぎない男をテロの首謀者に祭り上げ、イラクを攻めているあいだにおしつが肥え太り、ISの成立へとつながっていく。アグレブでは凄惨な拷問が繰り返され、一般市民の電話、メールが盗まれる。初めて自国内で大きなテロを受けてアメリカは自制を失ったといえる。強者の意外な弱さである。

 

37 記者たち(T)

かなり観客が入っていた。公開されてからだいぶ経つが、とても心強いことである。新聞などで継続的に関連記事が出ているからだろう。アメリカでこの種の政治の実態を抉る作品が続けてやってきているが、これはトランプ政権がインスパイアした現象だろう。自分の利益に合わない報道はすべてフェイクと言い放ってしまう人間が、大統領という絶対的な権力をもつ地位に居座り続け、司法妨害の事実が明確でありながら、訴追も弾劾もされないのである。

イラク開戦が欺瞞に満ちた根拠で始められたことは今となれば周知のことだが、当時、たしかな証拠もないのにフセインの悪逆が声高にフレームアップされているうちに戦争が宣言された。アルカイダの話がイラク侵攻へと転換しつつあるな、と思った感覚が残っている。

アメリカの大手新聞がイラク大量破壊兵器を持っている、と雪崩をうって報道しているときにひとりカリフォルニア州サンホセにあるナイトリッダー(創設者の名を併せている。映画の舞台はそのワシントン支局だが)という連合新聞社だけが孤高を守った。

その秘密は、ローカルなメディアのために、エスタブリッシュの情報に触れることができなかったことが大きいのではないか。本来逆のはずだが、ディック・チェイニーのような脱法的な人間が巨大な権力をもって事に当たると、マスコミは意外とたやすく政府の言うことに巻き込まれていく。ニューヨークタイムズも、イラク核兵器を持っているという致命的な間違いを犯すが、これは政府のリークにのったせいである。もともと大手メディアは政権にものすごく近く、親密な情報をふだんから入手できる特権をもっている。いみじくも、ナイトリッダーの記者は「戦争に送り出す両親の位置」に身を置いて報道していると言っている。

監督ロブ・ライナー(編集長?で出演)、主人公は2人の記者でウッディ・ハレルソン(大活躍である)、ジェームズ・マースデン(Xメンに出てるらしい)、ハレルソンの妻がミラ・ジョボビッチ、マースデンの恋人がジェシカ・ビール、古手の戦場記者がトミーリー・ジョーンズである。ロブ・ライナーはとみに社会問題を扱いはじめているのではないか。

 

まさに自由の国アメリカここにあり、という映画である。イラク参戦を決断したブレアはいまでもエスタブリッシュ不信のタネをイギリスに撒いたと指弾されている。分厚い調査報告書が3次にわたり出されている。しかし、わが日本ではなんの検証もされていない。兵士が何千人と死ぬ(やられたほは何十万と一般人が死ぬ)国との違いだろうか。あるいは、マスコミのなかに反権力の気負いが弱いのか。ある映画作品を作るのに陰に陽に圧力がかかって大変だった、と言いながら、なにも中身で権力を撃っていない、そういう映画しか作れない日本とは何か。

 

38 シンシナティ・キッド(S)

何度目だろう。何回見ても飽きが来ない。きっとマックイーンの押さえた演技がいいんだろうと思う。もちろん、エドワードGロビンソンのザ・マンもいいし、デカ鼻のカール・マルデン、レディ・フィンガーのジョーン・ブロンデルもいい。監督のノーマン・ジュイソンは何といっても「夜の大捜査線」である。ぼくはリバイバルで見ているのだろうと思う。あとは「華麗なる賭け」で、やはりマックイーンである。「屋根の上のバイオリン弾き」は食わず嫌いで見ていない。

緊迫場面で、一人ひとりの顔に円形の照明を当てて、「ザ・マンが負ける」とささやき合う感じを出すところなど、わざと古風な演出をしている。 愛した女アン・マーグレットのためにいんちきをしでかすカール・マルデンがいることで、劇が締まってくる。マックイーンの恋人がチューズディ・ウエルドで、生彩がない。「波止場」のブランドの恋人役に似ている。

 

39 オールド・ボーイ(D)

見る映画がないと見る映画で、もう何回になるだろう。また引き込まれるように見てしまった。今回はextra versionも見て、美術の女性のこだわりにびっくり。悪者ウジンの世界に主人公が取り込まれているということで、そこらじゅうに市松模様バージョンが張り巡らされているのだ。たしかに、オ・デスが犬になってウジンの靴をなめるときに、ウジンが口に当てているハンカチと、ミドが目の前にしている箱が同じ模様である。あとオ・デスの爆発する髪型が決まった段階で映画のテイストが決まった、という面白い証言をしている。漫画的、無国籍、やりたい放題、といったニュアンスだろうか。美術の女性が、人の言うことなんかに惑わされず、作りたいものがを作る、その大事さを学んだ、と言っている。いい話である。

それで本編のことだが、うかつなことに一番大事なことを見落としていたことに気がついた。ミドの名前を聞いてなぜオ・デスは娘と分からなかったのか。素人の女性が別の名前を名乗るわけがないわけだから、ミドは実名なはずである。こういうことを見逃すとは恥ずかしい。

 

40  RBG 最強の85才(T)

ドキュメントである。アメリ最高裁判事10人のうちの1人である。クリントンが何人か断られて指名したのが、ルイス・ベイダー・ギンズバーグ、RBGである。彼女のほかに保守の女性が一人いたが、その判事がのちにいなくなったので、RBGはかなりウィングを左にもっていき、評決のバランスをとるようになった。それで余計に名をなすようになったようだ。

トリアス(悪名高き)RBGといわれるらしく、それはラッパーの名称から取っているという。それについてどう思うか、と聞かれて、「光栄よ、それにブルックリン生まれが一緒」と応えている。いまや彼女をあしらったTシャツ、マグカップなどが売られて、人気だという。彼女の評決への反対発言の一つひとつが報道される。そのことが大事なのだといっている。

男女の賃金格差是正、女人禁制の軍の門戸開放、育児する男性への補助の獲得、女性および男性の権利を、法の下の平等という考えから勝ち取っていく。

憲法がすべて拠って立つ基盤だが、最高裁判所が頻繁に憲法判断の場として活用されているさまは、驚くばかりである。われわれはこのように最高裁判所を使ってはいないし、最高裁判所はつねに憲法判断を保留してきた。

 

RBGはチャーミングな女性である。声は小さく、会議で発言せず、恥ずかしがり屋である。ハーバード在学中に夫に出会い結婚、夫は有名な税務関係の弁護士に。ずっと妻の才能を信じ、彼女の援護に回ったユーモアあふれる人だった。RBGは保守側の人間とも付き合い、何かは親友と呼び合う仲の最高裁判事もいる。トランプが大統領候補のときに、かなり辛辣な発言をしたらしく、あとで謝罪をしているが、大好きなオペラに登場したときには、またやわんわりとトランプらしき人物へのあてこすりをやっている。

 

映画内で反対判決の録音テープが使われているが、向こうでは公開が原則のようである。これは日本でも導入すべきことではないか。それにしても、最高裁判事がスターになるというのは、日本では信じがたいことである。

 

 41 暁に祈れ(T)

どういうわけかイギリス人のボクサーがタイで試合をしている。薬物接種ということで収監され、3年ぶちこまれる。隣の人間と折り重ならないと寝られないほどの悪環境である。牢名主がいて仕切っている。みんな刺青がすごい。牢内はしごき、殺人、強姦、収賄、博打、何でもござれである。レディボーイの慰問があり、主人公との愛もある。彼はムショに入ってもクスリを止めることができない。娑婆にいたときにボクシングのアドバイスをした少年が面会にやってきたことで改心し、ムエタイを始める。ムエタイをやる囚人はほかのそれより待遇がよくなる。彼はムショ対抗試合に出て勝ちをおさめるが、血を吐いて入院する。監房に戻ると、面会人がある、という。ひさかたぶりに会う父親である。そこで映画が終わる。実話らしく、a prayer before dawn というのが原題で、同題の本がベストセラーになったという。その面会に来た父親が原作者本人であると種明かしされる。格闘技と思ってみたら、獄中ものである。

 

42 運命は踊る(S)

久しぶりに映画を見た気分になれた。イスラエルの映画である。映像がきれいなのとユーモアと残酷とがないまぜになって静かに劇は進行する。いくつかのものが対称的に配置されている。

  1 部屋の抽象画と戦場のライトバンのボディに描かれたポップな女性の顔

  2 老人たちのダンスと戦場での若者のダンス

  3 父親ミシェルが見せるスクエアなステップと息子が戦場で見せるフォックス

    トロット

  4 部屋の丸窓から見える鳥の群れと戦場の双眼鏡から見た鳥の群れ

  5 夫が熱湯で焼いた手の甲と妻がたわしで傷つけた手の甲

  6 俯瞰の映像が部屋の中でも戦場でも繰り返される

  7 息子ヨナタンの死を知らせに来た兵隊は父親に定期的に水を飲め、と繰り返 

    す。戦場の若者たちも泥の水たまりに何度か足を入れる

戦場といってもただだんだら模様の踏切とライトバンと兵士が寝泊まりする小屋があるきりで、のんびりしたものである。小屋はどういうわけか徐々に傾いていて、しまいには床の穴から水が漏れだしたりする。缶を転がすと、ころころと転がる。

踏み切りに車が差し掛かると免許証を預かり、なにかデータと照合し、問題がなければ通らせる。中年夫婦がやってきて、車の外で待たされたあいだに、大雨が降る。男はなぜかうれしそうな顔で茫然自失の太った妻を見つめる。

あるいは、酔った若者4人がやってくる。免許証は問題なし。それを若い兵士が戻そうとすると、わざと下手に受け取り、車の下に落ちる。兵士がまた車の窓の隙間から渡そうとすると、車のドアが開き、細い缶が転がり出てくる。手榴弾だ!の声に若者4人は銃殺される。しかし、その缶はただの飲料缶だった。

上層部に連絡し、その上官の判断で事件はもみ消すことに。ブルドーザーがやってきて、若者たちを乗せた車を持ち上げ、掘った穴に落とし込む。その絵をヨナタンは描くが、同じ絵が父母のいる家にも飾られている。夫に向かい妻が、「ブルドーザーがあなたで、車が私」と言い、夫はその逆だと言う。

ヨナタンがしきりに書いているのが、嫣然とほほえむ女の絵だが乳首の部分にバツが描かれている。それは、父親の若い時のエピソードにちなんだものだ。ヨナタンは笑い話にして、ほかの3人の若者に語る。父親ミシェルは代々受け継がれてきた大事な聖書を売り払って、女性の裸が写った雑誌『プレイボーイ』を買った。表紙の女性の胸は隠されているが、なかの写真は露出。聖書ではなく、その雑誌を戦場に行く息子に譲った父親。息子の部屋で机の中を何気なく見ると、その雑誌が入っていて、彼は卒倒する。ここにも部屋と戦場の連関性が描かれている。

 

一度死んだと報告のあった息子が誤報で生きていることが分かったわけだが、父親が息子を戻せ!と言ったことで、運命が暗転する。帰郷するはずの車のまえにラクダがやってきて、よけた拍子に車が横の斜面に落ちてしまう。本当に息子が死んだのである。この知らせを聞いて、父親と母親は精神を正常に保って行くことができるのか。

 

あなたはいろいろ自分で決めてきたが、実は弱い人だった、と妻が言ったところで、アルボ・ペルトの「フュア・アリーナ」がかかる。この出合いはガス・ヴァン・サントの「プライベート・アイダホ」以来である。

 

この映画監督サミュエル・マオズはただものではない。この映画は自らの経験に基づいている。いつも寝過ごしてタクシーで学校に行く娘を叱り、バスに乗らせた。ところがそのバスがテロに遭う。絶望の淵に沈むが、娘が元気に戻ってくる。目的のバスに乗り遅れたという。ほかにも自分の戦争経験から撮った「レバノン」という映画があるらしい。

 

43  奇跡のチェックメイト(S)

ウガンダの少女がチェスで世界大会で勝つまでに成長していく物語である。国内でも良家の子弟が通うアッパークラスの世界がある。そこに行くのに参加費も高いし、食事のマナーから躾けないとならない。それを勝って、次は全アフリカ、そしてロシア大会へ。スラムに住む人々みんな、指をパチンと鳴らすのに、上からふりかぶるようにやる。それが身体言語としてアフリカ共通のものなのかどうか。

 

44 バスターのバラード(S)

 

本作は6つの短編の集まりである。バスターのバラード、アルゴドネス付近、食事券、金の谷、早とちりの娘、遺骸。コーエン兄弟がネットフリックスのために撮った映画である。長編作家が淡彩の短編小説の味わいのものを書いた、という雰囲気だが、コーエン映画では「ウァーゴ」「ミラークロッシング」「ノーカントリー」の次ぐらいにくる出来である。ユーモアと残酷がずっとコーエン兄弟の本道だが、残酷度が増しながらフェアリーな雰囲気を崩さない、その力量には魂消る。ネット配信でこれが慣例化されれば、監督は長尺にするために苦労をし、受けを狙って余計なものを差し挟んで、観客の入りを気にするあまり主題がぼやけることもなくなる。とても結構なことである。

 

6編ともそれぞれ味わいが深いが、ぼくは「早とちりの娘」に指を屈したい。つぎは「遺骸」そして「バスターのバラード」である。「早とちりの娘」は吠えまくる犬が筋を転がす最適な役割を演じている。結婚の確かな当てもないのに、それを目的で移住する娘が主人公。一隊の若きリーダーがいろいろ親身になって相談にのってくれるうちに、彼女に恋をし、おれもそろそろ定住の暮しがしたいから結婚をしてくれ、とプロポーズする。彼女は承諾する。ある日、犬が吠えるので、隊から離れて好きなように吠えさせようとする。そこに心配で年寄りの隊長がやってくる。やがて遠くに人影が見えて、それがインディアンであることが分かる。隊長は、なにかあったら額を撃って自害をしろ、と拳銃を彼女に渡す。敵に撃たれて死んだかと思った隊長が実は偽装で、最後の敵をやっつける。娘が隠れている場所に戻ると、娘は額に穴を空けて死んでいる。隊に戻る後姿の向こうに若い隊長が馬に乗って待っているのが見える――それでジ・エンドである。「遺骸」は幌馬車のなかの4人の会話だけで成立しているスリラーで、緊迫感がすごい。「バスターのバラード」は底抜けに明るい。人に殺されても幸せそうに天上へと向かっていく、このヌケ感はコーエン独特なものだろう。

ぜひともこの映画は単館ロードショーでいいから公開してほしい。絵もきれい、軽さもいいし、役者もみんなきちんとはまっている。

 

45 パリ、嘘つきな恋(T)

監督主演がフランク・デュボスク、テレビのコメディアン出身らしい。49歳という設定。女優がアレクサンドラ・ラミー、デュボスクのとぼけた感じの秘書がエルザ・ジルベルスタイン、これがズレていていい。会食でお酒が入るほどにキキキと笑い、話すネタがきわどくなっていく。楽しい映画で、つい笑ってしまうところもある。ただ、意志の強いアレクサンドラが前の恋人の誕生日に、彼の働いているところまで花束、シャンペンとキャビアを持って行った、というのは嘘っぽい。それに、デュボスクに「私は尻の軽い女ではない」と言うのもキャラクターに合わないのでは?

 

46 小さな恋のうた(T)

 沖縄の高校生が音楽バンドを組み、東京に行けるぞ、となったときに交通事故でリードギターが死亡。ひき逃げ犯人はどうやら米軍人らしく、ゲート前でデモが繰り返される。兄のあとを妹が継いでバンドは再結成。その兄が米軍基地の女の子と鉄線のフェンス越しに付き合っていたこともあって、その妹、バンドのメンバーとも知り合いに。再結成ライブには来れなかったが、そのフェンスの前で演奏し、自分たちの曲を焼き付けたCDを手渡す。主演佐藤勇斗、山田杏奈(藤崎奈々子似)、監督橋本光二郎、「羊と鋼の森」を撮っている。リードギターの姿が幻と分かるまでが、モタモタしているのと、その役者の演技がくさい。ぼくはこの手の映画に弱い。泣き通しである。音楽はMongol 800(モンパチ)という沖縄のインディーズグループの曲で、「小さな恋のうた」はミリオンセラー、Don't worry Be happy、Sayonara Doll(米兵が異動のときに別れの言葉を記したものを人形に巻き付ける)、あなたに(これは有名)、などいい歌が流れる。 主人公の青年の母親が見たことがあるな、と思いながら見ていたら清水美沙だと気がついた。だいぶ様子が違っているが、ある種の高貴さはある。

 

47 裸の銃を持つ男(D)

 

有名なコメディシリーズである。スラップスティックといわれる類いではないだろうか。とにかく笑える。ジム・キャリーの笑いが異質であることがわかる。すべてが過剰である。捜査に入ったオフィスで証拠となる書類を見つけるが、暗くて読めないのでライターで明かりをとりながら読むが、メラメラと燃やしてしまう。それがカーテンに火がつき、大きな絵画が危ないと壁から取り外すが、バタンと倒れてテーブルの上の置物にぶつけて破ってしまう。オフィスは火の海である。こういうことを全篇にわたってやるわけである。本人はいたって真面目で、イギリスのMr.ビーンの味わいに近い。もちろん「裸の銃」は男性器のことで、けっこう下ネタも多い。レスリー・ニールセン主演、女優はプリシラプレスリー! でミシェル・ファイファー似である。監督・共同脚本がフランク・ザッカー、喜劇ばかり撮っているが、ぼくはこれが初見。

 

48 聖なる鹿殺し(D)

 

原題はa sacred deerと犠牲になるものは単数である。コリン・ファレルが心臓外科医で、酒を飲んで手術をする癖があり、それで一人の人間を殺してしまう。それの報いを受けるという話だが、超常現象だから無理な筋も仕方がない、と思って見ている段階で興味がなくなる。復讐をする超能力の少年がなにかネィティブ・アメリカンっぽい風貌である。それがミスティックに映る。コリン・ファレルは一本調子の演技で、かえって子ども2人の演技のほうが細やかである。ニコール・キッドマンは相変わらすおきれいで、冒頭のシーンで、夫に「全身麻酔?」「イエス」のあとに下着姿で仰向けにベッドに横たわるところは、期待をもたせる運び方だが、あとがちっとも面白くなくなる。

 

49 大人の恋はまわり道(S)

 

キアヌ・リーブスウィノナ・ライダー、やたらしゃべりまくる映画である。ライダーは久しぶりで、たしかアル中の、万引き常習犯ではなかったか。お歳を召された。

 

49 チョ・ピロの怒り逆襲(S)

 

イ・ソンギュンというのが悪徳刑事役。初めての役者さんだが、印象がいい。声も太くて魅力がある。

 

50 コンフディデンスマンJP(T)

 

テレビでやっていたものらしい。幾度も香港富裕令嬢を引っ掛けようとして餌撒きするが、その時点で正体がバレるレベルの仕掛け。30億の金でその令嬢の元夫に翻意を迫るが、あとでその30億を超えて回収できると、どう踏んだのか。なんだかコンゲームの真似ごとを見ているような映画。

 

51 蜘蛛の巣を払う女(S)

 

最初の2作を期待して観た「ミレニアム」シリーズだが、そのあとのフィンチャー物も気に入らず、やっとこのフェデ・アルバレスで我が意を得たり、という感じである。スリラーを撮っている監督のようだ。製作にフィンチャーが回っている。ずっと弛緩なく見ていることができる。リスベストを演じたクレア・フォイがいい。彼女を「ファーストマン」で見ているが、絶対にこっちのほうがいい。ソダーバーグと撮っているらしいので、それも観たい。Netflixにも作品があるようだ。チェックである。

 

52 シンゴジラ(S)

タイトルのシンは不明のようだ。庵野秀明監督、主演長谷川博己石原さとみ。進化しながら東京を壊すゴジラ、最初の顔がまぬけで、こりゃゴジラはあとで出てくるんだろうと思ったら、見事に般若のようなゴジラに変身する。そのまぬけの様子は才気を感じる。政治とゴジラの戦いだが、米政府・米軍への屈辱を自衛隊とはぐれ者研究家集団が晴らす、という設定は月並みだが、映画的ではある。ぼくは小さいころ、なんでこういう化け物が東京を壊しちゃうのか、それをなぜに映画にするのかが分からず、それでいて映画が始まると熱狂的に見ていたことが思い出される。この感覚は未だに残っている。本多猪司郎には戦後の虚栄を破壊し尽くそうとする意思があったらしいが、その使者として原爆の化け物をもってきたところに、複雑なアイロニーが包含された。だれもその謎を十分に解きえていないのではないだろうか。この映画もまた。

 

53 その怪物(S)

馬鹿らしい映画だが、韓国らしさが溢れている。残酷な暴力とユーモアである。それだけで作ったところがあって、最後まで見てしまった。モンスター役は、その顔かたち、目の鋭さ、痩せぎす、すべてアジョシの悪党の弟役とそっくりである。この映画でも弟役だが。拾い子がモンスターと気づきながら育てた母親がいまは傾きかけた料理屋をやっていて、この母親のいけすかない感じはgoodである。どこかしら齢をくった浅田美代子に似ている。

 

54 true ditective(S)

アマゾンの連続刑事ものだが、出色である。「キリング(アメリカ版)」を超える。絵がきれいなのと、ある種の哲学的な問いかけがある。プロデューサーに主演2人が付いていて、ウディ・ハレルソンとマシュー・マコノミーである。今まで観た刑事ものの最高峰かもしれない。現在まだ3作目なので、このあとどうなるか分からないが。アメリカの連続ものは急に方向性がおかしくなることがままあるから要注意である。HBO制作。

 

55 恐怖の報酬(T)

アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督のイブ・モンタンを起用した1953年が最初で、そのリメイクがウィリアム・フリードキンの77年の作である。フリードキンはやはり「フレンチコネクション」である。何度観たか分からない。モンタンの「恐怖の報酬」は3回ぐらい見ている。このリメイクも、ロイ・シャイダーの起用で覚えている映画だ。彼はひところよく出ていて、ベトナム帰還兵の映画も封切りで見に行った。

パレスチナでテロをやったパレスティナ人、パリでビジネスに失敗した男、アメリカで教会から金を盗んだ男、元ナチス党員がボリビアで出あい、危険なニトロの運搬に高額報酬に目がくらみ、手をあげる。出発間際に党員は殺され、かわりにパレスチィナ人を追いかけてきた殺し屋が運転手を務める。あとはハラハラドキドキの繰り返しだが、あまりこの4人の特徴が絡んでくる劇になっていない。なんのためにこの4人をわざわざここに、という映画である。

 

56 私が殺人犯です(S)

この犯罪物が意外と面白い。大事な設定の根本が怪しいという問題があるが、楽しく見ていることができた。でも、なぜに時効のすんだ犯人をおびき出す意味があるのか。伊藤英明がなかなか渋い。仲村トオルが線が細いが、あとで野太い感じなる。これが演技だとしたら、よくやった、である。韓国映画「殺人の告白」のリメイクだそうだ。監督入江悠

 

57 新聞記者(T)

なぜ主人公を日本語の拙い韓国女性にしたのかが分からない。劇がまったく進行しないし、深まりもしない。これで日本の何を抉ったというのだろう。内閣調査室もチンケな部屋で、泣きたくなる。アメリカのニュース社ものを続けて見てきているので、余計につまらなさが目に付く。ジャーナリストたちの推薦の言葉は華々しいが、いったいこの映画の何を褒めるのか。朝日では秋山登という評論家がべた褒めで、脚本がいい、と言っている。さてさて。

 

58 続・座頭市物語(S)

森一生監督で、絵の構成がいい。これで何度目かになるが、飯岡助五郎を下から上へ斬ったところで突然終わるのが、また格好いい。田中徳三の「悪名」でもそういうシーンがある。水谷良恵が本当にきれいだ。初期の座頭市は本人の意志に逆らうように人斬りに落ち込んでいく。六道輪廻の世界である。途中、平手三樹と釣りをした池が出てくるが、モネの絵のよう。魚、ピンピンと跳ねる。

 

59 不良探偵ジャック・アイリッシュ――死者からの依頼(S)

ガイ・ピアスがなかなか渋い。最後まできちんと見ていることができる。女優に少し魅力が乏しいのがマイナス。テレビ・シリーズらしい。

 

60 true ditective2(S)

 第1シリーズは大満足で終わった。最後に流れたThe Agony River by Hatman feature Father John Mistyはいい。全体の音楽はT.Bone Burnetで、Leonard Cohenに感じが似ている。

2シーズンはテイストの違う始まり方をしている。コリン・ファレル、レイチェル・マクアダムズなど役者が豪華なのは踏襲されている。第2は政治の臭いが濃い始まり方だ。さて、どう出てくるか。コリン・ファレルの抑制の利いた演技がいい。冒頭のタイトルバックは古いのか新しいのか分からない、007で見続けた映像である。

 

61 ガール(T)

 ベルギー映画。ダンサー志望のトランスジェンダーが悩み、最後に決断し実行し、女性性を得た感じで終わる。「リリーのすべてThe Danish Girl」のエディ・レッドメインよりもっと美しい。映像はリリーの自然描写がとてもきれいだった。ダンスのシーンで軽いめまいを覚えた。武蔵野館のスクリーンは観にくいので、いつもどこに座るべきか店員に聞くことにしている。

 

63 ベイビー・ドライバー(S)

なかなかおしゃれな映画で、最初はミュージカルっぽいテンポと映像で始まる。全篇、音楽が鳴りっぱなしである。それは犯罪ドライバーのベイビーが、つねにアイポッドを聞きながら生きているからである。ひと仕事が終わってメンバー分のコーヒーを買ってアジトに戻るベイビー、音楽に合わせてステップを踏んだり、楽器屋前でペットを吹くまねをすると、ちょうど手のあたりに店頭に飾られた楽器がはまる、といった演出をやっている。ベイビーをアンセル・エルゴートケビン・スペイシー、ジェレミー・フォックスなどが脇を固める。ケビン、全然オーラを失っている。役者名が若造のあとに来ていることが、そのことをよく表している。

 

64  true ditective2(S)

十分に楽しんだが、やはり1には敵わない。テイストを変えたのはよく分かる。3はアマゾンではなく別の動画サイトのお試しプログラムになっている。なんでそんなことを、である。コリン・ファレルの間抜け顔が、この映画にはまっている。

 

65 イップマン外伝(S)

たしかイップマン2の悪党のスピンアウトである。かなりの身体技なのに、ワイヤーロープでがっかりである。香港は対イギリス、日本の設定ができるから、ドラマが作りやすい。イップマンファイナルが今年やってくる。

 

66 存在のない子供たち(T)

舞台はレバノンらしいが、よく分からない。シリアからの難民かもしれない。貧乏人の子だくさんで、産んだままほっぽり放しである。妹が11歳で結婚させられたことで少年は家を出て、遊園地の清掃で働くエリトリア人女性の赤ちゃんの世話をすることで、ひとときのアジールを得るが、女性が不法滞在で強制収容され、彼がひとりで面倒を見ることに。結局、その子を養子に売り、トルコかスウェーデンに逃げるために、なにか自分を証明するものがいるというので家に戻ると、妹が死んでいることを知り、相手を刺して刑務所に入る。刑務所の中からテレビに電話し、親を訴える、と言う。裁判所で裁判官から望みは何かと聞かれ、彼らにこれ以上産まさないでくれ、と訴える。少年はずっと世の中の理不尽を静かな目で見つめ続ける。まばたきもしないで。

最後に、自己証明のための写真を撮るときに、笑え、といわれる。死亡証明書じゃやないぞ、といわれた瞬間、ほんとうに子供らしい笑顔になる。それが救いである。

あと、シリア人向けの救援物資を貰うのに、会話の練習をして出かけ、赤ちゃんのためのミルクなどを貰ってくるところも、救われる感じがする。

息をひそめるように、じっと見届けた映画である。「キャラメル」を撮った監督らしく、ぼくはそのCDをもっている。ナディーン・ラバキーという女性監督である。遊園地のメリーゴーランドの上に偉丈夫のような上半身だけの女性の像が載っていて(戦争への応召を喚起したノーマン・ロックウェルの絵の主人公のよう)、それの胸をはだけておっぱいをむき出しにするシーンは面白い。それをエリトリア人の女性がビルの上から見ているのである。この遊園地のシーンを過剰にパラダイスにしなかったのは、正解である。

エリトリア人の彼女は赤ん坊をトイレの中に隠して、ときおりミルクをやっている。スパイダーマンと知り合いだという駐車係のおじいさん(スパイダーマンの恰好だが、胸にゴキブリが描かれている)と、そのそばでトウモロコシを売っている老婆、じつは男性が、身なりをきれいにして、少年の身元保証人になるために役所?で面接するシーンも面白い。このあたりのユーモアは得がたいものだ。きつい世界から脱出するのに遊園地という異世界はありかもしれない。

 

67 女神の見えざる手(S)

2回目である。ジェシカ・チャスティンの画期となった映画ではなかったか。誰かのサジェスションでこの映画に出ることを決めたのではなかったか。やはりよくできている。全体がコーンゲームなのである。サム・ウォーターストンとアリソン・ピルは、TVドラマ「ニュースルーム」でも同じような会社幹部と現場という関係を演じている。銃規制法案を勝ち取ろうとするNPO主催者がマーク・ストロングで、印象に残る役者である。

 

 68 シャーロックホームズ1(S)

 映画館で見る映画がないと、ネットで見ることになるが、ここにもいい映画がない。よって前に見た映画をまた見ることになる。この映画は4回目か。やはり古典を極めて現代的に蘇らせた手腕はすごい。ガイ・リッチー監督で、尖った映画を撮る印象の監督である。

同時進行、予見、そして事件のあとの解説、いくつもの時間軸が、見事な時代考証のセットのなかで繰り広げられる。ホームズ同性愛説をうまく使いながら引っ張っていくのもいい。ぼくはこの映画をいったい何回見ることになるのだろうか。残念ながら、2作以降は見る気になれない。それを考えると、007がもっていた意味がよく分かる。ダニエル・クレイグのあとに女性セブンという話だが、本当か?

 

69  ピッチ・パーフェクト(S)

封切りで見なかったのは、3まで来ると出来が分かるからである。ましてミュージカルの3など予想がつく。しかし、この3はイケる。このシリーズから3人の女性が主役級に育ったが、それが鮮明に出た映画ではないだろうか。阿保みたいな映画だが、それがミュージカルの本領である。

 

70 工作(T)

久しぶりのファン・ジョンミンである。彼の作品は10作は見ている。この映画、彼のキャラクターがよく出ている。コミカルと真面目が同居している。緊迫度ありの映画だが、あとで高官同士の取引になるのであれば、なんで細々とした画策などやっていたのかということになる。キム・デ・ジュン大統領阻止のために北朝鮮に行動を起こさせる理屈がいま一つ分からなかった。ラストの場面、やはり南北は和解したいのね、である。南の政権交替に北が武力の演出で手を貸していた、というのはそれこそ実話なのか? 韓国で500万人が見たというヒット作である。ファン・ジョンミンの出る映画は当たる。

 

71 ゴールデンリバー(T)

ジャック・オーディアールという監督である。実績は申し分ないらしい。それはこの作品を見ただけで分かる。登場人物は4人、ベテラン、ジョンCライリー、その弟役のホアキン・フェニックス(彼の「マスター」は傑作)、彼らの連絡係のジェイク・ギレンホール、金のありかを指し示す化学薬の方程式を知っている科学者リズ・アーメッド。拳銃の音がリアルだなと初めて感じたのは、チェ・ゲバラを扱った2部作だった。椅子の上で飛び上がったぐらいである。この映画も、闇の中のドンパチで始まるのだが、迫力があるし、緊張も強いられる。

 

ジョン・ライリーは弟が遊蕩に溺れるときも、女も買わず、アルコールにも手を出さず、ただ娼婦を部屋に呼んで、自分のマフラーをまるでその女が恋人にプレゼントしているかのように振る舞わせる。ぎごちない女もやがて真心こめて、私の香水を含ませておいた、という自前のセリフを付け加えるまでになる。しかし、女はこんな勿体ない時間は自分にふさわしくないと言って部屋を出ようとするが、そのときその宿屋兼飲み屋兼娼館の女支配者が命を狙っていることを教える。ここの一場は、貴重なシークエンスである。

 

原題はシスターズ・ブラザーズで、まるで教会に集う人のようだ。彼らは提督(コモレード)の下で殺人を生業とする。ギレンホールは本来であれば、シスターズ兄弟に科学者の情報を流す役目だが、科学者の共同体構想にひかれる。その2人をシスターズはサンフランシスコにやってくる。人、人の流れに巻き込まれ、ホアキンが「誰もほかの人間のことなど関心がない。これだと殺し放題ができる」と大声でいう。

 

シスターズは組を抜けたことで、コモレードの復讐にあうが、風がパタと止んだように、追手がやてこない。不思議に思い、本拠に向かうが、提督は棺に入っていて、もう葬式が終ろうとしている時だった。それでもライリーは顔に何発か拳骨を食らわせ、死んでいることを確認する。

結局、彼らは母親のいるところに戻るのだが、人は自分の帰属するコミュニティを求めている、という主題の映画になるのかもしれない。余裕をもって小ネタを重ねていく手法は、コーエンを思い出させる。

 

 ひさかたぶりに良質な映画を観た、という感じである。さっそくオーディアールはゲオに2作あり、それを借りることに。そして、足りないものは中古DVDをアマゾンで購入。楽しみである。

 

72  ディーパンの闘い(D)

ジャック・オーディアールの作品である。スリランカからフランスへと逃れた反政府軍兵士と、偽の妻や娘との交情や、公団棟の管理人としての誠実な働きぶりを追いながら、そこに巣くうギャング団を避けていたものの、最後は暴力性をむき出しにする。妻が行きたがっていたイギリスに落ち着くことで終わる。途中に2回、大きな緑の葉っぱから光が洩れ、そのむこうに大きな象が動いている映像が夢のそれとして映される。手堅い作品である。

 

73 君と歩く世界(D)

ジャック・オーディアールの作品である。女優マリオン・コーティアール、男優マティアス・スーナールツ、どちらも目に特徴のある俳優である。とくにコーティヤールの目をなんと表現するのだろう。何重にも表情が重なっていて、なにもいわずにものごとを表している目である。

彼女はシャチに芸をさせる飼育員(?)だが、事故で両下肢を食いちぎられてしまう。冒頭のシーンが水中のシーンなのは、それを暗示している。マティアスはフランス北方から南方にいる姉を頼って、子連れでやってきて、ディスコの警備員をしているときに彼女と出合う。両足をなくしてからも普通に接する。セックスがしたければ電話をくれ、というタイプである。彼はスーパーなどに社員監視のカメラを取り付ける仕事をしながら、ストリートファィティングで稼いでもいる。久しぶりにディスコに行っても、彼女を置いて、そこの客とどこかへしけこんでしまう男である。

姉が勤めるスーパーにも監視カメラを付け、そこに彼女のルール違反、つまり廃棄される期限切れ商品を持ち帰る様子が映っていて、解雇され、弟のやったことだと分かり、家から追い出す。彼は北方の町でなにか再起をはかる仕事をしているが、そこに姉の夫が息子を会わせにやってくる。2人で氷上で遊んでいるときに、小用で目を離したすきに子どもが氷の割れ目から落ちる。厚い氷をこぶしで割ってようやく助けるが、昏睡状態が3時間も続く。治りかけたときに、彼女から電話があり、俺を捨てないでくれ、愛している、と言う。

 

この映画でも、この監督の暴力への親和性が見て取れる。「ディーパン」は元兵士、この映画では元ベルギーボクシングチャンピオンという設定である。強い女性も共通で、それが映画の駆動力になっている。そこにもう一つあるのが、社会性である。ディーパンにあったのは移民と貧困、この映画でも国内難民のような生活である。

 

74 マイ・エンジェル(T)

マリオン・コーティアール主演、子ども役をエイリーヌ・アクソイ・エテックス、トレイラー住まいの朴訥な青年をアルバン・ルノワール。コーティアールがダメなシングルマザーを演じる。役のうえとはいえ、神々しさがなくなっていて、残念。男を見つけると、子どもをほっぽらかして帰ってこない母親である。

その間には子どもは恐ろしいほどの成長をし、アルコールを浴び、同世代の子から浮き上がる。心の逃げ場として、高い崖から飛び降りることを生きがいにしてきた青年を見かけ、彼に付いてまわる。彼はいまは心臓をおかしくいていて、飛び降りはできない。少女は劇で与えられた主役の人魚の役を同級生嫉妬され、楽屋で衣装を破られ、芝居に登場することなく崖までたどり着く……。飛び込んだ海のなかで、彼女は劇で言うはずだったセリフを言う。小品ながら、じっくり撮っていて、好感。

 

75  エディット・ピアフ(D)

マリオン・コーティアール主演、大柄に見えた彼女がとても小さく見える。ピアフはパリの貧民窟で生まれ、母は街頭で唄を歌って日々の糊をひさぐ。父親は足技で稼ぐ旅芸人で、戦争から帰って娘が義母のもとで病気になっているのを連れ出し、ノルマンディの実家へ。そこは娼館で、赤毛のある娼婦がことのほか彼女を大事にしてくれる。ひどい角膜炎で目が見えなくなったとき、彼女たちが祈りに行くのが聖テレーズで、イエスへの取り次ぎを頼んでいる。

戦場へ戻った父親が再び帰還して、エディットを旅に連れ出す――チャップリンの幼少時を思い出させるような境遇だ。芸人というのは、こういうところから出てくる。薬と酒におぼれ、44歳ではもう老婆のような様子である。キャバレーで人気が出て、音楽ホールでのリサイタルという大事なシーンで、エディットの声が流れない。それは、復活を賭けたオリンピアの舞台もそう。音楽映画でこれはない。いちばん盛り上がるところだからである。コーティアールの美しさがまったく出ていない映画。

 

76  真夜中のピアニスト(D)

ジャック・オーディアールの作品である。主人公の父親が出てきたときにあれ?と思い、中国人のピアノ教師と出合ったときに、ああこの映画観たことある、と気づいた。情けない話で、DVDのジャケットを見たときに知っているものだったので、そこで分かるべきだったのだろう。

 

2つの偶然でこの映画はできているので、それが弱さになっている。街でまえの恩師だった指揮者を見かけ、8年ぶりにピアノへの興味が再び彼のなかに目覚める。ハイドンピアノソナタ32番が弾かれるが、これがいい。

もう一つが、その中国人のマネジャー兼恋人になった彼が、再び街である男を見つけ、殺す間際で止める。不動産売買で父親をだましたうえに殺したロシア人である。

 

いわゆる地上げ屋の話である。彼らが追い出すのは不法居住の移民である。暴力が日常となった生活である。ここにもオーディアールの2つのテーマがまた顔を出している。暴力と社会性である。

そして、まえに指摘を忘れたが、セックスへののめりこみである。これは「君と歩く世界」に顕著だったが、両脚を失くした女性がまず蘇生のきっかけをつかむものとしては強力だったということがある。だから、あまり誇大に考えない方がいいかもしれないが。ディーパンにもあったが、演出の要素という感じである。この映画では、上司のかみさんといたす最初のシーンに少しワイルドの感じがあるが、これはアメリカ映画のパスティーシュであろう。

 

珍しく母親のテーマが顔を出している。あまり才能がなかったピアニストの母親を経済的に支えたのが父親だった、という設定である。主人公にはその母親の挫折が色濃く残っている。求めていく女性にその影があるかというと難しいが。

 

2箇所、面白い映像がある。上司の妻といたしたあと、彼女がシャワーを浴びたのか部屋に戻ってくるときに、ドアのところで逆光のままで止めるシーンである。体の形はしかり見えるが、顔の表情は消えている。ここのシーンはとても自然である。

もう一か所は、窓から光が床に落ちている。細長い付箋のような赤い光である。そこに気づき、主人公が黒い革靴を移動させ、光を瞬間弄ぶのである。こんな映像は見たことがない。

 

77 ダンス・ウィズ・ミー(T)

矢口史靖のニュージカル映画である。ぼくは同監督3本目である。主演の三吉彩花が可憐で歌がうまく、踊りも上手(?)。どの踊りがいちばんよかったか、というのはないが、一か所、部屋を出て、最初に踊り出すシーンで、ビル掃除道具一式の入ったカートに乗っかり動き出したときに、カメラ位置を変えて掃除人を通過させたときに音を途切らせたのが面白い。ショットを切り替えた瞬間、まえの音に戻るのである。そのあと道具カートからモップを引き出してギターのように弾く恰好をさせるが、フレッド・アステア映画でモップと遊ぶ室内シーンがあるが、そういう軽業も観てみたたかった。

あと、自分を催眠にかけた男を探してくれるように依頼した私立探偵に動機を気づかれ、2回、短い童謡を歌わされるシーンもいい。やはり、と気づいた探偵が「マジか!」と言う。

往年の(?)ミュージカル俳優宝田明を催眠術師としてフィーチャーしたが、それは合っていたのだろうか。クラシカルではあるが、リズム感が違うから、新しい歌には合わない。伊東四朗あたりにさせたほうが、いまの観客には顔になじみがあるし、第一すごみのある顔をしているから相応しいのでは? 

 

催眠にかかっているので、音楽が鳴るとすぐに踊り出してもまったく違和感がないが、催眠はそのための仕掛けだが、ミュージカルは話の途中で踊りになり不自然と昔からいわれてきたが、そんな杞憂は不要であることが、ラララ・ランドで証明されたではないか。ミュージカルは踊りに歌と適当な筋でいいのである。日本もそこまで成熟し、ミュージカルを虚構のものと見る目が育ったのである(当のアメリカでもミュージカル映画の評価はずっと低かった)。

 

シャリ―マクレーンがボブ・ホッシーの振り付け(コリオグラフイー)について解説するYouTubeがあるが、両手の位置、指のスナップ、そして両脚の拡げ方だけで本当に多彩で表情豊かなしぐさを演出する。そういう細かい動きだけでもミュージカルはいろいろなことを表すことができるのである。身体芸というのは奥が深い。

音楽が鳴ると体が動き出す仕掛けが分かってしまうと、踊り出すまえの“溜め”がなくなってしまい、踊り出しが単調になってしまう。アステア映画を観ると、踊り出すまえにいろいろな焦らしをやっているのが分かる。いいセリフもそういう間のときに用意されている。やはりハリウッドミュージカルは神経が細かい。

 

朝日新聞が、もっと主人公の職場の軋轢を入れればよかったのに、とあほなことを書いていた。じゃああの取り立て屋3人のキャラはちゃんと立っているのかとか、最初の踊りのシーンのときに、足元の壁にタテに並列に並んだ照明を踊りの進行に合わせて付けたり、消したりしているが、その演出はいいのだが、主人公の切れのない踊りでいいのかとか、ほかにいくらもで言うことがあるだろうと思う。

しかし、そんなことを忘れて、心から楽しめました。矢口監督、ぜひずっとミュージカルを撮っていってください。全部、観ますから。

 

78 陰獣(T)

加藤泰監督、さすが絵柄がしっかりしているから、何でもあるレベルに収めることができる。ラストの朱塗りの部屋に白装束の2人など、泰さん! と声をかけたくなる。菅井きんが渡船場のトイレで、水中に目玉を見るシーンも、やりました、である。泰さんにかかれば、やくざ映画もえ江戸川乱歩も同じである。

あおい輝彦香山美子、大友柳太郎、仲谷昇野際陽子川津祐介、尾藤イサオ、などなど。あおいが動きもいいし、声もいい。主役の意味がある。香山の脱ぎっぷりがいいが、若尾文子野川由美子など、その種の女優の評価はすごく低かったものだ。若尾は川島雄三あたりに使ってもらってよかったのではないか。それにしても色っぽく、蓮っ葉な女を演じているわけだが。77年の映画で、もう少しまえあたりから何だかエログロな映画が流行り、結局は日活ロマンポルノになだれ込む。

 

79 東京裁判(T)

5時間弱の映画である。被告側に温情的な感じで撮られている。そして、強者が裁いた裁判というイメージも残る。最後に映し出される戦火を逃げるベトナム少女は、いったい何を意味しているのか。小林正樹のスタッフの証言では、反戦のイメージを込めたということになるのだが……。

 

80 ロケットマン(T)

フレディ・マーキュリーと似たような軌跡である。アメリカツアーで同性愛傾向に目覚め、愛人かつマネージャーにたかられ、ちょっと女性にも可能性があるかと結婚し、しかし同性の生涯の伴侶を見つけ……しかし、フレディはエイズで死に、エルトン・ジョンはツアーを引退し、養子2人を育てることに専念する。最後の悲劇性がクイーン映画を面白くした可能性はあるが、なにか違うことで、感興に差が開いたのだと思う。

 

フレディの歌い方にあるドラマ性みたいなものがわれわれを動かすのではないか。もう一ついえば、エルトン映画はミュージカルそのものにしたので、真実性が薄らいだ可能性がある。それと、紹介される歌の数が多すぎる。はじめてのアメリカ公演、小さなライブハウス「トルバドール」で歌うクロコダイルロックは鳥肌が立った。

 

81 フェイク・クライム(S)

キアヌ・リーブス主演、女優ヴェラ・ファーミガ(「マイレージ、マイライフ」)、客演ジェームス・カーン(老け役もいい)、フィッシャー・スティーブンス(前にも裏切りの役で見ている)、ピーター・ストーメア(最近ではTVアメリカ版「シャーロックホームズ」の兄貴役)。キアヌの演技をしているのかしていないのか分からない感じがよく出ている。彼はセリフが少ない、沈黙の俳優なのだ。ストーリーはバンクラバーものだが、キアヌの個性でヒューマンな感じがある。舞台「桜の園」と絡めるものは面白いが、うまく処理し切れていない。残念な場面がいろいろあるが、キアヌの個性がよく分かる映画である。

 

82  やっぱり契約破棄していいですか(T)

自分を殺すことを依頼して途中で心変わりする話は前にもあった。だが、この映画がおしゃれなのは、殺し屋は組合に入っていて、殺しの道具はレンタル、「こないだの武器は返した?」と事務の女性に聞かれて思い出せない引退間際の殺し屋(これが主人公が依頼した殺し屋)、月に1回は技能研修会があり、一定ラインまで人を殺さないとメンバーから外される点など(月の成績が×印で棒グラフになっている)、かなり笑わせる。

そして、もう一つは殺し屋の奥さんは引退を待ち望んでいて、趣味は刺繍で近々州の大会があってナーバスになっているのに、夫がどうも様子がおかしい。違う人間を殺したり、いつもの調子ではない。とうとう、ボスが自宅まで来て引退勧告しようとすると、夫はボスと撃ちあい寸前に。そこに彼女が現れ、州の大会で優勝したことや、夫と引退後世界一周を楽しみにしている、と言って、その場を収める。ボスがいなくなったあと、ダメだったらやってたわ、といって大きな包丁を夫に見せる(夫が青年を殺しに出かけるときも、念のためね、といって包丁を渡すが、それが彼の命を救うことになる)。そして、2人にはふつうの老夫婦の細やかな愛情が流れているのである。

主人公は7回自殺未遂で死ねなかった青年。余り死ねないので、不死身ではないか、などと言い出す。ラストシーンは、ちょっとやられた。

この小さな映画のこの出来は、うれしい。暗殺者をトム・ウィルキンソン、妻をマリオン・ベイリー、監督トム・エドモンズで、初長編映画らしい。

 

83  ワンス・アポンナ・タイム・イン・ハリウッド(T)

だましのテクニックだが、ぎりセーフか。タランティーノの映画愛を知っているからである。陰惨な事件をストップしたかったんだろう。それにしても時間を小さく刻みはじめるのは汚い! チャールズ・マンソンのコミュニティが出てくるが、マンソンは出てこない。

最初のシーン、ディカプリオとブラッド・ピットが撮影所から帰るところ。ベトナム戦争のことをラジオが報じる。その声は、サイモン・アンド・ガーファンクルの「水曜の朝、午前3時」で戦死者の名を読み上げた声と一緒では? と思う間もなく、彼らの「Mrs.ロビンソン」がかかる。ここで心が躍ってくる。懐かしの60年代の曲がかかる。プロコル・ハルム「青い瞳」、ヴァニラ・ファッジ「you keep me hanging on(元はシュープリームス)」など。

落ち目の敵役カウボーイをディカプリオが演じているが、イーストウッドの設定か。彼がセリフをトチってやり直すシーンがいい。落ち目になるほどに若手俳優の引き立て役に回されるからイタリアに行けと諭す怪しげなプロモーターをアル・パシーノが演じる。彼はディカプリオをマカロニウェスタンに送り込むが、あんなくそ映画に出られるか、と最初ディカプリオは渋る。そういう扱いだったのね、クリント・ウーストウッドも、リー・ヴァン・クリーフも。でも、そのむき出しの暴力がウェスタンを変えたのである。

相変わらずタランティーノのB級映画への偏愛は変わらない。それをワンス・アポンなこととして撮るから、メタB級になっている。

シャロン・テートを演じたマーゴット・ロビーディーン・マーチンと出た映画を観に行き、客が喜んでいるのを見て、自分も喜ぶシーンがいい。彼女は「フォーカス」もよかった(勝気のオリンピックスケート選手も演じていた)。ブルース・リーがこけにされているが、これは実話? ちょっとというか、すごく悲しい。テートは彼からカラテを習っている。

ブラッド・ピットは脇で楽にしているときのほうが、いいのではないか。製作をした「それでも夜は明ける」で地味な脇をやっていたが、この人はすごいな、平気で脇に回るんだ、と思ったものである。これから主演映画が2作来ることになっている。

「ハリウッド青春白書」のルーク・ペリー(どこに出ていたか分からない)、イスラム帰還兵が母国でテロを行うTVシリーズ「ホームランド」のダミアン・ルイス(スティーブ・マックイーン役)、カートラッセルなど多彩出演。

ナレーション、文字による進行表示、古臭いタイトルバック、ベタなカメラワーク、そして下手くそな音楽使用、緊迫の映像にもっていくまでの焦らし――タランティーノである。しかし、今回は過剰なセリフがない。

 

84  トリプル・スレット(T)

ポスターにアクション巨人の世界大会と書いてあったので、当然チケットを買ってしまた。トニー・ジャーも出てるし……。ところがどっこいである、多人種で追いかけっこするだけの映画。50分ほどで退場。

 

85 ラブストリーズ――エリーの愛情(S)

ジェシカ・チャスティン主演、ジェームス・マカボイが客演。原題はthe disappearance of Eleanor Rigby:Herで、これは女性視点、同じ題材を男性視点で撮ったのが、『コナーの涙』らしい。タイトルは最後のHerがHimになるだけ。監督はネッド・ベイソンで、実績はあまりない。チャスティンは制作側に入ることが多く、ぼくは「ヘルプ」で彼女を見てネットで調べ、テレビシリーズの制作が先だと知った。近年の強い女性の役をやっていて、見ずにいられない。この映画の彼女はぐっとおとなしめである。エリナ・リグビーの曲がかかるわけでもなく、ただちらっと部屋にビートルズリボルバー」のジャケットが見えるだけである。意外と小づくりの女性であることを知った。

 

86 暗殺の森(T)

3回目になるが、やはりこの映画は断片的にしか覚えていない。結局、名声ばかりで駄作ではないか。というのは、同性愛とファシズムを近接のものとしているが、その説明が一切なされていない。それに、暗殺の対象とされる教授の意味合いも明確には語られていない。ファシストとなった主人公の素性を知りながら、元教え子の訪問を受け入れるということ自体が不自然である。最後に自分の犯した殺人が勘違いだったと気づくシーンも、たまたまという設定だけに、映画の中心軸とするには弱い。モラビアが原作らしいが、そのあたりをどう描いているものなのか。性的な因果関係だけでは殺人までには至らない、という結論の映画であれば、ああそうなの、で終わりである。

少なくともヒトラー自身は酒も煙草もやらず、少女好きの不能者に近いのではないか。彼から同性愛を引き出すのは無理がある。ビスコンティが描く「地獄に堕ちた勇者ども」の同性愛のほうが格段にものごとを考えさせる。「暗殺の森」の1年前に封切りされれている。その退廃の度合いは比ぶべくもない。75年封切りの「愛の嵐」もやはり性と政治(ナチ)を描いている。ざっと下って「キャバレー」にも反映されているが、それは意匠として使われただけで、もちろん「地獄~」と「愛の嵐」を超えることはできない。

作中、ジャン・ルイ・トランティニャンが楽し気に笑うシーンがある。それが無邪気で可愛いのである。教授の娘役のドミニク・サンダは圧倒的である。肩幅が広く、男性的な体形で、なにくそという顔をしている。顔にそれほどの表情がないが、身体が圧倒的にものごとを語っている。

 

87  昭和残侠伝一匹狼(S)

島田省吾、その娘扇千景が可憐、許嫁が御木本伸介(絶対に堅気の顔をしている)、やはり客人役の池辺良(声が不安定で、それが不思議と魅力である)、その妹が藤純子(何髷というのか、あまり似合わない)。島田省吾が渋い。型が決まった人の気持ちよさである。藤純子がやはりきれい。言うことなし。彼女を荒くれ女のように言う人がいるが、何と無礼な。

 

88  バトルフロント(S)

2回目である。この種の爽快なアクションものがない。ステイサム兄いが元インターポールで、妻の田舎に引きこもるが彼女は亡くなり、娘と二人暮らし。護身術を教えた娘がいじめにかかろうとする肥満児を倒したことで、その薬中の母親に絡まれ、さらに悪者の兄(ジェイムズ・フランコ)まで引っ張り出す。そいつがステイサムの前歴を調べ、服役中のギャングのボスにたれこんだことで、ステイサムと娘が狙われる。とにかくやられたらすぐやり返すというパターンで、非常にスッキリする。ステイサム兄いよ、車でワイルドに突っ走ってないで、こっちに戻ってきてください。娘役がまあ達者だこと。恐れ入ります。

 

89 シークレットマン(S)

ウォーターゲートのいわゆる“ディープスロート”といわれたFBI副長官代理マーク・フェルトリーアム・ニーソンが演じている。政界は腐っていて、独立組織であるFBIがなかったらダメだ、という固い信念をもっている。その見解の妥当性を云々するほどの知見をもたない。銀髪のニーソンが老けて見える。

 

90 イコライザー(S)

見る映画がないと、無性に身体映画を観たくなる。そういうわけでまたしてもイコライザーで、もう4回目か。デンゼル・ワシントンが深夜のダイナーで読むのが、まず「老人と海」、次が「ドンキ・キホーテ」、そして「透明人間(The Invisible Man)」である。それぞれ劇の進行に合わせて選択されている。小さな積み重ねがこの映画を支えている。カメラワークもとても自然である。だけど、それは視線の在りどころをきちんと明示したうえで切り替えているので、それと気づかないだけだ。作っている当人たちは自分たちが築き上げたノウハウに気づいていないことも多く、だから大抵2作目は面白くない。それに比して「座頭市」シリーズは回が深まるほどに、盲目の剣士の個性が見えてくる仕組みなっている。あと、監督をいろいろ変えて味付けが変わることも、シリーズを長持ちさせる秘訣である。「ミッション・インポシブル」もそれの成功例である。

 

91 インターンシップ(S)

高級時計を代理営業する2人が馘首になり、googleに転職するためにインターンシップを受ける。チームを組んで、課題をクリアしていくわけだが、彼らの人間味が功を奏する。箸にも棒にも掛からない彼らを組み入れたのが主任らしきインド人。彼自身が苦労人だったことが最後に明かされる。楽しく見ていられる。ビンス・ボーンが制作、脚本、主演、相棒がオーウェン・ウィルソン

 

92 寅次郎夢枕(S)

10作目で、東大助教授に米倉斉加年、女優八千草薫。長野奈良井の宿が出てくるが、その前あたりからクラシック「四季」などがかかっている。寅が柴又に帰ると、自分の部屋が東大の先生に貸し出されている。その先生がやはり「四季」をかける。最後、寅が八千草に告白されてびっくりしたあとは、しょんぼりした彼に尺八の音がかぶさる。音楽で遊んでいる一篇である。

 

93 にっぽん泥棒物語(T)

やはり傑作であろう。もう4回目になろうか。これだけ山本監督、コミカルなものが撮れるだから、この線も攻めても良かったのはないか。じつに丁寧に積み上げてあって、最後の10分ほどの法廷場面が生きてくる。ここの笑いは、日本の映画では珍しいくらい晴れ晴れとしている。市原悦子が最初の女房役で、芸者である。夫から貰った着物を売りに出したことがケチがつくきっかけである。悪い刑事に伊藤雄之助、小さいころこの人の映画をたくさん見た気がする。青柳瑞穂、川津祐介江原真二郎緑魔子佐久間良子加藤嘉西村晃北林谷栄加藤武花沢徳衛室田日出男。なかでも潮健児の顎しゃくれの顔はすごく懐かしい。東映映画には欠かせない人だ。

 

94 タクシー・ドライバー(S)

もう20回近く見ているだろうか。今回は2箇所、トラビスが言葉に詰まるシーンがある。タクシー会社に就職の話をしに行ったときに、学歴を聞かれ、Someと言ったまま黙っている。彼には上昇志向があるということだ。だから、アッパー女性に気が惹かれるのだ。

次に、彼がボランティアを申し込んだ大統領候補パランタインをたまたま乗せたとき、支持者だと言ったところ、何を望むかといわれたときに答えられない。それで言い出したのは、街はごみ溜めだという話である。これがあとの事件でつながっていくわけだが、彼には自分の意見というものがない。

不思議なことにこのパランタインが選挙で唱えるのが、let it rule である。民主党候補だが、秩序を、と言う。きっとトラビスはここに反応したのではないか。だが、パランタイン暗殺がうまくいかず、その夜に少女アイリスを保護しに行く。政治と売春斡旋阻止が彼の中では等価になっている。マスコミはこの事件で彼を英雄にしたが、彼自身はそこに何らの感情もない。この点は評価できる。

音楽の使い方が古典的で、あれだけ音楽ライブを撮っているスコセッシは、本当は音楽に鈍感なのではないか。

 

95 ど根性物語 銭の踊り(D)

市川崑監督、勝新太郎江利チエミロイ・ジェームス、スマイリー・小原、船越英二、浜村純などが出ている。なんで変な外人ばかりなの?(悪の親玉も米軍脱走兵という設定。見たことのある外タレ)。ハナ肇宮川泰が音楽、映像が宮川一夫。多少映像的な遊びがあることと、江利チエミが意外とかわいいことが収穫か。

 

96 ジョン・ウィック3パナベラム(T)

堪能しました。2よりいい。つまり1に戻って、格闘シーンが満載。マーシャルアーツだらけで、韓国映画が手を抜いているいるうちに、アメリカに追い抜かれてしまった。本当に一話完結というよりシリーズ化してしまった。次回に続く的なエンドだから。

主席というのが闇の支配者なのに、そのうえにまだ砂漠の首長が君臨しているという構図はいかがなものか。ハル・ベリーが相変わらず元気、最初に「ソード・フィッシュ」で彼女を見たときの衝撃は今でも忘れない。

顔面近場撃ち、足技転がし、相手抱えながら乱射など、相変わらずの技が繰り出される。今回は、包丁の投げ合いっことオートバイ爆走中刺し合い、それに馬の後ろ蹴りが新しい。変な日本語の外人を使うのは、もう止めにしてほしい。それだけ、ハリウッドにアクションをやれる日本人俳優がいないということか。

 

97 アサシン・クリード(S)

なんだかよく分からないうちに終わってしまった。誰が悪なのか善なのか判然としない。マリオン・コーティアールが出ているので見た映画で、ふだんはこういう古代物および未来的テクニカル物は見ない。マイケル・ファスベンダーが何かのたった一人の生き残りで、その記憶を過去にさかのぼって、大事な秘宝を悪者が見つけ出すというもの。次回に続くらしい。コーティヤールの父親役にジェレミー・アイアンズ。息子の恋人との愛を描いた「ダメージ」(ルイ・マル監督)も26年前になる。

 

98 ジョーカー(T)

素晴らしいできだ。ベネツィアで金獅子賞を取ったのが分かる。しばらくバットマンの悪党に焦点が当たりつつあったわけだが、とうとうここまで来たか、である。ゴッサムシティは現実の街ということだ。

主人公アーサーが上半身裸で痩せているところ、そして拳銃を同僚に貰った夜に部屋で上半身裸で踊りながら、ダンスのうまい男はだれだ? アーサーだ、と自分で答えるシーン、それと同じアパートでエレベーターに乗り合わせた黒人女がこめかみに指差して拳銃を撃つ真似をするところ、これはみんな「タクシードライバー」へのオマージュである。あと、両者に共通する都会のなかでの孤独。この映画の場合は出自にまで遡ってその孤独の深さを描く違いはあるが。それに、彼をからかうためにTVショーに呼ぶ司会者がそのかつての主人公デ・二ーロと来ている。

ピエロたちの控室で後ろ姿で異様な裸の背中を見せるアーサー。この映像はかなりショッキングである。そして、自分の室内で胸をそらして踊るときも、異様な裸である。よくこの映像を思いついたものだと思う。実の母と思っていた女性の精神的な病歴、義父による虐待、社会適応できない性格、すべてマイナスに回る彼が抜け出そうとした世界は、トラビスと同じ暴力の世界である。しかし、トラビスは英雄とはやし立てられても興味がなかったが、このジョーカーは違う。トラビスの先の世界を描いたか。

ホアキン・フェニックス主演、女優ザジー・ビーツ、母親がフランセス・コンロイ、監督トッド・フィリップスで「ハングオーバー」3部作の監督である。喜劇の人らしい。ホアキンは「ザ・マスター」「ウォーク・ザ・ライン」と最近の「ゴールデンリバー」が印象的である。

 

99  プンサンケ(S)

38度線を行き来する男が主人公で、まったくの無言。しゃべれないのか、しゃべらないのか、最後まで分からない。だるい展開の映画だが、必死で南北をつなごうとする意志が感じられた。

 

100  ハングオーバー(S)

さっそくトッド・フィリップスの「ハングオーバー2」を見る。1作目は封切りで十分に楽しんでいたが、あの馬鹿げたノリで2作目はもたないだろうと思って見ていなかった。ところが、冒頭の話の端折り方、婿殿への侮辱、酔いから醒めてからからの展開の面白さ、脇役の際立った感じ、猿の実にうまい演技、異国タイにシチュエーションをとったことで異常さが許される、といったことで、この映画、イケました。しかし、「ジョーカー」を撮る監督になるとは、ちょっといまのところそこまでの補助線が見えない。ほかの彼の作品も追っかけてみる。喜劇から始まって、あそこまで行く監督はぼくは知らない。

 

101  わたしは、ダニエル・ブレイク(S)

ケン・ローチ監督である。制度の谷間に落ちたというよりは、もし描かれたものがそのまま今のイギリスであるとすれば、あまりにも非人間的な状況が広がっている。福祉を行う人間たちがルールや罰則で、救済を求めてやってくる人間を疎外する。そこにPC技術を老人に求め、意欲的な、あるいは攻撃的な履歴書を書くための馬鹿げた講座まで用意されている。医者はダニエルは心臓病で働けないというのに、それを審査する人間たちは働けると断を下す。そこで彼は異議申し立てをするが、すべての手段をネットを介してやれと無理なことをいわれる。働けないが、働く意欲を見せるために、就職活動をした証拠を見せろ、とワケの分からないことをいう。日本の待機児童問題と同じようなジレンマが用意されているわけだ。結局、彼を助けるのは、彼が助けた移民、そして貧困シングル家庭の母親である。ブリグジットを支持する背景にはこういうどうしょうもない政治の不作為が潜んでいるのではないか。名前のブレイクはBlakeだが、ぼくにはbrakeに思えた。手慣れて、静かで、丁寧で、本当にウェルメイドな職人のような映画を撮るものである。しかも、狙っているものはひりひりと現在進行形である。

 

102  蜜蜂と遠雷(T)

恩田陸原作、監督石川慶。映像不可能という宣伝文句だったが、どこが? である。演奏シーンなどだいぶこなれて見える。遠雷は途中で出てくるのだが、蜜蜂はどこかで1回出てきたが、意味は分からなかった。馬が何度も出てくるが、これの意味も分からなかった。4人のミュージシャンのなかに、黒いエネルギーの馬がいるということなのか……はてな?である。演奏シーンとその周辺に時間をほぼ使うので、4人の個性に深入りはできない。だから、映画に感動ができない。森崎ウィンとうい男優がすがすがしい。女優の松岡茉優はどこがいいのか。エン転職のコマーシャルでは結構、かわいく映っているのに。

 

103 主戦場(T)

きわめて雑な映画で、見ているのがつらい。これを右の人間が騒いだ理由が分からない。見ているかぎり、左派の旗色はかなり悪い感じがする。たくさんのお金を貰っていたからといって、強制されていたのだから、性奴隷だという論理はおかしい。国際法ではそうなっているのかもしれないが、その時点ではどうだったか、である。

まったく給料が払われていなかった、という左側の意見もある。こういう点をきちんとしないかぎり、論争は曖昧なままだ。それと、家5軒が建つぐらいの金が出ていたのはインフレ率が激しかったビルマの話で、だいぶ割り引いて考えるべき、とやはり左派は言っている。それでは、韓国の人たちは戦地から帰って、家をいくつも建てるほどに裕福だったのかを調べる必要がある。

 それと、兵員と外出することができ、買い物もできた、という点に関して、左派は不断の抑圧が強いから、たまにそうしたくなるときがある、みたいなことを言っている。ふざけた意見である。戦後の赤線でそんなことが許されただろうか。戦地で余計にそういうことは許されない、と考えるのが普通ではないか。 

慰安婦問題否定論者の女性がのちに秦郁彦南京虐殺数万人説を読んで、実際にあったことと知り、慰安婦問題も違う目で見るようになった、と言っている。慰安婦もやれば南京もやる、とはいかないものなのか。

その女性がアメリカの文書を引き、慰安婦問題は否定されている、と書いたのが拡散して、さまざまな右派が使っている、という。よく見ると、ほとんどナチ問題を扱った文書で、日本のことはほんの少しらしい。だから、どうだ、ということだが、本人は引用の仕方が間違っていた、と反省している。日本に関する小さな部分に、どう慰安婦問題はなかった、と書かれているのか、そのことが知りたい。

テキサス親父とかいうアメリカ人が出てくるが、ケント・ギルバートとも本を出しているらしい。ほぼ歴史の素人に見えるが、困ったものである。人相も悪すぎる。

 

104 ドリーミング村上春樹(T)

スゥエーデンの春樹翻訳者が、初期の「風の歌を聴け」の翻訳に悩む話である。日本にもやってくるし、友人などにも翻訳の参考のための意見を聞く。「完璧な文章がないように、完璧な孤独はない」のなかの「文章」を、1文とするかパラグラフにするかで迷っている。ドイツ人の訳者だったかは、パラフラフとして解釈する。しかし、日本人ならそれは1つの文章と考えるのが普通であろう。

さらに、バタンバタンの音が分からず、やはり知り合いの訳者に聞く。相手は、机をボールペンで叩いて、それがバタンバタンだとトンチンカンのことを言う。

我々からみればささいで、当然のことが、それを知らない人にすれば、えらく難しい問題になったりする。翻訳のギャップが見えた映画である。何人か春樹の翻訳者が集まってシンポジウムを開いたときに、アメリカ人だったか、日本語は表現がくどいので省略を心がけている、と述べている。春樹はそういうことはまったく構わないという立場である。本人は忠実に訳したいと思っているタイプではあるけれど。

最後、春樹がスェーデンにやってきて、600人の公衆をまえに翻訳者と対談をする、その前でフィルムは終わりである。権利問題かなにかか。

 

105  野良犬(S)

天才とうたわれた菊島隆三の脚本集を買ったところ、そこに「野良犬」が載っていた。読み出したら、その描写のすごさに唸ってしまった。たとえば、「炎熱にとろけたアスファルトの上に、バリバリ音を立てて、大蛇の鱗のような跡を残して行くバスのタイヤ」。黒澤は一瞬だが、その黒光りするタイヤの跡を映し出している。あるいは、「影一つない広い中庭を村上がポクポク横切っていく」。ここを黒澤は、やや深い感じの砂地をさくさくと巻き上げる革靴で表現している。その脚本を丁寧になぞる描写に、菊島への尊敬が見える。黒澤の音楽使いのうまさはつとに有名だが、緊張の場面に緩い曲をかけることが知られているが、その指定も菊島が行っている(!)。

犯人と刑事が必死に雑木林を駆ける。そのとき、「二人の間を通して、胡瓜畑越しに見える文化住宅から、変にのんびりとピアノの練習曲が聞えてくる――(改行)そののどかなメロディ――」黒澤はその文化住宅の住人が音のした方に目をやるシーンを加えている。あるいは、とうとう犯人を捕まえたときの描写。「胸から血を吹き上げるような泣き声――どうにもならぬ悔恨の中で、ドロドロになったその姿――手錠だけが冷然と光っている。(改行)しかも、そういう遊佐をとりまくものは――青い晴れ渡った空と白い雲――喋々――野の花――遠くを過ぎて行く子供たちの歌声!」すべて復員の果てに殺人に至った犯人の手にしえなかったものが描かれる。

令名の高い黒澤と組むことを誰もが望んだというが、菊島も自分が指名されて高揚した。

深作欣二は脚本を派手に直すことで有名で、笠原和夫もそれをやられて、もう二度と深作とは組まないと宣言した。ところが、「仁義なき戦い」で組まざるをえなくなった。そこでプロデューサーに釘を差したのは、脚本に一切手を入れるな、ということである。笠原は教条主義で言っているのではない。長く映画界で禄を食んで来た笠原だから、監督が手心を加えるのは必然的なことだと思っている。度を越して変えるのが許せなかったのである。

この菊島の脚本を読むと、矢も盾もたまらず、本編を見ることに。いい脚本があると、絵が撮りやすいということがよく分かる。さすがに盗まれた拳銃を探すためにバラック街をほっつき回るシーンは黒澤が緻密に演出しているわけだが、いやはや菊島先生、恐るべしである。

 

106  ターミネーター・ニューフェイト(T)

マッケンジー・ディビスを見に行ったようなものだ。お約束の登場の仕方で、最初から全裸である。未来の救世主といわれるメキシコ女性、なぜにそうなのかの種明かしがしばらくされない。早くやってくれ、とイライラ感が募る。

退屈な映画だったが、シュワッツネーガーが齢をとり、それなりに知恵もありそうに見えるのが不思議だ。前からの疑問だが、最終兵器のような敵ロボットがなぜ人間の放つ銃弾にいちいち銃創を受けるのか。そうでもしないとすぐに最強ロボットに人間が殺されて劇にならないからだが、設定自体に無理がある。これは根本的な問題である。

 

107 ルーサー・シリーズ(S)

かなり面白いイギリスのはみ出し刑事ものだが、シリーズ3で恋人ができたあたりから、全体が怪しくなり、シリーズ4はガタガタである。視聴率が悪くなって立て直す気もしなくなったか。

 

108 天使の分け前(S)

 ケン・ローチである。小品で、ちょっとしたコントを見ている感じ。最初に夜の駅のホームの酔っ払いを写し、それから裁判所の画面になり、数人に判決が下り、そこで映画の主人公が出てくる。子どもも生まれることだしということで、奉仕労働を科される。この数人がチームとなって、ぼろくなった校舎の壁塗りだとかの奉仕をする。その監督官がいい人で、彼の配慮でスコッチウィスキーの試飲会に出かけたことで、劇が動き出す。

 

109 ニューヨーク 眺めのいい部屋、売ります(S)

ダイアン・キートンモーガン・フリーマンが老夫婦を演じている。若きころの2人の様子を挟みながら、劇は進行する。もちろん人種の違いによる軋轢もあった。いま住んでいるところがエレベーターなしの5階、それが飼い犬(この犬が名演技をする)ともども上るが辛くなってきている。

フリーマンは売れない画家という設定。キートンは元教師のよう。2人のほのぼのとした感じがいい。キートンがいいと思ったことはないが、「恋愛適齢期」での彼女はよかった。それから11年経って彼女は68歳(映画公開2014年時点)。さすがにお年を召された。

 

110 ラーメン食いてぇ!(S)

モンゴルの岩塩だけが特殊で、あとはただシンプルに、ただし丁寧に仕上げた手打ち麺、チャーシュー、メンマ、それにナルトにネギというごくシンプルなラーメンをめぐる物語。せっかくの塩ラーメンなのに、いざ本番というときに醤油ラーメンが出されるという身も蓋もないことをやっている。この監督、あほか、である。このラーメンが食べたくてモンゴルから九死に一生を得て帰ってきた料理評論家が塩を頼むので、感動を2つに分けるのはどうかという深謀遠慮なのか、むだなことをするものである。主演の中村ゆりかより客演の葵わかなという女優のほうがメリハリが利いていい。爺さん役の石橋蓮司にはご苦労様と言いたい。

 

111 ブルックリンの恋人たち(S)

アン・ハサウェイがきれいすぎる。何でしょうか、この違和感は。とくに横顔が少し塔が立った感じで疲れていていい。映画の中身はさして言うことはない。登場してくるミュージシャンがみんなアンニュイな歌い方ばかり、だから立派な体格の黒人女性のシャウトするシーンは心が躍った。

 

112 秘密の花園(S)

矢口史靖監督の劇場版第2作、不思議なリズムの映画である。駄作にならないのは、そのリズムのせいである。きっとコメディをこう撮ろうという意志がはっきりしていることで、この映画は成立している。天然の女性が一つの目的のためにスキューバ、ロッククライミング、地質学に入れ込み、結局、自分は目的を追うことそのものに生きがいを感ずる人間なのだと知る。それを面白おかしく描く。決して下半身の問題にならないのも偉い。主演西田尚美、ほかに「図書館戦争」「南極料理人」「」ロボジー」などに出ているらしいが、記憶にない。客演が利重剛で、これが彼女と正反対の無目的な地質学助手を演じていていい。母親役の角替和枝、妹役の田中則子もいい。

 

113 グエムル(S)

これで3回目になるだろうか。冒頭のシークエンスが秀逸である。米軍のホルマリンが漢江に廃棄される。その空き瓶を横にずらっと写す。その漢江に2人の釣り人、腰まで浸かっている。一人がコップで何かを掬い上げる。もう1人が指を入れようとすると噛まれ、瞬間逃がすことに。コップは子供からのプレゼントだ、落としそうになった、という。コップから落ちたそれが泳いでいる、と1人が言う。次が俯瞰の映像で、橋の外縁に立っている男に雨が降り注ぐ。自殺を試みようとする男である。救助者が2人、声を掛けるが、水中に黒い大きな影を見た男は濁流の中へ身を投じる。

場面が色鮮やかになって、晴れの日。大きな頭の男が頬をつけて眠りを貪っている。ソン・ガンホで、漢江に集う人々を客とした、スルメやビール、お菓子などを売る店の主人である。女の子の声で起きるが、それが娘である。ガンホの妹がアーチェリーのオリンピック予選に出るというので、娘と2人で観戦する。ガンホの父親が、スルメを焼けと言ってくる。ガンホが足の1本を食べて、それが客にバレ、父親に言われて、もう1枚を焼きビールのサービスも付けて持って行くと、向こうに見える橋の欄干に何かがぶら下がっている、と誰かがいう。それがふんわりと水中に没し、こちらへ近づいてくる。人々は餌を投げる。それは姿を消すが、ずっと向こうから人々がこちらへ走り込んでくる。次第にその背後にモンスターが迫ってくるのが見える。

バタバタと喰人の騒ぎが写され、我が子の手を持って逃げたはずが、気づくと違う子の手だった。振り向くと、娘に化け物が迫り、尾っぽで絡めとられて、漢江に逃げ込まれる。――ここまで一気にシークエンスが展開される。見事な導入部である。

この映画、モンスターものでありながら、きわめてヒューマンな味わいをじっくり演出したことが、やはりただものではない。前にも書いたが、モンスターに持って行かれた娘をガンホ、その妹()ペ・ドゥナ、弟(「殺人の追憶」の犯人役パク・ヘイル)、父親(ピョン・ヒボン)たちと探しあぐね、小屋に戻ってカップ麺などを食べているときに、そのいなくなった子が自然と座っていて、みんなが違和感なくものを食べさせるシーンは、やはり抜群にいい。

ラスト、モンスターの口から娘と孤児を抜き出すが、季節が移り冬、降りしきる雪の中の売店。なにかファンタジーのような撮り方である。小屋の中で炬燵で食事をするのは父親とその孤児だけ。つまり娘は死んだのだ。今回、初めてそのことを知った。ポン・ジュノ監督の手腕が光る。

 

114 True Detective シリーズ3(S)

かつて有料だったシリーズ3がアマゾンでフリーになった。シリーズ2がいまいちだったが、今回はかなりシリーズ1とテイストが近い。2つの過去と現在の3つの時制をたくみにさばくが、ちょっと劇を楽しむにはうるさい感じがある。最後の種明かしを見ると、なんだそんな事件だったのか、ということになる。しかし、関連して何人かの人間は死んでいるわけで、それは余り大きく取り扱われない。

 

115 人間の街(T)

小池征人監督のドキュメント、1986年の作、サブタイは大阪・被差別部落。扱っているのは阪南更池地区、屠畜を生業とするほか様々な細工で生きる人々がいる。屠畜のオッチャン(自分でそう言う)は結婚するまで差別のことなど考えたことがなかった、という。しかし、子を成して、我が子が人を好きになったときに、わしは部落だ、と相手にいわざるをえない状況とはなにか、と問う。ふつうに出合って愛してふつうに暮らせないものか。そこまで行くために部落解放の戦いをやるという。彼のバナナのように曲がった皮剥ぎの刀は年に数本も取り換えるという。

もう一人の男は、とことん差別されたおれたちだから、とことん優しくないといけない、と言っている。一見強面だが、その口から出る言葉は清冽。表情も明るい。

同和対策審議会答申20周年記念映画と銘打たれている。

 

116 ビューティフルディ(S)

リンゼィ・ラムゼイ女性監督、ホアキン・フェニックス、エカテリナ・サムソノフ。老母と中年殺し屋の組み合わせ、今度の「ジョーカー」とも似ている。ハンマーで殺すのはアジア的、ここまで影響が来たか、という感じ。幼児期の虐待体験がフラッシュバックで挟まれる。この監督、丁寧で、映像がしっかりしていて、言葉を用いない間の取り方も、ストーリーの省略の仕方もベテラン級。この映画文法がかえっていろいろ真似されているきらいがあるかもしれない。

 

117 ファイティングファミリー(T)

原題はFighting with My Familyである。イギリスの田舎でプロレス興行をやる一家から世界的な舞台に立つ少女が出現する。一緒に技を磨いた兄はその登竜門に落ちて、妹を遠ざけるが、結局サポーターに。地元で障碍者や冴えない青年たちにプロレスを教えることもやっている。

片田舎からアメリカフロリダへ。そこに集う女たちはモデルなどの出身で、しゃべりもいい。劣等感に苛まれるが、徐々に底力を発揮する。実話だそうである。

イギリスの辺鄙なところにプロレス興行の家族がいるということも不思議だが、それが少数の観客ながら熱い支持を得ている。なにかサーカスの一座を見るような思いだ。

監督スティーブ・マーチャント(初長編監督作)、主演フローレンス・ピュー、兄がジャック・ロウデン、世界プロレスのコーチがヴィンス・ヴォーン(googleに入りたい人たちが競う「インターンシップ」に出ていた。あと何か恋愛ものに)、特別ゲストにドゥエイン・ジョンソンが出ている(アイルド・スピードの彼である)が、ちゃんと演技している。

 

118 ラストクリスマス(T)

エマ・トンプソンが脚本を書いているので見に行った。ダメでドジな女性がある青年との出合いから成長していく過程を描いて、ウェルメイドである。彼女の一家はアフガンからの移民で、母親役のトンプソンがアフガン語の歌やセリフを言う。主人公が勤めるのが中国人経営のクリスマスショップ。青年も外見がアジアっぽい。このあたりのキャスティングは意図的である。バスのなかでアフガン人が差別されるのを見て、主人公は大丈夫と声をかけたり、母親がブレグジット報道に恐れをいだく様子も描かれる。主人公が一緒に歌うためにホームレスたちをオーディションするシーンがいい。こういう小振りの出来のいい映画をいろいろ見てみたい、と思う

 

119 テッドバンディ(T)

この連続殺人犯は変わっている。殺した相手のおけつなどに噛みついている(最後、その歯型が有罪の決定打になる)。乳首を噛み切り、頭を切り落とし、内臓を破壊し、頭を太い木の棒で殴り、12歳の子までレイプしている。30人は殺しているらしい。自らの裁判で自分が弁護士となっている(途中、法学の学生のふりをしている)。ずっと付き合った子持ち女性をなぜ殺さなかったのか。

最初の夜、起きると子どもがいない。誘拐されたかと思うが、子どもの笑い声が聞こえる。バーで出会って一夜を共にした男が台所で何かを作っている。彼女が椅子に座ると、彼がコーヒーを渡す。そのときに、右手に包丁が握られている。このシーンは秀逸である。

基本的に無実を言い続ける犯人の側から描かれているので、真偽は最後になるまで分からない。子持ち女性の必死の願いに答えて、水滴で曇った面会の遮蔽ガラスに凶器の名をなぞることで、彼は自分がシリアルキラーであることを告白する。 法廷にまで彼のファンが押し寄せるほど、色男である。最後に実写が出るが、まさにそんな感じである。映画の役者よりもっと優し気な感じがする。主人公をザック・エフロンが演じる。

 

120 燃えよスーリヤ!(T)

インド映画である。かなりリズムが悪く、最後まで観ずに出ようと思った。アクション映画を撮る気がないのは途中で分かったが、ならこの映画は何なのか、である。主人公は足技が中心で、アクションも飽きが来る。女優もスタイルが悪い。お父さんが優しく、とても息子思いである。おじいさんも善人のかたまり。この底抜けの感じは見事というしかない。お決まりの踊りは最初だけ。1年最後の映画としては、ちとさみしい。