2015年の映画

kimgood2015-01-04

1 ケープタウン(T)
フォレスト・ウイテカーが主演、脇がオーランド・ブルームの警察物ということになろうが、原題はZuluである。ウイテカーがその民族で、小さいころに他民族(フツ族?)に虐殺されそうになり、逃走途中に犬に性器を噛まれ不能に。囲い者の女がいるが、単に彼女をマッサージするだけで金を置いて帰ってくる。相棒は飲んだくれ、離婚、荒くれ、という有能な刑事の典型。連続若い女性殺人から大量子ども虐殺へと進んで、大きな悪の存在にぶつかっていく。凶器が斧やナイフであったりするので、すごく恐い。監督はジェローム・サルという人、脚本が「あるいは裏切りという名の犬」のジュリアン・ラプノー。切られた手首、噛みちぎられたネズミ、腐った死体などを正面から写すようなところあってどぎつい。劇場で後ろに座っていた青年たちは、そういうシーンが印象に残ると話していた。去年の年末に見た映画だが、ここに入れておく。


2 フライト・ゲーム(T)
飛行機の中だけでどれくらいのことができるのか、といった興味でしか見ない映画である。よって名画座で見ることになる。それが意外と面白かった。トイレから機長の背中を狙う穴をどうやって作るんだ? 誰も目撃者がいないのはどうしてか? なぜ酔いどれ、離婚の国際保護監察官(?)を悪人と思ってしまうのか? など突っ込みどころはたくさんあるが、最後まで見ていられただけでもすごいとしなければならない。ジョディ・フォスターので、ひどいのがあったからなぁ〜。レーアム・ニールソン、ご苦労さん。ジュリアン・ムーアは老けすぎた。


3 ウルトラI Love You(DL)
サンドラ・ブロックのストーカーものだが、追われるのは地方局カメラマン、ブラッドリー・クーパー、この人、「世界にひとつのプレイブック」「アメリカンハッスル」で見ている。サンドラ、やり過ぎ感のある役だが、しだいに彼女の純真な、いたいけな感じが増してきて、最後は本当に幸せな気持ちにさせられる。彼女の映画にハズレなしだな。早くデンジャラス・バディ2が来てほしい(米国ではThe Heatというタイトルで13年に封切られている。まさか日本、未公開?)。


4 リボルバー(DL)
1時間は我慢したが、そこで放棄。よくもまあ、こんないい加減な映画を撮らせる会社があるものだ。監督ガイ・リッチーは「シャーロックホームズ」を撮っているというのに。たしかブラピの「スナイプス」も下らなかった。


5 96時間レクイエム(T)
3作目で、これがラストである。元奥さん役のファムケ・ヤンセンは人妻となっているが、離婚して元の鞘に戻りたい。しかし、何者かに殺される。監督が2作目からオリヴィエ・メガトンで、製作がリュック・ベッソン、脚本にも彼が入っている。もう一人はロバート・マーク・ケイメンで、ベッソンと組むことが多いようだ。2作目はダルイ映画になっていたので、これはどうしようか迷ったが、格段に出来がいい。謎解きが早いというか単純すぎるきらいがあるが、持って回って複雑にするよりいい。ロシアの悪党というのが定番化されつつあるが、この悪党、もっと凄みを出したら、面白かった。これ1本でリーアム・ニーソンには40億円近く入るそうである。まさかアクション・スターに脱皮するとは!


6 ラブ・パンチ(DL)
ダスティ・ホフマンとエマ・トンプソンの「新しい人生の始め方」が良かったので、その流れの作品かと思ったのが間違い。ドタバタ喜劇に近い。エマのそばにいるピアーズ・ブロズナンはほとんど木偶人形の感あり。水着姿にちらっと裸体を見せたり、これはエマの映画である。脇の親友夫婦がよくて、旦那がティモシー・スポール、妻がセリア・イムリーで、これがとぼけていていい。エマは今年は5本くらい撮影が目白押し。「ウォルト・ディズニーの約束」でアメリカに愛されたか。最後に、濃い藍色のドレスの彼女は美しい。


7 母なる復讐(D)
まずこのタイトルが分からない。「母なる大地」といえばロシアのクリシェみたいなものだが、まさか韓国の故郷は復讐か? 最近の韓国映画でよくあるのが、照明なしの撮影である。絵がすべて真昼のフラットなものしかない。デジタルで撮って、あとは何もしていない。プロのカメラマンを使え、である。レイプされた娘の復讐をするおばさんが主人公だが、おばさんのままだから、復讐に迫力が出ない。しかし、そんなかよわきおばさんを、警察は殺してしまうのか。足でも手でも撃って、その隙に捕らえればいいのではないか。あほらし。でも、最後に出る韓国のやりたい放題のレイプが司法で裁かれない率には呆れる。司法が硬直というか、死んでいる。


8 薄氷の殺人(T)
連続殺人もので芸術映画を撮りました、という出来である。その芸術がどこへ向かうのかよく分からないが。容疑者の女と性交したあとは放ったまま、というのはなあ。ダンス場に行って、なにやら楽しげに踊るのもなあ。容疑者の女は魔性の女ということになるのだろうが、そこまでは演出されていない。全体にこの映画、演出されていない。どこかで賞を取っているようだが、呆れたものである。女優は草刈民代に似ている、あるいは波瑠かな。中国映画である。まだ韓国レベルには達していない。


9 マッスル・ショウルズ(DL)
アラバマの田舎町マッスル・ショウルズは白人が奏でる黒人音楽ブルースで名をなしたところらしく、そこのバンドメンバーは頭領リック・ホールに心酔した連中。フェイムという名のスタジオが世界中から有名な歌手を引き寄せ、落ち込んでいる者は再起を、ヒットを狙う新人は華々しい門出を飾る。リックの心眼に狂いはないということか。途中から、バンドがよそに移るも、すぐに他のメンバーを集め、ヒットを飛ばす。プロデュースした曲が売れなければ、レコード会社との契約が切られる。そういう厳しさのなかで名盤を作り続けた様子がドキュメントで描かれる。自然が音楽を生む、それも川という自然が。美しい風景が何度も映される。登場するのは、ストーンズ、ボノ、サイモン、ジミー・クリフアレサ・フランクリン、スティーブ・ウインウッド、パーシー・ストレッジなどなど。リックは言う、「不完全さが音楽には必要だ。演奏中にドラマーが椅子から落ちたら戻ればいい。おれは不完全な完全主義者だ」。この言葉は痛く心に響く。


10 網走番外地・南国の対決(DL)
大原麗子谷隼人河津清三郎(悪党の頭)、沢彰謙(悪党のもう一方)、三原葉子、ほかアラカン田中邦衛、ひとり気障な殺し屋が吉田輝雄丹波哲郎がやるような役である。いつものやくざ路線と何ら変わらないが、刑務所の前で健さんと邦衛が組の様子を話し終わったところで、ジャジャーンと大きな音がして、主題歌に入るところなど、連続モノの雰囲気がよく出ている。沖縄がまだパスポートが要った時代の撮影である。異郷に行けば、必ず祭りの映像を挟むのが伝統のようなものである。マキノの拓いた道である。健さんのいつものニヒルとは違う、少しハイテンションの様子が見られるのが貴重か。


11 ブラックレイン(T)
初見である。こういう映画だったのね、である。松田優作がやたら目をひん剥いてしゃべったり、妙に大仰な話し方をしたり、まるでガイジンさんの演技。それに比べて健さんの普通だこと。しかし、通訳と使いっ走りの役で、よく仕事を受けたものだと思う。あれでは存在感がなさすぎる。マイク持って、レイ・チャールズ「Waht do I say?」をアンディ・ガルシアと一緒にシャウトする健さん。そんな脚本でも良かったのね。アメリカで撮るとアメリカ映画で、日本で撮ると日本映画になってしまう不思議。薄暮の大阪を右から左に俯瞰で舐めると、日本の三流映画のよう。冒頭から変な日本語が飛び出してくるのだが、誰か文句を言う日本人スタッフはいなかったのか。全体的に見れば違和感がないように作っているが、大阪のクラブ「みやこ」のあの喧騒はなんだ。そんな安上がりのところに日本の大親分が顔を出すはずがない。しかも、鉄鋼を扱う大きな工場を持っているヤクザとは何か。なにやらいつもうるさい日本、キラキラとパチンコ光りする日本、というのが彼らの固定観念である。監督はそれを思う存分に利用している。唯一、ケイト・キャプショウがきれいだったのが救いか。「インディ・魔宮の伝説」でもコケティッシュで、「ポセイドンアドベンチャー」のステラ・スティーブンスを思い出す。あともう一つ、ナイフや短刀で首をカットしたり、ちょん切る異邦人の怖さというのは、もしかしてこの映画から始まったのか? いまや中近東もロシアもインドネシアも、みんな悪い奴は鉄砲ではなく、切れものでバッサリである。


12 トラッシュ(T)
ティーブン・ダルドリー監督で、「リトルダンサー」「めぐりあう時間たち」「愛を読むひと」「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を見ている。脚本はリチャード・カティスで、「ノッティングヒルの恋人」「ビーン(TVの生みの親でもあるらしい)「ブリジット・ジョーンズの日記・正続」「戦火の馬」など。監督もやっていて、「ラブ・アクチュアリー」「パイレーツ・ロック」「アバウト・タイム」などがある。どれも見ている。
この映画はブラジルのスラムが舞台で、ひょんなことからマフィア絡みの事件に巻き込まれた子ども3人の活躍を描く。それぞれ愛しくなるような子どもたちで、白人ボランティアのルーニー・マーラー(「サイドエフェクト」に出ているらしいが、記憶にない。フィンチャーの「ドラゴンタトウ」「ソーシャルネットワーク」に出ている)、牧師がマーティン・シーンと布陣もいい。ただ、「リトルダンサー」が持っていた濃密な感じは薄れている。「ものすごく〜」は傑作であろう。


13 爬虫類(D)
渡辺裕介監督、渥美清西村晃大坂志郎の3人がアメリカ女メリーさんに食らいついて、ストリップ興行であちこち回るという映画である。すけべな巡査に伴淳三郎、金沢のやくざに田武謙三、メリーさんをもともと商売に使っていた、いわゆる女衒が小沢昭一先生である。ぼくは、渥美はどの役をやっても収まっていなかった説だが、この映画の渥美はハマっている。いざこざから用心棒の西村が辞めると言い出す。踊り子さんの衣裳は持って行くな、と薄情なのが渥美である。翌日、列車で西村と鉢合わせするが、西村はほんとは仲間と離れたくないので、同じ列車に乗っただけの話である。大坂志郎が気づいてほかのヤツがいる客席につれて行くと、渥美は一応驚いた顔をしながら、どうせそんなもんだろうという覚めた感じも出している。だけど突き放しているのではない、といった思い入れで、こにくらしいほどうまく演じている。このあたりの役どころがそうあるわけでもない。渥美がなかなかハマらなかったのは、そのせいである。この映画のめっけもんは、賀川雪絵というはすっぱ女で、釜が崎出身で、恋人を追っかけてきたという設定である。みんなで仕組んだ小沢昭一殺しの現場から逃げ出した恋人に愛想を尽かし、メリーさんのいなくなった3人の新たな稼ぎどころとなる。その素人な演技に、明け透けな脱ぎっぷりが合わさって、なかなか貴重なキャラクターである。底抜けに明るいのが救いである。50本弱に出ていて、ほぼH系である。むべなるかな、である。小沢先生は言うことありません。気障な進駐軍英語を話しながら、メリーさんと舌まで使ってキスをする。3人が睡眠薬を使って殺そうと画策がするが、自分は異常体質でふんだんに眠り薬を飲まないとダメだと、ガリガリ薬を飲んでしまう。しかも、電車の横断で轢き殺されたはずが、ぴんぴんしながら帰ってくる。毒気に当てられる演技である。


14 砂浜でサイモン・フィッシング(DL)
ユアン・マクレガー、エミリー・ホワイト主演、イエメンでサーモンを川に流す話と恋愛が絡めてある。イギリス内閣広報官長のクリスティン・スコット・トーマスが型どおりだが、彼女らしくない感じの切れ者官僚を演じている。楽しく見ていられる映画。


15 ファイター(DL)
また見てしまった。クリスチャン・ベイルは後頭部まで剃って、しかも薬チュウの感じをよく出している。最後に本人が出てくるが、それがよく似ている。マイケル・ウォーバーグは抑え気味の演技で、なかなかいいじゃないか、という感じ。エイミー・アダムスのはみ乳はなかなかのもので、アメリカン・ハッスルの前にここでやってたのね、である。お母さん役のアリッサ・メオというのがくせ者でいい。一人の儲ける人間に家族みんながタカる構図は、世界どこも変わらない。


16 あなたが寝ている間に(DL)
電車の料金係のサンドラ・ブロックが利用客の一人に恋い焦がれたのが物語の始まり。いろいろあって、当初の男は違う人物、実はその弟と結ばれることになる。下宿先の大家の息子とのコメディタッチな関係が挟まれていて、それが効いている。サンドラには初期からその気があったのだ。彼女が好かれるのは、自己主張の強い女が多いハリウッド映画のなかにあって、どこかはにかみ屋で、男を立てるところがあるからではないか――この映画はそのことを強く意識させるものになっている。弟を演じたビル・ブルマンというのは声がかすれていて、それが印象深い。


17 やさしい本泥棒(DL)
とてもウエル・メイドな映画である。凝っているのではない。人物とシチュエーションが無理なく、きちんと説明されながら、劇が進行していく。もちろんジォフェリー・ラッシュ、エミリー・ワトソンの義父・義母のキャラクターがとても効いているということがある。登場人物たちに割り振られている時間は、主人公とその義父・義母を抜かせば、かなり限られている。しかし、人物像がくっきりと伝わってくる。脚本マイケル・ペトローニ。教科書のような映画と言っておこう。


18 さよなら歌舞伎町(T)
いわゆるグランドホテル形式のリトル・リトル・ラブホテル・バージョン。予定調和のカップルが4つに1つおまけ。監督廣木隆一、脚本荒井晴彦中野太。廣木では「ヴァイブレーター」だけ見ている。同監督の「女男の一生」は気になっている。主演前田敦子染谷将太、脇に南果歩松重豊、河井青菜、イ・ウンウなど。


19 味園ユニバース(T)
このデジャブな感じは何なんだろう。記憶喪失の男、やんちゃなおじさんミュージシャン、けなげなマネジャー女子エトセトラ。記憶の回復が意外と早い。女子マネがもう一度男の記憶を奪うために乗り込んだどこかのビルの屋上、チンピラが男を取り巻いていたわけだが、そんな危ないところからどうやって男を奪還したのか? 悪の道に戻りそうな男が、ろくでもないステージに戻る動機をきちんと描いていない。少し客を舐めているかもしれない。監督は山下敦弘、「リンダリンダ」を撮っている。ほかにもいろいろ撮っているが、まともに見たことがない。マネージャーの二階堂ふみはかわいい。他の映画も見てしまうだろう。


20 リンダリンダリンダ(DL)
前に冒頭のシーンで投げ出した映画である。自主制作っぽく見せる手口で映画を見せられてもな、という感じだった。今回、その先を見て、バウンス・コギャルを思いだした。ぼくはそれを傑作とする者である。あれに出ていた佐藤直美の姉御的な感じがたまらなく良かったのだが、今回はドラマーの女の子が外形が似ているが、性格的にはリードギターの女子がそれに当たるだろう。そのリードギターの女子が別れた男のところにスタジオを借りに行き、男にかまわれたあと、仲間の3人にニヤニヤ見つめられて、恥ずかしそうにするシーンは心に残る。ベースを弾いている子がいちばん普通の子だが、これも大事な振り子の中心点のような役目を担っている。韓国のペ・ドゥナが言葉の壁を越えて、歌を自分のものにしていく過程が、大事な柱になっている。あれをジャパニーズにしなかったのは正解である。女の子の男気を描いたものと言っては語弊があるかもしれないが、なにかそういった爽やかさが漂っている。あと黙しの良さがある。これは日本に特殊な文化ではないかという気がする。とくに若い女子に特有な会話の呼吸である。岩井俊二の「花とアリス」も傑作だが、この映画も上等で、ほぼ同時期にこの種の映画が撮られているのは、どうしてなのか。「下妻物語」もある。この映画、同じ廣木隆一監督の「味園ユニバース」より格段に出来がいい。


21 ペインテッド・ベール(DL)
painted veil がどういう意味か分からないが、透けて見えるものも色を塗ってしまえば遮蔽幕に変わるごとく、人の心も猜疑や嫉妬に塗られて、見えにくくなる――そういった暗喩かもしれない。エドワート・ノートンナオミ・ワッツが制作で、主演。原作サマセット・モーム。何が2人を動かしてこの映画を作らせたのか。妻に裏切られた細菌学者が、復讐も兼ねて中国奥地のコレラが猛威を振るう地方へとやってくる。そのうちに夫の献身的な姿に打たれて、2人は和解する。妻を過分に愛したがために、本当の妻の姿が見えない夫。妻は遊び好きの、平凡な女であるが、自分を大きく見せたり、作為を働かせるような女ではない。それが分かって、2人は均衡点を見つけたわけだ。山奥にいる村長的な役割の老イギリス人が満州人の若い女を囲っていると見えたのが、実は父母を殺されて行き場のなかった彼女が後をついてきたと分かり、意外な好人物であることが分かる。病人や子ども助ける修道女や、現地の隊長も、みんな善人ばかり。コレラさえ無ければ理想郷かもしれない? いやコレラがあったからこそ理想郷なのかもしれないのだ。


ノートンにまだ若々しさが残っているが、映画は2006年で「イリュージョニスト」のあとに撮っている。出演本数が減ってきたのは、やはりインクレディブル・ハルクの影響ではないかと思われる。ナオミ・ワッツは「マルホランド」で初めて見た女優だが、なかなかそのあとの作品に巡りあうことができず、かえってここ数年のほうが出番が多いのではないだろうか。ぼくは「イースタンプロミス」あたりから、彼女に注意がいくようになった気がする。「マルホラン」での脱ぎっぷりの良さにはビックリしたが、彼女の特徴的な意志の強い顔は忘れがたいものがある。口の左側に強い張りがあって、それが彼女の特徴なのだが、ジェーン・フォンダにも同種のものがあり、やはり年をくってからの方が彼女も味があった。


22 パリよ、永遠に(T)
ほぼ室内劇に終始する。よってよほどの脚本でないと展開は無理。途中で寝てしまった。しかし、一人の外交官(スウエーデン)によってパリが燃えずにすんだのは、慶賀に堪えない。ヒトラーから命を受けた大将は、戦局が進んでから総督に会っているが、そのとき口から涎を垂らし、目の濁った男に絶望を感じていた。そんな男の言葉を聞いて、永遠の都を滅ぼしていいのか、その汚名をそれこそ永遠に残していいのかと煩悶する。答は否で、外交官はユダヤ人の妻を秘密ルートで逃がしたことがあり、絶対に安全であるから、大将の妻女や子を託してくれ、と説得し、成功する。そこに真実があったからである。


23 イミテーション・ゲーム(T)
カンバーバッチ主演でパソコンの創始者アラン・チューリングを扱っている。大きな自動計算機を作ってナチの暗号を読もうとするが、いま1つブレークスルーしない。そして、ある繰り返し使われる言葉を思いついて、そこから解読が始まる。なんでそんなことに気づかないのか、と思うが……。同性愛者である主人公が突然、婚約者キーラ・ナイトレイに冷たい言葉で婚約解消を言い出すシーンが、それこそ唐突でよく分からない。吃音で、コミュニケーション下手というのは、この種の天才の常道か。「博士と彼女のセオリー」はシネマカリテの15時台が一杯、次の回も残り少ない、ということで、カンバーバッチに切り替えた次第。


24 博士と彼女のセオリー(T)
宇宙物理学者スティーブ・ホーキングの物語である。丁寧に細部が描かれていて、イミテーションゲームより上等である。妻のワイルド・ジェーンを演じているのがフェリシティ・ジョーンズスパイダーマン2に出ていたらしいが記憶にない。彼女の化粧が年齢によって変わるのが見所かも知れない。とくにホーキングとナースのエレイン・メイソン(演じているのはマキシン・ピークで、いい感じである)の関係を疑いはじめたときの、いかにも宗教を信じている人間の固さが出ている。ホーキングスがエレインと二人でアメリカ講演に行くと言ったのが、妻との別れの宣言なのだが、ホーキングの膝に手をやって、私なりに最善を尽くしたと涙を流す。この描写の前に、もう少しホーキングとエレインの睦まじい挿話があれば、違和感がなかったように思う。彼が難病で身体が動かないのに第三子をもうけたことで、妻に不倫疑惑が浮かぶが、前の方で下半身は別だという台詞もあって、ちゃんと準備はされている。結局、ホーキングはエレインとも別れているが、映画ではそこまでは描かない。ジェーンはのちに中世詩に関する博士号を取得している。


ケンブリッジの古臭い実験室にホーキングが初めて入るシーンがあるが、ここで偉大な科学者が生まれたと説明されるが、アラン・チューリングを含めて、イギリスにある天才を生み出す底深い文化のようなものが感じられる。とくに初めてジェーンを家に招いたときの家族とのユーモアとウイットを交えた会話は、印象が深い。それと、博士号取得のための口頭試問も、非常にフランクでありながら、それでいて業績についての期待の大きさを率直に表明するところなど、懐の深さを感じさせる。


25 月はどっちに出ている(DL)
何回目になるだろう。いくつか気づいたことがあるので、それに触れたい。まず冒頭のシーン、ビッグバンドの音楽が賑やかに流れて、最初から気分が昂揚した雰囲気で始まる。カメラはやや俯瞰で撮っていて、声が聞こえてくるが、それも複数で焦点がない。この感覚は新しい。そして、タクシー会社2階へとカメラは移動し、ちょっとした会話のあと、結婚披露宴へ。そこで北と南の軋轢が少々紹介され、タクシー会社社長の携帯に儲け話の電話が入り、相手も式場に着いていて、携帯で話しながら近づく。ソファに座って語られるゴルフ場買い上げ話のなかに、「主体的」の言葉が何度も挟まれる。その常套語を言うのが遠藤憲一である。それにしても、変な、しかし愛嬌のある大阪弁をしゃべるルビー・モレノという得がたい女優を見つけたのが、この映画の成功のカギである。清純さもある。この女優と、事務所の電話番で中心的存在の麿赤児の場違いな丁寧な話し方かつドスの利いた声が、この映画の中心線である。あとホソという元ボクサーの繰り返し言う、俺は朝鮮人は嫌いだ、だけでチュウさんのことは好きだ、という台詞もまた。ユーモアがこれだけ明確に意識的に盛り込まれた日本映画はそうないのではないか。そのスタイルで在日問題を切り取ったということである。


26 ビバ・ラスベガス(DL)
プレスリー映画で、相手はアン・マーグレット。彼女はスウェーデン美人らしい。もともとダンサーから始まった人で、歌も歌える。この映画ではそれが十二分に発揮されている。ぼくは『愛の狩人』でガーファンクルと見せた掛け合いが忘れられない。いたずらっぽい目とからかうような様子の口元が印象的である。ネットで見ると74歳の彼女の様子が出てくるが、相変わらずの美貌にびっくりする。プレスリーの秘書的な存在だったジェリー・シェリングは、アン・マーグレットのことを「すごく恐かった」と回想記に書いている。歌も踊りもたっぷりあって、当時のプレスリーファンは、存分に楽しめた映画ではないだろうか。プレスリー自体はいつも同じような映画を撮らされることに嫌気がさしていたわけだが。


27 阿修羅のごとく(DL)
主題が阿修羅なのに緩い映画である。冒頭に何やら激しい太鼓の音がするが、これはラスト近くにも繰り返される。しかも、主題歌というのか、最後に場面が残るうちから変な日本語が聞こえてくるが、これがフランスの歌なのである。黒沢明は、緊張感のあるときに間伸びしたピアノ音を聞かせるようなことをしたが(野良犬)、それと似た狙いか。綾瀬はるかの「座頭市」でのっけからイスラム風の歌がかかったのには、驚いたというか、嬉しく、本編が楽しみでしょうがなかった。映画音楽には、いろいろな楽しみ方がある。


この映画は父親(仲代達矢)の不倫を中心に回るが、娘に面と向かってそれを指摘されても平然としているのだから、小さな波しか立ちようがない。相当の年の離れた女性(紺野美紗子)に子を産ませているが、さてどんないきさつがあったのかはいっさい触れられない。しかも、女からあとで「結婚をする」と言い渡されてしまう。長女も不倫し、次女は旦那(小林薫)が不倫し(これも旦那の不倫相手から結婚報告を受ける)、三女は人間関係が苦手で、さらに人間関係が苦手な男と結婚し、四女はいちばんしっかりしているが、結婚相手はボクサーで、通常の世界にいる人ではない(殴り合いのせいか、ベッドで寝たきりになる)。それぞれのスッタモンダを描きながら劇は進むのだが、合間あいまに家族の小さなを映像を挟む。劇は同時進行しているというサインなのか、ちょっとした遊びなのか分からないが、違和感はない。それにしても、向田邦子は家族(だけ)によほどの思い入れがあった人のようだ。それに、エッセイでも不倫に甘い。三女を演じた深津絵理が型にはまった演技かと思ったが、後ろから離れて撮っても、ベンチに座るシーンで妙なぎこちなさを演じているのには、唸ってしまった。それと、黒木瞳が母親に気取られまいと、父親の不倫とよく似たケースを書いた新聞投書欄を見せまいと、やおら倒れて新聞紙で畳を叩くシーンがすごい。ゴキブリを狙ったという言い訳だが、なかなかの体のキレである。それにしても、監督森田芳光、ちょっと倦怠期である。


28 ロックスター(DL)
マイケル・ウォーバーグという役者はぬいぐるみと演技したり、ボクサー、スナイパー、セックス俳優と幅が広いのか、節操がないのか分からない。恋人役がジェニファー・アニストンで、なにかすがすがしい感じの人である。あるロックグループのコピーをしてきた男が急遽、代役に収まり、その世界の腐敗にはまりこんでいき、やがてそれに飽いて(あるいはその悪弊を反省して)、もとの仲間とフォーク風な曲を歌い出す。ロックがアメリカで根強い人気を保つ根っこにある熱気のようなものが感じられる。


29 偶然の恋人(DL)
ベン・アフレック、グイネス・パストロウの恋物語。ハリウッドの子役のうまいこと。パストロウが「アイアンマン」で秘書役に甘んじているのが、不思議だった。アフレックは監督としての期待が大きい。罪悪感を持った男には女の方から近づかざるをえない。ゆえにパストロウは夫を失った痛手を抱えながらアフレックに誘いをかけるわけだが、そこにはのちに見せる煩悶の影が見えない。恋の開始には邪魔だというわけか。一方ではそれをご都合主義と呼ぶのではなかったか。


30 きっと、星のせいじゃない(T)
原題が The Fault in Our Stars というのだから、「ぼくたちの星の過ち」と邦訳の反対の意味になるのでは。主演がシャイリーン・ウッドリーで、ジョージ・クルーニーと「ファミリーツリー」というのに出ているらしい。あと「ダイバージェント」というのでアクションを披露しているらしい。女優が早めの段階でアクション、というか格闘シーンを披露するというのは、アンジョリーナ・ジョリーが始めたことだろうか(「ニキータ」が先だが、その女優が後まで活躍したかとなると?である)。Fuck you! といわれるアル中で、性格破綻の作家を演じているのがウイリアム・デフォーで、ちょい役でかわいそう。男性主役をイケメンと中で評しているが、大いに疑問がある。両目を病気で失う友達が味がある。お母さん役がローラ・ダーンで、娘を思う気持ちが溢れている。劇場の客がほぼ女性ばかりという映画である。もちろん泣きました。「リトルダンサー」が同じ状況だったことを思い出す。


31 バードマン(T)
イニャリトウ監督、主演マイケル・キートン、客演エドワード・ノートンナオミ・ワッツエイミー・ライアン(元妻、ロザンヌ・アークエットに雰囲気が似ている)、アンドレア・ライズブロー(現恋人)、エマ・ストーン(娘、アメイジングバットマンで見ている。目が大きく顔の半分はある)、プロデューサー(ザック・フィリナースキ、ハング・オーバーで見ている)など。イニャリトウは「アモーレ・ペロス」「バベル」を見ている。


かつての英雄が復活するという話だが、キートンは「バットマン」を演じていたことがあったので、それとのダブリを利かせてあるということなのだろうが、ミッキー・ロークとは違って、彼はその後もそれなりに活躍してきたのではないか。なかに現役俳優へのくすぐりがある。たとえば、飛行機でジョージ・クルーニーと同乗したが、事故に遭えば一面は彼で埋められる、という。あるいは、ファラ・フォーセットーの死もマイケル・ジャクソンの命日と重なったので、記事は埋もれてしまったとか、整形するにはメグ・ライアンのかかった医者がいい、といった下品なのまである。芝居小屋の近くのバーには、ニュヨークタイムス(?)の辛辣劇評家という女も出てきて、キートンに食ってかかられる。キートンが自分の鼻を舞台上で銃でぶっ飛ばし、病院のベッドで顔に包帯が巻かれていて、それがバットマンのマスクのように見えるという遊びをやっている(笑えないが)。もちろん目玉の部分は空いている。この映画は、芝居の裏側を描いたバックステージ物で、劇場下の迷路をあっち行ったり、こっち行ったり、カメラはアルトマンのようにシーンを繋げていく。この地下の感じ、アルトマンの最後の映画「今宵、フィジェラルド」で見かけたし、ほかでもいろいろ見たように思う。地下をカメラが移動し、しまいに外でドラムを叩いていたやつが、その地下の一室で演奏していたりする。全編にドラムの音が鳴っている映画である。


新規は、かつての飛び物の英雄の幻像が主人公に生きていて、超能力を有しているかに描かれるところだ。虚実をないまぜに遊んでやろうという映画である。楽しめましたと言いたいが、エマ・ストーンがビルの屋上の端っこに座っていたり、主人公がビルの上から飛び出したり、恐くて気が気でない。飛び物は当然飛べると思っているから安心して見ていられるわけで、そうではないかもしれない、と思えば、尻が落ち着かない。


最初はほとんどエドワード・ノートンが食っている。しかし、それは演出で、残り30分ぐらいはキートンに花を持たせている。それでもノートン好きとすれば、ほどほどの異常性を発揮するだけでいいという設定は、彼にとっては歓迎すべきことで、これから役者として長生きができそうである。でも前半の悪魔振りが後半、まったく鳴りを潜めるのは、脚本のまずさ以外の何物であろうか。ノートンは「新ボーンアイデンティティ」でもまともな役をやっていて、それなりに目立っていた。この映画でエマ・ストーンとtruth or dare の遊びをやっていた。「真実か挑戦か、どっちか選べ」というゲームである。それをやりながら、2人の気持ちが近づいて行く、という設定はなかなかいい。ナオミ・ワッツは痩せたのか、化粧がいつもより薄いのか、存在感がなくなっていたのが寂しい。


32 ヒミズ(DL)
園子温監督、主演染谷将太(住田君)、二階堂ふみ(茶沢さん)である。親の虐待に遭っている2人の中学生(どう見ても、そうは見えない)が辛くも生き抜いていこうという映画で、それと3・11の被災地の様子を重ねている。住田という青年の周りに集まってくる人たちはみんな被災者という設定である。それがどういうわけかみんな住田君を愛して、尊敬もしている。それはなぜなのか。元社長という夜中さん(渡辺哲)が言うには「未来」だと。その内実がきっちり描かれたかと言えば、疑問である。被災地との関連も見えない。住田君は不思議な青年で、悪人殺しをしようとするが、ことごとくうまくいかない。父親に金を貸したやくざ金融業者(でんでん)は金が完済されていて、狙う意味がなくなる。ストリートデュオを殺そうとする精神異常者はほかの人間に押さえられる。それはバスのなかで凶行に及ぶ若者も同じ。住田君が殺せたのはただ一人、我が父親(三石研、『共食い』でも暴力父親を演じていた)だけである。これは、息子の誕生を呪い、常に暴力を振るう父親は殺してもいい、ということか。その、どう藻掻いても人を殺せない善性が、人々の支持を集める理由なのか。これは奇跡の映画なのか。


男どもはどれも存在感が薄い。暴力を振るう男だけが存在感があるという逆立ちした世界がここにある(いや、これは当たり前か)。それに比して女たちの印象度の強さはどうか。ただし、それも肉体の表出としての女だから、暴力男と同じレベルで描かれていると言える。住田君の母親、テントで暮らす元サラリーマン風の男の彼女(妻?)、やくざ業者の女、茶沢さんのお母さん、みんなエロティックな女ばかりである。茶沢さんの父親など、ほんとに父親なのかどうかさえ分からない(堀部圭亮が演じていることは、ネットで調べるまで分からなかった)。


冒頭に、被災者を含めた登場人物が集まって話をするシーンが、みんな演劇的な大仰な話し方がする。会話のリズムも合っていない。この映画はひどい、早めに止めようと思ったのだが、これは監督の演出で、次第にその臭さが解かれていくのだが、おそらく被災をテーマとしつつも、そこに直接に結びつかないための、ある種の操作ではないか、という気がする。これは作り物ですよ、という監督からのメッセージではないか。それは二階堂ふみの話し方に典型的に表れていて、どこか演劇的なのである。ヴィヨンの詩を読んだり、住田君が暴力的になったあとに必ず呪いの石(正確な名を忘れた)を手にかざして、「これが一杯になれば、ずべてを投げつける」と宣言する様子などに、その演劇性が現れている。この映画の面白さは、この演劇性の処理にあるように思う。二階堂ふみは、この映画ではあまり買いに傾かない。


新しい映画を見た感じはしてこない。それは、内面の問題と被災の問題の重ね合わせ方がうまく行っていないからである。人間の暴力とあの徹底的な自然の破壊力とは、釣り合いがとれない。意図が透け透けなのは、それでいいんだという監督の居直りだろうが、やはり企画に無理を感じる。ただ、園子温監督がこういう映画を撮ろうとする人だったのだというのは、記憶に留めておくべきだろう。


33 私の男(DL)
熊切和嘉監督で、彼のは「鬼畜大宴会」「空の穴」「海炭市叙景」を見ているが、ほかに16作ぐらいあるようだ。いまの時代にこれだけ撮れるというのは驚異である。今作は主演二階堂ふみ浅野忠信で、客演が藤竜也モロ師岡、河井青葉(「さよなら、歌舞伎町」で女刑事をやっていた)である。疑似近親相姦、あるいは変種のファム・ファタールものである。まぐわいの最中に血の雨が降ってくる演出は、あとのナイフによる殺人と呼応するようになっている。幼いときは「父親」のことはすべて分かったが、いまはもう分からない、という二階堂の台詞があるが、それは当たり前である。父親も狭い枠で子どもに接し、子も自分の小さなメガネで父親を見るからである。セックスに至った親子は恋人と同じで、どこかで飽きがくる。最後の映像は、それでも2人は結びついている、という設定だが、波乱はこれからも続くだろう。しかし、ぼくはもうこの種の映画には耐えられない。


34 マジック・イン・ムーンライト(T)
ウッディ・アレンイーストウッドは化け物か、また新作である。この堰を切ったように撮りまくる老大家の背後にあるものは何か。かつて市川崑は何でも映画にできる、と豪語したが、何かそれとはレベルが違う感じである。イーストウッドでいえば、戦争、老い、エンターテインメント、殺人、異常性……扱うものが幅広い。底に冷たいリアリティがどっしりと座っている。対してウッディはますます軽さの妙を見せ、時代は1920年代へとタイムスリップすることが多い。今作はまさにそれで、あの時代のゴージャスな感じが伝わってくる。


主演、目の大きなエマ・ストーンコリン・ファースである。コリン・ファースの叔母役が人生の深みを味わったひとの厚みがよく出ていてグッド。まあほかの配役も良くて、大富豪の未亡人も淳朴でいい。一編のコントを見るようで、見事と言うしかない。持って回ったイギリス英語の良さが、恋に直接的に向かうことのできない中年男にはぴったりである。エマ・ストーンはこの映画が画期になって、大女優への道を歩むことになる。

35 レオン完全版(T)
劇場でレオンを見るなんて久しぶり。むかしオードリーは、何十歳も歳の離れた男性に恋をする役だったが、レオンはそれを踏襲していると言えないこともない。しかし、12歳の子が中年男に惚れ、男も惚れるというのは、やはりベッソンの趣味が現れているということだろう。ナタリー・ポートマンの演技のうまさ! 驚くべきことである。


36 インヒアレントバイス(T)
ポール・トーマス・アンダーソン監督で、主演はホアキン・フェニックス、脇がジョシュ・ブローリンオーウェン・ウィルソンベニチオ・デル・トロ。別れた女が戻ってきて謎を残していく。不動産富豪の妾だったのだが(あとで高級娼婦であったと告白する)、その妻が不倫相手とグルになって夫を精神病院に送り込もうとしているという。自分も誘われたが、迷っている式のことを言う。私立探偵のホアキンは探りを入れるが、あまりにも複雑すぎて、何がなんだか分からない。監督は実は謎解きには興味がなくて、観客を迷宮に誘うディテクティブ物に興味があるだけだったのではないか。というのは、結局、全体の黒幕が突然、捜査の線とはまったく違うところから出てくるからである。原作はトマス・ピンチョンであるが、どういう作品を書く作家なかのかまったく分からない。覚醒剤なのか、大量に手に入れたホアキンは、黒幕との交渉で、オーウェンウイルソンの二重スパイを返してくれるなら、マネーも要らないと交換条件を出す。オーウェンは自分の身の危険が家族に及ぶことを恐れて、妻子のもとに帰れない、と言っていた男で、二、三度会ったにすぎない。この天性の善人が再び元の恋人を獲得するイニシエーションを探偵物に仕組んだということであろう。音楽にニール・ヤングを使っていたのは、あのまったり感がこの映画にぴったりである。ちなみにインヒアレントバイスとは「内在的欠陥」のことであるよし。


37 皆殺しのバラッド(T)
ドキュメントだが、「シティ・オブ・ゴッド」などフィクションの方が恐い。ナルコリードというメヒコ・ギャングを讃える歌手が、実はメヒコの現実を知らないということで、短い滞在をする。それを歓迎する層がアメリカにもいて、ヒッピホップが築いた地位を奪うかも知れないという。テキサス州エルパソでは年に5人の殺人事件があり、国境を跨いだこの映画の舞台となった町は月に3千人弱の殺しがあり、その97%が未捜査に終わるという。司法の場でも裁きに付されることが少なく、マフィアはやりたい放題である。警察もグルなので、市民は声を挙げられない。もともとは大統領がマフィア撲滅を掲げて、掃討作戦に出たことで、マフィアが北米との国境の町へとなだれ込んだことが大きいらしい。法務省の現場査察官(?)の一人が主人公だが、彼の上司である主任はマフィアから脅しを掛けられ、辞職に追い込まれている。いやはや法があり、警察がふつうに機能し、検挙率も高く、ポリスの腐敗もない、ということがいかに奇跡的なことか思い知らされる。


38 KITE(T)
日本の漫画が原作であるらしい。若い女が武闘に長けているという映画に、なぜこうも弱いのか。イエローを少なくした色使いなので、全体に青錆びた感じが強い。そのなかで主人公の髪だけ赤色を強調しているのが目立つ。長じるまで、どういう練習でこういうスーパーパワフルな女が出来上がるのか、この映画ではそれはまったく描かれない。首をちょん切ったり、そんなことばかり。画面が汚い。タイトルの秘密は最後に明らかになる。


39 博打うち 総長賭博(D)
何度目になるか、やはり緩みのない、緊張感のある映画である。二代目を継いだ名和宏が、裏の策謀を知らずにいて、一途に2代目であろうとするところに、この映画の核がある。兄弟分の鶴田と若山、そしてその周りの子分や叔父貴集は、みんな任侠という理屈の世界に生きていて、どっちが筋を通しているかが、生きる秤である。一人金子信雄だけが経済合理性に生きていて、彼によって任侠の世界が崩されようとする。その背景に軍による統制組織づくりがあり、金子は進んで組を解体して、そこに加わろうとする。やくざ者映画は、ほぼ任侠と経済覇権との相克であり、前者がオールド世界を、後者が競争の新世界をシンボライズしていることで、観客は世に弾かれたような層が中心になって、熱狂をもって任侠のオールド世界を受け入れた。


40 龍三と七人の子分(T)
ひさしぶりに見るタケシ映画だが、やはり見ないほうが良かった。息子のことでオレオレ詐欺にかかりそうになった龍三が、田舎から帰ってきた息子と会ったときに、いっさいその話をしないのはなぜか。息子の嫁がただ太っただけの女で、よくこんなのを選んだものだ。バーの女萬田久子の部屋に行って飲むが、そこにチンピラの頭領がやってきて逃げ出すが、そのあといっさい万田との絡みはない。まあいい加減に作ったんだろうから、やいのやいの言うのも野暮。近藤正臣の演技はほかと絡まないひどいものだ。上野の西郷さんの前で昔の仲間と顔を合わせるときに、龍三と近藤のほかにもう一人いて座っている。それが先にちょっと出てきたカミソリの何とかというヤツらしいのだが、そんな端折り方しなくてもいいのでは。


41 座頭市の歌が聞こえる(DL)
客演小川真由美(娼婦)、天知茂である。悪人が佐藤慶である。哲学的な琵琶法師が浜村純、子役が「網走番外地 南国の対決」に出ていた子である。やくざ者が殺されるところから始まるのだが、ほかにもこのスタイルがあったような。預かった金子を届けに小さな宿場町に行くが、そこに阿漕なやくざがいる、という設定である。小川真由美というひとは色気のある人で、子どもごころにもそう思った記憶がある。声に含んだところがあり、あと発音が平板なところも魅力だった。座頭市が祭の太鼓で方向感覚が狂うという設定だが、まったく意に介さず居合い殺法が炸裂。どうなっているんでしょうか?  シリーズ13作目。


42 フォーカス(T)
ウィル・スミス主演、女優がマーゴット・ロビーで、ぼくはこの女優を何の映画で見たか記憶にないが、この映画の彼女は儲けものだろう。超美人でありながら純朴な面も持ち合わせた役柄で、しばらくこういうキャラクターを見ていなかった感じがする。アドリアン・マルティネスという太っちょでエッチなアフロ頭の脇役が秀逸で、笑うとトム・クルーズの「エージェント」の子どもみたいな顔になる。いわゆるコン・ゲーム映画だが、エンドロールの最初のところにcon artist ということで名前が出ている人物が財布泥棒などの技の指導をしたのだろう。それにしてもアーチストかと思う。充分に楽しませてもらったが、突然、マーゴットをソデにする理由が明確でないことと(あとでプロとして「情」の介在を嫌ったということなのだろうと分かるのだが)、種明かしに弱さがある。ほぼ3分の2が圧倒的だっただけに勿体ないと思う。ラストにダスティ・スプリングフィールドの「The Windmills of Your Mind(風のささやき)がかかるが、なぜか分からない。ただその哀調を帯びた感じがマーゴット・ロビーの演技を思い出させて、なかなかいい味なのである。この映画はもう一度見るだろう。デイゼル・ワシントンの「イコライザー」をクロエ・グレース・モレッツで見直したように。


43 七人の侍(DL)
見る映画がなくなると見たくなる定番があるが、この映画もその一本。気分が昂揚するのが分かるので、ふと見たくなるのである。今回気づいたのは、志村喬の登場場面が無音だということである。人がざわざわと騒いでいて、誰かが人質に取られて農家の広い敷地内の小屋にいることが分かる。志村は小さな川の縁で頭を剃ってもらう。それにおにぎりを2つ頼んである。何が起こるのだろうという緊張が高まるが、人の動きは細かく追いながら、音はしてこない。志村が剃髪して僧形になったところで小盆に載せられた握り飯がやってくる。それを持って志村は賊のいる小屋の前に来て、声をかける。それでやっと有音の世界に戻るのである。なんとも見事なものである。


それと七人の侍のそれぞれの役割を考えてみる。志村は経験豊富で優秀なリーダーだが、人柄の良さが恐らく彼をウイナーにしなかった理由かと思われる。加藤大介がかつての部下だが、実際の戦いでは稲葉芳男のほうがよく気が利いて働いている。言えば稲葉が部長クラス、加藤が課長クラスかも知れない。こう書くと加藤と稲葉の扱いが難しいことが分かる。体型も似ているのは意図的なもので、会社組織で部長、課長といった二枚の中間管理職の駒がないと薄手に見えるのを防いだ布陣だったのではないか。千秋実コメディリリーフ的な扱い、宮口精二は直線的に目的を達する超有能な現場社員であり、これも平社員の対として考えることができる。若き木村功は新入社員。そして、残るが三船だが、彼はそもそも会社という組織が合わない一匹狼のはずだが、ともすると一種類の血で染まってしまいがちな集団を活性化させる役目を果たす。あるいは、放っておくとすぐにでも観念化する集団を、足が地に着いたものにする役目、と言っても同じことである。三船(菊千代という侍のフェイク)がいないと、殺人集団とそれを雇う農民という構図しかない。それを繋ぐ役目がどうしても必要になるといいうことで、三船の役柄が設定されているが、ほとんどろくな言葉を喋らず、野猿のような奇妙な叫びを上げる設定は絶妙である。人外の民といった風情である。彼がこの映画で生き残らないのは、やはりその帰属性のなさのゆえで、秩序の戻った村社会にはもちろん帰る場所がないし、侍として士官の道を求めるにはそこも自らの居場所ではない。純なヒロイズムを味わった以上は、下手な生き方ができない。よって彼には戦死が相応しかったのである。死を前にすると城の中でも男女の間に熱烈なことが起こると、木村功津島恵子の一件を加藤大介が説明するシーンがあるが、ラストに津島が木村の視線を振り切って田植え作業に加わる理由を説明している。死を賭した戦いが終われば、強い岩盤の日常が戻ってくるわけで、あの燃え上がった男女の仲を維持するのは難しい。それに異常な時間だからこそ乗り越えた身分の溝も、瞬く間に不可能の口を広げてしまう。ゆえにここには余計な言葉の説明を加えない黒澤の判断は合っているのである。映画を組織論として語っても味気ないだけだが、やはり稲葉と加藤の役割分担が気になるので一考しないわけにいかない。


44 そして父になる(D)
是枝ファンとすれば、「奇跡」あたりから積極的に劇場で見たい、という感じがなくなっている。彼の作品では「歩いても歩いても」が家族の深淵を見せて一番の好みだが、「ディスタンス」「幻の光」もいい。子どもを扱うと底が知れている感じがして、食指が伸びないのである。実際に見れば、その子役の使い方のうまさにはびっくりするわけだが、では映画として膨らみはあるのか、となると微妙である。今作もやはりそう思わざるをえない。今回は子どもを取り違えられた家族の対比がはっきりし過ぎているだけに、よけいに面白みに欠ける。それに福山雅治の演じるエリートサラリーマンはいかにもステレオタイプで、もうこんな人間などいないのではないか、と思う。疑問は2つ、取り替えばやのあと、福山の子となった琉晴は、啓太が通っていた私学の小学校に試験を受けずにすんなりと入れるのかどうか。別人なのだから試験はやり直しで、そうなれば琉晴は落っこちて公立に通うようになるのではないか。もう1つ、雅治は宇都宮支局に飛ばされたはずだが、なぜ前の東京の住まいに住んでいるのか。あるいは、東京から通っているという設定か。それにしても、エリート主義だった雅治は気落ちの様子も示さないのはなぜか。それに、人工林に外部から蝉がやってきて子を産むようになるには15年かかるという逸話が、ただそれだけで、あとのストーリーに効いてこない。きっと福山の演技の悪さに起因していることだろう。あるいは、あとで蝉の絵を挟むなどの演出不足か。


ラストの、手放した我が子を説得する場面、移動カメラで親子を撮しながら、微妙な和解の心理を追うわけだが、それは福山には荷が勝ちすぎた話ではなかっただろうか。一度、親に捨てられた子は、長じてからまたこの親の冷たい措置を思い出すことだろう。できうるなら平安のうちにその時をやり過ごすことができれば、と祈るばかりである。琉晴にはほぼその心配はなさそうだが。


45 あの日の声を探して(T)
すごい映画を撮るものである。ミシェル・アザナヴィシウス、「アーティスト」の監督である。主演も「アーティスト」に出ていたベレニス・ベジョで、その映画での記憶がまったくない。主人公に「ほくろを付けろ」と言われた女優がいたなあ、ぐらいである。ナタリー・ウッドによく似ている。これがEU人権委員会の人間で、第二次チェチェン侵攻(99年)における非人道的戦闘行為の聞き取り調査をしている。国際赤十字の所長(?)がアネット・ベニングで、だいぶお年を召されて、恰幅も出てきたが、相変わらずお美しい。こういう映画に彼女が出ているのが不思議だし、何を見て彼女を起用したのだろうか知りたいところである。彼女の夫君はたしか有名な民主党支持者だったはず(ウォーレン・ビューティである)。両親をロシア兵に殺され、だいぶ年の離れた姉も殺されたと思い、姉の乳飲み子を抱いて村を出た少年が、やがて町でベジョに出会い、唖の状態から言葉を回復していく。ベジョもまた半ば理念で関わっていた仕事に心から踏みこんでいくきっかけとなる。死んだと思われた姉は弟を追って、町にやってきて、国際赤十字のもとで仕事を得る。最後に姉と弟は出会うことができる。一方、ある青年が220キロ離れた町で、マリファナを街中で吸っていた廉で、チェチェンの戦場30キロ近くの部隊へと送り込まれる。初めは軍に対して批判的だった彼は、次第に殺人マシンへと変貌していく。とくにその転身を後押ししたのが、いつもいじめられている気弱そうな男と一緒に先輩2人に野原に連れ出され、裸になれとピストルで脅されるが、それには従わず、いそいそと脱ぎ始める奴に襲いかかり、散々に殴りつけた一件である。絶えず繰り返されるしごきの暴力、そして「カマ野郎」などの暴言。戦場では古参兵が「年寄りと子どもを見ると安心する。射撃用の的にできるからだ」と笑いながら言う。兵たちは戦闘の最中に、死んだ仲間の持ち物を奪う。8ミリカメラを見つけた青年は、まず泥土に横たわる牛の死体にカメラを向け、そして次の被写体へ。このラストの展開は、まさにこの映画のスタートと同じシチュエーションで、そのカメラの向けられた先に、少年の父母と姉が映し出されるのが冒頭のシーンである。


苛烈な戦闘場面を描きながら、しかもきちんとヒューマンなストーリーも動かして、全体を円環の構図に持っていく手腕に驚かされる。これを見ると、イーストウッドの「スナイパー」など、ただ戦場を撮っただけではないか、と言いたくなる。この監督、追ってその後を見届けたくなる。



46 百日紅(T)
アニメである。北斎とお栄の話なので見たが、やはりこんなものか、である。実写だともっと役者の生き生きとした表情や、あるいは江戸の振る舞いを見ることができる(ちょっと無理か)。映画に出てくる女装の陰間の遊郭というのはあったのだろうか。北斎は世界の偉人100人のベストワンに選ばれたことがある、と誰かに教えられたことがある。海外でものすごく評価が高いらしい。


47 ラブソングができるまで(D)
ヒュー・グラントがかつてのポップスターで、彼の部屋の掃除にやってきた素人娘のドリュー・バリモアが彼の再起にひと肌脱ぐ。コーアという人気歌手にヘイリー・ベネット、彼女は「イコライザー」でロシアマフィアの殺し屋に首を絞めて殺される。軽いラブ・コメで、楽しんで見ていられる。


48 パーフェクト・ワールド(D)
また見てしまった。エホバの証人の家に生まれた子は、ハロウィーンもクリスマスも、誕生日もカーニバルとも無縁らしい。その子が脱獄犯(ケビン・コスビー)の人質になるが、ロードムービィで疑似親子関係を築いていく話である。ケビンの母親が淫売屋に勤め、父親は暴力を振るう。ケビンは母親に手を出した男を殺し、服役していた。子どもを連れて、父親が逃亡した先のアラスカに向かう、という設定。黒人の家に泊めてもらい、そこの爺さんの孫への暴力を見て、殺しかねないようすに、人質となっていた子が発砲する。ここは少し演技が要るところで、ケビンはわざと相手に反省させるためにやっているのだというところを見せたほうがいい。そうじゃないと、心優しい脱獄犯という設定と齟齬があるからである。しかし、それをケビン・コスナーに求めるのは酷というものであろう。印象が深いのは、ケビンが惹かれる女が、雑貨屋やダイナーなどにいる、年のいった、不細工な女たちだということ。その哀れさのようなものも、もう少しケビンは出すべきではないか。精神分析官のローラ・ディーンは、最近、「星のせいじゃない」で母親役をやっていたが、まったく容色に変化がないのがすごい。


49 ランオールナイト(T)
またリーアム・ニールソンである。17人だかを殺していて、エド・ハリスの親分に忠誠を誓ってきたが、自分の息子の身が危うくなって、ハリスの息子を殺すことに。そこから夜通しの復讐劇が始まるのだが、息を継がせずである。息子役はTVシリーズ『キリング』で元薬チュウの刑事役だったジョエル・キナマンである。夜景のニューヨークが何度か挟まれるが、とても美しい。手強い殺し屋がまだ生きていたというラストは、あれ? であるが。


50 評決(DL)
ポール・ニューマンが弁護士で、優秀な成績でその職に就いたものの、ある事件で妥協してから負けグセがついた。新たに持ち込まれた医療事故の案件は、示談にすればかなりの額の報酬になるが、絶対に勝てると思い、裁判に持ち込む。シドニー・ルメット監督で、この映画を見るのは3度目か。シャーロット・ランプリングが出ている。敵の弁護士ファームを仕切るのがジェイムス・メイスンである。


51 ワイルドカード(DL)
ジェイソン・ステイサム主演、ラスベガスが舞台で、カジノ依存症のトラブル処理屋みたいなもの。ITで儲けた中年が勇気を学びに彼のもとにやってくる、という変な設定になっている。自分の元恋人がマフィアに手ひどい目に遭い、その復讐の手助けを頼まれたことから、事件が転がる。ステイサムのスパーマンぶりは相変わらず。IT中年が笑ったり、ちょっとした動作が、ゲイリー・オールドマンを思い出させる。顔もちょっと似ている。


52 メイズランナー(T)
すごい仕掛けのサバイバル3部作だが、それをデザインしている何者かがいる、という設定。なんで生き残りの優秀者を見出すために、こんな大がかりな仕掛けが必要なのか。おそらくその謎は決して解かれることはない。次作の公開は来年の2月のようだ。早まらないだろうか。何か連続テレビものの匂いがするのはなぜか?


53 サウンド・オブ・ミュージック(DL)
この映画はきっとリバイバルで見ているのだろう。1965年の封切りだから、ぼくはその3、4年後に見ているはずである。とにかくジュリー・アンドリュースの美しさに参って、「暁の出撃」を封切りで見た。作品はあまり来なかったはずで、ちょっと地味だったのかもしれない。あとポピンズ、モダン・ミリーを見ているだけ。なにかアメリカのテレビでやったボードビルショーのようなものを見たことがある。ライザ・ミネリ、ストライザンドなど舞台で活躍する人は、あまり映画が来ない傾向がある。それに、それほど多くの客が呼べるわけでもないか。アンドリュースは清純さが邪魔をしたということだろうが、それが貴重なのである。背中のスッと立っていて、足先が伸びている。淡いブルーのドレスがよく似合う。


54 アクト・オブ・キリング(DL)
監督ジョシュア・オッペハイマー、インドネシアで1965年に軍が実権を握り、民兵組織プレマン(フリーマンが語源という)が100万人といわれるコミュニスト、といっても反軍政的な人間を含めて虐殺。そのうちの一人、アンワル・コンゴという1000人は殺したという男に虐殺の光景を演じさせる。プレマンの組織は今でも力を持っていて、現職の大臣や郡長などが公然と彼らの力を顕彰する。アンワルは国際司法裁判所に呼び出されるのであれば、有名になるから嬉しいと言う。しかし、演じるうちに虐殺された側に思いがいくようになり、自分がよく使った殺しの手口、つまり針金による絞殺を体験し、恐怖を感じる。「彼らも同じ思いがしたのだろうか」「俺は罪人なのか」「天の罰を受けるのか」と自問するようになり、冒頭のシーンに戻り、いつも人殺しを行った街のビルの屋上で嘔吐を繰り返す。劇にはこういった覚醒の作用があるということは銘記しておきたい。ハンナ・アーレントが言うごとく、彼はstupidではないが、brainlessである。そして、人へのシンパシーに欠けている。アイヒマンと同じくbanality(凡庸)であり、inner void(中身が真空)なのである。監督が用意した滝の幻想シーンのピンクがきれいなこと。美しい絵などいくらでも撮れるということの悲しさよ。マイルドな『ゆきゆきて神軍』といっては牽強付会か。続編がそろそろやってくる。


55 エイリアン1(DL)
何度、見ても恐い。宇宙船の中と謎の惑星のエイリアンの巣の様子が似ていて、どこに潜んでいるか分からない恐怖感、これにやられるのである。その極めつけがラストの脱出船に潜むエイリアンだが、内装とまったく区別がつかない。あれは男性器のシンボルだということは常識なのだろうが、少ない登場人物で彼らにさしたる葛藤が起きるわけではない。下手な映画はそこをドラマとして強調するが、あくまで恐怖はエイリアンからやってくる、という設定が秀逸である。船長と白人の技術士は捕捉され、白人の女と黒人の技術士は即死である。この差は何なのか。蠟で固められたような船長はまるでイエス・キリストのような神々しささえ漂わせている。白人の技術士が猫を探して、明るい光が天上から降り注ぐ祭壇のようなところに出て、次に雨の降るような暗い部屋へと入り殺される。あの祭壇、船長のイエスリドリー・スコットが何かをしている、ぐらいの感じだろうか。気になるのは、リプリーのあの小さなパンティ、監督の希望か、シガニー・ウイバーの演出か。


56 セッション(T)
監督ディミン・チャゼル、主演マイルズ・テラー、客演J・Kシモンズ。シモンズはスパイダーマンシリーズで新聞社の編集局長だったかを演じている。ジャズマンを育てるのに徹底的にしごく。チャーリー・パーカーがひどく否定されても再起したごとくあってほしい、とのことなのだが、完全にこの教師はサディストである。性格が悪すぎる。主人公の親父をやったポール・ライザーはどこかで見ているのだが、思い出せない。この映画、初めて身体の中から、ジャズっていいなと思えた。とくにラストのキャラバン。


57 一発勝負(DL)
山田洋次監督、主演ハナ肇、父親役が加藤大介、妹が倍賞千恵子、坊ちゃん坊ちゃんと一途に信頼するのが北林谷栄、町医者が三井弘次など。酒の飲み過ぎで死んだ男が生き返って温泉掘りで当てる、という映画である。ラストにマチャアキと井上順二が出る。ハナが東京でのひとくさりを語るシーンで「浅草から上野まで1日かけて歩いても」の台詞があるが、そんなバカな。ゆっくり歩いても40分もあれば着く。山田が大阪の生まれ、もう一人の脚本・宮崎晃が東京だが、東京のどこだか分からない。北林谷栄の純朴な婆さん役には、心が打たれる。